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『山本七平の思想』(東谷暁)を読む(1) [人]

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 このところ、ずっと体調が悪かった。
 ひどい花粉症で、つらい咳と喉の痛みがつづくなか、転倒して顔をしたたか地面にぶつけ、そのあと胃腸をこわし、すっかり弱った。
 どこにもでかけず、近くのレンタルショップで借りた韓流ドラマをみている。だいぶ流行遅れだが、『善徳女王』が、このところのお気に入り。とくに悪役のミシルが好きだ。
 元気な人をみると、うらやましくなるが、体力と気力の衰えは、いかんともしがたい。終日、ぼんやりすごすことが多くなった。歳だなと思う。
 しかし、あんまりぼんやりしていても、ますますぼけてしまいそうなので、読み残しの本を本棚からとりだしてみることにした。
 今回、読むのは東谷暁の『山本七平の思想』である。

 プロローグにこうある。

〈本書は、運命的な人生を歩むことで日本の未来を透視した、山本七平[1921-1991]という人間の生涯をたどりながら、私たちに残してくれた日本人および日本についての鋭い分析を、いまの時点で振り返りつつ読み直すことを目的としている。〉

 山本七平の著書は膨大にある。ぼくはこれまでほとんど読んだことがないので、このようなガイドブックはありがたい。
 そのデビュー作は1970年にイザヤ・ベンダサンの名前で、みずから経営する山本書店から出した『ユダヤ人と日本人』だった。七平は最後まで自分がイザヤ・ベンダサンだと認めることはなかった。だが、かれこそベンダサンだということは、なんとなく知れ渡っていく。
 大宅壮一ノンフィクション賞を受賞したこの作品は、日本文化の特色をユダヤ文化との対比で軽妙にえがきだしたものである。七平が実際のユダヤ人とその文化をよく知っていたわけではない。かれが知り尽くしていたのは聖書である。とりわけユダヤ教の原典でもある旧約聖書の思想こそが、日本文化の奇妙な特徴をあぶりだす手品のたねとなっていた。
 先にたねあかしをしてしまうと、『ユダヤ人と日本人』のおもしろさを半減してしまうことになる。この本は、いわばユダヤ人をだしにして、日本人があたりまえとして疑わぬことに疑問を投げかけ、それがいかに特異なことかをあぶりだしたところにユニークさがあった。
 たとえば、日本人は、安全と水は無料で手にはいると思いこんでいる。あるいは、日本人はユダヤ人とちがって、全員一致の決議がよいことと思いこんでいる。日本人はコメの文化をあたりまえと思っているが、牧畜文化を基層とする世界の大勢からすれば、それはじつにめずらしい文化なのだ、というように。
 日本の文化は、全員一致で同一行動をするのをよしとする。そのため、独裁者を必要としない。古来、祭儀権と行政権を分立して、独裁者を生みださない工夫がこらされていた。
 また、日本人には理屈を超えた「理外の理」というようなものがあって、なるべく皆が損をしないような仕組みがはかられている。日本には「日本教」とでもいうべき独自の宗教があって、「世間」と結びついた規範や規律が人びとのあいだに行き渡っている。
 この本は、作者が謎ということもあって、単行本だけでも75万部以上売れたという。
 著者はこう書いている。

〈『日本人とユダヤ人』の「日本人は世界的な視野でみると、異質だといわれているユダヤ人と比べても、もっと異質な存在なのだ」というメッセージは、まさに知りたいこと、知らねばならないことが書いてあると思わせるに十分だった。〉

 たしかに、それもこの本が売れた要因のひとつだろう。
 しかし、より重要なのは、この本が山本七平の暗黙のデビュー作として、その後の活躍を支えるジャンピング・ボードになったことだ。
 これ以降、山本七平は、日本人とは何か、日本社会とは何かというテーマを終生にわたって追求していくことになる。
 著者のいうように、七平がこうしたテーマに固執するようになった理由は、その出自と関係している。七平自身が「私は生まれながらのクリスチャンなので、もの心のついたときすでに教会の中にいた」と書いている。
 日本のキリスト教徒はカトリック、プロテスタント、ギリシャ正教のすべてを合わせて100万人そこそこ、全人口のわずか1%だ。七平はクリスチャン共同体のなかで、少数派であることを自覚しながら育った。
 さらに、その親戚のなかに、トリさまと呼ばれる人がいた。父の叔父にあたり、大逆事件で幸徳秋水とともに処刑された大石誠之助の実兄だった。トリさまは、口癖のように「怒りを抑える者は、城を攻めとる者に勝る」と話していたという。
 著者はこう書いている。

〈少数派であるキリスト教徒という立場は、それだけなら必ずしも逆境ではなかったかもしれない。しかし、戦前において天皇の弑逆(しぎゃく)を試みた人間の係累であるという境遇は、社会生活のなかで肩身を狭くする理由でありえた。ましてや、戦争遂行のために天皇崇拝が強く鼓吹されている時代にあっては、迫害に至ってもおかしくなかった。〉

 七平は大逆事件について、ほとんど論じなかった。むしろ避けて通っている。怒りを抑える道を選んだのだろう。耐えることが習い性になっていたともいえる。
 七平は少年のころから無類の読書好きだった。マルクスやクロポトキン、バクーニン、幸徳秋水の本も読んでいた。聖書の研究書も読みあさった。そうしたなかで、七平はいまさらながらに日本が神仏習合の国であることに気づく。それがのちに、かれを徳川時代の思想の研究をうながすことになったという。
 青山学院高等商業学部に進学した七平は、相変わらず読書の日々を送り、ドストエフスキーやカント、それにコーランや古代エジプトの歴史書まで読書範囲を広げていた。
 1941年12月8日、日米開戦の日がやってくる。翌年6月、七平は徴兵検査を受けた。そして、その10月に入営して、1年半後の1944年5月に下関からの輸送船でフィリピンの戦場へと向かう。
 そして、フィリピンでの絶望的な戦いと収容所での経験が、日本軍と日本人について、さらに深く考えさせることになるのだが、それについてはまた次回述べることにしよう。

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苅部直『丸山眞男』を読みながら思うこと二、三(2) [人]

 丸山は終戦直後の状況を「多様で混沌とした可能性をはらんでいた民主主義の沸騰期」と呼んでいる。丸山はこのころ埴谷雄高や武田泰淳、竹内好と出会い、互いに往き来する仲となった。丸山がおしゃべりで、話しはじめると止まらなかったというのは意外である。この習性はおそらく最晩年までつづいたにちがいない。
 思想の科学研究会などの文化団体結成にもかかわり、三島市のサークルに呼ばれて講義もしている。大学に閉じこもることなく、行動範囲を広げて、生き生きと活動していた様子がうかがえる。
 連合国軍、とりわけ米軍の占領下であったにもかかわらず、この国には奇妙なことに「多様で混沌とした」自由の空間が生まれていた。共産党までもが合法化され、広く人権が認められ、思想統制がなくなり、言論の自由が保証されるというのは、戦時中では考えられない状況だった。丸山自身も解放感を感じていた。
 とはいえ、戦後の自由はあてがわれた自由にちがいなかった。丸山はそれを自主的な自由にまで高めねばならないと主張している。制度の変化に満足するのではなく、それを支える人間の精神を改革しなければならない。とりわけ、政治の場にかぎらず、職場や団体にも民主主義を定着させなければならない。精神の改革こそがポイントである。
 このころ、丸山は健全で民主的なナショナリズムの形成を支持していた。憲法9条については軍事的国防力をもたない国家という新しい国家概念に共鳴している。労働組合の活動にも期待を寄せていた。
 戦後、丸山が注目されたのは、その天皇制批判である。もともと昭和天皇自身には敬意をいだいていた。だが、悩みに悩んだ末に、丸山は天皇制が日本人の自由な人格形成に致命的な障害をもたらしているとの結論に達する。こうして、1946年5月号の『世界』に代表論文「超国家主義の論理と心理」が発表された。
 この論文で、丸山は日本では国家が人間の内面へ無限に介入するいっぽう、「私的利害」が国家権力をたやすく動かすこと、そしてより上位の者へと随順する「権威への依存症」が上から下まで日本人全体に浸透していることを指摘した。まるで、現在の森友・加計の構図があてはまるかのようだ。
 権力の偏重が日本の宿痾だった。ここで、蛇足ながら、ぼく自身の思いつきのセオリーをもちだすと、日本では、政治家は支持者に弱く、役所は政治家に弱く、民間は役所に弱いというじゃんけんのような関係が成り立っている。民間が役所に便宜をはかってもらおうとすれば、政治家を動かすのがいちばんだ。役所は政治家と昵懇の民間業者をけっして邪険にせず、政治家から具体的な指示がなくても積極的に便宜をはかる。日本では、こうした図式で利権構造がつくられてきた。森友・加計問題は、たまたま安倍首相がらみで目立つだけで、日本の利権構造のなかでは、ほんの氷山の一角のできごとだともいえる。
 おそらく戦後直後は、こうした日本の政治構造、利権構造が変わると期待された「空白」の時代だった。
「超国家主義」とは別の論文で、丸山は政治家や軍人、官僚にみられる「無責任の体系」を指摘している。これも、現在とまるで同じ光景ではないだろうか。口先はともかく、ほんとうに責任をとろうとする政治家や官僚がいないのが、日本の政治世界である。丸山は、昭和天皇も政治責任は免れないと論じた。だが、その先は急に弱腰になる。日本社会の病理をただすには各人が「純粋な内面的な倫理」を確立し、「自由なる主体的意識」を育てるほかない、というのが丸山の考え方だった。
 丸山は日本人の倫理性と主体性の欠如を指摘しつづけた。それはわかりにくく、しばしば誤解を生んだこともたしかだ、と著者は指摘する。倫理性や主体性の問題では片づかないと思う人も多かっただろう。しかし、戦後たてつづけに発表された丸山の論考が、日本人の無意識にまで踏みこむことで、マルクス主義などではみられないユニークな視点を提示したのはまちがいないだろう。
 だが、そもそも倫理性と主体性とは何を意味するのか。それは前に述べたように、自由と平和と正義の理念を指すのだろうか。大衆社会状況のなかで、そうした古典的理念はすでに失われつつあった。
 人びとはすでに情報の渦に巻きこまれ、政治よりも娯楽やスポーツなどに関心をもつようになっている。自主的判断といっても、それはマスメディアによってすり込まれた見解をなぞっているだけかもしれない。大衆社会のなかで、人はむしろ情緒や欲望に突き動かされ、政治権力はそうした流れを統合するものとして機能していた。
 カール・シュミットがいうように、敵と味方を区別し、味方を結集し敵を排除しようとする努力が「政治的なるもの」だとすれば、政治はこの世界のどこにも遍在する。こうしたせめぎあいを最終的に調整し統合する権力が政治権力なのである。政治権力によって構成される国家は、かつてないほど強力な存在となった。にもかかわらず、その権力を行使する意志の中心が見当たらない空虚な制度体になってしまっている。そのようななかで、はたして個人は倫理性と主体性を保つことができるのか、と丸山は問わざるをえなかったという。
 だが、それは難問だった。
 戦後の解放の時代はそう長くつづかなかった。いわゆる「逆コース」がはじまる。朝鮮戦争の勃発、警察予備隊の発足、レッド・パージ、日の丸・君が代の復活と、事態は急速に展開する。講和条約をめぐる論争が盛んになるころ、「恐怖の時代」の到来を感じた丸山は「平和問題談話会」に参加し、リベラリストの立場から、平和共存と非武装中立の立場を唱えた。
 だが、そのころから丸山は結核をわずらい、1951年2月から1年2カ月、1954年1月から1年4カ月、国立中野療養所での入院生活を強いられることになる。ストレプトマイシンによる化学療法はまだ普及していなかった。
 療養生活のなかで、丸山は「他者感覚」の重要性に思い至る。すなわち、安易に同情するのではなく、相手を他者として理解し、対話をつづけていくことがだいじだと考えるようになったという。
 政治的無関心の広がりは政治への無力感のあらわれだ、と丸山はみていた。だが、それは「焦燥と内憤」と背中合わせになっており、いったん政治指導者にあおられると、「権威への盲目的な帰依」に向かっていく。それがファシズム独裁を生むのではないか、と思うようになっていた。
 こうした反動的な動きに対抗するには、「国民ができるだけ自主的なグループを作って公共の問題を討議する機会を少しでも持つこと」がだいじになってくると考えていた。このころ丸山はナショナリズムへの警戒を強めている。政府の動きを監視しなくてはならない。それをおこなうのは政治のアマチュアだ。「政治を目的としない人間の政治活動によってこそデモクラシーはつねに生き生きとした生命を与えられる」。そうした経験を積むことによって、人びとは適切な政治的思考力と判断力を身につけていくことができる、と丸山は主張した。
 こうして、丸山は市民のひとりとして、60年安保反対運動に加わる。だが、運動が盛り上がるなか、丸山は大きな不安を感じていた。一時的な盛り上がりのあとには、宿酔いにも似た長い停滞がやってくるのではないかと思っていたという。熱狂的な大衆運動には、どちらかというと懐疑的だった。
 丸山は政治を本来的に保守的(あるいは精神的)なものと考えており、激しい行動によるラディカルな変革へのあこがれを、ファシズム的なものとみて嫌っていたという。
 丸山の手記には、イギリスの政治哲学者マイケル・オークショットの次のようなことばがつづられている。
「政治学とは、恒久に完璧な社会を打立てる技術ではなくて、すでに存在しているある種の伝統的社会を研究してつぎにはどこへ行ったらよいのかを知る術である」
 60年安保闘争のあと、丸山は現実の政治状況から離れて、日本思想史の研究に立ち戻っていく。だが、スランプがつづいた。
 1968年から69年にかけての大学紛争のあと、病気もあって1971年に57歳で東大を退官。悠々自適の生活にはいったあとも、82歳で死去するまで、ほとんど論文らしいものは発表しなかった。
 丸山は日本人の思考様式には、現在の状況を仕方がないとする歴史観、共同体秩序からの離反を罪とみなす倫理意識、上位の人に奉仕するのをよしとする政治意識がまとわりついていると指摘していた。だとすれば、こういう社会のなかで、はたしてありのままの「個」としての自我などというものが芽生えるのか。
 丸山は1960年の「忠誠と反逆」という論文のなかで、徳川時代の武士がみずからの主君をいさめるための「諫争(かんそう)」に注目する。ここには、まさに忠誠と反逆の葛藤が引き起こすエネルギーの噴出がみられる。
 しかし、こうしたダイナミズムは明治以降、次第に失われていく。人びとの自我は内なる相克の意識を失い、陰影を欠く平凡なものになっていった。ばくぜんとした反逆が現代の気分なのである。
 現代人は国家や社会の内部に浸透するイデオロギーや常識によって、世界をはじめから一定の「イメージ」でとらえるようになっている。自分が「逆さの世界」に生きていることも、なかなか気づかない。
 だいじなのは、内と外との境界に自分を置くことだ、と丸山はいう。それ以外に、内側から与えられたイメージを突き崩すことはできない。そして「他者をあくまでも他者としながら、しかも他者をその他在において理解すること」。こうした日々の営みが新たな思索を切り開いていく、と丸山は考えていた。
 丸山は日本思想史の研究を通じて、引き継ぐべき伝統を新たにえがきなおそうとした。そして、それを日本人にあった「型」として抽出した。そのようなこころみのひとつが、1986年に刊行された『「文明論之概略」を読む』に結実している、と著者はいう。そこで強調されたのは庶民の智恵だった。
 1978年に丸山は来日したフランスの哲学者ミシェル・フーコーと会っている。「目の前の現実を見すえながら過去の歴史に沈潜し、史料の森の中をかけめぐって、これまで支配的な伝統と考えられてきたものとは異なる、もうひとつのありえた伝統をくみだし、それを明確な形に描きあげること」──その点で丸山とフーコーの方法は共通していた、と著者はいう。
 1980年の論文「闇斎学と闇斎学派」では、朱子学者たちの激しい論争をふり返りながら、不寛容の悲劇が広がる時代に、「他者感覚」をもちながら「境界」に立ちつづけることを、ぎりぎりの選択肢として示したという。それは新左翼が内ゲバにふける時代への忠告でもあった。
「政治と同じく学問についてもアマチュアによる『在家仏教』を唱えた丸山にとっては、あらゆる人々が広い意味での知の担い手として、対話の相手なのだった」と、著者はしめくくる。
 精神的格闘ということばが思い浮かぶ。晩年の丸山は、大衆社会化する日本のなかで、単純に西洋の知に依拠せず、真にリベラルであるための通路を切り開こうとしていたのかもしれない。

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苅部直『丸山眞男』を読みながら思うこと二、三(1) [人]

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 読み残しの本から取り出して、ぱらぱらとめくってみる。
 丸山眞男(1914−1996)については、学生時代から気になりながら、これまであまりまじめに読んでこなかった。そのくせ、主要著作は買っている。『日本政治思想史研究』、『現代政治の思想と行動』、『日本の思想』、『戦中と戦後の間』、『反逆と忠誠』、『「文明論之概略」を読む』、それに「講義録」。
 買っただけで、満足してしまうのが、昔からの悪い癖だ。おそらく買った当初はぱらぱらとめくったのかもしれないが、いまとなってはほとんど中身を覚えていない。たぶんむずかしすぎて理解できなかったのだろう。
 いちばんおもしろかったのは『日本政治思想史研究』だ。この本で、ぼくは荻生徂徠のことを知った。
 ぼくの学生時代にはすでに象牙の塔の人だった。東大闘争のときに、学生たちが丸山の資料室を占拠し、それにたいし丸山が「ファシストもこんなことはやらなかった」と憤激したといううわさが、ぼくの近辺にも伝わってきた。よほどだいじな資料があったのだろう。
 1968年のころ、丸山はすでに学生運動はおろか、ベトナムにも成田にも興味をもっていなかったようにみえた。学生たちにしてみれば、60年安保の思想的リーダーと思われた丸山が、政治学者でありながら、なぜ現実の戦争や大学問題に無関心を決め込んでいるのかが不思議でならなかった。
 それから3年後の1971年、丸山は定年まで3年を残して、57歳で東京大学を退官する。そのあとは、社会的に活躍することなく、残りの25年を隠居のように暮らした(という印象を、すくなくともぼくはもっている)。
 ぼくは丸山眞男のよい読者ではない。それどころか吉本隆明や滝村隆一の影響を受けているせいか、どちらかというと丸山をずっと毛嫌いしてきた。にもかかわらず、いまでも丸山の熱烈な愛好者は多い。逆にこの年になって、ぼく自身、丸山のことをよくわかっていなかったのではないかと思うようになってきた。
 本書を読んでみることにした。
 丸山は1914(大正3)年に大阪で生まれた。父の幹治はリベラルな新聞記者で、長谷川如是閑と親しかった。丸山は自由な中流家庭で、のびのび育ったようにみえる。
 一高に入学した年、満州事変が勃発した。その後、日本は急速に軍国主義化していく。
 印象的なのは、高校3年生になった1933(昭和8)年4月に、丸山が警察に引っぱられ、取り調べを受けたことである。丸山自身は共産党員でもなんでもなく、むしろノンポリだった。たまたま貼り紙で長谷川如是閑の名前をみて、その講演会に出席したところ、警察に目をつけられて、連行されたのである。
 特高による取り調べは苛烈だった。その経験が、精神の内側にまで踏み込んでくる国家権力の姿を丸山に思い知らせた、と著者は書いている。
 見えないところからじっと監視されつづける恐怖というものは、じっさいにそれを味わった者しか、わからないものだろう。当時、国民は官憲による無気味な弾圧の実態をほとんど知らなかった。
 逮捕の翌年、1934年に東京帝国大学法学部政治学科に入学した。卒業後は法学部の助手に採用され、研究者の道を歩むことになる。
 国家が社会や経済を統制する「政治化」の時代がはじまっていた。美濃部達吉をはじめ、矢内原忠雄、河合栄治郎などリベラル派の大学人が、政府に目をつけられ、大学を追われていた。
 大学時代、丸山は数多くのマルクス主義文献を読んでいる。だが、党やコミンテルンに魅力を感じたことはなかった。マルクス主義には革命思想はあっても政治学がなかったからである。日本の政治体制を分析するという学問上の動機のほうがまさっていた。
 丸山が評価したのが、いわゆる「講座派」である。日本では農村部における封建的生産様式と都市部における資本主義的生産様式が不均衡なかたちで共存し、そのうえに絶対主義的な天皇制が成り立っている──これが講座派のとらえ方である。その考え方に丸山はひかれた。
 戦前の丸山は、みずからも述懐するとおり「ムード的左翼」だったという。戦前の知識人がそうだったように、天皇中心の「国体」思想など信じていない。一般国民が国体を素朴に信奉している社会の実情こそが問題だと思われた。
 このころ丸山は、発表論文で、市民社会や個人主義はブルジョアジーのイデオロギーであり、それは乗り越えられなければならないと述べていた。だからといって、ファシズムやマルクス主義にくみしたわけではない。国家権力を制御する必要についてもふれている。
 丸山は強靱かつ柔軟な自由主義に、みずからの思想的立場を置くようになった。それは自由と平和と正義を普遍とする立場である。マルクス主義とはおおいにことなる。
 1940年10月8日に昭和天皇が東京帝国大学に行幸したとき、丸山は法学部助教授になっていた。
 そのころ刊行された福沢諭吉の『文明論之概略』を読んで、その自由な物言いに感銘を受けている。そこには当時の軍国主義時代の風潮にたいする痛烈な批判が隠されていた。個人が独立して自主的人格を形成し、政治社会にかかわっていく姿を福沢がえがいていることを、丸山は高く評価した。それこそが近代のあり方だと思われたのである。
 助教授になった丸山は、大学で「東洋政治思想史」の講座を担当するようになる。さまざまな文献を読みあさったすえ、徳川時代の思想家では荻生徂徠がいちばんだと思った。
 徂徠の独創性は、儒教を道徳の学ではなく、政治の学として再解釈したことである。徂徠における「政治の発見」は、新たな政治的地平を開いた。それは丸山が徂徠や諭吉を西洋政治哲学の文脈で読み込んだことと関係している。
「[丸山は]全体を管制する政治権力のもとで『私的』な活動がさまざまに展開するという『寛容』の体制を『近代的なもの』と呼んだ」と、著者はいう。
 すなわち、道徳と政治の分離、社会と政治の分離といってもよい。政治は個人道徳や社会秩序に恣意的に干渉してはならない。いっぽう個人の自由の確保と、政治権力にたいする批判が認められなければならない。
 著者によると「ありのままの個人と、倫理を内面化した『主体』がおりなす『人間仲間』と、政治秩序との3つの層」を、丸山は近代の「秩序原理」ととらえるようになっていたという。
 ばくぜんとマルクス主義に共感をいだいていた丸山は、内外の政治哲学を学ぶなかで、ここではっきりと「近代の理念」すなわちリベラリズムに軸足を移すことになる。
 丸山を近代主義者、リベラリストと呼ぶのは、けっしてまちがいではない。問題はそういうレッテル貼りをして丸山を葬り去る側が、はたして近代やリベラリズムについて、どれだけ深く理解しているかである。丸山からみれば、日本の現実は、近代やリベラリズムからはるかに遠かったのである。
 丸山は1944年3月、30歳で結婚し、その直後の7月に軍隊にとられた。東京帝国大学の助教授が徴兵されることはめずらしく、まして陸軍二等兵としての召集は例がなかったという。一種の懲罰だった。
 丸山は松本の連隊に入隊し、そのまま朝鮮の平壌に送られた。皇民化教育を受けた朝鮮人の一等兵から、意地の悪い仕打ちを受けたという。植民地朝鮮での軍隊経験は、丸山に生涯忘れられない記憶を刻んだ。
 11月、丸山は病気にかかり、いったん東京に戻った。政府の上層部では、すでに戦争終結の構想が練られはじめていた。
 1945年3月、丸山はふたたび召集を受ける。こんど配属されたのは広島市宇品町の陸軍船舶司令部だった。平壌にくらべれば苛酷な環境ではなかった。与えられた任務は船舶情報と国際情報の収集。
 7月にはポツダム宣言を新聞で読み、「言論、宗教および思想の自由ならびに基本的人権の尊重」というくだりに、むしろ感動を覚えていた。しかし、軍隊のなかで、そんな思いを口にするわけにはいかなかった。
 そして8月6日、広島に原爆が投下される。宇品の司令部にいた丸山は閃光を目にしたものの、建物の陰にいたため、熱や爆風の直撃を受けることはなかった。しばらくして、重傷を負い、助けを求めてやってきた市民の群れで司令部は埋めつくされることになる。
 8月15日、ラジオの玉音放送で日本が無条件降伏したことを知る。「やっと救われた」というのが、そのときの正直な気持ちだったという。9月になり、丸山は焼け野原の東京に戻ってきた。玉音放送があった日に母は病気で亡くなっていた。
 軍隊経験をへて、リベラリズムの立場はさらに確乎たるものになっていた。
 著者はこう書いている。

〈どんな状況でも自由の価値の普遍性を信じ、リベラルであること、とりわけこの日本でリベラルであること。1945年8月15日は、希望と悲哀をたずさえながら、この課題を追求していく営みの、原点となったのである。〉

 次回は戦後の丸山眞男の歩みを見ていくことにしよう。

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西部邁『保守の遺言』について(ひとつのまとめ) [本]

 西部邁氏の多摩川入水を聞いて、なぜか1970年の三島由紀夫の割腹自殺を思い起こした。西部氏は1988年に東京大学を辞職して、評論家に転じた。最初に書いた評論が三島由紀夫論だったという。そのとき「自己の人生に自裁をもって幕を閉じる決意が固まった」と、最晩年の著書『ファシスタたらんとした者』のなかで書いている。三島とは天皇観も運動論もちがっていたが、それでも三島にはひかれるものがあったのだろう。
 死の4カ月前、三島は「このまま行ったら『日本』はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであろう」と書いていた。西部氏の思いもどこかそれと似ている。
 人はけっしてひとりでは死ねない。三島が「楯の会」をつくり、集団の力学で自殺したことを批判していた西部氏だが、みずからの死にさいしても、幇助者を得なければならなかったのは、なんとも悲しい。
 さらにいうと、人は死ぬときはかならずひとりだが、その死に共同性をともなわないわけにはいかない。ひとりの人間の死は、どんなにちいさくても、ひとつの共同性の死としても受け止められるだろう。まして影響力の大きかった人の場合は、広く大きな感慨を与える。
 西部氏はニヒリズムに陥る一歩手前で踏みとどまらなくてはならないと語っていた。「字義通りに懸命に生きて、時至ればこれまた字義通りに懸命に死ぬという生き方」をつらぬく以外にないのだとも書いていた。その点、三島の死が政治的な死であったのとちがい、西部氏の死は生老病死の流れに早々と終止符を打っただけなのかもしれない。
 それでも自裁という行為は衝撃を与える。恬澹(てんたん)と生き死ぬだけだと語っていた西部氏が、計画どおり入水したと聞くと、やはり強い力のようなものを感じる。ひとつの預言が残されたとみるほかないからである。
 最後の著書『保守の遺言』を読んでみた。
 本書の最後に、著者はみずからの絶望を救い、堕落からはいあがらせてくれたのは妻の存在であった、と4年前に先立った妻への感謝を述べている。しょせんこの世は無常である。人は無常のなかで恒常を保ちながら生死する以外にない。それでも、最後には感謝があった。左翼とも右翼とも闘い、戦後日本社会への批判を投げかけつづけた言論の人は、亡き妻や周囲の人に感謝をささげながら、寝たきりにならない幸せな死を選びとったのだろうか。
 著者の思想は保守である。保守といっても柳田国男のように、ふるさとの「くに」を守ろうとする保守ではなく、アンチ・アメリカニズムに固執する保守といってよい。著者の原体験は、日本が敗北した年、えらそうな様子をした進駐軍に石を投げたところからはじまる。戦後民主主義には小学校のころから疑問を感じていた。60年安保では共産主義者同盟(ブント)の一指導者として反米闘争に加わるが、逮捕され、大きな挫折を味わう。その後、大学に復帰し、近代経済学を教えるものの、1972年の連合赤軍事件にショックを受け、それ以降、学び直して、革命思想から保守思想へと転じた。
 しかし、その過程で唯一変わらなかったもの、それがアンチ・アメリカニズムである。戦後日本の保守は概して親米の立場をとっている。これにたいし、真性保守を称する著者は、あくまでも反米を貫く。こうして、著者の主張は、時に右派を喜ばせ左派を怒らせ、また時に左派を喜ばせ右派を怒らせることになった。
 著者によれば、アメリカニズムとはアメリカに由来する風潮であり、それはむきだしの熱狂、技術信仰、拝金主義、人間中心主義、歴史と伝統の破壊を特徴とする。まさに技術貨幣的文明、インモラル(不道徳)な力である。アメリカニズムに冒された現代人は「おおむね実際主義を旨として、経済的利得や政治的権力や文化的栄誉にありつくべく、我欲丸出しで生きそして虚無のうちに死んでいる」。
 アメリカニズムはとりわけマネーフェティシズムにふける傾向がある。人びとは流行の商品に取り憑かれ、みずからの精神を市場の動きに従属させ、人間の商品化もいとわず、その結果、共同体の伝統をみずから掘り崩してしまう。
 アメリカニズム、ひいてはその根幹をなす近代主義を批判する著者の舌鋒は鋭い。まして、そのアメリカニズムが戦後日本をおおいつくしたとなれば、日本の病状は深刻といわざるをえない。著者には戦後日本がどこを見渡してもアメリカに毒されているとみえてくる。憲法しかり、民主主義しかり、自由主義しかり、大衆(マス)社会しかり、マスメディアしかり、資本主義しかり。こうして、戦後日本からアメリカニズムの影響を排除するための、著者のいう真性保守の闘いが八面六臂にわたってくり広げられることになる。
 読んでいて息苦しくなるほどだ。
 まず民主主義なるものを疑うべきだ、と著者はいう。デモクラシーを民主主義と訳すのはあやまりで、民衆政治と呼ぶのがただしい。民衆政治は衆愚政治と紙一重だ。古代アテネの政治をみてもわかるように、「デモクラシーは、独裁者をもたらすかもしくは衆愚のポピュラリティ(人気)にほぼ完全に左右される」のが落ちである。とうぜん議会への不信感は強い。
 自由にしても、社会秩序を無視した「個人の自由」などはありえない。過剰な格差は問題だが、過剰な平等も避けられねばならない。社会保障の目的は弱者を保護すること自体にあるのではない。あくまでも社会秩序を守り、社会の活力を維持することにある。
 戦後日本で進展したのが大衆化、正確にはマス化である。大衆にはまだ一般庶民という肯定的なニュアンスがあるが、マス化はそうではない。マス化は俗悪化以外のなにものでもない。
 いまは人がバラバラに生きるマスの時代である。大量生産される商品の回りに群がるマス、選挙に集まるマスが流行に合わせて、浮かんでは消えていく。人気主義(ポピュリズムならぬポピュラリズム)が政治も経済もだめにしている。多数派の人気がすべてを左右する愚かな現代文明は、不治の狂気におちいっている、と著者は断言する。
 日本は戦後、宗主国アメリカに従属し、国家の誇りを奪われてきた。自尊と自立を失った国は空無と屈辱におちいるほかない。実力なき言葉だけの外交が無力なのは、けっきょく現在の外交がアメリカ追随におちいっているためだという。
 一人前の国家なら国防軍をもつのはとうぜんのことだ。それを認めないのはどうかしている。日本は強力な軍隊をもち核武装を推し進めなければならない、と著者は主張する。それによって、日本は「武力と言葉」を巧みにつかいこなして、米中露3大国を相手に合従連衡の外交戦を展開することができるのだという。
 日本が核をもつのは、核戦争をするためではない。核を「報復核」としてしか用いないと宣言することで、ほんとうの意味での戦争抑止力が生まれる。現在の「核の傘」は、日本を保護領にとどめようとするアメリカのくわだてにほかならないというのが、著者の見方である。
 憲法と日米安保、自由民主主義とマス社会が日本をおかしくしているとしたら、それ以上に問題なのが資本主義だ、と著者はいう。
 現在の企業は支配欲動にかられて拝金主義に傾き、イノヴェーションを追求するあまりに、被雇用者をないがしろにすることもいとわない。人びとは商品の論理にあやつられて、ロボットやサイボーグと化している。投機や詐欺、社会的格差の拡大も、企業の行動と無関係ではない。イノヴェーションによる社会秩序の劣化がいつまでも許されていいわけがない。国家が資本主義に歯止めをかけ、経済を統制しなければならない、と著者は主張する。
 こうして、著者は国民社会主義(刺激的に言い換えればナチズム)だけが未来に可能な国家像だとの結論に達する。国民社会主義が重視するのは公共性の強化、国家の強靱化である。日本は保有している巨大な資産を用いて、さまざまなプロジェクトを立ち上げ、とりわけ食糧・エネルギーの自給度向上と都市住環境の再整備をはかるべきだという。
 世界は多極化し、すでに世界大戦の前哨戦にはいっている、と著者は感じている。だが、現行の安保体制下では日本はアメリカに追随せざるをえず、そこから脱却して独立するには核を保有しなければならない。そして、厳しい世界で生き残りをはかるために、日本は外交戦を展開して国家を防衛するだけでなく、公共性を重視し、経済の統制を強めねばならないという。
 また、戦時体制が近づきつつあるのかというのが、ぼくの率直な懸念である。快哉を叫ぶどころか、正直いって気が重い。
 戦後日本のよさは、アメリカなどとちがって、戦争をしない国というところにあったのではないか。それがだんだんと失われつつある。もうひとつのよさ。それは、ふつうの人が国からの圧迫を受けずに、節度を守りながら自由に気楽に暮らしていける社会、不幸や病気や災害など困ったことがあれば、国やまわりの人が助けてくれる社会。そうした社会を日本はめざしていたはずなのだ。
 いまはまた国家が強くなりはじめている。国家の規律がどんどん強まり、社会がぎすぎすし、自由で気楽な雰囲気が失われようとしているのは、とても悲しいことだ。舌鋒鋭い著者の預言にたじろぎながら、ぼくはそんなことを感じてしまう。だが、時代はすでにそう甘くなくなっているのかもしれない。

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西部邁『保守の遺言』を読む(4) [本]

 ようやく最後の章にたどりついた。
 戦後日本を動かしてきたのはアメリカニズムだ。著者は保守の立場から、そのアメリカニズムを批判する。
 奇妙なことに戦後日本では、アメリカを支持する側が「保守」、ソ連を支持する側が「革新」と呼ばれてきた。「革新」はもちろん虚妄だったが、著者にいわせれば「保守」もけっしてほんらいの保守ではなく、アメリカニズムに毒されていたのだった。
 保守とは共同体の歴史と伝統を維持しようという者をいう。したがって、そもそもアメリカニズムと鋭く対立するのである。
 アメリカニズムとは何か。それは、ひとつにモダニズムである。「最新のモデル(模型)」を「大量のモード(流行)」として流すやり方。次にレフティズム(左翼主義)。すなわち、歴史と伝統を破壊しつづけるやり方。さらにラショナリズム(合理主義)。すなわち形式化と数量化。言い換えれば技術主義の支配。そしてマスクラシー(衆愚政治)。すなわち民主主義という名のもとでの、世論の風向きによる政治。
 こうした要素からなるアメリカニズムが、戦後日本を毒してきた、と著者はいう。
 著者はさらに現在の商品社会にもふれる。商品(コモディティ)とは、市場で取引される財やサーヴィスを指すが、それはもともと「だれにとっても共通するもの」という意味だったという。その商品はひたすらコンヴィニエンス(便利さ)を求めて、次々つくりだされる。それはたしかに短期的には便利なものかもしれないが、長期的には「社会制度を混乱させたり公共性の規準を破壊したり」する事態を招く。
 商品の世界では、つねにイノヴェーションが進行している。次々と便利さを求めて刷新される商品が、貨幣を通じて大量に消費されるのは避けがたい。だが、こうしたマスの行動が社会秩序を破壊し、ひいては世界秩序を混乱させ、紛争や戦争を招くのだ、と著者はいう。金融市場がバブルとその崩壊をくり返すのも、イノヴェーションにともなう拝金主義のせいである。
 こうしたなかで、国家の役割は欠かせない。というのも、危機にさいして対応できるのは国家しかないからである。現在の企業は拝金主義に傾き、イノヴェーションを追求するあまりに、被雇用者をないがしろにすることもいとわない。投機や詐欺、社会的格差の拡大も、こうした企業の行動と無関係ではない。イノヴェーションによる社会秩序の劣化(その象徴がIT)がいつまでも許されていいわけがない、と著者はいう。
 資本主義に歯止めをかけなくてはならない。私有財産はもちろん認めるべきだが、それには一定の枠がはめられてしかるべきだ。所得税や固定資産税、財産税を強化するのも、そのひとつの方策だ。資本分配率が高すぎないように、政府が企業統治に関与することも検討されてよいという。
 シュムペーターによれば、イノヴェーションが生じるのは、商品、技術、販路、資源、経営の分野においてであり、それらを結合することによって、資本家は利潤と資本蓄積の最大化をめざすとされる。そうしたイノヴェーションが求められるなか、資本は国境を越え、グローバルに拡大していく。資本と資金の野放図な動きに国家が規制をかけ、社会を保護するのはとうぜんのことだ、と著者は考えている。
 資本家は日々、資産を増やすことだけを目的として生きている。そこに働いているのは、いわば「支配欲動」である。この支配欲動のもとで、労働者は資本家の意思のままに動かされ、ロボットやサイボーグと化す。それでも人間は自己意識を捨てることなどできず、資本家の仕打ちに不快や不満、反発を覚えるだろう。
 とはいえ、労働者集団が企業を支配するのは不可能である。そうなれば絶え間ない内部紛争が生じて、拠って立つ企業そのものが分解してしまうからである。そこで、実際には、資本家が懸命に企業の運営と拡大をめざすのと同様に、労働者もみずからを企業と一体化する傾向が生じる。この傾向を著者は勤労主義と呼んでいる。
 資本の拡大に向かって突き進む企業活動が寄り集まると、ついには経済の膨満と破裂に行き着く。これにたいし、計画経済を対置しても、中央政府による指令はきわめて硬直したものとなり、経済の活力を奪ってしまうことになる。したがって「有効なのは資本主義を中心におきつつも、それにたいして様々なレギュレーション(規制)をかけるということのみであろう」と、著者はいう。
 問題は資本主義の市場経済が、個人主義を表現する見本としての近代経済学によって席巻されてしまっていることだ、とも述べている。個人主義を玉条とする資本主義を政府は規制しなければならない、と著者は主張する。
 それは経済のゆるやかな規制にとどまらず、いわば経済統制の次元に達しているとみるべきだろう。というのも、著者は国民社会主義、刺激的に言い換えればナチズムだけが未来に可能な国家像だと主張しているからである。ただし、ヒトラーやムッソリーニのようなデマゴーグ独裁者を著者が認めているわけではない。
 著者によれば、国家とは「国民性にもとづく政府制度」を指している。国家は対外的には独立自尊をめざし、対内的には公共性の保全をめざす。そのことを踏まえていれば、ナショナリズムや国家主義が危険だという言説に惑わされることはないという。
 国家の将来は、世界共和国や世界連邦主義などではない、と著者はいう。「開かれた国家」と「多様な地域」こそが、国家の将来ヴィジョンであって、これに経済体制として国民社会主義が加わる。
 国民社会主義が重視するのは公共性の強化である。日本は巨大な資産を使い、主として食糧とエネルギーの自給度向上と都市住環境の再整備を中心として、さまざまなプロジェクトを立ち上げるべきだ、と著者はいう。
 財政赤字は現段階では恐れるに足りない。高齢化や格差是正のために社会保障費がさらに必要になるとしても、それによって社会的安定が確保されるのであれば、それは未来世代にも寄与することになる。
 土木建築に資金をつぎ込むことだけが能ではない。国家の強靱化をめざすことこそが、財政投資の目的である。
 消費税であれ、所得税であれ、法人税であれ、いずれ税金を上げていくのはとうぜんの措置だ。しかし、法人税を下げる必要はない。資本輸出に関する規制はもっと強化すべきだ、と著者は述べている。
 マスクラシーとキャピタリズムが現代社会を支配している、と著者は嘆く。要するに数とカネの世界だ。まさに文暗の時代だという。
 とはいえ、ニヒリズムに陥る一歩手前で踏みとどまらなくてはならない。「字義通りに懸命に生きて、時至ればこれまた字義通りに懸命に死ぬという生き方」をつらぬく以外にないのだ。
 日本人はみずからアメリカニズム、さらにはその深層としての近代主義を選び取ることによって、伝統を失おうとしている。生産者と消費者、インテリとマスは、進歩主義において共犯関係にある。マス社会には逃げ道がない、と著者は感じている。
 最後に著者はみずからの絶望を救い、堕落からはいあがらせてくれたのが妻の存在であったと述べている。「日常性のただなかで生き、日常の仕事を休みなくこなし、そしてごく日常的な形で骨(こつ)に変じていく女たちの、いわば『物たる者』としての存在論的な重みというものに僕は感銘を覚えずにはおられない」。このあたり感動を覚えないわけにはいかない。
 しょせんは無常である。しかし、無常のなかで恒常を保ちながら生死する以外にない、というのが、本書のしめくくりとなっている。

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西部邁『保守の遺言』を読む(3) [本]

 第3章にはいる。
 ここでの主張もおもに核武装論と経済統制論(国民社会主義論)にあてられているといってよい。その根幹にある考えは、アメリカの支配からの独立だ。独自の国防軍と核武装化、自立した経済体制がそれを可能にするとしている。
 まず、核武装論についてみておこう。
 いま日本人は「アメリカに首根っこを押さえつけられて侵略に加担させられ、中国の侵略に黙って屈従し、北朝鮮の恫喝にただ身をふるわせて戦(おのの)いている」と、著者は嘆いている。
 トランプ政権のアメリカ・ファーストの考え方は、アメリカが孤立主義に向かう方向を示しているが、国際的にみれば、それは実際にはありえないことだ。アメリカの侵略的姿勢はこれからもつづくだろう、と著者はいう。とはいえ、アメリカは今後、「世界から徐々に撤退しつつ内部抗争を漸進的に激化させていく」可能性が強い。
 トランプ政権が行き当たりばったりの外交と内政を展開するのは目にみえている、と著者はいう。国家とは「国民とその政府」を意味するが、国民を代表する政府は国際的には戦争を含めた外交を担い、覇権的性格をもつ。トランプ政権は国際的な覇権を手放すわけではないものの、現状維持にこだわるだろう。世界は一極体制から多極体制に移行している。そのなかで、日本はいつまでアメリカ追随をつづけるのだろう、と著者は論じる。
 多極化の時代がはじまっている。日米同盟は虚構になっていくだろう。というより、このままでは日本は侵略的なアメリカの補完勢力になってしまいそうだ。
 日本はアメリカの「核の傘」なるものを信じこんでいる。だが、北朝鮮まで核を保有するなか、日本ははたしてアメリカの破れ傘に安住したままでいいのだろうか。
 多極化する世界のなかで、日本がこれから生き残るには、米中露3大国を相手に合従連衡の外交戦を展開するほかない。「武力と言葉」を巧みにつかいこなさなければならない。力をともなわない外交は無力だ。国際的に存在感をもつためにも日本は自衛の態勢を整え、核武装をしなければならない、と著者は主張する。
 日本が核をもつのは、核戦争をするためではない。核を「報復核」としてしか用いないと宣言することで、ほんとうの意味での戦争抑止力が生まれる。現在の「核の傘」は、日本を保護領にとどめようとするアメリカのくわだてにほかならないというのが、著者の見方である。
 自衛隊という交戦可能な戦力を認めない現憲法は憲法の名に値しないとも述べている。憲法を変えなくてはならない。国防軍を明記すること。その目的は自衛であって、けっして侵略ではない。ただし、国際情勢に応じて、自衛のための「海外派兵」はおおいにありうる、と著者はいう。
 領土に関しては、そもそも固定した領土など存在しないと理解すべきである。その範囲は戦争と施政の結果によって決まってくる。「領土は戦争の勝利で取り戻す」ものという国際社会の冷厳たる事実を直視しなければならない。
 著者は、すでに世界大戦の前哨戦がはじまっているとみている。戦争は非常事態といえるが、現行の憲法には非常事態の規定がない。憲法の一時停止を可能にする非常大権を首相に与えるべきだとも述べている。
 著者の主張をうまくまとめられたかどうかは別として、ここまで書き写してきて思うのは、息苦しい時代になってきたなということである。まるで戦前が戻ってきたようにも感じる。いや、核武装までするというのだから、ウルトラ戦前体制の出現である。
 核武装しなければ国が守れないというのは、北朝鮮とおなじ理屈である。これに応じて日本が核武装すべきだということになれば、韓国も台湾もベトナムも核武装したほうがいいということになるだろう。そうなれば、核の海はますます広がっていく。それではたしていいのだろうか。
 現行の安保体制下では、日本はアメリカに追随せざるをえず、そこから脱却するにも核を保有しなければならない、と著者は主張する。ここがユニークなところだ。いや、あるいはそうではなくて、こうした主張を岸信介や清水幾太郎もしていたようにも思う。
 日本がふたたび世界をリードする大国になる。中国が世界の大国になるなど許しがたい。政治家にかぎらず、国民のなかにも、そういう気持ちは強いのかもしれないと想像したりもする。しかし、国中心の思想は超えられないものなのだろうか。
 この世は食うか食われるか。そんな甘いことをいっているからだめなのだという声が聞こえてきそうである。ここでも反論はできそうにない。ため息をつくしかない。それでも核爆弾だらけの世界が広がっていくのを、何とかして防ぐ手立てはないのか、日本までもが核武装してしまったらこの世はおしまいではないかという気持ちが、ぼくには強い。
 ここで、気をとりなおして、著者のアメリカニズム批判にも触れておくことにしよう。
 著者によれば、アメリカニズムとはアメリカに由来する風潮であり、それはむきだしの熱狂、技術信仰、拝金主義を特徴としている。まさにインモラル(不道徳)な力がアメリカニズムを支えているという。
 アメリカニズムに冒された現代人は「おおむね実際主義を旨として、経済的利得や政治的権力や文化的栄誉にありつくべく、我欲丸出しで生きそして虚無のうちに死んでいる」と、著者は断言している。実際主義者がこの世を破壊し、「文明の冬」をもたらしているのは、近代の大いなる皮肉だとも述べている。
 アメリカニズムはとりわけマネーフェティシズムにふける傾向がある。人びとは流行の商品に取り憑かれ、みずからの精神を市場の動きにあわせ、人間の商品化もいとわず、その結果、伝統ある共同体をみずから掘り崩すことになる。技術貨幣的文明に惑わされてはならない、と著者は訴える。
 しかし、そもそもアメリカニズムのもとには近代主義がある。近代主義とは何か。歴史と伝統を捨て去ること、人を神とみなすこと、ヒューマニズムを礼賛すること、サイエンティシズム(科学主義)、事実こそすべてと考えることだ、と著者はいう。そこには人間の不完全性への自覚などまるでない。
 おのれの不完全性を自覚せず、独創性と称して、マスの群れをたぶらかし、新奇なもの、イノヴェーションに走るのが近代人なのだ、と著者はいう。そうした近代人の行動が未来への展望をあやうくし、人間の心身ばかりか自然をも破壊し、社会秩序を瓦解に追いこんでいく、と著者は指摘する。

〈イノヴェーションの枝葉が『鬱』となり、つまり異様に繁茂しすぎ、そのせいで現代人の気分が鬱屈さらには鬱陶しくなり、それで身動きがとれなくなる結果、物質・技術の繁栄の頂点において人々が深いメランコリーにとらわれている。〉

 近代化とは「物事をすべて模型化し、それを社会の流行となす」ことだという。近代化が進むにつれて、人間は人倫を失っていった。
 もういっぽうで進展したのが大衆化、正確にはマス化である。大衆にはまだ一般庶民というニュアンスがあるが、マス化はそうではない。よく大衆社会と誤訳されるマス社会では、新奇さやイノヴェーションによって、大量にまき散らされる商品、あるいは言説に人々が右往左往する状態が日常となる。その意味で、マス化は俗悪化以外のなにものでもない。マス化によって、日本人はジャパニーズに変質し、それによって日本では無国籍文明が生まれてしまった。高度情報技術社会の未来には絶望しかない、と著者は断言している。
 資本主義経済はすでに長期停滞におちいっている。そんななかで、規制緩和やイノヴェーションを叫んだところでむなしい。だいじなのは国家が社会秩序を維持することだ。国家に求められているのは、文明を破壊するイノヴェーションに加担することではなく、共同体の伝統と慣習を守ることだ、と著者は主張する。
 国家が保護主義をとるのはとうぜんのことだとも書いている。秩序なき自由は社会に危機をもたらす。自由主義は社会格差を拡大し、民主主義は政治の不安定性さを増大させるのだ。保護主義とは鎖国のことではない。「国家の長期路線を守るための秩序形成」が目的なのだ。伝統と文化を維持するためには、国家の保護が欠かせない、と著者は断言している。
 こうした著者の主張は、一種の経済統制へつながるといってもよいだろう。もし著者のいうように、すでに世界大戦への前哨戦がはじまっているとするなら、反アメリカニズム、反近代主義にもとづく経済統制は、戦前に似た軍事優先の総力戦体制をとるはずである。いや、アメリカの干渉を排除するところからはじまって、戦前以上にナショナリスティックな経済体制となるのではないか。はたして、それが望ましいものなのかどうか。ぼくとしては、ごめんこうむりたいところである。
 最後に著者の近代主義批判をみていく。

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西部邁『保守の遺言』を読む(2) [本]

 第2章は断章からなる。
 いまは世も末だ、と著者は感じている。
 電車に乗ると、客の8割がスマホとやらをいじり、時間つぶしに興じている。沈思黙考したり、人と真剣に対話したりしない現代人。かれらは、まさにスマホに精神を乗っ取られ、ちいさな砂粒のように生きている、と著者は嘆く。
 選挙権を18歳に引き下げるのも反対だ。いまは幼稚化の時代。むしろ30歳くらいまで引き上げたほうがいいのではないかという。国のあり方について、まじめに考えている人は少ない。立候補者も2世、3世議員かテレビ・タレント、えせ学者ときている。そこでくり広げられる人気投票などに付き合う必要などないと考える人が多くなるのも、もっともなこと。世論はあてどもなくシーソーのように揺れる。それが主権在民の実態なのだ、と著者はいう。
 いのちがだいじだ、などと言われるとむかつくとも書いている。自分が生かされている、などと聞かされると、むしずが走るという。人がみずからの精神を保てなくなる状態が近づいてくれば、自裁する準備をし、実行するまでだ。いのちを無条件に礼賛する現代の風潮はおかしい。死の選択の議論があってもいい、と著者はいう。
 現行の憲法を楯にとって「非武装・不交戦」を唱える平和主義者は、臆病者にして卑怯者だ、と著者は怒る。いちばんだいじな国を守ることを無視して、もうけ話やグルメ話、健康話にふける日本人はまさに幼稚であり、それ以前に気概がないといわねばならない。
 いまはバラバラのマスの時代である。大量生産される商品の回りに群がるマス、選挙に集まるマスが流行に合わせて、浮かんでは消えていく。人気主義(ポピュリズムならぬポピュラリズム)が政治も経済もだめにしている。多数派の人気がすべてを左右する愚かな現代文明は、不治の狂気におちいっている、と著者は断言する。
 戦前と同じく、いやそれ以上に、エロ・グロ・ナンセンスとダダイズム(既成秩序への反発)が、いまの世をおおっている。そうした左翼・右翼の軽挙妄動に対抗するには「伝統の保守」の立場をとる以外にない、と著者は強調する。
 ビジネスマンとは「多忙人」のことであり、会社に閉じこめられて心を亡くした人のことだ、と著者はいう。かれらは自分を大きくみせる「夜郎自大」のやからで、話といえば、カネか異性、品物のことばかり。チェスタトンのいうとおり、この世は悪党階級と阿呆階級と狂人階級が支配している。そういう連中から距離をおくことがだいじだというわけだ。
 無礼なやつが多いのにも困ったものだ。そういうやつらにかぎって、戦争と聞いただけで怯える臆病な連中ときている。物書き人種の数少ない特権は「不快な出来事を書くことによって忘れることができる」ということだ。とはいえ、なにがしかいやな記憶が残るには困ったものだ、と著者はいう。
 憲法は慣習にもとづく不文法がのぞましいのであって、無理やりつくった、あるいは押しつけられた憲法はしっくりこないものだ、と著者はいう。ところが、それを金科玉条のようにして、改憲すらまかりならぬというやからが多いのは困ったものだ。いまこそ憲法制定議会を開き、コモンセンスにもとづく新たな憲法を制定すべきだ、と著者はいう。
 そして、いまはメディアが世界を覆いつくしている。メディアを飛び交っていることばは、レッテル貼りにも似た、きわめて皮相な政治的分類にほかならない。連日、ありきたりのオピニオンが飛び交っているメディアは、一種のお茶の間エンタメ劇場のようなものである。まさに、この世は末法だと思わざるをえない、と著者は述べている。
 読んでいると、だんだんこちらも絶望的な気分になってくるから不思議なものだ。
 久しぶりに鶴田浩二の歌を思いだす。生まれた土地は荒れ放題、いまの世の中、右も左も真っ暗闇じゃござんせんか。
 それでも、ぼくはいなかから東京に出てきたときの自由な気分がどこか忘れられず、やっぱりいまさら保守に針路を変えられないなと思ったりもするのである。反論にはなっていないけれど……。

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西部邁『保守の遺言』を読む(1) [本]

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 西部邁最後の著書だ。そのあとがきは1月21日に自決する6日前に書かれている。「保守」の立場からみた状況への発言といってよいだろう。日本の世相への怒りがぶちまけられている。
 以下、少しずつ、できるだけさらりと読んでみたい。ややこしいリクツにはあまり立ち入らないようにしよう。
 最初に、著者はこれまで選挙で投票に行ったことなんかないと書いている。一票の重みなどなきが等しきものである。なぜ、わざわざ人気投票みたいなものに出向かなければならないのか。
 といって、著者は政治に無関心なわけではない。むしろ関心が強すぎるほどだ。しっかりした主張ももっている。投票を権利ではなく義務にすべきだとさえ思っている。ただ、いまの選挙のやり方が気にくわないのだ。
 選挙区をもっとちいさくし、選挙人が政治のあり方についてたがいに議論して、代理人を選ぶ。そして、その代理人がまた集まって、さらなる代理人を選ぶようにして、最後に議員を選出する。そのようなやり方のほうが、政治への親密感がわくはずだというのだ。
 投票はあくまでも便宜的に代表者を選ぶ手段にすぎない。著者にいわせれば、いまの選挙はしょせんドタバタ劇であって、ほんとうに有能な議員が選ばれているか、はなはだあやしいものがある。
 まず民主主義なるものを疑うべきだ、と著者はいう。デモクラシーを民主主義と訳すのはあやまりで、民衆政治と呼ぶのがただしい。
 民衆政治は衆愚政治と紙一重だ。古代アテネの顚末をみてもわかるように、「デモクラシーは、独裁者をもたらすかもしくは衆愚のポピュラリティ(人気)にほぼ完全に左右される」。
 いまの日本の政治はどうなのか。民衆を主権者と呼び、民主主義なるものを絶賛するなど、ちゃんちゃらおかしい。崇高さなどどこにも見られない。
 そもそもおかしいのが憲法だ。一人前の国家なら国防軍をもつのはとうぜんのことだ。それを認めないのはどうかしている。アメリカの間違った指揮に従わないためにも、日本は強力な軍隊をもつとともに核武装を推し進めなければならない、と著者はいう。
 普通選挙にもとづく代議制は認めるべきだが、主権は国民に存するといった表現は改められねばならない。
 基本的人権が認められるのは、あくまでも公共の秩序が守られるかぎりにおいてである。テレビなどでみられる政治のドンチャン騒ぎは、おもしろおかしい人気取りショーで、あまりに愚劣だ、と著者は嘆く。
 日本のリベラリズムは「反権力と弱者保護」をうたうが、そこには欺瞞と偽善の臭いを感じずにはおられない、と著者はいう。野党のリベラリズムは権力を求める方便にすぎない。また過度の社会保障が社会の活力を奪うことは目にみえている。
 西欧の自由は、ほんらい神のもとでの自由を意味し、自由意思にもとづく行動には神の審判がともなう。けっして勝手気ままということではない。伝統の尊重があってこその自由なのだ。
 社会秩序はモラルと法にもとづく支配と服従によって成り立っている。社会秩序を無視した「個人の自由」などはありえない。社会保障の目的は弱者を保護すること自体にあるのではなく、あくまでも社会秩序を守り、社会の活力を維持することにある。「過剰な平等」も「過剰な格差」も避けられなければならない、と著者はいう。
 自由民主主義という価値観は虚妄だ、と著者は断言する。重要なのは公正な社会秩序であり、衆愚政治を避ける知恵なのだ。
 また国家を維持するためには、国家間の「友好と敵対」のバランスを巧みにとりつづける外交の実践術が必要になってくるという。ヒューマニズム(人道主義)やパシフィズム(平和主義)などの空語にふりまわされてはいけない。
 人がパトリオティズム(祖国愛)をもつのはいわば宿命である。とくにアメリカと北朝鮮の関係が瀬戸際にあり、いつ戦争が起きてもおかしくないいま、わが国が戦争に備えるのはとうぜんだ、と著者はいう。アメリカの「核の傘」などあてにならない。
 大韓航空の爆破事件や拉致問題をはじめとして北朝鮮の侵略性はあきらかなのに、その国が核武装したとなれば、それはたしかにゆゆしき問題である。
 しかし、それ以上に大問題なのは、世界でもっとも侵略的な国家がアメリカということなのだ、と著者はいう。
 日本は戦後、宗主国アメリカに従属し、伝統を奪われてきた。自尊と自立のない国は空無と屈辱におちいるほかない。そのことが日本人の誇りを奪っているのだ。
 日本が自尊と自立を取り戻すためには、国防軍を創設し、核武装しなければならない、と著者は訴える。実力なき言葉だけの外交が無力なのは、けっきょく現在の外交がアメリカ追随におちいっていることをみてもわかる。
 もちろん著者が原子力発電の廃棄などに賛同しないのはいうまでもないだろう。
 こうしてみると、著者の主張はぼくなどのぼんやり思うことと、かなり食いちがっている。
 ばくぜんと感じるのは、いまや日本が戦時体制にはいりつつあるということ。息苦しささえおぼえるほどだ。
 戦後日本のよさは、アメリカなどとちがって、戦争をしない国というところにあったのではないか。それがだんだんと失われつつある。
 もうひとつのよさ。それは、ふつうの人が国からの圧迫を受けずに、節度を守りながら、自由に気楽に暮らしていける社会、不幸や病気や災害など困ったことがあれば、国やまわりの人が助けてくれる社会。そうした社会を日本はめざしていたはずなのだ。
 いまはまた国家が強くなりはじめている。国家の規律がどんどん強まり、社会がぎすぎすし、自由で気楽な雰囲気が失われようとしているのは、とても悲しい。
 舌鋒鋭い著者の主張にたじろぎながら、ぼくなどが感じるのはそんなことだ。とても反論にはなっていないけれど……。


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山本義隆『近代日本150年』を読む(4) [本]

 1945年8月、アジア・太平洋戦争の敗北により帝国日本は崩壊した。しかし、総力戦体制で形成された戦時体制の多くはその後も残りつづけた、と著者はみている。
 戦後の農地改革にせよ、じつは小作制度は戦時下の食管制度のもとですでに形骸化していた。健康管理制度がはじまったのも戦時中だ。いっぽう占領下でも、官僚機構はほとんどそのまま維持された。
 戦後の高度成長は、満州の地ではじまった総力戦体制の延長上に準備されたものだという。「科学技術の世界では戦後の戦中との連続性がとりわけ顕著であった」。科学の発展も総力戦時代の発想を引き継いでいるというわけだ。
 科学者の内部からは戦争への反省がほとんど聞こえてこなかった。むしろ、日本は科学戦で敗れたのだという無責任な発言が飛びだすほどだった。湯川秀樹さえ、日本は「総力戦の一環としての科学戦においても残念ながら敗北した」と語っている。
 こうした発言は、アメリカに先立って日本が原爆を製造できなかった悔しさを表現したもので、そこにはアジア侵略の政治的・道義的責任のかけらもみられない、と著者はいう。加えて、戦争に加担した科学者の責任はなんら問われることがなかった。むしろ、科学者は軍によって冷遇されていたとの見方さえ広がるほどだった。
 戦後は「科学振興による平和国家の建設」がうたわれるようになるが、それは高度国防国家の建設という戦前の看板を書き換えただけだ、と著者は皮肉る。何はともあれ、戦後、科学と科学技術にたいする信頼はむしろ強化され、科学技術立国が戦後の国是となった。
 戦後の高度成長も戦時の総力戦体制の思想を引き継いでいた。1950年代に政府は重点産業に国家資金を積極的に投入し、電力、造船、鉄鋼部門の再建をはかった。自動車産業をはじめとする機械工業の育成にも取り組んだ。
 1960年代には産業構造の軸を重化学工業に移して、輸出産業の発展に重点が置かれた。「官僚機構と産業界と大学の協働による1960年代の経済成長は、戦後版の総力戦であった」
 戦後の高度成長は、戦時下に開発された軍事技術に支えられていた。戦時下のレーダー開発は、戦後のトランジスターやダイオードへとつながり、電気通信分野の基礎となった。
 東芝、日立、松下はいずれも軍需生産を担っていた企業である。ソニーもまた海軍技術研究所の人脈が母体になっている。トヨタ、日産、いすゞ、三菱などの自動車産業、それに国鉄などの鉄道技術は、いずれも戦前の軍事技術が基盤になっているという。
 著者はまた1950年代の朝鮮特需、1965年以降のベトナム特需が日本の経済成長を支えたことを忘れてはならないという。さらに「60年代に日本本土が平和で高度成長を維持できたのも、沖縄に米軍と統治と基地を押しつけ続けていたからこそであった」。
 軍需産業も徐々に復活を遂げた。自衛隊が誕生すると、企業の本格的な軍事技術開発がスタートした。1960年代にはいると国産化による兵器生産の道が探られるようになる。三菱重工や川崎重工、石川島播磨重工、東芝、富士重工などがそれにかかわった。
「戦後の航空機産業は自衛隊に依存して復活を遂げた」。戦闘機だけではない。イージス艦や軍用ミサイルなどの開発も進められた。戦後は平和技術が優位だったというのは神話にすぎない、と著者は断言する。
「自衛隊の増強、そして防衛予算の増大とともに、日本の軍需産業は着実に肥大化し実力をつけていった」。三菱電機や富士通、日本電気、日産自動車なども防衛産業に深くかかわっており、東芝には防衛整備部門が備わっているという。
 高度成長により日本人の生活はたしかに便利になった。しかし、そのいっぽうでさまざまな問題が生まれていた。交通戦争や通勤地獄、公害や自然環境の破壊、地域共同体の崩壊、地価の高騰などである。
 水俣の悲劇を忘れることはできない。

〈生産第一・成長第一とする明治150年の日本の歩みは、つねに弱者の生活と生命の軽視をともなって進められてきたと言わざるをえない。その挙句に、日本は福島の破局を生むことになる。〉

 高度成長期に官僚機構と企業、大学は協働体制にあった。まさに総力戦だったのだ。公害や事故が発生しても、大学の専門家は政府や企業の肩をもち、被害者の労働者や住民にはむしろ冷たい姿勢をとっていた。「『専門の知』なるものが患者や地域の住民や被災者にとっては権力としてあったのだ」
 科学技術性善説と成長神話を見直すべき時期にきていた。公害の深刻化や環境汚染はもはや見逃すことができなかった。1970年以降、さすがの政府も公害規制に乗りだす。いっぽう日本企業は生産拠点を海外に移し、経済の合理化・効率化をはかるとともに、アメリカ市場を中心に輸出を伸ばしつづけていった。
 しかし、1990年代にはいると、中国、韓国、台湾、インドなどが台頭し、日本企業は競争力を失ってしまう。資源多消費型の基幹産業はいまでは衰退産業となり、それに代わってIT産業や情報技術が登場してくる。だが、日本はアメリカに大きく水をあけられてしまった。そこで、政府は企業を支援するため、法人税率を下げ、非正規雇用を認めて賃金を押し下げる政策をとった。

〈実際、現在多くの労働者は、結婚すらできない状態に置かれている。しかしそうなると、早い話、物を作っても売れなくなっているのであり、たとえ金融緩和があっても、企業が国内で積極的に設備投資にむかうこともない。だいいち結婚もできない、子育てもできないとなると、少子高齢化は必然的になる。そのようにして人口が減少している現在、将来的な市場の拡大は望むべくもなく、経済成長の現実的条件は失われているのである。〉

 いま安倍政権のもとで、政府と財界は海外への原発輸出と並んで武器輸出を画策しているという。外国企業と競争できる武器を生産するには、大学の協力体制が欠かせない。兵器生産や武器輸出が犯罪行為であることはいうまでもない。いくら経済のためとはいえ、そんなことはやめるべきだ、と著者はいう。
 最後の章は「原子力開発をめぐって」。
 核開発はもともと軍事目的で進められた。1945年8月6日、ウラン爆弾が広島に、8月9日、プルトニウム爆弾が長崎に投下された。
 原爆のために開発された核エネルギーを発電に利用しようとするこころみが登場したのは戦後である。日本はそれを原子力の平和利用という名目で受け入れることになった。
 しかし、そもそも軍事技術と非軍事技術の境界はあいまいで、とくに核技術は原爆製造に直結する技術にちがいなかった。著者によれば、岸信介は日本がその気になればいつでも核武装できる状態に転換できるようにするため、原子力開発に熱心に取り組んだという。実際、岸は1957年に「現行憲法下でも、自衛のための核兵器保有は許される」と語っている。
 日本の原子力開発は経済問題にとどまらず、軍事や外交の問題ともからんでいた。「将来的な核武装のオプションを残しておくという日本の一部の支配層の思惑を過小視してはならない」と著者はいう。
 原子力発電についていうと、戦後、日本は最初イギリスからコールダーホール型原子炉を取り入れたが、すぐにアメリカの軽水炉が取って代わった。
 日本の原子力開発は通産省と科学技術庁の二本立てでおこなわれたという。通産省は電力会社、原発メーカーと組んで、商業用の原子炉を建設した。いっぽう科学技術庁は増殖炉の技術開発をめざした(けっきょくのところ失敗)。
 日本の原発建設にはずみがついたのは1973年の石油ショック以降である。20世紀末に日本は有数の原子力大国になっていた。日立、東芝、三菱などの原発メーカーは「国策会社」は保護され、原子力ムラができあがった。
 しかし、原子力工学はそれ自体きわめて問題のある技術で、とりわけ原子力発電は、民生用技術としてはきわめて未熟で不完全だ、と著者はいう。

〈そもそも原発は、軽水炉にかぎらず、燃料としてのウラン採掘の過程から定期点検にいたるまで労働者の被曝が避けられないという問題、運転過程での熱汚染と放射能汚染という地球環境への重大な影響、そして使用後にはリサイクルはおろか人の立ち入りをも拒む巨大な廃炉が残され、さらに数十万年にわたって危険な放射線を出し続ける使用済み核燃料の処分方法が未解決であるという、およそ民生用の商品としては致命的ともみられる重要な欠陥をいくつも有している。〉

 原発はほんらい商品としては市場に出せない未成熟な技術なのだ。さらに原発とそれまでの技術とのちがいは、原発はひとたび大事故を起こすと、人間のコントロールがきかなくなり、取り返しのつかない惨事を招くということだ。
 こうして、2011年3月、福島第一原発の爆発事故が発生した。日本人はこの事故の後始末に今後何十年もつきあっていかなければならない。
 これからどのような社会をめざすべきなのだろうか。著者はこう書いている。

〈限りある資源とエネルギーを大切にして持続可能な社会を形成し、税制や社会保障制度をとおして貧富の差をなくしていくことこそが、現在必要とされている。かつて東アジアの諸国を侵略し、二度の原爆被害を受け、そして福島の事故を起こした国の責任として、軍需産業からの撤退と原子力使用からの脱却を宣言し、将来的な核武装の可能性をはっきりと否定し、経済成長・国際競争にかわる低成長下での民衆の国際連帯を追求し、そのことで世界に貢献する道を選ぶべきなのだ。〉

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山本義隆『近代日本150年』を読む(3) [本]

「[1914年の]第1次世界大戦への『参戦』と『勝利』は、その後のシベリア出兵そして日中戦争とアジア・太平洋戦争への道を開くものであった」と著者は書いている。
 第1次世界大戦は最初の科学戦だったといわれる。ドイツでは一流の学者がこぞって毒ガス研究に没頭し、イギリスでも超一流の物理学者が無線電信や潜水艦探知などの軍事研究に従事した。実際、このときの戦争では、軍用自動車や重砲戦車、軍用航空機、飛行船、潜水艦、機関銃、無煙火薬、焼夷弾、毒ガスなども使用されている。
 日本も科学戦の動向にすばやく対応した。国家による組織的な科学技術研究、工学研究がはじまった。それを支えたのは日本経済の発展であり、この時期に各種の研究機関や学術研究会議、航空気象調査委員会などが発足している。
 日本のネックは資源だった。それを打開する鍵が本格的な化学工業にあると考えた政府はドイツを見習って、近代化学工業の育成に乗りだした。
 明治のはじめから軍は火薬や爆薬を自給するようになっていた。大阪に硫酸や炭酸ナトリウム、ガス、コークスの製造工場をつくり、これを民間に払い下げたりもしている。
 とはいえ、明治期、民間の化学工業といえば、化学肥料が中心で、大正期まで日本は化学工業製品の多くを輸入に頼っていた。1915年に政府は国策の染料会社を発足させる。染料工業は毒ガス製造と深くかかわっていたから、潜在的軍事力とみなされていたのだ。
 ヨーロッパにおいて、第1次世界大戦は国家総力戦の様相を呈した。そこで問われていたのは軍備の近代化だけではない。新たに登場した自動車や航空機も軍事の一環としてとらえられていた。そのため、「日本では自動車産業も航空機産業も、ともに兵器産業として育成された」のだという。
 化学工業の発展は電力を抜きにしては考えられなかった。日本で化学工業が本格化するのは20世紀にはいってからである。日本カーバイド商会の工場が水俣に建設されたのは1906年で、その会社はまもなく日本窒素肥料と名前を変えた。
 日本窒素肥料は石灰窒素肥料を硫安に変成するだけではなく、1920年代からは合成アンモニアを生みだしていく。工場がつくられたのは内地だけではない。朝鮮半島にも巨大コンビナートが次々とつくられていった。窒素を扱う肥料工場はそのまま爆薬工場に転換することができた。その意味で肥料産業は「国防産業」にほかならなかった。
 朝鮮半島ではコンビナート建設と並行して、鴨緑江上流に次々と水力発電用の巨大ダムがつくられていった。なかでも水豊ダムは、貯水湖の面積が琵琶湖の半分という巨大なもので、その最大出力は戦後の黒四ダムの倍以上だった。このダムを建設するために、現地の朝鮮人や中国人は使役されたり、強制移住させられたりした。「エネルギー革命による最新化学工業の発展は、植民地の資源と労働力に支えられていた」と、著者はいう。
 1930年代にはいると、日本では軍と官僚による統制経済の色彩が強まっていく。技術官僚や技術エリートも政治に積極的にかかわり、技術こそ「国防国家」最重要資源のひとつだと主張するようになっていた。
 1937年に日中戦争が勃発すると、軍需産業優先と経済直接統制の姿勢がさらに強まり、軍需にかかわる主要工場は陸海軍の管理下におかれるようになった。内閣には国家総動員の中枢機関として企画院が設立された。そして、翌1938年には国家総動員令が発令され、政府の権限が強められた。
 統制経済の焦点は、電力の国家管理だった。1931年の電気事業法により、電力料金は認可制となり、政府が決定することになった。1938年には電力国家管理法により、大半の電力会社が統合され、日本発送電株式会社がつくられる。さらにその4年後には北海道から九州まで9ブロックの配電会社が設立された。それが現在の9電力体制の原型である。そのとき、電力国家統制の目的が軍事におかれていたことはいうまでもない。
 昭和のはじめ、日本の産業の中心は紡績や製糸の繊維産業から、すでに機械、金属、化学などの重化学工業に移行していたが、列強との競争に勝ち抜くために科学技術の開発がさらに求められていた。1932年には学術振興会がつくられる。軍と産業の要請にこたえ、科学技術研究を促進することが目的だった。学術振興会の研究費が主として配分されたのは、航空燃料、無線通信、原子核・宇宙線研究だった。いずれも軍事にかかわる分野である。
 1937年の日中戦争勃発後は、「科学動員」が叫ばれるようになる。資源不足を補うため、空中窒素を固定して火薬をつくったり、粘土からアルミをつくったりするのも科学の役割だとされていた。
 大学もまた研究体制の拡充と近代化を求められていた。文部省はこれまで以上に積極的に科学行政に取り組み、大学での軍事研究に文部省科学研究費、通称「科研費」を支出するようになった。海洋研究や気象観測もめざましい進展をみせた。戦争遂行が科学の発展を促していた。
「科学動員・科学振興が叫ばれていたこの時代は、同時に、学問の自由が侵され、反文化主義・反知性主義の横行した時代でもあった」と、著者は論じている。天孫降臨神話や、万世一系の天皇をいだく神国日本といったイデオロギーが声高に語られていた。それは田辺元のいうように、科学的精神とは正反対の蒙昧主義にほかならなかった。
 国粋主義者による国民の思想統制が進むいっぽうで、軍部は科学なくして近代戦は戦えないと考えていた。1938年の国家総動員法は、科学者や技術者を戦争遂行に向けて動員することをも目指していた。軍部独裁による総力戦体制・高度国防国家の建設が進んでいたのだ。
 1940年6月にはじまる「新体制運動」は、経済の統制と科学技術による国家総力戦体制の確立をめざした。当時は、マルクス主義者のあいだでも、経済統制や技術統制を評価する向きが強くなっていた、と著者は指摘する。
 さらに、著者はこう記している。

〈「資源小国」の観念に囚われていた日本の支配層にとって、資源確保は何事にもまさる優先事項と考えられていたのであり、満洲国の建設から南方への進駐、そして大東亜共栄圏の確立は、すべて資源の収奪を第一の目的にしていた。〉

 資源確保がすべて戦争遂行に向けられていたことはいうまでもない。1942年には技術院が発足するが、それはいわば「技術参謀本部」だった。科学界はむしろこうした動きを歓迎し、「自主的に学問統制・研究動員への協力」に応じた。「大部分の理工系の学者は、研究費が潤沢であるかぎりで、科学動員による戦時下の科学技術ブームに満足していた」と著者はいう。
 総力戦体制は、国民を「国民共同体」と一体化させるこころみでもあった。戦時中の食糧管理制度、国民健康保険改革などは、一種の社会革命であって、社会関係の平等化、近代化をもたらした。だが、こうした福祉国家政策が戦時動員体制と深く結びついていたことも事実だ。過度の社会格差は、徴兵制にとっても不都合と考えられていたからである。
 科学振興の目的は、不足資源の補填と生産力拡充にあった。だが、その陰で、労働者は酷使され、それにともない各地で労働災害が頻発していた。炭鉱災害や工場火災も増えていた。戦争がはじまり、労働力がさらに払底すると、強制連行された多くの朝鮮人や中国人が炭鉱などで働かされるようになった。「科学技術の急速な振興と、それによる急ピッチの生産拡大は、その背後でつねに弱者にたいする犠牲をもたらしてきた」と、著者は指摘している。

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