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ファシズム国家論──滝村隆一『国家論大綱』を読む(15) [本]

 ファシズム国家は近代に登場した特異な専制国家である。その内実は、世界帝国建設をめざす戦時国家体制だったということができる。
 ファシズム体制のもと、社会は軍事的に組織される。国民皆兵制が敷かれ、国家総力戦体制がつくられ、産業は軍事中心に再編成される。さらに国民は個人としての自由や独立性を否定され、国家・社会への寄与と献身を義務づけられる。
 戦時国家においては、膨大な軍事力が創出されなければならない。武器や兵器が大量生産されるだけではない。国民皆兵の原則にしたがい、国民には軍事訓練が課され、いつ戦場に送られても文句を言えない状況がつくられる。そのために、国家権力は学校やマスメディアを通じて、戦争勝利に向けて、徹底した大衆思想教育をおこなう。
 武器や兵器の製造は全産業にからんでおり、とりわけ軍事産業の規模は一挙に拡大される。衣服、食糧、建物、医薬品などの生産も、すべて戦時に応じて、体制が再編されていく。つまり、社会全体に国家的経済統制が敷かれるのだ。それは価格統制から企業利潤への課税にまでおよぶ。統制されるのは企業だけではない。労働者も同じで、賃金は規制され、ストライキは犯罪として禁圧され、労使の協調が求められた。さらに戦時においては、通常の税金だけでは間に合わず、戦時国債が乱発される。
 ファシズム体制はいうまでもなく民主的ではなく、専制的な形態をとる。そこでは、国家権力はほとんど何ものにも掣肘されない独自性と独立性を強める。戦時体制下では、議会は実質的に閉鎖され、政府と官僚機構が、首班とその側近の指示にもとづいて、政策をすみやかに実施する。それによって、ファシズム社会革命が遂行される。
 経済面でのファシズムの特徴は、国家権力による強力な資本統制だ、と著者はいう。資本は廃止されるわけではなく、もっぱら軍需産業に投入される。そのため、巨大独占資本は、ファシズム体制下では、むしろ業績を伸ばし、寡占化していく。ただし、その場合も、企業に自由な経済決定権はなく、企業はあくまでも国家の経済計画にしたがわなければならない。
 ファシストは「資本家を最小限の利潤とひきかえに、『軍需生産』というオリの中に閉じ込めることによって、世界征服にむけた国家総力戦という国家的大目的のために、徹底してこき使おうとした」と著者は記している。
 ただし、同じファシズムといっても、イタリアとドイツ、日本とでは、そのイデオロギー的特質が少しずつ異なっている、と著者はいう。
 ファシズムはもともと、強力な国家体制の創出をめざしていた。したがって、最初から強烈な侵略主義と民族排外主義への可能性を秘めていたといえる。それだけではない。ファシズムには、国家のために社会を改造し、個人を国家に奉仕せしめるという強烈な考え方があった。
 それを最初に唱えたのが、イタリアのムッソリーニだった。とはいえ、ムッソリーニには世界戦争というほど大胆な発想はなく、国内を強固にまとめ上げ、世界の列強の一角に食いこめれば、もっけの幸いというあたりがホンネだった。
 これにたいし、ヒトラーはドイツ民族(アーリア民族)による世界制覇を本気で考えていた。そこに、それをおびやかすユダヤ人は抹殺しなければならないという妄想が加わった。
 ヒトラーによれば、民衆は英雄的指導者の専制的支配を忠実に受け入れて、その命令に絶対的にしたがわなければならない。各級の機関は、指導者の指示・命令を忠実に実践するだけである。議会はもちろん廃止される。
 親裁体制は戦時下では、一定の効力を発揮した。
 だが、親裁につきものの欠陥を、著者はこう指摘する。

〈親裁体制は、いつでもどこでも気がついたら、ただの特殊的技能者に、総合的な政治的技倆を要する重大な権限が与えられていたり、自分をおびやかさないぶんだけ仕事はさっぱりの、無能な茶坊主ばかりにとりまかれていたというのが、むしろふつうであった。ナチ・ドイツもその例外でなかったことは、まだ記憶に新しい。〉

 ここでは、ドイツ・ファシズム(ナチズム)の特徴が、ヒトラー親裁体制にあったことを、とりあえず押さえておけばよいだろう。
 これにたいし日本の場合はどうだろう。
 著者は日本の特徴として、天皇制と国体論を挙げている。
 明治国家において、重要国家意志の実質的決定権は、元勲や元老によって握られていた。帝国憲法の公布によって完成する明治体制の特徴を、著者はアジア的デスポティズム(専制)に天皇制イデオロギーが加わったものとみなす。それは名目上、現人神による神権的支配という形態をとっていた。
「しかし、天皇制国家の近代的デスポティズムとしての特質は、天皇親裁という建前にもかかわらず、実質的には名目的デスポティズムとして、構成されるほかなかった点にある」と、著者は指摘する。
 つまり、明治期においては、元勲、そしてその後を継いだ元老が、実質的な政治的実権を握っていたのである。
 大正期にはいると、議会の政治的役割が高まり、政府はその意向を無視できなくなってくる。しかし、それまで実権を握っていた元老が、大正末にほぼ死亡すると、統帥権を主張する軍部が、それに代わって台頭し、暴走するようになっていった。
 著者は天皇を名目的デスポットとする軍部の暴走と政治的支配に、日本のファシズムの特徴をとらえているようにみえる。
 ところで、日本ファシズム論というと、丸山眞男の名前を思い浮かべるだろう。著者はそれがどのようなものであったかを紹介しながら、その徹底批判をこころみている。
 丸山はファシズムとは「20世紀における反革命」だという。つまり、下からであれ、上からであれ、ファシズムは革命に対抗するかたちで登場し、革命組織を破壊し、解体する方向へと進む。そして、帝国主義戦争を断行するために、国民を強制的に同質化していくのだという。
 丸山は革命を社会主義革命と理解し、それに対抗して、反動的な専制国家を打ち立てようとするのがファシズムだと理解している。著者によると、これでは社会主義についても、ファシズムについても、まったくわかっていないことになる。丸山はまるで社会主義が進歩的で、ファシズムが反動的(保守的)であるかのようにとらえているかのようだ。
 民主的な国家体制(たとえばワイマール体制)のもとでは、ファシズムは国家権力をめざす、ひとつの政治活動として発現する。その過程で、別の国家権力をめざす左派勢力とぶつかるというのは、大いにありうることである。
 いっぽうで、専制的な国家体制(たとえば日本)のもとでは、国家権力があらかじめ左派勢力を弾圧し、解体してしまうこともありうる。
 だとしても、丸山は単に革命にたいする「反革命」というだけで、まったくファシズム国家とは何かを説明していない。国家と社会を一元的に再編成するファシズム国家の歴史的特質に、丸山は迫っていない、と著者は批判する。
 丸山はファシズム運動を、革命的勢力を暴力やテロによって粉砕するものとだけしかとらえていない。したがって、暴力行動の背後にある、独自の思想やイデオロギーを見落としてしまう。あまつさえ、ファシズムには独自の体系的な思想や理論は存在しないとまで言い切る。これは、そもそもファシズムを小馬鹿にして悦に入る知識人の傲慢な態度といわねばならない。
 丸山はファシズムの傾向と発想を列挙するが、けっしてファシズムの本質に斬りこんでいない、と著者は指摘する。
 1920年代から40年代にかけての日本ファシズムの歴史的発展に関しても、丸山は日本では上からのファッショ化が進展したと述べるいっぽう、ファシズムを支持したのは中間層だといい、とりわけ「小工場主、町工場の親方、土建請負業者、小売商の店主、大工棟梁、小地主、ないし自作農上層、学校教員、ことに小学校・青年学校の教員、村役場の吏員・役員、その他一般の下級官吏、僧侶、神官、というような社会層」だと指摘している。
 だが、この分類もおかしい。著者は、国家機関の末端につながる「小地主、学校教員、ことに小学校・青年学校の教員、村役場の吏員・役員、その他一般の下級官吏、僧侶、神官」と、「小工場主、町工場の親方、土建請負業者、小売商の店主、大工棟梁、自作農上層」などの一般庶民大衆とは分けられてしかるべきだという。中間層の庶民はむしろ積極的に宣伝される「国体論」の素朴な受け手であり、かれらが堕落と腐敗に満ちた現状を突破するために、専制国家づくりの宣伝に乗せられてもやむをえない側面もあった。
 丸山は日本のファシズムを担ったのは中間層、すなわち庶民であって、「インテリは日本においてはむろん明確に反ファッショ的態度を最後まで貫徹した」と語っている。「ファッショのお先棒をかついだ学者もありましたが、まず普通は表面はともかく、腹の中では馬鹿馬鹿しいという感じの方が強かったよう」だとも述べている。
 これは大嘘だ、と著者は論じる。腹の中で馬鹿馬鹿しいと思っていたかどうかはともかく、インテリもまた戦時国家体制に黙々としたがっていたからである。
 日本ファシズムを推進したのは、いうまでもなく軍事官僚や革新官僚であり、その理論を支えたのは東京帝大や京都帝大の教授たち、さらには左翼転向者にほかならなかった、と著者はいう。「天皇制イデオロギーとしての『国体論』自体の、『ファシズム』的改作を断行[とくに『臣民の道』をみよ]したのも、通俗マルクス主義の影響をうけた革新官僚や『左翼転向者』であった」。
 著者にいわせれば、丸山は「近代天皇制国家の理論的解明ぬきで、もっぱら国家機構の外の民間ファシズム運動を中心にとりあげて、[中途半端に]追究した」にすぎなかった。それは日本では上からのファッショ化が進展したとする自身の分析に反する姿勢でもあった。そこからは、ファシズム国家論が生まれるわけもなかった、と著者は指摘する。
 ファシズムという場合、丸山は主に青年将校と民間右翼勢力の思想をとりあげ、その特徴を家族主義、農本主義、大アジア主義と並べるだけで、近代天皇制国家そのものの思想をまったく取りあげていない。そもそも名目的専制形態をとる近代天皇制と、国体論を抜きにして、日本のファシズムは語れない、と著者は丸山を批判する。これはもっともな批判だろう。

佐野眞一『唐牛伝』書評(まとめ) [本]

 プロローグに「心無い中傷で人生のどん底に突き落とされながら、愚痴一つ言わず生き抜いた唐牛の強靱な精神は、私をどれだけ勇気づけてくれたかわからない」とある。
 橋下事件で物議をかもした著者にとっては3年ぶりの「復帰第一作」だという。
 唐牛健太郎(1937-84)は60年安保の伝説の闘士だった。全学連委員長として、安保条約改定に反対し、国会突入をこころみたことで知られる。
 本書は唐牛の生涯を追った伝記である。さまざまな資料が駆使されるほか、関連人物の素描、かかわりのあった人へのインタビュー、ゆかりの場所への訪問もなされ、重層的にかれの人生の軌跡がえがかれる。
 とりわけ、その出生の秘密と、安保後の漂流が胸にしみる。世間からみれば、それは無念の人生だったかもしれない。だが、本人にとっては、そうではなかった。唐牛は哀愁に身をひたしながらも、それを笑いとばしながら、人生を走り抜けていったのだ。
 佐野眞一の取材は、唐牛のけっして長くはなかった生涯を、まるで「この人を見よ」というばかりに徹底してさらけだそうとしている。生まれたのは北海道函館で、庶子だった。父親は8歳のとき亡くなり、母親が郵便局に勤め、ひとりで息子を育てた。ちいさいときから頭がよく、野球もうまかった。「性格がすごく明るい」というのは、だれもが認めている。憎めない男だった。
 1956年に北海道大学に入学するが、その夏、北大を休学し、上京、半年ほど東京に滞在し、アルバイトをしながら、はじめて砂川闘争に参加した。それが学生運動にのめり込むきっかけとなった。翌年、北大に復学すると、北大教養部の自治会委員長、さらに道学連委員長となる。
 全学連は、そのころ日共系と反日共系に分裂した。1958年12月に共産主義者同盟(ブント)が結成されると、唐牛はブントに加わる。
 長身で、石原裕次郎のようにかっこいい唐牛は注目の的だった。ブント書記長の島成郎は59年5月に札幌を訪れ、唐牛に全学連委員長就任を要請する。唐牛はこの要請に応じ、史上最年少の22歳で、全学連委員長に就任した。
 そして60年安保闘争がはじまる。60年1月16日、全学連は岸首相の訪米を阻止するため、羽田空港の2階ロビーを占拠した。
 4月26日のデモでは、警察の装甲車とトラックが国会前を埋め尽くしていた。唐牛は装甲車にのぼり、一世一代のアジ演説をぶつ。それが終わった瞬間、警官隊の渦のなかにダイビングした。そのあとを学生たちがつづく。予想もしなかった行動に、警官隊も動揺し、逃げだした。
 このときの事件で、唐牛は逮捕され、11月まで収監されている。そのため、6月15日に、警官隊とデモ隊が衝突し、樺美智子が死亡したときには、現場に居合わせなかった。
 6月19日に、安保条約は自然承認された。運動は急速にしぼみ、ブントは7月に事実上、解散する。それから唐牛の漂流がはじまるのだ。本書のメインテーマは、むしろ60年安保という祭りの後を、唐牛がどう生きたかにおかれている。
 1963年3月、TBSラジオが、60年安保を闘った全学連が右翼の親玉、田中清玄から闘争資金をもらい、その闘士の何人かが、いまも田中に庇護されていると伝えた。田中が全学連に闘争資金を渡したのは事実だった。唐牛も全学連をやめたあと、62年5月から田中が社長を兼ねる丸和産業という石油販売会社に勤めていた。放送が終わったあと、全学連には世間から非難の声が浴びせられた。
 唐牛は、これにたいし、ひと言も弁解しなかった。むしろ、すべての非難をだまって引き受けた。
 しかし、まもなく唐牛は田中のもとを離れる。全学連同志の篠原浩一郎に紹介され、単独太平洋ヨット横断で勇名を馳せた堀江謙一と組んで、「堀江マリン」というヨット会社を設立するのだ。65年2月のことである。その資金の一部は、田中の盟友で、山口組組長の田岡一雄が融通してくれた。
 だが、「堀江マリン」はすぐに立ちゆかなくなる。
 唐牛はそのほかにもさまざまな事業に手をだすが、どれもうまくいかなかった。小料理屋を開いたりもした。まともな企業に就職できない唐牛は、生きることに必死だった。
 全学連を離れたあとも、公安の目は常に光っていた。「突き放した言い方をすれば、唐牛が輝いたのは60年安保闘争当時のわずか1年足らずのことで、後は呑んだくれの人生を送った、いや送らされた」と、著者は記す。
 最初の妻と別れ、再婚した唐牛は、それまでのすべてを断ち切るように、69年4月から四国巡礼の旅に出た。
 四国巡礼のあと、鹿児島から与論島に渡った。与論島には1年あまりしかいなかった。
 よど号ハイジャック事件がおこり、島にも公安関係者がやってくる。島をでたのは、島の人に迷惑をかけたくなかったからだという。
 それから北海道に渡り、70年7月から厚岸で漁師の見習いをし、さらに半年ほどたって、紋別に移り住んだ。唐牛は、ここで漁師をしながら10年足らず暮らすことになる。友人の西部邁は、最初の著書『ソシオ・エコノミクス』を「オホーツクの漁師」唐牛健太郎に捧げている。
 函館で母を看取ったあと、81年1月に、唐牛は函館から千葉県市川市に移り、エルムというオフコン販売会社の営業マンになった。
 そのころ、徳洲会の徳田虎雄と知り合う。唐牛に徳田を紹介したのは、全学連同志の島成郎だった。徳田は国会をめざしていた。82年4月、唐牛はエルムをやめ、徳田の選挙を手伝うことにした。その夏、喜界島にはいって、活動を開始した。
 だが、翌年の総選挙で徳田は惜敗する。そのころ唐牛は直腸がんがみつかり、すでに築地のがんセンターに入院していた。そして、手術後、一時退院するものの、がんが全身に転移して84年3月に亡くなるのだ。享年47。
 著者はこう書いている。

〈唐牛健太郎は、全学連仲間の島成郎や青木昌彦らがそれぞれの分野で目覚ましい業績をあげたのとは対照的に、「長」と名の付く職に就くことを拒み、無名の市井人として一生を終えた。
 だが、それこそが唐牛が生涯をかけて貫いた無言の矜持ではなかったか。庶子として生まれた唐牛は、安保闘争が終わったとき、常民として生き、常民として死のうと覚悟した。それは彼の47年の軌跡にくっきりと刻まれている。〉

 60年安保闘争は「壮大なゼロ」と揶揄されたが、それはけっしてゼロではなかった。
 とはいえ、唐牛自身はひたすらゼロをめざしていたように思えてならない。
 ゼロは座標軸の交点である。唐牛は常に気になる存在だった。
 だが、ほんとうは、いっしょに闘った仲間たちこそ、唐牛に見つめられていたのかもしれない。君は元気でやってるか、闘いを忘れてはいないか、と。
 不思議なことに、本書はどこか励ましとやすらぎを与えてくれる。

国家と法、宗教、人権──滝村隆一『国家論大綱』を読む(14) [本]

 理論や方法論を抜きにして、ごくごく簡単に滝村国家論のエッセンスを紹介している。これは邪道にはちがいないのだが、学者とは縁遠いぼくのような素人にとっては、いまはともかく、国家論のテーマをおおづかみにするだけで満足するほかないだろう。
 今回は、近代国家における法や宗教、人権の問題を取りあげる。
 国家の支配は、法にもとづいておこなわれる。法は公的・社会的な規範であり、個人にたいする圧倒的な強制力をもっている。そして、国家のいかなる活動も法的規範にもとづいてなされるのが、近代の特徴だといえる。逆にいえば、いかなる国家機関も法を逸脱して行動することは許されない。
 諸法の頂点に位置づけられるのが憲法である。憲法においては、まず国家権力全体の構成、つまり国家がどのような機関によって成り立っているかが規定される。これを補うのが行政法であり、そこでは個々の行政機関の組織と活動がこまかく規定される。行政法には、内閣法や国家公務員法、地方自治法、国防関連諸法、警察関連諸法などが含まれる。
 憲法が規定するのは国家権力の構成だけではない。そこには社会体制の規定もある。さらには、国民の権利と義務をも規定されている。さらに憲法の前文では、国全体の考え方や方向性が示されている。その意味で、憲法は国家の基本的骨格を法的に表現したものといえる。
 これにたいし、刑法、民法、商法などの社会法は、これまでの社会的規律や習俗、慣行などを、近代的な国民国家に対応するよう編成しなおし、国家として国民のあいだのルールを定めたものである。
 一般に法律は統治関連の法と、行政関連の法に区別することができる。統治関連の法としては、憲法や行政法、刑法、国際法などが挙げられる。また行政関連の法には、民法や商法、経済法、社会法などがある。
 統治関連の法は公法、行政関連の法は私法と分類されることもある。歴史的にみれば、公法が私法に先行するのはいうまでもない。またアジア諸国は公法を中心に発達し、西欧諸国は公法に負けず劣らず私法が発展したことを、著者は指摘している。
 法は新たな発生した事態に対応しなければならない。しかし、社会的変化への対応にはしばしばタイムラグがともなう。そのため、時代遅れの法律が改正されることなく、いつまでも存続することがありうる。とりわけ公法の分野においては、その傾向が強いという。
 国民国家においては、行政活動の活発化にともない、私法関連の法が飛躍的に増大していく。ただし、近代においても、戦時国家体制が形成される場合は、国民の市民権が制限されることはいうまでもない。
 諸法の上に君臨する特殊な公法としての憲法がつくられたのは、近代になってからである。それによって国民国家が成立した。近代憲法においては、国家権力の組織形態と、市民権(人権)が規定され、それをつなぐものとして、普通選挙権にもとづく政治的民主主義がかかげられた。
 しかし、20世紀における社会主義革命は、プロレタリア独裁思想にもとづく、きわめて特異な専制国家体制をつくりだした、と著者はいう。社会主義国家の「憲法」には人権規定がなく、そこでは財産権も自由な政治活動も経済活動も言論活動も認められていない。
「社会主義憲法における、市民としての自由と権利は、社会主義・共産主義の思想と政治・経済体制に同意し服従しているかぎりでの諸個人に付与された、紙のうえのものでしかない」と、著者はいう。
 さらに社会主義憲法には、プロレタリア独裁権力の中枢に陣取る共産党についての法的規定がなく、共産党は事実上、憲法外的な存在となっている。
 それによって、「専制的国家権力中枢のすべての政治的意志決定が、共産党中枢によって独占的に掌握される」。
 国家権力の中央から地方にいたる各種機関の指揮中枢は、共産党員によって独占される。こうして、社会主義国家では、トップを占めるのは共産党書記長であり、首相(大統領)や議会議長はその下に位置するという変則的な事態が生じる。
  社会主義憲法は、20世紀以降における「最悪の専制国家憲法」だとまで、著者は断言している。
 著者はさらに日本国憲法の特異性についても述べる。
 日本国憲法は、第9条において、戦争と軍事力の放棄を規定しているが、そのこと自体、国家主権を実質的に放棄したものだ、と著者はいう。それによって、戦後の日本国家は「実質的に米国政治的傘下の、統治能力をもたない『自治行政権力』へと、貶められた」。
 第9条を廃棄しないかぎり、日本の主権は回復されないというのが、著者の主張である。そこには、日本がこれからもアメリカの属国として、「平和と民主主義」を享受していけるのかという疑問が横たわっている。アメリカがいつまでも覇者として、世界に君臨するとはかぎらない。日米安保条約もいつか廃棄されるときがやってくる。そのときに備えて、日本は独立の気構えをもち、主権国家として自立する道を探るべきだというのが、著者のメッセージだといってよい。

 次に国家と宗教の関係について。
 近代以前においては、国家と宗教はメダルの表裏のように密接不可分に結びついていた、と著者はいう。というのも、国家の専制的支配は神的・宗教的ベールを必要としていたからである。そこでは支配者はあたかも万能の神のごとく神格化されるか、そうでない場合も宗教権力によって裁可され承認されていた。
 とりわけ西欧諸国では、ローマ帝国が解体していくなかで、ゲルマン諸族が王国や帝国を形成するには、ローマ法王による承認が必要だった。
 ところが、近代において国民国家が成立するようになると、宗教的権威による国家の承認は必要ではなくなる。議会制民主主義が発達し、国民は政治的代理人を通じて、みずからの政治的意志を国家的意志へと転成していくようになる。
 こうして社会とは無縁の外部的な政治意志が、国民に押しつけられることはなくなる。それにつれて、政教は分離され、国民は信仰の自由を認められるいっぽうで、国家権力が特定の宗教(宗派)を国教として選び、その宗教(宗派)に特権的な地位を与えることは許されなくなった。
 こうして、宗教は政治過程から分離されて、諸個人の精神的世界にのみ関係するようになり、社会関係においては、国家の法的規範が、宗教的規範よりも優先されるようになるのである。
 著者は、最後に国民国家と人権の関係についてもふれている。
 国民国家においては、他者の生命や財産を侵害しないかぎり、原則的に市民的権利が認められる。そうした権利のなかには、職業と営業の自由、思想の自由、政治活動や文化活動の自由、言論や集会の自由、信仰の自由などが含まれる。しかし、こうした自由も、戦争など社会全体の危機が発生したさいには、制限されることもありうる。
 とはいえ、近代以降の国民国家の原理が、人権論を基本にしていることはまちがいない。人権論とは、人が天賦の神聖な自然権をもつという考え方である。
 人権の基本は自由と平等である。人は法に違反しないかぎり、自由にすべてをおこなうことができる。ただし、自由の濫用については、責任を負わなければならない。
 いっぽう、人は法の前での平等を保証される。いかなる支配者も法にしたがわなくてはならない。「職業や貧富、生まれ育ちや思想・信条などのいかんで、人間を法的に差別してはならない」と著者は論じる。
 さらに自由、平等を軸とした人権論からは、民主政と国民主権の考えが導かれる。
 とはいえ、著者によれば、国民国家の原理は、単なる市民主義ではない。それは、市民—国家主義というべきものである。
 人権論はけっして反国家主義ではない。人権論は「〈国家権力による社会の国家的構成〉の必要と必然、という意味での〈国家主義〉を、当然の思想的また論理的な前提としていた」と、著者は論じている。
 その意味で、人権の拡充は、国家権力の拡充とも同時的に結びついているのだった。

国家の空間的構成──滝村隆一『国家論大綱』を読む(13) [本]

 なるべく簡単に滝村国家論をまとめようとしている。
 今回は国家の空間的構成についてである。正確にいえば、国家権力による国家の空間的構成というべきかもしれないが、ややこしい話はなるべく割愛する。
 国家の空間といえば、まず領土を思い浮かべるだろう。国家は大地を領土として構成せざるをえない。それに領海や領空が加わる。この領域では他国からの侵入が排除され、自国の支配権が確立される。
 領土は一定の広さを必要とする。自然条件をともかくとして、国家にとって、一般に領土は広ければ広いほうがよいとされる。そのため、国家の領土はけっして固定されることがなく、隣国諸国間では領土をめぐる紛争がたえまなく生じる。
 ちなみに著者は「領土とは、外的諸関係のなかで、国家権力によって排他独占的に囲い込まれた、社会的生存圏としての特定地域[土地空間]である」と規定している。
 領土を確定することによって、国家的支配圏が成立する。その領土は統治領といってもよいだろう。領土は、平和的であれ、暴力的であれ、近隣諸国との政治的な力関係によって確定される。国家は自国領土を近隣諸国に認めさせるとともに、国内的にもその支配権を了承させる必要がある。それによって、領土内の国民にたいする保護と統制がなされることはいうまでもない。
 領土的支配権は、私的な土地所有権とはまったく異質の原理にもとづいている。とはいえ、よく似かよった部分もある。排他独占的な土地所有という点では、領土も私有地も同じである。しかし、私有地が社会によって承認されるのにたいし、領土の場合は外的国家レベルで国際的に承認されなければならない。
 他国への領土の拡張は帝国を生みだす。著者によれば、帝国とは「特定の国家による、数種の異系文化圏世界への政治的支配と組織的包摂」を指している。植民地もまた帝国の領土に属するといえるだろう。植民地においては、植民地自体の統治権は剥奪されている。保護領は、本国によってその外政権を奪われた状態を指す。自治領は、内政上の自治権を付与され、さらに外政権をも獲得して、国家として独立するにいたる過渡的な状況にあるといってよい。
 国家連合は特異な国家形態である。国家連合のもとでは、諸国家の独立を前提としながら、国家の連合が模索される。連合は同盟よりも一歩進んだ国家形態ということができる。
 同盟の場合は、条約によって軍事を中心とした共同行動を定めることによって、敵対する特定国家との有事に備える。だが、同盟を結んだとしても、それぞれの国家は政治、外交、経済にわたって独自の意志決定権を有している。
 これにたいし、国家連合の場合は、主権国家の意志は大幅に制限され、諸国家の上に立つ機関が統治上の意志を決定し、諸国家はそれに従わなければならない。国家連合が統一的連合国家へと発展し、さらには世界国家へと転成するのがむずかしいのは、現在の分解寸前の欧州連合(EU)の現状をみてもわかる。
 さらに、著者は民族と国家の関係について、「国家ぬきの民族など絶対にありえない」と断言する。「民族的な意識と感情は、国家を構成した歴史社会としての、確固たる一定の歴史的な発展を前提ないし土台としてのみ形成され、維持されていく」のだ。したがって、ある民族が新たに国家をつくるとしても、それは突然に生まれるわけではない。その民族が絶滅をまぬかれ、さらに、少なくとも数世紀におよぶ王国としての歴史的過去をもっていることが必要だ、と著者はいう。
 ここで、著者は国家の内的な空間的構成についても触れている。統一体としての国家は、中央と地方によって構成される。中央を統制するのは中央権力であり、地方を統制するのは地方権力である。
 地方権力は住民に関する社会的事柄を管掌する。その内容としては、交通・通信手段の建設・整備、電気、ガス、水道、医療福祉、ゴミ処理などの生活基盤の確保、警察などの治安活動、さらには学校、図書館、博物館スポーツ施設などの教育・文化活動などが挙げられるだろう。
 しかし、それは地方的な活動であるとしても、中央によって統率されている。いずれも地方的な特徴をもちつつも、大きくは中央権力による国家的枠組みのなかに位置づけられている。
 中央集権制か地方分権制かのちがいについて、著者はこう述べている。

〈いずれの場合でも、国家権力中枢としての中央権力が、統治権力を独占的に掌握し、各地方権力は、中央行政権力の法的・制度的裁可と枠組みにおいて、各地域社会に即した行政的公務を担掌するにすぎない。両者のちがいは、各地域社会が日々切実に必要とする、行政的公務の裁可・決定権の過半を、中央権力が掌握するか、それとも地方権力が直接手にしているか、といところにしかない。いうまでもなく前者が中央集権制であり、後者が地方分権制である。〉

 地方政治の目的は「各地域に固有の行政的公務の処理と解決にある」。そのため、地方政治には、本来政党色が弱く、むしろ政党色を強くだすと、住民から嫌われるという側面もある、と著者はいう。。
 しかし、たとえば軍事基地や原子力発電所のように、地方自治体だけでは手に負えない問題が発生する場合もある。これは、一種「政治公害」のようなものである。その解決は、国家の統治・行政活動においてなされなければならない。
 国民社会は政治的にみれば、統治と行政という二重性のもとに組織されている。 こうした二重の組織化は、現実的には中央と地方の権力構成のもとになされている。中央権力は国家の統治にあたりながら、地方権力の行政能力を統制する。その意味では、中央権力は、中央行政権力でもある。いっぽう、地方権力は中央権力の裁可と枠組みのもとで、地方の実際の行政にあたる。
 近代社会においては、市民は主権者としての国民として登場し、代議制民主主義によって、国政に直接、間接にかかわる。国家権力中枢は、市民によって選出された政治的代表として、国政にかかわる活動をおこなう。いっぽう、市民は地域住民として、各地域の行政に直接、間接に関与し、各級の地方権力は、市民の意向にもとづいて、地域社会の管理と問題解決にあたる。といっても「地域住民自治」などというのは幻想にほかならず、実際には地方権力が中央権力に統制されていることを忘れてはならない、と著者はコメントしている。

政府と議会に関するメモ──滝村隆一『国家論大綱』を読む(12) [本]

 ふたたび『国家論大綱』に戻ってきた。
 この2100ページもある未完の(しかも難解な)大著を、はたしてどこまで読めるのか、はなはだ心もとない。いまのところ読み終わったのは、やっと3分の1ほどである。しかし、何とか読み切りたいと思っている(ただし、ややこしい学説については省略)。以下は例によって簡単な要約。
 今回、取りあげるのは、政府と議会についてである。
 専制的形態をとる国家権力から議会が分化していくまでには、長い歴史的な闘いを要した、と著者は書いている。政府と議会が分離され、一般に政府が統治権力を、議会が行政権力を代表するようになるのは、その結果である。といっても、それは政府が行政とは無関係で、議会が統治と無関係だということではない。
 政府の行政活動が進展するのは、歴史的にみれば、ずっとあとになってからである。著者は、統治に関する政府機関を外務・国防・通商などの外政部門と、内務・法務・財政などの内政部門にわけている。いっぽう、行政にかかわるのは、農政・産業・建設・郵政・運輸・福祉・文教などの部門である。
 民主主義が未発達の段階においては、政府内ではとりわけ内務省が大きな権力を握っている。国防省が軍隊を統率するのにたいし、内務省は警察を掌握している。とりわけ治安警察が大きな権限を有している国は、専制の度合いが強く、逆にそうでない国は民主化が進んでいる、と著者は指摘する。
 軍が外的国家(戦争)にかかわるとすれば、警察は内的国家(治安)にかかわっている。加えて、国防や治安に関する動きを察知するために、情報・諜報機関がもうけられる。その行動はしばしば人権の無視・圧殺をもたらす。
 議会(国会)では「国民から選出された政治的代表が一堂に会して、〈法律〉形態をとった国家意志の裁可・決定をおこなう」。そのため、議会は国家にたいしては国民を代表し、国民にたいしては国家を表示する二重の性格を有することになる。
 議会は一般に二院制の形態をとるが、それは歴史上生みだされたものである。第一院(上院)は貴族院、ないし参議院であり、第二院(下院)は衆議院、ないし庶民院である。歴史上、最初に登場したのは、王の直属機関としての封臣会議であり、それが身分制議会へと転身していった。これにたいし、第二院の発生は遅く、封建制の解体にともなって、下級貴族や市民階層が台頭した結果だったといってよい。
 そのため、議会においては第一院が統治に関する責任を担い、第二院が行政に関する意志決定をおこなうようになった。だが、大衆化の進展とともに「第一院として出発した貴族院(ないし参議院)が、第二院の衆議院(ないし庶民院)によって、その実権を徐々に剥奪され、完全に形骸化されて」いく。
 立法機関たる議会は、議長、副議長、理事会によって指揮される。議会における意志決定は、形式上、最高機関である本会議でなされるが、実際の審議は委員会(常任委員会と特別委員会)でおこなわれる。国家の諸活動が拡大するにつれて、議会での立法活動が飛躍的に増大したためである。
 近代以降の国民国家においては、三権分立にもとづいて、政府、議会、裁判所はそれぞれが独立した機関となっている。政治的民主主義を前提とすれば、その一般的政治形態は大統領=共和制をとるほかはない、と著者はいう。
 これにたいし、イギリスを典型とする議院内閣制は、特異な形態といわねばならない。イギリスでは、総選挙で第1党となった党首が、自動的に首相となる(この点は、連立政権が誕生する日本と異なる)。問題は、議会と政府が融合していることで、そのため議院内閣制においては、実質的に三権分立制が否定されている。
 著者は、歴史的にみて、国家は近代にいたるまで、何よりも統治権力であり、行政活動はごくかぎられていたと指摘している。議会制民主主義が定着するのは、国家における行政的要素が拡大するにつれてである。
 だが、議会制民主主義が全面的に発展した国においても、統治活動がなくなるわけではない。そのため、政府はとりわけ統治権に関する問題については、意志決定を一元的に集中化せざるをえない。行政と立法とが完全に分離された大統領制のもとでは、そうした傾向が強まる。
 著者は議会制民主主義と政党との関係についても論じている。立法機関としての議会は、国民諸層の意志を、法律というかたちで国家意志に転成させる役割を担う。
 近代民主政治は、政党政治のかたちで展開される。国会議員は各地域社会から選出された地方代表である。だが、地方といっても、そこには国民社会としての一般性も含まれている。そのため地方代表といっても、そこには国民代表としての一般性が含まれている。議員が地方的利害を代表するだけではなく、国家的利害を代表するのはそのためだ、と著者はいう。
 ここで念のためにつけ加えると、地方的利害とは、中央からの財政上・税制上の保護・援助を指し、さらには公共土木事業や大企業誘致なども含まれる。そのため、各地方は議員に地方と中央との政治的パイプ役を期待することになる。
 いっぽう、国家的利害とは、国民社会全体の維持・発展にかかわる事象で、外交、治安、文教、経済、社会政策などを指す。ここでは、個々の議員は、地方的利害にとどまらず、国家的利害をも担うことになる。
 こうした地方的利害と国家的利害は、迅速に法律や政策に転化されねばならない。その意味で、議会は「統治・行政的意志決定機関」だということができる。
 とはいえ、個々の議員がばらばらに集まって、さまざまなテーマについて国家意志を確定していては、たいへんな手間と時間がかかる。そのため、議員たちがあらかじめ政治意志の共通性において大きく結集するほうが好都合である。政党が必要になるのはそのためだ。
 政党は経済・社会政策、および根本的政治理念を提示することによって議員の組織的結集をはかる。とりわけ、政治理念と基本政策、言い換えれば綱領が、政党の柱をかたちづくる。
 近代国民国家においては、国家の現状を肯定するか否かによって、政党が少なくとも二つに分かれる。つまり、支配階級に有利な政策を進めるか、それとも被支配階級に有利な政策を進めるかによって、政党は分立するといってよい。ただし、議会制民主主義=資本主義経済を否定する政党がめざすのは、プロレタリア独裁=社会主義経済や、一党独裁=コーポラティズムであり、いずれにせよ全体主義の方向である。
 二大政党制が登場しやすいのは、小選挙区制が採用される場合である。これにたいし、比例代表制は、多党乱立状態を生みやすい。小選挙区制のもとでは死票が多く生まれ、民意を反映するという面では、小選挙区制は不完全なものである。しかし、比例代表制のもとでは深刻な政治的混乱が発生する恐れもある。
 いっぽう著者は、外政に重点をおき統治を重視するか、それとも内政に重点をおき行政を重視するかによっても、政党の性格がことなってくると指摘する。
 二大政党による政権交替には意味がある。ある政党が国家の威信と栄光を求めて、政権を運営しても、それによって実益を得るのが一部支配層であるとわかったとしよう。そのとき、犠牲を強いられた国民が疲弊しきった内政に大がかりな行政的てこいれを求めて、別の政党を支持することは大いにありうることである。そして、さらに「内政面での建て直しが完了すれば、また統治党による本格的な外政が展開される」。こうして、二大政党による政権交替が現実のものとなるのだ。
 戦後の特徴は、実質的な社会民主主義政党が(労働党や社会党と名乗っているとしても)、二大政党の一翼を担うようになるまで成長したことだ、と著者はいう。社会民主主義政党は、革命政党ではないが、議会政党である。力強い外交政策は展開できないにせよ、社会民主主義政党は、社会政策を積極的に展開する。政権担当能力をもった、責任政党としての「社会民主党」が、内政を中心とした行政政党として登場したことを、著者はそれなりに評価している。
 加えて、近年の特徴は、マスメディアを媒介とした世論が、政治に大きな影響を与えていることである。「マスメディアは、ときどきの社会的・経済的・政治的権力に対する〈人民の護民官〉ならぬ、国民の側からの監察官であり、国民の抵抗権の代弁と組織化を担う、思想的・観念的権力である」と、著者は論じる。
 とりわけ重要なのはマスメディアにおいて、国民の政治的意志や感情が政治的世論として形成されることである。とりわけテレビ新聞は大きな役割を果たす。それを規制しようとする動きもとうぜん生じるが、メディアを完全に規制できるのはファシズムや社会主義などの専制国家だけだ。
 政治家が世論を無視できないのは、世論が選挙に影響を与えるからである。しかし、いっぽうでマスメディアはみずから積極的に政治的意志を発することはない。それはあくまでも受け身の存在である。したがって、「世論を実質主導し、世論によって大きく支えられた政府は万能である」と、著者は述べる。
 テレビの登場はまた、政治家のイメージを大衆に浸透させる役割を果たしている。そのため政治家はテレビを前に、大衆に好感度をもたれるよう演技するよう求められる。著者は「知名度の高いメディア・スターやとくにテレビ・タレントは、日々選挙運動をしているようなものであるから、有権者が直接間接に選出する政治家としての各級議員や行政首長へと転じやすい」とも述べている。これもまた現代政治の特徴なのかもしれない。

最晩年の自由論──若森みどり『カール・ポランニー』を読む(6) [思想・哲学]

 1954年にコロンビア大学を退職したあと、ポランニーは『自由と技術』と題する著作で、産業文明にたいする考察を進めるつもりでいた。しかし、病気のため、それは完成にいたらず、断片的な草稿が残されるにとどまった。
 そのかたわら、弟子のロートシュテインは3年間にわたりポランニーとの対話を書き留めていた。それが「ウィークエンド・ノート」なるものである。
 著者はポランニーの断片的草稿や聞き書きのノートをもとに、かれの最晩年の思想をさぐろうとしている。
 ポランニーの思考は難解である。だから、そのすべてを理解するのは無理としても、せめてその一端だけでも紹介しておきたい。
 ポランニーは、「産業社会における良き生活」という断片のなかで、産業文明における「自由の喪失」に触れて、こう述べている。

〈複雑な社会において、われわれの意図的行為の、意図せざる結果が啓示された。これらのなかには、われわれを脅かす二つのものがある。権力と経済的価値決定がそれである。これらは、われわれが望もうが望むまいが、他者の精神的生活に強制を強いる権力の創出にわれわれを巻きこむ。これこそ、われわれが苦しんでいる自由の喪失である。〉

 この謎のようなことばは、いったい何を言わんとしているのだろう。
 現代は自由な社会だといわれる。
 だが、ポランニーのことばは、それを疑わせるものだ。
 自由な社会といっても、人は朝から晩までお金にがんじがらめになっているではないか。お金で好きなものを買うというけれど、ほんとうはどんどんつくられる新規商品を買わされているだけではないか。それに働いているというけれど、それは人に売れるものをつくったり、人にものを売りつけたりしているだけではないのか。それがほんとうに自由な生活なのか。選挙があれば投票するというけれど、ほんとうは選ばされているだけで、それは権力の創出に貢献しているだけではないか。
 社会が複雑化すればするほど、人は充満するモノと情報、イメージのなかで自分を見失っているのではないか。そして、何か大きな不安に突き動かされるように、産業文明という監獄をさらに広げることに邁進しているのではないか。
 現代人は、与えられた自由という檻のなかで、自由を縛る権力と経済価値(商品)をみずからつくりだしている。そして、その権力と経済価値(商品)が他者=自己の精神を空疎なものとしていることに気づいていない。
 平たくいってしまえば、ポランニーのいわんとするのは、そういうことだ。
 ポランニーは、複雑な社会における権力・経済価値・自由についての「意識改革」が必要だという。
 権力や経済価値(商品)はなくならない。だが、人びとは、みずからが権力や商品の創出にかかわっていることを、せめて意識しなければならない。そして、それが自由を奪うのをできるだけ阻むために、自由の領域を制度的に広げていかなければならない、とポランニーは訴える。
「ウィークエンド・ノート」で、ポランニーは、20世紀の技術的に複雑な社会には、隣人と「異なることの自由」を萎縮させる傾向があり、そうした同調主義的傾向が世論という匿名の権力を生みだす源になっていると指摘している。
 ポランニーは、交通手段や電気、ガス、水道など技術に依存した文明が、何かの災害によって、とつぜんストップし、社会がひどく混乱する事態を想定する。そのとき、人間は恐怖におちいるとともに、近代産業文明が脆弱な「機械の絆」によって、かろうじて支えられていることに気づく。
 ポランニーによれば、こうした複雑な技術社会は、3段階にわたって促進されてきた。それは、(1)19世紀における機械の導入、(2)日常生活への暖房、電気、水道、輸送などのシステムの導入、(3)全生命の抹殺を可能にする原爆の拡散や、すべての精神を支配しうるテレビ[いまならパソコンがつけ加わるだろう]の普及、によってである。
 そして技術文明に固有な全体主義的傾向は、個人の自由を圧殺する方向にはたらく。
 こうした全体主義的傾向に対抗するためには、単に個人の精神的自由をかかげるだけでは、とても間に合わない。市民的自由を制度的に拡大することが求められるのだ。
 具体的には、それは言論の自由、良心の自由、集会の自由、結社の自由を意味するが、加えて、個人の「不服従の権利」が認められなければならない。
 さらにポランニーはルソーにならって、ふつうの人びとを中心として、自由と平等の対立を調整する制度改革のあり方をさぐっている。自由と平等は、抽象的にみれば対立している。だが、ふつうの人びとの文化に依存するかぎり、「自由と平等は、それらがいかに相違していても、文化という具体的な媒介のなかで共存しうるし、同時的な開花を求めることができる」と、ポランニーは論じている。
 著者によれば、ポランニーにとって第2次世界大戦後の社会の現実は、自由と平和への大いなる可能性の幕開けではなく、新しい全体主義的傾向の出現であった。戦後の産業社会は、効率第一主義をめざし、自由や生の充足は後回しにされた。
 最晩年のポランニーは、ガルブレイスの『ゆたかな社会』に注目していた。というのも、この本が「産業社会は自由で人間的でありうるのか」というテーマを扱っていたからである。
 技術的進歩と商品の増大は、むしろ自由をさらに縮小していくのではないか、とポランニーは問いかける。これにたいし、ポランニーがめざすのは「人格的生活」であり「生活に意味と統一を回復すること」である。
 『ゆたかな社会』では、人格的自由が私的消費に埋没しようとしていることが指摘されていた。
 ガルブレイスはまた、飢餓と失業の脅威にさらされていた19世紀と、大量生産と大量消費に支えられる20世紀が、どのように異なっているかについても論じていた。
 著者のまとめによれば、ガルブレイスのいう「ゆたかな社会」では、「完全雇用を達成するために高水準の生産が要請され、高水準の生産に照応する需要を引き出すために生産の側が広告・宣伝を通じた依存効果によって欲求と必要を人為的に創出している」のであった。
 しかし、ガルブレイスによれば、「ゆたかな社会」は社会的なアンバランスをもたらしていた。それは私的消費が拡大するかたわら、教育や住宅、医療といった公共的投資が不足する社会だったのである。これはとりわけアメリカ社会にみられる特質だったのかもしれない。だが、ここでもポランニーは、効率優先主義が、「自由への目に見えない妨害になっている」ことを感じている。
 ポランニーが求めるのは、産業社会において自由を制度化することである。
 著者によれば、ポランニーはそのために、「子供たちのための良い教育、労働・研究・創造的活動の機会、余暇を享受するすべての人のための自然・芸術・詩との広い触れ合い、言語・歴史の享受、自己を賤しめないで暮らすことができる保障、市町村や政府や自発的なアソシエーション[団体]によって提供されるサービス」などが制度化されなければならないと論じた。休暇制度の充実、労働者の保護、職場環境の改善、不服従の権利、その他、さまざまな制度も考えられるだろう。
 こうした制度化は、産業社会において自由を保証し、拡大・深化していくには不可欠だった。
 物質的豊かさを達成した社会は、良き生活を目標としてかかげなくてはならない、とポランニーはいう。
 良き生活の核心となるのは、個人の自由である。そのためには産業社会の効率優先主義はむしろ民主的に制限されるべきだというのが、ポランニーの考え方だったと思われる。
 ポランニーは、自由は無償で手に入るのではなく、そのためには費用の増大や産業効率の低下もやむをえないとみていた。
 ポランニーは、産業社会を人間化していくための「自由のプログラム」を具体的に構想していくことを提唱していた。それこそが、現代民主主義の最大のテーマだと考えていたのである。

佐野眞一『唐牛伝』をめぐって(2) [本]

 唐牛健太郎の大漂流がはじまるのは、TBSラジオが「ゆがんだ青春──全学連闘士のその後」という放送を流してからかもしれない。1963年2月26日のことである。
 番組は60年安保を闘った全学連が右翼の親玉、田中清玄から闘争資金をもらい、その闘士の何人かが、いまも田中に庇護されていると伝えていた。
 田中が全学連に闘争資金を渡したのは事実だった(だが、それは全体のごく一部にすぎない)。
 唐牛も全学連をやめたあと、62年5月から田中が社長をつとめる丸和産業という石油販売会社に勤めていた。
 この放送が終わったあと、全学連には世間から非難の声が浴びせられた。
 唐牛は、これにたいし、ひと言も弁解しなかった。むしろ、すべての非難をだまって引き受けたといってもよい。
 1963年7月、唐牛は東京高裁で1.16事件と4.26事件の控訴を棄却され、宇都宮刑務所に11月ごろまで服役する。
 その11月に、田中清玄は右翼団体、東声会組員に銃撃され重傷を負う事件が起きている。銃撃を指示したのは児玉誉士夫だったという。
 田中は唐牛を信頼していた。翌年9月、田中が西ドイツを旅行したとき、唐牛に同行を頼んだことをみても、その信頼の厚さがわかる。
 しかし、まもなく唐牛は田中のもとを離れる。
 全学連同志の篠原浩一郎に紹介され、太平洋ひとりぼっちのヨット横断で勇名を馳せた堀江謙一と組んで、「堀江マリン」というヨット会社を設立するのだ。65年2月のことである。
 その資金の一部は、田中の盟友で、山口組組長の田岡一雄が融通してくれた。
 だが、「堀江マリン」はすぐに立ちゆかなくなる。
 まだヨットでレジャーを楽しむ時代ではなかった。それに唐牛本人も海が好きだったものの、ヨットが操れるわけではない。事業としては、あまりにもお粗末だったのだろう。
 唐牛はそのほかにもさまざまな事業に手をだしている。
 たとえば江ノ島でバッティングセンターを開いている。これはもうかったが、友人の篠原がそのもうけを台湾の事業につぎこみ、けっきょく元の木阿弥となる。
 エビの養殖を考えたり、ツアーを企画したり、石油基地で消防隊をつくろうとしたりもした。まわりからみれば、それこそ山っ気のある人物とみえただろう。
 しかし、まともな企業に就職できない唐牛は、生きることに必死だったともいえる。全学連を離れたあとも、公安の目は常に光っていた。
 著者はこう書く。
「突き放した言い方をすれば、唐牛が輝いたのは60年安保闘争当時のわずか1年足らずのことで、後は呑んだくれの人生を送った、いや送らされた」
 68年には新橋駅前に「石狩」という居酒屋を開店し、みずから包丁を握った。だが、この一帯は、すでにニュー新橋ビルになることが決まっており、69年のビル着工を前に、立ち退きを求められるのは、最初から承知だった。
 著者は「唐牛がここに店を出したのは“立ち退き料”狙いだった可能性もある」と疑っている。その公算は強いだろう。
 そのころ唐牛は北海道でトド撃ちも経験している。テレビのドキュメンタリー企画だった。酒場での与太話がトントン拍子に実現する。
 唐牛がトド撃ちの名人に入門し、トドを撃ちにいくという展開になるはずが、みごとに失敗する。放映はされたものの、撮影中、ボートが流され、危うく一命をとりとめるというおまけまでついた。
 そのころ、最初の妻、和子との結婚生活はすでに破綻していた。
 そして、漂流はつづいた。
 唐牛は元全学連仲間の妻を奪うという挙に出る。それが、以後、生涯にわたって、唐牛に付き添うことになる真喜子夫人である。
 ふたりは何かを断ち切るように、69年4月から四国巡礼の旅に出た。
 四国巡礼のあと、鹿児島から与論島に渡った。
 沖縄はまだ日本に返還されておらず、当時、与論島は南の最果ての島だった。
 なぜ、唐牛がこの島に行ったのかはよくわからない。洞穴に住んでいたといわれるが、実際に住んでいたのは、倉庫を改造した長屋だった。妻は砂糖を袋詰めする仕事をし、本人は土木工事で日銭を稼いでいた。
 与論島には1年あまりしかいなかった。
 ちょうど、よど号ハイジャック事件がおこり、島にも公安関係者がやってくる。島をでたのは、島の人に迷惑をかけたくなかったからだという。
 それから唐牛は北海道に渡り、70年7月から厚岸で漁師の見習いをはじめる。
 33歳になっていた。
 さらに半年ほどたって、こんどは紋別に移り住んだ。唐牛は、ここで漁師をしながら10年足らず暮らすことになる。
 しかし、漁船に乗ったといっても、実際の仕事は漁師ではなく飯炊きだったという。
 漁師をやめたのは78年9月だった。
 それから2カ月後、がんを患った母の看病をするため、函館に移住している。
 母を亡くして1年後の80年4月には、非行少年を教育する遠軽の「家庭学校」を訪れている。斎藤茂男は『父よ!母よ!』にこの学校のルポを書いたが、不思議な縁で、ぼくはかれの本を何冊も出版することになった。
 81年1月に、唐牛は函館から千葉県市川市に移った。そして、生活のためエルムというオフィスコンピューターを販売する会社の営業マンになった。社長は京大の元全共闘で、唐牛ともどこかで縁があったのだろう。
 トップセールスマンだったというのは意外である。
 そして、このエルム時代、唐牛は徳洲会の徳田虎雄と知り合うのだ。
 唐牛に徳田を紹介したのは、全学連仲間の島成郎だった。
 徳田と唐牛は会ったとたんに、意気投合したという。
 徳田は国会をめざしていた。
 82年4月、唐牛はエルムをやめ、徳田の選挙を手伝うことにした。
 全学連の盟友、篠原浩一郎は、当時、今里広記が社長を務める日本精工ではたらいていた。唐牛は篠原を通じて、今里と会い、徳田の後援を依頼した。
 唐牛は北海道や埼玉に徳洲会病院をつくる仕事も手助けした。
 82年夏には喜界島にはいって、総選挙に向けて活動を開始した。
 だが、翌年の選挙で徳田は保岡興治に惜敗を喫する。
 そのころ、唐牛は直腸がんがみつかり、築地のがんセンターに入院していた。すでに手遅れだった。
 そして、手術後、一時退院するものの、84年3月に亡くなる。
 享年47。
 ここで、唐牛と同じ全学連の仲間たちが、その後、どのような人生を歩んだのかをふり返っておこう。
 ブント書記長の島成郎(1931-2000)は、東大医学部を14年かけて卒業し、精神科の医者になった。そして、25年あまり沖縄での精神科医療にたずさわった。
 西部邁(1939年生まれ)は、唐牛より2歳下で、全学連の中央執行委員を務めていた。羽田の1.16事件などで逮捕されたあと、徐々に左翼運動から離れ、東大経済学部と大学院で経済学を専攻する。1975年に出版した『ソシオ・エコノミクス』は、「オホーツクの漁師」唐牛健太郎に捧げられている。現在は保守派の論客として活躍している。
 同じくブントの指導者だった青木昌彦(1938-2015)は、東京大学大学院をへて、渡米し、ミネソタ大学で学んだ。その後、スタンフォード大学助教授(のち教授)、ハーヴァード大学助教授、京都大学教授など華麗な経歴を築く。日本でいちばんノーベル経済学賞に近い学者と呼ばれていた。
 著者はこう書いている。

〈唐牛健太郎は、全学連仲間の島成郎や青木昌彦らがそれぞれの分野で目覚ましい業績をあげたのとは対照的に、「長」と名の付く職に就くことを拒み、無名の市井人として一生を終えた。
 だが、それこそが唐牛が生涯をかけて貫いた無言の矜持ではなかったか。庶子として生まれた唐牛は、安保闘争が終わったとき、常民として生き、常民として死のうと覚悟した。それは彼の47年の軌跡にくっきりと刻まれている。〉

 60年安保は「壮大なゼロ」と呼ばれたが、唐牛もまたゼロをめざしていたように思えてならない。
 ゼロは座標軸の交点である。唐牛は常にかえりみられる存在だった。
 だが、ほんとうは、われわれは唐牛によって、見つめられていたのかもしれない。いま、君は闘いを忘れてはいないか、と。

佐野眞一『唐牛伝』をめぐって(1) [本]

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 唐牛(かろうじ)健太郎(1937-84)は60年安保の伝説の闘士だった。全学連委員長として、安保条約改定に反対し、国会突入をはかったことで知られる。
 本書は唐牛の生涯を追った伝記である。さまざまな資料が駆使されるほか、関連人物の素描、かかわりのあった人へのインタビュー、ゆかりの場所への訪問もなされ、重層的にその人生の軌跡がえがかれる。
 とりわけ、その出生の秘密と、安保後の漂流が胸にしみる。世間からみれば、それは無念の人生だったかもしれない。だが、おそらくこの男にとっては、そうではなかった。かれは哀切さに身をひたしながら、人生をさわやかに、笑いとばしながら、くぐり抜けていったのだ。
 唐牛と年が10歳ほどちがうぼくは、関西のいなかに育ったこともあって、60年安保の熱気を経験しなかった。よほどのほほんとしていたのだろう。それでも67年には大学進学で東京に出てきたから、60年はともかくとして、68年以降の騒然とした雰囲気はおぼえている。
 ぼくは党派には属さなかったが、サークルにはブントに近い人たちがいて、かれらから多くの影響を受けた。68年ブントは60年ブントとはちがう。しかし、唐牛健太郎の名前はブントに継承されていた。
 本書のサブタイトルには「敗者の戦後漂流」とある。
 ぼくらもまた68年の敗者だった。
 だが、勝つことなどありえたのだろうか。そんなことは問題ではなかった。まちがっていることにノーをつきつけることだけが問われていた。
 その後の漂流。だれもがそうだった。
 ある友人は1972年で時間が止まっているという。しかし、たとえ時間が止まったとしても、人生の時は勝手に流れていく。
 だれもが漂流した。時にもがき苦しみながら。
 そして、それなりに自分のすみかを見つけた。
 だから、唐牛健太郎の人生はひとごととは思えない。

 本書に沿って、唐牛の軌跡を紹介しておきたい。
 60年安保について、著者の佐野眞一は「あとがき」で、こう書いている。

〈私は60年安保を左右イデオロギーの衝突だったとは思わない。「満州の妖怪」と呼ばれた岸信介と戦後日本をこれから担おうという若者たちの対立は、日本をこれからどういう方向にもっていくべきか真剣に考え抜いたナショナリスト同士の衝突だったとみる。〉

 ナショナリスト同士の衝突といわれれば、思わず鼻白んでしまう。
 というのも、岸信介も若者たちも、みんなナショナリスト=愛国者だったとひとくくりにされると、話があまりにもうまく収まってしまうような気がするからである。
 しかし、60年の若者も68年の若者も、はたして左翼だったかというと、それもまた大いに疑わしい。高倉健と昭和維新にあこがれてもいたからである。
 共通するのは、みんな不正義を憤っていたことである。
 不正義、あるいは不正義を黙認するやからを、やっつけることだけが目標だったのだ。
 単純きわまるその思想の地下水脈だけが、60年と68年を結びつけている(あるいはいまも)。
 党派の連中を除いて、本気で革命を叫ぶ若者などいなかった。
 唐牛健太郎は1937年2月11日に、函館市湯の川町で生まれた。
 父親は海産物商の小幡鑑三、母親は函館芸者の唐牛きよ。庶子だった。
 父親は唐牛が8歳のとき亡くなっている。母親は戦後、郵便局に勤め、ひとりで息子を育てた。
 健太郎はちいさいときから頭がよく、野球もうまかった。湯川中学校を卒業し、函館東高校に進学した。中学の同級生によると「性格がすごく明るくて、勉強もできて友達も選ばない」クラスの人気者だったという。
 ところが、高校にはいると、とつぜん不良になる。著者は、母親からみずからの出自を打ち明けられたためではないかと推測する。サルトルなども読みはじめ、文学にめざめるようになっていた。
 大学は英語ではなくフランス語で受験し、1956年に北海道大学教養部に入学する。その年の夏、北大を休学し、上京、半年ほど東京に滞在し、深川の印刷工場などで働きながら、はじめて砂川闘争に参加した。それが学生運動にのめり込むきっかけとなった。
 だが、この砂川闘争をきっかけに全学連は日共系と反日共系に分裂する。1958年12月に共産主義者同盟(ブント)が結成されると、ブントが全学連主流派を引っぱっていくことになる。
 唐牛は、深川の印刷工場が倒産したため、57年4月に北大に復学した。そのとき、かれは自治会の役員になるとともに、日本共産党に入党している。
 砂川での経験は、かれをばりばりの活動家に変えていた。そのころ、文芸部に所属していた津坂和子と恋愛関係になった。
 唐牛は1957年10月に北大教養部の自治会委員長、翌58年6月に道学連委員長となり、学生運動を引っぱっていく。長身で、石原裕次郎のようにかっこいい唐牛は注目の的だった。そして、12月にはブントの結成に参加し、中央執行委員となるのである。
 ブントの書記長は、東大医学部の島成郎。島は59年5月に札幌を訪れ、唐牛に全学連委員長就任を要請する。
 唐牛はこの要請に応じ、史上最年少の22歳で、全学連委員長になった。北大出身という経歴は異色だったという。
 全学連委員長就任の記者会見で、唐牛は「天真爛漫にデモ、ストライキを行います!」と発言し、運動に新風を吹きこんだ。
 そして60年安保闘争がはじまる。
 59年11月27日、安保改定に反対する「請願デモ」の最中、全学連は社会党などの陳情団の隙をついて、国会内に突入し、構内に赤旗を立てた。
 共産党や社会党は、これを強く非難する。
 60年1月16日、全学連は安保条約調印のため訪米する岸首相を阻止するため、羽田空港の2階ロビーを占拠した。この座り込みで、唐牛は機動隊員によって逮捕された。
 4月26日、総評を中心とする「国民会議」が、いつものように安保反対のデモをおこなった。全学連もそのデモに加わっている。
 警察の装甲車とトラックが国会前を埋め尽くしている。そのとき、唐牛はすでに決意していた。装甲車を乗り越えて、国会に突入するのだ。
 唐牛は装甲車にのぼり、一世一代のアジ演説をぶつ。それが終わった瞬間、警官隊の渦のなかにダイビングした。そのあとを学生たちがつづく。この予想もしなかった行動に、警官隊も逃げだした。
 このときの事件で、唐牛は逮捕され、11月まで収監されている。
 そのため、6月15日に、警官隊とデモ隊が衝突し、樺美智子が死亡したときには、現場に居合わせなかった。
 6月19日に、安保条約は自然承認された。
 運動は急速にしぼみ、ブントは7月に事実上、解散する。
 11月に保釈された唐牛は、どういう風の吹き回しか、翌年1月に革命的共産主義者同盟(革共同)全国委員会に加わった。のちに中核や革マルとなる組織である。
 恋人の津坂和子とは、そのころ結婚し、やがて別れる。
 しかし、革共同に加わったのは唐牛本人もいうように「人生の最大の誤り」だった。1年ばかりのちの62年5月には、革共同を脱退している。革共同のような理論型の革命組織とは、まるで肌が合わなかったのだろう。
 その前に全学連委員長も辞任している。
 北大からはすでに除籍処分を受けていた。
 そして、それから唐牛の漂流がはじまるのだ。
 本書のメインテーマは、むしろ60年安保という祭の後を、唐牛がどう生きたかにおかれている。
 それを追ってみたい。

『人間の経済』へ──若森みどり『カール・ポランニー』を読む(5) [思想・哲学]

 翻訳の仕事がはいり、ほかにも諸事情が重なったため、しばらくブログが更新できませんでした。
 それにしても、相変わらず、だらだらとつづく、じいさんのぱっとしないブログです。

   ※  ※  ※

 1947年にポランニーはコロンビア大学客員教授となり、アメリカに移り住む。だが、かつて共産党員だった妻のイロナは入国を認められず、そのためふたりはカナダのトロント郊外に住み、ポランニーはコロンビア大学のそばに小さなアパートを借りて、長時間かけて大学まで通ったという。
 コロンビア大学では、1947年から1953年まで、一般経済史を教えた。そのころアメリカの大学では新古典派経済学が主流になりつつあったが、ポランニーはマックス・ウェーバーに依拠しながら、経済社会学を教えた。
 非市場経済についての共同研究もはじまった。その成果は、1957年に『初期帝国における交易と市場』という共著にまとまり、ポランニーは経済人類学者としての名声を確立する。
 ポランニーはその後、『人間の経済』というテーマで、一般経済史をまとめようとして、原稿を書きためていた。だが、それは完成にいたらず、がんのため1964年に死去する。
 死後、1966年に『ダホメと奴隷貿易』、1977年に遺稿集『人間の経済』が出版された。日本でも翻訳されている(ただし、前者の邦題は『経済と文明』)。
 若森みどりはどちらかというと経済人類学より経済社会学の方向に沿って、ポランニーの晩年の業績をふり返ろうとしている。
 ここでは学術的な論議はさておいて、なるべく簡単にポランニーの考え方を追いかけたい。
 著者によれば、ウェーバーは、市場経済の制度的要件は、労働者にとって飢餓の脅威が存在することだと考えていたという。
 たしかにそのとおりだが、人間の社会は常に経済主義的に構成されていたわけではない、というのがポランニーの論点である。
 ポランニーは、初期、古代、近代の社会経済構造を比較しながら、それが互酬、再分配、交換の形態において成り立っていたと主張する。
 あらゆる時代において、経済は占有(所有)の移動と、場所の移動をともなうものだ。すなわち、労働によってものがつくられ、ものが運ばれ、そのものが誰かの所有するものとなる。
 互酬においては親族システムのもとで、集団間で財・貨幣・サービスが動く。これはいまも残っている贈答のやりとりを考えれば、多少なりともイメージがわくだろう。
 再分配においては、財・貨幣・サービスは、中心ないし中枢へと向かい、そこからふたたび周辺に分配されていく。
 これにたいし、交換においては、市場においてランダムな経済行為がくり広げられる。
 ポランニーは経済社会の形態を、この3つのパターンに分類した。
 そして、初期社会においては互酬が、古代社会においては再分配が、近代社会においては交換が主流になっていると論じた。
 その背景には、市場だけが人間の経済ではないという考え方がある。
 ポランニーは、人間の経済が、互酬から再分配、交換へと移行すると主張したわけではない。それはあくまでも3つの形態であって、逆転することもありうる。
 ポランニーがとりわけ着目したのが、アリストテレスの経済論である。ギリシアのアテネにおいては「初期の市場交易」が出現した。
 アリストテレスが問題としたのは、ポリスの規律と、市場的な慣習・思考様式とをいかに調和させるかということだった。
 ギリシアといえば、もっぱら奴隷制に焦点があてられがちだが、ポランニーは、民主政のポリスと市場の関係を深く探ろうとしている。
 そこで、遺著『人間の経済』第Ⅲ部で展開された、古代ギリシア経済論をざっと紹介することにしよう。
 最初にポランニーは、紀元前700年ごろに活躍したヘシオドスの著作を取りあげ、かれが歴史を黄金の時代、白金の時代、青銅の時代、英雄の時代、鉄の時代に分類していることを紹介する。そして、いまは鉄の時代だとされる。
 鉄の時代においては、農業技術が進歩し、人間の労働が強化される。鉄製の農具ができると、豊穣な地以外でも、穀物が栽培されるようになり、耕作地の拡大とともに、人はいままで以上に働かなくてはならなくなった。
 孤独な飢えを避け、より多くの豊かさを求めて、人は競争に生き、勤勉を求められるようになる。かつての共同体の相互扶助には、すでに期待できなくなっていた。民衆は、飢餓の脅威を避けるために日々、はたらきつづけねばならず、政治に参加する余裕もなくなっていた。いっぽう、ポリスにおいては富者による富者のための政治がおこなわれていた。
 これにたいし、アリストテレスの時代においては、古代アテネが全盛期を迎えていた。著者によれば、ポランニーは「アテネ人にとって、良き生活とは公共生活に参加することを意味しており、経済は、この目的の手段となるように社会に埋め込まれていた」という。
 ポランニー自身はこう述べている。

〈アテネ人の精神にとっては、矛盾しているようにもみえるが、次の二つのことが必要だった。──一方では、食糧の分配がポリス自身によって行われなければならない、しかも他方では、官僚制が入ってくることは許されない。なぜなら民主主義とは、民衆による民衆の支配を意味したのであって、その代表や官僚による支配を意味するのではなかったからである。代議制も官僚制も、そのアンチテーゼとみなされていた。人民主権の考えに依拠するすべての近代思想の源であるかのルソーは、この原理に頑として執着した。だが、いったいどうしてこの国家による分配は、官僚制を抜きにして行われるのだろうか。アテネでは、食糧市場がその答えを与えるものとなったのである。〉

 ペリクレスの時代、アテネは直接民主政を選択した。つまり、すべての民衆が政治に参加したのである。もちろん、それに反対する貴族や金持ちもいた。だが、それを押し切って、短い期間ではあるが、直接民主政の時代が出現した。
 そこでは、食糧市場、貨幣、穀物交易が、民衆政府のもとに置かれていた。アテネ市民は公共生活への貢献にたいして、ポリスから支払われた貨幣によって、市場で食糧を買った。
 食糧の価格はポリスによって定められた公定価格である。穀物交易もまたポリスの管理下にある。海外交易に従事するのは居留区に住む外国人であり、アテネ市民ではなかった。市民が貨殖に走るのは禁じられていた。
 著者によれば、古代アテネの経済は「民主政を維持するために『交易・貨幣・市場』を巧みに組み合わせ、再分配の統合形態として経済過程を制度化した」ところに、その特徴があるという。
 ポランニーが、こうした古代経済の仕組みを紹介したのは、民主政のもと、社会に埋め込まれた経済がありうることを示したかったからにちがいない。それは現代の経済優先国家=社会にたいするひとつの反証でもあった。

アベノミクスはムダな抵抗──水野和夫『国貧論』をめぐって(3) [時事]

 戦後経済で、大きな節目となったのは、何といっても1971年のニクソン・ショックだろう。このとき以来、世界は変動為替制に移行することになった。
 その後、日本経済は1980年代にバブル時代を迎える。
 そして、1995年からはゼロ金利となり、デフレ時代に突入する。
 著者は成長の時代、すなわち近代は1971年に終わったという立場を取っている。それ以降は、ポスト近代の時代である。
 1995年からの日本経済はゼロ金利、ゼロ成長がつづく。
 にもかかわらず2015年度の企業収益は過去最高を記録した。円安株高や人件費削減の影響が大きい。国内の売上高は伸びていない。
 これにたいし、実質賃金は97年をピークに下降している。
 大企業の利益が大きければ、底辺の人びとにもおこぼれがあるという、いわゆる「トリクル・ダウン」効果なるものはまったく実証されていない。
 ゼロ成長のなかでの分配のゆがみが、資本主義の成長神話を奇妙なかたちで存続させているのである。
 日銀はいまだに2%インフレに向けて、気合いを入れつづけている。
 著者によると、これはほとんど「おまじない」に近いという。
 こうしたおまじないや根拠のない確信が横行するのは、かつての大本営発表と同じで、資本主義が終焉を迎えつつあるのを認めない強がりである。
 しかし、何とかして資本主義を延命させようとすることが、けっきょくは事態をさらに悪化させていくことになる、と著者は考えている。
「時代の流れは政治家には変えられない」。時代のトレンドは、むしろいままでとはまったく逆なのに、時の政権は昔の傾向を復活させようとして、いわば時代に逆行する路線を取っているのだ。
 資本主義の延命策は、世界的に所得格差の拡大をもたらし、日本もその例外ではない。
 日本の家計貯蓄率はマイナスに転じ、そのいっぽうで、相続を通じての個人金融資産が増加している。それは民主主義時代以前のアンシャン・レジームへの逆戻りだ、と著者はいう。
 資本主義の終焉は、ほかにもさまざまな面で見ることができる。
 日本で人口が減少に転じたことも、そうしたあらわれのひとつだろう。
 いまでは原油価格が下落しても、景気の刺激に結びつかず、企業はその恩恵を内部留保と配当に回し、人件費をさらに削減する対策までとっている。
 原油価格の下落はBRICsなど新興国経済の停滞を意味している。そのことは世界全体の成長が終わったということを象徴している、と著者はいう。
 日本でも世界でも過剰資本があふれている。
 たとえば、日本ではチェーンストア(スーパーや量販店)の売り上げが1997年をピークとして、17年連続で下落しているという。
 そのいっぽうで、店舗面積は1997年以来、増え続け、いまでは1.5倍近くになっている。それなのに総販売額は25%近く減少しているのだ。これは店舗面積が過剰であることを示している。
 たしかにコンビニの販売額はやや持ちなおしている。それも2012年以来、1店舗当たりの売り上げは減少に転じている。それでも総売上高を伸ばすために、労働面では無理がつづく。一部既存店の不良債権化もはじまっている。
 スーパーやコンビニに、商品が所せましと並んでいるのをみても、製造業の供給力が過剰になっていることがわかる。
 現在の状況は、資本の生産性を悪化させても、設備投資をしつづけないと、企業が存続できない構造になっている。資本過剰だけが進行し、労働者はがまんを強いられる。
 そして、資本は労働者にがまんをさせながら、濡れ手に粟をつかむ時期を夢見るのである。
 過剰は膨大な「食品ロス」や「空き家」の多さをみてもわかる。
 世界の粗鋼生産量を見ても、過剰生産ぶりは想像以上である。
 資本の過剰を解消するのは容易ではない。かつては恐慌が、資本の過剰を暴力的に清算したものだ。だが、いまは国家の発動する金融・財政政策が、オブラートのように、それが爆発するのを防いでいる。それがゼロ金利、ゼロ成長をもたらしているともいえる。
 だが、そろそろ資本主義の終焉を認め、ポスト資本主義の時代を構想したほうが、ずっと前向きなのだ、と著者は提案する。アベノミクスは長い目でみれば「国貧論」なのだ。

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