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環境問題に取り組む──『宇沢弘文傑作論文全ファイル』を読む(5) [本]

 経済活動が活発化すればするほど、環境は破壊されやすい。宇沢は大気や水、大地などを含む環境を、社会的共通資本のひとつととらえていた。それらが社会的共通資本であるのは、自然環境がなければ経済活動自体が成り立たないからだ。だが、環境を破壊した企業や個人は、その対価を支払わないことが多い。市場メカニズムのもとでは、社会的共通資本の破壊を防ぐ仕組みができていない、と宇沢は指摘する。
「社会的共通資本は、時の経過とともに物理的に摩耗してゆくだけでなく、経済活動の水準が高くなるとともに、社会的共通資本の破壊が起き、その機能が低下してゆく」と宇沢はいう。経済学者のピグーは、社会的共通資本の使用ないし破壊をもたらした企業や個人は、その費用を支払わなければならないと主張した。
 その見解を踏まえながら、宇沢は次のように主張する。

〈環境破壊を防止し、しかも市場機構を通じてもっとも望ましい資源配分を実現するためには、各人が使用し、破壊した社会的共通資本に対して、その帰属価格による評価額を社会に支払うという制度を確立する必要がある。公害防止は、結局、このような社会的共通資本の帰属価格をどのように計測するかという問題と、各企業、個人に対して、どのようにして、その支払いを強制させるかという問題に帰着させることができる。〉

 ここで、宇沢は「社会的実質国民所得」という新たな概念をもちだしている。これは実質国民総所得ないし実質国民総生産(GNP)から、社会的共通資本の損耗や破壊に対する社会的費用を減じたものである。ここには経済にたいする国民の満足感はGNPによってではなく、社会的実質国民所得によって測られるべきだという考え方がみられる。
 それはさておき、宇沢はさらに自然環境にたいする考察を深めていく。
 自然環境が資本とみなされるのは、それが人間にとって、広い意味での資源(原資)にほかならないからである。森林や海洋、土地、大気、水、鉱物などは無限にあるようにみえて、限られた資源である。そして、自然環境は物質的に存在しているだけではなく、エコロジカルな共存関係のもとに成り立っている。
 伝統的社会では、人びとは自然環境とどのように向きあってきたのだろうか。
「伝統的社会の文化は、地域の自然環境のエコロジカルな諸条件にかんして、くわしい深い知識をもち、エコ・システムが持続的に維持できるように、その自然資源の利用にかんする社会的規範をつくり出してきた」と宇沢はいう。
 ところが、近代にいたると、自然にたいする人間の優位という思想が強まり、自然環境の破壊、収奪が、加速度的に進む。宇沢にいわせれば、それはまさに人類の社会的共通資本の破壊につながったのである。
 現代の工業化と都市化は、1960年代から70年代にかけて、多くの公害問題を生み落とした。その後、有害な化学物質(硫黄酸化物、二酸化窒素、水銀など)の排出規制がなされることによって、公害の深刻化にはある程度の歯止めがかかった。とはいえ、地球温暖化、生物種の多様性の喪失、海洋の汚染、砂漠化などにどう対応するかは、まさにこれからの課題だ、と宇沢はいう。
 とりわけ宇沢が熱心に取り組んだのが、地球温暖化問題だった。

〈地球温暖化は、主として、化学燃料の燃焼によって排出される二酸化炭素が大気中に蓄積され、地表大気平均気温の上昇を惹き起こすことによって、地球規模における気象条件の急激な変化をもたらすことに関わる諸問題を指す。温室効果は、二酸化炭素の他に、メタン、亜酸化窒素、フロンガスなどのいわゆる温室効果ガスによっても惹き起こされる。これらはいずれも大気中にごく微量しか含まれていないが、地表大気平均気温の上昇に対して強い効果をもつ。〉

 地球環境問題への対応がむずかしいのは、ひとつに温暖化の原因となる化学物質が、それ自体、人体に無害であるためである。加えて、その規制に関する国際的合意を形成するのがきわめて困難だからだ、と宇沢はいう。
 たとえばCO²の排出は、一国だけにとどまらず、全世界に影響をもたらす。大気は人類にとって、最大のコモンズといえる。それを管理・維持するためには、どのような制度やルールをつくっていけばよいのか。そのことを、宇沢は考えつづけた。
「地球温暖化の現象は、究極的には、化石燃料の大量消費と熱帯雨林の大量伐採という人工的営為によって惹き起こされる」と、宇沢がいうように、地球温暖化の原因はわかっている。
 ところが、大気のような社会的共通資本を、人類の共通財産として、どう管理・維持していけばよいかという分析の枠組みを、これまで経済学は示したことがなかった。地球温暖化が影響をもたらすのは、現世代にたいしてだけではなく、将来の世代にたいしてでもある。だが、これまでの経済学の枠組みでは、こうした問題に対応できない。
 地球温暖化の影響は、大洪水、大干魃などの異常気象、氷河の後退、オゾン層の破壊などとなって、あらわれている。いま、どこかで歯止めをかけなければ、地球環境は取り返しのつかない事態を招く恐れがある。
 こうした危惧にたいし、宇沢が持ちだす対策の一つが、炭素税の導入である。「炭素税は、二酸化炭素の排出に対して炭素含有量1トン当たり何円という形で課税しようというものである」。こうした規制を導入することで、企業も個人も、二酸化炭素の排出量を抑制する方向で行動することが期待される。
 とはいえ、炭素税は世界一律にかけられるわけではない。一人当たり国民所得を考慮してかけられる。それを宇沢は「比例的炭素税」と名づけた。
 宇沢の計算によると、比例的炭素税率は、二酸化炭素の排出量1トン当たり、たとえば日本とアメリカは530ドル、インドネシアは10ドル、フィリピンは17ドルなどと計算されるという。いっぽう、もし森林が育成されたとすれば、吸収される二酸化炭素の量に応じて補助金を交付するという仕組みを宇沢は構想した。
 だが、1997年の京都会議では炭素税導入は議論の対象にもならなかった。目立ったのは、もっぱらアメリカの身勝手な姿勢だったという。とはいえ、フィンランド、ノルウェー、スウェーデンイギリス、ドイツ、オランダなどでは、すでに炭素税が導入されている。これにたいし、日本やアメリカの取り組みは遅れている。
 宇沢はさらに「大気安定化国際基金」の創設を提唱する。それは徴集された比較的炭素税を基金として、熱帯雨林の保全や農村の維持、代替的なエネルギー資源開発など、地球環境を守るための活動に使おうというものだ。だが、この基金の構想は、いまだに実現されていない。
 2016年のCOP21パリ協定でも、国際基金創設にはいたらなかった。


市場原理主義に対抗する──『宇沢弘文傑作論文全ファイル』を読む(4) [本]

 1960年代以降、アメリカではケインズ経済学への批判が高まり、マネタリズムを唱えるミルトン・フリードマンらの市場原理主義が勢いを増していた。その考え方に宇沢は反対する。
 そのころ、ケインズ経済学は限界を露呈しはじめていた。スタグフレーション(インフレと失業の同時発生)や、都市問題、貧困、国際収支の赤字などといった問題に対応できなくなっていたのだ。
 その隙をついて、一見もっともらしくみえるマネタリズムが攻勢を強めた。マネタリズムは基本的にはケインズ以前に戻る経済学であり、「合理的期待形成の仮説」にもとづいて、経済モデルをより精緻化したものだった。
 その理論をこと細かに説明する必要はないだろう。というより、数理経済学にうといぼくにはほとんど理解できないのだ。宇沢自身も「合理的期待形成の仮説」は「荒唐無稽な前提条件」にもとづく非経済的な考え方だと切り捨てている。
 それでもなぜ自由放任主義に立ち戻る市場原理主義が、これほどまでに勢力を強めたのだろうか。
 市場機構は不安定な要因を含んでいるため、経済目標を達成するには政府が積極的な介入をおこなわなければならない、というのがケインズ経済学の立場である。これにたいし、マネタリズムは政府の機能について強い疑問をもち、私有財産制を前提とする市場機構のなかで、経済主体が合理的に行動することによってこそ、望ましい経済が実現するとする。政府の干渉を排して、自由な経済活動をより活発にさせるほうがいいというのは、いかにももっともらしい考え方だった。
 そこからは、平均所得税率を引き下げると、政府の税収は逆に増加するというラッファーの命題(サプライサイド経済学)が生まれてきた。レーガン政権の大減税法案は、この命題にもとづいて実施され、最高所得階層の所得税率が大幅に下げられた。減税によっていわゆる「トリクルダウン効果」が生じて、低所得層が潤うという都合のいい解釈も加わっていた。
 さらに、サプライサイド経済学からは、社会保障制度が民間貯蓄を抑制するという考え方も打ちだされた。つまり、社会保障が厚いと、下層階級が将来に備えて貯蓄をしなくなるというわけだ。そこでレーガン政権も社会保障制度を縮小する政策をとった。
 だが、実際、こうした政策によって、アメリカ経済は財政赤字を拡大させ、さらに泥沼におちいっていった、と宇沢はいう。
 けっきょく、市場がすべて、経済がすべてというのが市場原理主義の考え方なのだ。ケインズ経済学では市場の欠陥(恐慌や失業)に対処するのが政府の役割とされていた。ところが、市場原理主義では、市場の拡大に奉仕するのが、政府の役割になってしまったのだ。こうした傾向は現在もつづいている。
 宇沢もまたケインズ経済学に限界を感じていたにちがいない。しかし、かれの思考は、市場原理主義とまったく反対の方向をたどった。
 宇沢が市場経済のまきちらす毒に気づいたのは、なんといっても1960年代の公害問題だった。日本の高度成長は、社会全体を大きく変えてしまった。とりわけ深刻だったのが、大気汚染、水質汚濁、土壌汚染である。公害は経済行動によって引き起こされる。にもかかわらず、近代経済学は経済取引を扱うだけで、公害問題を分析の対象外としてきた。
 さらに、宇沢は自動車の「公害」にも気づくようになる。自動車は速さ、便利さをもたらした反面、その急速な普及が交通事故の増大をもたらし、人びとの健康をむしばみ、生活環境を悪化させていた。にもかかわらず、自動車の社会的費用は無視されていた。
 考えてみれば、自動車にはものすごく費用がかかっている。自動車を走らせるには、ガソリンだって、道路だって必要になってくる。そうした費用は個人によって負担されるだけではなく、国や自治体によっても負担されている。さらに、それが人びとの生活や精神に与える目に見えない負担を考慮すれば、自動車にかかる費用は膨大なものとなる。1968年時点で、宇沢は、自動車の社会的費用は1台あたり年に200万円を要すると計算していた。この金額は現在ではさらにふくらんでいるだろう。
 公害や自動車の問題を考えるうちに、宇沢は「社会的共通資本」の概念に行き着く。社会的共通資本とは、まず「地域社会の安定的、持続的な存続にとって必要な役割を果たす」自然環境である。さらに「市民の基本的権利に重要な関わりをもつものやサービスを生み出す希少資源」も社会的共通資本とみなすことができる。
 そして、こうした社会的共通資本を「社会的な基準にもとづいて管理・維持し」、それによって「公正で社会正義に適った安定的な社会を実現」することこそが、ポスト・ケインズ経済学の課題なのではないか、と宇沢は考えるようになる。
 社会的共通資本は自然環境にかぎられるわけではない。宇沢によれば、道路、鉄道、電力などのインフラストラクチャー、さらには医療、教育、金融、行政などの「制度資本」も含んでいる。
 社会的共通資本の観点からすれば、自動車は社会的共通資本を破壊する側面をもっていると宇沢はいう。自動車は多くの社会的費用を必要とするばかりでなく、自然を破壊し、農村を過疎化し、都市を「一様に非人間的で、非文化的なもの」としてしまうのだ。
 これからの課題は、市民の基本的権利として、社会的共通資本を維持し、むしろそれを拡充することだ、と宇沢は考えるようになる。
 マルクス主義は資本を私有財産ととらえたが、宇沢は市民の共有財産としての資本という視角を加えた。私有財産でもなく、国家財産でもなく、市民の共有財産としての「資本」がありうるのだ。その「資本」すなわち「社会的共通資本」は、つねに補充され、できれば拡充されていくことが望ましい。それが豊かさの基準となっていく。
 こうした社会的共通資本の管理・維持は、国家や企業によってなされるのではなく、関係する集団やコミュニティによってなされるべきだ、と宇沢は主張した。
 かつて、森林や漁場は入会制やコモンズによって維持・管理されてきた、と宇沢はいう。町や村にも自治があった。このような伝統を社会的共通資本の維持・管理にもいかせないものだろうか、と宇沢は問う。
 こうした考え方にたいして批判があることを宇沢は認めている。
 1968年に生物学者のガーレット・ハーディンは、共有地は過剰利用されると、再生能力を失って、崩壊すると論じた。逆に共有地を分割して、私有化すれば、人びとはみずからの土地に責任をもち、市場メカニズムに沿って最適の行動をとると主張した。
 しかし、伝統的なコモンズは、こうした「共有地の悲劇」を避けてきた、と宇沢は反論する。というのは、コモンズ(入会地)はだれでもが勝手に利用できるわけではなく、そこにかかわる集団の共有地であって、その利用については、集団内でしっかりとルールが定められていた、と宇沢は論じる。共有財産の私有化や国有化の弊害こそが、むしろ問題なのだ。

 ここで、宇沢はコモンズの思想、あるいは社会的共通資本の考え方を都市づくり生かした例として、フランスのストラスブールの場合を紹介している。
「20世紀の初頭には、世界の人口の80%以上の人口が農村に住んでいたが、いま[20世紀末]では人口の約80%が都市に住んでいる」と宇沢は書いている。20世紀がいかに工業化と都市化の時代であったかがわかる。
 近代都市といわれて思い浮かべるのは、ガラスと鉄筋コンクリートからなる高層ビル群、広い自動車道路、行政地区、商業地区、文教地区、住宅地区などのはっきりした区分けといったところだろうか。しかし、こうした都市のあり方に疑問を投げかけた人物がいる。
 宇沢が紹介するのは、ジェーン・ジェイコブズの考え方だ。彼女は、曲がりくねった道路、古い建物、機能別ではない暖かみのある街、一定の人口密集こそが、人間的な魅力をたたえた都市だと論じた。
 宇沢によれば、こうした都市では「自動車の利用をできるだけ少なくして、エネルギー多消費型の高層建築ではなく、自然と風土に合ったような建物、施設が中心となっている」。
 フランスのストラスブールは、こうした都市をできるだけ再現しようとしたという。ストラスブールの人口は人口25万人。その周辺にはストラスブール市と連携する27の広域自治体が広がり、ストラスブールに野菜や畜産物を供給するだけではなく、ストラスブールの通勤圏、買い物圏ともなっている。
 しかし、1960年代以降、自動車が発達し、道路がつくられるとともに、ストラスブールの街並みはすっかり破壊されてしまった。
 そこで、市は1990年ごろから街の改造に乗りだす。路面電車を復活し、市内への自動車進入と路上駐車を原則として禁止したのだ。商業用の配送車が市内にはいれるのは朝6時半から8時半まで。もちろん、救急車や特別の車は別である。
 商店や商工会議所などは、当初、この構想に反対した。ところが「商工業者たちの懸念とはまったく逆に、ストラスブールは旧市内を中心に著しく活性化が進み、雇用も大幅に増えた」と、宇沢はいう。
 この点、日本もストラスブールを見習って、中央官庁の介入を許すことなく、「それぞれの地域のもつすぐれた文化的、自然的、人間的環境を再生することがなによりも緊急な課題である」と宇沢は述べている。こうした都市の改造は「日本経済の苦境を救い、経済の活性化につながる」はずだ、とも。
 ぼくもふるさとに帰るたび思うのは、町の荒廃である。日本の荒廃は、むしろ地方に行くほど強く感じられる。マネーゲームのギャンブル社会がますます進展するいっぽうで、社会的共通資本の縮小や劣化はますます深刻化しているのではないだろうか。

アンベール城──お気楽インド・ツアー写真日記(16) [旅]

 2月7日(日)
 ジャイプールの市内見学を終えたわれわれは、午後4時すぎ、もうひとつの世界遺産アンベール城に向かいました。城は小高い丘の上にあり、道が狭いので、バスは近くまで行けません。そこで、バスを降りて、ジープに分乗してのぼるほかありませんでした。
 その門にやってきました。背後には万里の長城のような砦がみえます。
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 この宮殿は16世紀に建てられたもので、カチワーハ家がジャイプールに城を移すまでは、ここがアンベール王国の首都でした。
 獅子門の上から前庭を見渡すだけでも、ここが壮大で華麗な城だったことがうかがえます。
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 イスラムとヒンズーの折衷様式で建てられた大きな建物がいくつかあります。謁見の間では裁判がおこなわれました。
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 その内部にはいってみます。
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 麓には池があり、ここで舟を浮かべて水遊びもできたのでしょう。
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 修理中のガネーシャ門をくぐります。上にはガネーシャがえがかれています。
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 左に行くと、鏡の間です。
 天井にはこんな装飾もあります。
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 ジャイプールの宮殿は4月、5月になると猛烈な暑さに見舞われるため、ここは夏の宮殿としても用いられたようです。
 そういえば、内部の装飾も涼しげですね。
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 ガイドさんによると、水と風を利用した天然のクーラーがしつらえられているとか。
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 しかし、その装飾はどこまでも華麗です。
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 建物のあいだには庭園があります。
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 そして、いちばん奥にあるのがハーレム。ここには12人の女性が入れるようになっていたとか。ハーレムがあるのは、日本の大奥と同じで、後継ぎをつくるためですが、マハラジャの楽しみでもあったこともまちがいありません。
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 しかし、そのなかで女たちはどういう思いでくらしていたのでしょう。
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 帰りすがり猿をみかけたので写してみました。
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 きょうはジャイプールのホテルに泊まります。

近代経済の光と影──『宇沢弘文傑作論文全ファイル』を読む(3) [本]

 新古典派理論とケインズ経済学を知り尽くした宇沢弘文は、さまざまな社会問題に目を向けるうちに、経済学の限界を強く意識するようになった。経済学は環境破壊や人間疎外、豊かさのなかの貧困、インフレや失業、寡占、所得分配の不平等化といった現実の問題にきちんと向きあっていない。宇沢は日に日にそう感じるようになる。
 日本の高度経済成長は、資本主義的な市場経済制度のもと、重化学工業化を基本として、急速なテンポで進められた。その結果、日本は製鉄、造船、自動車などの分野で世界をリードし、「経済大国」と呼ばれるようになった。
 国民総生産(GNP)も拡大した。だが、それと並行して、日本の国土は変化し、社会構造や人びとの生活様式も一変した。高速道路が建設され、新幹線が走り、飛行場がつくられた。住宅、自動車、電話、テレビ、服装、食事などでも、日本人のくらしぶりはずいぶん豊かになったようにみえる。
 だが、はたしてそうだろうか、と宇沢は問う。
 自然破壊と、社会的・文化的環境の荒廃はむしろ目を覆うばかりだ。豊かにみえる消費生活も、その内容はきわめて貧困で殺伐としている。
「この空虚な消費生活を支えるために膨大なエネルギー、自然資源と人的資源が浪費され、またこのような浪費がされなければ、経済循環のメカニズムが円滑に機能できなくなり、多くの失業者を生み出さざるをえなくなってしまった、というのが現在の日本経済の実情である」と、宇沢はいう。
 市場機構が重視するのは、私的な便益と価格、そして企業の利潤だけだ。
 社会は市場機構とその規制のバランスによって成り立っている。ところが、近年はますます倫理的規制が取り外され、経済成長のためには何でもするという傾向が強まってきた。
 市場経済が発達するにつれ、「ありとあらゆるものが市場機構を通じて取り引きされ、利潤追求の対象となり、人々はできるだけ利己的な立場に立って競争的に行動するという傾向がますます強くなってきた」と、宇沢は指摘する。
「所得が高くなって、自動車を購入し、よりよい家に住むということが、はたして本当に人間にとって満足感の充足を意味するのであろうか」とも問いかけている。
 市場経済の推進にさらに拍車をかけたのが、政府の公共政策や開発政策だった。それによって、1960年代に日本列島の風景は大きく変貌した。自然環境や社会環境の変貌が、人びとの生き方をどれほど変えてしまったのか、はかりしれない。
 宇沢は観光自動車道路の建設が、自然を破壊するだけではなく、人びとの心も荒廃させていると論じている。東京大阪を3時間足らずで結ぶ新幹線にしても、便利さの反面、騒音公害や人心の荒廃をもたらしている。
 高度経済成長は経済活動にのみ焦点をあてることで、「環境の果たす文化的、社会的な機能について十分な留意をしてこなかった」と、宇沢はいう。
 日本経済は、都市環境の悪化、自然環境の破壊、大都市への人口集中と農村の過疎化、所得分配の不公正化などの問題に直面している。国際的にみれば、富める国と貧しい国との格差はますます広がっている。こうした問題にたいし、経済学はきちんとこえたえていないどころか、むしろ反社会的な結論をだしてきた、と宇沢は嘆く。
 その背景には経済学を社会科学としてではなく自然科学的な方法でとらえようとするアメリカ流の考え方があった。アメリカでは、そこに政治イデオロギーが付加されて、体制への批判を許さないような風潮がただよっていたという。
 しかし、やがてヴェトナム戦争に反対する動きが強まると、正統派の経済学にたいする批判が巻き起こってきた。
 新古典派の経済理論は何が問題なのだろうか。

〈新古典派の経済理論では、すべての財・サービスの生産および消費が私的な利潤追求という動機にもとづいてなされるという前提が設けられていた。わたくしたちが普通連想するような財・サービスについてはその生産、販売が私的利潤追求の対象とされることについて、なんら社会的あるいは倫理的問題が起きないと考えてもよい。しかし、財・サービスの性格によっては、このような私的利潤追求の対象とされることによって、大きな社会的問題を惹き起こすようなものが少なくない。〉

 経済学の反社会性の一例として、宇沢は奴隷売買を挙げている。奴隷制度は人間そのものを商品とする非人間的行為である。
 そこで、(ポランニー流にいえば)「悪魔のひき臼」のような経済の行動論理と対抗するために宇沢がもちだすのが「市民の基本的権利」である。
 市民の基本的権利を踏みにじるような経済活動はけっして認められないし、逆に「国は、市民がすべてこうした基本的権利を享受できるような制度、施設を用意しなければならない」。
 市民にたいし、国家が果たすべき義務として、宇沢は第一に国防・外交、第二に治安維持と司法を挙げている。加えて、重要になるのが行政の役割である。
 宇沢はいう。

〈まず、すべての市民が生存するために必要な生活環境を整備し、維持することである。このためには、大気、河川、森林などの自然環境と、さまざまな生活関連資本の集積である都市環境の管理、維持がはかられなければならない。また、市民の基本的権利としての教育、医療サービスをはじめとして、交通、文化的なサービスを公共的に供給し、各人が自由に享受できるようにする必要がある。〉

 宇沢の社会的共通資本という発想が、市民の基本的権利を守るという立場から生まれていることがわかる。
 とはいえ、われわれがここで強調しておきたいのは、商品世界そのものが光と影をともなうものだということである。商品の生産過程や流通・販売過程の裏側は、表からはほとんどみえない。また、商品の消費・使用過程でも、便利さの反面、さまざまな環境的・社会的・精神的な弊害が生みだされている。そして、最終的に商品は廃棄問題をもたらすことになる。
 商品世界の全体は表の論理だけでは理解できない。裏の現実をみて、それははじめて、ひとつの構造として浮かびあがるのである。
 社会的共通資本の発想は、いわば商品世界の裏の現実にどう対応するかという課題から生まれたとみることもできる。
 なんだか中途半端だが、きょうはこのくらいで。

(いなかの高砂に帰って、自宅に戻ってみたら、椿事が発生しており、その処理に追われ、すっかりくたびれてしまいました。態勢を立て直すのに、少し時間がかかりそうです。)

ジャイプールの天文台と王宮──お気楽インド・ツアー写真日記(15) [旅]

 2月7日(日)
 ジャイプールのジャンタル・マンタルにやってきました。ここはイスラム技術の粋を集めた天文台で、1728年にマハラジャのサワーイ・ジャイ・シン2世によってつくられたといいます。
 ガイドさんによると、インドではイスラム式の天文台が5つつくられたが、ここのジャンタル・マンタルが、もっともよく保存されているとか。
 現在、ユネスコの世界遺産に登録されています。
 まるで遊園地のようですが、れっきとした天文台です。
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 ガイドさんが、こまかく説明してくれます。しかし、天文観測の知識にうといぼくに、正直いってよくわかりません。
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 近くに寄ると、計器にはずいぶん細かい目盛りが刻まれています。こうした工夫によって、正確な時間がはかられたのでしょう。
 まだ陰陽道の土御門家が幅をきかせていた江戸時代中期にくらべれば、イスラムの天体観測技術ははるかにすぐれたものだったといえます。
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 大小の日時計があります。それぞれ用途はことなるのでしょうが、これは何を測るものなのでしょう。ガイドさんによると、北極星や星座をみる装置もあるといいます。
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 遠くには城塞のようなものがみえます。そして、旗がひるがえっている近くの建物が、これから行くシティ・パレス(宮殿)です。
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 これは世界最大級の日時計。先端は北極星に向いているとか。この日時計では、2秒ごとに時間が測れるそうです。
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 次に向かったのが1726年に建てられたというシティ・パレス。ここにはいまも王様が住んでいますが、その一部が博物館として開放されています。
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 大きな銀製の壺がおかれていました。王様がロンドンを訪れたときに、ガンジス川の水を入れて運んだというものです。
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 旗がひとつしか翻っていないときは王様が不在を示しているそうです。いま旗はひとつしか揚がっていませんから、王様は不在なのでしょう。
 9代目のマハラジャは2011年に亡くなり、子供は娘しかいなかったので、11歳の孫が王位を継承したといいます。
 パレスの入場料を含め、多くの不動産収入はすべて王室の収入になっています。
 ガイドさんによると、現在の王様はドラエモンが好きだとか。イギリス留学中のようです。
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 博物館のなかにはいります。内部は撮影禁止です。さまざまな服や絨毯、サリー、肖像画が飾られています。宝石は飾られていなかったような気がします。王室の歴史を紹介する博物館といってよいでしょう。なかには体重が250キロもあって、糖尿病のため55歳で亡くなった王様もいるようです。王室はポロが好きなことでも知られている、とガイドさんが教えてくれます。
 博物館を出たところで、写真を1枚撮ってみました。
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自動車の社会的費用──『宇沢弘文傑作論文全ファイル』を読む(2) [本]

 1974年に出版された『自動車の社会的費用』は、宇沢の代表作のひとつである。
 十数年アメリカにいて日本に帰国した宇沢は、乗用車やトラック東京の街なかをものすごいスピードで走りぬける様子にショックを受けた。しばらくは、毎日、交通事故に遭わないかと、ひやひやしていたという。
 日本でモータリゼーションがはじまるのは1950年代後半、マイカーブームがおきるのは60年代後半からだ。1967年に日本の人口は1億人を突破し、自動車の台数も1000万台を超えた。
 だが、それにともない、人びとは大気汚染と騒音、危険に悩まされるようになる。交通事故死も1970年には年に1万6500人を超えた。
 そんなときに出版された宇沢の本は、おおきな反響を呼んだ。
「日本における自動車通行の特徴を一言でいえば、人々の市民的権利を侵害するようなかたちで自動車通行が社会的に認められ、許されているということである」と宇沢は書いている。
 自動車はひとつの商品である。その価格は需要と供給によって決まり、いったん売買が成立すれば、それでひとつの経済サイクルは完結する。ところが、実際にはそれだけではすまないのだ。
 自動車には、さまざまな社会的費用が発生する。道路の舗装も必要だし、高速道路も建設しなければならない。排ガスや騒音、さまざまな危険、歩行者の心理的負担など、社会や環境にたいするマイナス要因を考えれば、自動車のもたらしている「外部不経済」は、相当な費用になる。加えて、道路建設が都市景観や自然に与えた影響を考えれば、自動車が生みだした損害額は膨大なものとなるだろう。
 とりわけ日本では、市民の基本的権利がじゅうぶんに確保されないまま、自動車の普及が進んだために、問題がより深刻化した、と宇沢はいう。

〈日本の社会においては、自動車は欧米諸国とは比較にならないほど深刻な問題を提起している。もともと市民的自由にかんして明確な意識が形成されるまえに、きわめてはやいテンポで重化学工業化が進められ、高度経済成長がつづけられてきた。とくに自動車のもつこのような非社会的な側面に対しても、十分な社会的対応策がとられないまま、自動車の普及は諸外国にその比をみないようなはやさで実現してきたからである。〉

 宇沢は、市場経済を前提とする近代経済学の理論体系では、社会的資源や市民的自由の侵害、交通事故、都市問題、公害、環境問題といった現象を解明できないと指摘する。
 だからといって、自動車を一掃して、昔に戻るわけにはいかない。それでも、せめて自動車の社会的費用を内部化すべきだというのである。道路の建設は、市民の基本的権利を侵害するものであってはならず、必要な道路建設費と維持費は、利用する自動車が負担すべきだ、と宇沢は論じる。
 宇沢によれば、つくられる道路は、最低限、次のような条件を満たさなければならない。

〈まず、歩道と車道とが完全に分離され、並木その他の手段によって、排ガス、騒音などが歩行者に直接被害を与えないような配慮がなされている。と同時に、住宅など街路側の建物との間もまた十分な間隔がおかれ、住宅環境を破壊しないような措置が講ぜられる必要がある。〉

 しかし、安全な道路がつくられれば、それでOKというわけではない。自動車の社会的費用はそれだけにとどまらない。宇沢は「自動車は火薬とならんで、人類の発明のなかで、もっとも大きな害毒をもたらした」と断言する。
 1970年に運輸省は自動車の社会的費用を発表した。交通安全施設の整備費や、自動車事故死亡者の死亡損失額を計算したものだ。それによると、1968年の自動車関連社会費用の総額は1649億円で、1台あたり約7万円にあたるという。自動車工業会の数字は6622円ともっと低い。
 これらは道路建設費を含め、自動車にかかる社会的費用をできるだけ低く見積もろうとするものだ。自動車の保有者は、自動車税やガソリン税も払っているのだから、そのほかの費用を国や自治体が負担するのはとうぜんであり、これからもさらに自動車台数を増やし、道路とつくっていくという、国やメーカーの思わくが透けてみえる数字だった。
 これにたいし、宇沢は社会的共通資本に与えた損害自体も含めると、車には少なくとも1台あたり1年間で200万円の社会的費用がかかっているという試算を示した。車には膨大な費用がかかっている。その費用は車の所有者だけではなく、国の税金によってもまかなわれており、さらに目に見えない費用を国民一人ひとりが負担しているのだった。
 自動車ははたして人びとのくらしを豊かにしたのだろうか。自動車が高度経済成長の原動力になったことはまちがいない。だが、宇沢の目には、自動車のもたらす負の側面がはっきりとみえていた。
 自動車には大きな利便性があるが、その害毒も深刻なものがある、と宇沢は指摘する。自動車はすぐそこにある、走る凶器でもあるのだ。
 自宅の駐車場からそのまま使用できるのは、自動車の利便性のひとつである。だが、近隣の歩行者に危害を加えるおそれもある。現に自分の子どもや孫をガレージ近くでひき殺す事故もおきている。
 いつでも必要なときに利用できるのも、自動車の利便性だろう。だが、運転者は常に周囲に目を配りながら運転しなければならない。たとえば酩酊や身心不調によって、こうした緊張感が失われるときには、たちまち事故をおこす可能性が高くなる。
 早いスピードで移動し、重いものを運ぶことができるのも、自動車の利便性だろう。しかし、そうした車の機能が発揮されるためには、膨大なエネルギーと資源と道路を必要とする。
 自動車が危険性と大気汚染をもたらし、人びとの生活環境をこわしていることはじゅうぶんに認識されなければならない。また自動車通行のための道路を確保するために、広い土地と空間が割かれている。道路建設には、さまざまな破壊や摩擦、犠牲をともなう。
 自動車には多くの稀少資源が投入される。しかし、その寿命は案外、短いという致命的欠陥をもっている。廃棄された自動車がうずたかく積み上げられている郊外の光景をみるにつけ、うそ寒いものを感じる、と宇沢はいう。
 人びとの精神や身体におよぼす自動車の弊害についても指摘されている。自動車を使った犯罪も無視できない。日本は地震多発国なのに、人家のごく近くにガソリンスタンドが多くみられるのも、きわめて危険だという。
 自動車のもたらす弊害は、数え上げればきりがない。日本では人よりも車を優先するように都市が設計されてきた。ガードレールや白線、歩道橋なども車を優先してつくられている、と宇沢はいう。
 自動車の普及が、市民から公共的な交通手段(路線バスや電車、街路電車)の利便性を奪う結果をもたらした、とも指摘する。かつてはにぎやかだった各地の商店街がさびれてしまったのも、おそらく自動車の普及と関係している。もう歩いて買い物には行けなくなってしまった。
 宇沢がもっとも衝撃をおぼえたのは、十数年ぶりにアメリカから戻ってきたときにみた赤坂見附付近の光景だったという。
 こう書いている。

〈このあたりは、私が中学生の頃毎日のように通ったところであるが、その頃は、閑院宮家のうっそうとした森を中心として、平河町の方にかけて、街路樹の美しい、東京のなかでももっとも魅力的なところの一つであった。……[ところが]かつての美しい、人間的な街が完全に破壊されて、上には巨大な高速道路の構造物が私たちを威圧し、下には、騒音と排ガス、そして危険を撒き散らしながら、おびただしい数の自動車が走っている。まさに地獄としかいいようのない光景だったのである。〉

 ぼくの勤めていた会社も赤坂見附の近くにあったので、宇沢の詠嘆はわからないでもない。
 たしかに自動車は、企業に多くの利潤をもたらし、建設業者をうるおした。購入者にも利便性を与えたかもしれない。しかし、それがもたらした弊害ははかりしれないものがある。自動車中心社会から抜けだす方策を構想できないものだろうか。
 宇沢は「短期的な利潤追求こそ最高の善であるかのような錯覚にとらわれた自由放任主義の亡霊」は、いまも生きつづけているという。だが、そこからそろそろ抜けださないかぎり、新たな時代の方向性は見いだせないと示唆しているように思える。

『宇沢弘文傑作論文全ファイル』を読む(1) [本]

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 ふつう経済学者といえば、経済活動をより活発にして、経済規模をできるだけ大きくするにはどうすればよいかを考えている人のことを思い浮かべる。しかし、世界的な経済学者として知られる宇沢弘文(1928〜2014)は、そうではなかった。経済第一の考え方が、いかに人や自然、社会をこわしているかに警鐘を鳴らし、政治や経済の横暴から人びとのくらしを守るトリデを築くための方策を示そうとした。かれの唱えた「社会的共通資本」の考え方は、まだじゅうぶんに理解されているわけではないし、実行に移されているわけでもない。しかし、その考え方は徐々に広がっている。
 サラリーマン時代、ぼく自身、宇沢弘文の名前はよく聞いて、何冊か本を買ったものの、その著作をきちんと読んでこなかった。しかし、今回「傑作論文全ファイル」なるものがでたので、がぜん読んでみる気になった。よく理解できるかどうかは、おぼつかない。例によって、何回かにわけて、すこしずつ読み進めてみたい。
 本書はA5版で420ページもある。残されていた5000万字(原稿用紙12万枚以上)におよぶ膨大な原稿から、主要な論文を選んで1冊にまとめたという。
 宇沢にはすでに刊行された大量の著作があり、11巻にわたる『著作集』も出されている。しかし、そのすべてを読むのは骨が折れる。
 その点、今回の「ファイル」は、この大経済学者の全体像をつかむうえで、最良の窓口となるだろう。
冒頭に宇沢の弟子でノーベル賞経済学者のジョセフ・スティグリッツの記念講演がおかれているが、それは別として、全体は8部にわけられている。
 それをまず列記しておこう。

  第Ⅰ部 社会的共通資本への軌跡
  第Ⅱ部 『自動車の社会的費用』を著す
  第Ⅲ部 近代経済学の限界と社会的共通資本
  第Ⅳ部 環境と社会的共通資本
  第Ⅴ部 医療と社会的共通資本
  第Ⅵ部 教育と社会的共通資本
  第Ⅶ部 農村とコモンズ
  第Ⅷ部 未来への提案、これからの経済学

 全8部が、すべて社会的共通資本の構想に流れこんでいることがわかる。また、実際、その線に沿って、編集上の工夫がなされている。
 まず第Ⅰ部を読んでみる。
 宇沢は1928年に鳥取県米子市に生まれ、家族とともに3歳で上京する。府立(のち都立)第一中学をへて、敗戦間近の1945年4月に第一高等学校にはいり、48年4月に東京大学数学科に進んだ。当初は医学部志望だったが、みずから「ヒポクラテスの基準をみたす高潔な人格をもち合わせていない」と判断して、数学科を選んだという。もともと数学が好きだった。1951年に数学科を卒業し、特別研究生として、大学院に進んだというから、数学がさっぱりのぼくなどからみれば、まさに天才である。
 ちなみに、ぼくの高校時代にも、こういう天才がいた。数学ができて、成績はいつも学年トップ。東大理学部にはいって、スタンフォード大学留学し、戻ってきてから東大経済学部の助教授、教授になった。いまも若々しく、現役で活躍している。正直、ぼくとはできがちがう。
 それはともかくとして、宇沢によれば、敗戦後、日本の思想界をリードしていたのは日本共産党だった。宇沢もいくつかの勉強会にはいって、マルクス主義経済学を学ぶが、とても理解できなかったという。しかし、それは謙遜だろう。むしろ、マルクス経済学にどこか違和感をおぼえていたのだろう。
 宇沢はそのうち数学より経済学を勉強するようになって、自分だけでこつこつ経済学の勉強をはじめる。そのころ、ぐうぜん、電車のなかで、一高ラグビー部先輩で経済学者でもある稲田献一と会った。そして、経済学部の古谷弘と館龍一郎を紹介してもらうことになった。
 以来、宇沢はマルクス経済学とはまったく異なる経済学を学ぶようになったという。それは数理経済学で、それまで数学を学んできた宇沢にとっては、まさにうってつけの分野だった。
 宇沢は分権的経済計画に関する論文を発表する。それがアメリカの経済学者、ケネス・アローに認められ、いきなり1956年に研究助手として、スタンフォード大学に招かれることになる。スタンフォードで輝かしい業績を上げた宇沢は、1964年にシカゴ大学に教授として迎えられる。36歳のことだ。
 しかし、そのころシカゴ大学では、ミルトン・フリードマンの市場原理主義が主流となり、マネタリズムと新自由主義が経済学界を席巻していた。宇沢はその考え方に異を唱える。
 市場原理主義について、宇沢はこう書いている。

〈市場原理主義は簡単にいってしまうと、儲けることを人生最大の目的として、倫理的、社会的、人間的な営為を軽んずる生きざまを良しとする考え方である。人間として最低の考え方である。〉

 人間の価うちはどれだけ儲けるかで決まるという新自由主義の考え方に、宇沢は嫌悪をおぼえた。
 そのころ、アメリカは泥沼のヴェトナム戦争をエスカレートさせていた。アメリカ各地では、この理不尽な戦争にたいし反戦運動が巻き起こった。宇沢もまた反戦運動を支持する。だが、当局の弾圧は激しく、反戦運動にかかわった助教授たちは解雇され、多くの学生が逮捕された。正教授の宇沢は身分を保証されているため解雇を免れたが、良心の呵責を感じないわけにはいかなかった。
 そのころ東大の経済学部から帰ってこないかという誘いを受けた。宇沢は、それを受け入れる。東大での身分は当面、助教授だったが、大学紛争の吹き荒れる1968年に帰国した宇沢は、翌年、すぐに教授に昇格した。
 しかし、12年ぶりに帰国した宇沢が見たのは、はなやかな高度成長とは裏腹の現実だった。混乱と破壊が日本社会をおおっていた。
 宇沢は水俣を訪れる。そして、「水俣の地を訪れ、胎児性水俣病の患者に接したときの衝撃は、私の経済学の考え方を根本からくつがえし、人生観まで決定的に変えてしまった」という。
 公害問題に取り組むうちに、宇沢は近代経済学(新古典派理論)そのものに疑問をいだくようになる。
 近代経済学では、私有されていないものは自由財、あるいは公共財として、企業や個人が勝手に使用してよいことになっている。その考え方によれば、チッソが水俣湾を自由に汚染し、その環境を徹底的に破壊し、結果として、多くの人に言語に絶する苦しみを与えても、なんら差し支えないことになる。
 資本家や企業のそんな野放図な行動が許されていいわけがない。社会的共通資本の考え方は、そこから生まれた。
 宇沢はこう述べている。

〈社会的共通資本は、一つの国ないし社会が、自然環境と調和し、すぐれた文化的水準を維持しながら、持続的なかたちで経済的活動を営み、安定的な社会を具現化するための社会的安定装置といってもよいと思います。大気、森林、河川、湖沼、海洋、水、土壌などの自然環境は言うまでもなく、社会的共通資本の重要な構成要因です。公害問題は、産業的あるいは都市的活動によって、自然環境が汚染、破壊され、その機能が阻害され、直接、間接に人間に対して被害を与えるものです。したがって、公害を防ぐためには、産業的あるいは都市的活動に対して、きびしい規制をもうけて、自然環境という社会的共通資本を傷つけることがないようにすることが要請されます。〉

 自然環境という社会的共通資本は、いわば人類(人類だけではないが)の共同財産なのだ。それをほしいままに破壊することは許されない。ここから社会的共通資本の思想確立に向けての、宇沢の長い闘いがはじまる。

通貨、利子率、商業恐慌──ミル『経済学原理』を読む(10) [経済学]

 国際貿易論の補足として、ミルは通貨の変動が為替にもたらす影響について論じている。
 金銀の生産費は変化しうるし、金銀の需要も変化しうる。金属通貨の急激な増加は、物価騰貴をもたらす。それによって、輸入が輸出を超過することになり、為替が不利になって、貿易がふたたび均衡を取り戻すまで、金属貨幣が流出することになる。しかし、それは一時的なことだ。
 金属貨幣の代わりに、銀行券が大量に発行される場合も、急激な物価騰貴が生じ、金銀が大量に流出する。だが、この場合も、どこかで最終的には均衡が回復され、為替は平価に戻る。
 それでは、紙幣は発行すべきではないのだろうか。そうではない。紙幣の発行は、生産的資本の増加へとつながり、労働の賃金と資本の利潤をもたらす、とミルはいう。

〈したがって、紙幣をもって金属貨幣に代える制度は、いやしくも安全を害しない限度までは、いつもこれを実行すべきである。事実上ならびに一般国民の信念上、紙幣の兌換制を維持するのに必要とされるものよりも多量の金属通貨を保有すべきではない。〉

 金銀通貨は貿易の決済や、紙幣の安定性を保つために必要となるが、不必要にそれを増やす必要はなく、できるかぎり金銀通貨の代用として紙幣(銀行券)を利用すればよい、とミルは考えていた。
 とはいえ、銀行券が兌換紙幣であるかぎり、紙幣が金銀通貨に取って代わることはない。銀行券はいずれ金銀通貨に兌換されてしまうからである。だが、紙幣が不換紙幣である場合は、こうした問題はなくなる。一切の鋳貨(ただし小口の硬貨は別)が流通界から消滅したあとも、不換紙幣が貨幣として利用されるようになるだろう、とミルはいう。ただし、紙幣量の増加が物価高をもたらすことはいうまでもない。
 紙幣通貨のもとでは、金銀貨幣にもとづく真実の為替相場とは別に、減価した紙幣にもとづく名目の為替相場が生まれる。そして、そのもとで貿易がおこなわれ、最終的には金銀の移動によって決済がなされる。だが、信用の異常な拡張は、物価騰貴をもたらし、その結果、金が流出し、信用の収縮と物価の反落が生じ、経済的破局につながる要因にもなりうる、とミルは論じる。
 次に論じられるのは、利子率についてである。
 この問題にふれる前に、貨幣が貨幣を生み、利子は貨幣から生じるという考え方をミルが批判していることを指摘しておくべきだろう。
 こう論じている。

〈貸付けにおいても、他のすべての貨幣取引の場合と同じように、私は、譲渡される貨幣は単に媒介物にすぎず、真に移転されるところのもの、取引の真実の対象は諸商品であるとみなしてきた。これは、大体において正当である。というのは、通常の成り行きにおいて貨幣を借り入れる目的は、商品に対する購買力を獲得することだからである。〉

 ここでも、ミルは貨幣が基本的には流通媒介物であるという立場を崩していない。
 ところで、以前ミルは、資本の報酬である利潤は、保険料と監督賃金、および利子に分けられると説明していた。とりわけ利子は、資本家の制欲にもとづいて貸し付けられた資本にたいする代償であって、利子率は貸付けにたいする需要と供給によって定まると述べていた。
 貸付けを求めているのは、事業家や商人だけではなく、政府や地主なども含まれる。これにたいし、貸し手となるのは、直接事業にたずさわらない資産家や貸付業者、銀行などである。これらが貸付資本にたいする需要と供給を構成する。とはいえ、資金の供給はほぼ銀行によって掌握されているから、基本的な利子率は銀行によって定められるだろう、とミルはいう。
 ただし、利子率は常に変動する。それは貸付資本にたいする需要と供給が常に変化するからである。一般に、投機が盛んな時期には利子率は低く、逆に反動期には利子率は極端に高くなる。
 こうした周期は商業恐慌から商業恐慌にかけて生じる、とミルはいう。実際、ミルの時代、恐慌は1825年、1837年、1847年、1857年、1873年と、周期的に発生している。恐慌後の不況も深刻なものがあった。
 景気が利子率を左右することはいうまでもない。しかし、それに加えて、新たな金鉱の発見、株式会社制度の発展、戦争、鉄道事業の計画なども、利子率に影響をもたらす、とミルは述べている。
 ところで、貨幣は資本のためにだけ求められるわけではない。債務の支払いのために用いられることもある。商業恐慌がはじまる前兆には、こうした現象がよくみられる、とミルはいう。
 パニックを終息させるには、銀行券の発行高を増やすほかない。それによって購買力が回復し、資本が修復されるのだ。
 そのとき、利子率は資本とだけではなく貨幣と関係してくる。銀行券の大量発行は通貨の減価をもたらす。貨幣の数量は、それ自体、利子率に影響するわけではない。問題は貨幣の変動が、利子率に影響することである。
 一般に通貨の減価は、利子率の上昇をもたらす。物価の上昇が、資本による資金需要を増大させ、それによって利子率が上昇するとみられるからである。ところが、いっぽうで銀行券の大量発行は、貸付金市場を膨張させ、利子率を引き下げる作用をもつ。
 つまり、利子率は資金の需要と供給によって決定されるとはいえ、それは通媒介物である貨幣の増減による「種々なる一時的攪乱」の影響を受ける、とミルはいうのである。その攪乱をもたらすものが、政府や銀行による金融操作にほかならなかった。
 次にミルは通貨の調節について論じる。
 当時、相次ぐ商業恐慌の弊害を避けるには、銀行券の発行高を調節するほかないという議論が盛んになっていた。
 イングランド銀行による銀行券の大量発行が、物価騰貴を招き、それが商業恐慌につながるという意見があった。これにたいし、もういっぽうの側は、銀行券発行の規律が保たれているかぎり、銀行券は何ら物価を引き上げるものではないと反論した。それによると、銀行券の発行が増加するのは、需要が増加するからであって、したがって、銀行券の発行を人為的に調整したところで、商業恐慌を避けることはできないというのである。
 ミルの立場はどちらかというと後者である。銀行が銀行券の発行を増やすのは、景気がよくなって、資金需要が高まるとき以外にない。だが、それは一時的なものである。銀行がみずからの意思にもとづいて、流通媒介物を増加させうるわけではない、とミルはいう。
 ところが、商品にたいする節度のない投機が発生して、銀行がその動きに荷担する場合は、銀行券が必要以上に発行されることがある。それによって、物価は騰貴する。そのとき投機者の動きがさらに活発になり、「投機をしなかった人たちまでも、従来よりもはるかに強く銀行から受ける前貸しに依存するようになる」。その結果、投機的価格の崩落が生じ、商業恐慌が発生するのである。
 こうした急激な商業恐慌を避けるために、1844年に通貨条例(銀行条例)がだされた。これによって、イングランド銀行が中央銀行として銀行券の発券を独占することとなった。すなわち、イングランド銀行が信用の膨張と収縮を調節する機関として登場したのである。
 イングランド銀行は、はたして信用の投機的拡大を早い時期に抑えることができるだろうか、とミルは問うている。銀行からの預金引きだしや、銀行の融資が止められないとすれば、信用の膨張を防ぐのは無理である。
 1840年代後半、イギリスでは鉄道投機によって景気が過熱し、穀物輸入によって金が流出していた。そこでイングランド銀行は1847年に金利を徐々に引き上げ、景気の引き締めをはかった。そのため、穀物輸入業者のなかには破綻するものもでてきた。イギリスではイングランド銀行を非難する声があがった。
 これにたいし、ミルは「新しい制度が旧制度に対して真実の進歩であることは否定し得ない」と認めたうえで、次のように指摘する。銀行の信用拡張は、景気拡大期にはかえって有害なものとなりうるが、恐慌時にはすこぶる有益なものである。恐慌のさいには、銀行券の増発が、恐慌の激しさを緩和することはまちがいない。
 ミルは「不当な投機とその反動の結果として生ずる商業信用上の間隙を埋めること」が銀行の大きな役割だとしていた。したがって、とりわけイングランド銀行が、恐慌を予防する手段として金融を引き締め、恐慌から抜けだすために金融を緩和する措置をとるのは、とうぜんと考えていた。
 しかし、貿易の決済にともなう金の流出を無理やり止めることはできない。ただし、準備金の枯渇と支払いの停止との恐れがないように、あらかじめ対策を講じておくことは必要だ。流出した金の大部分は、いずれ輸出商品にたいする支払いとして戻ってくるだろう、とミルはいう。
 ミルが信用の要としての銀行の役割が大きいこと、さらには景気変動に備えて銀行が規律を維持する必要があることに注意をうながしていたことはたしかである。だが、このあたりの論点を整理するのは、なかなかむずかしい。

ジャイプールへ──お気楽インド・ツアー写真日記(14) [旅]

 2月7日(日)
 7時半にデリーのホテルを出発し、バスでジャイプールに向かいます。
 ジャイプールはデリーの南東266キロの場所にあり、ラジャスタン州の州都。デリーからバスで5時間ほどかかります。
 プールは城壁の町を意味します。ジャイは王様の名前です。
 ジャイプールは1727年から、カチワーハ家の王、サワーイ・ジャイ・シン2世によってつくられました。
 ガイドさんによると、いまも10代目の王様がジャイプールの王宮(シティパレス)で暮らしているといいます。現在の王様は15歳で、イギリス留学中とのこと。
 インドには地方に200人以上王様(マハラジャ)がいたようです。なかでもジャイプールの王は金持ちでした。それは宝石がとれるためで、王が戦争をしなかったことも大きかったといいます。加えて土地や不動産も多く所有していました。
 王の娘はムガル帝国3代目のアクバルと結婚。ジャイプール藩王国は、ムガル帝国と良好な関係を保ちつつ、一定の独立性を保っていました。1858年にインドがイギリスの植民地になってからも、自治権を認められていたといいます。1876年にはヴィクトリア女王の息子アルバート王子が、ジャイプールを訪問しています。
 ガイドさんからそんな話を聞くうちに、バスはデリーを抜け、ハリヤーナ州にはいります。不思議なのは、ここで州税を払うことですね。これはちょっと日本とはちがうシステムです。
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 高速道路沿いに突然、高層ビルやマンションの建ち並ぶ地区が出現します。グルガオンは5、6年前から急速に発展。IT関連の企業が進出し、大きなビルが建ちはじめ、モノレールも走るようになったといいます。
 小雨のなか、高速をひた走ります。乾いた台地に雨のめぐみです。
 霧のなか、警笛をならして進みます。
 ところどころ、貧民のテントを見かけます。かれらは移動民です。
 9時30分、トイレ休憩をとりました。サルがいます。
 高速はまだ建設途中で、ときどき一般道にはいります。
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 11時15分、城壁を見ました。町の名はわかりません。このころから日が差しはじめました。
 11時35分、料金所を通過します。日曜でも大型トラックが動いています。
 11時50分、右手に岩山があらわれました。
 道路脇にハヌマンを祭ったヒンズー寺院が立っています。
 インドの犬はいつも腹を出して寝ています。猫はほとんど見かけません。ロバや象が通ります。
 昼過ぎ、イスラム教徒のエリアにはいります。このあたりは郊外の貧困地帯だといいます。ゴミが汚いまま散らばっています。豚や羊、山羊、ラクダ、牛がごろごろしています。
 ラクダがめずらしいので、つい写真をとってしまいます。
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 よく見ると、ラクダにはしるしがつけられていますね。これは俺のラクダだというわけでしょうか。
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 だんだん町に近づいてきます。小高い丘の上にあるのはヒンズー教の寺院でしょうか。
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 城壁と門も見えてきます。
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 ジャイプールには12時半に到着です。
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 きょうのお昼はイタリアン。食事の後、旧市街にはいります。
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 町の壁がピンク色で統一されているため、ピンクシティと呼ばれますが、実際はピンクというより、テラコッタの色です。
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 最初にジャンタル・マンタルと呼ばれる天文台を訪れます。その入り口にはなぜかハトがいっぱいいました。このおじさんは、いったい何を売ってるのでしょう。謎です。
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国際貿易について(1)──ミル『経済学原理』を読む(9) [経済学]

 次のテーマは国際貿易である。
 たいていの国は国外からの商品の輸入を認めている。その商品は国内では生産不可能なものであったり、あるいは国外から輸入したほうが安かったりするためである。だが、輸入があれば、とうぜん輸出もなくてはならない。
 一般的にいえば、どの国も、自分たちの優越性がもっとも少ない物品を輸入し、自分たちの優越性が大きい物品に労働と資本を投入し、それを輸出に当てるのが得策だ、とミルはいう。これはリカードの比較優位説を踏襲したものといえよう。
 通商の利益は、世界的にみて生産力がより効率的に発揮される点にある。交易関係をもつふたつの国は、比較優位な商品を生産し、それを交換しあうほうが、国際的にみれば、より生産的である。それによって、両国が必要とする商品は、より潤沢となるだろう。
 ところが、国際貿易の利益を、市場の拡張に求める声は後を絶たない。これは生産者の主張であり、いわば重商主義のなごりだ、とミルは指摘する。
 だが、冷静にみれば、「ある国がその国自身の欲求を越えて輸出用の品物を生産するのは、何らその内在的必然性によるものではなくて、自国のために他のもろもろの物をととのえる最も低廉な方法として、そうするのである」と、ミルはとらえる。
 輸出するのは、輸入するためである。そして、「通商は、実際上、生産物を低廉ならしめる一方法」であって、輸入によって利益を受けるのは消費者にほかならない、とミルはいう。
 さらに、通商には経済的利益のほかに道徳的利益もある。それは諸国民の交流をうながし、世界の平和を保証する手段ともなる、とミルは論じる。
 次にミルが論じるのが、交易商品の国際価値についてである。
 商品の価値は生産費に依存するというのが、ミルのテーゼだった。ところが、輸入品の価値は、遠隔地での生産費に依存するわけではない。つまり、国際価値は、生産費の法則にはしたがわないというのだ。
 ここで、ミルは貿易が物々交換、すなわち一商品の他の商品に対する現物交換だと仮定する。すると、輸入品の価値は、その輸入品への支払いとして輸出される商品の価値にほかならないことがわかる。だとすれば、外国商品の価値は、国際的交換の諸条件に依存するのであって、そこでは需要と供給の法則が作用しているというのである。
 この考え方はひじょうにむずかしい。どう理解すればよいのだろうか。
 試みに、ひとつの例を挙げてみる。
 A国とB国のあいだで、たとえば次のふたつの商品が取引されているとする。

  100万円の車100台⇔100円の石油100万リットル

 この場合、車の生産費(利潤を含む)は80万円で、石油の生産費は80円だ。ミルがいうように、それぞれの商品価値は、生産費に一致しない。輸入品の価値は輸出品の価値によって、はかられる。この場合、国際的交換の条件は、車が100万円で、石油が100円ということになる。
 ところが、ここで需要が増大し、2商品間の貿易関係に変化が生じたとしよう。すると、たとえば、次のような事態が生じる。

  80万円の車150台⇔80円の石油150万リットル

 ふたつの商品の価値は、需要と供給の関係によって変化する。その場合、生産費はたとえば車が70万円、石油が70円となり、需要はそれぞれ50%増大し、貿易額は20%増大することになる。国際的交換の条件も変化している。
 ミルは、おそらく交易商品の国際価値は、両国の需給関係によって決定されると考えたのである。
 さらにミルは、この単純なモデルに、複雑な要素を加えていく。
 たとえば輸送費である。貿易に占める輸送費の割合は無視できない。輸送費が大きいと、貿易の利益は失われてしまう。したがって品質の低い食料品や工業製品は貿易の対象とはなりにくく、比較的高級な、あるいは産出困難な原料や食料品、工業製品だけが国際取引の対象となる。
 さらに、ミルは2国間、2商品という最初のモデルの価値法則を、多国間、多数商品の場合にも拡張している。2商品間で貿易が不均衡な場合も、多数商品のあいだで貿易の均衡を取り戻すことができる。この関係は多国間に拡張することができる。
 こうした国際価値の関係をミルは次のようにいいあらわす。
「ある国の生産物は、その国の輸出の総額がその国の輸入の総額に対し過不足なく支払いをなすのに必要とされるような価値をもって、他の国々の生産物と交換される」
 ここでは輸出と輸入とが、各国間の相互需要によって均衡するととらえられている。
 国際価値は生産費に一致しないとしたミルが次に論じるのは、生産上の改良が国際価値にあたえる影響についてである。
 輸出品にたいする生産上の改良(価格の低廉化)が、外国での需要を増加させることはまちがいないだろう。それは、たいていの場合、輸出国にとってだけではなく、輸入国にとっても利益をもたらす。それによって相互需要が拡大する可能性が強いからである。
 ミルの国際価値論は実際にはもっと複雑な事例で成り立っており、それは数学モデルで展開してしかるべきものだ。だが、数学の苦手なぼくとしては、それを省略し、ここでは、ミルが自由貿易を擁護する立場から、国際価値について論じているということを強調するにとどめよう。
 ここでミルは、特異な輸入商品として、貨幣の問題をとりあげる。貨幣の材料である金や銀などの貴金属は国外から輸入されていた。したがって、ここでいう商品としての貨幣とは貴金属を意味している。
 たとえばブラジルからイギリスに輸入される地金の量は、イギリスの需要に依存し、イギリス産の商品と交換されなければならない。そのさいも「外国における需要が最も大きい輸出品を輸出し、外国産諸商品に対するそれ自身の需要は最も小さい国において、[輸入商品の]価値が最も低い」という法則が成り立つ、とミルはいう。
 すなわち工業生産物のほうが、粗製生産物よりも、概して価値が高くなる傾向があるというわけだ。地金獲得の費用としては輸送費も必要になってくるけれども、いずれにせよ、イギリスが諸外国に比べ物価が高いのは、より小さい費用で貴金属を入手することができ、したがって、貨幣の価値が低いからだ、とミルは論じている。
 さらに、加えて、こうも述べている。

〈イギリスの商品に対する需要の増加なるものが、鉱業諸国における需要である必要は決してない。イギリスは、鉱業諸国へ向かって何ものをも輸出しなくても、もしもそれ以外の諸外国においてイギリスの財貨に対する十分に強い需要があり、これが迂回的に鉱業諸国からきた金銀をもって支払われるならば、やはり鉱業諸国から最も低い条件をもって地金を入手する国となるであろう。〉

 ここにも、イギリスの産業にたいする自信のほどが示されている。
 ところで、ミルはここまで外国貿易を、いわば国家間の物々交換として記述してきた。しかし、貿易は現実には物々交換ではありえない。それは業者間の取引としてなされ、そこには貨幣での支払いが発生している。
 たとえば、ミルはイギリスの商人Aが、フランスの商人Bに商品を送り、BがAにお金を支払うという場面を想定している。
 そこでは

  A⇄B

という関係が成り立っている。
 ところが、ここにイギリスの商人Cが、フランスの商人Dから商品を受け取り、今度はCがDにお金を支払わねばならないとしよう。だが、この場合は、CがDに海を越えて、お金を支払う必要はない。
 その場合は

  A→B
  ↑ ↓
  C←D

というかたちで、国内で決済をすませればよいのである。
 つまりBはAからでなくてもCからお金を払ってもらえばよいし、DはCからではなくBからお金を払ってもらえばいい。だが、実際にAとC、あるいはBとDは直接顔をつきあわせるわけではなく、仲介業者に手数料を支払って、それぞれ為替手形にもとづいて支払いを受ければいいのだ。したがって、全体の貿易取引額にたいして、海外に送金される部分は差額部分だけとなる。
 現金による貿易の決済が必要になる場合は、為替手形を買い受けるさいに、プレミアム(追加価格の請求)が発生する。それは貴金属の運賃や保険料、その他の費用がかかるのを負担するためである。
 それぞれの国は独自の通貨をもっているのが通例である。そして、為替手形はそれぞれの通貨で決済されるから、通貨間のあいだで為替レートが生じることになる。為替レートとは「その国の貨幣がもっている、諸外国の貨幣を購買する力を意味する」と、ミルはいう。したがって、為替手形の決済は為替レートにもとづいておこなわれるが、最終的に貿易差額分は貴金属をもって清算されなければならない、とミルは論じるのである。
 現在のような変動為替相場がとられていない19世紀においては、おそらく為替相場の変動はプレミアムと貴金属貨幣の送付によって処理されていたにちがいない。その実態は、残念ながら、ぼくの知識の領域を超えている。
 ミルは支払差額の清算が貨幣によってなされていたことについても触れている。だが、それをみるまえに、交易についてのミルの考え方をもう一度確認しておこう。
 こう述べている。

〈交易というものは、実体および結果においては、すべて物々交換である。商品を貨幣と引き換えに販売し、その貨幣をもって他の財貨を購買する人は、だれでも、実際はこれらの財貨を彼自身の商品をもって購買するのである。〉

 ミルは自由貿易論者であるとともに、重商主義を批判する立場をとっていた。
 いま問題になるのは、交易によって支払差額が生じる場合である。その差額は貨幣(貴金属)によって支払われるから、それは金銀の流出につながり、通貨の量に影響をもたらす。そして通貨量の変動は為替レートや物価に影響し、けっきょくは輸出入の均衡が取り戻されることになる。これがミルの考える貿易収支の均衡プロセスとみてよいだろう。
 新製品の登場や生産方法の改善などによって、輸出入の均衡は常に崩れる傾向をもっている。だが、その都度、通貨量と物価が変動し、それによって貿易に均衡がもたらされるのである。
 貨幣は貴金属からなるひとつの商品であるというのが、(きわめて19世紀的な)ミルのとらえ方である。
 かれ自身はこう考えていた。

〈国際交易においても、通常の国内交易の場合と同じように、貨幣が商業にとってもっている意義は、ただ油が機械にとり、また軌道が運輸にとってもっているところの意義と同じであって、それは摩擦を減ずる方法にすぎないのである。〉

 こうして、流通を媒介する商品である貨幣の原料(貴金属)は、交易を通じて、原産地から各国に配分され、さらに各国間の貿易を決済する手段として再配分され、物価に影響をもたらしていくことになる。
 ちょっと長くなりすぎた。国際貿易論はもう少しつづく。

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