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石窟庵と仏国寺(韓国旅行) [旅]

5月15日(火)午後。
われわれは新羅の旧都、慶州にいます。
午後のツアーは石窟庵に向かいました。
慶州の南東、吐含山(トハムサン)の中腹でバスを降り、歩いて山の頂上近くまで1.5キロほど登っていきます。
この日、ぼくは体調が悪く、ツアーの一行についていくのが、せいいっぱい。つれあいにも迷惑をかけました。
ようやく、石窟庵が見えてきました。古墳のようなかたちをしています。
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さらに登って、ようやく到着です。
内部は撮影できないので、ウィキペディアの画像を借ります。
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花崗岩を丸彫りした、みごとな阿弥陀仏(あるいは釈迦如来)です。威厳があり、圧倒されます。しばらく見とれてしまいました。
つくられたのは8世紀半ば、日本の天平仏の原型とされます。
石窟庵からは慶州を囲む山々の様子を見ることができます。
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バスの待つ場所まで降りて、中腹の仏国寺に向かいます。
これが入り口の山門。
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派手な飾りつけがほどこされているのは、旧暦4月8日(新暦では5月22日)の灌仏会(お釈迦さまの誕生日)を控えているからだといいます。日本ではあまり聞きませんが、韓国では灌仏会のお祝いはいまも盛んにおこなわれているようです。
お寺が完成したのは780年と伝えられています。1593年の壬辰倭乱(文禄の役)で全焼し、新羅時代のものはほとんど残っていないようです。
これは紫霞門。
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この門の上に極楽世界が広がっているという仕掛けです。この階段は国宝で、いまは上れません。
右側の坂道を登って、大雄殿の前庭にはいります。回廊にはこんなユーモラスな魚板が吊り下げられていました。木魚の原型かもしれません。
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大雄殿を正面にして、左側に立つ三層石塔(釈迦塔)は新羅時代のもの。右側は多宝塔です。どちらも国宝。
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いろどり鮮やかな太鼓もありました。
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大雄殿は1765年に再建された建物。中央の須弥壇には釈迦三尊像が安置されています
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大雄殿の左側、一段さがった別の仕切りには極楽殿があり、その前にイノシシ(ブタ)の像が置かれていました。これに触ると、食べるものに不自由はしないとか。
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エドマンド・バーク──カーク『保守主義の精神』を読む(2) [本]

 ホイッグ党の幹部で下院議員でもあったエドマンド・バーク(1729〜97)は、議会政治を擁護し、もともと権力の恣意的な濫用に反対する自由主義的な立場をとっていた。そのバークが『フランス革命の省察』において、革命を痛烈に批判する側に転じたのは、フランス革命が伝統と常識を無視して、頭でっかちの理論にもとづいて社会変革をこころみようとしたからだ、とカークはいう。
 道徳的秩序、慣習による定め、慎重な改革が、バークの信条である。それはどの時代、どの社会でも適用できる原則だ。1688年の名誉革命以来、イギリスの国制はイギリス人の市民権を認めている。そして、国の統治に関しては、公衆が代表者をつうじて政治に参加する仕組みができあがっていた。権力は恣意的に行使されない。バークが支持するのは、そうした政治体制である。
 バークは普通選挙権には共鳴していない。その意味では民主主義者ではなかった。かといって固陋な貴族主義者だったわけではない。かれ自身、中産階級から多くの支持を受けていた。
 バークにとって国家ないし社会とは、つねに再生しつづける共同体にほかならなかった。バークは公正なる法と自由を擁護した。自由はけっして放縦ではなく、常識の定めにしたがうものであり、古来の権利とみなされていた。「バークは保守であるが故に自由主義者だった」と、カークは書いている。
 バークは社会改良論者ではなく、伝統的な政治体制が維持されるべきだと考えていた。政治を推し進めるにあたっては、つねに慎重だった。人権を認めていたが、人権を強く主張することはなかった。独裁的な権力をふるおうとする国王やインドの征服者を批判したが、それはかれらの強引なやり口を嫌ったからである。
『フランス革命の省察』と、それにつづく一連の書簡で、バークはフランス革命の急進主義を批判した。当時、イギリスでも、都市や農村の労働者の惨状を背景として、革命熱が高まろうとしていた。バークはそれを水際で阻止しようと決意し、平等主義こそ絶対だという思い込みに反論を加えたのである。
 ヴォルテールの合理主義、ルソーのロマン主義、ベンサムの功利主義がその標的だった。著者のカークは、これらを総称して、18世紀末の急進主義と呼んでいる。急進主義者は政治権力を破壊し、理性にもとづいて社会を改革するのだと唱えていた。現実主義者のバークにとって、それらはあまりにも傲慢な思想のように思えた。
 バークにとって、政治とは道徳の実践を意味していた。人と国家が、神の恵みの産物であるように、道徳もまた神によって与えられたものだ。啓蒙主義のいう理性とは、じつは無知にほかならない。それは理性の名を借りて、人びとの力と欲望を解放し、社会をカオスにおとしいれようとしている。
 バークは、人は天の配剤によって、与えられた役割を、その名誉と責任をもってまっとうすべく定められていると信じていた。だから、啓蒙主義に反対した。人間を全面的に持ちあげる啓蒙主義には敬虔さが欠けていると感じていた。
 バークにとって、人間が平等というのは、社会的に平等という意味ではなく、道徳的に平等という意味である。人間は完全無欠の存在たり得ない。人間社会に貧困、残虐、不幸、罪悪はつきものであり、制度を手直ししたところで、それがなくなるわけではない。人の実存を耐えうるものにしているのは、信仰だけである、とバークはいう。
 バークにおいて、教会は国家や社会と密接に結びついていた。人間界の法は、神の英知の不完全な顕現にすぎない。社会秩序は道徳的秩序なのである。野望や扇動、偽善によって、社会秩序を破壊したところで、悪を根絶できるわけではない。慎慮と謙虚という美徳がなければ人間はみじめなままである。社会に生きる人間を導くのは、古来の伝統と常識以外の何ものでもない。バークはそう考えていた。
 人間は神の摂理に導かれ、数千年におよぶ経験と省察をつうじて、集団としての英知を手にした。バークの立場は、その英知、言い換えれば慣習や常識を尊重することだった。集合的知性の尊重は、科学的合理主義の背後にひそむ残忍性を抑制する方向にもはたらくはずだ、とカークはいう。
 歴史を動かしているのは、人間のやみくもな衝動でも純粋理性でもなく、神の摂理にもとづく人間の行動である、とバークは考えていた。慣習と常識は理性を活性化させ、その影響力によって理性に永続性を与える。慣習と常識を敬うところが、バークとロマン主義者とのちがいだ、とカークは指摘する。
 あくことを知らぬ人間の欲望と意志に、どこかで歯止めをかけなければならない。そうしなければ、人間は原始状態に回帰してしまう。理性だけではじゅうぶんではない。古い常識と定め(道徳)があってこそ健全さが保たれるというのが、バークの基本的な考え方である。
 急進主義者のえがくバラ色の虚飾は疑ってみなくてはならない。いっぽうで、バークは社会の変化は不可避とも考えていた。だが、それは、時の流れに応じて、社会秩序を修繕するという国家再生のプロセスなのである。「私たちにできること、つまり、人間の英知にできることは、変化がそれと気づかぬほど少しずつ進行するように条件を整えることのみである」と、バークはいう。
 カーク自身はこう述べている。

〈バークは英国の政治家に、勇気と機知をもって変化に対応する術を教えた。変化のもたらす負の影響を緩和し、革新者にも伝統の名残を受け入れさせることによって、古き良き秩序の最良の要素を保持する術を教えたのである。バークが政界を引退してからというもの、英国において深刻な反乱は一件たりとも起こっていない。〉

 カークは急進派の唱える権利は、しばしば単なる欲望である場合が多いと批判している。権利には義務がともなうはずだが、その義務はたいてい無視されてしまう。これにたいし、カークによれば、バークは「人間はやりたい放題の権利を享受できるわけではなく、自然権は、人間としての本性から直接的に導き出されたものに限られると主張していた」という。
 バークは一貫して社会に関する牧歌的な幻想を批判してきた。もし神による自然権ではなく、理念的・空想的な自然権を文明人に当てはめるなら、それは社会の混乱を招き、結果として残酷な圧政をもたらすと考えていた。もし自然権が神に由来する正義と合致せず、無秩序な自由にすぎないのであれば、それは権利とは認められない。それがバークの考え方である。
 自然権は現実的かつ不可欠な利益によって構成されている、とバークはいう。人間には社会の規則(法律)に沿って生きる権利がある。労働の成果を受け取る権利もある。両親が得たものを相続する権利もある。他者の領域に踏みこまなければ、自由に行動してもよいという権利もある。人間は神の前に平等である。しかし、だれもがすべて平等な配分を受けるわけではない。経済的・政治的平等化をどこまで推し進めるべきかは、社会的公正の原理にもとづいて、慎重に決定されなければならない。バークはそう主張している。
 フランス革命を見据えるなかで、バークは自然権を教条的に振り回す空想屋がはびこると、議会さえ存続できなくなり、社会が無政府状態におちいる、と警告を発した。バークからすれば、ルソーの唱える直接型の政治参加と一般意志による統治は、社会を破局に導き、けっきょく独裁を招く構想にほかならなかった。
「人権」の跋扈と「理性」の傲慢が、フランス革命の混乱を招いた、とバークは信じていた。これは平等主義への批判である。
 バークには一種の神学がある。バークにとって、神とは善悪両面をもつ罪深い存在である人間を導き、赦し、罰する、確とした存在だったと思われる。
 人間が平等なのは、神によって定められた道徳の平等においてのみである。しかし、身体的にも、活力でも、知的能力でも、財産面でも、人間はけっして平等たりえない。社会的な水平化が極端に推し進められると、人間は多様性や個別性をはぎとられ、無味乾燥な存在となり、やがて一握りの支配者と奴隷と化した民衆からなる抑圧国家が生まれる。
 バークは議会の自由と多数者の支配に信頼を置いていた。とはいえ、多数者の支配は、それ自体が正しいわけではない。政治的決定においては、過去への尊敬の念と、未来への憂慮がともなわなければならない。カークによれば、バークは「正当な多数者は、伝統・地位・教育・財産・道徳的資質などにより、政治的機能を担うことができると認定された集団から抽出されるほかない」と考えていたという。
 バークによる政府の定義。「政府とは、人間の『欠陥』を埋め合わせるために英知をしぼって考案された、人為的な機構である」。人間は市民社会の外に置かれると情念を抑制することができない。人がそれを抑制するのは、自分自身の外側にある権力によってである。議会はその英知を生みだす立法機関である。
 バークにとって、政治的平等はありえないものだった。政治はいわば真の貴族によって運営されなければならない。バークのいう貴族とは、単なる社会階層ではなく、現実に社会の指導者たる資質を備えた者を指す。名誉を重んじ、知的で道徳的かつ精力的なひとつの集団があってこそ、社会は安定する。凡庸な人物が国を支配する状態は国民にとっても不幸である、とバークはいう。
 国家という共同体は、謙譲や慎慮にもとづく英知によって、ようやくまとまり保たれる。
「バークの達成というのは、秩序原理を定義したところにある」と、カークはいう。バークによれば、世俗の秩序は神の摂理をあらわしたものであり、人びとは畏敬の念をもって、それに服従しなければならない。
 神の秩序にならって、人間世界でも精神的・知的な価値の秩序が生まれる。平等化はその秩序を破壊し、人間社会を泥沼と化してしまう。無秩序を防ぐには、特権や義務を尊重し、すぐれた貴族的指導者の存在を認めなければならない。さもなければ、おべっか使いや凶暴な者たちが、民衆の名のもとに邪悪な権力を行使するだろう。
「バークは、党派的な狂信性に追随し悪意に満ちた知的教義に熱狂的に従って選出された『エリート』が、革新的な観念を振りまわすのに反対していた」と、カークは書いている。
 ぼく自身は保守主義とは縁がなさそうだが、それでもバークの主張はそれなりに理解できるような気がする。

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慶州へ(韓国旅行) [旅]

5月15日(火)ツアー2日目。
この日、ぼくは体調が悪く、バスに乗っても、ほとんど目をつむっていました。ご飯もほとんど食べられません。観光地に着いても、歩いてついていくのがせいいっぱいでした。
ほんらいならエスコートしなければならないのに、つれあいには、ほんと迷惑をかけました。いまつれあいの撮った写真を並べながら、記憶の薄れかけた旅の記録を復元しようとしています。
釜山のコモドホテルを出発したのは午前9時半と、わりあいゆっくりしていました。きょうは慶州(キョンジュ)に向かいます。
釜山から慶州までは、北へ約80キロ。高速道路をつかって、1時間半ほどでつきます。
釜山の郊外。高層マンションが林立しています。
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慶州に到着。高速の料金所がりっぱ。
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高速をでて、すぐのところにある五陵(オルン)にやってきました。
ここには新羅初代の王、朴赫居世(パク・ヒョッコセ)とその王妃をはじめとして、4代までの王が埋葬されています。アカマツ林が印象的でした。
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そのあと向かったのが瞻星台(チョムソンデ)。途中、いくつもの古墳がある公園の横を通りました。ここは善徳女王(在位632〜647)の時代につくられた東洋最古の天文観察施設だといわれます。ドラマ『善徳女王』のなかにもでてきます。
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次に校村(キョチョン)をおとずれます。ここには伝統的な瓦屋根の家が軒をつらねています。われわれは崔氏(チェシ)の古宅を訪れました。この家は李朝時代の後半、1800年ごろに建てられた家だと言います。崔氏は代々の富者で、徳義に篤かったとのこと。
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縁側にぼんやり座っている人がいます。
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ここから新羅時代、宮廷のあった半月城に向かう月精橋が復元されようとしていました。観光客が増えるのを見越してのことでしょう。
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校村の通り。
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天下大将軍と地下大将軍の石像。これは新しいものですね。
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昼は豆腐寄せ鍋です。
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釜山タワー(韓国旅行) [旅]

この日の夕食は国際市場手前の脇道にはいった2階にある店で、海鮮鍋をいただきました。いろんな具がはいっていて、トウガラシがやたらきいていて、ぼくには少しきつかったような気がします。
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そのあと、ツアーに参加していた80歳くらいの年配の女性、その娘さんと連れだって、釜山タワーにのぼってみようということになりました。
光復路の三叉路はにぎやか。左側をみると、山の上までぎっしり住宅が並んでいます。
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7、8年前、ソウルに来たとき、韓国の物価は安いと思ったのですが、いまは日本と変わらない感じです。その分、韓国の人は日本に来やすくなっているのかもしれませんね。
ちなみに2017年の1人あたりGDPは、ドル換算で日本が世界25位の3万8440ドル、韓国が世界29位の2万9891ドルです。
さらに光復路を進むと左手にエスカレーターがみえてきます。これが龍頭山公園に登る入り口で、釜山タワーはここに立っているわけです。
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エスカレーターを2、3回乗り換えたような気がします。
龍頭山はまさに名前の通り、釜山港の背後にいきなりせまる小高い丘といえばよいのでしょうか。いまは広い公園になっています。
そこには港のほうを向いた大きな銅像、そして、その背後に釜山タワーがそびえています。
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この銅像の主は李舜臣(イ・スンシン)です。ソウルの光化門広場にもあります。日本でいう文禄・慶長の役で日本軍を破った朝鮮水軍の指揮官です。
いうまでもなく李舜臣の銅像があるところは、皮肉な言い方をすれば、日本とゆかりのある場所です。
ソウルの光化門には、かつて日本の朝鮮総督府がありました。
そして、ここ釜山といえば、日本からみて、朝鮮(韓国)の玄関口であって、李舜臣は釜山の南西にある巨済島や南海島周辺で日本軍と戦ったのでした。
釜山には室町時代から日本人町が形成され、朝鮮王朝と室町幕府とのあいだには使節の往来がありました。日本からの使節を接待する倭館もつくられていました。
豊臣秀吉の侵攻によって、両国の関係は一時途絶えますが、徳川家康は1607年に朝鮮との国交を回復します。
徳川時代、日本は鎖国していたといわれますが、2つの国とだけは正式に国交を結んでいたのです。それが朝鮮と琉球ですね。もちろん、オランダや中国とも貿易関係がありましたから、はたして鎖国という言い方が正しいのか、いまでは疑問がもたれるようになりました。
徳川時代、李朝は日本に12回にわたり朝鮮通信使と呼ばれる使節団を送っています。
そして、われわれが立っているここ龍頭山には、1678年から草梁(チョリャン)倭館と呼ばれる公館が立っていたのです。その広さは10万坪といわれますから、この公園全体が倭館だったのでしょう。草梁倭館は徳川時代唯一の日本の在外公館でした。管理していたのは対馬藩です。ここには常時400〜500人の対馬藩士が駐在し、外交・貿易の任にあたっていたといいます。
文春新書に田代和生著『倭館——鎖国時代の日本人町』という興味深い本があるのですが、まだ読んでいません。せっかく、その場所を訪れたのですから、いずれ読むつもりでいます。
さて、話が長くなってしまったのですが、要するに、われわれは龍頭山公園にそびえたつ釜山タワーにのぼったのでした。立てられたのは1974年だそうですが、ことし全面リニューアルされたばかりなので、どこもかもきれいです。
高速エレベーターで展望台までいくと、ここからは釜山の街が360度にわたって一望できます。
これは港のほう。さっきまで、われわれがいた場所ですね。ガラス越しなので、写真が少し不鮮明です。
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これは北側でしょうか。
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夜になると、ガラス面に花火やハートマークが写る工夫がほどこされています。
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実際に外で花火があがっているようにみえます。
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タワーを降りてから、ふとふり返ると、壁面にはさまざまなプロジェクションマッピングが。
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気分がいいので、歩いてコモドホテルまで帰ることにしました。
来たときとは反対に裏側に降りると、そこにはこんな古そうな建物がありました。
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あとで調べてみると、釜山近代歴史館。建物は日本統治時代の東洋拓殖釜山支店をそのまま利用したものだといいます。
東洋拓殖は日本の植民地開発を担った国策会社で、韓国の人にとっては苦い思い出のある会社です。そこを近現代史の博物館に転用するというところに、日韓のねじれた歴史意識の影をみるような気がします。
コモドホテルまでは思ったより遠く、ぼくはすっかりくたびれてしまいました。
いっしょに歩いた80代のおばあさんのほうがよほど元気。
途中、道に迷ったとき、親切な韓国のおじさんが、こっちのほうだよと案内してくれたのには、ちょっと感激しました。釜山の人たちは、概して日本人にやさしいと思います。テレビなどでは、こんなことはあまり報道されないのですが……。
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ラッセル・カーク『保守主義の精神』を読む(1) [本]

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 訳者、会田弘継の解説によると、著者のラッセル・カーク(1918〜94)は戦後アメリカを代表する保守思想家だという。原著は1953年に初版が発売され、その後、改訂を重ねて、1986年に第7版が出された。本書はその第7版をもとにした初の邦訳である。
 アメリカにはふたつの顔がある。ひとつは自由と民主主義、リベラルのアメリカ、もうひとつは保守的で信仰心にあふれ、なによりも勤勉さを重視するアメリカ。このふたつの顔は別々ではなく、ときに交錯し、複雑な色合いをみせる。そこにさらに資本主義と戦争という創造的破壊の要因が加わると、アメリカ史はまさに熱狂のるつぼと化すのである。
 その混沌のなかに、一本の鮮烈な水脈を見いだそうとすれば、それがイギリスの伝統を受け継いだ保守主義の精神ということになるのではないか。
 昔、イギリスの歴史家ポール・ジョンソンの本を何冊かつくったことがある。『インテレクチュアルズ』、『現代史』、『近代の誕生』、『アメリカ人の歴史』など。そこに感じられたのは、イギリス保守主義への誇り、深い信仰心、人間本性への洞察、そして何ともいえないユーモアだった。
 この本にとりかかろうとして、そんなことを思いだしたのは、ポール・ジョンソンの本を通じて、イギリスとアメリカには、ずいぶんいやな面もありながら、同時にすぐれた面もあると再認識したからだった。そこには、義理と人情と倫理にがんじがらめになってしまう日本の光景とは異なる、一種からっとした理知的な精神が広がっていた。
 そんなわけで、この本を購入したときに、なぜか思い浮かべたのは、ポール・ジョンソンの数々の著作だったのである。
 前置きが長くなった。中身はまだ1ページも読んでいない。
 いつものように、ひまな年寄りの寝言。何回になるかわからないし、途中でやめてしまうかもしれないが、まあ、のんびり読むことにしよう。
 原著のタイトルはThe Conservative Mind: From Burke to Eliot(『保守主義の精神──バークからエリオットまで』)。日本語版のタイトルには、このサブタイトル部分が割愛されている。たぶん、日本の読者にはアピールしないと判断されたのだろう。バークはイギリス保守主義の泰斗エドマンド・バーク(1729〜1797)、エリオットは『荒地』の詩人トマス・スターンズ・エリオット(1888〜1965)[なぜか鮎川信夫を思いだす]。本書はそのバークからエリオットまでの保守の系譜をたどろうというものだ。
 目次をみると、日本人にはあまりなじみがない英米の人物(ポール・ジョンソンの本ではおなじみだが)の名が並んでいる。日本ではこれまで欧米の保守の系譜が、ほとんど紹介されてこなかったことに、いまさらながら気づく。
 そもそも日本では、明治以降、西洋からの輸入思想は反体制を意味した。近代以前の儒学、仏教、国学の教義は、保守を支える側に回った。だから、西洋の保守思想はあまり移入されることがなかったのかもしれない。
 おっと、これもよけいなこと。だらだらと年寄りの繰り言がつづく。
 第1章を読んでみた。
 19世紀の自由主義者、ジョン・スチュアート・ミルは保守主義者のことを「愚かしい党派」と呼んだという。
 だが、著者のカークは、「古来の常識」と「古くからの定め」を根拠とした近代の保守主義者エドマンド・バークの側に立つ。バークが著者の原点だといってよい。
 バークの生地、ダブリンを訪れた著者は、いまの時代にこんな感慨をいだく。

〈伝統を呪詛し、平等を言祝ぎ、変化を歓迎する世界。ルソーにしがみつき、彼の思想をまるごと鵜呑みにして、そして、より一層過激な預言者を求める時代。産業主義の汚濁にまみれ、大衆によって画一化され、政府にがんじがらめにされた世界。戦争によって傷つき、東西の二大国[本書が出版されたのはまだ米ソ冷戦の時代だった]のあいだで震えおののき、砕けたバリケード越しに瓦解の深淵をのぞく世界。〉

 これが著者の感じている世界だ。急進主義、大衆社会、世俗化、産業主義、物質主義、暴力主義、集権主義への怒りに満ちている。こうした世界に対峙し、みずからの精神をたもつには、保守の源流に立ち戻り、そこからの流れをたどるしかない。
 そこで、著者は1790年に『フランス革命の省察』を著したバークを再発見することになる。バークこそが保守主義の師だった。近代保守主義の流れはすべてバークから発しているという。
 ちなみに、ぼく自身はバークについて、ごく断片的にしか知らない。最初フランス革命を支持していたかれがフランスの民主政を「この世でもっとも恥知らずのもの」と呼ぶにいたったこと、フランス革命が「狂気、不一致、悪、混乱、癒やされることのない悲しみに満ちた殺し合いの世界」であると認識するにいたったことを、わずかに知るくらいである。
 それはともかく、近代保守主義の精神史ともいうべき本書は、バークからはじまるのだが、その前に、著者は保守思想の要点をいくつかまとめている。
 ややこしいので、ぼくなりに言い換えると、それは個人の良心を信頼し、自然につくられる社会秩序を重んじ、人間存在の多様性を尊重し、人生は生きるに値するものだという感覚をだいじにし、文明社会には身分秩序が必要だという認識に立ち、人の自由と財産は犯してはならないと考え、慎慮にもとづかない変革を拒否する思想だということになる。ぼくらからすれば、これ自体、ずいぶんリベラルだと感じるのはどうしてだろう。国家に面従腹背するアジア的思考がしみついている。
 著者はいう。保守主義は急進思想に反対する。急進思想とは、社会は無限に進歩すると考え、伝統を軽蔑し、政治的平等化、経済的平等化を求めるイデオロギーをさす。それは、けっきょくのところ国家による人間の支配をもたらす。
 著者は現代の高度資本主義社会のなかで、保守主義は追い詰められ、風前の灯火のようになったと感じている。保守主義こそ「神の摂理」と信じる著者にとって、保守思想の根本的理解が、悲愴ともいうべき使命感となっていることは、第1章の最後に置かれた次のフレーズからも感じられる。
 いわく。

〈たとえ保守主義に秩序を再興することができなくとも、保守主義の思想を理解すべきであろう。その理解を通じ、解き放たれた意志と欲望の業火がすべてを焼き尽くした後に残された、焼け焦げた文明の切れ端を、能う限り灰燼のなかからかき集めねばならない。〉

 ここからは、もう古き良き時代は戻らないという嘆きさえ聞こえてくるかのようだ。
 しかし、時代はめぐりめぐって、いまはまた保守の時代になった。時代はめぐり、思想もめぐる。それが思想の運命というものだろう。
 歴史において、否定性の弁証法はつねにはたらく。だが、水脈は消えることがない。
 保守主義の水脈を追ってみることにしよう。

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釜山到着(韓国旅行) [旅]

5月14日から17日にかけて、ルックJTBのツアーで、韓国の釜山、慶州、安東を訪れました。
めまいに悩まされていたつれあいは、それまで1年数カ月、飛行機に乗ることができず、今回は久しぶりの海外旅行です。行き先に韓国を選んだのは、成田から釜山まで約2時間と、そう無理せずに行けそうな距離に思えたからでした。
ぼくはさしずめエスコート役……のはずでした。ところが、このツアーでは、ぼくがものすごく体調を崩してしまい、かえってつれあいに心配をかけどおしになってしまいました。
ツアーの旅程をこなすのが、せいいっぱい。ほとんどもうろうとしていました。あれから、ひと月足らず。ようやく体調が戻ってきたので、この旅行記をまとめる気になりました。
最近は記録しておかないと、どこを旅したのかも忘れてしまいます。それは旅にかぎらず読書でもそうなのですが、ぼくにとってブログは記憶箱のようなものです。とりあえず箱にしまっておけば、あとは忘れてもだいじょうぶ。何かの拍子で必要になれば、箱から取りだせばいいということです。
その意味で、今回もなんということもない旅行記をつづっておく次第です。とはいえ、旅行中は絶不調で心身とももうろうとしていたため、つれあいの撮った写真で、3泊4日のツアーを再現できればと思う次第です。いわば旅行のやり直しですね。
さて、成田の出発時間が遅かったため、釜山の金海(キムへ)国際空港に到着したのは午後3時。
迎えてくれたガイドさんの案内でマイクロバスに乗り込みます。車は洛東江(ナクトンガン)を渡り、きょう宿泊するコモドホテルに向かいます。
途中の道は山が迫り、狭い場所に高層ビルが乱立しています。
ガイドさんに聞くと、釜山の人口は350万人ほどで、かつては400万人近くだったといいます。
ホテル到着は午後4時。
写真は当日の夜、撮ったホテルの外観です。到着時に撮りそびれました。夜でわかりづらいかもしれませんが、いかにも韓国風なのが気に入りました。
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ロビーには、こんなかわいらしい虎の民画が。
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ハスの花と鳥の図柄もありました。天井にも韓国風の装飾がほどこされています。
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このトラとウサギは何をしているのでしょう。トラは長いキセルでたばこをすっているようにみえるし、目を回して自分の手足でしっぽを踏みつけているようにもみえます。これじゃ、ウサギをつかまえられそうもありませんね。
庶民にとって、かよわい者が強く偉大な者をけむに巻く話は、どこか痛快ですこれはいまも万国共通。
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さて、のんびりとはしていられません。部屋に荷物を置いたわれわれは、さっそくツアーの最初のコースであるチャガルチ市場の見学にでかけました。
チャガルチ市場は釜山港に入り口にある魚市場です。
さっそく、その通りを歩きます。
すでに夕方なのに、多くの店をつらねた市場には、これでもかというくらいに魚が並べられています。長いのはタチウオでしょうか。
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タコやフグもおとなしく所定の位置に納まっています。おそらく、この時間帯でも、店を閉める前に全部売り切れてしまうのでしょうね。
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市場はにぎわっています。地元のお客さんが、夕飯の材料を買いにきたようです。
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市場は海のすぐそばにあります。近海でとれた魚がすぐに運ばれるのでしょう。
釜山港はこの奥で、ここからは影島大橋と釜山大橋が見えます。左にある大きな建物はロッテモール。ロッテは韓国の大財閥になりました。
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そこから、どこをどう行ったのか覚えていませんが、広い通り(たぶん光復路)に出て、角を曲がった広場に着くと、そこにビートたけしの手形があると、ガイドさんが教えてくれました。BIFF(釜山国際映画祭)広場というのだそうです。
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このあたりはいまも映画館が多く、昔はここ南浦洞(ナムポドン)で釜山国際映画祭が開催されていたとか(現在の会場は海雲台[ヘウンデ])。
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釜山では街のあちこちにいろんな屋台があって、おいしそうなものが売られています。屋台の食べ歩きも、釜山散策の楽しみかもしれませんね。


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仁和寺 [旅]

昼のビールでいい気持ちになりながら、帷子ノ辻で嵐電に乗り、御室仁和寺までやってきました。仁和寺は駅の正面に見えます。
ところで、仁和寺といえば、『徒然草』に仁和寺の僧の話が出てくると聞いたことがあります。いったいどんな話なのか。お寺のパンフにも書いてありませんでした。作者の吉田兼好はこの近くに住んでいたとか。
駅から歩くこと5分くらいで、二王門に到着。
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二王門をはいったところにある受付で拝観料を払ってから、まずは左手の御殿に。御殿は御室(おむろ)ともいい、皇族の住まいでした。
案内のパンフによると、仁和寺を創建したのは平安時代の光孝天皇(830-887、在位884-887)。しかし、完成したのは宇多天皇(867-931、在位887-897)の時で、仁和4年(888)です。仁和寺はこの年号をとって、名づけられたわけです。
 それ以降、仁和寺では皇子皇孫が門跡をつとめてきました。だから御室御所とも呼ばれるわけですね。格式の高いお寺です。
 靴を脱いで、御殿にはいり、廊下を歩くと、白砂が敷かれた庭が広がり、その先には勅使門がみえます。まるで御所のよう。
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宸殿を回ると、こんどはうってかわって緑あふれる世界が目に飛びこんできます。このあたりの転換がみごとですね。つくりは御所と変わりません。御所にいるのと同じといったところでしょうか。
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はっきり覚えていないのですが、この御所は明治20年に焼失したので、明治末から大正にかけて再建されたと、どこかに書かれていたような気がします。比較的新しい建物です。
書院もそうですが、宸殿の部屋にもさまざまな光景がえがかれています。さしずめ平安絵巻というところでしょうか。
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黒書院から霊明殿が見えます。檜皮葺(ひわだぶき)のすっきりとした屋根に宝珠が乗っています。歴代門跡の位牌を安置したところだとか。
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御殿をでて、広い境内を歩きます。朱色というよりピンク色になった中門を通って、少し行くと右側に五重塔があらわれます。
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正面には金堂。これは慶長年間に造営された御所の紫宸殿を移築したものだとか。国宝です。なかはみられません。
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金堂の右側には経蔵。お経を収めた蔵ですね。
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左に行くと、弘法大師を祀った祖師堂があります。ここは真言宗御室派の総本山なのです。
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家に帰ってから、仁和寺の僧が徒然草でどんなふうにえがかれているのかが気になって、手持ちの本を開いていました。といっても、ぼくが持っているのは橋本治の『絵本徒然草』。イラストは田中靖夫画伯です。
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いやはや読んでびっくり。
石清水に参拝してみたいと思ってでかけた仁和寺の坊さんが、ふもとのお寺だけみて帰ってきた話とか、童が坊主になるお別れ会で、鼎(かなえ)を頭にかぶって、ふざけて踊っていたら、鼎が抜けなくなって大困りした坊さんの話とか、坊さんが稚児を連れて双ヶ岡(ならびがおか)に紅葉狩りに行き、いいところをみせようとしたのに、ずっこける話とか。
せっかく格調高く構えている仁和寺がだいなしです。でも、ほうぼう取材して、こんな人間くさいエピソードを書き残している兼好に拍手したいと思いませんか。

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広隆寺と蚕の社 [旅]

高砂で母の1周忌を終えた翌6月4日、船橋に帰る途中、つれあいと京都に立ち寄り、太秦の広隆寺と御室の仁和寺を訪れました。
体調は少しずつ回復していますが、完璧というわけにはいきません。
それでも京都を楽しむぐらいの気持ちが戻ってきたのはありがたいことです。このかん、つれあいには心配をかけどおしでした。
広隆寺には京都駅から嵯峨野線(山陰線)に乗り、太秦で下車、それから10分ほど歩きます。
広隆寺の山門を目にしたら、昔にもきたことを思いだしました。でも、肝心の弥勒菩薩はみなかったと思います。
いずれにしても記憶があいまいになってしまっています。やっぱり、面倒でもブログに記録を残しておかなくちゃ。
記録なくして記憶なし。最近はやりの記録はございませんし、記憶にもございませんじゃ、困りますものね。しかし、当方も次第にそんな領域にはいりつつあります。
それはさておき、まずはお寺の境内に。
ここは京都最古のお寺だといいます。推古11年(603)に秦河勝(はたのかわかつ)が聖徳太子から仏像を賜り、それをご本尊として建立したと伝わっています。秦氏は新羅からやってきた一族です。聖徳太子からもらったという仏像が、かの有名な弥勒菩薩半跏思惟像というわけでしょうか。
楼門をはいって、少し歩くと正面に上宮王院太子殿が見えてきます。聖徳太子を祀ったお堂ですね。帰化人の秦氏が聖徳太子を後ろ盾にしていたことがわかります。
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その手前にはちいさな太秦殿がありました。秦氏の始祖を祀ったお堂です。
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太子殿を横から1枚。聖徳太子の額がみえます。
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参拝受付で入場料800円を払って、お目当ての新霊宝殿へ。
ちいさなハス池のあるお庭もスマホでパチリ。
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そして新霊宝殿です。
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内部は撮影禁止。
照明が抑えられています。正面にお目当ての弥勒菩薩。撮影ができないので、ウィキペディアの画像からお借りしました。
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弥勒菩薩を眺めながら、しばらく、ぼんやりすごしました。日本でつくられた可能性もありますが、あきらかに新羅仏です。
弥勒が願うのは、平和で幸せな世の中。その思いは、いつの時代も変わりません。そんな時代がいつかやってくるのでしょうか。
広隆寺を出て、こんどは蚕(かいこ)の社に向かいます。
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正確には木島坐天照御魂(このしまにますあまてらすみたま)神社というようです。ちいさな社なのに、壮大な名前をもっているのにおどろきます。
ここも秦氏との関係が深く、養蚕と機織りにかかわりがあります。だから、通称、蚕の社というのですね。むしろ、こちらのほうが本筋にような気もします。
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一段下がったところには、三柱の鳥居があり、かつてはここから水が湧き出していたとか。
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京都には、歴史の奥深さを感じさせてくれるこんなマイナーな神社が数多くあります。
ちょうどお昼どきになったので、われわれは蚕ノ社(かいこのやしろ)駅から2駅、嵐電に乗って、帷子ノ辻(かたびらのつじ)まで行き、ここで評判の中華屋さんに寄るつもりでしたが、何と月曜はお休み。仕方なく、王将で定食をとり、ついでにビールも頼んで、ひと休み。
また、嵐電に乗って、仁和寺に向かいました。

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『遅刻してくれて、ありがとう』を読む(まとめ) [本]


     1

 著者のトーマス・フリードマンは有名なジャーナリストで、著作家でもあり、『レクサスとオリーブの木』、『フラット化する社会』などのベストセラーで知られる。
 その著者が、いまわれわれは歴史的な大転換点をくぐり抜けているという。「地球上の3つの大きな力──テクノロジー、グローバリゼーション、気候変動──が、いまはすべて同時に加速している」という。
 そういうときこそ、立ち止まって、じっくり考えてみなければならない。ジャーナリストとして、著者は毎日多くの人と会う忙しい生活を送ってきた。そんなとき、たまたま何かの事情で遅刻してくる人がいる。そんなとき、自分の時間が奪われたとは思わない。むしろ考える時間ができたことに気づく。相手があやまる。それにたいし、著者は「遅刻してくれて、ありがとう」と答える。この経験が本書のタイトルになっている。
 めまぐるしい変化に追いつくだけが精一杯の忙しい毎日。だが、そこで一時ストップして、回りを見渡してみると、そこから思わぬ発見や人とのつながりが生まれてくる。
 いまはだれもがブログで自分の意見や感想を発表できる時代だ。無数の人がキーボードを叩くだけで、歴史を創っている。ブログでは、自分が世界をどう見、それについてどう思うかを発信することがだいじだ。それでなければ、読者は引きつけられない。テーマは無限にある。
 あるブロガーにそんなことを教えているうちに、著者はいま自分が生きている時代はどんな時代なのかを、あらためて考えるようになった。
「本書は、史上でもっとも変化が激しい時期、この加速の時代に、繁栄し、レジリエンス[復元力]を高めるための、楽観主義者のガイドブックだ」という。
 日常にハイテクが押し寄せたのは、いつだったろう。変わり目は2007年だったという。
 2007年1月9日、アップルのスティーブ・ジョブズはサンフランシスコで最初のiPhoneを発表した。ジョブズはプレゼンテーションで、こう語った。このひとつの機器に、世界最高のメディアプレーヤー、最高の電話、ウェブに接続する最高の方法が盛りこまれているのだ、と。その後、スマホ用アプリが爆発的に開発されると、1年のあいだにスマホとインターネットの一体化が実現する。
 この年には、1台のコンピュータで複数のOSを動かせるソフトも開発された。コンピュータのデータ容量も一挙に向上した。フェイスブックも世界的に広がる。グーグルがアンドロイドを発表し、アマゾンはキンドルを発売した。
 ビッグデータの解析がはじまり、機械学習と人工知能(AI)を組み合わせたシステムが設計された。非シリコン素材の導入により、より高速で効率のよい新世代のマイクロプロセッサがつくられた。
 ソーラー・エネルギー、風力発電、バイオ燃料、シェールガス、LED照明、電気自動車、DNA解析テクノロジーなどが本格的に開発され、ビットコインの構想が生まれたのもこの年である。
 進んだのはテクノロジーだけではない。これまでコンピュータを動かすには、特別の知識が必要だった。しかし、いまのスマホは、ちいさな子供や、読み書きができない人でも、簡単に利用できる。そうした利便性が暮らしやビジネス、政治にも大きな変化をもたらした。
 2004年段階ではフェイスブックもSNSもSkypeも4Gもなかった。ほとんどの変化は2007年前後におきた、と著者はいう。いまではAIを使う機械のほうが、人間よりもすぐれた判断をするようになった。それを可能にしたのはマイクロチップの演算処理能力の急速な成長である。自動運転車が実現するのも、そう先のことではないだろう。
 いまは加速の時代だ、と著者はいう。テクノロジーの変化を加速させているのは、グローバリゼーション、すなわち市場の勢いだ。

〈商業、金融、クレジット、ソーシャル・ネットワーク、コネクティビティの世界的な流れは、総じて、市場、メディア、中央銀行、企業、学校、コミュニティ、個人を、いままでになく緊密に織り合わせている。そこから生まれる情報と知識のフローは、世界を相互に、高度に連結しているだけでなく、相互依存を強めている──あらゆる場所の人々が、ますます他のあらゆる場所の人々の行動から影響を受けるようになっている。〉

 いっぽうでテクノロジーの加速とグローバリゼーションの進展が、社会や道徳、地球環境に大きな影響を与えていることも忘れてはならない、と著者は強調する。
 こうしためくるめく変化に、はたして人間は対応できるのだろうか。20世紀にはいってから、テクノロジーの発展は急速に進み、ますます加速している。「イノベーションの加速度は、平均的な人間と社会構造が適応して吸収する能力を、はるかにしのいでいる」。それが、社会的・文化的な不安をもたらしている。手術支援ロボット、ゲノム編集、クローン、AIなどの新テクノロジーは人間をどこに連れていこうとしているのだろうか。
 唯一の対応策は社会の適応力を増大させることだと著者はいう。人はいわば「動的安定」のなかで生きることを学ばなければならない。政府も大学もコミュニティもそのために力を貸すべきだ、と著者は考えている。
 テクノロジーの発展に関しては、ムーアの法則というのがあるらしい。
 1965年にフェアチャイルド社のゴードン・ムーアは、集積回路(マイクロチップ)の素子数がこれからは毎年倍増していくだろうと予言した。この予言は現実のものとなった。
 たとえばインテルのマイクロチップでいうと、1971年のものとくらべ、現在の第6世代インテル・コアは、性能は3500倍、エネルギー効率は9万倍向上し、コストは6万分の1になっている。それによって、いまではちいさなプレイステーション3が、1992年のばかでかいスーパーコンピュータの演算能力をもつようになった。
 ムーアの法則の勢いはつづいている。まだとまっていない。いまでは爪ほどのマイクロチップに10億個のトランジスタが組みこまれているという。

〈チップ設計とソフトウェアを通じて、相互に強化し合うこの飛躍的進歩は、最近のAIの飛躍的進歩の基盤になった。次世代の量子コンピュータも進歩させた。従来では想像もできなかったような速度で機械が多量のデータを吸収し、処理できるようになったので、AIのパターン認識学習能力がヒトの脳に近づいた。〉

 あらためて、そういう時代なのだということを認識する。
 著者はセンサーの小型化がますます進んだことにも注目する。センサーは視覚、味覚、触覚、聴覚をデジタル化し、そのデータを伝達し、機械に何らかの判断を促す。
 いまやセンサーはあらゆるものにとりつけられている。洗濯機や冷蔵庫、自動車、カメラ、スマホなどにも。それらは単なる機械ではなく、知的な機械、言い換えればインダストリアル・インターネットになっている。それがいわゆるIoT(インターネット・オブ・シングズ)と呼ばれるものだ。
 センサーは警告を与え、正しい判断を促す。労働の節約や効率にも役立つ。それは機械にだけでなく、人間や生物にも取りつけることができる。機械が五感をもち、人間と交流する時代がはじまっている。
 ビッグデータによって、人間行動を調査し分析すれば、その目的に応じて、より効率的な対策をとることもできる。ビジネス面でも、これまでの当てずっぽうな宣伝に変わって、より正確なターゲティング広告が打てるようになった。それは、アマゾンをはじめ、ネットで買い物をしたことがある人には、それが痛感できるだろう。
 こうしたことが可能になったのは、記憶装置(メモリ)の飛躍的発展があったからだ、と著者はいう。
 ソフトウェアの貢献も見逃せない。ソフトウェアによって、数百万台のコンピュータがつながって、1台のコンピュータのように機能し、すべてのデータを検索できるようになった。いまではグーグルは検索エンジンとしてウェブ生活に欠かせない道具になっている。グーグルは世界の全情報を整理するという野望をいだいていた。それが夢ではなくなったのはHadoopというソフトウェアができたからだという。
 Hadoopはビッグデータ革命をもたらした。デジタル情報の登場によって、情報の記録、保存、普及がほとんど無料になった。ビッグデータは生活にもビジネスにも欠かせないものになっている。
 ソフトウェアの開発といえば、マイクロソフトのビル・ゲイツの名が思い浮かぶだろう。ゲイツはソフトウェアそのものに価値があると考え、それによって莫大な利益をあげた。ソフトウェアは複雑な手続きを単純化してくれる。人と人、人とものを容易に結びつける。垂直の積み重ねと水平の相互接続を可能にする。それが、アマゾンやウィキペディア、フェイスブックなどの土台となっている。
 こうしたソフトウェアの開発はいまでも加速度的に進められている。著者はそうした企業のひとつとしてGitHubを取りあげている。ここではオープン・ソース・コミュニティ方式がソフトウェア開発の原動力になっている。
 だが、接続の進歩が加速しなければ、現在のようなインターネットの発達は考えられなかった。それをもたらしたのは、世界中に広がる光ファイバー網、それにワイヤレス・システムの能力向上と高速化である。いまでは、それによって、ほとんど無限に近い情報量をゼロに近いコストで送信できるようになりつつある。iPhoneなどのスマホも、ワイヤレス・ネットワークの確立なしには普及しえなかっただろう。
 携帯電話革命を引き起こしたのはクアルコムのアーウィン・ジェイコムズだ。かれは1988年に最初の移動電話を発明した。それから、電話とインターネットを接続する方法を確立し、さらにカレンダーやアドレス帳、予定表、メモなども組みこんでいくのに成功した。それが1998年に開発されたスマートフォンのはじまりだ。だが、そのかたちは不格好で、スマートフォンが製品として普及するには、アップルによる2007年のiPhoneの登場を待たなければならなかった。
 そして、現在はクラウドへの融合がはじまっている。
 著者によれば、クラウドとは「ありとあらゆるプログラムを動かし、膨大な保存・処理能力を提供するコンピュータの集合のことで、ユーザーは携帯電話、タブレット、デスクトップのコンピュータを使い、インターネット経由でそれに接続できる」。
「人間と機械のパワーの歴史でもっとも注目に値する増幅器」、それがクラウドだという。

〈クラウドへのアクセスによって、地球上の人間はすべてそれぞれの仮想頭脳、仮想書類キャビネット、仮想工具箱を利用できる機会を得た。それらを使って、あらゆる疑問の答えを見つけ、お気に入りのアプリ、写真、健康記録、本、演説の原稿、株の売買記録を保存し、モバイルゲームを楽しみ、思いついたすべての物事を設計する。そのコストは、想像を絶するほど低い。〉

 著者は人類にとって、クラウドというエネルギー源は、火や電気よりも重要なものだと述べている。それはクラウド(雲)などといったぼんやりしたものではなく、スーパーノバ(超新星)と呼ぶべきものだという。

     2

 スーパーノバ(すなわちクラウド=巨大なコンピュータ・ネットワーク)が、人類全体のパワーを増幅している、と著者はいう。スーパーノバは人類がこれまでつくったことのない最高のツールだ。
 たとえば、少し前なら2年かかっていたジェットエンジンの設計を、いまではコンピュータの3次元ソフトと3Dプリンターを用いて、1週間で完成させることができる。テクノロジーの加速度的な進歩がそれを可能にした。
 スーパーノバの登場によって、データのデジタル化と保存の速度・規模が飛躍的に向上した。それに反比例して、データ利用のコストは急激に低下し、コンピュータの操作も複雑ではなくなった。それが生じたのは2007年前後だ。
 現在は経済もスーパーノバ経済に移行している過渡期だ、と著者はいう。運輸やエネルギーをはじめ、あらゆる産業がスーパーノバによって大きく転換しようとしている。その流れを活用できる者は絶好の機会を獲得し、取り残される者は、恩恵にあずかることができない。
 IBMが開発しているのは情報を解釈し、整理し、説明するコグニティブ[認識]・コンピュータだ。それによって微妙で複雑な翻訳作業をしたり、膨大な医学データにもとづいて、診察の手助けをしたりすることも可能になった。
 いまでは多くの機械にAIが取り入れられている。まもなく、だれもが個人用の賢いアシスタント(専用の小型ワトソンや、Siri、アレクサなど)をもつような時代になるだろう、と著者はいう。
 あらゆるデジタル・モデルをつくるソフトウェアも開発されている。それは建築や自動車、ゲーム、映画などでも活用できる。恐竜の標本だってつくれる。かつてはそれらをつくるのに、膨大な時間と費用がかかったが、いまではあっという間に、それらをデザインすることができる。それにより、さまざまなムダが省かれ、実験と創造のために使える時間も増えた。これからはデザインも人間と機械の共同作業になる、と著者は断言する。
 ある若者は自宅の空き部屋を収入源にしたいと思った。そこで、スーパーノバを活用し、家の空き部屋を貸してカネを儲けられるようなネットワークを構築した。それがAirbnbのはじまりである。Airbnbは急成長し、いまでは世界中を網羅する巨大なネットワークになった。それを可能にしたのは、契約や決済、写真による紹介、ランクづけ、評価や連絡などを簡単にできるようにした、さまざまなテクノロジーのおかげだ。
 アマゾンはスーパーノバをもっともうまく利用した巨大小売会社だが、ウォルマートなどの既存業者にとってもスーパーノバは欠かせなくなっている。ウォルマートは事業のあらゆる面にITを導入している。顧客はモバイル・アプリを使って、さまざまな商品を検索し、購入する。その商品をどの地域の店舗から配送するのがベストかをコンピュータは瞬時に判断する。
 こうしたスーパーノバ技術は、世界のどんな僻地でも利用されている。IT企業を立ち上げるのは、世界のどこでもできるのだ。ちゃんとした頭脳と短期間の訓練、それにアイデアさえあれば、すばらしいビジネスを展開できる、と著者はいう。
 著者によれば、グローバリゼーションとはモノやサービス、カネが国境を越えて移動することを意味している。それはモノにかぎらない。モノ以上に、デジタル・グローバリゼーションが爆発的に広がっている。そのことはフェイスブックなどをみてもわかるという。
 ビジネス・プロセスのデジタル化は生活のあらゆる面に浸透し、企業や顧客に利益をもたらしている。その影響は社会活動全般におよんでいる。

〈金融面で世界は相互依存が強まり、どの国も外国の経済の影響を受けやすくなった。見知らぬ人間同士の接触が、前代未聞の速さと規模を示すようになり、悪い思想といい思想が敵対し、あっという間に偏見を消滅させたり、逆に生みだしたりするようになって、すべての指導者が姿をさらけ出し、透明性が高まった。〉

 いまや携帯電話やスマホは手放せないものになっている。世界は相互接続しているだけでなく相互依存している。よい情報も悪い情報もすぐに伝わる。どんな貧しい人も携帯をもち、ゲームに参加している。急速にキャッシュレス社会に移行した中国では、多くの人がスマホで購入商品の支払いをするようになった。電子ブックやアプリ、オンラインゲーム、音楽、ソフトウェアなどの仮想商品がデジタル取引によって瞬時に決済されている。
 いまやメールはあまり急ぎでない連絡にかぎられ、メッセージ・アプリが日常的コミュニケーションの主流になりつつある。フェイスブック・メッセンジャーの月間ユーザー数は、すでに10億人を超えるという。
 ビジネスにおいては、ストックよりフローが重要になった。その背景にはデジタル・テクノロジーの発達と都市化がある。製品のサイクルは短くなっている。変化の速度はおどろくほどだ。それについていかなければ生き残れない時代がやってきた。新製品を開発するのは、自社のエンジニアとはかぎらない。世界中からアイデアを引きだす仕組みがつくられているのだ。
 いまやグローバリゼーションを推進するのは、デジタル・フローだ、と著者はいう。たとえばGE(ゼネラル・エレクトリック)は、中国の建設会社と手を組んで、アフリカやアジアでの受注を獲得している。「すべての国を市場とスキルの源の両方だと見なして、製造と設計の最適な人材、物流能力、金融、市場での販売機会をデジタルで編み合わせる必要がある」。グローバルな事業展開は、一社だけではできない。
 こうして、グーグル自動車やアップル銀行、アマゾン映画などといった派生業種さえ誕生する。どの会社もクラウド・コンピューティングを基盤として、業態を広げていった。いまやフローのなかにいることが、戦略と経済で絶大な優位性を占める、と著者はいう。
 インドではだれもが安い値段で買えるタブレットの開発が進められている。いまでは30ドル(約3300円)のタブレットも売っているという。タブレットさえもっていれば、だれもが英語を学んだり、数学や物理学の授業をダウンロードしたりすることもできる。それが貧困から抜けだすための一つの手段となりつつある。

〈先進国はたしかにフローと結びつき、新しい商品やサービスを創出して、輸出品として売り込むのが簡単になった。しかし、話はそこで終わりではない。もっとも貧困な人々も、グローバルなフローによって簡単に稼げるようになったのだ。〉

 こうしたグローバル・フローは、中小企業がグローバルに仕事を展開する気運をもうながしている。
 金融の世界では、デジタル化された金融のフローが猛烈な勢いで動き、市場の相互依存がますます高まっている。コンピュータを使った超高速グローバル取引は時にエラーや犯罪と結びつく。だが、金融デジタル化の勢いはとまらない。スマホをもってさえいれば、支払いや入金、融資もできるようになりつつある。アメリカでも、現金を使うのをやめて、ペイパルを使う人が増えているという。
 医療の分野でもデジタル化が進んだ。ますます多くの診断と処方がパソコンやスマホのオンラインでおこなわれ、それによってコストが削減され、遠隔医療も見込めるようになった。
 それは製造業でも同じだ。パソコンと3Dプリンターがあれば、新規事業に参入できる。自動車製造部品のモデルをつくるときも、パソコンでデザインして、3Dプリンターで鋳型をつくればいいのだ。
 フェイスブックは未知の人間や敵どうしをも結びつける。フローの加速が、人間の接触をスピーディにしている。そして他者から学び、その最善のものを総合することができるかどうかが、加速の時代に繁栄できるか、そうではないのかの分かれ道になってくる、と著者はいう。それは社会全体にとっても言えることだ。
 未知の人間どうしが新しいテクノロジーによって接触すると、そこにはコミュニティ意識が生まれてくる。それがフローのグローバル化のもっともありがたい部分だ。もっともそれはネオナチや自爆テロのネットワークもつくりうるのだが、いまのところは、マイナス面よりプラス面のほうが大きい、と著者は考えている。最近は、ブログによる訴えで、賛同者の署名が集まり、大きな運動へとつながることも、よく見かける。
 グローバリゼーションにはよい面と悪い面がある。それは、信じられないくらいの民主化をうながすいっぽう、多国籍企業に信じられないくらいの力を集中させる。適切なバランスをとるのは容易ではない。だからといって、デジタル・フローの流れを遮断するのは、適切な対策とはいえない、と著者はいう。
「私たちはうまくバランスをとることができるし、デジタル・グローバリゼーションを最大限に利用して最悪の影響を緩和する努力をつづけるインセンティブは膨大にある」。いまだいじなのは壁を築くことではなく、床を広げることだ、と著者は主張する。
 だが、ここで忘れてならないのは、いま人類が気候変動に直面していることだ、と著者は強調する。
 地球温暖化、森林破壊、海水の酸性化、生物多様性の消滅。われわれの周囲には、こうした問題が発生している。にもかかわらず、われわれはそれに対処しているとはいいがたい。
 地球環境の悪化を加速しているのが、テクノロジーとグローバリゼーションだということは、著者も認識している。
 たとえばグリーンランド氷床の融解は加速している。グリーンランドではもはや犬橇(いぬぞり)で隣の島に渡れなくなった。北極圏では冬に雨が降り、山をおおっていた氷河が消えようとしている。現在のCO²温度は80万年前の最大濃度より35%高くなっている、などなど。
 穏やかで安定した気候状態がつづいたのは、じつはこの1万1000年にすぎない、と著者はいう。しかし、それは永遠につづくわけではない。産業革命以降、人間は地球環境を変えるほどの影響力をもつようになった。
 地球は大洋、森林、大地、大気などからなるシステムで、それらが維持される微妙な臨界点を超えると、地球というシステムは次第に壊れていく。現在の地球の健康状態は思わしくない。人間の活動があらゆる面で地球の臨界点を突破しつつある。地球には驚異的なバランス維持能力があるものの、いまのような状況がつづけば、それも急速に失われる恐れがある、と著者は懸念する。
 地球人口はいまも増えつづけている。2015年の73億人が2050年には97億人に増えると予想されている。1959年の地球人口は30億人だった。それが2倍どころか3倍になろうとしている。人口が急速に増えるアフリカが、これからますます餓えや貧困、水不足、環境悪化、政治的混乱に苦しむことになる恐れはじゅうぶん考えられる。
 人口がますます増加していく地球を考えれば、われわれはクリーン・エネルギー、エネルギー効率、エネルギー節約のモデルを発明する責任がある、と著者はいう。「ソーラー・エネルギー、風力、電池、エネルギー効率の面で、毎日のように飛躍的進歩があり、数十億人が利用できるぐらい安価で大規模なクリーン・エネルギーの実現が期待できる」。そのことを自覚し、努力しなければならない。
 さらに問題は次のことだ。

〈母なる自然のプラネタリー・バウンダリーを超えたら、再建できないものが数多く残される。グリーンランド氷床、アマゾンの熱帯雨林、グレートバリア・リーフは再建できない。サイ、コンゴウインコ、オランウータンも同じだ。3Dプリンターでは、それらを生き返らせることはできない。〉

 たしかにそのとおりだ。

   3

 第3部の「イノベーティング」は、加速するイノベーションが人びとや社会、文化、政治にどのような影響を与えているかを論じたパートである。
 著者がジャーナリストとしての仕事をはじめた1970年代後半はまだタイプライターと初期ワープロの時代だった。そのころはまだ携帯電話もメールもなかった。急ぎの記事は必死に電話を確保して、口頭で送稿しなければならなかった。
 80年代半ばには変化の速度がすこし早まり、大きなフロッピーディスクを差し込むIBMのデスクトップが登場する。そして90年代半ばになると、コンピュータでメールやインターネットが使えるようになった。
 それ以降、ウェブ接続はどんどん速くなっていった。アメリカでは新聞配達がほとんどなくなり、新聞の廃刊も増え、広告はどんどんウェブに移り、記事は携帯で読まれることが多くなった。ところが、記者の仕事はますます忙しくなる。ウェブのために1日に何本も記事を書くだけでなく、ツィッターやフェイスブックの投稿もこなさなければならなくなったからである。
 スーパーノバ(高度化するコンピュータ・ネットワーク・システム)のおかげで、ブルーカラーの仕事は奪われ、ホワイトカラーのスキルも変更を余儀なくされた。
 車も自動運転の時代が着実に近づいている。もはや人が車を運転するより、ソフトウェアに運転してもらったほうが安全と思える時代なのだ。どこかに行きたいときはスマホでプログラミングするだけでいい。未来の工場は、ほとんど人がいなくても稼働するようになるだろう。リラックスしたいときは、コンピュータがここちよい詩や音楽を流してくれる。
 ともかく、変化が速すぎるのだ。だが、それを阻止するすべはない。「あらたな速度の変化を学び、順応するほかに、手立てはない」。要するに、動的安定をうまく維持するほかないのだ。
 社会はテクノロジーの変化に追いつけない。そのため空隙が生まれ、多くの市民が漂流しているような気分におちいり、不安を解消する単純な答えを聞かせてくれるような人間を望むようになっている。しかし、脅し戦術や子供だましの単純な解決策では、安心が得られるわけがない。不安な空隙を埋めるには「創造力とイノベーション」を発揮する以外にない、と著者はいう。
 ロボットが雇用をすべて奪うことにはならない、と著者はみる。だが、そうならないためには、教育と仕事のイノベーションが必要だ。一所懸命に働けば何とかなるという時代はすぎさった。
 かつてのように中スキルでも高給という仕事はなくなってしまった。たえず自分をつくりなおし、いっそう努力しなければ、ミドルクラスにいられない。これからはスーパーノバが生みだすツールとフローを、みずからのモチベーションによってすべて利用できる人間が生き残っていくのだ。
 しかし、だいじなのは全員が成長していくことだ。幸運な少数の人間だけが資産やビジネスチャンスを手に入れられるような社会は健全とはいえない。これからの知識・人間経済では、人的資本が資産になってくる。
 これまでの経験でいうと、労働の自動化はかならずしも雇用を奪わなかった。自動化によって商品の価格が低下すると、商品の需要も用途も増え、あらたな仕事が生まれた。たとえば銀行のATMもその例外ではない。ATMのおかげで、銀行の支店運営コストは下がり、そのため銀行は支店を多く開設することができるようになった。
 テクノロジーの影響は一様ではないが、それによって仕事はなくならず、新しい仕事が生みだされる、と著者はいう。古いありきたりのスキルはもう役に立たない。ただし、一部のスキルだけが貴重になり、その他のスキルは時代遅れになるため、スキルの格差が生じ、貴重なスキルをもつ人びとの需要と賃金が高騰する公算が高い。
 自動的な反復作業は最低賃金になるか、ロボットの仕事になる。ミドルクラスの仕事は高度化しており、仕事を首尾よくやるには、より高度な知識とそのための教育が求められる。専門的な能力に加え、新しい時代への対応力がだいじになってくる。
 AIをIAに変えることだ、と著者はいう。すなわち、AIを知的支援(インテリジェンス・アシスト=IA)する仕組みをつくること。人間の能力を拡張して、AIを駆使できるようにならなければならない。
 企業は常時、社員全員のスキルをアップするよう努めるべきだ。そのためには、勤務時間外に大学や大学院で学べるよう支援をおこなってもよい。一生ずっと社員でいるためには、一生学びつづけなければならない時代なのだ、と著者は強調する。
 手軽なコストで空いた時間にオンラインで学べる生涯学習講座(MOOC)も便利なツールだ。それによって、受講者はたとえばグラフィック・デザインその他の手法を身につけることができる。モチベーションさえあれば、グローバルなフローによって学び、それを仕事に生かせるようになるのだ。
 ここで著者が紹介するのはLearnUp.com(ラーンナップ・コム)というサイトだ。このサイトでは職探しを斡旋している。そこにアップされているのは、該当する会社に必要なスキルや条件、求職者のためのミニ講座、面接にさいしての手法など。
 ラーンナップ社は、企業と組んで、求人サイトで企業に適合する人材を集めている。求職者をふるいにかけるのではなく、具体的な求人に合わせて求職者を訓練し、指導するのだという。これを試しながら、求職者は仕事のできそうな会社を選ぶ。このサイトを利用すれば、求職者は職業安定所に行かなくても、自分の仕事を見つけることができる。
 カーン・アカデミーはユーチューブの動画を使って、無料の授業を英語で提供している。その授業は多岐にわたる。これを見れば、学習塾に行ったり家庭教師をつけたりして、大学進学のために大金を払わなくてもよくなった。カーン・アカデミーの無料模擬試験を受ければ、どの科目のどの部分に弱点があるかもわかり、それを克服するための練習プログラムを選択することもできるという。
 多くの学生が無料の演習ツールを利用して、自分にもっとも適した大学を選べるようになった。こうしたツールが役立つのは大学受験だけではない。生涯学習にも役立つはずだ。ただし、生徒はこれまで以上に集中力を発揮し、演習に没頭しなければ、大きな成果が得られないだろう。学ぼうという意欲がある者は、どこまでも進むことができるのがいまの時代だ、と著者はいう。
 またネットワーク上の活動で評価されて、学位がなくても雇用されるケースも増えている。「知的アルゴリズム[いわばコンピュータの扱い方]と知的ネットワークが登場して、新しい社会契約を可能にしている」と、著者はいう。それは新しい経済的機会につながる。ウェブサイトで、編み物やガーデニング、配管工事、その他の専門知識を学び、それを仕事で役立てることもできるようになった。
 リンクトインはビジネスのつながりを広げ、人材を採用するためのネットワークだ。職種や本人の能力とは無関係なのに、いまだに世の中では学歴が幅をきかせている。しかし、リンクトインは、学歴ではなく専門技能によって人的資本を発掘し、雇用を創出しようしている。
 アウトソーシング、自動化、ロボット化、デジタル化できる仕事は、どんどんなくなっていくだろう。これから残るのは「テクノロジーと対人関係のスキルの両方を利用する能力が求められ、それで報酬が得られる仕事」しかない、と著者は断言する。
 仕事は手から頭に、そして心に移っていく。知的な機械が存在する時代に人間であることがもつ重要な意味は心しかない。技術力はもちろん必要だが、これからはそれに加えて、協力、共感、柔軟性などの社会的スキル、言い換えればソフト・スキルがますます求められるようになる、と著者はいう。
 仕事の形態も変わってきている。企業に雇用されなくても、自営のプラットフォームを運営すれば、じゅうぶん仕事ができる時代になっている。
 変化が加速する時代には、大学で学んだ知識など、あっという間に古びてしまう。長い仕事人生のなかでは、一生学びつづけることが求められるだろう、と著者はいう。
 これからは職を探すのではなく、みずから職をつくりだすくらいの気構えと努力がなければ、生き残れない。みずからが常にビジネスチャンスをつくりだしていかなければならないのだ。
 けっきょくは自分次第、やる気の問題だ、と著者は断言する。オンライン・ツールを利用して、一生学びつづけ創造しつづける人間が勝利するのだ。政府や企業は、それが可能になる環境を市民や労働者に提供する義務がある。
 未来予想では現在の雇用の47%が失われるとされている。だが、著者はこの見方に否定的だ。「新産業、あらたなかたちの仕事、人間が自分の情熱を利益に変える新しい方法を生み出す、人間の工夫と意志の力を見くびってはいけない」。
 そうした例として著者があげるのが、ウーバーとAirbnbだ。ウーバーは、スマホの画面をタッチして目的地を入力すればすぐにタクシーが来て、目的地に到着するとスマホで料金が支払えるというシステム。Airbnbは世界最大の民宿ネットワークだ。ほかにもコンピュータ・ネットワークをもとに、多くの新たな企業家が生まれている。
 9時から5時までという古い労働の時代は二度と戻らない。これからは加速度的に発展するAIとセルフ・モチベーション、思いやりを組み合わせた仕事だけが生き残っていく、と著者は断言する。
 厳しい時代になったものだ。

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部族国家から帝国へ、そして中世国家のはじまり──滝村隆一『国家論大綱』を読む(17) [思想・哲学]

 ここからは第2巻の歴史的国家論にはいる。ただし、『国家論大綱』には断片的な(といっても膨大だが)論考しか残されていないので、おそらく当初予期されていた全体的考察からはほど遠いものになっている。
「方法としての世界史」において、滝村はヘーゲルとマルクスの方法を踏まえながら、世界史における国家の発展を、原初的、アジア的、古代的、中世的、近代的という段階的区別においてとらえることを提唱していた。それは必然的な歴史的発展というより、あくまでも把握の方法的枠組みだったといってよい。
 国家の起源、すなわち原初的国家は部族国家に求められる。部族は氏族の連合から成り立っているが、その部族が祭祀的・政治的・軍事的指導者として王を立て、貴族層とそれ以外の一般成員、奴隷とを包摂するときに、部族国家が成立する、と滝村は書いている。
 部族の経済基盤は農耕や牧畜である。部族においては、殺人や傷害、姦通や窃盗をはじめとして、さまざまなもめごとが発生する。自然の猛威も日常茶飯事だ。人間の集団には、内部のもめごとを解決したり、祭祀によって安全を祈ったり、死者をほうむったりする手法が不可欠になってくる。首長や長老が、こうした役割を担っていた。
 いっぽうで、部族は他の共同体を略奪したり、逆に他の共同体の侵略を防いだりするために戦争をくり返している。部族の命運のかかる戦争にさいしては、一時的にでも軍事的指導者が必要になってくる。そして、部族が発展し、戦争や防御が日常的に要請されるようになると、当初は一時的だった軍事指導者が、次第に首長の祭祀的・裁判的役割をも吸収して、恒久的な王として擁立されることになる。それが部族国家を成立させる経緯だといってよい。
 こうした部族国家は、ギリシャやローマでも、あるいは古代オリエントやゲルマン人共同体でも、はたまたアジア諸民族のあいだでも全世界的に出現したとみることができる。だが、その形態はかなり異なっていた、と滝村はいう。
 そこでまず取りあげられるのが、部族国家段階のギリシャである。ギリシャでは諸部族が都市に集住して、独自の地域共同体をつくりあげた。そこでは異部族の連合にもとづく王政、ないし貴族政がおこなわれていた。そうした部族国家が必要とされたのは、たえまない戦争と交易の両面に対応するためである。部族的な王は何よりも軍事指導者であり、内部では祭祀長としてふるまい、裁判に関しては民会にしたがっていた。こうした形態は王政時代のローマも同じである。
 だが、ギリシャでもローマでも、王政ないし貴族政は、下層の平民層によってくつがえされることになる。こうして、都市が発展するにつれて、法と共同機関を備えた市民の都市共同体が次第に誕生してくる。それを一般的に古典古代的段階の都市国家と呼ぶ。
 次に滝村はマケドニアの場合を紹介している。マケドニアといえば、またたく間に世界帝国を築いたアレクサンドロス大王(BC356-BC323)の名が思い浮かぶ。もともとちいさな部族国家だったマケドニアでは、軍事的、政治的、祭祀的に最高の権能をもつ王が、ヘタイロイと呼ばれる騎士たちを親衛組織としてかかえていた。
 アレクサンドロス大王のとき、このヘタイロイは8部隊に分かれ、それぞれが300騎から形成されていた。そして、8名の親衛隊長が、軍の最高幹部として王に仕えていた。従来の血統による貴族とは別に、王はこうした騎士階級をみずからに服属する新貴族として育て、その功績に応じて、かれらに所領を与えた。ここに部族国家が王国、帝国へと転じ、その中心に国家権力が形成されていく契機をみることができる、と滝村はいう。
 アレクサンドロスの帝国を、滝村はギリシャ的というよりオリエント的、ないしアジア的[ヨーロッパからみてエーゲ海の東を意味する]なものととらえている。
 帝国とは中心共同体が異系文化圏の共同体を従属的に支配する国家体制を意味する。帝国の形成は征服にもとづき、それによって従属共同体から貢納、租税、賦役を徴収する。その体制を維持するには、帝国は強大な軍事組織と行政機構を保持するとともに、それを指揮する帝権を必要とした。
 父親のフィリッポス2世から軍事国家マケドニアを引き継いだアレクサンドロスは、強大な軍事力によって、次々と領土を拡張し、エジプト、ペルシャを征服した。広大な領土はすべて王のものとされたが、実質的には貴族層である将軍に下賜された。将軍たちは下賜された領地にたいする地租・地代徴収権と裁判権をもち、その治安維持にあたった。だが、アレクサンドロスの死により、その帝国はたちまち崩壊していく。
 ローマ帝国もまたアレクサンドロスの帝国支配方式を受け継ぐ。共和政時代(BC509-BC27)のローマの政治体制は、元老院と上級政務官(執政官と法務官)、民会の三者によってかたちづくられていた。三者の関係は複雑で重層的である。とはいえ、滝村によれば、共和政ローマは、元老院が大きな役割をはたしながら、実質的には上級政務官が支配していたという。
 ローマは外部世界への拡張によって発展した。宣戦や和平は元老院の決定にもとづく。だが、戦争の遂行にあたったのは上級政務官の執政官(コンスル)である。さらに属州が拡大するにつれて、属州統治の総督には、前執政官(プロコンスル)が任命された。民会はそれらの決定を承認するにすぎない。とはいえ、古代ローマの政治が、貴族層だけでなく平民層によってもかたちづくられていたのは、それが騎士と重装歩兵からなる戦士共同体の性格をもっていたからである。
 しかし、第2次ポエニ戦争(BC219-BC201)以降、領土が飛躍的に拡大するなかで、ローマ帝国の政治体制は次第に変質していく。貴族が大土地所有者になるいっぽうで、自由農民が没落し、無産市民が生まれ、貴族の庇護民となっていく。民会は有名無実の存在に変わっていく。属州にたいする元老院の形式的権限(命令権)は強化されたが、軍事・裁判・徴税を掌握した上級政務官の属州統治権はそれ以上に強大化していった。そのなかでも、とりわけ注目すべきは、イタリア内を統治する執政官(コンスル)と属州を統治する前執政官(プロコンスル)の権限が分化していったことだ、と滝村は指摘している。

〈このような元老院の形式的かつ名目的強大化と、上級政務官権力の独立的強大化および民会の衰退という、共和政諸権力の実質的変形の下で、やがて共和政末期の長期にわたる内乱、すなわち強大な属州クリエンテス[庇護民]を抱える、有力政治家=武将間の血みどろの権力闘争が、展開される。それは、支配共同体の政治的共同体としての実質的解体を証示するものであるとともに、帝国支配としての一元制と統一性を実現するための、新たな政治的共同体としての統一的再編成への、胎動と飛躍の道であった。〉

 ローマ帝国が共和政から帝政にいたる道筋をたどるのは必至だった。カエサルが独裁政権を樹立したあと、武将間の権力闘争と内乱に勝ち残ったのはオクタヴィアヌス(BC63-AD14)である。オクタヴィアヌスは初代ローマ皇帝となり、アウグストゥス[元首]の称号を得る。
 オクタヴィアヌスは元老院へのかぎりなき忠誠と尊重を誓いながら、その権限を巧妙に奪いつつ、みずからの実質的支配権を確立した。帝国の属州全体への支配権と指揮統帥権を得たオクタヴィアヌスは、さらに元老院の議決権や裁判権を骨抜きにし、元首直属の軍事・官僚組織を確立していった。
 いっぽう、帝国の周辺では、ゲルマン人の動きが次第に活発になっていた。紀元前50年ごろに書かれたカエサルの『ガリア戦記』には、ゲルマン人が農耕を嫌って、常に移動しながら、戦争と略奪をくり返していること、その生活様式が狩猟と粗野な牧畜にもとづくきわめて原始的なものであることが記されている。ところが、それから150年後、紀元100年くらいに書かれたタキトゥスの『ゲルマーニア』によると、ゲルマン人はすでに牧畜と農耕を主とする定着民族だとされている。カエサルとタキトゥスのちがいについては多くの論争がある。
 だが、それはともかく、滝村が注目するのは、カエサルの記述に、ゲルマン人が戦時には戦争指揮者として首領を選び、首領のいない平時には長老が裁判でもめごとを収めるとされているところだ。いっぽう、タキトゥスは、すでにゲルマン人の多くの部族が王をもち、長老とともに村落を治める体制がつくられつつあると記している。ちいさなもめごとは長老によって処理されるが、宗教上・政治上の犯罪については、王と長老が民会を開き、裁判をおこなっていた。
 滝村は次のようにとらえる。ゲルマン人の共同体において、軍事指揮者はもともと戦時においてのみ選出されていた。しかし、外部世界との緊張関係が常態化するにつれて、非日常的だった軍事指揮者が、祭祀の主催者たる地位を包摂することで超越的な部族王へと転成し、それによって萌芽的な部族国家が形成されたのだ、と。
 もっとも、宗主権をもつ帝国の強制下で、部族を治めるために王が選出されるケースもないわけではない。この場合、王は帝国の手先ないし代官という性格をもつことになる。だが、帝国の苛酷な支配にたいする部族の抵抗や反発が強まったときには、傀儡首長が追放され、統一部族の首長のもとで独立戦争が戦われ、それが勝利したあかつきには、新たな部族国家が誕生するのである。
 滝村は次のように書いている。

〈相次ぐ戦争と征服の只中から、典型的な部族国家を形成させた部族では、部族的・王が……とりもなおさず最高軍事指揮者として、下級の軍事指揮者たる各首長ないし長老を統率し……最高祭祀者として登場した。……そうして、この部族的・王および首長・長老層の、指導的ないし支配的な政治的地位は、直接富裕かつ筆頭的な経済的地位を、決定し保障する。〉

 タキトゥスが指摘するように、ゲルマン人の生活は戦争と略奪を中心に回っていた。そして、勇敢に戦うことこそが、戦士としての権威と名誉、褒賞を保証したのである。
 日常的な戦時体制によって、ゲルマン人は部族国家を形成し、王と貴族層(首長・長老)、従士を生みだした。とはいえ、「生まれたばかりの王権は、いぜん部族制度のおしめのなかにくるまって」いた、と滝村はいう。
 そして、ゲルマン民族は4世紀の民族移動期をへて、部族国家から王国の段階へと突き進む。ローマ帝国が滅亡し、分裂する過程で、いわば戦国の覇者となったのは、ゲルマン民族の一族、フランク人だった。フランク人は5世紀後半にフランク王国を築くことになる。中世国家のはじまりである。
 部族国家はどのようにして中世国家に転じていったのだろうか。
 民族大移動と戦争は、王のもとに直属従士団をつくりあげていった。直属従士団は新貴族となり大土地を所有するいっぽう、王国には昔ながらの氏族による農民村落も残っていた。新貴族は王権のもと、領主として、租税・警察・裁判権を掌握し、私兵を育成した。王は貴族の上に立ち、徴兵権や裁判権を含む最高の権力を有していたが、その権力は部族共同体的な規範により大きな制約を受けたものだった。
 だが、王の権力は次第に強まっていく。王は王国全域にわたる祭祀権(具体的には教会の保護)、外部にたいする戦争と講和の権利、政治秩序維持のための裁判権・警察権、経済面における関税徴税権、貨幣鋳造権、地代徴収権、採塩権などを有するようになる。そして上級貴族にたいしては、君臣関係にもとづき土地を給付して領地の支配をまかせるのと引き換えに、王が貴族にたいする軍役徴収権と官職任命権を握った。
 こうして8世紀にはいると、王権と封建領主的支配権が確立し、農奴制にもとづく自給自足的な農村共同体が誕生する。これが中世国家のはじまりである。

[翻訳の仕事がはいったため、しばらくブログを休みます。つづきは後日。]
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