So-net無料ブログ作成
検索選択
前の10件 | -

『資本の〈謎〉』を読む(5) [商品世界論ノート]

資本主義にはさまざまの否定的側面(くり返される恐慌、環境の破壊、貧困など)がある。にもかかわらず、18世紀後半以降、資本主義が人類進化のダイナミズムを担ってきたことはたしかだ、と著者は書いている。
資本主義の進化を著者は時間的・空間的にとらえているが、第5章「資本主義の共進化」では、まず時間的(歴史的)進展が、7つの領域にわたって整理されている。
それは次のようなものだ。

(1)技術と組織形態
(2)社会的諸関係
(3)社会的・行政的制度
(4)生産と労働過程
(5)自然との関係
(6)日常生活と種の生産
(7)世界に関する精神的諸観念

これらの領域は、資本主義の進展とともに存在し、進化する。著者のいう「共進化」とは、そういう意味だ。
リストからはさまざまな光景が読み取れる。
たとえば、これまでの技芸(アート)が技術(テクノロジー)に代わること。
大規模な工場がつくられること。
労働者の性格が職人から機械の補助係や番人に代わること。
女性が雇用されて働くようになったこと。
公教育が重視されるようになったこと。
エレクトロニクスやコンピューターなど、爆発的な技術革新が起こること。
HIVやインフルエンザなど、新しい病原菌が突然蔓延すること。
等々……
きしみあい併存するこうした諸領域をフランスの哲学者ルフェーブルは「総和(アンサンブル)」と呼び、その同僚ドゥルーズは「アサンブラージュ(結合体)」ととらえた。
そして、これらの領域が常にゆるやかに進化するのではなく、しばしばその間に攪乱と変動が生じるのが、これまでの資本主義の歴史だった、と著者は論じる。
たとえば新自由主義が横行したこの30年ほどの歴史。金融の規制緩和が進むいっぽうで、企業の海外移転がはじまり、下請け化や非正規雇用が広がり、国家の福祉政策が見直され、ポストモダンの都市空間がつくられ、パソコン携帯が普及し、カネもうけが礼賛され、自己責任がおしつけられるといったような。これらは、ひとつの「総和」として、とらえられるべきだ。
反資本主義運動は、これら7つの領域のどこからはじまってもおかしくないと著者は断言している。個々人がどこかで「それはおかしい」と声をあげることが、資本主義の共進化をくいとめる第一歩になる。
そのとおりだろう。反資本主義運動を政治主義的にとらえなければ、著者の主張はまったく正しい。

『資本の〈謎〉』を読む(4) [商品世界論ノート]

問題は資本そのものか、それとも資本〈主義〉なのかだ。問題が資本そのものにあるとすれば、資本は解体されなければならない。しかし、問題が資本そのものではなく、資本主義にあるとするなら、行きすぎた資本の動きを規制することによって、社会のバランスを保つことを考えなければならない。
もっとも、資本と資本主義をはっきり区別できるかどうかは、むつかしいところではある。
いっぽうで、反資本主義というべき社会主義には、大きく分けて北欧型社会主義とソヴィエト型社会主義までの幅がある。北欧型はともかく、ソヴィエト型社会主義が資本を没収して社会資産とし、それにもとづいて計画的な生産と分配を構想し、それが無残に挫折したのだとしたら、その理由はどこにあったのだろうか。
そして共産主義だ。共産主義社会が商品、貨幣、資本さえ必要としない、自由平等で豊かな社会だとするなら、はたしてそんな社会は実現可能なのか。
本書、デヴィッド(ほんとうはデイヴィッドだと思うが)・ハーヴェイの『資本の〈謎〉』を読むうちに、ふとそんな疑問がつのった。かれの立場はニューレフトで、フランスの社会哲学者、アンリ・ルフェーブルなどの影響も受けているようだ。なつかしい。
ぼく自身はマルクス主義者ではなく、ただのひねくれじいさんだ。資本主義や社会主義という言い方さえ、じつはあまり好きではない。しかし、あまり先走って考えないようにしよう。まだ本は半分も終わっていない。つづいて第4章「どのように資本は市場を通るのか」を読んでみることにする。
資本にとって、商品は生産されただけでは何の意味もなく、売れてこそ値打ちがある。販売に失敗すると、利潤は実現されず、資本の一部が失われる。著者は商品が売れるには、単に広告宣伝だけではなく、その前に商品を必要とする生活スタイルがつくられねばならないという。いまや都会で生活するには、車や冷蔵庫、エアコン、テレビパソコンは奢侈品ではなく必需品となっている。
ここで、すこし経済理論が展開される。
労働者は自分の賃金によって、こうした商品を購買する。しかし、考えてみれば、資本は利潤を確保するのだから、総資本より総賃金が少なくなることはまちがいない。そうなると、供給のほうが需要より多くなって、いつかは過少消費による恐慌が生じるのではないだろうか。
著者はそういう素朴な疑問を挙げて、これを回避するには、金の供給量を増やしたり、海外に追加需要を求めたりするしかないというローザ・ルクセンブルクの説を紹介する。しかし、有効需要という難問に対する答えは、すでにマルクスの分析に含まれていた。その答えは、資本家による消費にあった。「剰余価値の一部は収入(たとえば必需品プラス奢侈品とサービス)として消費されるが、他の部分は、追加労働者を雇用するために賃金財に再投資されるか、あるいは新たな生産手段へと再投資される」。つまり有効需要は、労働者の消費プラス資本家の投資を含む消費によって成り立つわけだ。
これはケインズの認識とほぼ同じだといえるだろう。著者の言い方ではこうだ。
〈昨日の剰余生産物[総商品]に対する有効需要は、労働者の消費と、資本家の個人消費と、明日のさらに拡大する生産から生じる新しい需要に依存している。過少消費問題として現れるものは、昨日生産された剰余の一部のために再投資の機会をいかに見出すかという問題に転化するのである〉
つまり経済全体でみるかぎり、絶えることなき投資が有効需要不足を回避する最大の手段なのである。資本主義はとまらない。いつもコマのように回りつづけなくてはならない。それだけではなく、悪夢の竜巻のように渦をまいて大きくなり、まわりをのみこんでいかなければ持続できないシステムなのだ。
だが、投資に限界はないのだろうか。労働者はなけなしのおカネを、資本家は大金を貯金して、それが投資されず、そのまま保持、ないし退蔵されればどうなるか。ケインズはこれを「流動性の罠」と呼んだ。
資本主義の難問が、依然として、商品の生産過程と流通過程のギャップにあることはいうまでもない。平たくいうと、ものをつくってもさっぱり売れないこともあるのだ。全般的に有効需要が不足すると、投資してももうからず、いわゆる下方スパイラルがはじまる。
たとえば、もうからないので企業の規模を縮小し、労働者の雇用を減らす。すると、ますますものが売れなくなるから、さらに規模を縮小し、雇用を減らす。こういうことが起きないように、いざというときは、たとえ財政が赤字になっても、国家が積極的に財政的・金融的措置に乗りだすというのが、ケインズ流の恐慌回避策だった。
著者はここで銀行の役割についてふれている。銀行の役割は「今日の再投資と昨日の剰余産出とのあいだの時間的ギャップ」を埋めることにあるという。平たくいうと、銀行は預貯金を集め、それを投資する人に貸すことによって利子と手数料を稼ぐのだが、こうした銀行があることで投資はスムースに促進される。つまり、いま手元におカネがなくても、将来、それが手にはいる(昨日の剰余産出が実現する)ことが見込めるなら、いまおカネを借りて、投資に回すことができる。これが信用制度である。
こうして国家によるマクロ政策と銀行の信用制度によって、資本主義の拡大は保証されることになる。しかし拡大しつづけるのがむずかしくなれば、どうなるか。それがいま起きていることだ。
著者は近年の中国が膨大な外国資本を吸収し、巨大な有効需要を生みだし、さらにそれが多くの投資を引き寄せていることを認めている。だが、アメリカやEU、日本などでは、はたして投資は予測と期待どおりに実現できるのだろうか。それが実現できないとなると、信用不安が広がる。
国家によって、安定性を保障されている貨幣への信頼が失われると、いったい何が起こるのだろうか。「真の問題は有効需要の不足ではなく、昨日の生産で産出された剰余を再投資して儲けを上げる機会が不足していることである」
この章の最後に、著者は資本主義に恐慌はつきものだと指摘し、こう書いている。

〈一つの限界が克服されても、蓄積はしばしば、どこかで別の限界にぶつかる。たとえば1970年代に、労働供給の危機を緩和し、組織労働者の政治的力を抑制するための動きが起きたが、これは生産物に対する有効需要を減少させ、1990年代に市場における剰余の実現を困難にした。この実現問題を緩和させるために信用制度の利用を労働者階級の中にも拡大する動きが起きたが、これは結局、労働者階級の収入と比較しての過剰債務状況を招き、これが今度は、2006年に起こり始めた、種々の債券の質に対する信用の危機を引き起こした。資本主義の恐慌傾向は解決されることなく、ただあちこちにたらい回しされているだけなのである〉

だが、はたして資本主義に代わるものは考えられるのだろうか。
さらに読んでみることにしよう。

清光館哀史 [柳田国男の昭和]

《第237回》
資料173.jpg
[八戸の白銀浜、柳田が家族に送った絵葉書から]

 三陸の旅がつづいている。
 釜石までで予定の旅程はほぼ半分終わった。そのあとは佐々木喜善を加えて、リアス式の海岸道を一路、八戸近くまで北上する。北上山地ふもとの渓谷と台地を歩く、かなり苦しい道のりだった。東北の夏は短い。クズやキキョウ、ハギ、そろそろ秋の花が咲きはじめていた。
 釜石からはすぐに急な山道になり、小さな峠を越えると、そこが鵜住居(うのすまい)村(現釜石市内)だった。道沿いに常楽寺という寺があったので、その本堂をのぞいてみると、新旧の肖像画がすき間もなく掲げてあった。写真もあったが、大部分が江戸絵風の彩色画だった。描かれているのは大津波で亡くなった人たちである。国男は、その絵のひとつひとつを眺め、こう記す。

〈不思議なことには、近ごろのものまで、男は髷(まげ)があり、女房や娘は夜着のような衣物を着ている。ひとりで茶を飲んでいるところもあり、3人5人と一家団欒の態を描いた絵も多い。後者は海嘯[大津波]で死んだ人たちだといったが、そうでなくとも一度にためておいて額にする例もあるという。立派にさえ描いてやれば、よく似ているといって悦ぶものだそうである。こうして寺に持ってきて、不幸なる人々はその記憶を新たにもすれば、また美しくもした〉

 亡くなった人びとが寺で供養されているのを見た国男は、めずらしいことに仏教の恩沢を感じて、次のような感慨をもらしている。

〈仏法が日本国民の生活に及ぼした恩沢が、もしただひとつであったとするならば、それはわれわれに死者を愛することを教えた点である。供養さえすれば幽霊も怖くはないことを知って、われわれははじめて厲鬼(れいき)駆逐の手を緩め、同じ夏冬の終わりの季節をもって、親しかった人びとの魂を迎える日と定めえたのである。合邦の浄瑠璃にもあるごとく、血縁の深い者ほど死ねば恐ろしくなるものだなどといいつつも、墓をめぐって永く慟哭(どうこく)するような、やさしい自然の情をあらわしうることになったのも、この宗教のおかげと言わねばならない〉

 鵜住居からひと尾根越えると大槌町、そこから下ると吉里吉里に着く。道々のほとんどの家に初盆の燈籠がかかげられていた。大津波の死者を祭っているわけではない。前年の「スペイン風邪」と呼ばれた大感冒(インフルエンザ)で、このあたりで死者を出さぬ家はまれだったのである。なかには天然の杉の木を柱とした高燈籠は大正時代でも見かけなくなった古風なものだったが、それのあまりの多さに、国男は秋の情緒を通り越して、物寂しさをおぼえないわけにはいかなかった。
 吉里吉里からは波板海岸を抜けて、下閉伊郡にはいり、船越村(現山田町)、山田町をへて、宮古町(現宮古市)に到着する。そこからは平原状の「ひとつづきの大長根」で、田老(たろう、現宮古市内)、小本(おもと、現岩泉町)、平井賀(田野畑村)、普代、野田、米田(まいた、現野田村)と村々を延々と歩きつづけた。すべて平成の東日本大震災で大きな被害を受けた地域である。
 小本では草履と足袋が破れてしまったので、新しいものと買い換えようとしたが、何と昔の殿様がはくような上等な足袋しか売っていない。このあたりの農民がぜいたくかといえば、そうではなく、むしろかれらにとっては足袋自体が奢侈品で、ふだんははかずに素足ですませているのだった。
「豆手帖から」の記事は小子内(おこない、現洋野[ひろの]町)が最後である。国男の旅はさらに八戸、そして下北半島、弘前から能代までの海岸線、秋田へとつづくのだが、本人もいうように「どうも調子が取りにくいので、中ほどからやめてしまった」。長旅の疲れが出はじめていた。
「浜の月夜」は連載「豆手帖から」の最後を飾る名篇となった。
 あんまりくたびれたからといって、国男ら3人の一行は、小子内に1軒しかない清光館という立派な名前のついた古ぼけた宿に泊まった。ほかに客はいないらしく、おかみが4枚の障子を立てた2階の客室を息を切らせて拭き掃除するありさま。それでも若い亭主と母と女房の親切は格別だった。その日は旧盆の14日だったというから、新暦に直せば8月27日のことである。
 浜に出る道の途中の広場で、月夜の盆踊りがおこなわれていた。現在のように真ん中にやぐらを組んで、電気をこうこうとつけ、おなじみのレコードをやかましくかけて、ゆかたを着て踊るといったたぐいの催しではない。太鼓も笛もない。踊るのは女ばかりで、男はもっぱら見物にまわり、見物の人数は国男の一行を加えても20人ほど。一見、さびしい踊りである。
 踊り子はいちように白い手拭いで顔を隠し、帯も足袋もそろいの白、下駄が真新しいのがめだった。前掛けは昔ながらの紺無地だが、それに家紋やら船印をつけた金紙が月の下でかげったり光ったりする。
「ほんとうに盆は月送りではだめだと思った。ひとつの楽器がなくとも踊りは眼の音楽である。四周が閑静なだけにすぐに揃って、そうしてしゅんでくる」
 そう国男は書いた。新暦ではだめで、盆には満月の光がふさわしい。その光のもとの歌と踊りで、だんだん一団の気持ちが高揚し、その場が心底から盛り上がっていくのだ。それに女の声のよいこと。何と歌っているのか、よくわからないので、まわりの男たちに聞いてみるが、にやにや笑っているだけで、だれも教えてくれない。ごく短い句が3通りあって、それを高く低くくり返し歌っていることだけはわかった。
 翌朝、起きて障子をあけてみると、ひとりの娘が水くみをしていた。隣の細君も朝の支度に忙しそうだ。宿のかみさんに聞くと、夜明け近くまで踊ったようだが、どの娘の顔にも疲れの影らしいものはみえない。えらいものだなと思う。厳しい生活に耐えている女たちの心根をみたような気がした。昨夜の踊りの印象を胸にきざみながら、国男らは村を立つ。広場の跡は、何ごともなかったように、きれいに片づいていた。
 この話には後日談がある。6年後、たまたま親子連れで東北を訪れた国男はふとなつかしくなって、小子内に寄ってみることにした。ところが、あの清光館がどこにも見あたらない。

〈その家がもう影も形もなく、石垣ばかりになっているのである。石垣の陰には若干の古材木がごちゃごちゃと寄せかけてある。真っ黒けに煤(すす)けているのを見ると、たぶん我々3人の、遺跡の破片であろう。いくらあればかりの小家でも、よくまあ建っていたなと思うほどの小さな地面で、片隅には二三本のトウモロコシが秋風にそよぎ、残りも畠となって一面のカボチャの花盛りである〉

 こうして「清光館哀史」がつづられる。
 近所の大勢の人に問うてみて、ようやく事情が判明した。ある大暴風雨の日に沖に出ていて沈んだ船に、宿の主人も乗っており、帰らぬ人となった。それから一家は離散する。女房は久慈の町で奉公し、ふたりの子供はどこかにあずけられた。母親の行方はわからないという。わずか6年のあいだのできごとに、国男は茫然とする。
 ハマナスの咲く浜に出てみた。もうだいぶオレンジの実をつけている。地元ではこれをヘエダマと呼ぶらしい。浜には15人ほどの娘が仕事がてらに寝転んでいて、親子連れの国男は彼女らにきさくに話しかける。最初は雑談をして、盆踊りの話を聞く。

〈「今でもこの村ではよく踊るかね」
「今は踊らない。盆になれば踊る」
 こんな軽い翻弄をあえてして、また脇にいる者と顔を見合わせて、くっくっと笑っている。
 あの歌は何というのだろう。何べん聴いておっても私にはどうしても分からなかったと、半分独り言のようにいって、海の方を向いて少し待っていると、「ふん」といっただけで、その問いには答えずに、やがて年がさの一人が鼻唄のようにして、次のような文句を歌ってくれた。

  なにヤとやーれ
  なにヤとなされのう

 ああやっぱり私の想像していたごとく、古くから伝わっているあの歌を、この浜でも盆の月夜になるごとに歌いつつ踊っていたのであった〉

 それは恋歌だった。その背後には村の女たち一人ひとりのちいさな物語が隠されている。だが人の一生が哀しいように、「依然として踊りの唄の調べは悲しい」と国男は感じる。それは、通りすがりの旅の者には、けっして伝わらぬ哀しさなのだ。
 東北がからだに染みついた。柳田民俗学がただの学問ではなく、旅の記憶でもあるのは、そこに人びとの表情と心根が刻印されているからだった。

大津波の記憶 [柳田国男の昭和]

《第236回》
 大雨による出水の翌日、かんかん照りとなった一関を出発した国男は、東北線に乗り水沢駅に着いた。その先、雨の影響で鉄道が不通になっていた。国男は歩いて、江刺郡岩谷堂(現奥州市)に向かった。鉄道が使えないので、岩谷堂から人首(ひとかべ)を通り、大好きな峠越えで遠野にはいろうとしたのである。それにしても、昔の人の健脚ぶりには驚くほかない。
 遠野では、この先の旅に同行する佐々木喜善と松本信広が、国男の到着を待ちかまえていた。くり返すまでもなく、佐々木は『遠野物語』の語り手で、国男よりひとまわりほど年下、松本は慶応大学を卒業したばかりの青年で、国男に私淑していた。のちに慶応大学教授となっている。もうひとり旅に加わる予定だったニコライ・ネフスキーは病気のため、同行をあきらめることになった。
 こうして同行者ふたりを加えて、国男は三陸海岸を北上するという今回の旅の主要目標にいどむことになった。ほんとうは遠野から東にでれば釜石に着くのだが、できるだけ長く三陸海岸北上のルートを取りたい国男は、まず松本を伴って南の大船渡に向かう峠越えの道を選んだ。佐々木喜善とは釜石で合流することにした。赤羽根(現遠野市)までは岩手軽便鉄道がある。そこから峠を越えて、世田米(現住田町)を通り、さらに尾根を超えて盛町(現大船渡市)に着き、海に出た。
 大船渡からは南下して、小友村(現陸前高田市)、唐桑浜(現気仙沼市)をへて、気仙沼に到着する。気仙沼から釜石までは、さすがに同じ道を戻らず、船で北上した。釜石に着いたのは8月20日。石巻をふくめ、三陸海岸線の町々は、2011年3月11日の大地震と津波で甚大な被害を受けた地域である。
 国男は唐桑浜で村の女から聞いた話をつづる。この村では40戸のうち前の津波で流されなかったのは自分の家だけで、それも床上1メートル以上水があがって、あっという間に何もかもさらっていったという。8歳になる弟は道のそばに店を出しているお婆さんのところにいっていて、迎えにいったのに戻りたくないといって、そのまま永遠に帰ってこなかった。
 彼女はこのとき14歳で、高潮に押し回されたけれど、柱と蚕棚のあいだにはさまって動けなくなくなっているうちに水が引いたので助かった。そのあとうしろの岡の上で父親がしきりに名前を呼んだので、高台にのぼった。母親も乳呑み児を必死で抱きかかえ、山にあがって生き延びた。高台では家にあった薪を300束ほどたきつづけた。海上からその光を見て、泳いで帰った者もだいぶいた。母親はたき火の前でじっとしていたので、翌朝、赤ん坊はすすで胡麻あえみたいになっていた、と彼女は笑いながら話した。
 国男はさらにこう書いている。

〈時刻はちょうど旧5月5日の、月がおはいりやったばかりだった。怖ろしい大雨ではあったが、それでも節供の晩なので、人の家に行って飲む者が多く、酔い倒れて帰られぬために助かったものもあれば、そのために助からなかった者もあった。総体に何を不幸の原因とも決めてしまうことができなかった。例えば山の麓に押しつぶされていた家で、馬まで無事であったのもある。2階に子供を寝させていた母親が、風呂桶のまま海に流されて裸で命をまっとうし、3日目に屋根を破って入ってみると、その子がきずもなく生きていたというような珍しい話もある。死ぬまじくして死んだ例ももとより多かろうが、このほうはかえって親身の者のほかは忘れていくことが早いらしい〉

 人は忘れやすい。いや、忘れないと生きていけない存在なのだ。ここで語られたのは1896年(明治29)6月15日の、いわゆる明治三陸地震である。国男が訪れたのは、正確にいうと地震から24年後である(記事のタイトルは「二十五箇年後」)。
 国男はこうつけ加える。

〈回復と名づくべき事業は行われがたかった。知恵のある人は臆病になってしまったという。元の屋敷を見捨てて高みへと上った者は、それゆえにもうよほど以前から後悔をしている。これに反して、つとに経験を忘れ、またはそれよりも食うがだいじだと、ずんずん浜辺近く出た者は、漁業にも商売にも大きな便宜を得ている。あるいはまた、よそからやってきて、委細かまわず勝手なところに住む者もあって、けっきょく村のかたちは元のごとく、人の数も海嘯(かいしょう)[大津波]の前よりはずっと多い。一人ひとりの不幸を度外に置けば、きずは既にまったく癒えている〉

 だが歴史はくり返す。村では文明年間(15世紀後半)に起こったとされる地震は、すでに完全な伝説になっていたと国男はいうが、これはおそらく勘違いで、正確には享徳地震(1454年)や慶長三陸地震(1611年)の大津波を指すのだろう。そして明治の地震と大津波も24年後の時点で、すでに忘却がはじまっていた。まして国男自身もこのあとまもなく関東大震災が発生するなどとは夢にも思っていない。

豆手帖から [柳田国男の昭和]

《第235回》
『雪国の春』に収められた1920年(大正9)の東北旅行を追ってみよう。ただし、本のタイトルとちがい、実際の旅行はこの年の8月から9月にかけてで、その前後も柳田国男は雪の深く残る春まだきに東北を歩いたことはない。
 雪国の春は、あくまでも想像のなかにある。それでも国男は東北に春が戻ってくる喜びを、この旅行の哀しくいとしい思い出とともに、ひとつの希望のようなものとして伝えたかったのである。
『柳田国男伝』によると、国男はまず仙台に到着し、石巻に向かっている。このころ仙台と石巻を結ぶ鉄道はなく、塩釜から船で松島湾を渡って野蒜(のびる)まで行き、そこから徒歩で石巻にはいらなければならなかった。いったん女川を訪れたあと、ふたたび石巻に戻り、飯野川町(現石巻市河北町)から北上川(追波川)を下って、十五浜村(現石巻市雄勝町)で1泊。名所を避け、できるだけ観光客の行かないところ場所を訪れるのが、かれの旅のスタイルである。
 三陸の入り組んだ複雑な地形は、まっすぐの北上を許さなかった。飯野川に戻った国男は、そこから北上川沿いに歩き、入沢(現石巻市桃生町)登米、佐沼(現登米市)を訪れたあと、東北線で岩手県の一関にはいった。
 8月10日の一関は折からの大水で、北上川につながる川の水があふれだしていた。東北線も不通となる。国男は終日、宿でこれまでメモしていた草稿を整理し、4回分の記事を朝日新聞に送った。1回が400字詰めにして5枚ほどである。
 最初の記事「方言」(のち「仙台方言集」と改題)で、国男は方言を無理やり矯正しようとする風潮を批判し、「願わくは将来大いに東北を振興させ、清盛の伊勢語、義仲の木曽語、六波羅探題の伊豆語鎌倉語、室町の三河語等の力をもって、いまの京都弁を混成したごとく、近くはまた北上上流の軽快なる語音を廟堂に聞くように、少なくとも一部の藩閥を、東京の言語の上にも打ち立てしめたいものである」と記した。
 薩長閥ではない盛岡出身の原敬が首相の座についていた。明治維新以来、「白河以北、一山百文」とばかにされていた東北が、ようやく脚光を浴びるようになったのだ。政友会とも原敬とも距離のあった国男だが、東北を応援する点では人後に落ちない。東北弁を現在の東京語に大いにとりいれたらいいとまでユーモラスに提言している。
 だが、東北を現に歩いてみると、たちまち厳しい現実が迫ってくる。
「東京大阪で失業失業としきりにいうのは、新聞の誇張ではありませぬか。この村などでは近年ずいぶん出ていきましたが、まだ一人も帰ってきたものはありませぬ」
 そう話したのは石巻近辺の宿の主人だったか。失業は新聞で伝えられているほど深刻ではないというのではない。米騒動が全国に広がり、ようやく収まったあとは、第一次世界大戦後の世界不況が日本にも押し寄せていた。政治家のなかには、都市で失業したら、田舎に帰らせればいいと豪語する者もいた。ところが、宿の主人のいうように、この村でも近年、人がずいぶん出ていったが、戻ってきたものはひとりもいない。それはどうしてなのか。
 国男は東北の厳しい実情を知らぬ政治家の暴言に、ほとんど怒りすら覚えて、こう書き記した。

出て行く者はつねに自分の考えから……居りたくないから出ていくので、非常に零落するか(小農にはもう零落の余地もないようだが)、または非常に立身しなければ、まずは帰らぬつもりなればこそ、遠方へは行くのである。……[政治家連中は]移民を渡り鳥か何ぞのごとく思っている。同情のない話である。

 帰りたくても帰れないのだ。政治家が考えるべきなのは、むしろ逆のことだと国男はいう。

人間が増して、どうしても出るのが制止せられぬなら、永く先に落ちつくような方法を、ぜひとも考えておいてやらねばならぬ。3月や半季の土工人夫などに世話をして、職業仲介の公務がまっとうせられたと思ってはならぬ。帰農ももとより労働の一機会ではあるが、捨てておいても元の穴へ入っていくとみるのは、許しがたい無理である。いったん明け渡した空隙は必ず何ものかが満たしている。……これを知らずに帰農を説く人は、気の毒というよりも、むしろ憎い。

 政治家が保身と安直、無為に走り、やるべき仕事をしないのは、いまも昔も変わらないようだ。
 一関の宿では、旅の途中、偶然でくわしたふたつの災事が国男には忘れがたく、「子供の眼」という記事もつづっている。
 石巻から自動車で女川街道を行き、渡波(わたのは)の松林にきたときのことだ。前方にとまっていた馬車がとつぜん横転した。馬をひいていたのは小学校を出たばかりと思われる小さな馬方だった。そのとき万悪く、荷車の後輪がかれの腹の上をきしった。すぐ病院につれていかれたが、そのとき一瞬、国男のほうを見た眼の色が脳裏にこびりついた。
 十五浜から発動機船で川をさかのぼり、飯野川町に戻ったときのできごとも忘れがたかった。その途中、釣台(タンカ)にのせられ、小舟から船に移された病人がいた。チフスにかかった12、3の女の子で、どうやら石巻の病院に連れていくところらしい。当時チフスは難病で、命を落とすことが多かった。国男はぐうぜん彼女と眼を合わせる。自分のことをお医者さまであってほしいと願っているようだった。その眼がたまらなく哀れで、国男は何もしてやれない自分がはがゆかった。人生の災厄は、いたいけない子どもにも容赦なく襲いかかってくる。
 北上川沿いに歩く道中では田がずっと広がっていた。このあたりは大地主が大規模農地を所有し、それを小作する者が多い。ところが大正にはいると、小作人が小地主になりたがり、国男の訪れた登米あたりでも、土地の競り売りが盛んにおこなわれていた。反千円(現在の感覚では、坪1万円)という値段がつく田もすくなくなかった。小作は値段のつり上がった小さな土地を、多額の借金をして買い取り、その結果、また苦労を背負いこむのである。せっかくの土地をもっても貧乏のつづく現状を、国男はつらい思いで見ている。
 入沢(現石巻市桃生町)で休ませてもらった家の老農から聞いた話は、語られたままにつづられている。「狐のわな」という名篇が生まれる。

「なあに、あの木はみなクルミではがアせん。このへんでカツの木という木でがす」
……
「獣かね。当節はもう不足でがす。なんにー、シカなんか50年前からおりません。元はムジナが出て豆を食って困りました。犬を飼っていて、よく噛み殺させたものでがす」
「そのうちに犬が年イ取って、歯が役ウせぬようになってしまいました。横浜のアベ商店に売っとるって、機械を買ってきて使っていたのでがす。なんにー、3寸くれエの、真ん中に丸いかねがあって、ちょいと片っぽの足をのっけると、かたりと落ちるようになった、虎バサミといったようなものでがした。ベイコク製だといっておりやした。10年も使ってて何と、この春しょう分[処分]を受けて、御上さ取り上げられてしまいやした」

 老人の話は、日本の近代狩猟史を体現している。キツネなどをつかまえていた虎バサミのような機械を警察が取り上げたのは、それを近年、狩猟道具として禁止する法律ができたからである。70歳になる老農はそのことを知らず、道具を取り上げられたうえに50円の罰金を支払わされた。
 国男はあくまでも人がいいこの老人の話を、頭にしっかりと刻みこんだ。

「雷さまが急に鳴り出すと、きっと誰か駆け込んできます。雨がやみそうにもないと、傘を貸すこともあります。なアに、たいていは通るのは知った人ばかりだ。いっぺんだけ一昨年、だまくらかして持ってった人があります。飯野川のよく行く店の若え衆だと言いました。買ったばかりの傘だが、まだそのころは安かった。それでもあんまり久しく届けてこねえ。町さ出たついでに回ってもらって来べいとって、おら自分で行ってみました。そうするとそういう人はいねエって言いましてね。まったく店の名をかたったのでがした。遠方の者だろうというこつです。おれはこの年まで、石巻までもめったに出ねエ者だが、おれの馬鹿なことはよっぽど遠くまで聞こえているといって、家で笑っていたことでがす」

 老人の姿を彷彿させるようである。話はいつまでも尽きず、国男はその場を立ち去りがたかったにちがいない。


旅の名エッセイスト [柳田国男の昭和]

《第234回》

 貴族院書記官長を辞任し、長い役人生活に決別を告げた柳田国男は、そのあと何をしようとしていたのだろう。旅をしてみたいという思いは強かっただろう。だが、国男ほどの名士で学者となれば、世間が気ままな漂泊を許しておくわけもない。すぐに朝日新聞編集局長の安藤正純から、東京朝日新聞入社への打診があった。
 そのあたりの事情について、国男は『故郷七十年』で、次のように語っている。

〈もうそろそろ役人生活の足を洗ってよかろうと思った私は、大正9年(1920)いよいよ自由な生活に入ることとした。その7月朝日新聞の安藤正純氏からの連絡があったので客員の名義で入った。入社の条件として、最初の3年間は内地と外地とを旅行させてもらいたいという虫のいい希望を述べたが、幸いにも全部、村山老社長[龍平]の快諾するところとなった〉

 これを読むと、すでに書記官長時代に打診があったかのように思えるが、そうではない。12月に役人をやめたあと、安藤から話がもちこまれたのは春になってからである。しかし、「右から左にお受けしたのではいかにも計画的のようでへんだからというので、6月まで自由に歩き回ってのち、7月から朝日の嘱託ということにしてもらった」と、同書の別の箇所で語っている。
 こうして7月に国男は、朝日新聞社長の村山龍平と麻布市兵衛町の村山宅で会い、8月4日から朝日新聞の客員になることが決まった。そのとき国男の出した前代未聞の条件が、本人も語っているとおり「最初の3年間は内地と外地とを旅行させてもらいたいという虫のいい希望」だった。村山はその条件を快諾したというから、鷹揚なものである。月々の手当は300円[現在の感覚では100万円といったところか]、旅費は会社もちで別途支給ということも、そのとき決まった。
 さて、その旅行だが、国男の腹づもりでは「その3年間の前半は国内を、後半は西洋、蘭印[現インドネシア]、濠州[オーストラリア]から太平洋方面を回りたい」というもの。「そしてこの3年間の旅が終わったら、正式の朝日社員になるということにしていたのであった」。
 実際はこの目算は、のちに述べる事情、すなわち国男にたいし、ジュネーブの国際連盟委任統治委員会委員への就任要請があったため、わずか半年ばかりで頓挫することになる。だが、先のことはともかく、朝日入社が決まった時点では、本人はこれで自由に好きな旅行ができると内心喜んでいたのである。もちろん、その旅行とは名所旧跡をたずねる旅ではなく、人と民俗に学ぶ旅を意味していたことはいうまでもない。
 年譜にしたがって、1920年から翌年にかけての国男の旅を整理してみると、こんなふうになる。

[1920〜21年]
6月15日〜24日 佐渡旅行
8月2日〜9月12日 東北旅行(東海岸を北上し、秋田まで)
10月中旬〜11月21日 中部地方および関西中国旅行
12月13日〜3月1日 沖縄旅行(沖縄滞在は1月5日から2月7日まで)

 朝日新聞の客員となってから半年のあいだは、ほとんど旅の人だったと知れる。東北の旅から帰って、ひと月ほど間があくのは、次女千枝が病気で入院し、「ふだんあまり文句をいわない養父から、この時だけは『こんな時ぐらい旅行をやめたらどうか』といわれた」ためである。「それから1カ月ぐらい、ぼそぼそして家におり」、また秋風にさそわれて旅にでた。
 何が国男を駆りたてていたのだろう。東北のあと中部を回ったのは、江戸時代の旅行家、菅江真澄の事跡にひかれたという面がなかったわけではない。しかし、中部をはさんで、遊歴の地に共に辺境の東北と沖縄を求めたことは、無意識の選択がはたらいたとしか思えない。官界を蹴ったあとは、とりわけ民衆のほうへという志向が強まっていたのだろう。
 8月以降の3つの旅行で、国男はそれぞれ紀行を朝日新聞に連載している。最初の東北が「豆手帖から」、中部が「秋風帖」、そして沖縄が「海南小記」で、それぞれのちに他のエッセイを加えて単行本として発刊されている。ただし「豆手帖から」だけは、さすがに本のタイトルとはしがたく、『雪国の春』という書名をまとうことになった。
 朝日新聞での連載は、国男の文名を一挙に高めた。それまで通人として知られるばかりで、知る人ぞ知るという感のあった国男は、これによって旅の名エッセイストとしても広く知られることになる。そこには、日本の山水名勝を探索し、かずかずの紀行をものしていた国男の友人、田山花袋の描く風景とはまったくことなる人々の暮らしぶりがえがかれていた。

『資本の〈謎〉』を読む(3) [商品世界論ノート]

おそらく恐慌などもう起こらないという現代人の傲慢な思いこみをふっとばしたのが、2008年のリーマン・ショックだった。日本はそれ以前からバブル崩壊を経験していたが、まさか引きつづいてアメリカ発の世界恐慌がやってくるとはだれも思いもしなかった。そして、ヨーロッパの債務危機をみてもわかるように、その影響はいまだにつづいている。
社会主義体制を崩壊に追いこみ、順調に推移していると思われていた資本主義に何が起こったのか。その謎に迫ろうとしたのが、本書だといえる。その記述は錯雑をきわめているが、きょうは第3章「どのように資本は生産をしているか」を読んでみることにする。マルクスの『資本論』にさかのぼって考えるというところがミソだ。
資本の生命線は商品である。資本は商品をつくり、売りつづけなければ、存続していくことができない。商品はどのようにしてつくられるのだろうか。
商品をつくるには、第一に労働力が必要になる。資本にとって労働力の確保は死活問題だ。しかも、できるだけ安くて優秀な労働力を確保すること。
それはどこから得られるか。かつては農村の余剰人口だった。しかし、労働力をできるだけ安く雇うためには、それが常に豊富であることが必要であり、そのために資本は政府と一体となって、あらゆる手だてを尽くす。移民、あるいは出産奨励政策、さらには女性労働力の活用などもそのひとつだ。
資本は豊富な(安価な)労働力を求めて、みずから地理的な移動を試みることもある。アメリカでは北部から南部への工場の移転、さらには国境を越えて中国への移転も平気でおこなわれている。
加えて、資本は労働力をコントロールするため、さまざまな手を尽くす。省力化による技術革新は労働者の雇用量の調整につながる。そして賃金差別によるコストカット。男女間、民族間の賃金格差、そして最近よくいわれる正規・非正規の雇用格差によって、労働コストが極力抑えられる。
商品をつくるには、労働力以外に生産手段が必要になってくる。生産手段とは、たとえば、中間生産物(加工された原料や部品)、機械その他の生産設備、工場の建物その他のインフラ、運送手段、動力などを指す。
生産手段は固定されているわけではない。技術革新があれば、それらは変更され、更新される。更新のスピードはますます速くなり、変更の内容もより複雑になっている。資本はそれに追いついていかなければならない。
ただし、生産手段にも制約要因がある。考えられるのは「自然」の制約である。天然資源は枯渇や劣化をまぬかれない。とはいえ、「自然現象から引き起こされる人的惨事を商売や儲けに利用することは、あまりにも頻繁に見られる資本主義の特徴」だ。
「資本主義の歴史地理は……自然との関係に関して信じがたいほどの可変性とフレキシビリティを発揮してきた」。たとえば石油の枯渇という問題。石油はいまや一種の投機商品となり、時に膨大な利益を生みだしている。
迫り来る石油不足への懸念が、劇的に石油を高騰させている。石油先物市場は、ヘッジとデリバティブの一大市場であり、過剰資本が流れこむ場となっており、それ自体が恐慌を引き起こすことになりかねない。
とはいえ、労働力にしても、生産手段にしても、その制約要因を突破していこうとする資本の猛烈な(猛烈すぎる)エネルギーには驚くほかない。そこには何が隠されているのだろう。
ここで著者は資本主義の破壊的(=創造的)性格に触れている。資本が成長をつづけるためには「非市場的で非資本主義的な生活様式」は解体されなければならない。つまり、自給自足の生活から、おカネを稼いで、それで商品を買わなければ生きていけないような生活スタイルを果てしなくつくりだしていくのだ。
都市空間の開発もまた過剰資本を吸収する絶好の場となっている。国家と資本が一体となった金融システムが形成され、巨大インフラがつくられ、大きな消費空間が生まれる。不動産市場が拡張し、時にそれが金融恐慌の引き金ともなる。
いまでは都市は巨大な消費空間であるだけではなく生産の場でもある。「実に膨大な数の企業と労働者が、都市空間の生産に積極的に従事している」と著者はいう。
要するに、近代以降は資本の時代なのであって、われわれもまたその時代に巻きこまれているということなのだ。
そして、近代が「組織的・技術的ダイナミズムに対する絶え間ないインセンティブ」によって動かされているとすれば、それを体現しているのがまさに資本なのだ。
もちろんイノベーションを試みるのは資本だけではない。国家間競争の時代においては、国家もまた軍事技術や運輸手段、通信システム、エネルギー戦略、経済戦略などの面で、別の国家に対してたえず優位に立とうとする。
軍産複合体が生まれ、官僚が企業活動をバックアップし、大学が産業界と密接に協力する。それによって新製品が開発され、新しいフロンティアが切り開かれる。
資本が存続・拡大するさいに命綱となるのが、「新しい生産部門の開拓と商品の新規開発」である。最近ではコンピューターやエレクトロニクスが目新しい。
歴史を振り返れば、資本主義の発展は、こうした新たな生産部門の開発と歩みをともにしている。19世紀後半は鉄道、蒸気船、石炭・鉄鋼産業、電信の時代。20世紀前半は自動車、石油、ゴム・プラスチック産業、ラジオの時代。そしてその後半はジェットエンジン、冷蔵庫、エアコン、軽金属(アルミニウム)産業、テレビの時代。
過剰資本は、こうしたイノベーションの波がなければ、投資機会を得られず、たちまちしおれてしまうだろう。技術革新ははてしがない。次は遺伝子工学、生物医学、「グリーン」技術がやってくると著者はみている。
だが、それらのイノベーションは両刃の剣となりうる。そのことは最近の金融工学が、金融市場を大混乱させたことをみてもわかる。「これらのイノベーションは、過剰資本を吸収する新たな発展の道を開くと同時に、システムを不安定化させる」と著者はいう。
著者は資本主義が経済的不均衡による恐慌をもたらしうることを否定しない。だが、恐慌があったからといって、資本主義はなくならない。むしろ、恐慌は資本主義につきものだといってもよい。そして、それが片づいて、経済不均衡が暴力的に調整されたあとは、資本主義はまた何くわぬ顔をして、いつもの道を突っ走る。
人類にとって、はたして資本主義はよかったのか、悪かったのか。それに代わる選択はありうるのか。だが、ひとくちに資本主義といっても、50年前といまとでは、同じ資本主義でも、その景色はまるで異なるからである。資本主義も世につれて、猛烈なスピードで変わりつづけている。それはいったいどこに向かおうとしているのだろうか。
資本主義はフェニックスのようによみがえる。それでも、どこか根本的にわれわれはまちがっているのではないか。日々もたらされるさまざまな災厄、犠牲、苦難は、そのあかしでもある。



『山伏と僕』(坂本大三郎)を読む [本]

資料172.jpg
 ある日突然、山伏になってみたいと思ったなら、この本はお勧めの1冊だ。妙な着物でホラ貝を吹いているヘンなおじさん、修験道とやらをきわめたいかつい異形の存在、ちょっと時代遅れじゃないなどという声が聞こえてきそう。しかし、いまでは老若男女を問わず、山伏修行はだれにでも開かれている。神社や寺への帰属を考えなければ、現代における山伏とは、山野を友とする哲人もしくはナチュラリストのことだと言ってもいいくらいだ。本書はそんな山伏をめざす若者による清新な魂の物語である。
 お坊さんは別として、いまでは専業の山伏はほとんどいない。たいていの人が何らかの職業についていて、著者自身もイラストレーターだが、毎年8月の羽黒山での峰入り修行に参加している。別に神さま仏さまを信じているわけではないし、験力を身につけようとも願っていない。ただ、山伏が古代に「ヒジリ」(日を知る者)と呼ばれた、自然の知識をもつ祭祀者の末裔だとするなら、山伏修行を通じて、日本の自然と文化を深く理解したいというのが著者の思いなのである。
 興味深かったのは、やはり最初の修行である。それは羽黒山大聖坊の山伏教室からはじまる。参加者は若い人を中心に男女あわせて30人ほどで、修行中は携帯パソコンテレビも禁止だ。まずは白装束に身を固め、道場で祝詞や般若心経を唱え、それからいよいよ山歩きの修行に出発する。はじめに2500段近い石段を登って羽黒山の合祭殿(本社)に向かう。本社で参拝をすませ、その先にある峰中堂、荒澤寺をへて大聖坊に戻るころには、参加者全員がくたくたになっている。
 宿坊に戻り、茶碗に盛られたわずかなご飯をかきこむと、すぐに夜の山歩き、つづいて南蛮いぶしと呼ばれる荒行。これで涙や鼻水とともに罪けがれを落として、この日は就寝。翌日は日の昇らないうちに起きて、まず谷底の川で水浴びをし、それから食事、身支度をして、月山に向かう。いまでは8合目までバスを使うそうだ。月山頂上までの登りはきつい。「死者として修行するぼくたちは、月山の山頂ではなく、気が付かないうちに見知らぬ世界、他界へと連れて行かれてしまうようでした」と著者はそのときの感想を記している。
 月山頂上で一休みし、おにぎりを食べたあとは、ゴロゴロした岩場を湯殿山へと下っていく。鎖場のある厳しい道だ。湯殿山のご神体は、温泉のあふれだす真っ赤な巨岩。そこで勤行をすませて崖を下りると滝があって、滝打ちの修行が待っている。バスで羽黒山に戻ってからも、夜の山歩き修行。そして、翌朝、水垢離をとって、ふたたび羽黒山頂の神社まで往復し、最後の勤行をすませると、3日間の修行が終わる。
 これは一種の成人通過儀礼(イニシエーション)なのかもしれない。山伏の白装束は死者のシンボルだという。となれば、イニシエーションとは死を仮想体験することが目的であり、それによって生きるとは何かを学ぶことだといってもよい。大人になるとは、「死ぬことと見つけたり」なのだ。そのあともかずかずの修行をへて、著者はついに山伏となった。
「かつての山伏の姿を知り、山伏を体験するなかで、僕の中には、誰かの評価に左右される気持ちよりも深い部分に、『自然』が据えられるようになりました」と著者は書いている。かつて柳田国男は『山島民譚集』で、みずからを旅の山伏になぞらえて、里人の残した石塚をたどると誓ったものだ。だとするなら、現在の山伏は、迷走しつづけるこの国に〈自然〉の躍動を伝えなければならない。あまり気ばらずに。

ぼくの「いける本・いけない本」(2012年前半) [本]

恒例のアンケートにこたえて、2011年11月から2012年4月までの「いける本・いけない本」について書いてみました。「いけない本」を3冊選ばなければならないのが、つらいところ。「いけない本」はかえっていろいろと考えさせられた本でもあります。とくに『毒婦。』はわるくない本です。でも何となく版元の売らんかなの姿勢が見えてきて、それがどうも引っかかりました。


いける本・いけない本(2011年11月〜12年4月)

【いける本】
51CoDwofOtL._SL135_.jpg415omBP55-L._AA115_.jpg41qVWJu-NfL._SL160_PIsitb-sticker-arrow-dp,TopRight,12,-18_SH30_OU09_AA115_.jpg
○若松英輔『魂にふれる─大震災と、生きている死者─』(トランスビュー)
 すべての人が神仏を信じているとはかぎらない。しかし、身近に死者をもたない人は存在しないだろう。死者はずっと、あなたを思っている。時にほほえみ、時に叱り、時にはげましながら。そして、あなたもまた死者のことを思っている。いまや生者の欲望や喧噪ではなく、われわれを見守る死者の静かな声に耳を傾けるべき時がやってきたのだ。
○山崎正和『世界文明史の試み─神話と舞踊─』(中央公論新社)
 本書のテーマは、人類がどのように文明を見いだしたか、なぜ近代文明が西洋を中心として世界に広まったか、そして現代の「世界文明」がどのような難問に直面しているかといったことである。人類史全体にかかわる壮大なテーマといわねばならない。にもかかわらず、著者の発想の源がつねに身体に置かれているところに目をみはる。
○ワシーリー・グロスマン『人生と運命』(齋藤紘一訳、全3巻、みすず書房)
 ソ連時代の「最も危険な書」が日本でもついに翻訳刊行された。ある物理学者一家を中心に、ナチスとスターリン体制に奔放され、それでも自由を求めつづける人々の過酷な運命を、スターリングラード攻防戦をはさんで描く。20世紀ロシア文学の傑作だ。
【いけない本】
51Re3vd5C5L._AA115_.jpg41HwyqQ5TFL._SL500_PIsitb-sticker-arrow-big,TopRight,35,-73_SL135_OU09_.jpg41qORJJg9QL._AA115_.jpg
●中谷巌『資本主義以後の世界─日本は「文明の転換」を主導できるか─』(徳間書店)
 もともと親米的な「構造改革論者」だった著書が日本主義者、アジア主義者に転向し、欧米型資本主義に対抗する口あたりのよい理念を持ちだした宣伝パンフのような本だ。一見説得力のある論調にうなずきそうになりながら、古い革袋に新しいぶどう酒を入れてはならないとの格言が頭をよぎる。
●與那覇潤『中国化する日本─日中「文明の衝突」一千年史─』(文藝春秋)
 日本が中華文明の辺境にあり、つねにその影響をこうむってきたことを考えれば、日本は西洋化する以前に中国化していたのであり、いまも文化の中心に中国の影響が色濃く残っていることはいうまでもない。しかし、著者のいう「中国化」は西洋化の対抗概念として出されており、「再江戸化」といった用語とともに思弁的で、かえって記述を混乱させている。
●北原みのり『毒婦。─木嶋佳苗100日裁判傍聴記─』(朝日新聞出版
 衆人環視の劇場型裁判でネット時代のセックスビジネスの闇が裁かれる様子がライブ風に伝えられる。誰もが地獄絵の中にいるのに、誰もが正義と不悪を主張する構図が悲しい。

ブログ再開のお知らせ [雑記]

長女の一家が3年ぶりにイタリアからやってきて、しばらく夫婦ふたりきりだったわが家は、てんやわんや。孫が「おじいちゃん」と寄り添ってくると、かわいさのあまり相手をして、オセロゲームをしたり、散歩をしたりと、一時も休むひまがありませんでした。
この2週間のあいだに、東京ディズニーランドや上野動物園はもちろんのこと、車で遠征して、高遠の桜、宇治平等院、さらに足を伸ばして、『ラストサムライ』のロケ地として知られる姫路の書写山円教寺まで訪れました。姫路まで行ったのは、ぼくの両親にひ孫を見せるためでもありました。
去年は大震災の影響で日本に来られず、七五三ができなかったので、やや変則的でしたが、この時期にそのお祝いをするため、写真館で写真を撮ってもらい、船橋大神宮に詣でました。当の本人は、からだを締めつけられる着物が不快だったらしく、刀を持って写真に収まったところまでは何とかもったものの、そのあとは機嫌が悪くなるいっぽうで、神社の参拝が終わると、急いで着物を脱がせて、何とかなだめる始末。
DSCN5831.JPG
そんな2週間があっというまに過ぎて、イタリアに無事帰国となると、正直ほっとすると同時に、いっぺんに気が抜け、さびしくもなってきます。この孫が大学生くらいになって、ひとりで日本に行ってみたいと思うようになるときを想像すると、せめてそれくらいまでは生きていたいものだと、つい欲をかいたりもします。もちろん先のことはわかりません。
しばらく孫と遊びほうけていたために、ブログを更新するのがおっくうになっていました。また夫婦ふたりの生活に戻りましたので、これからまた少しずつ記事を書いていくつもりでおります。よろしければ、またおつきあいください。

前の10件 | -