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ホブズボーム『いかに世界を変革するか』を読む(1) [本]

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 エリック・ホブズボーム(1917-2012)はイギリスの著名なマルクス主義史家で、多くの著書を残した。なかでも「長い19世紀」三部作(『革命の時代』[日本でのタイトルは『市民革命と産業革命』]、『資本の時代』、『帝国の時代』)と『20世紀の歴史──極端の時代』がよく知られている。本書はかれが95歳で亡くなる1年前に上梓された大著だ。
 サブタイトルに「マルクスとマルクス主義の200年」とある。マルクスは1818年にモーゼル川に面するドイツのトーリアで生まれた。来年は生誕200年になる。おそらくマルクスほど歴史に大きな影響を与えた知識人は、そうざらにはいないだろう。その思想は現在もさまざまなかたちで引き継がれている。
 マルクス以後の200年をどうとらえるかは歴史家の腕の見せ所である。といっても、本書は1956年から2009年までのあいだの著作や講演を集大成したもので、包括的なマルクス主義史としてはムラがあるかもしれない。『資本論』そのものについては言及されていないし、ソ連や東欧、中国でおこった現実についても具体的な記述は少ない。それでも、マルクスとマルクス主義にたいする、史家としての思い入れが深い本だといってもよい。
 全部で16章、日本語版の本文だけで、軽く500ページを超える大著である。しかも、学術的な記述にわたる部分も少なくない。この本を読むのは、ぼくのような素人には、はっきりいって骨が折れる。どうしても読者は専門の研究者に片寄るだろう。
 ところで、この本を紹介する前に、ぼく自身について述べておくと、ぼくがマルクスを読んだのは大学時代だけである。それも学問的な訓練を受けたわけではなく、一知半解レベルにとどまる。そのあとは長いサラリーマン時代で、苦しくも楽しい会社員生活を送り、定年になってから、またマルクス関係の解説書を読むようになった。
 資本主義もいろいろ問題はあるけれど、社会主義はひどい体制だと思っている。政党支持でいえば、無党派層に属する。政治は嫌いだ。だから、とてもマルクス主義者とはいえないだろう。それでもマルクスにはひかれる。マルクスは天才だと感じている。そんなうすぼんやりのぼくに、はたしてこの本の内容が理解できるだろうか。
 そんな思いをいだきながら、本書を読みはじめた。最初のページから最後のページまで気合いをいれて読むのはくたびれるので──最近は歳のせいで、本をめくりはじめると、たちまち頭に霧がかかって、睡魔に襲われてしまうのだ──おもしろそうな章を気の向くままに飛ばし読みすることにした。ブログに読書メモを残すのは、いつもいうようにボケ防止というより、少し前のことをすぐ忘れてしまうからだ。困ったものです。
 さて、第1章の「現代のマルクス」は2006年の講演を書きなおしたもので、マルクスとマルクス主義にたいする著者のとらえ方を示しているため、これをはずすわけにはいかないだろう。そのあとはいきなり飛ばして第14章の「マルクス主義の影響力──1945〜1983年」を読むつもりでいる。
 きょうはまず「現代のマルクス」を読む。
 マルクスがロンドンで亡くなったのは1883年のことだ。第14章で区切りとして示されている1983年は、マルクス死後100年にあたる。
 ホブズボームはマルクスが失意のうちに死んだわけではなかったと書いている。「彼はその生涯のなかば以上を亡命者として過ごしたイギリスで、政治においても知的生活においても、目立った地位を占めることがなかった」。しかし、その影響力は生前から少しずつ広がりはじめていた。
 マルクス死後70年のうちに、人類の3分の1が、マルクス主義を継承する共産党の体制下で暮らすようになっていた。その割合はソ連共産党の解体によって、現在は20%ほどに減るが、それにしても、これほど大きな影響を与えた思想家はほかにいない、と著者は書いている。
 古いレーニン主義(スターリン主義)的体制はソ連崩壊によって放棄された。逆に生のマルクス自体が見直されようとしているのが現在の状況だ、と著者はいう。たとえば『共産党宣言』は、現代のグローバル世界を予言していた。ジョージ・ソロスがマルクスを高く評価していることも、よく知られている。2008年のまさかの恐慌は、マルクスをよみがえらせる、ひとつのきっかけとなったという。
 20世紀になって、マルクスの思想は社会民主主義と(ソ連型)社会主義に分裂した。それはマルクス死後のさまざまな解釈と修正にもとづいている。マルクス自身は、そのどちらを唱えたわけでもなかった。
 マルクスは生産力の面で、社会主義が資本主義にまさると主張したことは一度もない。ただ、資本主義のもたらす周期的恐慌が、資本主義とは異なる体制の模索をうながすだろうと想定したにとどまる、と著者はいう。
 著者によれば、社会主義経済のプロジェクト、すなわち「無市場・国有・指令経済」を原理とする中央計画経済の考え方は、すこしもマルクス的ではなく、それは失敗に終わるのが、目に見えていた。マルクスは「生産手段の共同所有」を示唆していただけで、計画化については、何も語っていなかった。
 いっぽう、社会民主主義はマルクスの考え方を修正し、混合経済による資本主義の修正を打ちだした。それは、国富の公平な分配に重きをおいた。だが、社会民主主義はマルクスが本来想定していた「本質的に非市場的な社会」とは、はるかにことなるものだった、と著者はいう。
 さらに著者は、最近の「新自由主義」にも触れている。新自由主義とは「自由放任原理の病理学的退廃を経済的現実に転化させようとする企て」であり、いわばアダム・スミス流の考え方を悪用するものである。新自由主義は、国家は市場の規制から手を引くべきだと主張するどころではない。ぼくにいわせれば、それは、むしろ、国家の存在意義を市場主義の後押しに求める考え方だといってよいだろう。
 著者はあくまでもマルクス本来の立場を継承しようとする。

〈マルクスは、3つの点で巨大な力をもっていた。経済思想家として、歴史思想家として、分析者として、社会についての近代的思考の公認の創始者として(デュルケームとマックス・ウェーバーとともに)である。……間違いなく現代への関わりを決して失わないのは、資本主義は人間の経済生活の限られた一時期の様式だというマルクスの資本主義像と、絶えず拡大し集中し恐慌を生み、自己変容していく資本主義の運動様式についての彼の分析である。〉

 著者は「マルクスに立ち返る」ことを提唱する。
 いまやソヴィエト型モデルは消滅し、市場原理主義が世界をおおっている。そのいっぽうで、世界じゅうで富の格差が広がり、自然環境の破壊が深刻化している。
 マルクスの予言がいくつもはずれたことを著者も認めている。それでも21世紀を考えるうえで、マルクスに立ち返ることは有効だと主張する。
 ノーベル経済学賞受賞者のジョン・ヒックスはこういっていたそうだ。

〈歴史の全体の流れを見分けようとするたいていの人々にとっては、マルクス主義の範疇か、あるいはそれを少し修正したものを使うのがいいだろう。なぜなら、それに代わるものがなかなか手にはいらないからだ。〉

 本書はマルクス以降200年の歴史をふり返りながら、マルクスの思考法がいまもどれだけの意義をもっているかを確認するこころみだともいえる。

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眠る本たち その8 [眠る本たち]

いただいた本は、申し訳ないながら読まないことが多い。
でも、ぱらぱらめくりはじめると、つい引き込まれる。
今回はそんな本をいくつか。

(44)セオドア・ゼルディン『悩む人間の物語』(森内薫訳)1999年、NHK出版
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人は過去に呪縛されている。昔から受け継がれてきた「生き方」に手足を縛られている。人間は生まれながら自由ではなく、不安にさいなまれているのだ、と著者はいう。不安、孤独、憂鬱は人生につきものだ。歴史はそんな物語に満ちている。しかし、ほんの少し勇気があれば、ほんの少し思いやりがあれば、あなたの人生は変わってくる。そして、多くの見方ができるようになること。それが悩みから解放される第一歩だ。

(45)ジェラルド&ロレッタ・ハウスマン『猫たちの神話と伝説』(池田雅之、桃井緑美子訳)2000年、青土社
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「どうやら猫という霊的存在は、一点曇りなく人間の内奥を映し出す光をたたえた鏡のような生き物、神からつかわされた癒しの使者なのかもしれない」と、訳者のひとりは書いている。そのとおりだと思う。「人間の側にいながら、人間にはわかりがたい存在……しかし、猫の側は、人間をゆっくりと観察し、人間のことは何でもわかっているように見える」とも。そんな猫たちの神話と伝説を集めたのがこの本だ。ぼくにとっても、猫のいなくなった生活はさびしい。たまらなくさびしい。

(46)西研『哲学のモノサシ』(川村易[絵])1996年、NHK出版
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哲学する習慣を身につけること。深く根本的に考えること。自分のなかの風通しをよくすること。真実への意欲をもちつづけること。たぶん、こういう習慣を身につければ、生きることはずっと楽しくなる。自分の感受性を受け入れ、自分なりに生きるためのモノサシをつくること。本書は青年向けに書かれた哲学入門書だが、どっこい意外と深いことが書かれている。

(47)ネリー・ブライ『ケネディ家の悪夢──セックスとスキャンダルにまみれた3代の男たち』(桃井健司訳)、1996年、扶桑社
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ここに描かれているのは、ケネディ一家のもう一つの顔である。ギャングと手を結び、セックスにふけり、麻薬の力を借りて快楽をむさぼる。JFKはだれかまわず女に手を出したが、圧巻は世紀のスター、マリリン・モンローだった。さらに「女を共有するのがケネディ家の伝統だった」とも。弟のボビーはモンローと深い仲になり、やがてモンローを振る。そして、狂ったようにモンローは死んでしまう。ケネディ家はスキャンダルまみれだ。ひょっとしてトランプ王国もと思うのは、ぼくだけではあるまい。

(48)仲晃『ケネディはなぜ暗殺されたか』1995年、NHK出版
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1963年11月のケネディ米大統領暗殺事件の真相はいまも明らかになっていない。本書はオズワルド単独犯行説に疑問を投げかけ、ケネディはなぜ暗殺されなければならなかったかという観点から犯人の姿を追う。そこから浮かび上がるのは、資金を出して実行犯たちをあやつった「巨悪」の存在だ。

(49)羽場久浘子『拡大するヨーロッパ──中欧の模索』1998年、岩波書店
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プロローグにはこう書かれている。〈本書は、現在進行中のNATO(北大西洋条約機構)、EU(欧州連合)など「ヨーロッパ」諸機構の拡大の中で、「中欧」がどのような形で「新しいヨーロッパ」に参画しようとしているのか、その中で、少数民族をめぐる民族と国家の再編はどのような形で行われているのか、さらに社会主義体制の崩壊後10年たった旧東欧社会はいかなる方向に進もうとしているのか、などを検討しようというものである。〉中欧というのは、東欧に代わる新しい地理概念だ。それはポーランド、チェコ、スロヴァキア、ハンガリー、クロアチア、スロヴェニアを指している。バルカン諸国は通常、含まれない。中欧の国々の現状はなかなか伝わってこない。もっとこの国々に関心をもってもいいのではないか。

(50)ラッシュ・W・ドージアJr.『人はなぜ「憎む」のか』(桃井緑美子訳)、2003年、河出書房新社
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人間だけがもつ最も危険な感情、それは憎悪だ。いじめや自己嫌悪、戦争はすべて憎悪から発する。人間の感情の暗黒部分ともいえる「憎悪」は、人間関係を閉ざし、社会を傷つけ、生命を破壊し、そしてついに地球をも脅かす。この「心の核兵器」をコントロールする手立てはないのかを探る。人間の感情でいちばん最初にやってくるのが憎悪だ。愛はいちばん最後にやってくる。憎悪とは何か、それをコントロールするにはどうすればよいのか。

(51)滝口俊子『夢との対話──心理分析の現場』2014年、トランスビュー
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〈私は河合隼雄先生に21年間、754回の分析を受けた。そこでは、夢を解釈するのではなく、夢を生きることで、苦しみを乗り越え、たましいの成長が促された。〉ユング派の分析家、河合隼雄のことをぼくはよく知らない。この本は河合隼雄の心理分析が実際にどのようなものであったかを教えてくれる。河合隼雄のこと、もっと知るべきだ。

(52)ジョナサン・ワイナー『フィンチの嘴──ガラパゴスで起きている種の変貌』(樋口広芳・黒沢令子訳)1995年、早川書房
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生物はいまも進化しつづけている。〈ガラパゴスの中央に浮かぶ小さな溶岩の島で、研究者夫妻は生きたフィンチ[アトリ科の鳥]を一匹一匹調べた。そして20年におよぶ調査の末に夫妻が直面したのは驚くべき事実だった。フィンチたちは刻々と変貌を遂げ、ダーウィンの予測をはるかに上回る規模と速度で進化していたのだ。〉1995年ピュリツァー賞受賞作。おもしろそうな本だ。

(53)トーマス・アームストロング『脳の個性を才能にかえる──子どもの発達障害との向き合い方』2013年、NHK出版
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ADHD(注意欠陥多動性障害)や自閉症、ディスレクシア(失読症)、さらには気分障害や不安障害、知的発達の遅れ、統合失調症。こうした問題をかかえた子どもたちは、とかく否定的にみられがちだ。しかし、この子たちは、ほかの人にはない豊かな才能をもっている。その才能を引きだすにはどうすればよいか。脳の個性を認めあい、共生社会を実現するには……。こんな本ももらっていたのだ。これまで読んでいなかったことを反省。

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惜別と帰庵──栗田勇『芭蕉』から(15) [芭蕉]

 芭蕉の旅は「いわば情にまかせた放浪ではなく、禅林風の悲愁と、日本民俗の詩歌のもつ、祝祭性と諧謔性の接点を求めて、『新しみ』への厳密で計画的な旅であった」と、栗田勇は書いている。芭蕉における俳諧の革新運動とは何だったかが、みごとに要約されている。
 ぼくのようなぼんくらに、むずかしい話はわからない。
 ただ、芭蕉が琵琶湖に面する近江の地を気に入ったことはたしかだ。のちに『おくのほそ道』の旅を終えた芭蕉が、大津・石山寺近くの幻住庵にすまい、木曾義仲を供養した馬場(ばんば)の義仲寺(ぎちゅうじ)をみずからの墓所と定めたところをみても、芭蕉と大津のゆかりは深い。

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[復元された幻住庵。大津市ホームページより]

 しかし、いまは帰東のときである。
 芭蕉は貞享2年(1685)3月中旬(現在の暦では4月中旬)、大津から東海道筋を下って、草津、石部をへて甲賀・水口(みなくち)にやってきた。かつての甲賀忍者の里である。
 芭蕉は、水口で20年来の知り合いと会い、句を詠む。

  命二つの中に生きたる桜かな

 この句は芭蕉のもとに駆けつけた服部土芳(どほう、1657-1730)に与えたものとされる。このとき土芳は29歳とまだ若い。芭蕉とは13歳の年の差がある。20年来の知り合いとは、いうまでもなく水口の旧友たちのことだ。土芳はその会席に駆けつけたのだろう。
 それぞれの人生を歩んできた命ふたつが、桜散るなかで、ふたたび出会った。年々歳々、花相似たり。ことしの桜にどのような時が流れているのだろう、と芭蕉はうたう。栗田勇は、この桜には、西行の命もこめられているのだろうと解している。
 旅の別れと出会いはつづく。

〈伊豆の国、蛭(ひる)が小島の世捨て人、この男も去年の秋から行脚していたが、わたしの名を慕い、旅の道連れにと、尾張の国まで跡を追ってきたので一句。

  いざともに穂麦喰らはん草枕〉

 この世捨て人は斎部路通(いんべ・ろつう、1649-1738)のこと。
 乞食僧で、近江の膳所(ぜぜ、現大津市)で芭蕉と出会い、門人となったらしい。その路通が尾張まで着いてきた。
 芭蕉は3月下旬に以前訪れた桑名の本統寺に3日逗留、それからふたたび熱田に向かい、白鳥山(はくちょうさん)法持寺(ほうじじ)で歌仙を巻いた。俳壇渡世が芭蕉の生活を支えている。
 路通が尾張にやってきたのはこのころだろう。奔放なこの破れ坊主の路通は、どちらかというと嫌われ者だ。しかし、芭蕉は路通の風狂ぶりをことのほか愛した。
 栗田勇はこう書いている。

〈「いざともに穂麦喰らはん草枕」には、二羽の漂泊の烏が、新緑のなかで、黄金色に波うつ一面の麦穂の熟れた穂先を、ともについばんで生きるにまかせようという心地がある。〉

 3月末から4月上旬にかけては、熱田を中心に鳴海や名古屋の俳人との交流を深めている。けっして暇ではない。作句の指導にあたる毎日である。
 名古屋の坪井杜国(とこく、?-1690)には、惜別の句を贈った。

  白芥子(しらげし)に羽もぐ蝶の形見かな

 この句は『野ざらし紀行』にも収録された。
 芭蕉は杜国との別れに、蝶がみずから羽をもいで、白いヒナゲシに化すかのような切なさをおぼえていた。いわれてみれば、たしかにヒナゲシの花びらは蝶の羽に似ている。
 杜国は俊才のほまれが高く、人をひきつける魅力があったのだろう。このころはおそらくまだ20代だった。
 名古屋の裕福な商人で、米問屋をいとなんでいた。米問屋といっても、徳川時代の米問屋は金融業を兼ねているようなものだ。その杜国を悲劇が襲う。芭蕉と別れた4カ月に、禁制の空米(くうまい)取引(米の先物取引)をしたかどで、尾張領内追放となり、伊良子崎に謫居(たっきょ)を強いられるのだ。
 4月5日に芭蕉は、熱田で、門人の其角に書簡を出している。其角が参禅に通っていた鎌倉・円覚寺の大巓(だいてん)和尚が1月はじめに亡くなったと聞き、其角あてに弔辞をしたためたのである。そこには、次の句が添えられていた。

  梅恋ひて卯花(うのはな)拝む涙かな

 梅には大巓和尚の脱俗清高ぶりが託されている。卯花はウツギのこと。旧暦4月(新暦では5月)ごろ白い花を咲かせる。4月を卯月と呼ぶのはそのためだ。いまは梅の季節ではないが、卯花を拝んで、高潔な大巓和尚のことをしのんだのである。
 江戸に帰る日が近づいている。
 4月上旬には、熱田で送別の句会が催され、芭蕉は次の句を残した。

  牡丹蘂(しべ)深く分け出づる蜂の名残かな

 貞享、元禄のころは牡丹の栽培と観賞が流行していた。牡丹は富貴を象徴する花でもある。芭蕉は熱田で、富家のあるじ林桐葉(とうよう、?-1712)の厚遇を受けた。そこでみずからを蜂にみたてて、桐葉の世話になったことを感謝した。人が花や動物と一体となる詩境に、ゆたかな宇宙観が満ちている。
 4月9日には鳴海の知足亭を訪れ、如意寺で句会を催した。これで、鳴海の衆ともお別れである。そして、翌10日にいよいよ帰東の途につくのである。
 道中、『野ざらし紀行』に記録された句は、甲斐の山中で詠んだとする次の一句だけである。

  行く駒の麦に慰むやどりかな

 甲斐の山中とは、甲斐谷村(やむら、現都留市)のこと。ここには芭蕉が3年前、火事で江戸を焼けだされたとき、一時身を寄せた高山伝右衛門(麋塒)の屋敷があった。今回も芭蕉はここに宿を借りた。
 中山道を通る長い道中をへて、ようやく甲斐の谷村にたどりついた思いが、この句にもこめられている。甲斐の黒駒といわれるほど、甲斐は名馬の産地だ。芭蕉も馬に乗ったのだろうか。馬が穂麦を食べているのをみると、自分もほっとする。
 4月末(現代の暦では5月末か6月上旬)、芭蕉は甲州街道をへて、ようやく江戸に戻ってきた。
 旅の疲れをいやすうちに、次の句が浮かんでくる。

  夏衣いまだ虱(しらみ)を取り尽くさず

 ひとまず旅は終わった。
 季節は夏に移っている。夏の衣にシラミが湧いてきたというのは穏やかではないが、これは中国宋代の高士が、シラミをつぶしながら清談を交わしたとの故事にもとづくという。そのシラミを取り尽くせないというのだから、旅で出会った人びととの思い出が、心のなかにいつまでも湧きつづけていたのである。

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[北斎「深川萬年橋下」。ウィキペディアより]

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『オスマン帝国の崩壊』短評 [本]

 オスマン帝国のことはあまり知らない。それが600年以上つづいた東地中海の大帝国であったことも、そう言われてみて、そうだったなと思い返すぐらいである。まして、その大帝国がどのように崩壊したのかについては、まったくといっていいほど知識がなかった。
 著者のユージン・ローガンはオックスフォード大学教授で、アラブ近現代史の専門家。日本で翻訳出版されたものとしては『アラブ500年史』が知られている。
 本書のテーマは第一次世界大戦前後のオスマン帝国の崩壊過程だ。年代としては主に1908年から1923年までの15年が扱われている。このときトルコの歴史は大きく動いた。だが、現代も中東での紛争がつづいていることをみれば、オスマン帝国崩壊の影響は世界レベルにおよんだといってよい。
 13世紀末に建国されたオスマン帝国は、次第に領土を拡大し、1453年にメフメト2世がコンスタンティノープル(現イスタンブル)を攻略、1529年にはスレイマン大帝がオーストリア・ウィーン城門にまで迫り、ヨーロッパのキリスト教世界を脅かした。17世紀末にはバルカン半島、アナトリア、黒海周辺、イラクからモロッコにいたる地域を支配する大帝国となった。
 だが、それ以降、領土は徐々に縮小しはじめる。まず19世紀前半にギリシアが独立し、後半にルーマニア、セルビア、モンテネグロが独立した。そのころイギリスはオスマン帝国からキプロスとエジプト、フランスはチュニジアを奪った。ロシアはアナトリアの3県をカフカスに組み入れた。
 帝国の危機をまのあたりにしたオスマン軍の青年将校は「青年トルコ人」という団体を結成し、1908年にクーデターをおこす。その結果、スルタンのアブデュルハミト2世が退位し、立憲君主制のもと、帝国はかつてない戦乱の時代を迎えることになる。本書はここからスタートするわけだ。
「青年トルコ人革命」は、さまざまな波紋を投げかけた。帝国の混乱に乗じて、ブルガリアが独立を宣言、オーストリア(ハプスブルク帝国)はボスニアとヘルツェゴヴィナの併合を発表、そしてクレタ島がギリシアに統合される。 1911年にはイタリアがオスマン帝国領リビアに侵攻した。
 その後、2次にわたるバルカン戦争を経て、大宰相サイード・ハリムのもと、「青年トルコ人」のエンヴェル、タラート、ジェマルの3人がパシャ(大高官)となり、軍事・行政の実権を握り、これで政局は安定するかにみえた。
 オスマン帝国にとって最大の脅威はロシアにちがいなかった。ロシアに対抗するため、帝国政府はドイツとの連携を強めた。しかし、1914年6月28日にボスニアのサラエヴォでオーストリア皇太子が暗殺されると、戦争がはじまる。ドイツと密接な関係をもつオスマン帝国はいやおうなく第一次世界大戦に巻きこまれていく。
 第一次世界大戦というと、日本軍による青島攻撃などは別として、一般にヨーロッパでの戦争というイメージが強い。中東でも激しい戦争がくり広げられたことは忘れられがちである。中東での戦争は結果的に、中央同盟国側についたオスマン帝国を解体させる戦いとなった。
 第一次世界大戦でオスマン帝国軍は、ヨーロッパの西部戦線や東部戦線で戦ったわけではなかった。イギリス、フランス、ロシアに四方八方から帝国領に侵攻され、よく堪えたものの、けっきょくは敗れ、解体に追いこまれたというのが実相だ。
 オスマン帝国の参戦にドイツが期待したのは、エジプトや北アフリカ、さらには中央アジアやインドで、ムスリムのジハードが巻きおこり、ヨーロッパでの英仏露の動きを鈍らせることだった。だが、そう都合よくはいかなかった。いっぽうオスマン帝国自体は、ドイツの思わくとは別に、この戦争でエジプトとアナトリアの旧3県を奪還したいと考えていた。
 5年にわたる戦争の推移は、本書を読んでいただくしかないが、ざっというと戦場になったのは、主にアナトリア東部とカフカス、現在のイラクにあたるメソポタミア、シナイ半島(その先のスエズ運河)、ダーダネルス海峡に面するガリポリ半島、メッカとメディナのあるヒジャーズ地方、そして現在のシリア、レバノン、イスラエル、パレスチナ、ヨルダンを含む大シリアである。ほぼ中東全域にわたるといってよい。
 とりわけ注目すべきは、1915年4月から8カ月以上におよんだガリポリの戦い、そして「アラビアのロレンス」の活躍で知られる1916年夏からの「アラブの反乱」にちがいない。昔、デヴィッド・リーン監督、ピーター・オトゥール主演の『アラビアのロレンス』を見て感動を覚えた方は、本書を読んで、T・E・ロレンスがどういう人物だったのかを確かめてみるのも一興だろう。
 ガリポリの戦いでは、オスマン帝国が勝利して、首都イスタンブルを守り抜き、イギリスの海軍大臣ウィンストン・チャーチルを辞任に追いこんだ。この戦いで活躍したのがケマル・パシャ、すなわちのちにトルコ共和国初代大統領となるケマル・アタテュルクである。
 いっぽう「アラブの反乱」では、ヒジャーズで立ちあがったハーシム家が、オスマン帝国からのアラブ独立をかけて戦い、イギリス軍と協力して、1917年12月に聖都エルサレムを奪った。これによりオスマン帝国による401年にわたるエルサレム支配が終わった。
 オスマン帝国が連合国に降伏するのは、1918年11月のことである。前年に発生したボリシェヴィキによるロシア革命も、トルコの敗勢転換には寄与しなかった。だが、著者にいわせれば、オスマン帝国は敗北の大きさによってではなく、講和条件の結果によって滅びることになったという。連合国から出された講和条件はきわめて過酷なものだった。
 帝国政府の3人の指導者、タラート、エンヴェル、ジェマルは、戦時中のアルメニア人虐殺の責任を問われ、死刑を宣告された。3人は敗戦前に逃亡したものの、アルメニア人によって暗殺されたり、ボリシェヴィキに殺害されたりして、哀れな末路をたどった。
 講和条件により、オスマン帝国領はイスタンブルとアンカラ、アナトリアの一部地域に縮小されるはずだった。それに憤慨したケマル・パシャがギリシア軍やフランス軍、アルメニア軍と戦って、現在のほぼトルコ領の大きさにまで領土を回復させるのが1923年のことだ。このときスルタンは廃位され、600年にわたるオスマン帝国は滅び、現在のトルコ共和国が成立した。
 1915年から翌年にかけ、イギリスはハーシム家とのあいだで、「フサイン=マクマホン書簡」を交わし、アラブ国の樹立を支援すると約束した。そのいっぽう1916年5月に、イギリスはフランスとのあいだで「サイクス=ピコ協定」を結び、シリア、メソポタミアにおけるそれぞれの支配領域を定めている。加えてイギリスは1917年11月に「バルフォア宣言」を発表し、ユダヤ人によるパレスチナでの郷土樹立を認めている。だれがみても、これら3つの約束ないし協定が相矛盾する内容を含んでいることは明らかだった。
 第一次世界大戦の終結からすでに100年が経過しようとしているが、中東での混乱はいまもつづいている。
 ハーシム家は大シリア圏とヒジャーズを合わせてアラブ王国を設立しようとした。だが、1919年11月にイギリスはフランスにシリアをゆだねて撤退したため、ハーシム家の野望はたちまちついえる。
 イギリスはハーシム家の約束を反故にしたことを、いくらか後ろめたく思っていたようだ。そのため、ハーシム家のファイサルをイラク王に、アブドゥッラーをトランスヨルダンの統治者に任命した。
 いっぽうヒジャーズを治めていた父親のフサインは、イギリスが資金援助するサウード家のイブン・サウードの勢力に押されて、亡命する羽目になった。こうして1932年にサウジアラビア王国が成立する。
 フランスによってキリスト教国としてつくられたレバノンでは、やがてムスリム人口のほうが多くなり、内戦がつづくこととなった。シリアがいまも内戦状態にあることは周知のとおりだ。
 パレスチナには「バルフォア宣言」にもとづいて、ユダヤ人が入植しはじめた。ユダヤ人とアラブ人の紛争は絶えることがなかった。1948年にイスラエルが建国されて以来、イスラエルとアラブ諸国のあいだには4つの大きな戦争が発生した。パレスチナ難民の問題はいまも残る。トルコ、イラン、イラク、シリアにちらばったクルド人は、自分たちの国をもつことができないままだ。
 イラクではイギリスとの紛争、革命、イランとの戦争、サダム・フセインによるクウェート侵攻、その後の2次にわたる湾岸戦争、自称「イスラム国」の台頭による混乱と、平和と安定がつづいたためしがない。
 オスマン帝国の崩壊と英仏による戦後処理は、希望以上に怒りと嘆きの種をばらまいた。歴史には出会いや別れ、喜びや悲しみ、愛着や憎悪といった感情がまとわりついている。その歴史を簡単に水に流すことはできないのだ。

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鳴沢村 [旅]

のんびり家族旅行です。
11月11日、石和温泉で1泊したあと鳴沢村にやってきました。
夜来の雨が上がって、すばらしい天気になりました。
鳴沢村の「道の駅」に車をとめます。
富士山が真正面に見えます。
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そのあと鳴沢氷穴に寄ります。
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なかはこんな感じ。尻餅をつきそうになりながら、深い穴に降りていきます。
孫たちもこわがりながらも、なんとかだいじょうぶ。
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紅葉台まで歩きます。
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樹間から富士山が顔をのぞかせます。
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下に見えるのは富士五湖のひとつ西湖でしょうか。
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40分ほどで紅葉台につきました。絶景の富士が眺めます。
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本栖湖がみえます。
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展望台からの富士山のショットをもう1枚。いつまで見ていても見飽きません。
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帰る前に、河口湖で遊覧船に乗ります。ここでも主役はやはり富士山ですね。
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家族で楽しい旅行ができたのは、何よりもありがたいことでした。




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昇仙峡 [旅]

11月10日、次女の一家と山梨県の昇仙峡を訪れました。
昇仙峡バス停のパーキングに車をとめ、そこから影絵の森美術館のところまでタクシーを利用することにしました。
4歳と2歳の孫がいるので、帰りの下りをパーキングまで川沿いに歩く予定です。
途中に見えた岩峰、覚円峰というそうです。
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ロープウェイに乗りました。
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上がったところからは富士山が遠望できます。
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茶店で、意外にうまい蕎麦やうどんを食べたあと、娘一家とは別には弥三郎岳にのぼります。
片道30分ほどのコース。
途中、荒川ダムが見えました。
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弥三郎岳のてっぺんには大きな丸い岩があって、そこからは360度の眺望が楽しめます。
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ロープウェイをおりて、昇仙峡を歩きはじめます。
仙娥滝があらわれました。
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なかなか立派な滝です。
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紅葉と渓谷は写真になりますね。
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パーキングまでは1時間ほどの散歩コース。
2歳の孫がネコと遊びはじめます。
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ふり返ると行きのとき見た覚円峰と紅葉です。
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きょうは石和温泉に泊まり、あすは鳴沢村と河口湖に向かいます。











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奈良から京都、大津へ──栗田勇『芭蕉』から(14) [芭蕉]

 野ざらしの旅は、俳諧の革新運動をおこし、地方都市に蕉風の拠点をつくりだすことになった、と栗田勇は書いている。いわゆる元禄文化が広がりはじめている。
 桑名、熱田以降、『野ざらし紀行』には風景の描写が少なくなり、ほとんど詞書(ことばがき)と句だけが列記されるようになる。
「故郷越年」とある。
 貞享元年(1684)11月、名古屋で『冬の日』五歌仙を巻いたあと、暮れの12月25日に芭蕉は故郷伊賀上野に戻った。
 あちこちで草履の紐を解き、杖を置き、旅寝を重ねるうちに年の暮れになったと記しながら、芭蕉はこう詠む。

  年暮れぬ笠着て草履はきながら

 世間は年の暮れで、何かと忙しくしているのに、こちらは相変わらず漂泊の旅姿。旅のうちに年の瀬を迎えている。何やらわびしいけれど、どこか滑稽でもある。
 とはいえ、いなかの家で正月を迎えられるのは、ありがたい。

  誰(た)が聟(むこ)ぞ歯朶(しだ)に餅おふうしの年

 貞享2年(1685)は丑の年。
 どこかの新聟が嫁の実家に鏡餅を贈るさまをうたって、正月のことほぎとした。
 芭蕉は2月下旬まで、郷里に逗留したようだ。
 郷里で句会を開いたり、旧主家と交流を深めたりして、日をすごしている。
 芭蕉が『虚栗(みなしぐり)』の軽薄な句風に猛省を加えた書簡を門人に送ったのもこのころとされる。
 ちなみに栗田によれば、芭蕉はけっして松尾家やその親族のやっかい者ではなかったという。「芭蕉は江戸にあっても、いつも伊賀に在留する兄の家族や親族に心を配り、経済的援助も、無理をしつつも折あるごとに続けていた」
 伊賀の俳壇や藤堂家との深いかかわりもある。風狂であっても、名士だったといってよいだろう。
 2月中旬(新暦では3月下旬)、芭蕉は奈良に行く。
 その道の途中で詠んだ句。

  春なれや名もなき山の薄霞(うすがすみ)

 ああ春だなあ。大和の国の山々に薄霞がかかっている。大和への思いがわきでる。
 そして、二月堂の前で祈願した。

  水取りや氷の僧の沓(くつ)の音

 水取りの業はいまもつづけられている。栗田勇によると、修行の僧が素足に大きな木の沓をはき、本堂のなかを走り回り、本尊の前で五体投地をくり返す。その音の激しさはびっくりするほどだという。
 芭蕉は寒夜の業をみたのだろう。そこには厳しい氷の僧の姿があった。

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[二月堂修二会。ウィキペディアより]

 奈良では薪能も見物したらしい。興福寺南大門の前でおこなわれたという。
 芭蕉はいったん伊賀上野に戻ってから、2月下旬、京に向かった。
「紀行」には、京にのぼって、三井秋風(しゅうふう)の鳴滝の山荘を訪れたとある。ここで半月ほどすごしたらしい。このかん、京六条にも出て、句会を開いた。
 しかし、松永貞徳以来のいわゆる貞門の影響が強い京都では、芭蕉の蕉風はなかなか受け入れられなかったようだ。栗田によれば、芭蕉の死後は、唯一、門人の去来が孤塁を守ったと記されている。
 それはともかく、芭蕉が宿を借りたあるじの三井秋風についてである。
 秋風は京都の富豪、三井三郎左衛門紹貞(しょうてい)の甥だが、『町人考見録』によると、とんでもない不行跡者で、商売ほったらかしで、ぜいたく放題、鳴滝の山荘に引きこもって、栄耀をきわめたという。黄檗宗(おうばくしゅう)に傾倒し、異形の者となったと評されている。三井家からすれば、困った変わり者だったのだろう。
 鳴滝は京都の北西郊、仁和寺の西に位置する。京福電鉄に鳴滝という駅がある、そのあたりだ。ここで芭蕉は秋風と連句の会を開いているが、『野ざらし紀行』に収録されているのは「梅林」と題する二句である。

  梅白しきのふや鶴を盗まれし

  樫(かし)の木の花にかまはぬ姿かな

 鳴滝にある秋風の梅林で遊んだときの句である。
 一見、よくわからない。
 栗田勇の解説によると、最初の句は、梅を植え、鶴を養って、脱俗の境地に生きた、宋時代の隠君子、林和靖(りんなせい)の故事を踏まえている。
 きょうは梅の花がどこまでも白く咲いている。それなのに鶴が見えない。おや、きのう鶴を盗まれたんでしょうか、とおどけてみせる。芭蕉は三井秋風を林和靖になぞらえ、脱俗の白い花で満ちあふれる梅林のみごとさをたたえたのである。
 さらに目を転じて、芭蕉は咲き誇る花など気にかける様子もなく、堂々と立つカシの木に、秋風の孤高をみる思いがした。それがもうひとつの句となった。
 鳴滝からは嵯峨野が近い。嵯峨野には芭蕉の門弟、向井去来の落柿舎(らくししゃ)があった。のちに芭蕉は、この落柿舎を三たび訪れることになる。
 旅の記録によると、鳴滝の山荘をでたあと、芭蕉は伏見の西岸寺に行き、任口上人と会った。まもなく桜の花が咲くころだ。
 任口上人が、すぐ帰ろうとする芭蕉を引きとめて、さだめし江戸桜が気になっておられるのだろうと詠ったのにたいし、芭蕉はこう返した。

  我が衣に伏見の桃の雫(しずく)せよ

 京伏見では桃園がみごとだったという。桃といえば3月3日の節句である。このころ(新暦では4月上旬)桃は花をつける。
 西岸寺を訪れたときも、桃の花が咲きはじめていたのだろう。芭蕉は桃園に禅林の境地をみて、任口上人との別れを惜しんだ。
 そして、芭蕉は大津へと向かう。京都からは山路を越えなければならなかった。そこに、次の句がおかれる。

  山路来て何やらゆかしすみれ草

 芭蕉はこの句に京都との別れを託した。可憐なスミレの色が脳裏に浮かぶ。
 琵琶湖が見えてくる。大津から湖岸を眺望すると、松の大木が斜めに伸びているのがわかる。そこが辛崎(からさき)だ。
 芭蕉は詠う。

  辛崎の松は花より朧(おぼろ)にて

 芭蕉はこの句を、大津の医者で門下、江左尚白(えさしょうはく、1650-1722)の屋敷で詠んだとされる(別の説もある)。
 辛崎(それは唐崎でも韓崎でもある)には神社があり、松が植えられている。
 芭蕉は山桜と重ねあわせて、おぼろにとらえた辛崎の松の雄渾さをたたえる。そこには古代からの時が流れていた。

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[広重、近江八景より「辛崎夜雨」。ウィキペディアより]

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眠る本たち その7 [眠る本たち]

本の整理、なかなか進まない。目を通すだけでも。

(35)ローラ・インガルス・ワイルダー『大草原の小さな町』(鈴木哲子訳)1987年[1957年初版]、岩波書店[岩波少年文庫]
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昔、『大草原の小さな家』というテレビドラマを一家でよくみていた。NHKで放送されたのは1975年から82年にかけてのことだという。毎週土曜夕方6時からの放映だったという。長女は1975年生まれだから、再放送を見たのかもしれない。あのころはアメリカのドラマがいまよりもずっと多くテレビで流されていた。この番組は1870年代から80年代にかけての西部開拓時代のアメリカが舞台。原作はローラ・インガルス・ワイルダーの自叙伝で、その1冊がこの『大草原の小さな町』だ。ローラ役の少女がかわいかった。父さん、母さんもかっこよかった。

(36)入江隆則『文明論の現在』2003年、多摩川大学出版部
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カバー裏の案内に「保守派の論客が、文明論的状況からアメリカとは何か、激動するアジア、ナショナリズムについて、あるいは太平洋文明論など縦横に論じ、存亡の危機に立つ日本の進むべき路を考える」とある。著者いわく。「アメリカは今日世界で唯一の覇権国であって、世界の幸不幸は、この国の動静に懸かっているところが大きい。世俗的なものに形を変えて生き続けるその宗教的情熱と、独立戦争以来培われてきた矜持とが、独善的な方向に向かうと、世界全体の不幸になる。したがってそれをどうコントロールするかに、知恵をしぼらねばならない時期が来ていると思う」。著者は日本こそがアメリカをコントロールすべきだと訴えるのだが、現状は日本がますますアメリカの言いなりになっている。そこが悲しいところだ。

(37)皆川博子『死の泉』1997年、早川書房
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ナチスは金髪で青い目のアーリア人を増やすため、未婚女性の出産を支援するレーベンボルン(命の泉)という施設をつくった。ここには生まれてくる子どもだけではなく、さらわれてきた子どもも収容された。その多くがポーランド人だった。この小説はレーベンボルンを舞台にしたミステリー。レーベンボルンに収容されたポーランド人がナチス時代をふり返ってつづった手記を昔、編集したことがある。そのとき訳者から紹介されて買ったのだと思う。ポーランド語の原著タイトルは「ヤンチャルの学校」で、何のことかよくわからない、と訳者はいっていた。あとで、それはトルコでいうイェニチェリのことだと知った。

(38)長沢和俊『シルクロード・幻の王国』1980年[初版は1976年]、日本放送出版協会[NHKブックスジュニア]
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たぶんこれはシルクロードに行きたがっていた義父が買った本だ。このころ義父は心筋梗塞で倒れ、5年後に亡くなったから、シルクロードには行けなかった。中央アジア探検の歴史、シルクロードの町、それに砂漠に消えたローラン王国のことがつづられている。あのころNHKテレビでもシルクロードの大型企画番組が放映されていた。

(39)中山俊明『紀子妃の右手──[お髪直し]写真事件』1992年、情報センター出版局
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著者は将来を嘱望される共同通信の写真記者として、1988年に宮内庁嘱託カメラマンとなった。90年の秋篠宮結婚にさいして、偶然、紀子妃が右手で秋篠宮の髪を直そうとする一瞬を撮影した。宮内庁はこの写真を差し止めようとしたが、新聞はそれを掲載した。そのときから記者は非難の嵐にさらされ、ついには退社の道を選ぶ。皇室報道にはまだまだタブーがある。

(40)石山永一郞『フィリピン出稼ぎ労働者──夢を追い日本に生きて』1989年、柘植書房
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共同通信元マニラ支局長によるルポ。フィリピンから日本に出稼ぎにきた男たち、女たちを名古屋の栄、横浜の寿町、東京の六本木、沖縄の金武、そしてフィリピン・マニラで取材する。〈日本が真に国際化をするということは、日本社会が豊かな多様性を持つことであると私は思っている。多様な価値観を受け入れる社会の柔軟性を育み、少数者の痛みや悲しみへの想像力を増すことが本当の意味での国際化には不可欠である。〉フリーになった著者のこれからの活躍が注目される。

(41)西園寺一晃『青春の北京──北京留学の十年』1971年、中央公論社
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1958年から67年までの10年間、著者は北京で過ごした。15歳から25歳にかけての青春時代である。文革時代を含むその時代を、自らの思い出とともに描いたのが本書。あのころ文革は日本では何かあこがれをもって見られていた。ぼく自身は文革に幻想をいだいていなかった。文革は中国共産党のプロパガンダに彩られて、日本に伝えられていた。その実態を知る日本人は少なかったのだ。

(42)本多勝一『極限の民族』1971年[初版は1967年]、朝日新聞社
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カナダ・エスキモー、ニューギニア高地人、アラビア遊牧民のルポ。取材したのは1963年から65年にかけて。朝日新聞に連載された。本多勝一はその後、南ベトナムや中国も取材している。朝日の看板記者だった。その分、いまは風当たりが強い。でも、この探検ものは読みはじめると、意外とおもしろい。

(43)笹倉明『ニッポン流学』1991年、文藝春秋
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直木賞作家、待望の第一エッセイ集、とある。「揺れ動くニッポンの日常から、自作や隣人、そしてアジア世界に向けられた著者の深いまなざし」とある。高校時代の友人だ。いまはタイで僧侶の修行をしていると聞いた。久しぶりにゆっくり話したいものだ。

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美濃から尾張へ──栗田勇『芭蕉』から(13) [芭蕉]

 ときどき思いだしたように、栗田勇の『芭蕉』を読んでいる。
 貞享元年(1684)、芭蕉の野ざらしの旅は、吉野をでたあと、大和、山城をへて、近江路を通り、美濃にはいった。江戸深川を8月に出発し、美濃の大垣に着いたときは9月下旬になっている。
 例によって、芭蕉の記述をやぼな現代語訳で示しておく。

〈大和から山城をへて、近江路にはいり、美濃にいたる。今須・山中をすぎると、いにしえの常磐(ときわ)の塚がある。伊勢の守武(荒木田守武)が詠んだ「義朝(よしとも)殿に似たる秋風」とどうしても似てしまうが、自分もまた一句。

  義朝の心に似たり秋の風

    不破
  秋風や藪も畠も不破の関

 大垣では、木因(ぼくいん)の家に泊まらせてもらった。武蔵野をでたときは、野ざらしになるのを覚悟していたので、

  死にもせぬ旅寝の果てよ秋の暮〉

 常磐は、平家と戦って敗れた源義朝(1123-60)の愛妾で、義経(牛若)の母。牛若が京の鞍馬山から出奔したという知らせを聞いて、あとを追うが、山中(やまなか)の宿で、賊に殺されたという伝説が残っている。だが、これは事実ではないらしい。
 山中では、近世、大きな戦いがくり広げられた。すなわち関ヶ原の合戦である。だが、芭蕉はそのことに触れない。思いはひたすら物語にえがかれる中世、常盤の悲劇へと向かう。
 芭蕉は伊勢の内宮に仕えた連歌師、荒木田守武(1473-1549)が、「月みてやときはの里へかかるらん」に「義朝殿に似たる秋風」と付けたのを知っている。
 常盤は臨月で里へ帰っているというのに、義朝殿は薄情にもちっとも姿を見せないという戯(ざ)れ歌である。
 芭蕉はそれをひっくり返して、義朝が常盤のことを思ってやまないと転じ、それを常盤の塚へのたむけとした。
 古代の不破の関は関ヶ原に置かれていた。そもそも関ヶ原という地名は、不破の関があったことに由来するのだろう。その関もいまはすっかりなくなって、藪や畠となり、秋風が吹くばかり、と芭蕉はうたう。
 芭蕉が宿を借りたあるじ、谷木因(1646-1725)は大垣の船問屋で、大垣では名の知られた俳人だった。北村季吟に俳諧を学び、井原西鶴とも交流があったという。芭蕉とは以前からの知り合いだった。
 その木因の家で、芭蕉は「死にもせぬ旅寝の果てよ秋の暮」の名句を詠む。まだ生きてるよ、とやや自嘲気味なところに滑稽さがただよう。
 のちに木因とは句風のちがいから疎遠になるものの、このころはまだ親しい関係が保たれていた。
 俳諧は座の文化、かけあいの芸術でもある。芭蕉はひと月ほど大垣に滞在し、座をおこし、歌仙を巻いている。
 それから、興にまかせ、木因とともに、句商人(あきんど)、すなわち俳諧師のやつがれ姿をして行脚の旅に出た。
「野ざらし」の旅はつづく。11月上旬(いまの暦では12月中旬)、季節は冬に移っている。また現代語訳で。

〈桑名本当寺で一句。

  冬牡丹千鳥よ雪のほととぎす

 旅の枕に寝あきて、まだほの暗いうちに、浜のほうに出たとき、

  曙(あけぼの)や白魚(しらうお)白きこと一寸(いっすん)〉

 本当寺は本統寺のこと。芭蕉は多度山権現を訪れたあと、この寺に数日滞在した。牡丹の句は、この寺で開かれた夜会の席で詠まれた。
 寒牡丹といえば冬の千鳥を思い起こす。それは雪のほととぎすと同じで、清冽な趣がある。栽培されて、みごと大ぶりの白い花をつけた冬の牡丹から千鳥へと連想を広げ、ほととぎすの哀切な声を引きだした一句だ。
 そして、次の日の朝、浜辺にでたとき、次の一句が頭に浮かんでくる。
 曙や白魚白きこと一寸。
 水平線があかく染まって、生まれたての太陽が顔をのぞかせる。このとき、芭蕉が思いえがくのは、白魚の何ともいえない白さだ。大きなあかい太陽と、ちいさな白魚の白さの対比。生きていることの実感が伝わってくる。

 芭蕉は木因と別れ、桑名から船で熱田に向かった。
 桑名では林桐葉(はやし・とうよう、?-1712)宅に逗留。俳席をもつかたわら、熱田神宮に詣でた。

〈熱田神宮に詣でる。社殿はじつに荒れ果て、築地塀も倒れて、草むらに隠れている。あちこち縄をはって、ちいさな社の跡を示し、そこに石を据えて、それぞれ神を名乗っているありさまだ。
 ヨモギ、シノブも手入れされないまま生えている。めでたいというより、胸をつかれる。

  忍(しのぶ)さへ枯れて餅買ふやどりかな〉

 このころの熱田神宮はよほど荒廃していたらしい。栗田勇によると、大鳥居も倒れていたという。熱田神宮は草薙剣(くさなぎのつるぎ)をご神体とする。「筑波の道(連歌)の祖とされる日本武尊(やまとたけるのみこと)のゆかりから、とくに連歌・俳諧者たちの信仰も深かった」ようだ。

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[現在の熱田神宮社殿。ウィキペディアより]

 芭蕉は、霜枯れでシノブさえ枯れ果て、昔をしのぶよすがさえないなか、門前の茶店で餅を買って休むおのれの姿をうたう。そこにゆったりと古代からの時が流れている。
 このあと、芭蕉は名古屋にはいり、尾張連衆と交わり、『冬の日』五歌仙を興行する、とある。「いわゆる蕉風確立の契機ともなった重要な歌仙」だ。『芭蕉七部集』にも収められているとか。
『野ざらし紀行』では、名古屋にはいる道中に浮かんだ句が無造作に並べられている。

〈名古屋にはいる道すがらの風吟(尾張旅泊)。

  狂句木枯(こがらし)の身は竹斎に似たるかな

  草枕犬もしぐるるか夜の声

   雪見に歩きながら
  市人(いちびと)よこの笠売らう雪の傘
 
   旅人をみる
  馬をさへながむる雪の朝(あした)かな

   海辺で一日すごして
  海暮れて鴨の声ほのかに白し〉

 竹斎とは仮名草子にでてくる狂歌好きの医者の名前。狂歌に熱心なばかり患者もつかなくなり、東に下る途中、名古屋に立ち寄った。そのときの風体は、笠はほころび、コートもぼろぼろ、羽織もすすけているといったありさま。芭蕉は物語にえがかれている竹斎に自らをなぞらえた。
 そして旅寝の枕に聞こえてくるのは、犬の遠吠え。しぐれのわびしさが夜の闇の深さをいや増す。
 雪が降ったのだろう。次の句は雪のなかを歩くと、雪のつもった笠がなかなか風流なので、どなたかこれを買ってくださらんかとおどける。
 雪の朝は幻想的な世界が広がる。馬に乗る旅人も、まるで中国古代の詩人のようにみえてくる。
 そして、海辺での絶唱が生まれる。
 海暮れて鴨の声ほのかに白し。
 桑名で詠んだ「曙や白魚白きこと一寸」に対応する。
 夕暮れた海にカモの声がほんのり白く聞こえてくる。カモの姿はもう見えない。ただ、その声がほんのり白く聞こえてくるのだ。白くとしかいいようがない。それは自分をも白く透明にしていく。宇宙の閑寂に包まれるようだ。
 芭蕉はそううたった。
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産業組織論つづき──マーシャル『経済学原理』を読む(11) [経済学]

 ここでは分業と機械化、産業立地の条件、大規模生産、企業経営などがテーマとして取りあげられる。
 集中と反復が作業の能率化につながるのはいうまでもない。とりわけ、ひとつの製品をつくるにあたっては、ひとりがすべての作業をおこなうのでなく、ある工程だけの作業をくり返しおこなうほうが、はるかに効率的である。そのことはアダム・スミスが分業論のなかで示したとおりだ。
 しかし、作業が型にはまったものになってしまえば、ほぼ機械で代替できる状態になっている。近代的な生産の特徴は、機械が肉体的技能に取って代わったことだ、とマーシャルはいう。
 金属工業の部門でも、精巧な機械なら容易に金属製品を多量につくりだすことができる。工作機械は金属の加工を容易にした。
 機械は年ごとに自動になり、手労働による補助をだんだん必要としなくなっている。そのため、機械を取り扱う人には、肉体的能力より、高い判断力と細心の注意が求められる。
 機械を扱うにはかつての職人のような特殊の技能はいらない。高次の知性があれば、少しの訓練で、機械が扱えるようになる。
 機械化のメリットは商品価格を下げ、それによって、より多くの人がその商品を買えるようにすることだ。
 労働面でいうと、機械は人間の肉体的過労を抑える役割をはたしてきた。いやむしろ、人間の筋肉力では限界がある作業をも可能にした。画一的で単調な作業は、次第に機械に取って代わられるだろう、とマーシャルは断言する。
 機械化が労働力を排除するとはかぎらない。機械化の進展にともなって、判断力や創造力を必要とする新たな種類の仕事が増えてくるはずだからである。
 次にマーシャルは、産業発展には企業の内部的効率の増進に加えて、立地条件などの外部的要因が重要になってくると述べている。
 文明の初期段階では、重い物は地場で生産するほかなかった。水運だけが重い物を遠くに運ぶ手段だった。しかし、徐々に交通が開けてくると、遠方からの製品──たとえば被服や金属製の道具、香料など──もはいってくる。定期市などに、こうした商品が並ぶと、消費者に新たな欲望がめばえていった。
 地域に特化した産業がある、とマーシャルはいう。その原因は地域独自の気象や土壌、あるいは近くに鉱山や採石場があるということだ。金属工業は一般に鉱山の近く、あるいは燃料に恵まれた場所に誕生した。
 また宮廷などがあれば、そこに人が集まり、高級な財への需要がおこり、熟練の職人たちもやってきて、工芸が発達してくる。
 産業の条件は自然条件だけではない。宗教的、政治的、経済的な要因もからんでくる。そして、産業がその場所を選択すると、そこにとどまることが多い。やがて、近隣に補助産業が生まれ、道具や機械、素材を提供するようになる。産業はさらに流通の発達をうながす。
 マーシャルによれば、大都市の中心部は地価が高いので、工場地帯は都市の郊外に形成されやすい。イギリスでは、鉱業や機械工業のある近辺に繊維産業も引き寄せられ、いくつかの異なる産業が集まることによって、工業地帯が形成されてきたという。
 いっぽう、生産面だけでなく、消費面をみると、商店もまたある地点に集まる傾向がある。こうして商店街ができあがる。
 運輸通信手段の発達と低廉化は、産業にも大きな影響をおよぼす。それによって、いわば産業の場が拡散するのだ。
 産業が発達するにつれ、非農業人口の割合が増えてきたことはまちがいない。「中世には農業人口は全人口の4分の3を占めていたが、最近[20世紀はじめ]のセンサスでは9分の1の者しか農業に従事していない」と述べている。とはいえ、かつての農民は「いまでは醸造屋やパン屋、紡績工や織布工、れんが積みや大工、仕立屋や婦人服屋その他多くの業種が行っている仕事を大部分自分でやっていた」のだから、「農業人口の縮小の実態は外見ほど大きなものでもない」。労働者は農民から分化したにすぎない、とマーシャルは考えている。
 さらにマーシャルは農業から流出した人口は製造業に吸収されたわけでもない、と述べている。製造業においては機械化が進んだため、生産力の割に労働力をさほど必要としなかった。

〈1851年以来イングランドにおいて農業の縮小によって急速に膨張していった職種は、鉱業・建設業・商業・道路および鉄道による輸送業をはじめ中央および地方の政府職員・初等から高等にいたる学校・医療・音楽・劇場その他娯楽などであった。……これら職種では人間の労働は1世紀以前に比べて著しく能率が高くなったわけではない。これらによってみたされなくてはならない欲望が一般的な富の増大につれて拡大してくれば、産業人口のいよいよ大きな割合がこの分野に吸収されていくのは見やすい道理である。〉

 マーシャルはいわゆる第3次産業に従事する労働者の割合が増加することを予測していたといえるだろう。
 ここで、ふたたびマーシャルは産業組織の問題に戻って、大規模生産のメリットについて論じる。
 大規模な製造業者は改良された新たな商品をつくりだし、それを広告宣伝することによって、消費者の欲望をつくりだすことができる。だが、小規模な製造業者では、そうしたことはとても無理だ。
 大きな事業体のメリットは、大量に安く仕入れができ、輸送費を節約でき、また商品を大量に安く販売できることである。商品ブランドが世間に知られるようになると、顧客の信頼もついてくる。こうした経済の高度化が、企業の巨大化をうながすのだ、とマーシャルは述べている。
 さらに大規模な製造業者は、多種多様な人間を適性に応じて現場に配分することによって分業の効率を高めることができる。いっぽう、経営者は現場管理者を適切に配置することによって、営業のもっとも重要な課題にのみ全力を集中し、市場全体の動きをみながら、企業の方向性を決めていくようになる。
 小さな事業体では、たとえ能力のある経営者でも、現場の仕事にほとんどの時間をとられてしまう。とはいえ、小企業の経営者が現場に目が行き届き、そこから独自の経験知を獲得し、ユニークな活動を展開する可能性もマーシャルは否定していない。
 たとえ大企業であっても、企業には競争がつきものである。大きな資本、高度な機械、優秀な労働力、広範な営業取引関係をもつ大企業にたいしても、独創性と機動力、忍耐強さをもって挑んでくる新興勢力が現れる可能性は常にある。マーシャルは企業を発展させ存続させていくことが、いかにむずかしいかを認識している。
 困難なのは製品の販売である。単純で均質な財であれば、大規模生産のメリットを生かせるから、こうした分野では大企業が小企業を駆逐し、小企業を統合していくだろう。だが、特殊な商品については、大規模生産のメリットは生かせない。手間のかかる特殊な商品が限られた市場で引きつづき販売される。
 いっぽうマーシャルは大企業の最盛期が長く続くことはまずないとも指摘している。「その台頭をささえた非凡な活力を失ってしまった企業は遠からず衰退するかたむきがある」というのだ。
 大きな事業体が小さな事業体にたいし優位性をもつのは製造業だけとはかぎらない。小売業でも小さな店は日々、その地盤を失いつつある。小売業でも大型化が進み、消費者は豊富な商品をより適切な価格で購入することができるようになった、とマーシャルはいう。
 最後にマーシャルは企業経営のむずかしさについても述べている。
 ちいさな個人商店では、店主が商品の仕入れから陳列、販売、店内の掃除まで、全部自分でこなさなければならない。ところが大きな企業では、経営者の仕事は資本と労働力を結合させ、細部にわたって事業計画の実施を監督することに特化される。
 経営者の仕事は労働者を監督することだけではない。自己の商品にたいする知識をもち、商品の生産・消費動向を予測し、消費者の欲求に応える新たな商品をつくりだし、常に古い商品の生産方法を改善するよう努めねばならない。そのために、経営者は「慎重に判断し、大胆に危険をおかすことができなくてはならない」と、マーシャルはいう。
 経営者は指導者としての能力を問われる。スタッフを育て、信頼し、スタッフの機略と創造力を引きだすのも経営者の仕事である。
 一見すると実業家の息子は父親から経営のノウハウを学び、代々にわたって企業を発展させていくかに思えるが、「事態の真相はこれとはたいへん異なっている」と、マーシャルはいう。二代目、三代目で没落していく企業が多いのは、かれらが経営者としての気質や能力を失ってしまうからだ。そのとき事業の活力をよみがえらせるには、優秀なスタッフのなかから次期経営者を選ぶほかない、とマーシャルは断言している。
 個人会社とちがって株式会社の場合は、たいてい経営者に事業の運営がまかされる。経営者は株式を所有していなくてもよい。経営者は業績に応じて、低い職階から高い職階に昇格するのがふつうだ、とマーシャルはいう。
 株式会社の弱点は、その主要な危険をになう株主が往々にして営業についての知識を欠いていることだ。そのため、株式会社という民主的な経営形態が発展していくには、営業上の秘密が減少し、公開性が増大していくことが求められる、とマーシャルは指摘する。
 製造業や鉱業、運輸業、通信業、銀行業などは巨額な資本を要するようになり、ちいさな事業体が活躍する余地がなくなってきた。このことは、経済の発展にとってかならずしもプラスとはいえない。トラストやカルテルはその最たる弊害である。
 独占企業ににたいし協同組合は理想的な事業体のようにみえる。しかし、協同組合の管理者にはなかなかよい人が得られないのが実情で、協同組合はいまのところ消費組合以外に顕著な成功例はみられない。だが、マーシャルは収益配分制を旨とする協同主義の発展に大きな期待を寄せている。
 イングランドの総人口の4分の3は勤労階級だ、とマーシャルはいう。だが、かれらはずっと労働者にとどまるわけではない。管理職をめざして努力すれば、企業の共同経営者になれる可能性だってある。あるいは自分でお金をためて、小さな店をいとなむこともできる。一世代のあいだに最高の地位まで昇進することは無理だとしても、二世代のあいだにそれを実現することは不可能ではない。
「大観してみると広範な上向運動がある」のが、現代の特徴なのだ。もっとも、そのための競争は激烈だ。労働者は産業上の技能や能力の向上を求められている。同時に経営者も「判断・機敏・機略・綿密・意志の強固さ」といった広範な能力を求められるようになっている、とマーシャルはいう。
 その結果、有能な実業家は紆余曲折があっても、大きな資本を動かすことができるようになる。いっぽう無能な実業家はたちまち資本を失ってしまい、事業を破産へと追いこんでしまう。いまはそういう厳しい時代なのだ、とマーシャルはいう。自由な時代は、厳しい競争をともなう組織の時代でもあることをマーシャルは認識していたといえるだろう。

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