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『隣国への足跡』を読む(2) [本]

 黒田勝弘氏の日韓歴史事件簿をひもといている。
 時代は日清戦争(1894-95)の直後にさかのぼる。
 この戦争で日本は清国を打ち破り、韓国にたいする支配権を握った。
 ところが、独仏露の三国干渉により、日本は影響力の拡大をはばまれる。
 とりわけ、韓国では、親日勢力にたいし親露勢力が巻き返しをはかった。その中心人物と目されたのが、閔妃(ミンピ)、国王・高宗の皇后である。
 こうして1895年の閔妃暗殺事件が発生する。
 日本の駐韓公使、三浦梧楼をトップとする日本人集団(軍人、警察官、壮士を含む)が、王宮を襲撃し、乱暴にも王妃を殺害したのだ。
 福沢諭吉は「実に言語道断の挙動にしてその罪は決してゆるすべからず」と非難した。
 事件後、三浦梧楼をはじめ事件にかかわった者は、ただちに日本に呼び戻されたが、罪を問われることはなく、全員無罪放免となった。
 この事件は「百年を超え、今にいたるまで日本の歴史的痛恨になっている」、「あの事件には『武士道』のかけらも感じられない」と、著者もいう。
 まったくひどいことをしたものだ。
 ちなみに、日露戦争後、いわゆる「武断統治」によって韓国支配を強化したのは、長州閥、とりわけ長州閥の陸軍首脳だという。
「明治日本が朝鮮半島の“管理”を薩摩系にやらせておけば歴史は変わっていたかもしれない」とまで、著者は論じている。武断派ではありえない伊藤博文にしても、事件に責任がなかったわけではない。
 著者は「閔妃暗殺と伊藤博文暗殺は行って来い」の関係なのだから、「もうあの件は恨みっこなしにしようじゃないですか」と韓国側に言っているそうだが、韓国人は納得してくれない、という。あたりまえかもしれない。
 ところで、閔妃暗殺事件には、韓国人部隊も加わっていた。その中心人物、禹範善(ウ・ポムソン)は、事件後、日本に亡命したが、広島の呉で暗殺された。
 そして、著者は広島で亡くなった韓国人のひとりとして、朝鮮王族のイ・ウ(注・ワープロでウの漢字が出てこない)殿下(陸軍中佐)のことを紹介している。殿下は広島への原爆投下で亡くなったのだ。悲運である。
 日本側は韓国の王族の死にたいして礼を尽くした。殿下が亡くなったとき、お付き武官の吉成弘中佐は責任感から自決している。
 広島で被爆により死亡した人の数は20万人にのぼる。だが、その1割の2万人が韓国人被爆者だということは、案外知られていない。
 以前は平和公園の西側にある本川のほとりに「韓国人原爆犠牲者慰霊碑」が立っていた。1970年に民団広島県本部が立てたものだ。
 しかし、現在、この慰霊碑は平和公園内に移された。韓国メディアが「死んだ後も韓国人は差別されている」と非難したためだ。
 おかしな話だ、と著者はいう。
「在韓被爆者問題に関しては曲折を経ながら広島も日本も官民双方でそれなりによく努力してきたと思う」のに、それを評価する声が韓国ではいまなお聞かれないのは、「実に切ない」と、著者は述べている。
 いっぽうで韓国の土になった日本の皇女もいる。李方子(1901-89)妃である。
 梨本宮方子妃は、李王朝の最後の皇太子、李垠(イ・ウン)殿下と結婚した。夫妻は戦前から戦後にかけ日本に住んでいたが、1963年に韓国籍を与えられ、韓国に“帰国”することができた。李垠殿下は1970年に亡くなる。
 韓国では昌徳宮(チャンドックン)の楽善斎(ナクソンジェ)に住んでおられ、李雅子妃は昭和天皇が亡くなられた同じ年に亡くなった。
 正式には最後の皇太子妃だが、韓国では王妃扱いされていたという。その葬儀は最後の王朝葬礼となった。
 方子妃は障害者福祉事業を通じて、韓国国民から尊敬されていた。
 日韓の苛酷な歴史を背負った李方子妃のことを日本人は忘れてはならない、と著者は書いている。
 なぜか、わが家には方子妃がつくられたという皿が飾ってある。
 これがどういう経緯で、うちにやってきたのかはよくわからない。
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『隣国への足跡』を読む(1) [本]

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 著者、黒田勝弘氏のソウル在住はすでに35年になるという。
 この間、記者として、ずっと韓国の動きを追ってきた。
 韓国が嫌いならば、35年もソウルに住みつづけるわけがない。韓国はどこか人をひきつけるものがあるのだろう。
 とはいえ、著者はあくまでも日本人としての立場を忘れない。日本人としての素直な目で韓国と韓国人を見つめ、いうべきことはいっている。
 いまもっとも信頼できる韓国ウォッチャーのひとりだ。
 日本と韓国は永遠の隣国である。近いがゆえに、ときに近親憎悪のようなものもわく。だが、著者は憎悪からではなく、あくまでも冷静かつ親密に、韓国の人びととつきあおうとしている。そこで保たれているのは、たがいに軽口や悪口をたたきながらも、暴力沙汰を避け、相手のことをずっと忘れないといった関係だ。
 そうはいっても、近代における日韓関係の歴史は、あまりにも複雑で、時に苛酷な経緯をたどってきた。本書はそのポイントとなる、さまざまな事件をたどりながら、永遠の隣国である日本と韓国の歴史を解き明かそうとする意欲作だといってよい。
 全体は15章で成り立っている。
 そのテーマは、
 ハーグ密使事件、日露戦争のはじまり、竹島問題、閔妃暗殺事件、広島と韓国人、李方子妃、総督府庁舎の解体、韓雲史と梶山季之、苦難の引き揚げ、総督府と国立博物館、朝鮮戦争と松本清張、祖国帰還運動の悲劇、金嬉老事件、KAL事件と金賢姫、金日成と朴正煕……
 などといったところ。
 いずれもおなじみのテーマだが、かしこまらず、気楽に読むことができる。そして、読後は、日本と韓国はいろいろあったし、いまもいろいろあるけれど、過去のことを忘れず、かといって、たがいにエキセントリックにならず、これからもつきあっていこうといった気分にさそわれる。
 ぼく自身もいろんなことを思いだしながら、この本を読んだ。
 以下は、例によって、くどくどしい読書メモである。

 最初に取りあげられるのは、いわゆるハーグ密使事件である。
 著者が偶然にも時の皇帝、高宗(コジョン)が密使にさずけた委任状なるものを手に入れたところから話がはじまる。
 1907年のハーグ密使事件とは、そもそもどういう事件だったのか。
 日露戦争(1904〜05年)でロシアに勝った日本は、朝鮮半島にたいする支配権を強めた。
 1905年にはいわゆる日韓保護条約が結ばれ、日本は韓国を日本の保護国とした。
 韓国側はこれに内心反発し、1907年にハーグで開かれた万国平和会議に3人の密使を送り、日韓保護条約の無効、不法を訴えた。
 これがハーグ密使事件である。
 これにたいし、日本側は密使がニセ者だと訴え、皇帝の委任状もインチキだとして決着をはかった。
 著者はたまたま行商から皇帝の本物の委任状なるものを手に入れた。しかし、調べた結果、それはどうも偽造で、どうやらうまくだまされたらしいとの結論を出さざるをえなかった。
 それはともかく、ハーグ密書事件の顛末はどうだったのだろう。怒った日本側は高宗を退位に追いこみ、息子の純宗(すんじゅん)を皇位につけるが、3年後には韓国を併合してしまったのだ。
 その前、1909年に安重根によって、伊藤博文が暗殺されていた。
「とすると『ハーグ密使事件』というのは高宗など韓国側の思惑とは逆に、結果的には韓国の日本への併合を促したということもできる」と、著者は書いている。
 歴史の皮肉のひとつである。
 次に場面はすこし前に戻って、日露開戦のシーンへと移る。
 日露戦争の本質は、朝鮮半島の支配権をめぐる日露間の争いだった。
 日露が戦端を開いたのは、韓国の仁川(インチョン)沖である。
 日本艦隊は仁川沖に停泊するロシア艦隊を砲撃、これによりワリヤークなど2隻の戦艦を撃沈した。1904年2月のことである。
 そして、日本はかろうじてロシアを打ち破ることによって、韓国(朝鮮)を支配することになる。
 韓国人の反日感情は根強い。
 著者はいう。

〈以下のことは日本人がいうと韓国人たちは「過去を正当化するもの」といって反発するが、もしその後の日露戦争でロシアが勝っていれば、韓国がロシアの支配下に入っていたことはかなりの確率で確かだろう。日露戦争は韓国にとっては迷惑な戦争だったが、韓国支配強化につながった勝者の日本が後に“悪者”になったからといって、敗者のロシアが免罪されるわけはないだろう。〉

 歴史にイフはないのだが、この問題は微妙である。
 西郷隆盛もそうだが、伊藤博文も韓国を征服しようなどとは考えておらず、あくまでも韓国の自立を念頭においていた。最初から、韓国を植民地化しようと思っていたのは日本の軍部である。
 日本側は最後までロシアとの戦争を避けるよう努力したが、けっきょく戦争は避けられなかった。
 そして、もしロシアが勝利していれば、朝鮮半島はロシアの支配下にはいったばかりか、日本海もロシア艦隊の制圧するところとなっただろう。すると、日本自体の安全もおびやかされることになったにちがいない。
 もし朝鮮半島がロシアによって支配されていたら、その後の韓国の歴史は悲惨なものとなったはずだ。だが、その後、日本は韓国統治をうまくやりとげたとも思えないのである。
 ぼく自身の感想がですぎた。
 本の中身に戻ろう。
 著者は、釜山のすぐ西にある巨済島(コジェド)に日露戦争後に東郷平八郎の揮毫をもとにした石碑が、倉庫に残っていることを紹介している。「本日天気晴朗なれども波高し」の歴史的一文を刻んだ石碑である。この電文が発せられたのは、ここ巨済島からだったという。
 ところで、島といえば竹島問題である。
 竹島(韓国側のいう独島)も日露戦争と関係が深い。
 竹島が日本領(島根県)に編入されたのは、1905年2月。まさに日露戦争のさなかだった。日本海海戦は5月下旬のことである。
 竹島の日本領への編入は1910年の韓国併合に先立つから、竹島の領有権は日本にある、と日本側は主張してきた。これにたいし、竹島は古来、韓国の領土であり、韓国がすでに保護国となっていた時代に日本によって奪われたものだ、と韓国側は主張する。
 現在、韓国が「武装占拠」している竹島は、著者が遠望したかぎり「巨大な赤茶けた岩礁」であり、自然破壊がはなはだしい。昔いたアシカもいなくなってしまった。
 著者はいう。

〈不思議なことに韓国は、竹島に多くの人工施設を作り、年間20万人以上の人間を送り込み、島を“満身創痍”にしておきながら島を「天然保護区域」に指定し、天然記念物扱いしている。……これではアシカも島には寄り付かない。今からでも遅くない。日韓共同で島を「ユネスコ世界自然遺産」に登録申請しようではないか。〉

 もちろん皮肉であり、冗談だ、と著者はいう。
 でも、案外、ほんねだったりして……。
 竹島問題の解決には、もっと両国の知恵が必要だ。
 そのさい、指針になるのはナショナリズムではなく、トランス・ナショナルな精神だろう。

日本人と信仰──渡辺京二『逝きし世の面影』をめぐって(7) [くらしの日本史]

 外国人観察者からみれば、幕末の日本は「昆虫や危険な爬虫類の王国」だった。ネズミを捕るのが下手なネコがだいじにされているかと思えば、街の犬もわが物顔でのさばっていた。
 日本の馬は癖が悪いので有名だった。たいていの馬は調教されていなかった。乗馬のうまい日本人は少なかったという。
 イザベラ・バードは、日本の馬が性悪なのは、あまやかされて増長しているからだと書いている。
 しかし、馬を人間並みに扱うのは、昔からの習慣だった。何といっても馬は家族の一員だった。日本人は牡馬を去勢したりしなかったし、馬勒(ばろく)をつけたりするのもいやがった。日本では馬を機械のように使役する習慣がなかったのである。
 馬が酷使されるのは、明治にはいってからで、とりわけ北海道の開拓においてだったという。
 もちろん牛馬を殺して食べる習慣はなかった。それは殺生を戒める仏教思想があったからではない。何よりも家畜が家族の一員だったからだ、と著者はいう。
 鶏を飼うのも、その肉を食べるためではなく、玉子をとるためだった。
 日本人は牛乳も飲まなかった。牛乳は子牛のものだった。牛は農耕や運搬で、家族のために存分にはたらいてくれる存在だった。
 著者はこう書いている。

〈徳川期の日本人にとっても、動物はたしかに分別のない畜生だった。しかし同時に、彼らは自分たち人間をそれほど崇高で立派なものとは思っていなかった。人間は獣よりたしかに上の存在だろうけれど、キリスト教的秩序観の場合のように、それと質的に断絶してはいなかった。草木国土悉皆成仏という言葉があらわすように、人間は鳥や獣とおなじく生きとし生けるものの仲間だったのである。〉

 それでは、人間にたいしてはどうだろう。
 日本人の思いやりは、肉親、仲間、隣人、同僚だけにしか向けられておらず、日本人にはヒューマニズム思想がないと感じた外国人もいる。
 日本人は死ぬことを何とも思っていない、どんな災難にあってもニコニコしているというのが、外国人からみた日本人の印象だった。さらに、前に述べたように、日本人は鳥や獣を自分たちの仲間とみていた。化け物や妖怪の存在も、ほんきで信じていた。
 日本人は自然と戦わなかった。自然を愛で、自然とともにくらしていたのだといってよい。
 著者はいう。たしかに、過去の「野蛮な」文明を捨て、近代化の道を歩まなければ、日本は19世紀末の国際社会で生き残っていけなかっただろう。しかし、すでに消え去った文明は「ひとつの、生きるに値する世界だった」と。
 その世界に立ち入るのは、まるで藪こぎをするようなものなのだが、次に著者が探索するのは、日本の「信仰と祭」についてである。
 外国人観察者は、日本人には宗教心が薄いと感じた者が多かった。米国公使のタウンゼント・ハリスは「この国の上流階級の者は、実際はみな無神論者であると私は信ずる」と書いている。神社、仏閣は多いのに、そこを訪れるのはほとんどが庶民で、武士は社寺に見向きもしなかった。それは、武士階級には、たぶんに儒教思想と現世主義が浸透していたためだ、と著書はいう。
 キリスト教的な唯一神の信仰に自己の根拠を見いだしていた西洋人からすれば、日本人はきわめて非宗教的とみえ、膨大な寺社はどこもまるで娯楽センターのようで、巡礼は物見遊山のように思われた。
 しかし、日本人に宗教心がないというのは、誤解だった。
 香港から日本にやってきた、英国人のスミス主教は、迷信と現世利益と娯楽の混ざりあった日本の宗教を批判していたが、日本の寺社が堅苦しい場ではなく、子どもたちの遊び場になっているのに気づいた。
 実業家のエミール・ギメは、明治になって浅草寺を訪れたとき、仏教が「感じのよい、心安い、気むずかしくない、ギリシャ人の宗教に似ていて、煩わしくない、楽しむことを少しも妨げない宗教」だと感じた。
 おそらく日本人と宗教というテーマを論じだしたら、それこそきりがない。
 著者もそこには深入りしていない。
 ただ、こういうことはいえる。キリスト教が神への信仰にもとづき、永遠の生命を求める厳しさにあふれていたのにたいし、日本の信仰は何かにすがることで、一家のなごやかなつながりと存続を願うという点で、おだやかな諦念に満ちていた。遠い神と近い仏は一体となって、一家を見守っていたのである。

 最後の章には「心の垣根」という題がつけられている。
 幕末の日本にやってきた西洋人が見たのは、混沌や無秩序ではなく、むしろ平和と安らぎの世界だった、と著者は書いている。
「人びとを隔てる心の垣根は低かった。彼らは陽気でひとなつこくわだかまりがなかった」
 カッテンディーケは、「日本人の性格には、たしかにユーモアと滑稽さ」があると記している。日本人は苦難にさいしても平然とし、辛抱強かった。
 そのいっぽうで、多くの外国人観察者が、日本人には高尚な精神主義、高い理想、絶対的な美と幸福への衝動が欠けていると感じていた。つまり、日本人は具体的なこと、現実的なことに強い興味をいだくのに、形而上的、観念的な問題にほとんど関心を示さないと思っていた。
 平気でうそをついたり、旅の恥はかきすてで、いっこうにかまわなかったりするのも、日本人の特徴だった。日本人には無責任でお調子者のところがあった。どこかで、人間という存在は吹けばとぶようなものと感じているふしがあった。『東海道中膝栗毛』は、そんな人の世界をえがいている。
 無責任でお調子者というのは、個の自覚がないことを意味する。しかし、「個」、すなわち、おのれの存在というのはいったい何だろう。それは、心の垣根が高いことでもある。そして、近代という時代は、人に個であること、すなわち「感情と思考と表現を、人間の能力に許される限度まで深め拡大して飛躍させ」ることを求めていた、と著者はいう。
 江戸の文明は、近代に生き残ることのできない文明だった。
 著者は何度もくり返すように、こう書いている。

〈幕末に異邦人たちが目撃した徳川後期文明は、ひとつの完成の域に達した文明だった。それはその成員の親和と幸福感、あたえられた生を無欲に楽しむ気楽さと諦念、自然環境と月日の運行を年中行事として生活化する仕組みにおいて、異邦人を讃嘆へと誘わずにはいない文明であった。しかしそれは滅びなければならぬ文明であった。〉

 江戸を眺めることは、現代を見つめることでもあるのだ。

田園都市、江戸──渡辺京二『逝きし世の面影』をめぐって(6) [くらしの日本史]

 行けども行けども終わらぬ感じだ。すこしくたびれてきた。それでも、いくらかでも前に進みたいと思う。
 幕末から明治はじめに日本にやってきた外国人を驚かせたのは、市街が子どもであふれていたことだという。しかも、子どもはとてもだいじにされていた。
 日本の子どもはやっかいで、腕白だと感じた人もいるし、とてもおとなしいと思った人もいる。感じ方はまさに人さまざまだ。
 子どもが大人のまねをして遊ぶのは、どこの国も同じだろう。おもちゃの品数は豊富だった。姉か兄が、赤ん坊をおぶっている光景はよく見かけられたという。
 いずれにせよ、外国人は、日本の子どもはかわいいと思ったのである。
「かつてこの国の子どもが、このようなかわいさで輝いていたというのは、なにか今日の私たちの胸を熱くさせる」と、著者は書いている。
 しかも、子どもたちは礼節と慈悲に満ちていた。そういう日本の子どもたちも、いまは消えてしまったのだ。
 そして、大人たちも、こうした子どもたちをいとしがり、かわいがっていた。当時の子どもたちは、西洋の上流階級のように純粋培養されていたわけではない。
「欧米人の眼からすれば、この時代の日本人の子育てはあまりに非抑圧的で、必要な陶冶と規律を欠くように見えた」と、著者は論じている。
 日本ではかつて「子育てがいちじるしく寛容な方法で行われ」ていたのである。
 日本は「子どもの天国」だと評した外国人もいる。この時代にくらべると、いまの子どもたちは、ちいさいころから競争社会に巻きこまれ、たいへんだと思わないわけにはいかない。

 次の章は「風景とコスモス」と題されている。
 幕末に日本を訪れた欧米人は、日本の風景の美しさに魅了されたという。
 かれらはその美しさを、ことばを尽くして絶賛している。
 自然は自然として、そのまま投げだされていたわけではない。欧米人がみたのは、江戸という時代がつくりあげた自然である。それはイギリスでも、ほかの東洋諸国でも見られない自然だった。
 かれらは茅葺屋根の美しさに見とれた。屋根の上には百合や菖蒲、イチハツの花が咲いていた。いわゆる芝棟である。
 どの村もまるで公園や庭園のようにみえたという。

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[江戸近郊の農家]

 明治半ばに英国公使夫人として来日したメアリ・フレイザーは、日本の海や山の美しさに心奪われた。森林がよく保護され、鳥が多く、人に馴れていることも驚きだった。
「江戸はまさに鳥類の天国だった」と著者は指摘している。
 江戸は大都市であるにもかかわらず、世界のどの都市にも似ていなかった。それは都市であると同時に田園だった。そびえたつ建物はどこにもない。
 江戸は海と田園に囲まれ、高い山並みと壮麗な富士山を背後に控えた、はてしない村のように思えた。
 江戸近郊の王子は、外国人が一度は訪れる名所だったという。そこには森に包まれた、みごとな村が横たわっていた。高台に登ると、目の前に江戸の光景が広がっていた。

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[王子の風景]

 著者はこう書いている。

〈[江戸は]ユーニークな田園都市だった。田園化された都市であると同時に、都市化された田園だった。これは当時、少なくともヨーロッパにも中国にも、あるいはイスラム圏にも存在しない独特な都市のコンセプトだった。〉

 それは江戸という文明がつくりだした光景である。
 人びとは自然と親和関係を保ちながら暮らしていた。
 生活のなかに自然の美が取りこまれていたのだ。

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[江戸近郊の茶屋]

 だが、そうした江戸の魅力は、明治になるとたちまち失われていく。
 江戸時代の日本人は、四季折々の行楽を楽しんでいた。外国人観察者が驚いたのは、それが貴族の趣味ではなく、庶民全般に広がっていたことである。
 なかでも、最大の楽しみは花見だった。幕末の江戸では、桜見物の中心は、かつての飛鳥山から向島に移っていた。こまるのは、酔っ払いが多かったことである。
 楽しむのは桜だけではない。梅、椿、つつじ、ぼたん、ふじ、菊、かえで。季節ごとに楽しみはある。すべて、江戸の文化がつくりあげた自然の光景だ。
 江戸に花の文化が発達したのは、大名や旗本、寺社に庭園がつくられたためだという。
「江戸には、大名屋敷に付随する庭園だけでも千を数え、そのうち後楽園、六義園クラスのものが三百あった」というから驚く。
 花への愛好は、上流階級だけではなく、庶民のあいだにも広がっていた。
「花卉(かき)への愛好が社会の隅々にまで下降するにつれて、徳川後期には、菊、朝顔、桜草、花菖蒲、万年青(おもと)など草本花卉が次々と流行を繰り返した」
 日本人が好んだのは花だけではない。雪や虫の名所もあり、神社仏閣や高台や川や海もあり、月見も楽しんでいた。
 著者によれば、「その頃の人の心はこういう歳時記的なリズムで鼓動していた」。
 そして、月を含めて四季の景物は、当時の人びとの心に詩を呼びさました。
 江戸の時代に生きた人びとは、けっして不幸ではなかった、と著者はいう。

〈徳川後期の文明は世界を四季の景物の循環として編成し、その循環に富貴貴賤を問わず人びとの生を組み入れ、その循環の年々の繰り返しのうちに、生のよろこびと断念を自覚させ、生の完結へと導くものだった。〉

 そうした景観やくらしぶりは、時代とともにすっかり失われてしまう。
 近代はいちがいに否定できないけれど、江戸のよさは本書からもしみじみと伝わってくる。

いくつかの基本用語──マーシャル『経済学原理』を読む(5) [経済学]

 断続的に読み進めている。われながら集中力のないことには、あきれるほかないのだが、いまのような刺激の強い時代には、興味があちこち移るのもいたしかたない。しかし、いつかは全体をまとめなおしたいと思っている。
 またマーシャルの「原理」に戻ってきた。
 第2編で、マーシャルは経済学の基本用語を定義するところからはじめている。きょうは、それをごく簡単にまとめておく。
(1)富
 富は財からなるといってよい。
 財は物質的なものと非物質的なものに分類することができる。非物質的なものは、主に人的なものである。
 ここでマーシャルは「自由財」という用語をもちだす。それは自然によって与えられ、だれもが自由に利用できる財のことである。しかし、現在のように、経済が発展してくると、「自由財」という概念は、再検討の必要が生じている。
 それはともかく、ある人の富は、私有権をもつ物質的な財と、人的関係(契約や権利)にもとづく非物質的な財からなる。つまり、個人の富は「物質的ならびに人的な富」からなる、とマーシャルはいう。
 だが、人は私有していない財からも便宜を得ている。すなわち、自然環境や社会環境(軍事的安全保障や道路、水道、ガス、社会福祉なども含む)からである。
 自然環境はともかくとして、社会環境は私有されない「公共財」とみなすことができる。こうした公共財は国民の公有財産だが、音楽や文学作品、科学的知識や発明も、ある面では公共財にちがいない、とマーシャルはいう。
 したがって、国富は個々人の富の総計から成り立っているわけではなく、むしろそれ以上のものである。それは世界の富に関してもいえる。世界の富は、それぞれの純国富を合計したものではない。たとえば大洋が地球全体の富であることを考えれば、世界の富は国富の総計よりも大きい、とマーシャルは論じている。
 財は価格であらわすことができる。そして、マーシャルは、価格とは貨幣で表現された財の交換価値にほかならないと注記している。
 なにはともあれ、私有財産にとどまらず、公共財の大きさに富の豊かさの尺度を求めたところに、マーシャルの真骨頂があるといえるだろう。

(2)生産、消費、生活水準
 人間は物質をつくりだせない。つくれるのは効用だけだ。「別のことばでいえば、かれの努力と犠牲によって物質の形態としくみを変化させて欲求の充足によりよく適合するようにするだけなのである」と、マーシャルはいう。
 農民や漁民や職人が効用をつくりだすように、八百屋や魚屋や家具商などの商人も商品を移動し、配置することで効用をつくりだしている、とマーシャルは主張する。商人が不生産的とはいえない。マーシャルによれば、生産とは効用をつくりだすことにほかならないからだ。生産的労働と不生産的労働をめぐる議論はばかばかしいという。
 いっぽう、人間が消費するのも効用だけである。家具にせよ何にせよ、消費によって、人はその物質自体を消尽しているわけではなく、商品の効用を使用し、味わっているにすぎない。
 財は人の欲求を直接満たす消費財(たとえば食品や衣服など)と、間接的に欲求を満たす生産財(道具や機械)に分類することができる、とマーシャルは述べている。
 労働とは、なんらかの効用を生みだすことを目標にしてなされる精神的・肉体的活動を指す。したがって、労働はだいたいにおいて生産的活動であり、召使いの労働とてけっして不生産的ではない。
 生産の目的は消費である。そして、消費は生産を促す。そのような消費がなされることを、マーシャルは生産的消費と名づけている。
 かつて必需品とは、生活を維持するのに必要かつ十分なものを指していた。だが必需品の水準(言いかえれば生活水準)は時と場所によって異なる。その水準を下げることは、多くの損失をもたらす。
 マーシャルは現在(20世紀はじめ)のイギリスにおいても、通常の農業労働者、あるいは都市の未熟練労働者が、次のような必需品(生活水準)を満たせるようにすべきだと述べている。
 それは、数室つきの住宅、下着とあたたかい衣服、清浄な水、肉と牛乳と茶をふんだんにとれる食事、一定の教育と娯楽、主婦が育児と家事を適切におこなえる自由時間というものだ。さらに慣行として、ある程度の嗜好品も必需品だとしている。
 労働を神聖視せず、消費を重視し、生活水準の上昇をめざすところに、マーシャル経済学の性格がにじみでている。

(3)所得、資本
 貨幣経済において、所得は一般に貨幣形態をとる。
 いっぽう、所得を得るために、企業は資本を必要とする。資本は工場や建物、機械、原材料、従業員への支払い、営業上ののれんを確保するためなどに用いられる。
 企業の純所得は、粗収入から生産経費(原材料費や賃金など)を控除したものである。個人営業の場合も、この考え方は成り立つ。
 純所得から借り入れの利子を差し引いたものが純収益となる。純収益が得られない場合、企業は営業の続行を断念するだろう、とマーシャルは書いている。この純収益は利潤と呼ばれる。
 企業の年間の利潤は、年間の経費にたいする収益の超過額である。また、資本に対する利潤の比率は利潤率と呼ばれる。
 企業活動には、さらに地代(レント)が発生する。これは土地などの自然要素の借り入れにたいして支払われる費用である。加えて、機械など人工の設備にたいする借り入れ(レンタル)にたいしても、費用が発生するが、これは地代と区別して、準地代と名づけよう、とマーシャルはいう。
 次にマーシャルは資本の中身に立ち入り、これを消費資本と補助(手段)資本に分類している。消費資本とはいわば賃金にあたる部分である。これにたいし、補助資本は労働を補助する材料、すなわち原材料や道具、機械、建物から構成される。
 いっぽうで、資本はJ・S・ミルが提案したように、運転(流動)資本と固定資本に分類することもできるという。賃金や原材料から構成される運転資本が1回ごとにその役割を終えるのにたいし、機械や工場などから構成される固定資本は、その耐用期間に応じて、商品をつくりだす。
 さらにマーシャルは、実業家の観点からだけではなく、社会的視点から所得について考察する。
 所得とは資産を利用することによって得られる報酬であり、それは一般に貨幣所得のかたちをとる。
 生産の3要素は土地、労働、資本であり、そのそれぞれが資産だと考えられる。したがって、地主は土地、労働者は労働、資本家は資本を資産として利用することによって、それぞれの所得を獲得する。その所得は地主なら地代、労働者なら賃金、資本家なら利潤というかたちをとるだろう。
 こうした所得(純所得)を総計したものが社会所得、すなわち国民所得となる。国民所得は(年間の)富の流れ(フロー)をあらわす尺度である。
 マーシャルはこう述べている。

〈貨幣所得すなわち富の流れは一国の繁栄を計る一つの尺度となり、しかもこの尺度は、十分信頼できるものではないけれども、それでもある意味においては富のストックの貨幣表示額という尺度よりもすぐれている。〉

 マーシャルは現在でいう国民総所得、すなわち国民総生産の考え方を、はじめて導入したということができる。
 しかも、経済指標としては、国民所得のほうが国富よりもすぐれているとした。なぜなら、国民所得はすぐに消費できる財貨に対応しており、現在の豊かさの度合いを示す指標だからである。
 ここでもう一度整理しておこう。
 国富は富のストック、国民所得は所得の(1年間の)フローを示す概念である。
 国富は純資産の総計からなる。資産は不動産その他の財産、貯蓄、保有株などからなり、個人や企業、国家が所有する純資産を総計したものが国富となる。
 アダム・スミスの『国富論』は、国民の富をいかに増やすかを論じた著作とみることもできる。しかし、じっさいにスミスが強調したのは、資本の役割についてだった。だが、スミスの時代には、国富と国民所得のちがいがさほど意識されてはいなかった。
 マーシャルは国民所得こそが主な経済指標であると主張することで、経済の新たな目標を示した。かれにとっても、資本が重要であったことはまちがいない。資本は需要と供給に応じて、資産のなかから取りだされる。だが、マーシャルにとって、資本の目的は、単に企業(資本家)の所得を増大させることではなく、国民所得全体を潤すことだったのだ。
 そのことは、最初に強調しておいてもよいだろう。

日本の女たち──渡辺京二『逝きし世の面影』をめぐって(5) [くらしの日本史]

 幕末の日本にやってきた西洋人を仰天させたのは、裸と混浴である。男はともかく、女も平気で裸になった。キリスト教徒の道徳感覚からすれば、とても信じられない光景だった。
 とくに驚いたのは混浴と行水である。ある外国人は、日本の女には羞恥心がないと記した。しかし、恥ずべきだったのは、むしろ女の裸をしげしげと眺めた外国人のほうではなかったか、と著者はコメントしている。
 夏の暑い季節に、男がふんどし一丁の姿でいたり、女が上半身肌脱ぎをしたりするのは、ごくふつうの習慣だった。子どもは裸で遊んでいた。

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[行水の光景。レガメ画]

「徳川期の日本人は、肉体という人間の自然に何ら罪を見出していなかった。それはキリスト教文化との決定的な違いである」と、著者は記している。
 外国人が風呂屋のそばを通ると、入浴中の男女が風呂から飛びだして、戸口で裸のままかれらを眺めるのに、むしろ当の外国人のほうが仰天した。
 さらに西洋人を驚かせたのが、春画、春本の横行である。ほかにもわいせつな品物が、おもちゃとして店に堂々と飾られていた。それは、ときに磁器や漆器、象牙細工のなかにも忍びこんでいるので、買い物をするさい、外国人は注意しなければならなかった。
「当時の日本人に性にたいする禁忌意識がいかに乏しかったかということの例は、それこそ枚挙にいとまがない」。さらに、徳川期の日本人は性を笑いの対象としてとらえていた、と著者は述べている。
 日本の役人は宴席で、しきりに猥談をもちだし、外国人を困惑させた。性の結合は愛にもとづくと信じる外国人からすれば、日本人の野放図な淫弄さは驚き以外のなにものでもなかった。
 著者はこう書いている。

〈[日本人にとって]性は男女の和合を保証するよきもの、ほがらかなものであって、従って羞じるに及ばないものだった。……男女の営みはこの世の一番の楽しみとされていた。そしてその営みは一方で、おおらかな笑いを誘うものでもあった。〉

 愛と性をめぐる考え方は、西洋と日本のどちらが正しいともいえない。
 ただし、著者がいまは失われた江戸の風俗を大いになつかしんでいることは、次のような記述からもうかがえる。
 いわく。

〈性についての現実的でありすぎ享楽的でありすぎたといえぬこともない古き日本は、同時にまた、性についてことさらに意識的である必要のない、のどかな開放感のみち溢れる日本でもあったのだ。〉

 外国人観察者は、幕府公認の遊郭についてもふれている。
 それは、たしかに頽廃した制度だったが、観察者は年季を終えた遊女が、自由の身になり、時に結婚もして社会に復帰することを記述することも忘れていない。それでも、遊女の3分の1が奉公の期限が切れぬうちに、25歳までに梅毒その他の病気で亡くなっていたことも事実である。
 当時の日本人も、売春が悪であることはわかっていた。だが、売春はけっして陰惨なもの、暗いものとはとらえられていなかった。
 著者はいう。

〈買春はうしろ暗くも薄汚いものでもなかった。それと連動して売春もまた明るかったのである。性は生命のよみがえりと豊穣の儀式であった。まさしく売春はこの国では宗教と深い関連をもっていた。その関連をたどってゆけば、われわれは古代の幽暗に達するだろう。外国人観察者が見たのは近代的売春の概念によってけっして捉えられることのない、性の古層の遺存だったというべきである。〉

 こういう書き方にたいしては、とうぜん反論もありうるだろう。
 しかし、いまは先に進もう。
 多くの外国人観察者が、日本の娘の魅力に心奪われた、と著者は書いている。
 それについては、じつに多くの証言がある。

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[ワーグマン画。茶屋の女]

 ただし、外国人の目からみれば、眉落としとお歯黒、おしろいや紅のべた塗りはいただけなかった。女たちは自分の魅力をわざと台無しにしていると思われた。
 英国公使のオールコックはこう書いている。
「女が貞節であるために、これほど恐ろしくみにくい化粧が必要だというところをみると、他国にくらべて、男が一段と危険な存在であるか、それとも女が一段と弱いのか、そのいずれかだ」
 著者によれば、化粧の変化は、一人の女が娘という段階から妻ないし母という段階に進んだことの「象徴的表示」だった。
 しかし、外国人観察者のなかには、日本の女性の地位が低いのではないか(中国やイスラム圏ほどでないにしても)と疑う者もいた。
 モースも、女性の男性への隷属という事実に心を痛めた。一緒にくらしてみると、日本の女は「とかく人形みたい」だと感じた者もいる。
 いっぽうで、下層階級では一家を切り盛りし、家を牛耳っているのが女性だ、と気づいた外国人もいた。上流階級では、女性が家にしばられているのにたいして、大多数の庶民の結婚生活は、ずっと伸びやかで自由だった。
 華族女学校で教えたアリス・ベーコンは、日本では、女性は結婚すると服従を強いられるが、のちには自由で幸福な老年をすごすことができると論じている。
 ここから著者は、次のような見解を導きだす。

〈嫁が家によってテストされ、家にもっとも新しく加わったメンバーとして家風に合わせて教育されるのは、嫁自身も死ぬまでそこに所属する家庭の平安と幸福を保障する当然の措置ではなかったか。女の忍従と自己犠牲はおのれの家を楽しいものとするために払われたのであり、その成果は彼女自身に戻ってくるのだった。〉

 もちろん日本の女は忍従ばかりしているのではなかった。とくに庶民の女たちは活発で、ものおじせず、のびやかだった。
 江戸庶民のあいだでは、男ことばと女ことばの差がほとんどなかったという。女でも自分のことを「おれ」とか「おいら」とかいう者も少なくなかったとか。べらんめえ口調は男だけのものではなかった。
 そして、じつは武士、町人、庶民のあいだを問わず、豪快な女たちはあちこちにいたのである。女たちはたばこや酒も大いに楽しんでいた。
「徳川期の女性はたてまえとしては三従の教えや『女大学』などで縛られ、男に隷従する一面があったかもしれないが、現実は意外に自由で、男性に対しても平等かつ自主的であったようだ」と、著者は書いている。
 ちなみに、三従の教えとは、幼にしては父に従い、嫁しては夫に従い、老いては子に従うという教え。『女大学』は、良妻賢母をめざす女の心得を説いた貝原益軒による道徳書である。
 道学的なたてまえはともかくとして、江戸や明治の女たちは、実際は強かったのである。家の内部を実際に支配していたのは女だった。
 イギリス写真家のハーバート・ポンティングはこう絶賛している。
「日本の女性は賢く、強く、自立心があり、しかも優しく、憐れみ深く、親切で、言い換えれば、寛容と優しさと慈悲心を備えた救いの女神そのものである」
 一度はこんなことを言ってみたいものだ。

渡辺京二『逝きし世の面影』をめぐって(4) [くらしの日本史]

 スイスの使節団長エメ・アンベールや英国公使オールコックは、日本の民衆がゆとりをもち、気ままにはたらいているという印象をいだいた。
「近代工業の確立とともに軍隊的な労働規律として結晶するような、厳密に計測化された時間とひきかえの賃労働は、徳川期の日本にあってはいまだ知られざる観念だった」と著者は書いている。
 日本には「近代的賃労働の導入される以前の……悠長で気儘な労働」のかたちが残っていた。それは非能率的な集団労働にみえたかもしれない。だが、社会のリズムはゆったりと脈打っていたのだ、と著者は評する。
 日本人が勤勉でなかったというのではない。ただ、当時の日本人は、はたらきたいときにはたらき、はたらきながら遊んでいたのである。かねと時間に縛られることはなかった。
 労働に唄はつきものだった。荷物を運ぶときも、舟をこぐときも、日本人は上機嫌に唄を歌った。
 職人たちにとって、労働は「よろこびと自負の源泉だった」と、著者はいう。モースはアメリカの大工より日本の大工のほうが、はるかに優秀で器用だと書いている。
 たくましい体つきをした人力車夫や、馬の先駆けをする筋骨たくましい別当(馬丁)は仕事にほこりをもっていた。「車力、人力車夫、別当といった労働者についての一連の記述から、われわれは伊達、粋、いなせという類いの男性美学を連想することさえ可能かもしれない」と、著者は解説する。
 当時の記録によれば、幕末に日本にやってきた西洋人は、日本の労働者をみて、なんと古代ギリシャ人を連想したという。
 これはじつに意外なことである。
「日本の肉体労働者は衣服と体つきの美しさという点で、中流、上流の人々をはるかにしのいでいる」と、ある観察者が書いている。
 さらに、外国人観察者をおどろかせたのは、日本は監視社会だと聞いていたのに、じっさいに訪れてみると、人びとのあいだに礼節と親切が行き渡り、だれもが幸福そうにみえたことだった。西洋人は、日本では意外にも民衆が個人的自由を享受しているのではないかと感じた。
 幕府の役人は、何かことが起こっても、なるべく穏便にすませるという態度をとっていた。これはたぶんに「近代以前の国家は……共同団体の自治にゆだねられた生活領域に立ち入って規制するような意志も実力ももたなかった」ためだ、と著者はいう。
 放火や殺人の場合はともかくとして、「町衆同士で争闘するのは、彼らの慣習的な権利だった」。問題がおこっても、その決着は当事者間の交渉にゆだねられていたのだ。
 著者はさらに書いている。

〈アンベールが日本の庶民の生活に見出したのは、もちろん、今日のわれわれが理解するような近代の市民的自由ではない。それは村や町の共同体の一員であることによって、あるいは身分ないし職業による社会的共同団体に所属することによって得られる自由なのだ。その自由は、幕藩権力がその統治の独特な構造のゆえに、町や村の生活領域にあたうかぎり干渉せず、村衆・町衆の自治の慣習を尊重したところから生じた。〉

 江戸時代の治安が、わずかの警察権力で維持可能だったのは、そのためである。
 徳川時代の刑罰は苛酷だった。にもかかわらず、それが実際には緩和されていたのは、村と町の自治が認められていたからである。
 幕府のもとでは「抜け穴」と「(ご)内分」が慣習になっていた。それが明治期になると、「ピューリタン的国家権力」によって、「撃滅」されていった、と著者はいう。
 江戸時代には、武士は城下町に集住し、村に武士はいなかった。宗門改も厳格ではなく、民衆はわりあい簡単に宗旨替えをおこなえたし、宗教上の束縛も強くなかった。町民や農民は、町や村のしきたりにそむかないかぎり、自由にふるまうことができたのだ。
 専制主義はおもてむきで、日本人は自由で独立的だ、と多くの外国人はとらえていた。「上級者と下級者の関係は丁寧で温和だ」、「日本の上層階級は下層の人々を大変大事に扱う」との記述が残っている。
 アメリカとちがい、日本人の使用人はよく主人の命令を聞かないことに、あるアメリカ人女性は気づく。かれらは自主的に判断して、こちらのほうがいいと思うことを実行した。そして、結果的に、正しいのはいつも使用人のほうだった。
 日本では身分のちがいもさほどなかった。夜になって一家が団欒するとき、女中や使用人がその仲間入りをするのは、ごくふつうだった。
 上級者は下級者によって支えられており、上級者もそのことを意識しているのが、日本社会の実態だった。そこで、バジル・チェンバレンは「一般的に日本や極東の人びとは、大西洋の両側のアングロサクソン人よりも根底においては民主的である」と記すことになる。
 著者もこう書いている。

〈身分制は専制と奴隷的屈従を意味するものではなかった。むしろ、それぞれの身分のできることできないことの範囲を確定し、実質においてそれぞれの分限における人格的尊厳と自主性を保証したのである。身分とは職能であり、職能は誇りを本質としていた。〉

 加えて、著者は「近代的観念からすれば民主的でも平等でもありえないはずの身分制のうちに、まさに民主的と評せざるをえない気風がはぐくまれ、平等としかいいようのない現実が形づくられたことの意味は深刻かつ重大でもある」と述べている。
 日本の上流階級の暮らしは、西洋人とくらべ、ずっと質素だった。いっぽう日本の農民はヨーロッパの農民より、はるかに自主的で、自由で、役人に屈服しなかった。それは町人とて同じである。
 けっきょく、江戸の政治体制とはなんだったのか。

〈[それは]武装した支配者と非武装の被支配者とに区分されながら、その実、支配の形態はきわめて穏和で、被支配者の生活が彼らの自由にゆだねられているような社会、富める者と貧しき者との社会的懸隔が小さく、身分的差異は画然としていても、それが階級的な差別として不満の源泉となることのないような、親和感に貫ぬかれた文明だったのである。〉

 著者は、失われた江戸文明をなつかしんでいる。

経済法則──マーシャル『経済学原理』を読む(4) [経済学]

 資料を集め、整理し、解釈し、それをもとに推論をおこなう。それはほかの科学と同じように、経済学でも用いられる手法だ、とマーシャルはいう。帰納と演繹はどちらも欠かすことはできない。
 ときには、新しい事実を確認することも、既知の事実の推論を吟味しなおすことも必要になってくるだろう。
 科学的分析からは法則が導かれる。その前提となるのは、きわめて精密な条件である。
 人間の行動は多様で、不確かだから、そこから精密な命題をとりだすのはむずかしい。とはいえ、人間行動の傾向についても、何らかの命題はとりだせるはずだ、とマーシャルは考える。
 マーシャルによれば、経済法則は次のように定義することができる。

〈経済法則、すなわち経済的傾向に関する命題は、その主要な動機の強さが価格によって測定できるような行為に関連したところの社会法則なのである。〉

 経済にからむ人間行動は、価格によって左右される傾向があり、ある条件のもとなら、一般にこうなると予測される命題が経済法則として取りだされることになる。
 ただし、経済法則は道徳からは切り離されているし、それが人間的に正しいとはかぎらない、とマーシャルはいう。
 しかも、経済法則は一定の条件のもとにしか成り立たないから、それはあくまでも仮説というべきものである。
 さらに、「経済的な分析と推論とはひろく適用されうるものであるが、それぞれの時代それぞれの国はそれに固有の課題をいだいており、社会状態が変動するたびに新しい経済学説の展開が要求される」。
 経済学者はどのようなテーマを取り扱うべきか。
 これについても、マーシャルははっきり書いている。

〈富の消費と生産、ならびに分配と交換、産業と交易の組織、金融市場、卸小売外国貿易、および雇主と従業員の関係──これらを、とくに現代においてうごかしている原因はなんであるのか。これらすべての運動はたがいにどのように作用し反作用しあっているのか。これらの究極の傾向は即時の傾向とどうちがうのか。〉

 経済全体の仕組みと流れを理解することが経済学の目標とされている。そこには何らかの経済法則がはたらいている。さらに、マーシャルは時間の概念を導入し、長期と短期の動きを射程にいれていたことがわかる。
 ほかにも、価格と欲求の関連、富と福祉の関連、生産性と所得の関連、経済自由と独占、租税が社会にもたらす影響などといった問題もある。
 経済学は理念からではなく現実から出発する、とマーシャルはいう。
 ただし、現実は単に肯定されるだけではない。それは変更可能なものとして措定される。
 ここでマーシャルはイギリスの当面する問題として、つぎのような課題を挙げている。
 経済自由を展開するにあたって、その効果を促進し、その弊害を抑制するには、どのようにすればよいか。
 分配の平等化は望ましいにちがいないが、そのさい経済的指導者の活力をそぐことなく、貧しい人びとの所得を増大させるには、どのようにすればよいか。
 労働者がより高レベルの仕事をおこなえるようにするために、どのような教育をほどこすのがよいのか。
 文明生活に欠かせない公共的活動は、どのようなやり方で充実させていけばよいのか。
 個人や会社の業務にたいする政府の規制はどの程度まで認められるのか。
 経済学はこうした社会的生活にかかわる問題についても、一般的な指針を出せるよう努めねばならない、とマーシャルはいう。ただし、その方向性が政治的価値観にゆがめられてはならないことはいうまでもない。
 経済学者には知覚と想像力、理性が求められるが、とりわけ重要なのは、問題の所在を探る想像力だ、とマーシャルは強調する。
 たとえば、失業を減らし、雇用を安定化させるためにはどのような対策をとるべきか。こうした問題を検討するさいにも、経済学者はあらゆる経済知識に加え、力強い想像力をはたらかせることが必要である。
 最低賃金の増加が、雇用者、労働者、産業にあたえる影響を考察する場合も、広い知識と想像力、そして時に批判力が必要になってくるだろう。それは、その他の経済問題を検討するさいも同様だ、とマーシャルはいう。
 ところで、マーシャルがユニークなのは、経済学者には同情心がだいじだとしていることである。それも「とくに同じ階級のものばかりでなく、他の階級のものの境遇に身をおいて考えてみることのできるような非凡な同情心」が必要だと述べている。これも一種の想像力にはちがいない。
 マーシャルは経済自由に力点を置いた。そして、その経済自由を実現する鍵は、産業組織(企業ないし会社)のあり方にあると考えていた。それが、どのようなあり方なのか、いまは問わない。
 だが、マーシャルにとって、経済自由が反社会的な独占を意味していなかったのはたしかである。かれはまた、「全民衆の福祉こそ、すべての個人的努力および公共的政策の究極の目標」だと考えていた。財産権を廃止すべきだという主張にたいしては懐疑的だった。そうした主張にたいしては、「慎重で柔軟な態度をとるのが、責任ある人間のなすべきことだ」と述べている。
 こうした論及のなかから、かれの経済自由がどのようなものであったかを、ある程度推察することができる。

渡辺京二『逝きし世の面影』をめぐって(3) [くらしの日本史]

 外国人観察者は、日本のどこもかもがすばらしいと感じたわけではない。
 日本はみすぼらしい国だと思った人もいたし、壮麗な建物を期待した人は失望した。皮膚病や眼病、あばたの人が多いのに気づいた観察者もいる。宗教家は酒飲みが多いのに辟易した。寺のまわりには乞食が集まっていた。
 熊本洋学校教師となったリロイ・ジェーンズは、日本人が、刺身、豆腐、たくあん、塩魚、つけもの、梅干しなどを食べていることが、肉体的・精神的持続力に悪影響を与えていると信じていた。部屋に火鉢しか暖房がないことが、結核をもたらす大きな原因だとも考えていた。
 それでも、外国人観察者は庶民の丁寧さや親切に感銘を受けている。
 善良な庶民は好奇心にあふれ、あけっぴろげだった。
「日本人の家庭生活はほとんどいつも戸を開け広げたままで展開される」と、ある観察者は記す。
 ほとんどの町屋が夜の戸締まりをしなかった。
 その開放性は心のなかにまでおよんでいた。
「開放的で親和的な社会はまた、安全で平和な社会でもあった」。そう著者は書いている。
 外国人にとっては、日本ではおかねやものを置きっぱなしにしていても、まず盗まれないことが驚きだった。だが、盗人がいないわけはなかったのは、もちろんである。
 モースは群衆のおとなしさ、秩序正しさに、たびたび言及している。それとは逆の記述をする観察者もいないわけではない。とはいえ、概して、日本の群衆は静かでおとなしかったといえるだろう。
「幕末から明治中期にかけての日本人は、やはりモースのいうように、喧嘩口論が少なく、劇場や雑踏で押し合いをしないといった、すこぶる穏やかで礼儀正しい人びとだったらしい」と著者は書いている。
 著者によると、江戸の華といわれる喧嘩も、暴力は二の次で、第一に競われるのは、気っぷの良さや、啖呵の切れ味だったという。
 幕末の日本にやってきたフランス人のボーヴォワルは、街ゆく人びとが「誰彼となく互いに挨拶を交わし、深々と身をかがめながら口もとにほほえみを絶やさない」のをみて、日本人が「地球上最も礼儀正しい民族であることは確かだ」と思った。
 モースにとって「挙動の礼儀正しさ、他人の感情についての思いやり」は、日本人の生まれながらの美徳と思われた。
 外国人による日本人の礼儀正しさ、行儀のよさについての記述は、まだまだつづく。よほど印象的だったのだろう。

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[武士のあいさつ。オールコックの著書から]

 外国人は日本人のお辞儀の仕方、洗練された立ち居振る舞いに感銘を覚えていた。
 著者は、外国人観察者の言説を引用しながら、在りし日の日本について、こう述べている。

〈それは情愛の深い社会であった。真率な感情を無邪気に、しかも礼節とデリカシーを保ちながら伝えあうことのできる社会だった。〉

 明治22年(1889)に来日した新任英国公使の妻、メアリ・フレイザーは、連日、東京市内を馬車で回り、軽業師や行商人の姿を見かけた。その「雑多と充溢」に心奪われたと書いている。
 人びとの職業は多様で、街はパフォーマンスにあふれていたのだ。
 行商はじつに多彩だった。古着屋、きせるを掃除する羅宇(らお)屋、傘張り屋、豆腐売り、軽業師、人力車、按摩、飴屋、屑拾い、砂絵描き……。
 街頭の商売だけではない。小さな店がいっぱいあった。
 酒屋、指物屋、下駄屋、ランプ屋、瀬戸物屋、米屋、花屋、仏具屋、魚屋、風呂屋、桶屋、籠細工屋、おもちゃ屋、床屋、かんざし屋、紙屋、漆器屋、扇屋、呉服屋……それこそ枚挙にいとまがなかった。
「それぞれの店が特定の商品にいちじるしく特化して」おり、庶民のくらしは「雑多な小店舗が混り合う複雑な相のなかでいとなまれ」ていた、と著者は書いている。
 高級な道具や陶磁器、家具、美術品は店頭には置かれていなかった。
 幕末の長崎や下田の会所には、すばらしいできばえの陶磁器や漆器、木彫りや鋳金の彫像、象牙細工、刀剣、絹織物などが集められていて、外国使節団の財布はたちまち空になったという。
 しかし、趣味のよさは高級品のなかだけではなく、日用品のなかにも浸透していた。それらはすべて職人の手仕事によってつくられたものだった。
 ギメは藍のデッサンがほどこされた手ぬぐいに感銘を受けた。ありふれた安い品物が、粗悪ではなく、きれいで趣味がよく、洗練されていることに、外国人観察者はおどろいている。
 イザベラ・バードは東北を旅行したとき、日本の料理が清潔で美しいことを強調している。
 日本人の着物にひきつけられた外国人もいれば、粗末な家屋の一見シンプルな室内に「絶対の清浄と洗練」を感じた人もいる。
 モースはとりわけ欄間のデザインに興味をひきつけられた。それは「名もなき地方の職人の手になるもの」だが、「芸術的意匠とその見事なできばえ」にうっとりした。
「現実の苦難を軽減する生活の美化・趣味化が、社会全体の共通感覚となっていた」と、著者はいう。

〈彼らが見たのは、まさにひとつの文明の姿だったというべきだろう。すなわちそれは、よき趣味という点で生活を楽しきものとする装置を、ふんだんに備えた文明だったのである。〉

『不道徳な見えざる手』(短評) [本]

 村上春樹に「パン屋再襲撃」という短編がある。猛烈に腹の減った「ぼく」は、妻といっしょに、10年前と同じように、ふたたびパン屋を襲撃しようとする。しかし、トヨタ・カローラで東京の街を回っても、昔、襲撃したようなパン屋はみつからない。仕方なくマクドナルドを襲うことにする。散弾銃を見た店長は売上金を差しだそうとするが、「ぼく」はそんなものに見向きもしない。テイクアウトでビッグマックを30個強奪する。
 この物語には、左翼過激派にたいする皮肉を含め、さまざまな寓意が隠されている。いくら猛烈に腹が減っていても、わざわざ武装して、パン屋を襲うこともあるまい。おかねを払って、パンを買えばすむことだ。しかし、「ぼく」はそうしない。暴力によって、直接、自分の欲望を満たす道を選ぶのだ。そう書くと、なんだか深刻な話めいてみえるが、じっさいは軽妙な展開に大笑いしてしまう傑作掌編である。
 イギリスの経済学者、アルフレッド・マーシャルは『経済学原理』を「欲望とその充足」という項目からはじめ、最初に分業論をもちだすアダム・スミスとはことなる新古典派経済学を切り開いた。ありていにいえば、資本は需要があってこそ資本なのだということを示したのだ。
「パン屋再襲撃」がおもしろいのは、現代経済学の常識を、いわば人類学的にひっくり返そうとしたところにある。商品世界では、人はおかねで商品(財とサービス)を買って、みずからの欲望を満たす。つまり、欲望は直接満たされるのではなく、おかねと商品を媒介にして満たされるのだ。でも、それはどこか引っくり返った世界で、自然な欲望は直接、身体と行動によって満たすのがあたりまえだと思うところから、村上春樹は小説の想像力をふくらませている。
 本書『不道徳な見えざる手』も、商品世界における欲望をめぐる考察である。日本語版タイトルから推察すれば、いかにもアダム・スミスの『道徳感情論』や『国富論』を意識して、自由市場礼賛を否定する一大理論を打ち立てているかのようにみえる。しかし、それほど重い論考ではない。なにかと商品を買いこむ、みずからの経済行動をふり返り、現代の経済社会のあり方を考えなおしてみようという程度の軽い経済エッセイだ。その考え方は、公共的役割を重視する新ケインズ派の立場にもとづいている。
 著者はジョージ・アカロフとロバート・シラー。ふたりともノーベル経済学賞の受賞者だ。前に同じく共著で『アニマルスピリット』を出版している。アカロフは現在の米連邦準備制度理事会(FRB)議長ジャネット・イエレンの配偶者でもある。シラーは金融経済学が専門で、サブプライム危機に警鐘を鳴らしたことで知られる。
 原題はPhishing for Phools だ。Fishing for Fools と言いなおしてみればわかりやすい。「カモを釣る」というわけだ。Phool は造語だが、Phishing はすでに英語でも日本語でも定着している。すなわちフィッシング。ネット詐欺でおなじみの手法だ。本書ではこのフィッシングがもうすこし幅広い意味で使われている。またフールの造語であるPhool が、少数の際立つ「バカ」をさすのではなく、ほとんどの人にあてはまる「おバカ」をさしていることにも注目すべきだ。
 ここで論じられているのは、人びとの需要を満たすために、企業(資本)がいかに適切な供給をおこなうかというおめでたい話ではない。資本がいかに欲望と需要をつくりだし、おバカな消費者をカモとして釣りあげているかという告発である。つまり、われわれはだれもがアホなものを買って、いや買わされて、充実した人生を送っていると思いこまされているというわけだ。
 商品世界においては、人は会社員としての顔と消費者としての顔をもっている。消費者としてのわれわれは、いつのまにか消費習慣をすりこまれているし、宣伝や情報にだまされやすくなっている。いっぽう会社員としてのわれわれは、カネもうけがすべてだ。こんな仕事したくない、カネもうけなんかいやだ、と社の命令を拒否する人は、首になるのが落ちだ。
 著者はいう。自由市場はごまかしと詐欺に満ちている。しかし、自由市場に変わるシステムは見当たらない。だとすれば、ごまかしと詐欺に満ちた市場のなかで、消費者はどう身を守り、政府関係者はそれをどう規制し、会社員はそのなかでどうはたらけばよいのかが問われてくる、と。
 取りあげられているのは、おもにアメリカの事例だ。しかし、とうぜん日本にもあてはまる。
 商品世界は一筋縄ではいかない。たとえば自動車、電話、電灯はどれも19世紀末の発明だ。いずれも現代の生活に欠かせないものになっている。だが、スロットマシンがつくられたのもそのころだ。スロットマシンはギャンブル依存症を生み、さらに現代のコンピュータ・ゲームへとつながる。そうしたマシン(最近のスマホも)は、人を中毒させるよう設計されているのだ、と著者はいう。
 現代社会において欲望をつくりだしているのは企業(資本)だ。新たな欲望を引きだす商品に消費者(カモ)が引っかかり、釣り(フィッシング)が成功すれば、企業は特別利潤を得ることができる。自由市場は人がほしいものを生産するだけではなく、「そうした欲求を作り出し、企業が売りたいものを人々が買うよう仕向ける」。
 その仕掛けはじつに巧妙だ。たとえば、スーパーの棚はマーケティングにもとづいて、計画的に並べられている。クレジットカードも誘惑の元だ。「消費者を誘惑して買うように仕向け、お金を使わせるというのは、自由市場の性質そのものに組み込まれている」。この誘惑に打ち勝つには、かなりの自制を要する。
 この80年間に所得が何倍にもなったのに、人がかえって毎日あくせく過ごしているのは、商品世界が「人々に多くの『ニーズ』を生み出し、さらに人々にそうした『ニーズ』を売りつける新しい方法も考案した」ためだ、と著者はいう。だから、所得が増えても、多くの人がローンの支払いに追われ、生活はずっと苦しいままなのだ。
 そして、たとえば広告。広告は人の心にはいりこむ「物語」をつくりだす。その物語は、さまざまな商品が人びとにもたらす奇跡をえがいたものだ。広告は食品から飲料、化粧品、薬、洋服、スマホやパソコン、自動車、住宅、金融商品など、ありとあらゆる分野におよんでいる。広告キャンペーンにさらされていると、人の心のなかには、あれこれの商品イメージが浸透し、あたかも自分が商品の紡ぎだす夢やライフスタイルのなかでくらしているかのような錯覚におちいる。
 しかし、現実はどうだろう。高額のローンを組んで買った住宅に不満を覚えている人は多い。車だって、はたしてどれほど有効に利用しているだろう。食品産業のつくりだす食品は、砂糖と塩と脂肪まみれだ。それが胃腸の病気や糖尿病を引き起こす要因になっている。健康食品がはたしてどれだけの効果をもっているか。製薬会社のつくりだす薬も、重大な副作用をもたらすものが少なくない。なかなか広告どおりにはいかない。
 加えて依存症の問題もある。その代表がたばこ、酒、ドラッグ、ギャンブルだ。たばこと肺がんの因果関係はすでに明らかになっている。アルコール依存に悩む人は多い。深酒は人格を変え、人を傷つけ、健康を損ない、人生を台無しにする。どっぷりつかってしまうのは、スマホやパソコン、テレビだって同じだろう。評判のフェイスブックにしても、いつも自分や友達の記事が気になり、けっこうな時間、振り回されていないだろうか。
 自由市場に利点があることは著者も認めている。だからといって、それを手放しで称賛するわけにはいかない。そこには欠点もあるからだ。
 新しいアイデアが新しい商品(製品やサービス)を生み、消費者の選択肢が増え、そのなかで利潤を生むものが、商品として生き残っていくというのが、市場の原理だ。商品の発展と広がりは、資本や技術(発明)、それに労働生産性の上昇が関係してくるが、商品の種類と量が拡大すれば、経済成長につながる。
 しかし、どんな発明(新商品)も、すべてすばらしいというわけではない。かつて柳田国男が「木綿以前の事」で論じたように、どれほど画期的な商品も、思わぬ影響を引き起こすのだ。自由市場は危険市場でもある。それでも自由市場が存続しているのは、いっぽうでその危険に対処しようとする人びとがいるからだ、と著者は力説する。たとえば、自動車や飛行機は危険な商品だ。だが、その安全を守るために、常にさまざまな工夫がこらされ、現在にいたった。
 暴走しやすい自由市場にたいし、安全性というブレーキをかける人びとが存在することによって、自由市場は──言い換えれば現代社会は──はじめて存続可能になる、と著者はいう。アメリカでは、そうしたブレーキ役として、たとえば食品医薬品局(FDA)や全米消費者連盟(NCL)、ベタービジネスビューロー(BBB)のような組織や団体がある。それは日本でも同じだろう。
 政府や裁判所、議会の責任が大きいのはいうまでもない。政府と裁判所は法にもとづいて、詐欺やフィッシング、不当行為、経済的被害などに対処しなければならない。議会は新たな経済問題に対処するために新たな立法をおこなう重要な責務を担っている。
 自由市場は、その市場をチェックし、暴走を阻止する装置があって、はじめて成り立つ、と著者は考えている。社会保障の有効性も否定しがたい。年金や失業保険、健康保険が、人びとの生活不安を軽減している。これからは贈与制度の充実やベーシック・インカムの考え方も重要になってくるだろう。
 市場はそれ自体が諸刃の剣だ。市場が不健全な状態になるのは、けっして外部要因によるわけではなく、市場がほんらいもつ性格によるのだ、と著者はいう。人びとがほんとうに求めているものと、人びとが買おうとするものとは異なる。消費者はいわばカモとみなされている。イメージづけされた商品を買わされているのだ。著者がフィッシングはいたるところにあるというのは、そのことを指している。
「かなり自由な市場を持つ現代経済は、先進国に暮らす私たちにはこれまでのあらゆる世代がうらやむ生活水準をもたらした」。そのことを著者は認めている。しかし、市場社会にはアクセルだけではなくブレーキも必要なのだ。そして、とりわけブレーキの役割を強調することに、本書の力点がおかれている。
 それでも、ぼくは心の片隅で、資本のつくりだす商品世界がどこか転倒しているのではないか、と疑う。国家が人びとの欲望を統制する社会主義がいいとはまったく思わない。しかし、商品世界がますます発展し、人が24時間はたらいて、あらゆる場所に商品(財とサービス)が豊かにあふれ、次はAIがコントロールする社会がやってくるといわれて、それがはたしてあるべき未来なのかと思うと、いささか気がめいってくる。そんなときは、こう考えるようにしている。ほんとうは、未来は「逝きし世の面影」のなかにしかない。未来は過去にあるのだ、と。


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