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『不道徳な見えざる手』を読む(まとめ) [商品世界論ノート]


   1

 この本はいたく評判が悪い。
 訳者あとがきによると、『エコノミスト』はこの本自体が詐欺みたいなものだと決めつけているし、『フォーブズ』もどうでもいい本とけなしているそうだ。
 さらに、肝心の訳者(山形浩生)も、最後にまるで次作に期待するほかないというような言い方をして、すっかり匙を投げている。
 ひょっとしたら、だまされて買ってしまったか。
 そう思ったところで、後の祭りである。
 著者はジョージ・アカロフとロバート・シラー。ふたりともノーベル経済学の受賞者だ。前に同じく共著で『アニマル・スピリット』を出版している。アカロフは現在の米連邦準備制度理事会(FRB)議長ジャネット・イエレンの配偶者でもある。
 となると、本書への酷評が多いのは、期待が大きすぎたということか。
 まず、「まえがき」と「序章」を読むことにしよう。
 ここには本書のねらいと考え方、そして全体像が提示されている。
 著者はいう。自由市場はごまかしと詐欺に満ちている。しかし、自由市場に変わるシステムは見当たらない。
 だとすれば、ごまかしと詐欺に満ちた市場のなかで、消費者はどう身を守り、政府関係者はそれをどう規制し、ビジネスマンはそのなかでどうはたらけばよいのかが問われてくる。
 自動車、電話、自転車、電灯はどれも19世紀末の発明だ。どれも現代の生活には欠かせないものだ。だが、そのころスロットマシンもつくられている。
 スロットマシンはギャンブル依存症を生み、さらにそれは現代のコンピュータ・ゲームへとつながっている。そうしたマシンは、人を中毒させるよう設計されているのだ、と著者はいう。
 なるほど、ギャンブル依存症かどうかはともかく、現代人がすくなくともスマホ依存症になっていることは、電車に乗って、回りの人の様子をうかがうだけでも一目瞭然だ。
「自由市場は平和と自由の産物であり、人々が恐怖におびえていない時代に花開く」こと、さらに「自由市場は人々のほしがるあれやこれやをもたらしてくれる」ことを、著者も認めている。
 だが、そのいっぽうで人を依存症におちいらせる商品を生みだし、それによって人の時間とカネ、あるいは大げさにいえば、人生そのものを奪っているのだ。
 本書の原題はPhishing for Phools だ。Fishing for Fools と言い直してみればわかりやすい。つまり「カモを釣る」というわけだ。Phool は造語だが、Phishing はすでに英語でも日本語でも定着している。すなわちフィッシング。インターネット詐欺でおなじみの手法だ。
 本書ではこのフィッシングがもうすこし幅広い意味で使われている。またフールの造語であるPhool が、少数の際立つ「バカ」をさすのではなく、ほとんどすべての人にあてはまる「おバカ」をさしていることにも注目すべきだ。
 つまり、われわれはだれもがアホなものを買って、いや買わされて、充実した人生を送っていると思いこまされているというわけだ。
 Phishing for Phools は訳せば「カモを釣る」になるが、そのタイトルの含意は、カモになるなということではなく、一歩引いて、われわれがくらしている商品世界の構造をもう一度、見なおしてみようということなのかもしれない。
 消費者としてのわれわれは、消費習慣をすりこまれている。宣伝や情報にだまされやすい。いっぽうビジネスマンとしてのわれわれは、カネもうけがすべてだ。こういうビジネスをしてはいけないと自制するビジネスマンは会社を首になる。これが現実だ。
 著者は人びとがぼったくられ、だまされやすい分野として、次のようなものを挙げている。たとえばクリスマスや結婚式や葬式といった特別の日の出費、自動車や住宅などの購入、こんどはだいじょうぶといわれて引っかかる投資信託や株、健康食品や薬、それに食べだしたらとまらないポテチやコーラ、つい手がでるたばこやアルコール、などなど。
 そして究極のだましは、口車に乗せられて、よかれと思い、選挙で票を入れてしまう政治家の手口だ。だまされたと気づいたときには後の祭り。当選した政治家は、頼みもしないことを勝手にどんどん推し進めている。
「序章」には本書の考え方と、全体構成がざっと示されている。
 経済学の考え方はめんどうなので、できるだけ省略したいのだが、著者が「釣り(フィッシング)均衡」なる概念を確立しようとしていることだけは踏まえておくべきだろう。
 釣りがうまくいく(消費者がうまくひっかかる)と、特別利潤が得られる、と著者はいう。
 たとえば、シナボン社の特製シナモンロール。空港の待合所に出店するという戦略が功を奏して、大人気だという(日本でも東京駅や六本木センタービルに出店している)。
 トレーニングジムはいまでは大きな産業になっている。1回ごとに料金を支払うこともできるが、たいていは月額を銀行口座で落とすことが多い。しかし、たいていの人は費用に見合う回数だけジムに行っていない。
 そして、人はかならずしも有益なものを選好するわけではない。くだらぬもの、不要なもの、余分なもの、奇妙なものを、つい買ってしまうのだ。つまり、商品戦略にうまくひっかけられてしまう。
 ところで、経済学といえば、いまでもアダム・スミスの名が頭に浮かぶ。
 各自がそれぞれ利益を追求しても、自由市場では「見えざる手」によって、経済は均衡する、とスミスは考えていた、と著者はいう。そこから、政府は自由市場に干渉すべきではないという結論がでてくる。
 だが、はたして自由市場は先験的に正しいのか、と著者は疑う。
 自由市場には、ごまかしやだましの自由もある。しかし、何でもかでも自由に売ってよいというものでもあるまい(たとえば人身売買は当然禁止されるべきだ)。
 とはいえ、人は外部からの刺激によって、たちまち影響される。簡単にだまされてしまうのだ。著者は自由市場神話なるものを大いに疑っている。

 本書は以下の3部からできている。

 第1部 釣り均衡を考える
 第2部 あちこちにある釣り
 第3部 自由市場の裏面

 釣りというのは、魚釣りではなく、フィッシング、つまりだましである。
「釣り(フィッシング)均衡」という考え方は、一種のアイロニーで、自由市場が広義のフィッシングなしには成り立たないことを示すものだといえる。

   2

 実際の消費行動は、経済学教科書でえがかれているものとはちがう、とふたりの著者はいう。
 たとえば、人びとはけっして合理的な予算配分をしない。そのため、月末になると、おカネのやりくりに苦労することが多い。加えて予想外の支出があると、まったくお手上げになってしまうのだ。
 アメリカでは、ほとんどの勤労所帯が1カ月分の貯蓄もしていないそうだ(日本では考えられない)。月々の支払いができなくて、ローンに頼る人も多い。支払いが滞って、破産したり、家を強制退去させられたりする人も後をたたないという。
 1930年から2010年にかけて、アメリカ人の1人あたり所得は5.6倍になった。それなのに、アメリカ人の貯蓄も余暇も増えていない、と著者はいう。疲れ切った主婦とおカネ不足がアメリカの現実なのだ。
 その原因の一端は自由市場にある。自由市場は人びとがほしいものを生産するだけではなく、「そうした欲求を作り出し、企業が売りたいものを人々が買うよう仕向ける」。
 自由市場は誘惑(欲望)をつくりつづけることによって成り立つ。スーパーで卵や牛乳がいちばん奥に置かれているのは、そこに行き着くまでに店を全部見て回らせるようにするためだ、という指摘はおもしろい。レジの近くにキャンデーやガム、雑誌などが置かれているのも、ちゃんとした理由がある。
 スーパーの棚はマーケティングにもとづいて整理されている。クレジットカードも誘惑の元だ。「消費者を誘惑して買うように仕向け、お金を使わせるというのは、自由市場の性質そのものに組み込まれている」。この誘惑に打ち勝つには、かなりの自制を要する。
 この80年間に所得が何倍にもなったのに、人がかえって毎日あくせく過ごしているのは、商品世界が「人々に多くの『ニーズ』を生み出し、さらに人々にそうした『ニーズ』を売りつける新しい方法も考案した」ためだ、と著者はみている。だから、所得が増えても、生活はずっと苦しいままなのだ。
 ここで、著者は2008年の金融危機(いわゆるリーマンショック)をふり返る。
 評判マイニングと名づけられたフィッシング手法が紹介される。ほんとうは腐っているかもしれない(価値のない)証券を、さも値打ちがあるかのように見せかけて(格付けして)買わせるというものだ。
 評判マイニングとは、評判の埋め込みだ。マイニングは、そもそも地雷敷設を意味する。評判マイニングはいつしか化けの皮がはがれて、突然の破滅をもたらす。
 1970年と2005年では、金融システムが一変したという。
 まず、投資銀行がおどろくほど巨大化した。もともと投資銀行は、大企業のための銀行であり、企業にアドバイスすることを業務としていた。
 たとえば、ゴールドマン・サックスは、フォード社にアドバイスをし、その見返りとして、フォードのIPO(株式新規公開)業務を請け負っていた。信頼こそが両者を結びつけていた。
 だが、現在、ゴールドマン・サックスは巨大帝国へと発展した。
 いまではゴールドマンは多くの事業に手を広げている。自社勘定で証券を取引したり、ヘッジファンドの管理をしたり、新しい派生商品をつくったりもしている。
 巨額の流動資金をもつ大口投資家(銀行やマネーファンド、ヘッジファンド、年金基金、保険会社など)は銀行にではなく、投資銀行に資金を預け、その運用をまかせるようになった。
 格付け機関のムーディーズも、もともと地味な組織だった。
 それがいまや金融の羅針盤ともいうべき、債券格付けを決める会社へと成長した。ムーディーズが投資銀行から手数料を取って、格付けを決めるようになったのは、1970年代からだ。その結果、これから売りだそうとする債券の格付けをできるだけ高くすることが、ムーディーズの仕事になった、と著者はいう。
 ここから、ちょっとした手品がはじまる。
 投資銀行はだめな資産をパッケージにし、格付け機関はそれに高い格付けをつける。それがサブプライム住宅ローンで生じたことだ。銀行は住宅ローンを自分でもちつづけることなく、投資銀行に売り飛ばし、投資銀行はそれをさまざまなパッケージにして売りだした。その販売を促進するため、格付け会社は、この証券に高い格付けをつけた。
「派生商品パッケージに腐ったアボカドが入っていると認識されたのは、後になってからだ」と、著者は書いている。
 ゴールドマン・サックスは2006年段階で、住宅ローン証券ブームのあやうさに気づき、空売りに転じた。それによって、2008年の大暴落による損害をまぬかれたという。
 だが、多くの投資銀行はそうではなかった。その代表がリーマン・ブラザーズだった。
 自由市場は荒海に似ている。それを越えて黄金郷に向かうのは、容易なことではない。

   3

 著者は「釣り(フィッシング)」の具体例をいくつも挙げている。
 まず広告業者の話がでてくる。
 広告業者は、どうやれば人びとが、特定の商品を買いたくなるかを常に探っている。
 広告とは人の心にはいりこむ「物語」をつくることだという。その物語は商品が人びとにもたらす奇跡をえがいたものだ。
 難聴の人に「簡単に聴力を回復できる」製品があると吹きこめば、難聴に悩む人はそれを買ってみようかと思う。じっさいには、ほとんど効果がないとしても。
 広告は食品から飲料、石鹸、掃除機など、ありとあらゆる分野に広がっていく。広告キャンペーンにさらされていると、人びとの心のなかには、あれこれの商品のイメージが浸透していく。
 商品名もだいじだ。ここに紹介されているのはサンキスト・オレンジの場合だ。この商品名は、太陽(サン)にキスされるイメージに由来するという。いかにも健康そうなイメージだ。
 サンキストの販売戦略は、オレンジジュースにして飲むという新しい生活スタイルをともなっていた。ガラス製のジュースしぼり器やフルーツスプーンがあたるというキャンペーンも大当たりして、サンキストの売り上げは爆発的に伸びていった。
 そこにつくられていたのは、サンキスト・オレンジをジュースにして飲めば、たちまち元気になるという物語(神話)だといってよい。
 新商品が新しいライフスタイルをつくるという、こうした物語はますます進化していく。
 著者が例として紹介するのは、ロールスロイスやハサウェイシャツのコマーシャルだ。それは日本でもあてはまる。ぼくもレナウン娘がワンサカワンサカといえば、レナウンのファッションを思いだす。
 とはいえ、消費者が広告に警戒感をいだいているのもたしかである。消費者は広告の場面に登場する主人公が自分自身ではないことを知っている。
 それでも、広告業者はますます人の心をつかむ技法をみがきつづける。そのために、さまざまな統計が駆使され、ビッグデータも利用されることになる。
 広告の手法が用いられるのは、ビジネスの世界だけではない。アメリカの大統領選挙をみれば、そのことが痛感される。広告宣伝は、候補者のイメージを有権者の心に植えつける。それは日本の選挙でもおなじだ。
 著者は自動車の値段はぼったくりだと書いている。
 アメリカでの調査によると、とりわけ黒人の男女は白人よりも車の値段をふっかけられる傾向がある。それは黒人がたぶんはじめて車を購入するとみられているからだという。調査によれば、その額はほかの人よりも2000ドルほど高かった。日本では、ちょっと考えられない。
 販売員が勧めるのが、いろいろなオプションだ。わざとオプションをつけさせて、車の値段を引き上げる。
 もうひとつのくせ者が、下取り価格だ。下取り価格を上げることによって、高い車を買わせようとするのは営業マンのおなじみの手法。
 加えてローン契約がある。毎月の支払額が低いようにみえても、ディーラーは支払い月が増えれば増えるほどもうかる。アフターサービスやメインテナンスから得られる利潤も大きい。
 住宅もぼったくりの対象になりやすい。大多数のアメリカ人が、生涯で一度は家を購入する。だが、たいていが余分な費用を払っている、と著者はいう。そのひとつが不動産仲介手数料だ。購入価格の6%が基本になっているが、なかにはもっと多く支払ってしまう人もいる。
 登記費用もかかる。アメリカでは法律が改正される前、住宅ローン契約費用もとられていた。ローン自体の金利もばかにならない。
 クレジットカードは現金の場合より、ずっと人びとの消費をうながす、と著者は考えている。カードがあれば、高いものでもつい買ってしまうし、また量についても多く買ってしまうことは、実験結果からも出ているようだ。
 クレジットカードの使用にたいして、店舗はクレジット会社に手数料を支払わなければならない。それでも、客にその手数料を請求しないのは、人びとがクレジットカード支払いのおかげで、知らず知らずのうちに消費額を増やしていることを店舗が知っているからだという。
 しかし、クレジットカードは個人破産の大きな原因となる。アメリカで個人破産が増えているのは、その多くが、クレジットカード濫用による負債のせいではないか、と著者はみている。
 ここで、話は政治の場に移る。
 選挙にはカネがかかる。2008年のアメリカ下院選挙では、1人の候補者に200万ドル以上かかったといわれている。上院選挙はもっと多く1人1300万ドル以上だった。それだけ宣伝に費用がかかっているわけだ。
 選挙においては、有権者は心理面でも情報面でもカモなのだ、と著者は書いている。つまり、候補者のイメージに、いかに有権者を引きつけるかが選挙のすべてだといってもよい。
 議会で何が問題なのかを理解しているのは、ごく一部で、ほとんどだれもの人は何も知らない、と著者は断定している。
 たとえば、2008年の緊急経済安定化法は、リーマンショックを緩和する効果を発揮したのだが、その意味を知っていた人は専門家だけだったという。だが、はたしてその権限を政府にゆだねてしまっていいのか、疑問は残ると述べている。
 ロビイスト、議員、選挙資金の関係も問題だ。
 アメリカには1万2000人のロビイストがいる。ロビー活動に費やされる金額は莫大だ。
 ロビイストの役割は、おもに企業、献金者と政治家を結びつけることだ。
 政治家には有権者向けと献金者向けのふたつの顔があるという。ロビイストは献金者と政治家のあいだにはいって、政治家の決定に影響を与える。
 ロビー活動がなくならないのは、それが費用以上に、企業にさまざまな利益をもたらすためだ。
 著者は、ロビー活動が政治と利益団体との癒着をもたらし、民主主義をおびやかしていると指摘することを忘れていない。
 アメリカで、食品や薬にたいする規制がなされるようになったのは20世紀はじめのことだ。命を落としかねない危険な食品、インチキな薬があまりに出回っていた。
 しかし、21世紀になったいまも、食品や薬の安全性はけっして保証されていない、と著者は断言する。
 食品産業のつくりだす食品は、砂糖と塩と脂肪まみれだ。それが胃腸の病気や糖尿病を引き起こす要因になっている。
 製薬会社のつくりだす薬も、あやしいものが多い。
 ここで紹介されるは、関節炎の痛みを抑える夢の新薬とうたわれたヴィオックスだ。1999年にマーク社から発売された。
 それまでの関節炎の鎮痛剤は、胃腸障害をもたらす公算が大きかった。ヴィオックスには、そうした副作用がないとうたわれていた。
 だが、じつは、事前の実験でも、たしかに胃腸障害は少ないが、ヴィオックスは深刻な血栓をもたらす可能性があることがわかっていたのだ。ヴィオックスを発売するマーク社は、にもかかわらず、盛大な販売活動に乗りだした。
 2004年にヴィオックスの売り上げは25億ドルに達する。だが、ヴィオックスが心臓発作を起こす可能性は現実のものだった。
 ある推計によれば、アメリカでヴィオックスにより心臓発作を起こし、死亡した人の数は2万6000人を越えるとされる。
 ヴィオックスは2004年9月末に発売中止となった。
 それでは、なぜはじめからヴィオックスの発売にストップをかけられなかったのだろう。
 米食品医薬品局(FDA)は、製薬会社のテストを信頼し、深刻な長期リスクをもつ薬を禁止できないのが実情だという。
 製薬会社は医学雑誌を活用し、次に営業担当者を動かして、薬の売り込みをはかる。さらに医学シンポジウムを主催して、自社に好意的な関係者を集め、口コミによる薬の宣伝をおこなうのが、通例のやり方だという。
 この一見信用できるやり口に、だれもがひっかかる。
 長期的な副作用をもつ薬は、いまでも市場に出回っている、と著者はいう。
 もちろんそれは食品でも同じだ。アメリカ人が太っているのは、ポテトチップスのせいだけではないが、その影響が大きいのは認めざるをえない。
「カモ釣りはいまや新しい形をとって、規制の定めた新しい範囲内で行われているのだ」と、著者は述べている。
 商品世界にフィッシングのネタは尽きないようだ。

   4

 自由市場に利点があることは著者も認めている。だからといって、それを手放しで称賛するわけにはいかない。そこには欠点もあるからだ。
 新しいアイデアが新しい商品(製品やサービス)を生み、消費者の選択肢が増え、そのなかで利潤を生むものが、商品として生き残っていく。
 商品の広がりには、資本や技術(発明)、それに労働生産性の上昇が関係してくる。
 商品が拡大すれば、経済成長につながる。
 しかし、どんな発明(新商品)も、すべてすばらしいというわけではない。
「一部の発明にはよい点だけではなく悪い点もある」と、著者はいう。
 たとえばフェイスブックは、人びとに交流の場を提供する。だが、それに振り回されてしまうことはないだろうか。
 自分の記事を投稿すると、どれだけ「いいね!」がもらえるかが気になり、それが少ないといらだったりする。
 そのうち、フェイスブックで「いいね!」が多くもらえるように、情報を集めたり、記事を書いたり、友達を増やしたりするようになる。
 そうこうするうちに、すっかりフェイスブックづけになってしまっている。
 どっぷりつかってしまうのは、スマホやパソコンテレビだっておなじだろう。
 最近は、いろんな制度が発明される。
 たとえば、日本の大学入試センター試験(それを受けるにはおカネがかかるのだから、りっぱな商品だ)。
 こうした入試のためのランキング制度が、はたしてすばらしいのか、大いに疑問の余地がある。
 高いランキングを獲得した者は「自己満足」するかもしれない。
 だが、その副作用は大きい。ただのテスト成績によって、人間の価値が評価されてしまうからだ。
 商品にはまた依存症がつきものだ。
 たとえば、たばこ、酒、ドラッグ、ギャンブル。
 たばこの害がいわれるようになったのは1950年代になってからだ。
 たばこを吸うのは、長いあいだ、かっこいいことと思われていた。
 紙巻きたばこ機が発明されたのは1880年代だ。はじめ、紙巻きたばこの消費量はさほどでもなかった。それが次第に増えて、なかには一日じゅう、たばこが手放せない人がでてくる。
 それにともない、肺がんの死者も増えていった。
 たばこと肺がんの関係については、因果関係が明らかにされた。しかし、長いあいだ、たばこ会社は、たばこでがんが生じることは証明されていないと反論していた。
 たばことがんをめぐる論争は、50年にわたりつづけられた。
 いまでは、アメリカでも日本でも、オフィスや公共の場での喫煙禁止はあたりまえとなった。
 喫煙が有害であることに疑問の余地はない。しかし、たばこ会社はいまでもたばこを宣伝しつづけている、と著者はいう。
 アルコールの害もひどい。ところが、酒はたばことちがって、少しなら、からだにいいとされている。
 この少しがくせものだ。アルコール依存に悩む人は多い。
 深酒は人格を変え、他人を傷つけ、健康を損ない、人生を台無しにする。
 ビールやワイン、その他の酒の生産者、小売店、レストランは、もちろん酒の需要がもっと増えることを願っている。もっと多くの人に、飲酒の習慣が広がることに期待を寄せている。だから、酒税を上げることには反対だ。
 飲酒運転にたいする罰則は、さすがに強化された。
 アメリカでは飲酒年齢を21歳に引き上げる動きもある。それでも、市場で酒が容易に入手できることが、飲み過ぎてしまう人をつくっている、と著者は嘆く。
 次に紹介されるS&L(貯蓄貸付組合)は、日本ではなじみがないが、まったく無縁というわけではない。
 かずかずの金融商品は、最近になってつくられたものが多い。
 アメリカ人はS&Lに小口のおカネを預け、家や自動車を買うための融資を受けていた。そのS&Lが1986年から95年にかけ、危機におちいった。
 S&Lの歴史はアメリカ版不動産バブルの歴史と重なる。ファイナンスの異常な突出とその瓦解。そして、多くの人がそれに振り回された。
 1970年代、80年代以降、アメリカでは企業乗っ取りが盛んになった。
 ジャンク債を通じて、レバレッジド・バイアウトをおこない、ちいさな会社が大きな会社を買ってしまうのだ。
 マイケル・ミルケンは80年代に、ジャンクボンドの帝王として知られるようになった。ミルケンは格付けが低く、配当の高いジャンクボンド(ハイイールド債)に投資して、大きな利潤をたたきだした。
 ミルケンが注目されたのは、このジャンクボンドの収益を利用して、企業乗っ取りをはじめたことだ。
 乗っ取りは既存の無能な経営者を追放し、企業を繁栄に導くという意見もある。だが、そのいっぽうで、有能な経営者を追い出し、従業員の労働条件を悪化させることも考えられる。
 1989年、ミルケンはインサイダー取引と脱税幇助の疑いで逮捕された。
 ミルケンは、たしかにジャンクボンドをつくりだし、企業買収を推し進めた。しかし、それによって資産バブルを引き起こし、あげくのはてに経済を破壊する疫病を生みだしたのだ、と著者は論じている。
 疫病の蔓延を防ぐには大胆な対応が必要になってくる。
 1929年のウォール街大暴落への対応は、あまりにも小規模で遅かった。
 これにたいし2008年の大暴落にさいして、世界の金融当局と中央銀行はすぐさま介入した。そのため、少なくとも世界はふたたび暗黒時代におちいらないですんだ、と著者はいう。
 金融崩壊が起こりそうなときは、すばやい公的介入が必要だというのが、著者の考え方だといってよい。
 自由市場は危険市場でもある。しかし、それでも自由市場が存続しているのは、いっぽうでその危険に対処しようとする人びとがいるからだ、と著者は指摘する。
 たとえば、自動車や飛行機は危険な商品だ。それでも、その安全を守るために、常にさまざまな工夫がこらされ、現在にいたった。
 そうした対応は、すべての商品に関していえることだ。
「自分が買う財やサービスや資産の品質を自分で計測できるとき──あるいはそうした品質を性格に格付できて、人々がその性質や格付を理解できているとき──みんなはだいたい期待どおりのものを手に入れられる」。
 それは、商品(財やサービス)を選ぶときの最低基準だ。
 しかし、そのためには、商品の安全性が確保されなければならない。
 暴走しやすい自由市場にたいし、安全性というブレーキをかける人びとが存在することによって、はじめて自由市場は──言い換えれば現代社会は──はじめて存続可能になる、と著者はいう。
 著者は、そうしたブレーキ役のひとつとして、たとえば食品医薬品局(FDA)や国立標準技術研究所を挙げている。
 国立標準技術研究所は商品の標準化、格付け、認証などの仕事をおこなっている。
 商品の安全性を確保するための機関はほかにも数多く設けられている。
 こうした標準化と安全性のシステムがあってこそ、商品ははじめて安心して使用できるものとなるのだ。
 アメリカでは消費者団体の総合組織、消費者連合(CFA)が大きな役割を果たしている。こうした団体は、商品の価値や安全を守るうえで欠かせない、と著者はいう。
 全米消費者連盟(NCL)は、1899年にフローレンス・ケリーによって創設された。この連盟が、商品だけではなく、商品を生みだす工場の労働条件も検査して、その検査に合格した製品だけに「白ラベル」を発行する仕組みをつくりだしたことは画期的なことだという。
 アメリカには消費者からの苦情を受け付けるベタービジネスビューロー(BBB)という組織もある。日本でいえば、消費者センターのようなものだろう。
 業界のなかにも、業界の規範を守るための団体が存在する。各地の商工会議所もビジネス倫理を推進する役割を果たしている。
 政府や裁判所、議会の責任が大きいことはいうまでもない。政府と裁判所は法にもとづいて、詐欺やフィッシング、不当行為、経済的被害などに対処しなければならない。議会はまた、新たな経済的問題に対処するために新たな立法をおこなう重要な責務を担っている。
 最近は規制緩和の議論が盛んになった。規制はたしかに制約を加える。しかし、全体としてみれば、公共のためになっているという意見も見落としてはならない、と著者はいう。規制はなくせばよいというものでもないのだ。
「私たちは、道徳コミュニティは不可欠であり、その中に個人行動の自由市場が置かれるべきだと論じたい」と、著者は述べている。
 自由市場は、その市場をチェックし、暴走を阻止する装置があって、はじめて成り立つというのだ。

   5

 なぜ多くの人が広い意味でのフィッシングに引っかかるのだろうか。
 自由市場が豊かさを生みだしたのはまちがいない。しかし、自由市場にも裏面がある。だから、予防策なり対策が必要なのだ、と著者はいう。
 政府は自由市場の過剰にたいし、有効な重しとなるというのが、1970年代までの合意だった。ところが、レーガン政権以降、政府こそが問題だという考え方がでてきた。著者は、そうした考え方こそがインチキだという。
 社会保障の有効性は否定しがたい。アメリカでは、1959年に65歳以上の人の貧困率は35.2%だった。それが1975年には15.3%に減った。年金収入がなくなると、65歳以上の貧困率は一挙にはねあがるだろう。
 失業保険や健康保険が、生活の不安を軽減していることはいうまでもない。
 しかし、2004年にブッシュ政権は社会保障システムの改革を打ち出した。社会保障の民営化によって、予算を節減しようというわけだ。とりわけ、アメリカではメディケア、すなわち医療費問題が悩みのタネになっている。
 そうした社会保障の見直しが、貧困率を高める一因になっている。
 政府には金融をコントロールするという役割が課せられている。
 証券規制もそうした政府の役割である。アメリカには証券取引委員会(SEC)がある。しかし、予算が不足しているため、じゅうぶんな規制をおこなえないでいるのが現状だという。
 現在の選挙資金規制法も、じゅうぶんではなく、言論の自由を保証するものではない。膨大なカネが動く選挙運動やロビー活動に、じゅうぶんな規制がなされていない、と著者はいう。
「そんなに豊かでない他の人々の声をかき消せるような巨大な拡声器を持ち出せるだけのリソースを持った人々には、ある程度の制限を加えなければならない」。著者が支持するのは、政治献金を個人献金にかぎり、しかも、それをごくわずかの金額にしぼるというものだ。
 市場と民主主義は、とかく礼賛されがちだ。
 これにたいし、「市場と民主主義のよい面だけを考慮せずに、悪い点も考慮しなければならない」と、著者は訴える。
 くり返しになるかもしれないが、著者は「あとがき」で、市場はそれ自体が諸刃の剣だと語っている。
 市場が不健全な状態になるのは、けっして外部性によるわけではなく、市場がほんらいもつ性格によるのだ、と。
 人びとがほんとうに求めるものと、人びとがほしいと思うものとは異なる、と著者はいう。
 これは経済学でいう「顕示選好」の概念をくつがえす考え方である。
 顕示選好とは、消費者が予算の範囲内で、自分にとっていちばんよいものを選ぶという考え方である。
 しかし、それは実際とは異なる。
 消費者はいわばカモとみなされている。そして、イメージづけられた、言いかえれば物語を埋めこまれた商品を買わされているのだ。その商品は消費者がほんとうに求めるものとは異なっている。著者がフィッシングはいたるところにあるというのは、そのことを指している。
 本書の結論部分には、こう書かれている。

〈かなり自由な市場を持つ現代経済は、先進国に暮らす私たちにはこれまでのあらゆる世代がうらやむ生活水準をもたらした。でも、自分をごまかすのはやめよう。それはまた、カモ釣りももたらす。そしてそれもまた、私たちの厚生にとっては重要なのだ。〉

「それもまた、私たちの厚生にとっては重要なのだ」というのは、私たちはカモにされ、豊かさや幸せを奪われていると理解すればよいのだろうか。
 著者のねらいは、不均衡経済学を考えることにあると思われる。つまり、バブルやブーム、そしてその崩壊と消滅を射程にいれなければ、現実の経済は理解できない。いままでのミクロ経済学は、市場をあまりにも調和的に考えてきたのだ。



母のこと [雑記]

6月15日朝、母が亡くなった。
享年92。満でいえば、91歳5カ月だった。
高齢といえば、高齢にちがいない。
しかし、もっと長生きしてほしかった。
同い年の父とは21歳で結婚し、70年連れ添った。
店をやっていたから、24時間いっしょの生活。
店を引退しても、24時間いっしょだった。
残された父はいま寂しくて仕方ない。何かにつけ、涙ぐむ。
母は働きに働いた。
朝6時に店を開け、夜10時に店を閉めるまで、ずっと働いていた。
値札をつけるため、2時か3時ごろまで、仕事をすることもあった。
家庭と仕事の両立などというものではない。
家はすなわち店だった。職住接近もいいところである。
家族の食事をつくり、掃除をし、商売をし、仕入れに行き、帳面をつけた。
小学校のころは、美人の母が自慢だったものだ。
風呂焚きはぼくの仕事。かまどで、ご飯も炊いた。
あのころは、まだそんな時代だったのだ。
母は父といっしょに店を大きくした。
南本町にあったちいさな店は、鍛冶屋町の「銀座商店街」に移り、大きな店に変わった。
中学生、高校生になると、ぼくは学校の宿題や予習をしながら、たばこ屋となった元の店で、店番をするようになった。
あのころ受験のための塾などはなかった。
でも、学校の成績は悪くなかった。
町に大型店の「西友」が進出すると、両親は銀座商店街の店に加えて、「西友」にも出店するようになった。
あのころが店の全盛期ではなかったか。
ぼくは東京大学に合格した。
父は浪人を薦めたが、ぼくは拒否した。
もう受験勉強などごめんだった。早く家を出たかったのだ。
だからといって、ほかに何か大きな目標があったわけではない。
東京・目白台の下宿まで見送り、別れるとき、車の助手席の母は泣いた。
箱根を越えるまで、泣きつづけだったらしい。
下宿生活をはじめると、ぼくはとたんになまけ者になる。
いつも下宿でごろごろしていた。
母が三叉神経痛で苦しむようになるのは、そのころからだ。
顔を洗っても、風が吹いても、頭半分に強い痛みが走るようになった。
いくつも病院を回り、注射を打ち、神経をブロックし、顔がゆがんだ。
母はそれに辛抱づよく耐えた。
ぼくはサークル活動にのめりこみ、デモや集会によく出かけるようになる。
大学は封鎖された。
封鎖解除になっても、授業には出なかった。
それでも、レポートを提出して大学を卒業したのは、彼女ができたからだ。
両親はぼくの将来に期待していただろう。
しかし、期待はずれの当人は将来など何も考えていなかった。
まともに就職活動もせず、東京で友達のいる総会屋系の出版社に勤め、結婚した。
それから、会社を替わり、マスコミ系の子会社にもぐりこんだ。
こころざしなど、あったものではない。
漂流していた。
けっきょく家は弟が継ぐことになった。
母は、自分の息子がこれからどうなるか、さぞかし心配したにちがいない。
しかし、なにはともあれ、大学を卒業し、就職し、結婚し、子どもも生まれたことを、母はだれよりも喜んでいた。
その後、個人商店にとって冬の時代がはじまる。
だが、その前に競争と拡張の時代がある。
店は「銀座商店街」の本店や支店のほか、大型店のなかに4つの店舗を構えるまでに成長した。
父はもちろんだが、母も必死ではたらき、弟も両親のはたらきを支えていた。
しかし、過剰競争のなか、もちこたえられなくなる。
揺り返しがやってくる。
赤字がでるようになって、両親は次第に3つの店舗を整理し、本店はジジババストアになった。
それでも母は店に立ちつづけた。
商店街にはほとんど人がこなくなり、にぎわった店がつぎつぎシャッターを下ろしていく。
夜逃げや自殺や事故死や過労死のうわさも聞こえてくる。
それでも母は父とともに、最後の最後まで店に立ちつづけた。
そして、70歳近くになって、ついに店のシャッターを下ろした。
驚くべきは、店を閉めたあとも、母がからだを動かしつづけたことである。
父は少し前から、200坪ほどの土地に庭をつくりはじめていた。
母は毎日それを手伝い、石を取り除いて、梅の木を植え、畑をつくった。
その木は育ち、いつしか50本の梅林になった。
花が咲くころには、庭を開放し、小さなあずまやに大勢の人が集まってくるようになった。
家のなかは、あいかわらず母の持ち分だった。父は何もしない。
母は庭仕事に加えて、家の炊事、洗濯、掃除と、ひっきりなしに動いた。
休むことを知らぬ人だった。
きょうのことだけでなく、あすのことに常に気を配っていた。
毎日、あすの分まで、はたらいていたのだ。
そんな母が、去年の夏ごろから弱りはじめる。
11月には黄疸がでて、市民病院に入院した。
胆管がん、ないし膵臓がんの疑いがあった。
黄疸を取り除くため、胆管にパイプを通す手術をおこなおうとしたが、うまく行かない。
そこで、明石の病院に移って、今度はようやく手術が成功した。
明石に見舞いに行ったとき、母は黄疸もとれて、元気そうだった。
少し痩せたものの、病院のなかを足どり軽く、さっさと歩いていた。
12月末には退院し、高砂の自宅に戻り、正月を迎えることができた。
父といっしょに、バスに乗り、イオンまで買い物に行けるほどだった。
急変したのは、買い物に行った翌朝である。
高熱が出て、手がふるえ、意識がなくなった。
かかりつけの医者を呼んだが、なかなか来てくれない。
弟が救急車を呼んで、ふたたび市民病院に入院した。
極度の脱水症状に加え、血糖値が1200まで上昇していた。
こんな数字見たことがない、と医者がいった。
懸命な措置のおかげで、何とか意識は回復した。
91歳の誕生日を迎えることもできた。
しかし、なぜか両手が動かなくなった。
姫路の病院でも診てもらったが、ついに手の動きは戻らなかった。
そのまま寝たきりとなって5カ月。
米田町の共立会病院で、息を引き取った。
そのとき、ぼくは妻と信州は車山の花畑のなかにいた。
母の頭は最後までしっかりしていて、毎日、弟の送り迎えで病院に見舞いにくる父ともよく話をしていたという。
毎月、4、5日見舞いにいくぼくとも、あれこれ昔のことを話し、うれしそうだった。
最後まで、痛みがほとんどなかったことが、せめてもの救いだった。
とつぜん酸素マスクがつけられ、あっという間に亡くなったのだ。
父も弟も10分遅れで、臨終に間に合わなかった。
しかし、ぼくのなかで母は生きつづけている。
おそらく母もぼくのことを思いつづけてくれているだろう。
いまはそんなふうに母の力を感じている。

寅さんの旅(3)──『「男はつらいよ」を旅する』をめぐって(5) [われらの時代]

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 翻訳の仕事がはいったので、少し間があいてしまった。
 寅さんの旅のつづきである。
 著者の川本三郎は、寅さんを追って、九州に出かけている。
 佐賀市の西にある小城(おぎ)。唐津線が通る。昔は石炭を唐津港まで運んでいた。第42作(89年)に出てくる。静かないい町だという。

〈駅前にまっすぐ北にのびる商店街がある。高い建物はない。空が広い。酒蔵があり、レンガの煙突が青空に映える。〉

 ここに後藤久美子演じる泉が住んでいて、寅さんの甥っ子、満男(吉岡秀隆)が彼女を追いかけてくる。
 羊羹屋が多いという。羊羹づくりが盛んなのは、茶の文化が発達していたこと、それにかつて軍が羊羹を保存食として買い入れていたためだという。
 軍と羊羹という組み合わせがおもしろい。
 大日本帝国時代、佐世保には海軍、久留米には陸軍の拠点があり、小城はその中間に位置していた。
 川本は映画のロケ地をあちこち歩いている。
 呼子は第14作(74年)、平戸は第20作(77年)に登場する。
 著者は江戸時代のはじめに栄えた平戸を訪れている。和洋の文化が混在した町だ。寅さんはこの町をすっかり気に入ってしまう。しかし、例によって美女にふられる。
 佐世保で1泊した著者はフェリーで五島列島に向かう。その中通島(なかどおりじま)は、第35作(85年)の舞台。
 寅さんはほんとうによく旅をしている。このころ、ぼくはずっと会社と家を往復する仕事がつづいていた。
 中通島では新しいホテルができているが、町並みや漁港の様子は変わっていないという。
 五島列島では、明治になって隠れキリシタンが自分たちの手でいくつもカトリック教会を建てた。
 そのひとつ福江島も第6作(71年)のロケ地になった。映画『悪人』にでてくる灯台はこの島の西端にある。
 第6作に写る玉之浦の中村旅館はいまも残るが、もう営業はしていない。かつては捕鯨船基地にもなったという玉之浦の漁港も、いまはひっそりしている。
 寅さんはテキヤらしく全国どこにでも出かけるが、どちらかというと辺鄙な場所が好きだ。「寅は旅の名人、知られていなかった日本の美しい町の発見者と言える」と川本も書いている。
 若狭湾の伊根もそのひとつ。第29作(82年)の舞台だ。
 ブリの好漁場で、湾に面した舟屋群で知られる。映画のころと、町並みはほとんど変わっていないという。
 川本はそのあと山陰を旅する。
 列車で豊岡に出て、城崎温泉、浜坂、鳥取、米子、温泉津(ゆのつ)のルートをたどる。
 温泉津は第13作(74年)の舞台。ここで、寅さんはまたも旅館の番頭をする。
 石見銀山の銀の積み出し港として栄えた。千年以上前に発見されたという温泉があり、20軒ほどの湯宿が並んでいる。やきものの町としても知られている。
 昔の商店街は、いまではシャッター通りとなっている。映画の撮影当時とくらべて、過疎化が進んだようだ。
 第44作(91年)は倉吉が舞台。映画の撮影された小学校は廃校になった。駅前の商店街も閉店、空き家が目立つ。しかし、いっぽうで、町おこし、村おこしも盛んで、一概に過疎ということばをかぶせるのは問題だという。「実際には、故郷に留まって頑張っている若者もいる」
 第13作には津和野もでてくる。山陰の小京都として、若い女性のあいだで人気がある。町は映画の撮影された40年前とさほど変わっていない。
 寅さんの妹、さくらが第7作(71年)で訪れるのが五能線の驫木(とどろき)駅。青森県にある秘境の駅だという。列車は1日に5本しか止まらない。
 その駅から少し山のほうにはいった田野沢の小学校は、映画に登場するが、いまは廃校になっている。集落では人間が減って、猿が増えている。
 さくらは寅さんを探すため、バスで弘前に向かう。
 その途中、千畳敷と呼ばれる寂しい海岸線を通りながら、さくらは想像する。

〈一瞬、さくらは寒風にさらされた寅が、寂れた海辺の小屋に身を寄せる姿を想像する。あの陽気な兄が、海からの風に吹き飛ばされそうになって、賽の河原のような海辺を歩く。ボロ屋の板壁にもたれかかる。〉

 そう思った矢先に、次に停車した嶽(だけ)温泉から、何とおにいちゃんの寅さんが乗りこんでくる。
「俺、死んだかと思ったか」「冗談じゃないわよ」と、兄妹のにぎやかなやりとりがはじまり、観客はほっとする。
 それにしても、テキヤ稼業は、野垂れ死にと紙一重だ。
 そんな風来坊の孤独をにじませた一篇が、第16作(75年)で、ここでは山形県の寒河江(さがえ)がでてくる。人口は4万。サクランボの産地として知られる。ニット生産でも有名だ。
 寅さんは昔世話になった女性の墓参りをするため、寒河江の慈恩寺を訪れている。
 寒河江は「思っていた以上にきれいな町だった。老後、住みたいと思ったほど」と、川本は書いている。地方にはいい町が残っている。日本のよさは、もう地方にしかないのではないか。
 時に寅さんはテキヤをやめて、カタギの仕事をしようとすることもある。実際にはじめると、なかなかつづかないのだが。
 そんな場所のひとつが江戸川下流の町、浦安だ。1970年の第5作にでてくる。
 そのときの仕事は豆腐屋だ。例によって美人の娘がいる。しかし、もののみごとにふられ、浦安を去っていく。
 いまではディズニーランドで知られる町だが、大規模な空襲にあっていないので、昔ながらの住宅が残っているところもあるという。ぼくのところからも近いので、いちど散歩してみよう。
 近いといえば、茨城県だ。寅さんは茨城県によく出没している。
 たとえば、第39作(87年)に登場するのが、水海道(みつかいどう)の木橋。
 常総線の中妻駅がアヴァン・タイトル(タイトル前の寸劇シーン)に写っている。
 第42作(89年)では、水戸と郡山を結ぶ水郡線に乗っている。途中降りるのが袋田駅。ここには袋田の滝がある。ぼくもいったことがある。
 第34作(84年)には牛久沼がでてくる。大手証券会社課長(米倉斉加年)は、ここから東京に通っている。マイホームをもつのも楽ではない。
 そして、とつぜん蒸発する。奥さん(大原麗子)と寅さんは男の行方を追って、鹿児島に出かける。
 筑波山の「がまの油売り」がでてくるのも、この作品だ。
 この作品は、めずらしく名画座でぼくも見たのだが、「がまの油売り」のシーンはまったく覚えていない。もう一度見てみよう。
 寅さん映画には会社勤めがいやになるサラリーマンが、しばしば登場する。第33作(84年)の佐藤B作、第41作(89年)の柄本明もそう。ぼくも会社が嫌いだった。
 次は九州の温泉めぐりだ。
 第28作(81年)で、寅さんは佐賀県鳥栖(とす)駅前の大衆食堂で、トンカツをさかなにビールを飲んでいる。駅前再開発で、いまこの大衆食堂はない。ただ、1911年に建てられた駅舎は、そのまま残っているという。
 次に寅さんがあらわれるのは、久留米と大分を結ぶ久大本線の夜明(よあけ)駅。名前がいい。
 田主丸駅の駅舎はカッパの形をしているという。ちょっと想像がつかない。
 寅さんは、その中央商店街を歩く。いまはさびれている。
 しかし、法林寺や月読(つくよみ)神社はそのまま残っている。
 ぶどうの巨峰の町として知られる。三連水車が観光名所。
 寅は久留米の水天宮で商売をする。
 そこで、仲間のテキヤが病気だと知り、秋月にいく。
 秋月は隠れ里のような町だ。坂の上には秋月城があったが、いまは中学校になっている。

〈瓦屋根が並ぶ。高い建物はない。城下町だが城はなく商家が目立つ。和紙の店、和菓子屋、製麺所が通りに落着きを与えている。〉

 第37作(86年)には、福岡県の田川伊田駅がでてくる。この作品は筑豊が舞台。飯塚の芝居小屋、嘉穂劇場もでてくる。
 久大本線の大きな町は大分県の日田(ひた)。第43作(90年)の舞台だ。
 小鹿田焼(おんたやき)の里、温泉街、豆田町のほか、周辺の天ヶ瀬温泉も登場する。
 近くには、湯平(ゆのひら)温泉がある。ここは第30作(82年)の舞台。沢田研二と田中裕子がでてくる。寅さんは映画のなかで、ふたりの縁結びをする。
 湯平は人気の湯布院などとくらべると、ひなびた温泉だ。ネットのおかげで、最近はアジアからの観光客も増えてきたらしいが、ホテルの数はだいぶ減った。
 もうひとつ、ひなびた温泉が田の原(たのはる)温泉。久重山の西麓にある秘湯。人気の黒川温泉の隣にある。ここは熊本県だ。寅さんはここに長逗留する。人が押し寄せない、ひなびた温泉が好きなのだ。
 第21作(78年)の舞台。寅さんの泊まった太朗舘はいまも残っている。静かな温泉で、歓楽施設は何もない。露天風呂がすばらしいという。
 そして、最後に寅さんが行き着くのが、奄美の加計呂麻島(かけろまじま)である。
 しかし、そこに行く前に、著者の川本は、第19作(77年)の舞台、愛媛県の大洲(おおず)と、第45作(92年)の舞台、宮崎県の油津(あぶらつ)に立ち寄っている。
 第19作は予讃線の下灘(しもなだ)駅からはじまる。海を目の前にしたちいさな駅だ。「青春18切符」のポスターにもなっているらしい。
 伊予大洲は城下町。伊予の小京都とうたわれる。
 嵐寛寿郎が殿様役ででてくる。
 第45作の油津には、宮崎から日南線で向かう。飫肥(おび)杉の積み出し港、漁港として栄えた。山で切り出された杉は、堀川運河で、港まで運ばれた。いまも赤レンガの建物や銅板張りの商家が残る。ここも小京都の雰囲気。
 理容師役の風吹ジュンがすばらしい、と川本は絶賛する。
「地方の衰退が言われて久しいが、こういう町を歩くと、地方の町のストックの豊かさを感じさせる」と書いている。
 そして、ついに最終作の地、加計呂麻島に。
 奄美大島の古仁屋(こにや)からフェリーで30分。島の人口は1300人ほど。
 映画のなかで、寅さんはリリー(浅丘ルリ子)といっしょに、ちいさな家で暮らしている。
 映画ででてくるデイゴの木のある民家は、いまはだれも住まない廃屋になっているという。
 こうして、寅さんの旅は終わった。
 川本は「あとがき」に、こう書いている。

〈[「男はつらいよ」は]寅の放浪の旅であり、しかも、旅先は、瓦屋根の家や田圃の残る懐しい町が多い。はじめから古い町を舞台にしているから何年たっても古くならない。繰返しに耐えられる。……根底に、失われた風景に対する懐かしさ、ノスタルジーがあるから、時間の風化に耐えられる。〉

 なかなか旅ができないぼくにとっては、ありがたい本だった。
 いままでほとんど見ていない寅さん映画をできるだけ見たいと思った。

寅さんの旅(2)──『「男はつらいよ」を旅する』をめぐって(4) [われらの時代]

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 著者の川本三郎は、寅さんの旅をつづけている。
 第9作「柴又慕情」(72年)には吉永小百合が登場する。吉永はOL役で、友達ふたりと金沢旅行している。そこで寅さんと遭遇する。
 映画の最初、寅さんは、小松から分かれる尾小屋(おごや)鉄道の駅のひとつ金平駅で目が覚め、あわてて汽車に乗る。その駅舎も線路もいまは残っていない。
 現在の金平集落は戸数50ほどで、寺と神社、公民館、九谷焼の工房があるだけ。鉄道がなくなり、すっかりさびしくなっても、あたりの様子は、映画のなかにしっかり「動態保存」されている、と川本はいう。
 京福電鉄の永平寺線も廃線になってしまった。しかし、映画にはいまはない京善(きょうぜん)駅が残されている。京善には古民家群が残っている。
「『男はつらいよ』が何度見ても面白い理由のひとつはそこに、失われた鉄道風景が残っていることにある」と川本はいう。
 寅さんはマイカーに乗ったりしない。汽車とバスで日本じゅうを旅するのだ。
 第9作では、寅さんが旅行に来たOLたちと、永平寺や東尋坊で遊んでいる。そのたたずまいは昔と同じ。
 第36作「柴又より愛をこめて」(85年)には只見線の会津高田駅がでてくる。会津若松から4つ目の駅だ。
 隣の根岸駅には「中田の観音様」と親しまれる弘安寺がある。「寅は、テキヤであると同時に、寺社を巡る巡礼者でもある」。門前の名物は「ボータラ」(棒ダラ)。
 会津柳津(やないづ)は温泉町。高台に圓藏寺がある。寅さんは柳津の小川屋で下駄を買い求めて、さくらと博に送ろうとするが、カネがないので、あきらめる。残念。
 著者はいう。

〈主観(自分を立派な渡世人と思い込んでいる)と客観(端からは間抜けにしか見えない)の大きな落差は、寅の特色であり、それが笑いを生んでいく。〉

 奥会津には、まだ昔の風情が残っている。
 寺社と温泉は滅びることのない最強の組み合わせだ。
 映画の第7作(71年)では、只見線の越後広瀬駅から、集団就職の少年少女が東京に向かう。そのころまで、まだ集団就職が残っていたのだ。
 この駅を通る列車は、いま1日4本しかない。
 著者はそのあと新潟から佐渡に向かう。寅さんは31作(83年)で、佐渡・宿根木(しゅくねぎ)の民宿に泊まっている。失踪した人気歌手と「佐渡の休日」を楽しんだあと、小木(おぎ)港で別れるという設定だ。
 出雲崎は日本海に面した北国街道の宿場町で、良寛の出身地。寅さんはここでも商売をする。「寅が一瞬、良寛のようにみえる」。このあたりも昔と変わらない。
 木曽路に向かう。
 寅さんの映画では、ちいさな駅がよくでてくるという。中央本線の落合川駅もそのひとつ。馬籠宿が近い。
 奈良井宿のある奈良井駅、奈良井と塩尻のあいだにある日出塩(ひでしお)駅も、そうした駅のひとつだ。
 日本ではいまも山里に大きな寺が残っている。昔の街道がすたれ、経済の中心が別の場所に移っても、寺は残るのだ。
 映画は大桑村(長野県南西部)の定勝寺をスクリーンに収めている。
 経済成長とはいったい何なのだろうかと思ってしまう。商品世界では、商品とカネの集まる場所に人が移っていく。だが、それによって失われるものも多い。カネの動きに合わせて、人が移り移った末、あとにはいったい何が残るのだろう。そんなことをふと思ってしまう。
 寅さん映画は回を重ねるごとにロードムービーになる、と著者は指摘する。
 上田の先には別所温泉がある。ここは第18作(76年)の舞台。寅さんはここでも無銭飲食で、警察のやっかいになる。
 第40作(88年)は上田と小諸が舞台。老人問題や地方の過疎化も取りあげられている。このころから事態は深刻になっていた。限界集落が増えている。
 かつてテキヤ、渡世人(あるいは行商や旅芸人)は、村の人にとっては、いろいろと旅の話を聞かせてくれる「まれびと」だった。だが、そうした旅人はいつ行き倒れになるかもしれぬ、はかない存在でもある。
 寅さんの映画には、そんなはかなさもにじみでる。山梨県明野(あけの)町(北杜市)で撮られた第10作(72年)の一シーンが印象的だ、と川本は書いている。
 京都では、寅さんの生みの母が連れ込みホテルの女将になっている。そこは祇園に近い安井毘沙門町。いまホテルはない。おしゃれで、にぎやかな場所になっている。外国人客も多い。こんなところにラブホテルがあってもカップルにははいりづらいだろう、と著者はいう。
 京都は変わっていないようで、時代とともに大きく変わっている。
 四日市から山にはいったところに湯の山温泉がある。寅さんは、ここの旅館で厄介になったものの、例によってカネがなく、旅館ではたらくことになる。そして、女将さんにほれて、いつものように振られる。
 映画は道中、煙突からもうもうと煙をはく四日市の町をとらえている。
 湯の山温泉は、昔より少し客が減った。「現在の湯の山温泉は寂しいところだった」と川本は書いている。車社会になって、温泉のはやりすたりは激しい。それでも、湯の山温泉が大きな歴史的財産であることには変わりあるまい。
 岡山県のあちこちを寅さんは訪れている。
 備中高梁(たかはし)市、総社市、津山市、勝山町(真庭市)など。
 川本はその町々を駆け足で回っている。
 津山には姫路からでる姫新線と、岡山からくる津山線、鳥取からくる因美線がクロスする。ここには扇形機関車庫も残っている。吉井川とともに発達した城下町だ。
 最終作、第48作(95年)の舞台となった。寅さんの甥、満男が狭い道で結婚式に向かう泉の車を妨害する。
 その冒頭に寅さんがでてくる。撮影されたのは、因美線美作滝尾(みまさかたきお)駅。
 いまは無人駅になっている。このあたり、かつては林業が盛んだった。
 津山から勝山までは姫新線の列車で1時間ほど。
 勝山は出雲街道の宿場町。その面影が残っている。瓦屋根、連子(れんじ)格子の商家が並ぶ。昔の日本のよさは、こんなところにしかないのかもしれない。ここも最終作のロケ地だ。
 つづいて、備中高梁に。寅さんは第32作(83年)で、国分寺から高梁に川舟ではいるが、さすがにそのころも川舟はなかったようだ。
 高梁には備中松山城がある。戦国の山城だ。
 高梁は第8作(71年)にも登場。さくらのつれあい、博の実家があるという設定。
 往事の武家屋敷が何軒も残っている。寅さんはそのあたりを博の父(志村喬)と歩く。
 第32作、博の父の3回忌で、ふたたび高梁を訪れた寅さんは、山裾にある薬師院に出向いている。
 町の様子は、撮影当時とほとんど変わらない。でも人口は減った。1970年の約5万3000人が、85年には約4万6000人、そして2015年には3万2000人になっている。
 第17作(76年)に登場するのが、播州龍野(たつの市)。ここはぼくの母の実家なので、ぼくにとってもなじみ深い町だ。子どものころは、夏休みになると、しょっちゅう祖母の和菓子屋に行っていた。
 川本は「いまどきこんな昔ながらの町が残っていると感動する」と書いたうえで、こう記す。

〈白壁と瓦屋根の武家屋敷、格子や卯建(うだつ)のある町家、寺社、堀割、鍵形の狭い道。戦災にも遭っていないためだろう、脇坂家5万3千石の城下町がそのままに残っている。〉

 町は映画がとられたときとほとんど変わらないという。「それも、努力して保存しているというより自然に残っているという生活感がある」。
 しかし、どうだろう。ぼくが子どものころの下川原商店街の様子はすっかり変わってしまった。おじが亡くなったとき、龍野に行けなかったのが悔やまれる。嘴崎屋の羊羹をもう一度食べたい。
 なお、映画に登場する龍野芸者(太地喜和子)は、当時からもういなかったという。
 寅さんは大阪でも商売している。第31作(81年)では、宗右衛門町(そえもんちょう)あたりの芸者(松坂慶子)に恋をするが、例によって行き違いで終わる。寅さんと大阪はどうも相性が悪い。
 ロケ地の通天閣近くの商店街の様子は、撮影当時(81年)とさほど変わっていないという。
 大阪は第39作(87年)にも登場する。
 寅さんはともかく、山田洋次と大阪の相性は悪くないようだ。

寅さんの旅(1)──『「男はつらいよ」を旅する』をめぐって(3) [われらの時代]

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「男はつらいよ」が製作されたのは1969年から95年にかけてである。足かけ27年の映画シリーズはギネス記録だという。
 学生時代からサラリーマン時代の大半にいたるまでを、ぼくは寅さんと併走したといってもよい(といっても映画はほとんど見ていなかったが)。
 だから、寅さんの旅をたどることは、ひとつにわれらの時代を思い起こす意味合いもある。
 じっさい、寅さん映画には、いろいろな風俗がえがかれている。たとえば第2作に登場するラブホテルというのもそうだ。キャバレーやダンスホールなどもいまはあまりなかろう。
 よく柴又に電話をかける寅が、電話機がコードレスなのに気づいて、びっくりするという場面もある。現在のような携帯電話やスマホはまだ誕生していない。
 高度成長、低成長にかかわらず、日常生活をめぐる風景、住まいや風俗、商品はめまぐるしく変化している。
 もうひとつ、寅さんの旅をたどるのは、文字どおり寅さんの行った場所を追体験するという意味である。
 北海道から沖縄まで、寅さんはじつにさまざまな場所を訪れている。
 川本三郎は本書で、寅さんの訪れた場所を再訪する。
 そこはどんな場所だったのだろうか。
 とはいえ、映画がつくられてから、寅さんの場所は、すでに長くて50年近く、短くても20年以上たっている。その場所がどう変わったか、あるいはいまも変わらないかが、気になるところである。
 川本は寅さんの訪れた場所をできるだけ網羅しようと奔走している。しかし、読者の側はあまり構える必要はないだろう。のんびりと、気ままに、著者と寅さんの旅を楽しめばよいのである。
 著者の川本は最初は沖縄、それから柴又周辺、そして北海道、北陸、会津、佐渡、木曽路、京都、岡山、播州、大阪、長崎、丹後、茨城、青森、九州、最後に奄美と、1年数カ月旅をしている。
 ほかに、本書の企画以前に、取材で寅さんがらみの場所をいくつも訪れたという。
「寅がどんな町を歩いたか、どんな鉄道に乗ったか、どんな風景を見たか」に興味があったという。
 川本は「『男はつらいよ』は、消えゆく日本の風景の記録映画でもある」と書いている。
 そこで、こちらもふらり旅だ。
 川本は、おそらく監督の山田洋次と同様、大の鉄道好きである。だから、寅さんめぐりをしていても、寅さんそっちのけで、鉄道の話題にのめり込む。沖縄を訪れたときも、戦前の沖縄に鉄道が走っていたことを知って、大喜びしている。
 それでも現実の沖縄が、いまも基地の島であることを痛感せざるをえない。
 寅さんの時代と少しも変わっていないのだ。変わったのは、キャンプハンセン前にあった米兵相手の商店や飲食店がさびれ、いまや廃墟のようになっていることだった。
 柴又とその周辺はどうだろう。
 柴又は下町というより、帝釈天参りにいく「近所田舎」で、1960年ごろは訪れる人も少なく、閑散としていたという。裏を江戸川が流れている。高い建物はなく、閉鎖的な土地柄。寅さんの舞台となる1970年ごろは「周囲の繁栄から取り残された町」だった。回りにはまだ畑が残っていた。
 江戸川の取水塔と「矢切の渡し」、水元公園はいまもある。
 このあたりは京成電鉄の文化圏だ。京成沿線は寅さんのシリーズにしょっちゅう登場する。下町よりマイナー感がある。
 柴又に行くには京成電鉄本線の京成高砂から金町線に乗り換える。高砂と金町の途中に柴又がある。
 金町は常磐線の駅でもあり、柴又よりにぎやかで、いまはイトーヨーカドーや東急ストアもできている。15階建ての公団住宅もある。
 寅さんシリーズでは、この金町がよくでてくる。柴又からみれば、何でもある町だ。しかし、もともと金町も江戸時代は近郊の農村地帯。町は成長し、変化する。
 葛飾区の地場産業は玩具だ。立石に、はじめてセルロイドの玩具工場ができたのが1914年。1960年代にはタカラのダッコちゃん、70年代にはセキグチのモンチッチが大ヒットする。そのころまで、集団就職の少年少女がおもちゃ工場に働きにきていた。映画はその光景も取り入れている。
「男はつらいよ」には東東京、京成文化圏への思い入れがある、と著者はいう。江戸川だけではなく、目立たない中川もよくでてくる。このあたりの景色も、おそらく寅さんの時代から、だいぶ変わっただろう。町も生き物だ。
 著者が次に足を運ぶのが北海道。
「男はつらいよ」には、北海道がよくでてくる。
 寅さんは第11作(1973年)で、カタギになろうとして、北海道の牧場ではたらきはじめる。撮影場所は網走の西、卯原内(うばらない)にある栗原牧場だ。いまは300頭の乳牛を飼っているというから、大規模牧場といってよい。
 酪農の仕事は生き物相手だから休む暇もなく、重労働だ。そのため、酪農家は全国で減りつづけ、いまでは最盛期(ピークは70年代だった)の4%、1万8000戸に落ちこんでしまったという。
 当の寅さんは慣れない仕事で、たちまち倒れ、寝込んでしまう。そして、妹のさくらが駆けつける仕儀となる。
 映画には網走の町も登場する。郊外にショッピングセンターができたため、当時の商店街はさびれてしまった。造船所も残っているものの活気がない。これも70年代と現代の大きなちがいだ。
 ほかに変わったといえば、観光客が増えたこと。外国人が観光バスに乗って、網走刑務所やオホーツク海を見にくる。
 しかし、漁業、農業の景気は悪くない。「漁業はサケ、マス、ウニが好調。農業はジャガイモ、小麦、ビート」。日本の食卓を支えている。
 1987年の第38作は知床が舞台。映画には離農する酪農家の姿がでてくる。知床は2005年に世界遺産に登録された。自然がすばらしいという。漁業は網走と同様、好調だ。
 中標津、別海町はいまでも酪農がさかん、広々とした牧場がつづいている。
 とはいえ、酪農家の生活はきびしい。
 北海道では、かずかずの映画の舞台となった鉄道がつぎつぎ廃線になっている。それが加速されたのは80年代からで、近年はさらに廃線化が進む。
 根室はロシアとの緊張関係で、漁業の不振がつづき、人口も減っているという。
 1984年の第33作は、釧路と根室のあいだにある霧多布が舞台になっている。撮影された昆布小屋は、2011年3月11日の津波で流されてしまったようだ。
 著者は第26作(1980年)の舞台となった奥尻島も訪れている。
 1993年の地震で、奥尻島は津波の被害を受け、火事も加わり、200人の死者をだした。
「男はつらいよ」が撮影されたのは地震のだいぶ前。
 寅さんは最初に江差で商売し、それから奥尻島に渡っている。ニシン漁で栄えた江差に、かつてのにぎわいはなかった。札幌一極集中が進んでいる。
 奥尻島では、地震のとき、漁港も町も全滅した。映画にでてくる青苗地区の町並みはすべて津波で消えたという。そこに津波館が立てられている。
 イカの加工場と商店街は残っている。
 岬の突端に賽の河原と呼ばれる霊場がある。
 地震のあと、奥尻島復活の象徴となったのが、ワイナリーでつくられている奥尻ワインだという。
 江差線は2014年に廃線になった。旅行客が函館に行くにはバスに乗るしかない。
 著者は寅さんの跡をたどって、函館に1泊したあと、小樽に向かう。その途中、寄り道をして、倶知安からいまは無人駅となった小沢(こざわ)駅に立ち寄っている。駅はいま閑散としている。
 小沢には開拓地があったという。戦後、樺太からの引揚者が入植した。しかし、高冷地のため、満足な収穫は得られなかった。けっきょく、入植地はなくなる。
 小沢は共和町の一部。
 共和町の人口は1970年に9478人だったが、2015年には6224人になった。スイカ、メロン、ジャガイモ、カボチャ、トウモロコシ、ブロッコリーなどがよくとれる。それでも、人口の流出がつづく。
 寅さんは北海道の小さな駅をほんとうによく訪れている。いまは懐かしい蒸気機関車が走っているのが、映画の魅力のひとつだ。その蒸気機関車も1970年代から徐々に姿を消していく。
 寅さんが旅した北海道の国鉄路線は、廃線が相次いでいる。国鉄がJRに移行するのは1987年。しかし、その前から北海道では廃線化が進んでいた。
 函館本線の小沢駅から分岐する岩内線も85年に廃線になった。小沢駅がさびれたのも、そのことが一因になっている。
 カネのない寅さんは、小樽の手前にある蘭島(らんしま)駅で野宿している。
 そして、小樽。
 小樽について、川本はこう記している。

〈小樽は現在、運河の町として人気があるが「寅次郎相合い傘」が作られた1975年頃には運河の汚れがひどく一時は埋立ての話もあった。それでも市民の保存の努力が実った。それには運河の風景をとらえた「寅次郎相合い傘」の力もあったのではないか。〉

 これも寅さんの功徳である。

寅さんについて──『「男はつらいよ」を旅する』をめぐって(2) [われらの時代]

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 著者の川本三郎と寅さんの旅をたどる前に、寅さんがどういう人物だったかを、本書から抜きだしておこう。
 寅さんはテキヤである。
「男はつらいよ」はもともとテレビドラマで、寅さんをテキヤにするのは、企画に参加した渥美清自身の考えだったという。
 当時は東映やくざ映画の全盛期。

〈東映やくざ映画の男たちがまなじり決し、深刻な顔をして戦うのに、寅さんは、ここぞというところでころぶ。挫折する。負ける。そこが愉快だった。〉

 川本はそう書いている。
 映画のなかで、寅さんは自分の父親はたいへんな「女道楽」で、へべれけのとき、芸者とのあいだでおれをつくったと語っている。もうすこし、まじめにやってほしかったというのが笑える。
 腹ちがいの妹、さくらがいる。
 第1作で、寅さんが20年前(高校生のころだろうか)父親と喧嘩をして、家をおんでて、そのうちテキヤになり、日本全国を放浪していたことがあかされている。
 そのあと両親が亡くなり(実母は長生き)、商売の団子屋は父親の弟(おいちゃん)が継いで、おばちゃんといっしょに、さくらを育ててくれた。
 かたぎの仕事につこうと決心することもあるが、長続きしない。けっきょくテキヤ商売に舞い戻る。
 テキヤはほとんどが旅の空ですごす。だが、寅さんのふるさとは、いつでも葛飾柴又。柴又に戻ってきては、ひと騒ぎおこすのがいつものパターンだ。
 ともかく女にほれやすい。そして、ふられて、意気消沈し、また旅にでる。
 女にたいしては純情としか、いいようがない。とくに、かたぎの女性には意気地がない。
 初期の寅さんは、威勢がよくて、けっこう暴れん坊だった。警察のやっかいにもなっている。
 寅さんは自由人だ。そして、人情家でもある。まわりの人を幸せにしたいと願っている。それが時に突飛な行動、とんちんかんな行動を引き起こす。
 妹さくらのお見合いの席を盛り上げようとして、下品なギャグを連発し、相手のひんしゅくを買い、縁談を台無しにしたりもしている。
 その結果、さくらと隣の印刷工場ではたらく博が結婚するのだから、なにが幸いするかわからない。
 だれもが勤め人になり、役所や企業のなかで、黙々と仕事をするのが一般的になるつつある時代、寅さんはもはや稀少な人間として、(テキヤというのが不適切なら)昔かたぎの移動式独立自営業をいとなんでいる。
 おなじみの立て板に水の口上からしても、寅さんは超一流のテキヤだとわかる。
「四角四面は豆腐屋の娘、色が白いが水くさい。四谷、赤坂、麹町、ちゃらちゃら流れるお茶の水、粋な姐ちゃん、立ちションベン」
「黒い黒いは、なに見てわかる。色が黒くてもらいてなけりゃ、山のカラスは後家ばかり」
 名調子である。
 テキヤは旅する芸人だといってもよい。だが、くらしの厳しさ、わびしさはつきものだ。いつどこで行き倒れになるか、わからない。ニコニコしていても、どこかさびしさをかかえている。
 それでも、寅さんには人をひきつける磁力のようなものがある。気がいいから、みんなほっとするのだ。だから、豪邸に住む高名な画家も、女房に逃げられたサラリーマンも、仕事がいやになったサラリーマンも、わけありの女たち、あまりにも忙しい毎日にくたびれてしまった人気女性歌手も、かれのところに寄ってくるのだ。そんなとき寅さんはまるで、純朴な子どものようにみえる。寅さんもけっこう人に甘えている。
 著者もこう書いている。

〈寅が、気ままな風来坊だからだろうか、「男はつらいよ」には、お決まりの日常生活が息苦しくなった人間たちが、蒸発、失踪して寅と共に旅の空に、いっとき、行方をくらましてしまう話がよくある。日本人の世捨人願望があらわれている。本来、定住者である者が寅のような放浪の人間に憧れる。〉

 映画をみると、だれもがバカだなあと思いつつ、寅さんと旅の空をいっとき楽しんで、ほっとした気分になるのは、映画の効用である。
 映画をみる前と、映画をみたあとでは、気分が変わっている。
 大人のおとぎ話かもしれない。しかし、それでいいのだ。
 吉行淳之介にいわせれば、寅さんは「主観と客観の落差の烈しい人物」だという。映画の観客は、寅がまたあんなことを言って、とハラハラする。そして、最後はやっぱり「ばかだねえ」と笑う。
 威勢のよい啖呵を切るわりに、寅さんは喧嘩にはまるで弱い。
 本人は二枚目のつもり。その落差が笑いをさそう。
 渥美清なくしては、寅さんは存在しない。
 そして、寅さんは家族思いでもある。妹のさくらにたいしてだけではない。おいちゃん、おばちゃんにも恩義を感じている。
 シリーズの後半では、さくらの子どもで、自分と似てだめなところの多い満男をいつもかばっている。満男の恋の指南役もつとめる。
 どこがとんちんかんだが、けなげでもある。
 満男は「社会を否定しているおじさんが羨ましい」という。

〈それを聞いた母親のさくらは、満男をきつくとがめる。「おじさんは社会を否定しているんじゃなくて、社会に否定されているのよ」。確かに一人息子が寅のような風来坊になったら、母親はたまらない。〉

 さくらの分析はおかしいが、笑いたくても笑えない。
「渡世人の自由きままさと、いつ倒れるかわからない無常感は隣り合っている」と川本も書いている。
 最後の作品「寅次郎紅の花」では、寅さんは奄美の加計呂麻島で、どさ回りの歌姫リリーと暮らしている。
 渥美清の体調は、見るのも気の毒なくらい悪化していた。
 この映画を撮り終えた翌年、渥美清は亡くなる。
 ロケ地には、山田洋次監督の言葉が刻まれているという。

〈寅さんは居なくなったのではない。我等が寅さんは、今も加計呂麻島のあの美しい海岸で、リリーさんと愛を語らいながらのんびり暮らしているのだろう──きっとそのはずだ、とぼくたちは信じている。〉

「男はつらいよ」シリーズは50作まで予定されていたという。
 甥っ子の満男がようやく初恋の泉と結婚し、寅さんは幼稚園の用務員になり、かくれんぼうをしている最中になくなる。そして、町の人は寅さんの思い出のために地蔵をつくるというのだ。
 さびしい終わり方だが、いかにも風来坊の寅さんらしいかもしれない。
 しかし、映画は最後まで撮影されなかった。
 実際の最終作は48作までだ。
 それでもこの作品で、大震災被災地の神戸や、奄美の加計呂麻島を訪れる寅さんには、聖者の風格すら感じられると言ってもよいのではないか。
 それは畏れ多く、かしこまる聖者ではなく、笑われ、愛される聖者である。
 だれでもが知っていて、親しみやすく、慈愛に満ちた寅さんは、最後に、大きな悲しみや苦労を背負う人たちをはげましながら、舞台を去っていった。
 ぼくには、そんなふうに思える。
 そんな寅さんを演じた渥美清は、やはり不世出の役者だった。

川本三郎『「男はつらいよ」を旅する』をめぐって(1) [われらの時代]

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 渥美清主演の「男はつらいよ」は1969年から95年にかけて、48本つくられた。監督は2本を除いて、山田洋次。第3作を森崎東、第4作を小林俊一が監督をしている。
 もちろん「男はつらいよ」はみた。しかし、48本のうち、せいぜい4、5本くらいだから、とても寅さん好きとはいえない。
 とくに会社に勤めはじめ、結婚してから映画を見る機会はほとんどなくなってしまった。「男はつらいよ」も、仕事の待ち時間にみた1本を除いて、72年以降の作品はまったくみていない。
 最近は少しひまができ、アマゾンプライムで、ときどき映画をみるようになった。たまたま第1作の「男はつらいよ」をみたが、意外とおもしろかった。寅さん若くて、威勢がよい。
 3900円の年会費を払えば、アマゾンプライムでは膨大な数の映画を無料でみることができる。「男はつらいよ」も48本全部がリストにはいっている。
 第1作を見て、おもしろかった(というより懐かしかった)せいか、たまたま本屋に並んでいた寅さん本を買ってしまった。
 それが本書である。
 はじめにこう書かれている。

〈「男はつらいよ」は旅の映画である。
 渥美清演じる寅は、日本各地を実によく旅している。北海道から沖縄まで例の古ぼけたトランクをささげ、たいていは雪駄履きで日本の町や村を歩く。……
「男はつらいよ」を見ると、寅が歩いた町に出かけたくなる。いっとき寅のような自由な風来坊になりたくなる。
 本書は寅が旅したさまざまな町を辿ったシネマ紀行文集である。〉

 それで、思わず買ってみたという次第だ。
 最初に寅さんが、どれほど旅していたかを、本書から抜きだしてリストアップしてみた。
 著者は、そのほとんど全部を訪ねている。
 製作年、タイトル、相手役の女性とともに、映画で寅さんが訪れた場所を記してみた。書き落とした場所もあるだろうし、実際はもっと多くの場所を寅さんは訪れているはずだ。しかし、とりあえず、だいたいの旅のイメージを思い起こしてもらえばいい。

1 男はつらいよ(1969年)光本幸子[柴又(以下毎回)、奈良]
2 続・男はつらいよ(1969年)佐藤オリエ[金町、京都]
[以下、タイトルの「男はつらいよ」は略]
3 フーテンの寅(1970年)香山美子[奈良井宿、鹿児島、湯の山温泉]
4 新・男はつらいよ(1970年)栗原小巻[名古屋
5 望郷篇(1970年)長山藍子[小樽、札幌、浦安]
6 純情篇(1971年)若尾文子[長崎、福江島(五島)]
7 奮闘篇(1971年)榊原るみ[越後広瀬、沼津、津軽]
8 寅次郎恋歌(1971年)池内淳子[高梁(岡山)]
9 柴又慕情(1972年)吉永小百合[金町、金沢、永平寺]
10 寅次郎夢枕(1972年)八千草薫[奈良井宿、甲斐路]
11 寅次郎忘れな草(1973年)浅丘ルリ子[網走]
12 私の寅さん(1973年)岸恵子[中川、天草、別府
13 寅次郎恋やつれ(1974年)吉永小百合[温泉津(島根)、津和野]
14 寅次郎子守唄(1974年)十朱幸代[金町、呼子(佐賀)]
15 寅次郎相合傘(1975年)浅丘ルリ子[八戸、函館、小樽]
16 葛飾立志篇(1975年)樫山文枝[金町、中川、寒河江]
17 寅次郎夕焼け小焼け(1976年)太地喜和子[龍野]
18 寅次郎純情詩集(1976年)京マチ子、檀ふみ[別所温泉(上田)]
19 寅次郎と殿様(1977年)真野響子[大洲(愛媛)]
20 寅次郎頑張れ!(1977年)大竹しのぶ、藤村志保[金町、平戸]
21 寅次郎わが道をゆく(1978年)木の実ナナ[田の原温泉(熊本)]
22 噂の寅次郎(1978年)大原麗子[木曽路]
23 翔んでる寅次郎(1979年)桃井かおり[支笏湖]
24 寅次郎春の夢(1979年)香川京子、林寛子[和歌山、京都]
25 寅次郎ハイビスカスの花(1980年)浅丘ルリ子[沖縄]
26 寅次郎かもめ歌(1980年)伊藤蘭[奥尻]
27 浪花の恋の寅次郎(1981年)松坂慶子[大阪、生駒山]
28 寅次郎紙風船(1981年)音無美紀子、岸本加世子[鳥栖(佐賀)、夜明(大分)、原鶴温泉(福岡)、久留米、秋月]
29 寅次郎あじさいの恋(1982年)いしだあゆみ[京都、豊岡、丹後伊根]
30 花も嵐も寅次郎(1982年)田中裕子[湯平温泉、臼杵(大分)]
31 旅と女と寅次郎(1983年)都はるみ[佐渡、出雲崎(新潟)、羊蹄山]
32 口笛を吹く寅次郎(1983年)竹下景子[高梁、総社(岡山)]
33 夜霧にむせぶ寅次郎(1984年)中原理恵[釧路、霧多布]
34 寅次郎真実一路(1984年)大原麗子[土浦、牛久沼、筑波山、鹿児島]
35 寅次郎恋愛塾(1985年)樋口可南子[五島列島]
36 柴又より愛をこめて(1985年)栗原小巻[会津、伊豆式根島]
37 幸福の青い鳥(1986年)志穂美悦子[中川、新小岩]
38 知床慕情(1987年)竹下景子[知床]
39 寅次郎物語(1987年)秋吉久美子、五月みどり[常総(茨城)、大阪]
40 寅次郎サラダ記念日(1988年)三田佳子[小諸、上田]
41 寅次郎心の旅路(1989年)竹下景子[栗原(宮城)、ウィーン]
42 ぼくの伯父さん(1989年)後藤久美子、檀ふみ[小城(佐賀)、袋田(茨城)]
43 寅次郎の休日(1990年)後藤久美子、夏木マリ[日田、天ヶ瀬温泉(大分)]
44 寅次郎の告白(1991年)後藤久美子、吉田日出子[木曽路、倉吉]
45 寅次郎の青春(1992年)風吹ジュン[油津、飫肥(宮崎)]
46 寅次郎の縁談(1993年)松坂慶子[瀬戸内海]
47 拝啓車寅次郎様(1994年)小林幸子、かたせ梨乃、牧瀬里穂[長浜]
48 寅次郎紅の花(1995年)浅丘ルリ子[津山、勝山(岡山)、加計呂麻島(奄美)]

 じつに足かけ27年。
 ぼくの人生に重なる。
 映画はほとんど見ていないのに懐かしい気分に誘われる。そのなかには、きっとだれにとっても、故郷に近い場所、あるいはいつか旅した場所が含まれているのではないだろうか。
 ぼくにとっては、やはり母の実家があった播州龍野(たつの市)が懐かしい。
 渥美清が亡くなってから、もう20年以上たつ。時の流れは早いものだ。
 寅さんの映画には時代と場所、人がえがかれ、保存されている。
 東京をはずれた、観光ともさほど縁がなさそうな、いなか町の様子をみていると、日本のよさは、ほんとうはこんなところに残っているのではないかと思ってしまう。
 大都市の中心街や観光地に背を向けて旅する人は、近代やポスト近代への懐疑論者でもあるのだ。
 ごたくを並べすぎた。
 本書を読みながら、寅さん映画をふり返ってみたい。

マーシャル『経済学原理』を読む(1) [経済学]

 例によって、ツンドク本の整理である。
 若いころに買った本がたまっている。
 友人にいわせると、買いこんだ本は5冊に1冊読めればいいほうで、読めなかった本は、ときどき本棚を眺めて、感慨にふければ、それでじゅうぶんだという。
 たしかに、そうかもしれない。
 しかし、引っぱりだしついでに奥付をみると、1979年8月20日の第14刷になっている。
 買ったのは少なくとも35年以上前のことだ。
 たぶん、あのころは経済学を勉強しようと思っていたのだ。
 しかし、サラリーマン生活の多忙にまぎれて、とうとう読まずじまいで、ここまで(人生の最終ラウンドまで)きてしまった。
 ツンドク本になってしまったのは、おそらく理由がある。
 いきおいこんで買ったものの、まったく歯がたたなかったのか、身過ぎ世過ぎにまかせて、興味を失ってしまったのか。それとも、買っただけで、読んだ気になってしまったのか。
 まあ、何はともあれ、身辺整理のつもりで、本棚からこの本(4分冊)をとりだしてみた。
 ざっと目をとおすだけにしても、はたして読み切ることができるか、はなはだ心もとない。それに、こちらは経済学のシロウトときている。
 学問的なレベルは期すべくもない。ただ、興味本位に読むだけである。
 訳者は馬場啓之助で、その解題によると、アルフレッド・マーシャル(1842-1924)はロンドンで生まれ、マーチャント・テーラーズ・スクールをへて、ケンブリッジ大学に進んだ。父親はイングランド銀行の出納係だった。数学の才能に恵まれ、大学では倫理学を学び、徐々に経済学に興味をもちはじめる。
 1879年に『外国貿易と国内価値の純粋理論』、1882年に妻との共著『産業経済学』を公刊、1885年にケンブリッジ大学の政治経済学教授に就任する。
 就任講演の一節はいまもよく知られている。
「経済学者は冷静な頭脳と温かい心を持たねばならない」
 1881年から執筆をはじめた『経済学原理』は1890年に出版された。1908年には健康悪化のため教授職を退く。しかし、その後も経済学の研究をつづけた。ピグーやケインズはかれの弟子である。
『経済学原理』は原著で800ページ。日本語の翻訳で約1300ページ。数学の付録もついている。
 構成は全6編。

 第1編 予備的な考察
 第2編 若干の基本的概念
 第3編 欲望とその充足
 第4編 生産要因 土地・労働・資本および組織
 第5編 需要・供給および価値の一般的関係
 第6編 国民所得の分配

 マーシャル自身は1890年に出版された『経済学原理』を第1巻と考えていた。
 予定していた第2巻、第3巻はついに刊行されることがなかった。
 第2巻、第3巻は、産業と商業、金融の歴史と現状、それに将来について論じるはずのものとなるはずだった。
 その構想の一部は、1919年刊の『産業と貿易』、および1923年刊の『貨幣、信用、および商業』に結実している。
 ぼく流にいえば、マーシャルは商品世界の仕組みについて論述しようとしたといえる。
 マーシャルは、自分の仕事をスミスやリカード、ミルの延長上にあると考えていた。そこには国家という重要な要因が欠落しているが、のちに弟子のケインズは、その欠落を補う仕事をすることになるだろう。
 初版の序文で、マーシャルはこう書いている。

〈イギリスの伝統にしたがって、著者は経済学の職分は経済的事実を収集・整理・分析することであり、観察と経験から得た知識を応用して、種々な原因の短期および究極の結果はどうであろうかを判断することであるとの見解をとり、また経済学の法則は直説法で表示された諸傾向に関する命題であって、命令法による倫理的戒律ではないとの見解をとった。経済法則および推論は、良心および常識が実際的問題を解決し、生活の指針となるような規則をたてるにあたって活用すべき材料の一部にすぎないのである。〉

 ここでは政治にたいし、一歩距離を置く立場が表明されている。おうおうにして命令ないし戒律といった形態で経済を動かそうとする政治にたいし、経済が政治の思いどおりにならないのは、経済には経済の仕組みがあるためである。
 政治が経済に作用をおよぼそうとし、じっさいに作用をおよぼしたようにみえても、経済はその仕組みによって同時に反作用をもたらす。したがって、その仕組みを理解しないまま加えられた政治の作為は、長期的にはかえって災厄すらもたらすことがある。
 マーシャルは、そのことをよく理解していたといえるだろう。
 ところで、シュンペーターはマーシャルについて、『経済分析の歴史』のなかで、こんなことを書いている。

〈読者はマーシャルにおいて、単に高性能の経済学の専門技術家、深遠な学識をもつ歴史家、説明的仮説の確乎たる形成者のみならず、なかんずく一個の偉大な経済学者そのものを看守されるであろう。経済理論の技法に関するかぎり、……彼は資本主義過程の動きをよく理解していた。ことに彼は、同時にみずからも実業家であった科学的経済学者を含めた、その他の科学的経済学者の多数そのものよりも、よりよくビジネス、ビジネス問題、およびビジネスマンを理解していた。彼は自らが定式化した以上にさえ深く経済生活の切実な有機的必然性をも感得していた。〉

 シュンペーターが、とりわけ評価したのは『原理』の第5編「需要・供給および価値の一般的関係」の考察である。同時にシュンペーターは、マーシャルの本質は、晩年の『産業と貿易』と『貨幣、信用、および商業』を抜きにしては把握できないとも述べている。
 ここでは、マルクスの資本家と労働者の階級対立図式とはことなる企業論、すなわち経営者とビジネスマンの問題が考察されているとみてよい。シュンペーターはそこにマーシャルの現代性をとらえたのだった。
 日本では近代経済学の体系は、主としてワルラスとシュンペーターを通じて導入されたといわれる。そして、そのあとケインズの時代がつづいた。だから、どちらかというとマーシャルはさほど読まれなかった。
 ぼくがマーシャルを読むのは、学者的な興味からではなく、たまたま何かの拍子で、この本を買ってしまい、そのまま本棚に眠っていたからにすぎない。
 柳田国男の信奉者でもあるぼく自身は、商品世界に大きな懐疑をいだいている。とはいえ、渋沢栄一論で書いたように、日本の近代化に資本主義が貢献したことを認めないわけにはいかない。だが、それは矛盾した表記ではなく、ものごとのもつコインの裏表なのだ。
 マーシャルの『原理』を読むということは、商品世界の仕組みを理解し、それがもたらした裏面をも認識することにほかならない。そして、それは倫理的要請によってなされるのではなく、経済的・社会的・文化的事実を知ることにつながると考えている。
 そう書いてみたものの、この先ははなはだ心もとない。はたして、どうなりますやら。

『不道徳な見えざる手』を読む(5) [商品世界論ノート]

 なぜ多くの人が広い意味でのフィッシングに引っかかるのだろうか。
 自由市場が豊かさを生みだしたのはまちがいない。しかし、自由市場にも裏面がある、と著者(たち)はいう。だから、予防策なり対策が必要なのだ。
 政府は自由市場の過剰にたいし、有効な重しとなるというのが、1970年代までの合意だった。ところが、レーガン政権以降、政府こそが問題だという考え方がでてきた。著者は、そうした考え方こそがインチキだという。
 社会保障の有効性は否定しがたい。アメリカでは、1959年に65歳以上の人の貧困率は35.2%だった。それが1975年には15.3%に減った。年金収入がなくなると、65歳以上の貧困率は一挙にはねあがるだろう。
 失業保険や健康保険が、生活の不安を軽減していることはいうまでもない。
 しかし、2004年にブッシュ政権は社会保障システムの改革を打ち出した。社会保障の民営化によって、予算を節減しようというわけだ。とりわけ、アメリカではメディケア、すなわち医療費問題が悩みのタネになっている。
 そうした社会保障の見直しが、貧困率を高める一因になっている。
 政府には金融コントロールするという役割が課せられている。
 証券規制もそうした政府の役割である。アメリカには証券取引委員会(SEC)がある。しかし、予算が不足しているため、じゅうぶんな規制をおこなえないでいるのが現状だという。
 現在の選挙資金規制法も、じゅうぶんではなく、言論の自由を保証するものではない、と著者はいう。膨大なカネが動く選挙運動やロビー活動に、じゅうぶんな規制がなされていない。
「そんなに豊かでない他の人々の声をかき消せるような巨大な拡声器を持ち出せるだけのリソースを持った人々には、ある程度の制限を加えなければならない」。著者が支持するのは、政治献金を個人献金にかぎり、しかも、それをごくわずかの金額にしぼるというものだ。
 市場と民主主義は、とかく礼賛されがちだ。
 これにたいし、「市場と民主主義のよい面だけを考慮せずに、悪い点も考慮しなければならない」と、著者は訴える。
 くり返しになるかもしれないが、著者は「あとがき」で、市場はそれ自体が諸刃の剣だと語っている。
 市場が不健全な状態になるのは、けっして外部性によるわけではなく、市場がほんらいもつ性格によるのだ、と。
 人びとがほんとうに求めるものと、人びとが自分がほしいと思っているものとは異なる、と著者はいう。
 これは経済学でいう「顕示選好」の概念をくつがえす考え方である。
 顕示選好とは、消費者が予算の範囲内で、自分にとっていちばんよいものを選ぶという考え方である。
 しかし、それが実際とは異なるとは、いったいどういうことなのだろう。
 消費者はいわばカモとして、イメージづけられた、言いかえれば物語を埋めこまれた商品を買わされている、と著者はみる。それは消費者がほんとうに求めるものとは異なっている。著者がフィッシングはいたるところにあるというのは、そのことだ。
 本書の結論部分には、こう書かれている。

〈かなり自由な市場を持つ現代経済は、先進国に暮らす私たちにはこれまでのあらゆる世代がうらやむ生活水準をもたらした。でも、自分をごまかすのはやめよう。それはまた、カモ釣りももたらす。そしてそれもまた、私たちの厚生にとっては重要なのだ。〉

「厚生にとっては重要なのだ」という最後の部分がよくわからない。
 厚生とはwelfareのことだろうか。だとすれば、豊かさや幸せと解釈してもよい。
 最後の一文は、私たちはカモにされることで、豊かさや幸せを奪われていると理解すればよいのだろうか。
 著者のねらいは、バブル均衡の経済学を考えることにあると思われる。つまり、バブルやブーム、そしてその崩壊と消滅を射程にいれなければ、現実の経済は理解できない。いままでのミクロ経済学は、市場をあまりにも調和的に考えてきた、というのが著者の見方のようである。

『不道徳な見えざる手』を読む(4) [商品世界論ノート]

 自由市場に利点があることは著者(たち)も認めている。だからといって、それを称賛するわけにはいかない。欠点もあるからだ。
 新しいアイデアが新しい商品(製品やサービス)を生み、消費者の選択肢が増え、そのなかで利潤を生むものが、商品として生き残っていく。
 商品の広がりには、資本や技術(発明)、それに労働生産性の上昇が関係してくる。
 商品が拡大すれば、経済成長につながる。
 しかし、どんな発明(新商品)も、すべてすばらしいというわけではない。「一部の発明にはよい点だけではなく悪い点もある」と、著者はいう。
 たとえばフェイスブックは、人びとに交流の場を提供する。だが、それに振り回されてしまうことはないだろうか。
 自分の記事を投稿すると、どれだけ「いいね!」がもらえるかが気になり、それが少ないといらだったりする。
 そのうち、フェイスブックで「いいね!」が多くもらえるように、情報を集めたり、記事を書いたり、友達を増やしたりするようになる。
 そうこうするうちに、すっかりフェイスブックづけになってしまっている。
 どっぷりつかってしまうのは、携帯やパソコンテレビだっておなじだろう。
 最近は、いろんな制度が発明される。
 たとえば、日本の大学入試センター試験(それを受けるにはおカネがかかるのだから、りっぱな商品だ)。
 こうした入試のためのランキング制度が、はたしてすばらしいのか、大いに疑問の余地がある。
 高いランキングを獲得した者は「自己満足」するかもしれない。
 だが、その副作用は大きい。
 次は依存症の話。商品には依存症がつきものだ。
 たとえば、たばこ、酒、ドラッグ、ギャンブル。
 たばこの害がいわれるようになったのは1950年代になってからだ。たばこを吸うのは、長いあいだ、かっこいいことと思われていた。
 紙巻きたばこ機が発明されたのは1880年代だ。
 はじめ、紙巻きたばこの消費量はさほどでもなかった。それが次第に増えて、なかには一日じゅう、たばこが手放せない人がでてくる。
 それにともない、肺がんの死者も増えていった。
 たばこと肺がんの関係については、因果関係が明らかにされた。しかし、長いあいだ、たばこ会社は、たばこでがんが生じることは証明されていないと反論していたものだ。
 たばことがんをめぐる論争は、50年にわたりつづけられた。
 いまでは、アメリカでも日本でも、オフィスや公共の場での喫煙禁止はあたりまえとなった。
 喫煙が有害であることに疑問の余地はない。
 しかし、たばこ会社はいまでもたばこを宣伝しつづけている、と著者はいう。
 アルコールの害もひどい。ところが、酒はたばことちがって、少しなら、からだにいいとされている。
 この少しがくせものだ。
 アルコール依存に悩む人は多い。
 深酒は人格を変え、人を傷つけ、健康を損ない、人生を台無しにする。
 ビールやワイン、その他の酒の生産者、小売店、レストランは、もちろん酒の需要がもっと増えることを願っている。もっと多くの人に、飲酒の習慣が広がることに期待を寄せている。だから、酒税を上げることには反対だ。
 飲酒運転にたいする罰則は、さすがに強化された。
 アメリカでは飲酒年齢を21歳に引き上げる動きもある。それでも、市場で酒が容易に入手できることが、飲み過ぎてしまう人をつくっている、と著者は嘆く。
 次に紹介されるS&L(貯蓄貸付組合)は、日本ではなじみではないので、さほど詳しくみる必要はないかもしれない。ごく簡単にすませるつもりだが、まったく無縁というわけではない。
 かずかずの金融商品は、最近になってつくられたものが多い。
 アメリカ人はS&Lに小口のおカネを預け、家や自動車を買うための融資を受けていた。そのS&Lが1986年から95年にかけ、危機におちいった。
 S&Lの歴史はアメリカ版不動産バブルの歴史と重なる。ファイナンスの異常な突出とその瓦解。そして、多くの人がそれに振り回された。
 1970年代、80年代以降、アメリカでは企業乗っ取りが盛んになった。
 ジャンク債を通じて、レバレッジド・バイアウトをおこない、ちいさな会社が大きな会社を買ってしまうのだ。
 マイケル・ミルケンは80年代に、ジャンクボンドの帝王として知られるようになった。ミルケンは格付けが低く、配当の高いジャンクボンド(ハイイールド債)に投資して、大きな利潤をたたきだした。
 このあたりの仕組みは、しろうとのぼくにはよくわからない。ミルケンが注目されたのは、このジャンクボンドの収益を利用して、企業乗っ取りをはじめたことだ。
 乗っ取りは既存の無能な経営者をたたきだし、企業を繁栄に導くという意見もある。だが、そのいっぽうで、有能な経営者を追い出し、従業員の労働条件を悪化させることだって考えられる。
 1989年、ミルケンはインサイダー取引と脱税幇助の疑いで逮捕された。
 ミルケンは、たしかにジャンクボンドをつくりだし、企業買収を推し進めた。だが、それによって、資産バブルを引き起こし、あげくのはてに経済を破壊する疫病を生み出したのだ、と著者は論じている。
 疫病の蔓延を防ぐには大胆な対応が必要になってくる。
 1929年のウォール街大暴落への対応は、あまりにも小規模で遅かった。
 これにたいし2008年の大暴落にさいして、世界の金融当局と中央銀行はすぐさま介入した。それによって、少なくとも世界はふたたび暗黒時代におちいらないですんだ。
 金融崩壊が起こりそうなときは、すばやい公的介入が必要だ、と著者は断言する。
 自由市場は危険市場でもある。しかし、それでも自由市場が存続しているのは、いっぽうでその危険に対処しようとする人びとがいるからだ、と著者はいう。
 たとえば、自動車や飛行機は危険な商品だ。それでも、その安全を守るために、常にさまざまな工夫がこらされ、現在にいたった。
 それは、すべての商品に関していえることだ。
「自分が買う財やサービスや資産の品質を自分で計測できるとき──あるいはそうした品質を性格に格付できて、人々がその性質や格付を理解できているとき──みんなはだいたい期待どおりのものを手に入れられる」。
 それは、商品(財やサービス)を選ぶときの最低基準だ。
 しかし、そのためには、商品の安全性が確保されなければならない。
 暴走しやすい自由市場にたいし、安全性というブレーキをかける人びとが存在することによって、はじめて自由市場は──言い換えれば現代社会は──はじめて存続可能になる、と著者はいう。
 著者は、そうしたブレーキ役のひとつとして、たとえば食品医薬品局(FDA)や国立標準技術研究所を挙げている。
 国立標準技術研究所は商品の標準化、格付け、認証などの仕事をおこなっている。ほかにも、商品の安全性を確保するための機関が多々設けられている。
 こうした標準化と安全性のシステムがあってこそ、商品ははじめて安心して使用できるものとなるのだ。
 アメリカでは消費者団体の総合組織、消費者連合(CFA)が大きな役割を果たしている。こうした団体は、商品の価値や安全を守るうえで欠かせない、と著者はいう。
 全米消費者連盟(NCL)は、1899年にフローレンス・ケリーによって創設された。この連盟が、商品だけではなく、商品を生みだす工場の労働条件も検査して、その検査に合格した製品だけに「白ラベル」を発行する仕組みをつくりだしたことは画期的だ、と著者は高く評価している。
 アメリカには消費者からの苦情を受け付けるベタービジネスビューロー(BBB)という組織もある。日本でいえば、消費者センターのようなものだろう。
 業界のなかにも、業界の規範を守るための団体が存在する。各地の商工会議所もビジネス倫理を推進する役割を果たしている。
 政府や裁判所、議会の責任が大きいことはいうまでもない。政府と裁判所は法にもとづいて、詐欺やフィッシング、不当行為、経済的被害などに対処しなければならない。議会はまた、新たな経済的問題に対処するために新たな立法をおこうなう重要な責務を担っている。
 最近は規制緩和の議論が盛んである。規制はたしかに制約を加える。しかし、全体としてみれば、公共のためになっているという意見も見落としてはならない、と著者はいう。規制はなくせばよいというものでもないのだ。
「私たちは、道徳コミュニティは不可欠であり、その中に個人行動の自由市場が置かれるべきだと論じたい」
 著者はそう述べている。
 自由市場は、その市場をチェックし、暴走を阻止する装置があって、はじめて成り立つ、と著者は考えている。

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