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時代の思想家 [われらの時代]

いつも飛ばし読みしかしないのだけれど、吉本隆明という人はきらいではない。時代の思想家というのが、いつわらざる印象で、この時代をかれがどうみているかが、ときどき気になる。大衆の視点というと大げさだけれど、時代や思想の局面に、エライ人よりも、ふつうの人の見方を取り入れているところが、吉本さんのいいところだと思う。
『貧困と思想』、これも船橋中央図書館で見つけた本。奥付をみると2008年で、3刷になっているから、いまでもそこそこ売れているのだ。
ニートやフリーターと呼ばれる人が多くなり、格差社会が叫ばれるいまの時代を吉本さんはどうとらえているのだろう。
〈[いまの若者は]本当の意味で貧しい育ち方をしてきたわけじゃないから、本当の問題は貧困というより、何か人間の精神的な抵抗力が弱くなってしまったことにあるのかもしれません〉
こういわれると、何だか年寄りのぼやきのように受けとめられかねないが、その背景には「現代社会における現実のしんどさと前途への不安」が横たわっていることはたしかだ。こんな時代を乗り切るには、賢明さと懸命さ、覚悟が必要なのは言うまでもないだろう。
この発言集で、ぼくがおもしろかったのは、かれの小難しい思想というより、戦前から現在にいたる生き方や考え方だった。
たとえば、戦争中は「軍国主義少年」だったとはっきり認めていて、「現人神である天皇のために死ぬのが一番純粋」だと思いつめていたという。アジアを西欧から解放し、疲弊する農村を救済するのは正しいと信じていた。だからといって、まわりの愛国団体に加わることはなかった。のちに、吉本は天皇というのは「神主さんの大元締め」だという見方に到達している。
戦後は急進的な労働運動を組織する。総評なんかに行ってもカネを貸してくれないので、会社に内緒で石鹸をつくり、それを闇で流してみんなの生活を支えていた。共産党や社会党はまるであてにしていないところがいい。
アメリカという国には「かなわねえ」という感じをいだいていおり、「一からやり直す以外に日本というのは駄目だよ」と思っていたという。
安保のときも、党派や団体に同調したからではなく、自分の判断で反対闘争に参加している。全学連の学生といっしょに行動して、警官に包囲され、塀を越えて逃げた。すると塀の向こうの庭にも警官がいて、逮捕される。「これは大失敗でね」と認めている。
自分のことは、その時々の情勢いかんによって動く「庶民的知識人」だとみている。
〈半分は庶民的な普通の人っていう言い方をしているのです。つまり、いい方にも行くし悪い方にも行く。自由にのびのびと時代時代でやるっていう、庶民的なごく普通の人ですね。そういう人には半分は肯定的ですね。僕は今でもこう見てればいいと思っている。バブル経済時代に中流の下の人々がどうなるか。産業で言えば中小企業とか個人企業、知識人で言えば、個人としての知識人と学者としての知識人、政治家としての知識人というのがあるとすれば、個人としての知識人がどう考えているのか、ということが今でもとても重要なのであって、そこが主眼となる〉
戦争には「正義」の戦争もなく、「侵略戦争」もなく、すべての戦争は悪だと考えている。だから「[憲法9条の]非戦条項というのは、これが戦争でもって唯一手に入れたものだと言ってもいいくらい大切なもの」だというのも、筋がとおっている。
60年代の終わりには『共同幻想論』を書いているが、ぼくらはレーニンとはちがう国家論として読んだものだ(いまではさすがに違和感がある)。
そして70年代。吉本はペットボトルで水が売られるようになってから、古典経済学が終わって、資本主義が大転換していると感じたという。しかし、発想の軸は変わらない。
〈僕が一番関心を持っている中産階級の中以下の産業とか個人産業とか、肉体労働者はどうなっていて、そういう人たちがどういう不平と格差に対する思いを持っているか。それに対してどういう方策を講じてやってるのかという問題が是非とも必要だと思って、僕自身はそれを考えているんです〉
また、こんなことも言っている。
〈産業革命当時は金持ちは自分たちの利益だけ考えるから、大都市の労働者は流行病みたいに肺結核になっていった。……今で言えば、中小企業以下は困っているじゃないかと言っても駄目なのですよ。かつての肺結核に該当するのは、精神病なんです。みんな精神障害になって、専門家は何も言ってくれない〉
こういう発言をみると、支離滅裂のようにみえて、どきっとする。
そして80年代以降。このころから吉本は社会の決定要因が生産・労働の場から消費の場へと移ったと考えるようになる。
消費社会論といえばボードリアールの名が浮かぶが、吉本の評価は意外なところにある。
〈僕が彼をどこで評価していたのかというと、全然違うのです。あの人はね、その時からイスラム教への完全な洞察を持っていたのです。これからイスラム教勢力が台頭してくるよ、ということをその時から言っていたのだけれども、僕は考えもしなかったなと感心した〉
そのほか、この発言集ではいろんなことを話しているが、最後に2008年時点の状況については、こう話している。
〈ここ3、4年、日本社会は表面ではなく底の方で地殻変動を起こしている過渡期にあると僕はとらえています。どういうふうに変動しているかと言いますと、西欧先進国型の社会に向かっている。……僕はこれを「第2の敗戦期」であると考えています。つまり、敗戦直後の数年間と非常に似ているという感じ方もあるし、一般的には「第2の産業革命期」という言い方もありますね〉
この発言をどうとらえるかは人さまざまだろう。しかし、この本を読んで思うのは、吉本隆明という人がいつも時代を映して、ミラーボールのように何かを発信しているということだ。
竹中労がいた [われらの時代]

以前、このブログで「われらの時代──1970年代論」という連載を書こうと思い、はじめてはみたものの、あっというまに挫折。いまでも、できればまとめてみたいという気持ちは残っていますが、テーマが大きすぎるので、たぶん無理だろうな。せめて〈1970年代を読みとばす〉みたいなことができるといいんですけどね。
何をやっても3日坊主。やりちらかし。このブログもお天気のようで、実にテーマがばらばらです。でも、ブログがいいのは、その日の思いつきで、あとさき考えないで、ふと思ったことをメモできることかもしれません。
この前、船橋中央図書館をぶらぶらしていたら、本棚に「竹中労」特集があるのを見つけました。おおなつかしいと、思わず手にとってみます。ぱらぱらとめくってみると、対談あり、エッセイあり、思い出話ありの何だか雑然とした本で、あまりできがいいとは思いません。
でも、竹中労という人は、こういう雑然とした雰囲気のなかにいた人だったかもしれません。ぼくが学生時代に雑誌で竹中労のルポや雑文を読んだのも、友達の下宿でごろごろしながらで、いま思えばその内容もほとんど覚えていないというていたらく。雑誌しか読んでいなかったせいか、代表作『美空ひばり』も『聞書アラカン一代 鞍馬天狗のおじさんは』を読んでいないのは、少しさびしいですね。
竹中労という人は芸能ルポライターという肩書がいちばんぴったりします。しかし、かれ以降、芸能界の宣伝屋はいても、本格的なルポライターは出ていないといっても過言ではありません。いまでも竹中労、読むべしと思うのはそのためです。
ただ、ぼくがその芸能ものを読まなかったのは、たぶんかれがぼくらより一世代前のスターを主に扱っていたからかもしれません(「たま」という例外はありますが)。美空ひばりはどうもあまり好きになれなかったし、アラカン(嵐寛寿郎)は子どものころ見たとはいえ(『明治大帝と日露戦争』)、鞍馬天狗ではなく、もうおじいちゃんでした。
それよりも、あのころぼくらが竹中労を読んだのは、かれが沖縄(『琉球幻視行』)や汎アジア革命、さらには連合赤軍事件をとりあげていたからかもしれません。
〈人は、無力だから群れるのではない。あべこべに、群れるから無力なのだ〉
かっこいいですよね。
かれが依拠していたのは雑誌ジャーナリズムの世界でした。そしてその堕落を、みずからの文業によって示し、ついには雑誌の世界からもほぼ締めだされます。
この本に収められた対談でも、こう話しています。
〈新聞ジャーナリズムの中ではたせなかったことを、週刊誌ジャーナリズムでやろう、という烈々たる反体制精神があったわけです。その反体制の精神をぶちこんでいったことで、実は週刊誌は高度成長したんですがね。ところが、その高度成長によって、また堕落したわけです〉(1967年、正木ひろしとの対談)
左とも右とも喧嘩し、カッコよかったけれど、庶民にはめっぽうやさしく、いつも庶民の側に立っていたという印象があります。この本のなかに収められている沖縄コザのルポも出色です。ぼくには近づけない世界でした。
70年代は竹中労抜きには語れませんね。
単行本になった代表作としては、『美空ひばり』(65年、89年増補)、『見捨てられた在韓被爆者』(70年)、『スター36人斬り』(70年)、『エライ人を斬る』(71年)、『琉球共和国』(72年)、『無頼と荊冠』(73年)、『ニッポン春歌考』(73年)、『日本映画縦断』(74〜76年)、『琉球幻視行』(75年)、『聞書アラカン一代』(76年)、『聞書庶民列伝 牧口常三郎とその時代』(83〜87年)、『「たま」の本』(90年)などがあります。最後の最後まで、日本とアジアを駆けめぐり、書きまくった人でした。
南方熊楠との出会い [柳田国男の昭和]

《第223回》
柳田国男が南方熊楠(みなかた・くまくす)と知りあったのも、ちょうど郷土会のはじまったころである。晩年の回想『故郷七十年』には、こうある。
〈大勢の人とつきあってきたが、その中でも紀州の南方熊楠という学者は変わっていた。たしか明治43年「石神問答」という本を私は出した。10人ばかりの名士から来た手紙を中心とした書簡集の形式を踏んだもので、これを坪井正五郎博士にお送りしたところ、人類学会の方々へ紹介してくださった。その中に紀州田辺の南方熊楠氏へも贈るようにとすすめられ、それが交際のはじめであった。そのときからおよそ1年半か2年間、毎日のように手紙をもらった。日によっては1日に3、4回も便りが来るほど、じつに筆まめな人であった〉
このなかに『石神問答』については、前に述べたので繰り返さない。坪井正五郎は日本の人類学の先駆者。「人類学雑誌」を中心になって編集し、南方も寄稿者のひとりだった。
ふたりの文通は1911年(明治44)3月にはじまり、1917年(大正6)1月にほぼ打ち切られる。手紙の頻繁なやりとりがあったのは1914年11月ごろまでの約3年半で、そのころ両者の関係はすでに険悪になっていた。1年半か2年間という記憶があるのは、おそらくその前半の手紙を国男が別途書き写し、印刷して「南方来書」というかたちでまとめたためである。
南方は国男より8歳年上で、国男と手紙のやりとりをしたころは40代半ば。和歌山に生まれ、中学卒業後、東京の大学予備門にはいった(同級生に夏目漱石や正岡子規、秋山真之などがいた)が、大学には行かず、アメリカに渡った。ミシガン州立農学校にはいるが、中退。このころから菌類の研究をはじめていた。それからサーカスの一座に加わり、キューバやハイチ、ベネズエラ、ジャマイカなどを回り、植物標本を採集しながら、学問の都ロンドンにたどりついた。
ロンドンでは大英博物館に通いつめ、その嘱託研究員となるいっぽう、雑誌「Nature(ネーチュア)」や『Notes and Queries(ノーツ・アンド・クエリーズ)』に多くの論文を寄稿した。ロンドンでは生涯の友となる仏教学者、土宜法龍(どき・ほうりゅう)と出会い、中国革命の父、孫文と交流している。日本に戻ってきたのは1900年(明治33)、それから熊野の山野を駆け回り、4年後、田辺に腰を落ち着け、妻をめとった。
熊野で研究に打ちこんでいる南方の前に立ちはだかったのが、中央政府による神社合祀令である。これは国家の定めた枠にしたがって神社を統合しようというもので、この政策によって20万社あった神社のうち7万社が取り壊されたという。とりわけ三重県、和歌山県の取り壊しはすざまじいものがあった。
神社には神社林がともなっている。南方が怒ったのは、古い言い伝えのある神社がいともやすやすと滅却されてしまうだけではなく、周辺のクスノキやスギ、タブが伐採され、その下に生える貴重な植物や粘菌が失われようとしていたからである。そこで南方は立ち上がり、地元の「牟婁(むろ)新報」に論陣を張り、さらに林業講習会になだれこんで、警察署長を「蛙(かえる)のごとく」投げ飛ばした。こうして収監されたものの、新聞の弁護もあって、罪に問われず、無事免訴となる。だが、その後も「牟婁新報」で県や警察を嘲弄する文を書きつづけ、神社合祀への反対をつらぬいていた。
国男との文通がはじまったのはそのころである。その手紙をみると、はじめのころ、南方は神社合祀反対運動で中央官僚の国男を頼みとし、いっぽう国男は民俗資料の収集で南方の博学をあてにしていたことがわかる。国男が「日によっては1日に3、4回も」と述懐するように、そのやりとりは頻繁だった。
『故郷七十年』では、こう語られている。
〈[南方熊楠は]私とつきあっていたころ、一生懸命になって奔走していた仕事に、紀州地方の神社が合併になって、その廃社になった方の神域の大木がどんどん刈り倒されることを大変に憤慨して、それを取りやめる運動をしていた。私がそのころ役人であったので、この反対運動を手伝わせようとしたのである。和歌山の方ではあまり効き目がなかったが、熊野川のすぐ東にあたる、三重県の阿多和神社については成功した。よほどうれしかったと見え、「……楠の木もただ柳の蔭を頼むばかりぞ」というような歌を書いてよこしたことがある。いつも手紙には、じつに細かい字でぎっしり書いてあったが、困ることには話題がいつも飛躍するのであった〉
これを読むかぎり、国男は南方の神社合祀反対運動を陰ながらずいぶん応援したことがわかる。加えて、国男は紀州の一角にこもっている南方の学識を高く評価し、何とかかれを中央の舞台に引きだそうと努力もしていた。
ところが、南方自身は、一種恩着せがましい国男にたいして、いかにも中央のエリート役人らしい視線を感じて、その勢力下におかれることに反発していた節がある。
ふたりがはじめて、そしてたった一度だけ顔をあわせたのは、国男が南方を田辺にたずねた1913年(大正2)暮れの12月30日のことである。『故郷七十年』の回想は、あくまでも国男の側からみた記述だが、そのときの様子をみごとに伝えている(ただし、明治44年の春先というのは記憶ちがい)。
〈明治44年の春先、親友の松本烝治[国男の同窓生で、当時、東京大学教授。のち法制局長官、商工大臣などを歴任]が、どこかへ旅行しようといいだしたので、紀州方面へ行って南方氏を訪ねてみようということになった。乗り物がまだ不自由なころで、大阪から人力車を雇って田辺まで行った。東京からお目にかかりにきましたといって訪ねていったが、会ってくれない。そして細君を通じて「いずれこちらから伺う」という返事であった。夕食を済ましてだいぶたってから、もう来そうなものだといっていると、女中が「いえもう見えているのです。しかし初めての人に会うのはきまりが悪いからといって、帳場で酒を飲んでいらっしゃるのです」ということであった。そのうち、すっかり酔っぱらってやってきた。少し酒が入ると面倒になるらしく、松本を見て、「こいつのオヤジは知っている、松本荘一郎[元鉄道庁長官]で、いつかなぐったことがある」というようなことをいいだした。よくなぐったという癖があるらしいが、松本はただ苦笑いをしていた。感心なことには、いつまで飲んでも同じことは一回もくり返さなかったことである。しかしこのときは大切な学問上のことは何もいわなかった。一晩しか泊まれないので、翌日挨拶に私一人で行くと、細君が困った顔をしている。そして僕は酒を飲むと目が見えなくなるから、顔を出したって仕方がない。話さえできればいいだろうといって、掻巻[かいまき]の袖口をあけてその奥から話をした。こんなふうにとにかく変わった人であった。年百年中[年がら年中]、裸で暮らしていた〉
実はちょっぴり気の弱い、愛すべき大酒呑みの豪傑の姿が浮かびあがってくる。だが、南方自身によるこの2日の日記をみると、その印象は少しちがっている。
〈大正2年12月30日。陰、雨、夜晴、大強風。松枝[妻]、眼悪く(めもらい)、臥居[ふしお]る。予、掛取払い[つけの支払い]助く。グリムの『独逸[ドイツ]神誌』読む。夜、飯後臥し居る。松枝、神社札入るる札、こしらえしことに付[つき]、予怒り居る所へ、柳田国男氏人力車にのり来る。一昨日東京出立し、和歌山より有田、日高へて来りし也。暫時話し去る。それより湯に之(いく)。丸よしで2盃のみ、楠本松造[友人]訪[おとな]い、小倉屋で3盃のむ。錦城館[柳田らの宿]に之。柳田氏及松本荘一郎氏男[息子]に面し、栄枝[芸者か]来り飲む内[うち]、予大酔して嘔吐し、玄関に臥す。サカ枝とまる。松造氏大風中人力車にのり、予宅に来り、衣服とり返る。
大正2年12月31日。晴、終日臥す。午後柳田氏来り、2時間斗[ばか]り話して去る。予眼あかず、臥したまま話す。夜も予臥す〉
豊かとはいえない学者の家の歳末風景をほうふつさせる記述である。それとともに、南方は大酒を呑んでいるわりに、どこか冷めており、あまり愉快そうでもなかった雰囲気が伝わってくる。
おそらく、ふたりのあいだには性格のちがいに収まりきらない、深い溝のようなものが横たわっていた。それはいったい何だったのか。出会いの前後を通じて、南方の書簡は、国男のまやかしを容赦なく突き、国男は南方のひとりよがりを遠慮なく指摘している。そこでは、ふたつの民俗学がまともにぶつかっていたのである。
少し書簡のやりとりを追ってみたい。
郷土会、新渡戸稲造、牧口常三郎のこと [柳田国男の昭和]
《第222回》
東京小石川にあった新渡戸稲造(にとべ・いなぞう)の西洋風邸宅で、はじめて郷土会が開かれたのは、1910年(明治43)12月4日のことである。郷土会とは、有識者が地域の町や村の実情について語るサロン風の集まりだといってよいだろう。
この会を主宰した新渡戸は、柳田国男よりひとまわりほど年上で、第一高等学校校長で、東京帝国大学教授も兼ねている。英文で書かれた世界的ベストセラー『武士道』の著者としても知られていた。札幌農学校を卒業した新渡戸はアメリカに留学したこともある国際人であり、のちに国際連盟事務次長を務め、国男がジュネーヴに行くきっかけをつくる。だが、この時期は日本におり、中央とは一線を画した「地方(じかた)学」、すなわち農山村研究の必要を唱えていた。その主張が郷土会の結成へとつながったわけである。
いっぽう国男もまた、すでに数年前から郷土会や土曜会、龍土会といったさまざまな集まりをもっていた。おもに農政関係者による談話会で、そのなかにはのちに農林大臣となる後輩の石黒忠篤もいた。新渡戸の呼びかけでつくられた郷土会は、国男が幹事を務めることによって、もともと国男の会に集まっていたグループを糾合し、日本の村の風土や産業、生活、慣習などについて語りあう独特のサロンへと発展していった。
ここに参加したのは、農政関係者だけではない。会津八一や折口信夫、今和次郎、高木敏雄、鳥居龍蔵、中山太郎、山中笑、ニコライ・ネフスキー、牧口常三郎といった、文人、歌人、人類学者、地理学者、神話学者、教育者、宗教家まで幅広い人材が集まってくる。いずれも新渡戸の魅力と包容力にひかれてやってきたのだが、国男にとっても、これらの人びとは貴重な人脈をかたちづくることになる。
郷土会は年に5、6回、ほぼ10年にわたってつづいた。会は1919年(大正8)末まで開かれるが、その年の3月、主宰者である新渡戸が渡欧し、さらに国際連盟事務次長に就任することによって、自然消滅する格好になった。その間、法制局参事官の国男は兼任の内閣書記官記録課長から、法制局書記官、さらには貴族院書記官長[現在でいう参議院事務局長]に昇進している。貴族院書記官長には5年間在職するが、1919年末にその職を辞し、足かけ20年におよんだ官界生活に終止符を打つ。それが郷土会の幕引きとも重なっている。
郷土会はあくまでも余業のはずだった。国男は官僚として、与えられる仕事を次々とこなさなければならなかった。だからといって、書物への関心を失ったわけではない。内閣記録課長のときは、江戸城の紅葉文庫を引きついだ内閣文庫の書籍を読みあさっている。
さらにいえば、農政への関心も引きつづき強かった。さまざまな会合や地方の視察先でも相変わらず農業問題について講演をしているし、法政大学でも農政学の講義を受け持っている。しかし、『後狩詞記』『石神問答』『遠野物語』の著作以降、次第に郷土会で話される農村生活に興味が移っていくことは否定しがたかった。
そののめりこみが、雑誌「郷土研究」(1913〜17年)や「甲寅叢書(こういんそうしょ)」を発刊したり、郷土会メンバーによる山村調査を実施したりする動きへと広がっていく。こうして、ついに貴族院議長徳川家達(いえさと)との対立を招き、書記官長辞任へといたるのは、ある面で必定だったといえるだろう。
最晩年の回想録『故郷七十年』で、国男はなぜか牧口常三郎の名前をもちだしながら、郷土会について語っている。
〈明治43年の秋ごろ、新渡戸稲造博士を中心に、郷土会を設立したが、その定例会員の中に牧口君も加わっていた。ほかには石黒忠篤、木村修三、正木助次郎、小野武夫、小田内通敏などという人たち[いずれも農政官僚や農業経済学者、人文地理学者]が常例会員であった。そのときのことは私が筆記した「郷土会記録」にまとめられている。石黒忠篤君は今では政治家になってしまったが[当時、参院議員]、もとは本当のわれわれの仲間であった。大学にいるころから、私どものやっているものを読んでかぶれていたらしい。
「郷土会」のもとになったのが「郷土研究会」という集まりで、明治40年か41年ごろ、私の家で始めたものである。そこへ新渡戸博士が西洋から帰ってこられたので[これはおそらく誤記]、ついには新渡戸先生のお宅に伺うようになったが、中心はやはり「郷土研究会」からの連中であった。話題のもとは会員各自の旅行の報告で、いちばん熱心だったのは早稲田大学の小田内通敏君であった。小田内君を私に紹介したのは、やはり早稲田の人で、国木田独歩の友人とかきいていた。ことによると牧口君が連れてきたのかもしれない。……先生のお宅では毎回会費50銭をおさめて、そのころとして2円か2円50銭くらいのごちそうをしてくださった。名ばかりの会費をとって来客の面目を害しないように心づかいしてくださったのである。場所もよく、そのうえ本もたくさんあり、ごちそうも出て楽しい会であった〉
会の楽しいふんいきが伝わってくる。
ここにも多くの人びとが出てくるが、とりわけ牧口常三郎の名が注目される。のちの創価学会初代会長である。国男によると「あまり無口だったから人から愛せられなかった」が、「しかし実にいい人で、一緒に田舎を歩いていても、気持ちがよかった」という。事実、国男は1911年(明治44)5月に牧口をともない、農村調査をかねて、甲州の谷村から道志谷、月夜野を抜けて、相模に出る小旅行をこころみている。
『柳田国男伝』によると、牧口は1903年(明治36)に『人生地理学』を出版し、これをきっかけとして新渡戸や柳田に認められた。苦学の末、北海道の師範学校を卒業した牧口は、東京で小学校の校長となるが、「権力にへつらわないその教育姿勢のゆえに、きまってトラブルを引き起こす、という烙印をおされつづけた」という。そして、1943年(昭和18)に国家神道を批判したとして治安維持法違反ならびに不敬罪の容疑で逮捕され、翌年、東京拘置所内で栄養失調と老衰により死亡している。
国男が牧口のことを「実にいい人で、一緒に田舎を歩いていても、気持ちがよかった」というのは、よほどかれを気にいっていたのだろう。このころ国男は民間を漂泊する巫女や毛坊主、すなわちヒジリたちのことを書いていたから、ひょっとしたら、まだ宗教家となっていない牧口にヒジリの原像を重ねていたのかもしれない。
東京小石川にあった新渡戸稲造(にとべ・いなぞう)の西洋風邸宅で、はじめて郷土会が開かれたのは、1910年(明治43)12月4日のことである。郷土会とは、有識者が地域の町や村の実情について語るサロン風の集まりだといってよいだろう。
この会を主宰した新渡戸は、柳田国男よりひとまわりほど年上で、第一高等学校校長で、東京帝国大学教授も兼ねている。英文で書かれた世界的ベストセラー『武士道』の著者としても知られていた。札幌農学校を卒業した新渡戸はアメリカに留学したこともある国際人であり、のちに国際連盟事務次長を務め、国男がジュネーヴに行くきっかけをつくる。だが、この時期は日本におり、中央とは一線を画した「地方(じかた)学」、すなわち農山村研究の必要を唱えていた。その主張が郷土会の結成へとつながったわけである。
いっぽう国男もまた、すでに数年前から郷土会や土曜会、龍土会といったさまざまな集まりをもっていた。おもに農政関係者による談話会で、そのなかにはのちに農林大臣となる後輩の石黒忠篤もいた。新渡戸の呼びかけでつくられた郷土会は、国男が幹事を務めることによって、もともと国男の会に集まっていたグループを糾合し、日本の村の風土や産業、生活、慣習などについて語りあう独特のサロンへと発展していった。
ここに参加したのは、農政関係者だけではない。会津八一や折口信夫、今和次郎、高木敏雄、鳥居龍蔵、中山太郎、山中笑、ニコライ・ネフスキー、牧口常三郎といった、文人、歌人、人類学者、地理学者、神話学者、教育者、宗教家まで幅広い人材が集まってくる。いずれも新渡戸の魅力と包容力にひかれてやってきたのだが、国男にとっても、これらの人びとは貴重な人脈をかたちづくることになる。
郷土会は年に5、6回、ほぼ10年にわたってつづいた。会は1919年(大正8)末まで開かれるが、その年の3月、主宰者である新渡戸が渡欧し、さらに国際連盟事務次長に就任することによって、自然消滅する格好になった。その間、法制局参事官の国男は兼任の内閣書記官記録課長から、法制局書記官、さらには貴族院書記官長[現在でいう参議院事務局長]に昇進している。貴族院書記官長には5年間在職するが、1919年末にその職を辞し、足かけ20年におよんだ官界生活に終止符を打つ。それが郷土会の幕引きとも重なっている。
郷土会はあくまでも余業のはずだった。国男は官僚として、与えられる仕事を次々とこなさなければならなかった。だからといって、書物への関心を失ったわけではない。内閣記録課長のときは、江戸城の紅葉文庫を引きついだ内閣文庫の書籍を読みあさっている。
さらにいえば、農政への関心も引きつづき強かった。さまざまな会合や地方の視察先でも相変わらず農業問題について講演をしているし、法政大学でも農政学の講義を受け持っている。しかし、『後狩詞記』『石神問答』『遠野物語』の著作以降、次第に郷土会で話される農村生活に興味が移っていくことは否定しがたかった。
そののめりこみが、雑誌「郷土研究」(1913〜17年)や「甲寅叢書(こういんそうしょ)」を発刊したり、郷土会メンバーによる山村調査を実施したりする動きへと広がっていく。こうして、ついに貴族院議長徳川家達(いえさと)との対立を招き、書記官長辞任へといたるのは、ある面で必定だったといえるだろう。
最晩年の回想録『故郷七十年』で、国男はなぜか牧口常三郎の名前をもちだしながら、郷土会について語っている。
〈明治43年の秋ごろ、新渡戸稲造博士を中心に、郷土会を設立したが、その定例会員の中に牧口君も加わっていた。ほかには石黒忠篤、木村修三、正木助次郎、小野武夫、小田内通敏などという人たち[いずれも農政官僚や農業経済学者、人文地理学者]が常例会員であった。そのときのことは私が筆記した「郷土会記録」にまとめられている。石黒忠篤君は今では政治家になってしまったが[当時、参院議員]、もとは本当のわれわれの仲間であった。大学にいるころから、私どものやっているものを読んでかぶれていたらしい。
「郷土会」のもとになったのが「郷土研究会」という集まりで、明治40年か41年ごろ、私の家で始めたものである。そこへ新渡戸博士が西洋から帰ってこられたので[これはおそらく誤記]、ついには新渡戸先生のお宅に伺うようになったが、中心はやはり「郷土研究会」からの連中であった。話題のもとは会員各自の旅行の報告で、いちばん熱心だったのは早稲田大学の小田内通敏君であった。小田内君を私に紹介したのは、やはり早稲田の人で、国木田独歩の友人とかきいていた。ことによると牧口君が連れてきたのかもしれない。……先生のお宅では毎回会費50銭をおさめて、そのころとして2円か2円50銭くらいのごちそうをしてくださった。名ばかりの会費をとって来客の面目を害しないように心づかいしてくださったのである。場所もよく、そのうえ本もたくさんあり、ごちそうも出て楽しい会であった〉
会の楽しいふんいきが伝わってくる。
ここにも多くの人びとが出てくるが、とりわけ牧口常三郎の名が注目される。のちの創価学会初代会長である。国男によると「あまり無口だったから人から愛せられなかった」が、「しかし実にいい人で、一緒に田舎を歩いていても、気持ちがよかった」という。事実、国男は1911年(明治44)5月に牧口をともない、農村調査をかねて、甲州の谷村から道志谷、月夜野を抜けて、相模に出る小旅行をこころみている。
『柳田国男伝』によると、牧口は1903年(明治36)に『人生地理学』を出版し、これをきっかけとして新渡戸や柳田に認められた。苦学の末、北海道の師範学校を卒業した牧口は、東京で小学校の校長となるが、「権力にへつらわないその教育姿勢のゆえに、きまってトラブルを引き起こす、という烙印をおされつづけた」という。そして、1943年(昭和18)に国家神道を批判したとして治安維持法違反ならびに不敬罪の容疑で逮捕され、翌年、東京拘置所内で栄養失調と老衰により死亡している。
国男が牧口のことを「実にいい人で、一緒に田舎を歩いていても、気持ちがよかった」というのは、よほどかれを気にいっていたのだろう。このころ国男は民間を漂泊する巫女や毛坊主、すなわちヒジリたちのことを書いていたから、ひょっとしたら、まだ宗教家となっていない牧口にヒジリの原像を重ねていたのかもしれない。
高橋紘さんの思い出 [人]

きょうは皇室ジャーナリストだった高橋紘さんを「しのぶ会」。私的な面にわたりますが、少し思い出を書いてみることにします。
高橋さんとはじめてお会いしたのは、勤めていた会社の労働組合執行部。たしか1976年のことで、のちに常務理事になる宮島光男さんが委員長でした。高橋さんは社会部の記者で、それまで2年ほど宮内記者会で仕事をしていたはずです。組合ではかれが教宣部長、毎日、山口光さんと組合ビラの原稿を書いていたと思います。ぼくも職場から中央執行委員に選ばれて、組合に参加し、かたちだけ教宣部に属したのですが、実は現場の営業の仕事が忙しくて、組合はさぼってばかりでした。あのころは、やたら「中闘会議」が長く、よくストを打っていたことを覚えています。毎晩帰宅は遅かったですね。
ぼくは新聞労連東京地連にもかかわっていたのですが、現場の仕事が忙しくて、こちらのほうも熱心とはいえず、さぞかしみんなから「いいかげんなやつだ」と思われていたにちがいありません。そんな負い目もあって、1年ほどの組合活動のあとは、1年交代の執行部の面々とも疎遠になってしまいます。
組合のとき印象的だったのは、高橋さんが「ぼくは天皇を尊敬している」とよく話していたことです。「天皇陛下」とは言わなかったような気がします。「きみはどうだ」と聞かれて、ぼくはムニャムニャとごまかしたのではなかったでしょうか。
その後、ぼくのほうは出版の営業・編集の現場を行ったり来たりしながら、次第に単行本を編集するようになります。高橋さんは社会部デスクをへて、社会部長になり、仙台支社長、ラテ局(ラジオ・テレビ局)長を歴任、東京MXテレビの取締役なども務められて、ぼくが勤めている子会社の取締役に就任します。そのころ、表向きの役職とは別に、すでに皇室ジャーナリストとして名をはせておられました。
どの役職におられるときも、引っ込み思案のぼくに「よお」と声をかけてくださったものです。そんな高橋さんとまた縁ができるのは、かれが外部の雑誌で連載していた皇室エッセイを『天皇家の仕事』というタイトルで出版するさいに、ぼくに声がかかったためです。「皇室写真集」をつくるときにも、何かとお世話になっていました。
ケネス・ルオフの本を出さないかと話があったのは、高橋さんのほうからです。戦後民主主義と天皇制を論じたこの本は、ぼくも翻訳を手伝い、高橋さんが監修をして出版し、大佛次郎論壇賞をもらいました。本ができるとき、高橋さんはすでに取締役をしりぞいていて、ご自宅にうかがい、細かい手直しをしたあと、遅くまでご馳走になり、ぼくがすっかり酔っぱらったことを覚えています。広い書庫には本がぎっしり並んでいましたね。あのころは国学院大学の講師もされていて、その教室で細かい表現をめぐって、ずいぶんやりとりしたことが昨日のようです。
静岡福祉大学の教授になられてからも、ときどきお会いしていました。ぼくが無事定年を迎えるときも、ずいぶん気をつかって一席もうけていただき、ワインを飲みながら楽しく懇談しました。皇室典範を改正し、女性天皇を認めるべきだという主張は一貫していてりっぱでした。悠仁さんの誕生で、その論議は棚上げになってしまいましたが、お世継ぎ問題はいまもなくなったわけではありません。
「昭和天皇を書く」と、ずいぶん前から宣言していましたね。高橋さんががんにかかっていることをご本人から聞いたのは2010年12月のことでした。ぼくが翻訳し出版した『紀元二千六百年』をご自宅にお送りしたところ、メールで返事をいただいたときに、こう書いてありました。
〈ルオフ本、拝受しました。ありがとうございました。福島君から聞いたと思いますが、1年前に食道がんを宣告され、抗がん剤治療を続けています。東海大、10月から7週間、築地のがんセンターにいました。副作用でかなり手足がしびれますが、がんばって「昭和天皇」を書いています。講談社から2巻本で出る予定で、1冊600枚ほどですから、かなりの大部です。病気のお蔭で仕事がはかどり、平成の結婚まで来ました。明治から平成まで書きますが、主な狙いはこれまでほとんど書かれていなかった、天皇の誕生から即位までのことです。天皇が赤坂御所のどの辺で生まれたとか、アソル公爵邸とはどんなところだとか、玉音放送の現場とか。満州事変までが上巻です。講談社はいいと言ってくれるのですが、果たしてどうでしょう。大兄も美智子さんと同じ病気とか。痛いでしょう。お互いに頑張りましょう。病気なんかに負けずに〉
何と、自分の病気をさておいて、ぼくが顔面の帯状疱疹で苦しんでいるのを、逆に気遣ってくれているのです。
最後にお会いしたのは去年4月のことでした。めずらしく会社にでかけたときに、たまたま会って、短い立ち話をしたのでした。抗がん薬の副作用でしょうか、顔がムーンフェースになっているので、ぱっと見た瞬間、だれかわからなかったのですが、高橋さんのほうから「よう、元気か」と声をかけてくれたのです。そのときは昭和天皇関係の資料を調査するのが目的だったと思いますが、いつものように大きな声で、快活にいろんなことを話されたので、ぼくはこんなに元気ならだいじょうぶだと勝手に思いこんでいました。それがまちがいのもとでした。
亡くなったのはそれから5カ月後の9月30日。69歳というのは、あまりに若かったといえるでしょう。2巻本の大作『人間昭和天皇』は12月に講談社から「渾身の遺作」として発刊されました。
ぼくは「天皇制廃止論者」ではありませんが、政治的には「大統領制」を支持しています。それでも高橋さんの『人間昭和天皇』を読むと、昭和天皇が戦前戦後を通じ、たぐいまれなるりっぱな「君主」であったことが、惻々と伝わってきます。いっぽうで「昭和」がほんとうに遠くなったと感じます。
「しのぶ会」を前に、そんなことを思い、ブログにつづってみました。
和辻哲郎という人 [本]

先日、岩波新書で熊野純彦著『和辻哲郎──文人哲学者の軌跡』を読みました。
和辻哲郎(1889-1960)は播州出身の哲学者。『古寺巡礼』『風土』『倫理学』などの著書で知られます。同郷の人なので、前から気になっていたのですが、哲学というのは、数学と同じで、ぼくにはどうも近寄りがたく、これまで敬遠してきました。
熊野さんの本を読んで、それでもむずかしくて、よくわからないのですが、とりあえず和辻哲郎という人の印象をぼくなりにまとめておくことにします。
「文人哲学者」という呼び方は、やはりそのとおりですね。文人だけなら江戸時代もいました。いわば濁世から離れて、高雅な世界を楽しむ人という感じですね。ところが、「哲学者」とつくと、すっかり近代的な感じがします。しかも、かれが取り入れた哲学は、カントやヘーゲルなどの「古典」ではなく、ニーチェやハイデガーといった最新流行だったのですから、ずいぶんモダンです。高雅の士でモダンというのは、ちょっとへんな気もしますが、考えてみればハイデガーという人はどちらかというと田舎っぺと思われていましたから、それはそれであうのかもしれません。
武士道が近世の武士のあり方を示しているとすれば、和辻が指し示そうとしていたのは、日本に生きる現代人間道とでもいったものかもしれません。それはけっして偏狭な日本主義ではありません。世界のなかには、それぞれ風土(文化)があり、それはそれとして尊重されなければなりません。和辻がいうのは、世界の文化をよく知りつつ、日本の風土(文化)に生きる人のあるべき姿だといってよいでしょう。
和辻は大和の古寺や桂離宮をはじめとして、近代化にともなって見捨てられようとしていた日本の古い文化を、ひとつひとつ愛惜するように見つめています。かれがもたらした〈ディスカバー・ジャパン〉の潮流は、いまのわれわれにも大きな影響をおよぼしています。
要するに、古い日本の文化を愛するだけでなく、われわれが家族やふるさと、そして日本という〈くに〉を愛すべきことを教えたのが和辻という人でした。ここであえて〈くに〉と書いたのは、「国家」と書くといっぺんに政治色が強くなってしまうからです。「愛国」というイデオロギーにからめられるのもいやですからね。おそらくかれは日本という〈くに〉をめちゃくちゃにする政治や軍事や経済に、白い眼をむけていたはずです。何よりも知を愛する人だけに、ごうつくばりな無知の手合いが嫌いだったことはまちがいありません。
それでもかれの専門は哲学ですから、なかなかむずかしくて、よくわからないところがあります。
人は純粋な「個」として存在するわけではなく、人と人とのあいだにおいて形成されるというのが、かれの考え方です。だから家族というのが出発点になります。たしかに両親がなければ、わたしは生まれないし、家族が食事をあたえてくれなければ、わたしは育たないわけですからね。
そして、その家族というのも、純粋な「個」としての家族ではありえず、さまざまな親族との関係、さらには村や町との関係において、成立していることがわかります。そして和辻にとって、ほんらい〈経済〉とは、家族を存続させる諸関係を指していました。
人間存在がそれ自体に全体的契機を宿しているというのが和辻の基本的な哲学といえるでしょう。そして、そこからは、わたしが家族、ふるさと、くにに包まれているという見方がでてきます。家族やふるさと、くにが実際には、みにくく崩れている場合もあります。それでも、理念としては、わたしを包む家族やふるさと、くには美しくなくてはならないわけです。これが人間の道、すなわち倫理ということなのでしょう。逆にいえば、美につつまれた倫理がわたし、家族、ふるさと、くにをつくっていかねばならないのです。
むずかしい哲学や細かな論理は苦手なので、ぼくは和辻の思想について、ごく大雑把なところしか触れていません。そこには全体と細部にわたって、みごとな流れるような思考が刻印されています。和辻哲学を味わうというのは、ほんとうはそういうことなのでしょう。
しかし、散読しかしていないという前提でいうなら、ぼくが気になるのは──ある意味で感心するのは──わたしという「個」がほんらい「無」あるいは「空」にすぎないととらえられているところです。表向き「個性」が尊重されるいまの時代にあっては、これはすごく反語的で、諸刃の剣ともなりかねない言い方です。
なぜ「個」は無にして空なのか。「私」を押し出すことが、それ自体なぜ「清澄」でなく、いぎたないことなのか。わたしの経験は、そもそもわたしだけの経験ではありえず、われわれの経験なのだと和辻はいいます。そういったからといって、もちろん、わたしがなくなるわけではないのですが、わたしの経験には、すでにその中に自然や風土や文化がしみついているわけです。本来、無であり空であるわたしは、家族やふるさとやくにのなかで、わたしをつくっていって、はじめてわたしという「人格」になるわけです。こういう発想は、和辻ならではの考え方で、いかにも東洋的であり、かといってハイデガーの現象学と隔たっているわけでもありません。このあたり、ぼくは意外と新鮮なおどろきを感じました。
それでは、よく批判されるように、ひとはけっきょく、世間や、日本というくにに解消されていくのでしょうか。つまり、世間やくにに無私の心で奉仕することが倫理、すなわち人の道だと和辻は考えていたのでしょうか。
そうだともいえるし、そうではないともいえます。世間やくには、あるべき姿をしていることで、はじめてわたしにとっての世間、くに、あるいは世界であって、そうでなければ、それは現実には否定的形態の存在でしかありえないのです。そこに〈個〉の判断が生まれ、実践的課題が登場します。しかし、あるべき姿といっても、実際は妥協と打算がどこかにはたらいてしまうところに、人の世の悲しい現実があるのかもしれません。
とはいえ、わたしは〈他者〉があり〈世界〉があり〈歴史〉があって、はじめてわたしなのであり、逆にわたしは〈他者〉にも〈世界〉にも〈歴史〉にも解消されることがないというのは、ひとつの真実だと思われます。
和辻哲郎という人はけっして時代に超然としていたわけではなく、戦争の時代に遭遇し、それをくぐりぬけないわけにはいきませんでした。そのときの身の処し方、発言にたいしては、いまでも毀誉褒貶があります。日本国民の創造力を鼓吹し、東西文化の総合を唱えることで、大東亜共栄圏のイデオロギーを推進したという見方もあります。
かれは少なくとも軍部とは距離を置き、津田左右吉を擁護するなどして右翼からねらわれていました。それでも戦争を美化し、天皇制を支持したという批判はつきまとうでしょう。本書の著者、熊野純彦も「国家を人倫的組織の人倫的組織と考える和辻の歴史的想像力は、国家を超える共同体を構想することを半ば禁じた」と和辻の「日本回帰」を批判しています。
そのあたりの評価は、さらに厳密になされなければならないでしょう。しかし、日本語によって、はじめて体系らしい「哲学」を築きあげようとした和辻の努力と功績は、けっして忘れ去ってよいものではありません。
〈人は死に、人の間は変わる。しかし絶えず死に変わりつつ、人は生き人の間は続いている。それは絶えず終わることにおいて絶えず続くのである。個人の立場から見て「死への存在」であることは、社会の立場からは「生への存在」である。そうして人間存在は個人的・社会的なのである〉
いくつかの保留をおけば、これはなかなかに味わい深いことばです。
山男と山女──『遠野物語』から [柳田国男の昭和]
《第221回》
遠野でいちばんこわいのは、山男、山女、山の神のたぐいである。ほかに天狗や河童、雪女といった異形の妖怪、あるいは猿、狼、熊、狐、蛇などの動物も無視するわけにはいかない。
ここでそのすべてを紹介するわけにもいかないので、とりあえず山男と山女に登場してもらうことにしよう。
こんな話がある(口語訳、以下同)。
〈栃内村和野に佐々木嘉兵衛という70歳すぎの人がいまも元気でくらしていますが、これはかれが若いころ猟をするため山にはいったときのこと。
ふと向こうの岩を見ると、まっ白な美女がひとり、長い黒髪をとかしています。剛胆な嘉兵衛は、すわ化け物とみて、すぐ銃にたまを込めて打ち放します。みごと命中。すぐその場所に駆けつけてみると、背の高い女で、ほどけた黒髪は身の丈以上にありました。そこで、撃ち取った証拠にしようと、その髪を少しばかり切って、これをわがねてふところにしまい、すぐ家路に向かいます。
ところが道を歩いているうちに、耐えがたい眠気がおそってきたので、しばらく物陰に立ち寄って、うたたねしました。夢ともうつつともわからぬ境で、これもまた背のものすごく高い男がひとり近寄ってきて、懐中に手を差し入れ、わがねてあった黒髪を取り返し、立ち去っていったのです。そんな気がしたら、たちまち眠りがさめました。
あれは山男だったにちがいありません〉
ついでに、もうひとつ別の話をあげておこう。上郷村の民家の娘が、栗を拾いに山にはいったまま帰らず、とうとう家では死んだものとあきらめて、葬式をあげて2、3年もすぎたころ、ある猟師が五葉山の中腹あたりで、ばったりこの娘と出会い、そこで話を聞くところから話がはじまる。
〈たがいにびっくりし、「どうしてこんな山におるのか」と問うと、女はこう答えました。
「山にはいったとき、おそろしい人にさらわれ、こんなところにやってきたのです。逃げ帰ろうと思うけれど、少しも隙がありません」
「その男はどんな人なのか」とさらに問うと、こういいます。
「わたしにはふつうの人に見えますが、ただ身の丈が異常に高く、目の色がすごいのです。子どもも何人か生みましたが、自分に似ていないからおれの子ではないといって食ってしまうのか、殺してしまうのか、みなどこかへ連れ去ってしまいます」
「まことに、われわれと同じ人間か」
猟師はしつこくたずねます。すると、
「10日に一度か二度、同じような人が4、5人集まってきて、何ごとか話をし、やがてどこかへ行ってしまいます。食べ物など外からもってくるのをみると、町へもでているのでしょう。こうしているうちにも、そこに帰ってくるかもしれません」
そう話すので、猟師もこわくなって逃げ帰りました。いまから20年ばかり前のことだといいます〉
よく読めばわかるように、どちらの場合も実際に山男が登場するわけではない。
最初の話でも、夢うつつのうちに、山男の幻影をみただけである。しかも、はたして、どこから夢がはじまったのかも定かではない。実はまっ白な美女に向けて発砲したというのも夢のうちではなかったか。
あとの話は「20年ばかり前のこと」というのがミソである。明治維新直後、海岸地帯では多くの異国人を見かけるようになり、おそらくそのうわさが内陸の遠野でも広がっていたにちがいない。山男のイメージには、異国人の姿が投影されており、しかもその姿は実際に見届けられたわけではなく、あくまでもまぼろしの恐怖にとどまる。
国男が考えたように、ここから先住民の実在可能性を導きだすのは、どうみても無理なのである。
恐怖のみなもとはただひとつ。ひとり山にはいった自分を、魔性の者がじっと観察し、隙あらば襲ってくるのではないかという一種の予感である。しかも、あとの話の場合は、山男らしき異形の者が街にも出没し、どこかで食料を調達し、ひょっとしたら人さらいもしているのではないかとさえ思わせるところが、恐怖をいやます。
ここで、論理を飛躍させると、高所の山をふくめて共同体の外部に出ることの原初的な恐怖から、いわば〈まつりごと〉がはじまるといえるのかもしれない。言い換えれば、恐怖をつかさどり、統御することが〈政治〉の原型なのである。山人の物語は、アイヌにせよ、別の先住民にせよ、異人種の存在可能性を指しているわけではなく、むしろ、現代人のわれわれも通有する恐れのありかを指し示しているのではないだろうか。
そのことは、たとえば『古事記』のスサノオ伝説をとりあげてみれば、よく理解できるだろう。
高天の原を追放されたスサノオはさまざまな乱暴をはたらきながら、出雲の国に降りてきて、そこで泣いている老人夫婦と若い娘をみかける。わけを聞くと、八つの頭と八つの尾をもつヤマタノオロチという怪物が娘を貢ぎものに出せとおどしているというのだ。
そこでスサノオは自分が娘をもらう代わりに、この怪物を退治しようと申し出て、策略をめぐらせる。強い酒を満たした八つの酒船をつくらせて、じっと待った。
〈その時に、そのヤマタノオロチが、まことにアシナヅチ[娘の父親]の言葉どおりの姿でやってきたのじゃった。そして、すぐさま船ごとにおのれの八つの頭(かしら)を垂れ入れての、その酒をみな飲み乾してしもうたのじゃ。そしてハヤスサノオの企みのとおりに、やつは飲み酔うて動けなくなっての、そのままつっ伏して寝てしもうたのじゃった。
さあ、それを待っていたハヤスサノオは、みずからの腰に佩(は)いておった十拳(とつか)の剣(つるぎ)を抜き放つと、その蛇(くちなわ)を斬り刻んでしもうた。……〉
こうしてスサノオはヤマタノオロチを退治し、その尾から「草薙(くさなぎ)の剣」を取りだし、妻をめとって、ついに出雲の国を治めることになる。
スサノオの物語は、政治の源泉が、恐怖に打ち勝つ「力」、ないし「暴力」にあることを示しているが、それはまた同時に人をおそれさせる「力」でもあった。アマテラスとスサノオの後裔であるスメラミコトの一族は、太陽と剣によって地上を支配したのである。
『古事記』という雄々しい物語が地上支配の正統性を語っていたとしたら、『遠野物語』は支配される側のしたたかな論理を打ちだしていたといえるだろう。
明治の維新(復古=革命)政権がまるで『古事記』をなぞるように、政治、経済、文化の近代化を推し進めていたことは言うまでもない。農政官僚として出発した法制局参事官の柳田国男もまた、明治エスタブリッシュメントの一員として農業の近代化を推し進める側にあった。
だが各地を旅しているうちに、かれはいわば〈常民世界〉なるものが存在していることに気づくのだ。その心の動きが『後狩詞記(のちのかりことばのき)』や『遠野物語』などに結晶する。
はじめ「山神山人の伝説」とみていた『遠野物語』の底は意外と深かったといわねばならない。『遠野物語』は日本近代の文脈において『古事記』を逆照射する潜在性を秘めていたのである。
そこには神話、民話、伝説、昔話などの民間伝承やオシラサマなどに代表される民間信仰が、民衆の生活誌と渾然一体となって詰めこまれていた。これらを全国的に収集し整理することによって、常民世界を明らかにするのが、これからの大きな仕事になることに国男はうすうす気づきはじめている。
柳田民俗学とは民俗資料の収集運動を指すわけではない。〈近代世界〉と〈常民世界〉の往還のなかで、〈常民世界〉の位相を探究し、それを実践の土台に据えることが求められていた。その意味で、『遠野物語』はやはり柳田民俗学の出発点となったのである。
遠野でいちばんこわいのは、山男、山女、山の神のたぐいである。ほかに天狗や河童、雪女といった異形の妖怪、あるいは猿、狼、熊、狐、蛇などの動物も無視するわけにはいかない。
ここでそのすべてを紹介するわけにもいかないので、とりあえず山男と山女に登場してもらうことにしよう。
こんな話がある(口語訳、以下同)。
〈栃内村和野に佐々木嘉兵衛という70歳すぎの人がいまも元気でくらしていますが、これはかれが若いころ猟をするため山にはいったときのこと。
ふと向こうの岩を見ると、まっ白な美女がひとり、長い黒髪をとかしています。剛胆な嘉兵衛は、すわ化け物とみて、すぐ銃にたまを込めて打ち放します。みごと命中。すぐその場所に駆けつけてみると、背の高い女で、ほどけた黒髪は身の丈以上にありました。そこで、撃ち取った証拠にしようと、その髪を少しばかり切って、これをわがねてふところにしまい、すぐ家路に向かいます。
ところが道を歩いているうちに、耐えがたい眠気がおそってきたので、しばらく物陰に立ち寄って、うたたねしました。夢ともうつつともわからぬ境で、これもまた背のものすごく高い男がひとり近寄ってきて、懐中に手を差し入れ、わがねてあった黒髪を取り返し、立ち去っていったのです。そんな気がしたら、たちまち眠りがさめました。
あれは山男だったにちがいありません〉
ついでに、もうひとつ別の話をあげておこう。上郷村の民家の娘が、栗を拾いに山にはいったまま帰らず、とうとう家では死んだものとあきらめて、葬式をあげて2、3年もすぎたころ、ある猟師が五葉山の中腹あたりで、ばったりこの娘と出会い、そこで話を聞くところから話がはじまる。
〈たがいにびっくりし、「どうしてこんな山におるのか」と問うと、女はこう答えました。
「山にはいったとき、おそろしい人にさらわれ、こんなところにやってきたのです。逃げ帰ろうと思うけれど、少しも隙がありません」
「その男はどんな人なのか」とさらに問うと、こういいます。
「わたしにはふつうの人に見えますが、ただ身の丈が異常に高く、目の色がすごいのです。子どもも何人か生みましたが、自分に似ていないからおれの子ではないといって食ってしまうのか、殺してしまうのか、みなどこかへ連れ去ってしまいます」
「まことに、われわれと同じ人間か」
猟師はしつこくたずねます。すると、
「10日に一度か二度、同じような人が4、5人集まってきて、何ごとか話をし、やがてどこかへ行ってしまいます。食べ物など外からもってくるのをみると、町へもでているのでしょう。こうしているうちにも、そこに帰ってくるかもしれません」
そう話すので、猟師もこわくなって逃げ帰りました。いまから20年ばかり前のことだといいます〉
よく読めばわかるように、どちらの場合も実際に山男が登場するわけではない。
最初の話でも、夢うつつのうちに、山男の幻影をみただけである。しかも、はたして、どこから夢がはじまったのかも定かではない。実はまっ白な美女に向けて発砲したというのも夢のうちではなかったか。
あとの話は「20年ばかり前のこと」というのがミソである。明治維新直後、海岸地帯では多くの異国人を見かけるようになり、おそらくそのうわさが内陸の遠野でも広がっていたにちがいない。山男のイメージには、異国人の姿が投影されており、しかもその姿は実際に見届けられたわけではなく、あくまでもまぼろしの恐怖にとどまる。
国男が考えたように、ここから先住民の実在可能性を導きだすのは、どうみても無理なのである。
恐怖のみなもとはただひとつ。ひとり山にはいった自分を、魔性の者がじっと観察し、隙あらば襲ってくるのではないかという一種の予感である。しかも、あとの話の場合は、山男らしき異形の者が街にも出没し、どこかで食料を調達し、ひょっとしたら人さらいもしているのではないかとさえ思わせるところが、恐怖をいやます。
ここで、論理を飛躍させると、高所の山をふくめて共同体の外部に出ることの原初的な恐怖から、いわば〈まつりごと〉がはじまるといえるのかもしれない。言い換えれば、恐怖をつかさどり、統御することが〈政治〉の原型なのである。山人の物語は、アイヌにせよ、別の先住民にせよ、異人種の存在可能性を指しているわけではなく、むしろ、現代人のわれわれも通有する恐れのありかを指し示しているのではないだろうか。
そのことは、たとえば『古事記』のスサノオ伝説をとりあげてみれば、よく理解できるだろう。
高天の原を追放されたスサノオはさまざまな乱暴をはたらきながら、出雲の国に降りてきて、そこで泣いている老人夫婦と若い娘をみかける。わけを聞くと、八つの頭と八つの尾をもつヤマタノオロチという怪物が娘を貢ぎものに出せとおどしているというのだ。
そこでスサノオは自分が娘をもらう代わりに、この怪物を退治しようと申し出て、策略をめぐらせる。強い酒を満たした八つの酒船をつくらせて、じっと待った。
〈その時に、そのヤマタノオロチが、まことにアシナヅチ[娘の父親]の言葉どおりの姿でやってきたのじゃった。そして、すぐさま船ごとにおのれの八つの頭(かしら)を垂れ入れての、その酒をみな飲み乾してしもうたのじゃ。そしてハヤスサノオの企みのとおりに、やつは飲み酔うて動けなくなっての、そのままつっ伏して寝てしもうたのじゃった。
さあ、それを待っていたハヤスサノオは、みずからの腰に佩(は)いておった十拳(とつか)の剣(つるぎ)を抜き放つと、その蛇(くちなわ)を斬り刻んでしもうた。……〉
こうしてスサノオはヤマタノオロチを退治し、その尾から「草薙(くさなぎ)の剣」を取りだし、妻をめとって、ついに出雲の国を治めることになる。
スサノオの物語は、政治の源泉が、恐怖に打ち勝つ「力」、ないし「暴力」にあることを示しているが、それはまた同時に人をおそれさせる「力」でもあった。アマテラスとスサノオの後裔であるスメラミコトの一族は、太陽と剣によって地上を支配したのである。
『古事記』という雄々しい物語が地上支配の正統性を語っていたとしたら、『遠野物語』は支配される側のしたたかな論理を打ちだしていたといえるだろう。
明治の維新(復古=革命)政権がまるで『古事記』をなぞるように、政治、経済、文化の近代化を推し進めていたことは言うまでもない。農政官僚として出発した法制局参事官の柳田国男もまた、明治エスタブリッシュメントの一員として農業の近代化を推し進める側にあった。
だが各地を旅しているうちに、かれはいわば〈常民世界〉なるものが存在していることに気づくのだ。その心の動きが『後狩詞記(のちのかりことばのき)』や『遠野物語』などに結晶する。
はじめ「山神山人の伝説」とみていた『遠野物語』の底は意外と深かったといわねばならない。『遠野物語』は日本近代の文脈において『古事記』を逆照射する潜在性を秘めていたのである。
そこには神話、民話、伝説、昔話などの民間伝承やオシラサマなどに代表される民間信仰が、民衆の生活誌と渾然一体となって詰めこまれていた。これらを全国的に収集し整理することによって、常民世界を明らかにするのが、これからの大きな仕事になることに国男はうすうす気づきはじめている。
柳田民俗学とは民俗資料の収集運動を指すわけではない。〈近代世界〉と〈常民世界〉の往還のなかで、〈常民世界〉の位相を探究し、それを実践の土台に据えることが求められていた。その意味で、『遠野物語』はやはり柳田民俗学の出発点となったのである。
『遠野物語』のパワー [柳田国男の昭和]
《第220回》
遠野の物語を語り手の佐々木喜善は「お化け話」ととらえ、佐々木を柳田に紹介した水野葉舟は「怪談」、そして国男自身は「山神山人の伝説」とみて、それぞれにちがった角度から、この素材にのめりこんでいた。しかし、実際にできあがった『遠野物語』が、そうした規定におさまらないふくらみをもっていることはあきらかだった。それは何かを発散していたのである。
以下はいささか感想に走る。
『遠野物語』の自費出版から四半世紀後の1935年(昭和10)、郷土研究社から『遠野物語増補版』が刊行された。折口信夫の提案により、亡くなった佐々木喜善の話を鈴木脩一(棠三)が「遠野物語拾遺」として編纂し、これを最初の版に加えて、あらたな一冊とした。
その解説に折口はこう記していた。
〈六角牛(ろっこうし)の翠微(すいび[遠方の青い山])を望んで、しばらくはほうとしていた。夏霞は晴れた日の「遠野」の空に、小雨でも降るように、うっすらとかかっている。山の端を廻(めぐ)ると、一時にこれだけの見渡しを目にした。半時間も別れていた猿が石の速瀬が、今は静かになって、目の前にせせらいだ。軽便で来る道々も、川と軌道と県道とが、岐(わか)れ岐れになって、山にはいっているぐあいが、目に沁(し)みた〉
遠野を訪れたときの感激を記したものだが、これを読んでも、昭和のはじめに、ここがすでになつかしい民俗の里になっていた様子が伝わってくる。現実の遠野は『遠野物語』の遠野から、はるかに遠ざかろうとしていた。
それでも、遠野になつかしさを覚えるのはまちがっていないだろう。おそらく、佐々木喜善の話を聞いて、国男が最初に感じたのも、〈ふるさと〉のなつかしさだったにちがいないのだから。
しかも、そこは、いまここにある〈ふるさと〉だった。ふるさととしての遠野の印象は、少なくとも柳田の周辺では、本が刊行されて10年、20年、30年とたつうちに、日本が世界に伍する帝国へと発展していくことと反比例するかのように、ますます深まっていく。
日露戦争に勝利し、東洋の覇者となった帝国日本では、あらあらしくも、かしこみぶかい歴史物語が国じゅうを席巻していた。本居宣長によって再発見された『古事記』などが、都合よく変型、教条化されて、「国民」の意識にすりこまれていたのである。それは万世一系の天皇を尊崇する物語だった。
すめらみことの一族が、みずからつくりだした日本を再征服し支配する物語はたしかに雄々しかったかもしれない。そして、実際にあったかのように伝えられたこのファンタジーは、明治期以降、海外に雄飛する日本を象徴する予言のような役割をはたしていく。
『遠野物語』もまた近代において〈発見〉された物語だった。とはいえ、それは東北の辺鄙でのどかな里の物語である。
山に囲まれた小さな里のおだやかな物語。そこには怪異や恐怖がないわけではない。いや、世にも奇妙な話にあふれていた。その物語は、よく知っているだれだれがあの場所で、こんな目にあったというように、身近な暮らしのにおいを伝えていた。
過去の生活誌だったともいえる。だが、それは現在、国家が推進している方向とはことなる、もうひとつの生き方を示唆していたのかもしれなかった。
表だって言えることではない。だが『遠野物語』は何かに追われているような近代日本において、どこか人びとをいやす力を秘めていた。明治の落日が迫り、重苦しい天皇中心思想が強化されるなか、遠野の物語をながめる少数の読者は、ほっとした気持ちを覚えたのではないだろうか。
たとえば、遠野では最初にこんな神さまがでてくる。口語になおして紹介してみよう。
〈大昔、女神がおりました。あるとき3人の娘をつれ、この高原(たかはら)にやってきて、いまの来内(らいない)村の伊豆権現のある社に泊まりました。
「今夜、よき夢をみた娘に、よき山を与えようぞ」
そう母神が話して寝たところ、深夜に天からきらきら光る霊が降りてきて、姉姫の胸の上にとまりました。末の娘はめざとくそれを見つけ、ひそかに自分の胸の上に載せます。こうして、末娘がいちばん美しい早池峰のお山を手にいれることになったのです。
姉たちがもらったのは六角牛と石神のお山。若い3人の女神はおのおの3つの山に住まい、いまもこれを支配しています。そのため遠野の女たちは、女神たちの嫉妬を恐れて、いまもお山で遊ばないのです〉
神聖な山は修験者の修業の場でもあり、そのため山が女人禁制とされた名残が、この言い伝えとなっているのだろう。それにしても、末の妹が姉のところに降りてきた光る霊を、ちゃっかりとってしまうところが、いかにもよくありそうなことで、そのあとの嫉妬もはたからみると、どことなくおかしい。
こうした神の性格は、たとえば『古事記』に出てくるアマテラスとくらべると、どうだろう。スケールもことなるし、何といってもその恐ろしさいがケタはずれだ。
ここで三浦佑之(すけゆき)の『口語訳古事記』で、おなじみアマテラス「天の岩戸」の場面を引いておくことにしよう。
〈さあ、アマテラスが籠もってしもうたので、高天(たかま)の原は隅々まで真っ暗闇になってしもうて、葦原の中つ国もことごとく闇に覆われてしもうた。
そのために、上の国も下の国も、常夜(とこよ)が続くことになっての。それとともに、すべての悪しき神がみの声は、五月蠅(さばえ)のごとくに隅々まで満ち溢れ、あらゆる恐ろしいわざわいがことごとくに起こり広がったのじゃった〉
弟スサノオの乱暴ぶりに怒ったアマテラスが「天の岩戸」に閉じこもる有名なシーンだが、『古事記』の記述は、このあとまわりの神々が手練手管を用いて、アマテラスをふたたび岩戸から引っぱりだすところまで、延々とつづく。
ここで注目すべきは、アマテラスが太陽そのものの象徴にほかならないことである。太陽がなくなれば、この地がまっくらになり、人をはじめ、ありとあらゆるものが生きていけなくなる。だから、まわりの神々はあわててアマテラスのごきげんをとろうとする。
アマテラスはいのちの根源を握る神なのである。そして、この太陽神を天皇家の祖と位置づけたところに、『古事記』のたくまざる作為があったといえるだろう。
これにくらべれば、遠野の神々はどれもスケールが小さく、ずっと常人に近い。女神にしても、そのあたりにいる女の子と同じである。三つの山を支配して、中に立ち入った者をときおりまどわすといっても、ふだんはおだやかに人間世界を守るようにたたずんでいる。いてもいなくてもいいが、気がつけばやはりいるといった程度。それは畏るべき根源的存在というより、身近な親族のような存在なのである。
『遠野物語』のこわさは、どこかでやさしさとつながっている。それがパワフルな絶対性をもつ『古事記』とのいちばんのちがいなのかもしれない。
遠野の物語を語り手の佐々木喜善は「お化け話」ととらえ、佐々木を柳田に紹介した水野葉舟は「怪談」、そして国男自身は「山神山人の伝説」とみて、それぞれにちがった角度から、この素材にのめりこんでいた。しかし、実際にできあがった『遠野物語』が、そうした規定におさまらないふくらみをもっていることはあきらかだった。それは何かを発散していたのである。
以下はいささか感想に走る。
『遠野物語』の自費出版から四半世紀後の1935年(昭和10)、郷土研究社から『遠野物語増補版』が刊行された。折口信夫の提案により、亡くなった佐々木喜善の話を鈴木脩一(棠三)が「遠野物語拾遺」として編纂し、これを最初の版に加えて、あらたな一冊とした。
その解説に折口はこう記していた。
〈六角牛(ろっこうし)の翠微(すいび[遠方の青い山])を望んで、しばらくはほうとしていた。夏霞は晴れた日の「遠野」の空に、小雨でも降るように、うっすらとかかっている。山の端を廻(めぐ)ると、一時にこれだけの見渡しを目にした。半時間も別れていた猿が石の速瀬が、今は静かになって、目の前にせせらいだ。軽便で来る道々も、川と軌道と県道とが、岐(わか)れ岐れになって、山にはいっているぐあいが、目に沁(し)みた〉
遠野を訪れたときの感激を記したものだが、これを読んでも、昭和のはじめに、ここがすでになつかしい民俗の里になっていた様子が伝わってくる。現実の遠野は『遠野物語』の遠野から、はるかに遠ざかろうとしていた。
それでも、遠野になつかしさを覚えるのはまちがっていないだろう。おそらく、佐々木喜善の話を聞いて、国男が最初に感じたのも、〈ふるさと〉のなつかしさだったにちがいないのだから。
しかも、そこは、いまここにある〈ふるさと〉だった。ふるさととしての遠野の印象は、少なくとも柳田の周辺では、本が刊行されて10年、20年、30年とたつうちに、日本が世界に伍する帝国へと発展していくことと反比例するかのように、ますます深まっていく。
日露戦争に勝利し、東洋の覇者となった帝国日本では、あらあらしくも、かしこみぶかい歴史物語が国じゅうを席巻していた。本居宣長によって再発見された『古事記』などが、都合よく変型、教条化されて、「国民」の意識にすりこまれていたのである。それは万世一系の天皇を尊崇する物語だった。
すめらみことの一族が、みずからつくりだした日本を再征服し支配する物語はたしかに雄々しかったかもしれない。そして、実際にあったかのように伝えられたこのファンタジーは、明治期以降、海外に雄飛する日本を象徴する予言のような役割をはたしていく。
『遠野物語』もまた近代において〈発見〉された物語だった。とはいえ、それは東北の辺鄙でのどかな里の物語である。
山に囲まれた小さな里のおだやかな物語。そこには怪異や恐怖がないわけではない。いや、世にも奇妙な話にあふれていた。その物語は、よく知っているだれだれがあの場所で、こんな目にあったというように、身近な暮らしのにおいを伝えていた。
過去の生活誌だったともいえる。だが、それは現在、国家が推進している方向とはことなる、もうひとつの生き方を示唆していたのかもしれなかった。
表だって言えることではない。だが『遠野物語』は何かに追われているような近代日本において、どこか人びとをいやす力を秘めていた。明治の落日が迫り、重苦しい天皇中心思想が強化されるなか、遠野の物語をながめる少数の読者は、ほっとした気持ちを覚えたのではないだろうか。
たとえば、遠野では最初にこんな神さまがでてくる。口語になおして紹介してみよう。
〈大昔、女神がおりました。あるとき3人の娘をつれ、この高原(たかはら)にやってきて、いまの来内(らいない)村の伊豆権現のある社に泊まりました。
「今夜、よき夢をみた娘に、よき山を与えようぞ」
そう母神が話して寝たところ、深夜に天からきらきら光る霊が降りてきて、姉姫の胸の上にとまりました。末の娘はめざとくそれを見つけ、ひそかに自分の胸の上に載せます。こうして、末娘がいちばん美しい早池峰のお山を手にいれることになったのです。
姉たちがもらったのは六角牛と石神のお山。若い3人の女神はおのおの3つの山に住まい、いまもこれを支配しています。そのため遠野の女たちは、女神たちの嫉妬を恐れて、いまもお山で遊ばないのです〉
神聖な山は修験者の修業の場でもあり、そのため山が女人禁制とされた名残が、この言い伝えとなっているのだろう。それにしても、末の妹が姉のところに降りてきた光る霊を、ちゃっかりとってしまうところが、いかにもよくありそうなことで、そのあとの嫉妬もはたからみると、どことなくおかしい。
こうした神の性格は、たとえば『古事記』に出てくるアマテラスとくらべると、どうだろう。スケールもことなるし、何といってもその恐ろしさいがケタはずれだ。
ここで三浦佑之(すけゆき)の『口語訳古事記』で、おなじみアマテラス「天の岩戸」の場面を引いておくことにしよう。
〈さあ、アマテラスが籠もってしもうたので、高天(たかま)の原は隅々まで真っ暗闇になってしもうて、葦原の中つ国もことごとく闇に覆われてしもうた。
そのために、上の国も下の国も、常夜(とこよ)が続くことになっての。それとともに、すべての悪しき神がみの声は、五月蠅(さばえ)のごとくに隅々まで満ち溢れ、あらゆる恐ろしいわざわいがことごとくに起こり広がったのじゃった〉
弟スサノオの乱暴ぶりに怒ったアマテラスが「天の岩戸」に閉じこもる有名なシーンだが、『古事記』の記述は、このあとまわりの神々が手練手管を用いて、アマテラスをふたたび岩戸から引っぱりだすところまで、延々とつづく。
ここで注目すべきは、アマテラスが太陽そのものの象徴にほかならないことである。太陽がなくなれば、この地がまっくらになり、人をはじめ、ありとあらゆるものが生きていけなくなる。だから、まわりの神々はあわててアマテラスのごきげんをとろうとする。
アマテラスはいのちの根源を握る神なのである。そして、この太陽神を天皇家の祖と位置づけたところに、『古事記』のたくまざる作為があったといえるだろう。
これにくらべれば、遠野の神々はどれもスケールが小さく、ずっと常人に近い。女神にしても、そのあたりにいる女の子と同じである。三つの山を支配して、中に立ち入った者をときおりまどわすといっても、ふだんはおだやかに人間世界を守るようにたたずんでいる。いてもいなくてもいいが、気がつけばやはりいるといった程度。それは畏るべき根源的存在というより、身近な親族のような存在なのである。
『遠野物語』のこわさは、どこかでやさしさとつながっている。それがパワフルな絶対性をもつ『古事記』とのいちばんのちがいなのかもしれない。
『眼の海』(辺見庸)を読みながら [本]

詩とは語ろうとして語りえないもの、語ってはならぬものを語ることだ、と著者はどこかに書いていた。
それはわたしという石臼を力のかぎりひき、みえないものをことばにつむぐ作業をさしている。それは、われわれを暗黙のうちに縛りつける禁忌を破り、ことばをできるだけ遠くまで放つことだ。それは〈がんばろう日本!〉の大合唱に抗し、海と地と空をつないで、ひそやかな挽歌をひとりひとりの死者に送り届けることでもある。
石巻市南浜町で生まれ育った著者は、3・11の大震災(なゐ)で多くの友人や知り合いを失った。だから、ここで語られるのは見知らぬ遺体ではなく、顔も姿も声も知っていた、わたしの死者なのである。
つづられた51の詩篇からは、いくつもの物語や光景が、深い色彩や動き、流れをともなってよみがえってくる。耳をすませば、そこには慟哭や詠嘆ばかりでなく、怒りや祈り、そして哄笑や罵倒の声も聞こえてくるだろう。
詩はあの災厄の日から、「復興を」の声かまびすしい10月にかけて、みずからの身をさいなむように彫鏤(ちょうる)された。詩篇は大きく「眼の海」と「フィズィマリウラ」の章にわかれる。前者が3・11そのものをえがくとしたら、後者はその後をつづる。悲しみから怒りへ、そして大いなる予感へと感情は深まり、たかまっていく。
じつはだれも震災を見ていないのだ。テレビに流されているのは、意図的にデフォルメされ、脱色された光景でしかない。そこには、ちぎれた首、足、小指、すなわち物自体と化したわたしの死者は登場しない。偽造の風景に、ことばは届かない。
わたしの死者ひとりびとりの肺に
ことなる それだけの歌をあてがえ
死者の唇ひとつひとつに
他とことなる それだけしかないことばを吸わせよ
類化しない 統べない かれやかのじょたちのことばを
死者には色とりどりの花が、鳥が、ヒトデが、カヤネズミが、むく犬が、そしていずれ共に死すべき生たちの輝きが、月が、宇宙が寄り添っている。死者は単に遺体としてあるわけではなく、山川草木、生きとし生きるもの、歴史をまとっているのだ。
宇宙のほんのわずかな身じろぎにすぎない地震と津波によって、街も人も流れ去った。だが、そのとき眼のおくに街がよみがえる。厩舎、銭湯、ジョロヤ、麦畑、松林、入江、パルプ工場、市営住宅、運動会、空飛ぶ円盤……。それは破壊であり、無化であり、創世でもあった。
これ 終わりの海の儀礼
これ はじまりの水の奔騰狂癲
地上の光景はどこかで見た光景と似ていた。たとえば、ヒロシマの小学校や、爆撃されたサラエヴォの図書館に。それはデジャビュ(既視感)にちがいなかったが、どこかでジャメビュ(未視感)のようでもあった。災厄はおそらくまだはじまったばかりなのだ。
岩棚の三つの首たちは
眼窩をさらし 流星群に見入っている
右側の首はおもう
〈はじまったのか〉
真ん中の首はおもう
〈終わったのか〉
左側の首はいぶかる
〈それらは同じではないか〉
汀線はいま世界のどこにもない
あるインタビューで、著書は震災後、世間にあふれだした「人に優しく、力を合わせて」といった言葉に「強い違和感」を覚えたと語っている。内面の自己規制がはびこるなかで、あえて選んだのは「語ってはいけないものを語ることだった」という。
抵抗しようとしたのは、のっぺらぼうな〈復興の精神〉に対してである。それは〈個〉であるわたしが死んでも、われわれの〈世界〉は生きるという大合唱にほかならなかった。その壁を突破する必要があった。
大震災後の夏、著者はひどい抑鬱状態におちいる。時に夢魔や幻影が襲ってくる。汚れた街のみぎわを死者たちが音もなくうごいていく。死をまぬかれた人が暗緑色の汁をはいて、死んでいく。どこかから銹のにおい、血のにおいがただよってくる。
こんな夢もみる。正義ぶるNPO協会によって佯狂(ようきょう、ニセキチガイ)と判断され、入水をしいられる。救援食料のカップラーメンの汁をはきだして逃げるわたしを公安が追いかけてくる。瓦礫の原で電動こけしクマッコ1号がくねりつづけるのはおかしかった。
そして、津波で痕跡が押し流された、ある殺人の光景。盲者の女を犯し殺したのは、唖者のわたしだったのか。
美しい幻想も広がる。
七月の夜ふけ
それらの骨のなかにある骨から
半透明の
天蚕糸(テグス)状のものが
ふたすじ
地上にそっとあらわれて
正気でもなく狂気でもなく
ひたすら
無として青みわたる宙を
のびあがり
ゆらめき のびあがり
年老いて もはや死ぬるばかりの
惑星状星雲NGC7293まで
のびはてて
地と天を
はるかにつないだ
次から次へわいてくる腐生菌のような存在への嫌悪、死者を食いものにする因業坊主にも似た震災ビジネスへの罵倒も口をつく。だが、思い浮かぶなかで、もっとも語ってはいけないもの、それは「がんばろう日本!」の大合唱とは真逆の人類滅亡後の光景だった。
ヒトはまだ在る
現存するヒトとは
疾病の諸現象の謂いである
終宿主もヒトである
ヒトという現象は だが
もうすこしで終わる
痕跡はのこらない
フィズィマリウラが
赦しの秘跡を
しきるかもしれない
かつて武田泰淳はこう書いたことがある。「大きな慧知(けいち)の出現するための第一の予告が滅亡であることは、滅亡の持っている大きなはたらき、大きな契機を示している」
滅亡は希望のはじまりなのだ。
ことしを振り返って [雑記]
ことしは何といっても3・11があり、特別の年となりました。
われわれ夫婦はこの日、ツアー旅行先の台湾から帰国するため、台北空港にいたのですが、出発待合室にいるときに、成田空港が閉鎖され、日本で大地震が発生したとのニュースが流れました。その様子がもっていたipadに映しだされ、津波で家が押し流されるのをみて、あぜんとしたものです。まさかこんなことが起こるとは信じられませんでした。
その日は台北にもう1泊し、成田に戻ってきたのは翌日の昼ごろ。そのとき福島第1原発はすでにメルトダウンしていたのです。政府も東電も口裏をあわせていたので、真相がわかったのは、ずいぶんたってからでした。
その後、テレビには連日、悲惨な被害状況が次々と映しだされました。しかし、その映像はお茶の間向きに編集されており、実態とはかけはなれていたことは言うまでもありません。だから神戸のときと同様に、ぼくは生々しい光景を見たわけではないのです。
おそらく今回の震災は終わりではなく、始まりにすぎないのでしょう。東南海地震、関東直下地震もまもなく起こるはずです。覚悟が必要だと思いました。わが家でも防災グッズをそろえ、枕元におくようにしていますが、いざというときはどうなるかわかりません。いずれにしても覚悟しなければなりません。
ことしはそんなことを考える年となりました。
別に不安をあおるつもりはないのですが、これからは何でもありの時代だと思います。
かつてあったことは、これからもあり
かつて起こったことは、これからも起こる。
(旧約聖書)
[辺見庸さんの新刊『瓦礫の中から言葉を』(NHK新書)からの引用]
恐慌があり、戦争が起こる可能性もあります。広島、長崎のように、また原爆が落とされるかもしれません。
ふと、そんなことを思いました。
これからの日本は下り坂です。
年末、消費税を10パーセントにするという論議をめぐって日本の政界は大揺れですが、おそらく消費税率を5パーセント上げたところで、税収は12兆円程度しか増えないでしょう。1000兆円を越すといわれる現在の国債問題を解決するにはほど遠く、焼け石に水といったところです。
日露戦争が終わったとき、首相の桂太郎は30年で日本の公債を償還する計画を立案しましたが、いまの日本政府は「あとは野となれ山となれ」とばかりに、先のことは何も考えていません。いずれ国民に大きなつけが回ってくるでしょう。
そのことも覚悟しなければなりません。
とはいえ、ことしもわれわれは2度、海外に行き、国内もまわって、友人たちと楽しい時間をすごすことができました。
ぼく自身のことでいえば、ことしは6月まで記事出稿と書籍編集の仕事をし、その後は遊ばせてもらっています。趣味で書いている柳田国男の評伝は、いよいよ終わりに近づきつつあります。病気で一時やめていた三省堂の書評ブログも再開しました。「イングリッシュ・ジャーナル」と「いける本・いけない本」に原稿を書き、「朝日ジャーナル」に1本翻訳を載せました。
来年もとくに何かが変わるわけではありません。できれば、柳田国男の評伝を書き終え、物語日本経済史に取りかかりたいなかと思っております(勝手な大風呂敷ですが)。
旅行も楽しむつもりです。
いずれにせよ、残された毎日を淡々と──皮肉とユーモア、そしてちょっぴり怒りを忘れずに──すごすつもりでおります。
ことしはどこか覚悟のできた年となりました。
来年は穏やかな年でありますように。
亡くなった方々の冥福を祈りながら、そう願うものの、何が起こっても不思議ではない時代になりました。
このブログを読んでいただいた方々に感謝を。
安らかに、ゆっくりと歩いていきましょう。
われわれ夫婦はこの日、ツアー旅行先の台湾から帰国するため、台北空港にいたのですが、出発待合室にいるときに、成田空港が閉鎖され、日本で大地震が発生したとのニュースが流れました。その様子がもっていたipadに映しだされ、津波で家が押し流されるのをみて、あぜんとしたものです。まさかこんなことが起こるとは信じられませんでした。
その日は台北にもう1泊し、成田に戻ってきたのは翌日の昼ごろ。そのとき福島第1原発はすでにメルトダウンしていたのです。政府も東電も口裏をあわせていたので、真相がわかったのは、ずいぶんたってからでした。
その後、テレビには連日、悲惨な被害状況が次々と映しだされました。しかし、その映像はお茶の間向きに編集されており、実態とはかけはなれていたことは言うまでもありません。だから神戸のときと同様に、ぼくは生々しい光景を見たわけではないのです。
おそらく今回の震災は終わりではなく、始まりにすぎないのでしょう。東南海地震、関東直下地震もまもなく起こるはずです。覚悟が必要だと思いました。わが家でも防災グッズをそろえ、枕元におくようにしていますが、いざというときはどうなるかわかりません。いずれにしても覚悟しなければなりません。
ことしはそんなことを考える年となりました。
別に不安をあおるつもりはないのですが、これからは何でもありの時代だと思います。
かつてあったことは、これからもあり
かつて起こったことは、これからも起こる。
(旧約聖書)
[辺見庸さんの新刊『瓦礫の中から言葉を』(NHK新書)からの引用]
恐慌があり、戦争が起こる可能性もあります。広島、長崎のように、また原爆が落とされるかもしれません。
ふと、そんなことを思いました。
これからの日本は下り坂です。
年末、消費税を10パーセントにするという論議をめぐって日本の政界は大揺れですが、おそらく消費税率を5パーセント上げたところで、税収は12兆円程度しか増えないでしょう。1000兆円を越すといわれる現在の国債問題を解決するにはほど遠く、焼け石に水といったところです。
日露戦争が終わったとき、首相の桂太郎は30年で日本の公債を償還する計画を立案しましたが、いまの日本政府は「あとは野となれ山となれ」とばかりに、先のことは何も考えていません。いずれ国民に大きなつけが回ってくるでしょう。
そのことも覚悟しなければなりません。
とはいえ、ことしもわれわれは2度、海外に行き、国内もまわって、友人たちと楽しい時間をすごすことができました。
ぼく自身のことでいえば、ことしは6月まで記事出稿と書籍編集の仕事をし、その後は遊ばせてもらっています。趣味で書いている柳田国男の評伝は、いよいよ終わりに近づきつつあります。病気で一時やめていた三省堂の書評ブログも再開しました。「イングリッシュ・ジャーナル」と「いける本・いけない本」に原稿を書き、「朝日ジャーナル」に1本翻訳を載せました。
来年もとくに何かが変わるわけではありません。できれば、柳田国男の評伝を書き終え、物語日本経済史に取りかかりたいなかと思っております(勝手な大風呂敷ですが)。
旅行も楽しむつもりです。
いずれにせよ、残された毎日を淡々と──皮肉とユーモア、そしてちょっぴり怒りを忘れずに──すごすつもりでおります。
ことしはどこか覚悟のできた年となりました。
来年は穏やかな年でありますように。
亡くなった方々の冥福を祈りながら、そう願うものの、何が起こっても不思議ではない時代になりました。
このブログを読んでいただいた方々に感謝を。
安らかに、ゆっくりと歩いていきましょう。
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