So-net無料ブログ作成
検索選択
前の10件 | -

眠る本たち その4 [眠る本たち]

これからも読めそうにないのだが、せめてリストだけでも。ひょっとしたら、そのうちまた読む気になることを祈って。

(11)岡並木『舗装と下水道の文化』1985年、論叢社
img127.jpg
「舗装と下水道。文明の尺度といわれるその二つが、東京の砂漠化にひと役買っていないか」と著者は問う。パリやロンドンも取材、舗装と下水道の歴史から都市のありようを考える。

(12)山口文憲『香港 旅の雑学ノート』1979年、ダイヤモンド社
img126.jpg
中国に返還される前の香港だ。著者は1年間、この街で暮らして、香港のすみずみを探索する。香港ではひとシーズンに100万匹近いヘビが食べられるというのは、いまもそうなのだろうか。ヘビのポタージュ「蛇羹」がお勧めだという。

(13)V・サンギ編『天を見てきたエヴェンク人の話──シベリアの伝説と神話』(匹田紀子訳)1992年、北海道新聞社
img125.jpg
シベリアの北方民族の神話を紹介した貴重な本。シベリアにはいまもケレク人、エヴェンク人、ヌガナサン人、マンシ人、ケート人、ナナイ人など多くの北方民族が暮らしている。その神話はアイヌの神話とよく似ている。天地創造や火の話、クマ祭りの話などもおもしろそうだ。

(14)ヒルデ・シュピール『ウィーン 黄金の秋』(別宮貞徳訳)1993年、原書房
img124.jpg
芸術、文学、音楽、哲学、心理学、経済学が猛烈な勢いで花開いた1900年前後のウィーン。この豊穣な時代を再現する。ヨハン・シュトラウス、マーラー、クリムト、ホフマンスタール、ヴィトゲンシュタイン、フロイト、アドラー、ユング、カール・メンガー、シュンペーター、カール・ポランニーなどが活躍したウィーンの輝きの正体はいったい何だったのだろう。

(15)船橋洋一『世界ブリーフィング──同時代の解き方』1995年、新潮社
img123.jpg
1992年から95年にかけて『週刊朝日』に連載した世界情勢についてのエッセイを集めたもの。冷戦後の世界の動きを追っている。いまからふり返ると、あのころはこれから平和な時代がやってくると、つかの間の希望をいだいた時代だった。そのため、記事にもどことなく、ほんわかしたムードがただよう。〈私は、鄧小平のプックリした顔を写真で見るたびにクロワッサンを連想してしまう。鄧小平理論とはクロワッサン路線と命名すべきではないか、と思ってしまう。〉「北方領土問題は残り、南方領土問題は解決した」「真珠湾ではしゃぐ日本の女の子たち」といった記事もある。

(16)岩村忍『東洋史のおもしろさ』1976年、新潮選書
img122.jpg
岩村忍(1905〜88)は東洋史学者で、内陸ユーラシア史や東西交渉史を専攻した。シルクロード・ブームの先駆者としても知られる。陳舜臣は「これまでおもに東アジアの歴史であった『東洋史』を岩村氏は西アジアに結びつけられた」と絶賛している。本書は歴史エッセイと紀行から成り立っている。遊牧民と農耕民のちがい、東南アジアと西南アジアの比較、モンゴル紀行、アフガニスタン調査旅行、それに茶とマルコ・ポーロ、ヘロドトスと司馬遷など、ちょっと読んでみたくなる本だ。シーア派の一派、イスマイリ暗殺教団はアサシンと呼ばれ、恐れられたが、かれらは大麻の一種ハッシッシを吸っていた。アサシンとハッシッシの語源は同じだという。

(17)エーヴ・キュリー『キュリー夫人伝』(川口篤、河盛好蔵、杉捷夫、本田喜代治訳)1988年、白水社
img121.jpg
ラジウムの発見者としてノーベル物理学賞と化学賞を受賞したマリー・キュリー(1867〜1934)の伝記。戦前に訳されたものの改訂版だという。著者のエーヴ・キュリーはマリーの次女。マリーの長女イレーヌも物理学者で、母親と同じくノーベル化学賞を受賞している。〈彼女は女性であった。彼女は被圧迫国民[ポーランド人]のひとりであった。彼女は貧しかった。彼女は美しかった。〉読まれるべき伝記である。捨てられない。

nice!(5)  コメント(0) 

人口、生産、労働力──マーシャル『経済学原理』を読む(9) [経済学]

 マーシャルは労働者を資本のもとで働かされる単純労働力とはみない。労働者とは商品世界のなかで一定の仕事をはたす人びとの総体を指すのであって、その質は長い時間をかけて社会的に形づくられてきたと考えている。
 労働力の前提となるのは人口である。人口問題は古くから論じられ、さまざまな議論が重ねられてきた。一般的にいって、人口が増加すると抑制論が台頭し、逆に人口が減少すると増加論が登場する傾向がある。
 しかし、人口がマルサスの指摘するように自然増の傾向をたどってきたことはまちがいない。
 出生数は結婚によって左右される。19世紀末のイギリスでは、中産階級の結婚は比較的遅く、労働者階級の結婚は比較的早かった。
 ヨーロッパの農村では、結婚は長子にしか認められず、長子以外は結婚すると村をでなければならなかった。ヨーロッパの小農のあいだでは出生率が低かっのにたいし、広大な土地に恵まれたアメリカの自作農や移民のあいだでは出生率は高かった。
 全般的にいって、「妊娠率はぜいたくな生活をおくることによって低下」し、「精神的な過労が強ければ多くの子供を産む可能性は低くなる」とマーシャルは書いている。これは現代にあてはまりそうな定言である。
 中世においては、伝染病や飢饉、戦乱、きびしい慣行などによって、イングランドでもほとんど人口が増えなかった。急速に人口が増えるようになったのは18世紀後半になってからである。都市と産業の発達が、人口の増加をうながした。19世紀初期には、結婚率は小麦価格とともに変化した。しかし、19世紀後半では、小麦価格よりも景気が結婚率に与える影響のほうが大きくなっている、とマーシャルは指摘している。また労働者階級はその生活水準を保つために子供の数を制限するようになり、そのため人口増加率は次第に低下するようになったとも述べている。
 次に論じられるのは、人口と労働、健康の関係である。
 人間が健康に仕事をするには、肉体面、知性面、道徳面での健全性が求められる。筋肉労働も肉体だけでなく、意志の力や気力を要するのだ。
 人間の寿命は気候や食料と関係している。ほかに衣料や住居、燃料も欠かすわけにはいかない。休養もだいじである。しかし、希望や自由、そして何よりも人生の理想が寿命に影響を与える。
 19世紀初頭の工場労働者の状態が、不健康で抑圧的なものであったことをマーシャルは認めている。それを改善することを、マーシャルは経済学のひとつの課題だと考えていた。
 かつて都市の環境は劣悪だった。都会に集中する才能ある人びとが、郊外に居を定めるのはとうぜんといえる。産業が郊外に分散し、労働者がそれにともなって移動するのはもっと喜ばしい。しかし、公園や運動場ができ、住環境も改善されるようになると、都市もきっと住みやすくなるだろう、とマーシャルは期待を寄せる。
 憂慮すべき点もある。それは国民の活力が次第に失われていくことである。医療と衛生の進歩、政府の社会保障、物的富の成長、晩婚化、小家族などは、人間の活力を奪う要因だ、とマーシャルはいう。しかし、家族数が適切に抑制され、子どもたちにじゅうぶんな教育がほどこされ、都市住民に新鮮な空気と運動の機会が与えられ、実質所得の低下がおこらず、人びとに衣食住や余暇、文化が提供されるなら、過剰人口の弊害を避けて、「人間はたぶんかつて経験したことのないほど高い肉体的ならびに知性的な優秀さに急速に達することができるであろう」とも述べている。
 そのうえで、マーシャルは産業時代における労働のあり方について論じている。
 産業時代においては、どの分野の労働力にも、長い訓練が必要になってくる。機械制工場の労働は、ギルドの職人仕事とちがって、安直で容易なようにみえるかもしれないが、それでも機械をうまく扱えるようになるには、精神的な強さと自制力、知識、訓練が欠かせない。
 さらにマーシャルはいう。

〈一時に多くのことがらに気をくばり、必要な場合にはなにごとにも容易に移っていけ、なにか錯誤があった際には機敏に処置して対策をじょうずにたて、仕事の細部の変化にたいしてはよく順応し、堅実で信頼に値し、つねに余力を残して有事の際に備えている──これらはすぐれた産業人を生み出すのに必要な性能なのである。〉

 まるで、自動車を運転するさいの注意を聞かされているようだが、これはマーシャルが産業時代の労働全般のあり方について述べているのである。
 産業時代の勤労者は、こうした一般的能力に加えて、業種に応じ特化された肉体的・知的能力をもたねばならない、とマーシャルはいう。
 産業人(社会人)としての能力を身につけるには、家庭や学校の役割が欠かせない。実務につくには、普通教育に加えて、技術教育や企業内教育も必要になってくるだろう。
 マーシャルは教育の重要性を強調する。「たまたま社会の底辺にいる両親のあいだに生まれたというだけの理由で、天賦の才能を低級な仕事に空費してしまうというむだほど、国富の発達にとって有害なものはないであろう」
 教育はそれだけで天才的な科学者や有能な経営者をつくりだすわけではない。しかし、天賦の才能を無為に消耗させてしまうのを防ぐには、教育が多少なりとも役立つだろう、とマーシャルはいう。
 成果を生むかどうかはともかく、公私にわたる教育への投資は今後ますますだいじになってくる。「教育投資は大衆にとっても他の投資で一般に得られるより大きな収益機会がある」というのは、いかにも経済学者らしい。
 さらに国家であれ、一般家庭であれ、教育にカネをかけるのはムダだという意見にたいし、マーシャルは次のように反論している。「もしニュートンないしダーウィン、シェイクスピアないしベートーベンのような人が一人でも生みだせれば、高等教育を大衆化しようとして長年にわたって投じた資金も十分に回収されるであろう」
 マーシャルは中産階級と上流階級以外は、教育にさほど熱心でないことも認めている。ある職業階層から別の職業階層に急速に上昇することが、なかなか困難であることも事実である。それでも、かれは教育の力が、人びとがより有利な職種を選ぶことを可能にすると信じていた。
 暫定的な結論として、マーシャルはこう述べる。

〈他の事情に変わりがなければ、労働によって得られるであろう稼得が増大すれば労働力の増加率を高める、すなわちその需要価格の上昇は供給の増大をもたらす、と結論することはできるだろう。〉

 すぐれた労働力が社会全体により多くの収入をもたらすなら、より多くの労働力が求められるようになり、それによって賃金が上昇し、働こうとする労働者の数もさらに増えてくる。
 これはあまりに楽観的な結論かもしれない。
 しかし、マーシャルは、働く人びとの数と賃金が徐々に増えていく方向で、社会が少しずつ豊かに発展していくことを願ったのである。

nice!(8)  コメント(0) 

収穫逓減の法則──マーシャル『経済学原理』を読む(8) [経済学]

 長らくご無沙汰してしまったが、ここからは生産要因についての考察にはいる。
 はじめにマーシャルは生産要因を土地・労働・資本に分類する。土地とは人間にたいし自然が提供してくれるもの、労働とは人間の経済的なはたらき、資本とは財の生産に役立つ富のたくわえを意味する。
 マーシャルはこの3つの生産要因がからまって、生産、すなわち供給がどのように形づくられていくかをみていくのだが、最初に論じられるのが土地、すなわち自然要因についてである。
 マーシャルはいう。

〈人間は物質を創造する力をなんらもっていず、ただそれを有用な形態に組みかえることによって効用を創造するだけなのである。そして人間によってつくられた効用は、その需要が増大すればその供給も増大させることができる。それらは供給価格をもっている。〉

 ここでは人間の経済の仕組みが説明されている。人は物質そのものを創造するわけではない。物質を人に有用なものへと変換することによって効用をつくりだすのだ。そして、貨幣経済においては、その効用が一定の価格で売買されて、生産・消費・分配のシステムが機能し、それを通じて、人びとはみずからの生活を築き、向上させてきたというわけである。
 しかし、そもそも人間に有用なものたりうる物質を提供する自然、とりわけ土地がなければ(それは海洋や鉱山であってもいいのだが)、そもそも経済は成り立たない。「地表のある区域を利用することは、人間がなにごとかをおこなうためには、その始原的な条件となる」と、マーシャルも書いている。
 土地とのかかわりといえば、まず思い浮かべるのが農業だろう。
 土地が植物ないし動物の生育を支えるには、水と太陽をはじめとしてそれなりの条件が必要である。人間はこれに肥料などを加えることによって、土壌の肥沃度を高める。さらに土地を改良したり、灌漑施設をととのえたり、土壌に合う作物を栽培したりする人間の努力と工夫が、土地のより効果的な利用をもたらす。それでも、土地には本源的な特性があり、人間の努力をもってしてもいかんともしがたいものもある、とマーシャルは述べている。
 とはいえ、どのような場合にも、資本と労働の追加投入にたいする土地収益は早晩次第に減少していく。これが、いわゆる収穫逓減の法則である。
 開墾しないでも役に立つ広大な土地が存在するのなら、資本と労働を投入することによって、ときに収穫逓増が生じることもある。だが、変わらない農業技術で、同じ土地を耕作しつづけるかぎり、収穫逓増がいつか収穫逓減に転ずることはまちがいない、とマーシャルは論じる。
 新開地に入植する場合、最初に耕作されるのは、いうまでもなく耕作に適した肥沃な土地である。ただし、農業や牧畜では、それぞれ適した土地があって、肥沃度の意味合いは異なってくるだろう。
 また、耕作法の変化や需要の変化が、土地の評価を変えることもある。たとえばクローバーを植えて地力を養成してから小麦をつくったほうが、よく小麦が育つことがわかると、それまで見向きもされなかった土地ががぜん注目されるようになる。木材の需要が増えたことによって、山の斜面の地価が上がることもある。ジュートや米への需要が低湿地の開発を促すこともある。また人口の増加によって、かつては無視されていた土地が開発されていくこともある。このように考えていくと、肥沃度というのは絶対的な尺度ではなく、相対的な尺度にもとづく、とマーシャルは述べている。
 収穫逓減の法則を打ち出したのはリカードだが、リカードは肥沃度を絶対的なものととらえたために、その法則をあまりに単純化してしまい、多くの誤解や批判を招くことになった、とマーシャルは論じている。肥沃度というものは、周辺の人口の変化や、市場の広がり、新たな需要の発生などによって、その評価が異なってくる。
 逆にいえば、土地にたいする収穫逓減の法則は、きわめて限定的な条件のもとで成り立つのである。それは耕作可能地がかぎられていて、しかも生産方法が変わらない場合に、追加労働によって得られる収穫が次第に減少していくという仮説なのである。マーシャルはこうした前提を抜きに、この法則を拡張することには慎重でなければならないとしている。
 にもかかわらず、収穫逓減の法則が重要なのは、それが生産の「不効用」という考え方を導く土台になっているからである。同じ生産方法のもとで、いくら追加労働を投入しても、生産量の増加割合は次第に減少していく。それは農業に限らない。
 マーシャルはたとえば次のような事例を挙げている。

製造業者がたとえば3台の平削盤をもっていたとすれば、これらの機械によって容易になされる作業の量の限界があるはずである。もしこの限界以上のことをしようと思えば、その機械をつかう平常の作業時間のあいだ時間をむだなくつかうように細心の努力をしなくてはならないし、たぶん超過勤務をもしなければなるまい。このように機械を適正な操業状態までもってきてしまえば、それからあとは努力を注ぎこむにつれて収益逓減が起こる。そしてついには古い機械を無理して稼働させるより新しく4台目の機械を購入したほうがかえって経費の節約になるほど、純収益は減ってしまう。〉

 これは農業における収穫逓減の法則を、製造業にも拡張したケースといえる。
 マーシャルはおそらく、次のような構想をいだいている。古典的な収穫逓減の法則が成り立つのは、限定的な条件のもとにおいてのみである。しかし、一定の条件のもとでは、収穫逓減の法則は、農業だけでなく、生産(供給)一般の法則に拡張することができる。
 こうしてみると、供給面における収穫逓減の法則は、需要面における限界効用逓減の法則とペアになっていることがわかる。
 それにしても、生産面では労働者が搾取され、消費面では消費者が高い品物を買わされるというマルクス主義的な発想とは逆に、生産面では生産者が「不効用」の発生を危惧し、消費面では消費者が消費者余剰を得るというマーシャルの考え方はなかなかユニークである。

nice!(8)  コメント(0) 

眠る本たち その3 [眠る本たち]

本の整理がいっこうに進まない。片付けようとして、眺めているうちに、つい引き込まれてしまうのだ。それをがまんして、また眠る本たちコーナーへ。

(7)幅允孝(はば・よしたか)『本なんて読まなくたっていいのだけれど』2014年、晶文社
img117.jpg
著者の仕事はブックディレクターだという。多くの本を手にとってもらうために、病院や老人ホーム、企業などでライブラリーをつくる仕事をしているとか。本が身近にある生活というのは、とてもいい。最近、ぼくなどは図書館に行くのも、だんだんおっくうになってきた。昔、ためこんだ本を整理して、眠る本たちのコーナーに積み上げるのが、年寄りの日課になっている。〈頭で理解するのではなく、体で感じること。その感触を記念写真のように飾っておくだけでなく、日々の生活に染み込ませること。良い音楽を聴くと、ご飯がおいしくなる。良い本を読むと、眠りが深くなる。なんていうのが結局のところ一番幸せな気がするのだけれど、皆さんはどうだろう?〉

(8)内田樹・鈴木邦男『慨世の遠吠え──強い国になりたい症候群』2015、鹿砦社
img118.jpg
新左翼の内田と新右翼の鈴木は、ともに天皇主義者で、日本の将来を憂いている。天皇主義者といっても国家主義者ではない。独立自尊の個を尊ぶ。非戦ということでも共通している。鈴木は内田に合気道の稽古をつけてもらい、映画『仁義なき戦い』をともに鑑賞する。そんなふうに交流しながら、1年にわたって何度か対談してできあがったのがこの本だ。ふたりとも日本がますますアメリカ寄りになり、アメリカに追従するようになっていることに懸念をいだいている。ふたりとも猛烈な読書家だが、とりわけ鈴木の読書量にはおどろく。ぼくには平岡正明や竹中労、三島由紀夫、吉本隆明についての話が懐かしかった。

(9)柄本明『東京の俳優』(聞き書き小田豊二)2008年、集英社
img119.jpg
柄本明は何となく田舎の出身だというイメージを持たれがちだが、れっきとした東京出身。それも昭和23年(1948)、銀座の木挽町生まれだという。都立王子工業高校を出て、精密機械の商社に就職したが、社長の新年のあいさつを聞いているうちに、いやになって、じきに会社を辞めてしまったという。21歳のことだ。そのころ柄本は早稲田小劇場と出会い、アングラ演劇に傾倒するようになった。残念なことに、ぼくはあのころ演劇とは縁がなかった。いまでは取り返しがつかない。柄本はその後、東京乾電池という劇団をつくり、ベンガルや高田純次らとともに大活躍した。ぼくが知っているのは、映画やテレビの脇役としての柄本明でしかない。でも、とても存在感のあるいい役者だと思う。最近、その芸にはますます磨きがかかっている。これも演劇人として長く歩んだ成果といえるだろう。

(10)マイク・ダッシュ『難破船バタヴィア号の惨劇』(鈴木主税訳)2003年、アスペクト[原著は2002年]
img120.jpg
これもいただいた本だ。申し訳ないことに読んでいない。映画化されたというが、日本でも公開されたのだろうか。訳者あとがきによると、バタヴィア号はオランダ東インド会社の貿易船で、1628年にジャワ島に向け、処女航海に出たが、途中で難破し西オーストラリアの珊瑚礁に乗り上げたという。船長が救助を求めるため、補助艇でジャワ島に向かっているあいだに、珊瑚礁ではイエロニムス・コルネリスという男が権力を握り、100名以上を惨殺する事件を起こしていた。イエロニムスは異端思想の持ち主で、サイコパスだったという。極限状況に置かれた人間がどれほど残酷になれるのか。事件を忠実に再現した恐ろしい実話だ。

nice!(6)  コメント(0) 

ならずもの国家その後 [時事]

 ならずもの国家というのは1990年代末にはやったことば。アメリカが自分たちのルールにしたがわない独裁国家につけたレッテルだといってよい。当時、アメリカは、北朝鮮、イラク、イラン、アフガニスタン、リビアをならずもの国家と呼んでいた。
 アメリカはこれらのならずもの国家を、戦争や謀略で、徹底的に痛めつづけた。その結果、現在、旧来の国家体制を維持しているのは、北朝鮮とイランだけとなった。
 アメリカこそならずもの国家だという言い方がある。というのもイラク、アフガニスタン、リビアの体制を強引に倒したのはアメリカにほかならなかったからだ。そして、そのあとに残されたのは、荒廃と混乱、暴力、そして世界中へのテロの拡散だった。
 イランは2015年に欧米諸国・ロシアと、核物質の製造・蓄積を制限する核合意を締結することで、体制の存続をはかった。とはいえ、アメリカとの緊張関係はいまだにつづいている。
 北朝鮮はイランとは逆の方向をとった。核開発を推進し、アメリカを攻撃しうるミサイルをもつことで、その体制を維持しようとしている。
 北朝鮮が目標とするのは、アメリカに頭を下げさせることである。
「これまで、ならずもの国家、悪の枢軸などと北朝鮮を非難したのはまちがっておりました。これからはお隣の中国と同じように、ぜひ仲良くさせていただきたいと思いますので、どうぞよしなに」と言わせることである。
 だが、はたして、北朝鮮の思わくはそううまくいくだろうか。
 けっきょくISを生みだすことになったイラクでの戦争を後悔しているようにみえるアメリカは、いま北朝鮮と戦争したくないだろう。石油が豊富にあるイラクとちがい、戦争するメリットは何もない。加えて、戦争のもたらすリスクはひじょうに高い。
 いまや東アジアは核の海になった。
 中国、北朝鮮、ロシア、そしてアメリカの核の傘のもとにおかれている(つまりいつでも核を持ち込める)韓国、日本と並べてみれば、東アジアにはいったいどれほど核が充満していることだろう。それが、中東と東アジアのちがいである。
 東アジアでの戦争は、究極的には核戦争を招くことになる。それでも金正恩、ないしトランプは核のボタンを押すことを躊躇しないのだろうか。
 たとえ核戦争にいたらないまでも、戦争は北朝鮮を壊滅させるだけでなく、韓国、そして日本にも巨大な被害をもたらす可能性がある。
 経済制裁を強化して、北朝鮮がまいりましたというのを待つのが、アメリカや日本がとっている当面の作戦である。そして、北朝鮮が6カ国協議で、核開発をやめることに合意すれば、少なくとも北朝鮮の体制は維持され、各国との経済関係も修復されることになる。うまくすれば、アメリカとの平和条約も締結されるかもしれない。
 だが、北朝鮮が核開発をやめることはないだろう。なぜなら、それだけが、北朝鮮がならずもの国家として排除されるのを防ぐ唯一の手立てだからである。
 かつて吉本隆明は『「ならずもの国家」異論』(光文社、2004)のなかで、核拡散防止条約(NPT)の正当性に異論を唱えたことがある。

〈ぼくは、核拡散防止条約はおかしいとおもっています。公正にいって何がおかしいのかといえば、この条約が締結された時点で核を保有している国はそのまま核をもっていてもいいけれど、いま核をもっていない国はこれからも核を保有することはできない、それは許されないんだという点です。これはどうかんがえてもおかしい。そんなばかな話はないわけです。……
 核をもっていない国は今後とも核をもてないと決めるなら、その一方で、すでに核をもっている国はどんなかたちでもいいから次々に核を廃棄するというのでなければ公正ではありません。条約をつくったとき、核の不所持と核の段階的廃棄を同時に決めなければいけなかったのに、そうしなかった。国際問題ではいつも強いやつの主張が通ってしまいますから、アメリカやロシアのつごうのいいように決まってしまったわけです。そんな核拡散防止条約は根本的にいってとてもおかしいわけです。〉

 現在、NPT条約のもとで、核の保有を認められているのはアメリカ、ロシア、イギリスフランス、中国の5カ国である。しかし、条約に加盟していないインド、パキスタン、イスラエルも核兵器を所有している。またソ連が崩壊したときに、ベラルーシ、ウクライナ、カザフスタンの核兵器はロシアに引き渡されたとされるが、どこかの地域にひそかに流出した可能性もある。
 北朝鮮の核開発は、NPT体制にたいするあからさまな挑戦だといってよい。それはアメリカだけでなく、中国への反発でもあった。なぜなら、北朝鮮は同盟国である中国の核の傘にはいらないことを、身をもって示したからである。
 吉本がNPT条約を批判したのは、なにも北朝鮮の核開発を支持したわけではあるまい。まして、アメリカの前にちぢこまって、核の選択などできない日本を揶揄したわけでもないだろう。
 核兵器の広がりは、大国が力で押さえ込もうとしても、もはや不可能になっているのが現実であり、NPT条約に代わる新たな平和構想の枠組みを考える時期にきたのではないか、との感想を述べたまでである。
 現代人は底知れぬ核の不安のなかで、生きることを余儀なくされている。
 科学技術の進歩とともに、軍事技術の開発と広がりもとどまることをしらない。そのことに気が滅入る。いったんつくりだされた武器は、陳腐化されることで見捨てられることはあっても、どんどん効果的に人を殺傷する能力を高める方向に進んでいる。
 これはみずからを絶滅の淵に追いこまないではいられない人類の宿業なのだろうか。
 北朝鮮の核開発が、世界、とりわけ日米韓に脅威を与えていることはまちがいない。しかし、いまから13年前に、吉本はすでにこんなことを述べている。

〈日本国の一連の動きを見ていてよくないなと感じるのは、「北朝鮮問題」というものがあって、その北朝鮮問題をアメリカに片づけてもらいたいがために、アメリカにべったり同調しているように見えてしまうことです。北朝鮮の脅しが日本政府に対しても、日本の国民一般にたいしてもずいぶん効いているんだなと驚くほどです。
 でもぼくは、北朝鮮の脅しなんて危機でも何でもないとおもっています。北朝鮮もミサイル発射の構えを見せるし、日本のマスコミも危機だ危機だと煽るけれども、本当をいえばあんなのは何でもないことです。北朝鮮がいくら脅かしたり、ソウルや東京を火の海にしてやると広言しても、その程度で戦争が起こることはありません。太平洋戦争中の体験からしてもぼくはそうおもいます。あれは単なる脅しにすぎない。戦争なんかする気がないからああいっているだけのことです。〉

 メディアでこういう意見を述べると袋だたきにあうが、ぼくは卓見だと思う。
 いいことだとはけっして思わないけれど、北朝鮮の核開発は(中国の核開発と同様)、東アジアに奇妙な平和をもたらしている。ピリピリとした平和といえばいいだろうか。いままでは北朝鮮などさっさとつぶしてしまえと思っていたのに、少なくとも、北朝鮮とはそう簡単に戦争できないぞという気分が広がっている。
 だが、戦争の危険性がないわけではない。
 吉本はこう話している。

〈戦争というものは脅し程度のことからははじまりません。100パーセントはじまらないといっていい。戦争をはじめるなら黙って奇襲をかけるとか、いきなりミサイルを撃ち込んでくるとか、そういう方法をとるはずです。じぶんたちでできるかぎりの計画を練って、またあらんかぎりの武器を使ってまず攻めてきます。黙ってそうするはずです。それが戦争です。それ以外のやり方、たとえば演習するからそこをどいてくれとか、演習でミサイルを飛ばすとか、そんなことをいっているうちは戦争がはじまることは絶対にありません。
 いまの情況よりもっときわどいことにならなければ戦争ははじまらないし、また北朝鮮も戦争をできないだろうとおもいます。きわどいこととは何かといえば、それはアメリカが北朝鮮を正面の敵として扱い、アメリカ流の脅しを仕掛けたり、日本は日本で国民の多くが憲法改正に賛成して、自衛隊は海外で戦争をしてもいいんだという世論が出てくることです。〉

 吉本の懸念は、トランプ政権の登場や、安倍政権のもとでの新安保法制、「共謀罪」の成立、さらに憲法改正の動きなどで、いっそう深まり、より現実のものとなろうとしている。
 アメリカはいざ戦争となると、相手を叩きのめすまでやめないマッチョな国だ。まして戦争がアメリカ本土におよばないとなると、どんなこともやりかねない。吉本が心配するのは、日本の自衛隊がそんなアメリカとくっついて、北朝鮮と戦争するのではないかということだ。
 北朝鮮が侵攻してきたのならともかく、北朝鮮との戦争は避けるべきだ。
 北朝鮮は不幸な国だ。ぼくは北朝鮮が、いつか自由で、人権が守られ、開かれた豊かな国になることを望むけれども、それにはまだ時間がかかるかもしれない。あるいは、とつぜんの変化があるかもしれないが、それはわからない。
 しかし、戦争は解決にはならないということだけは主張したい。いまはピリピリした平和のなかで、さまざまな手立てをとりながら、じっと次の展開を待つしかないだろう。

nice!(5)  コメント(0) 

伊勢──栗田勇『芭蕉』から(10) [芭蕉]

 小夜の中山は、東海道は金谷宿と日坂(にっさか)宿のあいだの峠。標高はさほどでもないが、急坂なので、旅人は難儀する。芭蕉は早朝、金谷から馬で峠までのぼった。途中、うとうとしていたので、小夜の中山に着いたといわれて、びっくりし、目が覚めたのである。
 西行ゆかりの地、小夜の中山をうかうかと通り過ぎるわけにはいかない。
 西行(1118-90)はここで次のような歌を詠んでいた。

  年たけてまた越ゆべしと思ひきや
   命なりけりさよの中山

 絶唱である。年をとって、もう一度越えることなど無理と思っていた小夜の中山を越えたのだ。いつ消えるともしれぬ命のなかで、いま宇宙にたったひとつあるこの命のありがたさを思わないわけにはいかない。
 西行の歌に芭蕉は和している。

  命なりわづかの笠の下涼ミ

 この句は『芭蕉句集』にとられたもので、小夜の中山を越えたときの句ではないかもしれない。
 それでも、このとき芭蕉の脳裏に西行の歌が響いていたことはまちがいない。西行の命には、とてもおよびもつかないが、自分もちいさなこの命を生きているのだ。
 折口信夫流にいえば、芭蕉にとって西行の歌は、ひとつの「らいふ・いんできす(命の指標)」にほかならなかった。
 ここで『野ざらし紀行』は一気に伊勢に飛んでいる。
 貞享(じょうきょう)元年(1684)8月中旬[現在の暦なら9月下旬]に、門人千里(ちり)とともに江戸深川を出発した芭蕉は、8月末、伊勢に到着した。伊勢まで10日少しかかっている。
 こう記している(現代語訳)。

〈松葉屋風瀑(まつばやふうばく)が伊勢にいるのを尋ね訪れて、10日ばかり足をとどめた。
 自分は武士のように腰に刀を差しておらず、首に頭陀袋(ずだぶくろ)を下げ、手に18個の数珠をもっている。
 僧に似てはいるが、世間の塵にまみれている。かといって頭の髪がないので、俗人でもない。私は僧でないけれど、浮屠(ふと)[ホームレス]のたぐいであって、神前に入ることを許されない。
 日暮れて外宮に詣でた。一の鳥居の下はほの暗く、御燈(みあかし)がところどころに見え、[西行の歌った]このうえもない峰の松風が身にしむように覚えて、感動のあまり、

  みそか月なし千歳(ちとせ)の杉を抱く嵐〉

 松葉屋風瀑(?-1707)はいわゆる御師(おんし)の家柄で、江戸に滞在したとき、談林派の素堂や芭蕉と親交があった。
 伊勢参りを案内するのが御師だ。逆に、御師に頼まなければ、伊勢参りができなかった。
 滞在先としては気楽だった。
 芭蕉は僧形をし、頭を丸めているため、内宮、外宮とも三の鳥居より内での参拝は許されない。僧には穢(けが)れがあるとみなされたからである。
 そのため、芭蕉は内宮にははいらず、外宮の一の鳥居のところまで行き、はるかに清浄の場を拝し、西行も味わったであろう森厳の気を感じたのである。
 みそか(30日)なので月は出ていない。千古の神杉を嵐気(らんき)、すなわち山の気配が包みこんでいる。そのさまに、芭蕉は心打たれた。
 宇治山田に10日間滞在するうち、芭蕉はいわゆる西行谷も訪れている。西行谷は、西行が草庵をむすんでいたとされる谷である。あくまでも伝説にすぎないが、西行と聞けば、そこを訪れてみるのが、いかにも芭蕉である。
 芭蕉が訪れたころ、ここには神照寺という寺があった。現代の五十鈴公園の南側あたり。内宮からはさほど離れていない。ふもとには五十鈴川から分かれた小川が流れていた。
 芭蕉はおよそこう記している(現代語訳)。

〈西行谷のふもとに小川が流れていた。女どもが芋を洗っている。それを見て、

  芋洗ふ女西行ならば歌よまむ

 その日の帰り、ある茶店に立ち寄ったところ、蝶という女が「あたしの名前で句をつくってみて」といい、白い布をだすので、それにこう書きつけた。

  蘭(らん)の香や蝶の翅(つばさ)に薫物(たきもの)す

 さらに閑人の茅舎(ぼうしゃ)を訪れたときの句。

  蔦(つた)植ゑて竹四五本の嵐かな〉

 川で芋を洗う女を見て西行を思うのが、いかにも芭蕉らしい。
 おそらく天王寺江口の遊女と西行の交流を思い浮かべたにちがいない。
 栗田勇は、聖から俗への反転に、俳諧の即興と滑稽のおもしろさがあるとしたうえで、この句を「芋洗うせせらぎに白い女のふくらはぎ、洗われた芋の白さ、そして月光の砕け散る川のせせらぎの輝きを連想させる趣深い俳諧と思われる」と評している。
 茶店の女将(おかみ)に頼まれて、芭蕉が即興で句をしたためる場面も楽しい。さぞかし、色っぽい女将だったのだろう。
 おや蘭の香りがするぞ。蝶の羽根(お蝶さんのたもと)には、香がたきしめてあるのかな。
 漢詩の風格を保ちながら、くだけてみせるところに滑稽の妙味がある。
 そのあと、句は風雅の境地へと転調する。
 伊勢には神々しさと派手な遊興が融合していた。
 その静けさとにぎやかさの混沌をよそに、閑居を保っている人もいる。
 その茅屋にはツタがからまり、四、五本植えられた竹のあいだを風がそよいでいる。芭蕉はこんな住まいが好きなのだ。

nice!(5)  コメント(0) 

眠る本たち その2 [眠る本たち]

捨てるに捨てられない眠る本たち つづき

(4)松本重治編集世話人『松方三郎』1974年、共同通信社
img113.jpg
松方三郎(1899-1973)の追悼集。松方は松方正義の13男として生まれた。乃木希典、鈴木大拙、河上肇をわが師と呼んでいる。学習院時代から山に登りはじめ、京都大学を卒業後、日本とスイス・イタリアのアルプスを踏破する。れっきとしたマルクス青年だった。東亜経済調査局、太平洋問題調査局に勤務。その後、新聞連合社、同盟通信社に勤める。1942年満州国通信社理事長。1945年、共同通信社常任理事。1946年、日本山岳会会長。1949年共同通信社専務理事(1960年まで)。等々。1970年には日本山岳会のエヴェレスト登山隊長を務めた。山の松方として知られるが、メディアの指導者でもあり、読書人でもあった。食い道楽だったと松本重治は語っている。あたたかいご飯にウニやイクラとバターをのせ、それをこね回して、ネコご飯のようにして食べるのが好きだったという。ほかに好きなのがたい焼きとおはぎ。甘い物好きは、松方家の伝統だったらしい。

(5)渡辺和博とたらこプロダクション『金魂巻(きんこんかん)——現代人気職業31の金持ビンボー人の表層と力と構造』1984年、主婦の友社。
img115.jpg
マル金(金持ち)、マルビ(貧乏人)の分類は当時、評判になった。ここでイラストつきで取り上げられている職業(?)は、女性アナウンサー、医者、イラストレーター、インテリア・デザイナー、エディター、オートバイ・レーサー、オフィスレディ、お父さん、学者の卵、カメラマン、看護婦、銀行員、グラフィック・デザイナー、コピーライター、シェフ、社長の娘、主婦、商社マン、少女マンガ家、女子大生、スタイリスト、プロデューサー、不良少女、弁護士、放送作家、ホステス、ホモ、ミュージシャン、モデルと多種多様。この時代、新種の職業が生まれていた。しかし、同じ職業でもマル金、マルビでは大違い。たとえば、マル金のお父さんは世田谷で生まれ、大学をでると、すぐに父親の会社の取締役になり、ベンツに乗って、夏休みは軽井沢の別荘ですごし、子どもをロスのディズニーランド(まだ浦安のディズニーランドはできていなかった)につれていき、よくホテルオークラの「桃花林」で食事をする。これにたいしマルビのお父さんは瀬戸内海の大島で生まれ、一生懸命勉強して、東京の大学に進学し、下落合で下宿し、卒業すると缶詰工場に就職し、しばらくたって結婚すると、アパートでくらし、子どもが生まれると、千葉の八千代台に建て売り住宅を買い、子どもの誕生日にはみんなでデニーズに行く。こんな調子で、マル金、マルビの比較が延々とつづく。やっぱり、この世の中には金持ちと貧乏人がいることを痛感する。そして、最近は勝ち組、負け組の分類も。世の中、基本的にまちがっている。

(6)藤田紘一郎『笑うカイチュウーー寄生虫博士奮闘記』1994年、講談社
img114.jpg
「寄生虫の卵を見たとき、僕はほんとうに安らかな気持ちになる。……まして、苦労して10メートルものながいサナダ虫を頭から尾まですっぽり完全な形で患者さんから駆虫したときなど、最高の幸福感を味わう。」これは寄生虫大好きの医学博士による痛快エッセイ。昔、人はカイチュウと仲良く共存していた。いまでも世界人口の半分が寄生虫病に悩まされているが、人間と寄生虫の長い共生関係の歴史には、深い意味が隠されているという。いま日本ではかつて70パーセントあったカイチュウ感染率が、わずか20数年のうちに0.2パーセントに激減してしまった。その結果、アトピー性皮膚炎や花粉症が増えたという説にはちょっと驚いた。その説明は本書をご覧ください。

nice!(6)  コメント(0) 

野ざらしの旅──栗田勇『芭蕉』から(9) [芭蕉]

 芭蕉は貞享(じょうきょう)元年(1684)8月から貞享2年4月にかけ、長い旅にでる。
 その旅の前半を栗田勇は次のように要約している。

〈貞享元年(1684)8月、41歳の芭蕉は、門人千里(ちり)を伴い、「野ざらしを心に」、つまり野垂れ死にを恐れず、江戸深川を出発。東海道を伊勢国まで直行し、故郷の伊賀国に着いたのは9月の初め、前年に亡くなっていた母の遺髪に慟哭(どうこく)。千里と別れ、ひとり大和国吉野の奥に西行の跡を訪ねた。〉

 苗村千里(?-1716)は芭蕉の門人で大和の竹内(たけのうち)村(現葛城市當麻[たいま]町)出身。芭蕉に同行したのは、かれもまた帰郷するためだったろう。
 栗田の簡潔な要約にしたがえば、貞享元年の旅で、芭蕉が目的としたのは、前年6月に亡くなった母の菩提をとむらい、西行ゆかりの地を訪ねることであった。
 著作を刊行する予定などなかった。しかし、感興にまかせて、筆を走らせ、句を詠み、絵を添えるにつれて、それはおのずから紀行となった。
 その著作のタイトルは芭蕉みずからつけたのではない。その草稿を、のちの人が『野ざらし紀行』とも『甲子吟行[画巻](かっしぎんこう[えまき])』とも呼ぶようになったのである。
 紀行は地の文と句、絵によって構成されている。

img112.jpg
[『野ざらし紀行』冒頭]

 その冒頭を現代文にしてみよう。

〈千里の旅を行くにあたり、道中の糧食を用意するわけでもない。「三更(さんこう)月下無何(むか)に入る」[夜半の月下、無為自然の境地]と歌った昔の人[荘子]の杖(つえ)[教え]を頼りにして、貞享甲子(かっし)秋8月[1684年9月]、川岸の破れ家を出発する。風の声がいかにも寒げだ。

  野ざらしを心に風のしむ身かな
  秋十年(ととせ)かへつて江戸をさす故郷

箱根の関を越える日は雨が降って、山がすっかり雲に隠れていた。

  霧しぐれ富士を見ぬ日ぞおもしろき〉

 実際の原文では、地の文は1字下げで書かれ、句は天つきで書かれているが、ここでは便宜上、それを逆にしてみた。
 芭蕉の旅立ちはいかにも不安げにみえる。カネもなければ、からだに自信があるわけでもない。まるで乞食坊主のような旅立ち。
 野ざらしとは、野にさらされる遺骸(むくろ)のこと。旅先で野垂れ死にするかもしれない哀れな身だ。
 もちろん、そのイメージは虚構であり、半ばつくられた気分だったかもしれない。けっしてカネがあるとはいえないが、旅の目算はついていた。むしろ旅に出られるなら、いつ死んだっていいという喜びの気分のほうが強い。
 しかし、いざ出発してみると、江戸にきて早くも10年、江戸がもう第二の故郷になっていることに、いまさらながら気づく。多くの門人や俳友との別れはつらい。そこで、芭蕉はまた帰ってくるよと歌うのである。
 箱根の関を越えたときは、雨が降っていて、天気が悪かった。道は難渋しただろう。
 これまでは毎日、富士を仰ぎ見ながら、東海道を歩んできた。きょうは霧しぐれのなか、富士がまったく見えない。だが、見えないからこそ、さまざまな姿を思い起こし、富士がかえってしのばれるのである。
 芭蕉がショックを受けたのは、富士川を船で渡ったときである。川のほとりに3つぐらい(いまなら2歳)の子が捨てられているのを見た。
 現代文にすると、こう記している。

〈富士川のほとりを行くと、3つぐらいの捨て子があわれげに泣いていた。この川の激しい流れを思うと、浮き世の波をしのぐことはできまい。露ばかりの命を待つだけであろうと捨て置いてしまった。小萩に秋風が吹くなか、花はこよい散ってしまうかもしれない。あすにはしおれてしまうかもしれない。そう思うと切なくなり、たもとから食べるものを取りだし、投げて通ると

  猿を聞く人捨て子に秋の風いかに

いったいどうしたのだろう。お前は父に憎まれたのか、母に疎(うと)まれたのか。父がお前を憎んだわけではあるまい、母がお前を疎んだわけでもあるまい。これは宿命なのだ。お前はわが身のつたなさを泣くがいい。〉

 猿の句は、渓谷で猿が啼くのを詠んだ杜甫の詩「秋興八首」を踏まえているという。あるとき聞こえてきた猿の悲痛な声は、旅する杜甫の心を動かし、断腸の思いを誘った。
 芭蕉もまた明日をも知れぬ、この人捨て子の運命に思いをはせている。
 人の世ははかない。しかし、たくましく生きよという願いが猿の一語にこめられている。
 次はいよいよ東海道の難所、大井川である。
 江戸幕府はここを攻守の要とし、架橋、渡船を許さなかった。そのため、大井川を渡るには主として輦台(れんだい)か肩車に頼らねばならなかった。旅人は渡しを仕切る人足たちに悩まされたようである。
 芭蕉の記録は、こうである。例によって現代文で。

〈大井川を越えるはずの日は、一日中雨が降っていたので、

  秋の日の雨江戸に指をらん大井川[千里]

 馬上の吟

  道のべの木槿(むくげ)は馬に食はれけり

二十日あまりの月[未明の有明の月]がおぼろに見えて、山ぎわはまだ暗い。馬上でうとうとしながら何里か進むが、まだ鶏も鳴かない。杜牧の詩でいう早行の残夢を味わっているうちに小夜(さよ)の中山に着いたので、とつぜん目が覚める。

  馬に寝て残夢月遠し茶の煙(けぶり)〉

 芭蕉は大井川で句を詠まず、同行の千里(ちり)の句に、みずからの感想をゆだねている。
「秋の日の雨」と字余りにしたのは、雨にうんざりする様子をあらわしたものか。江戸では、友人たちが、そろそろ大井川を渡るころかと指おり数えているかもしれない。これから大井川を越える緊張感のようなものが伝わってくる。
 これにたいし、芭蕉の吟は、大井川を越えて、ほっとした様子をえがいたものか。
 芭蕉は金谷宿から馬に乗っている。
 栗田はいう。
「未明の薄闇のなかに、仄白(ほのじろ)く浮かぶ木槿の花と香りに取り合わせも優美であり、薄明の中でとつぜん馬が木槿の花を食うというのも、深みが増してよい風景であろう」
 芭蕉の地の文は、唐の杜牧(803-52)の「早行の詩」にしたがう。
 芭蕉は早朝、馬に乗って出発し、夢うつつで小夜の中山に着いた。
 有明の月がまだ残っている。
 静岡県で茶畑が盛んにつくられるのは明治以降だ。江戸期は、このあたりまだ茶畑が広がっていない。

〈「茶の煙」は、峠の茶屋の朝茶を淹(い)れる煙か、民家の朝の食事の煙かもしれない。あるいは芭蕉のフィクションかもしれない。〉

 栗田はそう書いている。
 だが、芭蕉は小夜の中山に着いて、びっくりし、とつぜん目が覚める。
 そこが訪れたいと念願していた、西行ゆかりの歌枕の地だったからである。

広重「53次」.jpg
[広重『東海道五十三次』日坂、佐夜ノ中山]

nice!(8)  コメント(0) 

眠る本たち [眠る本たち]

 5000冊近くある本(文庫や新書が多い)の整理をはじめた。
 悲しいことにおそらくその3分の2は読んでいない。
 そのうち読もうと思って買った本、人からもらった本、仕事のために買った本、たまたま見かけて手に入れた古本、さまざまな本がある。
 このあいだウェブ論座の書評欄「神保町の匠」をみていたら、高橋伸児さんが紀田順一郎の『蔵書一代』という本を紹介していた。
 稀代の大蔵書家といわれる紀田さんは、80歳にして3万冊の本を泣く泣く古書店に売ってしまったそうだ。
 紀田さんの場合は、2日間延べ8人のアルバイトを動員して、12畳の書斎、10畳半の書庫から、3万冊の本を運びだし、4トントラック2台が遠ざかるのを眺めたのだという。80歳にして、人生、最大の痛恨に遭おうとは、と紀田さんが書いている。
 ぼくは紀田さんほど値打ちのある本をもっているわけではない。
 けっきょく読めないのに、やたら買いこんだ結末が、大量のツンドク本になってしまったのだ。これも消費能力を超えた、大量消費時代の産物である。
 ブックオフはもちろん、古本屋ももっていってくれない本が多い。おそらく図書館も引き取ってくらないだろう。
 しかし、いずれは処分しなければならない。
 思い切って捨てるつもりで、整理をはじめたという次第。
 いまのところ捨てたのは300冊ほど。
 ところが、ここで作業が中断してしまった。捨てるのがしのびなくなってしまったのだ。
 自分のいのちを考えると、あとは読めてもせいぜい10年というところだろう。
 それなのに本が捨てられない。
 けっきょく、元の木阿弥。捨てるつもりでいた本は、読まないまま、また本棚の上の空きスペースに積み上げることになりそうだ。
 眠る本たちである。
 たぶんもう読まないにせよ(あるいはとつぜん気力が湧いて読むかもしれないが)、せめて眺めるだけでもと思い、手当たり次第リストをつくってみることにした。

(1)羅漢中『三国志』(小川環樹・武部利男訳)岩波少年文庫、全3巻、新書判、約1000ページ。1984年(初版は1980年)岩波書店
img109.jpg
少年文庫だが、大人でも読める。英雄豪傑の勇壮な物語であり、政治の教科書にもなりうる。2世紀から3世紀にかけ、中国は3つの国にわかれて争っていた。三国志は蜀の劉備玄徳を中心とする物語。魏の曹操は憎たらしい悪人として描かれている。10冊の文庫本を半分強に縮めたものだが、原文に忠実な訳だという。三国志はこの少年文庫を読むのがいちばんだろう。名シーンのかずかず、関羽、張飛の活躍。諸葛孔明の知謀。わくわくする。これはたぶん娘のために買った本だ。

(2)チャールズ・ラム、メアリー・ラム『シェイクスピア物語』(野上弥生子訳)、岩波少年文庫、新書判約270ページ。1986年(初版は1956年、原本は1807年)岩波書店
img110.jpg
イギリスの随筆家、チャールズ・ラムとその姉によるシェイクスピア劇のダイジェスト。全20篇。劇ではなく物語になっている。そのうち翻訳では13篇がセレクトされている。リア王、マクベス、オセロ、ハムレット、ロメオとジュリエットなどの悲劇をはじめとして、ヴェニスの商人、あらし、からさわぎ、お好きなようになどの喜劇が収められている。シェイクスピアの喜劇はよく知らなかったが、ぱらぱらと読むと、けっこうハッピーな気分になる。これも娘のために買った本だが、どうも読んだ形跡がない。

(3)紀田順一郎『コラムの饗宴』四六判約350ページ。1980年、実業之日本社
img111.jpg
最近、気のきいたコラムが少なくなった。この本は大蔵書家(だった)著者が約10年にわたって、いろいろな雑誌に書いたコラムを集めたもの。ばかばかしくも、じつに面白い。引用しているときりがないが、たとえば、こんなふう。
〈永井荷風(1879-1959)は晩年、月に一度ぐらい性欲のハケ場を求めた。ある人が「先生アレの方は、まだお用いになっているんですか」ときくと、「アレは時々やらないと、あとがきかなくなるんでね」と答えた。〉
〈田山花袋(1871-1930)が死ぬとき、かけつけた島崎藤村(1872-1943)はその耳もとに口をやって熱心に聞いた。「死ぬときの気持はどうだ?」〉

nice!(7)  コメント(2) 

虚栗──栗田勇『芭蕉』から(8) [芭蕉]

 のちにお七火事と呼ばれる天和2年(1682)暮れの火災で、芭蕉は草庵を焼けだされ、しばらく甲斐の谷村(やむら、現都留市)に身を寄せたあと、翌年5月、江戸に戻ってきた。
 その間の消息は伝わっていない。
 おそらく江戸の門人たちが芭蕉の帰郷をうながしたのだろう。
 帰京後、芭蕉は門人のだれかの家で、しばらく世話になっていたにちがいない。
 このころ、弟子の其角(きかく)が編集した句集『虚栗(みなしぐり)』が刊行される。作者は其角や嵐雪(らんせつ)、杉風(さんぷう)、才丸(さいまろ)、素堂(そどう)など114名。江戸談林派や京、大和の人もまじっている。
 芭蕉はこの句集に跋文(ばつぶん)、つまりあとがきを寄せた。
 栗田勇によれば、『虚栗』の特徴は、漢詩文調、破調だという。
 虚栗とは、むしくい栗のこと。だれも見向きもしないだろうという謙遜の裏に自負がひそんでいる。
 芭蕉の跋文は、サービス満点で、みごとだが、どことなく気合いがはいっていない。それをそのまま引用してもとまどうばかりだろう。無理を承知で、現代文にしておく。

〈栗と呼ぶ本書には、その味わいが4つある。
 すなわち、李杜[李白・杜甫]、寒山、西行、白楽天。
 李杜が酒を飲んで心に達し、寒山が粥をすすって法を悟る。これによって、その詩は宏遠なものとなった。
 侘(わ)びと風雅が全句をつらぬいているわけではない。言ってみれば西行の山家(やまが)を訪ねたものの、そこで見つけたのは、人のひろわぬむしくい栗というところか。
 恋の句も満載だ。昔は西施の哀愁の顔(かんばせ)、いまはカネを稼ぐ小紫[江戸の遊女の名]。唐の上陽宮の閨(ねや)で、[楊貴妃に帝の寵を奪われた]宮女たちの衣桁(いこう)にツタがからまっているありさま、さらに近い世俗のほうをみると、親に心配をかける箱入り娘や、嫁姑のすさまじい争いもでてくる。寺の稚児(ちご)や若衆の情けの句も削っていない。白楽天の歌を仮名にやつして、その初心を救う便宜となればこれ幸いだ。
 その語句、表現は多様で、虚実ないまぜ。宝の鼎(かなえ)のために句を練り、龍の泉のために文字を鍛える。これはほかならぬ自分の宝となって、後日だれかがこれを盗むのを待とうというものだ。〉

 じつにテキトーな訳で恐縮するが、何となくこの句集の雰囲気がわかってもらえば、それでいい。全句に李杜[李白・杜甫]、寒山、西行、白楽天の味わいと格調が投影されている。その点で、『虚栗』はこれまでにない新しい句集だった。
 江戸時代を閉鎖的だったと考えるのはまちがっている。それは、哲学、文学、詩、絵画を問わず、庶民のなかに中国文化や王朝・中世文化が、滔々と流れこんだ時代でもあった。
 芭蕉は独(ひとり)ではあるが、けっして孤(ひとり)ではない。江戸だけではなく、全国各地の門人や知人、俳諧愛好者が、芭蕉の活動を支援している。
 その証拠は、芭蕉が甲斐の避難先から江戸に戻ったときに、52名の門人、知人がつどって、芭蕉庵を再建するため寄付をだしあったことをみてもわかる。
 天和3年(1683)9月、山口素堂(1642-1716)を願主とする勧進簿にはおよそ次のように記されていた。ちなみに素堂は江戸談林の推進者で、芭蕉とは古くからの友人だった。

〈前の芭蕉庵が裂(やぶ)れて、新たな芭蕉庵を求めております。2、3人の助けでは間に合いません。多くの助けが必要です。多くの助けを求めるのは、その願いが切実だからです。寄付の額は問いません。有志の方々におまかせします。これを清貧というか、狂貧というか、翁自身はただの貧だといいます。貧のまた貧、許子[古代中国の人物批評家]の貧といいましょうか。それでも一瓢一軒(食べるものや住むところ)は必要です。雨をしのぎ、風をふせぐ備えがなければ、鳥にすらおよびません。誰でも忍びがたいでしょう。そこで、草堂を建立するため、ぜひご協力をお願いする次第です。〉

 あえて孤高の道を選んだ芭蕉を支援しようとする人は、けっして少なくなかった。
 こうして、その冬、新(第2次)芭蕉庵が完成する。その場所は、最初の芭蕉庵とほぼ同じだったという(深川元番所、森田惣左衛門屋敷内)。
 ふたたび芭蕉庵にはいった芭蕉は、ひとつ句を得る。

  霰(あられ)聞くやこの身はもとの古柏(ふるかしわ)

 何となくうれしげである。
 新しい庵に、あられがぱらぱらと落ちる音がする。自分は相変わらずの年寄り。それでもこの天地宇宙のなか、ちいさな庵のもとでどっこい生きている。
 だが、芭蕉はこの庵に安住しない。
 翌年8月には旅にでるのだ。それも一度切りではない。
 残り10年の人生のうち、じつに4年9カ月を旅の空の下でくらすことになるのだ。
 このあたり、やはり芭蕉はただ者ではない。

nice!(6)  コメント(0) 
前の10件 | -