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田中訪中と「迷惑」論争 [われらの時代]


【連載16】
以下は矢吹晋が近刊『中国の政治・経済の虚実』に書いているエピソードだ。
1972年9月25日、訪中した田中角栄首相を迎え、北京の人民大会堂で、周恩来首相が主催する晩餐会が開かれた。
このとき周恩来は「日本軍国主義の中国侵略によって、中日両国人民がひどい災難をこうむった」とあいさつした。
そのあと「君が代」が演奏され、両首脳の乾杯があり、20分ほどしてから、こんどは田中があいさつに立った。
「過去数十年にわたって、わが国が中国国民に多大のご迷惑をおかけしたことについて、私はあらためて深い反省の念を表明する」
これまで盛大な拍手を送っていた中国側が、この肝心なくだりで静まりかえった。
外務省の担当者は、「ご迷惑をおかけした」を「添了麻煩」と訳していた。
これは中国語では「婦人のスカートに水がかかった」ことに対し、軽く「ごめんなさい」という程度の意味になるらしい。
翌日の首脳会談では最初からこの「迷惑(麻煩)」発言が大問題となった。

田中はすでに通産大臣時代から、中国との国交正常化に意欲をみせていた。
訪中の半年前、衆院商工委員会で、こう語っている。
〈私も昭和14年から16年の末まで、満州に兵隊として勤務をいたしておりました。しかし、私は人を殺傷したりするようなことをしたようなことがなかったことは喜んでおります。しかし、私自身も第二次戦争[大戦]で友人をたくさん失っておりますから、その実態を承知しております。また報道せられたいろいろな事象に対しても、中国大陸にたいへんなご迷惑をかけたということは本当に素直にそう感じております。日中の国交が復交せられるときの第一の言葉は、やはりたいへんご迷惑をおかけしましたと、心からこうべをたれることが必要と思います〉
ここでも「ご迷惑」という言葉がふつうに用いられている。
人民大会堂で「わが国が中国国民に多大のご迷惑をおかけした」と述べたときには、とうぜん「心からこうべをたれる」という意図が含まれていたのである。

しかし、中国側はそうは受け取らなかった。
日本が戦争中のことをたいして反省していないと感じた。
翌日の首脳会談で、周恩来は「訳文がよくないのかもしれない」と気づき、田中角栄も、迷惑とは日本では「万感の思いを込めておわびするときにも使う」と説明し、ようやく両国のわだかまりが氷解した。
翌27日夜、田中は毛沢東と会見した。
日本側は大平正芳外相、二階堂進官房長官、中国側は周恩来首相、廖承志(りょうしょうし)中日友好協会会長が同席した。
二階堂によると、そのときのやりとりはこんなふうだったという。

毛 ところで、田中総理が、中国国民に「迷惑」をかけましたといったので、迷惑という言葉がいろいろ問題になっているようですね。彼女[ニューヨーク生まれの通訳、唐聞生]はじめ若いものがうるさいんですよ。
周 彼女は英語がわかるから、二階堂さんがお得意の英語で説明なさったら……
田中 日本では迷惑をかけたということは、二度とふたたびやりませんということです。心からわびていることなんです。
毛 私はわかりましたから、あとは外務大臣どうしで、いいものをつくってください。

そして、このとき毛沢東は田中に『楚辞集註(そじしっちゅう)』を贈った。
屈原の「楚辞」の注釈書である。
この「集註」の一節に、「慷慨は絶えることなく、心は暗く乱れて、迷い惑う」という内容の箇所があり、そこには紛れもなく「迷惑」という文字が用いられていた。
毛沢東は「迷惑」論争が決着した記念として、田中に『楚辞集註』を贈ったのではないか、と矢吹は推測している。
しゃれたことをやるものだ。
これをみても毛沢東がただものでないことがわかる。

なお日本語の「迷惑」について、矢吹はおもしろいことを書いているので、それも引用しておくことにする。
〈武士の社会が成立する以前、すなわち平安朝の貴族社会においては、「迷い、惑わす」行為は、広く行われていた(例えば陰陽道はその一例)。しかし、鎌倉時代になり、「いざ鎌倉へ」、常時馳せ参じて一命を主君のために捧げることを最高の美徳と観念する武士道の時代になると、「迷い、惑わす」行為はむしろ忌むべき行為とみなされるようになったのではないか。……武士にとって「迷い、惑わす」ものは、「迷惑」のタネに転じたのではないか。そのとき武士は心の迷いを「迷惑千万」「迷惑至極」とばかりに切り捨てた。こうして中国から導入された日本漢語が意味を変えた。すなわち日本漢語としての「迷惑」の意味を変えたのは、武士道ではないか、と思われる〉
そういえば、ぼくなども親から「人に迷惑をかけるな」と言われて育ったものだ。
それを、いまの若者たちは「別に親に迷惑をかけてないから、いいじゃん」などという。
親は、どうしていいか、迷い、惑わされる時代になった。


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