So-net無料ブログ作成
検索選択

万国博と石坂泰三 [われらの時代]

【連載35】
城山三郎が石坂泰三のことを描いた『もう、きみには頼まない』を読んだ。
経団連会長の石坂泰三が日本万国博覧会会長を引き受けたのは、70年大阪万博の開かれる3年前で、81歳のときだ。
佐藤栄作政権の通産大臣、三木武夫にしつこく頼まれ、ついに断れなくなった。
城山は小説で、こう書いている。
〈行き場がなくなった川の流れのように、その役が自分のところに回ってきた。あなたしかいないと頼まれた以上、やってみるしかないではないか。もちろん、高齢のことであり、心身を消耗して命を縮めるかもしれない。だが、愛する日本のためになる仕事と思えば、いまさら、どうということもない。……
万博会長を受諾したのは、しかし、その種の使命感からだけではなかった。評判になっていた小田実の『何でもみてやろう』などを読み、「ぼくも何でも見てやろう、で行くよ」などと言っていた石坂である。相変わらず好奇心旺盛であり、変わった経験をしてみたいとの気持ちは強かった〉
経団連会長と小田実の組み合わせがおもしろい。

石坂は万博協会の事務総長に、自治省出身で、当時、東京都副知事の鈴木俊一を選んだ。
石坂自身は東大法科を卒業後、逓信省にはいるが、矢野恒太に乞われて第一生命に入社し、1938年(昭和13)から同社社長を務めた経歴をもつ。
のちに連合国軍総司令部(GHQ)が本部とする日比谷の第一生命ビルは、石坂社長時代に完成したものである。
戦後は、労働争議が激しく、倒産寸前だった東芝の社長を引き受け、6000人を人員整理して、同社を再建し、その経営手腕を認められた。
そして1956年から68年まで12年間、経団連会長を務めた。
万博協会会長は最晩年の仕事だった。
〈石坂としては、何としても万博を成功させたかった。それも功名心などからではない。成長した日本経済の姿を国の内外に堂々と展示したいとの一念である〉
成功したからといって、とくにメリットがあるわけでもなく、かといって失敗すれば責任を問われる。
うまみのない仕事だった。
〈石坂は事務総長鈴木と話し合い、4つの方針を決めた。時を大切にし、予定の開催日に間に合わせること。事故防止。汚職の根絶。赤字を出さぬの4点である〉
言うのは簡単だが、実現にはたゆまぬ努力と細心の注意を要する。
マスコミにも気をつかった。
就任直後の大阪での記者会見では、「皆さん、どうかよろしくお願いします」と殊勝に頭を下げ、「成功するもしないも、あなた方の筆先三寸だから」と記者たちを笑わせた。
万博開催反対派の京都府知事、蜷川虎三に対しても、石坂は鈴木とともに京都府庁を訪れ、協力を要請した。
石坂は、専門家の委員会のつくった、3大陸をあしらったシンボルマークが気に入らず、「ヨーロッパの質屋みたいなマークだ」と怒った。
〈いずれにせよ、石坂は納得せず、やり直しをさせることに。これに対して事務方の責任者である某省からの出向者が、「専門家の意見だから」とくり返し、「もしやり直しなら、わたしは辞任する」と、すごんだ。これに対し石坂は「じゃ、きみ、引退しろよ」〉
責任者は更迭され、シンボルマークは桜の花をデザインしたものになった。
経団連会長を交代したあとも、万博協会会長としての仕事はつづけた。
予算を出し渋る政府に対して一歩も引かず、首相官邸に乗り込んで、佐藤栄作と直談判した。
困ったのは建設業界の談合体質だった。
入札をくり返しても、予定価格より高い見積もりが出るばかり。
〈もちろん、石坂は黙っていない。経団連特別委員会でこれを問題にするとともに、建設業協会会長である大手建設会社の会長と自らやりあった。
「一定の利潤は仕方ないが、この際ボロもうけしようとは、けしからん。これはお国の仕事だ。自分は手弁当で老躯(ろうく)をひっさげてやっている。きみたちも、少しは協力してくれていいじゃないか」〉
石坂にこう言われると建設業界も折れないわけにはいかない。
当初3000万人の入場者予測が5000万人にふくらむと、施設全般の追加工事が必要になったが、これも最小限の入場料金値上げで何とかカバーする。
参加国から言いがかりをつけられれば、会長みずからが解決に乗り出さねばならなかった。
〈あわただしい日々の中で、しかし石坂は協会内では会合のたびに強調した。
「とにかく期限に間に合わせること。新聞ダネになるような不祥事を起こさぬこと。この二つは、くれぐれも守ってほしい」
石坂は友人作の警句を披露する。「新聞と瀬戸物は書(欠)かれたらおしまいだ」〉
万博でポピュラー・ミュージックプロデュースを担当したのはワタナベ・プロの渡辺美佐だった。
おもしろいエピソードがある。
ワタナベ・プロの新春パーティに石坂が出たときの話だ。
〈はじめてこの種のパーティに出た石坂は、ある女性歌手がつけている名札に目をとめ、不思議そうに訊(き)いた。
「きみ、どうして胸にそんな文句を書いているんだ。
今度は、女性歌手がきょとんとした。文句など書いてはいない。天地真理とは、その女性の芸名である。石坂はそれを「てんちのしんり」と読んでいたのだ〉
会長になってから4年4カ月、万博は無事、開幕し、夏休みには50万人から60万人もの入場者があるというほどの盛況ぶりだった。
このとき、大学生だったぼくも万博を見に行って、人の波以外はほとんど何も見られなかったことを覚えている。
すいていると思ったら、そこはロシア館で、中ではレーニンが演説する映画をやっていた、というのがこのときの思い出である。
万博の入場者は当初の予想を大きく上回って6000万人台となり、死者の出るような事故もなく無事に終わった。
大きな不祥事もなく、赤字になって当然と思われたのに、200億円もの黒字決算となった。
石坂は記者会見でジョークを飛ばした。
「何が残念だといっても、黒字になったことだ。赤字が出たら、総理のところへねじこんでやろうと思っていたのに」
しかし、その2年後のことだ。
通産省の発行した『日本万国博覧会 政府公式記録』には、万博が日本政府によって何から何まで営まれたかのようなことが書かれていた。
石坂は周囲に何ももらさなかったが、ひそかに感想を記していた。
「……今この公式報告書を見ると、私にはすべてが政府によって企画運営されたかのように見える。協会の努力はほとんど何もしなかった[か]のように影が薄く見える。私としてはいささか、否、大いに不満である。協会の職員は数年を通じて本当に努力勤勉してきたのである。私は今この報告を見て憤懣を禁じ得ないのである。何が民主国だ、今少し労を認めてもらいたいのである。私はこの報告を見て、はなはだ不満であることを率直に後々のため記録する次第である」
この感想を書いてから3年後、石坂は88歳の生涯を閉じた。
戦後、こうした反骨の経済人がこの国を支えていたことは記しておくべきだ。


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:[必須]
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この記事のトラックバックURL:
※言及リンクのないトラックバックは受信されません。