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ゲバラの死 [われらの時代]

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「われらの時代」と題したこのコーナーは、1970年代論のつもりで書きはじめたのだが、まるで進んでいない。いまだにその前段階にあたる1967年のころをうろうろしている。それもめったに書くわけではないから、いつしか自分のなかでも忘れられたコーナーになってしまっている。
 意志薄弱なぼくのことだ。たぶん、この話もいいかげんなところで終わりになるのだろう。
 それにしても人間のエネルギーには、いつもおどろかされる。どの1年をとっても、平穏な年はなく、いつも世界は波立っている。
 1967年もそんな1年だった。米国はベトナム戦争にのめりこみ、中国では文化大革命があり、ヨーロッパではEUの前身となるECが発足し、東南アジアでもASEANが誕生し、中東では「6日戦争」があり、そしてボリビアではエルネスト(通称チェ)・ゲバラが戦死した。
 ゲバラが亡くなったのは10月9日のことである。その前日、日本では佐藤首相の東南アジア歴訪を阻止しようとして、学生が立ち上がり、羽田で警官隊と衝突し、京大生の山崎博昭が死亡する事件がおきていた。
 あのころ、ぼくはあまり大学に行かなくなり、はっきりした目標を失って、下宿で寝転んで本を読んだり、池袋や飯田橋で映画をみたりする生活がつづいていた。情けないことに、親の仕送りで、日々、惰弱な平穏をむさぼっていた。
 そんなときゲバラが死ぬ。
 それは、歴史的なできごとだった。
 その死を知ったのは、たぶんどこかの食堂においてあった新聞や雑誌からだったろう。しかし、ぼくはそれを遠い国のできごとと感じていた。
 ボリビアといわれても、その国のイメージがさっぱりわいてこなかったし、アルゼンチン出身とはいえ、なぜキューバ革命を担った中心人物が、ボリビアでゲリラ闘争の末、戦死したのかも、よく理解できなかった。
 しかし、ゲバラの死が、この時代の風潮を代表していたのは、まちがいない。
 ゲバラはゲリラであり、ゲバルトでもあった。
 そのメッセージを、われわれはこう受け止めていた。
 権力の不正を前にして、黙っていてはいけない。しかし、反対の声を挙げるだけでは不十分なのだ。正義のために権力と戦うのだ。勝利するためには、死ぬことも辞さない。理屈より行動だ──。
 当時、こういう考えに共鳴する若者は少なくなかった。
 だが、武器をとって山中にこもり、手薄な政府軍を個別にたたきながら、しいたげられた農民の共感を得て、根拠地を広げ、全国的に反政府運動の気運を高め、ついには政権を打倒するという方式がはたしてとれるかというと、それは日本では空想に近かっただろう。
 政治においては、常に正義が問われる。
 あらゆる政治闘争は、正義をめぐる戦いだといってよい。
 暴力による政権奪取を呼号するだけでは、ただの権力亡者にすぎない。できもしない政策を掲げて、民衆の期待をあおって、政権の座を獲得すると、その座にしがみつこうとするのは、政治屋の所業以外のなにものでもないだろう。
 ゲバラの正義は、はたしてどこにあったのか。

 米国(とソ連)による帝国主義体制の打破。
 政治の抑圧、資本の横暴から民衆を解放すること。

 そうした正義にもとづく政治的信念が、ゲバラに行動をうながしていた。
 そして、ボリビアの山中でむなしく戦死することによって、かえってゲバラは多くの青年に、みずからの正義のありようを問うメッセージを伝えたのである。ゲバラの死の衝撃は、世界じゅうで巻きおこった1968年の運動と、どこかでつながっていたのではないだろうか。
 とはいえ、前に書いたように、当時、ぼくはゲバラの死を、どこか遠い国のできごとと受けとめており、それをまじめにはとらえていなかった。
 そして、いまでは正義にもとづく行動が、思わぬ独断と専制の危険性をもたらす可能性があることにも気づくようになった。
 最近になって、スティーヴン・ソダーバーグ監督、ベニチオ・デル・トロ主演の映画『チェ39歳 別れの手紙』をレンタルDVDで見る機会があった。
 それはゲバラのボリビアでの行動を追った、淡々としたドキュメンタリーのような作品だった。ゲバラはけっして聖人のように扱われているわけではない。しかし、映画からは、ゲバラへの敬意がひしひしと伝わってきた。
 映画は最初に、カストロがキューバ共産党の大会で、ゲバラの「別れの手紙」を読みあげるところからはじまる。キューバの国立銀行総裁、工業大臣を歴任し、実質的な国務長官でもあったゲバラは、1965年3月から公式の場に姿をみせなくなり、世間ではその動向に関心が集まっていた。
 それから半年以上がすぎた。カストロはいまや真実をあきらかにする。ゲバラが「いま世界のほかの国が、ぼくのささやかな力添えを望んでいる」という手紙を残して、キューバを去ったことを発表したのである。手紙にはゲバラがキューバの市民権を捨てるとも記されていた。
 ゲバラが最初に向かったのは、アフリカのコンゴ(現コンゴ民主共和国)だった。タンザニアをへて、コンゴ東部に潜入したゲバラの遠征隊は、数十年後にコンゴ大統領となるカビラの反政府軍に加わり、モブツの政府軍にたいしゲリラ闘争をしかける。しかし、戦況は悪化するいっぽうで、キューバの部隊はついに撤退を余儀なくされる。
 ゲバラは1966年4月ごろ、いったんハバナに戻った。
 映画では、ゲバラが家族に別れを告げて、ふたたびゲリラ闘争を展開するためボリビアに向かうシーンがえがかれている。
 ゲバラの計画を知ると、キューバ革命を戦った大勢の盟友たちが、政府や党の要職をなげうって、ゲバラの軍に加わることを決意する。かれらはゲバラに先立って、ひそかにボリビアに潜入。ボリビア中南部を作戦地帯とすることにし、サンタクルス南西の山中ニャンカウアスに農場を確保した。
 1966年11月4日、はげ頭姿に変装したゲバラはOAS(米州機構)特使を名乗って、ボリビアの首都ラパスに降り立つ。
 ゲバラの同志は、ボリビア共産党第一書記のマリオ・モンヘと事前に接触し、ゲリラ闘争への協力と参加を呼びかけていた。モンヘは20人をゲリラ部隊に参加させると約束したものの、すぐに裏切ることになる。その兆候は最初からみられた。
 ゲバラが根拠地となったニャンカウアスの農場に到着したのは、11月7日である。映画ではこの山野で、ボリビアやペルーから集まった志願者が、銃を支給され、訓練を受ける様子がえがかれている。
 12月31日に、ゲバラはこの農場で、ボリビア共産党のモンヘと会談した。革命の状況にないというモンヘにたいし、ゲバラはボリビアで労働者や農民のおかれている状況を説明する。しかし、モンヘはあくまでも革命の可能性はないと言い張り、「ゲリラの指導者が外国人だと知ったら、だれも武装闘争なんか支持しない」と捨てぜりふを残し、根拠地を去っていく。
 ゲバラの決意は固い。「私はもうここにいる。出ていくのは死んだ時だ」と話している。
 水は不足し、食べるものも少なかった。もってきた缶詰もすぐに底をつく。はらぺこの状態がつづいた。やむなく農民から食糧や肉を調達したが、その場合はかならず多めにカネを払った。眼病の子どもがいれば、それをなおしてやったりもした。部隊には医者もいたし、そもそもゲバラ本人が医師なのだ。
 軍事訓練はつづいていた。そのさい、ゲバラは軍の規律について話すことを忘れなかった。いろいろなことがある。連絡係として、タニアという女性が軍に加わる。なかにはつらい訓練や作業にねをあげる者も出はじめていた。
 戦闘への準備は着々と進んでいる。前線にキャンプ(野営地)がつくられた。3月にはいって、ふたりのボリビア人が脱走する。かれらは政府軍にゲリラの動きをしゃべった。ほかにも脱走兵があり、筒抜けになった情報から、政府はゲリラの指導者がゲバラであることを知り、仰天する。
政府軍が動きはじめた。偵察飛行もはじまる。
 映画では、ボリビア大統領が米国にゲバラの潜入を伝え、大統領官邸で米軍とCIAが対策会議に加わって、特殊部隊を養成するよう求めるシーンがある。
 3月20日、前線に移動したゲバラは、連絡係のタニアと、ハバナからやってきたフランス人理論家のレジス・ドブレと会った。ゲバラは、ドブレに資金援助を依頼し、サルトルとラッセルに、ボリビア解放運動について知らせるよう求めた。
 ゲバラの要請を受けて、ドブレはボリビアからの脱出をはかる。しかし、南部のムユパンパで軍に拘束され、拷問を受ける(4月20日)。
 政府軍との戦争がはじまったのは、3月23日である。ゲリラ軍が圧勝し、政府軍はいったん撤退した。だが、政府軍は脱走兵の情報から中央キャンプの位置を確認し、ここを占拠する。
 移動しながら戦うゲリラ軍のなかからも死者がではじめる。ゲバラの本隊と副司令官ホアキンの別働隊との連絡がとれなくなった。
 シグロ鉱山では、ゲリラ軍と呼応するように鉱山労働者によるストがはじまっていた。しかし、政府軍はこれを徹底的に弾圧し、87人の労働者が虐殺される。そのことをラジオで聞いたゲバラは、憤りを隠せなかった。
 政府軍特殊部隊による包囲がせばまっていた。政府軍との戦闘で、ゲバラの盟友たちは次々と亡くなっていく。
 7月6日にゲリラ部隊は、コチャバンバとサンタクルスを結ぶ主要街道の拠点サマイパタを占拠し、その存在感を見せつけた。サマイパタでは、食糧と医薬品を確保する。しかし、ぜんそく持ちのゲバラがもっとも必要とする薬はなかった。
 ゲバラの本隊は、ホアキンの別働隊と合流するため、けわしい山中を南下した。退却戦がはじまっていた。政府軍の特殊部隊は、南北からゲバラの部隊を挟み撃ちしようとしていた。
 このころゲバラはぜんそくの発作がつづき、夜も眠れず、疲れ切っていた。
 8月31日、農民の手引きでリオグランデ川の支流を渡ろうとしたホアキンの部隊は、川岸に待機していた政府軍の攻撃を受け、全滅する。この農民が政府軍に通報していたのだ。そのなかには部隊と行動をともにしていた女性兵士タニアの姿もあった。
 山中のゲバラは、このニュースをラジオで知って、ホアキン隊との合流をあきらめる。
 ゲバラの部隊は、政府軍の攻撃を避けるため、さらに高地へと移動していく。アルトセコ村でようやく食糧を調達したものの、農民は政府軍にゲリラが来たことを通達した。
 イゲラ村についたとき、村には人っ子ひとりいなかった。しかし、そのとき政府軍はしっかりゲリラ部隊の動きをつかみ、包囲網を敷いていたのだ。
 山中のゲリラ軍にたいする政府軍の攻撃がはじまる。
 ゲバラは撤退しようとするが、リオグランデ川に抜けるユーロ渓谷付近の山地で、脚を撃たれて政府軍の捕虜となった。
 イゲラ村で尋問を受けたのち、ゲバラは10月9日に処刑された。
 映画では、処刑シーンはなく、画面はゲバラの視線によって構成されている。なぜかためらう処刑者に「撃て、やるんだ」と静かにいうゲバラの声が流れる。そのあと映像は、ボリビアの上空をヘリコプターで運ばれるゲバラの遺体のシーンへと移っていく。
 この映画がゲバラの最後の戦いを、細部まで、かなり忠実に再現したものであることは、まちがいない。
 世界を変えるという革命的ロマンティシズムにもとづく、そのくわだては、あきらかに失敗だった。しかし、ゲバラは死ぬことによって、権力やカネとは異次元の、ひとつのこころざしを残したのである。

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