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山本義隆『私の1960年代』をめぐって(2) [われらの時代]

 東大の安田講堂は1968年7月2日に占拠された。それに呼応して各学部でバリケード闘争がはじまり、10月には東大の全学部がストにはいった。
 そのころ、早稲田の学生だったぼくは何をしていたのだろう。虚弱な身体を改造したいと思い、ウェイトリフティング部に入部したものの、1年足らずで挫折し、そのあと人前でも話せるようになりたいと思って、雄弁会に入会していたのだった。しかし、雄弁会にもなじめず、ぶらぶらと日をすごすうちに、季節も秋に変わり、春に知りあった友人に声をかけられて、また雄弁会の部室に舞い戻るようになっていた。
 あのころの早稲田はどんな状態だったのだろう。日大闘争や東大闘争は盛りあがっていたが、早稲田の構内ではまだバリケードが築かれていなかった。第2学生会館も占拠されていなかったのではないか。いずれにせよ、そのあたりの記憶はあいまいである。
 例によって例のごとく、ぼくはのんべんだらりとした毎日をすごしていたのだから。
 東大では、1968年11月に大河内一男が総長を辞任し、加藤一郎が総長代行に就任した。
 そのころ、はやっていたのが「大学解体」と「自己否定」というスローガンである。
 山本義隆は、それについて、こう語っている。

〈資本主義であれ社会主義であれ高度に工業化された社会において、経済成長・国際競争のための産業技術の開発のために、軍事力の強化のために、そして国威発揚のために、基礎科学であれ応用化学であれ科学が必要不可欠な要素として組み込まれているこの時代に、科学者である、技術者であるということは、そのことだけで体制の維持にコミットしていることになります。私が行き着いたのは、その情況を踏まえるかぎり、体制への批判は同時に自分自身の存在への批判でなければなりませんでした。〉

 これは理系学生の立場からの発言だが、文系の学生に関してもあてはまることはいうまでもない。それにしても、ずいぶんせっぱつまった言い方である。
 当時は、アメリカもソ連も日本もいやだという気分が濃厚だった。とはいえ、なぜか、文化大革命さなかの中国には反感をもたなかったのが不思議である(これは、のちに大きな誤解だったことがわかる)。そして、ベトナム戦争では、南ベトナム民族解放戦線の戦いに大きな支持が寄せられていた(これもまた幻想だったことが、のちにわかる)。
 いずれにせよ、「大学解体」も「自己否定」もスローガンであって、文字どおりではないことは、ぼくもうすうす感じていた。
 この世に大学などなくてもよい、自分は大学生をやめて労働者になろう、などとは、おそらくだれも思っていなかったからである。
 このスローガンが、ぼくのようなのらくら学生に共感を呼んだのは、むしろ楽しい祝祭空間としての大学、世間にも家にも束縛されない自分にあこがれを抱いていたからではないかと思われる。これは、当時、まじめに戦っていた人たちからすれば、たいへん失礼な言いぐさになるのだが……。
 しかし、山本義隆にとっては、抑圧的な社会体制とその体制に組み込まれている大学や自己を否定することが、闘争の目的であり、その象徴的行動が安田講堂の占拠だと考えられていた。
 しかし、安田講堂の占拠が長引くなか、総長代行の加藤一郎は事態収拾に動こうとしていた。11月29日には話し合い集会をおこなおうと呼びかけ、12月2日に文書で「学生諸君への提案」を公表した。
 その提案には大学改革がうたわれていた。しかし、当初の医学部処分があやまりであったことにはいっさい触れられていなかった。
 いっぽうで加藤は学生による「建造物侵入、封鎖、器物損壊」を非難した。加えて留年や卒業延期、そして「入試中止の可能性」をちらつかせる。こうして、硬軟とりまぜた姿勢を示しながら、強引に「紛争終息」をはかったのである。
 加藤による大学改革のねらいは、総長、学部長の権限を高め、大学の管理体制を強化することにあったといえるだろう。
 山本義隆によれば、学生主体の自治会活動を認めるという一見民主的な提案も、学生の動きを自治会の枠内に閉じこめようとするねらいがあった。自治会を認める代わりに、学生は自主規制を求められる。そして、その枠内を超える行動がみられた場合は、ただちに刑事処分、すなわち警察権力の介入がなされるというわけである。
 1969年1月10日、秩父宮ラグビー場で、当局の呼びかけによる全学集会が開かれた。すでに、民青や右派グループの主導により、多くの学部ではストが解除されていた。医学部や文学部は、この集会に参加していない。
 全共闘は次第に孤立していった。留年や卒業延期をにおわされれば、学生は弱い。このあたり、加藤一郎は老巧である。
 こうして、1969年1月18日から19日にかけ、東大の安田講堂をめぐる攻防戦がはじまった。
 その前日、山本自身は盟友、今井澄らに説得されて、安田講堂を離れ、日大のバリケードに移っていた。
 山本自身はこう書いている。

〈後になって、あのときの判断がよかったのかどうか、正直、悩みました。自分の気持ちにもっと正直に安田に残るべきであったという思いが強まるとともに、政治的にも、政治党派が動員した部隊にたよらず、私もふくめて東大全共闘だけでもっと大衆的な形で安田の防衛をするべきであったのではないのか、そしてそのことにむけてもっと早くから議論し準備しておくべきであったのではないかと考えております。大衆的な形で全学封鎖をやりきれなかったのは、私たちの限界であったと思っています。〉

 くやしさがにじみでている。
 安田講堂の陥落直後、山本に逮捕状が出された。
 実際に逮捕されたのは、それから約8カ月後の9月5日のこと。この日、日比谷の野外音楽堂では全国全共闘結成大会が開かれていた(ぼくも、当日その近辺をうろうろしていた)。
 たしか、山本はこの集会に出席しようとするところを逮捕されたのではなかったか。
 その後、山本は1年以上拘留されることになった。しかし、ほんとうの意味で、かれにとっての戦いがはじまったのは、このときからかもしれない。
 拘置所のなかでは、近代科学批判に取り組みたいという思いが、ますますつのるようになっていた。
 山本のその思いが結実するのは、近代科学誕生の謎を追った『磁力と重力の発見』『16世紀文化革命』『世界の見方の転換』というかれの代表作が完成したときである。
 東大全共闘の戦いから45年の歳月が経過していた。

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