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太平洋戦争への道──半藤一利『B面昭和史』斜め読み(3) [くらしの日本史]

 著者はこう書いている。

〈そもそも歴史という非情にして皮肉な時の流れというものは、決してその時代に生きる民草によくわかるように素顔をそのままに見せてくれるようなことはしない。いつの世でもそうである。何か起きそうな気配すらも感ぜぬまま民草は、悠々閑々と時代の風にふかれてのんびりと、あるいはときに大きくゆれ動くだけ、そういうものなのである。〉

 それはそうなのだが、時代の風にゆれ動きながらも、歴史の最終判断を下すのも民草だ、と信じたい思いはある。
 何はともあれ、昭和11(1936)年から16(1941)年の世相をざっとみておきたい。
 昭和11年1月、警視庁は緊急連絡電話番号として119番を設定した。自動車の時代がはじまり、交通事故が増えていたのだ。
 プロ野球公式戦もこの年からはじまっている。
 2月20日の衆院選では、合法左翼の社会大衆党が躍進している。
 世の中に「革新」への期待は大きかったが、まさか「二・二六事件」が発生するなどとは、だれも思っていなかった。
 物情騒然。世間には秩父宮待望論もあったという。
 とはいえ、翌2月27日には、市民生活は活気を取り戻し、映画や舞台もふつうに上演されていたというから、すでに先は見えていたのである。29日に反乱は終息する。
 しかし、「この年を境として、それ以前とそれ以後とでは、[日本は]同じ昭和と思えないほどの変質と変貌をとげていった」と、著者は書いている。
 日本はすでに国連からもロンドン軍縮条約からも脱退している。政府は軍事予算を捻出するために、増税と低金利政策を導入する。
 クーデター未遂によって、陸軍はかえってその傲岸ぶりを発揮するようになる。萎縮したのは、むしろ内閣のほうだった。
 知る人ぞ知る安倍定事件が起こったのは5月18日のことである。事件はセンセーショナルに報じられた。
 物騒な世相のなかに、庶民がセンセーショナルな話題や、憂さ晴らしの楽しみを求めるのは、いつの時代も変わらない。
 7月18日には戒厳令が解除された。
 ベルリンでは8月からオリンピックが開催されていた。日本人は、平泳ぎ決勝の「がんばれ前畑!」の放送に熱狂した。
 11月には日独防共協定が結ばれる。国際的に孤立する日本は、ドイツと手を結ぶことによって、局面の打開をはかろうとしていた。
 しかし、この年の景気は悪くなかった。軍需が景気を引っ張っていた。大学生は引っ張りだこ、東北でも娘の身売り話などなくなった。新婚生活のすばらしさを歌った歌謡曲がヒットし、都市では結婚ブームが巻き起こっていた。
 そんな明るい世相を背景に、官憲による左派の弾圧は着々と進んでいる。
 昭和12(1937)年にはいっても、好景気はつづいている。
 年平均国債発行高は100億円を超えたが、そのほとんどは日銀引き受けだった。
 6月には、国民の期待を担った近衛文麿内閣が発足。
 それからわずか33日後の7月7日、北京郊外の盧溝橋で日中両軍が衝突する。日中戦争がはじまった。戦争がさらに景気を刺激する。この年の経済成長率は、23.7%だったというから驚く。
 戦争が起こる前も、世相はどこかのんびりしている。名古屋城天守閣に輝く金のしゃちほこのうろこ58枚が盗まれるという珍事に関心が集まっていた。
 文芸界では、この年、堀辰雄『風立ちぬ』、太宰治『晩年』、川端康成『雪国』などの名作が登場、新聞では吉川英治が『宮本武蔵』、横光利一が『旅愁』、永井荷風が『濹東綺譚』を連載している。戦前では、日本文学の最後のあたり年だった、と著者は述べている。
 純国産機「神風」が東京─ロンドン間を飛行したのもこの年だった。呉の海軍工廠では、戦艦大和の建造がはじまっている。
 著者によると、国民は日中戦争が亡国につながるような大戦争になるとは思っていなかったという。暴支膺懲、つまり乱暴な支那をこらしめることに、何の疑問もいだいていなかった。
 こうして、戦争はどんどん拡大していく。
 軍国歌謡、すなわち軍歌が流行する。
 宮中に大本営が設けられた。
 そして12月の南京陥落を、国民は盛大に祝った。
 だが、昭和13(1938)年になっても、戦争は終わらなかった。
 4月には国家総動員法が成立する。これによって、日本は国を挙げての戦時体制に移行した。言論の自由は完全になくなる。政府は必要に応じて、新聞記事を制限または禁止することができるようになった。雑誌にたいしても発禁のオンパレードである。
 そのいっぽうで、ペン部隊が組織され、文学者が従軍するようになっている。文学者の書く戦場ルポは評判になって、それが掲載された雑誌はよく売れたという。ただし、石川達三の『生きている兵隊』は、あまりにも生々しいルポだったせいか、これを掲載した『中央公論』はたちどころに発禁をくらった。
 この年、ヒットした映画は『愛染かつら』。その主題歌「旅の夜風」も大当たりした。「人生劇場」も、この年、はやった歌謡曲である。
 銃後では隣組がつくられ、献金や千人針などの町内活動も盛んになっていた。これぞ、国民精神総動員のあかし。
 物価は上がり、ガソリンの配給切符制がはじまっていた。バスは木炭車に変わっていく。
 この戦争の前途を心配する者もいたが、それはごく少数だった。ほとんど、だれもが、あっけないほど楽観的だった。それに、そんな疑問を口にすれば、たちまち特高が飛んできて、逮捕されたからである。
 昭和14(1939)年1月、漢口を攻略したものの、日中戦争終結のめどがたたない近衛文麿は内閣を投げだす。
 その後、成立した平沼内閣、阿部内閣のもとで、世界は激変する。
 5月にはノモンハン事件が発生、7月にはアメリカが日米通商航海条約の廃棄を通告、そして8月には独ソ不可侵条約が成立。何が何だかわからなくなった平沼騏一郎は総辞職。そして、9月にはドイツがポーランドに侵攻、第2次世界大戦がはじまる。
 庶民の生活は戦時色が濃くなっている。学生には軍事教練がほどこされ、賃金統制令がだされ、満蒙開拓青少年義勇軍の計画が発表されている。国民精神総動員委員会が生活刷新案を決定し、それを次々と通告する。遊びにたぐいするものは禁止、学生の長髪も禁止される。女子学生のパーマネントも禁止である。
 とはいえ、中国戦線は膠着しており、国民のあいだで厭戦気分が生じるなかで、政府は次々と国民生活を統制するための法律を乱発した。用紙の統制によって、新聞・雑誌も統合されていく。
 そして、「産めよ殖やせよ国のため」とくる。
 それでも、この時分は、まだ「つかの間の平和」気分が残っていた。
 昭和15(1940)年は紀元二千六百年の年。
 その年のはじめ、議会では斎藤隆夫がいわゆる「反戦演説」をおこない、内閣に支那事変(日中戦争)の処理案を示せと迫ったが、議員を除名される。その後、衆議院は聖戦貫徹決議で一致し、柔軟路線の米内光政に代わって、またも近衛文麿が担ぎだされるのである。
 ヨーロッパでは、西に向けてのドイツの総攻撃がはじまり、ドイツ軍はベルギー、オランダ、フランスをたちまち占領した。
 このころ「わらわし隊」と称する芸能人の軍隊慰問団が、満州や中国に送られていた。
 日中戦争以降、人気があったのはニュース映画で、家庭にテレビのない時代、人びとは映画館で皇軍の活躍に見入っていた。
 物資の統制もはじまっている。砂糖とマッチの支給は配給切符制となった。
「ぜいたくは敵だ」という標語がちまたにあふれるようになった。
 くず鉄や鉛の対日輸出を禁止したアメリカは、すでに日本への石油輸出を許可制にすると発表していた。日本は危機感を強めた。
 英米を敵視する排外的な論調が強まり、それが「ドイツへの親近感を増幅させ、日本人の心情をぐんとヒトラーに傾斜させていった」と、著者は書いている。
 首相の座に返り咲いた近衛は、八紘一宇の精神で、世界平和をつくりだすと、ぶちあげた。そして、ドイツの快進撃に目がくらみ、日本軍は北部仏印(現ベトナム北部)に進駐を開始、9月27日には日独伊三国同盟が締結される。
 すでに国内では翼賛体制が敷かれており、防空演習や軍事訓練のときには、在郷軍人会が町内を仕切っていた。一億一心という標語もつくられている。
 11月10日には、紀元二千六百年の大祝典が挙行された。
 そして、いよいよ太平洋戦争突入の年、昭和16(1941)年が幕を開ける。
 著者によれば、「ともかく世は四方が何となく行き止まりで、頭に重たいものが乗っかっているように鬱陶しく、だれの心もくさくさしていた」というのが、この年の雰囲気だったという。
 その春、小学校の名称が国民学校へと変わった。
 国民学校は少国民を要請する場となった。子どもたちが次の「戦力」になるよう養成しようというのである。
 4月には日ソ中立条約が締結される。ところが、それから2カ月たった6月22日に、ドイツはソ連に宣戦布告し、独ソ戦がはじまる。
 アメリカが日本への石油輸出禁止に踏みだすのは、もう時間の問題だった。すると、日本は東南アジアの石油を確保する以外にない。
 こうして7月に、日本は南部仏印に進駐する。アメリカはとうぜん、石油の全面禁輸で応じる。
 9月1日には金属類特別回収令が施行された。校庭に立っていた二宮金次郎の銅像がどしどし供出されたという。
 さらに、その10日後には、タクシーやハイヤーなどのガソリン使用営業車が禁止されている。
 11月27日には「ハル・ノート」が送られてきた。これで万事休す。
 新聞は、アメリカ、イギリス、オランダ、中国のABCD包囲網に日本が包囲されているという記事を盛んに流した。
 こうして12月8日、日本はハワイの真珠湾を奇襲攻撃、太平洋戦争がはじまる。
 しかし、皮肉なことに、ソ連に攻め込んだナチス・ドイツ軍は苦戦しており、「無敵ドイツ」の歴史は終わっていた。
「大日本帝国はつかの間の勝利で有頂天になっているときではなかった」と、著者は書いている。

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