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戦時下のくらし──半藤一利『B面昭和史』斜め読み(3) [くらしの日本史]

 あれよという間に戦争がはじまっていた、と著者は書いている。しかし、アメリカと戦争して日本が勝てるわけがない、とだれもが思っていた、とも。
 ほかに手の打ちようがない、来るべきものが来たというのが、大半の国民の心境だった。
 ところが緒戦の連戦連勝にだれもが小躍りする。まさに万歳の嵐。
 開戦後からラジオを購入する家庭が増えた。
 その裏では、アカとスパイの摘発と称して、治安維持法と軍機保護法によって逮捕される人も増えていた。
 昭和17(1942)年1月には衣料切符制が導入される。衣料は自由に買えなくなった。政府はファッションにも口をはさみ、婦人標準服なるものまで定めている。戦時といえば、モンペ姿を思い浮かべる。
 2月には大日本婦人会が結成される。女子青年団員は傷痍軍人との結婚を奨励されていたという。
 何はともあれ、戦争に勝利するため、国民を総動員する体制がつくられていた。宮城遙拝をはじめ、連日さまざまな精神昂揚の儀式が用意されていた。
 この年4月18日には、早くも空襲があった。損害は軽微だったが、当時、国民学校の生徒だった著者は「戦争がびっくりするくらい近くにあるんだ」と思ったという。
 それから、まもなくして灯火管制が実施される。夜に電灯の光を外にもらすのは非国民と非難されるようになる。
 このころ貯蓄が奨励されたのは、もう国家予算だけでは戦費をまかなえなくなっていたからである。
 6月5日にはミッドウェー沖の海戦があり、日本海軍の機動部隊は完敗。しかし、国民に真実は知らされなかった。
 7月には紙の配給を理由に、地方紙は1県1紙に統合されることになった。これによって、新聞ジャーナリズムは完全に情報局の統制下にはいった。
 文学の方面では、すでに日本文学報国会が結成されている。
 著者は秋も深まった11月15日に大東亜戦争1周年を記念して「国民決意の標語」が大募集されたことを覚えている。著者の学校からも、選ばれた優等生が応募したが、あえなく落選。
 そのとき選ばれたのが、「欲しがりません勝つまでは」の標語。国民学校5年生の作とされたが、戦後しばらくたってから、実際はその父親がつくったとわかった。
 このころから赤紙による召集が増えていた。町には若者の姿が少なくなり、年寄りや女子どもの姿が目立つようになる。
 まもなくして、みそ、醤油、塩、ちり紙なども統制・配給となった。
 南方では、ガダルカナル島が、まさに餓島となり、多くの兵が餓死していた。
 その撤退作戦がおこなわれるのは、翌昭和18(1943)年2月のことである。
 すでに日本軍は守勢に立っている。
 昭和18年はじめ、国内では、敵性国家に関係する楽曲はすべて禁止となった。ジャズやブルースはもちろん禁止。1000曲が追放された。
「サンデー毎日」や「オール読物」など、英語のつく雑誌、喫茶店は改名させられた。野球の用語も変更になる。ストライクは「よし」、ファウルは「だめ」。
 そこに煙草、酒がいっせい値上げになる。
 そのころ陸軍報道部のつくった標語が「撃ちてし止まむ」。
 国民学校では、男子は5年生から武道が必修科目になっていた。
 3月からは朝鮮、台湾の植民地にも徴兵制が敷かれた。
 そのさなか、4月18日に連合艦隊司令長官山本五十六が戦死する。
 5月30日には、大本営がアッツ島の守備部隊が玉砕と発表した。
 戦況が悪化するなか、中学生のあいだでは愛国熱血少年が増えた、と著者は記憶している。
 こんなふうに抜き出していたのでは切りがない。しかし、このころから国民生活が急迫の度を加えていったのは事実である。食糧難がはじまっていた。
 そして学徒出陣。全国で数万の学生が出征し、その多くが戦場に散った。
 加えて、国民兵役法の改正により、兵役が45歳まで延長された。
 東京では建物疎開、すなわち住宅の強制撤去が計画される。家族ぐるみの地方転出も推奨されるようになった。
「戦争が突如として日常生活の中に押し入ってきた」と、著者は書いている。
 昭和19(1944)年になると、日本の前途はますます暗くなった。
 それでも政府は、いまだに永久戦争をもくろんでいた。戦争がやっかいなのは、いったん戦争がはじまったら、双方がどんな犠牲を払っても、勝つまで戦うという姿勢を崩さないことである。
 このころは出版統制も進んで、出版社も雑誌も統合され、政府に批判的な雑誌は認められなくなっていた。
 圧倒的なアメリカ軍を前に、日本軍は太平洋の島々で玉砕につぐ玉砕を重ねている。国内では政府が「決戦非常措置要綱」を定めた。これにより劇場や料亭、待合、芸者置屋が閉鎖された。時代は「一億一心」から「一億玉砕」に向かおうとしていた。
 そのころ中学生の著者は、軍事教育や鉄拳制裁の日々をすごしていた。税金も物価も上がり、物資不足はますますひどくなってきた。
 6月にはマリアナ諸島のサイパン島が陥落する。これにより、日本本土空襲は必至となった。
 東京では、疎開がますます現実味を帯び、強制的な建物取り壊しが実施され、8月から9月にかけ学童疎開がはじまる。
 著者の弟や妹も母親とともに実家の下妻市に疎開することになった。東京に残った著者は、その結果、東京大空襲を経験し、九死に一生を得ることになる。
 7月には、サイパン島陥落を天皇に詫び、東条内閣が総辞職する。
 8月にはテニアン島、グアム島が陥落した。
 著者の記憶では、「鬼畜米英」の標語があふれだしたのはこのころからだという。
 神社での調伏祈願も盛んになった。もはや期待できるのは、神風が吹いてくれることしかなかったのである。
 10月の終わりごろから、中学生だった著者は、軍需工場に動員されることになった。
 11月24日からは、B29による本格的な空襲がはじまる。
「この日から東京は“生き地獄”となり、無残な死は、すべて民草のすぐ隣りにあった」と、著者は記している。
 空襲は、以来、ずっとつづいた。
 明けて昭和20年。
 家庭ではガスの割り当てはごくわずかで、薪や炭もほとんど配給されていなかった。家庭でも職場でも、書類や本棚、机を燃やして、寒さをしのいだ。
 食糧事情も惨憺たるもので、統制下におかれた米や野菜、肉を買い求めるのに長時間行列するのがあたりまえになった。いきおいヤミの流通がさかんになる。いなかへの買い出しもはじまっていた。そんな窮乏生活をあざ笑うように、爆弾や焼夷弾が落ちてくる。
 大本営は、でっちあげの戦果を、いさましい軍艦マーチとともに流しつづけていた。そして、ついに「本土決戦」をいいはじめる。
 3月10日。東京大空襲。「それは東京の下町にたいする猛火と黒煙による包囲消尽作戦であった」
 まったくひどいことをするものだ。著者はこのとき、川に落ちて、あやうく死ぬところだった。このときの死者は約10万人。想像を絶する。
 アメリカ軍による絨毯爆撃は、それから名古屋、大阪、神戸にもおよび、また東京、横浜、川崎に戻って、それが何度もくり返されることになる。
 3月からは沖縄戦がはじまった。4月1日には、アメリカ軍が沖縄に上陸する。その戦いが終わったのは6月22日。沖縄県民の死亡者は12万2228人(うち軍人・軍属が2万8228人)、他の府県出身の軍人の戦死者は6万5908人を数えたという。
 日本軍による特攻作戦もはじまったが、それはアメリカ軍にさほどの打撃を与えなかった。もうひとつの悲劇以外の何ものでもない。
 沖縄戦の終結を受けて、日本政府はようやく戦争終結に向けて、重い舵を切った。その周旋役に選んだのがソ連だったというのは、いかにも愚劣である。
 そのころ、国内では国民義勇隊が組織され、女性も竹槍訓練に励んでいた。もう勝つ見込みはなくなっていた。
「このころの軍部には、結局のところ、戦争とはただただ戦う行為であり、そのために国民は命を捨てるのが当然のこと、という考えしかなかった」と、著者は書いている。
 7月27日には、日本に降伏を勧告するポツダム宣言が送られてくるが、日本政府はそれを「黙殺」する。それを連合国側は「拒否」と受け取った。
 8月6日には広島への原爆投下、9日未明にはソ連の満州侵攻、そして長崎への原爆投下とつづく。
 8月15日、天皇放送により、日本は降伏する。その日、虚脱と慟哭が日本じゅうを駆けめぐった。
 しかし、その後の日本人の変貌たるや、すさまじいものがあった、と著者はいう。「生き抜くためには、もう自分のことしか考えられなくなった」
 闇市、占領軍用の慰安婦施設、軍人や役人の逃亡、統制の解除、一億総懺悔(だれに向かってか)、このころの話題はいくらでもある。
 しかし、ともかく長い戦争は終わったのだ。
 最後に著者はこう書いている。
「人間が断々乎として、無謀で悲惨な殺し合いを拒否する意思を保たなければ、歴史はくり返すというほかないかと、いまはわたくしもそう考えないわけにはいかないかという気持ちになっています」
 はたして歴史はくり返すか。そう断言するのを著者はためらっている。
 日本はアメリカと戦争をする。
 これが歴史だとすれば、現在の方向も、あきらかにそちらに向かっている。
 ただし、戦前の「と」がagainstの「と」だとすれば、現在の「と」はwithの「と」である。すなわちアメリカに対して戦うのか、それともアメリカと共に戦うのか。そこに歴史はくり返すという定言にたいする、著者の大いなるためらいがある。
 それでもあえていうならば、どちらの「と」でもあっても、その行動が戦争に接続していることはまちがいない。
 日本人には日本に大空襲をおこない、原爆を落としたアメリカを許せないという気持ちがどこかにある。そのアメリカと共に戦うことなどご免こうむりたい。
 そのいっぽうで、日本人はアメリカにはかなわない、おべっかを使ってでもアメリカの関心を引きたいという気持ちももっている。
 この二律背反に引き裂かれているのが、現代日本の状況といえるのかもしれない。
 ただ、唯一、日本人がはっきり意思を示せるとすれば、著者のいうように、「断々乎として、無謀で悲惨な殺し合いを拒否する」ということ、つまり戦争はいやだと表明することくらいしかないだろう。
 戦争がいかに人びとのくらしを破壊するかは、戦前の経験からも明らかである。本書はそのことを後世に伝えるために書かれたといってよい。

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