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ゴードン「日本の消費」 をめぐって(1)──論集『消費の歴史』から [くらしの日本史]

 読み残しの本から。
 The Oxford Handbook of The History of Consumption に収録されているアンドルー・ゴードンの論文を簡単に紹介しておきたい。
 ここで研究されているのは、近世(17世紀以降)から現代にかけての日本の消費である。
 つい先ごろまで、江戸時代は武士に支配された動きのない時代で、経済的にも停滞し、しょっちゅう飢饉が襲い、間引きが日常的におこなわれていたと思われていた。江戸時代は貧しい時代だというのが通り相場である。実際、衣服や食事を規制する倹約令も出されていた。
 だが、元禄時代に、都市では華やかな文化が花開いていたのだ。それに、倹約令がしばしば出されていたことをみれば、実際は倹約はそれほどなされていなかったのではないか、と著者は疑っている。
 近世はじつは経済的活力に満ちた時代だった。19世紀まで飢饉はたびたび襲い、村を荒廃させたのは事実だが、いつも同じ場所で毎年のように飢饉が起こったわけではなかった。むしろ、徳川時代に町や村の人口が増えていることをみれば、この時代にも一定の経済成長があったことがわかる。
 江戸時代には、手工業や市場も発達したし、都市住民はさまざまな食事や飲み物、衣服、装飾品、書籍、版画などを楽しむことができた。劇場にもことかかなかったし、両替屋なども利用することができた。
 農村部や都市郊外でつくられる商品は、次第に豊富になり、町に流れこんでいた。商業や金融、生産に携わる農民が増えるいっぽうで、貧しさにあえいでいう農民も増えていたのは事実である。とはいえ、19世紀初めには、生産者と販売者、消費者を結ぶネットワークのようなものができていて、地方では、特産品をつくる中心地も誕生するようになっていた、と著者はいう。
 さらに江戸時代後半になると、一種の信用制度も生まれていて、それが日常の買い物にも利用されるようになっていた。互いにお金を融通する無尽や講などもできていた。
 ここで著者は江戸近郊のある村の店で買うことのできた商品のリストを列挙している。それは筆や瓶、針、キセル、たばこ、茶碗、皿、酢、醤油、納豆、塩、麺、昆布、酒、まんじゅう、茶、煎餅、穀物、油、蝋燭、鬢付け、櫛、笄、綿服、手ぬぐい、足袋、草履、下駄、草鞋、その他の日用品である。
 こうした品々をみれば、近世の生活がどんなものだったかを想像することができる。さらにさまざまな商品を紹介した出版物も数多く出回り、庶民の消費志向をあおっていた。
 著者はそのころ日本橋の通りにどんな店が並んでいたかを紹介している。
 漆器屋、文房具屋、着物屋、本屋、合羽屋、鏡屋、扇屋、仏具屋、刀剣屋、印刷屋、琴三味線屋、細工屋、菓子屋、煙草屋、紙屋、蝋燭屋、籠屋……。いやいやきりがない。
 江戸は繁華な町だった。こうした商業のにぎわいがあったからこそ、19世紀になってから、日本は近代化をなしとげることができた、と著者はみているようである。
 そして、1868年には明治維新が起こり、武士の時代が終わる。多くの改革がなされ、憲法も発布される。しかし、明治時代になったからといって、いきなり消費に大きな変化が訪れたわけではない。著者によると、日常の物質文化が大きく変わるのは20世紀になってからで、そのころから日本人のくらしは次第に西洋化していく。
 その鍵となったのは、都市の中産階級だった。かれらは百貨店を通じて、ブランド品を買い求めた。新聞や雑誌による広告の影響も大きかった。
 1924年(大正13)の時点で、朝日新聞と毎日新聞の購読部数は100万部を超えた。1920年代の初めには『婦人界』、『主婦の友』、『婦人倶楽部』といった女性誌が登場した。その発行部数は、それぞれ20万部以上だったというから、人気があったことがわかる。こうした雑誌には、歯磨き粉や石鹸、扇風機、ミシンなどの宣伝が掲載されていた。
 日本が消費社会に突入したのは、大正の終わりから昭和の初めにかけての1920年代だったといえるだろう。
 そのころ、都市ではいわゆるサラリーマンが多くなっていた。職業に占めるサラリーマンの割合は、東京で1908年に6%だったものが、1920年には21%まで増えている。サラリーマンが増大する背景には、企業の勃興に加えて、学校教育の普及があった、と著者はみている。
 1920年代初めには、すでに文化生活や文化住宅などといった言い回しも登場していたという。くらしの夢をあおったのは、デパートやマスコミである。
 さらに昭和の初め、銀座などではミルクホールやビアホール、西洋料理店などが軒をつらねるようになり、温泉旅行やスポーツ観戦(とくに野球)などのレジャーも盛んになる。洋裁やパーマ(山野愛子が山野結髪所を開業したのが1925年)、タイピストや教師などの仕事につく女性も増えてきた。
 銀座ではモガ(モダンガール)が町を闊歩するようになる。新しい流行を導くうえで、やはりメディアの影響は大きかった、と著者はいう。銀座をぶらぶらし、デパートで買い物をするような生活は、やはりあこがれだった。
 そのころ普及したのが自転車である。1910年には50万台だった自転車の販売台数が、1930年には800万台に増えている。自転車はまだ男性の乗り物だった。これにたいし、女性が求めたのがミシンで、1903年から1930年のあいだに、シンガーは日本に約50万台のミシンを売り込んでいる。広告や雑誌記事、口コミ、全国で800の支店網、そこで働くセールスマンがミシン売り込みの原動力になった。1930年には、日本の家庭の約4%にミシンが普及していたという。
 NHKがラジオ放送を開始したのも1925年だった。しかし、1930年の時点で、ラジオをもっている家庭はわずか5%。このころ日本で普及していた電気製品は、アイロンと扇風機ぐらいのもので、アメリカ人がすでにもっていた冷蔵庫や電気ストーブ、洗濯機、蓄音機などは、日本人にとってはまだ高嶺の花でしかなかった。
 日本人の生活はまだまだ貧しかった。ゴードンは1918年2月17日付の東京朝日新聞に掲載された、ある小学校教師の投書を紹介している。それによると、かれの月給は20円75銭(いまでいうと13万円くらいだろうか)で、手取りは18円。これでどうやって生活していけるのかと嘆いている。
 米代を節約するためにご飯には麦を半分まぜ、しかも1日1回はおかゆにする。薪代が高いため、家族はひと月風呂にはいっていない。一杯の酒、数切れの肉、じゃがいもさえ満足に買えない。新しい着物をこしらえるなど問題外。正月になっても、子どもの着物もつくってやれず、餅さえ買えないみじめな生活だ。
 そのころの小学校教員の月給は少なくても40円くらいだったから、この人の場合は代用教員か何かで、極端に少なかったのかもしれない。
 消費の夢は膨らむのに、くらし向きは毎月やりくりするのにせいいっぱい。昭和のはじめは、まだそんな時代だったことがわかる。
 それがどんなふうに変わっていったか。
 もう少しみていくことにしよう。

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