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ゴードン「日本の消費」をめぐって(2)──論集『消費の歴史』から [くらしの日本史]

 前回のつづき。
 1920年代の日本には、大きな経済的不平等が存在していた。近代産業文明のもたらす文化生活は、まだ憧れの対象にすぎなかった。それでも消費社会は着実に進展していた、と著者は書いている。
 大衆に消費を促したのが信用制度である。当時、日本に進出していた外国企業は、月賦方式を積極的に取り入れようとした。たとえば、タイムズ社は丸善と組んで、『エンサイクロペディア・ブリタニカ』を月賦方式で売り出しはじめた。
 シンガーもミシンの売り込みをはじめた。当時、ミシンの代金は、サラリーマンの給料の2カ月分ほど。それでも値段としては高かった。
 シンガーは1920年代に毎年5万台前後を日本で売り上げている。その3分の2が、月賦販売だったというから、この信用制度は功を奏したのである。
 ミシンを購入する人は、月賦を恥ずかしいとは考えず、高級な外国品を買っているのだから、むしろ誇りととらえていたという。
 日本で消費者信用が本格化するのは、1920年代半ばからである。
 1924年には日本楽器(ヤマハ)が、ピアノとオルガンの月賦販売をはじめた。月賦は何年にもわたったというから、高級な趣味である。ピアノやオルガンを買ったのは、東京郊外に住む中流家庭が多かった。
 昭和のはじめ、人びとは月賦(クレジット)でどんなものを買っていたのだろう。著者は背広や自転車、自動車、靴、ラジオ、時計、百科事典、医療器具、カメラ、時計、宝石、西洋家具などを挙げている。当時としては高級品である。
 どれも文化を感じさせた。その商品は月賦で購入されたとはいえ、すべてモダンな西洋文化と結びついていたといってよい。つまり、そのころになって、中流階級にもあこがれの西洋化の波がおよんできたのである。
 ステータスともからんでいたのかもしれないが、その消費は意欲的で、日本の消費者は西洋の文物を熱心に取り入れた。当時の東京商工会議所も、月賦による商品の購入を、計画的で合理的な賢い消費行動として推奨している。
 いっぽうで、消費者信用が贅沢をあおっているのではないかと、その行きすぎを心配する声も上がるようになった。さらに、日本人は食べ物でも住まいでも着物でも、日本式と西洋式の「二重生活」におちいっているという批判も登場する。
 いっぽうで、西洋のものをそのまま取り入れるのではなく、日本流に改善しようという動きもはじまった。洋裁学校などが設立され、日本人に合ったワンピースなどの洋服も工夫されるようになったのも、この時代である。
 しかし、著者は、「日本の伝統」と「西洋の近代性」とが対立していたと論じるのは、あまりに短絡的だという。そこには絶妙な融合があり、伝統は消えることがなかったし、モダンにたいするあこがれも根強かった。
 1930年代にはいると、ラジオが家庭に浸透する。1929年にラジオを持っているのは65万世帯だったが、1941年には660万世帯に増えていた。ラジオの所有は、太平洋戦争に突入したあとも増えつづけ、1944年には750万世帯にまで膨れあがった。
 その結果、最初は中流階級の宝だったラジオが、次第に大衆化していき、都市部だけではなく、農村部でも欠かせない情報手段となった。当時、ラジオはニュースを聞くだけではなく、娯楽や趣味のためにもなくてはならない生活商品となっていく。
 いっぽうラジオは帝国にとっては、重要な宣伝手段でもあった。日中戦争がはじまっていた。戦争でよく読まれるようになったのは新聞も同じである。新聞各社はいち早く戦況を伝えるため、前線に特派員を送った。戦場の様子を伝えるニュース映画も各地の劇場で盛んに上映されていた。
 アメリカとの緊張が高まっていた。それでも日本人はアメリカ発祥の映画やスポーツが大好きだった。喜劇王チャーリー・チャップリンが来日するのは1932年。日本でプロ野球がはじまるのが1934年。同じ年、ベーブ・ルースが日本にやってきて、親善試合をおこなっている。プロ野球の試合は戦争末期の1944年11月まで中断されなかった。
 戦争だからといって、消費熱が衰えたわけではない。1930年には美容室が日本に広がり、パーマネントが流行する。1939年には東京だけで850軒の美容室があったという。
 洋裁学校や洋品店も増えており、1943年になっても、東京の洋品店は1282軒もあった。ミシンの販売台数も1935年から40年にかけ、大幅に増えた。太平洋戦争開戦前夜には、日本の家庭の10軒に1軒がミシンを所有していたという。1930年代には女性の服が、いっぺんに洋装に変わっていった。それは何かにつけ、洋服のほうが動きやすく、快適だったからである。
 1920年代には、モダンな消費生活は中流階級のものにすぎなかったが、1930年代にはいると、それは急速に大衆化していった、と著者は記している。そのころになると、多くの人が街の通りで買い物をし、雑誌を読んだり映画を見たり、ラジオを聞いたり洋裁学校に通ったりするようになっていた。
 戦時色が強まるにつれ、政治指導者は節約を唱えるようになるが、物質的にも文化的にも新しいものを求める大衆の欲求はとどまることがなかった、と著者は書いている。だから、戦前はかならずしも暗い時代ではない。
 世界的大恐慌のあと、日本の景気は1931年の満州事変によって急速に回復し、その後も引きつづき戦争景気がつづいていた。転機が訪れたのは1939年、とりわけ1942年から43年にかけてである。
 1939年には統制経済色が強まり、資源が軍事に回されるようになって、生活はだんだん苦しくなってくる。配給がはじまり、空襲が広がると、庶民の生活は生きていくのが精一杯になった。
 それでも1944年まで、音楽にせよ、ヘアスタイルにせよ、洋服にせよ、戦前の文化の香りは残っていたのであり、政府がいくら反英米を唱えても、人びとはそれなりの近代性を求めていたのだ、と著者は論じている。
 戦後の占領期が終わり、1950年代にはいると、日本の消費は一気に盛り上がった。しかし、そのブームは戦前の延長上にあったといってよい。
 戦後の回復は、まず当たり前の日常を取り戻すことからはじまった。例によって、庶民の夢をかきたてたのは、ラジオやテレビ、新聞、雑誌、映画などである。街にはさまざまな情報があふれはじめた。
 物不足と統制、配給の時代は終わり、近代生活の夢が次第に現実のものになっていく。家庭の電化が夢ではなくなる。実際、日本の電化は急速に進んでいった。アメリカに追いつき、追い越せの時代がはじまろうとしていた。
 著者によると、1960年に日本の世帯では、主な家庭製品の普及率はすでに次のようになっていた。
 ラジオ89%、ミシン72%、自転車66%、テレビ54%、カメラ47%、洗濯機45%、扇風機42%、電気炊飯器38%、トランジスターラジオ25%、レコードプレーヤー20%、電気冷蔵庫16%、オートバイ(スクーター)12%。
 こうした消費を促進したのは、またもクレジット(月賦)販売である。当初は消費の行きすぎを心配する声もあったが、むしろこうした信用制度は日常生活に規律をもたらし、景気を刺激する起爆剤となった。
 いっぽうで日本人は将来の消費に備えて、貯蓄にも励んだから、それが投資に必要な資金に回っていった。
 豊富な商品によって、それなりに生活の土台ができあがると、日本の消費社会は新しい段階にはいった。ターニングポイントとなったのは1970年代から80年代にかけてだ、と著者はみる。
 消費はニッチ(残された分野)をめざして細分化され、ヴァーチャル消費の領域まで広がっていった。コンピュータゲームなどがもてはやされるようになった。あるいはキティちゃんのようなキャラクターものが、はやりはじめる。
 1990年代には韓流ブームが押し寄せた。著者はこうした文化商品の消費は、不思議なことに日本の景気低迷と結びついているという。最近では車を持ちたいという若者の数も減ってきたらしい。こうしたトレンドはおそらく消費がポストモダン状況にはいってきたことを示している、と著者は述べている。
 アベノミクスとやらで、いくらカネをばらまいても、足下の消費とくらしを見なくては、ほんとうの意味での日本の経済は語れない。

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