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竹内好のこと [われらの時代]

 竹内好(よしみ、1910〜77)と呼び捨てにしてしまったが、学生時代は竹内さん、あるいはもっと親しみをこめて好(ハオ)さんと、「さん」づけで呼んでいた。いわずと知れた中国文学者で、魯迅の紹介者として知られる。
 あのころ(1960年代末期から70年代はじめ)、「さん」づけでいたのは、吉本隆明(1924〜2012)と竹内好しかいない。
 かといって、ふたりと親しかったわけではない。遠くから顔をみて声を聞いたのは、ふたりともたった一度きりである。
 ぼくのなかでは、学生時代の「先生」は、竹内好と吉本隆明しかいなかった。大学はなかなか進学できなかったので、6年もいるはめになってしまった。それなのにゼミもとらなかったので、けっきょくひとりの先生とも出会わなかった。ひどいといえばひどい、残念といえば残念な話である。学園闘争が荒れ狂うマンモス大学はそんなところだった。
 思想的な影響という面では、吉本隆明のほうが大きかったかもしれない。吉本のいう「大衆の原像」を、ぼくは反権力、反インテリ、反左翼の立場ととらえていた。反権力とは、天皇制や自民党(アメリカ)に反対すること。反インテリとは大学やアカデミズム、文化人の権威に反対すること。反左翼とはスターリニズム(ソ連型社会主義)や社会党、共産党に反対すること。要するに、わけもなく、つっぱっていたのだ。この年になっても、年甲斐もなく、〈反政治〉というおとなげない傾向が残る。その点は反省しなくてはならない。
 それはともかく、竹内好のことである。はじめて顔をみたのは早稲田の学園祭の催しのときだ。たしか1970年の秋だったと思う。場所は法学部のそれほど広くない教室ではなかったろうか。竹内の講演会だと思いこんで、サークルの里見脩君とのこのこ出かけていったものだ。ところが、竹内大人(たいじん)は学生からの質問を待って悠然と構え、ほとんどしゃべらないので、イラチなぼくは、さっさと教室を後にしてしまった。ほんとうに残念なことをした。
 だが、ぼくは竹内好を通じて、中国を知ったのである。あのころ、成田闘争の支援にも出かけていたけれど、大学闘争はすでに下火になっていた。1971年から72年にかけて、中国革命や文化大革命について書いてある本や雑誌を読みあさった。そして72年秋、日中学生友好会に加わって、はじめて中国を訪れた。
 そのころ、竹内の主宰する「中国の会」が発行する雑誌『中国』(1963〜72)も読んでいたと思う。しかし、党派に属さないにせよ、ぼくの傾向は、この雑誌よりもっと政治主義的だった。訪中については、別の機会に、その恥ずかしい思い出を語らなくてはならない。
 それはともかく、訪中から戻り、しばらくしてから「魯迅友の会」の集まりに2、3度ほど参加したことを、いまになって思いだす。「魯迅友の会」は1954年に竹内がつくり、当時は若い人が中心になって細々とつづけられていた。この会を紹介してくれたのは馬場英子さんだったと思う。松井みどりさんが世話人をしていた。「友の会」は「中国の会」のジュニア組織といったおもむきがあった。だから、そのころ、ぼくは竹内好のすぐそばにいて(かといって、本人と会ったわけではないのだが)、中国にもっとも接近していた。中国離れがはじまるのは、その後、社会にでてからだ。
 いま、そんなことを思いだしたのは、船橋の図書館に『竹内好全集』があるのをみつけ、その第10巻と11巻を借りだしたからである。この2巻には雑誌『中国』に連載された竹内のエッセイ『中国を知るために』が収められている。けっこうな分量(3巻分)なので、いちどにはとても読めないが、ゆっくり読みなおしてみることにした。これも思い出読書である。
 エッセイがはじまってすぐに(1963年3月)、竹内はこう書いている。

〈われわれはじつに中国のことを知らない。それはもう驚くほど知らない。そして知らないことを十分には自覚していない。まず自覚することが「知るために」何よりも必要である。〉

 ここで竹内のいう「中国のこと」というのは、中国の歴史や政治、社会のこと以上に、中国人の生活をさしている。いわれれば、たしかにそのとおりだ。
 竹内のまなざしは、中国の歴史や政治を論評して、中国をわかった気になるより、中国人の生活を理解することのほうに向けられていた。エッセイをつうじて、われわれは「知るとはイメージを変革することなのだ」という竹内のこころみに次第にいざなわれていくことになる。
 第1巻で扱われている事柄を列挙しただけでも、そのことは理解できる。それは扇の話題からはじまって、コトバと思考法、同文同種のいかがわしさ、支那と中国、度量衡のはなし、助数詞のちがい、ロクロのひき方、九九とソロバン、単位の観念、数の表記、においの日中比較へと広がる。
 どれもつい見逃しがちな些細な問題にみえるかもしれない。だが、どれをとっても中国と日本の考え方、感じ方はずいぶんちがうのだ。それは日本がすぐれていて、中国が劣っているということではない。コトバにしても、技術にしても、中国のほうがむしろ西洋と似かよっているところもある。
 そのことごとについて、いま紹介することはやめておく。ただ、竹内がこうしたこころみをはじめたのは、日本人に日本と中国のちがいを知ってもらい、中国に親しみをもってもらうためだったといえる。政治体制は二の次である。人の値打ちは、政治体制や経済状況によって決まるわけではない。人と人との親しみこそが、すべて物事の出発点にちがいなかった。

「中国の会」の会則はなかなか決まらなかった。
 最終的にそれは、

 1、民主主義に反対はしない。
 2、政治に口を出さない。
 3、真理において自他を差別しない。
 4、世界の大勢から説き起こさない。
 5、良識、公正、不偏不党を信用しない。
 6、日中問題を日本人の立場で考える。

といったあたりに落ち着く。1968年春のことだ。
 なかなかまねのできない、みごとな会則である。「しない」を列記する会則は、ほかの会では、まずお目にかからないだろう。
 だが、「中国の会」がはじまったころ、会の綱領はほぼ次のようにまとまりつつあった。

 第一 日中国交回復の実現に賛成する。
 第二 日中の連帯の伝統を見直す。
 第三 中国を日本人の眼で自主的に見る。
 第四 生きている中国認識をわたしたち共通のものにしよう。

 竹内はこの第四の項目が気に入らず、けっきょくこの綱領は流れた。
 とはいえ、「中国の会」がつくられたのは、日本人の中国認識を変革し、日中国交回復を実現するためだったといってよい。そして、実際、日中国交回復が実現された1972年の終わりに、(編集上の大ミスも重なって)「中国の会」は幕を閉じたのだった。ぼくが「魯迅友の会」の集まりに顔をだしたのは、ちょうどその前後だった。
 ところで、『中国を知るために』の第1集を読むと、1964年8月から65年6月にかけて、竹内は中国という呼称をめぐって、激しい論戦をくり広げていることがわかる。当時は多くの新聞や識者が、まだ中国のことを中共とか支那と呼んでいたのだ。
 論戦をはじめるにあたって、竹内はこう書いている。

〈先に結論だけを出しておく。私は中国のことは日本人も中国と呼んだほうがよいと思う。しかし、これはたいへん面倒なことであって、その面倒さは、国交回復といずれぞや、といいたいぐらいだ。だから早急な実現はおぼつかない。……大げさにいうと、この問題には、日本と中国との近代史の全部の重みがかかっている。〉

 中国といわず、支那と呼ぶべきだという考え方は、当時、日本人のあいだにしみついていた。中国とは世界の中心を意味するから、それ自体、尊大だという意見すらあった。
 中国人は自国のことをシナと呼ばれるのを嫌っていた。そこには長い戦争時代の軽蔑が感じられたからである。しかし、日本人のなかには、よその国をどう呼ぼうが、こちらの勝手だという傲慢さが残っていた。だから、中国と呼ぶべきだという主張を、「隣国人の不当な日本語干渉」と切り返す識者もいたのである。しかし、実際に干渉があったわけではない、と竹内は論じる。

〈中国人が「シナ」に嫌悪感をもつようになったのは、1910年代からであって、それが普及したのは、1920年代である。つまり、中国のナショナリズムの勃興と、日本帝国主義の進出との切点(ママ)でこの問題はおこっているのだ。中華人民共和国なり中国共産党なりは、この問題とはまったく何の関係もない。むしろ国民党時代のほうが、ずっと敏感だった。〉

 そして、皮肉にも現地の日本軍政当局が「シナ」をやめなくては、親日政権を育成できないと思うようになった、と竹内はいう。
 へえ、そうだったのか、とびっくりする。
 悪循環の元凶は、中国ナショナリズムの軽視(無意識の軽侮)にあるという竹内の指摘は、いまもあてはまるような気がする。
 竹内はさらに日本の新聞表記についてもふれている。日本人の中国認識が軽薄なのは、メディアに責任がある。
 敗戦後、日本の新聞は支那の表記を中国に変えた。その理由はまったく説明されなかった。「日本的な転向の型、なしくずし転向」だ、と竹内はいう。
 さらに、当時の新聞は、読売、朝日、毎日も、中国と中共を使い分けていた。
 読売は中華人民共和国を「中国」、中華民国を「国府」、中国共産党を「中共」と呼んだ。いっぽう、朝日と毎日は、中華人民共和国を「中共」、中華民国を「中国」と略称していた。朝日の場合は巧妙で、文化欄などでは、中共ではなく、なるべく中国を使うようにしていた、と竹内は観察している。
 つまり、1960年代半ばまで、新聞の紙面は「中共」の見出しで、あふれかえっていたのだ。ぼくにもおぼろげに記憶がある。
 竹内はいう。

〈今では滔々として「中共」だ。中共、中共で、すでに「中国」は影うすくなった。私にしてからが、うっかりすると、人と話していて「中共」が口から出かかることがある。この「中共」は、ある固定したイメージを植えつけることに成功しつつある。かつての「支那」がもっていた侮蔑にかえて、「中共」は恐怖感を伴っている。〉

 新聞のインチキな造語にたいし、竹内は反論した。
 その内容は竹内が小学館の『日本百科大事典』に寄稿した「中国」の項目に明確に記されていた。あまりにもみごとなので、それを全文引用したい誘惑にかられるが、いまはその要点だけを断片的に示す。

〈中国というのは、一つの文明圏または民族共同体に名づけられた総称であって、国名でもないし、国名の略称でもない、……一口にいって中国とは、日本人が以前に支那とよんだものと同一内容である。
 こういう用法で中国という語が使われるようになったのは、二十世紀になってからである。近代ナショナリズムの勃興にともなって、自称を定める要求がおこり、中国のほかに中華、またときには支那などが使われたが、しだいに中国に固定した。……
 中国を中華民国の略称と解するのは、順序を逆転している。中国に成立した第一次の共和国が中華民国なのである。中華民国の略称は民国であって、中国ではない。同様に、第二次の共和国が中華人民共和国であって、これが中国の国家名称である。この中華人民共和国のことを、近ごろ日本で中共と略称する風潮があるが、これはある政治的意図をもってはじめられたもので、中国には通用しないし、誤解を招くおそれもある。中共とはもともと中国共産党の略称であることは日中に共通である。それを借りて国の略称にするのは穏当ではない。……〉

 朝日新聞が国家の略称として「中共」を用いるのをやめ、中国という表現を使うようになったのは、1964年10月1日からである。
 しかし、その後も竹内は支那を発端とする呼称問題にこだわった。

〈なぜ日本人の「支那」がきらわれるか。これは理外の理であって、それをリクツで説明しようとすると、どうしても無理がおこる。その無理を通そうとするので、ますます混乱がおこる。そういう悪循環があると考えるべきだ。〉

 竹内らしい柔軟で強靱な思考には感服するほかない。
 理外の理とは何か。「侮辱が問題になるのは、主観の意図においてではなく、受け取り手の反応においてなのだ」と、竹内はいう。
 侮辱意識を解消するのは容易ではない。意図的な侮辱も無意識の侮辱もあるだろう。しかし、それを解消するよう努めなければ、相互の理解ははじまりようがない。竹内が雑誌『中国』で、堅い信念のもと、こつこつとはじめたのは、そういう仕事だったとみてよい。

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