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『中国を知るために』を読みながら [われらの時代]

 日本老年学会が75歳以上を高齢者と呼ぶようにしようと提言したそうだ。これによると、後期高齢者といういやな役所用語はなくなって、75歳からめでたく高齢者になるわけだ。
 ところが、65歳から75歳までは後期壮年者ならぬ准高齢者と呼ぶようにするとか。これもへんな言い方である。
 何はともあれ、年寄りが元気といわれるのはめでたい。ただ心配なのは、そのうち医療保険が引き上げられ、年金は70歳から支給となり、少なくとも70歳まで働かなくては生活できない時代がやってくるのではないか。
 うたがうのも、ほどほどにしたほうがよさそうだ。
 ぼく自身は、じゅうぶん年寄りだと思っている。先日ジムに行き、少し運動したあと、帰りぎわ、コーチの女の子に「お世話さま」と声をかけたら、「おだいじに」といわれてしまった。
 推して知るべしである。
 読む本も、昔の思い出を呼びさますものが多くなっている。
 そんなわけで、きょうも竹内好の『中国を知るために』の第3集(1970〜72年)を読んでいる。
「世界の大勢から説き起こさない」のが、「中国の会」のスタイルのはずなのだが、ぼくの関心は、どうしてもそちらに向かってしまう。

〈今年[1970年]にはいってから、新聞は各紙ともいわゆる中国問題の記事や解説で競争状態を呈している。またもや間歇熱の発作の周期がめぐってきたのかもしれない。……私としても、意見がないわけではないが、それを述べるのは気がすすまない。〉

 当時の新聞記事を調べるのはわずらわしい。
 記憶だけでいうと、このころ中国では文化大革命が終息期にはいっていたはずである。文革の嵐を収めるには、軍の力を借りなければならなかった。
 日本の大学紛争も収まりつつあった。その代わり、政治党派の動きが活発になっていた。内ゲバがはじまり、赤軍派が結成されていた。
 ベトナム戦争はやむことなく、つづいていた。
 日米間では沖縄返還の合意がなされた。
 そうしたなか、新聞は、文化大革命の行方や、これからの日中関係をめぐって、さまざまな論評をくり広げていたのだろう。
 竹内のエッセイは、そうしたこうるさい時評を尻目に、身近なテーマを中心に、淡々と書き継がれていたのである。
 それでも時の勢いはいやおうなく押し寄せてくる。
 4月19日には日中覚書貿易のコミュニケが発表された。
 そこに「日本の軍国主義」という表記が含まれていたので、日本じゅうが大騒ぎになった。
 竹内はこう書いている。

〈日本は貿易立国だから、当然に戦争をおそれるし、だから平和国家だという説は、私には詭弁に思える。本末を顚倒した立論に思える。その証拠に、戦争は買いだという証券市場の体質は、朝鮮戦争からヴェトナム戦争まで改まっていない。たぶん今後も変らぬだろうと思う。他人の不幸がわが喜びになる、これほど人間性をスポイルするものはない。〉

 ただ、中国もじっと閉じこもっていたわけではない。
 4月24日には、中国初の人工衛星が打ちあげられた。
 アフリカのタンザニアでは、中国の鉄道建設隊がザンビア間の鉄道を敷設していた。さらに中国の医療隊が、タンザニア、モーリタニア、ギニア、アルジェリア、さらにはイエメンなどで、巡回しながら診察や治療にあたっていた。そうした『人民中国』の記事を竹内は紹介している。
 アフリカにたいし中国はさかんに援助をおこなっている。紡績工場や農機具工場、小型ダムもつくった。軍事面でも、約200人の軍事顧問がタンザニア軍の訓練にあたっていた。
 フランスとパキスタンの共同航空路が上海まで伸びるようになった。フランスと中国のあいだでは、すでに1964年から国交が結ばれている。
 これにたいし、国交のないアメリカや日本の飛行機は、中国に乗り入れることができない。日本が中国へ輸出できたプラントはクラレのビニロン一件にとどまっていた。
 竹内は日中貿易交渉の一行に加わった自民党議員からも話を聞いている。北京では市民が防空壕を掘ったり、民兵訓練をやったりしているらしい。しかし、日本のスモッグ公害のようなものはないようだと思う。
 そしてふと思ったりする。

〈おそろしいのは予想を超えた事件の突発である。……人類滅亡の予想はおそろしくないが、人類不滅の確信はおそろしい。〉

 また大きな戦争がはじまるのではないか、と心配していたのである。
 このころ竹内は評論活動から足を洗って、ほとんど魯迅の翻訳に専念していた。1930年の上海をえがいた茅盾(マオトン)の『子夜』も訳している。それがいささか自慢だった。「30年代がわからなくては、現代中国について何ひとつわかるわけがない」と思っていた。
 竹内は1970年の終わりに、来年正月には、中国問題がジャーナリズムではでに取りあげられるのではないかと予想していた。だが、自身は「黙して語らぬに如かない」。
「国交回復ということばは乾涸(ひから)び……いまでは慎重に検討いたします、前向きに善処します、と等価なのだ」と、なかばあきらめ顔だった。
 むしろ思いだすのは1年半前の旅行のことだ。
 このときは旅行社のツアーで、武田泰淳夫妻とともに、シルクロードを含むソ連各地を見て回った。
 飛行機から天山山脈の「ほとんど無限大にひろがる起伏」を見て感動し、中央アジアでは荒涼たる沙漠の風景に心奪われ、イスラムのことを考えたものだ。
 ちなみに、このときの旅行については、同行した武田百合子が『犬が星見た』という日記をつづっている。ぼくももっているので、いずれ紹介することにしよう。
 そうこうしているうちに、1971年も春たけなわとなり、やがて初夏がやってきた。雑誌『中国』の6月号に、竹内はこう書いた。

〈この春は天候不順で、いつ過ぎたと知らぬうちに、気がついてみたら花の盛りが過ぎていた。その代り、人工の蝶ならぬピンポン玉は華麗にとび交うた。息つくひまもないほどだった。まずは結構至極といわねばならない。〉

 ここでピンポン玉というのは、71年3月から4月にかけ、日米中間でくり広げられた、いわゆるピンポン外交をさす。
 発端は名古屋市で開かれた世界卓球選手権に、中国が久しぶりに出場したことだった。その後、中国がアメリカなどの卓球選手を自国に招き、それを機に米中間の交流が再開された。キッシンジャーの極秘訪中をへて、72年2月のニクソン訪中へとつながるきっかけとなったできごとである。
「まさか、ピンポン玉から本物の鳩がとび出そうとは、私には予想もつかなかった」と竹内は述懐し、その外交の背後にジャーナリストのエドガー・スノウがいるのではないかと推測している。
 71年8月には、ニクソンが突然、来年の訪中を発表した。日本政府には寝耳の水の話だった。

〈ニクソン訪中声明は、ふたをあけてみると、長い、慎重な準備工作の結果であることが、だんだんわかってきた。複雑怪奇はふたをあけてみれば複雑怪奇ではない。これは歴史の常道である。……わが日本国政府は、泰然として腰を抜かすこと、これまた歴史の教訓である。〉

 大きな歴史の波がやってきたのだ。
 だが、竹内はまだ日中国交回復に悲観的だった。
 10月1日の国慶節ではパレードが中止になった。重要人物が亡くなったのではないか、中ソ国境で紛争が勃発したのではないか、あるいは内乱が発生したのではないか、と憶測がとぶ。
 中国側はパレード中止の理由は、行事を簡素化するためだと説明した。9月に林彪が毛沢東の暗殺に失敗し、モンゴルで墜落死したことは、この時点ではまだ明らかにされていない。竹内もてっきり行事を簡素化するためだと思いこんでいた。
 そして、日本時間の10月26日(現地では10月25日)、国連で中国の代表権が差し替えられ、中華人民共和国が中国の代表権を回復するという大きなできごとがあった。竹内も思わず、この日のテレビ中継に見入っている。
 明けて1972年の2月、ついにニクソン訪中が実現した。だが、このときのエッセイの表題を、竹内はなぜか「鬱屈」としている。

〈……おわってみると、格別の感想もない。おこるべくしておこり、過ぎるべくして過ぎた事件であったという気がするだけだ。それよりも浅間山荘の事件のほうがいまでも重くのしかかっている。〉

 たしかにそうだ。連合赤軍事件は、まさにニクソン訪中と重なりあっていた。日本じゅうが米大統領の訪中より、あさま山荘に釘付けになっていた。
「鬱々としてたのしまぬのは、そこら辺に原因があるのかもしれないし、そうでないのかもしれない」と、竹内は書いている。
 おそらく、竹内が「鬱々」としていたのは、国交回復でアメリカに先を越されたからでも、連合赤軍のあさま山荘事件があったからでもない。いや、それもあったかもしれないが、かれには日中間の問題にたいして、もっと根本的な疑念がわだかまっていたのである。
 日本ははたして中国と講和を結ぶつもりがあるのだろうか。そのつもりがないのなら、日中国交回復は不可能である。
 竹内は日中国交回復に悲観的になっていた。
 その理由を、同じころ『朝日ジャーナル』に載せたエッセイで、こう書いている。

〈いまから思うと、身びいきというか、私なりの日本政府への過大評価があったようです。米中関係と日中関係は原理的にちがう、そのことは政府も承知しているはずだ、と私は思い込んでいました。第二次世界大戦における米中は同盟国であるが、日中は交戦国である。したがってアメリカは、中国と和解するために、朝鮮戦争までさかのぼるだけでよいが、日本は1937年または1931年までさかのぼらなくてはならない。そしてこの解決には当然、アメリカの助けを借りるわけにはいかない。これが私の悲観論の根拠であります。〉

 竹内の悲観論については、さらに述べなくてはならない。
 問題はいまもまだいっこうに解決されていないからである。
 この項、もう少し書かなければ収まらない。

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