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日中国交回復と竹内好 [われらの時代]

 きのう親しい友人が亡くなった。またさびしくなる。
 しかし、生きているかぎり、その魂はともにあると思いなおす。
 前回は途中でくたびれてしまい、『中国を知るために』を最後まで読み切ることができなかった。
 今回はそのつづきである。
 1972年はベトナム戦争終結に向けて、世界秩序が大きく変化した年である。
 2月のニクソン米大統領訪中のあと、5月15日には沖縄が日本に返還され、それを花道として6月に佐藤栄作が退陣し、7月に田中角栄が首相に就任した。
 8月にはミュンヘン・オリンピックが開幕。9月5日にパレスチナの武装組織が選手村を襲い、イスラエルの選手11人を射殺する事件も発生した。
 ぼくが日中学生友好会に加わって訪中したのは、ちょうどこのころである。じつにのほほんとした物見遊山の旅であった。
 ところが、そのころ状況は大きく動いていた。2週間ほどの旅行を終え、日本に戻ってすぐ、田中訪中のニュースが伝わってきた。9月25日、田中首相は日航特別機で北京空港に降り立つ。そして、9月29日、田中角栄、周恩来両首相によって、日中国交回復の共同声明に調印がなされるのである。
 ぼくが「中国の会」の姉妹組織である「魯迅友の会」に2、3回顔をだしたのは、学生友好会の訪中から戻ってきてからである。田端にあった学習塾を借りて、中国語を勉強しはじめていた。
 雑誌『中国』が休刊になる話を聞いたのも、どこかの喫茶店で開かれた「友の会」の集まりでだったろう。中国の地図で台湾の部分が中華民国と表記されているという、大きな編集ミスが見つかって、竹内さんが休刊(事実上の廃刊)を決意したという話を聞いた。
 しかし、竹内好のそのころの思いを理解していたわけではない。なにせ、こちらは、はじめて彼女ができて、有頂天になっていたのだから。退学して家に戻ろうかと、それとなく思っていたのが、これで立ち消えになる。大学を卒業して、いなかの高砂に戻らず、東京ではたらこうと考えるようになった。
 きみまろのせりふではないが、あれから45年。おたがい言わぬが花である。
 それはともかく、あのころ竹内が何を思っていたかを知りたくなり、『中国を知るために』のつづきを読んでいる。

 1972年8月号に掲載されたエッセイで、竹内はこう書いている。

〈中国との国交回復は、いずれは実現するだろう。遠からず実現するかもしれない。なにしろ時勢が変ってしまった。戦争の危機が完全に消えたとは思わないが、しばらく遠のいたことだけは、人なみ以上にペシミストである私でも認めないわけにはいかない。おまけに国交回復は、いまではもうアメリカのお墨付きもあるし、財界の公認ずみでもある。一年前とはまったく条件がちがう。〉

 まもなく国交回復が実現されるであろうと思いながらも、しかし、竹内の気持ちはけっしてはずんではいない。国交回復が、1937年からはじまった全面戦争という過去の負債をおきざりにしたまま、なされようとしていたからである。政治と経済の都合が国交回復を急がせている。
 これにたいし、竹内は「ただ、そこに日本人民の良心がかけられ、それによって中国人民との連帯が期待可能であった形では、ついに日中国交回復は、実現されなくなったことだけは肝に銘じておかなくてはならない」とつづっている。
 とはいえ、「たといアメリカに尻押ししてもらっての講和であっても、講和がないよりはマシである」と、その気持ちは揺れている。
 そして、9月の田中訪中とあいなる。このときも竹内はテレビに見入った。
 まず、わいてきたのが、次の感想だ。

〈共同声明の内容が逐次紹介されるにつれて、肩からスーッと力がぬけてゆく感じがした。ほとんど予期のとおり、というよりも、予期以上のものだった。よくもここまでやれた、というのが正直な印象である。中国の犠牲者たちは、これではまだ浮かばれないかもしれないが、少なくとも日本の戦争犠牲者たちは、やっと瞑目できるのではないか。〉

 これはいつわらぬ感想だったろう。
 日中共同声明の前文には、こう書かれていた。
「日本側は、過去において日本国が戦争を通じて中国国民に重大な損害を与えたことについての責任を痛感し、深く反省する」
 おそらく入れたくなかった文言だろう。
 だが、中国側はみずから賠償請求権の放棄を明言することによって、日本側から「反省」の文言をかちとった。
 これによって、ともかくも、日中間の講和が実現され、国交が回復されたのである。
 ただ、ひとつ気になったことがあった。それは宴会のときに、田中角栄が述べたことばである。
 竹内はこう書いている。

〈最初の宴会での田中首相のあいさつに「多大のご迷惑」ということばがあった。ずいぶん軽い表現だな、とそのときは感じた。さきにあいさつを述べた周さんが「1894年から半世紀にわたる日本軍国主義の中国侵略」といっているのだ。それを受けるにしては軽すぎるな、と思った。しかし、それが「添了麻煩(テンラマーファン)」と翻訳されたとは、そのときは気がつかず、翌日の新聞を見てはじめて知った。/「迷惑」は軽すぎるが、「麻煩」はもっと軽い。軽いというより、誤訳に近いのではないか。〉

 麻煩というのは、「ごめんなさい」という程度の軽い表現らしい。
 「迷惑」ということばをめぐる、中国側の激しい反発については、以前、このブログでも紹介したので、ここではくり返さない。(「田中訪中と『迷惑』論争」http://kimugoq.blog.so-net.ne.jp/2007-06-25 を参照)
 竹内は「迷惑」という表現から、「反省」ということばについても、日本側と中国側とでは、受けとめ方がずいぶんちがうのではないかと感じていた。
「前事不忘、後事之師」と題するエッセイで、こう記している。

〈反省するからには、当然、それが行為となってあらわれるべきだ、というのが中国語の語感でもあるし、中国側の期待でもある。それにひきかえ日本側は、「反省」という文字を記せばそれで反省行為はおわった、と考えている節が見える。言いかえると、共同声明を国交正常化の第一歩ととらえるか、それとも国交正常化の完了としてとらえるかのちがいである。〉

 日本には「反省」といえば、それですむという、みそぎの思想、過去を水に流すという姿勢がどこかにある。そのあと、つづくのがカネをだせば、「誠意」をみせたことになるという考え方である。
「多大のご迷惑」につづいて、宴会で田中は、今こそ明日のために話しあうことが重要だと述べた。「とりもなおさず、アジアひいては世界の平和と繁栄という共通の目標のために」とことばを継いだ。
 これにたいし、先にあいさつした周恩来は、「前事不忘、後事之師」という格言、すなわち「前の事を忘れることなく、後の戒めとする」ということばを引用していた。
 竹内は田中発言のあまりの軽さに怒りすらおぼえて、こう記している。

〈過去の侵略戦争の事実、そして戦争がおわっても終戦処理を怠った事実、そればかりでなく、虚構にもとづいて終戦処理はおわったと主張してきた事実、それをタナにあげて、ほかならぬ中国を相手として、「アジアひいては世界の平和と繁栄」について話合えると本気で信じているのだろうか。〉

 さらに、竹内はこうも述べている。

〈「反省」は未来にかかわる。友好を築くために反省が必要なのだ。そのために過去を知ることが必要になる。過去を切捨てるならば反省はいらない。その代り友好の望みも捨てるべきだ。〉

 トゲはまだ刺さったままだ。
 雑誌『中国』は1972年10月号で休刊となった。
 竹内の連載エッセイ「中国を知るために」は、次のひと言で結ばれている。

〈すべて始めあるものは終りあり、ただし有終の美をなさなかったことは確かだ。まことに残念である。〉

 非力を感じていた。
 苦い決断だった。

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