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宗教にも救いはない──グレーバー『負債論』を読む(4) [本]

 人類学者のキース・ハートによれば、貨幣には商品と信用(借用証書)の二面性がある。商品といっても、物々交換ではない。だが、信用だけでも信用されない。金貨であり銀貨であり、実物であることによって信用される。だから、ローマの貨幣がインドや中国にまで到達することができたのだという。
 賭博場の発行する模造貨幣、小売店の発行する代用貨幣は、いうまでもなく流通範囲がかぎられている。
 現実の市場では、さまざまな通貨が入り交じっていた。中央アフリカではカカオや塩、植民地時代のヴァージニアではタバコ、その他、各地でさまざまなものが貨幣として扱われている。「かくして貨幣は、商品と借用証書のあいだをほとんど常にさまよっているのである」。
 ここで、著者は商業について独自の考察を加えた思想家として、フリードリヒ・ニーチェの名前を挙げている。
 ニーチェはこう書いている。

〈値段をつけること、価値を測定すること、同等な価値のあるものを考えること、交換すること──これらは人間のごく最初の思考において重要な位置を占めていたものであり、ある意味では思考そのものだったのである。人間の最も古い種類の鋭敏さが育てられたのはここにおいてであり、人間が他の動物と比較してみずからに誇りをもち、優越感を抱いたのも、ここにおいてである。〉

 そうした人間の相互関係のなかから共同体が生まれてくる。自分に平和と安全を与えてくれる共同体に、人は負債を負う。そのため、人は共同体に借りを返さなければならない、とニーチェはいう。それには犠牲がともなう。
 しかし、はたして人は共同体、いいかえれば祖先からの借りを返しきれるのだろうか。人は贖罪の不可能性の前に立ちすくむことになる。永遠の罪の前に、良心のやましさを覚え、神に救いをもとめる。これがキリスト教の罠だ、とニーチェは考える。
 こうしたニーチェの考え方に、著者は違和感をおぼえる。
 ニーチェの前提は貸し借り計算のうえに成りたっている。だが、人はいっぽうで助けあいに重きを置き、打算を拒絶することで生きている面もある。
 著者は旧約聖書の「ネヘミヤ記」を思い浮かべる。ここにはヨベルの律法についての記述があった。ヨベルの律法では、7年ごとの安息の年に、あらゆる負債が自動的に無効になり、負債のために苦しんでいる者すべてが解放される。ユダヤの徳政令だといってもよい。
 当時、ユダヤの人びとは、累積的な債務危機におちいり、農地を失い、借地人となっていた。息子や娘を債権者に召使いとして差しだすか、外国に奴隷として売り払わねばならないところまで追い詰められていた。
 ヨベルの律法は、そうした負債から人びとを解放しようとする。それは、計算システム総体を破壊しようというものだ、と著者はいう。考えてみれば、日本の百姓一揆にも、こうした思想があるのかもしれない。
 だが、こうした救済はシステムの完全破壊にいたらない。それはいっときの祝祭にとどまる。
 イエスは地上の負債は返されねばならないという。「しょせん、われわれ罪人の救済されるのはあの世においてのみなのだ」と、著者は手厳しい。
 こう書いている。

〈世界宗教はまさにこのような両義性(アンビヴァレント)に充ちている。一方で、世界宗教は市場に対する怒号である。ところが他方で、そうした異議を商業的な観点から枠づけてしまう傾向をも世界宗教は有しているのである。人間の生を商取引に還元してしまうことがよくないのは、それがよい商取引ではないからだ、とでも主張するかのようなのだ。〉

 かくて、人びとは負債のとらわれ人となったままである。
 貨幣のもたらす「残酷さと償い」。
 宗教にもニーチェの超人思想にも救いはない、と著者は考えている。

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