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人間関係の3原理──グレーバー『負債論』を読む(5) [本]

 人の生活を支えているモラルの基盤に立ち返ってみよう、と著者はいう。
 そもそも、著者は、負債は返さなければいけないというモラルに疑問をいだいている。マルセル・モースが1925年に発表した画期的な論考『贈与論』以降に展開された人類学の膨大な論考にも批判的だ。そこには、けっきょくのところ、贈与には返礼をせねばならないという了解がしみついているからだ。
 贈与論からは互酬性という概念が導かれた。すべての人間関係は互酬性にもとづいているというわけだ。だが、それはほんとうだろうか。たとえば、親子の関係は、互酬性などでは割り切れないようにみえる。
 じつは、旅行記などには、一方的な贈与を強制されたという話が多々残っている。「だれかの命を救うと永久にその人物の面倒をみる責任がある」という話がまことしやかに伝えられる。それは互酬性とは正反対だ。いったん関係が生じた以上、その関係は永遠の贈与によって持続されなければならない。そういう考え方もありうるわけだ。
 ここで著者は人間関係のあり方を(1)コミュニズム、(2)交換、(3)ヒエラルキーの3つの位相に沿って考察している。
 それぞれをみておくことにしよう。
(1)コミュニズム
 コミュニズムという言い方は誤解を招きやすい。そのことを、著者も認めている。ほんらい、そこには原始共産制へのあこがれがひめられていた。それを政治的に追求しようとしたところから、あやまりが生じた。
 人間関係にはコミュニズムの原理がすでに含まれている、と著者はいう。「ちょっと手伝ってくれない」といわれて手伝うのが、コミュニズムである。日本でいえば、結い(ユイ)の思想だ。助けあいの精神といってもよい。
 人間関係の根底にコミュニズムがなければ、コミュニケーションは成りたたない。助けあいを拒否するのは、相手を敵とみなすことと同じである。
 タバコの火を借りたり、道をたずねたりする。こうしたささやかなやりとりができなければ、社会的関係はきわめて希薄なものとなってしまうだろう。
 人類学の調査によると、平等社会では、食物などの必需品を分けあう習慣がよくみられる。釣りや狩猟の獲物は惜しみなく分かたれる。家をつくったり、葬儀をおこなったりするときも、助けあいの精神が発揮される。
 こうした社会では、現在でもみられる家族の原理が、集団全体に適用されているということもできる。
 ここにみられるのは厳密な互酬性の原理ではない。収支決算は求められていない。おどろくべき寛大さが行き渡っている。それはときに交換のルールを無視するところまで行き着く。
 食物を共有する者は、たがいに傷つけてはならないとされている。人間どうしの関係が緊密なこうした社会では、「相手の状況を完全に無視することはむずかしい」。だから、利益をしぼりとるようなビジネスは成り立ちにくい、と著者はいう。
(2)交換
「交換とは……相対する双方が、それぞれ与えたぶんだけ受け取るといったやりとりのプロセス」である。厳密な等価性があるわけではない。ただ等価性にむかうやりとりの不断のプロセスがみられる。
 贈与交換でも、そこに見せびらかしの要素がはいってくると、ポトラッチのように、激しく寛大さを競う儀式が発生する場合もある。
 著者は交換の特徴を非人格性に求めている。交換の場に立ち会う買い手と売り手は、たがいをよく知っているわけではない。そこではいわば芝居がくり広げられ、取引が終われば、原則的には、それですべておしまいとなる。贈与のやりとりのように、人間関係がずっとつづくわけではない。
 交換には等価と自律性が内包されている、と著者はいう。金銭が支払われ、交換が完了すれば、両者はともに見知らぬ者どうしとして立ち去ることができる。
 だが、贈与交換というヴァリエーションも存在する。18世紀のニュージーランドでのことだ。イギリス人の入植者がマオリ族の戦士が身につけた翡翠の首飾りをほめた。すると、マオリの戦士はそれを贈るといいはり、それを渡したあと、しばらくたってから、入植者のコートや銃をほめたたえるために戻ってきた。「贈り物を受け取ってしまえば、それは暗黙のうちに贈り主に[受取人に等価のものを要求する]権限を与えることになる」と著者は記している。
(3)ヒエラルキー
 もうひとつの人間関係がヒエラルキー(上下関係)である。そこでは互酬性とまったく異なる原理がはたらく。
 ヒエラルキーはたとえば征服によって生じる。征服によって領主は村人に保護を与え、これにたいし、村人は領主に食糧を差しだす。そうした関係は一度きりでは終わらず、しだいに慣習に組みこまれ、さらに義務とみなされるようになる。
 こうした取り決めが、カーストの論理へ転化されることもある。王との関係で、すべての人びとが集団としてランクづけされるのだ。
 ヒエラルキーの関係においては、富のやりとりの相対的価値は数量化できない。たとえば領主の統治の値段がいくらとか、司祭の祈りの値段がいくらとはいえないだろう。逆に、貴族が詩人や音楽家を支援しても、それに応じて、どれだけ値打ちのある作品ができるというわけでもない。
 ヒエラルキーの例外は、そこから再分配が生じることである。パプアニューギニアの「ビッグマン」はそういう存在で、かれらは大宴会でばらまく巨額の富を集めるために、日々、人びとを動かすことを認められている。
 著者によれば、社会の平等性の度合いは「おもてむき権威的な立場にある人物が、たんに再分配の経路になっているだけか、それとも富を蓄積するために自身の立場を利用できるのか」によって決まってくるという。だから、ヒエラルキーは、かならず再分配をもたらすともいえない。
 ところで、こうしたコミュニズム、交換、ヒエラルキーの3原理は、それぞれが異なる社会の原理となっているわけではなく、おなじ社会で共存している、と著者は述べている。つまり、商品世界においても、ヨコの交換原理だけではなく、助けあいや上下関係の原理がはたらいていることになる。
 これは、われわれの日常の経験からもわかることである。
 にもかかわらず、人びとは互酬性という概念にしたがって社会を解釈しがちだ。それはかならずしも現実ではない。だが、そう解釈することによって、倫理のしばりが強まってくる、と著者は論じる。つまり、借りたものは、お礼といっしょに返しなさいというわけだ。
 イヌイットの老人はいう。
「この地でわれわれがよくいうのは、贈与は奴隷をつくり、鞭が犬をつくる、ということだ」
 なかなか味のあることばだ。
 当初、相互扶助の盟約から出発したコミュニズムが、時がたつにつれ、贈与交換へと、さらにはヒエラルキーへと移行するケースは多い。負債を支払えないとき、互酬性の強迫観念が、従属関係をつくりだす要因になっていく。
 ここで著者が例に挙げるのは、相互扶助を重んじるピレネーのふもとの村の話だ。
 ある農民が、工場を経営している社長のところに行き、仕事をくれないかと頼む。社長は仕事をみつけてやる。それ以来、農民は社長に頭が上がらなくなり、菜園の収穫物を届けるようになる。ここで生じているのは、一種のヒエラルキーだ。
「もはや対等ではないとする対等な者たちのあいだのこの合意こそ……『負債』と呼ぶものの本質だ」と、著者は論じる。
 逆に、ほんの少しの貸し借り(負債)が、かえって人間関係をスムーズにすることもある。また、上の人におごってもらったからといって、その負債はかならずしも返す必要がない。ごめんなさい、ありがとうというのは、日常のモラルである。
 ラブレーの『ガルガンチュアとパンタグリュエル』には、パニュルジュという学者の、独自の借金哲学が開陳されている。それは借金をしているからこそ、金貸しは、じぶんをだいじにしてくれるし、借金があるからこそ、この世の秩序は保たれているというものである。
 パニュルジュのとらえた皮肉な世界を、著者はこう要約している。

〈負債がなければだれかがだれかになにか借りがあるということもなくなるだろう。負債なき世界は、原初的混沌へと、万人の万人に対する闘争へと逆行してしまうことだろう。他人に対してだれも、いかなる責任も感じなくなるだろう。人間であるという単純な事実に、なんの意味もなくなるだろう。だれもが、じぶん自身の正しい軌道の維持さえあてにできない、孤立した惑星になるだろう。〉

 だが、それはブルジョアのいいそうなことだ。
 巨人パンタグリュエルは、パニュルジュの哲学を認めない。
「おたがいの慈しみや慈愛を除いては、汝は、だれにも、なにも借りてはならない」という使徒パウロのことばで、パニュルジュに反撃を加えるのだ。
 著者の目的も、貨幣によるニセの秩序の解体に向けられている。

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