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貨幣への軽蔑と欲望──グレーバー『負債論』を読む(7) [本]

 奴隷制はアフリカを一挙に市場社会(商品世界)へと巻きこんでいった。イギリスが奴隷貿易を廃止するのは1807年のことである。その後も、リンカーンが奴隷制廃止宣言を発するまで、アメリカでは奴隷制がつづく。16世紀から19世紀にかけてが、奴隷貿易の全盛時代だった。
 だが、奴隷制の開始は、はるか古代にさかのぼる。
 かくも長く奴隷制がつづいたのはなぜか。著者はそこには名誉と不名誉に関する意識がからんでいるという。
 人が奴隷になる理由はさまざまである。戦争で捕虜になる、誘拐される、犯罪で処罰される、父親に売却される、あるいは自発的にみずからを売却する、などなど。
 とりわけ、負債による奴隷が増えるのは、社会が崩壊する兆候をあらわしていた。
 エジプト人社会学者、アル・ワヒードは「人間が奴隷になるのは、さもなければ死ぬよりほかない状況においてのみである」と述べている。奴隷になった人は、死んだものとみなされる。
 奴隷にとって、奴隷になることが不名誉であることはいうまでもない。だが、主人にとって、奴隷をもつことは名誉であった。
 主人は「人間を商品に還元するために必要とされる暴力」を有している。
 その暴力とは貨幣にほかならず、貨幣の発生は奴隷制と深くからんでいる、と著者はいう。
 ここで、著者は中世初期のアイルランドで売買されたクマルと呼ばれる少女奴隷に言及する。
 クマルは負債を清算するさい、貨幣単位として用いられた。たとえば7クマル=7人の少女奴隷というように。
 中世アイルランドでは、貨幣経済が浸透していない。
 領主は職人や医師、詩人、判事、芸能人などに、何らかの報酬を支払っていた。農民は領主に食糧を納め、領主はたまに開かれる宴会で、それを豪勢にふるまった。農民は食べるものをそれぞれ分かちあっていた。必要な道具や家具、衣服があれば、職人に頼んでつくってもらった。
 人びとは身分に応じて、「名誉代価」をもっている。名誉を傷つけた場合、人はその代価を支払わねばならない。加えて、殺人や障害にともなう代価もあった。王の名誉代価は7クマルまたは牛21頭とされていた。その取り決めは、じつにこまごまとしている。
 メソポタミアでも、代価は名誉と関連していた。戦争と徴税が連動するなか、メソポタミアでは、次第に家父長制が進展し、花嫁には家畜と銀で代償が支払われるようになっていた。
 花嫁は奴隷ではない。だから売ることはできなかった。ところが、夫の債務が重なると、事態は一変し、妻子を売りにだす事例もでてくる。
 遊女たちの多くは「主人によって労働を強いられた奴隷、あるいは宗教的な誓約や負債をまっとうしようとする女、借金のかたとなった女、さらに借金の束縛からは逃れたが行き場のない女であった」。
 メソポタミアの売春の起源を、著者は、農民の窮乏化を背景とした債務奴隷の発生に見ているようだ。
 いずれにせよ、花嫁代価と債務奴隷が、女性の地位を低下させる要因となった。
 つづいて、著者は古代ギリシアに目を転じる。
 ホメロスの叙事詩の世界は、まさに英雄時代だった。そこは、交易を軽蔑する英雄的な戦士たちが、名誉を追い求める世界だった。
 ところが、市場が勃興すると、様相が変わってくる。
 ギリシアでは都市国家がそれぞれ貨幣を鋳造し、それを兵士への支払いにあてるいっぽう、罰金や税の支払いのために用いていた。
 だが、硬貨はすぐに日常的取引にも使用されるようになる。そして集会の場だったアゴラが、市場の役割もはたすようになった。
 市場経済がはじまると、債務危機におちいる人も増えてくる。これにたいし、ギリシアの諸都市はしばしば恩赦を実施し、債務者の借金を棒引きにするとともに、かれらの子どもたちを海外に送りこんで、軍事的植民地を拡張した。
 こうした領土拡張は奴隷を急増させた。市民は奴隷制度に乗っかって、都市の政治的・文化的生活に参加するようになった。
 貴族たちは金銭と市場を軽蔑していた。「貴族たちは、贈与と気前のよさと名誉の世界をあさましい商業的交換の上位に位置づけた」という。
 意外なことにアテナイでは女性の地位は低かった。女性たちの名誉は、性的な面においてのみ規定されていた。「ペルシアやシリアの女性たちとは違って、民主政アテナイにおける女性たちは公共の場に出るにあたって、ヴェールを着用するものとされていた」という。
「かくて貨幣は、名誉の尺度から転じて名誉ではないすべての尺度と化してしまった」と、著者は書いている。ギリシアにおいては、貨幣はいわば「名誉剥奪の象徴」となってしまったのだ。つまり、カネは不名誉と連動していたのだ。
 その背景には、戦士もまた捕虜になれば、たちまち奴隷の境遇に落とされるという現実があった。
 万人に共有され、なんでも買うことのできる貨幣は、貴族にとって軽蔑の対象でありながら、同時に欲望の対象でもあった。
 著者はこう書いている。

〈こうしてみると、貨幣は欲望の民主化を持ち込んだといえるかもしれない。だれもが貨幣を欲するかぎり、身分が高かろうと低かろうが、そのおなじふしだらな物体を追い求めるというわけだ。だがそこで終わらない。ますます欲しくなるというだけでなく、それが必要になってしまうのである。〉

 ギリシアでは紀元前600年ごろ、商業的市場が勃興するにつれて、債務危機が深刻化するようになった。多くの農民が借金を重ね、そのあげく、富裕者の奴隷に身を落とした。なかには海外に売り飛ばされた者もいた。こうした事態が社会的な騒乱や公然たる革命を招く場合もあった。
 貨幣の出現した社会では、それまでの贈与と返礼という共同体の仕組みが崩れて、下手をすると略奪的暴力に転じかねないシステムが発生したのだ。貨幣はそのシステムの中心であり、いわば計量化されるモラルとなりつつあった。
 プラトンは航海中、とらわれの身となり、アイギナ島で競売にかけられた。そのとき、偶然エピクロス派のリビア人哲学者がプラトンをみつけ、身代金を払って釈放してくれた。プラトンはお金を集めて、この哲学者に返済しようとするが、かれは受け取らない。そこで、プラトンは、この代金をアカデメイアの土地の購入にあてたという、有名なエピソードがある。
 だが、プラトンはふしぎなことに、このリビア人哲学者にまったく言及していない。おそらく、プラトンは二重の意味で屈辱の経験を頭から追い払いたかったのかもしれない、と著者は推測している。以来、プラトンの哲学において、貨幣的なもの、すなわち権力や利益は、極力排除され、名誉がなによりも重んじられるようになっていくのは偶然ではない、と著者は考えている。
 ここでも貨幣が名誉と不名誉の問題にからんでいることがわかるだろう。
 最後に論じられるのが、ローマについてである。
 ローマ法には財産の私的所有権に関する規定がある。それは実際には、単なる物の所有権を意味するのではなく、奴隷にたいする所有権を意味していた。
 ローマでは「[征服による]奴隷の流入の増大によって、やがて、ほどほどに豊かな家庭さえも奴隷を所有することが可能になった」というような状況が生まれていた。家庭の維持には、奴隷が欠かせなくなっていたのである。
 ローマの奴隷制が奇妙なのは、ときに奴隷のほうが主人よりも知的にも勝れていたことが多くみられたことである。それでも戦争捕虜である奴隷にたいして、主人は絶対的な権利を有していた。
 ローマでいうリベルタス(自由)とは、奴隷でないことを意味していたが、リベルタスは次第に主人の力能、すなわち望むがままにことをおこなうことのできる能力を意味するようになった。そして、ローマの皇帝たちは、みずからの支配権のおよぶ領域で、絶対的自由を有すると主張するようになった。
 自由とは権利というより権能のことだった。これは逆説中の逆説だった、と著者はいう。自由は財産であり、それは売り渡すことができる。奴隷がみずから身体を売り渡すように、労働者は賃金によって資本家に自由を貸与する。古代ローマ時代と同じように、われわれは所有者であると同時に、所有される事物である、と著者はいう。
 こうして著者は、人が人として存在する「人間経済」が解体し、人間が交換の対象となりうる貨幣経済の時代が出現したと述べる。そこではかならず暴力が介在している。こうした事態は、日常的な市場が存在しない場合でも発生しうるが、現在の商品世界でも、暗黙の暴力が経済を支配している、と述べている。
 これでようやく半分ほど読み終わったことになる。難解な本なので、はたしてどこまで理解できたか、はなはだ心もとない。
 これからは後半の歴史編となる。よく理解できないものの、手探りで少しずつ進んでいくことにしよう。

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