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歴史のサイクルをたどる──グレーバー『負債論』を読む(8) [本]

 古代の奴隷制は中世にいたって廃止され、近代においてまた大々的に復活する。それはヨーロッパにかぎらず、インドや中国でも同じだった。
 すると、歴史には何らかのサイクルがあるのではないか。そこで著者は貨幣と負債、信用の歴史を中心に、ユーラシア大陸5000年の歴史を検証しようとする。
 硬貨の鋳造は、紀元前500年から600年ごろ、地域をへだてた華北平原、ガンジス川流域、エーゲ海周辺で、ほぼ同時にはじまっている。
 それから1000年、あらゆる国家が硬貨を発行するようになるが、それが紀元600年ごろに突然、停止され、それから信用システムへの回帰がはじまる。
 金銀の時代は戦乱の時代でもある、と著者はいう。これにたいし、信用システムは平和な時代しか成りたたない。
 そこで、著者は、仮想貨幣と金属貨幣の交替に沿って、世界の歴史を、次のように区分する。

(1)最初の農業帝国時代(前3500年—前800年)
(2)枢軸時代(前800年—後600年)
(3)中世(600年—1450年)
(4)資本主義時代(1450—1971年)
(5)現代(1971年以降)

 まず、(1)最初の農業帝国時代を取りあげてみよう。仮想の信用貨幣が支配的だった時代である。
 ここで検討されるのは、メソポタミア、エジプト、中国である。
 最初の都市文明がおこったメソポタミア(前3500年—前800年)では、信用貨幣が用いられていた。銀のシェケルを単位として、貸し借りは粘土の銘板に記録されていた。遠方交易をおこなう商人には、有利子の貸し付けがなされていた。王は祭典のさいなどに、たびたび負債の帳消しを宣言している。粘土板を壊せと。それによって、社会的混乱を未然に防ごうとしたのだ。
 エジプト(前2650年—前716年)も穀物を単位とする信用貨幣が用いられていたが、のちに銅や銀も使われている。国家は膨大な税を徴収し、戦争や土木工事に多くの報酬や給金を支払った。メソポタミアのような有利子貸し付けはみられない。貸し付けは相互扶助のかたちをとっていた。もし負債が支払えない場合は、債務者は法廷に引きだされ、棒打ち刑か、借金の2倍返済を命じられた。プトレマイオス家の王は、戦争で兵を集めるさいなど、債務の帳消しを命じて、囚人に恩赦を与えている。
 中国(前2220年—前771年)では、真珠や翡翠、タカラガイ、鋤、ナイフといったさまざまな社交通貨が用いられていた。これらは報償や贈り物、罰金の支払いのために用いられた。ほかに、著者は木や竹の棒に記した信用手段があったのではないかと推測している。『管子』には皇帝が貧窮におちいった民衆を救うため、貨幣を鋳造したというエピソードが記されているが、まだこの時代に鋳貨はあらわれていない。それよりも穀物倉(社倉)によって、民衆を救済するという考え方が強かった。

 つづいて、論じられるのが、(2)枢軸時代についてである。
 この時代、中国では孔子と老子、インドでは釈迦が生まれ、それからギリシアではソクラテス、プラトンが登場し、やがてキリストが誕生し、ムハンマドがあらわれる。その意味では、世界の思想的骨格ができた時代である。著者は哲学者ヤスパースの命名にしたがって、この時代を枢軸時代と名づけている。貨幣の分野では、鋳造貨幣(鋳貨)、すなわち硬貨が流通の基軸となった。
 ここで取り上げられる主な舞台は地中海世界、インド、中国である。
 世界ではじめて硬貨がつくられたのは、紀元前600年ごろ、リュデイア王国(現トルコ・アナトリア西部)においてである。丸い琥珀金(金と銀の合金)に記章が刻印されていた。その後、ギリシアの都市国家も貨幣を鋳造するようになる。ペルシア帝国は紀元前547年にリュディア王国を併合したあと、硬貨の製造に乗り出した。インドでも紀元前6世紀に銀の棒に刻印された貨幣が登場した。中国でもさまざまなかたちをした青銅が貨幣として用いられるようになった。
 戦争の盛んな時代には、多くの貴金属と宝石が略奪された。そして、国家は兵に支払うために、硬貨を導入した。軍事力の拡大は、鋳貨の広がりと連動している。
 古代ギリシアでは、民衆が貴族に対抗して立ち上がり、負債懲役制の廃止と土地の再分配を求めた。負債懲役制の問題を解決し、自由農民による土地所有を可能にするためには、戦争によって植民地を獲得することが求められた。都市国家は鋳貨を発行し、戦士でもある農民に貨幣を配った。金や銀は戦争で捕虜にされた奴隷によって採掘されており、造幣局は神殿に置かれていた。貨幣は市場の発展をうながした。
 軍事=鋳貨=奴隷制複合体ができあがった。アレクサンドロスの遠征は、古代の信用制度を一掃し、新たな貨幣経済を生みだした。戦利品は鋳貨と化し、兵士に配分された。
 ローマもこの方式を引き継ぐ。ローマで硬貨の鋳造がはじまったのは紀元前338年のことである。「最盛期におけるローマ帝国全体が、貴金属を取得し、それを硬貨に鋳造し軍隊に配分する巨大機械」となった。被征服民には、硬貨を日常的取引に使い、硬貨で税を納めるよう通達がだされた。それでも、ローマ帝国内で硬貨が使用されていたのは、イタリア半島といくつかの主要都市、それに軍団が配置されていた辺境にとどまっていた。
 軍事的拡大によって債務危機を回避するには限界があった。債務危機が再燃するたびに、人びとは農奴や隷属平民の立場に追いやられた。「帝国末期には、……地方在住のほとんどの人びとは、実質的に、富裕な領主の負債懲役人と化していった」という。自由農民がいなくなったため、軍は辺境の蛮族ゲルマン人の徴兵に依拠せざるを得なくなる。それがローマ帝国崩壊の引き金となった。
 インドでは紀元前600年ごろ、ガンジス川流域に都市文明が出現した。その王国や共和国は、それぞれ銀と銅の鋳貨を発行していた。鋳貨の目的は、軍を保持することにあった。そのなかでもマカダ国が優位に立ったのは、ほとんどの鉱山を手中にしていたからである。その後のマウリヤ朝時代に記された『実利論』にはこう書かれている。「国庫は鉱山を源とする。国庫より軍隊が成立する。……領土は国庫と軍隊により獲得される」
 マガダ国は歩兵20万、騎兵2万、ゾウ4000頭の軍をもち、野営のさい、多くの下級商人や売春婦、従者をともなった。アレクサンドロスの部下たちは、マガダ国の軍と正面衝突するのを恐れたという。
 著者はこう書いている。

〈かくして、戦争から生まれた市場経済が徐々に政府によって乗っ取られていった。この過程によって通貨の拡大は抑制されるどころか、2倍にも3倍にもなったようだ。すなわち、軍事的論理が経済全体にまで拡大されたのである。政府は、穀倉、工房、商館、倉庫、牢獄を計画的に設置し、有給の役人を配置する。次に、あらゆる生産物を市場で売りに出し、兵士や役人に支払われた銀貨を集め、ふたたび王室の国庫に戻すのである。その結果は日常生活の貨幣化であった。〉

 政府は多くの戦争捕虜を管理下におき、厳しい労働にあたらせていた。
 アショーカ王の時代(前273—前232)に、マウリヤ朝はインドとパキスタンの全土を支配するようになった。アショーカ王は仏教に帰依したことで知られる。だが、その王国は長つづきせず、軍の衰退は商業と鋳貨の衰退へとつながっていく。
 前475年から前221年までの中国は、戦国時代を迎えていた。その後、秦が全土を統一し、すぐに漢に取って代わられる。
 中国の哲学が誕生したのは戦国時代である。中国でも、政治情勢が混沌とするなか、職業的軍隊が登場し、その支払いのために鋳貨がつくられた。ただし、中国の貨幣は金貨や銀貨ではなく、青銅の貨幣で、まんなかに穴があき、数珠つなぎできるようになっていた。
 ここで、著者は中国の経済に深入りするのを避けて、むしろ枢軸時代に誕生した思想の特徴を追っている。
 この時代にいったいなにが変わったのだろうか。
 見知った者どうしの贈与ではなく、見知らぬ者どうしの現金取引がはじまったのだ。

〈そのようなときには売買される物品の来歴にこだわらないほうが無難であるし、いずれにせよ継続的な人格的関係をつくることに関心をもつものなどもいない。ここでは取引というものは、端的にある量のXがどの量のYに相当するかを定める計算と化している。……それが「利益」や「優位性」のような概念について語りはじめるのを可能にするのである。〉

 商業的利潤という考え方は、すでに孔子の時代に生まれている。
 そして、次第に名誉よりも利や益が重んじられるようになる。
 法家は国に黙って従うことこそ民衆の利になると広言し、墨子は戦争自体、利のない活動であることを示そうとした。
 儒家も道家も、主張のちがいはあるが、「それぞれが市場の論理を反転させた鏡像を提示しようとした試み」だった、と著者は述べている。
 さらに著者は、「枢軸時代の精神性は唯物論を基盤に構築されている」と述べている。
 リュディア王国ではじめてつくられたあと、鋳貨はたちまちイオニア地方に広がっていった。とりわけギリシアで鋳貨を生みだしたのはミレトスだといわれる。そこはまたギリシア哲学発祥の地でもあった。哲学者たちは存在するすべての物質的基盤には、それ自体は知覚不能だが、純粋に抽象的な実体があると考えていた。
 貨幣のもととなる黄金は、まさに抽象でもある物質的実体だった。それは金属の塊でありながら、それ以上のものだった。イギリスの古典学者シーフォードは、硬貨は一片の金属であるけれど、「特定の形状を与え、言葉と像を刻むことによって、それを一片の金属以上のものにすることに、市民共同体は合意した」と述べている。
 硬貨の思想には、一種の唯物論哲学が横たわっている、と著者は考えている。物質がすべてというわけではない。「頭のなかにある観念、記号、紋章、モデルは、物質に刻印され、物質上に構築され、物質に押しつけられ、物質を介して現実のものとなる」というのが唯物論の考え方だ。
 こうして、硬貨には、都市の神の紋章が刻まれ、ある種の集団的約束のもとに、市民はたがいに次の保証を与えることになった。「当該の硬貨が公的負担の支払いにさいして受領されるのみならず、だれもがどんな負債に対してもその硬貨を受領し、それゆえだれがなにを欲するときもその硬貨が使用できること」
 問題は硬貨の保証が都市の内部にかぎられることだった。都市の外に出て、無縁の地に出れば出るほど、硬貨はただの金属のかたまりへと変貌してしまうのだ。遠方交易はその硬貨の難点を乗り越えねばならなかった。
 硬貨と市場の出現は、新たな負債を生みだし、これまでの人びとの生活を一変させていった。同時にそのなかから人間性を超越した神や倫理、徳性を求める教えもあらわれ、それが人びとの心に根づいていく。
 物質的で利己的な市場社会のなかから、慈愛を説く世界宗教が生まれてくる。
 市場と宗教。それについて、著者はこう書いている。

〈純粋な貪欲と寛大とは相補的な概念なのである。どちらも他方抜きでは想像することすらできない。双方とも、そのような純粋かつ目的の限定されたふるまいを要求する制度的文脈においてのみ生じえたのだ。そして、双方とも、非人格的で物理的な銭貨が姿をあらわす場所であればどこでも、そろって出現しているようにおもわれる。〉

 宗教は単なる現実逃避に終わらなかった。「少なくとも、彼岸的な宗教は、根本的なべつの世界を垣間みさせてくれた」。そして、事態は変化しはじめる。戦争は批判され、奴隷制は衰弱し、負債のもたらす社会の崩壊に人びとは危惧を覚える。こうして市場社会のもたらした膨張と混乱を収拾するために、新しい時代、すなわち中世が登場する。著者はそう理解している。

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