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武田泰淳『富士』をめぐって [われらの時代]

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 最近はめったに小説を読まなくなったし、映画館で映画を見ることもほとんどなくなった。小説や映画が日常に大きな部分を占めていたのは、1960年代後半から70年代はじめの学生時代だ。といっても、ぼく自身、文学青年にはほどとおく、ひたすらのらりくらり日を送っていたにすぎない。
 あのころ、武田泰淳の小説もよく読んだ。泰淳の大作『富士』が出版されたのは1971年のことだ。そのとき、司修の装丁と造本に圧倒され、本を買ったのを覚えている。ところが、その本がいまは見当たらない。たぶん、だれかがもっていったのだろう。いま本棚に残っているのは、その後、出された文庫本で、ハードカバーの原著を知る者としては、いささか悲しい造りになっている。
 最近、両親の具合が悪く、東京といなかを往復することが多くなっている。車内の退屈をまぎらわすために、本棚からおもしろそうな本を見つけようとして、泰淳の『富士』を発見したというわけだ。
 新幹線で二度往復するなかで、ざっと読み終わった(行きも帰りも富士山がよく見えた)が、学生時代に一度読んだはずなのに、ほとんど忘れていることが驚きだった。たぶん、あのころは何もわかっていなかったのだ。
 そして、正直、いまもよくわからない。
 爽快でも愉快でもない小説である。富士の裾野にあった、太平洋戦争末期(1944年)の国立精神病院が舞台となっている。
 その病院は、戦争にくるった国が、戦争でくるった人たちを隔離し、押しこめた施設といってよいかもしれない。そこから見える富士は、日本一の美しい山というより、むしろ鬱勃として、秘めたる力をみなぎらせていた。
 あくまでも小説である。じっさいの精神科病院で治療にあたる先生が、この小説を読んだら、こんな患者も先生もいないというだろう。
 小説の主人公である大島は、戦時中、この精神病院の研修医をしており、いまは富士山麓に別荘を構えて、妻とともにくらしている。その大島があのころから四半世紀たった1969年に、当時の病院長や患者のこと、そして、さまざまなできごとを思いだして手記をつづるというのが、『富士』という小説の筋立てになっている。

 最近、親友が肺がんで亡くなった。大学時代、そして卒業後もしばらくともにすごした仲間である。その奥さんから、戒名をもらったのでというメールがはいった。慈眼院という院号がついていて、だれもにやさしかったかれに、ぴったりだと思った。快人居士というのもかれらしいと思った。
 それで、ふと連想してしたのだが、『富士』の主人公、大島もまた慈眼でもって、患者に接し、手記をつづったのではないかという気がした。
 院長の甘野も慈眼の人である。だが、甘野院長が神のごとくであるのにたいし、大島はあくまでも「狂気」に寄り添う。「正気」と「狂気」の区別はなきがごときだ。
 実際、戦時中の「正気」は敵を殺せであり、「狂気」は敵を殺すなであった。
 正気と狂気を分けるのは、国家であり、世間である。それは戦前も戦後も変わらない。そして、戦後の正気が、ほかに目もくれず経済の発展に邁進せよとの号令のもとにあった時代に、武田泰淳はこの小説を書きはじめた。
 慈眼はたんにやさしいわけではない。それは世間の引いた区別を溶解してしまうのだ。狂気が正常というのではない。ただ、意識が狂気に溶けこむことによって、狂気をしっかりと囲いこんでいた正常の鎖が、ほどけてしまい、溶けだした狂気のマグマが秩序の側に流れこんでいく。慈眼には、そんな作用をうながすこわさもある。
 そんな人の諸行無常を富士がながめている。神はあくまでも人のかたちをしている。だが、富士は神を超えた存在だ。作品の最後に、その富士が燃えて、滅亡がやってくる。しかし、それはまだ幻覚のなかでしかおこらない。富士は、予兆をはらみながら、静かにどっしりとたたずんでいる。
 大島の手記、つまりこの小説にえがかれている患者たちは、男も女も含めて、じつに魅力あふれ、躍動感にみちている。
 大島の友人で、いまは入院している美貌の青年、一条実見は、虚言症患者で、自分を宮様だと称している。かれによれば「地上の権威や支配とは全く無関係に、ミヤでありうる者のみが、真のミヤ」なのである。
 かれの行動は自由で、まったく神出鬼没だ。患者のひとりである、てんかん症の大木戸孝次が亡くなる前から、その美しい夫人と性的交渉をもついっぽうで(ただし、それ自体、虚言である可能性もある)、近所の茶店の娘、中里里江を夢中にさせている。
 一条は「富士曼荼羅図」をえがこうとしていると伝えられる。だが、だれもその絵をみた者はない。「曼荼羅図」をえがくのは、一条には不可能だった。というのも、曼荼羅図のなかの一体の仏こそが、一条にほかならなかったからだ。そして、けっきょく曼荼羅図をえがくことなく、一条は自死し、その仕事は大島の手記にゆだねられることになる。つまり、大島の手記、『富士』という小説こそが、富士曼荼羅となるのである。
 一条は死すべく行動する。かれは警官の格好をして、御陵に参拝する本物の宮様に、「ミヤ様」として「日本精神病院改革案」を手渡す。そして、警備員に袋だたきにあい、憲兵隊に引き渡されたとき、青酸カリを飲んで、自殺するのである。
 1970年11月25日に、「楯の会」の制服を着た三島由紀夫が自衛隊市ヶ谷駐屯地に出向き、バルコニーで自衛隊員にクーデターへの決起を呼びかける演説をしたあと、割腹自殺するという事件がおこった。
 当時、大学生だったぼくも衝撃を受けたものだ。
 小説『富士』の一条事件は、まるで三島事件を写したようにみえる。だが、実際には、この部分は三島事件の前にすでに書かれていた。その符合に驚いたのは、むしろ武田泰淳のほうである。泰淳は三島の葬儀で、弔辞を読むことになる。
 一条実見の姿に、三島由紀夫のイメージが重なってくるのは、なんともいたしかたない。一条の思いつめた行動は、傍目からみれば滑稽である。一条はほんとうに精神病院の改革にいのちを賭けたのだろうか。虚無にいのちをささげた感さえある。
 むなしく死ぬのは一条だけではない。
 てんかん症の大木戸は、一の日と八の日にかならず発作をおこす。
 一の日と八の日とはなにか。小説に解説がある。

〈一の日とは、毎月1回の興亜奉公日[国民精神総動員にもとづく生活運動]。この日は学校、会社、工場などで、宮城遙拝、神社参拝、早朝の集合や行進をやる。八の日とは12月8日の大詔奉戴日[対英米戦争がはじまった日]。大木戸にとっては、八の日は12月ばかりでなかったし、毎月の18日、28日も彼独自の連想がからんで警戒しなければならないのである。〉

 大木戸が発作をおこすのは、国民の義務に自分が参加できないことによる緊張感のためである。その大木戸にとって生きるあかしは、めしをたらふく食うことでしかない。だが、戦時中の食糧事情の悪化が、かれの唯一の楽しみを奪おうとしていた。栄養失調と発作が重なって、大木戸はあっというまに死ぬ。「人間なんて、つまらないものだなあ」というひと言を残して。このことばは、意外と重い。
 梅毒患者の間宮は、伝書鳩の飼育だけを生きがいにしている。だが、あるとき、そのハトがいなくなる。伝書鳩はスパイが利用する可能性があるとして、憲兵隊が連れ去ってしまったのだ。それを間宮は甘野院長が憲兵隊に通報したのだと勘違いして、院長を逆恨みする。その怒りにかられて、かれは院長宅を襲撃し、愚鈍そうにみえる子守女を殺害し、なおも手斧をふるおうとしたところ、たまたまそこに居合わせた大木戸夫人が手にしたシャベルによって殴り殺される。これも、いたたまれない殺人事件だ。
 男たちが次々死んでいくのにたいし、『富士』の女たちはだれも強い。患者の庭京子も、大木戸夫人も、茶店の娘、中里里江も、甘野院長夫人も、魅力的で、圧倒的な存在感を示している。武田泰淳のえがく女たちについて論じるだけでも、おそらく1冊の評論ができるだろう。若いころに読んだときも、その猛烈さに打ちのめされたものだ。いまも、ぼくは女の人がこわい。
『富士』を壮大な失敗作と呼ぶことは可能だろう。ここにはふつうの小説がめざす感動もカタルシスもない。混沌があるばかりだ。
 だが、人はかならず失敗するのではないだろうか。かならずくるうのではないだろうか。かならず敗北するのではないだろうか。かならず死ぬのではないだろうか。
 そう考えれば、『富士』は世界の見方を根底から揺さぶる小説だった。世界を変える小説だった。
 われわれは人間とはこういうものだ、人間はこうでなくてはという思いこみで生きている。それ以外は見ようとしない。見て見ぬふりをする。
 しかし、『富士』は人間とはなにか、男とはなにか、女とはなにかという、われわれの無意識の囲いこみを、根こそぎ崩してしまう。人の世を支配する国家という秩序、人の精神を御する神という存在、人と動物のさかいさえ、あやしくしてしまう。
『富士』は、ニンゲンであるわれわれを押しながす。そして、目をそらさず、もういちど人の世を見ることをうながすのだ。
 ふりかえってみれば、若いころ、小説を通じて知った武田泰淳の慈眼は、いまもぼくの背中をほほえみながら見ているような気がする。そして、富士もまた。

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