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カーショー『地獄の淵から』(ヨーロッパ史)を読む(1) [本]

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 1914年から49年までのヨーロッパ史である。その後、現在までをえがく続巻も予定されている。著者のイアン・カーショーは、とりわけナチズム研究で知られ、ヒトラーについての浩瀚な伝記も書いている。
 大冊だ。はたして最後まで読めるか、心もとない。一度に読み切るのはとても無理だから、少しずつながめて、ごく短いメモと感想なりとも残しておきたい。
 まず、概論と第1章を読む。
 1914年から45年まで、ヨーロッパは悲惨な自滅の時代を経験した、と著者は書いている。地獄の淵にあったわけではない。まさに地獄を抜けたのである。
 破局をもたらした要因は4つあるという。

(1)民族主義・人種差別主義的ナショナリズム
(2)領土修正をめざす激しい要求
(3)ロシア革命を背景とした先鋭的階級闘争
(4)長期化する資本主義の危機

 並べてみると、なんだかいまと似ているような気がする。
 たとえ状況は変わっても、歴史はくり返されるのだろうか。
 本書にえがかれる現代ヨーロッパ史の概要は、次のようなものだ。
 第1次世界大戦(1914〜18)は、100年つづいたウィーン体制を崩壊させた。だが、終戦後の領土再編は、国家間、民族間、階級間の対立と緊張をさらに悪化させ、次の衝突を導いていく。
 とりわけイタリアとドイツでは、反ボリシェヴィズムとナショナリズムが結合して、右翼大衆運動が巻き起こり、過激右翼が政権を掌握する。
 大恐慌(1929)後の世界経済は混乱していた。大衆の不安にかこつけて、強さをうたう政治勢力が台頭していく。その運動は武力が国を救うという思想へと結実していく。こうして破滅的な第2次世界大戦(1939〜45)がはじまった。
「しかし、驚いたことに、第1次世界大戦が生み出した大混乱とは対照的に、第2次世界大戦はヨーロッパが20世紀後半に再生する道を切り開く」と、著者は記している。
 ヨーロッパ列強がヨーロッパ半島の覇権をめざして争う時代は終わり、二大国の米ソが核の力を背景ににらみあう時代がはじまったのだ。
 これが本書(全2巻を予定)のえがこうとする時代の大きな流れである。
 本巻では、とりあえず20世紀前半のヨーロッパに焦点があてられる。
 それをぼつぼつ読もうとしているわけだ。

 まずは第1章「瀬戸際で」。
 第1次世界大戦によって、ヨーロッパは「大破局」を迎えることになる。当時はだれも気づかなかったが、それは20世紀の「30年戦争」の幕開けだった。
 戦争がはじまる前、ヨーロッパは安定と繁栄、平和を謳歌していた。フランスはベル・エポック、ドイツはヴィルヘルム時代、アメリカは金ぴか時代の絶頂にあり、ヨーロッパ各地の都市は華やかな文化にあふれている。もっとも、ロンドンは文化よりも経済の都で、世界貿易の中心地だった。それを支えていたのは金本位制とイングランド銀行である。
 1900年、パリではオリンピックと万国博が開催された。繁栄はいつまでもつづくと思われた。だが、ヨーロッパ全体に繁栄が行き渡っていたわけではない。東西、南北、それに国による格差も大きい。ほとんどの国では、王権の支配がつづいていた。
 それでも社会の変化がおきつつある。普通選挙制度が導入された背景には、労働者階級の台頭があった、と著者はいう。イギリスでもフランスでもドイツでも労働者政党が生まれている。
 いっぽうで、ナショナリズムをあおる右翼の大衆運動も出現する。狂信的愛国主義にあふれた運動は、しばしば排外主義的で、人種差別主義的だった。それを支持したのは中産階級か下層中産階級で、かれらは拡張主義的な外交政策を支持した。
 反ユダヤ主義も広がりつつある。経済が悪化すると、ユダヤ人はスケープゴートにされがちだった。反ユダヤ主義は、第1次世界大戦前はある程度抑えられていた。それでも、ロシアでは何度もポグロムがおき、1905年10月には、3000人以上のユダヤ人が殺害されている。
 そのころ、優生学や社会ダーウィニズムが大手を振ってまかりとおるようになった。
「第1次世界大戦前のヨーロッパは、うわべの平穏とは裏腹に、のちの爆発的な暴力の種を宿していた」と、著者は書いている。
 ヨーロッパはずるずると第1次世界大戦に突入したようにみえる。だが、サラエヴォ事件のあと、1914年7月の危機において、決定的な引き金を引いたのはドイツだ、と著者はいう。
 ドイツはオーストリア・ハンガリー帝国(ハプスブルク帝国)を無条件で支持した。いっぽう、ロシアはセルビアを無条件で支持する。
 フランスとロシアは1894年に同盟を結んでいた(仏露同盟)。両方の側からドイツをはさんで、その力をそぐためだ。
 だが、その当のロシアは、オスマン帝国をたたくことで、ボスポラス、ダーダネルス両海峡を制し、念願の地中海進出をもくろんでいる。
 イギリスはロシアの勢力拡大を恐れている。ロシアが地中海、中東、中央アジアに進出すれば、イギリスの重要植民地であるインドがあやうくなるからだ。
 イギリスは1907年にロシアと英露協商を結んだ。日露戦争で敗北したロシアの勢力をいまならコントロールできると考えていた。
 1904年、イギリスはドイツの力を抑えるため、フランスとも英仏協商を結んでいる。これにより、1907年の協商とあわせて、イギリス、フランス、ロシアとのあいだで三国協商が結ばれたことになる。たがいに疑心暗鬼をひめた虚々実々の協商である。
 大きな陸軍をもたないイギリスは別として、ヨーロッパ各国は積極的に軍を増強していた。ロシアは350万、ドイツは210万、フランスは180万、オーストリア・ハンガリーは130万である。
 ほんとうなら、サラエヴォでの皇太子暗殺事件は、オーストリア・ハンガリー帝国とセルビアとのあいだで決着してもよかったはずである。それがなぜヨーロッパ全体を巻きこむ大戦争へと発展したのだろうか。
 暗殺直後、オーストリアの対応はにぶかった。それが、かえって「ゆっくりと燃え上がる導火線」になった、と著者はいう。
 そのかんドイツは素早く戦争の準備に動いた。オーストリアがセルビアに最後通牒を突きつけるのは、事件から3週間半が経過した7月23日になってからである。セルビアは当初、それを受け入れるつもりだった。ところが、セルビア側に立つロシアは、受諾に反対し、軍に総動員をかけた。単なる脅し、あるいは万一に備えただけかもしれない。
 ところが、ドイツは不安に駆られた。ドイツは8月1日、ロシアに宣戦を布告する。ロシアと協商関係にあるフランスは、これをみて軍に総動員をかける。8月3日、ドイツはフランスに宣戦を布告した。
 イギリスはドイツがヨーロッパ全土を支配することを恐れていた。そこで、ドイツがベルギーに侵攻した8月4日、ドイツに宣戦を布告した。
 いちばん最後に参戦したのは、皮肉なことにオーストリア・ハンガリー帝国である。大戦がはじまると、セルビアはむしろ蚊帳の外におかれた。
 ロシアの進出をおそれるオスマン帝国は、必然的にドイツ側に立って戦わざるをえない。
 どの当事国も、戦争は短期で終わると確信していた。そのために、最新の軍事技術を一気に投入した。長期の消耗戦は避けたい。
 モルトケの指揮するドイツ軍は、シュリーフェン作戦にもとづき、西部戦線でフランス軍を速攻で下し、とって返して東部戦線でロシアを撃破する計画を立てていた。ひと月もあれば、戦争に勝利するとみていた。
 ベルリンでもウィーンでもサンクトペテルブルクでもパリでも、多くの市民が愛国的熱気のなかで、戦争がはじまるのを歓迎した。やむなく祖国防衛に立ち上がる人もいた。
 どの国の新聞も、敵国へのヒステリーをあおった。
 ロシアでは首都のサンクトペテルブルクがペトログラードと改称された。サンクトペテルブルクという名前はあまりにもドイツ風と考えられたのである。
 ほとんどの人がクリスマスには戦争が終わると思っていた。
 だが、そうはならなかった。戦争ははじめるのは簡単だが、おわらせるのはむずかしいのである。
 しかも、その戦争は帝国主義時代の動向とからんで、ヨーロッパにかぎらず世界じゅうに飛び火していった。


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