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カーショー『地獄の淵から』を読む(2) [本]

[50枚ほどの翻訳の仕事が終わって、ほっとしています。また読書を再開します。戦前のヨーロッパ史を読んでいます。きょうはその2回目。両親の介護で、またいなかに戻る前に読み終わるといいのですが……。]

 第1次世界大戦は「以前のどの戦争にも増して、大量殺戮を産業化した戦争だった」と、著者は書いている。大量の近代兵器が人命の大量損失を招いた。
 高性能砲、手榴弾、火炎放射器に加え、毒ガス、戦車、潜水艦、飛行船など、あらゆる軍事技術が戦場に投入された。兵士だけではなく、一般住民も殺害対象になった。
 1914年9月6日から9日にかけてのマルヌの会戦で、フランス軍はドイツ軍の進撃をくいとめる。塹壕が構築され、それから4年間、西部戦線は膠着状態となった。
 しかし、東部戦線では、戦況は中央同盟国側に有利に進んだ。
 東プロイセンのタンネンベルク近郊で、ドイツ軍はロシア軍に大敗北を負わせた。ガリツィアでは、ロシア軍がオーストリア軍を破り、ユダヤ人が大量に虐殺された。
 トルコではダーダネルス海峡のガリポリに上陸した50万人の連合国軍を、同盟国側のケマル・パシャ(アタテュルク)率いるトルコ軍が撃破する。そのいっぽう、アナトリア東部では、ロシアに共感をもつアルメニア人をトルコ軍が虐殺している。
 西部戦線が膠着しているため、1915年夏、ドイツ軍は東部に攻勢をかけた。同盟国のオーストリア軍はあてにならなかった。ドイツ軍はガリツィアを奪還し、ポーランドを占領、さらにラトヴィア、リトアニアを制圧した。
 ドイツ軍は、さらにオーストリア軍、ブルガリア軍とともにバルカン方面に進出し、セルビアを支配下においた。
 問題は西部戦線だった。1916年夏から冬にかけ、ヴェルダン(フランス北東部)では大激戦がつづいた。ドイツ軍、フランス軍双方の戦死者は70万人を超える。ソンムではイギリス軍と植民地軍がドイツ軍と戦い、双方で100万人以上の犠牲者をだしたが、戦略的には何の進展もなかった。
 ドイツはベラルーシ、ウクライナまで、軍を進めていた。そのあたりで、ロシア軍の反攻がようやくはじまる。
 1917年にはいると、ドイツは無制限潜水艦戦を開始する。Uボートに脅威を感じたアメリカのウィルソン大統領は、4月になってドイツに宣戦を布告する。
 激しい戦闘がくり広げられたものの、西部戦線では膠着状態がつづいていた。イギリス軍は11月のカンブレーの戦いで、はじめて戦車を投入する。
 だが、このとき、ロシアではすでに革命が発生していた。3月にロマノフ王朝が倒れ、ケレンスキー内閣が発足した(ロシア暦「2月革命」)。つづいて11月(ロシア暦10月)、レーニンが権力を掌握する。
 レーニンはさっそくドイツとの停戦合意に乗りだし、翌1918年3月にブレストリトフスク条約を結ぶ。これにより、ロシアは戦線から離脱し、バルト3国、ウクライナ、ポーランド領を失うことになる。
 アメリカのウィルソン大統領は1918年1月に「14カ条宣言」を発表する。戦争終結とヨーロッパ平和をめざす宣言で、のちに民族自決の原則と称される内容を含んでいる。
 だが、戦争はまだ終結していたわけではない。ロシアの戦線離脱により、中央同盟国は広大な領土を獲得した(のちに破棄)。
 ドイツは西部戦線に兵力を集中することができるようになった。しかし、そのドイツ軍にも疲れがみえるようになる。
 連合国軍にアメリカ軍が加わるようになると、ドイツ軍の総退却がはじまる。
 1918年11月9日、ヴィルヘルム2世が退位し、ドイツ帝国は崩壊、新政府が発足する。11月11日、ドイツは敗北を認め、休戦協定に調印した。それにより、第1次世界大戦は終結する。
 前線の兵士はいうまでもなく、戦争が人びとにおよぼした影響はさまざまだ。その影響は国によってもことなる。
 しかし、どの国でも、大勢の若者が動員された。統制経済と国家支出の大幅増がみられた。総力戦のもと、官僚機構は肥大化し、監視と強制、弾圧が強化された。東欧では、とりわけユダヤ人がひどい扱いを受けた。
 イギリスでもフランスでも、さまざまな意見対立はあったが、戦争遂行に向けた団結意識は揺るがなかった。ドイツでは総動員法が導入され、すべての国民が軍需産業での労働奉仕を義務づけられていた。
 だが、ロシアでは政府への反乱が発生する。1916年から17年にかけての厳しい冬場、激しいインフレが進むなか、人びとは深刻な食糧難と燃料不足に苦しんでいた。その怒りが労働者のストライキとデモを誘発し、兵士も労働者を支持した。帝国当局はその状況を収拾できず、皇帝はついに退位へと追いこまれた。最終的にボリシェヴィキが権力を握ったのは「平和とパン、土地の配分、工場の所有と管理、そして人民による法の掌握という約束」が支持されたからだ、と著者はいう。
 1917年4月、ドイツでは社会民主党が分裂し、戦争に反対する少数急進派がのちのドイツ共産党を結成することになる。1918年になると、ドイツの敗色は濃くなり、前線では脱走や投降が相次ぐ。10月末にはキールで水兵が反乱をおこした。翌月のドイツ敗北は、帝国の崩壊を意味した。
 イタリアは三国協商側についていたにもかかわらず、戦争では負けつづきだった。戦争末期、政府への不満が高まり、世論は分裂する。そんなころファッシ(結束)を標語とする右翼グループが台頭する。
 ハプスブルク帝国は終焉を迎えようとしていた。1916年11月には皇帝フランツ・ヨーゼフ1世が死去し、カール1世が帝位を継承する。しかし、1918年にはいると、食料暴動とストライキ、抗議デモ、民族主義的分離運動が広がり、帝国は四分五裂状態になった。
 10月末になると、チェコスロヴァキアとハンガリー、そしてその後ユーゴスラヴィアとなる地域が独立を宣言する。戦争は11月3日に終結する。それにより、カール1世は退位し、ハプスブルク家の支配は終わった。
 トルコではオスマン帝国が崩壊する。1916年以降、中東ではアラブ人の反乱が巻き起こっていた。この反乱を指導したのはイギリスとフランスである(アラビアのロレンスが名高い)。しかし、イギリスとフランスによる中東の領土分割は、のちに禍根を残すことになる。
「戦争は、粉々に壊れたヨーロッパを後に残した」と、著者は書いている。
 帝国ドイツとハプスブルク君主国、帝政ロシアの廃墟からは、不吉な力が生まれようとしていた。ナショナリズムとボリシェヴィズム、それに領土紛争の火種が熾火となって、新たな憎悪を呼び寄せようとしていたのである。

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