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カーショー『地獄の淵から』を読む(4) [本]

 1924年になると、ヨーロッパには明るい兆しがみえてくる。戦争の恐怖は記憶のなかに後退し、経済は回復しつつあった。その5年後にアメリカで大恐慌が発生し、ヨーロッパも大混乱に巻きこまれるとは、だれも思っていなかった。
 ハイパーインフレに襲われたドイツは、1923年に新通貨レンテンマルクを導入、翌年それをライヒスマルクと改称し、通貨の安定に成功した。またドーズ案によって、賠償方式の緩和がはかられた。
 ヨーロッパ主要国は、このころ戦前の金本位制に復帰する。経済の安定が戻ってくるように思えた。実際、「黄金の20年代」には経済の急回復がみられた。モータリゼーションや電気照明が都市の景観を変えようとしていた。ヨーロッパの家庭にも、アメリカ流の家電製品がはいってくるようになる。ラジオが急速に普及した。
 住宅事情はまだまだだ。ドイツでは政府が住宅建設に多額の資金を投入し、ベルリンやフランクフルトでは労働者向けの大規模団地がつくられた。しかし、これは例外で、概して人びとは劣悪な住宅環境下でくらしていた。
 フランス、ドイツ、イタリアで、労働組合は1日8時間労働の要求を勝ちとった。しかし、賃金には大きなばらつきがあった。イギリスでは1926年にゼネストが発生するが、勝利を収めたのは経営者側である。
 世界市場での競争が激しくなり、重工業や繊維など旧来の産業部門でも失業率が高くなった。だが、イギリスでは1911年に導入された失業保険により、最悪の事態は避けられた。
 競争によって、農産物の価格が下落したため、農民は苦しい生活を強いられた。農村を離れて、都市の工場ではたらこうとする農民も増えてくる。
 それでも経済には多少なりとも明るい兆しがみえていた。1929年の大恐慌は、その兆しを一瞬にして吹き飛ばすのだ。
 ソ連では1921年からの新経済政策が一定の成果を挙げていた。革命の輸出と迅速な工業化を求めるトロツキーの影響力は衰えつつあった。スターリンはまずジノヴィエフ、カーメネフ、ブハーリンを味方にして、トロツキーを追い出し、それからジノヴィエフとカーメネフを党から除名し、最後にブハーリンを分派主義者として失脚に追いこんだ。こうして1929年、スターリンは名実ともに党の最高指導者となる。
 1928年にスターリンは第1次5カ年計画を提唱した。翌年から実施された計画は、表向き鉱工業生産を急増させたものの、苛酷な労働をもたらした。加えて食料を確保するための農業集団化計画が、「富農」の一掃と、農民の弾圧、すさまじい凶作をもたらした。ほんらい肥沃なウクライナも飢饉におちいる。そのときの死者数は330万人と推定されている。
 いっぽう、ヨーロッパでは、1920年代は大衆文化が花開いた時代だった。娯楽映画館やダンスホール、それにパブやバーがにぎわった。サッカーも人気の的となり、ドイツ、イタリア、スペインではプロのリーグが創設された。
 芸術では「モダニズム」が流行する。「従来の美と調和、理性という理念」に代わって、「断片化と不統一、そして混沌が新たな主題になった」という。画家ではピカソ、文学ではジョイスやヘミングウェーなどがもてはやされた。フロイトとユングの精神分析、無意識の省察が注目されるのもこのころである。
 ドイツではいわゆるワイマール文化が一世を風靡した。表現主義やダダイズムが提唱される。グロピウスはワイマールで「バウハウス」を創設した。シュトゥットガルトでは、モダニズム様式の住宅団地が建設された。トマス・マンの小説『魔の山』は、1924年に出版されると大絶賛をあびた。フランツ・カフカは1924年に亡くなるが、その作品は死後大いに注目された。ブレヒトは実験的な演劇作品にとりくんだ。
 しかし、1930年代にはいると、ナチスは「モダン」なもの、「退廃した」文化に攻撃をしかけることになる。ドイツ文化をあやうくしているのはユダヤ人だと言いふらしていた。
 ドイツではさまざまな前衛芸術とはうらはらに、ヨーロッパのどこよりも文化的悲観主義が広がっていた。それを代表する著書がシュペングラーの『西洋の没落』である。このころ、ドイツほど、国家衰退への懸念に引き裂かれた国はなかったという。
 ここでまた政治状況に戻ろう。
 1924年のドーズ案はヨーロッパの緊張を緩和する第一歩となった。
 さらに1925年10月にはロカルノ条約が結ばれ、ドイツとフランスならびにベルギーは、双方とも戦争をしかけないことを約束した。ドイツ西部国境とラインラントを非武装地帯とすることも決まった。ただし、ポーランド、チェコとの国境問題は未解決のままだった。ロカルノ条約が結ばれた結果、1926年9月にドイツは国際連盟に加盟する。
 賠償金の軽減を決めたドーズ案では、1928年から29年にかけて賠償金がふたたび上昇することになっていた。そこで、1929年1月にヤング案がまとまる。毎年のドイツの賠償金支払いを少額とし、その代わりに返済期間を1988年まで延長するというものだ。ヤング案を受け入れれば、連合国軍はラインラントから撤退するという付帯条件がついていた。
 1930年3月、ドイツ国会はヤング案を批准した。しかし、ナショナリスト右翼は、その受け入れに反発した。
 1920年代半ば以降も、北欧と西欧はほぼ民主主義を維持している。しかし、ヨーロッパ全体に民主主義が行き渡っていたわけではない。
 ハンガリーの民主主義は見かけだけだ。チェコスロヴァキアでは民主主義が保たれていた。オーストリアではイデオロギー対立が激しく、ドイツ民族主義者が支持を拡大していた。ポーランドでは1926年にピウスーツキ元帥がクーデターを決行し、権威主義的な体制を確立した。しかし、バルト3国やフィンランドは民主主義を何とか維持している。
 バルカン半島諸国では代議政治は見せかけで、縁故政治と汚職が蔓延していた。ギリシア、アルバニア、ブルガリア、ユーゴスラヴィアは王政ないし権威主義的体制のもとにある。
 スペインではプリモ・デ・リベラが独裁体制を築き、ポルトガルではアントニオ・サラザールが1928年に蔵相に任命され、4年後に首相となるところだ。
 イギリスでは政権交替をともなっても、民主政治はさすがに安定していた。1924年にはラムゼイ・マグドナルドの労働党が短期間、政権をにない、その後、5年間スタンリー・ボールドウィンの保守党がむずかしい政局を運営する。さらに1929年からはふたたびマグドナルドが首相の座につく。このかん、共産主義者やファシストの団体は、まったくイギリスの政治に影響を与えていない。
 フランスでは内閣がめまぐるしく替わった。しかし、レイモン・ポアンカレの手腕のもと第3共和制は支持されていた。
 イギリスやフランスとちがい、ドイツの民主主義は揺れはじめていた。それでも1920年代後半、共産党の支持率は低迷し、ヒトラーの蜂起失敗のあと、ナチ党は政治の外縁にとどまっていた。
 1928年の総選挙では、社会民主党が勝利を収め、ヘルマン・ミュラー党首のもと国民党などとの連立政権を発足させた。だが、政権のあいだで次第に亀裂が深まり、1930年3月、ミュラー内閣は崩壊する。
 大恐慌による経済危機がドイツを襲っていた。そうしたなか、共産党とナチ党が支持を伸ばす。1930年9月の総選挙ではナチスが18.3パーセントの得票率で107議席を獲得し、第2党に躍り出る。それでもヒトラーが首相になる可能性は低いと思われた。それが変わっていくのだ。

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