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カーショー『地獄の淵から』を読む(5) [本]

 大恐慌の影響を免れた国はなかった。ヨーロッパでは、1930年にはいると倒産と失業、デフレが進行し、GNPが落ちこんだ。人びとは失業と貧困に苦しんでいた。
 経済状況の悪化は政治行動の急進化を招いた。そんななか、多くの国で挙国一致の流れが生まれ、一部の国ではファシズム運動への支持が高まった。とりわけドイツでは民主主義が危機に見舞われるなか、人びとはナチ党に救国の希望を託すことになる。
 経済危機のさなか、ドイツは1932年に連合国の戦時債務の抹消を取り付けることに成功した。そのころ、ドイツではヒンデンブルクが大統領として、次第に権威主義的な傾向を強めていた。
 1933年まで左翼は30パーセントの得票率を保っていたが、社会党と共産党のあいだには遺恨があって、統一戦線をつくることができなかった。ナチスと共産党の民兵組織のあいだでは、武力衝突がつづいていた。
 いまや秩序を求めるドイツの中産階級は、国家再生の大義をかかげるナチスの暴力を容認するようになった。乱立する政党にはうんざりしていた。
 1932年8月の選挙で、ナチ党は37.4パーセントの得票率で、第1党に躍り出た。そして翌年1月、ヒンデンブルクの後押しで、ヒトラーは首相に就任した。
 ヒトラーは著書『わが闘争』のなかで、公然と反ユダヤ主義をうたい、ソ連から領土を奪うと宣言していた。それを本気で受け止める者はさほどいなかった。それよりも有権者を引きつけたのは、「国民の連帯」によって新たな社会秩序をつくるという公約である。
 政権の座につくと、ヒトラーは社会主義者と共産主義者を一斉に逮捕し、監獄や収容所に送りこんだ。緊急命令によって、無制限の警察権が合法化される。3月には全権委任法が議会を通過し、ヒトラーはすべての権限を握った。共産党は粉砕され、社会民主党は禁止された。そのほかの政党も禁止、または解党に追いこまれた。このあたり、あっというまの展開である。
 1934年6月、ヒトラーはみずからの対抗馬となりそうなナチス突撃隊(SA)隊長のエルンスト・レームを粛清する。粛清者はほかにも150〜200人にのぼった。8月にヒンデンブルクが死ぬと、ヒトラーは国家元首の地位を引き継ぎ、総統となった。
 ヨーロッパが恐慌から回復するには時間を要した。イギリスが最悪の事態を脱したのは1933年になってからである。ケインズの有効需要理論はまだ登場していない。1931年に発足した挙国一致のマグドナルド内閣は、当初、緊縮予算を組んだが、経済状況は好転しなかった。
 イギリスの経済が反転しはじめたのは、金本位制から離脱してからである。生産と輸出が回復しはじめる。さらに政府は、低利資金を導入し、住宅建設の拡大を促し、内需を掘りおこす政策をとった。
 フランスも当初は政府支出を大幅に削減して、病んだ経済を癒やそうとした。しかし、それは裏目に出る。景気が回復しはじめるのは、やはり1935年に金本位制から離脱し、36年から38年にかけフランを大幅に引き下げてからである。
 恐慌からの脱出に向けた、スウェーデン、ノルウェー、デンマークの取り組みは独特だった。通貨を切り下げるとともに、公共事業への国家支出によって、失業に対処する方策をとったのである。
 大恐慌がはじまると、イタリアのムッソリーニは経済への国家介入を強めた。国家支出の増大は、失業の低下をもたらした。
 ムッソリーニのかかげる協調組合国家の理念は飾りにすぎず、経済の実権は大企業に握られていた。1933年には国営の産業復興公社がつくられ、36年には銀行が国有化された。経済の官僚支配がはじまっていた。とはいえ、軍備生産の面でも、大企業は国から巨額の利益を得た。
 ドイツの場合は、大恐慌がもっとも深刻なときに、経済が急速に回復した。そのことが、ヒトラーの独裁体制に拍車をかけることになった。
 ヒトラーはまず左翼政党と労働組合をつぶすところから着手した。それによって、企業は賃金を引き下げ、利益を最大化することが可能になった。
 そのいっぽうで雇用創出計画もつくられた。それ自体に要した予算はさほど多くはなかったが、宣伝上の効果が大きかった。道路建設や土地開発のために、国家勤労奉仕団が動員された。公共事業への予算投入、自動車産業への減税、農業保護、さらには軍備への支出が、経済を新たな地平へと引き上げていった。
 しかし、ドイツの経済回復はそれ自体が目的ではなかった。ナチスはむしろ軍事力の拡大による領土の拡大をめざしており、経済はその手段にすぎなかった。
 1938年になると、政府支出の半分はすでに軍事費にあてられるようになっていた。そのころドイツでは、外貨準備高が不足し、深刻な食糧不足が生じるようになっていた。軍事費を抑えて経済を優先するか、それともあくまでも軍事費を増やして戦争を選ぶか、ヒトラーは決断をせまられる。答えは最初から明らかだった。
 もういちど、1930年代前半の政治状況にふれておこう。
 この時代の特徴は急激な右傾化である。左翼は支持を失っている。
 1931年、スペインでは第2共和国が発足し、社会主義政党が政権の担い手となるが、それも1933年で終わりとなる。
 1936年に発足したフランスの人民戦線政府も短命に終わった。スカンジナビア諸国だけは例外である。
 なぜ政治は左にではなく右にぶれたのだろう。
 極右の形態はさまざまだが、共通の特徴がある、と著者はいう。
 外国人や少数民族など、よそ者とみなす者を排除すること。次に、自由主義者、民主主義者などの政敵を殲滅しようとすること。武闘主義や権威主義を信奉すること。さらにナショナリズムを領土拡張にふり向けること。反資本主義、反労働組合を唱え、国家指導を協調する運動もあった。
 ファシストは権威主義的なナショナリスト政府の樹立をめざした。さらに、国民が国家に献身することを求めた。
 現状に不満をいだく中産階級は、ファシストに引きつけられた。また30年代になると、多くの労働者が社会主義よりファシズムを選ぶようになる。
 ファシズムをもたらしたのは経済的要因だけではない。領土復活(拡張)への思い、よそ者への嫌悪、さらに政党政治への不信などが、ファシズムを生む原動力となった。
 それでも、保守エリート層の支援を受けて、ファシズムが勝利を収めた国は、イタリアとドイツにかぎられる、と著者は指摘する(日本もあてはまるといってよいだろう)。
 イギリスは急進右翼の躍進にすきを与えなかった。議会制民主主義にもとづく立憲君主制がしっかりと確立されていたのだ。政治的な過激派はわきに追いやられ、30年代は基本的に保守党が政権を維持した。労働党は野党になっていたが、革命ではなく改良主義路線をとっていた。ファシストの政治スタイルとイメージはイギリスにはなじまなかった。
 1936年に失業率が35パーセントに達したオランダでも、ファシズムはむしろ警戒され、ほとんど政治の世界に食いこめなかった。ベルギーでもファシスト運動は見向きもされなかった。
 フランスでも政府は次々と交替したが、共和制自体が存続の危機にさらされることはなかった。むしろファシズムにたいする警戒感が、つねに分裂しがちな左翼を団結させていた。その結果、1936年には人民戦線政府が確立される。
 とはいえ、右翼勢力も強固な政治基盤をもっていた。それがのちのヴィシー政権の中核となっていく。
 スペインの場合は事情がことなる。経済不況に対応できず、独裁者のプリモ・デ・リベラは辞任し、パリに亡命する。つづいて国王も亡命し、1931年にスペインは共和国となった。
 その年、左翼勢力は圧勝するが、じつは内部に鋭い分裂をかかえていた。農業改革と労働者保護を中心とするその経済政策が失敗すると、1933年の選挙では右翼の諸派が勝利する。
 右翼の諸派は軍部に支持され、協調組合国家と王制復古をめざした。それはファシズム的色彩を帯びた保守政権だったが、急進的ファシズムは好まなかった。そのとき、モロッコで、フランシスコ・フランコ将軍が反乱をおこす。そして、3年間の内戦をへて、スペインではフランコ独裁政権が誕生するのである。
 中欧と東欧でも、政治は右傾化していた。
 オーストリアでは、自前の護国団とナチ党がファシスト運動を展開していた。護国団などに支持されたエンゲルベルト・ドルフスは1932年に首相の座につき、社会主義を非合法化し、翼賛組織「祖国戦線」のもとで、独裁政権を樹立したる。しかし、1934年にナチスによって暗殺される。
 その後、オーストリアはドイツに反発しながら、独自の権威主義的体制を維持するが、もちこたえられない。けっきょく1938年には、ドイツによる併合の憂き目をみることになる。
 連合国側についたルーマニアは、第1次世界大戦の結果、領土を2倍に拡大していた。そのため、ほんらいならファシズムにひかれる要素はなかったのに、経済不況と少数民族、とりわけユダヤ人への偏見が、「大天使ミカエル団」(別名「鉄衛団」)の運動に火をつけた。だが、国王カロル2世は「大天使ミカエル団」を禁止し、議会を解散して、独裁王政を敷いた。
 広大な領土を失ったハンガリーも、深刻な経済不況によって社会的緊張が高まっていた。しかし、ホルティ・ミクローシュの権威主義的体制のもとで、ファシスト組織「矢十字党」はほとんど勢力を伸ばすことができなかった。
 著者によれば、東欧や中欧では「大衆動員を自らの権力に対する脅威とみなす、軍部を筆頭とする反動保守派の権威主義的エリート層が国家を支配したことが、ファシスト運動が突破口を開くうえで最大の障害だった」という。
 だが、このころすでにドイツは領土拡張をめざして、ヨーロッパ心臓部をにらんでいた。平和はいつ終わってもおかしくなかった。

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