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全体主義の系譜──カーショー『地獄の淵から』を読む(6) [本]

 1930年代半ば、ヨーロッパではファシズムとボリシェヴィズム、自由民主主義のあいだで、イデオロギー闘争が尖鋭化していた。
 とりわけナチス・ドイツの動きが、国際秩序を危険にさらす可能性をひめていた。しかし、最初に国際秩序に挑戦する動きをみせたのは日本である。1931年9月に日本は満州を占領した。1932年には満州国が誕生。国際世論が非難を強めると、日本は1933年2月に国際連盟を脱退した。
 国際秩序を維持するという国際連盟の機能は、すでに失われようとしていた。1932年に開かれたジュネーヴでの軍縮会議も何の成果もないまま閉幕する。1933年10月には、日本に引きつづきドイツも国際連盟を脱退した。
 1935年3月、ヒトラーは大規模な国防軍の創設と徴兵制の再導入を発表した。ヴェルサイユ条約で禁止されていたドイツ空軍の存在も明らかにされた。
 各国は自国の安全保障強化に動きはじめる。
 ヒトラーがドイツで権力を握ったあと、ソ連は将来の危険に備えて、1933年にイギリスフランスアメリカと国交関係を樹立し、翌年、国際連盟に加盟した。
 1935年10月、イタリアはアビシニア(エチオピア)を侵略する。国際連盟はイタリアに経済制裁を科すが、効果はなく、イタリアへのエチオピアの割譲が認められる。そのときムッソリーニは、それまで警戒していたヒトラーと手を結ぶことになった。
 1936年3月、ヒトラーは1925年のロカルノ条約で非武装地帯と定められたラインラントに進駐する。フランス陸軍はこれを見過ごし、イギリスも何の行動もとらない。その月末の国民投票で、ドイツ国民はヒトラーの大胆な行動を圧倒的に支持した。
 11月にはローマ・ベルリン枢軸が結成される。ムッソリーニはいまやヒトラーの下位に立っていた。枢軸の共通ファクターは、反ボリシェヴィズムである。
 ヒトラーはすでにソ連との対決が不可避だと考えていた。そのため、軍備増強に向けて、国内生産の最大化をめざす計画を実行に移していた。早くも戦時経済体制がとられていた。
 著者によれば、ヨーロッパの1930年代は独裁体制の時代だったという。
 独裁体制に共通する特徴は、複数政党の廃止、個人の自由の制限、マスメディア支配、独立した司法の廃止、警察権による反対派の弾圧などである。独裁政権は民族ないし国民を代表すると称していた。しかし、現実に支配しているのは、ひとりの独裁者であり、とりわけ軍が大きな役割を果たしていた。その軍はたいてい愛国的保守で、反社会主義という性格をもっていた。
 とりわけドイツのファシズムの特徴は、加えて、領土拡張主義的な性格をもつ軍事独裁政権だったということである。この点では、日本のファシズムも同じ特徴をもっていた。
 しかし、ヨーロッパで独裁体制、あるいは権威主義的体制が敷かれたのは、ドイツ、イタリアだけではなかった。1935年までピウスーツキ元帥が支配したポーランド、1936年以降、独裁体制を確立したメタクサスのギリシア、ホルティのハンガリー、サラザールのポルトガル、さらにフランコのスペインもそうである。彼らはファシズムや共産主義の大衆運動型政治を嫌悪しながら、反動的な権威主義的体制を維持しようとしていた。
 とはいえ、当時、独裁政権として抜きんでていたのは、やはりソ連、イタリア、ドイツである。ボリシェヴィズム、ファシズム、ナチズムのイデオロギーは、ハンナ・アーレントにならって、「全体主義」と総称することができる。
 ボリシェヴィズムとファシズム(ナチズム)は対立しているとはいえ、自由民主主義に反対している点では共通している。いずれも国民(人民)を教育して、イデオロギーの献身的信奉者にし、変革(戦争や革命)に駆り立てることをめざしていた。
 その統治手法は「社会の完全な組織化、敵と少数派に対するテロ攻撃、極端な指導者礼賛、独占政党による容赦ない大衆動員」からなっている、と著者はいう。
 もうすこし具体的に見ておこう。
 1930年代半ばになると、ソ連はスターリニズムによって支配されるようになった。1936年には世界で「もっとも民主的」とされる憲法が公布されたが、これほど実態とは異なる憲法はめずらしい。実際には、市民は自由も法的な保護もなく、無制限で恣意的な国家権力にさらされていた。
 5カ年計画は上からの強制によって推し進められた。その背後には熱狂的な「青年共産同盟(コムソモール)」による献身がみられた。ソ連では共産党が国家を支配し、その共産党をスターリンが支配している。モスクワなどの都市では、スターリンの胸像や肖像があちこちに飾られ、スターリン崇拝が求められていった。
 スターリンの支配には、粛清と恐怖政治をともなっている。1933年までに100万人以上が収容所に送られていた。1934年12月には政治局員のセルゲイ・キーロフが暗殺される。その直後、政治局員のジノヴィエフとカーメネフが逮捕され、1936年に銃殺される。粛清はつづく。1938年にはブハーリンが見せしめ裁判にかけられ、死刑判決を受けて、銃殺された。
 1938年には、内務人民委員部(NKVD)が150万件の逮捕をおこない、70万人を銃殺した。「反ソ分子」あるいは「テロ活動」をはたらいたというのが銃殺の理由だった。1939年には、300万人以上が辺境の収容所に送られ、飢餓と死に向き合う生活を強いられていた。
 社会主義建設への貢献と、スターリンへの忠誠が求められた。そのさい、てっとり早いのが、反対派を告発することだった。いつ、どんなきっかけで、自分が反対派とみなされ、処罰されるかわからなかった。
 国境地帯の少数民族は集団移住と処刑の対象になった。赤軍も例外ではなかった。3万人以上の将校が粛清され、そのうち2万人が処刑された。
「かつてどこの政府もこれほど多くの自国民に対し、かくも気まぐれに、そして冷酷にテロを加えたことはなかった」と著者は記している。
 いっぽう、イタリアのムッソリーニも全体主義国家の建設をめざしていた。1926年にすべての野党は禁じられた。1929年にはラテラノ条約により、バチカン市国がつくられ、カトリック教会が政治に介入することがなくなる。
 政治警察による監視活動は隅々にまで行き渡っていた。破壊活動分子(とりわけ共産主義者)とみなされた者は長期流刑となり、僻地や沖合の島に送られた。ナチス・ドイツやソ連に比べれば、イタリアでは国内の抑圧はゆるやかだった。とはいえ、人びとは反対意見を控え、体制への服従姿勢を示す必要があった。
 1930年代になると、ムッソリーニのファシスト体制は、権力を完全に掌握していた。国民は体制に順応せざるをえない。1933年には公務員に入党の義務が課せられた。1939年には全国民の半数がファシスト組織のメンバーになっていた。
 ファシスト組織は「新しい人間」の創出をめざしていた。イタリアの女性は家庭に幸福をもたらし、子どもを産み、国家に奉仕しなければならない。青年はからだを鍛え、国家のために勇ましく戦わねばならない。1930年代後半からはファシスト式敬礼が取り入れられ、軍隊ではグースステップが採用された。1938年には反ユダヤ人法制が導入された。
 しかし、何といっても現実の脅威は復活を遂げたドイツ帝国だった。
 ヒトラーはムッソリーニから多くの影響を受けている。ナチス式のあいさつも、もとはといえばムッソリーニのまねだ。ナチスの巨大余暇組織「歓喜力行団」もイタリアの全国余暇事業団をモデルにしている。アウトバーンも、イタリアの高速道路アウトストラーダに触発された。
 にもかかわらず、ドイツのナチズムには、イタリアのファシズムにみられない特徴がある。それは指導者ヒトラーに絶対的に従うということである。
 ヒトラーは新たな戦争によって第1次世界大戦で受けたドイツの恥辱を晴らし、ユダヤ人を除去することで人種の浄化をはかりたいと願っていた。
 1933年には官公庁からユダヤ人を締めだす法律、1935年にはユダヤ人とドイツ人の婚姻を禁じるニュルンベルク法が制定された。1938年10月には全国的なポグラム(集団的迫害行動)が実行された(「帝国水晶の夜」と呼ばれる)。
 1936年には武装SSが創設され、残忍な取り締まり活動をおこなった。こうして国内を締めつけてから、ヒトラーは領土拡張に乗りだす。国民はラインラント進駐を熱烈に支持した。
 ソ連とイタリア、ドイツは同じ独裁政権でも、その性格はまったく異なっていた。全体主義の価値観がもっとも浸透していたのはドイツであり、それがもっとも低かったのがイタリアである。大衆的にもっとも支持されていたのはナチス・ドイツである。いっぽうソ連は恐怖政治を敷いていた。
 西洋民主主義国は、なかでもドイツを圧倒的な脅威とみていた。
 ふたたび大戦の暗雲が近づきつつあった。

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