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第2次世界大戦前夜──カーショー『地獄の淵から』を読む(7) [本]

 西欧の民主主義諸国は、戦争を避けるため、ヒトラーをなだめ、ドイツの拡張政策を抑えようとしてきた。だが、ヒトラーはますますつけあがり、さらに多くを要求する。その勢いが止まらなくなったときに、ヨーロッパ諸国は戦争を覚悟せざるをえなくなった。そんな大戦前夜の構図が浮かびあがる。
 もし1933年のヒトラーの政権掌握直後、左翼が壊滅させられていなければ、ヨーロッパの戦争の可能性は遠のいていただろう、と著者はいう。
 だが、左翼が消滅したのはドイツだけではない。スターリンのソ連国内に、民主的左翼は存在しなかった。ヨーロッパでは、軍と警察に支えられたナショナリスト右翼が勢力を伸ばし、国を牛耳る風潮が支配的になりつつあった。西欧諸国とスカンディナヴィア諸国だけが例外的に民主主義を維持している。
 ヨーロッパ全体が右傾化するなか、1936年のフランスの総選挙では、社会党、共産党の人民戦線が圧倒的な勝利を収めた。人民戦線の勝利により、社会党のレオン・ブルムが首相となり、労働者寄りの政策をとった。しかし、インフレと財政難が進行し、政権はたちまちいきづまる。人民戦線勝利の熱気は2年とつづかない。1938年春にはフランスの政治は保守右翼へとシフトしていた。
 スペインでは1931年に左派主導の共和政が敷かれた。しかし、スペインはもともとカトリック的価値観が強固で、左翼への嫌悪感も強い。軍事クーデターの伝統もある。それが内戦を引き起こす要因となっていく。
 スペインの左翼政権は1933年に崩壊し、そのあと右翼連立政権が発足する。1936年に人民戦線が歴史的勝利を収めるものの、左翼政権発足後、たちまち分裂する。共産党系、社会党系、アナキスト系からなる人民戦線は、しょせん寄り合い所帯だった。地方では右翼のファランヘ党が加入者を増やしつつあった。
 そんななか、軍の参謀総長を解任され、海外に派遣されていたフランコが7月に反乱をおこす。マドリード、バルセロナ、バスクの労働者はこれに対抗して、武器をとった。
 反乱軍はスペイン西部と中部をまたたくまに押さえたが、東部と南部は共和国側にとどまっていた。ヒトラーとムッソリーニは、ナショナリストのフランコを支援する。いっぽうコミンテルンはヨーロッパ各国から義勇兵をつのり、スペインに送った。
 1937年の春から夏にかけ、フランコ側は北部海岸を掌握し(フランコを支持するドイツ軍はバスク地方のゲルニカを猛爆)、共和国側の支配地域は、マドリード南東部とカタルーニャに限定されるようになる。
 ナショナリストによるスペイン制圧は時間をかけて、執拗におこなわれた。これにたいし、共和国側も内部に分裂と党争をかかえながらも、長期にわたって抵抗した。そのころ共和国を支配したのはスターリン派で、他の左派勢力は容赦ない弾圧によって、つぶされていった。
 カタルーニャは1939年初めに陥落、4月にフランコは内戦終結を宣言した。フランコが政権をとると、粛清がはじまり、共和国派の2万人が処刑され、数千人が刑務所や収容所に送られた。殺害は1940年代になってもつづく。そして、フランコは1975年になくなるまで、スペインの独裁体制を維持することになる。
 スペイン内戦は、直接、第2次世界大戦とは結びつかなかった。政権を掌握したフランコは、戦争から距離を置いた。大戦という点では、むしろ中欧で生じつつあった大変動、すなわちドイツの拡張衝動こそが問題だった。
 1937年11月5日、ヒトラーはドイツ陸海空軍の司令官を首相官邸に集め、オーストリアとチェコスロヴァキアを攻撃する可能性を示唆した。将軍たちは西欧諸国との戦争に拡大することを恐れ、容易に首をたてにふらなかった。すると、ヒトラーは3カ月後に彼らを解任してしまう。
 ドイツの再軍備計画に支障をきたすものがあるとすれば、それは鋼鉄不足だった。ヒトラーはシャハトに代え、ゲーリングを4カ年計画の責任者に任じ、ドイツの戦争準備を急がせた。軍需が増え、利益が見込めるとなると、IGファルベンなどの大財閥もヒトラーの拡張政策を支持するようになった。
 いっぽう、イタリアの軍備強化は遅れた。イタリア経済の諸問題が山積して、なかなか軍備強化に財政投資が回らなかったのである。
 ソ連でも非能率な生産と破滅的な粛清が、軍の弱体化を招いていた。兵器の質に関しても、ドイツとの差は歴然としていた。
 西欧の民主諸国はドイツの高まる脅威にたいし、軍備増強の必要性に迫られていた。イギリスにとっては、ドイツ、イタリア、日本との3方面での戦争は悪魔のシナリオである。ドイツにくらべ、航空戦力も劣っている。そのため、巧みな外交で、しばらくはドイツとの戦争を避けるという方針がとられた。
 1937年にブルム内閣が倒れたあと、フランス政府は財政の安定化をはかるため緊縮策をとった。防衛予算も削減された。フランス空軍もみずからの脆弱性に気づいている。そのため、イギリスと同様、ヒトラー・ドイツと和解し、しばらく時間稼ぎをするという方針が採用された。
 1937年5月、イギリスではボールドウィンに代わってチェンバレンが首相に就任した。前年末、国王エドワード8世はシンプソン夫人と結婚するため、弟のジョージ6世に王位を譲っていた。ボールドウィンは、この危機をうまくさばいたのちに辞任したのである。
 1937年11月、新外相のハリファックス卿はヒトラーと会見し、オーストリア、チェコスロヴァキア、ダンツィヒ(グダニスク)の件で話し合った。ヒトラーは即座の冒険は考えていないというのが、ハリファックスの感触だった。その裏にはドイツが武力を行使せず、平和裏に領土を変更するならば、それはある程度やむをえないという判断もはたらいていた。
 ソ連では1937年に赤軍指導部を粛清したあと、スターリンが自分に忠実な軍を再建しようとしていた。スターリン自身は資本主義列強との戦争は不可避と考えている。とりわけ、西欧諸国がヒトラーをけしかけて、ソ連と戦わせるようにするのではないかと疑っていた。いっぽう満州国とソ連の国境でも、日本が大きな脅威となりつつあった。戦争は時間の問題だが、赤軍指導部を粛清したあと軍事力を整えるには、いましばらくの時間稼ぎが必要だった。
 1938年2月、ヒトラーは軍を改編し、みずから国防軍最高司令官に就任した。外相にはタカ派のリッベントロップを任命する。そのひと月後、ドイツ軍はオーストリアの国境を越え、オーストリアをドイツに併合した。
 そのあとはチェコスロヴァキアだった。やっかいなのは、チェコスロヴァキアがフランス、ソ連と同盟関係にあることだった。ドイツがチェコスロヴァキアを攻撃するには戦争の危険をともなった。しかし、フランスはイギリス抜きの単独行動は考えていなかったし、ソ連もまた軍事介入するだけの力を備えていなかった。イギリスもできるだけ戦争を避けたがっていた。
 ヒトラーはチェコの一部ズテーテンラントで迫害されている少数ドイツ人を救うため、ズテーテンラントだけを帝国本国のなかに取りこむのだと見せかけていた。
 イギリスの首相チェンバレンは9月半ばにヒトラーと会見するため、2度ドイツを訪れた。最初の会談で、チェンバレンはドイツへのズテーテンラント割譲を認めた。9月21日にチェコスロヴァキア政府も仕方なくそれを受け入れる。ところが、9月22日のチェンバレンとの会談で、ヒトラーは10月1日にはズテーテンラントを占領すると通告した。英仏はとうぜんこれに反発し、戦争の危機が高まる。
 そのときムッソリーニが介入し、9月29日に英仏独伊によるミュンヘン会談が開かれることになった。翌日発表された協定では、ドイツへのズテーテンラント割譲が認められ、平和は保たれたかのようにみえた。
 これまでナチス・ドイツの強大化に何ら手を打ってこなかったイギリスとフランスは、またしてもヒトラーの要求に屈することになった。
 ミュンヘン協定の締結後、ドイツの民衆も平和が維持されたことに喜んでいた。しかし、ヒトラーは武力行使ができなかったことに、むしろいらだっていた。
「帝国水晶の夜」と称される、ナチスによるユダヤ人へのポグラムが実施されたのは、10月のことである。ユダヤ人の国外追放がはじまっていた。不幸なのは帝国内にとどまらざるをえなかったユダヤ人の運命である。
 ヒトラーはさらに、ポーランドにダンツィヒ(グダンスク)の返還と、「ポーランド回廊」での輸送ルート建設を求めた。ポーランドはそれを拒否する。
 1939年3月、ドイツ軍はチェコに侵入し、プラハを占領。チェコを保護領とした。これによりチェコスロヴァキアは解体され、スロヴァキアは自治国家を樹立した。
 ドイツの野望を思い知らされたチェンバレンは、ポーランドに軍事保証を与える。フランスもそれに追随する。それによって、ヒトラーの行動を抑制できると考えたのだが、ヒトラーは英仏の対応にむしろ反発をつのらせた。
 いっぽうチェコでヒトラーに出し抜かれたムッソリーニは、4月にアルバニアを占領した。武力行使の風潮が高まっている。
 ところで、1939年夏のポーランド危機にさいして、ヨーロッパでは不思議なことに諦め気分が強く、恐怖感はむしろ少なかった、と著者は指摘している。
 ドイツでは、チェコがうまくいったのだから、ポーランドも何とかなるだろうという楽観的な気分が広がっていた。フランスではドイツのこれ以上の侵略を何とかしなければならないという意見が強まったが、それでも夏のヴァカンスを楽しもうという雰囲気が濃厚だった。その点は、イギリスも変わらない。
 だが、ポーランドは破局に直面していた。8月23日、ドイツ外相リッベントロップとソ連外務人民委員モロトフとのあいだで、独ソ不可侵条約が結ばれる。その秘密協定には、ドイツとソ連によるポーランド分割の項目が含まれていた。
 これで、ヒトラーのポーランド侵攻には何の障害もなくなる。
 1939年9月1日早朝、ドイツ軍は国境を越えて、ポーランドに侵入した。ヒトラーが交渉に応じるとみていたイギリスとフランスは不意を突かれて、驚愕する。9月3日、イギリスとフランスはドイツに宣戦を布告した。
 チャーチルによれば、宥和政策は「善意の有能な人びとによって下された誤った判断の悲話」にほかならなかった。善意の人びとは交渉によって平和が保てると考えていたが、ヒトラーは最初から戦争を望んでいた。
 こうして、生死をかけた第2次世界大戦がはじまったのである。

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