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アテナイの消費生活について(1)──論集『消費の歴史』から [本]

 オックスフォード版論集『消費の歴史』は、少し読みはじめたところで、英語を読むのがめんどうなこともあって、途中でやめてしまった。まあ、しかし、そうめんどうがらず、気長に気楽に読んでみることにしよう。閑人の読書である。
 というわけで、まずはジェームズ・ダヴィッドソンの「アテナイの消費生活」を読んでみる。
 ヨーロッパで最初に消費社会が花開いた場所は、古代ギリシア、とりわけアテナイ(アテネ)だった。古代ギリシアはヨーロッパ文明発祥の地。そこで、どのような消費生活がいとなまれていたのかを、のぞいてみようというわけである。
 アテナイといえばデモクラシー、そして貨幣経済がはじめて本格化した場所だ。ドラクマを単位とするさまざまな貨幣が使われていた。アテナイのアゴラ(広場)にはさまざまな商品が並び、ショッピングを楽しむこともできた。
 しかし、こうした市場を守るには、民主政府による安定した貨幣管理と、アゴラノモイと呼ばれる市場監督人の存在が欠かせなかった。
 アテナイではなぜ貨幣経済が盛んになったのだろう。紀元前4世紀には、政治の舞台である集会に参加する市民に、貨幣で報酬が支払われていた。そのことも貨幣経済の隆盛と関係していたのかもしれない。
 アテナイは巨大な海軍力に支えられ、それによって、ペルシアやスパルタに対抗することができた。アテナイの繁栄がデモクラシーや消費社会をつくりあげたということもできる。だが、その繁栄はいつまでもつづかなかった。
 酒の神ディオニソスをたたえる祭りなどで演じられたギリシア喜劇には、当時アゴラで並べられていた商品の数々が出てくる。
 イチジク、ブドウ、カブ、ナシ、リンゴ、バラ、カリン、ハギス[羊肉の煮込み]、ミツバチの巣、ヒヨコ豆。スミレの花束、ツグミ、コオロギ、オリーブ、肉などなど。
 近隣に限らず遠方からも多くの品物がもたらされていた。
『アテナイ人の国制』には、アテナイ人がその海運力によって、シチリアやイタリア、キプロス、エジプト、リュディア[現トルコ]、黒海などから、さまざまなめずらしい品物を集めていたことが記されている。
 さらに、ほかの本にはこんなリストもある。
 キュレネ[現リビアの町]からは薬草や牛革、ヘレスポント[ダーダネルス海峡]からはサバなどの魚、イタリアからはエンバクや牛のあばら肉、トラキアからは薬剤、マケドニアからはライ麦、シラクサからはブタとチーズ、エジプトからは帆布やパピルス、シリアからは乳香、クレタ島からはヒノキ材、アフリカからは象牙、ロードス島からは干しブドウや干しイチジク、エヴィア島[エーゲ海]からはナシとリンゴ、フリギア[現トルコ]からは奴隷、アルカディア[ペロポネソス半島中央部]からは傭兵、カルタゴからは敷物や枕などなど……。アテナイには海外からほんとうに多くの品物が集まっていたのだ。
 しかし、これらの品物は市場で雑然と置かれていたわけではない。女性もの、魚、家具、野菜、衣服などとコーナーにわけられ、それぞれ別々の店で売られていたのだ。料理人を雇うことのできる斡旋所などもあった。
 市場は特化していたといえるだろう。だからアテナイ人はどこに行けば何が買えるかをわかっていなければならなかった。
 こうした市場の分化は、古代では大量生産ができなかったあかしでもある。
 市場はどこにでもあったわけではない。アゴラには常設の市場があった。祭りのときは臨時の市が開かれた。魚を売る行商もいた。
 しかし、アテナイでアゴラのほかに常設の市場があったのは、港のピレウスとラウリウム(ここには銀鉱があった)だけである。
 とはいえ、ふだんギリシア人は(とくにいなかでは)市場に行かなくても、ふつうに暮らせたという。
 それはそれとして、市場では、たとえば高級品と大衆品といったように、さまざまな品質の商品が置かれていた。エジプト綿は高級輸入品だった。
 ギリシア人は馬にはうるさかった。これは現在の車選びとおなじかもしれない。
 少し時代は下るが、アレクサンドロスの愛馬ブケパロスはテッサリア産で、9万6000ドラクマもしたという。馬にしてもワインにしても、血統とかブランドが重視されていたのは、いまも昔も変わらない。
 アテナイの特産品は、すぐれたデザインの陶器だった。陶器は海外にも多く輸出されていた。なかにはブランドを示すマークがつけられたものもあった。だが、たいていはノーブランドである。
 アテナイの市場はアゴラの中心部にあり、アゴラはアクロポリスの北の平坦な地に位置していた。しかし、市場は次第にディピュロン門のほうにも広がっていった。市場の建物も柱廊付きのりっぱなものへと変わっていくが、もともとは粗末で雑多な店の集まりで、その場所は品物に応じて区割りされていた。
 市場にはご多分に漏れず中心と周辺がある。ソクラテスは仲間たちとよく市場にでかけていた。ディピュロン門周辺の場末には、薄汚い製陶所や墓地、風呂屋、露天の店などがあり、旅人たちはそこにある飲み屋や売春宿で羽を休めていた。
 アテナイ人はアゴラや市場でぶらぶらしながら、かなりの時間をすごしていた。ソクラテスもその一人だ。そこで、金持ちで鼻持ちならないソフィストをやっつけたわけだ。
 アゴラの近くには若者たちがたむろして、おしゃべりできる店もあった。いっぽう、ぜいたくな料亭のような店もある。こうした料亭では、時に使い込みのカネが吸い取られたり、政治的な陰謀がくわだてられたり(いまなら共謀罪)することもあったらしい。
 こんなふうにみていくと、遠いアテナイの人もなんだか身近に感じられてくるから不思議である。
 この話、もう一回つづく。

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