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アテナイの消費生活について(2)──論集『消費の歴史』から [本]

 アテナイの買い物ではよく魚の話がでてくるという。とくにビッグサイズの魚は値段も高く、シーフードはあこがれの的だった。魚はご馳走だったといえるだろう。
 アテナイ人はだいたいにおいて、犠牲に供される牛やヤギ、ブタ、羊の肉で栄養をとっていた。こうした肉は宗教的儀式にともなうもので、市場では売られていない。氏族(オイコス)のもとで分配されるのがふつうだった。
 しかし、市全体や地区全体でおこなわれる大がかりな儀式もあり、民衆の支持を得ようとする金持ちが、しばしばそうした儀式のスポンサーになった。政府がカネを出すこともあった。
 ところが肉とちがって、魚は市場で売られるぜいたく品だった。それはまさに食欲を満たすとともに消費の対象となる商品だったといえる。
 問題は魚が腐りやすく、早く食べなければならないことだった。そのため朝早く市場に行き、新鮮な魚を買って、すばやく調理する必要がある。その点、魚は理想的な商品だったかもしれない。すぐに売れて、消費され、カネになったからである。
Athens_owl_coin.jpg
[アテナイの銀貨。ウィキペディアから]

 もうひとつカネのかかるものといえば、セックスだった。アテナイにもふつうの売春婦から高級娼婦まで、カネで買える女性はさまざまだった。
 大勢の女や少年を集めて宴会を催すには、びっくりするほど費用がかかった。そこでは音楽のバンドもいれ、食事や酒の用意もしなければいけなかったから、その費用は想像にあまりある。だが、そうした宴会は金持ちのみえのためではなかっただろう。
 高級娼婦を囲うにはとてつもなくカネがかかった。それでも古代アテナイ人も、カネで欲求が満たせるという誘惑にはあらがえなかったようである。
 アテナイ人の消費に関する記述には、不思議なことに、衣服や家財の話がほとんど見当たらない。職人は大勢いたのだから、こうした商品も購買され、使用されていたことはまちがいない。
 衣服はもちろん手織りで、アテナイの工房で織られ、市場でも売られていた。なかには高いものもあり、とくに高級なマントが知られていた。しかし、衣服や家財は、直接注文が多く、そのためあまり市場にあらわれなかったのだろうか。
 民主政のアテナイでは奴隷やメトイコイ(外国人)にたいする扱いがゆるやかになり、かれらの服装も市民と変わらなくなっていたという。
 逆にいえば、紀元前5世紀になるにつれ、金持ちもだんだん庶民と同じような服を着るようになっていったのである。
 アテナイでは、服装の面でも民主化が進んでいたといえるだろう。
 しかし、いっぽう民主政のもとで、金持ちはことあるごとに資金の提供を求められるようになった。さらに税金もかけられる。とりわけ戦争ともなると、金持ちはより多くの負担を求められた。
 さらに重要なのは、アテナイでは多くの判事や検事が30代以上の市民のなかから選ばれていたことである。財産の差し押さえがしばしばおこなわれ、不正蓄財がなされていないかが厳しく調査された。
 そのため、いかにも金持ちのようにふるまうのは禁物だった。紀元前414年には、あるエリートがエレウシスの秘儀を冒涜し、ヘルメスの像を破壊したとして告発され、財産を没収されている。
 しかし、実際、紀元前5世紀末のアテナイでは、個人的にはそれほど贅沢な生活は見られなくなっていた。豪華なものがあるとすれば、それはあくまでも神殿を飾るものだったという。
 アテナイでは個人の家が小さく質素だったのにたいし、神殿は巨大で豪奢につくられていた。神殿に置かれたアテナの巨大な像は、象牙と黄金で飾られていた。
 これをみれば、富裕層は神殿や祭りなどに大きな寄進をするかぎりにおいて、その存在を認められていたといえるだろう。
 豪華な衣装や馬車が認められたのも、祭りの場においてだけである。祭り以外でも、ぜいたくぶりを見せびらかしていると、ヒュブリス(傲慢)罪で告発される恐れがあった。
 つまり、古代ギリシアでは、祭り以外の場では、個人の物質的ぜいたくにたいし、モラル面、文化面、宗教面で大きな制約が課せられていたのである。
 以上をまとめると、どういうことがいえるだろう。
 ここでえがかれているのは、紀元前500年から300年にかけての民主制アテナイの消費の様子についてである。
 アテナイでは史上はじめて貨幣経済が全面開花した。はじめて常設の市場が生まれ、多くの商品が売られるようになった。
 アテナイの市場の繁栄は、アテナイの海軍力のたまものでもある。さらにいえば、それは民主政のたまものでもあった。
 市場にたいしては、当時も多くの反対や批判があった。それでもアテナイの市場は発展し、アクロポリスからディピュロン門にまで広がった。
 市場で売られていたのはものだけではない。音楽から勉強にいたるさまざまなサービスも提供されていた。
 また多くの監督官がいて、計量が適切か、価格が妥当かなどと監視していた。
 正式な市場はアゴラの中心部にあり、そこには人民裁判所や五百人委員会などもあったから、市場はまさに民主政の中心部に位置していたといえる。そこではしばしばギリシア喜劇が演じられ、ソクラテスをはじめ、民主主義を批判するプラトンなどの哲学者もたむろしていた。
 アテナイの市場では、家具インテリア、衣服などのぜいたく品はあまりおいていなかった。個人的なぜいたくは避けられる傾向があった。まれに甲冑や馬などに多額の金額が費やされることはあっても、それは個人のためではなく、あくまでも国家や神のためにだとされていた。
 ギリシア世界では紀元前480年以降、スパルタの影響が次第に強くなり、アテナイでもぜいたくが避けられ、質実剛健が尊ばれるようになる。ペルシア風の豪華さは、ペルシアに内通しているのではないかと疑われる可能性もあった。また金持ちにみえると、それだけで国家への多くの資金提供を求められ、民衆裁判所で糾弾される恐れもあった。
 アテナイの市場経済は、民主政と密接な関係をもっている。しかし、それはきわめて特異な市場経済だったといえるかもしれない。
 民主政といえば、日本人は平和と思いがちだが、それは誤解である。とくにアテナイでは、民主政は戦争と植民地主義、奴隷制、女性差別と結びついている。
 家政は奴隷によって支えられ、すぐれた技能をもつ職人集団と、海外との貿易を取り仕切るメトイコイ(外国人)が、土地を所有する市民の生活を成り立たせている。
 市民はものをつくり、ものを売るためにはたらいているわけではない。そんなふうにはたらくのは市場の奴隷である。アテナイ市民とは、あくまでも政治に参加し、戦争で戦う存在を意味していた。だが、そんな市民にとっても、にぎやかな市場は楽しみの場所だったにちがいない。

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