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『羊をめぐる冒険』から『ねじまき鳥クロニクル』まで──『村上春樹は、むずかしい』を読む(2) [われらの時代]

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 1982年『羊をめぐる冒険』
 1985年『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』
 1987年『ノルウェイの森』
 1988年『ダンス・ダンス・ダンス』
 1992年『国境の南、太陽の西』
 1994年〜95年『ねじまき鳥クロニクル』

 村上春樹の創作活動はきわめてコンスタントだ。まるで、毎日の朝の勤行にようにおこなわれている。
 そのことにまず驚く。躁鬱型でも破滅型でもないようだ。
 ほんとうにものを書くのが楽しいのだろう。その純粋さがたぶん読者に伝わるのだ。
 ここに挙げた作品で、ぼくが読んだのは『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』と『ノルウェイの森』だけである。
 だから、えらそうなことはいえない。それも、あまりよくわかっていないのだ。
 加藤典洋にいわせれば、80年代から90年代にかけて、ポストモダンの時代がはじまっている。
 ポストモダンの特徴は「情報社会化」と「ヴァーチャル・リアルな世界」だ。
 それを先取りした作品が『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』だという。
 この作品では、意識の世界と無意識の世界がパラレルにえがかれる。
 意識の世界は、めくるめくリアル(小説的現実)によって翻弄される。これにたいし、無意識の世界は、「私」の奥底にある「僕」の静謐な思いに満ちている。
 と書いてみたものの、ほんとうにその解釈が正しいかどうか、心もとない。
 リアルな世界、つまりハードボイルド・ワンダーランドは、ハリウッド映画のように、冒険に冒険がつづく場所だ。
 物語は、かわいい太った女の子と地下にもぐり、その祖父である博士から、「計算士」である「私」が仕事を依頼されるところからスタートする。地上に戻った「私」にいきなり邪悪なものが襲いかかる。その謎を解くべく、「私」はふたたび地下にもぐり、太った女の子の協力を得て、邪悪なものと戦いつつ、ようやく地上に帰還するのだ。
 これは頭にえがかれたファンタジーだ。しかし、あのころ、ぼくも会社という場所で戦っていたことを思いだす。上司に叱咤激励されながら、いろいろな会社を回って契約をとってくる仕事は、きつくはなかったけれど、それなりにたいへんだった。まるで相手にされないこともあったし、同僚と喧嘩をすることもあった。その点、人生はたしかにハードボイルド・ワンダーランドなのである。
 しかし、そうした戦いの毎日とは別に、何か別のわきだしてくるもの、ぼくが求めているのは、ほんとうはこんなことではないという思いがあったのもたしかである。そうした思いは年を取るにつれて、しだいに枯れていくものなのかもしれないが、村上春樹はそうした無意識の場所をパラレルワールド、すなわち「僕」の行き着く「世界の終り」として、やはり映画のようにえがいている。
 加藤典洋によれば、「世界の終り」は「否定性のない定常的な世界」だという。ここでは誰もが生来もつ苦しみと矛盾は切り捨てられる。いわばニルヴァーナ(涅槃)に向かう場所だ。いずれ人の心の核にある無意識は、熱い塊から、だんだんと冷えて、黒い塊へと落ち着いていくのだろう。
 しかし、村上春樹はまだ若い。心を滅却して、「世界の終り」に安住することを拒否するのだ。その選択はかなり微妙なものとならざるをえない。
 というのも、「世界の終り」に安住することを拒否するとしても、その方法はふたつあるからである。
 ひとつは「世界の終り」から完全に脱出することだ。すると、無意識の欲求は完全に断ちきられ、現実に順応することがすべてとなる。これにたいし、村上が選んだ道は「世界の終り」を苦しみながらさまようことだったと思われる。
 無意識のなかからわきだしてくるものを、現実の必要性(身過ぎ世過ぎ)のために抑え、切り捨ててしまうのではなく、そのわきだしてくるものに随伴すること。
 加藤はその方向について、竹田青嗣のことばを借りながら、「自らの内閉的な『世界』のイメージにこそ抵抗しようとする『作家のひどく困難な意志のかたち』を指し示している」と表現している。
 このとき、村上春樹の無意識には、何がわだかまっていたのだろう。
 加藤は村上のある習作をもとに、こう紹介している。

恋人は精神的な病いに苦しみ、自殺している。死ぬ前、彼女はいった、本当の自分はここにいるのではない、「高い壁に囲まれ」た内部の世界に閉じこめられていると。彼は尋ねる。「そこに行けば本当の君に会えるのかい?/そして、彼女が死んだあと、「僕」はそこに向かう。」

 それが大ベストセラー『ノルウェイの森』に結実することはいうまでもない。
 ぼくは、最近、とみに老人力が増してきて、昔読んだ小説の筋など忘れてしまっている。
『ノルウェイの森』を読んだのは、はるか昔のことで、いまではほとんど何も覚えていない。
 映画はみた覚えがある。たしか、このブログにもその感想を書いたはずだと思い、検索してみると、でてきた。定年退職後の2011年2月のことだ。
 参考までに、それを挙げておく。

 http://kimugoq.blog.so-net.ne.jp/2011-02-02

 原作をもう一度読んでみることにしようと書いておきながら、それからまったく読んでいないのは、いかにもなまけもののぼくらしい。
 だから、加藤典洋の本にしたがいながら、筋を思いだすしかないのだが、友人のかつての恋人で、いまは「僕」の恋人となった直子がなぜ死んだのかが、「僕」につきまとう謎だったことはまちがいない。
 加藤典洋によると、『ノルウェイの森』は、それまで一歩下がって内閉するデタッチメントにこだわっていた村上春樹が、足場のない空間にこぎだして、ふつうの書き方で書いた、初の恋愛小説だという。

〈主人公の「僕」=ワタナベ・トオルが自殺した高校時代の友人キズキの恋人だった直子と、大学進学後、東京で再会し、恋愛する。直子はその後、大学をやめ、東京を去り、心を病んで京都の医療施設に入って、やがて自殺する。「僕」は東京で大学のクラスメート緑とつきあうようになり、直子の死後、緑に愛を告白する。〉

 これが加藤による『ノルウェイの森』のあらすじである。
 ここには同じ寮にいて、外交官をめざしている永沢さんという人物がでてくる。永沢さんにはハツミさんという恋人がいる。
 それなのに永沢さんはガールハントが好きで、「僕」もその片棒をかつがされ、セックスのとき女の子をとりかえたりする。
『ノルウェイの森』はセックス小説でもある。ふたりの男はそれぞれ恋人がいるのに、「ときどきすごく女の子と寝たくなる」。
 そして、「僕」の恋人、直子も、永沢さんの恋人、ハツミさんも自殺する。直子は精神を病んで、ハツミさんは別の相手と結婚したあと。
 ハツミさんが自殺したあと、外交官になった永沢さんから、「僕」に「たまらなく哀しく辛い」という手紙が届くが、「僕」はその手紙を破り捨て、二度とかれに手紙を書かない。
 青春時代を回顧したほろにがい小説といってしまえば、それまでである。
「僕」と永沢さんのちがい。「僕」が彼女に去られるのにたいし、永沢さんは彼女を捨てたのだ。そして、彼女のことを青春の思い出のひとこまとしか思っていない。これにたいし、直子は「僕」の心の奥底に生きつづけている。
『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』というたぐいなき超日常的な小説世界を築いていたとき、おそらく村上春樹のなかには、「直子」のことが、よみがえっていたはずである。
『ノルウェイの森』は、書かれるべくして書かれた作品だった。そのパワーが作品に結実したあと、村上春樹はようやく解き放たれ、ふたたび自己の小説世界に立ち戻ることができたのである。
 加藤典洋によると、『ノルウェイの森』は累計で1000万部を超えるベストセラーとなり、その結果、村上春樹は「日本からの逃亡」を余儀なくされたという。
 そのあと1995年まで、作品は海外で書かれ、次の大長編『ねじまき鳥クロニクル』も全3部のうち、2部がアメリカで執筆された。
『ねじまき鳥クロニクル』は読んでいない。そのあと、ぼくが読んだのは『アンダーグラウンド』と『1Q84』だけだ。最近の『騎士団長殺し』も買っていない。
『ねじまき鳥クロニクル』については、加藤典洋の解説を紹介するほかない。
 この小説は、いってみればさえないハウス・ハズバンドの「夫婦の物語」である。「僕」、岡田トオルは、妻のクミコに突然失踪される。その妻を探して、みずからの内面の闇に降りていき、そこで予期せぬものとぶつかりながら、妻を取り返す話だといってよい。
 加藤典洋によると、「主人公が『社会』から遠ざかり、自分の無意識の闇に沈潜すると、そこに『歴史』が現れる」のが、この物語の特徴だという。
 その歴史とは、日本による中国侵略、新京(満州国の首都、現長春)の植民地生活、ノモンハン事件である。ここでは初期の「中国行きのスロウ・ボート」がついに中国の内部に到着したことが示唆されている。
 それにしても、すさまじい暴力描写である。ストーリーは無意識の奥(いわば父の記憶)から吹きだす歴史の暴力と、意識のとらえる現実の暴力が交錯しながら展開する。
 加藤はこう書いている。

〈カギは、暴力と死とセックスにある。それを避けて、ではなく、その内側に入り、そこをくぐり、どう「戦争の記憶」に達し、「反戦と非戦の意志」へと抜け出ていくことができるか。/『ねじまき鳥クロニクル』は、そのような私たち日本人の戦後の「冥界くぐり」の先駆例だというのが、いまの私の考えである。〉

 この評価が正しいかどうか、わからない。
 しかし、こういう記述をみると、やはり村上春樹は、われらの時代の作家なのだという思いを強くするのである。

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