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『日本の近代とは何であったか』を読む(2) [本]

 なぜ日本に資本主義が形成されたのか。
 国民国家の形成と自立的資本主義の形成は不可分一体だった、と著者は記している。
 それは、つまり日本資本主義の形成は国家主導だったということである。
 その考え方は、大久保利通から松方正義、高橋是清に引き継がれていく。
 日本の資本主義は、かたくなに外資を排除するところからはじまった。
 明治政府は、関税自主権のない不平等条約のもとで、ヨーロッパ列強が日本経済を乗っ取ってしまうことを、ひどく恐れていた。その点からみれば、開国は無意識下においやられた攘夷と一体になっていたともいえる。
 明治政府は日本に資本主義を生みだすために、先進技術を導入して官営事業を立ち上げた。国家の歳入を確保するため地租による租税制度もつくった。質の高い労働力を確保するため教育制度も充実させた。そして、資本蓄積を進めるためできるかぎり対外戦争を回避しようとした。
 富国強兵が近代化に向けての明治政府のスローガンである。富国のためには、まず殖産興業政策が採用しなければならなかった。そのリーダーシップをとったのが、内務卿になった大久保利通である。
 大久保はまず農業技術を近代化するために、官営模範農場と官立農学校をつくり、農業や牧畜、養魚、製糸、製茶、果樹栽培、林業などの技術改良に努めた。
 工業についても同様である。富岡製糸場をはじめ、官営工場が各地につくられていった。それらは繊維産業の拠点となっていく。
 さらに大久保は輸出振興に力点を置き、海運業の育成にも力を入れていく。そのため、三菱をいわば官営模範海運会社とみなし、三菱を保護した。
 ちなみに、こういう官主導の資本主義に徹底して反発したのが、民間主導の資本主義をつくろうとした渋沢栄一だといってよい。渋沢にとって、会社や団体は国家のためのものではなく、何よりも民衆のためのものだった。
 本書には渋沢栄一への言及がまったくなされていないが、官だけが踊っても資本主義は定着しないことを強調しておきたい。
 渋沢栄一については、昔、評伝を書いたことがある(いささか長いが)。
 よろしければ、拙HPをご参照ください。

 http://www011.upp.so-net.ne.jp/kaijinkimu/huchiqq.html

 著者は「大久保は政府主導によって世界市場に適応しうる資本主義的生産様式を造り出していこうとした」と書いている。
 このあたりの発想をまねたのが、鄧小平だといってよいかもしれない。
 それはともかく、大久保は国家主導の資本主義をつくるために、国家資本の形成に力をいれた。そのために江戸時代の年貢に代わって、金納の地租による租税方式を考えだした。外債は避けたいという思いが強かった。
 大久保は義務教育制度にも力をいれる。そのため、各地に小学校が建てられた。学制令が出された翌年の1873年(明治6年)には、小学校の数は1万2558校、3年後の1875年には2万4225校におよんだという。この数は2016年現在の1万9943校を上回るというから、おどろきである。また、早くも1874年には、女子教員を養成する女子師範学校がつくられている。
 さらに大久保の功績は大規模な対外的戦争をできるだけ避けたことだという。1874年に日本は台湾に出兵する。このとき日本は清と戦争にはいる恐れもあったが、大久保は外交交渉によって、それを乗り切る。さらに大久保死後に強行された琉球王国の廃絶と沖縄県の設置にさいしても、清と戦争になる可能性はじゅうぶんに考えられた。著者は、明治政府が外交交渉によって、大きな戦争を避けたことが、日本の経済発展につながったと評価している。
 大久保の路線を継承したのが松方正義である。当時は西南戦争のあと、政府の財政赤字が膨らんでいた。松方は外債発行に頼らず、歳出を抑制し、超均衡財政を強行する。そのいっぽう増税によってできるだけ歳入剰余をつくりだそうとした。これが、いわゆる松方デフレである。
 松方はさらに為替管理と積極的な官営貿易により、正貨準備の増大をはかった。日本銀行設立を計画したのも松方である。
 松方のデフレ政策にたいする反発は、とうぜん強かった。政府内でも、松方に反対する者が多かった。だが、そうした反対派を松方は押し切っていく。
 とはいえ、日清戦争後、日本はその経済政策を根本的に転換し、外債導入に踏み切る。それをおこなったのも松方である。
「それ[新たな経済政策]を可能にしたのは、条約改正による関税収入の増大と戦争の償金による金本位制の確立に伴って外資導入を有利にする条件が整えられたことです」と著者はいう。
 こうして日本の外資依存度はしだいに大きくなっていく。その依存度を一挙に高めるきっかけとなったのが、日露戦争である。
 日本資本主義は国際化しようとしていた。
 日本経済の国際化に対応しようとした人物が高橋是清と井上準之助だ、と著者はいう。
 日本銀行総裁の高橋是清はあえて井上をニューヨークに送り、かれを国際金融家として育てようとした。
 のちに日銀総裁となる井上のもとで、1920年代に日本資本主義は国際化していく。日本には大量の米英資本が流入する。著者は「井上は国際金融家の役割を果たすことを通して、ワシントン体制の枠組に沿う第1次大戦後の日本の経済の経済外交を事実上主宰しました」と書いている。
 1927年の金融恐慌後、浜口雄幸内閣の蔵相として、井上は金本位制復帰をめざし、金解禁のための緊縮政策を打ちだす。とうぜん軍の予算も削られた。ところが、金本位制への復帰は頓挫し、国際金融網は寸断され、ふたたび国家資本の時代がはじまるのだ。
 1932年2月、井上準之助は右翼テロリストによって暗殺される。つづいて金本位制に代わって、ケインズ政策を取り入れようとした高橋是清も二・二六事件で暗殺され、軍部独裁政権が誕生する。こうして、日本での「議論による統治」は圧殺されることになる。
 アダム・スミスが示した資本主義は、国家の干渉をできるだけ排除するなかで成長していく自立的な経済モデルだった。しかし、ヨーロッパをモデルとして、近代化を実現しようとした日本では、資本主義は国家によって導入される以外になかった。その資本主義は当初、対外的な自立をめざし、つづいて国際的な協調をめざしながら、じょじょに発展していった。それが可能だったのは、国家の舵取りがすぐれていたからだけではない。それ以上に、近代化をめざす民間の努力が大きかったとみるべきだろう。
 だが、戦争が拡大し、軍部の独裁が強まるにつれて、国家も民間も硬直して、柔軟な経済運営は失われてしまう。
 思うに、現在もまた劣化の時代である。野放図な国債発行のもと、日本経済の方向性は見失われ、政府も企業も劣化しつつあるのではないか。まるで、そんなふうに思えてくるのである。

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