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永野健二『バブル』を読む(3) [われらの時代]

 1988年から89年にかけては、バブル狂乱の時代だった。
 ちょうど昭和から平成へと年号が変わる時期である。
 リクルート事件はそのさなかにおこった。
 リクルート社長の江副浩正が、子会社リクルートコスモスの未公開株を政治家や官僚、経営者、マスコミなどに配り、1件数千万円単位の利益を供与したとされる事件である。
 この事件により、藤波孝生官房長官や、真藤恒NTT会長をはじめ、労働省、文部省の次官などが逮捕され、竹下登内閣は総辞職した。
 江副浩正は就職広告や情報通信分野に新しい波をおこした人物だった。リクルートコスモスは、リクルートグループの不動産会社で、ほかにリクルートにはファーストファイナンスという金融会社があった。
 江副は自身が経営者をしているとき、リクルート本体の株式公開を認めなかった。不動産と金融はどちらかというと、江副が嫌っていた分野だったという。
 事件が発覚すると、世間から怒りが巻き起こったことはいうまでもない。
 政官財癒着ということばも生まれた。
 裁判は長引き、10年以上におよんだ。結果は、リクルートコスモス株の賄賂性が認められ、江副は2003年に懲役3年執行猶予5年の有罪となった。
 この事件により、江副は経営者としての地位を失い、失意の晩年を送った。
 田原総一郎はリクルート事件が「国策捜査」だったという。
 著者もまたリクルート事件は「ご都合主義で検察が正義の基準を決めて立件する仕組み」から生まれた、いびつな事件だったと述べている。
 そういうのは、傑出した経営者としての江副の才覚を惜しんでのことである。それでも、違法か合法かはともかく、未公開株を配ること自体が、ふつうの人の感覚でいう賄賂であったことはまちがいないだろう。
 バブルのころは野心家の時代だった。
 そんなひとりが高橋治則である。
 イ・アイ・イ・インターナショナルという会社を率い、85年から4年間で、銀行から1兆5000億円を借り入れ、国内外の不動産やホテル、ゴルフ場を買いあさった。その主力銀行が日本長期信用銀行だった。
 高橋のやり方を著者は「慶応ボーイの空虚な信用創造」と呼んでいる。
 高橋は家業の電子周辺機器商社の後を継いだが、それに飽き足らず、不動産や株の投資に乗りだす。その過程で、東京協和信用組合の理事長に就任したことがきっかけで、バブルの寵児となっていく。
 高橋が徹底的に利用したのが慶応閥だったという。三洋証券社長の土屋陽一と結びついたのも、そうした関係である。
 かれはひたすら拡大路線を突っ走った。
 資金繰りの悪化が表面化するのが90年末、長銀がはいって、整理をはじめるが時すでに遅し。
 東京協和信用組合にも公的資金が投入され、高橋は業務上横領の容疑で逮捕された。
 三洋証券が倒産するのは97年、長銀が破綻するのはその翌年である。
 長銀の債務超過額は3兆6000億円、その全額が公的資金でまかなわれた。
 バブルに踊った買い占め屋は高橋治則だけではない。光進の小谷光浩、麻布土地の渡辺喜太郎、第一不動産の佐藤行雄、秀和の小林茂などもそうである。
 著者は、そのなかでも経営センスのあった人物として小林茂の名前を挙げている。コンパと呼ばれるスナックバー形式の酒場をつくり、秀和レジデンスと呼ばれる一連の建て売りマンションを建てたのが小林である。
 秀和は巨額の負債をかかえ、2005年にモルガン・スタンレー証券に1400億円で買収されることになる。
 小林茂の活躍は、88年から90年にかけて、流通業界関連株を大量に取得し、一時、流通再編の目になったことで知られる。
 伊勢丹、松坂屋、忠実屋、いなげや、長崎屋、ライフストアなどがターゲットにはいった。小林は中堅スーパーを大合同して、1兆円規模のスーパーを設立したいと願っていたという。
 だが、そのM&Aはうまくいかない。忠実屋といなげやは相談しあって、防衛策に走った。
 しかし、その後、日本の流通業界が再編されていくのをみると、小林には先見の明があった。だが、それはエスタブリッシュメント側による再編だった。小林はそのエスタブリッシュメントに体を張っていどみ、ついに敗れ去った、と著者はいう。
 M&Aが本格化しはじめていた。
 1989年3月、アメリカの投資家ピケンズは、トヨタ系列の部品メーカー、小糸製作所の株式20.2%を取得して、筆頭株主となった。その狙いはサヤ取り。ピケンズの黒幕は麻布建物の渡辺喜太郎だったという。
 だが、トヨタの会長、豊田英二は小糸の株を肩代わりすることを拒否し、安定株主比率を守り抜いた。
 89年から2年のうちにバブルは崩壊する。小糸製作所の株も半値近くになって、麻布建物は大きな損害をこうむり、けっきょく倒産に追いこまれる。ピケンズも手を引いた。
 製造業の経営者としての意地が、バブルの時代のサヤ取りを粉砕した。しかし、ピケンズの動きは、金融自由化とグローバリゼーションのもとでM&Aが本格化する時代を先取りしていた、と著者は述べている。
 バブル真っ盛りのころ仕手グループ光進の小谷光浩は、相場師としてセンセーションを巻き起こした。
 小谷は、蛇の目ミシン、国際興業、藤田観光、協栄産業、東洋酸素などの大株主となった。当初、その出資元はよくわからなかった。だが、それが住友銀行であることがしだいにわかってくる。
 小谷は90年7月に、証券取引法違反容疑で逮捕される。住友銀行は知らぬ顔を決めこむ。しかし、その10月には住友銀行青葉台支店長の山下彰則が、仕手戦の資金づくりで小谷に協力していたとして、逮捕されるにいたる。
 住友銀行はそのころ磯田一郎会長のもと、イトマンの処理に苦しんでいた。イトマンは住友銀行の商社部門で、住友銀行銀行の常務だった河村良彦が社長を務めていた。その河村が常務に据えたのが、協和綜合開発研究所の伊藤寿永光だった。
 伊藤寿永光は、総額700億円近い不動産や美術品を買いこんでいた。背後には関西の裏社会の顔役、許永中が暗躍していた。
 磯田一郎は小谷問題で、支店長が逮捕された責任を取って辞任する。イトマン事件には言及されないままだった。だが、辞任の背景にイトマン事件がからんでいたことはいうまでもない。
 磯田の後任となったのが、西川善文である。西川はその後、8年間、住友銀行の頭取をつとめ、さらに2006年から3年間、日本郵政の社長となる。
 だが、西川の回顧録には、バブルをふくらませた住友銀行の責任について、ほとんど反省の言は書かれていないという。
 いっぽう、熱狂相場の終わりを早くから読んでいたのが、野村証券会長の田淵節也だった、と著者はいう。
 90年2月、相場は昨年末の3万8957円から下がりはじめていたが、株式市場ではまだ強気の意見が多かった。それにたいし、田淵はバブルの崩壊が間近に迫っているとみていた。
 田淵は、銀行の有担保主義がつくりあげた土地神話が、土地バブルを生んだと考えている。バブルの崩壊は全銀行におよぶだろう。だが、株式市場でバブルの増殖を加速した責任は、証券会社にもあると感じていた。

〈株高の崩壊は、土地価格の下落につながる。住専などのノンバンクの破綻につながる。そして仕上げは、大蔵省と銀行が持ちつ持たれつで守り続けてきた銀行不倒神話の崩壊である。〉

 田淵はこうしたシナリオを読み切っていた。
 だが、このシナリオがあたることは、証券界のドンと呼ばれてきたみずからの破局をも意味する。
 田淵のつきあいは多岐におよんだ。清濁併せ呑むというタイプの経営者だったという。
 バブルの崩壊によって、田淵はみずからの運命を静かに受け入れようとしていた、と著者は書いている。
 そして、90年以降、バブルの清算がはじまるのである。
 次回はそのことをみておきたい。

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