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惜別と帰庵──栗田勇『芭蕉』から(15) [芭蕉]

 芭蕉の旅は「いわば情にまかせた放浪ではなく、禅林風の悲愁と、日本民俗の詩歌のもつ、祝祭性と諧謔性の接点を求めて、『新しみ』への厳密で計画的な旅であった」と、栗田勇は書いている。芭蕉における俳諧の革新運動とは何だったかが、みごとに要約されている。
 ぼくのようなぼんくらに、むずかしい話はわからない。
 ただ、芭蕉が琵琶湖に面する近江の地を気に入ったことはたしかだ。のちに『おくのほそ道』の旅を終えた芭蕉が、大津・石山寺近くの幻住庵にすまい、木曾義仲を供養した馬場(ばんば)の義仲寺(ぎちゅうじ)をみずからの墓所と定めたところをみても、芭蕉と大津のゆかりは深い。

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[復元された幻住庵。大津市ホームページより]

 しかし、いまは帰東のときである。
 芭蕉は貞享2年(1685)3月中旬(現在の暦では4月中旬)、大津から東海道筋を下って、草津、石部をへて甲賀・水口(みなくち)にやってきた。かつての甲賀忍者の里である。
 芭蕉は、水口で20年来の知り合いと会い、句を詠む。

  命二つの中に生きたる桜かな

 この句は芭蕉のもとに駆けつけた服部土芳(どほう、1657-1730)に与えたものとされる。このとき土芳は29歳とまだ若い。芭蕉とは13歳の年の差がある。20年来の知り合いとは、いうまでもなく水口の旧友たちのことだ。土芳はその会席に駆けつけたのだろう。
 それぞれの人生を歩んできた命ふたつが、桜散るなかで、ふたたび出会った。年々歳々、花相似たり。ことしの桜にどのような時が流れているのだろう、と芭蕉はうたう。栗田勇は、この桜には、西行の命もこめられているのだろうと解している。
 旅の別れと出会いはつづく。

〈伊豆の国、蛭(ひる)が小島の世捨て人、この男も去年の秋から行脚していたが、わたしの名を慕い、旅の道連れにと、尾張の国まで跡を追ってきたので一句。

  いざともに穂麦喰らはん草枕〉

 この世捨て人は斎部路通(いんべ・ろつう、1649-1738)のこと。
 乞食僧で、近江の膳所(ぜぜ、現大津市)で芭蕉と出会い、門人となったらしい。その路通が尾張まで着いてきた。
 芭蕉は3月下旬に以前訪れた桑名の本統寺に3日逗留、それからふたたび熱田に向かい、白鳥山(はくちょうさん)法持寺(ほうじじ)で歌仙を巻いた。俳壇渡世が芭蕉の生活を支えている。
 路通が尾張にやってきたのはこのころだろう。奔放なこの破れ坊主の路通は、どちらかというと嫌われ者だ。しかし、芭蕉は路通の風狂ぶりをことのほか愛した。
 栗田勇はこう書いている。

〈「いざともに穂麦喰らはん草枕」には、二羽の漂泊の烏が、新緑のなかで、黄金色に波うつ一面の麦穂の熟れた穂先を、ともについばんで生きるにまかせようという心地がある。〉

 3月末から4月上旬にかけては、熱田を中心に鳴海や名古屋の俳人との交流を深めている。けっして暇ではない。作句の指導にあたる毎日である。
 名古屋の坪井杜国(とこく、?-1690)には、惜別の句を贈った。

  白芥子(しらげし)に羽もぐ蝶の形見かな

 この句は『野ざらし紀行』にも収録された。
 芭蕉は杜国との別れに、蝶がみずから羽をもいで、白いヒナゲシに化すかのような切なさをおぼえていた。いわれてみれば、たしかにヒナゲシの花びらは蝶の羽に似ている。
 杜国は俊才のほまれが高く、人をひきつける魅力があったのだろう。このころはおそらくまだ20代だった。
 名古屋の裕福な商人で、米問屋をいとなんでいた。米問屋といっても、徳川時代の米問屋は金融業を兼ねているようなものだ。その杜国を悲劇が襲う。芭蕉と別れた4カ月に、禁制の空米(くうまい)取引(米の先物取引)をしたかどで、尾張領内追放となり、伊良子崎に謫居(たっきょ)を強いられるのだ。
 4月5日に芭蕉は、熱田で、門人の其角に書簡を出している。其角が参禅に通っていた鎌倉・円覚寺の大巓(だいてん)和尚が1月はじめに亡くなったと聞き、其角あてに弔辞をしたためたのである。そこには、次の句が添えられていた。

  梅恋ひて卯花(うのはな)拝む涙かな

 梅には大巓和尚の脱俗清高ぶりが託されている。卯花はウツギのこと。旧暦4月(新暦では5月)ごろ白い花を咲かせる。4月を卯月と呼ぶのはそのためだ。いまは梅の季節ではないが、卯花を拝んで、高潔な大巓和尚のことをしのんだのである。
 江戸に帰る日が近づいている。
 4月上旬には、熱田で送別の句会が催され、芭蕉は次の句を残した。

  牡丹蘂(しべ)深く分け出づる蜂の名残かな

 貞享、元禄のころは牡丹の栽培と観賞が流行していた。牡丹は富貴を象徴する花でもある。芭蕉は熱田で、富家のあるじ林桐葉(とうよう、?-1712)の厚遇を受けた。そこでみずからを蜂にみたてて、桐葉の世話になったことを感謝した。人が花や動物と一体となる詩境に、ゆたかな宇宙観が満ちている。
 4月9日には鳴海の知足亭を訪れ、如意寺で句会を催した。これで、鳴海の衆ともお別れである。そして、翌10日にいよいよ帰東の途につくのである。
 道中、『野ざらし紀行』に記録された句は、甲斐の山中で詠んだとする次の一句だけである。

  行く駒の麦に慰むやどりかな

 甲斐の山中とは、甲斐谷村(やむら、現都留市)のこと。ここには芭蕉が3年前、火事で江戸を焼けだされたとき、一時身を寄せた高山伝右衛門(麋塒)の屋敷があった。今回も芭蕉はここに宿を借りた。
 中山道を通る長い道中をへて、ようやく甲斐の谷村にたどりついた思いが、この句にもこめられている。甲斐の黒駒といわれるほど、甲斐は名馬の産地だ。芭蕉も馬に乗ったのだろうか。馬が穂麦を食べているのをみると、自分もほっとする。
 4月末(現代の暦では5月末か6月上旬)、芭蕉は甲州街道をへて、ようやく江戸に戻ってきた。
 旅の疲れをいやすうちに、次の句が浮かんでくる。

  夏衣いまだ虱(しらみ)を取り尽くさず

 ひとまず旅は終わった。
 季節は夏に移っている。夏の衣にシラミが湧いてきたというのは穏やかではないが、これは中国宋代の高士が、シラミをつぶしながら清談を交わしたとの故事にもとづくという。そのシラミを取り尽くせないというのだから、旅で出会った人びととの思い出が、心のなかにいつまでも湧きつづけていたのである。

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[北斎「深川萬年橋下」。ウィキペディアより]

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