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デヴィッド・グレーバー『負債論』(まとめ) [本]

   1 はじめに

 デヴィッド・グレーバーは、イギリスの名門大学、ロンドンスクール・オブ・エコノミクス(LSE)の人類学教授で、アナキストの活動家として知られている。「われわれは99パーセントだ」というスローガンをつくり、ウォールストリート占拠運動の指導者として一躍有名になった。反グローバリズムを唱え、サミットにも反対している。そのグレーバーの代表作が、この『負債論』である。
 本書が問題にするのは、人がいつのまにか信じこんでいる、お金にまつわる強迫的な道徳意識についてである。「借りたお金は返さなければならない」。そのためには、多少、人が死んでも仕方がない。しかし、それはほんとうに正しいのかと疑問を発するところから、著者の探求ははじまっている。

〈消費者負債はわたしたちの経済の活力源である。近代のあらゆる国民国家は赤字支出の上に成り立っている。負債は国際政治の中心的課題にまでなっている。だが、そもそも負債とはなんなのかを理解している人間、または負債についてどう考えたらよいかわかっている人間はどこにもいないようにみえる。〉

 これが『負債論』の問いである。
 負債とはなにかがわかっていないにもかかわらず、「負債は返さなければならない」という道徳意識が人びとをしばりつけている。
 植民地にたいする宗主国の債務の押しつけは、いまも第三世界を圧迫しつづけている。そのくせ、万年債務国であるアメリカ「帝国」は、世界じゅうから「貢納」を求めて、そのうえにあぐらをかいている、と著者はいう。
 金を借りても平気な国と、金を借りて苦しむ国とのちがいはどこにあるのだろうか。
 金を貸して権威をふるう階級と、金を借りて黙々とはたらく階級がいる。その関係は代々、永久につづくのだろうか。
 中世のキリスト教世界では、金貸しは罪深い存在とされてきた。
 それはヒンドゥー教の世界でも、仏教の世界でも同じである。
『日本霊異記』には、強欲な広虫女(ひろむしめ)なる金貸し女が死んで、醜い怪物になる物語が残されている。
 しかし、こうした物語の背景には、高利貸から金を借りるなという教訓めいた説教もひそんでいる。
 貨幣によって計量され、返済を義務づけられ、強制されることが負債の特徴だといえる。すごいのは本書が、負債のもととなる貨幣の歴史を古代メソポタミアからたどろうとしていることだ。
 著者が負債の歴史を研究しようと思い立ったのは、2008年の金融危機を経験してからだという。それは「念の入った詐欺」以外のなにものでもなかった。さらに、そのさい救済されたのは、一般市民ではなく、金融企業、すなわち銀行だったことに疑問をいだいた。
 著者はアナキストらしく、債務の帳消しと金融支配体制の解体を求める。
 だが、同時により根源的な大きな問いを投げかける。「人間とはなにか、人間社会とはなにか、またどのようなものでありうるのか」と。
 本書では、さまざまな神話に疑問が呈される。物々交換なるものは存在したのか。国家と市場は、それぞれ独立した存在だったのか。人間は交換を運命づけられているのか。貨幣はどのように発生したのか。
 こうした問いを秘めながら、「過去5000年間の負債と信用についての実在の歴史」をたどろうというのである。

  2 物々交換の神話

 経済学では、ふつう貨幣は物々交換から生まれたとされる。
 ほんとうにそうだろうか、と著者は疑う。
 なぜなら、双方の欲求が一致しなければ成立しない、物々交換ほどむずかしいやりとりはないからだ。物々交換の困難さを解消するために貨幣が生まれたという経済学の仮説は、あくまでも観念上の操作にもとづいている。
 紀元前330年ごろ、アリストテレスはすでにこう考えていた。もともと家族は必要なものをすべて自前でつくっていた。ところが、たとえば、ある家族は穀物だけをつくるようになり、別の家族はワインだけをつくるようになって、たがいに商品を交換しあうようになり、そのための道具として貨幣が登場したのだ、と。
 アダム・スミスの『国富論』の展開も、アリストテレスのこうした考えを引き継いでいる。
 ところが、スミス以前の大航海時代に、スペインやポルトガルの冒険家が世界じゅうを探査しても、物々交換をじっさいにおこなっている場所は、どこにも発見できていなかったのである。
 にもかかわらず、スミスは商品を交換するために貨幣が必要になったという理論を組み立てた。そして、マルクスも商品から貨幣が生まれ、貨幣から資本が生まれたと考えた。
 分業によって、さまざまな職業が生まれ、商品がつくられ、貨幣を媒介として、多種多様な商品が交換され、社会が発展していくというのが近代の商品世界の考え方である。
 当初、貨幣には塩や貝殻や干鱈、たばこ、砂糖、釘など、だれもが交換しやすい物品が用いられることもあった。しかし、次第に金属、さらには鋳貨が貨幣として用いられるようになり、次に紙幣が登場して、信用が発達し、金融システムが形成されていく。
 これが経済学のとらえ方だ。
 ほんとうなのだろうか。
 著者はここで人類学の知見を導入し、そもそも物々交換など存在しなかったと論じる。
 ルイス・ヘンリー・モーガンは、19世紀半ばに北アメリカのイロコイ6部族連邦を調査し、ロングハウス(いわば長屋)にものが貯蔵され、それらが分配される様子を記した。
 ここでは、ものの分配はあったが、物々交換などはなかった。
 そして、交換がなされる場合も、やっかいな手続きを必要とする。
 レヴィストロースはブラジルのナンビクワラ族の交換について記述している。ふだん100人ほどの集団(バンド)でくらすかれらは、相手の集団と交易をおこなうさい、まず宴会を開く。そこで相手の持ち物(たとえば首飾りや斧)をほめちぎり、さまざまな駆け引きをへて、最後はそれをもぎとるのだという。
 交換といっても、生やさしいものではない。それはにぎやかな宴会のなかでおこなわれるが、一歩まちがえれば戦争に転じかねない緊張感をはらんでいる。
 物々交換というより、贈与の強制といった趣がある。
 オーストラリアのグヌィング族は、キャンプ地の宴会で、歌ったり踊ったりしながら近隣の部族と、ものを交換しあう。それは性の饗宴でもあり、ビーズやたばこが循環し、布地が行き交う。つまり、ここでも宴会があって、はじめて交易がなされるのだ。
 部族間でものが交換されるのは、日常的なことではない。

〈ある物をべつの物と直接に取り替えて、そこからありうるかぎりの利益を引きだそうとするようなふるまいは、ふつうどうでもよい人間、二度と会うこともない人間との関係の様式である。……それに対して、隣人や友人というような気がかりな相手には、公平で親切な交流を求め、その人の個人的な必要、欲望、状況に配慮するだろう。ある物をべつの物と交換するにせよ、それを贈与とみなしたがるはずだ。〉

 交換はよそよそしい。むしろ贈与が基本である。経済学が出発点とする物々交換は、現代社会の交換関係を抽象化し、人類社会一般に投影した幻想でしかない、と著者はいう。
 贈与は、相手からほしいものをもらい、相手にほしいものをあげるという一方的な関係である。その時点で、交換は成立しない。いつかお返しをすればよいのだ。それが、部族社会のあり方だ。
 だとすれば、ここに貨幣がはいりこむ余地はない。

〈物々交換がことさら古い現象ではないこと、真に普及したのは近代においてはじめてであること、実のところ、そう考えるには正当な理由がある。知られているほとんどの事例において物々交換の起きるのは、貨幣の使用に親しんでいるが、なんらかの理由でそれをふんだんにもちあわせていない人たちのあいだにおいてなのだ。手の込んだ物々交換のシステムの出現するのは、しばしば国民経済が崩壊するときである。〉

 物々交換が生じるのは、むしろ近代だ。なにかの拍子に、これまで使っていた貨幣が使えなくなったときに、物々交換が発生する。
 日本でも、敗戦直後、都会の主婦は着物をかついで、村に食糧の買い出しに出かけたものだ。
 かつてニューファンドランド島では、出稼ぎの漁師が干し鱈を商人に渡して、商人から必需品をもらうという、一見、物々交換のような場面がみられた。だが、それは物々交換だったのか、と著者は疑う。
 じつは、ニューファンドランドでは、決定的に硬貨が不足していた。そこで、商人は干し鱈の市場価格を計算したうえで、それを受け取り、漁師に価格に見合った必需品を手渡したのである。まるで干し鱈を貨幣に見立てたかのように、物々交換が発生したのだが、実際にここでおこなわれていたのは、一種の信用経済にほかならなかった、と著者はいう。
 歴史を振り返れば、貨幣が発生したのは、紀元前3000年ほど前、メソポタミアのシュメール文明においてである。貨幣は官僚たちによって発明され、都市国家に貯蔵された物資を差配するために用いられた。
 その貨幣は金属片ではなく、粘土板に刻まれたしるしである。
 したがって、スミスのいうように、貨幣は商品の自然な取引のなかから生まれたわけではない。

〈物々交換からはじまって、貨幣が発見され、そのあとで次第に信用システムが発展したわけではない。事態の進行はまったく逆方向だったのである。わたしたたちがいま仮想貨幣(ヴァーチャル・マネー)と呼んでいるものこそ、最初にあらわれたのだ。硬貨の出現はそれよりはるかにあとであって、その使用は不均等にしか拡大せず、信用システムに完全にとってかわるにはいたらなかった。それに対して物々交換は、硬貨あるいは紙幣の使用にともなう偶然の派生物としてあらわれたようにみえる。歴史的にみれば物々交換は、現金取引に慣れた人びとがなんらかの理由で通貨不足に直面したときに実践したものなのだ。〉


  3 原初的負債

 経済学では、「貨幣とは交換を促進させるべく選ばれたひとつの商品であり、じぶん以外の商品の価値を測定するために使用されるにすぎない」とされる。
 ところが、実際は貨幣がなければ商品も存在しないし、政治権力がなければ貨幣もない、と著者はいう。
 著者はここで貨幣の起源として、たとえば軍隊を想定している。国家は常備軍を維持するために、兵士に貨幣を配付し、それで食料品をはじめとする物資を調達させる。いっぽう、国民にたいしては、税を貨幣で払うよう求める。すると、この貨幣は流通しはじめ、市場が生まれるのだ。国家と市場はつきものだ、国家なき社会は市場ももたない、と著者はいう。
 貨幣の発生は、植民地の経験からもたどることができる。フランスは植民地としたマダガスカルでマダガスカル・フランを発行し、プランテーションをつくり、そこで住民をはたらかせては、税の支払いを求めた。こうして、貨幣はいやおうなく市場をつくりだし、植民地から解放されたいまも、人びとは市場にしばられるようになった。
 1971年にリチャード・ニクソンがドルを金から切り離し、変動通貨制に移行して以来、貨幣は法定不換紙幣となった。いまでは貨幣を国家=信用理論でとらえる見方がますます幅をきかせるようになっている。
 国家の発行する紙幣のもとで、国民は市場で経済活動をいとなみ、国家に税金を支払う。税金を払うのは、国家に治安と行政サービスを求めるためだというのが一般的な理解である。しかし、そもそも人はなぜ国に税金を払わなければならないのだろうか。
 著者は「原初的負債論」という考え方を紹介する。
 人は生まれたときから、いってみれば社会や両親、家族に負債を負っている。だから、人は生きているかぎり、その負債を返していかなければならない。貨幣はまずもって、ささげものである。
 実際、著者は「どの地域であっても貨幣は神々への捧げものに最もふさわしい物品から発生しているようにみえる」と記している。日本語でも、貨幣の幣(ぬさ)は、神へのささげものをさしている。
 子安貝などのような原始通貨が物の売買に使用されることはめったにない。著者によれば、「それらは事物の入手にではなく、主として人びとのあいだの関係の調整のため、とりわけ結婚の取り決めや、殺人や傷害から生じるいさかいの調停のために使用される」。
 原始通貨は長くつづく関係への確認、あるいはこれからも負債を返しつづけるという象徴のようなものとなる。そういえば、結納の品も両家の末長い関係をつなぐ象徴にちがいない。つまり、ささげものである。
「つまるところ、わたしたちは自己存在すべてを他者によっている」。われわれがここにあるのは、すべてだれかのおかげなのだ。だとすれば、社会に借りを返すという意識がどこかに生じてきても不思議ではない。
 だが、そもそも優越する者、すなわち神や王に負債を返す必要はないはずだ。古代世界では、自由市民が国に税を払うことはふつうなかったという。税を課せられたのは市民以外である。
 だから受けた恩義にたいし、借りを返すところから、貨幣が発生するわけではないのだ。
 ここで著者はシュメールやバビロニアのあった古代メソポタミアに思いをはせる。
 古代メソポタミアの流域は豊かで、多くの穀物がとれ、おびただしい家畜が飼われ、羊毛や皮革がつくられていた。しかし、石や木、金属は不足し、輸入しなければならなかった。そこで、神殿の役人は、商人たちを国外に派遣し、メソポタミアの産物を売らせて、足りない資材を買わせた。
 そのための前貸しとして渡されたのが、貨幣である。貸し付けは利子をともなって返済されなければならなかった。やがて、貸し付けは商人だけではなく農民にもおよぶようになる。農民はしばしばその負債に堪えきれず、歴代の王は権力の座につくとき債務取り消しの特赦を発令するのが慣例になった。
 ここでふたたび著者は原始的負債の論議に戻って、人が生まれたときから社会に負債を負っているという主張のいかがわしさに論及している。実際、社会という概念はいいかげんであって、いかようにも解釈できる。だが、人は社会から負債を返すよう求められる。
 紀元前500年から400年ごろに成立したとされるインドのヴェーダでは、負債にたいする考え方はもっと明快だった、と著者はいう。
 人が負債を負っているのは第一に宇宙の力にたいしてであり、第二に文化を授けてくれた人にたいしてであり、第三に育ててくれた両親や祖父母にたいしてであり、第四に周囲の人びとの寛容にたいしてである。それらにたいして、わたしはお返しをしなければならない。だが、それは金銭によってなされるのではない。わたしは自身が先達となり、祖先となり、人道を守り、祭儀をおこなうことによって、負債を返すのである。
 であるなら、原始的負債から貨幣が発生するわけではない。
 だが、ここに国家が登場してくると、負債をめぐる論議は一変する。
 19世紀の社会学者、オーギュスト・コントは、人は社会への債務者として生まれると論じ、人は社会に奉仕することで、社会への返済義務をはたさなければならないと述べた。コントのいう社会とは、国家そのものだといってもよい。
 著者はこう書いている。

〈市場と国家は正反対のものであり、それらのあいだにこそ人間の唯一の可能性があると、わたしたちはたえまなく教えられてきた。しかしこれはあやまった二分法である。国家は市場を創造する。どちらもたがいになくしては存続しえないし、少なくとも今日知られているようなかたちでは存続しえないのである。〉

 貨幣と市場は国家によって生みだされ、そこで生活をいとなむ人びとは、国家に借りを返すよう求められる。それが税の原点だと考えられる。


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武田泰淳『富士』をめぐって [われらの時代]

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 最近はめったに小説を読まなくなったし、映画館で映画を見ることもほとんどなくなった。小説や映画が日常に大きな部分を占めていたのは、1960年代後半から70年代はじめの学生時代だ。といっても、ぼく自身、文学青年にはほどとおく、ひたすらのらりくらり日を送っていたにすぎない。
 あのころ、武田泰淳の小説もよく読んだ。泰淳の大作『富士』が出版されたのは1971年のことだ。そのとき、司修の装丁と造本に圧倒され、本を買ったのを覚えている。ところが、その本がいまは見当たらない。たぶん、だれかがもっていったのだろう。いま本棚に残っているのは、その後、出された文庫本で、ハードカバーの原著を知る者としては、いささか悲しい造りになっている。
 最近、両親の具合が悪く、東京といなかを往復することが多くなっている。車内の退屈をまぎらわすために、本棚からおもしろそうな本を見つけようとして、泰淳の『富士』を発見したというわけだ。
 新幹線で二度往復するなかで、ざっと読み終わった(行きも帰りも富士山がよく見えた)が、学生時代に一度読んだはずなのに、ほとんど忘れていることが驚きだった。たぶん、あのころは何もわかっていなかったのだ。
 そして、正直、いまもよくわからない。
 爽快でも愉快でもない小説である。富士の裾野にあった、太平洋戦争末期(1944年)の国立精神病院が舞台となっている。
 その病院は、戦争にくるった国が、戦争でくるった人たちを隔離し、押しこめた施設といってよいかもしれない。そこから見える富士は、日本一の美しい山というより、むしろ鬱勃として、秘めたる力をみなぎらせていた。
 あくまでも小説である。じっさいの精神科病院で治療にあたる先生が、この小説を読んだら、こんな患者も先生もいないというだろう。
 小説の主人公である大島は、戦時中、この精神病院の研修医をしており、いまは富士山麓に別荘を構えて、妻とともにくらしている。その大島があのころから四半世紀たった1969年に、当時の病院長や患者のこと、そして、さまざまなできごとを思いだして手記をつづるというのが、『富士』という小説の筋立てになっている。

 最近、親友が肺がんで亡くなった。大学時代、そして卒業後もしばらくともにすごした仲間である。その奥さんから、戒名をもらったのでというメールがはいった。慈眼院という院号がついていて、だれもにやさしかったかれに、ぴったりだと思った。快人居士というのもかれらしいと思った。
 それで、ふと連想してしたのだが、『富士』の主人公、大島もまた慈眼でもって、患者に接し、手記をつづったのではないかという気がした。
 院長の甘野も慈眼の人である。だが、甘野院長が神のごとくであるのにたいし、大島はあくまでも「狂気」に寄り添う。「正気」と「狂気」の区別はなきがごときだ。
 実際、戦時中の「正気」は敵を殺せであり、「狂気」は敵を殺すなであった。
 正気と狂気を分けるのは、国家であり、世間である。それは戦前も戦後も変わらない。そして、戦後の正気が、ほかに目もくれず経済の発展に邁進せよとの号令のもとにあった時代に、武田泰淳はこの小説を書きはじめた。
 慈眼はたんにやさしいわけではない。それは世間の引いた区別を溶解してしまうのだ。狂気が正常というのではない。ただ、意識が狂気に溶けこむことによって、狂気をしっかりと囲いこんでいた正常の鎖が、ほどけてしまい、溶けだした狂気のマグマが秩序の側に流れこんでいく。慈眼には、そんな作用をうながすこわさもある。
 そんな人の諸行無常を富士がながめている。神はあくまでも人のかたちをしている。だが、富士は神を超えた存在だ。作品の最後に、その富士が燃えて、滅亡がやってくる。しかし、それはまだ幻覚のなかでしかおこらない。富士は、予兆をはらみながら、静かにどっしりとたたずんでいる。
 大島の手記、つまりこの小説にえがかれている患者たちは、男も女も含めて、じつに魅力あふれ、躍動感にみちている。
 大島の友人で、いまは入院している美貌の青年、一条実見は、虚言症患者で、自分を宮様だと称している。かれによれば「地上の権威や支配とは全く無関係に、ミヤでありうる者のみが、真のミヤ」なのである。
 かれの行動は自由で、まったく神出鬼没だ。患者のひとりである、てんかん症の大木戸孝次が亡くなる前から、その美しい夫人と性的交渉をもついっぽうで(ただし、それ自体、虚言である可能性もある)、近所の茶店の娘、中里里江を夢中にさせている。
 一条は「富士曼荼羅図」をえがこうとしていると伝えられる。だが、だれもその絵をみた者はない。「曼荼羅図」をえがくのは、一条には不可能だった。というのも、曼荼羅図のなかの一体の仏こそが、一条にほかならなかったからだ。そして、けっきょく曼荼羅図をえがくことなく、一条は自死し、その仕事は大島の手記にゆだねられることになる。つまり、大島の手記、『富士』という小説こそが、富士曼荼羅となるのである。
 一条は死すべく行動する。かれは警官の格好をして、御陵に参拝する本物の宮様に、「ミヤ様」として「日本精神病院改革案」を手渡す。そして、警備員に袋だたきにあい、憲兵隊に引き渡されたとき、青酸カリを飲んで、自殺するのである。
 1970年11月25日に、「楯の会」の制服を着た三島由紀夫が自衛隊市ヶ谷駐屯地に出向き、バルコニーで自衛隊員にクーデターへの決起を呼びかける演説をしたあと、割腹自殺するという事件がおこった。
 当時、大学生だったぼくも衝撃を受けたものだ。
 小説『富士』の一条事件は、まるで三島事件を写したようにみえる。だが、実際には、この部分は三島事件の前にすでに書かれていた。その符合に驚いたのは、むしろ武田泰淳のほうである。泰淳は三島の葬儀で、弔辞を読むことになる。
 一条実見の姿に、三島由紀夫のイメージが重なってくるのは、なんともいたしかたない。一条の思いつめた行動は、傍目からみれば滑稽である。一条はほんとうに精神病院の改革にいのちを賭けたのだろうか。虚無にいのちをささげた感さえある。
 むなしく死ぬのは一条だけではない。
 てんかん症の大木戸は、一の日と八の日にかならず発作をおこす。
 一の日と八の日とはなにか。小説に解説がある。

〈一の日とは、毎月1回の興亜奉公日[国民精神総動員にもとづく生活運動]。この日は学校、会社、工場などで、宮城遙拝、神社参拝、早朝の集合や行進をやる。八の日とは12月8日の大詔奉戴日[対英米戦争がはじまった日]。大木戸にとっては、八の日は12月ばかりでなかったし、毎月の18日、28日も彼独自の連想がからんで警戒しなければならないのである。〉

 大木戸が発作をおこすのは、国民の義務に自分が参加できないことによる緊張感のためである。その大木戸にとって生きるあかしは、めしをたらふく食うことでしかない。だが、戦時中の食糧事情の悪化が、かれの唯一の楽しみを奪おうとしていた。栄養失調と発作が重なって、大木戸はあっというまに死ぬ。「人間なんて、つまらないものだなあ」というひと言を残して。このことばは、意外と重い。
 梅毒患者の間宮は、伝書鳩の飼育だけを生きがいにしている。だが、あるとき、そのハトがいなくなる。伝書鳩はスパイが利用する可能性があるとして、憲兵隊が連れ去ってしまったのだ。それを間宮は甘野院長が憲兵隊に通報したのだと勘違いして、院長を逆恨みする。その怒りにかられて、かれは院長宅を襲撃し、愚鈍そうにみえる子守女を殺害し、なおも手斧をふるおうとしたところ、たまたまそこに居合わせた大木戸夫人が手にしたシャベルによって殴り殺される。これも、いたたまれない殺人事件だ。
 男たちが次々死んでいくのにたいし、『富士』の女たちはだれも強い。患者の庭京子も、大木戸夫人も、茶店の娘、中里里江も、甘野院長夫人も、魅力的で、圧倒的な存在感を示している。武田泰淳のえがく女たちについて論じるだけでも、おそらく1冊の評論ができるだろう。若いころに読んだときも、その猛烈さに打ちのめされたものだ。いまも、ぼくは女の人がこわい。
『富士』を壮大な失敗作と呼ぶことは可能だろう。ここにはふつうの小説がめざす感動もカタルシスもない。混沌があるばかりだ。
 だが、人はかならず失敗するのではないだろうか。かならずくるうのではないだろうか。かならず敗北するのではないだろうか。かならず死ぬのではないだろうか。
 そう考えれば、『富士』は世界の見方を根底から揺さぶる小説だった。世界を変える小説だった。
 われわれは人間とはこういうものだ、人間はこうでなくてはという思いこみで生きている。それ以外は見ようとしない。見て見ぬふりをする。
 しかし、『富士』は人間とはなにか、男とはなにか、女とはなにかという、われわれの無意識の囲いこみを、根こそぎ崩してしまう。人の世を支配する国家という秩序、人の精神を御する神という存在、人と動物のさかいさえ、あやしくしてしまう。
『富士』は、ニンゲンであるわれわれを押しながす。そして、目をそらさず、もういちど人の世を見ることをうながすのだ。
 ふりかえってみれば、若いころ、小説を通じて知った武田泰淳の慈眼は、いまもぼくの背中をほほえみながら見ているような気がする。そして、富士もまた。

なにがはじまろうとしているのか──グレーバー『負債論』を読む(11) [本]

 1971年8月のニクソン・ショックによって、ブレトン・ウッズ合意は崩れ、変動通貨体制がはじまった。その結果、ドルの価値は暴落し、長期のインフレが引き起こされた。
 とはいえ、いまでも、世界の金の5分の1から4分の1にあたる5000トンの金は、アメリカのフォートノックスと連邦準備制度理事会の金庫に保管されているらしい。
 現在は過渡的な時代だ、と著者はいう。これからどうなっていくのか、先は見通せない。
 戦争と軍事の役割は、ますます強まっている。
 そもそも、近代の貨幣は政府債務に基盤をおいている。そして、政府が債務を調達するのは、おもに戦争のためだった。ニクソン政権がドルの為替レートを変動させたのも戦費調達がその背景にあったという。
 アメリカはいまでも世界でずぬけた軍事費を支出している。その目的は、グローバルな権力の掌握である。
「世界における合衆国の軍事的支配の本質は、……望むならば、2、3時間のあいだに、地球上のどの地域をも絶対的に爆撃することができること[空軍力]にある」と著者は指摘する。
 変動為替制になっても、ドルが基軸通貨であることに変わりなかった。むしろ、ドルに振り回される通貨体制ができあがっている。
 サダム・フセインが2000年にドルからユーロに通貨体制を転換すると、アメリカはただちにイラクへの爆撃と軍事侵略で応えた。「あらゆる帝国の組み立ては、つまるところ、テロルに基礎づけられている」と、著者はいう。
 なにかがはじまっている予感は、仮想通貨の広がりにおいてもみられる。VISAとマスターカードが登場したのは1968年だが、本格的にキャッシュレス経済がはじまったのは、1990年代になってからだ。そして、いまサラリーマンはローンの返済に追われる。かれらは、自分たちがあくせく働かねばならないのは、ローンのためだと思っている。
 いまはどういう状況にあるか。アメリカの軍事力は巨大なのに、はるかに弱体な勢力を倒せないでいる。ライバルの中国やロシアを圧倒することもできなくなった。好き勝手に通貨を創造しようとした力は、数兆ドルの支払い義務を累積させ、世界経済を全面崩壊寸前にまで追いつめてしまった。
 アメリカの長期国債を支えているのは、おもに日本と中国だ。とりわけ中国の役割が見逃せない。著者は「中国の視点に立ってみると、まさにこれは合衆国を伝統的な中国の従属国[冊封国]にしていく長期の過程の第一段階であると考えることに、それほど無理はない」というが、これはちょっと買いかぶりすぎだろう。だが、いずれにしても米国債にたいする中国と日本のスタンスには、大きなちがいがある。
 2008年の大暴落は信じがたいほどの詐欺だった、と著者はいう。
 戦後のケインズ時代の到来によって、階級闘争は一時停戦となり、生産性の上昇と賃金の上昇がみられ、消費者経済の基礎がつくられた。同時に景気の停滞期に需要を刺激する方法として、政府は「無」からの貨幣の創造を促進させる政策をとった。だが、それでも経済的平等がもたらされることはなかった。
 1970年代後半以降、サッチャー、レーガン政権が誕生すると、ケインズ主義は終焉を迎え、生産性と賃金の連動性は失われ、賃金は停滞するか、低落していった。
 マネタリズムによって、貨幣は投機の対象と化してしまう。そして、賃金が上昇しないなか、労働者はクレジットカードをもつようになり、サラ金にはまり、住宅ローンに追われるようになった。こうした新しい体制は「金融の民主化」あるいは「日常生活の金融化」と呼ばれている。この世界の最大のモラルは「借りを返せ」だ、と著者はいう。
 無から価値を生みだす投資家は正義であり、債務者は自己否定により罪を償わなければならないことになっている。だが、個人の負債は、はたして放縦が原因なのだろうか。いまや万人が負債をかかえている。
 カネを借りなければ、まともな生活などできないのだ。家族のために家を、仕事のために車を、パーティのために酒や音響システムを、友達に贈り物を、結婚式や葬式にカネをかけてはいけないのだろうか。じぶんたちも投資家とおなじように、無からカネをつくりだしてもいいはずだ。どんどんカードをつくり、どんどんローンを借りればいいのだ。
 だれもが罠にはまった。その結果が2008年のサブプライム危機である。だが、このとき政府が救済したのは一般市民ではない。金融業者は税金で救済されたのだ、と著者はいう。そして、一般の債務者には、自己破産という苛酷な仕打ちが待っていた。
 資本主義は実際に終わりそうだという見通しに直面した。にもかかわらず、われわれはよりましなオルタナティブを想像することができないため、いまあるものにひたすらしがみついている、と著者はいう。いや、むしろ、そうしたオルタナティブを封じるために、体制側は恐怖と愛国主義をあおり、銃(軍備)と監視の社会をより強化しようとしている。
 にもかかわらず、統制不能の破局が生じる可能性は低くない。
 だからこそ、われわれは民衆のひとりとして、歴史的な行為者になることを求められている、と著者はいう。そのさいの新しい理念はどこにあるのだろうか。
 コミュニズムや愛をいっても仕方ない。それらは別の新たなヒエラルキーを築くことになるだけだ。負債のモラリティは、好むと好まざるにかかわらず、世界をカネになるかどうかで見る視点を植えつけている。現在の経済秩序は、次々と世界を征服することによってしか、負債を返せないというモラルをつくりだしてしまった。そこに秘められているのは、自己破壊衝動でしかない。
 だとすれば、「いまは真の問いは、どうやって事態の進行に歯止めをかけ、人びとがより働かず、より生きる社会にむかうか、である」と、著者はいう。
 最後に著者は、国際的債務と消費者債務に特赦を求める。金銭はけっして神聖なものではない。借金は返さなければならないという原理は、はれんちな嘘だ、という。すべてを帳消しにし、再出発を認めることこそが、「わたしたちの旅の最初の一歩なのだ」と述べている。
 2011年出版の本書には、2014年の新版にさいし、みじかいあとがきが追加されている。
 本書の目的のひとつは「未来への視座」を拡張することにあった、と著者は書いている。そのために歴史をさぐることが必要だった。そして300年前においてさえ、「経済」なるものは存在しなかったという。
「現実に生きていた大多数の人びとにとって、『経済的事象』とは、政治、法、家庭生活、宗教と呼び習わされている幅広い事象の一つの様相にすぎなかった」。それがいつのまにか、経済、経済の世の中になってしまった。
 本書『負債論』は大きなインパクトを与えた。2011年のウォール街占拠運動を支える理論的根拠ともなった。学生の奨学金負債問題にたいしても、新たな運動を立ちあげるきっかけも与えた。
 2014年のあとがきで、著者はこう述べている。

〈「経済」と呼ばれるなにかが存在するという思想は比較的新しいものである。まさに今日、生まれた子どもたちは、もはや「経済」がなく、それらの問題がまったく異なった言語で検討される日を経験するだろうか? そのような世界はどのようなものだろうか? わたしたちの立っている現在の地点からは、そのような世界を想像することさえむずかしい。だが、もしわたしたちが、一世代かそこらのあいだに人類全体を一掃してしまう危険のない世界を創造しようとするならば、まさにそのような規模でもろもろの事柄を想像し直しはじめねばならないだろう。〉

 世界を想像し直すことを求めて、本書は終わる。難解だが、ラディカルな本だ。
 あらっぽいまとめにすぎないが、とりあえず、全体の内容をかいつまんで紹介してみた。

資本主義帝国の時代──グレーバー『負債論』を読む(10) [本]

 1450年ごろから大航海時代がはじまる。この時代の特徴は、貨幣が金銀へと回帰し、近代科学、資本主義、国民国家が台頭したことだろう。
 1347年以来、ペストが何度も襲来したことにより、ヨーロッパでは労働者人口が3分の2に激減していた。商業経済は衰えた。だが、皮肉なことに、経済が回復するにつれて、労働者の賃金は上昇し、祝祭的生活は全盛期を迎える。
 だが、その後、締めつけがはじまる。1500年から1650年にかけて、イングランドでは物価が500%上昇する。いっぽう賃金上昇率は緩慢だった。著者によると、この間、労働者の実質賃金はかつての半分以下になったという。
 いわゆる「価格革命」が生じていた。1520年から1640年にかけ、メキシコやペルーから途方もない金銀が流入したのが、価格革命をもたらす原因だった。だが、実際には銀地金はそっくり中国に流出していたのだ。
 中国では、1271年にモンゴル人の元王朝が成立したあとも、紙幣制度は維持されていた。その元が倒れると、1368年に明が成立する。明は農村共同体の復興を政策理念としてかかげ、農民、職人、兵士の身分を固定するいっぽうで、道路や灌漑、運河への大規模な投資をおこなった。そのため、農業への課税は強化され、逃散する農民が増大した。
 土地を追われた農民たちは行商や芸人、山賊、海賊などになる道を選んだ。鉱山に向かう者もいた。当初、政府はかれらを取り締まろうとしたが、ついにあきらめ、「市場を奨励しながら資本の過度の集中を予防する」という古くからの政策に立ち戻った。紙幣の発行は停止され、銀地金を公認通貨とし、民間造幣局にも現金発行権限が与えられた。
 その結果、市場は好景気に沸いた。中国の人口は激増したが、生活水準も向上した。問題は銀が圧倒的に足りなかったことである。まもなく、中国は銀の供給先をヨーロッパと新世界に求めることになる。
 ローマ時代以来、ヨーロッパは絹や香辛料などを手にいれるため、東方に金銀を輸出してきた。その構造は近代になっても変わらなかった。新大陸での金銀の発見は、たちまちヨーロッパに価格崩壊をもたらす。この時点で、中国からの需要がなければ、アメリカの植民地計画はただちに失敗していただろう、と著者はいう。

〈16世紀後半には、すでに新大陸の銀の90パーセントにあたるおよそ年間50トンの銀を中国は輸入していた。17世紀初頭にはそれが97パーセントにあたる116トンとなる。その銀への支払いのために、大量の絹や陶器、その他中国産の製品の輸出が必要になった。……このアジア貿易が新生グローバル経済にとってただひとつの最重要の要因となった。そしてこれらの金融手段を最終的に統制する者たち──とくにイタリア、オランダ、ドイツの商人、銀行家たち──が途方もない富を手に入れたのだった。〉

 ヨーロッパだけでは、世界全体の流れを理解できない。
 南北アメリカから大量の金属がはいったにもかかわらず、ヨーロッパでは通貨が不足気味だった、と著者は書いている。日常生活は割符や約束手形で間に合った。だが、税金の支払いには硬貨が必要だった。
 金銀を統制していたのは、政府、銀行家、大商人にほかならない。価格革命は、共有地の囲い込みをもたらした。それにより、農民たちは村から逃亡するか、強制的に海外植民地に送られるか、国の工場で働くかのどれかを選ばなければならなくなった。
「地金による貨幣の新体制は、ほとんど前代未聞の暴力の行使を通じてのみ押しつけることが可能になったものである」と、著者は述べている。
 ヨーロッパ人の進出した南北アメリカでは、疫病と鉱山での強制労働によって、先住民が次々と死んでいった。
 その前に、コルテスは1518年にアメリカ本土に侵攻し、世界史上最大の窃盗行為をおこない、各地を支配していた。
 著者はいう。

〈一方の、あらゆるリスクをも辞さぬ覚悟をもった恐れ知らずの冒険者と、他方の、すべての行動の基準を着実かつ正確そして冷徹に収益を増殖させることにおく計算高い投資家のあいだにみられるおなじ関係こそ、現在「資本主義」と呼ばれるものの核心部分に位置している。〉

 インディオたちに負債を押しつけ、かれらを負債懲役人にしていくヨーロッパ人のトリックは次のようなものだった。
「重税を要求する、支払いできない者に利子付きで金を貸す、それから働いて金を返せと要求する」──植民地では、こうした慣行が蔓延していた。
 教会が高利を禁止したのは、貨幣が人のモラルを破壊する力をもっていることを知っていたからだ。貨幣のもとでは、人間関係すら費用便益計算の問題に化してしまう。
 アジアでは、どうだったのだろう。
 東インド会社はまさしく「利潤以外のあらゆるモラルの命法を排除することを意図した形成物」だった、と著者はいう。自分のカネならともかく、会社のカネをおろそかにできないというのが、資本の冷酷で貪欲な倫理となった。

〈新たに台頭してきた資本主義的秩序のもとでは、貨幣の論理に自律性が与えられた。政治的・軍事的権力は、徐々にその貨幣の論理の周辺に再編成されるようになる。これこそが、国家と軍隊をそもそも背後に抱えていなければ決して存在しえぬ金融の論理だったのだ。〉

 ここで、著者は最初高利を批判する猛烈なキャンペーンをくり広げて人気を博したルターが、1525年の農民暴動をへたあと、大きく転回をとげたことを紹介している。
 ルターはいう。福音書が書きとめているのは理想であって、罪深い生き物である人間には法律が必要であり、高利はともかく、4、5パーセントの利率なら認められるべきだ、と。そして、人に借りたものは、返さなくてはならない、と。
 まもなく、プロテスタントのすべての宗派は、理にかなった利率は罪深いものではないという共通認識をもつようになった。
 こうして、「金銭の増殖はいまや不自然であるどころか期待されて当然のものとなった」。しかも異邦人にたいしてならば、高利も、いかなる搾取も許されるというお許しがでた。
 そこからは、ドイツ・ルネサンス期の「狂王」カジミール(1481−1527)のような人物も登場してくることになる。
 かれはカネを集めるために、自分の領民に暴虐のかぎりを尽くした。
 カジミールの狂気の正体を、著者は次のように解説する。
「その心理とは、じぶんのまわりに存在するものすべてを金銭に変えねばならないという狂わんばかりの焦燥であり、そしてそのようなことをせねばならない人間に貶められたことに対する憤怒と義憤である」
 これは現代人の狂気とも通じるのかもしれない。

 共同体は相互扶助から成りたっている。それは農村共同体でも、貴族社会共同体でもいえることである。信用が野蛮で計算づくのものになるのは、むしろ見知らぬ者どうしだからだろう。
 16世紀の庶民は金や銀の硬貨を使っていたわけではなかった。ふだんの買い物は、近所の商店が発行していた鉛や木でできた代用貨幣で間に合ったのだ。
 肉屋やパン屋、靴屋などからはツケで買うことができた。隣人どうしでは、たがいに貸し借りがあり、どこかの時点で、硬貨なり現物なりで、清算をすればよかった。現金でものを買うのは、通りすがりの旅人か見知らぬ人である。ただし、家賃と税金は現金で支払わねばならなかった。
 市場はほんらい相互扶助の拡張の場、言いかえれば日常的コミュニズムの場であって、現金取引の場ではなかった、と著者はいう。
 ホップズの時代になって、新しい哲学が生まれた。ホッブズが強調したのは「自己利益」という概念である。18世紀まで、人間生活のすべては自己利益によって説明できるという考え方は受け入れられなかった。
 だが、それは次第に受け入れられるようになる。そして、人を動かしているのは感情ではなく、合理的な計算だというとらえ方が、根づくようになる。愛は利益へと置き換えられる。その利益とは、けっきょくのところ「増殖をやめることのない貨幣の追求」以外のなにものでもなかった、と著者はいう。

〈資本主義の起源の物語は、市場の非人格的力による伝統的共同体の段階的解体の物語ではないのである。それはむしろ、信用の経済がいかにして利益の経済に転換されたかという物語であり、非人格的──でしばしば報復的──な国家権力の侵入によってモラルのネットワークが変容させられてゆく物語なのだ。〉

 資本主義は市場の外部、すなわち国家権力の側からやってくる。
 伝統的な村は、できるだけ司法制度に訴えるのを避けるきらいがあった。それは、当時の法律がはなはだ苛酷だったからでもある。
 だが、16世紀終わりに利子が合法化されるとともに、債権者が裁判所に訴える事例が一気に増えてくる。債務者監獄の恐怖が、だれをも苦しめるようになった。こうして硬貨がモラルの座に躍りでる。
 アダム・スミスは、だれもが現金を使うユートピアをえがいた。だが、それはスミスの時代の現実ではなかった、と著者はいう。
 スミスは「相互扶助のエートス」を切り捨てるとともに、「競争的で利己的な市場に形成に実際に貢献してきた暴力と赤裸々な復讐心」を無視している、と著者は批判している。

 次に論じられるのが、紙幣についてである。
 経済学者のあいだでは、貨幣とは金銀だという見解が一般的だ。だが、テューダー朝でもステュアート朝でも、民衆のあいだで用いられていたのは信用システムだった、と著者はいう。
 それでは、紙幣はどこから生じたのだろうか。為替手形が裏書されて流通し、そこから紙幣が生じたと解釈できるのだろうか、と著者は問う。
 そうではなかった。紙幣をつくったのも、やはり国家なのである。
「近代的金融手段の歴史そして紙幣の究極の歴史は、地方債発行とともにはじまった」と、著者はいう。ヴェネツィア政府は12世紀に市民に強制融資を課し、国債を発行した。この債券が、いわば紙幣として流通するようになった。
 国債は、いわば税の支払いの前倒しだった。そして、この負債が現金化されるときに、通貨が流通するという逆の流れが生じたのだ。
 16世紀には、政府のさまざまな債券が信用貨幣になっていた。著者はそこに「価格革命」の起源を求めている。
 新世界から到着した地金は、セビーリャからそのままジェノヴァの銀行家の金庫に向かい、そこから東方に送られた。銀行家は地金を担保にして、皇帝に融資をおこなっていた。そして、政府はこの融資をもとに、証書を発行していた。その手形がインフレを引き起こす要因になったというわけである。
 はじめて生粋の紙幣が発行されたのは、1694年にイングランド銀行が設立されたときである。その紙幣はもとはといえば、王による負債であった。ロンドンとエディンバラの商人は、フランスと戦争をする王に融資をおこない、その見返りとして銀行券を発行する会社設立の許可を求めた。著者によれば、「その銀行券は、事実上王が彼らに負っている額面の約束手形だった」。
 そのころのイギリスの通貨は、哲学者ジョン・ロックの提案──通貨を回収し、かつてとおなじ価値に再鋳造すること──によって大混乱し、イギリス社会は大不況に陥っていた。全体的に状況が改善されるようになるのは、紙幣と小銭が広範に利用できるようになってからである。そして、大混乱をへたあと、肉屋やパン屋などとの日常的取引も小銭でおこなわれるような世界が徐々に形成されていった。
 バブルの歴史もはじまっている。オランダでの1637年のチューリップ・バブル、1690年代のロンドン市場のバブル、1720年代の南海泡沫事件、そしてジョン・ローの設立したフランス王立銀行の崩壊(ミシシッピ計画の失敗)へと、人びとがカネに振り回される事件があいついだ。
 人が貨幣を信じなくなれば、紙幣はたちまち紙切れになってしまう。
 ホッブズは「市場は存在できるとしたら、約束を守り他人の財産を尊重するよう強制する絶対主義国家の庇護のもとでのみである」と信じていた。だからといって、国家があれば、このシステムがいつまでももちこたえるとはかぎらない、と著者は考えている。というのも、国家こそ、金融の混乱をもたらす元凶になりうるからだ。
 けっきょく資本主義とはなんだろうか。
 資本主義といえば、ふつう人は産業革命以降、とりわけ19世紀以降の産業資本主義を思い浮かべるかもしれない。だが、著者は、資本主義を形づける金融システムはすでにずっと前からできあがっていたという。
 資本主義は継続的で終わりのない成長を必要とする。企業も国家も成長しなくてはならない。そのためには5パーセント程度の経済成長が必要だとだれもが思っている。それは一種の強迫観念のようなものだ。
 そうした観念が生まれたのは、19世紀はじめではなく、むしろ1700年ごろを起点とする近代資本主義の黎明期だった、と著者はみている。そのときすでに信用と負債からなる巨大な金融装置が生まれていた。
 その装置のもとで、イギリスの東インド会社は、軍事力と貿易を背景にインドを制圧し、中国に触手を伸ばした。だが、その前に、スペインとポルトガルがつくりあげた世界市場システムが、すでにアメリカを征服し、アフリカからアメリカに奴隷を送りこんでいたのだ。
 その背景には、人を負債の罠にはめ、がんじがらめにしてしまう金融システムの構造があった。「資本主義はいかなる時点においても『自由な労働』をめぐって組織されていたことなどなかった」と著者はいう。
 さらに、こうも述べている。

〈わたしたちの資本主義の起源についての支配的なイメージは、あいかわらず産業革命下の工場で苦役するイングランドの労働者であって、このイメージからシリコンバレーまで一直線の発展としてたどることができると考えられている。ところがここからは、無数の奴隷、農奴、苦力、負債懲役労働者は蒸発してしまっているのである。〉

 いうまでもなく、著者が資本主義にいだいている第一のイメージは、無数の奴隷、農奴、苦力、負債懲役労働者をつくりだすシステムである。
 自由な労働者は、ユートピア的な構想のもとで描かれた理想像でしかない。著者によれば、マルクスの労働者ですら、一種の理念だった。「彼[マルクス]の時代のロンドンには、工場労働者よりも、靴磨き、娼婦、執事、兵士、行商人、煙突掃除夫、花売り娘、路上音楽家、服役囚、子守り、辻馬車の御者などの方がはるかに多かった」のだ。
 著者は、資本主義が「政治的自由、科学技術の進歩、大衆的繁栄」をもたらしたという見方に同意しない。それらの進歩は、資本主義とは別次元の話であって、資本主義がなくても生じえたことだという。
 それよりも、著者は、労使協調システムを構想した途端に、資本主義というシステムはがらがらと崩壊しはじめるという見通しをいだいている。
 その予感は「黙示録」と名づけられている。
 フランス革命は新しい思想をもたらしたとされる。社会は望ましい方向に変化し、社会の発展を政府が管理し、その政府の正当性を人民が認証するというのが、その考え方だった。
 ところが、その思想を深めているさいちゅうに、フランスの哲人たちがほんとうに懸念していたのは、デフォルトと経済崩壊によって、文明が破壊されてしまうのではないかということだった、と著者は述べている。

〈実際に破局が起こるとして、それはどんなものになるのか。貨幣は無価値になるのだろうか? 軍事体制が権力を把握し、ヨーロッパ中の体制がおなじようにデフォルトを強制され、将棋倒しに果てしのない野蛮と暗黒と戦争へと大陸を沈めていくのか? 多くの人びとは、革命自体のはるか以前にテロルの見通しを立てていた。〉

 そして、いまも資本主義はこうした時限爆弾の恐怖につきまとわれている、と著者は述べている。

中世をめぐる考察──グレーバー『負債論』を読む(9) [本]

 古代帝国の崩壊により、戦争と鋳貨と奴隷制の結びつきは解体され、新しい国家のもとで、経済生活は宗教的権威によって規制されることになる。ユーラシア大陸で貨幣は仮想信用通貨へと回帰する。それが中世(600−1450年)という時代の特徴だった。
 著者によれば、中世は西ヨーロッパだけに存在したわけではない。また、中世は暗黒時代だったわけでもない。それは、むしろ「枢軸時代」のさまざまな恐怖から解き放たれた時代だった。
 そうした中世の諸相を、著者はインド、中国、近西(イスラーム世界)、極西(キリスト教世界)にわたって横断的に論じようとする。近東ではなく近西、西欧ではなく極西と名づけるところに、著者独自の歴史観が感じとれる。
 インドではマウリヤ朝やグプタ朝のあと、諸王国の分裂がはじまり、都市が衰退するとともに、それまでの鋳貨は姿を消していった。
 とはいえ、寺院への寄進はつづき、寺院は集まった金(きん)を商業貸し付けに回すだけではなく、それらをみずからの祭壇や聖所、祭具などの材料に用いていた。だが、インドでは寺は次第に仏教ではなく、ヒンドゥー教へと変わっていく。
 カースト制ができあがった。バラモン僧は武人カーストと手を組んで、古くからの村落を統制する。難民たちは地主カーストに仕え、地主は村を統制した。さまざまな職業がヒエラルキー的な秩序のうちに位置づけられようになる。
 こうして、金属貨幣を使わなくても運営できる秩序が生まれた。インドでは労働者人口の大部分が、地主やそれ以外の債権者の負債懲役人として働いていた、と著者は記している。
 紀元1000年ごろから、インドはイスラームの版図にはいっていく。だが、カースト制は存続する。カースト制というのは、下位が上位に永遠に借りがあるという思想の上に成りたっている。カーストの等級は永遠に固定されていた。その階層間を商品やサービスが移動するとしても、そこには交換の原理はまったく働いていない。

 舞台は中国に移る。
 中国でも220年ごろに漢王朝が滅んだあと、都市の衰退と硬貨経済の縮小がみられた。北方の遊牧民からの脅威はつづき、農民反乱もくり返されていた。その動きが、また新王朝をつくる契機となっていく。
 著者は中国を基本的に儒教的官僚国家ととらえている。その国家は農民の安定をはかることを一義としながら、市場を促進することをめざしていた。市場では、投機にもとづかない正当な商業利潤は認められていた。
 中国について、著者はこう述べている。

〈歴史のほとんどを通じて、中国は世界で最も高い生活水準を維持してきたのだ。イギリスでさえも、それに本当に追いついたのはおそらく1820年代、産業革命の時代を十分すぎてのことである。〉

 これは現在、歴史家の共通の認識になりつつある。
 著者によれば、儒教は宗教というより倫理・哲学体系なのだが、そこに中央アジアの隊商路を通して、仏教が到来する。南朝の梁(502−557)や唐(618−907)の時代に、仏教は空前のブームを巻き起こした。商人や大地主は財産を寺に寄進した。あげくのはてに、成仏を願っての焼身自殺さえ横行したという。
 著者はいう。自殺を無私無欲の贈与と考えることは、利益という観念の対極にあるようにみえる。生とははてしなき負債の重荷を負うことにほかならない。だとすれば、そこから救済されるには、はてしなく寄進をつづけるか、みずからを滅却する以外にない。
 儒教が徳性の根拠を父親に求めたのにたいし、仏教は母親からの負債を返済することを重視した。そのためにも寄進が必要になった。なかには「経済的焼身自殺」と見紛うまでのものもあった。僧院の宝物庫は膨張していった。
 だが、行きすぎた仏教ブームにたいし、この段階で、国家の介入がはじまる。僧侶を弾劾する布告がだされた。845年には、全部で4600の僧院が取り壊され、26万人もの僧と尼僧が地位を剥奪され、同時に15万の奴碑が寺から解放されたという。
 その理由は経済的なものだ。僧院が財を貯めこむことによって、経済が破綻していたのだ。「金属の価格が高騰し、鋳貨は消失し、田舎の市場は動かなくなり、……地方の民衆さえも僧院への負債にはまり込んでいた」というのが、僧院取り壊しの理由だった。
 中国の商人のあいだで、仏教はこれほどまでに流行をみせていたのだ。
 前に述べたように、中世においては、金や銀が教会や寺院に集中し、貨幣はふたたび仮想的になっていた。
 中国では青銅製の小額面貨幣が使われつづけていた。とはいえ、地域の商店主や商人たちは信用売買を多用していたようだ。勘定計算は割符棒でなされていたという。
 旅行や輸送のために約束手形も考案されていた。宋時代には紙幣も発行されるようになる。金属貨幣論者は紙幣の発行を失敗とみなすけれども、紙幣の時代の中国が繁栄していたことを忘れてはならない、と著者は述べている。

 次に著者は、西方において、この時代に勃興していたのは、イスラーム世界だったと指摘する。ビザンツ帝国と野蛮なヨーロッパの王国からなるキリスト教世界は、辺境の地と化していた。
 イスラーム世界の学者たちは「アブラハムやモーゼにはじまる啓示宗教の伝統とギリシア哲学の諸カテゴリーを調和させるというおなじ課題に取り組んでいた」。
 著者はさらにこう述べている。

〈中世のほとんどを通じ、イスラーム世界は西洋文明の中枢であっただけでない。それは西洋文明の拡張する前線であり、インドへの途をつけ、アフリカとヨーロッパに勢力を拡げ、インド洋を越えて宣教師を送り、多くの改宗者を獲得していったのだ。〉

 イスラーム的統治の特徴は、法にたいしては厳格で、政府にたいしては懐疑的なことであった。法学者であるウラマーたちは、軍と権力を背景とする政府に、一定の距離を置いていた。
 政府は戦争をおこし、領土を拡張し、多くの富を獲得した。そして、兵士に気前よく金のディナールや銀のディルハムからなる硬貨をばらまいた。イスラーム世界には奴隷も流入し、かれらは兵士となっていった。
 イスラームの法典は、信者が奴隷になること、信者から高利をとることを禁止していた。だが、商業に否定的だったわけではない。商人がまっとうな利潤をとること、銀行家が信用業務をおこなうことは、むしろ推奨されていた。
 融資については、一方が資金を準備し、他方が企業を経営するという共同経営方式が好まれた。投資者は利潤の一部を受け取った。その分配原理を左右したのは、社会の評判である。
 こうした信頼のネットワークは、イスラームの伝播に大きな役割をはたし、やがてインド洋はイスラーム世界の湖となっていく。アデンからモルッカ諸島にいたる通商ルートが確立される。マラッカは国際商業都市になった。
 イスラーム社会において、遠方への冒険をおこなう商人は、いわば模範的な存在として尊敬されていた。そのことは、『千夜一夜物語』に出てくるシンドバッドの物語をみてもわかる。
「この商人崇拝には世界初の自由市場イデオロギーという以上にふさわしい名称がない」と、著者はいささか皮肉をまじえながら述べている。実際、著者によると、アダム・スミスはイスラームの文献から大きな影響を受けたという。
 ちがいがあるとすれば、分業についても、スミスが個の利益を強調するのにたいして、イスラームの経済学者が相互扶助に力点をおいたことだ。イスラームでは、市場の目的自体、コミュニズムの拡張ととらえられていた。
 ガザーリーやトゥースィーの著書には見るべきものが多く含まれている。かれらは「貨幣が純粋に仮想的な形式において使用されることがごくあたりまえになった時代」に、「貨幣の特性──象徴、抽象的尺度、それ自体の特性をもたぬこと、恒常的な運動を維持することによってのみ保持される価値など」について論じた、と著者は高く評価している。

 最後に論じられるのが「極西」のキリスト教世界である。
 中世のヨーロッパでも、貨幣は仮想的領域に撤退していった、と著者は書いている。「人びとはみな、ローマの通貨で、そしてのちにはカロリング王朝の『想像貨幣』によって経費の計算をつづけていた」
 通貨はひんぱんに徴収され、再鋳造されていたものの「ほとんどの日常的取引は、まったく現金に依拠することなく、割符や商品券、簿記、現物取引によっておこなわれていた」。
 実際の金銀は教会に集まっていた。集権国家の消失とともに、市場は教会によって統制されることになる。
 カッパドキアの聖バシレイオス(330頃—379)やミラノの聖アンブロシウス(340頃—397)は高利貸を非難する説教をおこなった。「同胞に利子をつけて貸してはならない」というのが、かれらの主張である。
 教会は利子を禁じていた。だが、富者が貧者にほどこしをおこない、貧者が富者に感謝を示すことには反対していない。こうして「かつての負債懲役人は、次第に農奴あるいは家臣に変容していった」
 だが、利子の禁止に例外もあった。ユダヤ人はキリスト教世界から排除されていたが、諸侯はその立場を利用した。ユダヤ人は商人や職工になれなかった。唯一認められたのが、金貸しという例外的な仕事である。諸侯はユダヤ人を保護すると称しながら、戦費支払いのためにユダヤ人からカネをしぼりとった。なかにはユダヤ人を金貸しと軽侮し、民衆にユダヤ人虐殺をあおりたてる諸侯もいた。
 著者はユダヤ人にたいする誤解を解くために、こう書いている。

〈金貸しについてユダヤ人の役割を過大にみてはならない。ほとんどのユダヤ人は、この商売とはなんの関係もなかった。金貸しを商売とする者も、なんらかの現物と引き換えに穀物や布地を貸すといった典型的な脇役だった。実際にはその多くはユダヤ人でさえなかったのだ。……1100年代には、ほとんどのユダヤ人金貸しは、すでに長らく北イタリアのロンバルディア人やフランスのカオール人にとってかわられていた。〉

 中世盛期の商業革命によって、ヨーロッパでは商業的農業や都市手工業者ギルドが台頭し、それによってヨーロッパは他地域と同じ経済水準に到達した。高利は禁止されていたが、中世末期には商業や私有財産までも否定する教理さえ巻き起こった。だが、そのいっぽうで、利子や利益を正当化する考え方も生まれてくる。
 おそらく利益や利子を正当化したのは、政治情勢の混乱と戦争だ、と著者はみている。ヴェネツィアやジェノヴァを動かしていたのは、冒険商人とガレー船団である。
 中世といえば、遍歴する騎士を思い浮かべるが、こうした騎士は「まさに略奪するものを求めて流浪する暴徒」以外のなにものでもなく、かれらこそ冒険商人の原型にほかならない、と著者はいう。

〈神秘の森アルビオンを放浪し、鬼や妖精や魔女や怪獣と遭遇する孤独な遍歴の騎士というイメージは、いったいなにに由来しているのか? いまやその答えは明白であろう。端的に旅する商人たち、つまり、なんの成果の保証もなく未開地や森林への孤独な冒険に出発した男たちじしんの、昇華されロマン化された像でしかない。〉

 そして後世、リヒャルト・ワーグナーは、歌曲『パルジファル』のなかで、こうした遍歴する騎士たちが求めたのが、聖杯であったことを暗示した。その聖杯とは、けっきょくなんだったのだろう。それは、不可視で無形であるにもかかわらず無限の価値をもつマネーにほかならなかった。

「枢軸時代が唯物論的な時代だったなら、中世はなによりも超越性の時代であった」と、著者はいう。
 この時代の特徴は宗教性である。とはいえ、中国やインド、イスラーム世界とちがって、キリスト教世界は極端に暴力的であり、また不寛容であった。
 手形や割符、紙幣というように、中世の通貨は抽象的で仮想的な形態をとっていた。貨幣をシンボロン(シンボル)、すなわち象徴と呼んだのはアリストテレスである。シンボロンとはある種の暗号や護符をさしていた。
 中世にいたって、シンボルは現実に対応する、知覚可能な具体的しるしを意味するようになった。そのシンボルは高次の存在からの「絶対的で、自由で、ヒエラルキー的な贈与」でなければならなかった。
 中国においては、紙幣とは割府であり、それは皇帝、さらに究極的には天から与えられたものだった。「金や銀が神聖なる場に集中するにつれ、日常的な取引はどこでも、主要に信用を通しておこなわれるようになった」
 それとともに、負債とモラリティに関する議論が発生する。ヨーロッパとインドではヒエラルキーへの回帰がおこった。中国では天の原理がはたらき、イスラーム世界では神の意志が顕現するとされた。
 中国とイスラーム世界は、市場の繁栄した豊かな社会だったが、近代資本主義の特徴となる金融・産業システムを生むことはなかった。つまり、カネがカネを生むシステムはつくられなかったのだ。
 これにたいし、法人、ないし会社をつくりだしたのはヨーロッパである。その原型は修道院、とりわけシトー修道会だった、と著者はいう。その修道院施設は、製粉所や鍛冶屋に囲まれ、羊毛をつむぎ、それを輸出する工場をもっていた。だが、それは資本主義にはほど遠い。
 資本主義が生まれるのは、特許状を受けた冒険商人組合、すなわち会社(カンパニー)が、武装し、海外で冒険をはじめたときだ、と著者は述べている。
 そこから西洋の主導する近代がはじまるのだ。

歴史のサイクルをたどる──グレーバー『負債論』を読む(8) [本]

 古代の奴隷制は中世にいたって廃止され、近代においてまた大々的に復活する。それはヨーロッパにかぎらず、インドや中国でも同じだった。
 すると、歴史には何らかのサイクルがあるのではないか。そこで著者は貨幣と負債、信用の歴史を中心に、ユーラシア大陸5000年の歴史を検証しようとする。
 硬貨の鋳造は、紀元前500年から600年ごろ、地域をへだてた華北平原、ガンジス川流域、エーゲ海周辺で、ほぼ同時にはじまっている。
 それから1000年、あらゆる国家が硬貨を発行するようになるが、それが紀元600年ごろに突然、停止され、それから信用システムへの回帰がはじまる。
 金銀の時代は戦乱の時代でもある、と著者はいう。これにたいし、信用システムは平和な時代しか成りたたない。
 そこで、著者は、仮想貨幣と金属貨幣の交替に沿って、世界の歴史を、次のように区分する。

(1)最初の農業帝国時代(前3500年—前800年)
(2)枢軸時代(前800年—後600年)
(3)中世(600年—1450年)
(4)資本主義時代(1450—1971年)
(5)現代(1971年以降)

 まず、(1)最初の農業帝国時代を取りあげてみよう。仮想の信用貨幣が支配的だった時代である。
 ここで検討されるのは、メソポタミア、エジプト、中国である。
 最初の都市文明がおこったメソポタミア(前3500年—前800年)では、信用貨幣が用いられていた。銀のシェケルを単位として、貸し借りは粘土の銘板に記録されていた。遠方交易をおこなう商人には、有利子の貸し付けがなされていた。王は祭典のさいなどに、たびたび負債の帳消しを宣言している。粘土板を壊せと。それによって、社会的混乱を未然に防ごうとしたのだ。
 エジプト(前2650年—前716年)も穀物を単位とする信用貨幣が用いられていたが、のちに銅や銀も使われている。国家は膨大な税を徴収し、戦争や土木工事に多くの報酬や給金を支払った。メソポタミアのような有利子貸し付けはみられない。貸し付けは相互扶助のかたちをとっていた。もし負債が支払えない場合は、債務者は法廷に引きだされ、棒打ち刑か、借金の2倍返済を命じられた。プトレマイオス家の王は、戦争で兵を集めるさいなど、債務の帳消しを命じて、囚人に恩赦を与えている。
 中国(前2220年—前771年)では、真珠や翡翠、タカラガイ、鋤、ナイフといったさまざまな社交通貨が用いられていた。これらは報償や贈り物、罰金の支払いのために用いられた。ほかに、著者は木や竹の棒に記した信用手段があったのではないかと推測している。『管子』には皇帝が貧窮におちいった民衆を救うため、貨幣を鋳造したというエピソードが記されているが、まだこの時代に鋳貨はあらわれていない。それよりも穀物倉(社倉)によって、民衆を救済するという考え方が強かった。

 つづいて、論じられるのが、(2)枢軸時代についてである。
 この時代、中国では孔子と老子、インドでは釈迦が生まれ、それからギリシアではソクラテス、プラトンが登場し、やがてキリストが誕生し、ムハンマドがあらわれる。その意味では、世界の思想的骨格ができた時代である。著者は哲学者ヤスパースの命名にしたがって、この時代を枢軸時代と名づけている。貨幣の分野では、鋳造貨幣(鋳貨)、すなわち硬貨が流通の基軸となった。
 ここで取り上げられる主な舞台は地中海世界、インド、中国である。
 世界ではじめて硬貨がつくられたのは、紀元前600年ごろ、リュデイア王国(現トルコ・アナトリア西部)においてである。丸い琥珀金(金と銀の合金)に記章が刻印されていた。その後、ギリシアの都市国家も貨幣を鋳造するようになる。ペルシア帝国は紀元前547年にリュディア王国を併合したあと、硬貨の製造に乗り出した。インドでも紀元前6世紀に銀の棒に刻印された貨幣が登場した。中国でもさまざまなかたちをした青銅が貨幣として用いられるようになった。
 戦争の盛んな時代には、多くの貴金属と宝石が略奪された。そして、国家は兵に支払うために、硬貨を導入した。軍事力の拡大は、鋳貨の広がりと連動している。
 古代ギリシアでは、民衆が貴族に対抗して立ち上がり、負債懲役制の廃止と土地の再分配を求めた。負債懲役制の問題を解決し、自由農民による土地所有を可能にするためには、戦争によって植民地を獲得することが求められた。都市国家は鋳貨を発行し、戦士でもある農民に貨幣を配った。金や銀は戦争で捕虜にされた奴隷によって採掘されており、造幣局は神殿に置かれていた。貨幣は市場の発展をうながした。
 軍事=鋳貨=奴隷制複合体ができあがった。アレクサンドロスの遠征は、古代の信用制度を一掃し、新たな貨幣経済を生みだした。戦利品は鋳貨と化し、兵士に配分された。
 ローマもこの方式を引き継ぐ。ローマで硬貨の鋳造がはじまったのは紀元前338年のことである。「最盛期におけるローマ帝国全体が、貴金属を取得し、それを硬貨に鋳造し軍隊に配分する巨大機械」となった。被征服民には、硬貨を日常的取引に使い、硬貨で税を納めるよう通達がだされた。それでも、ローマ帝国内で硬貨が使用されていたのは、イタリア半島といくつかの主要都市、それに軍団が配置されていた辺境にとどまっていた。
 軍事的拡大によって債務危機を回避するには限界があった。債務危機が再燃するたびに、人びとは農奴や隷属平民の立場に追いやられた。「帝国末期には、……地方在住のほとんどの人びとは、実質的に、富裕な領主の負債懲役人と化していった」という。自由農民がいなくなったため、軍は辺境の蛮族ゲルマン人の徴兵に依拠せざるを得なくなる。それがローマ帝国崩壊の引き金となった。
 インドでは紀元前600年ごろ、ガンジス川流域に都市文明が出現した。その王国や共和国は、それぞれ銀と銅の鋳貨を発行していた。鋳貨の目的は、軍を保持することにあった。そのなかでもマカダ国が優位に立ったのは、ほとんどの鉱山を手中にしていたからである。その後のマウリヤ朝時代に記された『実利論』にはこう書かれている。「国庫は鉱山を源とする。国庫より軍隊が成立する。……領土は国庫と軍隊により獲得される」
 マガダ国は歩兵20万、騎兵2万、ゾウ4000頭の軍をもち、野営のさい、多くの下級商人や売春婦、従者をともなった。アレクサンドロスの部下たちは、マガダ国の軍と正面衝突するのを恐れたという。
 著者はこう書いている。

〈かくして、戦争から生まれた市場経済が徐々に政府によって乗っ取られていった。この過程によって通貨の拡大は抑制されるどころか、2倍にも3倍にもなったようだ。すなわち、軍事的論理が経済全体にまで拡大されたのである。政府は、穀倉、工房、商館、倉庫、牢獄を計画的に設置し、有給の役人を配置する。次に、あらゆる生産物を市場で売りに出し、兵士や役人に支払われた銀貨を集め、ふたたび王室の国庫に戻すのである。その結果は日常生活の貨幣化であった。〉

 政府は多くの戦争捕虜を管理下におき、厳しい労働にあたらせていた。
 アショーカ王の時代(前273—前232)に、マウリヤ朝はインドとパキスタンの全土を支配するようになった。アショーカ王は仏教に帰依したことで知られる。だが、その王国は長つづきせず、軍の衰退は商業と鋳貨の衰退へとつながっていく。
 前475年から前221年までの中国は、戦国時代を迎えていた。その後、秦が全土を統一し、すぐに漢に取って代わられる。
 中国の哲学が誕生したのは戦国時代である。中国でも、政治情勢が混沌とするなか、職業的軍隊が登場し、その支払いのために鋳貨がつくられた。ただし、中国の貨幣は金貨や銀貨ではなく、青銅の貨幣で、まんなかに穴があき、数珠つなぎできるようになっていた。
 ここで、著者は中国の経済に深入りするのを避けて、むしろ枢軸時代に誕生した思想の特徴を追っている。
 この時代にいったいなにが変わったのだろうか。
 見知った者どうしの贈与ではなく、見知らぬ者どうしの現金取引がはじまったのだ。

〈そのようなときには売買される物品の来歴にこだわらないほうが無難であるし、いずれにせよ継続的な人格的関係をつくることに関心をもつものなどもいない。ここでは取引というものは、端的にある量のXがどの量のYに相当するかを定める計算と化している。……それが「利益」や「優位性」のような概念について語りはじめるのを可能にするのである。〉

 商業的利潤という考え方は、すでに孔子の時代に生まれている。
 そして、次第に名誉よりも利や益が重んじられるようになる。
 法家は国に黙って従うことこそ民衆の利になると広言し、墨子は戦争自体、利のない活動であることを示そうとした。
 儒家も道家も、主張のちがいはあるが、「それぞれが市場の論理を反転させた鏡像を提示しようとした試み」だった、と著者は述べている。
 さらに著者は、「枢軸時代の精神性は唯物論を基盤に構築されている」と述べている。
 リュディア王国ではじめてつくられたあと、鋳貨はたちまちイオニア地方に広がっていった。とりわけギリシアで鋳貨を生みだしたのはミレトスだといわれる。そこはまたギリシア哲学発祥の地でもあった。哲学者たちは存在するすべての物質的基盤には、それ自体は知覚不能だが、純粋に抽象的な実体があると考えていた。
 貨幣のもととなる黄金は、まさに抽象でもある物質的実体だった。それは金属の塊でありながら、それ以上のものだった。イギリスの古典学者シーフォードは、硬貨は一片の金属であるけれど、「特定の形状を与え、言葉と像を刻むことによって、それを一片の金属以上のものにすることに、市民共同体は合意した」と述べている。
 硬貨の思想には、一種の唯物論哲学が横たわっている、と著者は考えている。物質がすべてというわけではない。「頭のなかにある観念、記号、紋章、モデルは、物質に刻印され、物質上に構築され、物質に押しつけられ、物質を介して現実のものとなる」というのが唯物論の考え方だ。
 こうして、硬貨には、都市の神の紋章が刻まれ、ある種の集団的約束のもとに、市民はたがいに次の保証を与えることになった。「当該の硬貨が公的負担の支払いにさいして受領されるのみならず、だれもがどんな負債に対してもその硬貨を受領し、それゆえだれがなにを欲するときもその硬貨が使用できること」
 問題は硬貨の保証が都市の内部にかぎられることだった。都市の外に出て、無縁の地に出れば出るほど、硬貨はただの金属のかたまりへと変貌してしまうのだ。遠方交易はその硬貨の難点を乗り越えねばならなかった。
 硬貨と市場の出現は、新たな負債を生みだし、これまでの人びとの生活を一変させていった。同時にそのなかから人間性を超越した神や倫理、徳性を求める教えもあらわれ、それが人びとの心に根づいていく。
 物質的で利己的な市場社会のなかから、慈愛を説く世界宗教が生まれてくる。
 市場と宗教。それについて、著者はこう書いている。

〈純粋な貪欲と寛大とは相補的な概念なのである。どちらも他方抜きでは想像することすらできない。双方とも、そのような純粋かつ目的の限定されたふるまいを要求する制度的文脈においてのみ生じえたのだ。そして、双方とも、非人格的で物理的な銭貨が姿をあらわす場所であればどこでも、そろって出現しているようにおもわれる。〉

 宗教は単なる現実逃避に終わらなかった。「少なくとも、彼岸的な宗教は、根本的なべつの世界を垣間みさせてくれた」。そして、事態は変化しはじめる。戦争は批判され、奴隷制は衰弱し、負債のもたらす社会の崩壊に人びとは危惧を覚える。こうして市場社会のもたらした膨張と混乱を収拾するために、新しい時代、すなわち中世が登場する。著者はそう理解している。

貨幣への軽蔑と欲望──グレーバー『負債論』を読む(7) [本]

 奴隷制はアフリカを一挙に市場社会(商品世界)へと巻きこんでいった。イギリスが奴隷貿易を廃止するのは1807年のことである。その後も、リンカーンが奴隷制廃止宣言を発するまで、アメリカでは奴隷制がつづく。16世紀から19世紀にかけてが、奴隷貿易の全盛時代だった。
 だが、奴隷制の開始は、はるか古代にさかのぼる。
 かくも長く奴隷制がつづいたのはなぜか。著者はそこには名誉と不名誉に関する意識がからんでいるという。
 人が奴隷になる理由はさまざまである。戦争で捕虜になる、誘拐される、犯罪で処罰される、父親に売却される、あるいは自発的にみずからを売却する、などなど。
 とりわけ、負債による奴隷が増えるのは、社会が崩壊する兆候をあらわしていた。
 エジプト人社会学者、アル・ワヒードは「人間が奴隷になるのは、さもなければ死ぬよりほかない状況においてのみである」と述べている。奴隷になった人は、死んだものとみなされる。
 奴隷にとって、奴隷になることが不名誉であることはいうまでもない。だが、主人にとって、奴隷をもつことは名誉であった。
 主人は「人間を商品に還元するために必要とされる暴力」を有している。
 その暴力とは貨幣にほかならず、貨幣の発生は奴隷制と深くからんでいる、と著者はいう。
 ここで、著者は中世初期のアイルランドで売買されたクマルと呼ばれる少女奴隷に言及する。
 クマルは負債を清算するさい、貨幣単位として用いられた。たとえば7クマル=7人の少女奴隷というように。
 中世アイルランドでは、貨幣経済が浸透していない。
 領主は職人や医師、詩人、判事、芸能人などに、何らかの報酬を支払っていた。農民は領主に食糧を納め、領主はたまに開かれる宴会で、それを豪勢にふるまった。農民は食べるものをそれぞれ分かちあっていた。必要な道具や家具、衣服があれば、職人に頼んでつくってもらった。
 人びとは身分に応じて、「名誉代価」をもっている。名誉を傷つけた場合、人はその代価を支払わねばならない。加えて、殺人や障害にともなう代価もあった。王の名誉代価は7クマルまたは牛21頭とされていた。その取り決めは、じつにこまごまとしている。
 メソポタミアでも、代価は名誉と関連していた。戦争と徴税が連動するなか、メソポタミアでは、次第に家父長制が進展し、花嫁には家畜と銀で代償が支払われるようになっていた。
 花嫁は奴隷ではない。だから売ることはできなかった。ところが、夫の債務が重なると、事態は一変し、妻子を売りにだす事例もでてくる。
 遊女たちの多くは「主人によって労働を強いられた奴隷、あるいは宗教的な誓約や負債をまっとうしようとする女、借金のかたとなった女、さらに借金の束縛からは逃れたが行き場のない女であった」。
 メソポタミアの売春の起源を、著者は、農民の窮乏化を背景とした債務奴隷の発生に見ているようだ。
 いずれにせよ、花嫁代価と債務奴隷が、女性の地位を低下させる要因となった。
 つづいて、著者は古代ギリシアに目を転じる。
 ホメロスの叙事詩の世界は、まさに英雄時代だった。そこは、交易を軽蔑する英雄的な戦士たちが、名誉を追い求める世界だった。
 ところが、市場が勃興すると、様相が変わってくる。
 ギリシアでは都市国家がそれぞれ貨幣を鋳造し、それを兵士への支払いにあてるいっぽう、罰金や税の支払いのために用いていた。
 だが、硬貨はすぐに日常的取引にも使用されるようになる。そして集会の場だったアゴラが、市場の役割もはたすようになった。
 市場経済がはじまると、債務危機におちいる人も増えてくる。これにたいし、ギリシアの諸都市はしばしば恩赦を実施し、債務者の借金を棒引きにするとともに、かれらの子どもたちを海外に送りこんで、軍事的植民地を拡張した。
 こうした領土拡張は奴隷を急増させた。市民は奴隷制度に乗っかって、都市の政治的・文化的生活に参加するようになった。
 貴族たちは金銭と市場を軽蔑していた。「貴族たちは、贈与と気前のよさと名誉の世界をあさましい商業的交換の上位に位置づけた」という。
 意外なことにアテナイでは女性の地位は低かった。女性たちの名誉は、性的な面においてのみ規定されていた。「ペルシアやシリアの女性たちとは違って、民主政アテナイにおける女性たちは公共の場に出るにあたって、ヴェールを着用するものとされていた」という。
「かくて貨幣は、名誉の尺度から転じて名誉ではないすべての尺度と化してしまった」と、著者は書いている。ギリシアにおいては、貨幣はいわば「名誉剥奪の象徴」となってしまったのだ。つまり、カネは不名誉と連動していたのだ。
 その背景には、戦士もまた捕虜になれば、たちまち奴隷の境遇に落とされるという現実があった。
 万人に共有され、なんでも買うことのできる貨幣は、貴族にとって軽蔑の対象でありながら、同時に欲望の対象でもあった。
 著者はこう書いている。

〈こうしてみると、貨幣は欲望の民主化を持ち込んだといえるかもしれない。だれもが貨幣を欲するかぎり、身分が高かろうと低かろうが、そのおなじふしだらな物体を追い求めるというわけだ。だがそこで終わらない。ますます欲しくなるというだけでなく、それが必要になってしまうのである。〉

 ギリシアでは紀元前600年ごろ、商業的市場が勃興するにつれて、債務危機が深刻化するようになった。多くの農民が借金を重ね、そのあげく、富裕者の奴隷に身を落とした。なかには海外に売り飛ばされた者もいた。こうした事態が社会的な騒乱や公然たる革命を招く場合もあった。
 貨幣の出現した社会では、それまでの贈与と返礼という共同体の仕組みが崩れて、下手をすると略奪的暴力に転じかねないシステムが発生したのだ。貨幣はそのシステムの中心であり、いわば計量化されるモラルとなりつつあった。
 プラトンは航海中、とらわれの身となり、アイギナ島で競売にかけられた。そのとき、偶然エピクロス派のリビア人哲学者がプラトンをみつけ、身代金を払って釈放してくれた。プラトンはお金を集めて、この哲学者に返済しようとするが、かれは受け取らない。そこで、プラトンは、この代金をアカデメイアの土地の購入にあてたという、有名なエピソードがある。
 だが、プラトンはふしぎなことに、このリビア人哲学者にまったく言及していない。おそらく、プラトンは二重の意味で屈辱の経験を頭から追い払いたかったのかもしれない、と著者は推測している。以来、プラトンの哲学において、貨幣的なもの、すなわち権力や利益は、極力排除され、名誉がなによりも重んじられるようになっていくのは偶然ではない、と著者は考えている。
 ここでも貨幣が名誉と不名誉の問題にからんでいることがわかるだろう。
 最後に論じられるのが、ローマについてである。
 ローマ法には財産の私的所有権に関する規定がある。それは実際には、単なる物の所有権を意味するのではなく、奴隷にたいする所有権を意味していた。
 ローマでは「[征服による]奴隷の流入の増大によって、やがて、ほどほどに豊かな家庭さえも奴隷を所有することが可能になった」というような状況が生まれていた。家庭の維持には、奴隷が欠かせなくなっていたのである。
 ローマの奴隷制が奇妙なのは、ときに奴隷のほうが主人よりも知的にも勝れていたことが多くみられたことである。それでも戦争捕虜である奴隷にたいして、主人は絶対的な権利を有していた。
 ローマでいうリベルタス(自由)とは、奴隷でないことを意味していたが、リベルタスは次第に主人の力能、すなわち望むがままにことをおこなうことのできる能力を意味するようになった。そして、ローマの皇帝たちは、みずからの支配権のおよぶ領域で、絶対的自由を有すると主張するようになった。
 自由とは権利というより権能のことだった。これは逆説中の逆説だった、と著者はいう。自由は財産であり、それは売り渡すことができる。奴隷がみずから身体を売り渡すように、労働者は賃金によって資本家に自由を貸与する。古代ローマ時代と同じように、われわれは所有者であると同時に、所有される事物である、と著者はいう。
 こうして著者は、人が人として存在する「人間経済」が解体し、人間が交換の対象となりうる貨幣経済の時代が出現したと述べる。そこではかならず暴力が介在している。こうした事態は、日常的な市場が存在しない場合でも発生しうるが、現在の商品世界でも、暗黙の暴力が経済を支配している、と述べている。
 これでようやく半分ほど読み終わったことになる。難解な本なので、はたしてどこまで理解できたか、はなはだ心もとない。
 これからは後半の歴史編となる。よく理解できないものの、手探りで少しずつ進んでいくことにしよう。

奴隷制をめぐって──グレーバー『負債論』を読む(6) [本]

 著者は、経済学がすべての経済的経験を交換に還元してしまっていることを批判する。そのため経済学は「殺菌された見方しかできなくなって」いる。
 たとえば、かつてアイルランドでは、賠償は貴金属や牛で支払われていただけではない。ほかに、無賃で働かされる女性もいた。それはクマルと呼ばれていた。
 無賃で働かされる女性は、事実上の女奴隷だった。女奴隷、すなわちクマルは貨幣でもあり商品でもあった。著者はクマルのことを、負債懲役人あるいは債権奴隷とも呼んでいる。
 経済には暴力がつきものだった。
 ここで、商品世界の経済以外に目を転じてみよう。
 北アメリカのイロコイ族のウォンパム(貝殻数珠)や、アフリカの布、ソロモン諸島の羽根などは原始貨幣だとされている。だが、それは、なにかの売り買いに用いられるわけではない。それは人と人との関係を取り結ぶために用いられる。だから、現在の貨幣とはまるで趣がちがう。
 そうした原始貨幣を著者は「社交通貨」(改訳)と名づけ、原始貨幣が使用されている経済を「人間(じんかん)経済」と名づける。商業経済は比較的新しく登場したもので、人間経済の時代は商業経済(商品世界)の時代より、はるかに長い。
「人間経済」では、貨幣はたとえば結婚をとりもつために使われる(結納品のようなものだ)。それを贈られた側は、娘を花嫁として差しだす。花嫁代償として支払われる貨幣は、真鍮棒であったり、クジラの歯であったり、タカラガイであったり、牛であったりとさまざまである。
 ここでは、あたかも花嫁が商品として売りにだされているようにみえる。だが、そうではない。これらの貨幣は「どうやっても支払い不可能である負債」が存在することを示す証拠として贈られるのだ。その返礼は、折につけ果たされねばならない。
 社交通貨は、血の代償として支払われることもある。カネを払っても、人の命の賠償がすむわけではない。ただ、貨幣を渡すことによって、相手にわびをいれ、負債のあることを認め、今後もその解消に努めることを表明するのである。それは大きな借りがあることの証拠のようなものだ。
 人間経済では、貨幣は「二者のあいだの関係のネットワーク」にほかならない。だれもが、なにかの負債を負っている。したがって、社会とは「負債そのものである」と、著者はいう。
 ここで、著者はレレ族の血債について論じる。
 アフリカのベルギー領コンゴに住んでいたレレ族は、トウモロコシやマニオクの栽培と狩猟で暮らしていた。ほかに、ラフィア布と呼ばれる布をつくっていた。
「布は周辺の人びとの贅沢品と交換されたし、地域内部では、一種の通貨として機能していた」。しかし、この布で食料や道具が買えたわけではない。布はあくまでも贈り物として、人間関係にはなくてはならないものだった。布は治療師への報酬や、年長者をわずらわせたお礼として手渡された。結婚には、布だけではふじゅうぶんで、カムウッド棒という稀少な木材が必要だった。
 男たちはつねに血債におびやかされている。出産で女が亡くなるのは不貞によるもので、赤ん坊が亡くなるのも、だれかのせいである。そのときは、血債を支払わねばならない。血債は若い女によって支払われるから、男たちはつねに人質(ポーン)を確保しておく必要があった。いのちを救われた場合も同じである。いのちを救ってくれた男に、たとえば自分の姉妹を人質として差しださねばならなかった。
 これは男による女の支配にほかならない。だが、女が人質になりたくない場合は村妻となる方法があった。村全体で保護する妻のことである。彼女は優遇され、若者組の男たちと性的関係をもった。「彼女は村落全体と結婚していることになっていた」
 しかし、血債が部族間の抗争を生み落とすこともある。だが、戦闘を避けるために、貨幣(たとえば100枚のラフィア布と5本のカムウッド棒)による解決がはかられたとしよう。そのとき、人の値打ちは、貨幣によって測られているわけだ。それがうまくいくかどうかはわからない。
 ここで、著者はこう述べている。

〈[人間経済においては]貨幣はほとんど常に、第一に人間を装飾するために使われる物品からあらわれている。飾り玉、貝殻、羽根、犬や鯨の歯、そして金や銀は、こうした使用法でよく知られている。これらのものは、人びとを飾りより美しくみせる以外にはなんの役にも立たない。……例外(たとえば牛)も存在するが、概して、政府それに次いで市場が介入したときはじめて、麦やチーズ、タバコや塩が、通貨としてあらわれたのである〉

 人のいのちはお金には代えられない。それは別のいのちによってしか支払うことができない。
 貨幣で支払えないとすれば、どうするか。ナイジェリアのティブ族は共同体のネットワークからはずれた女奴隷を買って引き渡すことで、問題の解決をはかろうとした。
 ティブ族の経済は3層から成りたっている。日常的な経済は女たちが管轄し、オクラや木の実、魚などを贈与しあっている。男たちはトゥグドゥと呼ばれる布と、輸入される真鍮棒を扱い、それを政治的な駆け引きや呪術の儀式、秘密結社の参加費などに用いている。それらは雌牛や異邦の妻を購入するためにも使用される。そして、最後に男たちによる女性への後見制度(男による女の支配)があった。
 ティブ族の男たちをおびやかしていたのが「人肉負債」である。「強心臓」になるには、ツァヴを増強させなければならず、そのためには人の肉を食べる必要があるとされていた。ティブ族がじっさいに食人族だったわけではない。だが、強心臓の男は、秘密結社にはいって、人を食ったのだと思われていた。人を食った者は、力とカリスマをもつ怪物となり、大きな富を得るが、常に負債に追いかけられ、ついには自滅へといたる。これが人肉負債の結末である。
 この伝説には、人間経済から貨幣経済に移行する過程が表象されている。
 ところで、アフリカといえば、近世の奴隷制度を思い浮かべるだろう。
 アフリカの奴隷売買はどのようにして発生したのだろうか。
 1750年代、ティブ族は奴隷売買に巻きこまれるのを避けるため、奥地へと移住し、銅棒を一般通貨としないようにしていた。だが、すでにナイジェリアでは、イギリスでつくられた銅棒が日常的な通貨として利用されるようになっていた。
 ナイジェリアのクロス川河口にあるカラバルでは、何万人ものアフリカ人が鎖につながれ、大西洋の向こう側に輸送されていた。奴隷貿易の時代に輸送された奴隷の数はおよそ150万人といわれる。かれらは債務のために身柄を押さえられていた。
 ヨーロッパの商人はナイジェリアに、大量の布地や鉄製品、銅製品、飾り玉、鉄砲などを持ちこんでいた。それらにたいする支払いは、銅棒によってなされる。だが、商人たちはアフリカの取引相手に商品を委託する前に、担保として人質を要求した。これはアフリカの風習を悪用したものだ。
 人質狩りが横行する。「襲撃がひんぱんに生じ、単独で旅をする者だれもが、徘徊する盗賊団に誘拐され、カラバルに売られる危険性に直面していた」。さらに、因果は回って、次は、誘拐者たちが狩りだされ、奴隷として売られていく番だった。その後、秘密結社が債務を取り立て、債権者が武装集団をひきつれ、債務者の村を襲撃し、人や物、家畜などを奪うこともあった。
「しばしば債務者は、じぶんの子どもや従僕を、次々に人質に出すよう余儀なくされ、しまいにはじぶん自身をさしだすよう強いられた」。こうして人質と奴隷との区別は次第になくなっていく。
 こうして、人質を確保し、人間の生命を守るはずの「人間経済」が、こんどは逆方向に作動しはじめ、人間存在を破壊する手段と化していった。
 奴隷売買はアフリカだけでの現象ではない。それは東南アジアでもおきている。タイでは貧しい兄弟が、兄弟のひとりの結婚費用を、スポンサーに工面してもらう代わりに自分や家族を抵当にいれるという風習があった。かれらはスポンサーにこきつかわれても、がまんしなければならなかった。
 それは17世紀から18世紀にかけてのバリ島でも同じだった。退嬰的でアヘン中毒のバリの貴族たちは、臣民を奴隷として外国人に売り払うことで富を築いた。闘鶏で債務を負った多くの農民が、妻や子どもたちもろともジャワに売られていった。
 お金は人には代えられないというのが、「人間経済」の特徴だった。だが、貨幣経済になって、人をものとして扱うには、継続的で組織だった暴力の介在が欠かせなくなった、と著者はいう。
 アフリカで起きたことは、たとえてみれば次のようなことだ。

〈突然、わたしたちの社会に、無敵の軍事技術によって武装したとてつもなく豊かで理解不能なモラルの体系をもった宇宙人があらわれ、人間の労働者をつれてくれば1人あたり100万ドル支払うと、にべもなく告知する。こうした状況を利用して儲けにありつこうとする悪辣な者は少なくとも一握りは常にいるものだ──そしてほんの一握りで事足りるのである。〉

 その手口は、まず負債を払えというところからはじまる。戦争と征服と奴隷制の遺産は消え去っていない。われわれはいまも負債社会のなかにいる、と著者は論じている。

人間関係の3原理──グレーバー『負債論』を読む(5) [本]

 人の生活を支えているモラルの基盤に立ち返ってみよう、と著者はいう。
 そもそも、著者は、負債は返さなければいけないというモラルに疑問をいだいている。マルセル・モースが1925年に発表した画期的な論考『贈与論』以降に展開された人類学の膨大な論考にも批判的だ。そこには、けっきょくのところ、贈与には返礼をせねばならないという了解がしみついているからだ。
 贈与論からは互酬性という概念が導かれた。すべての人間関係は互酬性にもとづいているというわけだ。だが、それはほんとうだろうか。たとえば、親子の関係は、互酬性などでは割り切れないようにみえる。
 じつは、旅行記などには、一方的な贈与を強制されたという話が多々残っている。「だれかの命を救うと永久にその人物の面倒をみる責任がある」という話がまことしやかに伝えられる。それは互酬性とは正反対だ。いったん関係が生じた以上、その関係は永遠の贈与によって持続されなければならない。そういう考え方もありうるわけだ。
 ここで著者は人間関係のあり方を(1)コミュニズム、(2)交換、(3)ヒエラルキーの3つの位相に沿って考察している。
 それぞれをみておくことにしよう。
(1)コミュニズム
 コミュニズムという言い方は誤解を招きやすい。そのことを、著者も認めている。ほんらい、そこには原始共産制へのあこがれがひめられていた。それを政治的に追求しようとしたところから、あやまりが生じた。
 人間関係にはコミュニズムの原理がすでに含まれている、と著者はいう。「ちょっと手伝ってくれない」といわれて手伝うのが、コミュニズムである。日本でいえば、結い(ユイ)の思想だ。助けあいの精神といってもよい。
 人間関係の根底にコミュニズムがなければ、コミュニケーションは成りたたない。助けあいを拒否するのは、相手を敵とみなすことと同じである。
 タバコの火を借りたり、道をたずねたりする。こうしたささやかなやりとりができなければ、社会的関係はきわめて希薄なものとなってしまうだろう。
 人類学の調査によると、平等社会では、食物などの必需品を分けあう習慣がよくみられる。釣りや狩猟の獲物は惜しみなく分かたれる。家をつくったり、葬儀をおこなったりするときも、助けあいの精神が発揮される。
 こうした社会では、現在でもみられる家族の原理が、集団全体に適用されているということもできる。
 ここにみられるのは厳密な互酬性の原理ではない。収支決算は求められていない。おどろくべき寛大さが行き渡っている。それはときに交換のルールを無視するところまで行き着く。
 食物を共有する者は、たがいに傷つけてはならないとされている。人間どうしの関係が緊密なこうした社会では、「相手の状況を完全に無視することはむずかしい」。だから、利益をしぼりとるようなビジネスは成り立ちにくい、と著者はいう。
(2)交換
「交換とは……相対する双方が、それぞれ与えたぶんだけ受け取るといったやりとりのプロセス」である。厳密な等価性があるわけではない。ただ等価性にむかうやりとりの不断のプロセスがみられる。
 贈与交換でも、そこに見せびらかしの要素がはいってくると、ポトラッチのように、激しく寛大さを競う儀式が発生する場合もある。
 著者は交換の特徴を非人格性に求めている。交換の場に立ち会う買い手と売り手は、たがいをよく知っているわけではない。そこではいわば芝居がくり広げられ、取引が終われば、原則的には、それですべておしまいとなる。贈与のやりとりのように、人間関係がずっとつづくわけではない。
 交換には等価と自律性が内包されている、と著者はいう。金銭が支払われ、交換が完了すれば、両者はともに見知らぬ者どうしとして立ち去ることができる。
 だが、贈与交換というヴァリエーションも存在する。18世紀のニュージーランドでのことだ。イギリス人の入植者がマオリ族の戦士が身につけた翡翠の首飾りをほめた。すると、マオリの戦士はそれを贈るといいはり、それを渡したあと、しばらくたってから、入植者のコートや銃をほめたたえるために戻ってきた。「贈り物を受け取ってしまえば、それは暗黙のうちに贈り主に[受取人に等価のものを要求する]権限を与えることになる」と著者は記している。
(3)ヒエラルキー
 もうひとつの人間関係がヒエラルキー(上下関係)である。そこでは互酬性とまったく異なる原理がはたらく。
 ヒエラルキーはたとえば征服によって生じる。征服によって領主は村人に保護を与え、これにたいし、村人は領主に食糧を差しだす。そうした関係は一度きりでは終わらず、しだいに慣習に組みこまれ、さらに義務とみなされるようになる。
 こうした取り決めが、カーストの論理へ転化されることもある。王との関係で、すべての人びとが集団としてランクづけされるのだ。
 ヒエラルキーの関係においては、富のやりとりの相対的価値は数量化できない。たとえば領主の統治の値段がいくらとか、司祭の祈りの値段がいくらとはいえないだろう。逆に、貴族が詩人や音楽家を支援しても、それに応じて、どれだけ値打ちのある作品ができるというわけでもない。
 ヒエラルキーの例外は、そこから再分配が生じることである。パプアニューギニアの「ビッグマン」はそういう存在で、かれらは大宴会でばらまく巨額の富を集めるために、日々、人びとを動かすことを認められている。
 著者によれば、社会の平等性の度合いは「おもてむき権威的な立場にある人物が、たんに再分配の経路になっているだけか、それとも富を蓄積するために自身の立場を利用できるのか」によって決まってくるという。だから、ヒエラルキーは、かならず再分配をもたらすともいえない。
 ところで、こうしたコミュニズム、交換、ヒエラルキーの3原理は、それぞれが異なる社会の原理となっているわけではなく、おなじ社会で共存している、と著者は述べている。つまり、商品世界においても、ヨコの交換原理だけではなく、助けあいや上下関係の原理がはたらいていることになる。
 これは、われわれの日常の経験からもわかることである。
 にもかかわらず、人びとは互酬性という概念にしたがって社会を解釈しがちだ。それはかならずしも現実ではない。だが、そう解釈することによって、倫理のしばりが強まってくる、と著者は論じる。つまり、借りたものは、お礼といっしょに返しなさいというわけだ。
 イヌイットの老人はいう。
「この地でわれわれがよくいうのは、贈与は奴隷をつくり、鞭が犬をつくる、ということだ」
 なかなか味のあることばだ。
 当初、相互扶助の盟約から出発したコミュニズムが、時がたつにつれ、贈与交換へと、さらにはヒエラルキーへと移行するケースは多い。負債を支払えないとき、互酬性の強迫観念が、従属関係をつくりだす要因になっていく。
 ここで著者が例に挙げるのは、相互扶助を重んじるピレネーのふもとの村の話だ。
 ある農民が、工場を経営している社長のところに行き、仕事をくれないかと頼む。社長は仕事をみつけてやる。それ以来、農民は社長に頭が上がらなくなり、菜園の収穫物を届けるようになる。ここで生じているのは、一種のヒエラルキーだ。
「もはや対等ではないとする対等な者たちのあいだのこの合意こそ……『負債』と呼ぶものの本質だ」と、著者は論じる。
 逆に、ほんの少しの貸し借り(負債)が、かえって人間関係をスムーズにすることもある。また、上の人におごってもらったからといって、その負債はかならずしも返す必要がない。ごめんなさい、ありがとうというのは、日常のモラルである。
 ラブレーの『ガルガンチュアとパンタグリュエル』には、パニュルジュという学者の、独自の借金哲学が開陳されている。それは借金をしているからこそ、金貸しは、じぶんをだいじにしてくれるし、借金があるからこそ、この世の秩序は保たれているというものである。
 パニュルジュのとらえた皮肉な世界を、著者はこう要約している。

〈負債がなければだれかがだれかになにか借りがあるということもなくなるだろう。負債なき世界は、原初的混沌へと、万人の万人に対する闘争へと逆行してしまうことだろう。他人に対してだれも、いかなる責任も感じなくなるだろう。人間であるという単純な事実に、なんの意味もなくなるだろう。だれもが、じぶん自身の正しい軌道の維持さえあてにできない、孤立した惑星になるだろう。〉

 だが、それはブルジョアのいいそうなことだ。
 巨人パンタグリュエルは、パニュルジュの哲学を認めない。
「おたがいの慈しみや慈愛を除いては、汝は、だれにも、なにも借りてはならない」という使徒パウロのことばで、パニュルジュに反撃を加えるのだ。
 著者の目的も、貨幣によるニセの秩序の解体に向けられている。

宗教にも救いはない──グレーバー『負債論』を読む(4) [本]

 人類学者のキース・ハートによれば、貨幣には商品と信用(借用証書)の二面性がある。商品といっても、物々交換ではない。だが、信用だけでも信用されない。金貨であり銀貨であり、実物であることによって信用される。だから、ローマの貨幣がインドや中国にまで到達することができたのだという。
 賭博場の発行する模造貨幣、小売店の発行する代用貨幣は、いうまでもなく流通範囲がかぎられている。
 現実の市場では、さまざまな通貨が入り交じっていた。中央アフリカではカカオや塩、植民地時代のヴァージニアではタバコ、その他、各地でさまざまなものが貨幣として扱われている。「かくして貨幣は、商品と借用証書のあいだをほとんど常にさまよっているのである」。
 ここで、著者は商業について独自の考察を加えた思想家として、フリードリヒ・ニーチェの名前を挙げている。
 ニーチェはこう書いている。

〈値段をつけること、価値を測定すること、同等な価値のあるものを考えること、交換すること──これらは人間のごく最初の思考において重要な位置を占めていたものであり、ある意味では思考そのものだったのである。人間の最も古い種類の鋭敏さが育てられたのはここにおいてであり、人間が他の動物と比較してみずからに誇りをもち、優越感を抱いたのも、ここにおいてである。〉

 そうした人間の相互関係のなかから共同体が生まれてくる。自分に平和と安全を与えてくれる共同体に、人は負債を負う。そのため、人は共同体に借りを返さなければならない、とニーチェはいう。それには犠牲がともなう。
 しかし、はたして人は共同体、いいかえれば祖先からの借りを返しきれるのだろうか。人は贖罪の不可能性の前に立ちすくむことになる。永遠の罪の前に、良心のやましさを覚え、神に救いをもとめる。これがキリスト教の罠だ、とニーチェは考える。
 こうしたニーチェの考え方に、著者は違和感をおぼえる。
 ニーチェの前提は貸し借り計算のうえに成りたっている。だが、人はいっぽうで助けあいに重きを置き、打算を拒絶することで生きている面もある。
 著者は旧約聖書の「ネヘミヤ記」を思い浮かべる。ここにはヨベルの律法についての記述があった。ヨベルの律法では、7年ごとの安息の年に、あらゆる負債が自動的に無効になり、負債のために苦しんでいる者すべてが解放される。ユダヤの徳政令だといってもよい。
 当時、ユダヤの人びとは、累積的な債務危機におちいり、農地を失い、借地人となっていた。息子や娘を債権者に召使いとして差しだすか、外国に奴隷として売り払わねばならないところまで追い詰められていた。
 ヨベルの律法は、そうした負債から人びとを解放しようとする。それは、計算システム総体を破壊しようというものだ、と著者はいう。考えてみれば、日本の百姓一揆にも、こうした思想があるのかもしれない。
 だが、こうした救済はシステムの完全破壊にいたらない。それはいっときの祝祭にとどまる。
 イエスは地上の負債は返されねばならないという。「しょせん、われわれ罪人の救済されるのはあの世においてのみなのだ」と、著者は手厳しい。
 こう書いている。

〈世界宗教はまさにこのような両義性(アンビヴァレント)に充ちている。一方で、世界宗教は市場に対する怒号である。ところが他方で、そうした異議を商業的な観点から枠づけてしまう傾向をも世界宗教は有しているのである。人間の生を商取引に還元してしまうことがよくないのは、それがよい商取引ではないからだ、とでも主張するかのようなのだ。〉

 かくて、人びとは負債のとらわれ人となったままである。
 貨幣のもたらす「残酷さと償い」。
 宗教にもニーチェの超人思想にも救いはない、と著者は考えている。