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第2次世界大戦前夜──カーショー『地獄の淵から』を読む(7) [本]

 西欧の民主主義諸国は、戦争を避けるため、ヒトラーをなだめ、ドイツの拡張政策を抑えようとしてきた。だが、ヒトラーはますますつけあがり、さらに多くを要求する。その勢いが止まらなくなったときに、ヨーロッパ諸国は戦争を覚悟せざるをえなくなった。そんな大戦前夜の構図が浮かびあがる。
 もし1933年のヒトラーの政権掌握直後、左翼が壊滅させられていなければ、ヨーロッパの戦争の可能性は遠のいていただろう、と著者はいう。
 だが、左翼が消滅したのはドイツだけではない。スターリンのソ連国内に、民主的左翼は存在しなかった。ヨーロッパでは、軍と警察に支えられたナショナリスト右翼が勢力を伸ばし、国を牛耳る風潮が支配的になりつつあった。西欧諸国とスカンディナヴィア諸国だけが例外的に民主主義を維持している。
 ヨーロッパ全体が右傾化するなか、1936年のフランスの総選挙では、社会党、共産党の人民戦線が圧倒的な勝利を収めた。人民戦線の勝利により、社会党のレオン・ブルムが首相となり、労働者寄りの政策をとった。しかし、インフレと財政難が進行し、政権はたちまちいきづまる。人民戦線勝利の熱気は2年とつづかない。1938年春にはフランスの政治は保守右翼へとシフトしていた。
 スペインでは1931年に左派主導の共和政が敷かれた。しかし、スペインはもともとカトリック的価値観が強固で、左翼への嫌悪感も強い。軍事クーデターの伝統もある。それが内戦を引き起こす要因となっていく。
 スペインの左翼政権は1933年に崩壊し、そのあと右翼連立政権が発足する。1936年に人民戦線が歴史的勝利を収めるものの、左翼政権発足後、たちまち分裂する。共産党系、社会党系、アナキスト系からなる人民戦線は、しょせん寄り合い所帯だった。地方では右翼のファランヘ党が加入者を増やしつつあった。
 そんななか、軍の参謀総長を解任され、海外に派遣されていたフランコが7月に反乱をおこす。マドリード、バルセロナ、バスクの労働者はこれに対抗して、武器をとった。
 反乱軍はスペイン西部と中部をまたたくまに押さえたが、東部と南部は共和国側にとどまっていた。ヒトラーとムッソリーニは、ナショナリストのフランコを支援する。いっぽうコミンテルンはヨーロッパ各国から義勇兵をつのり、スペインに送った。
 1937年の春から夏にかけ、フランコ側は北部海岸を掌握し(フランコを支持するドイツ軍はバスク地方のゲルニカを猛爆)、共和国側の支配地域は、マドリード南東部とカタルーニャに限定されるようになる。
 ナショナリストによるスペイン制圧は時間をかけて、執拗におこなわれた。これにたいし、共和国側も内部に分裂と党争をかかえながらも、長期にわたって抵抗した。そのころ共和国を支配したのはスターリン派で、他の左派勢力は容赦ない弾圧によって、つぶされていった。
 カタルーニャは1939年初めに陥落、4月にフランコは内戦終結を宣言した。フランコが政権をとると、粛清がはじまり、共和国派の2万人が処刑され、数千人が刑務所や収容所に送られた。殺害は1940年代になってもつづく。そして、フランコは1975年になくなるまで、スペインの独裁体制を維持することになる。
 スペイン内戦は、直接、第2次世界大戦とは結びつかなかった。政権を掌握したフランコは、戦争から距離を置いた。大戦という点では、むしろ中欧で生じつつあった大変動、すなわちドイツの拡張衝動こそが問題だった。
 1937年11月5日、ヒトラーはドイツ陸海空軍の司令官を首相官邸に集め、オーストリアとチェコスロヴァキアを攻撃する可能性を示唆した。将軍たちは西欧諸国との戦争に拡大することを恐れ、容易に首をたてにふらなかった。すると、ヒトラーは3カ月後に彼らを解任してしまう。
 ドイツの再軍備計画に支障をきたすものがあるとすれば、それは鋼鉄不足だった。ヒトラーはシャハトに代え、ゲーリングを4カ年計画の責任者に任じ、ドイツの戦争準備を急がせた。軍需が増え、利益が見込めるとなると、IGファルベンなどの大財閥もヒトラーの拡張政策を支持するようになった。
 いっぽう、イタリアの軍備強化は遅れた。イタリア経済の諸問題が山積して、なかなか軍備強化に財政投資が回らなかったのである。
 ソ連でも非能率な生産と破滅的な粛清が、軍の弱体化を招いていた。兵器の質に関しても、ドイツとの差は歴然としていた。
 西欧の民主諸国はドイツの高まる脅威にたいし、軍備増強の必要性に迫られていた。イギリスにとっては、ドイツ、イタリア、日本との3方面での戦争は悪魔のシナリオである。ドイツにくらべ、航空戦力も劣っている。そのため、巧みな外交で、しばらくはドイツとの戦争を避けるという方針がとられた。
 1937年にブルム内閣が倒れたあと、フランス政府は財政の安定化をはかるため緊縮策をとった。防衛予算も削減された。フランス空軍もみずからの脆弱性に気づいている。そのため、イギリスと同様、ヒトラー・ドイツと和解し、しばらく時間稼ぎをするという方針が採用された。
 1937年5月、イギリスではボールドウィンに代わってチェンバレンが首相に就任した。前年末、国王エドワード8世はシンプソン夫人と結婚するため、弟のジョージ6世に王位を譲っていた。ボールドウィンは、この危機をうまくさばいたのちに辞任したのである。
 1937年11月、新外相のハリファックス卿はヒトラーと会見し、オーストリア、チェコスロヴァキア、ダンツィヒ(グダニスク)の件で話し合った。ヒトラーは即座の冒険は考えていないというのが、ハリファックスの感触だった。その裏にはドイツが武力を行使せず、平和裏に領土を変更するならば、それはある程度やむをえないという判断もはたらいていた。
 ソ連では1937年に赤軍指導部を粛清したあと、スターリンが自分に忠実な軍を再建しようとしていた。スターリン自身は資本主義列強との戦争は不可避と考えている。とりわけ、西欧諸国がヒトラーをけしかけて、ソ連と戦わせるようにするのではないかと疑っていた。いっぽう満州国とソ連の国境でも、日本が大きな脅威となりつつあった。戦争は時間の問題だが、赤軍指導部を粛清したあと軍事力を整えるには、いましばらくの時間稼ぎが必要だった。
 1938年2月、ヒトラーは軍を改編し、みずから国防軍最高司令官に就任した。外相にはタカ派のリッベントロップを任命する。そのひと月後、ドイツ軍はオーストリアの国境を越え、オーストリアをドイツに併合した。
 そのあとはチェコスロヴァキアだった。やっかいなのは、チェコスロヴァキアがフランス、ソ連と同盟関係にあることだった。ドイツがチェコスロヴァキアを攻撃するには戦争の危険をともなった。しかし、フランスはイギリス抜きの単独行動は考えていなかったし、ソ連もまた軍事介入するだけの力を備えていなかった。イギリスもできるだけ戦争を避けたがっていた。
 ヒトラーはチェコの一部ズテーテンラントで迫害されている少数ドイツ人を救うため、ズテーテンラントだけを帝国本国のなかに取りこむのだと見せかけていた。
 イギリスの首相チェンバレンは9月半ばにヒトラーと会見するため、2度ドイツを訪れた。最初の会談で、チェンバレンはドイツへのズテーテンラント割譲を認めた。9月21日にチェコスロヴァキア政府も仕方なくそれを受け入れる。ところが、9月22日のチェンバレンとの会談で、ヒトラーは10月1日にはズテーテンラントを占領すると通告した。英仏はとうぜんこれに反発し、戦争の危機が高まる。
 そのときムッソリーニが介入し、9月29日に英仏独伊によるミュンヘン会談が開かれることになった。翌日発表された協定では、ドイツへのズテーテンラント割譲が認められ、平和は保たれたかのようにみえた。
 これまでナチス・ドイツの強大化に何ら手を打ってこなかったイギリスとフランスは、またしてもヒトラーの要求に屈することになった。
 ミュンヘン協定の締結後、ドイツの民衆も平和が維持されたことに喜んでいた。しかし、ヒトラーは武力行使ができなかったことに、むしろいらだっていた。
「帝国水晶の夜」と称される、ナチスによるユダヤ人へのポグラムが実施されたのは、10月のことである。ユダヤ人の国外追放がはじまっていた。不幸なのは帝国内にとどまらざるをえなかったユダヤ人の運命である。
 ヒトラーはさらに、ポーランドにダンツィヒ(グダンスク)の返還と、「ポーランド回廊」での輸送ルート建設を求めた。ポーランドはそれを拒否する。
 1939年3月、ドイツ軍はチェコに侵入し、プラハを占領。チェコを保護領とした。これによりチェコスロヴァキアは解体され、スロヴァキアは自治国家を樹立した。
 ドイツの野望を思い知らされたチェンバレンは、ポーランドに軍事保証を与える。フランスもそれに追随する。それによって、ヒトラーの行動を抑制できると考えたのだが、ヒトラーは英仏の対応にむしろ反発をつのらせた。
 いっぽうチェコでヒトラーに出し抜かれたムッソリーニは、4月にアルバニアを占領した。武力行使の風潮が高まっている。
 ところで、1939年夏のポーランド危機にさいして、ヨーロッパでは不思議なことに諦め気分が強く、恐怖感はむしろ少なかった、と著者は指摘している。
 ドイツでは、チェコがうまくいったのだから、ポーランドも何とかなるだろうという楽観的な気分が広がっていた。フランスではドイツのこれ以上の侵略を何とかしなければならないという意見が強まったが、それでも夏のヴァカンスを楽しもうという雰囲気が濃厚だった。その点は、イギリスも変わらない。
 だが、ポーランドは破局に直面していた。8月23日、ドイツ外相リッベントロップとソ連外務人民委員モロトフとのあいだで、独ソ不可侵条約が結ばれる。その秘密協定には、ドイツとソ連によるポーランド分割の項目が含まれていた。
 これで、ヒトラーのポーランド侵攻には何の障害もなくなる。
 1939年9月1日早朝、ドイツ軍は国境を越えて、ポーランドに侵入した。ヒトラーが交渉に応じるとみていたイギリスとフランスは不意を突かれて、驚愕する。9月3日、イギリスとフランスはドイツに宣戦を布告した。
 チャーチルによれば、宥和政策は「善意の有能な人びとによって下された誤った判断の悲話」にほかならなかった。善意の人びとは交渉によって平和が保てると考えていたが、ヒトラーは最初から戦争を望んでいた。
 こうして、生死をかけた第2次世界大戦がはじまったのである。

全体主義の系譜──カーショー『地獄の淵から』を読む(6) [本]

 1930年代半ば、ヨーロッパではファシズムとボリシェヴィズム、自由民主主義のあいだで、イデオロギー闘争が尖鋭化していた。
 とりわけナチス・ドイツの動きが、国際秩序を危険にさらす可能性をひめていた。しかし、最初に国際秩序に挑戦する動きをみせたのは日本である。1931年9月に日本は満州を占領した。1932年には満州国が誕生。国際世論が非難を強めると、日本は1933年2月に国際連盟を脱退した。
 国際秩序を維持するという国際連盟の機能は、すでに失われようとしていた。1932年に開かれたジュネーヴでの軍縮会議も何の成果もないまま閉幕する。1933年10月には、日本に引きつづきドイツも国際連盟を脱退した。
 1935年3月、ヒトラーは大規模な国防軍の創設と徴兵制の再導入を発表した。ヴェルサイユ条約で禁止されていたドイツ空軍の存在も明らかにされた。
 各国は自国の安全保障強化に動きはじめる。
 ヒトラーがドイツで権力を握ったあと、ソ連は将来の危険に備えて、1933年にイギリスフランスアメリカと国交関係を樹立し、翌年、国際連盟に加盟した。
 1935年10月、イタリアはアビシニア(エチオピア)を侵略する。国際連盟はイタリアに経済制裁を科すが、効果はなく、イタリアへのエチオピアの割譲が認められる。そのときムッソリーニは、それまで警戒していたヒトラーと手を結ぶことになった。
 1936年3月、ヒトラーは1925年のロカルノ条約で非武装地帯と定められたラインラントに進駐する。フランス陸軍はこれを見過ごし、イギリスも何の行動もとらない。その月末の国民投票で、ドイツ国民はヒトラーの大胆な行動を圧倒的に支持した。
 11月にはローマ・ベルリン枢軸が結成される。ムッソリーニはいまやヒトラーの下位に立っていた。枢軸の共通ファクターは、反ボリシェヴィズムである。
 ヒトラーはすでにソ連との対決が不可避だと考えていた。そのため、軍備増強に向けて、国内生産の最大化をめざす計画を実行に移していた。早くも戦時経済体制がとられていた。
 著者によれば、ヨーロッパの1930年代は独裁体制の時代だったという。
 独裁体制に共通する特徴は、複数政党の廃止、個人の自由の制限、マスメディア支配、独立した司法の廃止、警察権による反対派の弾圧などである。独裁政権は民族ないし国民を代表すると称していた。しかし、現実に支配しているのは、ひとりの独裁者であり、とりわけ軍が大きな役割を果たしていた。その軍はたいてい愛国的保守で、反社会主義という性格をもっていた。
 とりわけドイツのファシズムの特徴は、加えて、領土拡張主義的な性格をもつ軍事独裁政権だったということである。この点では、日本のファシズムも同じ特徴をもっていた。
 しかし、ヨーロッパで独裁体制、あるいは権威主義的体制が敷かれたのは、ドイツ、イタリアだけではなかった。1935年までピウスーツキ元帥が支配したポーランド、1936年以降、独裁体制を確立したメタクサスのギリシア、ホルティのハンガリー、サラザールのポルトガル、さらにフランコのスペインもそうである。彼らはファシズムや共産主義の大衆運動型政治を嫌悪しながら、反動的な権威主義的体制を維持しようとしていた。
 とはいえ、当時、独裁政権として抜きんでていたのは、やはりソ連、イタリア、ドイツである。ボリシェヴィズム、ファシズム、ナチズムのイデオロギーは、ハンナ・アーレントにならって、「全体主義」と総称することができる。
 ボリシェヴィズムとファシズム(ナチズム)は対立しているとはいえ、自由民主主義に反対している点では共通している。いずれも国民(人民)を教育して、イデオロギーの献身的信奉者にし、変革(戦争や革命)に駆り立てることをめざしていた。
 その統治手法は「社会の完全な組織化、敵と少数派に対するテロ攻撃、極端な指導者礼賛、独占政党による容赦ない大衆動員」からなっている、と著者はいう。
 もうすこし具体的に見ておこう。
 1930年代半ばになると、ソ連はスターリニズムによって支配されるようになった。1936年には世界で「もっとも民主的」とされる憲法が公布されたが、これほど実態とは異なる憲法はめずらしい。実際には、市民は自由も法的な保護もなく、無制限で恣意的な国家権力にさらされていた。
 5カ年計画は上からの強制によって推し進められた。その背後には熱狂的な「青年共産同盟(コムソモール)」による献身がみられた。ソ連では共産党が国家を支配し、その共産党をスターリンが支配している。モスクワなどの都市では、スターリンの胸像や肖像があちこちに飾られ、スターリン崇拝が求められていった。
 スターリンの支配には、粛清と恐怖政治をともなっている。1933年までに100万人以上が収容所に送られていた。1934年12月には政治局員のセルゲイ・キーロフが暗殺される。その直後、政治局員のジノヴィエフとカーメネフが逮捕され、1936年に銃殺される。粛清はつづく。1938年にはブハーリンが見せしめ裁判にかけられ、死刑判決を受けて、銃殺された。
 1938年には、内務人民委員部(NKVD)が150万件の逮捕をおこない、70万人を銃殺した。「反ソ分子」あるいは「テロ活動」をはたらいたというのが銃殺の理由だった。1939年には、300万人以上が辺境の収容所に送られ、飢餓と死に向き合う生活を強いられていた。
 社会主義建設への貢献と、スターリンへの忠誠が求められた。そのさい、てっとり早いのが、反対派を告発することだった。いつ、どんなきっかけで、自分が反対派とみなされ、処罰されるかわからなかった。
 国境地帯の少数民族は集団移住と処刑の対象になった。赤軍も例外ではなかった。3万人以上の将校が粛清され、そのうち2万人が処刑された。
「かつてどこの政府もこれほど多くの自国民に対し、かくも気まぐれに、そして冷酷にテロを加えたことはなかった」と著者は記している。
 いっぽう、イタリアのムッソリーニも全体主義国家の建設をめざしていた。1926年にすべての野党は禁じられた。1929年にはラテラノ条約により、バチカン市国がつくられ、カトリック教会が政治に介入することがなくなる。
 政治警察による監視活動は隅々にまで行き渡っていた。破壊活動分子(とりわけ共産主義者)とみなされた者は長期流刑となり、僻地や沖合の島に送られた。ナチス・ドイツやソ連に比べれば、イタリアでは国内の抑圧はゆるやかだった。とはいえ、人びとは反対意見を控え、体制への服従姿勢を示す必要があった。
 1930年代になると、ムッソリーニのファシスト体制は、権力を完全に掌握していた。国民は体制に順応せざるをえない。1933年には公務員に入党の義務が課せられた。1939年には全国民の半数がファシスト組織のメンバーになっていた。
 ファシスト組織は「新しい人間」の創出をめざしていた。イタリアの女性は家庭に幸福をもたらし、子どもを産み、国家に奉仕しなければならない。青年はからだを鍛え、国家のために勇ましく戦わねばならない。1930年代後半からはファシスト式敬礼が取り入れられ、軍隊ではグースステップが採用された。1938年には反ユダヤ人法制が導入された。
 しかし、何といっても現実の脅威は復活を遂げたドイツ帝国だった。
 ヒトラーはムッソリーニから多くの影響を受けている。ナチス式のあいさつも、もとはといえばムッソリーニのまねだ。ナチスの巨大余暇組織「歓喜力行団」もイタリアの全国余暇事業団をモデルにしている。アウトバーンも、イタリアの高速道路アウトストラーダに触発された。
 にもかかわらず、ドイツのナチズムには、イタリアのファシズムにみられない特徴がある。それは指導者ヒトラーに絶対的に従うということである。
 ヒトラーは新たな戦争によって第1次世界大戦で受けたドイツの恥辱を晴らし、ユダヤ人を除去することで人種の浄化をはかりたいと願っていた。
 1933年には官公庁からユダヤ人を締めだす法律、1935年にはユダヤ人とドイツ人の婚姻を禁じるニュルンベルク法が制定された。1938年10月には全国的なポグラム(集団的迫害行動)が実行された(「帝国水晶の夜」と呼ばれる)。
 1936年には武装SSが創設され、残忍な取り締まり活動をおこなった。こうして国内を締めつけてから、ヒトラーは領土拡張に乗りだす。国民はラインラント進駐を熱烈に支持した。
 ソ連とイタリア、ドイツは同じ独裁政権でも、その性格はまったく異なっていた。全体主義の価値観がもっとも浸透していたのはドイツであり、それがもっとも低かったのがイタリアである。大衆的にもっとも支持されていたのはナチス・ドイツである。いっぽうソ連は恐怖政治を敷いていた。
 西洋民主主義国は、なかでもドイツを圧倒的な脅威とみていた。
 ふたたび大戦の暗雲が近づきつつあった。

カーショー『地獄の淵から』を読む(5) [本]

 大恐慌の影響を免れた国はなかった。ヨーロッパでは、1930年にはいると倒産と失業、デフレが進行し、GNPが落ちこんだ。人びとは失業と貧困に苦しんでいた。
 経済状況の悪化は政治行動の急進化を招いた。そんななか、多くの国で挙国一致の流れが生まれ、一部の国ではファシズム運動への支持が高まった。とりわけドイツでは民主主義が危機に見舞われるなか、人びとはナチ党に救国の希望を託すことになる。
 経済危機のさなか、ドイツは1932年に連合国の戦時債務の抹消を取り付けることに成功した。そのころ、ドイツではヒンデンブルクが大統領として、次第に権威主義的な傾向を強めていた。
 1933年まで左翼は30パーセントの得票率を保っていたが、社会党と共産党のあいだには遺恨があって、統一戦線をつくることができなかった。ナチスと共産党の民兵組織のあいだでは、武力衝突がつづいていた。
 いまや秩序を求めるドイツの中産階級は、国家再生の大義をかかげるナチスの暴力を容認するようになった。乱立する政党にはうんざりしていた。
 1932年8月の選挙で、ナチ党は37.4パーセントの得票率で、第1党に躍り出た。そして翌年1月、ヒンデンブルクの後押しで、ヒトラーは首相に就任した。
 ヒトラーは著書『わが闘争』のなかで、公然と反ユダヤ主義をうたい、ソ連から領土を奪うと宣言していた。それを本気で受け止める者はさほどいなかった。それよりも有権者を引きつけたのは、「国民の連帯」によって新たな社会秩序をつくるという公約である。
 政権の座につくと、ヒトラーは社会主義者と共産主義者を一斉に逮捕し、監獄や収容所に送りこんだ。緊急命令によって、無制限の警察権が合法化される。3月には全権委任法が議会を通過し、ヒトラーはすべての権限を握った。共産党は粉砕され、社会民主党は禁止された。そのほかの政党も禁止、または解党に追いこまれた。このあたり、あっというまの展開である。
 1934年6月、ヒトラーはみずからの対抗馬となりそうなナチス突撃隊(SA)隊長のエルンスト・レームを粛清する。粛清者はほかにも150〜200人にのぼった。8月にヒンデンブルクが死ぬと、ヒトラーは国家元首の地位を引き継ぎ、総統となった。
 ヨーロッパが恐慌から回復するには時間を要した。イギリスが最悪の事態を脱したのは1933年になってからである。ケインズの有効需要理論はまだ登場していない。1931年に発足した挙国一致のマグドナルド内閣は、当初、緊縮予算を組んだが、経済状況は好転しなかった。
 イギリスの経済が反転しはじめたのは、金本位制から離脱してからである。生産と輸出が回復しはじめる。さらに政府は、低利資金を導入し、住宅建設の拡大を促し、内需を掘りおこす政策をとった。
 フランスも当初は政府支出を大幅に削減して、病んだ経済を癒やそうとした。しかし、それは裏目に出る。景気が回復しはじめるのは、やはり1935年に金本位制から離脱し、36年から38年にかけフランを大幅に引き下げてからである。
 恐慌からの脱出に向けた、スウェーデン、ノルウェー、デンマークの取り組みは独特だった。通貨を切り下げるとともに、公共事業への国家支出によって、失業に対処する方策をとったのである。
 大恐慌がはじまると、イタリアのムッソリーニは経済への国家介入を強めた。国家支出の増大は、失業の低下をもたらした。
 ムッソリーニのかかげる協調組合国家の理念は飾りにすぎず、経済の実権は大企業に握られていた。1933年には国営の産業復興公社がつくられ、36年には銀行が国有化された。経済の官僚支配がはじまっていた。とはいえ、軍備生産の面でも、大企業は国から巨額の利益を得た。
 ドイツの場合は、大恐慌がもっとも深刻なときに、経済が急速に回復した。そのことが、ヒトラーの独裁体制に拍車をかけることになった。
 ヒトラーはまず左翼政党と労働組合をつぶすところから着手した。それによって、企業は賃金を引き下げ、利益を最大化することが可能になった。
 そのいっぽうで雇用創出計画もつくられた。それ自体に要した予算はさほど多くはなかったが、宣伝上の効果が大きかった。道路建設や土地開発のために、国家勤労奉仕団が動員された。公共事業への予算投入、自動車産業への減税、農業保護、さらには軍備への支出が、経済を新たな地平へと引き上げていった。
 しかし、ドイツの経済回復はそれ自体が目的ではなかった。ナチスはむしろ軍事力の拡大による領土の拡大をめざしており、経済はその手段にすぎなかった。
 1938年になると、政府支出の半分はすでに軍事費にあてられるようになっていた。そのころドイツでは、外貨準備高が不足し、深刻な食糧不足が生じるようになっていた。軍事費を抑えて経済を優先するか、それともあくまでも軍事費を増やして戦争を選ぶか、ヒトラーは決断をせまられる。答えは最初から明らかだった。
 もういちど、1930年代前半の政治状況にふれておこう。
 この時代の特徴は急激な右傾化である。左翼は支持を失っている。
 1931年、スペインでは第2共和国が発足し、社会主義政党が政権の担い手となるが、それも1933年で終わりとなる。
 1936年に発足したフランスの人民戦線政府も短命に終わった。スカンジナビア諸国だけは例外である。
 なぜ政治は左にではなく右にぶれたのだろう。
 極右の形態はさまざまだが、共通の特徴がある、と著者はいう。
 外国人や少数民族など、よそ者とみなす者を排除すること。次に、自由主義者、民主主義者などの政敵を殲滅しようとすること。武闘主義や権威主義を信奉すること。さらにナショナリズムを領土拡張にふり向けること。反資本主義、反労働組合を唱え、国家指導を協調する運動もあった。
 ファシストは権威主義的なナショナリスト政府の樹立をめざした。さらに、国民が国家に献身することを求めた。
 現状に不満をいだく中産階級は、ファシストに引きつけられた。また30年代になると、多くの労働者が社会主義よりファシズムを選ぶようになる。
 ファシズムをもたらしたのは経済的要因だけではない。領土復活(拡張)への思い、よそ者への嫌悪、さらに政党政治への不信などが、ファシズムを生む原動力となった。
 それでも、保守エリート層の支援を受けて、ファシズムが勝利を収めた国は、イタリアとドイツにかぎられる、と著者は指摘する(日本もあてはまるといってよいだろう)。
 イギリスは急進右翼の躍進にすきを与えなかった。議会制民主主義にもとづく立憲君主制がしっかりと確立されていたのだ。政治的な過激派はわきに追いやられ、30年代は基本的に保守党が政権を維持した。労働党は野党になっていたが、革命ではなく改良主義路線をとっていた。ファシストの政治スタイルとイメージはイギリスにはなじまなかった。
 1936年に失業率が35パーセントに達したオランダでも、ファシズムはむしろ警戒され、ほとんど政治の世界に食いこめなかった。ベルギーでもファシスト運動は見向きもされなかった。
 フランスでも政府は次々と交替したが、共和制自体が存続の危機にさらされることはなかった。むしろファシズムにたいする警戒感が、つねに分裂しがちな左翼を団結させていた。その結果、1936年には人民戦線政府が確立される。
 とはいえ、右翼勢力も強固な政治基盤をもっていた。それがのちのヴィシー政権の中核となっていく。
 スペインの場合は事情がことなる。経済不況に対応できず、独裁者のプリモ・デ・リベラは辞任し、パリに亡命する。つづいて国王も亡命し、1931年にスペインは共和国となった。
 その年、左翼勢力は圧勝するが、じつは内部に鋭い分裂をかかえていた。農業改革と労働者保護を中心とするその経済政策が失敗すると、1933年の選挙では右翼の諸派が勝利する。
 右翼の諸派は軍部に支持され、協調組合国家と王制復古をめざした。それはファシズム的色彩を帯びた保守政権だったが、急進的ファシズムは好まなかった。そのとき、モロッコで、フランシスコ・フランコ将軍が反乱をおこす。そして、3年間の内戦をへて、スペインではフランコ独裁政権が誕生するのである。
 中欧と東欧でも、政治は右傾化していた。
 オーストリアでは、自前の護国団とナチ党がファシスト運動を展開していた。護国団などに支持されたエンゲルベルト・ドルフスは1932年に首相の座につき、社会主義を非合法化し、翼賛組織「祖国戦線」のもとで、独裁政権を樹立したる。しかし、1934年にナチスによって暗殺される。
 その後、オーストリアはドイツに反発しながら、独自の権威主義的体制を維持するが、もちこたえられない。けっきょく1938年には、ドイツによる併合の憂き目をみることになる。
 連合国側についたルーマニアは、第1次世界大戦の結果、領土を2倍に拡大していた。そのため、ほんらいならファシズムにひかれる要素はなかったのに、経済不況と少数民族、とりわけユダヤ人への偏見が、「大天使ミカエル団」(別名「鉄衛団」)の運動に火をつけた。だが、国王カロル2世は「大天使ミカエル団」を禁止し、議会を解散して、独裁王政を敷いた。
 広大な領土を失ったハンガリーも、深刻な経済不況によって社会的緊張が高まっていた。しかし、ホルティ・ミクローシュの権威主義的体制のもとで、ファシスト組織「矢十字党」はほとんど勢力を伸ばすことができなかった。
 著者によれば、東欧や中欧では「大衆動員を自らの権力に対する脅威とみなす、軍部を筆頭とする反動保守派の権威主義的エリート層が国家を支配したことが、ファシスト運動が突破口を開くうえで最大の障害だった」という。
 だが、このころすでにドイツは領土拡張をめざして、ヨーロッパ心臓部をにらんでいた。平和はいつ終わってもおかしくなかった。

カーショー『地獄の淵から』を読む(4) [本]

 1924年になると、ヨーロッパには明るい兆しがみえてくる。戦争の恐怖は記憶のなかに後退し、経済は回復しつつあった。その5年後にアメリカで大恐慌が発生し、ヨーロッパも大混乱に巻きこまれるとは、だれも思っていなかった。
 ハイパーインフレに襲われたドイツは、1923年に新通貨レンテンマルクを導入、翌年それをライヒスマルクと改称し、通貨の安定に成功した。またドーズ案によって、賠償方式の緩和がはかられた。
 ヨーロッパ主要国は、このころ戦前の金本位制に復帰する。経済の安定が戻ってくるように思えた。実際、「黄金の20年代」には経済の急回復がみられた。モータリゼーションや電気照明が都市の景観を変えようとしていた。ヨーロッパの家庭にも、アメリカ流の家電製品がはいってくるようになる。ラジオが急速に普及した。
 住宅事情はまだまだだ。ドイツでは政府が住宅建設に多額の資金を投入し、ベルリンやフランクフルトでは労働者向けの大規模団地がつくられた。しかし、これは例外で、概して人びとは劣悪な住宅環境下でくらしていた。
 フランス、ドイツ、イタリアで、労働組合は1日8時間労働の要求を勝ちとった。しかし、賃金には大きなばらつきがあった。イギリスでは1926年にゼネストが発生するが、勝利を収めたのは経営者側である。
 世界市場での競争が激しくなり、重工業や繊維など旧来の産業部門でも失業率が高くなった。だが、イギリスでは1911年に導入された失業保険により、最悪の事態は避けられた。
 競争によって、農産物の価格が下落したため、農民は苦しい生活を強いられた。農村を離れて、都市の工場ではたらこうとする農民も増えてくる。
 それでも経済には多少なりとも明るい兆しがみえていた。1929年の大恐慌は、その兆しを一瞬にして吹き飛ばすのだ。
 ソ連では1921年からの新経済政策が一定の成果を挙げていた。革命の輸出と迅速な工業化を求めるトロツキーの影響力は衰えつつあった。スターリンはまずジノヴィエフ、カーメネフ、ブハーリンを味方にして、トロツキーを追い出し、それからジノヴィエフとカーメネフを党から除名し、最後にブハーリンを分派主義者として失脚に追いこんだ。こうして1929年、スターリンは名実ともに党の最高指導者となる。
 1928年にスターリンは第1次5カ年計画を提唱した。翌年から実施された計画は、表向き鉱工業生産を急増させたものの、苛酷な労働をもたらした。加えて食料を確保するための農業集団化計画が、「富農」の一掃と、農民の弾圧、すさまじい凶作をもたらした。ほんらい肥沃なウクライナも飢饉におちいる。そのときの死者数は330万人と推定されている。
 いっぽう、ヨーロッパでは、1920年代は大衆文化が花開いた時代だった。娯楽映画館やダンスホール、それにパブやバーがにぎわった。サッカーも人気の的となり、ドイツ、イタリア、スペインではプロのリーグが創設された。
 芸術では「モダニズム」が流行する。「従来の美と調和、理性という理念」に代わって、「断片化と不統一、そして混沌が新たな主題になった」という。画家ではピカソ、文学ではジョイスやヘミングウェーなどがもてはやされた。フロイトとユングの精神分析、無意識の省察が注目されるのもこのころである。
 ドイツではいわゆるワイマール文化が一世を風靡した。表現主義やダダイズムが提唱される。グロピウスはワイマールで「バウハウス」を創設した。シュトゥットガルトでは、モダニズム様式の住宅団地が建設された。トマス・マンの小説『魔の山』は、1924年に出版されると大絶賛をあびた。フランツ・カフカは1924年に亡くなるが、その作品は死後大いに注目された。ブレヒトは実験的な演劇作品にとりくんだ。
 しかし、1930年代にはいると、ナチスは「モダン」なもの、「退廃した」文化に攻撃をしかけることになる。ドイツ文化をあやうくしているのはユダヤ人だと言いふらしていた。
 ドイツではさまざまな前衛芸術とはうらはらに、ヨーロッパのどこよりも文化的悲観主義が広がっていた。それを代表する著書がシュペングラーの『西洋の没落』である。このころ、ドイツほど、国家衰退への懸念に引き裂かれた国はなかったという。
 ここでまた政治状況に戻ろう。
 1924年のドーズ案はヨーロッパの緊張を緩和する第一歩となった。
 さらに1925年10月にはロカルノ条約が結ばれ、ドイツとフランスならびにベルギーは、双方とも戦争をしかけないことを約束した。ドイツ西部国境とラインラントを非武装地帯とすることも決まった。ただし、ポーランド、チェコとの国境問題は未解決のままだった。ロカルノ条約が結ばれた結果、1926年9月にドイツは国際連盟に加盟する。
 賠償金の軽減を決めたドーズ案では、1928年から29年にかけて賠償金がふたたび上昇することになっていた。そこで、1929年1月にヤング案がまとまる。毎年のドイツの賠償金支払いを少額とし、その代わりに返済期間を1988年まで延長するというものだ。ヤング案を受け入れれば、連合国軍はラインラントから撤退するという付帯条件がついていた。
 1930年3月、ドイツ国会はヤング案を批准した。しかし、ナショナリスト右翼は、その受け入れに反発した。
 1920年代半ば以降も、北欧と西欧はほぼ民主主義を維持している。しかし、ヨーロッパ全体に民主主義が行き渡っていたわけではない。
 ハンガリーの民主主義は見かけだけだ。チェコスロヴァキアでは民主主義が保たれていた。オーストリアではイデオロギー対立が激しく、ドイツ民族主義者が支持を拡大していた。ポーランドでは1926年にピウスーツキ元帥がクーデターを決行し、権威主義的な体制を確立した。しかし、バルト3国やフィンランドは民主主義を何とか維持している。
 バルカン半島諸国では代議政治は見せかけで、縁故政治と汚職が蔓延していた。ギリシア、アルバニア、ブルガリア、ユーゴスラヴィアは王政ないし権威主義的体制のもとにある。
 スペインではプリモ・デ・リベラが独裁体制を築き、ポルトガルではアントニオ・サラザールが1928年に蔵相に任命され、4年後に首相となるところだ。
 イギリスでは政権交替をともなっても、民主政治はさすがに安定していた。1924年にはラムゼイ・マグドナルドの労働党が短期間、政権をにない、その後、5年間スタンリー・ボールドウィンの保守党がむずかしい政局を運営する。さらに1929年からはふたたびマグドナルドが首相の座につく。このかん、共産主義者やファシストの団体は、まったくイギリスの政治に影響を与えていない。
 フランスでは内閣がめまぐるしく替わった。しかし、レイモン・ポアンカレの手腕のもと第3共和制は支持されていた。
 イギリスやフランスとちがい、ドイツの民主主義は揺れはじめていた。それでも1920年代後半、共産党の支持率は低迷し、ヒトラーの蜂起失敗のあと、ナチ党は政治の外縁にとどまっていた。
 1928年の総選挙では、社会民主党が勝利を収め、ヘルマン・ミュラー党首のもと国民党などとの連立政権を発足させた。だが、政権のあいだで次第に亀裂が深まり、1930年3月、ミュラー内閣は崩壊する。
 大恐慌による経済危機がドイツを襲っていた。そうしたなか、共産党とナチ党が支持を伸ばす。1930年9月の総選挙ではナチスが18.3パーセントの得票率で107議席を獲得し、第2党に躍り出る。それでもヒトラーが首相になる可能性は低いと思われた。それが変わっていくのだ。

カーショー『地獄の淵から』を読む(3) [本]

 第1次世界大戦は「戦争を終わらせるための戦争」と呼ばれていた。だが、じっさいには、より破壊的な戦争に道を開くことになる。
 戦争に勝利したロイドジョージ首相のもと、イギリスでは兵士の動員解除が順調に進んだ。だが、景気はよくない。失業者が増え、ストライキが頻発する。政府債務は膨大で、そのほとんどがアメリカの信用に依存していた。
 敗北したドイツやオーストリアでは、通貨価値が下落し、インフレが昂進していた。政府がインフレを容認したのは、巨額の国内債務を解消するのに好都合だったからである。通貨下落とインフレのもと、ドイツ産業は復興を遂げる。しかし、さらにハイパーインフレが昂進すると、手の施しようがなくなる。それまでの貯蓄はほとんど無価値になった。
 東欧の状況は悲惨だった。戦争によって国土は荒廃し、物不足と飢餓に襲われた。革命がおこらなかったのが不思議なくらいだ、と著者は書いている。人びとは革命をおこす元気もなかったのだろう。
 西欧では、二度と戦争をすまいとする平和主義が広がっていた。だが、戦争を美化し、暴力と憎悪を歓迎する風潮が消えたわけではない。
 1919年から23年にかけ、アイルランドではイギリスにたいする激しい独立運動が発生する。イギリス当局は特殊部隊をつかって、これを弾圧する。1922年末にはアイルランド自由国が発足した。
 1922年、イタリアではファシスト政権が発足する。翌年、スペインでは軍事独裁政権が成立する。
 1923年のローザンヌ条約により、トルコ共和国が正式に認められ、それまで紛争の多かったギリシアとのあいだで、住民の交換がおこなわれた。トルコのギリシア人100万人と、ギリシアのトルコ人36万人が入れ替えられた。
 東欧では激しい国境紛争がつづいている。ロシアでは恐怖の内戦がはじまった。ユダヤ人にたいする暴力事件が相次ぐ。
 ハンガリーではクン・ベーラの短期ソヴィエト政権が崩壊したあと、「白色テロ」が横行した。「赤色テロ」に対抗して「白色テロ」を実行したのは、民兵組織である。
 ロシアでは1917年から3年間、内戦がつづき、700万人以上が死亡した。赤軍はシベリアから西進する白軍を迎え撃ち、勝利を収めた。
 だが、ボリシェヴィキ政権にたいする農民の反発も高まっていた。農産物の強制徴発と、拙速な集団農場化が農民反乱を巻き起こしたのだ。当初、これを弾圧した政府は1921年に「新経済政策」を導入する。これによって経済は回復しはじめる。
 1924年、レーニンが死に、スターリンが権力を掌握した。スターリンのもと、ソヴィエト政権は以前にも増して、恐怖政治の度合いを高めていく。
 以上が、第1次世界大戦後のヨーロッパの概況である。
 もうすこし詳しくみていこう。
 1919年のヴェルサイユ会議で、ヨーロッパには新しい地図が生まれていた。ロシア、オスマン、オーストリア・ハンガリー、ドイツの帝国が姿を消して、新たに10の国民国家が出現した。
 アメリカのウィルソン大統領の提案により、1920年、ジュネーヴに国際連盟が創設される。だが、国際連盟による国際秩序の維持は、当初から困難をきわめた。国内事情により、当のアメリカすら、国際連盟への加入を見送っていた。
 ウィルソンの提案した民族自決は、多くの植民地をかかえるイギリスやフランスにとっては、受け入れるのがむずかしい理念だった。中欧や東欧の複雑な民族混合状況も、民族自決の達成を不可能にしていた。せいぜい期待できるのは、多民族国家のなかで、民族のちがいが国民統合によって乗り越えられることくらいだった。「オーストリアを除けば、民族的に均一は新生国家は一つもなかった」と著者は書いている。紛争の種は残った。
 ヴェルサイユにおける領土処理は、敗者の側に落胆と怒り、恨みを残した。とりわけ勝者の「4大国」(アメリカ、イギリス、フランス、イタリア)は、ドイツが二度と戦争を起こさないようにするため、懲罰と賠償でドイツを縛ろうとした。
 講和条約によって、ドイツは東部を中心に領土の13パーセントを削減された。徴兵制は禁止され、兵力も450万から10万に削減された。ダンツィヒ(現グダニスク)や、ザールラント、ラインラントも国際的な管理下におかれた。ベルギーやデンマークに分割された地域もある。とりわけ痛手だったのは「ポーランド回廊」、すなわち西プロイセンとポーゼン(現ポズナニ)を新生ポーランドに割譲しなければならなかったことである。
 ドイツにとってさらに苛酷だったのは、巨額の賠償支払いが課せられたことである。それはドイツの政治に重くのしかかり、激しいナショナリズムを生む要因になっていく。
 大戦後のヨーロッパの政治的基調は議会制民主主義だった。投票権が拡大され、大衆政治が定着する。それとともに新聞の影響力も強まっていく。
 小選挙区制をとるイギリスでは、自由党と保守党の2大政党が政権の座を競ったが、比例代表制をとる大陸では政党が乱立し、政府が不安定になる傾向がみられた。
 しかし、どの国でも民主主義が尊重されていたわけではない。民主主義は見せかけだけで、内情は暴力的な独裁制ないし寡頭制が支配していた国もある。ソ連はいうまでもないが、ギリシアやアルバニア、ブルガリア、ルーマニアなどもそうした国々だった。
 スペインでは1923年以来、ミゲル・プリモ・デ・リベラ将軍による独裁がつづく。しかし、この独裁は比較的温和であった。公共事業によって、スペインには一時繁栄感すらただよった。
 新たに誕生したフィンランドとチェコスロヴァキアでは議会制民主主義が維持された。バルト3国のエストニア、ラトヴィア、リトアニアも同様である。
 ユーゴスラヴィアはセルビア人の王室のもとで創設された新国家(セルビア人・クロアチア人・スロヴェニア人王国が改称)である。議会制度をもっていたが、民族間の対立は深刻で、8年間で24の政府が入れ替わるありさまだった。
 いっぽうポーランドでは、民族的結束感が生まれていた。とはいえ、少数民族(ウクライナ人、ユダヤ人、ベラルーシ人、ドイツ人)がいなかったわけではない。1921年の民主憲法により、議会がつくられたものの、それはまとまりがなく、いかにも無能にみえた。ハイパーインフレ後の緊縮策が、経済的不安を招いていた。1926年にはピウスーツキ元帥がクーデターに踏み切る。
 小国となったオーストリアでは、社会民主党と反社会主義のキリスト教社会党とのあいだで対立がつづいていた。「赤いウィーン」では、社会民主党が勢力を保っていた。だが、農村部は圧倒的に保守的であり、社会民主党と結びついた民主主義は次第に劣勢に追いこまれていく。
 ハンガリーでは1919年に共産党政権が発足する。だが、クン・ベーラによるプロレタリア独裁政権は、ルーマニア軍の侵攻によってたちまち倒れ、右翼民族主義の保守勢力がハンガリーの支配権を奪還する。その結果、戦争の英雄ホルティ・ミクローシュが24年にわたり国家元首として君臨することとなった。
 戦後の混乱期、イタリアではコミンテルンを支持する社会党が議席を伸ばすなか、都市でも農村でも暴動が起き、革命は間近と思われていた。
 そんなときイタリアの北部と中部の都市で、「ファッシ」を自称する民兵組織が芽をだしはじめる。ベニート・ムッソリーニは、もともと社会党機関誌の編集長をしていたが、左翼社会党とたもとを分かち、次第に反革命に転じるようになった。
 1921年になって、自由党の政府は、社会党と人民党をたたくため、ファシストのムッソリーニを資金と武器で支援するようになる。ファシスト勢力が力を伸ばしたのは、意外なことにイタリア北部ではなく中部だった。ファシストは民兵部隊の容赦ないテロによって、社会主義者を攻撃し、以前の赤い県をたちまち自分たちの牙城に変えていった。
 こうして1921年10月に国家ファシスト党が誕生する。1922年5月に党員数は30万人を超えた。その10月には、黒シャツ隊によるいわゆる「ローマ進軍」が実施される。暴力的示威行動である。国王はファシスト党を支持し、ムッソリーニに首相就任を要請した。
 1923年11月、ムッソリーニは自党が有利になるように選挙法を改正し、1924年4月の選挙で、ファシスト党が大半を占める「国民ブロック」が議席の3分の2を獲得した。6月には社会党書記長ジャコモ・マッテオッティが暗殺される。その後、野党は弾圧され、報道の自由は撤廃され、政府はほぼファシストの手に握られることになる。
 いっぽうドイツでは、アドルフ・ヒトラーが1921年に国家社会主義ドイツ労働者党(通称ナチ)の指導者となり、バイエルン州を中心に勢力を広げていた。1922年秋には、ミュンヘンのビヤホールでヒトラーを「ドイツのムッソリーニ」と称える集会が開かれ、反政府的なナショナリスト過激派に火がつく。社会民主党を中心とするベルリンの政府は、各地で左右の激突が発生するなかで、次第に弱体化していった。
 1923年、ハイパーインフレが高じると、政治が両極化する。軍は共産主義者の蜂起を鎮圧するのに躍起になった。軍は右翼国粋主義の立場をも支持しなかった。それでも、ヒトラーはミュンヘンで劇場型の一揆を起こし、逮捕され、軽い禁固刑を言い渡された。
 民主主義はかろうじて生き残っていた。ドイツでは軍はまだ政府を支持していた。「だが、脅威は沈静化しただけで、消滅したわけではなかった」と、著者は書いている。ヴェルサイユ体制のくびきが、ドイツをしめつけていたからである。

カーショー『地獄の淵から』を読む(2) [本]

[50枚ほどの翻訳の仕事が終わって、ほっとしています。また読書を再開します。戦前のヨーロッパ史を読んでいます。きょうはその2回目。両親の介護で、またいなかに戻る前に読み終わるといいのですが……。]

 第1次世界大戦は「以前のどの戦争にも増して、大量殺戮を産業化した戦争だった」と、著者は書いている。大量の近代兵器が人命の大量損失を招いた。
 高性能砲、手榴弾、火炎放射器に加え、毒ガス、戦車、潜水艦、飛行船など、あらゆる軍事技術が戦場に投入された。兵士だけではなく、一般住民も殺害対象になった。
 1914年9月6日から9日にかけてのマルヌの会戦で、フランス軍はドイツ軍の進撃をくいとめる。塹壕が構築され、それから4年間、西部戦線は膠着状態となった。
 しかし、東部戦線では、戦況は中央同盟国側に有利に進んだ。
 東プロイセンのタンネンベルク近郊で、ドイツ軍はロシア軍に大敗北を負わせた。ガリツィアでは、ロシア軍がオーストリア軍を破り、ユダヤ人が大量に虐殺された。
 トルコではダーダネルス海峡のガリポリに上陸した50万人の連合国軍を、同盟国側のケマル・パシャ(アタテュルク)率いるトルコ軍が撃破する。そのいっぽう、アナトリア東部では、ロシアに共感をもつアルメニア人をトルコ軍が虐殺している。
 西部戦線が膠着しているため、1915年夏、ドイツ軍は東部に攻勢をかけた。同盟国のオーストリア軍はあてにならなかった。ドイツ軍はガリツィアを奪還し、ポーランドを占領、さらにラトヴィア、リトアニアを制圧した。
 ドイツ軍は、さらにオーストリア軍、ブルガリア軍とともにバルカン方面に進出し、セルビアを支配下においた。
 問題は西部戦線だった。1916年夏から冬にかけ、ヴェルダン(フランス北東部)では大激戦がつづいた。ドイツ軍、フランス軍双方の戦死者は70万人を超える。ソンムではイギリス軍と植民地軍がドイツ軍と戦い、双方で100万人以上の犠牲者をだしたが、戦略的には何の進展もなかった。
 ドイツはベラルーシ、ウクライナまで、軍を進めていた。そのあたりで、ロシア軍の反攻がようやくはじまる。
 1917年にはいると、ドイツは無制限潜水艦戦を開始する。Uボートに脅威を感じたアメリカのウィルソン大統領は、4月になってドイツに宣戦を布告する。
 激しい戦闘がくり広げられたものの、西部戦線では膠着状態がつづいていた。イギリス軍は11月のカンブレーの戦いで、はじめて戦車を投入する。
 だが、このとき、ロシアではすでに革命が発生していた。3月にロマノフ王朝が倒れ、ケレンスキー内閣が発足した(ロシア暦「2月革命」)。つづいて11月(ロシア暦10月)、レーニンが権力を掌握する。
 レーニンはさっそくドイツとの停戦合意に乗りだし、翌1918年3月にブレストリトフスク条約を結ぶ。これにより、ロシアは戦線から離脱し、バルト3国、ウクライナ、ポーランド領を失うことになる。
 アメリカのウィルソン大統領は1918年1月に「14カ条宣言」を発表する。戦争終結とヨーロッパ平和をめざす宣言で、のちに民族自決の原則と称される内容を含んでいる。
 だが、戦争はまだ終結していたわけではない。ロシアの戦線離脱により、中央同盟国は広大な領土を獲得した(のちに破棄)。
 ドイツは西部戦線に兵力を集中することができるようになった。しかし、そのドイツ軍にも疲れがみえるようになる。
 連合国軍にアメリカ軍が加わるようになると、ドイツ軍の総退却がはじまる。
 1918年11月9日、ヴィルヘルム2世が退位し、ドイツ帝国は崩壊、新政府が発足する。11月11日、ドイツは敗北を認め、休戦協定に調印した。それにより、第1次世界大戦は終結する。
 前線の兵士はいうまでもなく、戦争が人びとにおよぼした影響はさまざまだ。その影響は国によってもことなる。
 しかし、どの国でも、大勢の若者が動員された。統制経済と国家支出の大幅増がみられた。総力戦のもと、官僚機構は肥大化し、監視と強制、弾圧が強化された。東欧では、とりわけユダヤ人がひどい扱いを受けた。
 イギリスでもフランスでも、さまざまな意見対立はあったが、戦争遂行に向けた団結意識は揺るがなかった。ドイツでは総動員法が導入され、すべての国民が軍需産業での労働奉仕を義務づけられていた。
 だが、ロシアでは政府への反乱が発生する。1916年から17年にかけての厳しい冬場、激しいインフレが進むなか、人びとは深刻な食糧難と燃料不足に苦しんでいた。その怒りが労働者のストライキとデモを誘発し、兵士も労働者を支持した。帝国当局はその状況を収拾できず、皇帝はついに退位へと追いこまれた。最終的にボリシェヴィキが権力を握ったのは「平和とパン、土地の配分、工場の所有と管理、そして人民による法の掌握という約束」が支持されたからだ、と著者はいう。
 1917年4月、ドイツでは社会民主党が分裂し、戦争に反対する少数急進派がのちのドイツ共産党を結成することになる。1918年になると、ドイツの敗色は濃くなり、前線では脱走や投降が相次ぐ。10月末にはキールで水兵が反乱をおこした。翌月のドイツ敗北は、帝国の崩壊を意味した。
 イタリアは三国協商側についていたにもかかわらず、戦争では負けつづきだった。戦争末期、政府への不満が高まり、世論は分裂する。そんなころファッシ(結束)を標語とする右翼グループが台頭する。
 ハプスブルク帝国は終焉を迎えようとしていた。1916年11月には皇帝フランツ・ヨーゼフ1世が死去し、カール1世が帝位を継承する。しかし、1918年にはいると、食料暴動とストライキ、抗議デモ、民族主義的分離運動が広がり、帝国は四分五裂状態になった。
 10月末になると、チェコスロヴァキアとハンガリー、そしてその後ユーゴスラヴィアとなる地域が独立を宣言する。戦争は11月3日に終結する。それにより、カール1世は退位し、ハプスブルク家の支配は終わった。
 トルコではオスマン帝国が崩壊する。1916年以降、中東ではアラブ人の反乱が巻き起こっていた。この反乱を指導したのはイギリスとフランスである(アラビアのロレンスが名高い)。しかし、イギリスとフランスによる中東の領土分割は、のちに禍根を残すことになる。
「戦争は、粉々に壊れたヨーロッパを後に残した」と、著者は書いている。
 帝国ドイツとハプスブルク君主国、帝政ロシアの廃墟からは、不吉な力が生まれようとしていた。ナショナリズムとボリシェヴィズム、それに領土紛争の火種が熾火となって、新たな憎悪を呼び寄せようとしていたのである。

カーショー『地獄の淵から』(ヨーロッパ史)を読む(1) [本]

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 1914年から49年までのヨーロッパ史である。その後、現在までをえがく続巻も予定されている。著者のイアン・カーショーは、とりわけナチズム研究で知られ、ヒトラーについての浩瀚な伝記も書いている。
 大冊だ。はたして最後まで読めるか、心もとない。一度に読み切るのはとても無理だから、少しずつながめて、ごく短いメモと感想なりとも残しておきたい。
 まず、概論と第1章を読む。
 1914年から45年まで、ヨーロッパは悲惨な自滅の時代を経験した、と著者は書いている。地獄の淵にあったわけではない。まさに地獄を抜けたのである。
 破局をもたらした要因は4つあるという。

(1)民族主義・人種差別主義的ナショナリズム
(2)領土修正をめざす激しい要求
(3)ロシア革命を背景とした先鋭的階級闘争
(4)長期化する資本主義の危機

 並べてみると、なんだかいまと似ているような気がする。
 たとえ状況は変わっても、歴史はくり返されるのだろうか。
 本書にえがかれる現代ヨーロッパ史の概要は、次のようなものだ。
 第1次世界大戦(1914〜18)は、100年つづいたウィーン体制を崩壊させた。だが、終戦後の領土再編は、国家間、民族間、階級間の対立と緊張をさらに悪化させ、次の衝突を導いていく。
 とりわけイタリアとドイツでは、反ボリシェヴィズムとナショナリズムが結合して、右翼大衆運動が巻き起こり、過激右翼が政権を掌握する。
 大恐慌(1929)後の世界経済は混乱していた。大衆の不安にかこつけて、強さをうたう政治勢力が台頭していく。その運動は武力が国を救うという思想へと結実していく。こうして破滅的な第2次世界大戦(1939〜45)がはじまった。
「しかし、驚いたことに、第1次世界大戦が生み出した大混乱とは対照的に、第2次世界大戦はヨーロッパが20世紀後半に再生する道を切り開く」と、著者は記している。
 ヨーロッパ列強がヨーロッパ半島の覇権をめざして争う時代は終わり、二大国の米ソが核の力を背景ににらみあう時代がはじまったのだ。
 これが本書(全2巻を予定)のえがこうとする時代の大きな流れである。
 本巻では、とりあえず20世紀前半のヨーロッパに焦点があてられる。
 それをぼつぼつ読もうとしているわけだ。

 まずは第1章「瀬戸際で」。
 第1次世界大戦によって、ヨーロッパは「大破局」を迎えることになる。当時はだれも気づかなかったが、それは20世紀の「30年戦争」の幕開けだった。
 戦争がはじまる前、ヨーロッパは安定と繁栄、平和を謳歌していた。フランスはベル・エポック、ドイツはヴィルヘルム時代、アメリカは金ぴか時代の絶頂にあり、ヨーロッパ各地の都市は華やかな文化にあふれている。もっとも、ロンドンは文化よりも経済の都で、世界貿易の中心地だった。それを支えていたのは金本位制とイングランド銀行である。
 1900年、パリではオリンピックと万国博が開催された。繁栄はいつまでもつづくと思われた。だが、ヨーロッパ全体に繁栄が行き渡っていたわけではない。東西、南北、それに国による格差も大きい。ほとんどの国では、王権の支配がつづいていた。
 それでも社会の変化がおきつつある。普通選挙制度が導入された背景には、労働者階級の台頭があった、と著者はいう。イギリスでもフランスでもドイツでも労働者政党が生まれている。
 いっぽうで、ナショナリズムをあおる右翼の大衆運動も出現する。狂信的愛国主義にあふれた運動は、しばしば排外主義的で、人種差別主義的だった。それを支持したのは中産階級か下層中産階級で、かれらは拡張主義的な外交政策を支持した。
 反ユダヤ主義も広がりつつある。経済が悪化すると、ユダヤ人はスケープゴートにされがちだった。反ユダヤ主義は、第1次世界大戦前はある程度抑えられていた。それでも、ロシアでは何度もポグロムがおき、1905年10月には、3000人以上のユダヤ人が殺害されている。
 そのころ、優生学や社会ダーウィニズムが大手を振ってまかりとおるようになった。
「第1次世界大戦前のヨーロッパは、うわべの平穏とは裏腹に、のちの爆発的な暴力の種を宿していた」と、著者は書いている。
 ヨーロッパはずるずると第1次世界大戦に突入したようにみえる。だが、サラエヴォ事件のあと、1914年7月の危機において、決定的な引き金を引いたのはドイツだ、と著者はいう。
 ドイツはオーストリア・ハンガリー帝国(ハプスブルク帝国)を無条件で支持した。いっぽう、ロシアはセルビアを無条件で支持する。
 フランスとロシアは1894年に同盟を結んでいた(仏露同盟)。両方の側からドイツをはさんで、その力をそぐためだ。
 だが、その当のロシアは、オスマン帝国をたたくことで、ボスポラス、ダーダネルス両海峡を制し、念願の地中海進出をもくろんでいる。
 イギリスはロシアの勢力拡大を恐れている。ロシアが地中海、中東、中央アジアに進出すれば、イギリスの重要植民地であるインドがあやうくなるからだ。
 イギリスは1907年にロシアと英露協商を結んだ。日露戦争で敗北したロシアの勢力をいまならコントロールできると考えていた。
 1904年、イギリスはドイツの力を抑えるため、フランスとも英仏協商を結んでいる。これにより、1907年の協商とあわせて、イギリス、フランス、ロシアとのあいだで三国協商が結ばれたことになる。たがいに疑心暗鬼をひめた虚々実々の協商である。
 大きな陸軍をもたないイギリスは別として、ヨーロッパ各国は積極的に軍を増強していた。ロシアは350万、ドイツは210万、フランスは180万、オーストリア・ハンガリーは130万である。
 ほんとうなら、サラエヴォでの皇太子暗殺事件は、オーストリア・ハンガリー帝国とセルビアとのあいだで決着してもよかったはずである。それがなぜヨーロッパ全体を巻きこむ大戦争へと発展したのだろうか。
 暗殺直後、オーストリアの対応はにぶかった。それが、かえって「ゆっくりと燃え上がる導火線」になった、と著者はいう。
 そのかんドイツは素早く戦争の準備に動いた。オーストリアがセルビアに最後通牒を突きつけるのは、事件から3週間半が経過した7月23日になってからである。セルビアは当初、それを受け入れるつもりだった。ところが、セルビア側に立つロシアは、受諾に反対し、軍に総動員をかけた。単なる脅し、あるいは万一に備えただけかもしれない。
 ところが、ドイツは不安に駆られた。ドイツは8月1日、ロシアに宣戦を布告する。ロシアと協商関係にあるフランスは、これをみて軍に総動員をかける。8月3日、ドイツはフランスに宣戦を布告した。
 イギリスはドイツがヨーロッパ全土を支配することを恐れていた。そこで、ドイツがベルギーに侵攻した8月4日、ドイツに宣戦を布告した。
 いちばん最後に参戦したのは、皮肉なことにオーストリア・ハンガリー帝国である。大戦がはじまると、セルビアはむしろ蚊帳の外におかれた。
 ロシアの進出をおそれるオスマン帝国は、必然的にドイツ側に立って戦わざるをえない。
 どの当事国も、戦争は短期で終わると確信していた。そのために、最新の軍事技術を一気に投入した。長期の消耗戦は避けたい。
 モルトケの指揮するドイツ軍は、シュリーフェン作戦にもとづき、西部戦線でフランス軍を速攻で下し、とって返して東部戦線でロシアを撃破する計画を立てていた。ひと月もあれば、戦争に勝利するとみていた。
 ベルリンでもウィーンでもサンクトペテルブルクでもパリでも、多くの市民が愛国的熱気のなかで、戦争がはじまるのを歓迎した。やむなく祖国防衛に立ち上がる人もいた。
 どの国の新聞も、敵国へのヒステリーをあおった。
 ロシアでは首都のサンクトペテルブルクがペトログラードと改称された。サンクトペテルブルクという名前はあまりにもドイツ風と考えられたのである。
 ほとんどの人がクリスマスには戦争が終わると思っていた。
 だが、そうはならなかった。戦争ははじめるのは簡単だが、おわらせるのはむずかしいのである。
 しかも、その戦争は帝国主義時代の動向とからんで、ヨーロッパにかぎらず世界じゅうに飛び火していった。


賤視と差別?──『日本の歴史をよみなおす』雑感(3) [くらしの日本史]

 前回は天皇についてふれたが、網野史学の本領が社会史、民衆史にあることはいうまでもない。これまであまり光をあてられていなかった庶民の世界に、網野は目を向ける。
 とりわけ微妙なのは非人や河原者のあつかいだ。
 中世の非人や河原者を、網野はもともと「神仏直属の神人(じにん)、寄人(よりうど)と同じ身分」だったとしている。
 非人は「下人」とは区別される。下人は不自由民であり、奴隷だった。これにたいし、非人は寺社に属し、死体の処理や葬送にかかわる仕事をしていた。
 ケガレを忌む意識は古代から強かった。ケガレは伝染すると考えられたので、清めの手続きが必要になってくる。非人は死穢や産褥、罪穢をきよめる役割を担っていた。京都では清水坂、奈良では北山宿が非人の拠点だったという。
 非人は平民の共同体に住めなくなった人たちだ。捨て子、身寄りのない人、不治の病にかかった人も含まれる。乞食や芸能民も非人に位置づけられていた。かれらの仕事は、世のケガレをきよめることである。なくてはならない職掌だった。
「14世紀までの非人を、江戸時代の被差別部落と同じようにとらえてしまうことは、かなりの誤りを生むのではないか」と網野はいう。非人は神仏の「奴碑」として聖別された存在だった。
 非人のなかでも河原者は独特の存在だ。牛や馬の葬送や解体、皮の処理などに加えて、造園や井戸掘りなどの土木作業にも従事していた。
「放免」と呼ばれる人たちもいる。もともと罪人だったが、文字どおり放免された者で、検非違使(けびいし)のもとで、犯人の逮捕や処刑、葬送にあたった。
 僧形の非人には、かならず丸という名がついている。丸というのは童名だが、髪形も蓬髪で、髻(もとどり)を結っていない。牛飼いや輿・ひつぎをかつぐ役割をはたしていた。八瀬童子が有名だ。鵜飼や猿曳も蓬髪で童姿をしていた。
 網野によると、丸をつけて呼ぶのは、聖俗の境界にあるものをさしているという。そういえば、動物や武器、砦、船にも、よく丸の名がつけられる。
 穢多ということばが登場するのは13世紀後半のことで、もとは餌取がなまったものとされる。このころから、非人、河原者にたいする差別意識がでてきた。
 13世紀末の『一遍聖絵』には、非人や乞食(こつじき)、遊女の姿が数多くえがかれている。網野は「一遍による非人の救済を絵を通して描くことが、この絵巻の作者のひとつのねらいではなかったか」と述べている。
 一遍を擁護し、その布教を支持してきたのが、山賊や海賊と呼ばれてきた「悪人」であったことも指摘されている。
 15世紀になると、非人や河原者を穢多として差別する風習が強まり、さらに江戸時代にはいると、被差別身分が固定されるようになってくる。賤視がはじまったのは近世になってからだといってよい。

 ところで、われわれは、日本では女性は昔から差別され、抑圧されていたと思いがちである。
 どうもそうではなさそうだ。
 1562年に来日し、1597年に亡くなるまで35年間、日本に滞在したルイス・フロイスは当時の日本の女性について、貴重な証言を残している。それによると、日本の女性は処女の純潔を重んじないとか、意のままに離別するとか、夫に知らせず好きなところに出かけるとか、夫とは別に自分の財産をもっているとか、意外に自由だったことが記されている。
 こうした状況はその後もつづき、江戸時代の女性は男性に抑圧されていたという通説はかなりあやしいと網野も述べている。
 歌垣や夜這いの風習も残っていた。女性が遠くにはたらきに行ったり、自由に旅をしたりするのもごくあたりまえにおこなわれていた。
 戦国から江戸時代にかけて「女性が無権利できびしく抑圧されていた」という見方は実態からかけはなれている、と網野はいう。
 中世には、武装して戦う女性もいた。女の地頭や名主、荘官もいた。借上(かしあげ)や土倉と呼ばれる金融業をいとなむ女性もいたのだという。
 女性の遍歴民は早くから確認できる。歩き巫女とか遊行女婦と呼ばれる存在だ。それが10世紀から11世紀にかけて、女性の長者に率いられた遊女の集団となっていく。彼女たちは「天皇や神に直属する女性職能民」であって、その地位はけっして低くなかった。
 そのなかからは商業にたずさわる女性もでてくる。網野は、鎌倉、南北朝時代までは、女性は思うよりはるかに、社会的に活動していたと述べている。女性と男性の社会的地位には実際にはそれほどのちがいがなかったという。
 とはいえ、中国風の律令制度が採用されるようになったころから、建前上は、男が公的な世界を取り仕切るという体制ができていた。
 そして、室町、戦国時代以降、女性の地位は次第に低下していく。家父長制が建前となり、土地財産についても女性の権利が弱くなり、女性が田畠を持つ権利はなくなってしまう。16世紀、17世紀になると、商工業の分野でも女性が表立って活躍することはなくなる。遊女にたいする賤視もはじまっている。
 しかし、江戸時代でも、現実には屋敷の内部や財産を仕切っていたのは女性だったといえそうである。女性の識字率は高かったし、「おかげまいり」のように旅する女性も多かった。商家の女主人は大きな力をもっていた。近世の女性はたしかに抑圧されていたかもしれないが、けっしてたくましさを失っていたわけではない、と網野は語っている。

『負債論』(デヴィッド・グレーバー)書評 [本]

 借金やローンは悩みの種だ。借金なんかしなければよかったと思っても後の祭り。家や車がほしかったり、教育資金や事業資金が必要だったりと、借金には人さまざまな理由がある。商売がうまく立ちゆかず、負債に悩んでいる人も多い。板子一枚下はまさに借金地獄。それなのに、国が1200兆円以上も借金をかかえながら、ひとごとのように平気な顔をしていられるのは、なぜか。
 本書の著者、デヴィッド・グレーバーは、イギリスの名門大学、ロンドンスクール・オブ・エコノミクス(LSE)の人類学教授で、アナキストの活動家としても知られる。「われわれは99パーセントだ」というスローガンをつくり、ウォール街占拠運動の理論的指導者として一躍有名になった。反グローバリズムを唱え、サミットにも反対している。そのグレーバーの代表作が、この『負債論』である。
 本書が問題にするのは、人がいつのまにか信じこんでいる、お金にまつわる道徳意識についてである。「借りたお金は返さなければならない」。だが、ほんとうにそうなのかと問うところから、著者の探求ははじまる。
 そもそも負債、借金とは何か。負債は貨幣で計算され、貨幣で返済を義務づけられる。だとすれば、負債の根源には貨幣がある。著者が負債の歴史を研究しようと思い立ったのは、2008年の金融危機を経験してからだという。それは「念の入った詐欺」以外のなにものでもなかった。さらに、そのさい救済されたのが一般市民ではなく、金融企業すなわち銀行だったことに疑問をいだいた。
 それにしてもすごいのは、本書が負債のもととなる貨幣の歴史を、5000年さかのぼって古代メソポタミアからたどろうとしていることだ。
 経済学では、ふつう貨幣は物々交換から生まれたとされる。その神話を著者は疑う。なぜなら、双方の欲求が一致しなければ成立しない物々交換ほどむずかしいやりとりはないからだ。物々交換の困難さを解消するために貨幣が生まれたという経済学の仮説は、観念上の操作でしかない。
 世界の歴史をたどれば、人類が物々交換をおこなっていた形跡はどこにもみあたらない。分かち合いや贈与、広い意味での貸し借りはあったけれども、物々交換はなかった。実際に物々交換らしきものがおこなわれたのは、かえって近代になってからであり、貨幣崩壊が生じた戦後の混乱期などにかぎられる。
 経済学の考え方は、当初、貨幣には塩や貝殻や干鱈、たばこ、砂糖、釘など、だれもが交換しやすい物品が用いられていたが、次第に金属が貨幣として用いられるようになり、次に紙幣が登場して、信用が発達し、金融システムが形成されていったというものである。だが、それは貨幣のほんとうの歴史ではない、と著者はいう。
 スミスもマルクスも、国家から市場社会を切り離して、経済理論を構築した。そのため、商品の物々交換から貨幣が生じ、さらに貨幣が資本をつくりだしたと考えた。そうではない。商品から貨幣が生まれるのではなく、貨幣があるからこそ商品が出てくるのだ。
 スミスが市場社会ユートピアを構想したのにたいし、マルクスは市場社会ディストピアを暴きだした。スミスは資本の拡張が豊かな社会を生みだすと考えたが、マルクスは資本の蓄積こそ貧富の拡大と社会の分裂を招くととらえた。そのため、スミス流では資本の拡張、マルクス流では資本の解体が求められる。
 だが、著者によれば、スミスもマルクスもまちがっているということになる。実際には、スミスは国家なき市場社会を理想とし、マルクスは市場社会なき国家(プロレタリア独裁国家)を理想としているのだ。その前提となったのが、貨幣は商品交換ないし物々交換から生じたという考え方である。そうでないとすれば、貨幣はいったいどこから生じたのだろうか。
 歴史を振り返れば、貨幣が発生したのは、紀元前3000年ほど前、メソポタミアのシュメール文明においてである。貨幣は官僚によって発明され、都市に貯蔵される物資を集めたり分配したりするのに用いられた。その貨幣は金属片ではなく、粘土板に刻まれたしるし(仮想貨幣)だった。
 貨幣をつくったのは国家にほかならない。国家は常備軍を維持するために、兵士に貨幣を配布し、それで食料品をはじめとする物資を調達させた。いっぽう、国民にたいしては、税を貨幣で払うよう求める。すると、この貨幣は流通しはじめ、市場が生まれるのだ。国家と市場はつきものであり、国家なき社会は市場も持たないと著者はいう。
 メソポタミアでは、神殿の役人が商人たちを国外に派遣し、羊毛や皮革を売らせて、国に足りない木材や金属を買わせていた。そのため仕入れの前貸しとして渡されたのが貨幣である。貸し付けは利子をともなって返済されなければならなかった。やがて、貸し付けは商人だけではなく農民にもおよぶようになる。農民はしばしばその負債に堪えきれず、歴代の王は権力の座につくとき債務取り消しの特赦を発令するのが慣例になった。貨幣と市場は国家によって生みだされ、人びとは国家に借りを返すよう求められる。それが税の原点だと著者は考えている。そして、負債もまた貨幣とともに発生した。
 貨幣の歴史は負債の歴史でもあり、血と暴力によっていろどられている。それを象徴するのが奴隷制だ。奴隷制は古代から存在した。戦争と債務が奴隷を生みだした。奴隷は貨幣によって売買される。メソポタミアも古代ギリシアもローマ帝国も奴隷制の上に成りたっていた。
 ふたたび奴隷制が復活するのは近世になってからである。16世紀から18世紀にかけ、1000万人以上のアフリカ人奴隷が大西洋の向こうに輸送されていった。奴隷制は人間が商品となる貨幣経済時代の到来を象徴していた。そこにはかならず暴力が介在していた。貨幣はけっして純粋無垢ではない、と著者はいう。
 ところで、貨幣といわれて、まず思い浮かべるのは金属貨幣だろう。世界ではじめて硬貨がつくられたのは、紀元前600年ごろ、リュデイア王国(現アナトリア西部)においてである。丸い琥珀金(金と銀の合金)に記章が刻印されていた。まもなく地域をへだてた華北平原、ガンジス川流域、エーゲ海周辺でも、ほぼ同時期に硬貨の鋳造がはじまる。
 硬貨のもつ意味は大きい。硬貨は金属のかたまりであるけれども、そこには数と像がきざまれており、一片の金属以上のものとして流通した。問題は硬貨の保証が主に都市の内部にかぎられることだった。都市の外に出て、無縁の地に出れば出るほど、硬貨はただの金属のかたまりに戻ってしまう。遠方交易はそうした硬貨の難点を乗り越えねばならなかった。とはいえ、金属としての硬貨が出現することによって、貨幣は世界貨幣への一歩を踏みだしたといえる。
 著者が貨幣の出現以来5000年の歴史を5段階に分類し分析しているところが、本書後半の読みどころである。仮想貨幣と金属貨幣の交替に沿って、世界史は次のように区分される。(1)最初の農業帝国時代(前3500年—前800年)(2)枢軸時代(前800年—後600年)(3)中世(600年—1450年)(4)資本主義時代(1450—1971年)(5)現代(1971年以降)。
 この壮大な世界史を詳しく紹介するわけにもいかない。だが、一般的に世界史においては、国家が弱体な時代と強大な時代がくり返し生じ、それにともなって貨幣が仮想貨幣になるか金属貨幣になるかが決まるという。金属貨幣の時代は、国家が強大化し、奴隷制と人間の商品化が進展する時代でもあった。
 著者によれば、資本主義が生まれるのは、15世紀後半、ヨーロッパにおいて、国家から特許状を受けた冒険商人組合、すなわち会社が武装し、海外で冒険をはじめたときからである。国家なき純粋な資本主義など、最初からありえなかった。1520年から1640年にかけ、ヨーロッパにはアメリカから途方もない金銀が流入し、価格革命を引き起こした。その結果、物価が上昇し、囲い込み運動によって農民は土地を追われ、海外植民地に行くか、国内の工場で働くかのどちらかを選ばねばならなくなった。
 著者は、アメリカ大陸に侵攻し、アステカ帝国を倒し、世界史上最大の窃盗行為をおこなった、借金まみれのコルテスの行動こそが、資本主義の原型だったと述べている。そのアメリカでは、疫病と鉱山での強制労働によって、先住民が次々と死んでいった。スペイン人はインディオに重税を課し、支払いのできない者にカネを貸し、返せないものを負債懲役人にしていった。
 資本主義をもたらしたのは国家権力である。国家は市場をつくり、人びとを働かせ、貨幣なしには暮らしていけないシステムをつくりあげていく。そこでは貨幣の暴力が作用し、負債に縛られる人が数多く生まれる。
 紙幣をつくったのも国家だといえる。1694年にイングランド銀行が設立され、はじめて生粋の紙幣が発行された。国王による負債を認める見返りとして、商人たちが銀行券発行の許可を得たのが、そもそものはじまりである。したがって、紙幣とは国家による約束手形のようなものだといってよい。信用されなくなれば、たちまち紙切れになってしまう。
 資本主義は継続的で終わりのない成長を必要とする。5パーセント程度の経済成長が必要だとだれもが思っている。そうした一種の強迫観念が生まれたのは19世紀はじめではなく、むしろ1700年ごろを起点とする近代資本主義の黎明期だった。そのときすでに信用と負債からなる巨大な金融装置のもとで、ヨーロッパ諸国家の海外進出がはじまった。
 資本主義とは貨幣の循環的拡大をめざす国家システムなのだ。それは債権者が次々と債務者をつくりだし、貨幣を回収しつづけることで、はじめて成り立つシステムだといってもよい。それを媒介するのが商品である。貨幣はけっして媒介ではない。労働者は給料どろぼうと指さされないように、一生懸命ものをつくり、売るためにはたらく。そう考えれば、経済学者が称賛するのとは裏腹に、資本主義はずいぶん倒錯した経済モデルだということができる。
 いつも回転しつづけていなければ倒れてしまう資本主義というシステムは不安定で、常に時限爆弾の恐怖につきまとわれている。順調な成功を収めると思えた瞬間に、なぜかがらがらと崩壊しはじめるという「黙示録」的な見通しを、著者は資本主義にいだいている。
 1971年8月のニクソン・ショックによって、ブレトンウッズ合意は崩れ、変動通貨体制がはじまった。これが新しい時代の扉だったことはまちがいない。現在は過渡的な時代だ、と著者はいう。アメリカの時代が終わるのか、新しい中世がくるのか、これから先はなかなか見通せない。変動為替制になったいまも、ドルが基軸通貨であることに変わりはなく、むしろ、これまで以上にドルに振り回される通貨体制ができあがっているかのようにみえる。
 しかし、なにかがはじまっている予感は、仮想貨幣の広がりをみてもわかる、と著者はいう。VISAとマスターカードが登場したのは1968年だが、本格的にキャッシュレス経済がはじまるのは1990年代になってからだ。仮想通貨が国家紙幣をのみこんでしまう時代が訪れようとしている。
 いまはどういう状況にあるか。アメリカの軍事力は巨大なのに、はるかに弱体な勢力を倒せないでいる。ライバルの中国やロシアを圧倒することもできなくなった。好き勝手に通貨を創造しようとしたアメリカの力は、数兆ドルの支払い義務を累積させ、世界経済を全面崩壊寸前にまで追いつめてしまった。いまアメリカの長期国債を支えているのは、おもに日本と中国だ。とりわけ中国の役割が見逃せない。
 戦後のケインズ時代には生産性と賃金が上昇し、消費者経済の基礎がつくられた。だが、1970年代後半以降、サッチャー、レーガン政権が誕生すると、ケインズ主義は終焉を迎え、生産性と賃金の連動性は失われ、賃金は実質的に低落していった。マネタリズムによって、貨幣は投機の対象と化した。そして、賃金が上昇しないなか、労働者はクレジットカードをもつようになり、サラ金にはまり、住宅ローンに追われるようになった。
 個人の負債は、けっして放縦が原因なのではない。カネを借りなければ、まともな生活などできないのだ。家族のために家を、仕事のために車を、その他、教育やさまざまな楽しみのためにカネをかけてはいけないのだろうか。じぶんたちも投資家とおなじように、無からカネをつくりだしてもいいはずだ。すると、どんどんカードをつくり、どんどんローンを借りればいいということになる。その結果、だれもが罠にはまった。2008年のサブプライム危機が発生したのだ。このとき政府が救済したのは一般市民ではない。金融業者は税金で救済された。だが、一般の債務者には自己破産という苛酷な仕打ちが待っていた。
 資本主義は終わりそうだという見通しに直面したが、そのオルタナティブはまだ想像の外にある、と著者はいう。いや、むしろ、そうしたオルタナティブを封じるために、国家は恐怖と愛国主義をあおり、銃(軍備)と監視の社会をさらに強化しようとしている。加えて、グローバル化の進展が、先進工業国の停滞(とりわけ中産階級の没落)と新興国民国家の躍進を生み落とし、それが双方のナショナリズムをかきたてているのだ。
 しかし、いまでも現在の経済活動に秘められているのは自己破壊衝動でしかなく、統制不能の破局が生じる可能性は低くない、と著者はいう。だからこそ、われわれは民衆のひとりとして、歴史的な行為者になることを求められている。だとすれば、「いま真の問いは、どうやって事態の進行に歯止めをかけ、人びとがより働かず、より生きる社会にむかうか、である」と、著者は論じる。
 著者は、聖書にえがかれたヨベルの律法のように、国際的債務と消費者債務を帳消しにせよと求める。借金を返せという原理は、はれんちな嘘だという。すべてを帳消しにし、再出発を認めることこそが、「わたしたちの旅の最初の一歩なのだ」と宣言している。
『負債論』は世界じゅうに大きなインパクトを与えた。世界を想像しなおすことを求めて、本書は終わる。読みやすいとはいえないが、さまざまな想像をかきたてるラディカルな本である。

天皇をめぐって──『日本の歴史をよみなおす』雑感(2) [くらしの日本史]

 網野善彦は、天皇についてもふれている。
 時代は5、6世紀にさかのぼる。まだアニミズムや呪術が盛んな時代。そのころ畿内では、豪族が合議によってひとりの王を立てる大王(おおきみ)の制度が定着しはじめていた。
 しかし、日本でも本格的に国家形成の動きがはじまるのは、唐の影響を受け、仏教や儒教がはいってからだという。天皇という称号がはじめて用いられるのは7世紀後半の天武、持統朝になってからだ。日本という国号もそのころつくられている。
 日本の天皇の特徴は、中国の影響を受けながらも、天命思想を排して、皇孫による血縁継承を基盤にしていることだ、と網野はいう。
 天皇は氏名をもたない。むしろ、氏名をあたえる存在だ。天皇は人に名前をあたえることによって、人を支配したのだ。
 日本という国号は王朝名でもないし、部族名でもない。やまとと読めば、それは王朝名だが、ひのもとと読めば、中国からみた東の方向をさす。どちらかというと、日本というのは、中国を意識してつけられた特異な国号だ、と網野は指摘する。
 天皇は律令制と貴族(太政官)の合議体の上に立つが、それとは別にもうひとつの顔をもっている。それは日の御子、すなわち神聖王という側面で、この点が中国の皇帝ともっともちがう面だ、と網野はいう。
 大和朝廷は租庸調という税の上に成り立っていた。租は初穂の貢納、庸は労役、調は特産物(絹や布、塩、鉄など)の貢納。もともと習俗に由来するこうした税制は、律令制によって、さらに制度化されることになる。
 8世紀ごろは、まだ豪族の代表である太政官の力が強く、天皇もそれに制約されていた。ところが、9世紀になると唐風の文化が栄え、貴族のなかでも藤原氏や源氏が優勢になるとともに、天皇の発言力も増してくる。
 10世紀をすぎると、特定の職を特定の氏がになう体制が定着し、貴族の家格が定まってくる。天皇の職を天皇家が世襲して受け継ぐことがあたりまえになっていく。
 11世紀なかばに、荘園公領制ができあがる。荘園とは中央貴族や地方富豪、寺社などが開拓した農地。だが、国司の管理する公領も同じくらいの広さがあった。荘園も公領も国に税を納めることは変わりない。
 そのころから非農業民も増えてくる。神人(じんにん)や供御人(くごにん)、寄人(よりうど)と呼ばれる人びとだ。神人は神につかえる人びと、供御人は朝廷に食材や調度品を納める集団、寄人は荘園などの保護を受ける商工業者だ。
 日本では仏教が朝廷に深く入りこむのは9世紀ごろからだといわれる。天台宗、真言宗が生まれ、10世紀になると寺院の力が大きくなってくる。
 持統天皇以来、江戸時代まで、天皇の葬儀は仏式でおこなわれており、たいていは火葬だった。即位式にも、かつては密教の儀式が取り入れられていたという。
 皇室と仏教のかかわりは思ったより強い。われわれの知る天皇家の「伝統」、ひいては日本の「伝統」は、まさにつくられた伝統なのだ。
 網野は日本をひとつの国ととらえる常識に疑問を投げかけている。大和朝廷の支配は、現在の北海道沖縄はいうまでもなく、東日本にもおよんでいなかった。
 10世紀になると、平将門の乱がおこり、東国は王朝の支配下から一時離脱する。乱は鎮圧されるが、その後、東北では、安倍氏、清原氏、奥州藤原氏などが勢力を広げ、12世紀末に鎌倉幕府が成立すると、三河、信濃、越後以東は幕府の支配下にはいる。
 網野によると、こうして日本は、西は天皇、東は将軍の治める国になったという。少なくとも、幕府の成立以来、天皇の支配権は東国におよばなくなった。さらに13世紀の蒙古襲来以降、九州にも天皇の支配はおよばなくなる。
 しかし、それでも天皇は完全に権力を失ったわけではない、と網野は指摘する。少なくとも、西国に関しては、朝廷が支配権をにぎっていた。ところが、13世紀後半になると、その支配権もだんだん幕府に奪われ、天皇制は大きな危機を迎える。
 内部分裂も進んでいた。天皇を「聖なるもの」とあがめる信仰もだいぶ薄れてきた。
 そこに登場するのが後醍醐天皇だ。だが、その新体制はあえなく失敗する。そのとき、南朝が滅ばされていたら、ここで天皇家は消えていただろう、と網野は推測している。
 14世紀後半、足利義満の時代にも、天皇家はピンチにおちいる。後醍醐の息子、懐良(かねよし)が明に使いを送り、明から正式に「日本国王」と認められたのだ。義満はこれをつぶし、逆にみずから明に使いを送り、「日本国王」と名乗ることになった。このとき義満は息子を天皇にし、自身は太上天皇になろうとしていたという説もある。
 織田信長が登場したときも、天皇家は廃絶の危機を迎えた。だが、神になろうとした信長は、本能寺で死に、あとの秀吉は天皇と合体して、日本国を継承する方向に舵を切りなおした。徳川家康もその路線を継承する。
 15世紀以降、明治維新まで、天皇は形式上の官位叙任権をもつだけの存在になっていたかのようにみえる。だが、それはけっして権威や権力がなくなったことを意味しない、と網野はいう。ここには日本の社会の特異な構造がある。その構造は近代以降もつづいている。それは、おおやけを代表する存在だということだ。そのあたり、もうすこし深く考えてみる必要がある。