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賤視と差別?──『日本の歴史をよみなおす』雑感(3) [くらしの日本史]

 前回は天皇についてふれたが、網野史学の本領が社会史、民衆史にあることはいうまでもない。これまであまり光をあてられていなかった庶民の世界に、網野は目を向ける。
 とりわけ微妙なのは非人や河原者のあつかいだ。
 中世の非人や河原者を、網野はもともと「神仏直属の神人(じにん)、寄人(よりうど)と同じ身分」だったとしている。
 非人は「下人」とは区別される。下人は不自由民であり、奴隷だった。これにたいし、非人は寺社に属し、死体の処理や葬送にかかわる仕事をしていた。
 ケガレを忌む意識は古代から強かった。ケガレは伝染すると考えられたので、清めの手続きが必要になってくる。非人は死穢や産褥、罪穢をきよめる役割を担っていた。京都では清水坂、奈良では北山宿が非人の拠点だったという。
 非人は平民の共同体に住めなくなった人たちだ。捨て子、身寄りのない人、不治の病にかかった人も含まれる。乞食や芸能民も非人に位置づけられていた。かれらの仕事は、世のケガレをきよめることである。なくてはならない職掌だった。
「14世紀までの非人を、江戸時代の被差別部落と同じようにとらえてしまうことは、かなりの誤りを生むのではないか」と網野はいう。非人は神仏の「奴碑」として聖別された存在だった。
 非人のなかでも河原者は独特の存在だ。牛や馬の葬送や解体、皮の処理などに加えて、造園や井戸掘りなどの土木作業にも従事していた。
「放免」と呼ばれる人たちもいる。もともと罪人だったが、文字どおり放免された者で、検非違使(けびいし)のもとで、犯人の逮捕や処刑、葬送にあたった。
 僧形の非人には、かならず丸という名がついている。丸というのは童名だが、髪形も蓬髪で、髻(もとどり)を結っていない。牛飼いや輿・ひつぎをかつぐ役割をはたしていた。八瀬童子が有名だ。鵜飼や猿曳も蓬髪で童姿をしていた。
 網野によると、丸をつけて呼ぶのは、聖俗の境界にあるものをさしているという。そういえば、動物や武器、砦、船にも、よく丸の名がつけられる。
 穢多ということばが登場するのは13世紀後半のことで、もとは餌取がなまったものとされる。このころから、非人、河原者にたいする差別意識がでてきた。
 13世紀末の『一遍聖絵』には、非人や乞食(こつじき)、遊女の姿が数多くえがかれている。網野は「一遍による非人の救済を絵を通して描くことが、この絵巻の作者のひとつのねらいではなかったか」と述べている。
 一遍を擁護し、その布教を支持してきたのが、山賊や海賊と呼ばれてきた「悪人」であったことも指摘されている。
 15世紀になると、非人や河原者を穢多として差別する風習が強まり、さらに江戸時代にはいると、被差別身分が固定されるようになってくる。賤視がはじまったのは近世になってからだといってよい。

 ところで、われわれは、日本では女性は昔から差別され、抑圧されていたと思いがちである。
 どうもそうではなさそうだ。
 1562年に来日し、1597年に亡くなるまで35年間、日本に滞在したルイス・フロイスは当時の日本の女性について、貴重な証言を残している。それによると、日本の女性は処女の純潔を重んじないとか、意のままに離別するとか、夫に知らせず好きなところに出かけるとか、夫とは別に自分の財産をもっているとか、意外に自由だったことが記されている。
 こうした状況はその後もつづき、江戸時代の女性は男性に抑圧されていたという通説はかなりあやしいと網野も述べている。
 歌垣や夜這いの風習も残っていた。女性が遠くにはたらきに行ったり、自由に旅をしたりするのもごくあたりまえにおこなわれていた。
 戦国から江戸時代にかけて「女性が無権利できびしく抑圧されていた」という見方は実態からかけはなれている、と網野はいう。
 中世には、武装して戦う女性もいた。女の地頭や名主、荘官もいた。借上(かしあげ)や土倉と呼ばれる金融業をいとなむ女性もいたのだという。
 女性の遍歴民は早くから確認できる。歩き巫女とか遊行女婦と呼ばれる存在だ。それが10世紀から11世紀にかけて、女性の長者に率いられた遊女の集団となっていく。彼女たちは「天皇や神に直属する女性職能民」であって、その地位はけっして低くなかった。
 そのなかからは商業にたずさわる女性もでてくる。網野は、鎌倉、南北朝時代までは、女性は思うよりはるかに、社会的に活動していたと述べている。女性と男性の社会的地位には実際にはそれほどのちがいがなかったという。
 とはいえ、中国風の律令制度が採用されるようになったころから、建前上は、男が公的な世界を取り仕切るという体制ができていた。
 そして、室町、戦国時代以降、女性の地位は次第に低下していく。家父長制が建前となり、土地財産についても女性の権利が弱くなり、女性が田畠を持つ権利はなくなってしまう。16世紀、17世紀になると、商工業の分野でも女性が表立って活躍することはなくなる。遊女にたいする賤視もはじまっている。
 しかし、江戸時代でも、現実には屋敷の内部や財産を仕切っていたのは女性だったといえそうである。女性の識字率は高かったし、「おかげまいり」のように旅する女性も多かった。商家の女主人は大きな力をもっていた。近世の女性はたしかに抑圧されていたかもしれないが、けっしてたくましさを失っていたわけではない、と網野は語っている。