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『羊をめぐる冒険』から『ねじまき鳥クロニクル』まで──『村上春樹は、むずかしい』を読む(2) [われらの時代]

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 1982年『羊をめぐる冒険』
 1985年『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』
 1987年『ノルウェイの森』
 1988年『ダンス・ダンス・ダンス』
 1992年『国境の南、太陽の西』
 1994年〜95年『ねじまき鳥クロニクル』

 村上春樹の創作活動はきわめてコンスタントだ。まるで、毎日の朝の勤行にようにおこなわれている。
 そのことにまず驚く。躁鬱型でも破滅型でもないようだ。
 ほんとうにものを書くのが楽しいのだろう。その純粋さがたぶん読者に伝わるのだ。
 ここに挙げた作品で、ぼくが読んだのは『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』と『ノルウェイの森』だけである。
 だから、えらそうなことはいえない。それも、あまりよくわかっていないのだ。
 加藤典洋にいわせれば、80年代から90年代にかけて、ポストモダンの時代がはじまっている。
 ポストモダンの特徴は「情報社会化」と「ヴァーチャル・リアルな世界」だ。
 それを先取りした作品が『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』だという。
 この作品では、意識の世界と無意識の世界がパラレルにえがかれる。
 意識の世界は、めくるめくリアル(小説的現実)によって翻弄される。これにたいし、無意識の世界は、「私」の奥底にある「僕」の静謐な思いに満ちている。
 と書いてみたものの、ほんとうにその解釈が正しいかどうか、心もとない。
 リアルな世界、つまりハードボイルド・ワンダーランドは、ハリウッド映画のように、冒険に冒険がつづく場所だ。
 物語は、かわいい太った女の子と地下にもぐり、その祖父である博士から、「計算士」である「私」が仕事を依頼されるところからスタートする。地上に戻った「私」にいきなり邪悪なものが襲いかかる。その謎を解くべく、「私」はふたたび地下にもぐり、太った女の子の協力を得て、邪悪なものと戦いつつ、ようやく地上に帰還するのだ。
 これは頭にえがかれたファンタジーだ。しかし、あのころ、ぼくも会社という場所で戦っていたことを思いだす。上司に叱咤激励されながら、いろいろな会社を回って契約をとってくる仕事は、きつくはなかったけれど、それなりにたいへんだった。まるで相手にされないこともあったし、同僚と喧嘩をすることもあった。その点、人生はたしかにハードボイルド・ワンダーランドなのである。
 しかし、そうした戦いの毎日とは別に、何か別のわきだしてくるもの、ぼくが求めているのは、ほんとうはこんなことではないという思いがあったのもたしかである。そうした思いは年を取るにつれて、しだいに枯れていくものなのかもしれないが、村上春樹はそうした無意識の場所をパラレルワールド、すなわち「僕」の行き着く「世界の終り」として、やはり映画のようにえがいている。
 加藤典洋によれば、「世界の終り」は「否定性のない定常的な世界」だという。ここでは誰もが生来もつ苦しみと矛盾は切り捨てられる。いわばニルヴァーナ(涅槃)に向かう場所だ。いずれ人の心の核にある無意識は、熱い塊から、だんだんと冷えて、黒い塊へと落ち着いていくのだろう。
 しかし、村上春樹はまだ若い。心を滅却して、「世界の終り」に安住することを拒否するのだ。その選択はかなり微妙なものとならざるをえない。
 というのも、「世界の終り」に安住することを拒否するとしても、その方法はふたつあるからである。
 ひとつは「世界の終り」から完全に脱出することだ。すると、無意識の欲求は完全に断ちきられ、現実に順応することがすべてとなる。これにたいし、村上が選んだ道は「世界の終り」を苦しみながらさまようことだったと思われる。
 無意識のなかからわきだしてくるものを、現実の必要性(身過ぎ世過ぎ)のために抑え、切り捨ててしまうのではなく、そのわきだしてくるものに随伴すること。
 加藤はその方向について、竹田青嗣のことばを借りながら、「自らの内閉的な『世界』のイメージにこそ抵抗しようとする『作家のひどく困難な意志のかたち』を指し示している」と表現している。
 このとき、村上春樹の無意識には、何がわだかまっていたのだろう。
 加藤は村上のある習作をもとに、こう紹介している。

恋人は精神的な病いに苦しみ、自殺している。死ぬ前、彼女はいった、本当の自分はここにいるのではない、「高い壁に囲まれ」た内部の世界に閉じこめられていると。彼は尋ねる。「そこに行けば本当の君に会えるのかい?/そして、彼女が死んだあと、「僕」はそこに向かう。」

 それが大ベストセラー『ノルウェイの森』に結実することはいうまでもない。
 ぼくは、最近、とみに老人力が増してきて、昔読んだ小説の筋など忘れてしまっている。
『ノルウェイの森』を読んだのは、はるか昔のことで、いまではほとんど何も覚えていない。
 映画はみた覚えがある。たしか、このブログにもその感想を書いたはずだと思い、検索してみると、でてきた。定年退職後の2011年2月のことだ。
 参考までに、それを挙げておく。

 http://kimugoq.blog.so-net.ne.jp/2011-02-02

 原作をもう一度読んでみることにしようと書いておきながら、それからまったく読んでいないのは、いかにもなまけもののぼくらしい。
 だから、加藤典洋の本にしたがいながら、筋を思いだすしかないのだが、友人のかつての恋人で、いまは「僕」の恋人となった直子がなぜ死んだのかが、「僕」につきまとう謎だったことはまちがいない。
 加藤典洋によると、『ノルウェイの森』は、それまで一歩下がって内閉するデタッチメントにこだわっていた村上春樹が、足場のない空間にこぎだして、ふつうの書き方で書いた、初の恋愛小説だという。

〈主人公の「僕」=ワタナベ・トオルが自殺した高校時代の友人キズキの恋人だった直子と、大学進学後、東京で再会し、恋愛する。直子はその後、大学をやめ、東京を去り、心を病んで京都の医療施設に入って、やがて自殺する。「僕」は東京で大学のクラスメート緑とつきあうようになり、直子の死後、緑に愛を告白する。〉

 これが加藤による『ノルウェイの森』のあらすじである。
 ここには同じ寮にいて、外交官をめざしている永沢さんという人物がでてくる。永沢さんにはハツミさんという恋人がいる。
 それなのに永沢さんはガールハントが好きで、「僕」もその片棒をかつがされ、セックスのとき女の子をとりかえたりする。
『ノルウェイの森』はセックス小説でもある。ふたりの男はそれぞれ恋人がいるのに、「ときどきすごく女の子と寝たくなる」。
 そして、「僕」の恋人、直子も、永沢さんの恋人、ハツミさんも自殺する。直子は精神を病んで、ハツミさんは別の相手と結婚したあと。
 ハツミさんが自殺したあと、外交官になった永沢さんから、「僕」に「たまらなく哀しく辛い」という手紙が届くが、「僕」はその手紙を破り捨て、二度とかれに手紙を書かない。
 青春時代を回顧したほろにがい小説といってしまえば、それまでである。
「僕」と永沢さんのちがい。「僕」が彼女に去られるのにたいし、永沢さんは彼女を捨てたのだ。そして、彼女のことを青春の思い出のひとこまとしか思っていない。これにたいし、直子は「僕」の心の奥底に生きつづけている。
『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』というたぐいなき超日常的な小説世界を築いていたとき、おそらく村上春樹のなかには、「直子」のことが、よみがえっていたはずである。
『ノルウェイの森』は、書かれるべくして書かれた作品だった。そのパワーが作品に結実したあと、村上春樹はようやく解き放たれ、ふたたび自己の小説世界に立ち戻ることができたのである。
 加藤典洋によると、『ノルウェイの森』は累計で1000万部を超えるベストセラーとなり、その結果、村上春樹は「日本からの逃亡」を余儀なくされたという。
 そのあと1995年まで、作品は海外で書かれ、次の大長編『ねじまき鳥クロニクル』も全3部のうち、2部がアメリカで執筆された。
『ねじまき鳥クロニクル』は読んでいない。そのあと、ぼくが読んだのは『アンダーグラウンド』と『1Q84』だけだ。最近の『騎士団長殺し』も買っていない。
『ねじまき鳥クロニクル』については、加藤典洋の解説を紹介するほかない。
 この小説は、いってみればさえないハウス・ハズバンドの「夫婦の物語」である。「僕」、岡田トオルは、妻のクミコに突然失踪される。その妻を探して、みずからの内面の闇に降りていき、そこで予期せぬものとぶつかりながら、妻を取り返す話だといってよい。
 加藤典洋によると、「主人公が『社会』から遠ざかり、自分の無意識の闇に沈潜すると、そこに『歴史』が現れる」のが、この物語の特徴だという。
 その歴史とは、日本による中国侵略、新京(満州国の首都、現長春)の植民地生活、ノモンハン事件である。ここでは初期の「中国行きのスロウ・ボート」がついに中国の内部に到着したことが示唆されている。
 それにしても、すさまじい暴力描写である。ストーリーは無意識の奥(いわば父の記憶)から吹きだす歴史の暴力と、意識のとらえる現実の暴力が交錯しながら展開する。
 加藤はこう書いている。

〈カギは、暴力と死とセックスにある。それを避けて、ではなく、その内側に入り、そこをくぐり、どう「戦争の記憶」に達し、「反戦と非戦の意志」へと抜け出ていくことができるか。/『ねじまき鳥クロニクル』は、そのような私たち日本人の戦後の「冥界くぐり」の先駆例だというのが、いまの私の考えである。〉

 この評価が正しいかどうか、わからない。
 しかし、こういう記述をみると、やはり村上春樹は、われらの時代の作家なのだという思いを強くするのである。

『村上春樹は、むずかしい』(加藤典洋)を読む(1) [われらの時代]

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 村上春樹は、むずかしい。
 おもしろいのだけれど、よくわからない。
 ほんとうにそう思う。
 先日、両親を介護するため、いなかの高砂に帰り、往復の新幹線や夜寝る前に『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』を読んだ。しかし、正直いって、よく理解できなかった。
 これまでの小説にない世界がつくられていることはたしかである。まるでゲームのようにストーリーが展開し、最後まであきさせない。夢中で読んでしまった。たいしたものだと思う。
 こんな世界を構築できる小説家はそうざらにいない。ひたすら感心する。
 だが、ふりかえってみると、頭に何も残っていないのだ。展開の早いハリウッド映画を見終わったあとのような感覚。それでも、村上春樹はくせになる。
 村上春樹をよく読んだとはいえない。たぶん妻や娘たちのほうが読んでいると思う。『ノルウェーの森』や『アンダーグラウンド』、『1Q84』は飛ばし読みした。短編も読んだ覚えがある。
 それらの本は本棚に残っていない。結婚した娘たちがもっていってしまったのだ。なぜか「世界の終り」だけがぽつんと残っていたので、先日兵庫県のいなかに戻るときに、またも飛ばし読みした次第だ。
 村上春樹とは同世代である。出身地も兵庫県で、大学も同じだ。それなのに、こちらは「おとうさん」「おじさん」から「じいさん」になり、サラリーマンを定年退職して、いまは日がなぼんやりすごしている。うらやんでも仕方ないが、えらいちがいである。
 村上春樹の小説は、かっこいいし、気が利いているし、ミステリアスだ。ハードボイルドの要素もあり、何よりも主人公が女の子にもてる。やっぱり芦屋生まれの人はちがうわと、いなか育ちのぼくなどはついつい、ひがんでしまう。
 こんなふうに書きはじめると、最初から最後までぐちであふれそうになるので、いいかげんなところでおしまい。
 ここでは、同じ世代ということだけを取り柄にして、ひたすら村上春樹が切り開いてきた小説世界を取りあげてみることにしよう。
 といっても、ぼくはとても村上春樹の熱心な読者とはいえないので、加藤典洋の『村上春樹は、むずかしい』(岩波新書)を、これまた斜め読みして、お茶をにごそうというのである。
 この解説書は3部にわかれている。

 第1部 否定性のゆくえ 1979-87年
 第2部 磁石のきかない世界で 1987-99年
 第3部 闇の奥へ 1999-2010年

 村上春樹の作品に沿って、話が展開している。
「はじめに」は省略して、第1部から読みはじめる。
 村上春樹のデビュー作は1979年の『風の歌を聴け』である。
 あのころ、ぼくは結婚し、ちいさな出版社から某マスコミの子会社に転職し、会社回りの営業の仕事をしていた。
 もともと小説はあまり読まなかったから、村上春樹の登場にはさほど注目しなかった。
『風の歌を聴け』も翌年の『1973年のピンボール』も芥川賞をとれなかったという。そのころ注目されていたのは、中上健次や村上龍である。
 しかし、芥川賞をとれなかったのが、かえってよかったのだ。それ以降、村上春樹は芥川賞などには目もくれず、長編小説をめざすことになったのだから。
 村上春樹にとって1970年代は小説修業の時期である。そのころ、ぼくは世間の広さを知り、上司や先輩と毎日のように飲み歩き、子育てに明け暮れていた。
 ぼくが「風の歌」を読んだのは、ようやく60歳近くになってからである。
 とても懐かしい感じがした。
 その感想については2度ブログに書いたので、いまつけ加えることはない。

 http://kimugoq.blog.so-net.ne.jp/2007-07-24
 http://kimugoq.blog.so-net.ne.jp/2007-07-25

 加藤が注目するのは「風の歌」に登場する「鼠」という友人の存在だ。
「鼠」は金持ちの息子だ。「金持ちなんて・みんな・糞くらえさ」というのが口癖。
 加藤はこの口癖を「自己否定ないし否定性の表現」と評している。
 これにたいし、主人公である「僕」のモットーは、作中に登場する架空の小説家デレク・ハートフィールドの作品タイトル『気分が良くて何が悪い?』だという。
 否定性と肯定性が対比されている。
 加藤によると、「この小説は、[学生運動に見られたような]『否定性』を抱えた『鼠』が徐々に時代遅れになり、没落していくさまを……重層的な構成のもとにえがいている」ということになる。
 だが、ぼくはそうは思わない。希望も絶望も捨てて、ひたすら井戸(フロイトのいうイド)を掘って、次の世界に抜けることをめざすと宣言した小説と読んだからである。
 まあしかし、そう大げさに考えなくてもいいのかもしれない。村上春樹の小説は楽しい。軽やかだし、スリルもあるし、しゃれている。そうでなければ、小説をつづけて書く気分にはなれないだろう。それでいいのだ。
 1982年には長編小説『羊をめぐる冒険』(ぼくは読んでいない)、1985年には『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』が出る。
 そのかん、かれはいくつかの短編を書いている。ぼくが気に入ったのは、ちょうど定年の年に読んだ「中国行きのスロウ・ボート」と「パン屋再襲撃」だ。あのころ、ぼくの家のネコが死にかけていた。
「友よ、中国はあまりに遠い」という謎のひとことで終わる「中国行きのスロウ・ボート」には、中国にたいする村上春樹の思い入れの深さがこめられている。
 加藤によれば、教師で僧侶でもあった村上の父親は徴兵され、中国大陸での戦闘に加わったのだという。だから、中国のことは、どこかでいつも気になる。
 スロウ・ボートとは船足の遅い小舟。いつまでもこぎ続けて、いつか中国にたどりつきたいと願っている。でも中国は遠い。
 加藤はほかに「貧乏な叔母さんの話」についてもふれている。この作品もぼくは読んでいないけれど、加藤によれば、これは「『貧しい人々』への罪障感のゆくえを書こうとした」作品だという。
「僕」はかれらにたいして何もできない。かれらが革命を起こして、貧乏な国ができても、たぶん「僕」には居場所がない。「僕」ができるのは、この豊かな世界で孤立したかれらに寄り添うことくらいだ。
 ぼくが加藤の評論から読み取ったのは、そういうメッセージだが、ほんとうはそんなことではないような気もする。作品を読んでいないので、これも何ともいえない。
「ニューヨーク炭鉱の悲劇」という作品もあるらしい。加藤によると、内ゲバにたいする村上の「ささやかなコミットメント」だという。
 内ゲバは1969年から1981年ごろまでが猖獗(しょうけつ)をきわめ、そのピークは1975年だった。そのかん100人近くが命を落としている。
 革マル派の拠点があった早稲田の文学部でも、ずいぶんひどい内ゲバがあった。ぼく自身は党派に属さなかったので、内ゲバとは無縁でいられたが、あのころはひやひやしていたことを覚えている。
 たぶん内ゲバの死者には、村上の知り合いもいたことだろう。
 そもそも「ニューヨーク炭鉱の悲劇」というのは、1967年にビージーズが発表した反戦歌のタイトルだ。
 加藤はこう書いている。

〈1941年に起こったニューヨーク炭鉱の悲劇とは、いま進行しているベトナム戦争の「落盤」の悲劇のことで、この若いロックバンドは、その「悲劇(disaster)」を銃後の社会で地球の裏側の戦場に遺棄された若い兵士たちの孤絶の側から、歌ったのである。〉

 この作品についても読んでいないので、何ともいえない。
 加藤の論評はわかったような、わからないようなところがある。
「パン屋襲撃」と「パン屋再襲撃」は、やはり定年の年に(ネコのからだを心配しながら)通勤電車のなかで読んだ。
 ブログにこんな感想を書いている。

http://kimugoq.blog.so-net.ne.jp/2008-03-06

 加藤によれば、この作品は過激な学生運動の後日譚、ただしパロディということになる。京浜安保共闘による銃砲店襲撃も村上春樹の念頭にあったかもしれないという。しかし、この作品では、反体制的な否定性は、ポストモダニティにからめとられてしまう。つまり、革命がとんちんかんなお笑いになってしまう時代がはじまっていたのだ。
 だが、ぼくの解釈はここでも加藤とはちがい、むしろ近代の逆立性ということを強く感じたものだ。
 人によって、作品の受け止め方はずいぶんちがうのだなあと思わざるをえない。しかし、多様な読み方ができることが、小説の深さであり味わいなのだろう。
 村上春樹はたしかに、われらの同時代人である。村上春樹を読むということは、笑ったり、驚いたり、どきどきしながら、いまの時代を眺めるということにほかならない。それが楽しい。

アテナイの消費生活について(2)──論集『消費の歴史』から [本]

 アテナイの買い物ではよく魚の話がでてくるという。とくにビッグサイズの魚は値段も高く、シーフードはあこがれの的だった。魚はご馳走だったといえるだろう。
 アテナイ人はだいたいにおいて、犠牲に供される牛やヤギ、ブタ、羊の肉で栄養をとっていた。こうした肉は宗教的儀式にともなうもので、市場では売られていない。氏族(オイコス)のもとで分配されるのがふつうだった。
 しかし、市全体や地区全体でおこなわれる大がかりな儀式もあり、民衆の支持を得ようとする金持ちが、しばしばそうした儀式のスポンサーになった。政府がカネを出すこともあった。
 ところが肉とちがって、魚は市場で売られるぜいたく品だった。それはまさに食欲を満たすとともに消費の対象となる商品だったといえる。
 問題は魚が腐りやすく、早く食べなければならないことだった。そのため朝早く市場に行き、新鮮な魚を買って、すばやく調理する必要がある。その点、魚は理想的な商品だったかもしれない。すぐに売れて、消費され、カネになったからである。
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[アテナイの銀貨。ウィキペディアから]

 もうひとつカネのかかるものといえば、セックスだった。アテナイにもふつうの売春婦から高級娼婦まで、カネで買える女性はさまざまだった。
 大勢の女や少年を集めて宴会を催すには、びっくりするほど費用がかかった。そこでは音楽のバンドもいれ、食事や酒の用意もしなければいけなかったから、その費用は想像にあまりある。だが、そうした宴会は金持ちのみえのためではなかっただろう。
 高級娼婦を囲うにはとてつもなくカネがかかった。それでも古代アテナイ人も、カネで欲求が満たせるという誘惑にはあらがえなかったようである。
 アテナイ人の消費に関する記述には、不思議なことに、衣服や家財の話がほとんど見当たらない。職人は大勢いたのだから、こうした商品も購買され、使用されていたことはまちがいない。
 衣服はもちろん手織りで、アテナイの工房で織られ、市場でも売られていた。なかには高いものもあり、とくに高級なマントが知られていた。しかし、衣服や家財は、直接注文が多く、そのためあまり市場にあらわれなかったのだろうか。
 民主政のアテナイでは奴隷やメトイコイ(外国人)にたいする扱いがゆるやかになり、かれらの服装も市民と変わらなくなっていたという。
 逆にいえば、紀元前5世紀になるにつれ、金持ちもだんだん庶民と同じような服を着るようになっていったのである。
 アテナイでは、服装の面でも民主化が進んでいたといえるだろう。
 しかし、いっぽう民主政のもとで、金持ちはことあるごとに資金の提供を求められるようになった。さらに税金もかけられる。とりわけ戦争ともなると、金持ちはより多くの負担を求められた。
 さらに重要なのは、アテナイでは多くの判事や検事が30代以上の市民のなかから選ばれていたことである。財産の差し押さえがしばしばおこなわれ、不正蓄財がなされていないかが厳しく調査された。
 そのため、いかにも金持ちのようにふるまうのは禁物だった。紀元前414年には、あるエリートがエレウシスの秘儀を冒涜し、ヘルメスの像を破壊したとして告発され、財産を没収されている。
 しかし、実際、紀元前5世紀末のアテナイでは、個人的にはそれほど贅沢な生活は見られなくなっていた。豪華なものがあるとすれば、それはあくまでも神殿を飾るものだったという。
 アテナイでは個人の家が小さく質素だったのにたいし、神殿は巨大で豪奢につくられていた。神殿に置かれたアテナの巨大な像は、象牙と黄金で飾られていた。
 これをみれば、富裕層は神殿や祭りなどに大きな寄進をするかぎりにおいて、その存在を認められていたといえるだろう。
 豪華な衣装や馬車が認められたのも、祭りの場においてだけである。祭り以外でも、ぜいたくぶりを見せびらかしていると、ヒュブリス(傲慢)罪で告発される恐れがあった。
 つまり、古代ギリシアでは、祭り以外の場では、個人の物質的ぜいたくにたいし、モラル面、文化面、宗教面で大きな制約が課せられていたのである。
 以上をまとめると、どういうことがいえるだろう。
 ここでえがかれているのは、紀元前500年から300年にかけての民主制アテナイの消費の様子についてである。
 アテナイでは史上はじめて貨幣経済が全面開花した。はじめて常設の市場が生まれ、多くの商品が売られるようになった。
 アテナイの市場の繁栄は、アテナイの海軍力のたまものでもある。さらにいえば、それは民主政のたまものでもあった。
 市場にたいしては、当時も多くの反対や批判があった。それでもアテナイの市場は発展し、アクロポリスからディピュロン門にまで広がった。
 市場で売られていたのはものだけではない。音楽から勉強にいたるさまざまなサービスも提供されていた。
 また多くの監督官がいて、計量が適切か、価格が妥当かなどと監視していた。
 正式な市場はアゴラの中心部にあり、そこには人民裁判所や五百人委員会などもあったから、市場はまさに民主政の中心部に位置していたといえる。そこではしばしばギリシア喜劇が演じられ、ソクラテスをはじめ、民主主義を批判するプラトンなどの哲学者もたむろしていた。
 アテナイの市場では、家具インテリア、衣服などのぜいたく品はあまりおいていなかった。個人的なぜいたくは避けられる傾向があった。まれに甲冑や馬などに多額の金額が費やされることはあっても、それは個人のためではなく、あくまでも国家や神のためにだとされていた。
 ギリシア世界では紀元前480年以降、スパルタの影響が次第に強くなり、アテナイでもぜいたくが避けられ、質実剛健が尊ばれるようになる。ペルシア風の豪華さは、ペルシアに内通しているのではないかと疑われる可能性もあった。また金持ちにみえると、それだけで国家への多くの資金提供を求められ、民衆裁判所で糾弾される恐れもあった。
 アテナイの市場経済は、民主政と密接な関係をもっている。しかし、それはきわめて特異な市場経済だったといえるかもしれない。
 民主政といえば、日本人は平和と思いがちだが、それは誤解である。とくにアテナイでは、民主政は戦争と植民地主義、奴隷制、女性差別と結びついている。
 家政は奴隷によって支えられ、すぐれた技能をもつ職人集団と、海外との貿易を取り仕切るメトイコイ(外国人)が、土地を所有する市民の生活を成り立たせている。
 市民はものをつくり、ものを売るためにはたらいているわけではない。そんなふうにはたらくのは市場の奴隷である。アテナイ市民とは、あくまでも政治に参加し、戦争で戦う存在を意味していた。だが、そんな市民にとっても、にぎやかな市場は楽しみの場所だったにちがいない。

アテナイの消費生活について(1)──論集『消費の歴史』から [本]

 オックスフォード版論集『消費の歴史』は、少し読みはじめたところで、英語を読むのがめんどうなこともあって、途中でやめてしまった。まあ、しかし、そうめんどうがらず、気長に気楽に読んでみることにしよう。閑人の読書である。
 というわけで、まずはジェームズ・ダヴィッドソンの「アテナイの消費生活」を読んでみる。
 ヨーロッパで最初に消費社会が花開いた場所は、古代ギリシア、とりわけアテナイ(アテネ)だった。古代ギリシアはヨーロッパ文明発祥の地。そこで、どのような消費生活がいとなまれていたのかを、のぞいてみようというわけである。
 アテナイといえばデモクラシー、そして貨幣経済がはじめて本格化した場所だ。ドラクマを単位とするさまざまな貨幣が使われていた。アテナイのアゴラ(広場)にはさまざまな商品が並び、ショッピングを楽しむこともできた。
 しかし、こうした市場を守るには、民主政府による安定した貨幣管理と、アゴラノモイと呼ばれる市場監督人の存在が欠かせなかった。
 アテナイではなぜ貨幣経済が盛んになったのだろう。紀元前4世紀には、政治の舞台である集会に参加する市民に、貨幣で報酬が支払われていた。そのことも貨幣経済の隆盛と関係していたのかもしれない。
 アテナイは巨大な海軍力に支えられ、それによって、ペルシアやスパルタに対抗することができた。アテナイの繁栄がデモクラシーや消費社会をつくりあげたということもできる。だが、その繁栄はいつまでもつづかなかった。
 酒の神ディオニソスをたたえる祭りなどで演じられたギリシア喜劇には、当時アゴラで並べられていた商品の数々が出てくる。
 イチジク、ブドウ、カブ、ナシ、リンゴ、バラ、カリン、ハギス[羊肉の煮込み]、ミツバチの巣、ヒヨコ豆。スミレの花束、ツグミ、コオロギ、オリーブ、肉などなど。
 近隣に限らず遠方からも多くの品物がもたらされていた。
『アテナイ人の国制』には、アテナイ人がその海運力によって、シチリアやイタリア、キプロス、エジプト、リュディア[現トルコ]、黒海などから、さまざまなめずらしい品物を集めていたことが記されている。
 さらに、ほかの本にはこんなリストもある。
 キュレネ[現リビアの町]からは薬草や牛革、ヘレスポント[ダーダネルス海峡]からはサバなどの魚、イタリアからはエンバクや牛のあばら肉、トラキアからは薬剤、マケドニアからはライ麦、シラクサからはブタとチーズ、エジプトからは帆布やパピルス、シリアからは乳香、クレタ島からはヒノキ材、アフリカからは象牙、ロードス島からは干しブドウや干しイチジク、エヴィア島[エーゲ海]からはナシとリンゴ、フリギア[現トルコ]からは奴隷、アルカディア[ペロポネソス半島中央部]からは傭兵、カルタゴからは敷物や枕などなど……。アテナイには海外からほんとうに多くの品物が集まっていたのだ。
 しかし、これらの品物は市場で雑然と置かれていたわけではない。女性もの、魚、家具、野菜、衣服などとコーナーにわけられ、それぞれ別々の店で売られていたのだ。料理人を雇うことのできる斡旋所などもあった。
 市場は特化していたといえるだろう。だからアテナイ人はどこに行けば何が買えるかをわかっていなければならなかった。
 こうした市場の分化は、古代では大量生産ができなかったあかしでもある。
 市場はどこにでもあったわけではない。アゴラには常設の市場があった。祭りのときは臨時の市が開かれた。魚を売る行商もいた。
 しかし、アテナイでアゴラのほかに常設の市場があったのは、港のピレウスとラウリウム(ここには銀鉱があった)だけである。
 とはいえ、ふだんギリシア人は(とくにいなかでは)市場に行かなくても、ふつうに暮らせたという。
 それはそれとして、市場では、たとえば高級品と大衆品といったように、さまざまな品質の商品が置かれていた。エジプト綿は高級輸入品だった。
 ギリシア人は馬にはうるさかった。これは現在の車選びとおなじかもしれない。
 少し時代は下るが、アレクサンドロスの愛馬ブケパロスはテッサリア産で、9万6000ドラクマもしたという。馬にしてもワインにしても、血統とかブランドが重視されていたのは、いまも昔も変わらない。
 アテナイの特産品は、すぐれたデザインの陶器だった。陶器は海外にも多く輸出されていた。なかにはブランドを示すマークがつけられたものもあった。だが、たいていはノーブランドである。
 アテナイの市場はアゴラの中心部にあり、アゴラはアクロポリスの北の平坦な地に位置していた。しかし、市場は次第にディピュロン門のほうにも広がっていった。市場の建物も柱廊付きのりっぱなものへと変わっていくが、もともとは粗末で雑多な店の集まりで、その場所は品物に応じて区割りされていた。
 市場にはご多分に漏れず中心と周辺がある。ソクラテスは仲間たちとよく市場にでかけていた。ディピュロン門周辺の場末には、薄汚い製陶所や墓地、風呂屋、露天の店などがあり、旅人たちはそこにある飲み屋や売春宿で羽を休めていた。
 アテナイ人はアゴラや市場でぶらぶらしながら、かなりの時間をすごしていた。ソクラテスもその一人だ。そこで、金持ちで鼻持ちならないソフィストをやっつけたわけだ。
 アゴラの近くには若者たちがたむろして、おしゃべりできる店もあった。いっぽう、ぜいたくな料亭のような店もある。こうした料亭では、時に使い込みのカネが吸い取られたり、政治的な陰謀がくわだてられたり(いまなら共謀罪)することもあったらしい。
 こんなふうにみていくと、遠いアテナイの人もなんだか身近に感じられてくるから不思議である。
 この話、もう一回つづく。

政府の関与をめぐって──ミル『経済学原理』を読む(15) [経済学]

 政府には経済社会にたいする責任がある。しかし、なかには政府が関与すべきではない分野がある、とミルはいう。
 外国産の商品を禁止、ないし抑制して自国産業を保護するという考え方もそのひとつである。ミルはそもそも外国の商品が輸入されるのは、それによって国内の労働と資本が節約され、消費者の利益となるからだという。この点、ミルは自由貿易主義の立場をとっている。
 それでも国民生活や国防の観点から保護主義が提唱されやすいのもたしかである。イギリスでは穀物法や航海法がそうした保護主義のあらわれだった。だが、それは一時の、とりわけ戦時の例外とみるべきである。どの国にとっても、長い目でみれば、保護主義より輸出入の自由のほうがはるかに得るところが大きい、とミルはいう。
 保護関税が弁護されるとすれば、それは新興国において、新たな産業を育成しようとしている場合にかぎられる。だが、それも国内の生産者が一定の訓練水準に達するまでの期間である。
 外国の影響力を排除して、排他的に植民地を囲いこもうとする政策もまちがっている。ミルはあくまでも自由貿易を擁護するのだ。
 政府による利子規制にも、ミルは懐疑的だった。いまでは法的に利子率の最高限度を定めるやり方がとられるようになっているが、競争社会において、需要と供給を無視して法的に無理やり利子率を定めるのは、むしろ弊害を生みやすい、とミルは述べている。
 政府が商品の価格(とりわけ食料品価格)を人為的に安くしようと介入することもまちがっている。およそ供給が不足する場合には、だれかがその消費を抑制するほかないのだ。
 ここでも商品の価格は、需要と供給の動きにまかせるべきだ、というミルの考えがみてとれる。政府のやれることは消費の節減を推奨すること、あるいは不要な消費を禁止することくらいにとどめるべきだと述べている。
 いっぽう政府は、生産者や商人に独占権を与えて、商品価格を高く維持しようとすることがある。だが、競争の制限は、習慣に安住し改良を遅らせる傾向がある。特許の場合を除いて、政府は企業による独占を認めるべきではない、とミルは考えていた。
 政府はまた、労働組合の結成を禁止してはならない。労働組合によって、労働者は労働時間の短縮や賃上げを要求することができるようになる。賃金が労働にたいする需要と供給によって決まることは否定できないが、労働者の待遇改善は常にめざすべき方向であり、そのためには労働組合の存在が欠かせない、とミルは思っていた。
 そして、とりわけ重要なのは、たとえ政府を批判する内容であっても、政府が意見の自由、討論の自由を認めることである。精神の自由こそが、国の繁栄の源だ、とミルは強調する。
 はたして政府の干渉はどこまで許容されるのだろか。
 いかなる政府も、人間の自由と尊厳を犯すことは許されない。権力の影響力が拡大すれば拡大するほど、精神の自立性と人格の独立性を擁護維持する必要がある。
 とりわけ、民主主義社会においては、政治権力による干渉拡大の傾向を絶え間なく警戒監視することが重要になってくる、とミルは強調する。
 政府の活動が制限されるべき理由は、分業の原理にもとづく。政府が効率よく運営されるべきことはいうまでもないが、それ以上に、民間でおこなうべき事業は、民間にゆだねるほうが、はるかにうまくいくものだ。また政府が独占的に事業を営むよりも、競争にさらされて、切磋琢磨のうちに事業が運営されるほうが、社会の改良進歩にはるかに寄与する、とミルはいう。
 ミルはまた現代社会において重要なのは国民のひとりひとりが活動的な能力と実際の判断力を高めることであって、それによって公共心が広まり、統治者の暴走を牽制することができるのだとも指摘している。
「要するにレッセフェール[自由放任]を一般的慣行とすべきである」とミルは断言する。ところが、これまで政府はこの慣行をつねに侵害し、経済社会を恣意的に統制してきた。それにより、事業者は自由に自分自身の道を進むのを妨げられてきた、とミルは批判する。

 政府は自由放任を原則とすべきである。だからといって、政府は何の役割も果たさなくてもよいというわけではない、とミルはいう。
 たとえば、国民が何ごとにつけ判断力を高めるようにするためには、公正な中立な教育が必要になってくる。
 政府は国民への教育を保証しなければならない。いや児童や青少年にたいしては、むしろ教育を義務化する必要があるだろう。
 政府はまた、児童が過度な労働をさせられることのないよう、法的な規制をおこなうべきである。
 児童を家庭内の暴力から守ることも政府の義務である。
だが、女性を職場から排除しようとする動きに政府は荷担すべきではない。むしろ女性の社会的地位を改善するために、政府は女性がもっと容易に職に就けるように環境を整えるべきだ、とミルはいう。
 ミルはまた、契約はたとえ自由意思にもとづいて締結されたとしても、永久あるいは長期間にわたって、個人を束縛するものであってはならないという。じゅうぶんに根拠のある場合は、その契約を破棄することも認められるべきだとも述べている。それがあてはまるのは、とりわけ結婚においてである。
 経営面からみれば、一般的に国営企業よりも株式会社のほうがすぐれている。しかし、ガス会社や水道会社、鉄道会社などのように、それが公共性の強いものであれば、そのサービスにたいして国民が支払う料金は、強制的課税に近いものとなる。
 このような事実上の公共事業にたいしては、政府はその事業が一般の利益にかなうよう適切な監督と指導をおこなう権限を保留しなければならない、とミルはいう。
 労働時間に関しては、自由にまかせるのではなく、法律による定めを設けるべきだというのがミルの考え方だった。政府は積極的に労働者の保護と育成にあたるべきだと主張している。
 救貧法についても、ミルはその必要性を認めている。餓死しようとしている人、困窮している人には援助が必要である。ただし、援助に不当に頼ることはできるだけ防止しなければならないという。救貧法の適用は、個人の勤勉および自立精神をうながすものでなくてはならない。
 植民事業については、単に人口の過剰を緩和するという観点からだけではなく、生産力の移転と創出という観点から考慮されるべきだという。だが、植民は、むしろ国家の事業として計画されねばならない、というのがミルの考え方だった。
 ここで想定されているのは、オーストラリアやニュージーランドなどへの植民である。本国はこうした植民地への移民を手助けするとともに、その植民地の発展を監督する義務がある、とミルは考えている。
 ほかに政府がおこなうべき事業として、ミルは科学的な探検の航海や灯台の設置、大学での研究支援などを挙げている。道路や港湾、運河、灌漑の整備、病院、学校の設置など私的個人では実行しえない分野の事業についても、政府の役割は欠かせない。
 こう述べている。

〈良き政府は、個人的努力の精神が少しでも認められるなら、それを奨励し育成するかたちでの助力を惜しまないものである。良き政府は、自発的な事業を妨げたり邪魔したりするものを取り除き、必要とあらば、あらゆる便宜や指示、助言を与えることに努める。政府は民間の努力を抑圧することなく、それを助けるために、実現可能な場合は予算措置を取る。またこうした努力を引きだすために、報償や勲章といった制度を活用することもあるだろう。〉

 要するに、政府は自由な経済活動を妨げず、むしろそれを積極的に奨励しつつも、公共的福祉の増進をめざして努力すべきである、というのがミルの考え方だったといえるだろう。

経済社会にたいする政府の責任──ミル『経済学原理』を読む(14) [経済学]

 前回につづき──といっても、だいぶ間があいてしまったのだが──第5篇の「政府の影響について」を読んでいる。
 まず国債について。
 政府の歳入を租税ではなく国債でまかなうのは、はたして正当なのだろうか。
 いうまでもなく国債の発行は常態化すべきではなく、戦争など特別の事態にかぎられるというのが、ミルの考えである。
 それが特別の事態にかぎられるのは、国債には弊害があるからである。
 最悪のケースとして考えられるのは、国債の発行によって、民間の生産資本の一部が国に吸収され、その結果、労働者の雇用機会が奪われることである。このような事態はできるだけ避けなければならない。
 とはいえ、国債の購入が外国資本、ないし余剰資本によってなされる場合は、労働者の雇用、ないし賃金に悪影響を与えることはないだろう、とミルはいう。その場合は、国債は資本の剰余分を吸収することになり、利子率を上昇させることもない。
 しかし、ナポレオン戦争中、実際に利子率が上昇したのをみれば、イギリスではいわゆるクラウディングアウトが生じていた。生産資本が不足していたのだ。つまり、それは労働者の犠牲によって戦争が戦われたことを意味する、とミルはいう。
 その場合でも、国債の発行が正当化されるとすれば、その理由は戦費を課税によって調達することにたいして、国民の嫌悪感が強いというだけである。
 国債が剰余資本によってまかなわれる場合は、人びとの生活水準の低下を招くことはない。むしろ、それが兵士の給与にあてられることによって、労働者階級の所得を上げることもあるだろう。
 だが、それはいつまでもつづくわけではない。というのも国債は、国民の将来の収入を抵当として、国家によって借り入れられたものであり、それはいつか返済されなければならないからだ、とミルは論じる。
 国債が将来の世代に負担を残すことはまちがいない。しかし、それが現在の世代を超えて利益をもたらすものであるならば、将来の世代がその一部を負担するのもやむをえないだろう、ともミルはいう。
 とはいえ、国債はむろん償還されなければならない。それは国家の責任でもある。だとすれば、それはどのようにしてなされるべきだろうか。
 一挙に償還する方法と、徐々に償還する方法とが考えられるだろう。
 国債を一挙に償還するのはほぼ不可能である。というのは、その場合は、一度切りとしても財産課税や、国有財産の処分をおこない、国債の償却にあてなければならない。それはかなり荒っぽいやり方となるだろう。
 それでは徐々に償還する場合には、どのような手立てが考えられるだろう。
 国債償還のために歳入の剰余をもつことが、不必要な租税を賦課するより望ましいのはたしかである。
 しかし、国家が剰余収入をもつのがつねに正しいというわけではない。こうした剰余収入が永続的な性格をもつものならば、むしろ対象となる税を段階的になくすことを検討したほうが、納税者にたいする圧迫を減らすことになる。
 それよりも自然に税収が増えるような方策を探ることで、国債償還の道筋をつけることがだいじだ、とミルは考えていたようにみえる。
 国債はどの国にとっても大問題である。いずれにしても、ナポレオン戦争で発行した巨額国債の処理にイギリス政府は無責任ではいられなかった。安易な増税に走らず、懸命に取り組んでいたことを指摘しておいてもよいだろう。

 ここでミルは政府の社会的役割について再確認している。
 最初に求められるのが、国民の身体および財産の保護である。それなくしては、社会秩序は維持できないだろう。だが、同時にミルは、ここで国民の身体と財産が、政府の恣意的な暴力によって左右されないようにすることが近代社会の原則だとしている。
 また政府による課税は、それによって国民の繁栄の源泉を奪いとってしまうほど重いものであってはならない。拙劣な課税、恣意的な課税は避けるべきであるというのも納得できる。
 法律・司法制度が整備されていない場合は、おうおうにして身体および財産は保護されないことが多い。法律が公正に適用されないのであれば、その国には不道徳と暴力がはびこることになる、とミルは指摘する。
 その意味で、国家が正しい法を制定し、それを正しく運用することがだいじになってくるのである。
 さすがにミルも『経済学原理』では、法について全般的に考察することは避けている。ここでは検討されているのは、相続法と会社法にかぎられているのだが、それを紹介しておくことにしよう。経済社会の公平性を保つには、国家と法の役割が欠かせないことが強調されている。
 まず、相続についてだが、ミルは相続の原則を次のように考えていた。
 相続は自由な遺贈によってなされるべきこと、誰であっても中位の自立生活に必要な額以上のものを相続によって受け取るのは許されないこと。さらに無遺言死亡の場合、財産は国家に帰属する。ただし、そのさい国家は子孫にたいして相応の生活援助をしなければならない(子孫のいない場合、財産は国家の所有となる)。
 ここで述べられているのは、相続は親から子孫にたいしてなされるものであって、親の意思が尊重されなければならないということである。さらに、相続の目的は、子孫が中位の自立生活を維持するのを助けることであって、子孫が働かないでも暮らせるほど贅沢な資産を残すことではない。最後に子孫がいない場合は、財産は国家に帰属することが明記されている。
 しかし、イギリスの現実がそうでなかったことも、ミル自身、承知していた。イギリスでは無遺言死亡の場合は、財産は長子にのみ相続されるのが一般的であり、フランスではすべての子どもに財産を平等に分割することが定められていた。こうした慣習は経済的というより政治的なものだった。
 この相続方法にしたがえば、イギリスでは大世襲財産をもつ土地貴族が存続し、大革命後のフランスでは貴族の復活を防ぐことが主要目的となる。だが、ミルにいわせれば、どちらの方式も弊害が大きいという。
 長子相続制の欠点は、長子以外の努力が報われないことにある。長子相続が守られるなら、大所有地の細分化が防げるという意見もある。しかし、ほんらい財産は才覚とはたらきによってつくるものだ、とミルはいう。
「より健全な社会状態というのは、少数の人によって巨大な財産が所有され、それがすべての人の羨望の的となっているような社会状態ではなくて、すべての人が獲得したいと思うある程度の大きさの資産を、最大多数の人々が所有し、かつそれに満足している社会状態である」と、ミルは論じる。
 またかりに大きな地所を保全することが必要だとしても、地所を分割せず共同で保有することも可能なのだから、長子相続制はやはり差別的なものだ。さらに、ミルは大土地所有者が一般に無思慮な浪費に走りやすいことも指摘している。
 さらに、世襲財産制は貴族の土地を固定化し、土地の売買をしにくくしている。そのため、より価値のある目的(たとえば産業的用途)のために土地を利用することができにくくなっている、とミルは当時イギリスでおこなわれていた長子相続制を批判するのである。
 だからといって、フランスのように相続財産を均分すればよいというものでもない。それは平等が公平とはかぎらないからである。親は子どものそれぞれの現状や家の将来を見極めて、適切な財産の移譲をおこなう遺贈の自由をもっているはずだ。
 相続法と相続税は、社会の将来を決めるうえでの重要な規範であって、国家のあり方とも密接にからんでいることを、ミルは指摘したわけである。
 次は会社法についてである。
 ミルは資本が少数の富裕な個人の手に独占される状態は好ましくないと考えていた。社会がごく少数の資本家と大多数の労働者に分かれている状態がいつまでもつづくべきではないとも思っていた。
 そこで、ミルは会社制度の発展に将来を託そうとした。一定の公開性という条件さえ満たせば、国の特別の認可を得なくても、だれでも会社(株式会社ないし合名会社)を設立できるようにすべきだ、とミルは論じた。
 しかし、1855年までイギリスでは国王の認可がなければ、会社を設立することができなかった。当時の株式会社といえば、だれもが思い浮かべるのが、東インド会社やイングランド銀行だった。
 東インド会社やイングランド銀行は、有限責任の特許会社である。会社は国王により特許を与えられるいっぽう、株主は会社の負債に対し出資額を超えて責任を負うことを免除されている。
 株主が有限責任とされるのは、もし無限責任を負わされるならば、会社に出資する人はまずいなくなり、そもそも会社が成立しなくなってしまう可能性が強かったからである。その代わり、会社が運営されるにあたっては、その状況が公開され、株主に報告されねばならない。それは会社の事業が冒険に走ることがないようにするためである。
 ミルは株式会社の自由な設立にあたって、国王の特許ではなく、経営内容の公開性を求めたのであり、そうした会社が増えることによって、いわば資本が万人のものとなることを目指したといえるだろう。
 これに付随して、ミルは大陸型の合資会社についてもふれている。
 合資会社では経営者が無限責任を負うのにたいし、その他の出資者は有限責任しか負わない。ただし利潤に関してはあらかじめの協定に応じて、その他の出資者も分け前にあずかる。このような会社はイギリスでは認められていなかった。
 合資会社のメリットは、経営者が自己資本よりもはるかに大きい額の資本を確保し、しかもみずからの経営権を手放さないですむことである。フランスなどでつくられたこうした会社は、すぐれた経営者がいれば、時として株式会社よりうまく運営しうることをミルも認めている。
 したがって、イギリスでも株式会社にとどまらず、合資会社の方式を認めてもよいというのがミルの立場だったといえるだろう。
 そして、会社の設立状況に関していえば、当時いちばんすぐれているのはアメリカのニューイングランドであり、ここでは世界のどこよりも多く会社が設立されている、とミルは指摘している。ここでは市が道路や橋梁、学校などを運営する公社をもち、銀行や工場は株式会社であり、慈善団体も法人組織であり、捕鯨船も乗組員の共同所有で、乗組員は航海の成功に応じて、報酬を受け取るようになっているという。アメリカは活気に満ちていたのだ。
 だが、これからは個人の資本家ではなく、会社こそが経済の基本単位になるとしても、会社が失敗することはないのだろうか。
 最後にミルが支払い不能に関する法律についてもふれるのは、たぶんに会社の失敗ないし破産を念頭においてのことだと思われる。
 古代の法は、支払いができなくなった債務者を苛酷に取り扱った。債務者は報復を受け、債権者の奴隷とされることもあった。
 しかし、近代にいたると人道主義的な緩和がなされ、債務不履行にたいして法律が寛大な態度をとることが多くなった、とミルはいう。破産になっても、たいていは債務者の財産を捕捉し、それを債権者たちのあいだで公平に分配するというかたちで決着がなされる。もちろん、そのさいにも投獄という処置をともなうこともある。
 しかし、ここでミルは債務問題についてはそれで終わりにすべきではなく、「法律のなすべきことは、不当な行為を予防することである」と論じる。
 それは人から預かった財産を、危険な投機、不注意かつ無謀な経営、個人的道楽などで、勝手に使用させないためである。こうしたやり方から生じた支払い不能の後始末を出資者に転嫁して、それで終わりとするのはまちがっている、とミルはいう。
 そうした事態を未然に防ぐためには、債務者が──つまり会社が──営業状態の全貌をオープンにすることがだいじであり、もし何かのトラブルが生じたときは、その理由が不正なものではないことを証明することが求められる。商業上の不正取引を防止するための法律の仕組みをミルは求めていた。
 公平な経済社会をつくるうえで、国家の果たすべき責任は重大である。この点で、ミルはスミスの夜警国家論を超えて、あるべき経済社会の推進と運営にしっかりした責任をもつ政府の確立をめざしていたといえるだろう。

瓦礫のなかから──カーショー『地獄の淵から』を読む(10) [本]

 1945年、大陸ヨーロッパでは、交通網が爆撃で破壊され、ガスや電気、水道もないありさまだった。住まいはなくなり、飢餓と病気が蔓延していた。
 そんな状況から、ヨーロッパはどのようにして立ちなおるきっかけをつかんだのか。これが本書最終章のテーマである。
 戦争が終わったとき、最初にはじまったのは報復である。強制収容所では囚人たちが衛兵を襲撃する場面もみられた。しかし、連合国の占領によって、ドイツでは残忍な報復はすぐに抑えられた。
 しかし、イタリアでは元ファシスト党員が1万2000人虐殺されている。フランスではヴィシー政権の支持者が9000人殺された。ナチスと親密にしていた女性たちは、公衆の面前で辱めを受けた。そうした暴力が短期間で終息したのは、占領軍、あるいは文民政権がすぐに統制力を把握したからである。
 問題はヤルタとポツダムで合意された国境の変更が、実際には追放といってもよい人口移動をともなったことである。ユダヤ人にたいする偏見は根強く、多くのポグロムが発生した。ポーランドやチェコスロヴァキアにもともと住んでいたドイツ人は、虐殺されたり強制追放されたりしている。
 多民族の東欧はほぼ姿を消す。「徹底した追放と猛烈な民族浄化が、おぞましい効果を上げた」と、著者は記している。
 ソ連の勢力下にある国々では、対敵協力者はただちに処刑されるか、労働収容所に送られた。西欧では死刑は比較的少なく、短期間で釈放されるケースが多かった。ナチスの党員が多かったオーストリアでは死刑判決はごくわずかだった。多くの者が特赦を受け、社会復帰している。
 ドイツでは、戦争末期、何人かのナチス幹部が自殺していた。ヨーゼフ・ゲッベルス、マルティン・ボルマン、ロベルト・ライ、ハインリヒ・ヒムラーなど。
 アウシュヴィッツ収容所の所長だったルドルフ・ヘスは逮捕され、処刑された。アドルフ・アイヒマンは、ひそかに南米に逃げたが、のちに逮捕され、エルサレムで裁判にかけられた。
 ゲーリングやリッベントロップ、ルドルフ・ヘスなどは捕縛され、ヴィルヘルム・カイテル、アルフレート・ヨードル、エーリヒ・レーダー、カール・デーニッツなどの軍指導者とともに裁判にかけられた。
 ニュルンベルク裁判は1945年から46年にかけて開かれ、24人が死刑判決を受けた。勝者の裁きという声もなかったわけではない。しかし、ドイツ国内でも大半の人がナチスにたいする告発を支持した。
 とはいえ、ドイツ社会を徹底して非ナチ化するのは、ほとんど不可能な仕事だった。それにいつまでも連合国がドイツを占領しているわけにもいかなかった。ドイツはドイツ人によって運営されるほかなかったのである。
 西ドイツ政府は1951年に最悪の犯罪者を除き、数十万人を特赦する法律を制定し、非ナチ化に終止符を打った。だが、ソ連占領地域では、非ナチ化は苛酷な道をたどった。ソ連秘密警察が運営する収容所で数万人が亡くなり、さらに多くがソ連の労働収容所に送られた。
 しかし、著者はこう指摘する。
「冷戦が始まるとともに、東西で政治的配慮がはたらき、追放の時代は終わり、東側では社会主義の団結のために、西側ではますますかまびすしくなる反共主義のために、過去に抹消線が引かれることになった」
 ヨーロッパでは戦後めざましい勢いで複数政党政治が復活した。とりわけ左翼政党が支持基盤を拡大した。左翼のなかでは共産党が、レジスタンスの業績をかかげながら、ソ連を支持する立場をとった。
 フランスやイタリアでは共産党が戦前の倍以上に勢力を伸ばした。しかし、イギリスでは共産党は伸びなかった。
 社会主義政党は一般的に共産党支持を上回り、オーストリア、スウェーデン、ノルウェー、西ドイツで大きな得票を獲得する。
 イタリアとフランスでは、左翼票は社会党と共産党でまっぷたつに割れていた。
 イギリスの労働党は大戦末期の1945年に勝利を収めた。クレメント・アトリーの率いる労働党新政権は、民主的手段を通じた社会・経済改革をめざした。炭鉱、鉄道、ガス、電力、イングランド銀行が国有化された。教育改革がなされ、、労働者の権利が向上し、住宅建設計画が進められた。国民健康保険も導入され、福祉国家の建設がスタートする。
 イギリスは返済しなければならない巨額の負債をかかえ、緊縮財政を強いられていた。食料もガソリンもしばらくのあいだは配給制のままだ。経済状況は苦しい。とはいえ、労働党の提唱した福祉政策は、ほかの政党にも受け入れられるようになった。
 しかし、西欧の大半の国では、左翼の時代はあっという間に終わる。左翼の亀裂が深まりつつあった。そのかん、キリスト教民主主義にもとづく保守政党が勢いを増していった。
 イタリアではアルチーデ・デ・ガスペリが率いるキリスト教民主党が勢力を伸ばした。1948年の下院選挙で過半数を獲得し、その後、何年にもわたって政権を維持することになる。
 フランスでは戦後初の1945年10月の選挙で、共産党が第一党となり、社会党、キリスト教民主主義系の人民共和運動(MRP)と、憲法制定のための三党連立を組んだ。
 シャルル・ドゴールはすでに臨時政府を発足させている。しかし、ドゴールは新憲法のもとづく第4共和政が気にくわず、1946年1月に大統領を辞任し、翌年、フランス国民連合(RPF)という新政党を発足させる。
 第4共和政は1958年までつづく。しかし、三党連立体制はすでに1947年にほころび、共産党が離脱、それ以降、フランスでは脆弱な政権がつづいた。
 占領下ドイツの西側地域では、キリスト教民主同盟(CDU)、社会民主党(SPD)、それに共産党までもが、挙国一致内閣をめざして、活動を再開していた。
 コンラート・アデナウアーの率いるキリスト教民主同盟は、社会的公正と民主主義を唱え、しばしば第一党となった。これにたいし、左派は分裂状態に戻りつつあった。共産党は支持を伸ばせない。急進的な社会・経済改革を唱えていた社会民主党は、大きな国民の支持を獲得できないままでいた。
 ドイツの東側では複数政党制は見せかけだけで、実際の主導権はソ連の影響下にある共産党が握っていた。1946年には左翼政党の強制合併がおこなわれ、ドイツ社会主義統一党(SED)が誕生する。そして1949年1月にSEDはマルクス・レーニン主義政党だと宣言し、複数政党制の痕跡は徐々に消されていった。
 ハンガリーでも共産党は政治的反対派を徐々に排除し、1949年には完全に権力を掌握した。
 ポーランドでも共産党が警察と治安機関を掌握していた。ロンドン亡命政府は見捨てられるかたちとなった。1947年の選挙では、共産党に敵対する人びとが100人以上殺害され、数万人が投獄され、多くの対立候補が資格を剥奪された。
 チェコスロヴァキアでは、1946年5月の自由選挙で共産党が第一党になった。連立政権で非共産党の閣僚が抗議の辞任をすると、それを機に共産党は一挙に権力を掌握した。反対派は弾圧され、スターリン主義的支配が確立された。
 ユーゴスラヴィアだけはソ連の支配に服さなかった。ティトーのパルチザンは、ソ連の赤軍に頼ることなく、本土の大半を掌握した。ティトーには国民の絶大な支持が寄せられていた。そのためモスクワから中傷を浴びながらも、ユーゴスラヴィアは独自の路線を歩むことになる。
 ソ連では、1945年の勝利の歓喜が大きな幻滅に変わっていた。スターリン体制は締めつけを強め、抑圧機構がふたたび稼働する。新たに勝ちとった領土を維持し、資本主義と対抗し、国を再建するのは容易な仕事ではなかった。あらゆる反抗の兆候は、容赦なくつぶさなければならなかった。こうしてソ連の収容所と流刑地は500万人もの囚人をかかえることになった。
 冷戦は避けようもなかった。
 第2次世界大戦は帝国主義の終焉をもたらした。ヨーロッパの帝国が引き上げたことで生じた空間にふたつの強大国、アメリカとソ連が勢力を広げていく。両国の覇権争いはヨーロッパにとどまらず、世界じゅうで生じた。しかし、当初、冷戦の主戦場はヨーロッパとなった。
 チャーチルのいう「鉄のカーテン」がヨーロッパを分断していた。アメリカの外交官ジョージ・ケナンは、ソ連の拡大を抑えるために「封じ込め」政策を打ちだす。
 ギリシアでは内戦が勃発する可能性があった。アメリカはギリシアの右翼に軍事援助を与え、左翼の伸張を打ち砕いた。
 決定的な戦場はドイツだった。ソ連管理地域の東側はすでに独自の道を歩みはじめていた。これにたいし、アメリカは1947年以降もドイツの西側地区で駐留をつづけると表明した。
 アメリカは1947年6月に「マーシャル・プラン」を打ちだす。マーシャル・プランはヨーロッパの復興を促した。とりわけ重点が置かれたのは、ドイツを復興させ、ソ連の膨張主義を防ぐことだった。ソ連はとうぜんマーシャル・プランを拒否した。
 1948年秋には、ヨーロッパの経済的分断は政治的亀裂と重なりあうようになる。ソ連はコミンテルンの後身としてコミンフォルムを創設し、マーシャル・プランに対抗して、コメコンを創設する。
 西側はすでに国家として西ドイツを樹立するつもりで、さまざまな経済政策を打ちだしていた。ソ連はベルリンから西側連合国を追いだそうとする。だが、ソ連によるベルリン封鎖は失敗に終わる。
 西ドイツでは1949年5月29日に基本法(憲法)が制定され、アデナウアー首相のもと9月20日に新国家が発足する。これにたいして、ソ連は10月7日、旧東部地域に東ドイツを建国した。
 このころ西側諸国にとって、脅威はドイツではなくソ連であることが明らかになりつつあった。1949年4月には北大西洋条約機構(NATO)が設立されていた。のちにソ連はこれに対抗してワルシャワ条約機構を創設することになる。
 冷戦がはじまっていた。とはいえ、ヨーロッパにおけるアメリカのプレゼンスは、ヨーロッパでの資本主義の勝利を保証した、と著者は書いている。そして、そこからはチャーチルのいう「ヨーロッパ合衆国」の構想すら生まれてくるのである。
 戦後のヨーロッパをえがく本書の後半部分はまだ出版されていない。しかし、まもなく出版される予定だという。
 これにたいして、われわれがきちんとしたアジア史をもっていないのはなぜなのだろう。ぼくの知るかぎりでは宮崎市定の『アジア史概説』があるのみである。日本人はどちらかというと自国中心の歴史で満足しているようにみえる。しかし、これから必要なのは、西アジア、南アジア、東南アジア、北東アジアを統合したアジア史(とりわけ現代史)なのではないかという気がする。

ヨーロッパ社会の変化──カーショー『地獄の淵から』を読む(9) [本]

 1914年から45年にかけてヨーロッパが自滅する30年間のあいだに、社会でどのような変化があったかを著者は考察する。その考察は、経済的・社会的変化、キリスト教会の役割、知識人の反応、そして文化産業の領域におよんでいる。
 まず経済的・社会的変化をみよう。
 ヨーロッパでは各国間の政治的対立が激しかったが、社会の発展傾向は似かよっていた、と著者はいう。
 この時期、ヨーロッパで人口変動がもっとも著しかったのは東欧である。殺戮や強制移住によって、人口が激変している。スターリンの農業集団化とドイツの侵攻というダブルパンチで、東欧で死亡や逃亡、強制移住に追いこまれた人びとの数は数千万人にのぼる。
 にもかかわらず、ヨーロッパでは全体でみれば、人口は増加した。1913年に5億だった人口は、1950年には6億に増えた。その原因はおもに死亡率の低下である。保健衛生の向上、緩やかに上昇する実質所得、質のよい食事が死亡率の低下と平均寿命の増加をもたらした。感染症への予防や治療の技術は格段と進歩した。いっぽう出生率は避妊と家族計画の普及によって低下した。
 農業人口は減った。1910年には人口の55パーセントだったのに、1950年には40パーセントになっている。工業化の進展につれて、人口は農村部から都市部に移動した。
 戦争が経済発展を中断させたことはまちがいない。にもかかわらず、戦争が技術進歩を刺激し、機械化を含む効率的な生産手法を開発したことも事実である。無線放送、レーダー、合成繊維、電子計算機などは戦時の発明である。ロケットやミサイルもそうだ。核技術もそうだといえるだろう。
 いっぽう戦争は国家による経済管理の手法を発展させた。国家は、租税や利率、インフレの抑制、食料供給、国債発行、住宅・道路建設などに取り組まねばならなかった。こうした国家による経済管理は、復興期においても必要になってくる。
 国家の役割への期待は、完全雇用や社会福祉医療などの社会政策にも向けられるようになった。しかし、それが本格化するのは第2次世界大戦後である。
 20世紀前半でも女性の権利は徐々に拡大していた。イギリスでは1918年に、フランスでは1944年に女性に投票権が与えられた。しかし、家庭でも職場でも女性の地位はまだ低く、教育面でも不利な立場に置かれていた。
 ソ連では革命により社会的大変動が起き、地主の財産は没収され、土地は再配分された。イギリスでは貴族の生活様式はおおむね消滅するが、それでもその地位が失われることはなかった。フランスでは政治・経済エリートにいくぶんの変化があったものの、地方レベルではエリートはその地位を保った。それはドイツでもほぼ同じだった。
「全体として見れば、政界・経済界のエリートは20世紀の前半、自己再生する傾向が続いた」と記している。庶民がエリートになるのは困難だった。それが変わるのは20世紀後半になってからである。
 第2次世界大戦が終わるまでは、貧困の連鎖が世の中をおおっている。労働者階級が中産階級に上昇する流動性はほとんどなかった。それでもサービス部門が拡大するにつれ、事務や管理業務をまかされる労働者も増えつつあった。
 この時期、もっとも悲惨な目にあったのは、とりわけウクライナ、ベラルーシ、ポーランドなど東欧からソ連にいたる地域である。これらの地域はドイツ軍、ソ連軍双方によって痛めつけられた。
 ソ連では戦争に勝利したことによってスターリン体制が正当化され、国民はますます警察国家の監視下におかれることになった。
 第2次世界大戦により、世界の貿易に占めるヨーロッパのシェアは減少し、アメリカが世界経済の中心に浮上した。アメリカが1941年に制定した武器貸与法により、連合国は戦争を優位に進めることができるようになった。アメリカの経済的優位は、戦後経済の制度的枠組みを決めるさいにも決定的となり、ドルを基軸とするブレトンウッズ体制がつくられることになる。
 戦後経済で主流となったのは、自由貿易と国家管理による混合経済、経済自由主義と社会民主主義の混合である。この混合経済が戦後にかつてない繁栄をもたらした。だが、1945年の廃墟のなかでは、そうした繁栄がやってくるとは、だれも予想しなかった。
 20世紀前半においても、ヨーロッパではキリスト教が人びとのあいだで圧倒的な影響力をもっていた。戦争の時代は、ナショナリズムがキリスト教と接合した。教会はボリシェヴィズムとの戦いを重視していた。
 教会はかならずしも反民主主義的だったわけではない。だが、ヒトラーを支持しつづけた教会もある。
 イタリアではラテラノ条約でヴァティカン市国が誕生すると、法王庁はファシズム支配を容認するようになった。長年、第三共和制に敵意を示していたフランスのカトリック教会はヴィシー政権を歓迎した。カトリック教会は、スペインではフランコ政権のイデオロギー的支柱となった。ドイツでもカトリック教会は最初、ヒトラーを警戒していたが、ヒトラーが首相になると、たちまち彼を支持する。ユダヤ人のポグロムにたいしても批判を加えていない。ローマ法王庁もおなじだった。
 クロアチアでもスロヴァキアでもハンガリーでも、キリスト教会は人種政策と反ユダヤ政策を黙認していた。これにたいし、ポーランドではカトリック聖職者が危険をおかして、数千人のユダヤ人に救いの手を延べた。オランダでもユダヤ人の追放にたいして、教会から抗議の声があがった。だが、抗議の声をあげるのがせいいっぱいだった。
 フランスの聖職者や修道院のなかには、ユダヤ人の子どもをかくまおうとする動きもあったが、たいていは傍観の立場をとった。法王のピウス12世は、ローマのユダヤ人を救うために、修道院に約5000人のユダヤ人をかくまった。だが、ジェノサイドにたいし、おおやけに非難したわけではなく、ほぼ沈黙する態度に終始していた。
 それでも、戦時中、カトリック教会は信仰復興の気配すら経験する。教会は栄え、人気を博した。衰弱の傾向をたどったプロテスタント教会でも、信仰が放棄されることはなかった。
 危機の時代にあって、ドイツでは、多くのユダヤ人知識人が国外移住を強いられた。
 知識人のあいだでは、ブルジョア社会にたいする幻滅が広がっていた。彼らは一般に左翼の立場をとったが、右翼ファシストに流れる知識人もいた。社会民主主義に目を向ける知識人はほとんどいなかった、と著者はいう。
 マルクス主義に傾倒する知識人が多かった。イタリアのアントニオ・グラムシ、ハンガリーのジェルジ・ルカーチ、フランスのロマン・ロラン、ドイツのベルトルト・ブレヒト、イギリスのジョージ・オーウェル、ハンガリー人のアーサー・ケストラーなどもそうである。彼らはナチズムを嫌悪していた。
 ソ連のプロパガンダに目をくらまされた知識人もいる。たとえばシドニーとベアトリスのウェッブ夫妻など。いっぽうバートランド・ラッセルやアンドレ・ジイドは実際にロシアを訪れ、その体制に嫌悪感をいだいた。ケストラーはウクライナの強制集団化と飢饉を見て、ソ連に幻滅し、共産主義と絶縁した。
 知識人のなかには少数ながらファシズムに引かれた人もいる。たとえばイタリアのフィリッポ・マテオッティ、ドイツのゴットフリート・ペン、それから批評家のエズラ・パウンド、フランスのピエール・ドゥリュ・ラ・ロッシェルなど。ドイツの哲学者、マルティン・ハイデガー、法学者のカール・シュミットもナチズムに傾倒していた。
 哲学者のルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタインは政治から一線を画していた。経済学者のジョン・メイナード・ケインズは、共産主義、ファシズムのいずれをも嫌っていた。小説家のイヴリン・ウォーは政治にはまったく関心がなかった。
 もっとも強力な反ファシズム知識人として知られるのは、ドイツから亡命したマックス・ホルクハイマーとテオドール・アドルノである。
 ジョージ・オーウェルは小説『動物農場』と『1984年』でディスユートピアをえがき、スターリニズムの現実をあばいた。
 ハンナ・アーレントは『全体主義の起源』で、ナチズムとスターリニズムという根源的悪のもたらす文明の崩壊をえがいた。
 しかし、知識人の苦しい試みに関心をもつ大衆はほとんどいなかった、と著者はいう。宗教も影響力を失いつつあった。教会はからっぽになった。その代わり、バーやサッカー場、ダンスホール、映画館には人があふれた。
 人びとが欲したのは娯楽だった。1920年代には娯楽産業はまださほど発展していない。しかし、ラジオと蓄音機が大量生産されると、人びとは自宅にいながら楽しみをみつけることができるようになった。
 娯楽の発信地はアメリカだった。とりわけポピュラー音楽と映画が人びとをひきつけていた。音楽とラジオは切り離せない関係にあった。スーパースターの第一号はビング・クロスビーで、フランク・シナトラがそれにつづく。ヨーロッパでは1930年代にエディット・ピアフがスター街道を歩きはじめ、マレーネ・ディートリヒの歌う英語版の「リリー・マルレーン」は連合国の兵士のあいだで大ヒットした。
 黒人ミュージシャンはアメリカではまだ差別を受けていた。ルイ・アームストロングが最初に喝采を浴びたのはヨーロッパにおいてである。ジャズの王様、デューク・エリントンはヨーロッパ巡業で人気を獲得した。ユダヤ人でロシアから逃げてきた父親をもつベニー・グッドマンは、スウィングの王様となった。だが、ナチスはジャズを嫌い、ニグロ音楽とけなしていた。また多くのユダヤ人音楽家がナチスのために命を落としている。
 1920年代から映画は観客を引きつけていた。しかし、映画がサイレントからトーキーになると、映画産業はいよいよ隆盛を迎える。1940年代の最盛期には、ハリウッドは年間400本の映画を制作していた。ディズニーのミッキーマウスとドナルドダックは映画を通じてヨーロッパでも知られるようになった。ヒトラーはディズニー映画の大ファンだったという。
 ドイツではマレーネ・ディートリヒ主演の『嘆きの天使』や、レニ・リーフェンシュタール監督のプロバガンダ映画『オリンピア』などが製作された。イタリアではムッソリーニがローマ郊外にチネチッタ(映画村)をつくった。
 映画が流行しはじめると、それまでの芝居小屋は映画館に衣替えした。映画からはジョン・ウェイン、ハンフリー・ボガート、ローレン・バコールなどの大スターが生まれた。クラーク・ゲーブルは『風と共に去りぬ』(1937年)で、一躍スターになった。
 しかし、こうした華やかな消費文化が隆盛するなか、ヨーロッパは破局と自滅への道を歩んでいたのである。

第2次世界大戦とジェノサイド──カーショー『地獄の淵から』を読む(8) [本]

 第2次世界大戦は黙示録的なスケールの戦争だった、と著者はいう。戦争にからむヨーロッパ(ソ連を含む)での死者は4000万人を超えた。
 アジア・太平洋地域を含めると、第2次世界大戦の死者は5000万〜8000万人といわれる。もっとも死者が多いのはソ連の推定2100万〜2800万人(著者は2500万人としている)。ついで、中国の推定1000万〜2000万人である。ソ連の数字には、ロシア西部、ベラルーシ、ウクライナなどでの死者の数が含まれている。ポーランドの死者は600万人。ドイツは700万人。
 いっぽうイギリスは45万人、フランスは55万人と第1次世界大戦より死者数は少ない。日本は260万〜310万人。アメリカは42万人弱だった。戦場になった地域ほど死者数が多いのはいうまでもない。民間人の死亡率が高かった。第2次世界大戦の核心にはジェノサイドがある、と著者はいう。
 ヨーロッパの大戦は、3つの局面に分けることができる。
 第1局面は1939年9月から1941年6月にかけてである。戦線はポーランドからバルト3国、スカンディナヴィア諸国、西ヨーロッパ、バルカン、北アフリカへ拡大した。
 ポーランドはドイツとソ連によって分割された。バルト3国はソ連に占領された。フィンランドは赤軍の攻勢をしのいだものの、ソ連に一部領土を割譲せざるをえなかった。
 1940年春、ドイツはデンマーク、ノルウェー、オランダ、ルクセンブルクを制圧。6月にはフランスが降伏した。41年春、ユーゴスラヴィアとギリシアもドイツに屈した。いっぽう、イギリスはチャーチル首相のもと、ドイツ、イタリアと戦いつづけることを宣言した。
 戦争の第2局面は1941年6月から1944年6月にかけてである。
 1941年6月22日、ドイツ軍はソ連に侵攻を開始する。ヒトラーはあせっていた。アメリカがイギリス側に立って参戦するまでに、ソ連の資源を確保し、大陸の制覇を成し遂げねばならない。
 だが、ヒトラーの「バルバロッサ作戦」は冬前に完了しそうになかった。ウクライナは手に入れたが、カフカス油田までは到達せず、レニングラードを手に入れるのも難しかった。ドイツ軍がモスクワに接近するにつれ、スターリンは首都を放棄しそうになるが、ようやくもちこたえる。そして、1941年12月5日なって、反撃に転じた。
 12月7日、日本が真珠湾を攻撃し、戦争は世界規模に拡大した。ヒトラーは日本がアメリカを釘付けにすることを期待していたが、それは過大評価だった。1942年6月のミッドウェー海戦で、日本の優位は限界に達する。
 ドイツの支配権拡大にもかげりがみえてきた。潜水艦Uボートの破壊力は、エニグマ暗号機の開発によって失われようとしていた。
 1942年10月から11月にかけ、北アフリカではアラメインの戦いで、ドイツの前進がはばまれる。ソ連にたいする第2次大攻勢でも、スターリングラードで大敗を喫していた。
 連合国の指導者は勝利を確信するようになる。1943年1月、ルーズヴェルトとチャーチルはカサブランカで会談し、枢軸諸国を無条件降伏に追いこむことを確認した。
 北アフリカで勝利した連合国軍は1943年7月、シチリア島に上陸した。9月にはイタリアと連合国が休戦協定を結ぶが、これにたいしドイツ軍はイタリアの大半を占領し、ふたたび戦闘がはじまる。
 1942年5月からはじまったイギリス空軍によるドイツの都市への無差別空襲は、翌年さらに勢いを増していた。とりわけ1943年7月末のハンブルク空襲はすさまじかった。
 1943年7月、ドイツ軍は東部戦線で最後の大攻勢をかけた。だが、1週間とつづかない。イタリアに兵力を回さなければならなかった。11月にはソ連軍がキエフを奪回した。
 第3局面は1944年6月からドイツ敗戦までである。
 6月6日、前年11月のテヘラン会談での合意にもとづいて、連合国軍はノルマンディー上陸作戦を敢行した。ソ連軍は、その2週間後、バグラチオン作戦にもとづいて、大規模な突破作戦を開始する。
 ドイツの空襲では市民の犠牲は膨大な数にのぼった。1945年3月のドレスデン空襲では民間人の死者は2万5000人を数えた(同じ3月の東京大空襲の死者は8万人以上である)。
 ドイツ軍は最後の最後まで戦った。しかし、敗北は時間の問題だった。東部戦線が崩壊すると、ルーマニアとブルガリアはソ連軍に占領された。ワルシャワは1944年8月の蜂起後、ドイツ軍によって破壊されていたが、1945年1月にはソ連軍が掌握する。ハンガリーも3月にソ連軍支配下にはいった。
 ソ連軍は4月16日にベルリンにはいり、25日にエルベ川で西からやってきたアメリカ軍部隊と邂逅した。ベルリンでの戦闘は5月2日に終了。その2日前、ヒトラーは官邸の地下壕で自殺していた。ドイツ軍が完全に降伏したのは5月8日のことである。

 第2次世界大戦では、とりわけ東部で、一般市民にたいするテロと殺戮がくり広げられた。ユダヤ人がジェノサイドの対象となった。ドイツの征服地域ではユダヤ人の「浄化」は自明のこととみなされていた。
 ドイツ軍に囚われたソ連の戦争捕虜もあわれだった。570万人のうち330万人が飢餓ないし病気で亡くなっている。
 当初、ドイツ軍が占領したポーランドでは、ポーランド人は下等人間として扱われ、気まぐれに投獄、処刑された。カトリック教会は閉鎖され、聖職者は投獄ないし殺害された。
 いっぽうソ連に占領された東部ポーランドでは、土地が集団化され、地主は強制退去させられた。銀行は国有化され、貯蓄は没収された。スターリンの命令により、ポーランド人のエリート2万人が殺害された。そのなかにはスモレンスク近郊のカティンの森で殺害された1万5000人のポーランド軍将校が含まれている。
 そのあとも10万人単位で逮捕と強制労働、強制移住、処刑がつづく。ソ連軍はユダヤ人にたいしても容赦なかった。多くのユダヤ人が逮捕され、財産を奪われ、追放された。
 1941年4月にドイツはユーゴスラヴィアを占領し、新国家クロアチアをつくりあげた。クロアチアはファシストの「ウスタシャ」が支配する国家だった。ウスタシャは総人口630万人の半分にあたる非クロアチア人を「浄化」(改宗と追放、殺害)するのに躍起となった。とりわけ標的となったのが、セルビア人とユダヤ人、それにロマ(ジプシー)である。ウスタシャは1943年までに40万人を殺害している。
 1941年夏のドイツによるバルバロッサ作戦では、ソ連軍兵士は獣とみなされただけではなく、一般市民も攻撃の対象とされた。ソ連のユダヤ人殺害も当初から織りこまれていた。ソ連に占領されたバルト3国は、当初ナチス・ドイツを歓迎し、治安警察と群衆がポグロムで手当たり次第ユダヤ人を殺害した。
 ウクライナでもソ連にたいする憎しみは深かった。ドイツ軍は当初、解放軍とみられたが、ヒトラーは「無政府主義的でアジア的な」ウクライナ人をウクライナから排除したいと思っていた。
 ドイツによる弾圧や徴集、強制送致が強まると、パルチザンが活動するようになる。ドイツ当局の取り締まりもさらに厳しくなった。ウクライナでもユダヤ人は大量虐殺された。
 1942年1月の時点で、ドイツおよびその占領地域で殺害されたユダヤ人はすでに550万人にのぼっていた。その背後には、「工業化された集団絶滅システム」があった、と著者はいう。
 当初、ヒトラーはヨーロッパのユダヤ人をすべてロシアに追放するという計画をもっていた。だが、それがうまく行きそうもないとわかると、「ユダヤ人問題の最終解決」のために、ユダヤ人をソビボルやトレブリンカといったポーランドの殺害場所に移動させる計画(ラインハルト作戦)を立てた。
 ここを「収容所」と呼ぶのはまちがいだ、と著者はいう。なぜなら、ユダヤ人は到着後、数時間以内に殺害されたからである。1942年には、こうした場所で270万人が殺害されている。
 1943年、44年の殺害場所は主にアウシュヴィッツに移った。アウシュヴィッツではユダヤ人は奴隷労働をさせられたあげく110万人が殺害された。ヨーロッパ全土からユダヤ人が集められていた。ビルケナウやマイダネクなど、ほかにも死の強制収容所は各地にいくつも存在した。
 ドイツ軍兵士のなかにもユダヤ人への蛮行に逆らった者もいる。だが、それは例外だった。ほとんどのドイツ軍兵士は、ドイツ人の人種的優越にもとづく「新秩序」の建設を求めて戦っていた。
 ソ連赤軍の兵士の場合は、戦う以外に選択肢はなかった。戦わなければ殺されたからである。あえていえば祖国防衛の愛国主義が彼らをようやく支えていた。
 イギリスはドイツに占領されることがなかった。チャーチルのいうように大英帝国の偉大さを守るために戦ったイギリス軍兵士はさほどいない。よりよい未来を切り開くという希望が、わずかに戦闘の意欲をかきたてていた、と著者はいう。
 イギリスに拠点をおく亡命ポーランド政府の目的ははっきりしていた。ドイツの占領から祖国を解放することである。加えて、亡命ポーランド政府にとっては、祖国がソ連の支配下にはいらないようにすることが重要だった。だが、その希望はワルシャワ蜂起の鎮圧とヤルタ会談によって潰えることになる。
 ほとんど無名の存在だったシャルル・ドゴールはイギリスの後押しで、ロンドンを拠点とする自由フランスの指導者となった。自由フランスが祖国フランスで注目されるようになるのは、ドイツが不利となり、ヴィシー政権が支持を失ってからである。1943年にドゴールは自由フランスの本部をアルジェに移し、国内のレジスタンス運動を支持することで名声を獲得した。
 イギリスは参戦国のなかでは比較的幸運だった。とはいえ、ドイツの空爆によって、ロンドンをはじめとする都市では、多くの家屋が破壊され、30万近い人びとが死傷した。食料や物不足による困窮は深刻だった。夫の出征中の育児や家事、長時間労働の重みが主婦の肩にのしかかった。しかし、市民のあいだでは、この戦争は正義だという基本的な認識があり、国民の結束はゆるがなかった。
 ソ連では厳しい強制と抑圧をともなう国民総動員体制がとられた。しかし、祖国防衛を強調する政治宣伝のもとで、国民は苦難を耐え抜いた。
 ソ連ではドイツ軍の侵攻によって2500万人が家を失い、レニングラードでは100万人が餓死した。女性が新たな労働力として職場に組みこまれた。以前の2、3倍の生産ノルマも課せられたが、労働者はそれによく堪えた。ロシアでは戦争によって、新たな共同体意識さえ生まれていた、と著者はいう。
 ドイツの保護領となったチェコでは、終戦までほぼ戦闘はなかった。しかし、チェコの愛国者にたいするナチスの弾圧は激しかった。
 クロアチアではウスタシャによる残虐行為がつづいている。いっぽう大セルビアの復興を望む将校グループの率いるチェトニクと、ティトーが率いる共産党パルチザン勢力の動きも活発になった。パルチザンはティトーのもと、ユーゴスラヴィアをひとつにまとめ、戦後、政府を樹立することに成功する。
 ギリシアではドイツ、イタリアの占領軍に対抗する動きが強まるなか、共産党レジスタンス運動とナショナリスト共和派の対立が激しくなっていた。
 イタリアは1943年7月にムッソリーニ政権が崩壊したあと、北部はドイツ、南部は連合国によって支配されるようになった。
 1943年9月、ムッソリーニはドイツ軍の支援を受けて、北部に傀儡政権を築く。それによりパルチザン闘争が活発になった。1万2000人のファシストとその協力者が殺害され、パルチザンの側には4万人の犠牲者がでた。
 1945年4月、パルチザン側はムッソリーニを逮捕して射殺し、その遺体をミラノ中心部につるした。これにより、イタリアは停戦を迎えた。
 ドイツが占領したオランダ、ベルギー、ノルウェー、デンマークにもナチスの協力者はいた。1942年以降、ドイツの力が弱まると、ドイツへの大衆の反発が高まる。とはいえ、地下のレジスタンス活動は危険であり、恐ろしい報復をともなうこともあった。
 これらの国々でもユダヤ人はよそ者とみられていた。とくにユダヤ人の多かったオランダでは14万人のユダヤ人のうち10万7000人が強制移住させられ、死の収容所に送りこまれた。ベルギーでも2万4000人のユダヤ人がアウシュヴィッツに送られている。
 フランスは国のほぼ3分の2を占める占領地域と、中部のヴィシーを首都とする非占領地域に分断されていた。右派のなかにはナチスに協力する者が多かった。しかし、大方の国民は占領体制に順応し、時が移り変わるのを待つ姿勢をとっていた。
 ドイツの占領は、当初、穏やかだった。しかし、逆境に立ちはじめると、フランスにたいするドイツの経済的要求は苛酷になった。食料や物資の不足にも悩まされるようになった。
 ペタン元帥の指導するヴィシー政権は、ファシズム的な統治体制を敷き、7万5721人のユダヤ人を死の収容所に強制移送した。
 だが、次第にレジスタンス運動も高まってくる。これにたいするナチスの報復もすさまじかった。にもかかわらず、共産系、保守系もあわせて、積極的レジスタンスの波は収まることがなかった。
 ドイツでは1942年ごろから物資の欠乏がひどくなり、政権への支持が低下した。最後の2年間は連合国による空襲が住民を恐怖におとしいれた。この空襲で40万人以上が死亡し、80万人が負傷、500万人近くが家を失った。
 さらにソ連赤軍が侵攻すると、大勢の難民が押し寄せてきた。東部からの逃避行のなかで、多くの女性と子どもを含む50万人近くが命を落とした。兵士と民間人の死者が、けたちがいに増えるにつれ、ドイツ人はヒトラーとナチ司令部、連合国をうらみ、自分たちを戦争の犠牲者とみなすようになった。
 第2次世界大戦の結果、ソ連の影響圏は東欧全域とドイツにまでおよぶようになる。アメリカは戦争を通じて超大国に変貌し、西欧全域に支配権を確立した。英仏独というかつての3つの大国は弱体化した。帝国の解体にともない、植民地では民族独立運動が巻き起こる。そして、ユダヤ人問題は何世代にもわたって、ヨーロッパの人びとに道徳上の問題を投げかけることになった。
 第2次世界大戦は広島と長崎に原爆が投下されることによって終結する。だが、それ以来、世界じゅうの人びとは核による絶滅の脅威と向きあうことを余儀なくされている。