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瓦礫のなかから──カーショー『地獄の淵から』を読む(10) [本]

 1945年、大陸ヨーロッパでは、交通網が爆撃で破壊され、ガスや電気、水道もないありさまだった。住まいはなくなり、飢餓と病気が蔓延していた。
 そんな状況から、ヨーロッパはどのようにして立ちなおるきっかけをつかんだのか。これが本書最終章のテーマである。
 戦争が終わったとき、最初にはじまったのは報復である。強制収容所では囚人たちが衛兵を襲撃する場面もみられた。しかし、連合国の占領によって、ドイツでは残忍な報復はすぐに抑えられた。
 しかし、イタリアでは元ファシスト党員が1万2000人虐殺されている。フランスではヴィシー政権の支持者が9000人殺された。ナチスと親密にしていた女性たちは、公衆の面前で辱めを受けた。そうした暴力が短期間で終息したのは、占領軍、あるいは文民政権がすぐに統制力を把握したからである。
 問題はヤルタとポツダムで合意された国境の変更が、実際には追放といってもよい人口移動をともなったことである。ユダヤ人にたいする偏見は根強く、多くのポグロムが発生した。ポーランドやチェコスロヴァキアにもともと住んでいたドイツ人は、虐殺されたり強制追放されたりしている。
 多民族の東欧はほぼ姿を消す。「徹底した追放と猛烈な民族浄化が、おぞましい効果を上げた」と、著者は記している。
 ソ連の勢力下にある国々では、対敵協力者はただちに処刑されるか、労働収容所に送られた。西欧では死刑は比較的少なく、短期間で釈放されるケースが多かった。ナチスの党員が多かったオーストリアでは死刑判決はごくわずかだった。多くの者が特赦を受け、社会復帰している。
 ドイツでは、戦争末期、何人かのナチス幹部が自殺していた。ヨーゼフ・ゲッベルス、マルティン・ボルマン、ロベルト・ライ、ハインリヒ・ヒムラーなど。
 アウシュヴィッツ収容所の所長だったルドルフ・ヘスは逮捕され、処刑された。アドルフ・アイヒマンは、ひそかに南米に逃げたが、のちに逮捕され、エルサレムで裁判にかけられた。
 ゲーリングやリッベントロップ、ルドルフ・ヘスなどは捕縛され、ヴィルヘルム・カイテル、アルフレート・ヨードル、エーリヒ・レーダー、カール・デーニッツなどの軍指導者とともに裁判にかけられた。
 ニュルンベルク裁判は1945年から46年にかけて開かれ、24人が死刑判決を受けた。勝者の裁きという声もなかったわけではない。しかし、ドイツ国内でも大半の人がナチスにたいする告発を支持した。
 とはいえ、ドイツ社会を徹底して非ナチ化するのは、ほとんど不可能な仕事だった。それにいつまでも連合国がドイツを占領しているわけにもいかなかった。ドイツはドイツ人によって運営されるほかなかったのである。
 西ドイツ政府は1951年に最悪の犯罪者を除き、数十万人を特赦する法律を制定し、非ナチ化に終止符を打った。だが、ソ連占領地域では、非ナチ化は苛酷な道をたどった。ソ連秘密警察が運営する収容所で数万人が亡くなり、さらに多くがソ連の労働収容所に送られた。
 しかし、著者はこう指摘する。
「冷戦が始まるとともに、東西で政治的配慮がはたらき、追放の時代は終わり、東側では社会主義の団結のために、西側ではますますかまびすしくなる反共主義のために、過去に抹消線が引かれることになった」
 ヨーロッパでは戦後めざましい勢いで複数政党政治が復活した。とりわけ左翼政党が支持基盤を拡大した。左翼のなかでは共産党が、レジスタンスの業績をかかげながら、ソ連を支持する立場をとった。
 フランスやイタリアでは共産党が戦前の倍以上に勢力を伸ばした。しかし、イギリスでは共産党は伸びなかった。
 社会主義政党は一般的に共産党支持を上回り、オーストリア、スウェーデン、ノルウェー、西ドイツで大きな得票を獲得する。
 イタリアとフランスでは、左翼票は社会党と共産党でまっぷたつに割れていた。
 イギリスの労働党は大戦末期の1945年に勝利を収めた。クレメント・アトリーの率いる労働党新政権は、民主的手段を通じた社会・経済改革をめざした。炭鉱、鉄道、ガス、電力、イングランド銀行が国有化された。教育改革がなされ、、労働者の権利が向上し、住宅建設計画が進められた。国民健康保険も導入され、福祉国家の建設がスタートする。
 イギリスは返済しなければならない巨額の負債をかかえ、緊縮財政を強いられていた。食料もガソリンもしばらくのあいだは配給制のままだ。経済状況は苦しい。とはいえ、労働党の提唱した福祉政策は、ほかの政党にも受け入れられるようになった。
 しかし、西欧の大半の国では、左翼の時代はあっという間に終わる。左翼の亀裂が深まりつつあった。そのかん、キリスト教民主主義にもとづく保守政党が勢いを増していった。
 イタリアではアルチーデ・デ・ガスペリが率いるキリスト教民主党が勢力を伸ばした。1948年の下院選挙で過半数を獲得し、その後、何年にもわたって政権を維持することになる。
 フランスでは戦後初の1945年10月の選挙で、共産党が第一党となり、社会党、キリスト教民主主義系の人民共和運動(MRP)と、憲法制定のための三党連立を組んだ。
 シャルル・ドゴールはすでに臨時政府を発足させている。しかし、ドゴールは新憲法のもとづく第4共和政が気にくわず、1946年1月に大統領を辞任し、翌年、フランス国民連合(RPF)という新政党を発足させる。
 第4共和政は1958年までつづく。しかし、三党連立体制はすでに1947年にほころび、共産党が離脱、それ以降、フランスでは脆弱な政権がつづいた。
 占領下ドイツの西側地域では、キリスト教民主同盟(CDU)、社会民主党(SPD)、それに共産党までもが、挙国一致内閣をめざして、活動を再開していた。
 コンラート・アデナウアーの率いるキリスト教民主同盟は、社会的公正と民主主義を唱え、しばしば第一党となった。これにたいし、左派は分裂状態に戻りつつあった。共産党は支持を伸ばせない。急進的な社会・経済改革を唱えていた社会民主党は、大きな国民の支持を獲得できないままでいた。
 ドイツの東側では複数政党制は見せかけだけで、実際の主導権はソ連の影響下にある共産党が握っていた。1946年には左翼政党の強制合併がおこなわれ、ドイツ社会主義統一党(SED)が誕生する。そして1949年1月にSEDはマルクス・レーニン主義政党だと宣言し、複数政党制の痕跡は徐々に消されていった。
 ハンガリーでも共産党は政治的反対派を徐々に排除し、1949年には完全に権力を掌握した。
 ポーランドでも共産党が警察と治安機関を掌握していた。ロンドン亡命政府は見捨てられるかたちとなった。1947年の選挙では、共産党に敵対する人びとが100人以上殺害され、数万人が投獄され、多くの対立候補が資格を剥奪された。
 チェコスロヴァキアでは、1946年5月の自由選挙で共産党が第一党になった。連立政権で非共産党の閣僚が抗議の辞任をすると、それを機に共産党は一挙に権力を掌握した。反対派は弾圧され、スターリン主義的支配が確立された。
 ユーゴスラヴィアだけはソ連の支配に服さなかった。ティトーのパルチザンは、ソ連の赤軍に頼ることなく、本土の大半を掌握した。ティトーには国民の絶大な支持が寄せられていた。そのためモスクワから中傷を浴びながらも、ユーゴスラヴィアは独自の路線を歩むことになる。
 ソ連では、1945年の勝利の歓喜が大きな幻滅に変わっていた。スターリン体制は締めつけを強め、抑圧機構がふたたび稼働する。新たに勝ちとった領土を維持し、資本主義と対抗し、国を再建するのは容易な仕事ではなかった。あらゆる反抗の兆候は、容赦なくつぶさなければならなかった。こうしてソ連の収容所と流刑地は500万人もの囚人をかかえることになった。
 冷戦は避けようもなかった。
 第2次世界大戦は帝国主義の終焉をもたらした。ヨーロッパの帝国が引き上げたことで生じた空間にふたつの強大国、アメリカとソ連が勢力を広げていく。両国の覇権争いはヨーロッパにとどまらず、世界じゅうで生じた。しかし、当初、冷戦の主戦場はヨーロッパとなった。
 チャーチルのいう「鉄のカーテン」がヨーロッパを分断していた。アメリカの外交官ジョージ・ケナンは、ソ連の拡大を抑えるために「封じ込め」政策を打ちだす。
 ギリシアでは内戦が勃発する可能性があった。アメリカはギリシアの右翼に軍事援助を与え、左翼の伸張を打ち砕いた。
 決定的な戦場はドイツだった。ソ連管理地域の東側はすでに独自の道を歩みはじめていた。これにたいし、アメリカは1947年以降もドイツの西側地区で駐留をつづけると表明した。
 アメリカは1947年6月に「マーシャル・プラン」を打ちだす。マーシャル・プランはヨーロッパの復興を促した。とりわけ重点が置かれたのは、ドイツを復興させ、ソ連の膨張主義を防ぐことだった。ソ連はとうぜんマーシャル・プランを拒否した。
 1948年秋には、ヨーロッパの経済的分断は政治的亀裂と重なりあうようになる。ソ連はコミンテルンの後身としてコミンフォルムを創設し、マーシャル・プランに対抗して、コメコンを創設する。
 西側はすでに国家として西ドイツを樹立するつもりで、さまざまな経済政策を打ちだしていた。ソ連はベルリンから西側連合国を追いだそうとする。だが、ソ連によるベルリン封鎖は失敗に終わる。
 西ドイツでは1949年5月29日に基本法(憲法)が制定され、アデナウアー首相のもと9月20日に新国家が発足する。これにたいして、ソ連は10月7日、旧東部地域に東ドイツを建国した。
 このころ西側諸国にとって、脅威はドイツではなくソ連であることが明らかになりつつあった。1949年4月には北大西洋条約機構(NATO)が設立されていた。のちにソ連はこれに対抗してワルシャワ条約機構を創設することになる。
 冷戦がはじまっていた。とはいえ、ヨーロッパにおけるアメリカのプレゼンスは、ヨーロッパでの資本主義の勝利を保証した、と著者は書いている。そして、そこからはチャーチルのいう「ヨーロッパ合衆国」の構想すら生まれてくるのである。
 戦後のヨーロッパをえがく本書の後半部分はまだ出版されていない。しかし、まもなく出版される予定だという。
 これにたいして、われわれがきちんとしたアジア史をもっていないのはなぜなのだろう。ぼくの知るかぎりでは宮崎市定の『アジア史概説』があるのみである。日本人はどちらかというと自国中心の歴史で満足しているようにみえる。しかし、これから必要なのは、西アジア、南アジア、東南アジア、北東アジアを統合したアジア史(とりわけ現代史)なのではないかという気がする。