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『不道徳な見えざる手』を読む(5) [商品世界論ノート]

 なぜ多くの人が広い意味でのフィッシングに引っかかるのだろうか。
 自由市場が豊かさを生みだしたのはまちがいない。しかし、自由市場にも裏面がある、と著者(たち)はいう。だから、予防策なり対策が必要なのだ。
 政府は自由市場の過剰にたいし、有効な重しとなるというのが、1970年代までの合意だった。ところが、レーガン政権以降、政府こそが問題だという考え方がでてきた。著者は、そうした考え方こそがインチキだという。
 社会保障の有効性は否定しがたい。アメリカでは、1959年に65歳以上の人の貧困率は35.2%だった。それが1975年には15.3%に減った。年金収入がなくなると、65歳以上の貧困率は一挙にはねあがるだろう。
 失業保険や健康保険が、生活の不安を軽減していることはいうまでもない。
 しかし、2004年にブッシュ政権は社会保障システムの改革を打ち出した。社会保障の民営化によって、予算を節減しようというわけだ。とりわけ、アメリカではメディケア、すなわち医療費問題が悩みのタネになっている。
 そうした社会保障の見直しが、貧困率を高める一因になっている。
 政府には金融をコントロールするという役割が課せられている。
 証券規制もそうした政府の役割である。アメリカには証券取引委員会(SEC)がある。しかし、予算が不足しているため、じゅうぶんな規制をおこなえないでいるのが現状だという。
 現在の選挙資金規制法も、じゅうぶんではなく、言論の自由を保証するものではない、と著者はいう。膨大なカネが動く選挙運動やロビー活動に、じゅうぶんな規制がなされていない。
「そんなに豊かでない他の人々の声をかき消せるような巨大な拡声器を持ち出せるだけのリソースを持った人々には、ある程度の制限を加えなければならない」。著者が支持するのは、政治献金を個人献金にかぎり、しかも、それをごくわずかの金額にしぼるというものだ。
 市場と民主主義は、とかく礼賛されがちだ。
 これにたいし、「市場と民主主義のよい面だけを考慮せずに、悪い点も考慮しなければならない」と、著者は訴える。
 くり返しになるかもしれないが、著者は「あとがき」で、市場はそれ自体が諸刃の剣だと語っている。
 市場が不健全な状態になるのは、けっして外部性によるわけではなく、市場がほんらいもつ性格によるのだ、と。
 人びとがほんとうに求めるものと、人びとが自分がほしいと思っているものとは異なる、と著者はいう。
 これは経済学でいう「顕示選好」の概念をくつがえす考え方である。
 顕示選好とは、消費者が予算の範囲内で、自分にとっていちばんよいものを選ぶという考え方である。
 しかし、それが実際とは異なるとは、いったいどういうことなのだろう。
 消費者はいわばカモとして、イメージづけられた、言いかえれば物語を埋めこまれた商品を買わされている、と著者はみる。それは消費者がほんとうに求めるものとは異なっている。著者がフィッシングはいたるところにあるというのは、そのことだ。
 本書の結論部分には、こう書かれている。

〈かなり自由な市場を持つ現代経済は、先進国に暮らす私たちにはこれまでのあらゆる世代がうらやむ生活水準をもたらした。でも、自分をごまかすのはやめよう。それはまた、カモ釣りももたらす。そしてそれもまた、私たちの厚生にとっては重要なのだ。〉

「厚生にとっては重要なのだ」という最後の部分がよくわからない。
 厚生とはwelfareのことだろうか。だとすれば、豊かさや幸せと解釈してもよい。
 最後の一文は、私たちはカモにされることで、豊かさや幸せを奪われていると理解すればよいのだろうか。
 著者のねらいは、バブル均衡の経済学を考えることにあると思われる。つまり、バブルやブーム、そしてその崩壊と消滅を射程にいれなければ、現実の経済は理解できない。いままでのミクロ経済学は、市場をあまりにも調和的に考えてきた、というのが著者の見方のようである。

『不道徳な見えざる手』を読む(4) [商品世界論ノート]

 自由市場に利点があることは著者(たち)も認めている。だからといって、それを称賛するわけにはいかない。欠点もあるからだ。
 新しいアイデアが新しい商品(製品やサービス)を生み、消費者の選択肢が増え、そのなかで利潤を生むものが、商品として生き残っていく。
 商品の広がりには、資本や技術(発明)、それに労働生産性の上昇が関係してくる。
 商品が拡大すれば、経済成長につながる。
 しかし、どんな発明(新商品)も、すべてすばらしいというわけではない。「一部の発明にはよい点だけではなく悪い点もある」と、著者はいう。
 たとえばフェイスブックは、人びとに交流の場を提供する。だが、それに振り回されてしまうことはないだろうか。
 自分の記事を投稿すると、どれだけ「いいね!」がもらえるかが気になり、それが少ないといらだったりする。
 そのうち、フェイスブックで「いいね!」が多くもらえるように、情報を集めたり、記事を書いたり、友達を増やしたりするようになる。
 そうこうするうちに、すっかりフェイスブックづけになってしまっている。
 どっぷりつかってしまうのは、携帯やパソコン、テレビだっておなじだろう。
 最近は、いろんな制度が発明される。
 たとえば、日本の大学入試センター試験(それを受けるにはおカネがかかるのだから、りっぱな商品だ)。
 こうした入試のためのランキング制度が、はたしてすばらしいのか、大いに疑問の余地がある。
 高いランキングを獲得した者は「自己満足」するかもしれない。
 だが、その副作用は大きい。
 次は依存症の話。商品には依存症がつきものだ。
 たとえば、たばこ、酒、ドラッグ、ギャンブル。
 たばこの害がいわれるようになったのは1950年代になってからだ。たばこを吸うのは、長いあいだ、かっこいいことと思われていた。
 紙巻きたばこ機が発明されたのは1880年代だ。
 はじめ、紙巻きたばこの消費量はさほどでもなかった。それが次第に増えて、なかには一日じゅう、たばこが手放せない人がでてくる。
 それにともない、肺がんの死者も増えていった。
 たばこと肺がんの関係については、因果関係が明らかにされた。しかし、長いあいだ、たばこ会社は、たばこでがんが生じることは証明されていないと反論していたものだ。
 たばことがんをめぐる論争は、50年にわたりつづけられた。
 いまでは、アメリカでも日本でも、オフィスや公共の場での喫煙禁止はあたりまえとなった。
 喫煙が有害であることに疑問の余地はない。
 しかし、たばこ会社はいまでもたばこを宣伝しつづけている、と著者はいう。
 アルコールの害もひどい。ところが、酒はたばことちがって、少しなら、からだにいいとされている。
 この少しがくせものだ。
 アルコール依存に悩む人は多い。
 深酒は人格を変え、人を傷つけ、健康を損ない、人生を台無しにする。
 ビールやワイン、その他の酒の生産者、小売店、レストランは、もちろん酒の需要がもっと増えることを願っている。もっと多くの人に、飲酒の習慣が広がることに期待を寄せている。だから、酒税を上げることには反対だ。
 飲酒運転にたいする罰則は、さすがに強化された。
 アメリカでは飲酒年齢を21歳に引き上げる動きもある。それでも、市場で酒が容易に入手できることが、飲み過ぎてしまう人をつくっている、と著者は嘆く。
 次に紹介されるS&L(貯蓄貸付組合)は、日本ではなじみではないので、さほど詳しくみる必要はないかもしれない。ごく簡単にすませるつもりだが、まったく無縁というわけではない。
 かずかずの金融商品は、最近になってつくられたものが多い。
 アメリカ人はS&Lに小口のおカネを預け、家や自動車を買うための融資を受けていた。そのS&Lが1986年から95年にかけ、危機におちいった。
 S&Lの歴史はアメリカ版不動産バブルの歴史と重なる。ファイナンスの異常な突出とその瓦解。そして、多くの人がそれに振り回された。
 1970年代、80年代以降、アメリカでは企業乗っ取りが盛んになった。
 ジャンク債を通じて、レバレッジド・バイアウトをおこない、ちいさな会社が大きな会社を買ってしまうのだ。
 マイケル・ミルケンは80年代に、ジャンクボンドの帝王として知られるようになった。ミルケンは格付けが低く、配当の高いジャンクボンド(ハイイールド債)に投資して、大きな利潤をたたきだした。
 このあたりの仕組みは、しろうとのぼくにはよくわからない。ミルケンが注目されたのは、このジャンクボンドの収益を利用して、企業乗っ取りをはじめたことだ。
 乗っ取りは既存の無能な経営者をたたきだし、企業を繁栄に導くという意見もある。だが、そのいっぽうで、有能な経営者を追い出し、従業員の労働条件を悪化させることだって考えられる。
 1989年、ミルケンはインサイダー取引と脱税幇助の疑いで逮捕された。
 ミルケンは、たしかにジャンクボンドをつくりだし、企業買収を推し進めた。だが、それによって、資産バブルを引き起こし、あげくのはてに経済を破壊する疫病を生み出したのだ、と著者は論じている。
 疫病の蔓延を防ぐには大胆な対応が必要になってくる。
 1929年のウォール街大暴落への対応は、あまりにも小規模で遅かった。
 これにたいし2008年の大暴落にさいして、世界の金融当局と中央銀行はすぐさま介入した。それによって、少なくとも世界はふたたび暗黒時代におちいらないですんだ。
 金融崩壊が起こりそうなときは、すばやい公的介入が必要だ、と著者は断言する。
 自由市場は危険市場でもある。しかし、それでも自由市場が存続しているのは、いっぽうでその危険に対処しようとする人びとがいるからだ、と著者はいう。
 たとえば、自動車や飛行機は危険な商品だ。それでも、その安全を守るために、常にさまざまな工夫がこらされ、現在にいたった。
 それは、すべての商品に関していえることだ。
「自分が買う財やサービスや資産の品質を自分で計測できるとき──あるいはそうした品質を性格に格付できて、人々がその性質や格付を理解できているとき──みんなはだいたい期待どおりのものを手に入れられる」。
 それは、商品(財やサービス)を選ぶときの最低基準だ。
 しかし、そのためには、商品の安全性が確保されなければならない。
 暴走しやすい自由市場にたいし、安全性というブレーキをかける人びとが存在することによって、はじめて自由市場は──言い換えれば現代社会は──はじめて存続可能になる、と著者はいう。
 著者は、そうしたブレーキ役のひとつとして、たとえば食品医薬品局(FDA)や国立標準技術研究所を挙げている。
 国立標準技術研究所は商品の標準化、格付け、認証などの仕事をおこなっている。ほかにも、商品の安全性を確保するための機関が多々設けられている。
 こうした標準化と安全性のシステムがあってこそ、商品ははじめて安心して使用できるものとなるのだ。
 アメリカでは消費者団体の総合組織、消費者連合(CFA)が大きな役割を果たしている。こうした団体は、商品の価値や安全を守るうえで欠かせない、と著者はいう。
 全米消費者連盟(NCL)は、1899年にフローレンス・ケリーによって創設された。この連盟が、商品だけではなく、商品を生みだす工場の労働条件も検査して、その検査に合格した製品だけに「白ラベル」を発行する仕組みをつくりだしたことは画期的だ、と著者は高く評価している。
 アメリカには消費者からの苦情を受け付けるベタービジネスビューロー(BBB)という組織もある。日本でいえば、消費者センターのようなものだろう。
 業界のなかにも、業界の規範を守るための団体が存在する。各地の商工会議所もビジネス倫理を推進する役割を果たしている。
 政府や裁判所、議会の責任が大きいことはいうまでもない。政府と裁判所は法にもとづいて、詐欺やフィッシング、不当行為、経済的被害などに対処しなければならない。議会はまた、新たな経済的問題に対処するために新たな立法をおこうなう重要な責務を担っている。
 最近は規制緩和の議論が盛んである。規制はたしかに制約を加える。しかし、全体としてみれば、公共のためになっているという意見も見落としてはならない、と著者はいう。規制はなくせばよいというものでもないのだ。
「私たちは、道徳コミュニティは不可欠であり、その中に個人行動の自由市場が置かれるべきだと論じたい」
 著者はそう述べている。
 自由市場は、その市場をチェックし、暴走を阻止する装置があって、はじめて成り立つ、と著者は考えている。

明代中国の市場とその繁栄──『消費の歴史』から [商品世界論ノート]

 オックスフォード版『消費の歴史』から、クレイグ・クルナスの論文を読んでみた。
 学術的な部分は省略。おもしろそうなところだけを、つまみぐいする。
 中国明朝(1368-1644)の11代正徳帝(武宗、1491-1521、在位1505-21)は評判の悪い皇帝である。変わり種といってよい。外国のエキゾチックな女たちや、怪しげな僧、悪い飲み友達をひきつれて、行軍と称し国内遊覧を繰り返していた。とうぜん、政務はおろそかになった。
 奇妙な逸話が残っている。それは正徳帝が城内で、商人の格好をして臣下にものを売り歩いたというものだ。
 明代の中国は士農工商秩序のうえに成り立っていたといわれる。だが、その表向きの階層とは別に、商業活動は活発だった。

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[姑蘇繁華図から]

 明代の文人、文徴明(1470−1559)の著書をみても、交易と商品、繁華、商人の活動をたたえる文章が数多く残されている。
 文徴明は名門の出身で、商都、蘇州に生まれた。
 文徴明は官人として正徳帝にも仕えた。科挙に合格しなかったため、その地位は低かったが、詩書画にたくみで、『武宗実録』の編集にも携わった。
 武宗とは正徳帝のこと。明代から中国では一世一代の元号が用いられるようになった。そのため正徳年間を治めた武宗のことを正徳帝と呼ぶ。
 それは天皇裕仁を昭和天皇と呼ぶのと同じだ。
1500年ごろの明代は、世界のほかのどの国より物資が豊富にあふれていた。その時代の墓の副葬品からは、家の模型や絵画、書、本、家具、貴金属、織物、陶磁器、工芸品、武器、道具などが出土する。
 景徳鎮は陶磁器では世界初のブランドだったといえるだろう。
 とはいえ、明時代の消費行動を知るためには、こうした出土品だけではなく、当時の文献や絵画も参考にする必要がある。
 中国の市場には、どのような商品が出回っていたのだろう。明代以前のものとしては、13世紀、14世紀のマルコ・ポーロやイブン・バトゥータの記録がある。ほかに北京を訪れた朝鮮人の記録も残っている。そこには、さまざまな色や模様、用途の繻子織物についての記録がある。そうした品物は南京や杭州、蘇州から取り寄せられていた。
 朝鮮では、中国に行けば、何でもそろうというのが合言葉になっていた。実際、弓であろうが、皿であろうが、飾り房であろうが、『三国志演義』であろうが、何でも買えて、朝鮮に持ち帰ることができたのである。
 明代の市場に消費とか消費者という概念を当てはめるのは、いささか時代錯誤かもしれない。とはいえ、ものが広く行き渡っているのは、世の中がうまく治まっている証拠にはちがいなかった。
 1500年ごろ、北京も南京も精華をきわめていた。そのころ描かれた巻物をみると、門の外でおびただしい数の商人が、さまざまな品物を並べて売っているのがわかる。
 そのなかには、文具や本、骨董、錠前などの金属製品、仏画、櫛、足袋、扇、手ぬぐい、衣服などが含まれていて、それらを買っている人も多い。
 その巻物に描かれているのは祭りの場面で、何かの行列を男たちが取り囲み、建物の上から女や子どもが、その様子を見物している。その建物も商店で、どんな商品が売られているかを示す旗も立てられている。それをみると、こうした商店では穀物や革製品、金細工や真珠などが売られているらしい。
 明では、こうした消費をムダで贅沢だと非難する声がなかったわけではない。明の文人、張瀚(ちょうかん)はこうした消費行動が社会秩序を乱すものだと述べている。
 人びとは富貴を重んじるようになり、それまでの禁令を無視して、男は錦に身を包み、女は金や真珠の飾りを身につけるようになったと嘆いている。
 范濂(はんれん)も風俗が昔より低俗になったと、かぶりものから髪形、衣服、食べ物にいたるまで、そのちがいをことこまかに指摘している。
 前代の弘治帝(1487-1505)の時代には、まだ農業が尊ばれ、衣服も簡素であったのに、若者たちがいまでは絹服ですらやぼったいという始末だ、と悲憤をあらわにする。
 こうした見方は、明代の文人のあいだで支配的だったようにみえる。贅沢を政治的繁栄のあらわれと考える見方はごくまれだった。
 しかし、陸楫 (りくしゅう、1515-52)は、むしろ近代風の考え方をしており、経済活動が盛んになるのはいいことであり、ひとりの人がカネを使えば、それが何人もの雇用につながると述べている。
 李日華(りじつか、リ・リフア、1565-1635)は1609年から1616年にかけ『味水軒日記』という日記を残している。李は江南の町に住んでいた地主階級の人物である。進士となったが、官僚としてよりも、文人としての評価が高かった。

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[李日華]

 その日記をみれば、明代のエリートの生活がどのようなものであったかが浮かび上がってくる。かれは骨董についても一家言があり、自分なりに骨董ランキングをつけている。
 もっともすぐれたものは晋唐時代の書であり、それに五代時代の絵画、南宋や元の絵画、秦漢以前の青銅器や紅翡翠、それからさまざまの翡翠や硯がつづく。楽器や刀剣、盆栽、書物もランキングされている。海外からの香料や宝物、茶と酒、山海の珍味、白磁や彩色陶器も紹介されている。それに、白飯と緑の野菜、布の上着と籐の杖とつづくのは、ご愛敬だ。
 明代においては、こうした事物、ならびに古典に通じていることが、エリート、すなわち知識人の条件でもあった。
 李日華の自宅には多くの訪問者があり、書画骨董をめぐって、さまざまな往来があった。また、自身も書物や木彫、サイの角、めのう、琥珀、硯を購入したり、その購入を検討したりしている。宝石を買おうとして、商人のもとを訪れたりもしている。庭石の購入も考えていたようだ。
 福建省のオウムを飼ったこともある。だが、このオウムは寒さのため死んでしまう。
李日華は海外との交流によって手にはいるめずらしい品物についても記録している。そのなかには、日本の漆製品や金属細工品、イスラム世界ないしヴェネツィアからもたらされたブルーのガラス器などの記述もある。広東からもたらされた大きな卵(龍の卵と考えられていた)についても記している。
 ただし、李日華が文化的に評価するものは、芸術品にかぎられていた。日記に記されているもののなかには、いわゆる日常的な商品はすくない。わずかにビロードなものか。とはいえ、漆塗りの長椅子や白ろうの急須にもこだわっていた。
 父親の誕生日のために、不老長寿の飾り付けをしたランタンを買っているのは、特別の日を祝うためだったろう。
 李日華は蘇州で茶碗を数多く買っている。町の閶門(しょうもん)に舟をつないでいたが、それは茶をたてる水を確保するためだった。かれは茶人であって、とりわけ水には気を配っており、みずからの茶室を味水軒と名づけている。
 食べ物や飲み物に愛着があったことは確かである。日記には、庭のみかんがうまかったとの記述もある。時に飲み過ぎて、二日酔いになることもあった。生活に困った様子はなく、多くの召使いや家来に囲まれていた。広い地所をもっていたにちがいないが、日記にはそうした資産についての記述はほとんど見当たらない。
 日記には何を買ったかは書かれているが、いくらだったかは記録されていない。あるとき秦の楽器を持ちこまれたが、それはどうも気にいらなかったらしく、すぐに返品している。優雅でなく粗野なものは嫌いなのだ。それは人にたいしても同じだった。
 こうした明代後期の市場と消費生活をどう位置づけたらよいか。さまざまな議論があり、この論文の著者も、それを事細かに紹介している。
 それは資本主義の前段階とみなすべきか。それともそれとは大きな断絶があるのか。同じ時代のヨーロッパと中国とではどんなちがいがあったのか。
 その論議に立ちいるのはやめておこう。
 明代後期の江南、とりわけ蘇州に思いをはせればよいのかもしれない。
 ちなみに、宮崎市定は、中国の知識人についてこう書いている(引用にあたっては多少読みやすく、表記を変更した)。

〈明代の文化はかえって官界遊泳に失敗して仕進に望みを絶ち、一介の市民として都会の塵の中に埋もれた、いわゆる市隠によって推進された。……もちろん宋代にも隠者はあった。……ただし中心からはみだしはしたが、それは反抗したためではない。しかるに明代においてはこういう隠者が文化の中心を占めていて、しかもそれが北京朝廷を背景としたエセ知識人の政治家と対立抵抗していたのである。〉

 おそらく李日華もそういう人物のひとりだったのだろう。
 そして、地位に恋々としているエセ政治家やエセ官僚が多いのは、今も昔も変わらないと思うのである。

『不道徳な見えざる手』を読む(3) [商品世界論ノート]

 著者(たち)は「釣り(フィッシング)」の具体例をつぎつぎ挙げていく。
 今回はその3章から6章までを読んでみよう。
 まず広告業者の話がでてくる。
 広告業者は、どうやれば人びとが、この商品を買いたくなるかを常に探っているという。
 広告は人の心にはいりこむ「物語」をつくるところからはじまる。それは商品が人にもたらす奇跡をえがいたものだ。
 難聴の人に「簡単に聴力を回復できる」製品があると吹きこめば、難聴に悩む人はそれを買ってみようかと思うかもしれない。じっさいには、ほとんど効果がないとしても。
 さらに、広告は食品から飲料、石鹸、掃除機など、ありとあらゆる分野に広がっていく。広告キャンペーンに常にさらされていると、人びとの心のなかに、あれこれの商品のイメージが浸透していく。
 商品名もだいじだ。ここに紹介されているのはサンキスト・オレンジの場合だ。この商品名は、太陽(サン)にキスされるイメージに由来するという。いかにも健康そうなイメージだ。
 サンキストの販売戦略は、オレンジジュースにして飲むという新しいスタイルをともなっていた。ガラス製のジュースしぼり器やフルーツスプーンがあたるというキャンペーンも大当たりして、サンキストの売り上げは爆発的に伸びていった。
 そこにつくられていたのは、サンキスト・オレンジをジュースにして飲めば、たちまち元気になるという物語(神話)だといってよい。
 こうした物語はますます進化していく。それは新商品が新しいライフスタイルをつくるという物語だ。
 著者が例として紹介するのは、ロールスロイスやハサウェイシャツのコマーシャルだ。それは日本でもあてはまる。ぼくもレナウン娘がワンサカワンサカといえば、レナウンのファッションを思いだす。
 とはいえ、消費者が広告に警戒感をいだいているのもたしかである。消費者は広告の場面に登場する主人公が自分自身ではないことを知っている。
 それでも、広告業者はますます人の心をつかむ技法をみがきつづける。そのために、さまざまな統計が駆使され、ビッグデータも利用されることになる。
 広告の手法が用いられるのは、ビジネスの世界だけではない。アメリカの大統領選挙をみれば、そのことが痛感される。広告宣伝は、候補者のイメージを有権者の心に植えつける。それは日本の選挙でもおなじだ。
 著者は自動車の値段はぼったくりだと書いている。
 アメリカでの調査によると、とりわけ黒人の男女は白人よりも車の値段をふっかけられる傾向がある。それは黒人がたぶんはじめて車を購入するとみられているからだという。調査によれば、その額はほかの人よりも2000ドルほど高かった。日本では、ちょっと考えられない。
 販売員が勧めるのが、いろいろなオプションだ。たいしたことのないオプションをつけさせて、車の値段を引き上げる。
 もうひとつのくせ者が、下取り価格だ。下取り価格を上げることによって、高い車を買わせようとするのは営業マンのおなじみの手法。
 加えてローン契約がある。毎月の支払額が低いようにみえても、ディーラーは支払い月が増えれば増えるほどもうかる。アフターサービスやメインテナンスから得られる利潤も大きい。
 住宅もぼったくりの対象になりやすい。大多数のアメリカ人が、生涯で一度は家を購入する。だが、たいていが余分な費用を払っている、と著者はいう。そのひとつが不動産仲介手数料だ。購入価格の6%が基本になっているが、なかにはもっと多く支払ってしまう人もいる。
 登記費用もかかる。アメリカでは法律が改正される前、住宅ローン契約費用もとられていた。ローン自体の金利もばかにならない。
 クレジットカードは現金の場合より、ずっと人びとの消費をうながす、と著者は考えている。カードがあれば、高いものでもつい買ってしまうし、また量を多く買ってしまうことは、実験結果からも出ているようだ。
 クレジットカードの使用にたいして、店舗はクレジット会社に手数料を支払わなければならない。それでも、客にその手数料を請求しないのは、人びとがクレジットカード支払いのおかげで、知らず知らずのうちに消費額を増やしていることを店舗が知っているからだという。
 しかし、クレジットカードは個人破産の大きな原因となる。アメリカで個人破産が増えているのは、その多くが、クレジットカード濫用による負債のせいではないか、と著者はみている。
 ここで、話は政治の場面に移る。
 選挙にはカネがかかる。2008年のアメリカ下院選挙では、1人200万ドル以上かかったといわれている。上院選挙はもっと多く1人1300万ドル以上だった。それだけ宣伝に費用がかかっているわけだ。
 選挙においては、有権者は心理面でも情報面でもカモなのだ、と著者は書いている。つまり、いかに有権者を引きつけるかが選挙のすべてだ。
 議会で何が問題なのかを理解しているのは、ごく一部で、ほとんどだれもの人は何も知らない、と著者は断定している。
 たとえば、2008年の緊急経済安定化法は、リーマンショックを緩和する効果を発揮したのだが、その意味を知っていた人は専門家だけだった、と著書はいう。だが、はたしてその権限を政府にゆだねてしまっていいのか、疑問は残るとも述べている。
 ロビイスト、議員、選挙資金に関する問題も論じられている。
 アメリカには1万2000人のロビイストがいる。ロビー活動に費やされる金額は莫大だ。
 ロビイストの役割は、おもに企業、献金者と政治家を結びつけることだ。
 政治家には有権者向けと献金者向けのふたつの顔があるという。ロビイストはいわば献金者向けの顔を表沙汰にしない隠れ蓑になる。しかも、政治家の決定に影響を与える。
 ロビー活動がなくならないのは、それが費用以上に、企業にさまざまな利益をもたらすためだ。
 著者は、ロビー活動が政治と利益団体の癒着をもたらし、民主主義をおびやかしていると指摘することを忘れていない。
 アメリカで、食品や薬にたいする規制がなされるようになったのは20世紀はじめのことだ。へたをすると命を落としかねない危険な食品、インチキな薬があまりに出回っていた。
 しかし、21世紀になったいまも、食品や薬の安全性はけっして保証されていない、と著者は断言する。
 食品産業のつくりだす食品は、砂糖と塩と脂肪まみれだ。それが胃腸の病気や糖尿病を引き起こす要因になっている。
 製薬会社のつくりだす薬も、あやしいものが多い。
 ここで紹介されるは、関節炎の痛みを抑える夢の新薬とうたわれたヴィオックスだ。1999年にマーク社から発売された。
 それまでの関節炎の鎮痛剤は、胃腸障害をもたらす公算が大きかった。ヴィオックスには、そうした副作用がないと思われていた。
 だが、じつは、事前の実験でも、ヴィオックスには、たしかに胃腸障害は少ないが、深刻な血栓をもたらす可能性があることがわかっていたのだ。ヴィオックスを発売するマーク社は、にもかかわらず、盛大な販売活動に乗りだした。
 2004年にヴィオックスの売り上げは25億ドルに達する。だが、ヴィオックスが心臓発作を起こす可能性は現実のものだった。
 ある推計によれば、アメリカでヴィオックスにより心臓発作を起こし、死亡した人の数は2万6000人を越えるとされる。
 ヴィオックスは2004年9月末に発売中止となった。
 なぜ、はじめからヴィオックスの発売にストップをかけられなかったのだろう。
 米食品医薬品局(FDA)は、製薬会社のテストを信頼し、深刻な長期リスクをもつ薬を禁止できないのが実情だという。
 製薬会社は、医学雑誌を活用し、次に営業担当者を動かして、薬の売り込みをはかる。さらに医学シンポジウムを主催して、自社に好意的な関係者を集め、口コミによる薬の宣伝をはかるのが、通例のやり方だという。
 これに、だれもがひっかかる。
 長期的な副作用をもつ薬は、いまでも市場に出回っている、と著者はいう。
 もちろんそれは食品でも同じだ。アメリカ人が太っているのは、ポテトチップスのせいだとはいえないが、まるで関係がないわけではない。
「カモ釣りはいまや新しい形をとって、規制の定めた新しい範囲内で行われているのだ」と、著者は述べている。
 商品世界に、広い意味でのフィッシングのネタは尽きないようだ。
 次回は第2部の後半を紹介する。

『不道徳な見えざる手』を読む(2) [商品世界論ノート]

 実際の消費行動は、経済学教科書でえがかれているものとはちがう、と著者(たち)はいう。人びとはけっして合理的な予算配分をしない。そのため、月末になると、おカネのやりくりに苦労することになる。予想外の支出があると、まったくお手上げになってしまうのだ。
 アメリカでは、ほとんどの勤労所帯は1カ月分の貯蓄もしていないという(日本では考えられない)。月々の支払いができなくて、ローンに頼る人も多い。支払いが滞って、破産したり、家を強制退去させられたりする人も後をたたないのだという。
 1930年から2010年にかけて、アメリカ人の1人あたり所得は5.6倍になった。それなのに、貯蓄も余暇も増えていない、と著者はいう。疲れ切った主婦と貯蓄の欠如がアメリカの現実なのだ。
 その原因の一端は自由市場にある。自由市場は人びとがほしいものを生産するだけではなく、「そうした欲求を作り出し、企業が売りたいものを人々が買うよう仕向ける」のだ。
 自由市場は誘惑をつくりつづけることによって成り立つ。スーパーで卵や牛乳がいちばん奥に置かれているのは、そこに行き着くまでに店を全部見て回らせるようにするためだ、という指摘はおもしろい。レジの近くにキャンデーやガム、雑誌などが置かれているのも、ちゃんとした理由がある。
 スーパーの棚はマーケティングにもとづいて整理されている。クレジットカードも誘惑の元だ。「消費者を誘惑して買うように仕向け、お金を使わせるというのは、自由市場の性質そのものに組み込まれている」。したがって、この誘惑に打ち勝つには、かなりの自制を必要とする。
 この80年間に所得が何倍にもなったのに、人がかえって毎日あくせくしているのは、商品世界が「人々に多くの『ニーズ』を生み出し、さらに人々にそうした『ニーズ』を売りつける新しい方法も考案した」ためだ、と著者はみている。だから、所得が増えても、生活は苦しいのだ。
 ここで、著者は2008年の金融危機(いわゆるリーマンショック)の問題を取りあげている。
 評判マイニングと名づけられたフィッシングの手法が紹介される。ほんとうは腐っているかもしれない(価値のない)証券を、さも値打ちがあるかのように見せかけて(格付けして)買わせるというものだ。
 評判マイニングとは、評判を埋め込むこと。マイニングとは、そもそも地雷敷設を意味する。そして、それがいつしか化けの皮がはがれて、破滅をもたらす。
 1970年と2005年では、金融システムが一変したという。
 まず、投資銀行がおどろくほど巨大化した。もともと投資銀行とは、大企業の銀行であり、企業にアドバイスするのが仕事だった。
 たとえば、ゴールドマン・サックスは、かつてアドバイスの見返りとして、フォードのIPO(株式新規公開)の仕事を請け負っていた。信頼こそが不可欠だった。
 それが、現在は巨大帝国へと発展する。
 いまではゴールドマンは多くの事業に手を広げ、自社勘定で証券を取引したり、ヘッジファンドの管理をしたり、新しい派生商品をつくったりしている。
 巨額の流動資金をもつ大口投資家(銀行やマネーファンド、ヘッジファンド、年金基金、保険会社など)は銀行にではなく、投資銀行に資金を預け、その運用をまかせるようになった。
 格付け機関のムーディーズも、もともと地味な組織だった。
 それがいまや金融の羅針盤ともいうべき、債券格付けを決める会社へと成長した。1970年代からムーディーズは投資銀行から手数料を取って、格付けを決めるようになった。その結果、これから売りだそうとする債券の格付けをできるだけ高くすることが、ムーディーズの仕事になった、と著者はいう。
 ここから、ちょっとした手品がはじまる。
 投資銀行はだめな資産をパッケージにし、格付け機関はそれに高い格付けをつける。それがサブプライム住宅ローンで生じたことだ。銀行はこの住宅ローンを自分でもちつづけることなく、投資銀行に売り飛ばし、投資銀行はそれをさまざまなパッケージにして売りだした。その販売を促進するため、格付け会社は、この証券に高い格付けをつけた。
「派生商品パッケージに腐ったアボカドが入っていると認識されたのは、後になってからだ」と、著者は書いている。
 ゴールドマン・サックスは2006年の段階で、住宅ローン証券ブームのあやうさに気づき、空売りに転じた。それによって、2008年の大暴落による損害をまぬかれたという。だが、多くの投資銀行はそうではなかった。その代表がリーマン・ブラザーズだった。
 自由市場は荒海に似ている。それを越えて黄金郷に向かうのは、容易なことではない。

『不道徳な見えざる手』を読む(1) [商品世界論ノート]

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 この本はいたく評判が悪い。
 訳者あとがきによると、『エコノミスト』はこの本自体が詐欺みたいなものだと決めつけているし、『フォーブズ』もどうでもいい本とけなしているそうだ。
 さらに、肝心の訳者(山形浩生)も、最後にまるで次作に期待するほかないというような言い回しをしている。
 ひょっとしたら、だまされて買ってしまったか。
 そう思ったところで、後の祭りである。
 やれやれ。
 しかし、こちらはひまな年寄りだ。
 せっかく買った本をムダにすることはあるまい。
 著者はジョージ・アカロフとロバート・シラー。ふたりともノーベル経済学の受賞者だ。前に同じく共著で『アニマル・スピリット』を出版している。
 アカロフは現在の米連邦準備制度理事会(FRB)議長ジャネット・イエレンの配偶者でもある。
 となると、本書への酷評が多いのは、期待が大きすぎたということか。
 ぼく自身は経済学の専門家でもないし、経済とも縁のない人間である。だから、専門的な読み方はできない。せいぜい素人として、わかる部分だけ、つまみぐいするのが落ちである。
 まず、「まえがき」と「序章」を読むことにしよう。
 ここには本書のねらいと考え方、そして全体像が提示されている。
 著者はいう。自由市場は理想的なシステムではなく、ごまかしと詐欺に満ちている。しかし、自由市場に変わるシステムは見当たらない。
 だとすれば、ごまかしと詐欺に満ちた市場のなかで、消費者はどう身を守り、政府関係者はそれをどう規制し、ビジネスマンはそのなかでどうはたらけばよいのか。
 著者は、そのための倫理と行動を探ることを本書の目的と考えているようにみえる。
 自動車、電話、自転車、電灯はどれも19世紀末の発明だ。どれも現代の生活には欠かせないものだ。だが、そのころスロットマシンもつくられている。
 スロットマシンはギャンブル依存症を生み、さらにそれは現代のコンピュータ・ゲームへとつながっている。そうしたマシンは、人を中毒させるよう設計されているのだ、と著者はいう。
 なるほど、ギャンブル依存症かどうかはともかく、現代人がすくなくともゲームや携帯の依存症になっていることは、電車に乗って、回りの人が何をしているかをみてもわかる。
「自由市場は平和と自由の産物であり、人々が恐怖におびえていない時代に花開く」。著者はそのことを認めている。さらに「自由市場は人々のほしがるあれやこれやをもたらしてくれる」。
 だが、そのいっぽうで人を依存症におちいらせるものを生みだし、それによって人の時間とカネ、あるいは大げさにいえば、人生そのものを奪っているのだ。
 本書の原題はPhishing for Phools だ。Fishing for Fools と言い直してみればわかりやすいかもしれない。つまり「カモを釣る」というわけだ。Phool は造語だが、Phishing はすでに英語でも日本語でも定着している。すなわちフィッシング。パソコン詐欺でおなじみの手法だ。
 本書ではこのフィッシングがもうすこし幅広い意味で使われている。またフールの造語であるPhool が、数少ない「バカ」をさすのではなく、ほとんどすべての人にあてはまる「おバカ」をさしていることにも注目すべきだ。
 つまり、われわれはだれもがアホなものを買って、いや買わされて、充実した人生を送っている、いや送らされているというわけだ。
 Phishing for Phools は訳せば「カモを釣る」になるが、そのタイトルの含意は、カモになるなということではなく、われわれがくらしている商品世界の構造を考えなおしてみようというところにあるのかもしれない。
 消費者は習慣をすりこまれる。宣伝や情報にだまされやすい。いっぽうビジネスマンはカネもうけがすべてだ。こういうビジネスをしてはいけないと自制するビジネスマンは会社を首になる。これが現実だ。
 著者は人びとがぼったくられ、だまされやすい分野として、次のようなものを挙げている。たとえばクリスマスや結婚式や葬式といった特別の日の出費、自動車や住宅などの購入、こんどはだいじょうぶといわれて引っかかる投資信託や株、健康食品や薬、それに食べだしたらとまらないポテチやコーラ、つい手がでるたばこやアルコール、などなど。
 そして究極のだましは、口車に乗せられて、よかれと思い、選挙で票を入れてしまう政治家。だまされたと気づいたときには後の祭り。当選した政治家は、頼みもしないことを勝手にどんどん推し進めている。
 ある、ある、と思わずうなずいてしまう。
 次に「序章」。
 ここには本書の考え方と、全体構成がざっと示されている。
 経済学教科書の考え方はめんどうなので、できるだけ省略したいのだが、著者が「釣り(フィッシング)均衡」なる概念を確立しようとしていることは指摘しておいてもよい。
 釣りがうまくいく(消費者がうまくひっかかる)と、特別利潤が得られる、と著者はいう。
 たとえば、シナボン社の特製シナモンロール。空港の待合所に出店するという戦略が功を奏して、大人気だ(日本でも東京駅や六本木センタービルに出店している)。
 トレーニングジムはいまでは大きな産業になっている。1回ごとに料金を支払うこともできるが、たいていは月額を銀行口座で落とすことが多い。しかし、たいていの人は費用に見合う回数だけジムに行っていない。
 また、人はかならずしも有益なものを嗜好するわけではない。くだらぬもの、不要なもの、余分なもの、奇妙なものを、つい買ってしまうのだ。つまり、うまくひっかけられてしまう。
 ところで、経済学といえば、いまでもアダム・スミスだ。
 各自がそれぞれ利益を追求しても、自由市場では「見えざる手」によって、経済は均衡する、とスミスは考えたという。そこから、政府は自由市場に干渉すべきではないという結論がでてくる。
 だが、はたして自由市場は先験的に正しいのか、と著者は疑う。
 自由市場には、ごまかしやだましの自由もある。また何でもかでも自由に売ってよいというものでもあるまい(たとえば人身売買)。それに人は、外部からの刺激に、たちまち影響される。簡単にだまされてしまうのだ。
 著者は自由市場神話なるものを大いに疑っている。
 本書は以下の3部からできている。

 第1部 釣り均衡を考える
 第2部 あちこちにある釣り
 第3部 自由市場の裏面

 釣りというのは、魚釣りではなく、フィッシング、つまりだましである。
 ここでは、人はなぜおカネに苦労するのか、リーマンショックとは何だったのか、広告と情報の役割、人びとはなぜ操られやすいのか、おカネを使わせるテクニック、自由市場と経済社会政策、などが語られることになる。
「釣り(フィッシング)均衡」という考え方は、一種のアイロニーで、自由市場が広義のフィッシングなしには成り立たないことを示すものだといえる。
 すこしずつ読んでいきたい。

永野健二『バブル』を読む(4) [われらの時代]

 1989年末に3万8915円の最高値をつけた株価は90年にはいると急落。その1年半後、地価も落ちはじめた。これにより銀行は膨大な不良債権をかかえることになる。
 そうしたなか、尾上縫という大口個人投資家の名前がとつぜん浮かび上がる。大阪ミナミで料亭を経営していた女性である。
 尾上は興銀から特別金融債「ワリコー」を2500億円買い付け、それを担保に興銀などの銀行やノンバンクから資金を借り入れ、それを株式投資や土地購入に振り向けていた。
 尾上の資金は、もともと大阪経済界の有力者から出ていたという。だが、気の遠くなるほど巨額というわけではない。
 はじまりは、87年5月に興銀の難波支店長が、飛びこみで尾上から10億円のワリコーを契約したことだった。それが融資につながり、株や土地への投資、さらにワリコー購入と次々に回転し、雪だるま式に巨額の資産へとふくらんでいく。
 89年末に尾上の金融資産は6182億円になっていた。それを指南したのが、興銀だったことはまちがいない。
 しかし、尾上の資産は、バブル崩壊を受けて、90年末には2650億円にまで減少し、負債額は逆に7271億円に膨らんでいた。負債額はピーク時、1兆円を超えていたという。
 その過程で、東洋信用金庫が尾上名義で、3420億円の架空預金証書を発行するという事件も発生している。この事件によって尾上縫は逮捕され、破産宣告を受けた。
 しかし、それは単なる詐欺事件では終わらなかった。尾上縫をあやつった興銀の犯罪性が徐々にあばかれていく。こうして、巨額の不良債権をかかえた興銀は、ついに2002年に解散を余儀なくされる。そして、富士銀行、第一勧業銀行とともに、みずほ銀行として再編されることになる。
「日本の戦前の近代産業の発展を支え、戦後はまさに日本の『戦後システム』のフラッグシップとして、敬意と尊敬を集めたモデル企業は、こうして消滅の道を歩んだ」と、著者は述懐している。
 バブル崩壊後、株価暴落により個人投資家や中小企業は大きな痛手をこうむった。しかし、日立やトヨタ、松下電器、日産、丸紅といった一流企業や年金福祉事業団などは、証券会社から補填を受けていたことがあきらかになる。
 ほかにも、大手証券会社のかずかずのスキャンダルが発覚、野村証券や日興證券の社長が辞任に追いこまれた。
 公表されたところでは、証券会社が一流会社などに支払った損失補填額は1200億円以上とされる。だが、それは氷山の一角だった。公表された損失補填額は、一種の大口手数料割引にすぎなかった、と著者はみる。
 89年12月のピーク時に、証券会社は企業から預かった20兆円前後の営業特金をかかえていた。それが株式に投資されていたとしたら、株価が半分になった時点で、10兆円の損害が出ていてもおかしくなかった。だとすれば、公表された証券会社の損失補填額は営業特金の0.6%にすぎない、と著者はいう。
 証券会社の営業特金とは、いってみれば「事業会社や機関投資家が、証券会社と結ぶ『大口預金』契約だった」。80年代後半、企業や機関投資家の財務担当者は、証券会社と信託銀行に、利回り保証を前提に、みずからの資金の運用をまかせていた。
 それがお寒い財テクの実態だった、と著者は書いている。
 実際にどれだけ損失補填がなされたかはわからない。しかし、バブル崩壊によって損害をこうむったのは、個人投資家や中小企業だけではあるまい。大企業も銀行も証券会社もその損害は大きかったのである。
 いずれにせよ、バブル崩壊によって、甘い財テクなど存在しないことが明らかになったのはたしかである。
 1992年8月11日に日経平均株価は1万5000円を割り込んだ。
 日銀の公定歩合は、89年5月以降、わずか1年強のあいだに、2.5%から6.0%へと段階的に引き上げられていた。その指揮をとったのが、日銀総裁となった三重野康である。
 いっぽう、大蔵省も90年3月に不動産関連融資にたいする総量規制を打ち出した。それによって不動産価格が下がりはじめる。
 1992年にはいると、株価と土地価格の暴落が、信用システムの崩壊を招きかねない状況になってきた。土地神話に加えて、銀行不倒神話までが、過去のものとなりつつあった。
 当時の首相、宮沢喜一は公的資金の投入も辞さないと表明したものの、それは決意にとどまる。じっさい、宮沢は不良債権を処理するため、金融機関に公的資金を投入するつもりでいた。だが、それは大蔵省と大手銀行首脳の反対によって阻まれたのだ、と著者はいう。
 そのことによって、その後の不況が長期化した。著者は宮沢の直感こそが正しい判断だったと、バブル処理が遅れたことを残念がる。
「大蔵省の危機意識の欠落と、銀行経営者の自己保身が、宮沢構想をつぶした」と著者は書いている。
 宮沢自身はのちにこう述べている。
「我慢していれば、いずれ株価も地価も上がる。まだそんな楽観論が支配して、結果として不良債権処理が遅れてしまった」
 こうして、「失われた10年」いや「20年」がつづくことになる。
 世界経済が変動相場制に移行するなかで、新しい仕組みづくりや制度改革を先送りにしてきたことが、日本が混乱におちいった原因だ、と著者はいう。

〈日本のリーダーたちは、円高にも耐えうる日本の経済構造の変革を選ばずに、日銀は低金利政策を、政府は為替介入を、そして民間の企業や銀行は、財テク収益の拡大の道を選んだ。そして、異常な株高政策が導入され、土地高も加速した。
 その大きなツケを支払う過程が「失われた20年」といわれる、バブル崩壊から現在まで続くデフレ状況である。アベノミクスというのは、80年代のバブル時代の失政を償うための経済政策でもあるのだ。〉

 著者はアベノミクスに懸念をいだいている。
 それは日本経済を水ぶくれにするだけで、筋肉質にするものではないからだ。

永野健二『バブル』を読む(3) [われらの時代]

 1988年から89年にかけては、バブル狂乱の時代だった。
 ちょうど昭和から平成へと年号が変わる時期である。
 リクルート事件はそのさなかにおこった。
 リクルート社長の江副浩正が、子会社リクルートコスモスの未公開株を政治家や官僚、経営者、マスコミなどに配り、1件数千万円単位の利益を供与したとされる事件である。
 この事件により、藤波孝生官房長官や、真藤恒NTT会長をはじめ、労働省、文部省の次官などが逮捕され、竹下登内閣は総辞職した。
 江副浩正は就職広告や情報通信分野に新しい波をおこした人物だった。リクルートコスモスは、リクルートグループの不動産会社で、ほかにリクルートにはファーストファイナンスという金融会社があった。
 江副は自身が経営者をしているとき、リクルート本体の株式公開を認めなかった。不動産と金融はどちらかというと、江副が嫌っていた分野だったという。
 事件が発覚すると、世間から怒りが巻き起こったことはいうまでもない。
 政官財癒着ということばも生まれた。
 裁判は長引き、10年以上におよんだ。結果は、リクルートコスモス株の賄賂性が認められ、江副は2003年に懲役3年執行猶予5年の有罪となった。
 この事件により、江副は経営者としての地位を失い、失意の晩年を送った。
 田原総一郎はリクルート事件が「国策捜査」だったという。
 著者もまたリクルート事件は「ご都合主義で検察が正義の基準を決めて立件する仕組み」から生まれた、いびつな事件だったと述べている。
 そういうのは、傑出した経営者としての江副の才覚を惜しんでのことである。それでも、違法か合法かはともかく、未公開株を配ること自体が、ふつうの人の感覚でいう賄賂であったことはまちがいないだろう。
 バブルのころは野心家の時代だった。
 そんなひとりが高橋治則である。
 イ・アイ・イ・インターナショナルという会社を率い、85年から4年間で、銀行から1兆5000億円を借り入れ、国内外の不動産やホテル、ゴルフ場を買いあさった。その主力銀行が日本長期信用銀行だった。
 高橋のやり方を著者は「慶応ボーイの空虚な信用創造」と呼んでいる。
 高橋は家業の電子周辺機器商社の後を継いだが、それに飽き足らず、不動産や株の投資に乗りだす。その過程で、東京協和信用組合の理事長に就任したことがきっかけで、バブルの寵児となっていく。
 高橋が徹底的に利用したのが慶応閥だったという。三洋証券社長の土屋陽一と結びついたのも、そうした関係である。
 かれはひたすら拡大路線を突っ走った。
 資金繰りの悪化が表面化するのが90年末、長銀がはいって、整理をはじめるが時すでに遅し。
 東京協和信用組合にも公的資金が投入され、高橋は業務上横領の容疑で逮捕された。
 三洋証券が倒産するのは97年、長銀が破綻するのはその翌年である。
 長銀の債務超過額は3兆6000億円、その全額が公的資金でまかなわれた。
 バブルに踊った買い占め屋は高橋治則だけではない。光進の小谷光浩、麻布土地の渡辺喜太郎、第一不動産の佐藤行雄、秀和の小林茂などもそうである。
 著者は、そのなかでも経営センスのあった人物として小林茂の名前を挙げている。コンパと呼ばれるスナックバー形式の酒場をつくり、秀和レジデンスと呼ばれる一連の建て売りマンションを建てたのが小林である。
 秀和は巨額の負債をかかえ、2005年にモルガン・スタンレー証券に1400億円で買収されることになる。
 小林茂の活躍は、88年から90年にかけて、流通業界関連株を大量に取得し、一時、流通再編の目になったことで知られる。
 伊勢丹、松坂屋、忠実屋、いなげや、長崎屋、ライフストアなどがターゲットにはいった。小林は中堅スーパーを大合同して、1兆円規模のスーパーを設立したいと願っていたという。
 だが、そのM&Aはうまくいかない。忠実屋といなげやは相談しあって、防衛策に走った。
 しかし、その後、日本の流通業界が再編されていくのをみると、小林には先見の明があった。だが、それはエスタブリッシュメント側による再編だった。小林はそのエスタブリッシュメントに体を張っていどみ、ついに敗れ去った、と著者はいう。
 M&Aが本格化しはじめていた。
 1989年3月、アメリカの投資家ピケンズは、トヨタ系列の部品メーカー、小糸製作所の株式20.2%を取得して、筆頭株主となった。その狙いはサヤ取り。ピケンズの黒幕は麻布建物の渡辺喜太郎だったという。
 だが、トヨタの会長、豊田英二は小糸の株を肩代わりすることを拒否し、安定株主比率を守り抜いた。
 89年から2年のうちにバブルは崩壊する。小糸製作所の株も半値近くになって、麻布建物は大きな損害をこうむり、けっきょく倒産に追いこまれる。ピケンズも手を引いた。
 製造業の経営者としての意地が、バブルの時代のサヤ取りを粉砕した。しかし、ピケンズの動きは、金融自由化とグローバリゼーションのもとでM&Aが本格化する時代を先取りしていた、と著者は述べている。
 バブル真っ盛りのころ仕手グループ光進の小谷光浩は、相場師としてセンセーションを巻き起こした。
 小谷は、蛇の目ミシン、国際興業、藤田観光、協栄産業、東洋酸素などの大株主となった。当初、その出資元はよくわからなかった。だが、それが住友銀行であることがしだいにわかってくる。
 小谷は90年7月に、証券取引法違反容疑で逮捕される。住友銀行は知らぬ顔を決めこむ。しかし、その10月には住友銀行青葉台支店長の山下彰則が、仕手戦の資金づくりで小谷に協力していたとして、逮捕されるにいたる。
 住友銀行はそのころ磯田一郎会長のもと、イトマンの処理に苦しんでいた。イトマンは住友銀行の商社部門で、住友銀行銀行の常務だった河村良彦が社長を務めていた。その河村が常務に据えたのが、協和綜合開発研究所の伊藤寿永光だった。
 伊藤寿永光は、総額700億円近い不動産や美術品を買いこんでいた。背後には関西の裏社会の顔役、許永中が暗躍していた。
 磯田一郎は小谷問題で、支店長が逮捕された責任を取って辞任する。イトマン事件には言及されないままだった。だが、辞任の背景にイトマン事件がからんでいたことはいうまでもない。
 磯田の後任となったのが、西川善文である。西川はその後、8年間、住友銀行の頭取をつとめ、さらに2006年から3年間、日本郵政の社長となる。
 だが、西川の回顧録には、バブルをふくらませた住友銀行の責任について、ほとんど反省の言は書かれていないという。
 いっぽう、熱狂相場の終わりを早くから読んでいたのが、野村証券会長の田淵節也だった、と著者はいう。
 90年2月、相場は昨年末の3万8957円から下がりはじめていたが、株式市場ではまだ強気の意見が多かった。それにたいし、田淵はバブルの崩壊が間近に迫っているとみていた。
 田淵は、銀行の有担保主義がつくりあげた土地神話が、土地バブルを生んだと考えている。バブルの崩壊は全銀行におよぶだろう。だが、株式市場でバブルの増殖を加速した責任は、証券会社にもあると感じていた。

〈株高の崩壊は、土地価格の下落につながる。住専などのノンバンクの破綻につながる。そして仕上げは、大蔵省と銀行が持ちつ持たれつで守り続けてきた銀行不倒神話の崩壊である。〉

 田淵はこうしたシナリオを読み切っていた。
 だが、このシナリオがあたることは、証券界のドンと呼ばれてきたみずからの破局をも意味する。
 田淵のつきあいは多岐におよんだ。清濁併せ呑むというタイプの経営者だったという。
 バブルの崩壊によって、田淵はみずからの運命を静かに受け入れようとしていた、と著者は書いている。
 そして、90年以降、バブルの清算がはじまるのである。
 次回はそのことをみておきたい。

イアン・カーショー『地獄の淵から』短評 [本]

 日本の近代がヨーロッパ列強をモデルとして形成されてきたことは、三谷太一郎の近著『日本の近代とは何であったか』でも指摘されている。政党政治も資本主義も植民地支配も天皇制も、ヨーロッパとの遭遇の産物だった。
 明治維新というクーデターの背後には、フランスを後ろ盾にする幕府に対抗し、イギリスの支援によって中央集権国家をつくろうとする薩長の思わくがあった。1871年から73年にかけての岩倉使節団が、不平等条約の改正よりも欧米視察を優先したことも、よく知られている。
 日露戦争を前に、日本は1902年にイギリスと日英同盟を結んだ。その条約は、1921年にワシントンで締結された「4カ国条約」を機に廃棄される。その後、アメリカに対抗するため、日本はナチス・ドイツと同盟を組み、1940年に日独伊三国同盟が発足した。
 第2次世界大戦に敗れた日本は、1951年にアメリカと日米安保条約を結んだ。日米安保体制は現在も維持され、近年、日本は同盟国として、より積極的な軍事的役割を果たすようアメリカから求められている。
 最近の動きはおそろしいほど急速だ。特定秘密保護法、集団的自衛権、安全保障関連法、さらに共謀罪、憲法改正へとつづく怒濤の勢いをみれば、戦後の平和はとっくに終わって、すでに新たな戦争がはじまっているとすら思えてくる。
 ところで、今回の書評はこうした心配な動きとは直接関係がない。一歩立ち止まって、ヨーロッパ現代史を振り返ってみようというわけである。ヨーロッパ現代史は、ヨーロッパをモデルとして発展してきた日本の近代と切り離せない。村上春樹風にいえば、ヨーロッパは日本のパラレルワールドだ。
 本書は1914年から49年までのヨーロッパ史である。その後、現在までをえがく続巻も予定されているという。著者のイアン・カーショーは、イギリスの歴史家で、とりわけナチズム研究で知られ、ヒトラーについての浩瀚な伝記も出版している。
 1914年から45年にかけ、ヨーロッパは悲惨な自滅の時代を経験した、と著者は記している。まさに地獄を味わい、ようやく地獄を抜けたのだといってよい。続刊は、その地獄のなかからヨーロッパがいかにしてよみがえったかがテーマになるという。その意味で、本書と続刊は、ヨーロッパの死と再生をえがく歴史になるはずだ。
 20世紀前半にヨーロッパの破局をもたらした要因は4つあるという。
(1)民族主義・人種差別主義的ナショナリズム
(2)領土修正をめざす激しい要求
(3)ロシア革命を背景とした先鋭的階級闘争
(4)長期化する資本主義の危機
 並べてみると、何だかいまと似ている。歴史はくり返すという格言が頭に浮かぶ。しかし、当時とはどこかちがっていると思わないでもない。少なくともいまのヨーロッパでは(2)と(3)の要因は、さほど強くない。とはいえ、最近のボスニアやコソボ、チェチェン、さらにはクリミア問題、ISによるテロ、広がる経済格差や暴動などをみれば、その要因が消えたとも思えない。
 また、ヨーロッパの枠をはずして世界全体をみると、当時ヨーロッパを揺るがせた4つの要因は、場所と形態を変えただけで、現在でも引きつづき残っているといってまちがいないだろう。
 歴史は現実におこったできごとだ。小説や物語とはちがう。科学・軍事技術が発達したいまでは、ちょっとした判断と行動の誤りが取り返しのつかない災厄を招く。歴史を学び、歴史を教訓とすることがだいじなのは、人類にとって、くり返される最悪の事態をできるだけ避けるためでもある。
 1914年から49年にかけ、ヨーロッパでは次のようなできごとがおきた。
 100年つづいたウィーン体制が、第1次世界大戦(1914〜18)によって崩壊した。だが、大戦後の領土再編が国家間、民族間、階級間の対立と緊張を緩和することはなかった。それはむしろ憎しみの連鎖を生んで、次の衝突への導火線となっていった。
 大恐慌(1929)後の世界経済は混乱し、大衆の不安が増していた。そこに台頭したのが、力の政治をうたう政治勢力だった。とりわけ、イタリアとドイツでは、反ボリシェヴィズムとナショナリズムが結合して、右翼大衆運動が巻き起こり、極右勢力が政権を掌握した。そのあとは、破滅的な第2次世界大戦(1939〜45)までまっしぐらである。
 この書評では、ほんのさわりしか紹介できないが、こなれた訳文が、本文だけでA5判2段組500ページ近い大著を、最後までぐいぐいと引っぱって、あきさせない。読者はまるで鳥の目になったように、20世紀前半の東西南北にわたるヨーロッパ全体の構図をくまなく見て回ることができるだろう。
 しかし、圧巻なのは、やはりヒトラーとスターリンという巨悪が無気味に浮上していく部分である。そのはじまりは1930年代ではなく、1920年代だった。はじめはほんのちいさな運動が、大きな渦となって歴史を巻きこんでいく。
 ファシスト運動をはじめたのはイタリアのムッソリーニだ。1924年、ムッソリーニのファシスト党は、改正選挙法のもとイタリアの議席の3分の2を掌握した。そのあと社会党書記長のジャコモ・マッテオッティが暗殺されると、野党はたちまち排除され、報道は国家管理下に置かれる。
 同じ年、ソ連ではレーニンが死に、スターリンが権力を掌握した。スターリンのもと、ソヴィエト政権は以前にも増し、恐怖政治の度合いを強めていく。
 そのころヒトラーはナチスの指導者になったばかりだ。「ドイツのムッソリーニ」ともてはやされ、自信をつけたヒトラーは、1923年にミュンヘンで一揆をおこすが、たちまち逮捕され、ランツベルク刑務所に8カ月収監された。
 いっぽう、ソ連で権力を握ったスターリンは、まずジノヴィエフ、カーメネフ、ブハーリンを味方にしてトロツキーを追いだし、それからジノヴィエフとカーメネフを党から除名し、最後にブハーリンを分派主義者として失脚に追いこんでいった。スターリンが名実ともにソ連共産党の最高指導者となるのは1929年のことだ。そのあと粛清と恐怖政治の1930年代がつづく。
 1929年の大恐慌はドイツに経済危機をもたらした。社会民主党政権は崩壊し、1930年9月の総選挙で、ナチスは18.3パーセントの得票率で第2党に踊りでる。だが、このときは共産党も支持を伸ばしており、ヒトラーが首相になる可能性は低いと思われていた。
 それがいっこうに回復しない経済状況のなか、風向きが変わってくる。社会民主党と共産党との足の引っ張りあいにドイツ国民はうんざりしていた。1932年8月の総選挙で、ナチスは得票率37.4パーセントを獲得し、ついに第1党となる。その結果、1933年1月、ヒンデンブルク大統領の後押しで、ヒトラーが首相に就任するのだ。
 政権の座につくと、ヒトラーは社会主義者と共産主義者を一斉逮捕し、監獄や収容所に送りこんだ。緊急命令により、無制限の警察権も認められるようになった。3月には全権委任法が議会を通過し、ヒトラーは無制限の立法権を掌握する。共産党は粉砕され、社会民主党は禁止された。そのほかの政党も禁止、または解党に追いこまれた。あっというまの展開である。
 1934年6月、ヒトラーはみずからの対抗馬となりそうなナチス突撃隊(SA)隊長のエルンスト・レームを粛清する。粛清者はほかに150〜200人にのぼった。8月にヒンデンブルクが死ぬと、ヒトラーは国家元首の地位を引き継ぎ、総統となった。
 ヒトラーの経済政策は功を奏する。左翼政党と労働組合がつぶされたことで、企業は賃金を引き下げ、利益を最大化することが可能になった。そのいっぽうで雇用創出計画により、道路建設や土地開発が促進された。公共事業、自動車産業の育成、農業保護、さらには軍備支出が、経済を新たな地平へと引き上げていく。
 しかし、ドイツの経済回復はそれ自体が目的ではなかった。ナチスの目的は軍事力強化による領土拡大であり、経済はその手段にすぎなかった。そこから第2次世界大戦までは一直線である。
 著者によれば、ヨーロッパの1930年代は独裁体制の時代だったという。
 独裁体制に共通する特徴は、複数政党の廃止、個人の自由の制限、国家によるマスメディア支配、独立した司法の廃止、警察権による反対派の弾圧などである。独裁政権は民族ないし国民を代表すると称していた。しかし、現実に支配していたのは、ひとりの独裁者だった。
 ドイツ・ファシズムの特徴は、加えて、領土拡張主義的な性格をもつ軍事独裁政権だったことである。この点では、日本のファシズムも同じ特徴をもっていた。
 ボリシェヴィズムとファシズム(ナチズム)は、対極にあるようにみえて、自由民主主義に反対する点は共通している。いずれも国民(人民)を教育して、イデオロギーの献身的信奉者にし、国家目的(戦争や革命)に駆り立てることをめざしていた。その統治手法は「社会の完全な組織化、敵と少数派に対するテロ攻撃、極端な指導者礼賛、独占政党による容赦ない大衆動員」からなる、と著者はいう。
 ここまで、ほんのさわりを紹介しただけでも、何かぞくぞくするものを覚えてきた。それは、現在も小ヒトラー、小スターリンがあちこちで生まれつづけているからではないか。第2次世界大戦の死者は少なくとも5000万人(大きくみれば8000万人)にのぼる。地獄への道は善意で(いや愛国心で)敷き詰められている。下手なホラー小説よりこわい本である。


永野健二『バブル』を読む(2) [われらの時代]

 日本のバブルのきっかけは、1985年9月22日のプラザ合意だった。ドル高是正するため、各国通貨当局が協調介入することが決まった。
 それにより、円ドル・レートは円高に振れ、1ドル=242円だった円相場は1年後には150円台で取引されるようになる。
 71年のニクソンショック(金ドル兌換停止)、73年の変動相場制への移行から十数年たっていた。プラザ合意は、アメリカ一国時代の終わりを象徴していた。もはやアメリカだけで世界経済をリードできなくなっていた。G7(先進7カ国)の時代がはじまろうとしていた。
 プラザ合意のもたらす円高ドル安は、日本経済を危機におとしいれるのではないかと考えられた。そのため日銀は公定歩合を86年1月の5.0%から87年2月の2.5%へと5回にわたり引き下げる。
 そのことが日本の構造改革を遅らせ、金融機関を不動産投資に向かわせてしまう原因だったのではないか、と著者は指摘している。
 86年4月には、元日銀総裁、前川春雄による、いわゆる「前川レポート」がだされた。内需拡大、産業構造の転換、市場アクセスの改善がうたわれていた。だが、このレポートはしっかりと議論されることなく、日本は金融引き締めの時期を失してバブル経済の渦中に突っ込んでいった、と著者はいう。
 日本のバブルは、資産バブルである。とりわけ、地価が急速にあがった。その原因は、銀行が土地融資にのめりこんだことだ。
 企業会計には含み益というのがあるらしい。含み益とは取得原価(簿価)と時価の差益をいう。
 メインバンクは土地の含み益を担保に、企業に融資をおこなった。これによれば、たとえ赤字でも、土地価格が上昇しつづけるかぎり、企業は引きつづき融資を受け、存続することが可能になる。
 日本の地価は上がりつづけるという土地神話が、日本の金融を支えていた。
 土地の含み益は企業の評価にもつながり、有利な土地を所有しているとみなされるだけで、企業の株価も上昇した。
 低金利のもと、銀行は不動産融資を加速する。企業だけではなく、サラリーマンもそれに飛びついた。本来なら融資の枠は土地価格の70%が相場なのに、120%まで認める金融機関まででてくるほどだった。
 こうして東京の住宅地の地価は、87年に22%、88年に69%、89年に33%、90年に56%上昇した。
 著者はこう書いている。

〈86年から89年に発生した、土地・株式のキャピタルゲインは1452兆円にのぼり、家計が得たキャピタルゲインは89年だけで260兆円となった。土地と株価は、連動して上がることが当然のようになっていた。誰もがユーフォリアに酔っていた。日本のGDPが400兆円の時代だった。〉

 こうして、2、3年のうちにいきなり資産が増えた。とはいえ、土地や株をもたない個人にとっては、まったく関係のない話だった。
 個人にしてみれば、たとえ一戸建ての住宅やマンションに住んでいたとしても、それを簡単に売るわけにもいかなかった。たとえ売ったところで、別の家やマンションを買わなければならなかったから、資産が倍増したといっても、ほとんど意味はなかったともいえる。
 だから、誰もがユーフォリアに酔っていたというより、ぼくなどは、キツネにつままれたみたいな気持ちで、株価や地価が上がっていくのを、指をくわえて見ていた。もっとも、幸い、そのころはすでに一戸住宅に住んでいたから、そんなのんきなことがいえたのである。
 だが、これからマンションや土地を買おうという人はたいへんだった。まして、高値で買ったマンションが、バブル崩壊後、大暴落し、それでも多額のローンを払いつづけなければいけなかったことを考えれば、バブルの罪は大きかったのである。
 とはいえ、証券会社にとっては、80年代後半、株式相場はまさに熱狂のうちにあった。
 著者は86年当時、懇意にしていた、山一証券の成田副社長から深刻な話を聞いている。
 それは、山一が地道な路線から逸脱して、企業から一任勘定で自由に扱える営業特金を1兆円集める作戦を展開しているという話だった。
 なかには、あやしげなスキャンダルもまじっていた。それが97年の山一倒産にいたる第一歩だったことを、当時、ほとんどの人は気づかなかった。
「三菱重工CB事件」というのがあった。CBとはいわば転換社債のこと。
 転換社債は発行価格で証券会社に配分され、証券会社はその一部を顧客に配分できる。発行価格の転換社債をもっている顧客は、上場直後の値上がりが期待できる。そうなれば、顧客は労せずして巨額の利益を手にする。いわば、有力顧客優遇サービスである。
 山一証券が三菱重工の転換社債を事前に配分した顧客は、ほとんどが総会屋だったという。そのリストが外部に漏れた。山一は総会屋をうまく使って、企業から特金を集めようとしていたのかもしれない。
 当時、企業社会ではすでに総会屋一掃作戦が広がっていた。検察は成田を事情聴取したものの、けっきょく動かなかった。
 そして、山一証券はリスト漏洩の責任を成田副社長に押しつけ、成田が自殺することになる。
 その後、山一証券は営業特金路線をつっぱしり、大失敗した末に粉飾決算に走り、あげくのはて自主廃業に追いこまれるのである。
 1987年2月にはNTT株が上場された。民営化が本格化しようとしていた。一般売り出し値の119万7000円にたいし、初値は160万円という好調なすべりだしだった。
 NTT内部では、ホンネのところ1株50万円弱が相場とみられていた。ところが、当時の市場の雰囲気から1株119万7000円と決められたのだ。
 これにたいし申込者数は1060万に達し、6.4倍の抽選率になった。このとき抽選にあたったかどうかわからないが、たしか、ぼくの義母もNTT株を買って、最初は喜んでいたはずだ。
 上場から3カ月後、NTT株は318万をつけた。それが7月には225万まで下げる。そして、89年10月には135万円になった。
 88年から89年にかけてバブル相場はピークを迎えていた。にもかかわらず、NTT株が低迷したのは、政府が追加の売り出しを強行したからである。それによってNTTは完全民営化に移行する。
 ところがである。バブルが崩壊したあとの92年には、NTT株は当初の試算値である50万円に迫っていた。NTT株に泣かされた人は多いだろう。
 NTTの民営化を推し進めたのは中曽根康弘と民営化初代社長になる真藤恒である。その真藤は89年3月にリクルート事件で逮捕されることになる。
 NTT経営者も、監督官庁の郵政省、政治家もバブル相場に便乗して、投資家をくいものにした。それは、あまりにも無責任ではなかったか、と著者は批判している。
 1987年10月19日、ニューヨークでは株が22.6%暴落する、いわゆるブラックマンデーを経験した。翌日、日本でも株価は14.9%下落。それから1カ月、株価は乱高下する。だが、その後、日経平均は上昇に転じ、88年4月にブラックマンデー直前の2万6643円を上回る。そのあとは一本調子となり、狂乱のバブル相場に突入した。
 ブラックマンデーでいったん冷やされたあと、バブルが破裂するのではなく、むしろバブルが膨張したのはどうしてだろう。
 ブラックマンデー以降も、日本は公定歩合2.5%の超低金利政策をつづけた。それだけではない。大蔵省は、含み損を表面化させないで、積極的に財テクをつづけるよう、企業を指導した。
 このあたりの会計処理のあやはぼくにはよくわからない。いずれにせよ、ここで大蔵省はブレーキを踏むのではなく、むしろアクセルを踏むよう指導したのだ。
 その結果、財テク資金は涸れることなく、証券会社では営業特金と呼ばれる投資資金が膨張していった。営業特金とは、企業や公的機関、生保などが証券会社とのあいだで取り結ぶ「利回り保証」をした運用商品だという。ほんらいは利回り保証などないはずだ。それを保証してもらい、証券会社に資金を預けて、一任勘定で運営してもらう。俗に「にぎり」というそうだ。
 このころ、銀行は低金利であふれかえった資金を、企業などの土地投資にだけではなく、特金・ファントラによる資金運用にも融資していたという。銀行が企業にどんどんカネを貸して、土地を買わせ、証券会社を通じて株を買わせているのだから、バブルが膨れあがらないわけがない。こうして、日経平均は88年1月の2万2000円台から89年12月29日の3万8957円まで、右肩上がりで上昇する。
 大蔵省が財テクの異常な実態に危機感をいだきはじめたのは89年末になってからである。証券会社に利回りを確約した営業特金などを90年3月までに整理するよう通達を出した。しかし、時すでに遅かったのである。
 財テクをはじめたのは商社だという。とくに三菱商事が金融業務に力をいれ、財務部門の役割を強化した。これとは対照的に、三井物産は財テクから一歩距離をおいていた。三井物産の資金部長、福間年勝は利回りを保証するという「握り」をまったく信用していなかった。その結果、バブルの時代を慎重に乗り切り、その後の破裂から深刻な影響を受けるのを免れたのだという。
 この時代には財テク企業も登場している。著者が紹介するのは阪和興業だ。阪和興業は新日鉄に出入りする一鉄鋼商社にすぎなかったが、その社長、北茂は財テク中心の経営に舵を切り、ワラント債を発行して資金を集め、その資金や銀行からの借入金を、特金やファンドトラスト、外国為替取引、土地売買に投入した。
「阪和興業の経営陣に欠落していたのは、上場企業としてのガバナンスと、変動する市場のリスクへの自覚だった」と著者は書いている。しかし、その稼ぎっぷりに「銀行や証券会社は砂糖にむらがる蟻のように、阪和興業の支払う金融・証券の手数料にすり寄っていった」のも事実だった。
 ところで、87年10月から88年9月にかけて、ぼくはふたたび出版営業の仕事に舞い戻り、書店回りや地方の新聞社回りをしていた。
 そのころ、ラビ・バトラの『1990年の大恐慌』という本を読んだことを覚えている。たしか、88年の春だったと思う。
 そこには、こんな予言が記されていた。
 1990年のある日、突然ドルの下落と円の急激な上昇が引き金になって、東京の株式相場が崩壊する。日本企業はいっせいに海外の資産を引き上げ、ニューヨークやロンドンでも株が大暴落し、世界大恐慌が幕を開ける。物価は下落し、企業倒産が続発して、失業者が急増する。一夜にして、人々は路頭に迷い、あちこちの街角で食料を求める長蛇の列が生まれる。こういう恐るべき事態が少なくとも6年はつづく。
 ラビ・バトラの予言がショックだったのは、ぼく自身、ケインズ時代になって、もう恐慌などおこらないと信じていたからである。しかし、そうではない、とラビ・バトラは予言していた。
 いまからふり返ると、ラビ・バトラの予言は、あたったともいえるし、あたらなかったともいえる。
 たしかに90年はバブルの崩壊した年になった。それから、日本は平成の失われた20年を経験する。それでも、その大不況は1929年の大恐慌とはどこかちがっていた。
 そのあたりの様子を、本書からもう少したどってみることにしよう。