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『アンダーグラウンド』と『1Q84』──『村上春樹は、むずかしい』を読む(3) [われらの時代]

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 1995年。1月には阪神淡路大震災、3月にはオウム真理教による地下鉄サリン事件が発生した。
 村上春樹もショックを受けたにちがいない。
 このあたりから、世の中がおかしくなった。
 災厄つづきの時代がはじまった。
 考えてみれば、村上春樹の小説は否定の否定からはじまっていた。
 否定の否定とは、ありていにいってしまえば、そもそも全共闘運動という否定を否定することだった。
 もはや革命的蜂起は夢想でしかなくなった。その先にはなにかあるのだろうか。
 否定の否定からは、ふたつの方向が導きだされる。
 デタッチメントとコミットメントだ。
 図示すれば、こうなるだろう。

        デタッチメント=外在的否定性
       [右斜め上] 
  否定の否定
       [右斜め下]
        コミットメント=内在的否定性

 阪神淡路大震災と地下鉄サリン事件は、村上春樹にデタッチメントからコミットメントへの姿勢の転換を余儀なくさせたといってよい。
 加藤典洋もそんなことを書いている。
 ぼくの読んだ本でいうと、そのあらわれが地下鉄サリン事件の被害者と遺族62人(うち2人は掲載を拒否)からの聞き書きをまとめた『アンダーグラウンド』だったことはまちがいない。
 村上春樹はオウム真理教によるこの事件に異様なくらい関心をひきつけられた。
 加藤典洋は、この聞き書き『アンダーグラウンド』で、村上ははじめて「ただの人」、すなわち日本のサラリーマンたちと出会った、と書いている。でも、たぶんそんなことがポイントではない。凶悪ともいうべき否定性にひきつけられたのだ。
 地下鉄サリン事件は、被害者の経験をとおして、じつにリアルに再現されている。
 1997年に本書が発売されたとき、ぼくはすぐに買って、読み、30枚ほどの長い感想を書いた。
 その一部をひろってみる。
「爆弾ならともかく、[ポリ袋から]じわりじわりと漏れだしてくる妙な液体が、それほど危険だとはふつうは思わない。爆発も閃光もないまま、ただ息をしているだけで、いつのまにか死の淵に立たされる。ここから想定されるのは静まりかえった死の光景だ。だが、その前に乗客は危険が迫っていることに気づく」
 この事件で死者は13人、被害者は約6300人におよんだ。
 村上自身は、オウム真理教を、麻原彰晃という奇妙な指導者に率いられたカルト集団ととらえている。
 そして、こんなふうに書いていた。

〈私たちの社会はそこに突如姿を見せた荒れ狂う暴力性に対して、現実的にあまりに無力、無防備であった。我々はその到来を予測することもできず、前もって備えることもできなかった。またそこに出現したものに対して、機敏に効果的に対応することもできなかった。そこであきらかにされたのは「こちら側」のシステムの構造的な敗退であった。〉

 ここから導かれる結論は、警察による事件の解明と、それにもとづく危機管理体制の確立がだいじだということになるだろう。
 しかし、発売早々この本を読んだぼくは、どこか不満を覚えていた。
 そして、こんなふうに感想を書きつけている。
「この本は通常の犯罪ドキュメンタリーのように犯人の性格や動機、行動を中心に事件を追っているわけではない。だから、オウム真理教の引き起こした地下鉄サリン事件の全容は、この本を読んでもわからない。特異な宗教団体と犯罪との関係、教祖である麻原彰晃の目的と動機、それに実行者の心理と行為についても、あまり多くは書かれていない。事件の全容が解き明かされるまでには、これからも多くの時間と努力が必要とされることだろう」
 ずいぶんいい気なものだと思わないわけにはいかない。
 村上春樹はさらに努力して、元オウム真理教の信徒からも聞き書きをおこない『約束された場所で』という本を出版しているのだから。それを、ぼくは読んでもいない。
 しかし、村上春樹の超人的な努力をもってしても、オウム真理教の闇はまだ解明されていないというべきだろう。
 だが、この聞き取り経験をもとに、村上春樹は小説世界において、さらに闇の奥に向かおうと決意したのだろう。加藤典洋もそう書いている。
 1999年の『スプートニクの恋人』、2000年の『神の子どもたちはみな踊る』、2002年の『海辺のカフカ』、2004年の『アフターダーク』は読んでいない。
 ぼくが読んだのは2009年から10年にかけて発表された『1Q84』だけである。
 ところが、その記憶がはっきりしない。たぶん2009年に1部と2部を買って、2日ほどで読み終えたはずだ。エンターテインメントとして、すなおにおもしろかったが、何だこれという感想もいだいた。
 第3部は買ったのかどうかもはっきりしない。いずれにせよ、本はたぶん娘がもっていってしまったので、いま手元に残っていない。
 最近はぼけが進んで、なにもかもすぐ忘れてしまう。
 それで、加藤典洋にしたがいながら、話を進めるほかないのだが、加藤は全3部を読んで、「未了感が消えない」という感想をいだいた。つまり、完結感、達成感がないというのだ。
『1Q84』はどんな小説なのだろう。
 加藤の本から引用してみる。

〈この小説は、もと護身術インストラクターの女主人公青豆が、TV番組の『必殺仕掛人』よろしく「正義」のため、世のきわめて悪質なDV男性──「ネズミ野郎」──たちを鍼灸術的秘儀で殺人の痕跡もなしに抹殺していく冒険譚と、予備校数学教師で小説家志望の青年天吾が、ふかえりという不思議な少女の書いた新人応募作『空気さなぎ』のリライトを編集者に頼まれ、引き受けたことから、面倒な新宗教がらみのトラブルにまきこまれていく話とが、交互に語られて進む。
 背景には新宗教集団の秘められた動きがあり、青豆は、幼女を巻きこんだ性的秘儀を繰り返す教団の指導者『リーダー』の殺害を「柳屋敷」の「老婦人」に支持され、これを実行し、天吾は作品『空気さなぎ』を世に出し、期せずしてその教団の「ご神体」をなす「リトル・ピープル」の秘密を暴くことに関わり、それぞれ教団組織、ご神体集団に追われる身となる。〉

 そして、じつは青豆と天吾は小学校時代の同級生で、赤い糸で結びあっているから、この小説は愛の物語でもある。
 だが、全3部を読みつくしたあと、加藤は「これでは、青豆の物語が、終わらない」と感じたという。それが、かれのいう未了感である。

〈青豆は、人を殺した。どうすれば、人を殺した青豆が、その後、天吾との「愛」のもとで、ことによれば「リーダー」の種を宿した赤ん坊とともに、生きていけるのか、というのが、このあと書かれなければならないことである。〉

 謎が謎呼ぶ殺人事件ではないが、世の中は解けない謎に満ちている。
 それがひとつでも解ければ、いい人生だったということになるだろう。解けたと思った答えがまちがっていることもある。
 村上春樹は否定の否定を重ねることで、解けない謎にいどもうとしている。はたして、災厄の時代を乗り越えていく力を、はたしてわれわれはどこにみいだせばよいのだろうか。
 だが、おそらく答えはすでに出ているのだ。
 否定の否定はもし制度に帰着するならば、永劫回帰を繰り返すほかないだろう。最悪の場合、それはファシズムやスターリニズムに行き着いて、さらに大きな災厄をもたらす。
 ここで、とつぜん、ロシアの作家、シャラーモフのことばを思いだす。
「愛は最後にやってくる。愛は最後に蘇(よみがえ)る」
 何十年もシベリアのラーゲリ(強制収容所)を経験したシャラーモフは、人間の最初の感情が憎しみであることを、いやなくらい知っている。
 それでも、かれはいうのだ。
「愛は最後にやってくる。愛は最後に蘇る」
 村上春樹も否定の否定がいきつく先が、最後は愛であることを、ついにつかんだのではないだろうか。