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『日本の近代とは何であったか』 を読む(1) [本]

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 著者の三谷太一郎は1936年生まれで、東京大学名誉教授。日本の政治史と外交史が専門だ。『日本政党政治の形成』、『大正デモクラシー論』といった著書がある。
 むずかしい話はとばして、ほんのさわりだけを紹介してみよう。
 最初に「日本の近代は、日本が国民国家の建設に着手した19世紀後半の再先進国であったヨーロッパ列強をモデルとして形成されました」と書かれている。
 日本の近代というのは、明治以降と考えてよい。
 日本はヨーロッパをモデルにして近代化を達成した。
 大きかったのは、1871年から73年にかけて欧米を視察した岩倉使節団の役割である。本来の目的は幕末の不平等条約を改正すること。だが、それよりも、欧米、とりわけヨーロッパの制度をどのように取り入れるかが課題となった。
 そもそも近代とは何を指しているのだろう。
 イギリスの著作家ウォルター・バジョットは、近代とは「鉄道や電信の発明」などに象徴される「自然学」の応用がもたらした「新世界」であり、その根本は「自由」にもとづく政治、すなわち「議論による統治」が実現されていることだ、と考えていた。
 つまり、近代とは産業と民主政治にほかならない。それは個人が慣習や身分から解放されて、自由に意見を述べ、行動することが許される時代でもあった。
 はたして、日本ではこのような近代、とりわけ「個人の尊重」がどこまで実現されたかは、疑問なしとはいえない。それでも、明治維新で日本はヨーロッパの制度をとりいれ、それなりの近代化をはたしたのはまちがいないだろう。
 著者は本書において、日本の近代を、政党政治、資本主義、植民地支配、天皇制という問題に即して検証していく。
 まずは政党政治である。
 政党政治の前提はいうまでもなく立憲主義である。立憲主義とは憲法にもとづく政治のことだ。
 日本では東アジアでいちばん最初に立憲主義が導入された。つまり憲法がつくられたのだ。それが1890年の明治憲法である。
 ヨーロッパで憲法がつくられたのは、そもそも王の絶対的権力を制限するためだった。そして、近代憲法は議会制、人権の保障、権力の分立を原則とするようになる。
 1890年に施行された明治憲法もまたこうした原則を満たすものだった。しかし、それはとつぜん出現したものではない。江戸時代の合議制という政治的伝統(権力の抑制均衡のメカニズム)があったからこそ可能だった、と著者はいう。
 司法、行政、立法の三権分立という考え方は日本人に受け入れやすかった。江戸時代から独裁は嫌われていたのだ。
 これにたいし、日本では古くから公議が重視されていた。だから、明治になって、公議を形成する場として議会制が取り入れられるのは、とうぜんの方向だった。こうして、1890年(明治23年)7月に初の総選挙が実施される。
 ところで、明治維新とは王政復古であって、あたかも天皇親裁が実現されたかに思えるかもしれない。しかし、著者によれば、王政復古の目的は幕府のような絶対政権を排除することにほかならなかった。したがって、明治憲法に規定された「一見集権的で一元的とされた天皇主権の背後には、実際には分権的で多元的な国家のさまざまな機関の相互的抑制均衡のメカニズムが作動」していたという。
 太平洋戦争中の軍部独裁政治は、むしろ明治憲法体制からの逸脱だった、と著者は考えている。もともと明治憲法は、議会が政治の全権を握るのを抑えるよう組み立てられていたからである。
 明治憲法には、しかし根本的な欠陥があった。著者によれば、それは「最終的に権力を統合する制度的な主体を欠いていた」ことだという。権力主体といえば、天皇がいると思うかもしれない。しかし、名目はそうであれ、現実の天皇は「権力を統合する政治的な役割を担う存在」ではありえなかった。
 行政をになう内閣は、議院内閣制のかたちをとっていない。あくまでも天皇によって組閣を命じられる。また個々の閣僚は首相ではなく天皇に直結する建前なので、「遠心的であり、求心力が弱かった」。
 だから、明治体制のもとでは、藩閥のリーダーである元老が影の統合主体となっていた。いわばバランサーとしての役割をはたしていたのである。つまり元老が内閣の生みの親の役割を果たしていた。
 だが、しだいに議会が存在感を増してくると、その多数を占める政党の役割が無視できなくなる。藩閥の側も政党をつくらざるを得なくなった。
 転機となったのは1900年である。この年、伊藤博文は衆議院での多数派形成をめざして、立憲政友会(略称、政友会)を結成した。いっぽう、これに反対するグループも政党をつくり、こうして日本でも複数政党制が成立していくことになる。それにつれて、藩閥の力はじょじょに衰えていった。
 日本では大正の終わりから政党政治が本格的に作動する。いわゆる大正デモクラシーである。しかし、1931年の満州事変以後、政党政治の権威はゆるぎはじめる。
 学者のあいだからも、議会に代わる「立憲的独裁」の機関を設立せよとの声がわきあがった。それが大政翼賛会へとつながり、軍部独裁に転じていったことは周知の通りだ。
 いまは戦後民主主義の時代から、時代がひとまわりした。
 著者は、ふたたび「立憲的独裁」の傾向が強まるのではないかと危惧している。「立憲デモクラシー」がこれにいかに対抗するかが問われているという。
 政党政治の危機だといってよい。