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『日本の近代とは何であったか』を読む(3) [本]

 近代になってから日本は植民地帝国を築いた。
 植民地の特徴は、本国の憲法が適用されないことである。そのぶん、現地当局が植民地に恣意的な支配をおよぼすことになった。
 日本が本格的に植民地帝国への一歩を踏みだしたのは、日清戦争以後のことである。日本は領土として台湾を獲得するが、英仏露の三国干渉によって遼東半島を還付せざるをえなかった。それは大きな挫折だった。
 だが、その挫折感によって、「日本は、東アジアにおいてヨーロッパ列強に伍する権力政治の主体となることを志向するにいたった」と、著者はいう。
 ヨーロッパ列強と日本では、植民地構想が大きなちがいがあった。それは「日本の植民地帝国構想が経済的利益関心よりも軍事的安全保障関心から発したもので、日本本国の国境線の安全確保への関心と不可分であったということ」だという。
 すでに1890年に、山県有朋は、日本の主権を確保するための「利益線」という考え方をもちだし、朝鮮半島を植民地化する方向を示していた。
 著者は植民地帝国の法的枠組をつくった機関として、枢密院の役割を重視している。
 枢密院は天皇直属の諮問機関である。枢密院の審議をへなければ、いかなる法律も条約も認可されることがない。また国会をへることのない勅令にも枢密院は関与していた。だから、大日本帝国においては、枢密院こそが最上院だった、と著者は解説する。
 朝鮮統治にあたっては、枢密院と軍部のあいだで激しい争いがあった。
 日露戦争後、軍部は関東州租借地を事実上、直接支配下においた。
 いっぽう、枢密院は文官による朝鮮支配にこだわっていた。だが、けっきょくは軍部に押し切られる。
 1910年の韓国併合後、朝鮮総督府でも武官総督制が採用されることになった。こうして、初代朝鮮総督には、陸軍大将の寺内正毅が就任した。
 軍部による植民地統治に異論が出されなかったわけではない。
 憲法学者の美濃部達吉は、植民地が憲法外におかれた「異法区域」であると論じた。この微妙な言い回しによって、美濃部は、暗に軍部による恣意的な植民地支配を牽制しようとしたのである。植民地の臣民には、市民権らしきものはほとんど与えられていなかった。
 しかし、大正時代にはいり何年かすると、軍部による植民地直轄支配は揺らぎはじめる。山本権兵衛内閣は、関東州租借地は外務大臣、朝鮮・台湾・樺太は内務大臣が統括するという方針を打ちだした。
 だが、軍部も黙っていない。さっそく、巻き返しにでる。
 寺内正毅が首相になると、関東州租借地では、陸軍大将、中将が就任する関東都督の権限が強化される。満鉄、領事館、警察署も関東都督の支配下に組み入れられることになった。
 いっぽう、朝鮮では1919年に3・1独立運動が巻き起こった。
 これに驚いた首相の原敬は、植民地統治の脱軍事化という方向を打ちだす。
 原はまず関東都督に代えて、関東庁を設立し、その長官を文官にしようとした。そのいっぽう陸軍部門を独立させ、関東軍司令部を設立すると約束した。
 こうして、関東州租借地では、関東庁と関東軍司令部という政軍分離の二本立て体制ができあがる。それが皮肉なことに満州事変を引き起こす要因になるとは、原自身も考えていなかった。
 原は朝鮮においても文官総督の実現をめざした。だが、軍の抵抗にあってうまく行かない。実現できたのは、文官総督を可能にする制度を導入することくらいだった。
 じっさい、朝鮮総督のポストはその後も軍人が独占する。
 だが、台湾総督は長らく文官が任についた。
 このあたりのポスト争いは軍と枢密院、内閣がからんで、じつにややこしい。
 原の死後、朝鮮と台湾では、同化政策が採用された。現地人を帝国臣民に組み入れるため、教育制度や戸籍制度がととのえられていく。
 しかし、同化政策によっても、「朝鮮や台湾のナショナリズムを鎮静させることはできませんでした」と、著者は記している。朝鮮や台湾のナショナリズムは「植民地帝国日本を内部から脅かす不断の潜在的脅威」になっていく。
 そして、1930年以降浮上したのが、国際主義に代わる「地域主義」の考え方である。
 地域主義とは、従来の国際秩序に代わる、新たな地域秩序の構想だといってよい。それは対外的膨張によってつくりだされた既成事実を正当化するもので、大東亜共栄圏の構想へとつながっていく。そして、そこには欧米の帝国主義に対抗するという意味づけがなされていた。
 著者によれば、1920年代の日本は、国際主義にのっとり、軍縮条約にもとづく国際秩序を順守していた。
 ところが、1931年の満州事変によって状況は大きく変わる。日本は国際主義を否定して、日本を中心とする地域主義を唱えるようになった。
 1937年に日中戦争が勃発すると、こうした地域主義は東亜新秩序を正当化する考え方へと発展していく。
 もういちど繰り返すと、地域主義とは「地域的協同体を根幹とする世界新秩序」のことである。
 ヨーロッパにおいては、それがドイツとイタリアを中心とする「欧州新秩序」となり、東アジアにおいては日本を中心とする「東亜新秩序」となるのである。
 地域主義においては、民族主義(民族をひとつの単位とする考え方)は超克されなければならなかった。
 地域主義によれば、東亜新秩序のなかで、中国民族が生きていくためには、民族を超えて、日本を中心とする地域的連帯にめざめることが必要だということになる。日中戦争はそうした東亜新秩序を建設するための戦争だと考えられた。
 第2次世界大戦後、日本はアメリカを中心とする国際秩序に組み入れられていった。それは共産圏に対抗するための国際秩序であって、いわばアメリカを中心としたアジア地域主義構想だった、と著者はいう。
 しかし、1970年代にはいると、米中国交が正常化に向かい、アジアの冷戦構造が終結すると、グローバリズムの奔流が押し寄せることになった。アメリカにとっても、もはや日本を軸とする「垂直的国際分業」システムは不要になった。
 こうしてアジア諸国は「米国によって課された『地域主義』から解放され、今や相互の対等性を前提とした『水平的統合』を志向する新しい『地域主義』を模索しつつある」、と著者はいう。
 著者は「ヨーロッパ文化」と同様の「アジア文化」があるかどうかに疑問をいだいている。加えて、日韓中のあいだの歴史認識に大きなへだたりがあることも認めている。
 こう述べている。

〈日本の近代の最も重要な特質の一つは、アジアでは例外的な植民地帝国の時代をもったことにありますが、その時代の認識は、同時代の朝鮮全体の現実──今日いわれる朝鮮にとっての「植民地近代」の現実──の認識なくしてはありえません。その意味の日韓両国の近代の不可分性を具体的に認識することが、両国が歴史を共有することの第一歩なのです。このことはまた中国についても同様です。〉

 これはとりわけ、朝鮮や中国が日本にとってパラレルワードであることを示している。そのパラレルワールドは不可分でありながら、そこでは、異なる視線が異なる世界像を結んでいるのだ。歴史の共有は、きわめてむずかしい。しかし、われわれはいま歴史の共有に向けて一歩を踏みだすことを求められているのである。