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永野健二『バブル』を読む(2) [われらの時代]

 日本のバブルのきっかけは、1985年9月22日のプラザ合意だった。ドル高是正するため、各国通貨当局が協調介入することが決まった。
 それにより、円ドル・レートは円高に振れ、1ドル=242円だった円相場は1年後には150円台で取引されるようになる。
 71年のニクソンショック(金ドル兌換停止)、73年の変動相場制への移行から十数年たっていた。プラザ合意は、アメリカ一国時代の終わりを象徴していた。もはやアメリカだけで世界経済をリードできなくなっていた。G7(先進7カ国)の時代がはじまろうとしていた。
 プラザ合意のもたらす円高ドル安は、日本経済を危機におとしいれるのではないかと考えられた。そのため日銀は公定歩合を86年1月の5.0%から87年2月の2.5%へと5回にわたり引き下げる。
 そのことが日本の構造改革を遅らせ、金融機関を不動産投資に向かわせてしまう原因だったのではないか、と著者は指摘している。
 86年4月には、元日銀総裁、前川春雄による、いわゆる「前川レポート」がだされた。内需拡大、産業構造の転換、市場アクセスの改善がうたわれていた。だが、このレポートはしっかりと議論されることなく、日本は金融引き締めの時期を失してバブル経済の渦中に突っ込んでいった、と著者はいう。
 日本のバブルは、資産バブルである。とりわけ、地価が急速にあがった。その原因は、銀行が土地融資にのめりこんだことだ。
 企業会計には含み益というのがあるらしい。含み益とは取得原価(簿価)と時価の差益をいう。
 メインバンクは土地の含み益を担保に、企業に融資をおこなった。これによれば、たとえ赤字でも、土地価格が上昇しつづけるかぎり、企業は引きつづき融資を受け、存続することが可能になる。
 日本の地価は上がりつづけるという土地神話が、日本の金融を支えていた。
 土地の含み益は企業の評価にもつながり、有利な土地を所有しているとみなされるだけで、企業の株価も上昇した。
 低金利のもと、銀行は不動産融資を加速する。企業だけではなく、サラリーマンもそれに飛びついた。本来なら融資の枠は土地価格の70%が相場なのに、120%まで認める金融機関まででてくるほどだった。
 こうして東京の住宅地の地価は、87年に22%、88年に69%、89年に33%、90年に56%上昇した。
 著者はこう書いている。

〈86年から89年に発生した、土地・株式のキャピタルゲインは1452兆円にのぼり、家計が得たキャピタルゲインは89年だけで260兆円となった。土地と株価は、連動して上がることが当然のようになっていた。誰もがユーフォリアに酔っていた。日本のGDPが400兆円の時代だった。〉

 こうして、2、3年のうちにいきなり資産が増えた。とはいえ、土地や株をもたない個人にとっては、まったく関係のない話だった。
 個人にしてみれば、たとえ一戸建ての住宅やマンションに住んでいたとしても、それを簡単に売るわけにもいかなかった。たとえ売ったところで、別の家やマンションを買わなければならなかったから、資産が倍増したといっても、ほとんど意味はなかったともいえる。
 だから、誰もがユーフォリアに酔っていたというより、ぼくなどは、キツネにつままれたみたいな気持ちで、株価や地価が上がっていくのを、指をくわえて見ていた。もっとも、幸い、そのころはすでに一戸住宅に住んでいたから、そんなのんきなことがいえたのである。
 だが、これからマンションや土地を買おうという人はたいへんだった。まして、高値で買ったマンションが、バブル崩壊後、大暴落し、それでも多額のローンを払いつづけなければいけなかったことを考えれば、バブルの罪は大きかったのである。
 とはいえ、証券会社にとっては、80年代後半、株式相場はまさに熱狂のうちにあった。
 著者は86年当時、懇意にしていた、山一証券の成田副社長から深刻な話を聞いている。
 それは、山一が地道な路線から逸脱して、企業から一任勘定で自由に扱える営業特金を1兆円集める作戦を展開しているという話だった。
 なかには、あやしげなスキャンダルもまじっていた。それが97年の山一倒産にいたる第一歩だったことを、当時、ほとんどの人は気づかなかった。
「三菱重工CB事件」というのがあった。CBとはいわば転換社債のこと。
 転換社債は発行価格で証券会社に配分され、証券会社はその一部を顧客に配分できる。発行価格の転換社債をもっている顧客は、上場直後の値上がりが期待できる。そうなれば、顧客は労せずして巨額の利益を手にする。いわば、有力顧客優遇サービスである。
 山一証券が三菱重工の転換社債を事前に配分した顧客は、ほとんどが総会屋だったという。そのリストが外部に漏れた。山一は総会屋をうまく使って、企業から特金を集めようとしていたのかもしれない。
 当時、企業社会ではすでに総会屋一掃作戦が広がっていた。検察は成田を事情聴取したものの、けっきょく動かなかった。
 そして、山一証券はリスト漏洩の責任を成田副社長に押しつけ、成田が自殺することになる。
 その後、山一証券は営業特金路線をつっぱしり、大失敗した末に粉飾決算に走り、あげくのはて自主廃業に追いこまれるのである。
 1987年2月にはNTT株が上場された。民営化が本格化しようとしていた。一般売り出し値の119万7000円にたいし、初値は160万円という好調なすべりだしだった。
 NTT内部では、ホンネのところ1株50万円弱が相場とみられていた。ところが、当時の市場の雰囲気から1株119万7000円と決められたのだ。
 これにたいし申込者数は1060万に達し、6.4倍の抽選率になった。このとき抽選にあたったかどうかわからないが、たしか、ぼくの義母もNTT株を買って、最初は喜んでいたはずだ。
 上場から3カ月後、NTT株は318万をつけた。それが7月には225万まで下げる。そして、89年10月には135万円になった。
 88年から89年にかけてバブル相場はピークを迎えていた。にもかかわらず、NTT株が低迷したのは、政府が追加の売り出しを強行したからである。それによってNTTは完全民営化に移行する。
 ところがである。バブルが崩壊したあとの92年には、NTT株は当初の試算値である50万円に迫っていた。NTT株に泣かされた人は多いだろう。
 NTTの民営化を推し進めたのは中曽根康弘と民営化初代社長になる真藤恒である。その真藤は89年3月にリクルート事件で逮捕されることになる。
 NTT経営者も、監督官庁の郵政省、政治家もバブル相場に便乗して、投資家をくいものにした。それは、あまりにも無責任ではなかったか、と著者は批判している。
 1987年10月19日、ニューヨークでは株が22.6%暴落する、いわゆるブラックマンデーを経験した。翌日、日本でも株価は14.9%下落。それから1カ月、株価は乱高下する。だが、その後、日経平均は上昇に転じ、88年4月にブラックマンデー直前の2万6643円を上回る。そのあとは一本調子となり、狂乱のバブル相場に突入した。
 ブラックマンデーでいったん冷やされたあと、バブルが破裂するのではなく、むしろバブルが膨張したのはどうしてだろう。
 ブラックマンデー以降も、日本は公定歩合2.5%の超低金利政策をつづけた。それだけではない。大蔵省は、含み損を表面化させないで、積極的に財テクをつづけるよう、企業を指導した。
 このあたりの会計処理のあやはぼくにはよくわからない。いずれにせよ、ここで大蔵省はブレーキを踏むのではなく、むしろアクセルを踏むよう指導したのだ。
 その結果、財テク資金は涸れることなく、証券会社では営業特金と呼ばれる投資資金が膨張していった。営業特金とは、企業や公的機関、生保などが証券会社とのあいだで取り結ぶ「利回り保証」をした運用商品だという。ほんらいは利回り保証などないはずだ。それを保証してもらい、証券会社に資金を預けて、一任勘定で運営してもらう。俗に「にぎり」というそうだ。
 このころ、銀行は低金利であふれかえった資金を、企業などの土地投資にだけではなく、特金・ファントラによる資金運用にも融資していたという。銀行が企業にどんどんカネを貸して、土地を買わせ、証券会社を通じて株を買わせているのだから、バブルが膨れあがらないわけがない。こうして、日経平均は88年1月の2万2000円台から89年12月29日の3万8957円まで、右肩上がりで上昇する。
 大蔵省が財テクの異常な実態に危機感をいだきはじめたのは89年末になってからである。証券会社に利回りを確約した営業特金などを90年3月までに整理するよう通達を出した。しかし、時すでに遅かったのである。
 財テクをはじめたのは商社だという。とくに三菱商事が金融業務に力をいれ、財務部門の役割を強化した。これとは対照的に、三井物産は財テクから一歩距離をおいていた。三井物産の資金部長、福間年勝は利回りを保証するという「握り」をまったく信用していなかった。その結果、バブルの時代を慎重に乗り切り、その後の破裂から深刻な影響を受けるのを免れたのだという。
 この時代には財テク企業も登場している。著者が紹介するのは阪和興業だ。阪和興業は新日鉄に出入りする一鉄鋼商社にすぎなかったが、その社長、北茂は財テク中心の経営に舵を切り、ワラント債を発行して資金を集め、その資金や銀行からの借入金を、特金やファンドトラスト、外国為替取引、土地売買に投入した。
「阪和興業の経営陣に欠落していたのは、上場企業としてのガバナンスと、変動する市場のリスクへの自覚だった」と著者は書いている。しかし、その稼ぎっぷりに「銀行や証券会社は砂糖にむらがる蟻のように、阪和興業の支払う金融・証券の手数料にすり寄っていった」のも事実だった。
 ところで、87年10月から88年9月にかけて、ぼくはふたたび出版営業の仕事に舞い戻り、書店回りや地方の新聞社回りをしていた。
 そのころ、ラビ・バトラの『1990年の大恐慌』という本を読んだことを覚えている。たしか、88年の春だったと思う。
 そこには、こんな予言が記されていた。
 1990年のある日、突然ドルの下落と円の急激な上昇が引き金になって、東京の株式相場が崩壊する。日本企業はいっせいに海外の資産を引き上げ、ニューヨークやロンドンでも株が大暴落し、世界大恐慌が幕を開ける。物価は下落し、企業倒産が続発して、失業者が急増する。一夜にして、人々は路頭に迷い、あちこちの街角で食料を求める長蛇の列が生まれる。こういう恐るべき事態が少なくとも6年はつづく。
 ラビ・バトラの予言がショックだったのは、ぼく自身、ケインズ時代になって、もう恐慌などおこらないと信じていたからである。しかし、そうではない、とラビ・バトラは予言していた。
 いまからふり返ると、ラビ・バトラの予言は、あたったともいえるし、あたらなかったともいえる。
 たしかに90年はバブルの崩壊した年になった。それから、日本は平成の失われた20年を経験する。それでも、その大不況は1929年の大恐慌とはどこかちがっていた。
 そのあたりの様子を、本書からもう少したどってみることにしよう。