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イアン・カーショー『地獄の淵から』短評 [本]

 日本の近代がヨーロッパ列強をモデルとして形成されてきたことは、三谷太一郎の近著『日本の近代とは何であったか』でも指摘されている。政党政治も資本主義も植民地支配も天皇制も、ヨーロッパとの遭遇の産物だった。
 明治維新というクーデターの背後には、フランスを後ろ盾にする幕府に対抗し、イギリスの支援によって中央集権国家をつくろうとする薩長の思わくがあった。1871年から73年にかけての岩倉使節団が、不平等条約の改正よりも欧米視察を優先したことも、よく知られている。
 日露戦争を前に、日本は1902年にイギリスと日英同盟を結んだ。その条約は、1921年にワシントンで締結された「4カ国条約」を機に廃棄される。その後、アメリカに対抗するため、日本はナチス・ドイツと同盟を組み、1940年に日独伊三国同盟が発足した。
 第2次世界大戦に敗れた日本は、1951年にアメリカと日米安保条約を結んだ。日米安保体制は現在も維持され、近年、日本は同盟国として、より積極的な軍事的役割を果たすようアメリカから求められている。
 最近の動きはおそろしいほど急速だ。特定秘密保護法、集団的自衛権、安全保障関連法、さらに共謀罪、憲法改正へとつづく怒濤の勢いをみれば、戦後の平和はとっくに終わって、すでに新たな戦争がはじまっているとすら思えてくる。
 ところで、今回の書評はこうした心配な動きとは直接関係がない。一歩立ち止まって、ヨーロッパ現代史を振り返ってみようというわけである。ヨーロッパ現代史は、ヨーロッパをモデルとして発展してきた日本の近代と切り離せない。村上春樹風にいえば、ヨーロッパは日本のパラレルワールドだ。
 本書は1914年から49年までのヨーロッパ史である。その後、現在までをえがく続巻も予定されているという。著者のイアン・カーショーは、イギリスの歴史家で、とりわけナチズム研究で知られ、ヒトラーについての浩瀚な伝記も出版している。
 1914年から45年にかけ、ヨーロッパは悲惨な自滅の時代を経験した、と著者は記している。まさに地獄を味わい、ようやく地獄を抜けたのだといってよい。続刊は、その地獄のなかからヨーロッパがいかにしてよみがえったかがテーマになるという。その意味で、本書と続刊は、ヨーロッパの死と再生をえがく歴史になるはずだ。
 20世紀前半にヨーロッパの破局をもたらした要因は4つあるという。
(1)民族主義・人種差別主義的ナショナリズム
(2)領土修正をめざす激しい要求
(3)ロシア革命を背景とした先鋭的階級闘争
(4)長期化する資本主義の危機
 並べてみると、何だかいまと似ている。歴史はくり返すという格言が頭に浮かぶ。しかし、当時とはどこかちがっていると思わないでもない。少なくともいまのヨーロッパでは(2)と(3)の要因は、さほど強くない。とはいえ、最近のボスニアやコソボ、チェチェン、さらにはクリミア問題、ISによるテロ、広がる経済格差や暴動などをみれば、その要因が消えたとも思えない。
 また、ヨーロッパの枠をはずして世界全体をみると、当時ヨーロッパを揺るがせた4つの要因は、場所と形態を変えただけで、現在でも引きつづき残っているといってまちがいないだろう。
 歴史は現実におこったできごとだ。小説や物語とはちがう。科学・軍事技術が発達したいまでは、ちょっとした判断と行動の誤りが取り返しのつかない災厄を招く。歴史を学び、歴史を教訓とすることがだいじなのは、人類にとって、くり返される最悪の事態をできるだけ避けるためでもある。
 1914年から49年にかけ、ヨーロッパでは次のようなできごとがおきた。
 100年つづいたウィーン体制が、第1次世界大戦(1914〜18)によって崩壊した。だが、大戦後の領土再編が国家間、民族間、階級間の対立と緊張を緩和することはなかった。それはむしろ憎しみの連鎖を生んで、次の衝突への導火線となっていった。
 大恐慌(1929)後の世界経済は混乱し、大衆の不安が増していた。そこに台頭したのが、力の政治をうたう政治勢力だった。とりわけ、イタリアとドイツでは、反ボリシェヴィズムとナショナリズムが結合して、右翼大衆運動が巻き起こり、極右勢力が政権を掌握した。そのあとは、破滅的な第2次世界大戦(1939〜45)までまっしぐらである。
 この書評では、ほんのさわりしか紹介できないが、こなれた訳文が、本文だけでA5判2段組500ページ近い大著を、最後までぐいぐいと引っぱって、あきさせない。読者はまるで鳥の目になったように、20世紀前半の東西南北にわたるヨーロッパ全体の構図をくまなく見て回ることができるだろう。
 しかし、圧巻なのは、やはりヒトラーとスターリンという巨悪が無気味に浮上していく部分である。そのはじまりは1930年代ではなく、1920年代だった。はじめはほんのちいさな運動が、大きな渦となって歴史を巻きこんでいく。
 ファシスト運動をはじめたのはイタリアのムッソリーニだ。1924年、ムッソリーニのファシスト党は、改正選挙法のもとイタリアの議席の3分の2を掌握した。そのあと社会党書記長のジャコモ・マッテオッティが暗殺されると、野党はたちまち排除され、報道は国家管理下に置かれる。
 同じ年、ソ連ではレーニンが死に、スターリンが権力を掌握した。スターリンのもと、ソヴィエト政権は以前にも増し、恐怖政治の度合いを強めていく。
 そのころヒトラーはナチスの指導者になったばかりだ。「ドイツのムッソリーニ」ともてはやされ、自信をつけたヒトラーは、1923年にミュンヘンで一揆をおこすが、たちまち逮捕され、ランツベルク刑務所に8カ月収監された。
 いっぽう、ソ連で権力を握ったスターリンは、まずジノヴィエフ、カーメネフ、ブハーリンを味方にしてトロツキーを追いだし、それからジノヴィエフとカーメネフを党から除名し、最後にブハーリンを分派主義者として失脚に追いこんでいった。スターリンが名実ともにソ連共産党の最高指導者となるのは1929年のことだ。そのあと粛清と恐怖政治の1930年代がつづく。
 1929年の大恐慌はドイツに経済危機をもたらした。社会民主党政権は崩壊し、1930年9月の総選挙で、ナチスは18.3パーセントの得票率で第2党に踊りでる。だが、このときは共産党も支持を伸ばしており、ヒトラーが首相になる可能性は低いと思われていた。
 それがいっこうに回復しない経済状況のなか、風向きが変わってくる。社会民主党と共産党との足の引っ張りあいにドイツ国民はうんざりしていた。1932年8月の総選挙で、ナチスは得票率37.4パーセントを獲得し、ついに第1党となる。その結果、1933年1月、ヒンデンブルク大統領の後押しで、ヒトラーが首相に就任するのだ。
 政権の座につくと、ヒトラーは社会主義者と共産主義者を一斉逮捕し、監獄や収容所に送りこんだ。緊急命令により、無制限の警察権も認められるようになった。3月には全権委任法が議会を通過し、ヒトラーは無制限の立法権を掌握する。共産党は粉砕され、社会民主党は禁止された。そのほかの政党も禁止、または解党に追いこまれた。あっというまの展開である。
 1934年6月、ヒトラーはみずからの対抗馬となりそうなナチス突撃隊(SA)隊長のエルンスト・レームを粛清する。粛清者はほかに150〜200人にのぼった。8月にヒンデンブルクが死ぬと、ヒトラーは国家元首の地位を引き継ぎ、総統となった。
 ヒトラーの経済政策は功を奏する。左翼政党と労働組合がつぶされたことで、企業は賃金を引き下げ、利益を最大化することが可能になった。そのいっぽうで雇用創出計画により、道路建設や土地開発が促進された。公共事業、自動車産業の育成、農業保護、さらには軍備支出が、経済を新たな地平へと引き上げていく。
 しかし、ドイツの経済回復はそれ自体が目的ではなかった。ナチスの目的は軍事力強化による領土拡大であり、経済はその手段にすぎなかった。そこから第2次世界大戦までは一直線である。
 著者によれば、ヨーロッパの1930年代は独裁体制の時代だったという。
 独裁体制に共通する特徴は、複数政党の廃止、個人の自由の制限、国家によるマスメディア支配、独立した司法の廃止、警察権による反対派の弾圧などである。独裁政権は民族ないし国民を代表すると称していた。しかし、現実に支配していたのは、ひとりの独裁者だった。
 ドイツ・ファシズムの特徴は、加えて、領土拡張主義的な性格をもつ軍事独裁政権だったことである。この点では、日本のファシズムも同じ特徴をもっていた。
 ボリシェヴィズムとファシズム(ナチズム)は、対極にあるようにみえて、自由民主主義に反対する点は共通している。いずれも国民(人民)を教育して、イデオロギーの献身的信奉者にし、国家目的(戦争や革命)に駆り立てることをめざしていた。その統治手法は「社会の完全な組織化、敵と少数派に対するテロ攻撃、極端な指導者礼賛、独占政党による容赦ない大衆動員」からなる、と著者はいう。
 ここまで、ほんのさわりを紹介しただけでも、何かぞくぞくするものを覚えてきた。それは、現在も小ヒトラー、小スターリンがあちこちで生まれつづけているからではないか。第2次世界大戦の死者は少なくとも5000万人(大きくみれば8000万人)にのぼる。地獄への道は善意で(いや愛国心で)敷き詰められている。下手なホラー小説よりこわい本である。