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永野健二『バブル』を読む(4) [われらの時代]

 1989年末に3万8915円の最高値をつけた株価は90年にはいると急落。その1年半後、地価も落ちはじめた。これにより銀行は膨大な不良債権をかかえることになる。
 そうしたなか、尾上縫という大口個人投資家の名前がとつぜん浮かび上がる。大阪ミナミで料亭を経営していた女性である。
 尾上は興銀から特別金融債「ワリコー」を2500億円買い付け、それを担保に興銀などの銀行やノンバンクから資金を借り入れ、それを株式投資や土地購入に振り向けていた。
 尾上の資金は、もともと大阪経済界の有力者から出ていたという。だが、気の遠くなるほど巨額というわけではない。
 はじまりは、87年5月に興銀の難波支店長が、飛びこみで尾上から10億円のワリコーを契約したことだった。それが融資につながり、株や土地への投資、さらにワリコー購入と次々に回転し、雪だるま式に巨額の資産へとふくらんでいく。
 89年末に尾上の金融資産は6182億円になっていた。それを指南したのが、興銀だったことはまちがいない。
 しかし、尾上の資産は、バブル崩壊を受けて、90年末には2650億円にまで減少し、負債額は逆に7271億円に膨らんでいた。負債額はピーク時、1兆円を超えていたという。
 その過程で、東洋信用金庫が尾上名義で、3420億円の架空預金証書を発行するという事件も発生している。この事件によって尾上縫は逮捕され、破産宣告を受けた。
 しかし、それは単なる詐欺事件では終わらなかった。尾上縫をあやつった興銀の犯罪性が徐々にあばかれていく。こうして、巨額の不良債権をかかえた興銀は、ついに2002年に解散を余儀なくされる。そして、富士銀行、第一勧業銀行とともに、みずほ銀行として再編されることになる。
「日本の戦前の近代産業の発展を支え、戦後はまさに日本の『戦後システム』のフラッグシップとして、敬意と尊敬を集めたモデル企業は、こうして消滅の道を歩んだ」と、著者は述懐している。
 バブル崩壊後、株価暴落により個人投資家や中小企業は大きな痛手をこうむった。しかし、日立やトヨタ、松下電器、日産、丸紅といった一流企業や年金福祉事業団などは、証券会社から補填を受けていたことがあきらかになる。
 ほかにも、大手証券会社のかずかずのスキャンダルが発覚、野村証券や日興證券の社長が辞任に追いこまれた。
 公表されたところでは、証券会社が一流会社などに支払った損失補填額は1200億円以上とされる。だが、それは氷山の一角だった。公表された損失補填額は、一種の大口手数料割引にすぎなかった、と著者はみる。
 89年12月のピーク時に、証券会社は企業から預かった20兆円前後の営業特金をかかえていた。それが株式に投資されていたとしたら、株価が半分になった時点で、10兆円の損害が出ていてもおかしくなかった。だとすれば、公表された証券会社の損失補填額は営業特金の0.6%にすぎない、と著者はいう。
 証券会社の営業特金とは、いってみれば「事業会社や機関投資家が、証券会社と結ぶ『大口預金』契約だった」。80年代後半、企業や機関投資家の財務担当者は、証券会社と信託銀行に、利回り保証を前提に、みずからの資金の運用をまかせていた。
 それがお寒い財テクの実態だった、と著者は書いている。
 実際にどれだけ損失補填がなされたかはわからない。しかし、バブル崩壊によって損害をこうむったのは、個人投資家や中小企業だけではあるまい。大企業も銀行も証券会社もその損害は大きかったのである。
 いずれにせよ、バブル崩壊によって、甘い財テクなど存在しないことが明らかになったのはたしかである。
 1992年8月11日に日経平均株価は1万5000円を割り込んだ。
 日銀の公定歩合は、89年5月以降、わずか1年強のあいだに、2.5%から6.0%へと段階的に引き上げられていた。その指揮をとったのが、日銀総裁となった三重野康である。
 いっぽう、大蔵省も90年3月に不動産関連融資にたいする総量規制を打ち出した。それによって不動産価格が下がりはじめる。
 1992年にはいると、株価と土地価格の暴落が、信用システムの崩壊を招きかねない状況になってきた。土地神話に加えて、銀行不倒神話までが、過去のものとなりつつあった。
 当時の首相、宮沢喜一は公的資金の投入も辞さないと表明したものの、それは決意にとどまる。じっさい、宮沢は不良債権を処理するため、金融機関に公的資金を投入するつもりでいた。だが、それは大蔵省と大手銀行首脳の反対によって阻まれたのだ、と著者はいう。
 そのことによって、その後の不況が長期化した。著者は宮沢の直感こそが正しい判断だったと、バブル処理が遅れたことを残念がる。
「大蔵省の危機意識の欠落と、銀行経営者の自己保身が、宮沢構想をつぶした」と著者は書いている。
 宮沢自身はのちにこう述べている。
「我慢していれば、いずれ株価も地価も上がる。まだそんな楽観論が支配して、結果として不良債権処理が遅れてしまった」
 こうして、「失われた10年」いや「20年」がつづくことになる。
 世界経済が変動相場制に移行するなかで、新しい仕組みづくりや制度改革を先送りにしてきたことが、日本が混乱におちいった原因だ、と著者はいう。

〈日本のリーダーたちは、円高にも耐えうる日本の経済構造の変革を選ばずに、日銀は低金利政策を、政府は為替介入を、そして民間の企業や銀行は、財テク収益の拡大の道を選んだ。そして、異常な株高政策が導入され、土地高も加速した。
 その大きなツケを支払う過程が「失われた20年」といわれる、バブル崩壊から現在まで続くデフレ状況である。アベノミクスというのは、80年代のバブル時代の失政を償うための経済政策でもあるのだ。〉

 著者はアベノミクスに懸念をいだいている。
 それは日本経済を水ぶくれにするだけで、筋肉質にするものではないからだ。