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アテナイの消費生活について(2)──論集『消費の歴史』から [本]

 アテナイの買い物ではよく魚の話がでてくるという。とくにビッグサイズの魚は値段も高く、シーフードはあこがれの的だった。魚はご馳走だったといえるだろう。
 アテナイ人はだいたいにおいて、犠牲に供される牛やヤギ、ブタ、羊の肉で栄養をとっていた。こうした肉は宗教的儀式にともなうもので、市場では売られていない。氏族(オイコス)のもとで分配されるのがふつうだった。
 しかし、市全体や地区全体でおこなわれる大がかりな儀式もあり、民衆の支持を得ようとする金持ちが、しばしばそうした儀式のスポンサーになった。政府がカネを出すこともあった。
 ところが肉とちがって、魚は市場で売られるぜいたく品だった。それはまさに食欲を満たすとともに消費の対象となる商品だったといえる。
 問題は魚が腐りやすく、早く食べなければならないことだった。そのため朝早く市場に行き、新鮮な魚を買って、すばやく調理する必要がある。その点、魚は理想的な商品だったかもしれない。すぐに売れて、消費され、カネになったからである。
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[アテナイの銀貨。ウィキペディアから]

 もうひとつカネのかかるものといえば、セックスだった。アテナイにもふつうの売春婦から高級娼婦まで、カネで買える女性はさまざまだった。
 大勢の女や少年を集めて宴会を催すには、びっくりするほど費用がかかった。そこでは音楽のバンドもいれ、食事や酒の用意もしなければいけなかったから、その費用は想像にあまりある。だが、そうした宴会は金持ちのみえのためではなかっただろう。
 高級娼婦を囲うにはとてつもなくカネがかかった。それでも古代アテナイ人も、カネで欲求が満たせるという誘惑にはあらがえなかったようである。
 アテナイ人の消費に関する記述には、不思議なことに、衣服や家財の話がほとんど見当たらない。職人は大勢いたのだから、こうした商品も購買され、使用されていたことはまちがいない。
 衣服はもちろん手織りで、アテナイの工房で織られ、市場でも売られていた。なかには高いものもあり、とくに高級なマントが知られていた。しかし、衣服や家財は、直接注文が多く、そのためあまり市場にあらわれなかったのだろうか。
 民主政のアテナイでは奴隷やメトイコイ(外国人)にたいする扱いがゆるやかになり、かれらの服装も市民と変わらなくなっていたという。
 逆にいえば、紀元前5世紀になるにつれ、金持ちもだんだん庶民と同じような服を着るようになっていったのである。
 アテナイでは、服装の面でも民主化が進んでいたといえるだろう。
 しかし、いっぽう民主政のもとで、金持ちはことあるごとに資金の提供を求められるようになった。さらに税金もかけられる。とりわけ戦争ともなると、金持ちはより多くの負担を求められた。
 さらに重要なのは、アテナイでは多くの判事や検事が30代以上の市民のなかから選ばれていたことである。財産の差し押さえがしばしばおこなわれ、不正蓄財がなされていないかが厳しく調査された。
 そのため、いかにも金持ちのようにふるまうのは禁物だった。紀元前414年には、あるエリートがエレウシスの秘儀を冒涜し、ヘルメスの像を破壊したとして告発され、財産を没収されている。
 しかし、実際、紀元前5世紀末のアテナイでは、個人的にはそれほど贅沢な生活は見られなくなっていた。豪華なものがあるとすれば、それはあくまでも神殿を飾るものだったという。
 アテナイでは個人の家が小さく質素だったのにたいし、神殿は巨大で豪奢につくられていた。神殿に置かれたアテナの巨大な像は、象牙と黄金で飾られていた。
 これをみれば、富裕層は神殿や祭りなどに大きな寄進をするかぎりにおいて、その存在を認められていたといえるだろう。
 豪華な衣装や馬車が認められたのも、祭りの場においてだけである。祭り以外でも、ぜいたくぶりを見せびらかしていると、ヒュブリス(傲慢)罪で告発される恐れがあった。
 つまり、古代ギリシアでは、祭り以外の場では、個人の物質的ぜいたくにたいし、モラル面、文化面、宗教面で大きな制約が課せられていたのである。
 以上をまとめると、どういうことがいえるだろう。
 ここでえがかれているのは、紀元前500年から300年にかけての民主制アテナイの消費の様子についてである。
 アテナイでは史上はじめて貨幣経済が全面開花した。はじめて常設の市場が生まれ、多くの商品が売られるようになった。
 アテナイの市場の繁栄は、アテナイの海軍力のたまものでもある。さらにいえば、それは民主政のたまものでもあった。
 市場にたいしては、当時も多くの反対や批判があった。それでもアテナイの市場は発展し、アクロポリスからディピュロン門にまで広がった。
 市場で売られていたのはものだけではない。音楽から勉強にいたるさまざまなサービスも提供されていた。
 また多くの監督官がいて、計量が適切か、価格が妥当かなどと監視していた。
 正式な市場はアゴラの中心部にあり、そこには人民裁判所や五百人委員会などもあったから、市場はまさに民主政の中心部に位置していたといえる。そこではしばしばギリシア喜劇が演じられ、ソクラテスをはじめ、民主主義を批判するプラトンなどの哲学者もたむろしていた。
 アテナイの市場では、家具インテリア、衣服などのぜいたく品はあまりおいていなかった。個人的なぜいたくは避けられる傾向があった。まれに甲冑や馬などに多額の金額が費やされることはあっても、それは個人のためではなく、あくまでも国家や神のためにだとされていた。
 ギリシア世界では紀元前480年以降、スパルタの影響が次第に強くなり、アテナイでもぜいたくが避けられ、質実剛健が尊ばれるようになる。ペルシア風の豪華さは、ペルシアに内通しているのではないかと疑われる可能性もあった。また金持ちにみえると、それだけで国家への多くの資金提供を求められ、民衆裁判所で糾弾される恐れもあった。
 アテナイの市場経済は、民主政と密接な関係をもっている。しかし、それはきわめて特異な市場経済だったといえるかもしれない。
 民主政といえば、日本人は平和と思いがちだが、それは誤解である。とくにアテナイでは、民主政は戦争と植民地主義、奴隷制、女性差別と結びついている。
 家政は奴隷によって支えられ、すぐれた技能をもつ職人集団と、海外との貿易を取り仕切るメトイコイ(外国人)が、土地を所有する市民の生活を成り立たせている。
 市民はものをつくり、ものを売るためにはたらいているわけではない。そんなふうにはたらくのは市場の奴隷である。アテナイ市民とは、あくまでも政治に参加し、戦争で戦う存在を意味していた。だが、そんな市民にとっても、にぎやかな市場は楽しみの場所だったにちがいない。

アテナイの消費生活について(1)──論集『消費の歴史』から [本]

 オックスフォード版論集『消費の歴史』は、少し読みはじめたところで、英語を読むのがめんどうなこともあって、途中でやめてしまった。まあ、しかし、そうめんどうがらず、気長に気楽に読んでみることにしよう。閑人の読書である。
 というわけで、まずはジェームズ・ダヴィッドソンの「アテナイの消費生活」を読んでみる。
 ヨーロッパで最初に消費社会が花開いた場所は、古代ギリシア、とりわけアテナイ(アテネ)だった。古代ギリシアはヨーロッパ文明発祥の地。そこで、どのような消費生活がいとなまれていたのかを、のぞいてみようというわけである。
 アテナイといえばデモクラシー、そして貨幣経済がはじめて本格化した場所だ。ドラクマを単位とするさまざまな貨幣が使われていた。アテナイのアゴラ(広場)にはさまざまな商品が並び、ショッピングを楽しむこともできた。
 しかし、こうした市場を守るには、民主政府による安定した貨幣管理と、アゴラノモイと呼ばれる市場監督人の存在が欠かせなかった。
 アテナイではなぜ貨幣経済が盛んになったのだろう。紀元前4世紀には、政治の舞台である集会に参加する市民に、貨幣で報酬が支払われていた。そのことも貨幣経済の隆盛と関係していたのかもしれない。
 アテナイは巨大な海軍力に支えられ、それによって、ペルシアやスパルタに対抗することができた。アテナイの繁栄がデモクラシーや消費社会をつくりあげたということもできる。だが、その繁栄はいつまでもつづかなかった。
 酒の神ディオニソスをたたえる祭りなどで演じられたギリシア喜劇には、当時アゴラで並べられていた商品の数々が出てくる。
 イチジク、ブドウ、カブ、ナシ、リンゴ、バラ、カリン、ハギス[羊肉の煮込み]、ミツバチの巣、ヒヨコ豆。スミレの花束、ツグミ、コオロギ、オリーブ、肉などなど。
 近隣に限らず遠方からも多くの品物がもたらされていた。
『アテナイ人の国制』には、アテナイ人がその海運力によって、シチリアやイタリア、キプロス、エジプト、リュディア[現トルコ]、黒海などから、さまざまなめずらしい品物を集めていたことが記されている。
 さらに、ほかの本にはこんなリストもある。
 キュレネ[現リビアの町]からは薬草や牛革、ヘレスポント[ダーダネルス海峡]からはサバなどの魚、イタリアからはエンバクや牛のあばら肉、トラキアからは薬剤、マケドニアからはライ麦、シラクサからはブタとチーズ、エジプトからは帆布やパピルス、シリアからは乳香、クレタ島からはヒノキ材、アフリカからは象牙、ロードス島からは干しブドウや干しイチジク、エヴィア島[エーゲ海]からはナシとリンゴ、フリギア[現トルコ]からは奴隷、アルカディア[ペロポネソス半島中央部]からは傭兵、カルタゴからは敷物や枕などなど……。アテナイには海外からほんとうに多くの品物が集まっていたのだ。
 しかし、これらの品物は市場で雑然と置かれていたわけではない。女性もの、魚、家具、野菜、衣服などとコーナーにわけられ、それぞれ別々の店で売られていたのだ。料理人を雇うことのできる斡旋所などもあった。
 市場は特化していたといえるだろう。だからアテナイ人はどこに行けば何が買えるかをわかっていなければならなかった。
 こうした市場の分化は、古代では大量生産ができなかったあかしでもある。
 市場はどこにでもあったわけではない。アゴラには常設の市場があった。祭りのときは臨時の市が開かれた。魚を売る行商もいた。
 しかし、アテナイでアゴラのほかに常設の市場があったのは、港のピレウスとラウリウム(ここには銀鉱があった)だけである。
 とはいえ、ふだんギリシア人は(とくにいなかでは)市場に行かなくても、ふつうに暮らせたという。
 それはそれとして、市場では、たとえば高級品と大衆品といったように、さまざまな品質の商品が置かれていた。エジプト綿は高級輸入品だった。
 ギリシア人は馬にはうるさかった。これは現在の車選びとおなじかもしれない。
 少し時代は下るが、アレクサンドロスの愛馬ブケパロスはテッサリア産で、9万6000ドラクマもしたという。馬にしてもワインにしても、血統とかブランドが重視されていたのは、いまも昔も変わらない。
 アテナイの特産品は、すぐれたデザインの陶器だった。陶器は海外にも多く輸出されていた。なかにはブランドを示すマークがつけられたものもあった。だが、たいていはノーブランドである。
 アテナイの市場はアゴラの中心部にあり、アゴラはアクロポリスの北の平坦な地に位置していた。しかし、市場は次第にディピュロン門のほうにも広がっていった。市場の建物も柱廊付きのりっぱなものへと変わっていくが、もともとは粗末で雑多な店の集まりで、その場所は品物に応じて区割りされていた。
 市場にはご多分に漏れず中心と周辺がある。ソクラテスは仲間たちとよく市場にでかけていた。ディピュロン門周辺の場末には、薄汚い製陶所や墓地、風呂屋、露天の店などがあり、旅人たちはそこにある飲み屋や売春宿で羽を休めていた。
 アテナイ人はアゴラや市場でぶらぶらしながら、かなりの時間をすごしていた。ソクラテスもその一人だ。そこで、金持ちで鼻持ちならないソフィストをやっつけたわけだ。
 アゴラの近くには若者たちがたむろして、おしゃべりできる店もあった。いっぽう、ぜいたくな料亭のような店もある。こうした料亭では、時に使い込みのカネが吸い取られたり、政治的な陰謀がくわだてられたり(いまなら共謀罪)することもあったらしい。
 こんなふうにみていくと、遠いアテナイの人もなんだか身近に感じられてくるから不思議である。
 この話、もう一回つづく。

瓦礫のなかから──カーショー『地獄の淵から』を読む(10) [本]

 1945年、大陸ヨーロッパでは、交通網が爆撃で破壊され、ガスや電気、水道もないありさまだった。住まいはなくなり、飢餓と病気が蔓延していた。
 そんな状況から、ヨーロッパはどのようにして立ちなおるきっかけをつかんだのか。これが本書最終章のテーマである。
 戦争が終わったとき、最初にはじまったのは報復である。強制収容所では囚人たちが衛兵を襲撃する場面もみられた。しかし、連合国の占領によって、ドイツでは残忍な報復はすぐに抑えられた。
 しかし、イタリアでは元ファシスト党員が1万2000人虐殺されている。フランスではヴィシー政権の支持者が9000人殺された。ナチスと親密にしていた女性たちは、公衆の面前で辱めを受けた。そうした暴力が短期間で終息したのは、占領軍、あるいは文民政権がすぐに統制力を把握したからである。
 問題はヤルタとポツダムで合意された国境の変更が、実際には追放といってもよい人口移動をともなったことである。ユダヤ人にたいする偏見は根強く、多くのポグロムが発生した。ポーランドやチェコスロヴァキアにもともと住んでいたドイツ人は、虐殺されたり強制追放されたりしている。
 多民族の東欧はほぼ姿を消す。「徹底した追放と猛烈な民族浄化が、おぞましい効果を上げた」と、著者は記している。
 ソ連の勢力下にある国々では、対敵協力者はただちに処刑されるか、労働収容所に送られた。西欧では死刑は比較的少なく、短期間で釈放されるケースが多かった。ナチスの党員が多かったオーストリアでは死刑判決はごくわずかだった。多くの者が特赦を受け、社会復帰している。
 ドイツでは、戦争末期、何人かのナチス幹部が自殺していた。ヨーゼフ・ゲッベルス、マルティン・ボルマン、ロベルト・ライ、ハインリヒ・ヒムラーなど。
 アウシュヴィッツ収容所の所長だったルドルフ・ヘスは逮捕され、処刑された。アドルフ・アイヒマンは、ひそかに南米に逃げたが、のちに逮捕され、エルサレムで裁判にかけられた。
 ゲーリングやリッベントロップ、ルドルフ・ヘスなどは捕縛され、ヴィルヘルム・カイテル、アルフレート・ヨードル、エーリヒ・レーダー、カール・デーニッツなどの軍指導者とともに裁判にかけられた。
 ニュルンベルク裁判は1945年から46年にかけて開かれ、24人が死刑判決を受けた。勝者の裁きという声もなかったわけではない。しかし、ドイツ国内でも大半の人がナチスにたいする告発を支持した。
 とはいえ、ドイツ社会を徹底して非ナチ化するのは、ほとんど不可能な仕事だった。それにいつまでも連合国がドイツを占領しているわけにもいかなかった。ドイツはドイツ人によって運営されるほかなかったのである。
 西ドイツ政府は1951年に最悪の犯罪者を除き、数十万人を特赦する法律を制定し、非ナチ化に終止符を打った。だが、ソ連占領地域では、非ナチ化は苛酷な道をたどった。ソ連秘密警察が運営する収容所で数万人が亡くなり、さらに多くがソ連の労働収容所に送られた。
 しかし、著者はこう指摘する。
「冷戦が始まるとともに、東西で政治的配慮がはたらき、追放の時代は終わり、東側では社会主義の団結のために、西側ではますますかまびすしくなる反共主義のために、過去に抹消線が引かれることになった」
 ヨーロッパでは戦後めざましい勢いで複数政党政治が復活した。とりわけ左翼政党が支持基盤を拡大した。左翼のなかでは共産党が、レジスタンスの業績をかかげながら、ソ連を支持する立場をとった。
 フランスやイタリアでは共産党が戦前の倍以上に勢力を伸ばした。しかし、イギリスでは共産党は伸びなかった。
 社会主義政党は一般的に共産党支持を上回り、オーストリア、スウェーデン、ノルウェー、西ドイツで大きな得票を獲得する。
 イタリアとフランスでは、左翼票は社会党と共産党でまっぷたつに割れていた。
 イギリスの労働党は大戦末期の1945年に勝利を収めた。クレメント・アトリーの率いる労働党新政権は、民主的手段を通じた社会・経済改革をめざした。炭鉱、鉄道、ガス、電力、イングランド銀行が国有化された。教育改革がなされ、、労働者の権利が向上し、住宅建設計画が進められた。国民健康保険も導入され、福祉国家の建設がスタートする。
 イギリスは返済しなければならない巨額の負債をかかえ、緊縮財政を強いられていた。食料もガソリンもしばらくのあいだは配給制のままだ。経済状況は苦しい。とはいえ、労働党の提唱した福祉政策は、ほかの政党にも受け入れられるようになった。
 しかし、西欧の大半の国では、左翼の時代はあっという間に終わる。左翼の亀裂が深まりつつあった。そのかん、キリスト教民主主義にもとづく保守政党が勢いを増していった。
 イタリアではアルチーデ・デ・ガスペリが率いるキリスト教民主党が勢力を伸ばした。1948年の下院選挙で過半数を獲得し、その後、何年にもわたって政権を維持することになる。
 フランスでは戦後初の1945年10月の選挙で、共産党が第一党となり、社会党、キリスト教民主主義系の人民共和運動(MRP)と、憲法制定のための三党連立を組んだ。
 シャルル・ドゴールはすでに臨時政府を発足させている。しかし、ドゴールは新憲法のもとづく第4共和政が気にくわず、1946年1月に大統領を辞任し、翌年、フランス国民連合(RPF)という新政党を発足させる。
 第4共和政は1958年までつづく。しかし、三党連立体制はすでに1947年にほころび、共産党が離脱、それ以降、フランスでは脆弱な政権がつづいた。
 占領下ドイツの西側地域では、キリスト教民主同盟(CDU)、社会民主党(SPD)、それに共産党までもが、挙国一致内閣をめざして、活動を再開していた。
 コンラート・アデナウアーの率いるキリスト教民主同盟は、社会的公正と民主主義を唱え、しばしば第一党となった。これにたいし、左派は分裂状態に戻りつつあった。共産党は支持を伸ばせない。急進的な社会・経済改革を唱えていた社会民主党は、大きな国民の支持を獲得できないままでいた。
 ドイツの東側では複数政党制は見せかけだけで、実際の主導権はソ連の影響下にある共産党が握っていた。1946年には左翼政党の強制合併がおこなわれ、ドイツ社会主義統一党(SED)が誕生する。そして1949年1月にSEDはマルクス・レーニン主義政党だと宣言し、複数政党制の痕跡は徐々に消されていった。
 ハンガリーでも共産党は政治的反対派を徐々に排除し、1949年には完全に権力を掌握した。
 ポーランドでも共産党が警察と治安機関を掌握していた。ロンドン亡命政府は見捨てられるかたちとなった。1947年の選挙では、共産党に敵対する人びとが100人以上殺害され、数万人が投獄され、多くの対立候補が資格を剥奪された。
 チェコスロヴァキアでは、1946年5月の自由選挙で共産党が第一党になった。連立政権で非共産党の閣僚が抗議の辞任をすると、それを機に共産党は一挙に権力を掌握した。反対派は弾圧され、スターリン主義的支配が確立された。
 ユーゴスラヴィアだけはソ連の支配に服さなかった。ティトーのパルチザンは、ソ連の赤軍に頼ることなく、本土の大半を掌握した。ティトーには国民の絶大な支持が寄せられていた。そのためモスクワから中傷を浴びながらも、ユーゴスラヴィアは独自の路線を歩むことになる。
 ソ連では、1945年の勝利の歓喜が大きな幻滅に変わっていた。スターリン体制は締めつけを強め、抑圧機構がふたたび稼働する。新たに勝ちとった領土を維持し、資本主義と対抗し、国を再建するのは容易な仕事ではなかった。あらゆる反抗の兆候は、容赦なくつぶさなければならなかった。こうしてソ連の収容所と流刑地は500万人もの囚人をかかえることになった。
 冷戦は避けようもなかった。
 第2次世界大戦は帝国主義の終焉をもたらした。ヨーロッパの帝国が引き上げたことで生じた空間にふたつの強大国、アメリカとソ連が勢力を広げていく。両国の覇権争いはヨーロッパにとどまらず、世界じゅうで生じた。しかし、当初、冷戦の主戦場はヨーロッパとなった。
 チャーチルのいう「鉄のカーテン」がヨーロッパを分断していた。アメリカの外交官ジョージ・ケナンは、ソ連の拡大を抑えるために「封じ込め」政策を打ちだす。
 ギリシアでは内戦が勃発する可能性があった。アメリカはギリシアの右翼に軍事援助を与え、左翼の伸張を打ち砕いた。
 決定的な戦場はドイツだった。ソ連管理地域の東側はすでに独自の道を歩みはじめていた。これにたいし、アメリカは1947年以降もドイツの西側地区で駐留をつづけると表明した。
 アメリカは1947年6月に「マーシャル・プラン」を打ちだす。マーシャル・プランはヨーロッパの復興を促した。とりわけ重点が置かれたのは、ドイツを復興させ、ソ連の膨張主義を防ぐことだった。ソ連はとうぜんマーシャル・プランを拒否した。
 1948年秋には、ヨーロッパの経済的分断は政治的亀裂と重なりあうようになる。ソ連はコミンテルンの後身としてコミンフォルムを創設し、マーシャル・プランに対抗して、コメコンを創設する。
 西側はすでに国家として西ドイツを樹立するつもりで、さまざまな経済政策を打ちだしていた。ソ連はベルリンから西側連合国を追いだそうとする。だが、ソ連によるベルリン封鎖は失敗に終わる。
 西ドイツでは1949年5月29日に基本法(憲法)が制定され、アデナウアー首相のもと9月20日に新国家が発足する。これにたいして、ソ連は10月7日、旧東部地域に東ドイツを建国した。
 このころ西側諸国にとって、脅威はドイツではなくソ連であることが明らかになりつつあった。1949年4月には北大西洋条約機構(NATO)が設立されていた。のちにソ連はこれに対抗してワルシャワ条約機構を創設することになる。
 冷戦がはじまっていた。とはいえ、ヨーロッパにおけるアメリカのプレゼンスは、ヨーロッパでの資本主義の勝利を保証した、と著者は書いている。そして、そこからはチャーチルのいう「ヨーロッパ合衆国」の構想すら生まれてくるのである。
 戦後のヨーロッパをえがく本書の後半部分はまだ出版されていない。しかし、まもなく出版される予定だという。
 これにたいして、われわれがきちんとしたアジア史をもっていないのはなぜなのだろう。ぼくの知るかぎりでは宮崎市定の『アジア史概説』があるのみである。日本人はどちらかというと自国中心の歴史で満足しているようにみえる。しかし、これから必要なのは、西アジア、南アジア、東南アジア、北東アジアを統合したアジア史(とりわけ現代史)なのではないかという気がする。

ヨーロッパ社会の変化──カーショー『地獄の淵から』を読む(9) [本]

 1914年から45年にかけてヨーロッパが自滅する30年間のあいだに、社会でどのような変化があったかを著者は考察する。その考察は、経済的・社会的変化、キリスト教会の役割、知識人の反応、そして文化産業の領域におよんでいる。
 まず経済的・社会的変化をみよう。
 ヨーロッパでは各国間の政治的対立が激しかったが、社会の発展傾向は似かよっていた、と著者はいう。
 この時期、ヨーロッパで人口変動がもっとも著しかったのは東欧である。殺戮や強制移住によって、人口が激変している。スターリンの農業集団化とドイツの侵攻というダブルパンチで、東欧で死亡や逃亡、強制移住に追いこまれた人びとの数は数千万人にのぼる。
 にもかかわらず、ヨーロッパでは全体でみれば、人口は増加した。1913年に5億だった人口は、1950年には6億に増えた。その原因はおもに死亡率の低下である。保健衛生の向上、緩やかに上昇する実質所得、質のよい食事が死亡率の低下と平均寿命の増加をもたらした。感染症への予防や治療の技術は格段と進歩した。いっぽう出生率は避妊と家族計画の普及によって低下した。
 農業人口は減った。1910年には人口の55パーセントだったのに、1950年には40パーセントになっている。工業化の進展につれて、人口は農村部から都市部に移動した。
 戦争が経済発展を中断させたことはまちがいない。にもかかわらず、戦争が技術進歩を刺激し、機械化を含む効率的な生産手法を開発したことも事実である。無線放送、レーダー、合成繊維、電子計算機などは戦時の発明である。ロケットやミサイルもそうだ。核技術もそうだといえるだろう。
 いっぽう戦争は国家による経済管理の手法を発展させた。国家は、租税や利率、インフレの抑制、食料供給、国債発行、住宅・道路建設などに取り組まねばならなかった。こうした国家による経済管理は、復興期においても必要になってくる。
 国家の役割への期待は、完全雇用や社会福祉医療などの社会政策にも向けられるようになった。しかし、それが本格化するのは第2次世界大戦後である。
 20世紀前半でも女性の権利は徐々に拡大していた。イギリスでは1918年に、フランスでは1944年に女性に投票権が与えられた。しかし、家庭でも職場でも女性の地位はまだ低く、教育面でも不利な立場に置かれていた。
 ソ連では革命により社会的大変動が起き、地主の財産は没収され、土地は再配分された。イギリスでは貴族の生活様式はおおむね消滅するが、それでもその地位が失われることはなかった。フランスでは政治・経済エリートにいくぶんの変化があったものの、地方レベルではエリートはその地位を保った。それはドイツでもほぼ同じだった。
「全体として見れば、政界・経済界のエリートは20世紀の前半、自己再生する傾向が続いた」と記している。庶民がエリートになるのは困難だった。それが変わるのは20世紀後半になってからである。
 第2次世界大戦が終わるまでは、貧困の連鎖が世の中をおおっている。労働者階級が中産階級に上昇する流動性はほとんどなかった。それでもサービス部門が拡大するにつれ、事務や管理業務をまかされる労働者も増えつつあった。
 この時期、もっとも悲惨な目にあったのは、とりわけウクライナ、ベラルーシ、ポーランドなど東欧からソ連にいたる地域である。これらの地域はドイツ軍、ソ連軍双方によって痛めつけられた。
 ソ連では戦争に勝利したことによってスターリン体制が正当化され、国民はますます警察国家の監視下におかれることになった。
 第2次世界大戦により、世界の貿易に占めるヨーロッパのシェアは減少し、アメリカが世界経済の中心に浮上した。アメリカが1941年に制定した武器貸与法により、連合国は戦争を優位に進めることができるようになった。アメリカの経済的優位は、戦後経済の制度的枠組みを決めるさいにも決定的となり、ドルを基軸とするブレトンウッズ体制がつくられることになる。
 戦後経済で主流となったのは、自由貿易と国家管理による混合経済、経済自由主義と社会民主主義の混合である。この混合経済が戦後にかつてない繁栄をもたらした。だが、1945年の廃墟のなかでは、そうした繁栄がやってくるとは、だれも予想しなかった。
 20世紀前半においても、ヨーロッパではキリスト教が人びとのあいだで圧倒的な影響力をもっていた。戦争の時代は、ナショナリズムがキリスト教と接合した。教会はボリシェヴィズムとの戦いを重視していた。
 教会はかならずしも反民主主義的だったわけではない。だが、ヒトラーを支持しつづけた教会もある。
 イタリアではラテラノ条約でヴァティカン市国が誕生すると、法王庁はファシズム支配を容認するようになった。長年、第三共和制に敵意を示していたフランスのカトリック教会はヴィシー政権を歓迎した。カトリック教会は、スペインではフランコ政権のイデオロギー的支柱となった。ドイツでもカトリック教会は最初、ヒトラーを警戒していたが、ヒトラーが首相になると、たちまち彼を支持する。ユダヤ人のポグロムにたいしても批判を加えていない。ローマ法王庁もおなじだった。
 クロアチアでもスロヴァキアでもハンガリーでも、キリスト教会は人種政策と反ユダヤ政策を黙認していた。これにたいし、ポーランドではカトリック聖職者が危険をおかして、数千人のユダヤ人に救いの手を延べた。オランダでもユダヤ人の追放にたいして、教会から抗議の声があがった。だが、抗議の声をあげるのがせいいっぱいだった。
 フランスの聖職者や修道院のなかには、ユダヤ人の子どもをかくまおうとする動きもあったが、たいていは傍観の立場をとった。法王のピウス12世は、ローマのユダヤ人を救うために、修道院に約5000人のユダヤ人をかくまった。だが、ジェノサイドにたいし、おおやけに非難したわけではなく、ほぼ沈黙する態度に終始していた。
 それでも、戦時中、カトリック教会は信仰復興の気配すら経験する。教会は栄え、人気を博した。衰弱の傾向をたどったプロテスタント教会でも、信仰が放棄されることはなかった。
 危機の時代にあって、ドイツでは、多くのユダヤ人知識人が国外移住を強いられた。
 知識人のあいだでは、ブルジョア社会にたいする幻滅が広がっていた。彼らは一般に左翼の立場をとったが、右翼ファシストに流れる知識人もいた。社会民主主義に目を向ける知識人はほとんどいなかった、と著者はいう。
 マルクス主義に傾倒する知識人が多かった。イタリアのアントニオ・グラムシ、ハンガリーのジェルジ・ルカーチ、フランスのロマン・ロラン、ドイツのベルトルト・ブレヒト、イギリスのジョージ・オーウェル、ハンガリー人のアーサー・ケストラーなどもそうである。彼らはナチズムを嫌悪していた。
 ソ連のプロパガンダに目をくらまされた知識人もいる。たとえばシドニーとベアトリスのウェッブ夫妻など。いっぽうバートランド・ラッセルやアンドレ・ジイドは実際にロシアを訪れ、その体制に嫌悪感をいだいた。ケストラーはウクライナの強制集団化と飢饉を見て、ソ連に幻滅し、共産主義と絶縁した。
 知識人のなかには少数ながらファシズムに引かれた人もいる。たとえばイタリアのフィリッポ・マテオッティ、ドイツのゴットフリート・ペン、それから批評家のエズラ・パウンド、フランスのピエール・ドゥリュ・ラ・ロッシェルなど。ドイツの哲学者、マルティン・ハイデガー、法学者のカール・シュミットもナチズムに傾倒していた。
 哲学者のルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタインは政治から一線を画していた。経済学者のジョン・メイナード・ケインズは、共産主義、ファシズムのいずれをも嫌っていた。小説家のイヴリン・ウォーは政治にはまったく関心がなかった。
 もっとも強力な反ファシズム知識人として知られるのは、ドイツから亡命したマックス・ホルクハイマーとテオドール・アドルノである。
 ジョージ・オーウェルは小説『動物農場』と『1984年』でディスユートピアをえがき、スターリニズムの現実をあばいた。
 ハンナ・アーレントは『全体主義の起源』で、ナチズムとスターリニズムという根源的悪のもたらす文明の崩壊をえがいた。
 しかし、知識人の苦しい試みに関心をもつ大衆はほとんどいなかった、と著者はいう。宗教も影響力を失いつつあった。教会はからっぽになった。その代わり、バーやサッカー場、ダンスホール、映画館には人があふれた。
 人びとが欲したのは娯楽だった。1920年代には娯楽産業はまださほど発展していない。しかし、ラジオと蓄音機が大量生産されると、人びとは自宅にいながら楽しみをみつけることができるようになった。
 娯楽の発信地はアメリカだった。とりわけポピュラー音楽と映画が人びとをひきつけていた。音楽とラジオは切り離せない関係にあった。スーパースターの第一号はビング・クロスビーで、フランク・シナトラがそれにつづく。ヨーロッパでは1930年代にエディット・ピアフがスター街道を歩きはじめ、マレーネ・ディートリヒの歌う英語版の「リリー・マルレーン」は連合国の兵士のあいだで大ヒットした。
 黒人ミュージシャンはアメリカではまだ差別を受けていた。ルイ・アームストロングが最初に喝采を浴びたのはヨーロッパにおいてである。ジャズの王様、デューク・エリントンはヨーロッパ巡業で人気を獲得した。ユダヤ人でロシアから逃げてきた父親をもつベニー・グッドマンは、スウィングの王様となった。だが、ナチスはジャズを嫌い、ニグロ音楽とけなしていた。また多くのユダヤ人音楽家がナチスのために命を落としている。
 1920年代から映画は観客を引きつけていた。しかし、映画がサイレントからトーキーになると、映画産業はいよいよ隆盛を迎える。1940年代の最盛期には、ハリウッドは年間400本の映画を制作していた。ディズニーのミッキーマウスとドナルドダックは映画を通じてヨーロッパでも知られるようになった。ヒトラーはディズニー映画の大ファンだったという。
 ドイツではマレーネ・ディートリヒ主演の『嘆きの天使』や、レニ・リーフェンシュタール監督のプロバガンダ映画『オリンピア』などが製作された。イタリアではムッソリーニがローマ郊外にチネチッタ(映画村)をつくった。
 映画が流行しはじめると、それまでの芝居小屋は映画館に衣替えした。映画からはジョン・ウェイン、ハンフリー・ボガート、ローレン・バコールなどの大スターが生まれた。クラーク・ゲーブルは『風と共に去りぬ』(1937年)で、一躍スターになった。
 しかし、こうした華やかな消費文化が隆盛するなか、ヨーロッパは破局と自滅への道を歩んでいたのである。

第2次世界大戦とジェノサイド──カーショー『地獄の淵から』を読む(8) [本]

 第2次世界大戦は黙示録的なスケールの戦争だった、と著者はいう。戦争にからむヨーロッパ(ソ連を含む)での死者は4000万人を超えた。
 アジア・太平洋地域を含めると、第2次世界大戦の死者は5000万〜8000万人といわれる。もっとも死者が多いのはソ連の推定2100万〜2800万人(著者は2500万人としている)。ついで、中国の推定1000万〜2000万人である。ソ連の数字には、ロシア西部、ベラルーシ、ウクライナなどでの死者の数が含まれている。ポーランドの死者は600万人。ドイツは700万人。
 いっぽうイギリスは45万人、フランスは55万人と第1次世界大戦より死者数は少ない。日本は260万〜310万人。アメリカは42万人弱だった。戦場になった地域ほど死者数が多いのはいうまでもない。民間人の死亡率が高かった。第2次世界大戦の核心にはジェノサイドがある、と著者はいう。
 ヨーロッパの大戦は、3つの局面に分けることができる。
 第1局面は1939年9月から1941年6月にかけてである。戦線はポーランドからバルト3国、スカンディナヴィア諸国、西ヨーロッパ、バルカン、北アフリカへ拡大した。
 ポーランドはドイツとソ連によって分割された。バルト3国はソ連に占領された。フィンランドは赤軍の攻勢をしのいだものの、ソ連に一部領土を割譲せざるをえなかった。
 1940年春、ドイツはデンマーク、ノルウェー、オランダ、ルクセンブルクを制圧。6月にはフランスが降伏した。41年春、ユーゴスラヴィアとギリシアもドイツに屈した。いっぽう、イギリスはチャーチル首相のもと、ドイツ、イタリアと戦いつづけることを宣言した。
 戦争の第2局面は1941年6月から1944年6月にかけてである。
 1941年6月22日、ドイツ軍はソ連に侵攻を開始する。ヒトラーはあせっていた。アメリカがイギリス側に立って参戦するまでに、ソ連の資源を確保し、大陸の制覇を成し遂げねばならない。
 だが、ヒトラーの「バルバロッサ作戦」は冬前に完了しそうになかった。ウクライナは手に入れたが、カフカス油田までは到達せず、レニングラードを手に入れるのも難しかった。ドイツ軍がモスクワに接近するにつれ、スターリンは首都を放棄しそうになるが、ようやくもちこたえる。そして、1941年12月5日なって、反撃に転じた。
 12月7日、日本が真珠湾を攻撃し、戦争は世界規模に拡大した。ヒトラーは日本がアメリカを釘付けにすることを期待していたが、それは過大評価だった。1942年6月のミッドウェー海戦で、日本の優位は限界に達する。
 ドイツの支配権拡大にもかげりがみえてきた。潜水艦Uボートの破壊力は、エニグマ暗号機の開発によって失われようとしていた。
 1942年10月から11月にかけ、北アフリカではアラメインの戦いで、ドイツの前進がはばまれる。ソ連にたいする第2次大攻勢でも、スターリングラードで大敗を喫していた。
 連合国の指導者は勝利を確信するようになる。1943年1月、ルーズヴェルトとチャーチルはカサブランカで会談し、枢軸諸国を無条件降伏に追いこむことを確認した。
 北アフリカで勝利した連合国軍は1943年7月、シチリア島に上陸した。9月にはイタリアと連合国が休戦協定を結ぶが、これにたいしドイツ軍はイタリアの大半を占領し、ふたたび戦闘がはじまる。
 1942年5月からはじまったイギリス空軍によるドイツの都市への無差別空襲は、翌年さらに勢いを増していた。とりわけ1943年7月末のハンブルク空襲はすさまじかった。
 1943年7月、ドイツ軍は東部戦線で最後の大攻勢をかけた。だが、1週間とつづかない。イタリアに兵力を回さなければならなかった。11月にはソ連軍がキエフを奪回した。
 第3局面は1944年6月からドイツ敗戦までである。
 6月6日、前年11月のテヘラン会談での合意にもとづいて、連合国軍はノルマンディー上陸作戦を敢行した。ソ連軍は、その2週間後、バグラチオン作戦にもとづいて、大規模な突破作戦を開始する。
 ドイツの空襲では市民の犠牲は膨大な数にのぼった。1945年3月のドレスデン空襲では民間人の死者は2万5000人を数えた(同じ3月の東京大空襲の死者は8万人以上である)。
 ドイツ軍は最後の最後まで戦った。しかし、敗北は時間の問題だった。東部戦線が崩壊すると、ルーマニアとブルガリアはソ連軍に占領された。ワルシャワは1944年8月の蜂起後、ドイツ軍によって破壊されていたが、1945年1月にはソ連軍が掌握する。ハンガリーも3月にソ連軍支配下にはいった。
 ソ連軍は4月16日にベルリンにはいり、25日にエルベ川で西からやってきたアメリカ軍部隊と邂逅した。ベルリンでの戦闘は5月2日に終了。その2日前、ヒトラーは官邸の地下壕で自殺していた。ドイツ軍が完全に降伏したのは5月8日のことである。

 第2次世界大戦では、とりわけ東部で、一般市民にたいするテロと殺戮がくり広げられた。ユダヤ人がジェノサイドの対象となった。ドイツの征服地域ではユダヤ人の「浄化」は自明のこととみなされていた。
 ドイツ軍に囚われたソ連の戦争捕虜もあわれだった。570万人のうち330万人が飢餓ないし病気で亡くなっている。
 当初、ドイツ軍が占領したポーランドでは、ポーランド人は下等人間として扱われ、気まぐれに投獄、処刑された。カトリック教会は閉鎖され、聖職者は投獄ないし殺害された。
 いっぽうソ連に占領された東部ポーランドでは、土地が集団化され、地主は強制退去させられた。銀行は国有化され、貯蓄は没収された。スターリンの命令により、ポーランド人のエリート2万人が殺害された。そのなかにはスモレンスク近郊のカティンの森で殺害された1万5000人のポーランド軍将校が含まれている。
 そのあとも10万人単位で逮捕と強制労働、強制移住、処刑がつづく。ソ連軍はユダヤ人にたいしても容赦なかった。多くのユダヤ人が逮捕され、財産を奪われ、追放された。
 1941年4月にドイツはユーゴスラヴィアを占領し、新国家クロアチアをつくりあげた。クロアチアはファシストの「ウスタシャ」が支配する国家だった。ウスタシャは総人口630万人の半分にあたる非クロアチア人を「浄化」(改宗と追放、殺害)するのに躍起となった。とりわけ標的となったのが、セルビア人とユダヤ人、それにロマ(ジプシー)である。ウスタシャは1943年までに40万人を殺害している。
 1941年夏のドイツによるバルバロッサ作戦では、ソ連軍兵士は獣とみなされただけではなく、一般市民も攻撃の対象とされた。ソ連のユダヤ人殺害も当初から織りこまれていた。ソ連に占領されたバルト3国は、当初ナチス・ドイツを歓迎し、治安警察と群衆がポグロムで手当たり次第ユダヤ人を殺害した。
 ウクライナでもソ連にたいする憎しみは深かった。ドイツ軍は当初、解放軍とみられたが、ヒトラーは「無政府主義的でアジア的な」ウクライナ人をウクライナから排除したいと思っていた。
 ドイツによる弾圧や徴集、強制送致が強まると、パルチザンが活動するようになる。ドイツ当局の取り締まりもさらに厳しくなった。ウクライナでもユダヤ人は大量虐殺された。
 1942年1月の時点で、ドイツおよびその占領地域で殺害されたユダヤ人はすでに550万人にのぼっていた。その背後には、「工業化された集団絶滅システム」があった、と著者はいう。
 当初、ヒトラーはヨーロッパのユダヤ人をすべてロシアに追放するという計画をもっていた。だが、それがうまく行きそうもないとわかると、「ユダヤ人問題の最終解決」のために、ユダヤ人をソビボルやトレブリンカといったポーランドの殺害場所に移動させる計画(ラインハルト作戦)を立てた。
 ここを「収容所」と呼ぶのはまちがいだ、と著者はいう。なぜなら、ユダヤ人は到着後、数時間以内に殺害されたからである。1942年には、こうした場所で270万人が殺害されている。
 1943年、44年の殺害場所は主にアウシュヴィッツに移った。アウシュヴィッツではユダヤ人は奴隷労働をさせられたあげく110万人が殺害された。ヨーロッパ全土からユダヤ人が集められていた。ビルケナウやマイダネクなど、ほかにも死の強制収容所は各地にいくつも存在した。
 ドイツ軍兵士のなかにもユダヤ人への蛮行に逆らった者もいる。だが、それは例外だった。ほとんどのドイツ軍兵士は、ドイツ人の人種的優越にもとづく「新秩序」の建設を求めて戦っていた。
 ソ連赤軍の兵士の場合は、戦う以外に選択肢はなかった。戦わなければ殺されたからである。あえていえば祖国防衛の愛国主義が彼らをようやく支えていた。
 イギリスはドイツに占領されることがなかった。チャーチルのいうように大英帝国の偉大さを守るために戦ったイギリス軍兵士はさほどいない。よりよい未来を切り開くという希望が、わずかに戦闘の意欲をかきたてていた、と著者はいう。
 イギリスに拠点をおく亡命ポーランド政府の目的ははっきりしていた。ドイツの占領から祖国を解放することである。加えて、亡命ポーランド政府にとっては、祖国がソ連の支配下にはいらないようにすることが重要だった。だが、その希望はワルシャワ蜂起の鎮圧とヤルタ会談によって潰えることになる。
 ほとんど無名の存在だったシャルル・ドゴールはイギリスの後押しで、ロンドンを拠点とする自由フランスの指導者となった。自由フランスが祖国フランスで注目されるようになるのは、ドイツが不利となり、ヴィシー政権が支持を失ってからである。1943年にドゴールは自由フランスの本部をアルジェに移し、国内のレジスタンス運動を支持することで名声を獲得した。
 イギリスは参戦国のなかでは比較的幸運だった。とはいえ、ドイツの空爆によって、ロンドンをはじめとする都市では、多くの家屋が破壊され、30万近い人びとが死傷した。食料や物不足による困窮は深刻だった。夫の出征中の育児や家事、長時間労働の重みが主婦の肩にのしかかった。しかし、市民のあいだでは、この戦争は正義だという基本的な認識があり、国民の結束はゆるがなかった。
 ソ連では厳しい強制と抑圧をともなう国民総動員体制がとられた。しかし、祖国防衛を強調する政治宣伝のもとで、国民は苦難を耐え抜いた。
 ソ連ではドイツ軍の侵攻によって2500万人が家を失い、レニングラードでは100万人が餓死した。女性が新たな労働力として職場に組みこまれた。以前の2、3倍の生産ノルマも課せられたが、労働者はそれによく堪えた。ロシアでは戦争によって、新たな共同体意識さえ生まれていた、と著者はいう。
 ドイツの保護領となったチェコでは、終戦までほぼ戦闘はなかった。しかし、チェコの愛国者にたいするナチスの弾圧は激しかった。
 クロアチアではウスタシャによる残虐行為がつづいている。いっぽう大セルビアの復興を望む将校グループの率いるチェトニクと、ティトーが率いる共産党パルチザン勢力の動きも活発になった。パルチザンはティトーのもと、ユーゴスラヴィアをひとつにまとめ、戦後、政府を樹立することに成功する。
 ギリシアではドイツ、イタリアの占領軍に対抗する動きが強まるなか、共産党レジスタンス運動とナショナリスト共和派の対立が激しくなっていた。
 イタリアは1943年7月にムッソリーニ政権が崩壊したあと、北部はドイツ、南部は連合国によって支配されるようになった。
 1943年9月、ムッソリーニはドイツ軍の支援を受けて、北部に傀儡政権を築く。それによりパルチザン闘争が活発になった。1万2000人のファシストとその協力者が殺害され、パルチザンの側には4万人の犠牲者がでた。
 1945年4月、パルチザン側はムッソリーニを逮捕して射殺し、その遺体をミラノ中心部につるした。これにより、イタリアは停戦を迎えた。
 ドイツが占領したオランダ、ベルギー、ノルウェー、デンマークにもナチスの協力者はいた。1942年以降、ドイツの力が弱まると、ドイツへの大衆の反発が高まる。とはいえ、地下のレジスタンス活動は危険であり、恐ろしい報復をともなうこともあった。
 これらの国々でもユダヤ人はよそ者とみられていた。とくにユダヤ人の多かったオランダでは14万人のユダヤ人のうち10万7000人が強制移住させられ、死の収容所に送りこまれた。ベルギーでも2万4000人のユダヤ人がアウシュヴィッツに送られている。
 フランスは国のほぼ3分の2を占める占領地域と、中部のヴィシーを首都とする非占領地域に分断されていた。右派のなかにはナチスに協力する者が多かった。しかし、大方の国民は占領体制に順応し、時が移り変わるのを待つ姿勢をとっていた。
 ドイツの占領は、当初、穏やかだった。しかし、逆境に立ちはじめると、フランスにたいするドイツの経済的要求は苛酷になった。食料や物資の不足にも悩まされるようになった。
 ペタン元帥の指導するヴィシー政権は、ファシズム的な統治体制を敷き、7万5721人のユダヤ人を死の収容所に強制移送した。
 だが、次第にレジスタンス運動も高まってくる。これにたいするナチスの報復もすさまじかった。にもかかわらず、共産系、保守系もあわせて、積極的レジスタンスの波は収まることがなかった。
 ドイツでは1942年ごろから物資の欠乏がひどくなり、政権への支持が低下した。最後の2年間は連合国による空襲が住民を恐怖におとしいれた。この空襲で40万人以上が死亡し、80万人が負傷、500万人近くが家を失った。
 さらにソ連赤軍が侵攻すると、大勢の難民が押し寄せてきた。東部からの逃避行のなかで、多くの女性と子どもを含む50万人近くが命を落とした。兵士と民間人の死者が、けたちがいに増えるにつれ、ドイツ人はヒトラーとナチ司令部、連合国をうらみ、自分たちを戦争の犠牲者とみなすようになった。
 第2次世界大戦の結果、ソ連の影響圏は東欧全域とドイツにまでおよぶようになる。アメリカは戦争を通じて超大国に変貌し、西欧全域に支配権を確立した。英仏独というかつての3つの大国は弱体化した。帝国の解体にともない、植民地では民族独立運動が巻き起こる。そして、ユダヤ人問題は何世代にもわたって、ヨーロッパの人びとに道徳上の問題を投げかけることになった。
 第2次世界大戦は広島と長崎に原爆が投下されることによって終結する。だが、それ以来、世界じゅうの人びとは核による絶滅の脅威と向きあうことを余儀なくされている。

第2次世界大戦前夜──カーショー『地獄の淵から』を読む(7) [本]

 西欧の民主主義諸国は、戦争を避けるため、ヒトラーをなだめ、ドイツの拡張政策を抑えようとしてきた。だが、ヒトラーはますますつけあがり、さらに多くを要求する。その勢いが止まらなくなったときに、ヨーロッパ諸国は戦争を覚悟せざるをえなくなった。そんな大戦前夜の構図が浮かびあがる。
 もし1933年のヒトラーの政権掌握直後、左翼が壊滅させられていなければ、ヨーロッパの戦争の可能性は遠のいていただろう、と著者はいう。
 だが、左翼が消滅したのはドイツだけではない。スターリンのソ連国内に、民主的左翼は存在しなかった。ヨーロッパでは、軍と警察に支えられたナショナリスト右翼が勢力を伸ばし、国を牛耳る風潮が支配的になりつつあった。西欧諸国とスカンディナヴィア諸国だけが例外的に民主主義を維持している。
 ヨーロッパ全体が右傾化するなか、1936年のフランスの総選挙では、社会党、共産党の人民戦線が圧倒的な勝利を収めた。人民戦線の勝利により、社会党のレオン・ブルムが首相となり、労働者寄りの政策をとった。しかし、インフレと財政難が進行し、政権はたちまちいきづまる。人民戦線勝利の熱気は2年とつづかない。1938年春にはフランスの政治は保守右翼へとシフトしていた。
 スペインでは1931年に左派主導の共和政が敷かれた。しかし、スペインはもともとカトリック的価値観が強固で、左翼への嫌悪感も強い。軍事クーデターの伝統もある。それが内戦を引き起こす要因となっていく。
 スペインの左翼政権は1933年に崩壊し、そのあと右翼連立政権が発足する。1936年に人民戦線が歴史的勝利を収めるものの、左翼政権発足後、たちまち分裂する。共産党系、社会党系、アナキスト系からなる人民戦線は、しょせん寄り合い所帯だった。地方では右翼のファランヘ党が加入者を増やしつつあった。
 そんななか、軍の参謀総長を解任され、海外に派遣されていたフランコが7月に反乱をおこす。マドリード、バルセロナ、バスクの労働者はこれに対抗して、武器をとった。
 反乱軍はスペイン西部と中部をまたたくまに押さえたが、東部と南部は共和国側にとどまっていた。ヒトラーとムッソリーニは、ナショナリストのフランコを支援する。いっぽうコミンテルンはヨーロッパ各国から義勇兵をつのり、スペインに送った。
 1937年の春から夏にかけ、フランコ側は北部海岸を掌握し(フランコを支持するドイツ軍はバスク地方のゲルニカを猛爆)、共和国側の支配地域は、マドリード南東部とカタルーニャに限定されるようになる。
 ナショナリストによるスペイン制圧は時間をかけて、執拗におこなわれた。これにたいし、共和国側も内部に分裂と党争をかかえながらも、長期にわたって抵抗した。そのころ共和国を支配したのはスターリン派で、他の左派勢力は容赦ない弾圧によって、つぶされていった。
 カタルーニャは1939年初めに陥落、4月にフランコは内戦終結を宣言した。フランコが政権をとると、粛清がはじまり、共和国派の2万人が処刑され、数千人が刑務所や収容所に送られた。殺害は1940年代になってもつづく。そして、フランコは1975年になくなるまで、スペインの独裁体制を維持することになる。
 スペイン内戦は、直接、第2次世界大戦とは結びつかなかった。政権を掌握したフランコは、戦争から距離を置いた。大戦という点では、むしろ中欧で生じつつあった大変動、すなわちドイツの拡張衝動こそが問題だった。
 1937年11月5日、ヒトラーはドイツ陸海空軍の司令官を首相官邸に集め、オーストリアとチェコスロヴァキアを攻撃する可能性を示唆した。将軍たちは西欧諸国との戦争に拡大することを恐れ、容易に首をたてにふらなかった。すると、ヒトラーは3カ月後に彼らを解任してしまう。
 ドイツの再軍備計画に支障をきたすものがあるとすれば、それは鋼鉄不足だった。ヒトラーはシャハトに代え、ゲーリングを4カ年計画の責任者に任じ、ドイツの戦争準備を急がせた。軍需が増え、利益が見込めるとなると、IGファルベンなどの大財閥もヒトラーの拡張政策を支持するようになった。
 いっぽう、イタリアの軍備強化は遅れた。イタリア経済の諸問題が山積して、なかなか軍備強化に財政投資が回らなかったのである。
 ソ連でも非能率な生産と破滅的な粛清が、軍の弱体化を招いていた。兵器の質に関しても、ドイツとの差は歴然としていた。
 西欧の民主諸国はドイツの高まる脅威にたいし、軍備増強の必要性に迫られていた。イギリスにとっては、ドイツ、イタリア、日本との3方面での戦争は悪魔のシナリオである。ドイツにくらべ、航空戦力も劣っている。そのため、巧みな外交で、しばらくはドイツとの戦争を避けるという方針がとられた。
 1937年にブルム内閣が倒れたあと、フランス政府は財政の安定化をはかるため緊縮策をとった。防衛予算も削減された。フランス空軍もみずからの脆弱性に気づいている。そのため、イギリスと同様、ヒトラー・ドイツと和解し、しばらく時間稼ぎをするという方針が採用された。
 1937年5月、イギリスではボールドウィンに代わってチェンバレンが首相に就任した。前年末、国王エドワード8世はシンプソン夫人と結婚するため、弟のジョージ6世に王位を譲っていた。ボールドウィンは、この危機をうまくさばいたのちに辞任したのである。
 1937年11月、新外相のハリファックス卿はヒトラーと会見し、オーストリア、チェコスロヴァキア、ダンツィヒ(グダニスク)の件で話し合った。ヒトラーは即座の冒険は考えていないというのが、ハリファックスの感触だった。その裏にはドイツが武力を行使せず、平和裏に領土を変更するならば、それはある程度やむをえないという判断もはたらいていた。
 ソ連では1937年に赤軍指導部を粛清したあと、スターリンが自分に忠実な軍を再建しようとしていた。スターリン自身は資本主義列強との戦争は不可避と考えている。とりわけ、西欧諸国がヒトラーをけしかけて、ソ連と戦わせるようにするのではないかと疑っていた。いっぽう満州国とソ連の国境でも、日本が大きな脅威となりつつあった。戦争は時間の問題だが、赤軍指導部を粛清したあと軍事力を整えるには、いましばらくの時間稼ぎが必要だった。
 1938年2月、ヒトラーは軍を改編し、みずから国防軍最高司令官に就任した。外相にはタカ派のリッベントロップを任命する。そのひと月後、ドイツ軍はオーストリアの国境を越え、オーストリアをドイツに併合した。
 そのあとはチェコスロヴァキアだった。やっかいなのは、チェコスロヴァキアがフランス、ソ連と同盟関係にあることだった。ドイツがチェコスロヴァキアを攻撃するには戦争の危険をともなった。しかし、フランスはイギリス抜きの単独行動は考えていなかったし、ソ連もまた軍事介入するだけの力を備えていなかった。イギリスもできるだけ戦争を避けたがっていた。
 ヒトラーはチェコの一部ズテーテンラントで迫害されている少数ドイツ人を救うため、ズテーテンラントだけを帝国本国のなかに取りこむのだと見せかけていた。
 イギリスの首相チェンバレンは9月半ばにヒトラーと会見するため、2度ドイツを訪れた。最初の会談で、チェンバレンはドイツへのズテーテンラント割譲を認めた。9月21日にチェコスロヴァキア政府も仕方なくそれを受け入れる。ところが、9月22日のチェンバレンとの会談で、ヒトラーは10月1日にはズテーテンラントを占領すると通告した。英仏はとうぜんこれに反発し、戦争の危機が高まる。
 そのときムッソリーニが介入し、9月29日に英仏独伊によるミュンヘン会談が開かれることになった。翌日発表された協定では、ドイツへのズテーテンラント割譲が認められ、平和は保たれたかのようにみえた。
 これまでナチス・ドイツの強大化に何ら手を打ってこなかったイギリスとフランスは、またしてもヒトラーの要求に屈することになった。
 ミュンヘン協定の締結後、ドイツの民衆も平和が維持されたことに喜んでいた。しかし、ヒトラーは武力行使ができなかったことに、むしろいらだっていた。
「帝国水晶の夜」と称される、ナチスによるユダヤ人へのポグラムが実施されたのは、10月のことである。ユダヤ人の国外追放がはじまっていた。不幸なのは帝国内にとどまらざるをえなかったユダヤ人の運命である。
 ヒトラーはさらに、ポーランドにダンツィヒ(グダンスク)の返還と、「ポーランド回廊」での輸送ルート建設を求めた。ポーランドはそれを拒否する。
 1939年3月、ドイツ軍はチェコに侵入し、プラハを占領。チェコを保護領とした。これによりチェコスロヴァキアは解体され、スロヴァキアは自治国家を樹立した。
 ドイツの野望を思い知らされたチェンバレンは、ポーランドに軍事保証を与える。フランスもそれに追随する。それによって、ヒトラーの行動を抑制できると考えたのだが、ヒトラーは英仏の対応にむしろ反発をつのらせた。
 いっぽうチェコでヒトラーに出し抜かれたムッソリーニは、4月にアルバニアを占領した。武力行使の風潮が高まっている。
 ところで、1939年夏のポーランド危機にさいして、ヨーロッパでは不思議なことに諦め気分が強く、恐怖感はむしろ少なかった、と著者は指摘している。
 ドイツでは、チェコがうまくいったのだから、ポーランドも何とかなるだろうという楽観的な気分が広がっていた。フランスではドイツのこれ以上の侵略を何とかしなければならないという意見が強まったが、それでも夏のヴァカンスを楽しもうという雰囲気が濃厚だった。その点は、イギリスも変わらない。
 だが、ポーランドは破局に直面していた。8月23日、ドイツ外相リッベントロップとソ連外務人民委員モロトフとのあいだで、独ソ不可侵条約が結ばれる。その秘密協定には、ドイツとソ連によるポーランド分割の項目が含まれていた。
 これで、ヒトラーのポーランド侵攻には何の障害もなくなる。
 1939年9月1日早朝、ドイツ軍は国境を越えて、ポーランドに侵入した。ヒトラーが交渉に応じるとみていたイギリスとフランスは不意を突かれて、驚愕する。9月3日、イギリスとフランスはドイツに宣戦を布告した。
 チャーチルによれば、宥和政策は「善意の有能な人びとによって下された誤った判断の悲話」にほかならなかった。善意の人びとは交渉によって平和が保てると考えていたが、ヒトラーは最初から戦争を望んでいた。
 こうして、生死をかけた第2次世界大戦がはじまったのである。

全体主義の系譜──カーショー『地獄の淵から』を読む(6) [本]

 1930年代半ば、ヨーロッパではファシズムとボリシェヴィズム、自由民主主義のあいだで、イデオロギー闘争が尖鋭化していた。
 とりわけナチス・ドイツの動きが、国際秩序を危険にさらす可能性をひめていた。しかし、最初に国際秩序に挑戦する動きをみせたのは日本である。1931年9月に日本は満州を占領した。1932年には満州国が誕生。国際世論が非難を強めると、日本は1933年2月に国際連盟を脱退した。
 国際秩序を維持するという国際連盟の機能は、すでに失われようとしていた。1932年に開かれたジュネーヴでの軍縮会議も何の成果もないまま閉幕する。1933年10月には、日本に引きつづきドイツも国際連盟を脱退した。
 1935年3月、ヒトラーは大規模な国防軍の創設と徴兵制の再導入を発表した。ヴェルサイユ条約で禁止されていたドイツ空軍の存在も明らかにされた。
 各国は自国の安全保障強化に動きはじめる。
 ヒトラーがドイツで権力を握ったあと、ソ連は将来の危険に備えて、1933年にイギリスフランスアメリカと国交関係を樹立し、翌年、国際連盟に加盟した。
 1935年10月、イタリアはアビシニア(エチオピア)を侵略する。国際連盟はイタリアに経済制裁を科すが、効果はなく、イタリアへのエチオピアの割譲が認められる。そのときムッソリーニは、それまで警戒していたヒトラーと手を結ぶことになった。
 1936年3月、ヒトラーは1925年のロカルノ条約で非武装地帯と定められたラインラントに進駐する。フランス陸軍はこれを見過ごし、イギリスも何の行動もとらない。その月末の国民投票で、ドイツ国民はヒトラーの大胆な行動を圧倒的に支持した。
 11月にはローマ・ベルリン枢軸が結成される。ムッソリーニはいまやヒトラーの下位に立っていた。枢軸の共通ファクターは、反ボリシェヴィズムである。
 ヒトラーはすでにソ連との対決が不可避だと考えていた。そのため、軍備増強に向けて、国内生産の最大化をめざす計画を実行に移していた。早くも戦時経済体制がとられていた。
 著者によれば、ヨーロッパの1930年代は独裁体制の時代だったという。
 独裁体制に共通する特徴は、複数政党の廃止、個人の自由の制限、マスメディア支配、独立した司法の廃止、警察権による反対派の弾圧などである。独裁政権は民族ないし国民を代表すると称していた。しかし、現実に支配しているのは、ひとりの独裁者であり、とりわけ軍が大きな役割を果たしていた。その軍はたいてい愛国的保守で、反社会主義という性格をもっていた。
 とりわけドイツのファシズムの特徴は、加えて、領土拡張主義的な性格をもつ軍事独裁政権だったということである。この点では、日本のファシズムも同じ特徴をもっていた。
 しかし、ヨーロッパで独裁体制、あるいは権威主義的体制が敷かれたのは、ドイツ、イタリアだけではなかった。1935年までピウスーツキ元帥が支配したポーランド、1936年以降、独裁体制を確立したメタクサスのギリシア、ホルティのハンガリー、サラザールのポルトガル、さらにフランコのスペインもそうである。彼らはファシズムや共産主義の大衆運動型政治を嫌悪しながら、反動的な権威主義的体制を維持しようとしていた。
 とはいえ、当時、独裁政権として抜きんでていたのは、やはりソ連、イタリア、ドイツである。ボリシェヴィズム、ファシズム、ナチズムのイデオロギーは、ハンナ・アーレントにならって、「全体主義」と総称することができる。
 ボリシェヴィズムとファシズム(ナチズム)は対立しているとはいえ、自由民主主義に反対している点では共通している。いずれも国民(人民)を教育して、イデオロギーの献身的信奉者にし、変革(戦争や革命)に駆り立てることをめざしていた。
 その統治手法は「社会の完全な組織化、敵と少数派に対するテロ攻撃、極端な指導者礼賛、独占政党による容赦ない大衆動員」からなっている、と著者はいう。
 もうすこし具体的に見ておこう。
 1930年代半ばになると、ソ連はスターリニズムによって支配されるようになった。1936年には世界で「もっとも民主的」とされる憲法が公布されたが、これほど実態とは異なる憲法はめずらしい。実際には、市民は自由も法的な保護もなく、無制限で恣意的な国家権力にさらされていた。
 5カ年計画は上からの強制によって推し進められた。その背後には熱狂的な「青年共産同盟(コムソモール)」による献身がみられた。ソ連では共産党が国家を支配し、その共産党をスターリンが支配している。モスクワなどの都市では、スターリンの胸像や肖像があちこちに飾られ、スターリン崇拝が求められていった。
 スターリンの支配には、粛清と恐怖政治をともなっている。1933年までに100万人以上が収容所に送られていた。1934年12月には政治局員のセルゲイ・キーロフが暗殺される。その直後、政治局員のジノヴィエフとカーメネフが逮捕され、1936年に銃殺される。粛清はつづく。1938年にはブハーリンが見せしめ裁判にかけられ、死刑判決を受けて、銃殺された。
 1938年には、内務人民委員部(NKVD)が150万件の逮捕をおこない、70万人を銃殺した。「反ソ分子」あるいは「テロ活動」をはたらいたというのが銃殺の理由だった。1939年には、300万人以上が辺境の収容所に送られ、飢餓と死に向き合う生活を強いられていた。
 社会主義建設への貢献と、スターリンへの忠誠が求められた。そのさい、てっとり早いのが、反対派を告発することだった。いつ、どんなきっかけで、自分が反対派とみなされ、処罰されるかわからなかった。
 国境地帯の少数民族は集団移住と処刑の対象になった。赤軍も例外ではなかった。3万人以上の将校が粛清され、そのうち2万人が処刑された。
「かつてどこの政府もこれほど多くの自国民に対し、かくも気まぐれに、そして冷酷にテロを加えたことはなかった」と著者は記している。
 いっぽう、イタリアのムッソリーニも全体主義国家の建設をめざしていた。1926年にすべての野党は禁じられた。1929年にはラテラノ条約により、バチカン市国がつくられ、カトリック教会が政治に介入することがなくなる。
 政治警察による監視活動は隅々にまで行き渡っていた。破壊活動分子(とりわけ共産主義者)とみなされた者は長期流刑となり、僻地や沖合の島に送られた。ナチス・ドイツやソ連に比べれば、イタリアでは国内の抑圧はゆるやかだった。とはいえ、人びとは反対意見を控え、体制への服従姿勢を示す必要があった。
 1930年代になると、ムッソリーニのファシスト体制は、権力を完全に掌握していた。国民は体制に順応せざるをえない。1933年には公務員に入党の義務が課せられた。1939年には全国民の半数がファシスト組織のメンバーになっていた。
 ファシスト組織は「新しい人間」の創出をめざしていた。イタリアの女性は家庭に幸福をもたらし、子どもを産み、国家に奉仕しなければならない。青年はからだを鍛え、国家のために勇ましく戦わねばならない。1930年代後半からはファシスト式敬礼が取り入れられ、軍隊ではグースステップが採用された。1938年には反ユダヤ人法制が導入された。
 しかし、何といっても現実の脅威は復活を遂げたドイツ帝国だった。
 ヒトラーはムッソリーニから多くの影響を受けている。ナチス式のあいさつも、もとはといえばムッソリーニのまねだ。ナチスの巨大余暇組織「歓喜力行団」もイタリアの全国余暇事業団をモデルにしている。アウトバーンも、イタリアの高速道路アウトストラーダに触発された。
 にもかかわらず、ドイツのナチズムには、イタリアのファシズムにみられない特徴がある。それは指導者ヒトラーに絶対的に従うということである。
 ヒトラーは新たな戦争によって第1次世界大戦で受けたドイツの恥辱を晴らし、ユダヤ人を除去することで人種の浄化をはかりたいと願っていた。
 1933年には官公庁からユダヤ人を締めだす法律、1935年にはユダヤ人とドイツ人の婚姻を禁じるニュルンベルク法が制定された。1938年10月には全国的なポグラム(集団的迫害行動)が実行された(「帝国水晶の夜」と呼ばれる)。
 1936年には武装SSが創設され、残忍な取り締まり活動をおこなった。こうして国内を締めつけてから、ヒトラーは領土拡張に乗りだす。国民はラインラント進駐を熱烈に支持した。
 ソ連とイタリア、ドイツは同じ独裁政権でも、その性格はまったく異なっていた。全体主義の価値観がもっとも浸透していたのはドイツであり、それがもっとも低かったのがイタリアである。大衆的にもっとも支持されていたのはナチス・ドイツである。いっぽうソ連は恐怖政治を敷いていた。
 西洋民主主義国は、なかでもドイツを圧倒的な脅威とみていた。
 ふたたび大戦の暗雲が近づきつつあった。

カーショー『地獄の淵から』を読む(5) [本]

 大恐慌の影響を免れた国はなかった。ヨーロッパでは、1930年にはいると倒産と失業、デフレが進行し、GNPが落ちこんだ。人びとは失業と貧困に苦しんでいた。
 経済状況の悪化は政治行動の急進化を招いた。そんななか、多くの国で挙国一致の流れが生まれ、一部の国ではファシズム運動への支持が高まった。とりわけドイツでは民主主義が危機に見舞われるなか、人びとはナチ党に救国の希望を託すことになる。
 経済危機のさなか、ドイツは1932年に連合国の戦時債務の抹消を取り付けることに成功した。そのころ、ドイツではヒンデンブルクが大統領として、次第に権威主義的な傾向を強めていた。
 1933年まで左翼は30パーセントの得票率を保っていたが、社会党と共産党のあいだには遺恨があって、統一戦線をつくることができなかった。ナチスと共産党の民兵組織のあいだでは、武力衝突がつづいていた。
 いまや秩序を求めるドイツの中産階級は、国家再生の大義をかかげるナチスの暴力を容認するようになった。乱立する政党にはうんざりしていた。
 1932年8月の選挙で、ナチ党は37.4パーセントの得票率で、第1党に躍り出た。そして翌年1月、ヒンデンブルクの後押しで、ヒトラーは首相に就任した。
 ヒトラーは著書『わが闘争』のなかで、公然と反ユダヤ主義をうたい、ソ連から領土を奪うと宣言していた。それを本気で受け止める者はさほどいなかった。それよりも有権者を引きつけたのは、「国民の連帯」によって新たな社会秩序をつくるという公約である。
 政権の座につくと、ヒトラーは社会主義者と共産主義者を一斉に逮捕し、監獄や収容所に送りこんだ。緊急命令によって、無制限の警察権が合法化される。3月には全権委任法が議会を通過し、ヒトラーはすべての権限を握った。共産党は粉砕され、社会民主党は禁止された。そのほかの政党も禁止、または解党に追いこまれた。このあたり、あっというまの展開である。
 1934年6月、ヒトラーはみずからの対抗馬となりそうなナチス突撃隊(SA)隊長のエルンスト・レームを粛清する。粛清者はほかにも150〜200人にのぼった。8月にヒンデンブルクが死ぬと、ヒトラーは国家元首の地位を引き継ぎ、総統となった。
 ヨーロッパが恐慌から回復するには時間を要した。イギリスが最悪の事態を脱したのは1933年になってからである。ケインズの有効需要理論はまだ登場していない。1931年に発足した挙国一致のマグドナルド内閣は、当初、緊縮予算を組んだが、経済状況は好転しなかった。
 イギリスの経済が反転しはじめたのは、金本位制から離脱してからである。生産と輸出が回復しはじめる。さらに政府は、低利資金を導入し、住宅建設の拡大を促し、内需を掘りおこす政策をとった。
 フランスも当初は政府支出を大幅に削減して、病んだ経済を癒やそうとした。しかし、それは裏目に出る。景気が回復しはじめるのは、やはり1935年に金本位制から離脱し、36年から38年にかけフランを大幅に引き下げてからである。
 恐慌からの脱出に向けた、スウェーデン、ノルウェー、デンマークの取り組みは独特だった。通貨を切り下げるとともに、公共事業への国家支出によって、失業に対処する方策をとったのである。
 大恐慌がはじまると、イタリアのムッソリーニは経済への国家介入を強めた。国家支出の増大は、失業の低下をもたらした。
 ムッソリーニのかかげる協調組合国家の理念は飾りにすぎず、経済の実権は大企業に握られていた。1933年には国営の産業復興公社がつくられ、36年には銀行が国有化された。経済の官僚支配がはじまっていた。とはいえ、軍備生産の面でも、大企業は国から巨額の利益を得た。
 ドイツの場合は、大恐慌がもっとも深刻なときに、経済が急速に回復した。そのことが、ヒトラーの独裁体制に拍車をかけることになった。
 ヒトラーはまず左翼政党と労働組合をつぶすところから着手した。それによって、企業は賃金を引き下げ、利益を最大化することが可能になった。
 そのいっぽうで雇用創出計画もつくられた。それ自体に要した予算はさほど多くはなかったが、宣伝上の効果が大きかった。道路建設や土地開発のために、国家勤労奉仕団が動員された。公共事業への予算投入、自動車産業への減税、農業保護、さらには軍備への支出が、経済を新たな地平へと引き上げていった。
 しかし、ドイツの経済回復はそれ自体が目的ではなかった。ナチスはむしろ軍事力の拡大による領土の拡大をめざしており、経済はその手段にすぎなかった。
 1938年になると、政府支出の半分はすでに軍事費にあてられるようになっていた。そのころドイツでは、外貨準備高が不足し、深刻な食糧不足が生じるようになっていた。軍事費を抑えて経済を優先するか、それともあくまでも軍事費を増やして戦争を選ぶか、ヒトラーは決断をせまられる。答えは最初から明らかだった。
 もういちど、1930年代前半の政治状況にふれておこう。
 この時代の特徴は急激な右傾化である。左翼は支持を失っている。
 1931年、スペインでは第2共和国が発足し、社会主義政党が政権の担い手となるが、それも1933年で終わりとなる。
 1936年に発足したフランスの人民戦線政府も短命に終わった。スカンジナビア諸国だけは例外である。
 なぜ政治は左にではなく右にぶれたのだろう。
 極右の形態はさまざまだが、共通の特徴がある、と著者はいう。
 外国人や少数民族など、よそ者とみなす者を排除すること。次に、自由主義者、民主主義者などの政敵を殲滅しようとすること。武闘主義や権威主義を信奉すること。さらにナショナリズムを領土拡張にふり向けること。反資本主義、反労働組合を唱え、国家指導を協調する運動もあった。
 ファシストは権威主義的なナショナリスト政府の樹立をめざした。さらに、国民が国家に献身することを求めた。
 現状に不満をいだく中産階級は、ファシストに引きつけられた。また30年代になると、多くの労働者が社会主義よりファシズムを選ぶようになる。
 ファシズムをもたらしたのは経済的要因だけではない。領土復活(拡張)への思い、よそ者への嫌悪、さらに政党政治への不信などが、ファシズムを生む原動力となった。
 それでも、保守エリート層の支援を受けて、ファシズムが勝利を収めた国は、イタリアとドイツにかぎられる、と著者は指摘する(日本もあてはまるといってよいだろう)。
 イギリスは急進右翼の躍進にすきを与えなかった。議会制民主主義にもとづく立憲君主制がしっかりと確立されていたのだ。政治的な過激派はわきに追いやられ、30年代は基本的に保守党が政権を維持した。労働党は野党になっていたが、革命ではなく改良主義路線をとっていた。ファシストの政治スタイルとイメージはイギリスにはなじまなかった。
 1936年に失業率が35パーセントに達したオランダでも、ファシズムはむしろ警戒され、ほとんど政治の世界に食いこめなかった。ベルギーでもファシスト運動は見向きもされなかった。
 フランスでも政府は次々と交替したが、共和制自体が存続の危機にさらされることはなかった。むしろファシズムにたいする警戒感が、つねに分裂しがちな左翼を団結させていた。その結果、1936年には人民戦線政府が確立される。
 とはいえ、右翼勢力も強固な政治基盤をもっていた。それがのちのヴィシー政権の中核となっていく。
 スペインの場合は事情がことなる。経済不況に対応できず、独裁者のプリモ・デ・リベラは辞任し、パリに亡命する。つづいて国王も亡命し、1931年にスペインは共和国となった。
 その年、左翼勢力は圧勝するが、じつは内部に鋭い分裂をかかえていた。農業改革と労働者保護を中心とするその経済政策が失敗すると、1933年の選挙では右翼の諸派が勝利する。
 右翼の諸派は軍部に支持され、協調組合国家と王制復古をめざした。それはファシズム的色彩を帯びた保守政権だったが、急進的ファシズムは好まなかった。そのとき、モロッコで、フランシスコ・フランコ将軍が反乱をおこす。そして、3年間の内戦をへて、スペインではフランコ独裁政権が誕生するのである。
 中欧と東欧でも、政治は右傾化していた。
 オーストリアでは、自前の護国団とナチ党がファシスト運動を展開していた。護国団などに支持されたエンゲルベルト・ドルフスは1932年に首相の座につき、社会主義を非合法化し、翼賛組織「祖国戦線」のもとで、独裁政権を樹立したる。しかし、1934年にナチスによって暗殺される。
 その後、オーストリアはドイツに反発しながら、独自の権威主義的体制を維持するが、もちこたえられない。けっきょく1938年には、ドイツによる併合の憂き目をみることになる。
 連合国側についたルーマニアは、第1次世界大戦の結果、領土を2倍に拡大していた。そのため、ほんらいならファシズムにひかれる要素はなかったのに、経済不況と少数民族、とりわけユダヤ人への偏見が、「大天使ミカエル団」(別名「鉄衛団」)の運動に火をつけた。だが、国王カロル2世は「大天使ミカエル団」を禁止し、議会を解散して、独裁王政を敷いた。
 広大な領土を失ったハンガリーも、深刻な経済不況によって社会的緊張が高まっていた。しかし、ホルティ・ミクローシュの権威主義的体制のもとで、ファシスト組織「矢十字党」はほとんど勢力を伸ばすことができなかった。
 著者によれば、東欧や中欧では「大衆動員を自らの権力に対する脅威とみなす、軍部を筆頭とする反動保守派の権威主義的エリート層が国家を支配したことが、ファシスト運動が突破口を開くうえで最大の障害だった」という。
 だが、このころすでにドイツは領土拡張をめざして、ヨーロッパ心臓部をにらんでいた。平和はいつ終わってもおかしくなかった。

カーショー『地獄の淵から』を読む(4) [本]

 1924年になると、ヨーロッパには明るい兆しがみえてくる。戦争の恐怖は記憶のなかに後退し、経済は回復しつつあった。その5年後にアメリカで大恐慌が発生し、ヨーロッパも大混乱に巻きこまれるとは、だれも思っていなかった。
 ハイパーインフレに襲われたドイツは、1923年に新通貨レンテンマルクを導入、翌年それをライヒスマルクと改称し、通貨の安定に成功した。またドーズ案によって、賠償方式の緩和がはかられた。
 ヨーロッパ主要国は、このころ戦前の金本位制に復帰する。経済の安定が戻ってくるように思えた。実際、「黄金の20年代」には経済の急回復がみられた。モータリゼーションや電気照明が都市の景観を変えようとしていた。ヨーロッパの家庭にも、アメリカ流の家電製品がはいってくるようになる。ラジオが急速に普及した。
 住宅事情はまだまだだ。ドイツでは政府が住宅建設に多額の資金を投入し、ベルリンやフランクフルトでは労働者向けの大規模団地がつくられた。しかし、これは例外で、概して人びとは劣悪な住宅環境下でくらしていた。
 フランス、ドイツ、イタリアで、労働組合は1日8時間労働の要求を勝ちとった。しかし、賃金には大きなばらつきがあった。イギリスでは1926年にゼネストが発生するが、勝利を収めたのは経営者側である。
 世界市場での競争が激しくなり、重工業や繊維など旧来の産業部門でも失業率が高くなった。だが、イギリスでは1911年に導入された失業保険により、最悪の事態は避けられた。
 競争によって、農産物の価格が下落したため、農民は苦しい生活を強いられた。農村を離れて、都市の工場ではたらこうとする農民も増えてくる。
 それでも経済には多少なりとも明るい兆しがみえていた。1929年の大恐慌は、その兆しを一瞬にして吹き飛ばすのだ。
 ソ連では1921年からの新経済政策が一定の成果を挙げていた。革命の輸出と迅速な工業化を求めるトロツキーの影響力は衰えつつあった。スターリンはまずジノヴィエフ、カーメネフ、ブハーリンを味方にして、トロツキーを追い出し、それからジノヴィエフとカーメネフを党から除名し、最後にブハーリンを分派主義者として失脚に追いこんだ。こうして1929年、スターリンは名実ともに党の最高指導者となる。
 1928年にスターリンは第1次5カ年計画を提唱した。翌年から実施された計画は、表向き鉱工業生産を急増させたものの、苛酷な労働をもたらした。加えて食料を確保するための農業集団化計画が、「富農」の一掃と、農民の弾圧、すさまじい凶作をもたらした。ほんらい肥沃なウクライナも飢饉におちいる。そのときの死者数は330万人と推定されている。
 いっぽう、ヨーロッパでは、1920年代は大衆文化が花開いた時代だった。娯楽映画館やダンスホール、それにパブやバーがにぎわった。サッカーも人気の的となり、ドイツ、イタリア、スペインではプロのリーグが創設された。
 芸術では「モダニズム」が流行する。「従来の美と調和、理性という理念」に代わって、「断片化と不統一、そして混沌が新たな主題になった」という。画家ではピカソ、文学ではジョイスやヘミングウェーなどがもてはやされた。フロイトとユングの精神分析、無意識の省察が注目されるのもこのころである。
 ドイツではいわゆるワイマール文化が一世を風靡した。表現主義やダダイズムが提唱される。グロピウスはワイマールで「バウハウス」を創設した。シュトゥットガルトでは、モダニズム様式の住宅団地が建設された。トマス・マンの小説『魔の山』は、1924年に出版されると大絶賛をあびた。フランツ・カフカは1924年に亡くなるが、その作品は死後大いに注目された。ブレヒトは実験的な演劇作品にとりくんだ。
 しかし、1930年代にはいると、ナチスは「モダン」なもの、「退廃した」文化に攻撃をしかけることになる。ドイツ文化をあやうくしているのはユダヤ人だと言いふらしていた。
 ドイツではさまざまな前衛芸術とはうらはらに、ヨーロッパのどこよりも文化的悲観主義が広がっていた。それを代表する著書がシュペングラーの『西洋の没落』である。このころ、ドイツほど、国家衰退への懸念に引き裂かれた国はなかったという。
 ここでまた政治状況に戻ろう。
 1924年のドーズ案はヨーロッパの緊張を緩和する第一歩となった。
 さらに1925年10月にはロカルノ条約が結ばれ、ドイツとフランスならびにベルギーは、双方とも戦争をしかけないことを約束した。ドイツ西部国境とラインラントを非武装地帯とすることも決まった。ただし、ポーランド、チェコとの国境問題は未解決のままだった。ロカルノ条約が結ばれた結果、1926年9月にドイツは国際連盟に加盟する。
 賠償金の軽減を決めたドーズ案では、1928年から29年にかけて賠償金がふたたび上昇することになっていた。そこで、1929年1月にヤング案がまとまる。毎年のドイツの賠償金支払いを少額とし、その代わりに返済期間を1988年まで延長するというものだ。ヤング案を受け入れれば、連合国軍はラインラントから撤退するという付帯条件がついていた。
 1930年3月、ドイツ国会はヤング案を批准した。しかし、ナショナリスト右翼は、その受け入れに反発した。
 1920年代半ば以降も、北欧と西欧はほぼ民主主義を維持している。しかし、ヨーロッパ全体に民主主義が行き渡っていたわけではない。
 ハンガリーの民主主義は見かけだけだ。チェコスロヴァキアでは民主主義が保たれていた。オーストリアではイデオロギー対立が激しく、ドイツ民族主義者が支持を拡大していた。ポーランドでは1926年にピウスーツキ元帥がクーデターを決行し、権威主義的な体制を確立した。しかし、バルト3国やフィンランドは民主主義を何とか維持している。
 バルカン半島諸国では代議政治は見せかけで、縁故政治と汚職が蔓延していた。ギリシア、アルバニア、ブルガリア、ユーゴスラヴィアは王政ないし権威主義的体制のもとにある。
 スペインではプリモ・デ・リベラが独裁体制を築き、ポルトガルではアントニオ・サラザールが1928年に蔵相に任命され、4年後に首相となるところだ。
 イギリスでは政権交替をともなっても、民主政治はさすがに安定していた。1924年にはラムゼイ・マグドナルドの労働党が短期間、政権をにない、その後、5年間スタンリー・ボールドウィンの保守党がむずかしい政局を運営する。さらに1929年からはふたたびマグドナルドが首相の座につく。このかん、共産主義者やファシストの団体は、まったくイギリスの政治に影響を与えていない。
 フランスでは内閣がめまぐるしく替わった。しかし、レイモン・ポアンカレの手腕のもと第3共和制は支持されていた。
 イギリスやフランスとちがい、ドイツの民主主義は揺れはじめていた。それでも1920年代後半、共産党の支持率は低迷し、ヒトラーの蜂起失敗のあと、ナチ党は政治の外縁にとどまっていた。
 1928年の総選挙では、社会民主党が勝利を収め、ヘルマン・ミュラー党首のもと国民党などとの連立政権を発足させた。だが、政権のあいだで次第に亀裂が深まり、1930年3月、ミュラー内閣は崩壊する。
 大恐慌による経済危機がドイツを襲っていた。そうしたなか、共産党とナチ党が支持を伸ばす。1930年9月の総選挙ではナチスが18.3パーセントの得票率で107議席を獲得し、第2党に躍り出る。それでもヒトラーが首相になる可能性は低いと思われた。それが変わっていくのだ。

カーショー『地獄の淵から』を読む(3) [本]

 第1次世界大戦は「戦争を終わらせるための戦争」と呼ばれていた。だが、じっさいには、より破壊的な戦争に道を開くことになる。
 戦争に勝利したロイドジョージ首相のもと、イギリスでは兵士の動員解除が順調に進んだ。だが、景気はよくない。失業者が増え、ストライキが頻発する。政府債務は膨大で、そのほとんどがアメリカの信用に依存していた。
 敗北したドイツやオーストリアでは、通貨価値が下落し、インフレが昂進していた。政府がインフレを容認したのは、巨額の国内債務を解消するのに好都合だったからである。通貨下落とインフレのもと、ドイツ産業は復興を遂げる。しかし、さらにハイパーインフレが昂進すると、手の施しようがなくなる。それまでの貯蓄はほとんど無価値になった。
 東欧の状況は悲惨だった。戦争によって国土は荒廃し、物不足と飢餓に襲われた。革命がおこらなかったのが不思議なくらいだ、と著者は書いている。人びとは革命をおこす元気もなかったのだろう。
 西欧では、二度と戦争をすまいとする平和主義が広がっていた。だが、戦争を美化し、暴力と憎悪を歓迎する風潮が消えたわけではない。
 1919年から23年にかけ、アイルランドではイギリスにたいする激しい独立運動が発生する。イギリス当局は特殊部隊をつかって、これを弾圧する。1922年末にはアイルランド自由国が発足した。
 1922年、イタリアではファシスト政権が発足する。翌年、スペインでは軍事独裁政権が成立する。
 1923年のローザンヌ条約により、トルコ共和国が正式に認められ、それまで紛争の多かったギリシアとのあいだで、住民の交換がおこなわれた。トルコのギリシア人100万人と、ギリシアのトルコ人36万人が入れ替えられた。
 東欧では激しい国境紛争がつづいている。ロシアでは恐怖の内戦がはじまった。ユダヤ人にたいする暴力事件が相次ぐ。
 ハンガリーではクン・ベーラの短期ソヴィエト政権が崩壊したあと、「白色テロ」が横行した。「赤色テロ」に対抗して「白色テロ」を実行したのは、民兵組織である。
 ロシアでは1917年から3年間、内戦がつづき、700万人以上が死亡した。赤軍はシベリアから西進する白軍を迎え撃ち、勝利を収めた。
 だが、ボリシェヴィキ政権にたいする農民の反発も高まっていた。農産物の強制徴発と、拙速な集団農場化が農民反乱を巻き起こしたのだ。当初、これを弾圧した政府は1921年に「新経済政策」を導入する。これによって経済は回復しはじめる。
 1924年、レーニンが死に、スターリンが権力を掌握した。スターリンのもと、ソヴィエト政権は以前にも増して、恐怖政治の度合いを高めていく。
 以上が、第1次世界大戦後のヨーロッパの概況である。
 もうすこし詳しくみていこう。
 1919年のヴェルサイユ会議で、ヨーロッパには新しい地図が生まれていた。ロシア、オスマン、オーストリア・ハンガリー、ドイツの帝国が姿を消して、新たに10の国民国家が出現した。
 アメリカのウィルソン大統領の提案により、1920年、ジュネーヴに国際連盟が創設される。だが、国際連盟による国際秩序の維持は、当初から困難をきわめた。国内事情により、当のアメリカすら、国際連盟への加入を見送っていた。
 ウィルソンの提案した民族自決は、多くの植民地をかかえるイギリスやフランスにとっては、受け入れるのがむずかしい理念だった。中欧や東欧の複雑な民族混合状況も、民族自決の達成を不可能にしていた。せいぜい期待できるのは、多民族国家のなかで、民族のちがいが国民統合によって乗り越えられることくらいだった。「オーストリアを除けば、民族的に均一は新生国家は一つもなかった」と著者は書いている。紛争の種は残った。
 ヴェルサイユにおける領土処理は、敗者の側に落胆と怒り、恨みを残した。とりわけ勝者の「4大国」(アメリカ、イギリス、フランス、イタリア)は、ドイツが二度と戦争を起こさないようにするため、懲罰と賠償でドイツを縛ろうとした。
 講和条約によって、ドイツは東部を中心に領土の13パーセントを削減された。徴兵制は禁止され、兵力も450万から10万に削減された。ダンツィヒ(現グダニスク)や、ザールラント、ラインラントも国際的な管理下におかれた。ベルギーやデンマークに分割された地域もある。とりわけ痛手だったのは「ポーランド回廊」、すなわち西プロイセンとポーゼン(現ポズナニ)を新生ポーランドに割譲しなければならなかったことである。
 ドイツにとってさらに苛酷だったのは、巨額の賠償支払いが課せられたことである。それはドイツの政治に重くのしかかり、激しいナショナリズムを生む要因になっていく。
 大戦後のヨーロッパの政治的基調は議会制民主主義だった。投票権が拡大され、大衆政治が定着する。それとともに新聞の影響力も強まっていく。
 小選挙区制をとるイギリスでは、自由党と保守党の2大政党が政権の座を競ったが、比例代表制をとる大陸では政党が乱立し、政府が不安定になる傾向がみられた。
 しかし、どの国でも民主主義が尊重されていたわけではない。民主主義は見せかけだけで、内情は暴力的な独裁制ないし寡頭制が支配していた国もある。ソ連はいうまでもないが、ギリシアやアルバニア、ブルガリア、ルーマニアなどもそうした国々だった。
 スペインでは1923年以来、ミゲル・プリモ・デ・リベラ将軍による独裁がつづく。しかし、この独裁は比較的温和であった。公共事業によって、スペインには一時繁栄感すらただよった。
 新たに誕生したフィンランドとチェコスロヴァキアでは議会制民主主義が維持された。バルト3国のエストニア、ラトヴィア、リトアニアも同様である。
 ユーゴスラヴィアはセルビア人の王室のもとで創設された新国家(セルビア人・クロアチア人・スロヴェニア人王国が改称)である。議会制度をもっていたが、民族間の対立は深刻で、8年間で24の政府が入れ替わるありさまだった。
 いっぽうポーランドでは、民族的結束感が生まれていた。とはいえ、少数民族(ウクライナ人、ユダヤ人、ベラルーシ人、ドイツ人)がいなかったわけではない。1921年の民主憲法により、議会がつくられたものの、それはまとまりがなく、いかにも無能にみえた。ハイパーインフレ後の緊縮策が、経済的不安を招いていた。1926年にはピウスーツキ元帥がクーデターに踏み切る。
 小国となったオーストリアでは、社会民主党と反社会主義のキリスト教社会党とのあいだで対立がつづいていた。「赤いウィーン」では、社会民主党が勢力を保っていた。だが、農村部は圧倒的に保守的であり、社会民主党と結びついた民主主義は次第に劣勢に追いこまれていく。
 ハンガリーでは1919年に共産党政権が発足する。だが、クン・ベーラによるプロレタリア独裁政権は、ルーマニア軍の侵攻によってたちまち倒れ、右翼民族主義の保守勢力がハンガリーの支配権を奪還する。その結果、戦争の英雄ホルティ・ミクローシュが24年にわたり国家元首として君臨することとなった。
 戦後の混乱期、イタリアではコミンテルンを支持する社会党が議席を伸ばすなか、都市でも農村でも暴動が起き、革命は間近と思われていた。
 そんなときイタリアの北部と中部の都市で、「ファッシ」を自称する民兵組織が芽をだしはじめる。ベニート・ムッソリーニは、もともと社会党機関誌の編集長をしていたが、左翼社会党とたもとを分かち、次第に反革命に転じるようになった。
 1921年になって、自由党の政府は、社会党と人民党をたたくため、ファシストのムッソリーニを資金と武器で支援するようになる。ファシスト勢力が力を伸ばしたのは、意外なことにイタリア北部ではなく中部だった。ファシストは民兵部隊の容赦ないテロによって、社会主義者を攻撃し、以前の赤い県をたちまち自分たちの牙城に変えていった。
 こうして1921年10月に国家ファシスト党が誕生する。1922年5月に党員数は30万人を超えた。その10月には、黒シャツ隊によるいわゆる「ローマ進軍」が実施される。暴力的示威行動である。国王はファシスト党を支持し、ムッソリーニに首相就任を要請した。
 1923年11月、ムッソリーニは自党が有利になるように選挙法を改正し、1924年4月の選挙で、ファシスト党が大半を占める「国民ブロック」が議席の3分の2を獲得した。6月には社会党書記長ジャコモ・マッテオッティが暗殺される。その後、野党は弾圧され、報道の自由は撤廃され、政府はほぼファシストの手に握られることになる。
 いっぽうドイツでは、アドルフ・ヒトラーが1921年に国家社会主義ドイツ労働者党(通称ナチ)の指導者となり、バイエルン州を中心に勢力を広げていた。1922年秋には、ミュンヘンのビヤホールでヒトラーを「ドイツのムッソリーニ」と称える集会が開かれ、反政府的なナショナリスト過激派に火がつく。社会民主党を中心とするベルリンの政府は、各地で左右の激突が発生するなかで、次第に弱体化していった。
 1923年、ハイパーインフレが高じると、政治が両極化する。軍は共産主義者の蜂起を鎮圧するのに躍起になった。軍は右翼国粋主義の立場をも支持しなかった。それでも、ヒトラーはミュンヘンで劇場型の一揆を起こし、逮捕され、軽い禁固刑を言い渡された。
 民主主義はかろうじて生き残っていた。ドイツでは軍はまだ政府を支持していた。「だが、脅威は沈静化しただけで、消滅したわけではなかった」と、著者は書いている。ヴェルサイユ体制のくびきが、ドイツをしめつけていたからである。