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『隣国への足跡』を読む(2) [本]

 黒田勝弘氏の日韓歴史事件簿をひもといている。
 時代は日清戦争(1894-95)の直後にさかのぼる。
 この戦争で日本は清国を打ち破り、韓国にたいする支配権を握った。
 ところが、独仏露の三国干渉により、日本は影響力の拡大をはばまれる。
 とりわけ、韓国では、親日勢力にたいし親露勢力が巻き返しをはかった。その中心人物と目されたのが、閔妃(ミンピ)、国王・高宗の皇后である。
 こうして1895年の閔妃暗殺事件が発生する。
 日本の駐韓公使、三浦梧楼をトップとする日本人集団(軍人、警察官、壮士を含む)が、王宮を襲撃し、乱暴にも王妃を殺害したのだ。
 福沢諭吉は「実に言語道断の挙動にしてその罪は決してゆるすべからず」と非難した。
 事件後、三浦梧楼をはじめ事件にかかわった者は、ただちに日本に呼び戻されたが、罪を問われることはなく、全員無罪放免となった。
 この事件は「百年を超え、今にいたるまで日本の歴史的痛恨になっている」、「あの事件には『武士道』のかけらも感じられない」と、著者もいう。
 まったくひどいことをしたものだ。
 ちなみに、日露戦争後、いわゆる「武断統治」によって韓国支配を強化したのは、長州閥、とりわけ長州閥の陸軍首脳だという。
「明治日本が朝鮮半島の“管理”を薩摩系にやらせておけば歴史は変わっていたかもしれない」とまで、著者は論じている。武断派ではありえない伊藤博文にしても、事件に責任がなかったわけではない。
 著者は「閔妃暗殺と伊藤博文暗殺は行って来い」の関係なのだから、「もうあの件は恨みっこなしにしようじゃないですか」と韓国側に言っているそうだが、韓国人は納得してくれない、という。あたりまえかもしれない。
 ところで、閔妃暗殺事件には、韓国人部隊も加わっていた。その中心人物、禹範善(ウ・ポムソン)は、事件後、日本に亡命したが、広島の呉で暗殺された。
 そして、著者は広島で亡くなった韓国人のひとりとして、朝鮮王族のイ・ウ(注・ワープロでウの漢字が出てこない)殿下(陸軍中佐)のことを紹介している。殿下は広島への原爆投下で亡くなったのだ。悲運である。
 日本側は韓国の王族の死にたいして礼を尽くした。殿下が亡くなったとき、お付き武官の吉成弘中佐は責任感から自決している。
 広島で被爆により死亡した人の数は20万人にのぼる。だが、その1割の2万人が韓国人被爆者だということは、案外知られていない。
 以前は平和公園の西側にある本川のほとりに「韓国人原爆犠牲者慰霊碑」が立っていた。1970年に民団広島県本部が立てたものだ。
 しかし、現在、この慰霊碑は平和公園内に移された。韓国メディアが「死んだ後も韓国人は差別されている」と非難したためだ。
 おかしな話だ、と著者はいう。
「在韓被爆者問題に関しては曲折を経ながら広島も日本も官民双方でそれなりによく努力してきたと思う」のに、それを評価する声が韓国ではいまなお聞かれないのは、「実に切ない」と、著者は述べている。
 いっぽうで韓国の土になった日本の皇女もいる。李方子(1901-89)妃である。
 梨本宮方子妃は、李王朝の最後の皇太子、李垠(イ・ウン)殿下と結婚した。夫妻は戦前から戦後にかけ日本に住んでいたが、1963年に韓国籍を与えられ、韓国に“帰国”することができた。李垠殿下は1970年に亡くなる。
 韓国では昌徳宮(チャンドックン)の楽善斎(ナクソンジェ)に住んでおられ、李雅子妃は昭和天皇が亡くなられた同じ年に亡くなった。
 正式には最後の皇太子妃だが、韓国では王妃扱いされていたという。その葬儀は最後の王朝葬礼となった。
 方子妃は障害者福祉事業を通じて、韓国国民から尊敬されていた。
 日韓の苛酷な歴史を背負った李方子妃のことを日本人は忘れてはならない、と著者は書いている。
 なぜか、わが家には方子妃がつくられたという皿が飾ってある。
 これがどういう経緯で、うちにやってきたのかはよくわからない。
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『隣国への足跡』を読む(1) [本]

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 著者、黒田勝弘氏のソウル在住はすでに35年になるという。
 この間、記者として、ずっと韓国の動きを追ってきた。
 韓国が嫌いならば、35年もソウルに住みつづけるわけがない。韓国はどこか人をひきつけるものがあるのだろう。
 とはいえ、著者はあくまでも日本人としての立場を忘れない。日本人としての素直な目で韓国と韓国人を見つめ、いうべきことはいっている。
 いまもっとも信頼できる韓国ウォッチャーのひとりだ。
 日本と韓国は永遠の隣国である。近いがゆえに、ときに近親憎悪のようなものもわく。だが、著者は憎悪からではなく、あくまでも冷静かつ親密に、韓国の人びととつきあおうとしている。そこで保たれているのは、たがいに軽口や悪口をたたきながらも、暴力沙汰を避け、相手のことをずっと忘れないといった関係だ。
 そうはいっても、近代における日韓関係の歴史は、あまりにも複雑で、時に苛酷な経緯をたどってきた。本書はそのポイントとなる、さまざまな事件をたどりながら、永遠の隣国である日本と韓国の歴史を解き明かそうとする意欲作だといってよい。
 全体は15章で成り立っている。
 そのテーマは、
 ハーグ密使事件、日露戦争のはじまり、竹島問題、閔妃暗殺事件、広島と韓国人、李方子妃、総督府庁舎の解体、韓雲史と梶山季之、苦難の引き揚げ、総督府と国立博物館、朝鮮戦争と松本清張、祖国帰還運動の悲劇、金嬉老事件、KAL事件と金賢姫、金日成と朴正煕……
 などといったところ。
 いずれもおなじみのテーマだが、かしこまらず、気楽に読むことができる。そして、読後は、日本と韓国はいろいろあったし、いまもいろいろあるけれど、過去のことを忘れず、かといって、たがいにエキセントリックにならず、これからもつきあっていこうといった気分にさそわれる。
 ぼく自身もいろんなことを思いだしながら、この本を読んだ。
 以下は、例によって、くどくどしい読書メモである。

 最初に取りあげられるのは、いわゆるハーグ密使事件である。
 著者が偶然にも時の皇帝、高宗(コジョン)が密使にさずけた委任状なるものを手に入れたところから話がはじまる。
 1907年のハーグ密使事件とは、そもそもどういう事件だったのか。
 日露戦争(1904〜05年)でロシアに勝った日本は、朝鮮半島にたいする支配権を強めた。
 1905年にはいわゆる日韓保護条約が結ばれ、日本は韓国を日本の保護国とした。
 韓国側はこれに内心反発し、1907年にハーグで開かれた万国平和会議に3人の密使を送り、日韓保護条約の無効、不法を訴えた。
 これがハーグ密使事件である。
 これにたいし、日本側は密使がニセ者だと訴え、皇帝の委任状もインチキだとして決着をはかった。
 著者はたまたま行商から皇帝の本物の委任状なるものを手に入れた。しかし、調べた結果、それはどうも偽造で、どうやらうまくだまされたらしいとの結論を出さざるをえなかった。
 それはともかく、ハーグ密書事件の顛末はどうだったのだろう。怒った日本側は高宗を退位に追いこみ、息子の純宗(すんじゅん)を皇位につけるが、3年後には韓国を併合してしまったのだ。
 その前、1909年に安重根によって、伊藤博文が暗殺されていた。
「とすると『ハーグ密使事件』というのは高宗など韓国側の思惑とは逆に、結果的には韓国の日本への併合を促したということもできる」と、著者は書いている。
 歴史の皮肉のひとつである。
 次に場面はすこし前に戻って、日露開戦のシーンへと移る。
 日露戦争の本質は、朝鮮半島の支配権をめぐる日露間の争いだった。
 日露が戦端を開いたのは、韓国の仁川(インチョン)沖である。
 日本艦隊は仁川沖に停泊するロシア艦隊を砲撃、これによりワリヤークなど2隻の戦艦を撃沈した。1904年2月のことである。
 そして、日本はかろうじてロシアを打ち破ることによって、韓国(朝鮮)を支配することになる。
 韓国人の反日感情は根強い。
 著者はいう。

〈以下のことは日本人がいうと韓国人たちは「過去を正当化するもの」といって反発するが、もしその後の日露戦争でロシアが勝っていれば、韓国がロシアの支配下に入っていたことはかなりの確率で確かだろう。日露戦争は韓国にとっては迷惑な戦争だったが、韓国支配強化につながった勝者の日本が後に“悪者”になったからといって、敗者のロシアが免罪されるわけはないだろう。〉

 歴史にイフはないのだが、この問題は微妙である。
 西郷隆盛もそうだが、伊藤博文も韓国を征服しようなどとは考えておらず、あくまでも韓国の自立を念頭においていた。最初から、韓国を植民地化しようと思っていたのは日本の軍部である。
 日本側は最後までロシアとの戦争を避けるよう努力したが、けっきょく戦争は避けられなかった。
 そして、もしロシアが勝利していれば、朝鮮半島はロシアの支配下にはいったばかりか、日本海もロシア艦隊の制圧するところとなっただろう。すると、日本自体の安全もおびやかされることになったにちがいない。
 もし朝鮮半島がロシアによって支配されていたら、その後の韓国の歴史は悲惨なものとなったはずだ。だが、その後、日本は韓国統治をうまくやりとげたとも思えないのである。
 ぼく自身の感想がですぎた。
 本の中身に戻ろう。
 著者は、釜山のすぐ西にある巨済島(コジェド)に日露戦争後に東郷平八郎の揮毫をもとにした石碑が、倉庫に残っていることを紹介している。「本日天気晴朗なれども波高し」の歴史的一文を刻んだ石碑である。この電文が発せられたのは、ここ巨済島からだったという。
 ところで、島といえば竹島問題である。
 竹島(韓国側のいう独島)も日露戦争と関係が深い。
 竹島が日本領(島根県)に編入されたのは、1905年2月。まさに日露戦争のさなかだった。日本海海戦は5月下旬のことである。
 竹島の日本領への編入は1910年の韓国併合に先立つから、竹島の領有権は日本にある、と日本側は主張してきた。これにたいし、竹島は古来、韓国の領土であり、韓国がすでに保護国となっていた時代に日本によって奪われたものだ、と韓国側は主張する。
 現在、韓国が「武装占拠」している竹島は、著者が遠望したかぎり「巨大な赤茶けた岩礁」であり、自然破壊がはなはだしい。昔いたアシカもいなくなってしまった。
 著者はいう。

〈不思議なことに韓国は、竹島に多くの人工施設を作り、年間20万人以上の人間を送り込み、島を“満身創痍”にしておきながら島を「天然保護区域」に指定し、天然記念物扱いしている。……これではアシカも島には寄り付かない。今からでも遅くない。日韓共同で島を「ユネスコ世界自然遺産」に登録申請しようではないか。〉

 もちろん皮肉であり、冗談だ、と著者はいう。
 でも、案外、ほんねだったりして……。
 竹島問題の解決には、もっと両国の知恵が必要だ。
 そのさい、指針になるのはナショナリズムではなく、トランス・ナショナルな精神だろう。

『不道徳な見えざる手』(短評) [本]

 村上春樹に「パン屋再襲撃」という短編がある。猛烈に腹の減った「ぼく」は、妻といっしょに、10年前と同じように、ふたたびパン屋を襲撃しようとする。しかし、トヨタ・カローラで東京の街を回っても、昔、襲撃したようなパン屋はみつからない。仕方なくマクドナルドを襲うことにする。散弾銃を見た店長は売上金を差しだそうとするが、「ぼく」はそんなものに見向きもしない。テイクアウトでビッグマックを30個強奪する。
 この物語には、左翼過激派にたいする皮肉を含め、さまざまな寓意が隠されている。いくら猛烈に腹が減っていても、わざわざ武装して、パン屋を襲うこともあるまい。おかねを払って、パンを買えばすむことだ。しかし、「ぼく」はそうしない。暴力によって、直接、自分の欲望を満たす道を選ぶのだ。そう書くと、なんだか深刻な話めいてみえるが、じっさいは軽妙な展開に大笑いしてしまう傑作掌編である。
 イギリスの経済学者、アルフレッド・マーシャルは『経済学原理』を「欲望とその充足」という項目からはじめ、最初に分業論をもちだすアダム・スミスとはことなる新古典派経済学を切り開いた。ありていにいえば、資本は需要があってこそ資本なのだということを示したのだ。
「パン屋再襲撃」がおもしろいのは、現代経済学の常識を、いわば人類学的にひっくり返そうとしたところにある。商品世界では、人はおかねで商品(財とサービス)を買って、みずからの欲望を満たす。つまり、欲望は直接満たされるのではなく、おかねと商品を媒介にして満たされるのだ。でも、それはどこか引っくり返った世界で、自然な欲望は直接、身体と行動によって満たすのがあたりまえだと思うところから、村上春樹は小説の想像力をふくらませている。
 本書『不道徳な見えざる手』も、商品世界における欲望をめぐる考察である。日本語版タイトルから推察すれば、いかにもアダム・スミスの『道徳感情論』や『国富論』を意識して、自由市場礼賛を否定する一大理論を打ち立てているかのようにみえる。しかし、それほど重い論考ではない。なにかと商品を買いこむ、みずからの経済行動をふり返り、現代の経済社会のあり方を考えなおしてみようという程度の軽い経済エッセイだ。その考え方は、公共的役割を重視する新ケインズ派の立場にもとづいている。
 著者はジョージ・アカロフとロバート・シラー。ふたりともノーベル経済学賞の受賞者だ。前に同じく共著で『アニマルスピリット』を出版している。アカロフは現在の米連邦準備制度理事会(FRB)議長ジャネット・イエレンの配偶者でもある。シラーは金融経済学が専門で、サブプライム危機に警鐘を鳴らしたことで知られる。
 原題はPhishing for Phools だ。Fishing for Fools と言いなおしてみればわかりやすい。「カモを釣る」というわけだ。Phool は造語だが、Phishing はすでに英語でも日本語でも定着している。すなわちフィッシング。ネット詐欺でおなじみの手法だ。本書ではこのフィッシングがもうすこし幅広い意味で使われている。またフールの造語であるPhool が、少数の際立つ「バカ」をさすのではなく、ほとんどの人にあてはまる「おバカ」をさしていることにも注目すべきだ。
 ここで論じられているのは、人びとの需要を満たすために、企業(資本)がいかに適切な供給をおこなうかというおめでたい話ではない。資本がいかに欲望と需要をつくりだし、おバカな消費者をカモとして釣りあげているかという告発である。つまり、われわれはだれもがアホなものを買って、いや買わされて、充実した人生を送っていると思いこまされているというわけだ。
 商品世界においては、人は会社員としての顔と消費者としての顔をもっている。消費者としてのわれわれは、いつのまにか消費習慣をすりこまれているし、宣伝や情報にだまされやすくなっている。いっぽう会社員としてのわれわれは、カネもうけがすべてだ。こんな仕事したくない、カネもうけなんかいやだ、と社の命令を拒否する人は、首になるのが落ちだ。
 著者はいう。自由市場はごまかしと詐欺に満ちている。しかし、自由市場に変わるシステムは見当たらない。だとすれば、ごまかしと詐欺に満ちた市場のなかで、消費者はどう身を守り、政府関係者はそれをどう規制し、会社員はそのなかでどうはたらけばよいのかが問われてくる、と。
 取りあげられているのは、おもにアメリカの事例だ。しかし、とうぜん日本にもあてはまる。
 商品世界は一筋縄ではいかない。たとえば自動車、電話、電灯はどれも19世紀末の発明だ。いずれも現代の生活に欠かせないものになっている。だが、スロットマシンがつくられたのもそのころだ。スロットマシンはギャンブル依存症を生み、さらに現代のコンピュータ・ゲームへとつながる。そうしたマシン(最近のスマホも)は、人を中毒させるよう設計されているのだ、と著者はいう。
 現代社会において欲望をつくりだしているのは企業(資本)だ。新たな欲望を引きだす商品に消費者(カモ)が引っかかり、釣り(フィッシング)が成功すれば、企業は特別利潤を得ることができる。自由市場は人がほしいものを生産するだけではなく、「そうした欲求を作り出し、企業が売りたいものを人々が買うよう仕向ける」。
 その仕掛けはじつに巧妙だ。たとえば、スーパーの棚はマーケティングにもとづいて、計画的に並べられている。クレジットカードも誘惑の元だ。「消費者を誘惑して買うように仕向け、お金を使わせるというのは、自由市場の性質そのものに組み込まれている」。この誘惑に打ち勝つには、かなりの自制を要する。
 この80年間に所得が何倍にもなったのに、人がかえって毎日あくせく過ごしているのは、商品世界が「人々に多くの『ニーズ』を生み出し、さらに人々にそうした『ニーズ』を売りつける新しい方法も考案した」ためだ、と著者はいう。だから、所得が増えても、多くの人がローンの支払いに追われ、生活はずっと苦しいままなのだ。
 そして、たとえば広告。広告は人の心にはいりこむ「物語」をつくりだす。その物語は、さまざまな商品が人びとにもたらす奇跡をえがいたものだ。広告は食品から飲料、化粧品、薬、洋服、スマホやパソコン、自動車、住宅、金融商品など、ありとあらゆる分野におよんでいる。広告キャンペーンにさらされていると、人の心のなかには、あれこれの商品イメージが浸透し、あたかも自分が商品の紡ぎだす夢やライフスタイルのなかでくらしているかのような錯覚におちいる。
 しかし、現実はどうだろう。高額のローンを組んで買った住宅に不満を覚えている人は多い。車だって、はたしてどれほど有効に利用しているだろう。食品産業のつくりだす食品は、砂糖と塩と脂肪まみれだ。それが胃腸の病気や糖尿病を引き起こす要因になっている。健康食品がはたしてどれだけの効果をもっているか。製薬会社のつくりだす薬も、重大な副作用をもたらすものが少なくない。なかなか広告どおりにはいかない。
 加えて依存症の問題もある。その代表がたばこ、酒、ドラッグ、ギャンブルだ。たばこと肺がんの因果関係はすでに明らかになっている。アルコール依存に悩む人は多い。深酒は人格を変え、人を傷つけ、健康を損ない、人生を台無しにする。どっぷりつかってしまうのは、スマホやパソコン、テレビだって同じだろう。評判のフェイスブックにしても、いつも自分や友達の記事が気になり、けっこうな時間、振り回されていないだろうか。
 自由市場に利点があることは著者も認めている。だからといって、それを手放しで称賛するわけにはいかない。そこには欠点もあるからだ。
 新しいアイデアが新しい商品(製品やサービス)を生み、消費者の選択肢が増え、そのなかで利潤を生むものが、商品として生き残っていくというのが、市場の原理だ。商品の発展と広がりは、資本や技術(発明)、それに労働生産性の上昇が関係してくるが、商品の種類と量が拡大すれば、経済成長につながる。
 しかし、どんな発明(新商品)も、すべてすばらしいというわけではない。かつて柳田国男が「木綿以前の事」で論じたように、どれほど画期的な商品も、思わぬ影響を引き起こすのだ。自由市場は危険市場でもある。それでも自由市場が存続しているのは、いっぽうでその危険に対処しようとする人びとがいるからだ、と著者は力説する。たとえば、自動車や飛行機は危険な商品だ。だが、その安全を守るために、常にさまざまな工夫がこらされ、現在にいたった。
 暴走しやすい自由市場にたいし、安全性というブレーキをかける人びとが存在することによって、自由市場は──言い換えれば現代社会は──はじめて存続可能になる、と著者はいう。アメリカでは、そうしたブレーキ役として、たとえば食品医薬品局(FDA)や全米消費者連盟(NCL)、ベタービジネスビューロー(BBB)のような組織や団体がある。それは日本でも同じだろう。
 政府や裁判所、議会の責任が大きいのはいうまでもない。政府と裁判所は法にもとづいて、詐欺やフィッシング、不当行為、経済的被害などに対処しなければならない。議会は新たな経済問題に対処するために新たな立法をおこなう重要な責務を担っている。
 自由市場は、その市場をチェックし、暴走を阻止する装置があって、はじめて成り立つ、と著者は考えている。社会保障の有効性も否定しがたい。年金や失業保険、健康保険が、人びとの生活不安を軽減している。これからは贈与制度の充実やベーシック・インカムの考え方も重要になってくるだろう。
 市場はそれ自体が諸刃の剣だ。市場が不健全な状態になるのは、けっして外部要因によるわけではなく、市場がほんらいもつ性格によるのだ、と著者はいう。人びとがほんとうに求めているものと、人びとが買おうとするものとは異なる。消費者はいわばカモとみなされている。イメージづけされた商品を買わされているのだ。著者がフィッシングはいたるところにあるというのは、そのことを指している。
「かなり自由な市場を持つ現代経済は、先進国に暮らす私たちにはこれまでのあらゆる世代がうらやむ生活水準をもたらした」。そのことを著者は認めている。しかし、市場社会にはアクセルだけではなくブレーキも必要なのだ。そして、とりわけブレーキの役割を強調することに、本書の力点がおかれている。
 それでも、ぼくは心の片隅で、資本のつくりだす商品世界がどこか転倒しているのではないか、と疑う。国家が人びとの欲望を統制する社会主義がいいとはまったく思わない。しかし、商品世界がますます発展し、人が24時間はたらいて、あらゆる場所に商品(財とサービス)が豊かにあふれ、次はAIがコントロールする社会がやってくるといわれて、それがはたしてあるべき未来なのかと思うと、いささか気がめいってくる。そんなときは、こう考えるようにしている。ほんとうは、未来は「逝きし世の面影」のなかにしかない。未来は過去にあるのだ、と。


イアン・カーショー『地獄の淵から』短評 [本]

 日本の近代がヨーロッパ列強をモデルとして形成されてきたことは、三谷太一郎の近著『日本の近代とは何であったか』でも指摘されている。政党政治も資本主義も植民地支配も天皇制も、ヨーロッパとの遭遇の産物だった。
 明治維新というクーデターの背後には、フランスを後ろ盾にする幕府に対抗し、イギリスの支援によって中央集権国家をつくろうとする薩長の思わくがあった。1871年から73年にかけての岩倉使節団が、不平等条約の改正よりも欧米視察を優先したことも、よく知られている。
 日露戦争を前に、日本は1902年にイギリスと日英同盟を結んだ。その条約は、1921年にワシントンで締結された「4カ国条約」を機に廃棄される。その後、アメリカに対抗するため、日本はナチス・ドイツと同盟を組み、1940年に日独伊三国同盟が発足した。
 第2次世界大戦に敗れた日本は、1951年にアメリカと日米安保条約を結んだ。日米安保体制は現在も維持され、近年、日本は同盟国として、より積極的な軍事的役割を果たすようアメリカから求められている。
 最近の動きはおそろしいほど急速だ。特定秘密保護法、集団的自衛権、安全保障関連法、さらに共謀罪、憲法改正へとつづく怒濤の勢いをみれば、戦後の平和はとっくに終わって、すでに新たな戦争がはじまっているとすら思えてくる。
 ところで、今回の書評はこうした心配な動きとは直接関係がない。一歩立ち止まって、ヨーロッパ現代史を振り返ってみようというわけである。ヨーロッパ現代史は、ヨーロッパをモデルとして発展してきた日本の近代と切り離せない。村上春樹風にいえば、ヨーロッパは日本のパラレルワールドだ。
 本書は1914年から49年までのヨーロッパ史である。その後、現在までをえがく続巻も予定されているという。著者のイアン・カーショーは、イギリスの歴史家で、とりわけナチズム研究で知られ、ヒトラーについての浩瀚な伝記も出版している。
 1914年から45年にかけ、ヨーロッパは悲惨な自滅の時代を経験した、と著者は記している。まさに地獄を味わい、ようやく地獄を抜けたのだといってよい。続刊は、その地獄のなかからヨーロッパがいかにしてよみがえったかがテーマになるという。その意味で、本書と続刊は、ヨーロッパの死と再生をえがく歴史になるはずだ。
 20世紀前半にヨーロッパの破局をもたらした要因は4つあるという。
(1)民族主義・人種差別主義的ナショナリズム
(2)領土修正をめざす激しい要求
(3)ロシア革命を背景とした先鋭的階級闘争
(4)長期化する資本主義の危機
 並べてみると、何だかいまと似ている。歴史はくり返すという格言が頭に浮かぶ。しかし、当時とはどこかちがっていると思わないでもない。少なくともいまのヨーロッパでは(2)と(3)の要因は、さほど強くない。とはいえ、最近のボスニアやコソボ、チェチェン、さらにはクリミア問題、ISによるテロ、広がる経済格差や暴動などをみれば、その要因が消えたとも思えない。
 また、ヨーロッパの枠をはずして世界全体をみると、当時ヨーロッパを揺るがせた4つの要因は、場所と形態を変えただけで、現在でも引きつづき残っているといってまちがいないだろう。
 歴史は現実におこったできごとだ。小説や物語とはちがう。科学・軍事技術が発達したいまでは、ちょっとした判断と行動の誤りが取り返しのつかない災厄を招く。歴史を学び、歴史を教訓とすることがだいじなのは、人類にとって、くり返される最悪の事態をできるだけ避けるためでもある。
 1914年から49年にかけ、ヨーロッパでは次のようなできごとがおきた。
 100年つづいたウィーン体制が、第1次世界大戦(1914〜18)によって崩壊した。だが、大戦後の領土再編が国家間、民族間、階級間の対立と緊張を緩和することはなかった。それはむしろ憎しみの連鎖を生んで、次の衝突への導火線となっていった。
 大恐慌(1929)後の世界経済は混乱し、大衆の不安が増していた。そこに台頭したのが、力の政治をうたう政治勢力だった。とりわけ、イタリアとドイツでは、反ボリシェヴィズムとナショナリズムが結合して、右翼大衆運動が巻き起こり、極右勢力が政権を掌握した。そのあとは、破滅的な第2次世界大戦(1939〜45)までまっしぐらである。
 この書評では、ほんのさわりしか紹介できないが、こなれた訳文が、本文だけでA5判2段組500ページ近い大著を、最後までぐいぐいと引っぱって、あきさせない。読者はまるで鳥の目になったように、20世紀前半の東西南北にわたるヨーロッパ全体の構図をくまなく見て回ることができるだろう。
 しかし、圧巻なのは、やはりヒトラーとスターリンという巨悪が無気味に浮上していく部分である。そのはじまりは1930年代ではなく、1920年代だった。はじめはほんのちいさな運動が、大きな渦となって歴史を巻きこんでいく。
 ファシスト運動をはじめたのはイタリアのムッソリーニだ。1924年、ムッソリーニのファシスト党は、改正選挙法のもとイタリアの議席の3分の2を掌握した。そのあと社会党書記長のジャコモ・マッテオッティが暗殺されると、野党はたちまち排除され、報道は国家管理下に置かれる。
 同じ年、ソ連ではレーニンが死に、スターリンが権力を掌握した。スターリンのもと、ソヴィエト政権は以前にも増し、恐怖政治の度合いを強めていく。
 そのころヒトラーはナチスの指導者になったばかりだ。「ドイツのムッソリーニ」ともてはやされ、自信をつけたヒトラーは、1923年にミュンヘンで一揆をおこすが、たちまち逮捕され、ランツベルク刑務所に8カ月収監された。
 いっぽう、ソ連で権力を握ったスターリンは、まずジノヴィエフ、カーメネフ、ブハーリンを味方にしてトロツキーを追いだし、それからジノヴィエフとカーメネフを党から除名し、最後にブハーリンを分派主義者として失脚に追いこんでいった。スターリンが名実ともにソ連共産党の最高指導者となるのは1929年のことだ。そのあと粛清と恐怖政治の1930年代がつづく。
 1929年の大恐慌はドイツに経済危機をもたらした。社会民主党政権は崩壊し、1930年9月の総選挙で、ナチスは18.3パーセントの得票率で第2党に踊りでる。だが、このときは共産党も支持を伸ばしており、ヒトラーが首相になる可能性は低いと思われていた。
 それがいっこうに回復しない経済状況のなか、風向きが変わってくる。社会民主党と共産党との足の引っ張りあいにドイツ国民はうんざりしていた。1932年8月の総選挙で、ナチスは得票率37.4パーセントを獲得し、ついに第1党となる。その結果、1933年1月、ヒンデンブルク大統領の後押しで、ヒトラーが首相に就任するのだ。
 政権の座につくと、ヒトラーは社会主義者と共産主義者を一斉逮捕し、監獄や収容所に送りこんだ。緊急命令により、無制限の警察権も認められるようになった。3月には全権委任法が議会を通過し、ヒトラーは無制限の立法権を掌握する。共産党は粉砕され、社会民主党は禁止された。そのほかの政党も禁止、または解党に追いこまれた。あっというまの展開である。
 1934年6月、ヒトラーはみずからの対抗馬となりそうなナチス突撃隊(SA)隊長のエルンスト・レームを粛清する。粛清者はほかに150〜200人にのぼった。8月にヒンデンブルクが死ぬと、ヒトラーは国家元首の地位を引き継ぎ、総統となった。
 ヒトラーの経済政策は功を奏する。左翼政党と労働組合がつぶされたことで、企業は賃金を引き下げ、利益を最大化することが可能になった。そのいっぽうで雇用創出計画により、道路建設や土地開発が促進された。公共事業、自動車産業の育成、農業保護、さらには軍備支出が、経済を新たな地平へと引き上げていく。
 しかし、ドイツの経済回復はそれ自体が目的ではなかった。ナチスの目的は軍事力強化による領土拡大であり、経済はその手段にすぎなかった。そこから第2次世界大戦までは一直線である。
 著者によれば、ヨーロッパの1930年代は独裁体制の時代だったという。
 独裁体制に共通する特徴は、複数政党の廃止、個人の自由の制限、国家によるマスメディア支配、独立した司法の廃止、警察権による反対派の弾圧などである。独裁政権は民族ないし国民を代表すると称していた。しかし、現実に支配していたのは、ひとりの独裁者だった。
 ドイツ・ファシズムの特徴は、加えて、領土拡張主義的な性格をもつ軍事独裁政権だったことである。この点では、日本のファシズムも同じ特徴をもっていた。
 ボリシェヴィズムとファシズム(ナチズム)は、対極にあるようにみえて、自由民主主義に反対する点は共通している。いずれも国民(人民)を教育して、イデオロギーの献身的信奉者にし、国家目的(戦争や革命)に駆り立てることをめざしていた。その統治手法は「社会の完全な組織化、敵と少数派に対するテロ攻撃、極端な指導者礼賛、独占政党による容赦ない大衆動員」からなる、と著者はいう。
 ここまで、ほんのさわりを紹介しただけでも、何かぞくぞくするものを覚えてきた。それは、現在も小ヒトラー、小スターリンがあちこちで生まれつづけているからではないか。第2次世界大戦の死者は少なくとも5000万人(大きくみれば8000万人)にのぼる。地獄への道は善意で(いや愛国心で)敷き詰められている。下手なホラー小説よりこわい本である。


天皇と教育勅語──『日本の近代とは何であったか』を読む(4) [本]

 伊藤博文は憲法をつくるさい、人間の社会を結合するには、宗教が必要であることをドイツの憲法学者から教わった。ヨーロッパにはキリスト教がある。しかし、日本の場合、それは天皇以外にはありえないと思った。
 ヨーロッパでは「聖職者」と「王」が分離されている。だが、日本で天皇を立てるとなると、それは「聖職者」と「王」が合体した存在とならざるをえない。
 こうして、大日本帝国憲法では、「天皇は神聖にして侵すべからず」と規定される。
 さらに、天皇は統治権を総攬(統括)する存在として位置づけられた。だが、天皇が親政をおこなうわけではない。
 天皇は統治権を行使するにあたっては、憲法にしたがうとされた。その点では天皇は現実には立憲君主にほかならなかった。
 しかし、天皇を神聖不可侵としたことが、あたかも天皇を憲法に拘束されない存在であるかのような位置に祭りあげてしまう。
 そこから法令とはことなる「教育勅語」が生まれてきた、と著者は考えている。
 明治は文明開化の大変動期だった。
 政府は民心を統一するため、何らかの道徳上の大本を立てることを求められていた。
 教育勅語をつくったのは、もちろん明治天皇ではない。政府の危機感は強かった。じっさいに、教育勅語をつくりあげたのは、天皇の侍講、元田永孚(ながざね)と伊藤博文の側近、井上毅である。
 当初、元田は「仁義忠孝」にもとづく徳育を強調する指針を立てた。しかし、井上は勅語が「旧時の陋習」に復することがあってはならないと批判した。徳川時代と同じ道徳では困るのである。
 文部省は、さしあたり教育勅語の起草を、『西国立志伝』の訳者で、女子高等学校校長でもあった中村正直に依頼した。だが、中村の草案は政府の採用するところとならなかった。井上毅が強く反対したためである。
 中村正直は、道徳の本源は人間のごくふつうの心情である「敬天敬神」の思いから発すると考えた。しかし、井上はそうした哲学的解釈を嫌う。
 勅語は哲学や政治状況に左右されてはならない、と考えていた。
 井上にとって、勅語はあくまでも天皇の意思の表明というかたちをとり、そのことばは「玉のごときもの」でなければならなかった。
 そのため、井上は道徳の本源を、天皇の祖先である「皇祖皇宗」に求める。
 そして、勅語の草案として、冒頭をつぎのように書き記す。
「朕惟ふに我が皇祖皇宗国を肇むること宏遠に徳を樹つること深厚なり」
 教育勅語は、この井上の案をもとに、元田が修正を加えることによって成立した。
 著者は「教育勅語は井上の背後にある山県、伊藤らに代表される藩閥官僚勢力と、元田らの背後にある天皇側近勢力との共同作品であった」と結論づけている。
 しかし、立憲君主として憲法に拘束される天皇と、道徳の立法者としての天皇は、はたして矛盾しないか。
 大日本帝国憲法は国民の「信教の自由」を認めている。だとすれば、教育勅語は信教の自由を束縛するものであってはならないはずだ。この矛盾に悩んだ井上は、「教育勅語」をあくまでも天皇の著作とすることで、憲法との齟齬を回避した。
 こうして、教育勅語は天皇が自己の意思を国民に表明したものとして、宮中で文部大臣に下付されることになった。ほかの勅語や勅令とちがい、国務大臣の副署はなされなかった。あくまでも天皇の意思として示されたからである。
 しかし、教育勅語は国民に大きな影響をおよぼした。その影響力は憲法をはるかにしのぐ。
「日本の近代においては『教育勅語』は多数者の論理であり、憲法は少数者の論理だった」と、著者は書いている。
 そこに記されているのは、父母に孝行を尽くし、兄弟仲良く、夫婦相和し、国法を順守し、そして国家危難の際には公に準ずるという、ごくあたりまえの道徳律である。
 この教育勅語は、その後50年以上にわたり、全国の高等学校、中学校、尋常小学校の「奉読式」で、うやうやしく読みあげられていくことになる。
 だが、教育勅語の本質は、国民が守るべきこうした道徳律にあったわけではない。そうではなくて、井上毅が勅語の冒頭に記した1行にあったのである。
 すなわち、こうした人の道を定めたのが「我が皇祖皇宗」だということ。人が人の道を守って生きることは、その道をつくった天皇一族をあがめることと同じなのだ。
 教育勅語の意図は、道徳を広めることにあったのではない。それまで庶民にとって、いるかいないかわからなかった天皇という存在を、国民の意識に刻みつけることにあったといえるだろう。
 明治政府のこのプロパガンダは大成功を収めた。
 1948年6月19日に、衆参両院は教育勅語の失効を確認し、それを排除する建議を成立させた。
 天皇による「人間宣言」とともに、教育勅語の根拠は消失したはずである。
 それでも、いまも何かと教育勅語がもちだされるのは、明治以来、日本人にしみついた天皇尊崇意識がいかに根深いかを示している。
 本書は教育勅語の淵源にさかのぼることで、そこに隠されていた統治者の意図をみごとに掘り起こしている。

『日本の近代とは何であったか』を読む(3) [本]

 近代になってから日本は植民地帝国を築いた。
 植民地の特徴は、本国の憲法が適用されないことである。そのぶん、現地当局が植民地に恣意的な支配をおよぼすことになった。
 日本が本格的に植民地帝国への一歩を踏みだしたのは、日清戦争以後のことである。日本は領土として台湾を獲得するが、英仏露の三国干渉によって遼東半島を還付せざるをえなかった。それは大きな挫折だった。
 だが、その挫折感によって、「日本は、東アジアにおいてヨーロッパ列強に伍する権力政治の主体となることを志向するにいたった」と、著者はいう。
 ヨーロッパ列強と日本では、植民地構想が大きなちがいがあった。それは「日本の植民地帝国構想が経済的利益関心よりも軍事的安全保障関心から発したもので、日本本国の国境線の安全確保への関心と不可分であったということ」だという。
 すでに1890年に、山県有朋は、日本の主権を確保するための「利益線」という考え方をもちだし、朝鮮半島を植民地化する方向を示していた。
 著者は植民地帝国の法的枠組をつくった機関として、枢密院の役割を重視している。
 枢密院は天皇直属の諮問機関である。枢密院の審議をへなければ、いかなる法律も条約も認可されることがない。また国会をへることのない勅令にも枢密院は関与していた。だから、大日本帝国においては、枢密院こそが最上院だった、と著者は解説する。
 朝鮮統治にあたっては、枢密院と軍部のあいだで激しい争いがあった。
 日露戦争後、軍部は関東州租借地を事実上、直接支配下においた。
 いっぽう、枢密院は文官による朝鮮支配にこだわっていた。だが、けっきょくは軍部に押し切られる。
 1910年の韓国併合後、朝鮮総督府でも武官総督制が採用されることになった。こうして、初代朝鮮総督には、陸軍大将の寺内正毅が就任した。
 軍部による植民地統治に異論が出されなかったわけではない。
 憲法学者の美濃部達吉は、植民地が憲法外におかれた「異法区域」であると論じた。この微妙な言い回しによって、美濃部は、暗に軍部による恣意的な植民地支配を牽制しようとしたのである。植民地の臣民には、市民権らしきものはほとんど与えられていなかった。
 しかし、大正時代にはいり何年かすると、軍部による植民地直轄支配は揺らぎはじめる。山本権兵衛内閣は、関東州租借地は外務大臣、朝鮮・台湾・樺太は内務大臣が統括するという方針を打ちだした。
 だが、軍部も黙っていない。さっそく、巻き返しにでる。
 寺内正毅が首相になると、関東州租借地では、陸軍大将、中将が就任する関東都督の権限が強化される。満鉄、領事館、警察署も関東都督の支配下に組み入れられることになった。
 いっぽう、朝鮮では1919年に3・1独立運動が巻き起こった。
 これに驚いた首相の原敬は、植民地統治の脱軍事化という方向を打ちだす。
 原はまず関東都督に代えて、関東庁を設立し、その長官を文官にしようとした。そのいっぽう陸軍部門を独立させ、関東軍司令部を設立すると約束した。
 こうして、関東州租借地では、関東庁と関東軍司令部という政軍分離の二本立て体制ができあがる。それが皮肉なことに満州事変を引き起こす要因になるとは、原自身も考えていなかった。
 原は朝鮮においても文官総督の実現をめざした。だが、軍の抵抗にあってうまく行かない。実現できたのは、文官総督を可能にする制度を導入することくらいだった。
 じっさい、朝鮮総督のポストはその後も軍人が独占する。
 だが、台湾総督は長らく文官が任についた。
 このあたりのポスト争いは軍と枢密院、内閣がからんで、じつにややこしい。
 原の死後、朝鮮と台湾では、同化政策が採用された。現地人を帝国臣民に組み入れるため、教育制度や戸籍制度がととのえられていく。
 しかし、同化政策によっても、「朝鮮や台湾のナショナリズムを鎮静させることはできませんでした」と、著者は記している。朝鮮や台湾のナショナリズムは「植民地帝国日本を内部から脅かす不断の潜在的脅威」になっていく。
 そして、1930年以降浮上したのが、国際主義に代わる「地域主義」の考え方である。
 地域主義とは、従来の国際秩序に代わる、新たな地域秩序の構想だといってよい。それは対外的膨張によってつくりだされた既成事実を正当化するもので、大東亜共栄圏の構想へとつながっていく。そして、そこには欧米の帝国主義に対抗するという意味づけがなされていた。
 著者によれば、1920年代の日本は、国際主義にのっとり、軍縮条約にもとづく国際秩序を順守していた。
 ところが、1931年の満州事変によって状況は大きく変わる。日本は国際主義を否定して、日本を中心とする地域主義を唱えるようになった。
 1937年に日中戦争が勃発すると、こうした地域主義は東亜新秩序を正当化する考え方へと発展していく。
 もういちど繰り返すと、地域主義とは「地域的協同体を根幹とする世界新秩序」のことである。
 ヨーロッパにおいては、それがドイツとイタリアを中心とする「欧州新秩序」となり、東アジアにおいては日本を中心とする「東亜新秩序」となるのである。
 地域主義においては、民族主義(民族をひとつの単位とする考え方)は超克されなければならなかった。
 地域主義によれば、東亜新秩序のなかで、中国民族が生きていくためには、民族を超えて、日本を中心とする地域的連帯にめざめることが必要だということになる。日中戦争はそうした東亜新秩序を建設するための戦争だと考えられた。
 第2次世界大戦後、日本はアメリカを中心とする国際秩序に組み入れられていった。それは共産圏に対抗するための国際秩序であって、いわばアメリカを中心としたアジア地域主義構想だった、と著者はいう。
 しかし、1970年代にはいると、米中国交が正常化に向かい、アジアの冷戦構造が終結すると、グローバリズムの奔流が押し寄せることになった。アメリカにとっても、もはや日本を軸とする「垂直的国際分業」システムは不要になった。
 こうしてアジア諸国は「米国によって課された『地域主義』から解放され、今や相互の対等性を前提とした『水平的統合』を志向する新しい『地域主義』を模索しつつある」、と著者はいう。
 著者は「ヨーロッパ文化」と同様の「アジア文化」があるかどうかに疑問をいだいている。加えて、日韓中のあいだの歴史認識に大きなへだたりがあることも認めている。
 こう述べている。

〈日本の近代の最も重要な特質の一つは、アジアでは例外的な植民地帝国の時代をもったことにありますが、その時代の認識は、同時代の朝鮮全体の現実──今日いわれる朝鮮にとっての「植民地近代」の現実──の認識なくしてはありえません。その意味の日韓両国の近代の不可分性を具体的に認識することが、両国が歴史を共有することの第一歩なのです。このことはまた中国についても同様です。〉

 これはとりわけ、朝鮮や中国が日本にとってパラレルワードであることを示している。そのパラレルワールドは不可分でありながら、そこでは、異なる視線が異なる世界像を結んでいるのだ。歴史の共有は、きわめてむずかしい。しかし、われわれはいま歴史の共有に向けて一歩を踏みだすことを求められているのである。

『日本の近代とは何であったか』を読む(2) [本]

 なぜ日本に資本主義が形成されたのか。
 国民国家の形成と自立的資本主義の形成は不可分一体だった、と著者は記している。
 それは、つまり日本資本主義の形成は国家主導だったということである。
 その考え方は、大久保利通から松方正義、高橋是清に引き継がれていく。
 日本の資本主義は、かたくなに外資を排除するところからはじまった。
 明治政府は、関税自主権のない不平等条約のもとで、ヨーロッパ列強が日本経済を乗っ取ってしまうことを、ひどく恐れていた。その点からみれば、開国は無意識下においやられた攘夷と一体になっていたともいえる。
 明治政府は日本に資本主義を生みだすために、先進技術を導入して官営事業を立ち上げた。国家の歳入を確保するため地租による租税制度もつくった。質の高い労働力を確保するため教育制度も充実させた。そして、資本蓄積を進めるためできるかぎり対外戦争を回避しようとした。
 富国強兵が近代化に向けての明治政府のスローガンである。富国のためには、まず殖産興業政策が採用しなければならなかった。そのリーダーシップをとったのが、内務卿になった大久保利通である。
 大久保はまず農業技術を近代化するために、官営模範農場と官立農学校をつくり、農業や牧畜、養魚、製糸、製茶、果樹栽培、林業などの技術改良に努めた。
 工業についても同様である。富岡製糸場をはじめ、官営工場が各地につくられていった。それらは繊維産業の拠点となっていく。
 さらに大久保は輸出振興に力点を置き、海運業の育成にも力を入れていく。そのため、三菱をいわば官営模範海運会社とみなし、三菱を保護した。
 ちなみに、こういう官主導の資本主義に徹底して反発したのが、民間主導の資本主義をつくろうとした渋沢栄一だといってよい。渋沢にとって、会社や団体は国家のためのものではなく、何よりも民衆のためのものだった。
 本書には渋沢栄一への言及がまったくなされていないが、官だけが踊っても資本主義は定着しないことを強調しておきたい。
 渋沢栄一については、昔、評伝を書いたことがある(いささか長いが)。
 よろしければ、拙HPをご参照ください。

 http://www011.upp.so-net.ne.jp/kaijinkimu/huchiqq.html

 著者は「大久保は政府主導によって世界市場に適応しうる資本主義的生産様式を造り出していこうとした」と書いている。
 このあたりの発想をまねたのが、鄧小平だといってよいかもしれない。
 それはともかく、大久保は国家主導の資本主義をつくるために、国家資本の形成に力をいれた。そのために江戸時代の年貢に代わって、金納の地租による租税方式を考えだした。外債は避けたいという思いが強かった。
 大久保は義務教育制度にも力をいれる。そのため、各地に小学校が建てられた。学制令が出された翌年の1873年(明治6年)には、小学校の数は1万2558校、3年後の1875年には2万4225校におよんだという。この数は2016年現在の1万9943校を上回るというから、おどろきである。また、早くも1874年には、女子教員を養成する女子師範学校がつくられている。
 さらに大久保の功績は大規模な対外的戦争をできるだけ避けたことだという。1874年に日本は台湾に出兵する。このとき日本は清と戦争にはいる恐れもあったが、大久保は外交交渉によって、それを乗り切る。さらに大久保死後に強行された琉球王国の廃絶と沖縄県の設置にさいしても、清と戦争になる可能性はじゅうぶんに考えられた。著者は、明治政府が外交交渉によって、大きな戦争を避けたことが、日本の経済発展につながったと評価している。
 大久保の路線を継承したのが松方正義である。当時は西南戦争のあと、政府の財政赤字が膨らんでいた。松方は外債発行に頼らず、歳出を抑制し、超均衡財政を強行する。そのいっぽう増税によってできるだけ歳入剰余をつくりだそうとした。これが、いわゆる松方デフレである。
 松方はさらに為替管理と積極的な官営貿易により、正貨準備の増大をはかった。日本銀行設立を計画したのも松方である。
 松方のデフレ政策にたいする反発は、とうぜん強かった。政府内でも、松方に反対する者が多かった。だが、そうした反対派を松方は押し切っていく。
 とはいえ、日清戦争後、日本はその経済政策を根本的に転換し、外債導入に踏み切る。それをおこなったのも松方である。
「それ[新たな経済政策]を可能にしたのは、条約改正による関税収入の増大と戦争の償金による金本位制の確立に伴って外資導入を有利にする条件が整えられたことです」と著者はいう。
 こうして日本の外資依存度はしだいに大きくなっていく。その依存度を一挙に高めるきっかけとなったのが、日露戦争である。
 日本資本主義は国際化しようとしていた。
 日本経済の国際化に対応しようとした人物が高橋是清と井上準之助だ、と著者はいう。
 日本銀行総裁の高橋是清はあえて井上をニューヨークに送り、かれを国際金融家として育てようとした。
 のちに日銀総裁となる井上のもとで、1920年代に日本資本主義は国際化していく。日本には大量の米英資本が流入する。著者は「井上は国際金融家の役割を果たすことを通して、ワシントン体制の枠組に沿う第1次大戦後の日本の経済の経済外交を事実上主宰しました」と書いている。
 1927年の金融恐慌後、浜口雄幸内閣の蔵相として、井上は金本位制復帰をめざし、金解禁のための緊縮政策を打ちだす。とうぜん軍の予算も削られた。ところが、金本位制への復帰は頓挫し、国際金融網は寸断され、ふたたび国家資本の時代がはじまるのだ。
 1932年2月、井上準之助は右翼テロリストによって暗殺される。つづいて金本位制に代わって、ケインズ政策を取り入れようとした高橋是清も二・二六事件で暗殺され、軍部独裁政権が誕生する。こうして、日本での「議論による統治」は圧殺されることになる。
 アダム・スミスが示した資本主義は、国家の干渉をできるだけ排除するなかで成長していく自立的な経済モデルだった。しかし、ヨーロッパをモデルとして、近代化を実現しようとした日本では、資本主義は国家によって導入される以外になかった。その資本主義は当初、対外的な自立をめざし、つづいて国際的な協調をめざしながら、じょじょに発展していった。それが可能だったのは、国家の舵取りがすぐれていたからだけではない。それ以上に、近代化をめざす民間の努力が大きかったとみるべきだろう。
 だが、戦争が拡大し、軍部の独裁が強まるにつれて、国家も民間も硬直して、柔軟な経済運営は失われてしまう。
 思うに、現在もまた劣化の時代である。野放図な国債発行のもと、日本経済の方向性は見失われ、政府も企業も劣化しつつあるのではないか。まるで、そんなふうに思えてくるのである。

『日本の近代とは何であったか』 を読む(1) [本]

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 著者の三谷太一郎は1936年生まれで、東京大学名誉教授。日本の政治史と外交史が専門だ。『日本政党政治の形成』、『大正デモクラシー論』といった著書がある。
 むずかしい話はとばして、ほんのさわりだけを紹介してみよう。
 最初に「日本の近代は、日本が国民国家の建設に着手した19世紀後半の再先進国であったヨーロッパ列強をモデルとして形成されました」と書かれている。
 日本の近代というのは、明治以降と考えてよい。
 日本はヨーロッパをモデルにして近代化を達成した。
 大きかったのは、1871年から73年にかけて欧米を視察した岩倉使節団の役割である。本来の目的は幕末の不平等条約を改正すること。だが、それよりも、欧米、とりわけヨーロッパの制度をどのように取り入れるかが課題となった。
 そもそも近代とは何を指しているのだろう。
 イギリスの著作家ウォルター・バジョットは、近代とは「鉄道や電信の発明」などに象徴される「自然学」の応用がもたらした「新世界」であり、その根本は「自由」にもとづく政治、すなわち「議論による統治」が実現されていることだ、と考えていた。
 つまり、近代とは産業と民主政治にほかならない。それは個人が慣習や身分から解放されて、自由に意見を述べ、行動することが許される時代でもあった。
 はたして、日本ではこのような近代、とりわけ「個人の尊重」がどこまで実現されたかは、疑問なしとはいえない。それでも、明治維新で日本はヨーロッパの制度をとりいれ、それなりの近代化をはたしたのはまちがいないだろう。
 著者は本書において、日本の近代を、政党政治、資本主義、植民地支配、天皇制という問題に即して検証していく。
 まずは政党政治である。
 政党政治の前提はいうまでもなく立憲主義である。立憲主義とは憲法にもとづく政治のことだ。
 日本では東アジアでいちばん最初に立憲主義が導入された。つまり憲法がつくられたのだ。それが1890年の明治憲法である。
 ヨーロッパで憲法がつくられたのは、そもそも王の絶対的権力を制限するためだった。そして、近代憲法は議会制、人権の保障、権力の分立を原則とするようになる。
 1890年に施行された明治憲法もまたこうした原則を満たすものだった。しかし、それはとつぜん出現したものではない。江戸時代の合議制という政治的伝統(権力の抑制均衡のメカニズム)があったからこそ可能だった、と著者はいう。
 司法、行政、立法の三権分立という考え方は日本人に受け入れやすかった。江戸時代から独裁は嫌われていたのだ。
 これにたいし、日本では古くから公議が重視されていた。だから、明治になって、公議を形成する場として議会制が取り入れられるのは、とうぜんの方向だった。こうして、1890年(明治23年)7月に初の総選挙が実施される。
 ところで、明治維新とは王政復古であって、あたかも天皇親裁が実現されたかに思えるかもしれない。しかし、著者によれば、王政復古の目的は幕府のような絶対政権を排除することにほかならなかった。したがって、明治憲法に規定された「一見集権的で一元的とされた天皇主権の背後には、実際には分権的で多元的な国家のさまざまな機関の相互的抑制均衡のメカニズムが作動」していたという。
 太平洋戦争中の軍部独裁政治は、むしろ明治憲法体制からの逸脱だった、と著者は考えている。もともと明治憲法は、議会が政治の全権を握るのを抑えるよう組み立てられていたからである。
 明治憲法には、しかし根本的な欠陥があった。著者によれば、それは「最終的に権力を統合する制度的な主体を欠いていた」ことだという。権力主体といえば、天皇がいると思うかもしれない。しかし、名目はそうであれ、現実の天皇は「権力を統合する政治的な役割を担う存在」ではありえなかった。
 行政をになう内閣は、議院内閣制のかたちをとっていない。あくまでも天皇によって組閣を命じられる。また個々の閣僚は首相ではなく天皇に直結する建前なので、「遠心的であり、求心力が弱かった」。
 だから、明治体制のもとでは、藩閥のリーダーである元老が影の統合主体となっていた。いわばバランサーとしての役割をはたしていたのである。つまり元老が内閣の生みの親の役割を果たしていた。
 だが、しだいに議会が存在感を増してくると、その多数を占める政党の役割が無視できなくなる。藩閥の側も政党をつくらざるを得なくなった。
 転機となったのは1900年である。この年、伊藤博文は衆議院での多数派形成をめざして、立憲政友会(略称、政友会)を結成した。いっぽう、これに反対するグループも政党をつくり、こうして日本でも複数政党制が成立していくことになる。それにつれて、藩閥の力はじょじょに衰えていった。
 日本では大正の終わりから政党政治が本格的に作動する。いわゆる大正デモクラシーである。しかし、1931年の満州事変以後、政党政治の権威はゆるぎはじめる。
 学者のあいだからも、議会に代わる「立憲的独裁」の機関を設立せよとの声がわきあがった。それが大政翼賛会へとつながり、軍部独裁に転じていったことは周知の通りだ。
 いまは戦後民主主義の時代から、時代がひとまわりした。
 著者は、ふたたび「立憲的独裁」の傾向が強まるのではないかと危惧している。「立憲デモクラシー」がこれにいかに対抗するかが問われているという。
 政党政治の危機だといってよい。

アテナイの消費生活について(2)──論集『消費の歴史』から [本]

 アテナイの買い物ではよく魚の話がでてくるという。とくにビッグサイズの魚は値段も高く、シーフードはあこがれの的だった。魚はご馳走だったといえるだろう。
 アテナイ人はだいたいにおいて、犠牲に供される牛やヤギ、ブタ、羊の肉で栄養をとっていた。こうした肉は宗教的儀式にともなうもので、市場では売られていない。氏族(オイコス)のもとで分配されるのがふつうだった。
 しかし、市全体や地区全体でおこなわれる大がかりな儀式もあり、民衆の支持を得ようとする金持ちが、しばしばそうした儀式のスポンサーになった。政府がカネを出すこともあった。
 ところが肉とちがって、魚は市場で売られるぜいたく品だった。それはまさに食欲を満たすとともに消費の対象となる商品だったといえる。
 問題は魚が腐りやすく、早く食べなければならないことだった。そのため朝早く市場に行き、新鮮な魚を買って、すばやく調理する必要がある。その点、魚は理想的な商品だったかもしれない。すぐに売れて、消費され、カネになったからである。
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[アテナイの銀貨。ウィキペディアから]

 もうひとつカネのかかるものといえば、セックスだった。アテナイにもふつうの売春婦から高級娼婦まで、カネで買える女性はさまざまだった。
 大勢の女や少年を集めて宴会を催すには、びっくりするほど費用がかかった。そこでは音楽のバンドもいれ、食事や酒の用意もしなければいけなかったから、その費用は想像にあまりある。だが、そうした宴会は金持ちのみえのためではなかっただろう。
 高級娼婦を囲うにはとてつもなくカネがかかった。それでも古代アテナイ人も、カネで欲求が満たせるという誘惑にはあらがえなかったようである。
 アテナイ人の消費に関する記述には、不思議なことに、衣服や家財の話がほとんど見当たらない。職人は大勢いたのだから、こうした商品も購買され、使用されていたことはまちがいない。
 衣服はもちろん手織りで、アテナイの工房で織られ、市場でも売られていた。なかには高いものもあり、とくに高級なマントが知られていた。しかし、衣服や家財は、直接注文が多く、そのためあまり市場にあらわれなかったのだろうか。
 民主政のアテナイでは奴隷やメトイコイ(外国人)にたいする扱いがゆるやかになり、かれらの服装も市民と変わらなくなっていたという。
 逆にいえば、紀元前5世紀になるにつれ、金持ちもだんだん庶民と同じような服を着るようになっていったのである。
 アテナイでは、服装の面でも民主化が進んでいたといえるだろう。
 しかし、いっぽう民主政のもとで、金持ちはことあるごとに資金の提供を求められるようになった。さらに税金もかけられる。とりわけ戦争ともなると、金持ちはより多くの負担を求められた。
 さらに重要なのは、アテナイでは多くの判事や検事が30代以上の市民のなかから選ばれていたことである。財産の差し押さえがしばしばおこなわれ、不正蓄財がなされていないかが厳しく調査された。
 そのため、いかにも金持ちのようにふるまうのは禁物だった。紀元前414年には、あるエリートがエレウシスの秘儀を冒涜し、ヘルメスの像を破壊したとして告発され、財産を没収されている。
 しかし、実際、紀元前5世紀末のアテナイでは、個人的にはそれほど贅沢な生活は見られなくなっていた。豪華なものがあるとすれば、それはあくまでも神殿を飾るものだったという。
 アテナイでは個人の家が小さく質素だったのにたいし、神殿は巨大で豪奢につくられていた。神殿に置かれたアテナの巨大な像は、象牙と黄金で飾られていた。
 これをみれば、富裕層は神殿や祭りなどに大きな寄進をするかぎりにおいて、その存在を認められていたといえるだろう。
 豪華な衣装や馬車が認められたのも、祭りの場においてだけである。祭り以外でも、ぜいたくぶりを見せびらかしていると、ヒュブリス(傲慢)罪で告発される恐れがあった。
 つまり、古代ギリシアでは、祭り以外の場では、個人の物質的ぜいたくにたいし、モラル面、文化面、宗教面で大きな制約が課せられていたのである。
 以上をまとめると、どういうことがいえるだろう。
 ここでえがかれているのは、紀元前500年から300年にかけての民主制アテナイの消費の様子についてである。
 アテナイでは史上はじめて貨幣経済が全面開花した。はじめて常設の市場が生まれ、多くの商品が売られるようになった。
 アテナイの市場の繁栄は、アテナイの海軍力のたまものでもある。さらにいえば、それは民主政のたまものでもあった。
 市場にたいしては、当時も多くの反対や批判があった。それでもアテナイの市場は発展し、アクロポリスからディピュロン門にまで広がった。
 市場で売られていたのはものだけではない。音楽から勉強にいたるさまざまなサービスも提供されていた。
 また多くの監督官がいて、計量が適切か、価格が妥当かなどと監視していた。
 正式な市場はアゴラの中心部にあり、そこには人民裁判所や五百人委員会などもあったから、市場はまさに民主政の中心部に位置していたといえる。そこではしばしばギリシア喜劇が演じられ、ソクラテスをはじめ、民主主義を批判するプラトンなどの哲学者もたむろしていた。
 アテナイの市場では、家具インテリア、衣服などのぜいたく品はあまりおいていなかった。個人的なぜいたくは避けられる傾向があった。まれに甲冑や馬などに多額の金額が費やされることはあっても、それは個人のためではなく、あくまでも国家や神のためにだとされていた。
 ギリシア世界では紀元前480年以降、スパルタの影響が次第に強くなり、アテナイでもぜいたくが避けられ、質実剛健が尊ばれるようになる。ペルシア風の豪華さは、ペルシアに内通しているのではないかと疑われる可能性もあった。また金持ちにみえると、それだけで国家への多くの資金提供を求められ、民衆裁判所で糾弾される恐れもあった。
 アテナイの市場経済は、民主政と密接な関係をもっている。しかし、それはきわめて特異な市場経済だったといえるかもしれない。
 民主政といえば、日本人は平和と思いがちだが、それは誤解である。とくにアテナイでは、民主政は戦争と植民地主義、奴隷制、女性差別と結びついている。
 家政は奴隷によって支えられ、すぐれた技能をもつ職人集団と、海外との貿易を取り仕切るメトイコイ(外国人)が、土地を所有する市民の生活を成り立たせている。
 市民はものをつくり、ものを売るためにはたらいているわけではない。そんなふうにはたらくのは市場の奴隷である。アテナイ市民とは、あくまでも政治に参加し、戦争で戦う存在を意味していた。だが、そんな市民にとっても、にぎやかな市場は楽しみの場所だったにちがいない。

アテナイの消費生活について(1)──論集『消費の歴史』から [本]

 オックスフォード版論集『消費の歴史』は、少し読みはじめたところで、英語を読むのがめんどうなこともあって、途中でやめてしまった。まあ、しかし、そうめんどうがらず、気長に気楽に読んでみることにしよう。閑人の読書である。
 というわけで、まずはジェームズ・ダヴィッドソンの「アテナイの消費生活」を読んでみる。
 ヨーロッパで最初に消費社会が花開いた場所は、古代ギリシア、とりわけアテナイ(アテネ)だった。古代ギリシアはヨーロッパ文明発祥の地。そこで、どのような消費生活がいとなまれていたのかを、のぞいてみようというわけである。
 アテナイといえばデモクラシー、そして貨幣経済がはじめて本格化した場所だ。ドラクマを単位とするさまざまな貨幣が使われていた。アテナイのアゴラ(広場)にはさまざまな商品が並び、ショッピングを楽しむこともできた。
 しかし、こうした市場を守るには、民主政府による安定した貨幣管理と、アゴラノモイと呼ばれる市場監督人の存在が欠かせなかった。
 アテナイではなぜ貨幣経済が盛んになったのだろう。紀元前4世紀には、政治の舞台である集会に参加する市民に、貨幣で報酬が支払われていた。そのことも貨幣経済の隆盛と関係していたのかもしれない。
 アテナイは巨大な海軍力に支えられ、それによって、ペルシアやスパルタに対抗することができた。アテナイの繁栄がデモクラシーや消費社会をつくりあげたということもできる。だが、その繁栄はいつまでもつづかなかった。
 酒の神ディオニソスをたたえる祭りなどで演じられたギリシア喜劇には、当時アゴラで並べられていた商品の数々が出てくる。
 イチジク、ブドウ、カブ、ナシ、リンゴ、バラ、カリン、ハギス[羊肉の煮込み]、ミツバチの巣、ヒヨコ豆。スミレの花束、ツグミ、コオロギ、オリーブ、肉などなど。
 近隣に限らず遠方からも多くの品物がもたらされていた。
『アテナイ人の国制』には、アテナイ人がその海運力によって、シチリアやイタリア、キプロス、エジプト、リュディア[現トルコ]、黒海などから、さまざまなめずらしい品物を集めていたことが記されている。
 さらに、ほかの本にはこんなリストもある。
 キュレネ[現リビアの町]からは薬草や牛革、ヘレスポント[ダーダネルス海峡]からはサバなどの魚、イタリアからはエンバクや牛のあばら肉、トラキアからは薬剤、マケドニアからはライ麦、シラクサからはブタとチーズ、エジプトからは帆布やパピルス、シリアからは乳香、クレタ島からはヒノキ材、アフリカからは象牙、ロードス島からは干しブドウや干しイチジク、エヴィア島[エーゲ海]からはナシとリンゴ、フリギア[現トルコ]からは奴隷、アルカディア[ペロポネソス半島中央部]からは傭兵、カルタゴからは敷物や枕などなど……。アテナイには海外からほんとうに多くの品物が集まっていたのだ。
 しかし、これらの品物は市場で雑然と置かれていたわけではない。女性もの、魚、家具、野菜、衣服などとコーナーにわけられ、それぞれ別々の店で売られていたのだ。料理人を雇うことのできる斡旋所などもあった。
 市場は特化していたといえるだろう。だからアテナイ人はどこに行けば何が買えるかをわかっていなければならなかった。
 こうした市場の分化は、古代では大量生産ができなかったあかしでもある。
 市場はどこにでもあったわけではない。アゴラには常設の市場があった。祭りのときは臨時の市が開かれた。魚を売る行商もいた。
 しかし、アテナイでアゴラのほかに常設の市場があったのは、港のピレウスとラウリウム(ここには銀鉱があった)だけである。
 とはいえ、ふだんギリシア人は(とくにいなかでは)市場に行かなくても、ふつうに暮らせたという。
 それはそれとして、市場では、たとえば高級品と大衆品といったように、さまざまな品質の商品が置かれていた。エジプト綿は高級輸入品だった。
 ギリシア人は馬にはうるさかった。これは現在の車選びとおなじかもしれない。
 少し時代は下るが、アレクサンドロスの愛馬ブケパロスはテッサリア産で、9万6000ドラクマもしたという。馬にしてもワインにしても、血統とかブランドが重視されていたのは、いまも昔も変わらない。
 アテナイの特産品は、すぐれたデザインの陶器だった。陶器は海外にも多く輸出されていた。なかにはブランドを示すマークがつけられたものもあった。だが、たいていはノーブランドである。
 アテナイの市場はアゴラの中心部にあり、アゴラはアクロポリスの北の平坦な地に位置していた。しかし、市場は次第にディピュロン門のほうにも広がっていった。市場の建物も柱廊付きのりっぱなものへと変わっていくが、もともとは粗末で雑多な店の集まりで、その場所は品物に応じて区割りされていた。
 市場にはご多分に漏れず中心と周辺がある。ソクラテスは仲間たちとよく市場にでかけていた。ディピュロン門周辺の場末には、薄汚い製陶所や墓地、風呂屋、露天の店などがあり、旅人たちはそこにある飲み屋や売春宿で羽を休めていた。
 アテナイ人はアゴラや市場でぶらぶらしながら、かなりの時間をすごしていた。ソクラテスもその一人だ。そこで、金持ちで鼻持ちならないソフィストをやっつけたわけだ。
 アゴラの近くには若者たちがたむろして、おしゃべりできる店もあった。いっぽう、ぜいたくな料亭のような店もある。こうした料亭では、時に使い込みのカネが吸い取られたり、政治的な陰謀がくわだてられたり(いまなら共謀罪)することもあったらしい。
 こんなふうにみていくと、遠いアテナイの人もなんだか身近に感じられてくるから不思議である。
 この話、もう一回つづく。