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カーショー『地獄の淵から』を読む(5) [本]

 大恐慌の影響を免れた国はなかった。ヨーロッパでは、1930年にはいると倒産と失業、デフレが進行し、GNPが落ちこんだ。人びとは失業と貧困に苦しんでいた。
 経済状況の悪化は政治行動の急進化を招いた。そんななか、多くの国で挙国一致の流れが生まれ、一部の国ではファシズム運動への支持が高まった。とりわけドイツでは民主主義が危機に見舞われるなか、人びとはナチ党に救国の希望を託すことになる。
 経済危機のさなか、ドイツは1932年に連合国の戦時債務の抹消を取り付けることに成功した。そのころ、ドイツではヒンデンブルクが大統領として、次第に権威主義的な傾向を強めていた。
 1933年まで左翼は30パーセントの得票率を保っていたが、社会党と共産党のあいだには遺恨があって、統一戦線をつくることができなかった。ナチスと共産党の民兵組織のあいだでは、武力衝突がつづいていた。
 いまや秩序を求めるドイツの中産階級は、国家再生の大義をかかげるナチスの暴力を容認するようになった。乱立する政党にはうんざりしていた。
 1932年8月の選挙で、ナチ党は37.4パーセントの得票率で、第1党に躍り出た。そして翌年1月、ヒンデンブルクの後押しで、ヒトラーは首相に就任した。
 ヒトラーは著書『わが闘争』のなかで、公然と反ユダヤ主義をうたい、ソ連から領土を奪うと宣言していた。それを本気で受け止める者はさほどいなかった。それよりも有権者を引きつけたのは、「国民の連帯」によって新たな社会秩序をつくるという公約である。
 政権の座につくと、ヒトラーは社会主義者と共産主義者を一斉に逮捕し、監獄や収容所に送りこんだ。緊急命令によって、無制限の警察権が合法化される。3月には全権委任法が議会を通過し、ヒトラーはすべての権限を握った。共産党は粉砕され、社会民主党は禁止された。そのほかの政党も禁止、または解党に追いこまれた。このあたり、あっというまの展開である。
 1934年6月、ヒトラーはみずからの対抗馬となりそうなナチス突撃隊(SA)隊長のエルンスト・レームを粛清する。粛清者はほかにも150〜200人にのぼった。8月にヒンデンブルクが死ぬと、ヒトラーは国家元首の地位を引き継ぎ、総統となった。
 ヨーロッパが恐慌から回復するには時間を要した。イギリスが最悪の事態を脱したのは1933年になってからである。ケインズの有効需要理論はまだ登場していない。1931年に発足した挙国一致のマグドナルド内閣は、当初、緊縮予算を組んだが、経済状況は好転しなかった。
 イギリスの経済が反転しはじめたのは、金本位制から離脱してからである。生産と輸出が回復しはじめる。さらに政府は、低利資金を導入し、住宅建設の拡大を促し、内需を掘りおこす政策をとった。
 フランスも当初は政府支出を大幅に削減して、病んだ経済を癒やそうとした。しかし、それは裏目に出る。景気が回復しはじめるのは、やはり1935年に金本位制から離脱し、36年から38年にかけフランを大幅に引き下げてからである。
 恐慌からの脱出に向けた、スウェーデン、ノルウェー、デンマークの取り組みは独特だった。通貨を切り下げるとともに、公共事業への国家支出によって、失業に対処する方策をとったのである。
 大恐慌がはじまると、イタリアのムッソリーニは経済への国家介入を強めた。国家支出の増大は、失業の低下をもたらした。
 ムッソリーニのかかげる協調組合国家の理念は飾りにすぎず、経済の実権は大企業に握られていた。1933年には国営の産業復興公社がつくられ、36年には銀行が国有化された。経済の官僚支配がはじまっていた。とはいえ、軍備生産の面でも、大企業は国から巨額の利益を得た。
 ドイツの場合は、大恐慌がもっとも深刻なときに、経済が急速に回復した。そのことが、ヒトラーの独裁体制に拍車をかけることになった。
 ヒトラーはまず左翼政党と労働組合をつぶすところから着手した。それによって、企業は賃金を引き下げ、利益を最大化することが可能になった。
 そのいっぽうで雇用創出計画もつくられた。それ自体に要した予算はさほど多くはなかったが、宣伝上の効果が大きかった。道路建設や土地開発のために、国家勤労奉仕団が動員された。公共事業への予算投入、自動車産業への減税、農業保護、さらには軍備への支出が、経済を新たな地平へと引き上げていった。
 しかし、ドイツの経済回復はそれ自体が目的ではなかった。ナチスはむしろ軍事力の拡大による領土の拡大をめざしており、経済はその手段にすぎなかった。
 1938年になると、政府支出の半分はすでに軍事費にあてられるようになっていた。そのころドイツでは、外貨準備高が不足し、深刻な食糧不足が生じるようになっていた。軍事費を抑えて経済を優先するか、それともあくまでも軍事費を増やして戦争を選ぶか、ヒトラーは決断をせまられる。答えは最初から明らかだった。
 もういちど、1930年代前半の政治状況にふれておこう。
 この時代の特徴は急激な右傾化である。左翼は支持を失っている。
 1931年、スペインでは第2共和国が発足し、社会主義政党が政権の担い手となるが、それも1933年で終わりとなる。
 1936年に発足したフランスの人民戦線政府も短命に終わった。スカンジナビア諸国だけは例外である。
 なぜ政治は左にではなく右にぶれたのだろう。
 極右の形態はさまざまだが、共通の特徴がある、と著者はいう。
 外国人や少数民族など、よそ者とみなす者を排除すること。次に、自由主義者、民主主義者などの政敵を殲滅しようとすること。武闘主義や権威主義を信奉すること。さらにナショナリズムを領土拡張にふり向けること。反資本主義、反労働組合を唱え、国家指導を協調する運動もあった。
 ファシストは権威主義的なナショナリスト政府の樹立をめざした。さらに、国民が国家に献身することを求めた。
 現状に不満をいだく中産階級は、ファシストに引きつけられた。また30年代になると、多くの労働者が社会主義よりファシズムを選ぶようになる。
 ファシズムをもたらしたのは経済的要因だけではない。領土復活(拡張)への思い、よそ者への嫌悪、さらに政党政治への不信などが、ファシズムを生む原動力となった。
 それでも、保守エリート層の支援を受けて、ファシズムが勝利を収めた国は、イタリアとドイツにかぎられる、と著者は指摘する(日本もあてはまるといってよいだろう)。
 イギリスは急進右翼の躍進にすきを与えなかった。議会制民主主義にもとづく立憲君主制がしっかりと確立されていたのだ。政治的な過激派はわきに追いやられ、30年代は基本的に保守党が政権を維持した。労働党は野党になっていたが、革命ではなく改良主義路線をとっていた。ファシストの政治スタイルとイメージはイギリスにはなじまなかった。
 1936年に失業率が35パーセントに達したオランダでも、ファシズムはむしろ警戒され、ほとんど政治の世界に食いこめなかった。ベルギーでもファシスト運動は見向きもされなかった。
 フランスでも政府は次々と交替したが、共和制自体が存続の危機にさらされることはなかった。むしろファシズムにたいする警戒感が、つねに分裂しがちな左翼を団結させていた。その結果、1936年には人民戦線政府が確立される。
 とはいえ、右翼勢力も強固な政治基盤をもっていた。それがのちのヴィシー政権の中核となっていく。
 スペインの場合は事情がことなる。経済不況に対応できず、独裁者のプリモ・デ・リベラは辞任し、パリに亡命する。つづいて国王も亡命し、1931年にスペインは共和国となった。
 その年、左翼勢力は圧勝するが、じつは内部に鋭い分裂をかかえていた。農業改革と労働者保護を中心とするその経済政策が失敗すると、1933年の選挙では右翼の諸派が勝利する。
 右翼の諸派は軍部に支持され、協調組合国家と王制復古をめざした。それはファシズム的色彩を帯びた保守政権だったが、急進的ファシズムは好まなかった。そのとき、モロッコで、フランシスコ・フランコ将軍が反乱をおこす。そして、3年間の内戦をへて、スペインではフランコ独裁政権が誕生するのである。
 中欧と東欧でも、政治は右傾化していた。
 オーストリアでは、自前の護国団とナチ党がファシスト運動を展開していた。護国団などに支持されたエンゲルベルト・ドルフスは1932年に首相の座につき、社会主義を非合法化し、翼賛組織「祖国戦線」のもとで、独裁政権を樹立したる。しかし、1934年にナチスによって暗殺される。
 その後、オーストリアはドイツに反発しながら、独自の権威主義的体制を維持するが、もちこたえられない。けっきょく1938年には、ドイツによる併合の憂き目をみることになる。
 連合国側についたルーマニアは、第1次世界大戦の結果、領土を2倍に拡大していた。そのため、ほんらいならファシズムにひかれる要素はなかったのに、経済不況と少数民族、とりわけユダヤ人への偏見が、「大天使ミカエル団」(別名「鉄衛団」)の運動に火をつけた。だが、国王カロル2世は「大天使ミカエル団」を禁止し、議会を解散して、独裁王政を敷いた。
 広大な領土を失ったハンガリーも、深刻な経済不況によって社会的緊張が高まっていた。しかし、ホルティ・ミクローシュの権威主義的体制のもとで、ファシスト組織「矢十字党」はほとんど勢力を伸ばすことができなかった。
 著者によれば、東欧や中欧では「大衆動員を自らの権力に対する脅威とみなす、軍部を筆頭とする反動保守派の権威主義的エリート層が国家を支配したことが、ファシスト運動が突破口を開くうえで最大の障害だった」という。
 だが、このころすでにドイツは領土拡張をめざして、ヨーロッパ心臓部をにらんでいた。平和はいつ終わってもおかしくなかった。

カーショー『地獄の淵から』を読む(4) [本]

 1924年になると、ヨーロッパには明るい兆しがみえてくる。戦争の恐怖は記憶のなかに後退し、経済は回復しつつあった。その5年後にアメリカで大恐慌が発生し、ヨーロッパも大混乱に巻きこまれるとは、だれも思っていなかった。
 ハイパーインフレに襲われたドイツは、1923年に新通貨レンテンマルクを導入、翌年それをライヒスマルクと改称し、通貨の安定に成功した。またドーズ案によって、賠償方式の緩和がはかられた。
 ヨーロッパ主要国は、このころ戦前の金本位制に復帰する。経済の安定が戻ってくるように思えた。実際、「黄金の20年代」には経済の急回復がみられた。モータリゼーションや電気照明が都市の景観を変えようとしていた。ヨーロッパの家庭にも、アメリカ流の家電製品がはいってくるようになる。ラジオが急速に普及した。
 住宅事情はまだまだだ。ドイツでは政府が住宅建設に多額の資金を投入し、ベルリンやフランクフルトでは労働者向けの大規模団地がつくられた。しかし、これは例外で、概して人びとは劣悪な住宅環境下でくらしていた。
 フランス、ドイツ、イタリアで、労働組合は1日8時間労働の要求を勝ちとった。しかし、賃金には大きなばらつきがあった。イギリスでは1926年にゼネストが発生するが、勝利を収めたのは経営者側である。
 世界市場での競争が激しくなり、重工業や繊維など旧来の産業部門でも失業率が高くなった。だが、イギリスでは1911年に導入された失業保険により、最悪の事態は避けられた。
 競争によって、農産物の価格が下落したため、農民は苦しい生活を強いられた。農村を離れて、都市の工場ではたらこうとする農民も増えてくる。
 それでも経済には多少なりとも明るい兆しがみえていた。1929年の大恐慌は、その兆しを一瞬にして吹き飛ばすのだ。
 ソ連では1921年からの新経済政策が一定の成果を挙げていた。革命の輸出と迅速な工業化を求めるトロツキーの影響力は衰えつつあった。スターリンはまずジノヴィエフ、カーメネフ、ブハーリンを味方にして、トロツキーを追い出し、それからジノヴィエフとカーメネフを党から除名し、最後にブハーリンを分派主義者として失脚に追いこんだ。こうして1929年、スターリンは名実ともに党の最高指導者となる。
 1928年にスターリンは第1次5カ年計画を提唱した。翌年から実施された計画は、表向き鉱工業生産を急増させたものの、苛酷な労働をもたらした。加えて食料を確保するための農業集団化計画が、「富農」の一掃と、農民の弾圧、すさまじい凶作をもたらした。ほんらい肥沃なウクライナも飢饉におちいる。そのときの死者数は330万人と推定されている。
 いっぽう、ヨーロッパでは、1920年代は大衆文化が花開いた時代だった。娯楽映画館やダンスホール、それにパブやバーがにぎわった。サッカーも人気の的となり、ドイツ、イタリア、スペインではプロのリーグが創設された。
 芸術では「モダニズム」が流行する。「従来の美と調和、理性という理念」に代わって、「断片化と不統一、そして混沌が新たな主題になった」という。画家ではピカソ、文学ではジョイスやヘミングウェーなどがもてはやされた。フロイトとユングの精神分析、無意識の省察が注目されるのもこのころである。
 ドイツではいわゆるワイマール文化が一世を風靡した。表現主義やダダイズムが提唱される。グロピウスはワイマールで「バウハウス」を創設した。シュトゥットガルトでは、モダニズム様式の住宅団地が建設された。トマス・マンの小説『魔の山』は、1924年に出版されると大絶賛をあびた。フランツ・カフカは1924年に亡くなるが、その作品は死後大いに注目された。ブレヒトは実験的な演劇作品にとりくんだ。
 しかし、1930年代にはいると、ナチスは「モダン」なもの、「退廃した」文化に攻撃をしかけることになる。ドイツ文化をあやうくしているのはユダヤ人だと言いふらしていた。
 ドイツではさまざまな前衛芸術とはうらはらに、ヨーロッパのどこよりも文化的悲観主義が広がっていた。それを代表する著書がシュペングラーの『西洋の没落』である。このころ、ドイツほど、国家衰退への懸念に引き裂かれた国はなかったという。
 ここでまた政治状況に戻ろう。
 1924年のドーズ案はヨーロッパの緊張を緩和する第一歩となった。
 さらに1925年10月にはロカルノ条約が結ばれ、ドイツとフランスならびにベルギーは、双方とも戦争をしかけないことを約束した。ドイツ西部国境とラインラントを非武装地帯とすることも決まった。ただし、ポーランド、チェコとの国境問題は未解決のままだった。ロカルノ条約が結ばれた結果、1926年9月にドイツは国際連盟に加盟する。
 賠償金の軽減を決めたドーズ案では、1928年から29年にかけて賠償金がふたたび上昇することになっていた。そこで、1929年1月にヤング案がまとまる。毎年のドイツの賠償金支払いを少額とし、その代わりに返済期間を1988年まで延長するというものだ。ヤング案を受け入れれば、連合国軍はラインラントから撤退するという付帯条件がついていた。
 1930年3月、ドイツ国会はヤング案を批准した。しかし、ナショナリスト右翼は、その受け入れに反発した。
 1920年代半ば以降も、北欧と西欧はほぼ民主主義を維持している。しかし、ヨーロッパ全体に民主主義が行き渡っていたわけではない。
 ハンガリーの民主主義は見かけだけだ。チェコスロヴァキアでは民主主義が保たれていた。オーストリアではイデオロギー対立が激しく、ドイツ民族主義者が支持を拡大していた。ポーランドでは1926年にピウスーツキ元帥がクーデターを決行し、権威主義的な体制を確立した。しかし、バルト3国やフィンランドは民主主義を何とか維持している。
 バルカン半島諸国では代議政治は見せかけで、縁故政治と汚職が蔓延していた。ギリシア、アルバニア、ブルガリア、ユーゴスラヴィアは王政ないし権威主義的体制のもとにある。
 スペインではプリモ・デ・リベラが独裁体制を築き、ポルトガルではアントニオ・サラザールが1928年に蔵相に任命され、4年後に首相となるところだ。
 イギリスでは政権交替をともなっても、民主政治はさすがに安定していた。1924年にはラムゼイ・マグドナルドの労働党が短期間、政権をにない、その後、5年間スタンリー・ボールドウィンの保守党がむずかしい政局を運営する。さらに1929年からはふたたびマグドナルドが首相の座につく。このかん、共産主義者やファシストの団体は、まったくイギリスの政治に影響を与えていない。
 フランスでは内閣がめまぐるしく替わった。しかし、レイモン・ポアンカレの手腕のもと第3共和制は支持されていた。
 イギリスやフランスとちがい、ドイツの民主主義は揺れはじめていた。それでも1920年代後半、共産党の支持率は低迷し、ヒトラーの蜂起失敗のあと、ナチ党は政治の外縁にとどまっていた。
 1928年の総選挙では、社会民主党が勝利を収め、ヘルマン・ミュラー党首のもと国民党などとの連立政権を発足させた。だが、政権のあいだで次第に亀裂が深まり、1930年3月、ミュラー内閣は崩壊する。
 大恐慌による経済危機がドイツを襲っていた。そうしたなか、共産党とナチ党が支持を伸ばす。1930年9月の総選挙ではナチスが18.3パーセントの得票率で107議席を獲得し、第2党に躍り出る。それでもヒトラーが首相になる可能性は低いと思われた。それが変わっていくのだ。

カーショー『地獄の淵から』を読む(3) [本]

 第1次世界大戦は「戦争を終わらせるための戦争」と呼ばれていた。だが、じっさいには、より破壊的な戦争に道を開くことになる。
 戦争に勝利したロイドジョージ首相のもと、イギリスでは兵士の動員解除が順調に進んだ。だが、景気はよくない。失業者が増え、ストライキが頻発する。政府債務は膨大で、そのほとんどがアメリカの信用に依存していた。
 敗北したドイツやオーストリアでは、通貨価値が下落し、インフレが昂進していた。政府がインフレを容認したのは、巨額の国内債務を解消するのに好都合だったからである。通貨下落とインフレのもと、ドイツ産業は復興を遂げる。しかし、さらにハイパーインフレが昂進すると、手の施しようがなくなる。それまでの貯蓄はほとんど無価値になった。
 東欧の状況は悲惨だった。戦争によって国土は荒廃し、物不足と飢餓に襲われた。革命がおこらなかったのが不思議なくらいだ、と著者は書いている。人びとは革命をおこす元気もなかったのだろう。
 西欧では、二度と戦争をすまいとする平和主義が広がっていた。だが、戦争を美化し、暴力と憎悪を歓迎する風潮が消えたわけではない。
 1919年から23年にかけ、アイルランドではイギリスにたいする激しい独立運動が発生する。イギリス当局は特殊部隊をつかって、これを弾圧する。1922年末にはアイルランド自由国が発足した。
 1922年、イタリアではファシスト政権が発足する。翌年、スペインでは軍事独裁政権が成立する。
 1923年のローザンヌ条約により、トルコ共和国が正式に認められ、それまで紛争の多かったギリシアとのあいだで、住民の交換がおこなわれた。トルコのギリシア人100万人と、ギリシアのトルコ人36万人が入れ替えられた。
 東欧では激しい国境紛争がつづいている。ロシアでは恐怖の内戦がはじまった。ユダヤ人にたいする暴力事件が相次ぐ。
 ハンガリーではクン・ベーラの短期ソヴィエト政権が崩壊したあと、「白色テロ」が横行した。「赤色テロ」に対抗して「白色テロ」を実行したのは、民兵組織である。
 ロシアでは1917年から3年間、内戦がつづき、700万人以上が死亡した。赤軍はシベリアから西進する白軍を迎え撃ち、勝利を収めた。
 だが、ボリシェヴィキ政権にたいする農民の反発も高まっていた。農産物の強制徴発と、拙速な集団農場化が農民反乱を巻き起こしたのだ。当初、これを弾圧した政府は1921年に「新経済政策」を導入する。これによって経済は回復しはじめる。
 1924年、レーニンが死に、スターリンが権力を掌握した。スターリンのもと、ソヴィエト政権は以前にも増して、恐怖政治の度合いを高めていく。
 以上が、第1次世界大戦後のヨーロッパの概況である。
 もうすこし詳しくみていこう。
 1919年のヴェルサイユ会議で、ヨーロッパには新しい地図が生まれていた。ロシア、オスマン、オーストリア・ハンガリー、ドイツの帝国が姿を消して、新たに10の国民国家が出現した。
 アメリカのウィルソン大統領の提案により、1920年、ジュネーヴに国際連盟が創設される。だが、国際連盟による国際秩序の維持は、当初から困難をきわめた。国内事情により、当のアメリカすら、国際連盟への加入を見送っていた。
 ウィルソンの提案した民族自決は、多くの植民地をかかえるイギリスやフランスにとっては、受け入れるのがむずかしい理念だった。中欧や東欧の複雑な民族混合状況も、民族自決の達成を不可能にしていた。せいぜい期待できるのは、多民族国家のなかで、民族のちがいが国民統合によって乗り越えられることくらいだった。「オーストリアを除けば、民族的に均一は新生国家は一つもなかった」と著者は書いている。紛争の種は残った。
 ヴェルサイユにおける領土処理は、敗者の側に落胆と怒り、恨みを残した。とりわけ勝者の「4大国」(アメリカ、イギリス、フランス、イタリア)は、ドイツが二度と戦争を起こさないようにするため、懲罰と賠償でドイツを縛ろうとした。
 講和条約によって、ドイツは東部を中心に領土の13パーセントを削減された。徴兵制は禁止され、兵力も450万から10万に削減された。ダンツィヒ(現グダニスク)や、ザールラント、ラインラントも国際的な管理下におかれた。ベルギーやデンマークに分割された地域もある。とりわけ痛手だったのは「ポーランド回廊」、すなわち西プロイセンとポーゼン(現ポズナニ)を新生ポーランドに割譲しなければならなかったことである。
 ドイツにとってさらに苛酷だったのは、巨額の賠償支払いが課せられたことである。それはドイツの政治に重くのしかかり、激しいナショナリズムを生む要因になっていく。
 大戦後のヨーロッパの政治的基調は議会制民主主義だった。投票権が拡大され、大衆政治が定着する。それとともに新聞の影響力も強まっていく。
 小選挙区制をとるイギリスでは、自由党と保守党の2大政党が政権の座を競ったが、比例代表制をとる大陸では政党が乱立し、政府が不安定になる傾向がみられた。
 しかし、どの国でも民主主義が尊重されていたわけではない。民主主義は見せかけだけで、内情は暴力的な独裁制ないし寡頭制が支配していた国もある。ソ連はいうまでもないが、ギリシアやアルバニア、ブルガリア、ルーマニアなどもそうした国々だった。
 スペインでは1923年以来、ミゲル・プリモ・デ・リベラ将軍による独裁がつづく。しかし、この独裁は比較的温和であった。公共事業によって、スペインには一時繁栄感すらただよった。
 新たに誕生したフィンランドとチェコスロヴァキアでは議会制民主主義が維持された。バルト3国のエストニア、ラトヴィア、リトアニアも同様である。
 ユーゴスラヴィアはセルビア人の王室のもとで創設された新国家(セルビア人・クロアチア人・スロヴェニア人王国が改称)である。議会制度をもっていたが、民族間の対立は深刻で、8年間で24の政府が入れ替わるありさまだった。
 いっぽうポーランドでは、民族的結束感が生まれていた。とはいえ、少数民族(ウクライナ人、ユダヤ人、ベラルーシ人、ドイツ人)がいなかったわけではない。1921年の民主憲法により、議会がつくられたものの、それはまとまりがなく、いかにも無能にみえた。ハイパーインフレ後の緊縮策が、経済的不安を招いていた。1926年にはピウスーツキ元帥がクーデターに踏み切る。
 小国となったオーストリアでは、社会民主党と反社会主義のキリスト教社会党とのあいだで対立がつづいていた。「赤いウィーン」では、社会民主党が勢力を保っていた。だが、農村部は圧倒的に保守的であり、社会民主党と結びついた民主主義は次第に劣勢に追いこまれていく。
 ハンガリーでは1919年に共産党政権が発足する。だが、クン・ベーラによるプロレタリア独裁政権は、ルーマニア軍の侵攻によってたちまち倒れ、右翼民族主義の保守勢力がハンガリーの支配権を奪還する。その結果、戦争の英雄ホルティ・ミクローシュが24年にわたり国家元首として君臨することとなった。
 戦後の混乱期、イタリアではコミンテルンを支持する社会党が議席を伸ばすなか、都市でも農村でも暴動が起き、革命は間近と思われていた。
 そんなときイタリアの北部と中部の都市で、「ファッシ」を自称する民兵組織が芽をだしはじめる。ベニート・ムッソリーニは、もともと社会党機関誌の編集長をしていたが、左翼社会党とたもとを分かち、次第に反革命に転じるようになった。
 1921年になって、自由党の政府は、社会党と人民党をたたくため、ファシストのムッソリーニを資金と武器で支援するようになる。ファシスト勢力が力を伸ばしたのは、意外なことにイタリア北部ではなく中部だった。ファシストは民兵部隊の容赦ないテロによって、社会主義者を攻撃し、以前の赤い県をたちまち自分たちの牙城に変えていった。
 こうして1921年10月に国家ファシスト党が誕生する。1922年5月に党員数は30万人を超えた。その10月には、黒シャツ隊によるいわゆる「ローマ進軍」が実施される。暴力的示威行動である。国王はファシスト党を支持し、ムッソリーニに首相就任を要請した。
 1923年11月、ムッソリーニは自党が有利になるように選挙法を改正し、1924年4月の選挙で、ファシスト党が大半を占める「国民ブロック」が議席の3分の2を獲得した。6月には社会党書記長ジャコモ・マッテオッティが暗殺される。その後、野党は弾圧され、報道の自由は撤廃され、政府はほぼファシストの手に握られることになる。
 いっぽうドイツでは、アドルフ・ヒトラーが1921年に国家社会主義ドイツ労働者党(通称ナチ)の指導者となり、バイエルン州を中心に勢力を広げていた。1922年秋には、ミュンヘンのビヤホールでヒトラーを「ドイツのムッソリーニ」と称える集会が開かれ、反政府的なナショナリスト過激派に火がつく。社会民主党を中心とするベルリンの政府は、各地で左右の激突が発生するなかで、次第に弱体化していった。
 1923年、ハイパーインフレが高じると、政治が両極化する。軍は共産主義者の蜂起を鎮圧するのに躍起になった。軍は右翼国粋主義の立場をも支持しなかった。それでも、ヒトラーはミュンヘンで劇場型の一揆を起こし、逮捕され、軽い禁固刑を言い渡された。
 民主主義はかろうじて生き残っていた。ドイツでは軍はまだ政府を支持していた。「だが、脅威は沈静化しただけで、消滅したわけではなかった」と、著者は書いている。ヴェルサイユ体制のくびきが、ドイツをしめつけていたからである。

カーショー『地獄の淵から』を読む(2) [本]

[50枚ほどの翻訳の仕事が終わって、ほっとしています。また読書を再開します。戦前のヨーロッパ史を読んでいます。きょうはその2回目。両親の介護で、またいなかに戻る前に読み終わるといいのですが……。]

 第1次世界大戦は「以前のどの戦争にも増して、大量殺戮を産業化した戦争だった」と、著者は書いている。大量の近代兵器が人命の大量損失を招いた。
 高性能砲、手榴弾、火炎放射器に加え、毒ガス、戦車、潜水艦、飛行船など、あらゆる軍事技術が戦場に投入された。兵士だけではなく、一般住民も殺害対象になった。
 1914年9月6日から9日にかけてのマルヌの会戦で、フランス軍はドイツ軍の進撃をくいとめる。塹壕が構築され、それから4年間、西部戦線は膠着状態となった。
 しかし、東部戦線では、戦況は中央同盟国側に有利に進んだ。
 東プロイセンのタンネンベルク近郊で、ドイツ軍はロシア軍に大敗北を負わせた。ガリツィアでは、ロシア軍がオーストリア軍を破り、ユダヤ人が大量に虐殺された。
 トルコではダーダネルス海峡のガリポリに上陸した50万人の連合国軍を、同盟国側のケマル・パシャ(アタテュルク)率いるトルコ軍が撃破する。そのいっぽう、アナトリア東部では、ロシアに共感をもつアルメニア人をトルコ軍が虐殺している。
 西部戦線が膠着しているため、1915年夏、ドイツ軍は東部に攻勢をかけた。同盟国のオーストリア軍はあてにならなかった。ドイツ軍はガリツィアを奪還し、ポーランドを占領、さらにラトヴィア、リトアニアを制圧した。
 ドイツ軍は、さらにオーストリア軍、ブルガリア軍とともにバルカン方面に進出し、セルビアを支配下においた。
 問題は西部戦線だった。1916年夏から冬にかけ、ヴェルダン(フランス北東部)では大激戦がつづいた。ドイツ軍、フランス軍双方の戦死者は70万人を超える。ソンムではイギリス軍と植民地軍がドイツ軍と戦い、双方で100万人以上の犠牲者をだしたが、戦略的には何の進展もなかった。
 ドイツはベラルーシ、ウクライナまで、軍を進めていた。そのあたりで、ロシア軍の反攻がようやくはじまる。
 1917年にはいると、ドイツは無制限潜水艦戦を開始する。Uボートに脅威を感じたアメリカのウィルソン大統領は、4月になってドイツに宣戦を布告する。
 激しい戦闘がくり広げられたものの、西部戦線では膠着状態がつづいていた。イギリス軍は11月のカンブレーの戦いで、はじめて戦車を投入する。
 だが、このとき、ロシアではすでに革命が発生していた。3月にロマノフ王朝が倒れ、ケレンスキー内閣が発足した(ロシア暦「2月革命」)。つづいて11月(ロシア暦10月)、レーニンが権力を掌握する。
 レーニンはさっそくドイツとの停戦合意に乗りだし、翌1918年3月にブレストリトフスク条約を結ぶ。これにより、ロシアは戦線から離脱し、バルト3国、ウクライナ、ポーランド領を失うことになる。
 アメリカのウィルソン大統領は1918年1月に「14カ条宣言」を発表する。戦争終結とヨーロッパ平和をめざす宣言で、のちに民族自決の原則と称される内容を含んでいる。
 だが、戦争はまだ終結していたわけではない。ロシアの戦線離脱により、中央同盟国は広大な領土を獲得した(のちに破棄)。
 ドイツは西部戦線に兵力を集中することができるようになった。しかし、そのドイツ軍にも疲れがみえるようになる。
 連合国軍にアメリカ軍が加わるようになると、ドイツ軍の総退却がはじまる。
 1918年11月9日、ヴィルヘルム2世が退位し、ドイツ帝国は崩壊、新政府が発足する。11月11日、ドイツは敗北を認め、休戦協定に調印した。それにより、第1次世界大戦は終結する。
 前線の兵士はいうまでもなく、戦争が人びとにおよぼした影響はさまざまだ。その影響は国によってもことなる。
 しかし、どの国でも、大勢の若者が動員された。統制経済と国家支出の大幅増がみられた。総力戦のもと、官僚機構は肥大化し、監視と強制、弾圧が強化された。東欧では、とりわけユダヤ人がひどい扱いを受けた。
 イギリスでもフランスでも、さまざまな意見対立はあったが、戦争遂行に向けた団結意識は揺るがなかった。ドイツでは総動員法が導入され、すべての国民が軍需産業での労働奉仕を義務づけられていた。
 だが、ロシアでは政府への反乱が発生する。1916年から17年にかけての厳しい冬場、激しいインフレが進むなか、人びとは深刻な食糧難と燃料不足に苦しんでいた。その怒りが労働者のストライキとデモを誘発し、兵士も労働者を支持した。帝国当局はその状況を収拾できず、皇帝はついに退位へと追いこまれた。最終的にボリシェヴィキが権力を握ったのは「平和とパン、土地の配分、工場の所有と管理、そして人民による法の掌握という約束」が支持されたからだ、と著者はいう。
 1917年4月、ドイツでは社会民主党が分裂し、戦争に反対する少数急進派がのちのドイツ共産党を結成することになる。1918年になると、ドイツの敗色は濃くなり、前線では脱走や投降が相次ぐ。10月末にはキールで水兵が反乱をおこした。翌月のドイツ敗北は、帝国の崩壊を意味した。
 イタリアは三国協商側についていたにもかかわらず、戦争では負けつづきだった。戦争末期、政府への不満が高まり、世論は分裂する。そんなころファッシ(結束)を標語とする右翼グループが台頭する。
 ハプスブルク帝国は終焉を迎えようとしていた。1916年11月には皇帝フランツ・ヨーゼフ1世が死去し、カール1世が帝位を継承する。しかし、1918年にはいると、食料暴動とストライキ、抗議デモ、民族主義的分離運動が広がり、帝国は四分五裂状態になった。
 10月末になると、チェコスロヴァキアとハンガリー、そしてその後ユーゴスラヴィアとなる地域が独立を宣言する。戦争は11月3日に終結する。それにより、カール1世は退位し、ハプスブルク家の支配は終わった。
 トルコではオスマン帝国が崩壊する。1916年以降、中東ではアラブ人の反乱が巻き起こっていた。この反乱を指導したのはイギリスとフランスである(アラビアのロレンスが名高い)。しかし、イギリスとフランスによる中東の領土分割は、のちに禍根を残すことになる。
「戦争は、粉々に壊れたヨーロッパを後に残した」と、著者は書いている。
 帝国ドイツとハプスブルク君主国、帝政ロシアの廃墟からは、不吉な力が生まれようとしていた。ナショナリズムとボリシェヴィズム、それに領土紛争の火種が熾火となって、新たな憎悪を呼び寄せようとしていたのである。

カーショー『地獄の淵から』(ヨーロッパ史)を読む(1) [本]

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 1914年から49年までのヨーロッパ史である。その後、現在までをえがく続巻も予定されている。著者のイアン・カーショーは、とりわけナチズム研究で知られ、ヒトラーについての浩瀚な伝記も書いている。
 大冊だ。はたして最後まで読めるか、心もとない。一度に読み切るのはとても無理だから、少しずつながめて、ごく短いメモと感想なりとも残しておきたい。
 まず、概論と第1章を読む。
 1914年から45年まで、ヨーロッパは悲惨な自滅の時代を経験した、と著者は書いている。地獄の淵にあったわけではない。まさに地獄を抜けたのである。
 破局をもたらした要因は4つあるという。

(1)民族主義・人種差別主義的ナショナリズム
(2)領土修正をめざす激しい要求
(3)ロシア革命を背景とした先鋭的階級闘争
(4)長期化する資本主義の危機

 並べてみると、なんだかいまと似ているような気がする。
 たとえ状況は変わっても、歴史はくり返されるのだろうか。
 本書にえがかれる現代ヨーロッパ史の概要は、次のようなものだ。
 第1次世界大戦(1914〜18)は、100年つづいたウィーン体制を崩壊させた。だが、終戦後の領土再編は、国家間、民族間、階級間の対立と緊張をさらに悪化させ、次の衝突を導いていく。
 とりわけイタリアとドイツでは、反ボリシェヴィズムとナショナリズムが結合して、右翼大衆運動が巻き起こり、過激右翼が政権を掌握する。
 大恐慌(1929)後の世界経済は混乱していた。大衆の不安にかこつけて、強さをうたう政治勢力が台頭していく。その運動は武力が国を救うという思想へと結実していく。こうして破滅的な第2次世界大戦(1939〜45)がはじまった。
「しかし、驚いたことに、第1次世界大戦が生み出した大混乱とは対照的に、第2次世界大戦はヨーロッパが20世紀後半に再生する道を切り開く」と、著者は記している。
 ヨーロッパ列強がヨーロッパ半島の覇権をめざして争う時代は終わり、二大国の米ソが核の力を背景ににらみあう時代がはじまったのだ。
 これが本書(全2巻を予定)のえがこうとする時代の大きな流れである。
 本巻では、とりあえず20世紀前半のヨーロッパに焦点があてられる。
 それをぼつぼつ読もうとしているわけだ。

 まずは第1章「瀬戸際で」。
 第1次世界大戦によって、ヨーロッパは「大破局」を迎えることになる。当時はだれも気づかなかったが、それは20世紀の「30年戦争」の幕開けだった。
 戦争がはじまる前、ヨーロッパは安定と繁栄、平和を謳歌していた。フランスはベル・エポック、ドイツはヴィルヘルム時代、アメリカは金ぴか時代の絶頂にあり、ヨーロッパ各地の都市は華やかな文化にあふれている。もっとも、ロンドンは文化よりも経済の都で、世界貿易の中心地だった。それを支えていたのは金本位制とイングランド銀行である。
 1900年、パリではオリンピックと万国博が開催された。繁栄はいつまでもつづくと思われた。だが、ヨーロッパ全体に繁栄が行き渡っていたわけではない。東西、南北、それに国による格差も大きい。ほとんどの国では、王権の支配がつづいていた。
 それでも社会の変化がおきつつある。普通選挙制度が導入された背景には、労働者階級の台頭があった、と著者はいう。イギリスでもフランスでもドイツでも労働者政党が生まれている。
 いっぽうで、ナショナリズムをあおる右翼の大衆運動も出現する。狂信的愛国主義にあふれた運動は、しばしば排外主義的で、人種差別主義的だった。それを支持したのは中産階級か下層中産階級で、かれらは拡張主義的な外交政策を支持した。
 反ユダヤ主義も広がりつつある。経済が悪化すると、ユダヤ人はスケープゴートにされがちだった。反ユダヤ主義は、第1次世界大戦前はある程度抑えられていた。それでも、ロシアでは何度もポグロムがおき、1905年10月には、3000人以上のユダヤ人が殺害されている。
 そのころ、優生学や社会ダーウィニズムが大手を振ってまかりとおるようになった。
「第1次世界大戦前のヨーロッパは、うわべの平穏とは裏腹に、のちの爆発的な暴力の種を宿していた」と、著者は書いている。
 ヨーロッパはずるずると第1次世界大戦に突入したようにみえる。だが、サラエヴォ事件のあと、1914年7月の危機において、決定的な引き金を引いたのはドイツだ、と著者はいう。
 ドイツはオーストリア・ハンガリー帝国(ハプスブルク帝国)を無条件で支持した。いっぽう、ロシアはセルビアを無条件で支持する。
 フランスとロシアは1894年に同盟を結んでいた(仏露同盟)。両方の側からドイツをはさんで、その力をそぐためだ。
 だが、その当のロシアは、オスマン帝国をたたくことで、ボスポラス、ダーダネルス両海峡を制し、念願の地中海進出をもくろんでいる。
 イギリスはロシアの勢力拡大を恐れている。ロシアが地中海、中東、中央アジアに進出すれば、イギリスの重要植民地であるインドがあやうくなるからだ。
 イギリスは1907年にロシアと英露協商を結んだ。日露戦争で敗北したロシアの勢力をいまならコントロールできると考えていた。
 1904年、イギリスはドイツの力を抑えるため、フランスとも英仏協商を結んでいる。これにより、1907年の協商とあわせて、イギリス、フランス、ロシアとのあいだで三国協商が結ばれたことになる。たがいに疑心暗鬼をひめた虚々実々の協商である。
 大きな陸軍をもたないイギリスは別として、ヨーロッパ各国は積極的に軍を増強していた。ロシアは350万、ドイツは210万、フランスは180万、オーストリア・ハンガリーは130万である。
 ほんとうなら、サラエヴォでの皇太子暗殺事件は、オーストリア・ハンガリー帝国とセルビアとのあいだで決着してもよかったはずである。それがなぜヨーロッパ全体を巻きこむ大戦争へと発展したのだろうか。
 暗殺直後、オーストリアの対応はにぶかった。それが、かえって「ゆっくりと燃え上がる導火線」になった、と著者はいう。
 そのかんドイツは素早く戦争の準備に動いた。オーストリアがセルビアに最後通牒を突きつけるのは、事件から3週間半が経過した7月23日になってからである。セルビアは当初、それを受け入れるつもりだった。ところが、セルビア側に立つロシアは、受諾に反対し、軍に総動員をかけた。単なる脅し、あるいは万一に備えただけかもしれない。
 ところが、ドイツは不安に駆られた。ドイツは8月1日、ロシアに宣戦を布告する。ロシアと協商関係にあるフランスは、これをみて軍に総動員をかける。8月3日、ドイツはフランスに宣戦を布告した。
 イギリスはドイツがヨーロッパ全土を支配することを恐れていた。そこで、ドイツがベルギーに侵攻した8月4日、ドイツに宣戦を布告した。
 いちばん最後に参戦したのは、皮肉なことにオーストリア・ハンガリー帝国である。大戦がはじまると、セルビアはむしろ蚊帳の外におかれた。
 ロシアの進出をおそれるオスマン帝国は、必然的にドイツ側に立って戦わざるをえない。
 どの当事国も、戦争は短期で終わると確信していた。そのために、最新の軍事技術を一気に投入した。長期の消耗戦は避けたい。
 モルトケの指揮するドイツ軍は、シュリーフェン作戦にもとづき、西部戦線でフランス軍を速攻で下し、とって返して東部戦線でロシアを撃破する計画を立てていた。ひと月もあれば、戦争に勝利するとみていた。
 ベルリンでもウィーンでもサンクトペテルブルクでもパリでも、多くの市民が愛国的熱気のなかで、戦争がはじまるのを歓迎した。やむなく祖国防衛に立ち上がる人もいた。
 どの国の新聞も、敵国へのヒステリーをあおった。
 ロシアでは首都のサンクトペテルブルクがペトログラードと改称された。サンクトペテルブルクという名前はあまりにもドイツ風と考えられたのである。
 ほとんどの人がクリスマスには戦争が終わると思っていた。
 だが、そうはならなかった。戦争ははじめるのは簡単だが、おわらせるのはむずかしいのである。
 しかも、その戦争は帝国主義時代の動向とからんで、ヨーロッパにかぎらず世界じゅうに飛び火していった。


『負債論』(デヴィッド・グレーバー)書評 [本]

 借金やローンは悩みの種だ。借金なんかしなければよかったと思っても後の祭り。家や車がほしかったり、教育資金や事業資金が必要だったりと、借金には人さまざまな理由がある。商売がうまく立ちゆかず、負債に悩んでいる人も多い。板子一枚下はまさに借金地獄。それなのに、国が1200兆円以上も借金をかかえながら、ひとごとのように平気な顔をしていられるのは、なぜか。
 本書の著者、デヴィッド・グレーバーは、イギリスの名門大学、ロンドンスクール・オブ・エコノミクス(LSE)の人類学教授で、アナキストの活動家としても知られる。「われわれは99パーセントだ」というスローガンをつくり、ウォール街占拠運動の理論的指導者として一躍有名になった。反グローバリズムを唱え、サミットにも反対している。そのグレーバーの代表作が、この『負債論』である。
 本書が問題にするのは、人がいつのまにか信じこんでいる、お金にまつわる道徳意識についてである。「借りたお金は返さなければならない」。だが、ほんとうにそうなのかと問うところから、著者の探求ははじまる。
 そもそも負債、借金とは何か。負債は貨幣で計算され、貨幣で返済を義務づけられる。だとすれば、負債の根源には貨幣がある。著者が負債の歴史を研究しようと思い立ったのは、2008年の金融危機を経験してからだという。それは「念の入った詐欺」以外のなにものでもなかった。さらに、そのさい救済されたのが一般市民ではなく、金融企業すなわち銀行だったことに疑問をいだいた。
 それにしてもすごいのは、本書が負債のもととなる貨幣の歴史を、5000年さかのぼって古代メソポタミアからたどろうとしていることだ。
 経済学では、ふつう貨幣は物々交換から生まれたとされる。その神話を著者は疑う。なぜなら、双方の欲求が一致しなければ成立しない物々交換ほどむずかしいやりとりはないからだ。物々交換の困難さを解消するために貨幣が生まれたという経済学の仮説は、観念上の操作でしかない。
 世界の歴史をたどれば、人類が物々交換をおこなっていた形跡はどこにもみあたらない。分かち合いや贈与、広い意味での貸し借りはあったけれども、物々交換はなかった。実際に物々交換らしきものがおこなわれたのは、かえって近代になってからであり、貨幣崩壊が生じた戦後の混乱期などにかぎられる。
 経済学の考え方は、当初、貨幣には塩や貝殻や干鱈、たばこ、砂糖、釘など、だれもが交換しやすい物品が用いられていたが、次第に金属が貨幣として用いられるようになり、次に紙幣が登場して、信用が発達し、金融システムが形成されていったというものである。だが、それは貨幣のほんとうの歴史ではない、と著者はいう。
 スミスもマルクスも、国家から市場社会を切り離して、経済理論を構築した。そのため、商品の物々交換から貨幣が生じ、さらに貨幣が資本をつくりだしたと考えた。そうではない。商品から貨幣が生まれるのではなく、貨幣があるからこそ商品が出てくるのだ。
 スミスが市場社会ユートピアを構想したのにたいし、マルクスは市場社会ディストピアを暴きだした。スミスは資本の拡張が豊かな社会を生みだすと考えたが、マルクスは資本の蓄積こそ貧富の拡大と社会の分裂を招くととらえた。そのため、スミス流では資本の拡張、マルクス流では資本の解体が求められる。
 だが、著者によれば、スミスもマルクスもまちがっているということになる。実際には、スミスは国家なき市場社会を理想とし、マルクスは市場社会なき国家(プロレタリア独裁国家)を理想としているのだ。その前提となったのが、貨幣は商品交換ないし物々交換から生じたという考え方である。そうでないとすれば、貨幣はいったいどこから生じたのだろうか。
 歴史を振り返れば、貨幣が発生したのは、紀元前3000年ほど前、メソポタミアのシュメール文明においてである。貨幣は官僚によって発明され、都市に貯蔵される物資を集めたり分配したりするのに用いられた。その貨幣は金属片ではなく、粘土板に刻まれたしるし(仮想貨幣)だった。
 貨幣をつくったのは国家にほかならない。国家は常備軍を維持するために、兵士に貨幣を配布し、それで食料品をはじめとする物資を調達させた。いっぽう、国民にたいしては、税を貨幣で払うよう求める。すると、この貨幣は流通しはじめ、市場が生まれるのだ。国家と市場はつきものであり、国家なき社会は市場も持たないと著者はいう。
 メソポタミアでは、神殿の役人が商人たちを国外に派遣し、羊毛や皮革を売らせて、国に足りない木材や金属を買わせていた。そのため仕入れの前貸しとして渡されたのが貨幣である。貸し付けは利子をともなって返済されなければならなかった。やがて、貸し付けは商人だけではなく農民にもおよぶようになる。農民はしばしばその負債に堪えきれず、歴代の王は権力の座につくとき債務取り消しの特赦を発令するのが慣例になった。貨幣と市場は国家によって生みだされ、人びとは国家に借りを返すよう求められる。それが税の原点だと著者は考えている。そして、負債もまた貨幣とともに発生した。
 貨幣の歴史は負債の歴史でもあり、血と暴力によっていろどられている。それを象徴するのが奴隷制だ。奴隷制は古代から存在した。戦争と債務が奴隷を生みだした。奴隷は貨幣によって売買される。メソポタミアも古代ギリシアもローマ帝国も奴隷制の上に成りたっていた。
 ふたたび奴隷制が復活するのは近世になってからである。16世紀から18世紀にかけ、1000万人以上のアフリカ人奴隷が大西洋の向こうに輸送されていった。奴隷制は人間が商品となる貨幣経済時代の到来を象徴していた。そこにはかならず暴力が介在していた。貨幣はけっして純粋無垢ではない、と著者はいう。
 ところで、貨幣といわれて、まず思い浮かべるのは金属貨幣だろう。世界ではじめて硬貨がつくられたのは、紀元前600年ごろ、リュデイア王国(現アナトリア西部)においてである。丸い琥珀金(金と銀の合金)に記章が刻印されていた。まもなく地域をへだてた華北平原、ガンジス川流域、エーゲ海周辺でも、ほぼ同時期に硬貨の鋳造がはじまる。
 硬貨のもつ意味は大きい。硬貨は金属のかたまりであるけれども、そこには数と像がきざまれており、一片の金属以上のものとして流通した。問題は硬貨の保証が主に都市の内部にかぎられることだった。都市の外に出て、無縁の地に出れば出るほど、硬貨はただの金属のかたまりに戻ってしまう。遠方交易はそうした硬貨の難点を乗り越えねばならなかった。とはいえ、金属としての硬貨が出現することによって、貨幣は世界貨幣への一歩を踏みだしたといえる。
 著者が貨幣の出現以来5000年の歴史を5段階に分類し分析しているところが、本書後半の読みどころである。仮想貨幣と金属貨幣の交替に沿って、世界史は次のように区分される。(1)最初の農業帝国時代(前3500年—前800年)(2)枢軸時代(前800年—後600年)(3)中世(600年—1450年)(4)資本主義時代(1450—1971年)(5)現代(1971年以降)。
 この壮大な世界史を詳しく紹介するわけにもいかない。だが、一般的に世界史においては、国家が弱体な時代と強大な時代がくり返し生じ、それにともなって貨幣が仮想貨幣になるか金属貨幣になるかが決まるという。金属貨幣の時代は、国家が強大化し、奴隷制と人間の商品化が進展する時代でもあった。
 著者によれば、資本主義が生まれるのは、15世紀後半、ヨーロッパにおいて、国家から特許状を受けた冒険商人組合、すなわち会社が武装し、海外で冒険をはじめたときからである。国家なき純粋な資本主義など、最初からありえなかった。1520年から1640年にかけ、ヨーロッパにはアメリカから途方もない金銀が流入し、価格革命を引き起こした。その結果、物価が上昇し、囲い込み運動によって農民は土地を追われ、海外植民地に行くか、国内の工場で働くかのどちらかを選ばねばならなくなった。
 著者は、アメリカ大陸に侵攻し、アステカ帝国を倒し、世界史上最大の窃盗行為をおこなった、借金まみれのコルテスの行動こそが、資本主義の原型だったと述べている。そのアメリカでは、疫病と鉱山での強制労働によって、先住民が次々と死んでいった。スペイン人はインディオに重税を課し、支払いのできない者にカネを貸し、返せないものを負債懲役人にしていった。
 資本主義をもたらしたのは国家権力である。国家は市場をつくり、人びとを働かせ、貨幣なしには暮らしていけないシステムをつくりあげていく。そこでは貨幣の暴力が作用し、負債に縛られる人が数多く生まれる。
 紙幣をつくったのも国家だといえる。1694年にイングランド銀行が設立され、はじめて生粋の紙幣が発行された。国王による負債を認める見返りとして、商人たちが銀行券発行の許可を得たのが、そもそものはじまりである。したがって、紙幣とは国家による約束手形のようなものだといってよい。信用されなくなれば、たちまち紙切れになってしまう。
 資本主義は継続的で終わりのない成長を必要とする。5パーセント程度の経済成長が必要だとだれもが思っている。そうした一種の強迫観念が生まれたのは19世紀はじめではなく、むしろ1700年ごろを起点とする近代資本主義の黎明期だった。そのときすでに信用と負債からなる巨大な金融装置のもとで、ヨーロッパ諸国家の海外進出がはじまった。
 資本主義とは貨幣の循環的拡大をめざす国家システムなのだ。それは債権者が次々と債務者をつくりだし、貨幣を回収しつづけることで、はじめて成り立つシステムだといってもよい。それを媒介するのが商品である。貨幣はけっして媒介ではない。労働者は給料どろぼうと指さされないように、一生懸命ものをつくり、売るためにはたらく。そう考えれば、経済学者が称賛するのとは裏腹に、資本主義はずいぶん倒錯した経済モデルだということができる。
 いつも回転しつづけていなければ倒れてしまう資本主義というシステムは不安定で、常に時限爆弾の恐怖につきまとわれている。順調な成功を収めると思えた瞬間に、なぜかがらがらと崩壊しはじめるという「黙示録」的な見通しを、著者は資本主義にいだいている。
 1971年8月のニクソン・ショックによって、ブレトンウッズ合意は崩れ、変動通貨体制がはじまった。これが新しい時代の扉だったことはまちがいない。現在は過渡的な時代だ、と著者はいう。アメリカの時代が終わるのか、新しい中世がくるのか、これから先はなかなか見通せない。変動為替制になったいまも、ドルが基軸通貨であることに変わりはなく、むしろ、これまで以上にドルに振り回される通貨体制ができあがっているかのようにみえる。
 しかし、なにかがはじまっている予感は、仮想貨幣の広がりをみてもわかる、と著者はいう。VISAとマスターカードが登場したのは1968年だが、本格的にキャッシュレス経済がはじまるのは1990年代になってからだ。仮想通貨が国家紙幣をのみこんでしまう時代が訪れようとしている。
 いまはどういう状況にあるか。アメリカの軍事力は巨大なのに、はるかに弱体な勢力を倒せないでいる。ライバルの中国やロシアを圧倒することもできなくなった。好き勝手に通貨を創造しようとしたアメリカの力は、数兆ドルの支払い義務を累積させ、世界経済を全面崩壊寸前にまで追いつめてしまった。いまアメリカの長期国債を支えているのは、おもに日本と中国だ。とりわけ中国の役割が見逃せない。
 戦後のケインズ時代には生産性と賃金が上昇し、消費者経済の基礎がつくられた。だが、1970年代後半以降、サッチャー、レーガン政権が誕生すると、ケインズ主義は終焉を迎え、生産性と賃金の連動性は失われ、賃金は実質的に低落していった。マネタリズムによって、貨幣は投機の対象と化した。そして、賃金が上昇しないなか、労働者はクレジットカードをもつようになり、サラ金にはまり、住宅ローンに追われるようになった。
 個人の負債は、けっして放縦が原因なのではない。カネを借りなければ、まともな生活などできないのだ。家族のために家を、仕事のために車を、その他、教育やさまざまな楽しみのためにカネをかけてはいけないのだろうか。じぶんたちも投資家とおなじように、無からカネをつくりだしてもいいはずだ。すると、どんどんカードをつくり、どんどんローンを借りればいいということになる。その結果、だれもが罠にはまった。2008年のサブプライム危機が発生したのだ。このとき政府が救済したのは一般市民ではない。金融業者は税金で救済された。だが、一般の債務者には自己破産という苛酷な仕打ちが待っていた。
 資本主義は終わりそうだという見通しに直面したが、そのオルタナティブはまだ想像の外にある、と著者はいう。いや、むしろ、そうしたオルタナティブを封じるために、国家は恐怖と愛国主義をあおり、銃(軍備)と監視の社会をさらに強化しようとしている。加えて、グローバル化の進展が、先進工業国の停滞(とりわけ中産階級の没落)と新興国民国家の躍進を生み落とし、それが双方のナショナリズムをかきたてているのだ。
 しかし、いまでも現在の経済活動に秘められているのは自己破壊衝動でしかなく、統制不能の破局が生じる可能性は低くない、と著者はいう。だからこそ、われわれは民衆のひとりとして、歴史的な行為者になることを求められている。だとすれば、「いま真の問いは、どうやって事態の進行に歯止めをかけ、人びとがより働かず、より生きる社会にむかうか、である」と、著者は論じる。
 著者は、聖書にえがかれたヨベルの律法のように、国際的債務と消費者債務を帳消しにせよと求める。借金を返せという原理は、はれんちな嘘だという。すべてを帳消しにし、再出発を認めることこそが、「わたしたちの旅の最初の一歩なのだ」と宣言している。
『負債論』は世界じゅうに大きなインパクトを与えた。世界を想像しなおすことを求めて、本書は終わる。読みやすいとはいえないが、さまざまな想像をかきたてるラディカルな本である。

デヴィッド・グレーバー『負債論』(まとめ) [本]

   1 はじめに

 デヴィッド・グレーバーは、イギリスの名門大学、ロンドンスクール・オブ・エコノミクス(LSE)の人類学教授で、アナキストの活動家として知られている。「われわれは99パーセントだ」というスローガンをつくり、ウォールストリート占拠運動の指導者として一躍有名になった。反グローバリズムを唱え、サミットにも反対している。そのグレーバーの代表作が、この『負債論』である。
 本書が問題にするのは、人がいつのまにか信じこんでいる、お金にまつわる強迫的な道徳意識についてである。「借りたお金は返さなければならない」。そのためには、多少、人が死んでも仕方がない。しかし、それはほんとうに正しいのかと疑問を発するところから、著者の探求ははじまっている。

〈消費者負債はわたしたちの経済の活力源である。近代のあらゆる国民国家は赤字支出の上に成り立っている。負債は国際政治の中心的課題にまでなっている。だが、そもそも負債とはなんなのかを理解している人間、または負債についてどう考えたらよいかわかっている人間はどこにもいないようにみえる。〉

 これが『負債論』の問いである。
 負債とはなにかがわかっていないにもかかわらず、「負債は返さなければならない」という道徳意識が人びとをしばりつけている。
 植民地にたいする宗主国の債務の押しつけは、いまも第三世界を圧迫しつづけている。そのくせ、万年債務国であるアメリカ「帝国」は、世界じゅうから「貢納」を求めて、そのうえにあぐらをかいている、と著者はいう。
 金を借りても平気な国と、金を借りて苦しむ国とのちがいはどこにあるのだろうか。
 金を貸して権威をふるう階級と、金を借りて黙々とはたらく階級がいる。その関係は代々、永久につづくのだろうか。
 中世のキリスト教世界では、金貸しは罪深い存在とされてきた。
 それはヒンドゥー教の世界でも、仏教の世界でも同じである。
『日本霊異記』には、強欲な広虫女(ひろむしめ)なる金貸し女が死んで、醜い怪物になる物語が残されている。
 しかし、こうした物語の背景には、高利貸から金を借りるなという教訓めいた説教もひそんでいる。
 貨幣によって計量され、返済を義務づけられ、強制されることが負債の特徴だといえる。すごいのは本書が、負債のもととなる貨幣の歴史を古代メソポタミアからたどろうとしていることだ。
 著者が負債の歴史を研究しようと思い立ったのは、2008年の金融危機を経験してからだという。それは「念の入った詐欺」以外のなにものでもなかった。さらに、そのさい救済されたのは、一般市民ではなく、金融企業、すなわち銀行だったことに疑問をいだいた。
 著者はアナキストらしく、債務の帳消しと金融支配体制の解体を求める。
 だが、同時により根源的な大きな問いを投げかける。「人間とはなにか、人間社会とはなにか、またどのようなものでありうるのか」と。
 本書では、さまざまな神話に疑問が呈される。物々交換なるものは存在したのか。国家と市場は、それぞれ独立した存在だったのか。人間は交換を運命づけられているのか。貨幣はどのように発生したのか。
 こうした問いを秘めながら、「過去5000年間の負債と信用についての実在の歴史」をたどろうというのである。

  2 物々交換の神話

 経済学では、ふつう貨幣は物々交換から生まれたとされる。
 ほんとうにそうだろうか、と著者は疑う。
 なぜなら、双方の欲求が一致しなければ成立しない、物々交換ほどむずかしいやりとりはないからだ。物々交換の困難さを解消するために貨幣が生まれたという経済学の仮説は、あくまでも観念上の操作にもとづいている。
 紀元前330年ごろ、アリストテレスはすでにこう考えていた。もともと家族は必要なものをすべて自前でつくっていた。ところが、たとえば、ある家族は穀物だけをつくるようになり、別の家族はワインだけをつくるようになって、たがいに商品を交換しあうようになり、そのための道具として貨幣が登場したのだ、と。
 アダム・スミスの『国富論』の展開も、アリストテレスのこうした考えを引き継いでいる。
 ところが、スミス以前の大航海時代に、スペインやポルトガルの冒険家が世界じゅうを探査しても、物々交換をじっさいにおこなっている場所は、どこにも発見できていなかったのである。
 にもかかわらず、スミスは商品を交換するために貨幣が必要になったという理論を組み立てた。そして、マルクスも商品から貨幣が生まれ、貨幣から資本が生まれたと考えた。
 分業によって、さまざまな職業が生まれ、商品がつくられ、貨幣を媒介として、多種多様な商品が交換され、社会が発展していくというのが近代の商品世界の考え方である。
 当初、貨幣には塩や貝殻や干鱈、たばこ、砂糖、釘など、だれもが交換しやすい物品が用いられることもあった。しかし、次第に金属、さらには鋳貨が貨幣として用いられるようになり、次に紙幣が登場して、信用が発達し、金融システムが形成されていく。
 これが経済学のとらえ方だ。
 ほんとうなのだろうか。
 著者はここで人類学の知見を導入し、そもそも物々交換など存在しなかったと論じる。
 ルイス・ヘンリー・モーガンは、19世紀半ばに北アメリカのイロコイ6部族連邦を調査し、ロングハウス(いわば長屋)にものが貯蔵され、それらが分配される様子を記した。
 ここでは、ものの分配はあったが、物々交換などはなかった。
 そして、交換がなされる場合も、やっかいな手続きを必要とする。
 レヴィストロースはブラジルのナンビクワラ族の交換について記述している。ふだん100人ほどの集団(バンド)でくらすかれらは、相手の集団と交易をおこなうさい、まず宴会を開く。そこで相手の持ち物(たとえば首飾りや斧)をほめちぎり、さまざまな駆け引きをへて、最後はそれをもぎとるのだという。
 交換といっても、生やさしいものではない。それはにぎやかな宴会のなかでおこなわれるが、一歩まちがえれば戦争に転じかねない緊張感をはらんでいる。
 物々交換というより、贈与の強制といった趣がある。
 オーストラリアのグヌィング族は、キャンプ地の宴会で、歌ったり踊ったりしながら近隣の部族と、ものを交換しあう。それは性の饗宴でもあり、ビーズやたばこが循環し、布地が行き交う。つまり、ここでも宴会があって、はじめて交易がなされるのだ。
 部族間でものが交換されるのは、日常的なことではない。

〈ある物をべつの物と直接に取り替えて、そこからありうるかぎりの利益を引きだそうとするようなふるまいは、ふつうどうでもよい人間、二度と会うこともない人間との関係の様式である。……それに対して、隣人や友人というような気がかりな相手には、公平で親切な交流を求め、その人の個人的な必要、欲望、状況に配慮するだろう。ある物をべつの物と交換するにせよ、それを贈与とみなしたがるはずだ。〉

 交換はよそよそしい。むしろ贈与が基本である。経済学が出発点とする物々交換は、現代社会の交換関係を抽象化し、人類社会一般に投影した幻想でしかない、と著者はいう。
 贈与は、相手からほしいものをもらい、相手にほしいものをあげるという一方的な関係である。その時点で、交換は成立しない。いつかお返しをすればよいのだ。それが、部族社会のあり方だ。
 だとすれば、ここに貨幣がはいりこむ余地はない。

〈物々交換がことさら古い現象ではないこと、真に普及したのは近代においてはじめてであること、実のところ、そう考えるには正当な理由がある。知られているほとんどの事例において物々交換の起きるのは、貨幣の使用に親しんでいるが、なんらかの理由でそれをふんだんにもちあわせていない人たちのあいだにおいてなのだ。手の込んだ物々交換のシステムの出現するのは、しばしば国民経済が崩壊するときである。〉

 物々交換が生じるのは、むしろ近代だ。なにかの拍子に、これまで使っていた貨幣が使えなくなったときに、物々交換が発生する。
 日本でも、敗戦直後、都会の主婦は着物をかついで、村に食糧の買い出しに出かけたものだ。
 かつてニューファンドランド島では、出稼ぎの漁師が干し鱈を商人に渡して、商人から必需品をもらうという、一見、物々交換のような場面がみられた。だが、それは物々交換だったのか、と著者は疑う。
 じつは、ニューファンドランドでは、決定的に硬貨が不足していた。そこで、商人は干し鱈の市場価格を計算したうえで、それを受け取り、漁師に価格に見合った必需品を手渡したのである。まるで干し鱈を貨幣に見立てたかのように、物々交換が発生したのだが、実際にここでおこなわれていたのは、一種の信用経済にほかならなかった、と著者はいう。
 歴史を振り返れば、貨幣が発生したのは、紀元前3000年ほど前、メソポタミアのシュメール文明においてである。貨幣は官僚たちによって発明され、都市国家に貯蔵された物資を差配するために用いられた。
 その貨幣は金属片ではなく、粘土板に刻まれたしるしである。
 したがって、スミスのいうように、貨幣は商品の自然な取引のなかから生まれたわけではない。

〈物々交換からはじまって、貨幣が発見され、そのあとで次第に信用システムが発展したわけではない。事態の進行はまったく逆方向だったのである。わたしたたちがいま仮想貨幣(ヴァーチャル・マネー)と呼んでいるものこそ、最初にあらわれたのだ。硬貨の出現はそれよりはるかにあとであって、その使用は不均等にしか拡大せず、信用システムに完全にとってかわるにはいたらなかった。それに対して物々交換は、硬貨あるいは紙幣の使用にともなう偶然の派生物としてあらわれたようにみえる。歴史的にみれば物々交換は、現金取引に慣れた人びとがなんらかの理由で通貨不足に直面したときに実践したものなのだ。〉


  3 原初的負債

 経済学では、「貨幣とは交換を促進させるべく選ばれたひとつの商品であり、じぶん以外の商品の価値を測定するために使用されるにすぎない」とされる。
 ところが、実際は貨幣がなければ商品も存在しないし、政治権力がなければ貨幣もない、と著者はいう。
 著者はここで貨幣の起源として、たとえば軍隊を想定している。国家は常備軍を維持するために、兵士に貨幣を配付し、それで食料品をはじめとする物資を調達させる。いっぽう、国民にたいしては、税を貨幣で払うよう求める。すると、この貨幣は流通しはじめ、市場が生まれるのだ。国家と市場はつきものだ、国家なき社会は市場ももたない、と著者はいう。
 貨幣の発生は、植民地の経験からもたどることができる。フランスは植民地としたマダガスカルでマダガスカル・フランを発行し、プランテーションをつくり、そこで住民をはたらかせては、税の支払いを求めた。こうして、貨幣はいやおうなく市場をつくりだし、植民地から解放されたいまも、人びとは市場にしばられるようになった。
 1971年にリチャード・ニクソンがドルを金から切り離し、変動通貨制に移行して以来、貨幣は法定不換紙幣となった。いまでは貨幣を国家=信用理論でとらえる見方がますます幅をきかせるようになっている。
 国家の発行する紙幣のもとで、国民は市場で経済活動をいとなみ、国家に税金を支払う。税金を払うのは、国家に治安と行政サービスを求めるためだというのが一般的な理解である。しかし、そもそも人はなぜ国に税金を払わなければならないのだろうか。
 著者は「原初的負債論」という考え方を紹介する。
 人は生まれたときから、いってみれば社会や両親、家族に負債を負っている。だから、人は生きているかぎり、その負債を返していかなければならない。貨幣はまずもって、ささげものである。
 実際、著者は「どの地域であっても貨幣は神々への捧げものに最もふさわしい物品から発生しているようにみえる」と記している。日本語でも、貨幣の幣(ぬさ)は、神へのささげものをさしている。
 子安貝などのような原始通貨が物の売買に使用されることはめったにない。著者によれば、「それらは事物の入手にではなく、主として人びとのあいだの関係の調整のため、とりわけ結婚の取り決めや、殺人や傷害から生じるいさかいの調停のために使用される」。
 原始通貨は長くつづく関係への確認、あるいはこれからも負債を返しつづけるという象徴のようなものとなる。そういえば、結納の品も両家の末長い関係をつなぐ象徴にちがいない。つまり、ささげものである。
「つまるところ、わたしたちは自己存在すべてを他者によっている」。われわれがここにあるのは、すべてだれかのおかげなのだ。だとすれば、社会に借りを返すという意識がどこかに生じてきても不思議ではない。
 だが、そもそも優越する者、すなわち神や王に負債を返す必要はないはずだ。古代世界では、自由市民が国に税を払うことはふつうなかったという。税を課せられたのは市民以外である。
 だから受けた恩義にたいし、借りを返すところから、貨幣が発生するわけではないのだ。
 ここで著者はシュメールやバビロニアのあった古代メソポタミアに思いをはせる。
 古代メソポタミアの流域は豊かで、多くの穀物がとれ、おびただしい家畜が飼われ、羊毛や皮革がつくられていた。しかし、石や木、金属は不足し、輸入しなければならなかった。そこで、神殿の役人は、商人たちを国外に派遣し、メソポタミアの産物を売らせて、足りない資材を買わせた。
 そのための前貸しとして渡されたのが、貨幣である。貸し付けは利子をともなって返済されなければならなかった。やがて、貸し付けは商人だけではなく農民にもおよぶようになる。農民はしばしばその負債に堪えきれず、歴代の王は権力の座につくとき債務取り消しの特赦を発令するのが慣例になった。
 ここでふたたび著者は原始的負債の論議に戻って、人が生まれたときから社会に負債を負っているという主張のいかがわしさに論及している。実際、社会という概念はいいかげんであって、いかようにも解釈できる。だが、人は社会から負債を返すよう求められる。
 紀元前500年から400年ごろに成立したとされるインドのヴェーダでは、負債にたいする考え方はもっと明快だった、と著者はいう。
 人が負債を負っているのは第一に宇宙の力にたいしてであり、第二に文化を授けてくれた人にたいしてであり、第三に育ててくれた両親や祖父母にたいしてであり、第四に周囲の人びとの寛容にたいしてである。それらにたいして、わたしはお返しをしなければならない。だが、それは金銭によってなされるのではない。わたしは自身が先達となり、祖先となり、人道を守り、祭儀をおこなうことによって、負債を返すのである。
 であるなら、原始的負債から貨幣が発生するわけではない。
 だが、ここに国家が登場してくると、負債をめぐる論議は一変する。
 19世紀の社会学者、オーギュスト・コントは、人は社会への債務者として生まれると論じ、人は社会に奉仕することで、社会への返済義務をはたさなければならないと述べた。コントのいう社会とは、国家そのものだといってもよい。
 著者はこう書いている。

〈市場と国家は正反対のものであり、それらのあいだにこそ人間の唯一の可能性があると、わたしたちはたえまなく教えられてきた。しかしこれはあやまった二分法である。国家は市場を創造する。どちらもたがいになくしては存続しえないし、少なくとも今日知られているようなかたちでは存続しえないのである。〉

 貨幣と市場は国家によって生みだされ、そこで生活をいとなむ人びとは、国家に借りを返すよう求められる。それが税の原点だと考えられる。


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なにがはじまろうとしているのか──グレーバー『負債論』を読む(11) [本]

 1971年8月のニクソン・ショックによって、ブレトン・ウッズ合意は崩れ、変動通貨体制がはじまった。その結果、ドルの価値は暴落し、長期のインフレが引き起こされた。
 とはいえ、いまでも、世界の金の5分の1から4分の1にあたる5000トンの金は、アメリカのフォートノックスと連邦準備制度理事会の金庫に保管されているらしい。
 現在は過渡的な時代だ、と著者はいう。これからどうなっていくのか、先は見通せない。
 戦争と軍事の役割は、ますます強まっている。
 そもそも、近代の貨幣は政府債務に基盤をおいている。そして、政府が債務を調達するのは、おもに戦争のためだった。ニクソン政権がドルの為替レートを変動させたのも戦費調達がその背景にあったという。
 アメリカはいまでも世界でずぬけた軍事費を支出している。その目的は、グローバルな権力の掌握である。
「世界における合衆国の軍事的支配の本質は、……望むならば、2、3時間のあいだに、地球上のどの地域をも絶対的に爆撃することができること[空軍力]にある」と著者は指摘する。
 変動為替制になっても、ドルが基軸通貨であることに変わりなかった。むしろ、ドルに振り回される通貨体制ができあがっている。
 サダム・フセインが2000年にドルからユーロに通貨体制を転換すると、アメリカはただちにイラクへの爆撃と軍事侵略で応えた。「あらゆる帝国の組み立ては、つまるところ、テロルに基礎づけられている」と、著者はいう。
 なにかがはじまっている予感は、仮想通貨の広がりにおいてもみられる。VISAとマスターカードが登場したのは1968年だが、本格的にキャッシュレス経済がはじまったのは、1990年代になってからだ。そして、いまサラリーマンはローンの返済に追われる。かれらは、自分たちがあくせく働かねばならないのは、ローンのためだと思っている。
 いまはどういう状況にあるか。アメリカの軍事力は巨大なのに、はるかに弱体な勢力を倒せないでいる。ライバルの中国やロシアを圧倒することもできなくなった。好き勝手に通貨を創造しようとした力は、数兆ドルの支払い義務を累積させ、世界経済を全面崩壊寸前にまで追いつめてしまった。
 アメリカの長期国債を支えているのは、おもに日本と中国だ。とりわけ中国の役割が見逃せない。著者は「中国の視点に立ってみると、まさにこれは合衆国を伝統的な中国の従属国[冊封国]にしていく長期の過程の第一段階であると考えることに、それほど無理はない」というが、これはちょっと買いかぶりすぎだろう。だが、いずれにしても米国債にたいする中国と日本のスタンスには、大きなちがいがある。
 2008年の大暴落は信じがたいほどの詐欺だった、と著者はいう。
 戦後のケインズ時代の到来によって、階級闘争は一時停戦となり、生産性の上昇と賃金の上昇がみられ、消費者経済の基礎がつくられた。同時に景気の停滞期に需要を刺激する方法として、政府は「無」からの貨幣の創造を促進させる政策をとった。だが、それでも経済的平等がもたらされることはなかった。
 1970年代後半以降、サッチャー、レーガン政権が誕生すると、ケインズ主義は終焉を迎え、生産性と賃金の連動性は失われ、賃金は停滞するか、低落していった。
 マネタリズムによって、貨幣は投機の対象と化してしまう。そして、賃金が上昇しないなか、労働者はクレジットカードをもつようになり、サラ金にはまり、住宅ローンに追われるようになった。こうした新しい体制は「金融の民主化」あるいは「日常生活の金融化」と呼ばれている。この世界の最大のモラルは「借りを返せ」だ、と著者はいう。
 無から価値を生みだす投資家は正義であり、債務者は自己否定により罪を償わなければならないことになっている。だが、個人の負債は、はたして放縦が原因なのだろうか。いまや万人が負債をかかえている。
 カネを借りなければ、まともな生活などできないのだ。家族のために家を、仕事のために車を、パーティのために酒や音響システムを、友達に贈り物を、結婚式や葬式にカネをかけてはいけないのだろうか。じぶんたちも投資家とおなじように、無からカネをつくりだしてもいいはずだ。どんどんカードをつくり、どんどんローンを借りればいいのだ。
 だれもが罠にはまった。その結果が2008年のサブプライム危機である。だが、このとき政府が救済したのは一般市民ではない。金融業者は税金で救済されたのだ、と著者はいう。そして、一般の債務者には、自己破産という苛酷な仕打ちが待っていた。
 資本主義は実際に終わりそうだという見通しに直面した。にもかかわらず、われわれはよりましなオルタナティブを想像することができないため、いまあるものにひたすらしがみついている、と著者はいう。いや、むしろ、そうしたオルタナティブを封じるために、体制側は恐怖と愛国主義をあおり、銃(軍備)と監視の社会をより強化しようとしている。
 にもかかわらず、統制不能の破局が生じる可能性は低くない。
 だからこそ、われわれは民衆のひとりとして、歴史的な行為者になることを求められている、と著者はいう。そのさいの新しい理念はどこにあるのだろうか。
 コミュニズムや愛をいっても仕方ない。それらは別の新たなヒエラルキーを築くことになるだけだ。負債のモラリティは、好むと好まざるにかかわらず、世界をカネになるかどうかで見る視点を植えつけている。現在の経済秩序は、次々と世界を征服することによってしか、負債を返せないというモラルをつくりだしてしまった。そこに秘められているのは、自己破壊衝動でしかない。
 だとすれば、「いまは真の問いは、どうやって事態の進行に歯止めをかけ、人びとがより働かず、より生きる社会にむかうか、である」と、著者はいう。
 最後に著者は、国際的債務と消費者債務に特赦を求める。金銭はけっして神聖なものではない。借金は返さなければならないという原理は、はれんちな嘘だ、という。すべてを帳消しにし、再出発を認めることこそが、「わたしたちの旅の最初の一歩なのだ」と述べている。
 2011年出版の本書には、2014年の新版にさいし、みじかいあとがきが追加されている。
 本書の目的のひとつは「未来への視座」を拡張することにあった、と著者は書いている。そのために歴史をさぐることが必要だった。そして300年前においてさえ、「経済」なるものは存在しなかったという。
「現実に生きていた大多数の人びとにとって、『経済的事象』とは、政治、法、家庭生活、宗教と呼び習わされている幅広い事象の一つの様相にすぎなかった」。それがいつのまにか、経済、経済の世の中になってしまった。
 本書『負債論』は大きなインパクトを与えた。2011年のウォール街占拠運動を支える理論的根拠ともなった。学生の奨学金負債問題にたいしても、新たな運動を立ちあげるきっかけも与えた。
 2014年のあとがきで、著者はこう述べている。

〈「経済」と呼ばれるなにかが存在するという思想は比較的新しいものである。まさに今日、生まれた子どもたちは、もはや「経済」がなく、それらの問題がまったく異なった言語で検討される日を経験するだろうか? そのような世界はどのようなものだろうか? わたしたちの立っている現在の地点からは、そのような世界を想像することさえむずかしい。だが、もしわたしたちが、一世代かそこらのあいだに人類全体を一掃してしまう危険のない世界を創造しようとするならば、まさにそのような規模でもろもろの事柄を想像し直しはじめねばならないだろう。〉

 世界を想像し直すことを求めて、本書は終わる。難解だが、ラディカルな本だ。
 あらっぽいまとめにすぎないが、とりあえず、全体の内容をかいつまんで紹介してみた。

資本主義帝国の時代──グレーバー『負債論』を読む(10) [本]

 1450年ごろから大航海時代がはじまる。この時代の特徴は、貨幣が金銀へと回帰し、近代科学、資本主義、国民国家が台頭したことだろう。
 1347年以来、ペストが何度も襲来したことにより、ヨーロッパでは労働者人口が3分の2に激減していた。商業経済は衰えた。だが、皮肉なことに、経済が回復するにつれて、労働者の賃金は上昇し、祝祭的生活は全盛期を迎える。
 だが、その後、締めつけがはじまる。1500年から1650年にかけて、イングランドでは物価が500%上昇する。いっぽう賃金上昇率は緩慢だった。著者によると、この間、労働者の実質賃金はかつての半分以下になったという。
 いわゆる「価格革命」が生じていた。1520年から1640年にかけ、メキシコやペルーから途方もない金銀が流入したのが、価格革命をもたらす原因だった。だが、実際には銀地金はそっくり中国に流出していたのだ。
 中国では、1271年にモンゴル人の元王朝が成立したあとも、紙幣制度は維持されていた。その元が倒れると、1368年に明が成立する。明は農村共同体の復興を政策理念としてかかげ、農民、職人、兵士の身分を固定するいっぽうで、道路や灌漑、運河への大規模な投資をおこなった。そのため、農業への課税は強化され、逃散する農民が増大した。
 土地を追われた農民たちは行商や芸人、山賊、海賊などになる道を選んだ。鉱山に向かう者もいた。当初、政府はかれらを取り締まろうとしたが、ついにあきらめ、「市場を奨励しながら資本の過度の集中を予防する」という古くからの政策に立ち戻った。紙幣の発行は停止され、銀地金を公認通貨とし、民間造幣局にも現金発行権限が与えられた。
 その結果、市場は好景気に沸いた。中国の人口は激増したが、生活水準も向上した。問題は銀が圧倒的に足りなかったことである。まもなく、中国は銀の供給先をヨーロッパと新世界に求めることになる。
 ローマ時代以来、ヨーロッパは絹や香辛料などを手にいれるため、東方に金銀を輸出してきた。その構造は近代になっても変わらなかった。新大陸での金銀の発見は、たちまちヨーロッパに価格崩壊をもたらす。この時点で、中国からの需要がなければ、アメリカの植民地計画はただちに失敗していただろう、と著者はいう。

〈16世紀後半には、すでに新大陸の銀の90パーセントにあたるおよそ年間50トンの銀を中国は輸入していた。17世紀初頭にはそれが97パーセントにあたる116トンとなる。その銀への支払いのために、大量の絹や陶器、その他中国産の製品の輸出が必要になった。……このアジア貿易が新生グローバル経済にとってただひとつの最重要の要因となった。そしてこれらの金融手段を最終的に統制する者たち──とくにイタリア、オランダ、ドイツの商人、銀行家たち──が途方もない富を手に入れたのだった。〉

 ヨーロッパだけでは、世界全体の流れを理解できない。
 南北アメリカから大量の金属がはいったにもかかわらず、ヨーロッパでは通貨が不足気味だった、と著者は書いている。日常生活は割符や約束手形で間に合った。だが、税金の支払いには硬貨が必要だった。
 金銀を統制していたのは、政府、銀行家、大商人にほかならない。価格革命は、共有地の囲い込みをもたらした。それにより、農民たちは村から逃亡するか、強制的に海外植民地に送られるか、国の工場で働くかのどれかを選ばなければならなくなった。
「地金による貨幣の新体制は、ほとんど前代未聞の暴力の行使を通じてのみ押しつけることが可能になったものである」と、著者は述べている。
 ヨーロッパ人の進出した南北アメリカでは、疫病と鉱山での強制労働によって、先住民が次々と死んでいった。
 その前に、コルテスは1518年にアメリカ本土に侵攻し、世界史上最大の窃盗行為をおこない、各地を支配していた。
 著者はいう。

〈一方の、あらゆるリスクをも辞さぬ覚悟をもった恐れ知らずの冒険者と、他方の、すべての行動の基準を着実かつ正確そして冷徹に収益を増殖させることにおく計算高い投資家のあいだにみられるおなじ関係こそ、現在「資本主義」と呼ばれるものの核心部分に位置している。〉

 インディオたちに負債を押しつけ、かれらを負債懲役人にしていくヨーロッパ人のトリックは次のようなものだった。
「重税を要求する、支払いできない者に利子付きで金を貸す、それから働いて金を返せと要求する」──植民地では、こうした慣行が蔓延していた。
 教会が高利を禁止したのは、貨幣が人のモラルを破壊する力をもっていることを知っていたからだ。貨幣のもとでは、人間関係すら費用便益計算の問題に化してしまう。
 アジアでは、どうだったのだろう。
 東インド会社はまさしく「利潤以外のあらゆるモラルの命法を排除することを意図した形成物」だった、と著者はいう。自分のカネならともかく、会社のカネをおろそかにできないというのが、資本の冷酷で貪欲な倫理となった。

〈新たに台頭してきた資本主義的秩序のもとでは、貨幣の論理に自律性が与えられた。政治的・軍事的権力は、徐々にその貨幣の論理の周辺に再編成されるようになる。これこそが、国家と軍隊をそもそも背後に抱えていなければ決して存在しえぬ金融の論理だったのだ。〉

 ここで、著者は最初高利を批判する猛烈なキャンペーンをくり広げて人気を博したルターが、1525年の農民暴動をへたあと、大きく転回をとげたことを紹介している。
 ルターはいう。福音書が書きとめているのは理想であって、罪深い生き物である人間には法律が必要であり、高利はともかく、4、5パーセントの利率なら認められるべきだ、と。そして、人に借りたものは、返さなくてはならない、と。
 まもなく、プロテスタントのすべての宗派は、理にかなった利率は罪深いものではないという共通認識をもつようになった。
 こうして、「金銭の増殖はいまや不自然であるどころか期待されて当然のものとなった」。しかも異邦人にたいしてならば、高利も、いかなる搾取も許されるというお許しがでた。
 そこからは、ドイツ・ルネサンス期の「狂王」カジミール(1481−1527)のような人物も登場してくることになる。
 かれはカネを集めるために、自分の領民に暴虐のかぎりを尽くした。
 カジミールの狂気の正体を、著者は次のように解説する。
「その心理とは、じぶんのまわりに存在するものすべてを金銭に変えねばならないという狂わんばかりの焦燥であり、そしてそのようなことをせねばならない人間に貶められたことに対する憤怒と義憤である」
 これは現代人の狂気とも通じるのかもしれない。

 共同体は相互扶助から成りたっている。それは農村共同体でも、貴族社会共同体でもいえることである。信用が野蛮で計算づくのものになるのは、むしろ見知らぬ者どうしだからだろう。
 16世紀の庶民は金や銀の硬貨を使っていたわけではなかった。ふだんの買い物は、近所の商店が発行していた鉛や木でできた代用貨幣で間に合ったのだ。
 肉屋やパン屋、靴屋などからはツケで買うことができた。隣人どうしでは、たがいに貸し借りがあり、どこかの時点で、硬貨なり現物なりで、清算をすればよかった。現金でものを買うのは、通りすがりの旅人か見知らぬ人である。ただし、家賃と税金は現金で支払わねばならなかった。
 市場はほんらい相互扶助の拡張の場、言いかえれば日常的コミュニズムの場であって、現金取引の場ではなかった、と著者はいう。
 ホップズの時代になって、新しい哲学が生まれた。ホッブズが強調したのは「自己利益」という概念である。18世紀まで、人間生活のすべては自己利益によって説明できるという考え方は受け入れられなかった。
 だが、それは次第に受け入れられるようになる。そして、人を動かしているのは感情ではなく、合理的な計算だというとらえ方が、根づくようになる。愛は利益へと置き換えられる。その利益とは、けっきょくのところ「増殖をやめることのない貨幣の追求」以外のなにものでもなかった、と著者はいう。

〈資本主義の起源の物語は、市場の非人格的力による伝統的共同体の段階的解体の物語ではないのである。それはむしろ、信用の経済がいかにして利益の経済に転換されたかという物語であり、非人格的──でしばしば報復的──な国家権力の侵入によってモラルのネットワークが変容させられてゆく物語なのだ。〉

 資本主義は市場の外部、すなわち国家権力の側からやってくる。
 伝統的な村は、できるだけ司法制度に訴えるのを避けるきらいがあった。それは、当時の法律がはなはだ苛酷だったからでもある。
 だが、16世紀終わりに利子が合法化されるとともに、債権者が裁判所に訴える事例が一気に増えてくる。債務者監獄の恐怖が、だれをも苦しめるようになった。こうして硬貨がモラルの座に躍りでる。
 アダム・スミスは、だれもが現金を使うユートピアをえがいた。だが、それはスミスの時代の現実ではなかった、と著者はいう。
 スミスは「相互扶助のエートス」を切り捨てるとともに、「競争的で利己的な市場に形成に実際に貢献してきた暴力と赤裸々な復讐心」を無視している、と著者は批判している。

 次に論じられるのが、紙幣についてである。
 経済学者のあいだでは、貨幣とは金銀だという見解が一般的だ。だが、テューダー朝でもステュアート朝でも、民衆のあいだで用いられていたのは信用システムだった、と著者はいう。
 それでは、紙幣はどこから生じたのだろうか。為替手形が裏書されて流通し、そこから紙幣が生じたと解釈できるのだろうか、と著者は問う。
 そうではなかった。紙幣をつくったのも、やはり国家なのである。
「近代的金融手段の歴史そして紙幣の究極の歴史は、地方債発行とともにはじまった」と、著者はいう。ヴェネツィア政府は12世紀に市民に強制融資を課し、国債を発行した。この債券が、いわば紙幣として流通するようになった。
 国債は、いわば税の支払いの前倒しだった。そして、この負債が現金化されるときに、通貨が流通するという逆の流れが生じたのだ。
 16世紀には、政府のさまざまな債券が信用貨幣になっていた。著者はそこに「価格革命」の起源を求めている。
 新世界から到着した地金は、セビーリャからそのままジェノヴァの銀行家の金庫に向かい、そこから東方に送られた。銀行家は地金を担保にして、皇帝に融資をおこなっていた。そして、政府はこの融資をもとに、証書を発行していた。その手形がインフレを引き起こす要因になったというわけである。
 はじめて生粋の紙幣が発行されたのは、1694年にイングランド銀行が設立されたときである。その紙幣はもとはといえば、王による負債であった。ロンドンとエディンバラの商人は、フランスと戦争をする王に融資をおこない、その見返りとして銀行券を発行する会社設立の許可を求めた。著者によれば、「その銀行券は、事実上王が彼らに負っている額面の約束手形だった」。
 そのころのイギリスの通貨は、哲学者ジョン・ロックの提案──通貨を回収し、かつてとおなじ価値に再鋳造すること──によって大混乱し、イギリス社会は大不況に陥っていた。全体的に状況が改善されるようになるのは、紙幣と小銭が広範に利用できるようになってからである。そして、大混乱をへたあと、肉屋やパン屋などとの日常的取引も小銭でおこなわれるような世界が徐々に形成されていった。
 バブルの歴史もはじまっている。オランダでの1637年のチューリップ・バブル、1690年代のロンドン市場のバブル、1720年代の南海泡沫事件、そしてジョン・ローの設立したフランス王立銀行の崩壊(ミシシッピ計画の失敗)へと、人びとがカネに振り回される事件があいついだ。
 人が貨幣を信じなくなれば、紙幣はたちまち紙切れになってしまう。
 ホッブズは「市場は存在できるとしたら、約束を守り他人の財産を尊重するよう強制する絶対主義国家の庇護のもとでのみである」と信じていた。だからといって、国家があれば、このシステムがいつまでももちこたえるとはかぎらない、と著者は考えている。というのも、国家こそ、金融の混乱をもたらす元凶になりうるからだ。
 けっきょく資本主義とはなんだろうか。
 資本主義といえば、ふつう人は産業革命以降、とりわけ19世紀以降の産業資本主義を思い浮かべるかもしれない。だが、著者は、資本主義を形づける金融システムはすでにずっと前からできあがっていたという。
 資本主義は継続的で終わりのない成長を必要とする。企業も国家も成長しなくてはならない。そのためには5パーセント程度の経済成長が必要だとだれもが思っている。それは一種の強迫観念のようなものだ。
 そうした観念が生まれたのは、19世紀はじめではなく、むしろ1700年ごろを起点とする近代資本主義の黎明期だった、と著者はみている。そのときすでに信用と負債からなる巨大な金融装置が生まれていた。
 その装置のもとで、イギリスの東インド会社は、軍事力と貿易を背景にインドを制圧し、中国に触手を伸ばした。だが、その前に、スペインとポルトガルがつくりあげた世界市場システムが、すでにアメリカを征服し、アフリカからアメリカに奴隷を送りこんでいたのだ。
 その背景には、人を負債の罠にはめ、がんじがらめにしてしまう金融システムの構造があった。「資本主義はいかなる時点においても『自由な労働』をめぐって組織されていたことなどなかった」と著者はいう。
 さらに、こうも述べている。

〈わたしたちの資本主義の起源についての支配的なイメージは、あいかわらず産業革命下の工場で苦役するイングランドの労働者であって、このイメージからシリコンバレーまで一直線の発展としてたどることができると考えられている。ところがここからは、無数の奴隷、農奴、苦力、負債懲役労働者は蒸発してしまっているのである。〉

 いうまでもなく、著者が資本主義にいだいている第一のイメージは、無数の奴隷、農奴、苦力、負債懲役労働者をつくりだすシステムである。
 自由な労働者は、ユートピア的な構想のもとで描かれた理想像でしかない。著者によれば、マルクスの労働者ですら、一種の理念だった。「彼[マルクス]の時代のロンドンには、工場労働者よりも、靴磨き、娼婦、執事、兵士、行商人、煙突掃除夫、花売り娘、路上音楽家、服役囚、子守り、辻馬車の御者などの方がはるかに多かった」のだ。
 著者は、資本主義が「政治的自由、科学技術の進歩、大衆的繁栄」をもたらしたという見方に同意しない。それらの進歩は、資本主義とは別次元の話であって、資本主義がなくても生じえたことだという。
 それよりも、著者は、労使協調システムを構想した途端に、資本主義というシステムはがらがらと崩壊しはじめるという見通しをいだいている。
 その予感は「黙示録」と名づけられている。
 フランス革命は新しい思想をもたらしたとされる。社会は望ましい方向に変化し、社会の発展を政府が管理し、その政府の正当性を人民が認証するというのが、その考え方だった。
 ところが、その思想を深めているさいちゅうに、フランスの哲人たちがほんとうに懸念していたのは、デフォルトと経済崩壊によって、文明が破壊されてしまうのではないかということだった、と著者は述べている。

〈実際に破局が起こるとして、それはどんなものになるのか。貨幣は無価値になるのだろうか? 軍事体制が権力を把握し、ヨーロッパ中の体制がおなじようにデフォルトを強制され、将棋倒しに果てしのない野蛮と暗黒と戦争へと大陸を沈めていくのか? 多くの人びとは、革命自体のはるか以前にテロルの見通しを立てていた。〉

 そして、いまも資本主義はこうした時限爆弾の恐怖につきまとわれている、と著者は述べている。

中世をめぐる考察──グレーバー『負債論』を読む(9) [本]

 古代帝国の崩壊により、戦争と鋳貨と奴隷制の結びつきは解体され、新しい国家のもとで、経済生活は宗教的権威によって規制されることになる。ユーラシア大陸で貨幣は仮想信用通貨へと回帰する。それが中世(600−1450年)という時代の特徴だった。
 著者によれば、中世は西ヨーロッパだけに存在したわけではない。また、中世は暗黒時代だったわけでもない。それは、むしろ「枢軸時代」のさまざまな恐怖から解き放たれた時代だった。
 そうした中世の諸相を、著者はインド、中国、近西(イスラーム世界)、極西(キリスト教世界)にわたって横断的に論じようとする。近東ではなく近西、西欧ではなく極西と名づけるところに、著者独自の歴史観が感じとれる。
 インドではマウリヤ朝やグプタ朝のあと、諸王国の分裂がはじまり、都市が衰退するとともに、それまでの鋳貨は姿を消していった。
 とはいえ、寺院への寄進はつづき、寺院は集まった金(きん)を商業貸し付けに回すだけではなく、それらをみずからの祭壇や聖所、祭具などの材料に用いていた。だが、インドでは寺は次第に仏教ではなく、ヒンドゥー教へと変わっていく。
 カースト制ができあがった。バラモン僧は武人カーストと手を組んで、古くからの村落を統制する。難民たちは地主カーストに仕え、地主は村を統制した。さまざまな職業がヒエラルキー的な秩序のうちに位置づけられようになる。
 こうして、金属貨幣を使わなくても運営できる秩序が生まれた。インドでは労働者人口の大部分が、地主やそれ以外の債権者の負債懲役人として働いていた、と著者は記している。
 紀元1000年ごろから、インドはイスラームの版図にはいっていく。だが、カースト制は存続する。カースト制というのは、下位が上位に永遠に借りがあるという思想の上に成りたっている。カーストの等級は永遠に固定されていた。その階層間を商品やサービスが移動するとしても、そこには交換の原理はまったく働いていない。

 舞台は中国に移る。
 中国でも220年ごろに漢王朝が滅んだあと、都市の衰退と硬貨経済の縮小がみられた。北方の遊牧民からの脅威はつづき、農民反乱もくり返されていた。その動きが、また新王朝をつくる契機となっていく。
 著者は中国を基本的に儒教的官僚国家ととらえている。その国家は農民の安定をはかることを一義としながら、市場を促進することをめざしていた。市場では、投機にもとづかない正当な商業利潤は認められていた。
 中国について、著者はこう述べている。

〈歴史のほとんどを通じて、中国は世界で最も高い生活水準を維持してきたのだ。イギリスでさえも、それに本当に追いついたのはおそらく1820年代、産業革命の時代を十分すぎてのことである。〉

 これは現在、歴史家の共通の認識になりつつある。
 著者によれば、儒教は宗教というより倫理・哲学体系なのだが、そこに中央アジアの隊商路を通して、仏教が到来する。南朝の梁(502−557)や唐(618−907)の時代に、仏教は空前のブームを巻き起こした。商人や大地主は財産を寺に寄進した。あげくのはてに、成仏を願っての焼身自殺さえ横行したという。
 著者はいう。自殺を無私無欲の贈与と考えることは、利益という観念の対極にあるようにみえる。生とははてしなき負債の重荷を負うことにほかならない。だとすれば、そこから救済されるには、はてしなく寄進をつづけるか、みずからを滅却する以外にない。
 儒教が徳性の根拠を父親に求めたのにたいし、仏教は母親からの負債を返済することを重視した。そのためにも寄進が必要になった。なかには「経済的焼身自殺」と見紛うまでのものもあった。僧院の宝物庫は膨張していった。
 だが、行きすぎた仏教ブームにたいし、この段階で、国家の介入がはじまる。僧侶を弾劾する布告がだされた。845年には、全部で4600の僧院が取り壊され、26万人もの僧と尼僧が地位を剥奪され、同時に15万の奴碑が寺から解放されたという。
 その理由は経済的なものだ。僧院が財を貯めこむことによって、経済が破綻していたのだ。「金属の価格が高騰し、鋳貨は消失し、田舎の市場は動かなくなり、……地方の民衆さえも僧院への負債にはまり込んでいた」というのが、僧院取り壊しの理由だった。
 中国の商人のあいだで、仏教はこれほどまでに流行をみせていたのだ。
 前に述べたように、中世においては、金や銀が教会や寺院に集中し、貨幣はふたたび仮想的になっていた。
 中国では青銅製の小額面貨幣が使われつづけていた。とはいえ、地域の商店主や商人たちは信用売買を多用していたようだ。勘定計算は割符棒でなされていたという。
 旅行や輸送のために約束手形も考案されていた。宋時代には紙幣も発行されるようになる。金属貨幣論者は紙幣の発行を失敗とみなすけれども、紙幣の時代の中国が繁栄していたことを忘れてはならない、と著者は述べている。

 次に著者は、西方において、この時代に勃興していたのは、イスラーム世界だったと指摘する。ビザンツ帝国と野蛮なヨーロッパの王国からなるキリスト教世界は、辺境の地と化していた。
 イスラーム世界の学者たちは「アブラハムやモーゼにはじまる啓示宗教の伝統とギリシア哲学の諸カテゴリーを調和させるというおなじ課題に取り組んでいた」。
 著者はさらにこう述べている。

〈中世のほとんどを通じ、イスラーム世界は西洋文明の中枢であっただけでない。それは西洋文明の拡張する前線であり、インドへの途をつけ、アフリカとヨーロッパに勢力を拡げ、インド洋を越えて宣教師を送り、多くの改宗者を獲得していったのだ。〉

 イスラーム的統治の特徴は、法にたいしては厳格で、政府にたいしては懐疑的なことであった。法学者であるウラマーたちは、軍と権力を背景とする政府に、一定の距離を置いていた。
 政府は戦争をおこし、領土を拡張し、多くの富を獲得した。そして、兵士に気前よく金のディナールや銀のディルハムからなる硬貨をばらまいた。イスラーム世界には奴隷も流入し、かれらは兵士となっていった。
 イスラームの法典は、信者が奴隷になること、信者から高利をとることを禁止していた。だが、商業に否定的だったわけではない。商人がまっとうな利潤をとること、銀行家が信用業務をおこなうことは、むしろ推奨されていた。
 融資については、一方が資金を準備し、他方が企業を経営するという共同経営方式が好まれた。投資者は利潤の一部を受け取った。その分配原理を左右したのは、社会の評判である。
 こうした信頼のネットワークは、イスラームの伝播に大きな役割をはたし、やがてインド洋はイスラーム世界の湖となっていく。アデンからモルッカ諸島にいたる通商ルートが確立される。マラッカは国際商業都市になった。
 イスラーム社会において、遠方への冒険をおこなう商人は、いわば模範的な存在として尊敬されていた。そのことは、『千夜一夜物語』に出てくるシンドバッドの物語をみてもわかる。
「この商人崇拝には世界初の自由市場イデオロギーという以上にふさわしい名称がない」と、著者はいささか皮肉をまじえながら述べている。実際、著者によると、アダム・スミスはイスラームの文献から大きな影響を受けたという。
 ちがいがあるとすれば、分業についても、スミスが個の利益を強調するのにたいして、イスラームの経済学者が相互扶助に力点をおいたことだ。イスラームでは、市場の目的自体、コミュニズムの拡張ととらえられていた。
 ガザーリーやトゥースィーの著書には見るべきものが多く含まれている。かれらは「貨幣が純粋に仮想的な形式において使用されることがごくあたりまえになった時代」に、「貨幣の特性──象徴、抽象的尺度、それ自体の特性をもたぬこと、恒常的な運動を維持することによってのみ保持される価値など」について論じた、と著者は高く評価している。

 最後に論じられるのが「極西」のキリスト教世界である。
 中世のヨーロッパでも、貨幣は仮想的領域に撤退していった、と著者は書いている。「人びとはみな、ローマの通貨で、そしてのちにはカロリング王朝の『想像貨幣』によって経費の計算をつづけていた」
 通貨はひんぱんに徴収され、再鋳造されていたものの「ほとんどの日常的取引は、まったく現金に依拠することなく、割符や商品券、簿記、現物取引によっておこなわれていた」。
 実際の金銀は教会に集まっていた。集権国家の消失とともに、市場は教会によって統制されることになる。
 カッパドキアの聖バシレイオス(330頃—379)やミラノの聖アンブロシウス(340頃—397)は高利貸を非難する説教をおこなった。「同胞に利子をつけて貸してはならない」というのが、かれらの主張である。
 教会は利子を禁じていた。だが、富者が貧者にほどこしをおこない、貧者が富者に感謝を示すことには反対していない。こうして「かつての負債懲役人は、次第に農奴あるいは家臣に変容していった」
 だが、利子の禁止に例外もあった。ユダヤ人はキリスト教世界から排除されていたが、諸侯はその立場を利用した。ユダヤ人は商人や職工になれなかった。唯一認められたのが、金貸しという例外的な仕事である。諸侯はユダヤ人を保護すると称しながら、戦費支払いのためにユダヤ人からカネをしぼりとった。なかにはユダヤ人を金貸しと軽侮し、民衆にユダヤ人虐殺をあおりたてる諸侯もいた。
 著者はユダヤ人にたいする誤解を解くために、こう書いている。

〈金貸しについてユダヤ人の役割を過大にみてはならない。ほとんどのユダヤ人は、この商売とはなんの関係もなかった。金貸しを商売とする者も、なんらかの現物と引き換えに穀物や布地を貸すといった典型的な脇役だった。実際にはその多くはユダヤ人でさえなかったのだ。……1100年代には、ほとんどのユダヤ人金貸しは、すでに長らく北イタリアのロンバルディア人やフランスのカオール人にとってかわられていた。〉

 中世盛期の商業革命によって、ヨーロッパでは商業的農業や都市手工業者ギルドが台頭し、それによってヨーロッパは他地域と同じ経済水準に到達した。高利は禁止されていたが、中世末期には商業や私有財産までも否定する教理さえ巻き起こった。だが、そのいっぽうで、利子や利益を正当化する考え方も生まれてくる。
 おそらく利益や利子を正当化したのは、政治情勢の混乱と戦争だ、と著者はみている。ヴェネツィアやジェノヴァを動かしていたのは、冒険商人とガレー船団である。
 中世といえば、遍歴する騎士を思い浮かべるが、こうした騎士は「まさに略奪するものを求めて流浪する暴徒」以外のなにものでもなく、かれらこそ冒険商人の原型にほかならない、と著者はいう。

〈神秘の森アルビオンを放浪し、鬼や妖精や魔女や怪獣と遭遇する孤独な遍歴の騎士というイメージは、いったいなにに由来しているのか? いまやその答えは明白であろう。端的に旅する商人たち、つまり、なんの成果の保証もなく未開地や森林への孤独な冒険に出発した男たちじしんの、昇華されロマン化された像でしかない。〉

 そして後世、リヒャルト・ワーグナーは、歌曲『パルジファル』のなかで、こうした遍歴する騎士たちが求めたのが、聖杯であったことを暗示した。その聖杯とは、けっきょくなんだったのだろう。それは、不可視で無形であるにもかかわらず無限の価値をもつマネーにほかならなかった。

「枢軸時代が唯物論的な時代だったなら、中世はなによりも超越性の時代であった」と、著者はいう。
 この時代の特徴は宗教性である。とはいえ、中国やインド、イスラーム世界とちがって、キリスト教世界は極端に暴力的であり、また不寛容であった。
 手形や割符、紙幣というように、中世の通貨は抽象的で仮想的な形態をとっていた。貨幣をシンボロン(シンボル)、すなわち象徴と呼んだのはアリストテレスである。シンボロンとはある種の暗号や護符をさしていた。
 中世にいたって、シンボルは現実に対応する、知覚可能な具体的しるしを意味するようになった。そのシンボルは高次の存在からの「絶対的で、自由で、ヒエラルキー的な贈与」でなければならなかった。
 中国においては、紙幣とは割府であり、それは皇帝、さらに究極的には天から与えられたものだった。「金や銀が神聖なる場に集中するにつれ、日常的な取引はどこでも、主要に信用を通しておこなわれるようになった」
 それとともに、負債とモラリティに関する議論が発生する。ヨーロッパとインドではヒエラルキーへの回帰がおこった。中国では天の原理がはたらき、イスラーム世界では神の意志が顕現するとされた。
 中国とイスラーム世界は、市場の繁栄した豊かな社会だったが、近代資本主義の特徴となる金融・産業システムを生むことはなかった。つまり、カネがカネを生むシステムはつくられなかったのだ。
 これにたいし、法人、ないし会社をつくりだしたのはヨーロッパである。その原型は修道院、とりわけシトー修道会だった、と著者はいう。その修道院施設は、製粉所や鍛冶屋に囲まれ、羊毛をつむぎ、それを輸出する工場をもっていた。だが、それは資本主義にはほど遠い。
 資本主義が生まれるのは、特許状を受けた冒険商人組合、すなわち会社(カンパニー)が、武装し、海外で冒険をはじめたときだ、と著者は述べている。
 そこから西洋の主導する近代がはじまるのだ。