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イアン・カーショー『地獄の淵から』短評 [本]

 日本の近代がヨーロッパ列強をモデルとして形成されてきたことは、三谷太一郎の近著『日本の近代とは何であったか』でも指摘されている。政党政治も資本主義も植民地支配も天皇制も、ヨーロッパとの遭遇の産物だった。
 明治維新というクーデターの背後には、フランスを後ろ盾にする幕府に対抗し、イギリスの支援によって中央集権国家をつくろうとする薩長の思わくがあった。1871年から73年にかけての岩倉使節団が、不平等条約の改正よりも欧米視察を優先したことも、よく知られている。
 日露戦争を前に、日本は1902年にイギリスと日英同盟を結んだ。その条約は、1921年にワシントンで締結された「4カ国条約」を機に廃棄される。その後、アメリカに対抗するため、日本はナチス・ドイツと同盟を組み、1940年に日独伊三国同盟が発足した。
 第2次世界大戦に敗れた日本は、1951年にアメリカと日米安保条約を結んだ。日米安保体制は現在も維持され、近年、日本は同盟国として、より積極的な軍事的役割を果たすようアメリカから求められている。
 最近の動きはおそろしいほど急速だ。特定秘密保護法、集団的自衛権、安全保障関連法、さらに共謀罪、憲法改正へとつづく怒濤の勢いをみれば、戦後の平和はとっくに終わって、すでに新たな戦争がはじまっているとすら思えてくる。
 ところで、今回の書評はこうした心配な動きとは直接関係がない。一歩立ち止まって、ヨーロッパ現代史を振り返ってみようというわけである。ヨーロッパ現代史は、ヨーロッパをモデルとして発展してきた日本の近代と切り離せない。村上春樹風にいえば、ヨーロッパは日本のパラレルワールドだ。
 本書は1914年から49年までのヨーロッパ史である。その後、現在までをえがく続巻も予定されているという。著者のイアン・カーショーは、イギリスの歴史家で、とりわけナチズム研究で知られ、ヒトラーについての浩瀚な伝記も出版している。
 1914年から45年にかけ、ヨーロッパは悲惨な自滅の時代を経験した、と著者は記している。まさに地獄を味わい、ようやく地獄を抜けたのだといってよい。続刊は、その地獄のなかからヨーロッパがいかにしてよみがえったかがテーマになるという。その意味で、本書と続刊は、ヨーロッパの死と再生をえがく歴史になるはずだ。
 20世紀前半にヨーロッパの破局をもたらした要因は4つあるという。
(1)民族主義・人種差別主義的ナショナリズム
(2)領土修正をめざす激しい要求
(3)ロシア革命を背景とした先鋭的階級闘争
(4)長期化する資本主義の危機
 並べてみると、何だかいまと似ている。歴史はくり返すという格言が頭に浮かぶ。しかし、当時とはどこかちがっていると思わないでもない。少なくともいまのヨーロッパでは(2)と(3)の要因は、さほど強くない。とはいえ、最近のボスニアやコソボ、チェチェン、さらにはクリミア問題、ISによるテロ、広がる経済格差や暴動などをみれば、その要因が消えたとも思えない。
 また、ヨーロッパの枠をはずして世界全体をみると、当時ヨーロッパを揺るがせた4つの要因は、場所と形態を変えただけで、現在でも引きつづき残っているといってまちがいないだろう。
 歴史は現実におこったできごとだ。小説や物語とはちがう。科学・軍事技術が発達したいまでは、ちょっとした判断と行動の誤りが取り返しのつかない災厄を招く。歴史を学び、歴史を教訓とすることがだいじなのは、人類にとって、くり返される最悪の事態をできるだけ避けるためでもある。
 1914年から49年にかけ、ヨーロッパでは次のようなできごとがおきた。
 100年つづいたウィーン体制が、第1次世界大戦(1914〜18)によって崩壊した。だが、大戦後の領土再編が国家間、民族間、階級間の対立と緊張を緩和することはなかった。それはむしろ憎しみの連鎖を生んで、次の衝突への導火線となっていった。
 大恐慌(1929)後の世界経済は混乱し、大衆の不安が増していた。そこに台頭したのが、力の政治をうたう政治勢力だった。とりわけ、イタリアとドイツでは、反ボリシェヴィズムとナショナリズムが結合して、右翼大衆運動が巻き起こり、極右勢力が政権を掌握した。そのあとは、破滅的な第2次世界大戦(1939〜45)までまっしぐらである。
 この書評では、ほんのさわりしか紹介できないが、こなれた訳文が、本文だけでA5判2段組500ページ近い大著を、最後までぐいぐいと引っぱって、あきさせない。読者はまるで鳥の目になったように、20世紀前半の東西南北にわたるヨーロッパ全体の構図をくまなく見て回ることができるだろう。
 しかし、圧巻なのは、やはりヒトラーとスターリンという巨悪が無気味に浮上していく部分である。そのはじまりは1930年代ではなく、1920年代だった。はじめはほんのちいさな運動が、大きな渦となって歴史を巻きこんでいく。
 ファシスト運動をはじめたのはイタリアのムッソリーニだ。1924年、ムッソリーニのファシスト党は、改正選挙法のもとイタリアの議席の3分の2を掌握した。そのあと社会党書記長のジャコモ・マッテオッティが暗殺されると、野党はたちまち排除され、報道は国家管理下に置かれる。
 同じ年、ソ連ではレーニンが死に、スターリンが権力を掌握した。スターリンのもと、ソヴィエト政権は以前にも増し、恐怖政治の度合いを強めていく。
 そのころヒトラーはナチスの指導者になったばかりだ。「ドイツのムッソリーニ」ともてはやされ、自信をつけたヒトラーは、1923年にミュンヘンで一揆をおこすが、たちまち逮捕され、ランツベルク刑務所に8カ月収監された。
 いっぽう、ソ連で権力を握ったスターリンは、まずジノヴィエフ、カーメネフ、ブハーリンを味方にしてトロツキーを追いだし、それからジノヴィエフとカーメネフを党から除名し、最後にブハーリンを分派主義者として失脚に追いこんでいった。スターリンが名実ともにソ連共産党の最高指導者となるのは1929年のことだ。そのあと粛清と恐怖政治の1930年代がつづく。
 1929年の大恐慌はドイツに経済危機をもたらした。社会民主党政権は崩壊し、1930年9月の総選挙で、ナチスは18.3パーセントの得票率で第2党に踊りでる。だが、このときは共産党も支持を伸ばしており、ヒトラーが首相になる可能性は低いと思われていた。
 それがいっこうに回復しない経済状況のなか、風向きが変わってくる。社会民主党と共産党との足の引っ張りあいにドイツ国民はうんざりしていた。1932年8月の総選挙で、ナチスは得票率37.4パーセントを獲得し、ついに第1党となる。その結果、1933年1月、ヒンデンブルク大統領の後押しで、ヒトラーが首相に就任するのだ。
 政権の座につくと、ヒトラーは社会主義者と共産主義者を一斉逮捕し、監獄や収容所に送りこんだ。緊急命令により、無制限の警察権も認められるようになった。3月には全権委任法が議会を通過し、ヒトラーは無制限の立法権を掌握する。共産党は粉砕され、社会民主党は禁止された。そのほかの政党も禁止、または解党に追いこまれた。あっというまの展開である。
 1934年6月、ヒトラーはみずからの対抗馬となりそうなナチス突撃隊(SA)隊長のエルンスト・レームを粛清する。粛清者はほかに150〜200人にのぼった。8月にヒンデンブルクが死ぬと、ヒトラーは国家元首の地位を引き継ぎ、総統となった。
 ヒトラーの経済政策は功を奏する。左翼政党と労働組合がつぶされたことで、企業は賃金を引き下げ、利益を最大化することが可能になった。そのいっぽうで雇用創出計画により、道路建設や土地開発が促進された。公共事業、自動車産業の育成、農業保護、さらには軍備支出が、経済を新たな地平へと引き上げていく。
 しかし、ドイツの経済回復はそれ自体が目的ではなかった。ナチスの目的は軍事力強化による領土拡大であり、経済はその手段にすぎなかった。そこから第2次世界大戦までは一直線である。
 著者によれば、ヨーロッパの1930年代は独裁体制の時代だったという。
 独裁体制に共通する特徴は、複数政党の廃止、個人の自由の制限、国家によるマスメディア支配、独立した司法の廃止、警察権による反対派の弾圧などである。独裁政権は民族ないし国民を代表すると称していた。しかし、現実に支配していたのは、ひとりの独裁者だった。
 ドイツ・ファシズムの特徴は、加えて、領土拡張主義的な性格をもつ軍事独裁政権だったことである。この点では、日本のファシズムも同じ特徴をもっていた。
 ボリシェヴィズムとファシズム(ナチズム)は、対極にあるようにみえて、自由民主主義に反対する点は共通している。いずれも国民(人民)を教育して、イデオロギーの献身的信奉者にし、国家目的(戦争や革命)に駆り立てることをめざしていた。その統治手法は「社会の完全な組織化、敵と少数派に対するテロ攻撃、極端な指導者礼賛、独占政党による容赦ない大衆動員」からなる、と著者はいう。
 ここまで、ほんのさわりを紹介しただけでも、何かぞくぞくするものを覚えてきた。それは、現在も小ヒトラー、小スターリンがあちこちで生まれつづけているからではないか。第2次世界大戦の死者は少なくとも5000万人(大きくみれば8000万人)にのぼる。地獄への道は善意で(いや愛国心で)敷き詰められている。下手なホラー小説よりこわい本である。


天皇と教育勅語──『日本の近代とは何であったか』を読む(4) [本]

 伊藤博文は憲法をつくるさい、人間の社会を結合するには、宗教が必要であることをドイツの憲法学者から教わった。ヨーロッパにはキリスト教がある。しかし、日本の場合、それは天皇以外にはありえないと思った。
 ヨーロッパでは「聖職者」と「王」が分離されている。だが、日本で天皇を立てるとなると、それは「聖職者」と「王」が合体した存在とならざるをえない。
 こうして、大日本帝国憲法では、「天皇は神聖にして侵すべからず」と規定される。
 さらに、天皇は統治権を総攬(統括)する存在として位置づけられた。だが、天皇が親政をおこなうわけではない。
 天皇は統治権を行使するにあたっては、憲法にしたがうとされた。その点では天皇は現実には立憲君主にほかならなかった。
 しかし、天皇を神聖不可侵としたことが、あたかも天皇を憲法に拘束されない存在であるかのような位置に祭りあげてしまう。
 そこから法令とはことなる「教育勅語」が生まれてきた、と著者は考えている。
 明治は文明開化の大変動期だった。
 政府は民心を統一するため、何らかの道徳上の大本を立てることを求められていた。
 教育勅語をつくったのは、もちろん明治天皇ではない。政府の危機感は強かった。じっさいに、教育勅語をつくりあげたのは、天皇の侍講、元田永孚(ながざね)と伊藤博文の側近、井上毅である。
 当初、元田は「仁義忠孝」にもとづく徳育を強調する指針を立てた。しかし、井上は勅語が「旧時の陋習」に復することがあってはならないと批判した。徳川時代と同じ道徳では困るのである。
 文部省は、さしあたり教育勅語の起草を、『西国立志伝』の訳者で、女子高等学校校長でもあった中村正直に依頼した。だが、中村の草案は政府の採用するところとならなかった。井上毅が強く反対したためである。
 中村正直は、道徳の本源は人間のごくふつうの心情である「敬天敬神」の思いから発すると考えた。しかし、井上はそうした哲学的解釈を嫌う。
 勅語は哲学や政治状況に左右されてはならない、と考えていた。
 井上にとって、勅語はあくまでも天皇の意思の表明というかたちをとり、そのことばは「玉のごときもの」でなければならなかった。
 そのため、井上は道徳の本源を、天皇の祖先である「皇祖皇宗」に求める。
 そして、勅語の草案として、冒頭をつぎのように書き記す。
「朕惟ふに我が皇祖皇宗国を肇むること宏遠に徳を樹つること深厚なり」
 教育勅語は、この井上の案をもとに、元田が修正を加えることによって成立した。
 著者は「教育勅語は井上の背後にある山県、伊藤らに代表される藩閥官僚勢力と、元田らの背後にある天皇側近勢力との共同作品であった」と結論づけている。
 しかし、立憲君主として憲法に拘束される天皇と、道徳の立法者としての天皇は、はたして矛盾しないか。
 大日本帝国憲法は国民の「信教の自由」を認めている。だとすれば、教育勅語は信教の自由を束縛するものであってはならないはずだ。この矛盾に悩んだ井上は、「教育勅語」をあくまでも天皇の著作とすることで、憲法との齟齬を回避した。
 こうして、教育勅語は天皇が自己の意思を国民に表明したものとして、宮中で文部大臣に下付されることになった。ほかの勅語や勅令とちがい、国務大臣の副署はなされなかった。あくまでも天皇の意思として示されたからである。
 しかし、教育勅語は国民に大きな影響をおよぼした。その影響力は憲法をはるかにしのぐ。
「日本の近代においては『教育勅語』は多数者の論理であり、憲法は少数者の論理だった」と、著者は書いている。
 そこに記されているのは、父母に孝行を尽くし、兄弟仲良く、夫婦相和し、国法を順守し、そして国家危難の際には公に準ずるという、ごくあたりまえの道徳律である。
 この教育勅語は、その後50年以上にわたり、全国の高等学校、中学校、尋常小学校の「奉読式」で、うやうやしく読みあげられていくことになる。
 だが、教育勅語の本質は、国民が守るべきこうした道徳律にあったわけではない。そうではなくて、井上毅が勅語の冒頭に記した1行にあったのである。
 すなわち、こうした人の道を定めたのが「我が皇祖皇宗」だということ。人が人の道を守って生きることは、その道をつくった天皇一族をあがめることと同じなのだ。
 教育勅語の意図は、道徳を広めることにあったのではない。それまで庶民にとって、いるかいないかわからなかった天皇という存在を、国民の意識に刻みつけることにあったといえるだろう。
 明治政府のこのプロパガンダは大成功を収めた。
 1948年6月19日に、衆参両院は教育勅語の失効を確認し、それを排除する建議を成立させた。
 天皇による「人間宣言」とともに、教育勅語の根拠は消失したはずである。
 それでも、いまも何かと教育勅語がもちだされるのは、明治以来、日本人にしみついた天皇尊崇意識がいかに根深いかを示している。
 本書は教育勅語の淵源にさかのぼることで、そこに隠されていた統治者の意図をみごとに掘り起こしている。

『日本の近代とは何であったか』を読む(3) [本]

 近代になってから日本は植民地帝国を築いた。
 植民地の特徴は、本国の憲法が適用されないことである。そのぶん、現地当局が植民地に恣意的な支配をおよぼすことになった。
 日本が本格的に植民地帝国への一歩を踏みだしたのは、日清戦争以後のことである。日本は領土として台湾を獲得するが、英仏露の三国干渉によって遼東半島を還付せざるをえなかった。それは大きな挫折だった。
 だが、その挫折感によって、「日本は、東アジアにおいてヨーロッパ列強に伍する権力政治の主体となることを志向するにいたった」と、著者はいう。
 ヨーロッパ列強と日本では、植民地構想が大きなちがいがあった。それは「日本の植民地帝国構想が経済的利益関心よりも軍事的安全保障関心から発したもので、日本本国の国境線の安全確保への関心と不可分であったということ」だという。
 すでに1890年に、山県有朋は、日本の主権を確保するための「利益線」という考え方をもちだし、朝鮮半島を植民地化する方向を示していた。
 著者は植民地帝国の法的枠組をつくった機関として、枢密院の役割を重視している。
 枢密院は天皇直属の諮問機関である。枢密院の審議をへなければ、いかなる法律も条約も認可されることがない。また国会をへることのない勅令にも枢密院は関与していた。だから、大日本帝国においては、枢密院こそが最上院だった、と著者は解説する。
 朝鮮統治にあたっては、枢密院と軍部のあいだで激しい争いがあった。
 日露戦争後、軍部は関東州租借地を事実上、直接支配下においた。
 いっぽう、枢密院は文官による朝鮮支配にこだわっていた。だが、けっきょくは軍部に押し切られる。
 1910年の韓国併合後、朝鮮総督府でも武官総督制が採用されることになった。こうして、初代朝鮮総督には、陸軍大将の寺内正毅が就任した。
 軍部による植民地統治に異論が出されなかったわけではない。
 憲法学者の美濃部達吉は、植民地が憲法外におかれた「異法区域」であると論じた。この微妙な言い回しによって、美濃部は、暗に軍部による恣意的な植民地支配を牽制しようとしたのである。植民地の臣民には、市民権らしきものはほとんど与えられていなかった。
 しかし、大正時代にはいり何年かすると、軍部による植民地直轄支配は揺らぎはじめる。山本権兵衛内閣は、関東州租借地は外務大臣、朝鮮・台湾・樺太は内務大臣が統括するという方針を打ちだした。
 だが、軍部も黙っていない。さっそく、巻き返しにでる。
 寺内正毅が首相になると、関東州租借地では、陸軍大将、中将が就任する関東都督の権限が強化される。満鉄、領事館、警察署も関東都督の支配下に組み入れられることになった。
 いっぽう、朝鮮では1919年に3・1独立運動が巻き起こった。
 これに驚いた首相の原敬は、植民地統治の脱軍事化という方向を打ちだす。
 原はまず関東都督に代えて、関東庁を設立し、その長官を文官にしようとした。そのいっぽう陸軍部門を独立させ、関東軍司令部を設立すると約束した。
 こうして、関東州租借地では、関東庁と関東軍司令部という政軍分離の二本立て体制ができあがる。それが皮肉なことに満州事変を引き起こす要因になるとは、原自身も考えていなかった。
 原は朝鮮においても文官総督の実現をめざした。だが、軍の抵抗にあってうまく行かない。実現できたのは、文官総督を可能にする制度を導入することくらいだった。
 じっさい、朝鮮総督のポストはその後も軍人が独占する。
 だが、台湾総督は長らく文官が任についた。
 このあたりのポスト争いは軍と枢密院、内閣がからんで、じつにややこしい。
 原の死後、朝鮮と台湾では、同化政策が採用された。現地人を帝国臣民に組み入れるため、教育制度や戸籍制度がととのえられていく。
 しかし、同化政策によっても、「朝鮮や台湾のナショナリズムを鎮静させることはできませんでした」と、著者は記している。朝鮮や台湾のナショナリズムは「植民地帝国日本を内部から脅かす不断の潜在的脅威」になっていく。
 そして、1930年以降浮上したのが、国際主義に代わる「地域主義」の考え方である。
 地域主義とは、従来の国際秩序に代わる、新たな地域秩序の構想だといってよい。それは対外的膨張によってつくりだされた既成事実を正当化するもので、大東亜共栄圏の構想へとつながっていく。そして、そこには欧米の帝国主義に対抗するという意味づけがなされていた。
 著者によれば、1920年代の日本は、国際主義にのっとり、軍縮条約にもとづく国際秩序を順守していた。
 ところが、1931年の満州事変によって状況は大きく変わる。日本は国際主義を否定して、日本を中心とする地域主義を唱えるようになった。
 1937年に日中戦争が勃発すると、こうした地域主義は東亜新秩序を正当化する考え方へと発展していく。
 もういちど繰り返すと、地域主義とは「地域的協同体を根幹とする世界新秩序」のことである。
 ヨーロッパにおいては、それがドイツとイタリアを中心とする「欧州新秩序」となり、東アジアにおいては日本を中心とする「東亜新秩序」となるのである。
 地域主義においては、民族主義(民族をひとつの単位とする考え方)は超克されなければならなかった。
 地域主義によれば、東亜新秩序のなかで、中国民族が生きていくためには、民族を超えて、日本を中心とする地域的連帯にめざめることが必要だということになる。日中戦争はそうした東亜新秩序を建設するための戦争だと考えられた。
 第2次世界大戦後、日本はアメリカを中心とする国際秩序に組み入れられていった。それは共産圏に対抗するための国際秩序であって、いわばアメリカを中心としたアジア地域主義構想だった、と著者はいう。
 しかし、1970年代にはいると、米中国交が正常化に向かい、アジアの冷戦構造が終結すると、グローバリズムの奔流が押し寄せることになった。アメリカにとっても、もはや日本を軸とする「垂直的国際分業」システムは不要になった。
 こうしてアジア諸国は「米国によって課された『地域主義』から解放され、今や相互の対等性を前提とした『水平的統合』を志向する新しい『地域主義』を模索しつつある」、と著者はいう。
 著者は「ヨーロッパ文化」と同様の「アジア文化」があるかどうかに疑問をいだいている。加えて、日韓中のあいだの歴史認識に大きなへだたりがあることも認めている。
 こう述べている。

〈日本の近代の最も重要な特質の一つは、アジアでは例外的な植民地帝国の時代をもったことにありますが、その時代の認識は、同時代の朝鮮全体の現実──今日いわれる朝鮮にとっての「植民地近代」の現実──の認識なくしてはありえません。その意味の日韓両国の近代の不可分性を具体的に認識することが、両国が歴史を共有することの第一歩なのです。このことはまた中国についても同様です。〉

 これはとりわけ、朝鮮や中国が日本にとってパラレルワードであることを示している。そのパラレルワールドは不可分でありながら、そこでは、異なる視線が異なる世界像を結んでいるのだ。歴史の共有は、きわめてむずかしい。しかし、われわれはいま歴史の共有に向けて一歩を踏みだすことを求められているのである。

『日本の近代とは何であったか』を読む(2) [本]

 なぜ日本に資本主義が形成されたのか。
 国民国家の形成と自立的資本主義の形成は不可分一体だった、と著者は記している。
 それは、つまり日本資本主義の形成は国家主導だったということである。
 その考え方は、大久保利通から松方正義、高橋是清に引き継がれていく。
 日本の資本主義は、かたくなに外資を排除するところからはじまった。
 明治政府は、関税自主権のない不平等条約のもとで、ヨーロッパ列強が日本経済を乗っ取ってしまうことを、ひどく恐れていた。その点からみれば、開国は無意識下においやられた攘夷と一体になっていたともいえる。
 明治政府は日本に資本主義を生みだすために、先進技術を導入して官営事業を立ち上げた。国家の歳入を確保するため地租による租税制度もつくった。質の高い労働力を確保するため教育制度も充実させた。そして、資本蓄積を進めるためできるかぎり対外戦争を回避しようとした。
 富国強兵が近代化に向けての明治政府のスローガンである。富国のためには、まず殖産興業政策が採用しなければならなかった。そのリーダーシップをとったのが、内務卿になった大久保利通である。
 大久保はまず農業技術を近代化するために、官営模範農場と官立農学校をつくり、農業や牧畜、養魚、製糸、製茶、果樹栽培、林業などの技術改良に努めた。
 工業についても同様である。富岡製糸場をはじめ、官営工場が各地につくられていった。それらは繊維産業の拠点となっていく。
 さらに大久保は輸出振興に力点を置き、海運業の育成にも力を入れていく。そのため、三菱をいわば官営模範海運会社とみなし、三菱を保護した。
 ちなみに、こういう官主導の資本主義に徹底して反発したのが、民間主導の資本主義をつくろうとした渋沢栄一だといってよい。渋沢にとって、会社や団体は国家のためのものではなく、何よりも民衆のためのものだった。
 本書には渋沢栄一への言及がまったくなされていないが、官だけが踊っても資本主義は定着しないことを強調しておきたい。
 渋沢栄一については、昔、評伝を書いたことがある(いささか長いが)。
 よろしければ、拙HPをご参照ください。

 http://www011.upp.so-net.ne.jp/kaijinkimu/huchiqq.html

 著者は「大久保は政府主導によって世界市場に適応しうる資本主義的生産様式を造り出していこうとした」と書いている。
 このあたりの発想をまねたのが、鄧小平だといってよいかもしれない。
 それはともかく、大久保は国家主導の資本主義をつくるために、国家資本の形成に力をいれた。そのために江戸時代の年貢に代わって、金納の地租による租税方式を考えだした。外債は避けたいという思いが強かった。
 大久保は義務教育制度にも力をいれる。そのため、各地に小学校が建てられた。学制令が出された翌年の1873年(明治6年)には、小学校の数は1万2558校、3年後の1875年には2万4225校におよんだという。この数は2016年現在の1万9943校を上回るというから、おどろきである。また、早くも1874年には、女子教員を養成する女子師範学校がつくられている。
 さらに大久保の功績は大規模な対外的戦争をできるだけ避けたことだという。1874年に日本は台湾に出兵する。このとき日本は清と戦争にはいる恐れもあったが、大久保は外交交渉によって、それを乗り切る。さらに大久保死後に強行された琉球王国の廃絶と沖縄県の設置にさいしても、清と戦争になる可能性はじゅうぶんに考えられた。著者は、明治政府が外交交渉によって、大きな戦争を避けたことが、日本の経済発展につながったと評価している。
 大久保の路線を継承したのが松方正義である。当時は西南戦争のあと、政府の財政赤字が膨らんでいた。松方は外債発行に頼らず、歳出を抑制し、超均衡財政を強行する。そのいっぽう増税によってできるだけ歳入剰余をつくりだそうとした。これが、いわゆる松方デフレである。
 松方はさらに為替管理と積極的な官営貿易により、正貨準備の増大をはかった。日本銀行設立を計画したのも松方である。
 松方のデフレ政策にたいする反発は、とうぜん強かった。政府内でも、松方に反対する者が多かった。だが、そうした反対派を松方は押し切っていく。
 とはいえ、日清戦争後、日本はその経済政策を根本的に転換し、外債導入に踏み切る。それをおこなったのも松方である。
「それ[新たな経済政策]を可能にしたのは、条約改正による関税収入の増大と戦争の償金による金本位制の確立に伴って外資導入を有利にする条件が整えられたことです」と著者はいう。
 こうして日本の外資依存度はしだいに大きくなっていく。その依存度を一挙に高めるきっかけとなったのが、日露戦争である。
 日本資本主義は国際化しようとしていた。
 日本経済の国際化に対応しようとした人物が高橋是清と井上準之助だ、と著者はいう。
 日本銀行総裁の高橋是清はあえて井上をニューヨークに送り、かれを国際金融家として育てようとした。
 のちに日銀総裁となる井上のもとで、1920年代に日本資本主義は国際化していく。日本には大量の米英資本が流入する。著者は「井上は国際金融家の役割を果たすことを通して、ワシントン体制の枠組に沿う第1次大戦後の日本の経済の経済外交を事実上主宰しました」と書いている。
 1927年の金融恐慌後、浜口雄幸内閣の蔵相として、井上は金本位制復帰をめざし、金解禁のための緊縮政策を打ちだす。とうぜん軍の予算も削られた。ところが、金本位制への復帰は頓挫し、国際金融網は寸断され、ふたたび国家資本の時代がはじまるのだ。
 1932年2月、井上準之助は右翼テロリストによって暗殺される。つづいて金本位制に代わって、ケインズ政策を取り入れようとした高橋是清も二・二六事件で暗殺され、軍部独裁政権が誕生する。こうして、日本での「議論による統治」は圧殺されることになる。
 アダム・スミスが示した資本主義は、国家の干渉をできるだけ排除するなかで成長していく自立的な経済モデルだった。しかし、ヨーロッパをモデルとして、近代化を実現しようとした日本では、資本主義は国家によって導入される以外になかった。その資本主義は当初、対外的な自立をめざし、つづいて国際的な協調をめざしながら、じょじょに発展していった。それが可能だったのは、国家の舵取りがすぐれていたからだけではない。それ以上に、近代化をめざす民間の努力が大きかったとみるべきだろう。
 だが、戦争が拡大し、軍部の独裁が強まるにつれて、国家も民間も硬直して、柔軟な経済運営は失われてしまう。
 思うに、現在もまた劣化の時代である。野放図な国債発行のもと、日本経済の方向性は見失われ、政府も企業も劣化しつつあるのではないか。まるで、そんなふうに思えてくるのである。

『日本の近代とは何であったか』 を読む(1) [本]

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 著者の三谷太一郎は1936年生まれで、東京大学名誉教授。日本の政治史と外交史が専門だ。『日本政党政治の形成』、『大正デモクラシー論』といった著書がある。
 むずかしい話はとばして、ほんのさわりだけを紹介してみよう。
 最初に「日本の近代は、日本が国民国家の建設に着手した19世紀後半の再先進国であったヨーロッパ列強をモデルとして形成されました」と書かれている。
 日本の近代というのは、明治以降と考えてよい。
 日本はヨーロッパをモデルにして近代化を達成した。
 大きかったのは、1871年から73年にかけて欧米を視察した岩倉使節団の役割である。本来の目的は幕末の不平等条約を改正すること。だが、それよりも、欧米、とりわけヨーロッパの制度をどのように取り入れるかが課題となった。
 そもそも近代とは何を指しているのだろう。
 イギリスの著作家ウォルター・バジョットは、近代とは「鉄道や電信の発明」などに象徴される「自然学」の応用がもたらした「新世界」であり、その根本は「自由」にもとづく政治、すなわち「議論による統治」が実現されていることだ、と考えていた。
 つまり、近代とは産業と民主政治にほかならない。それは個人が慣習や身分から解放されて、自由に意見を述べ、行動することが許される時代でもあった。
 はたして、日本ではこのような近代、とりわけ「個人の尊重」がどこまで実現されたかは、疑問なしとはいえない。それでも、明治維新で日本はヨーロッパの制度をとりいれ、それなりの近代化をはたしたのはまちがいないだろう。
 著者は本書において、日本の近代を、政党政治、資本主義、植民地支配、天皇制という問題に即して検証していく。
 まずは政党政治である。
 政党政治の前提はいうまでもなく立憲主義である。立憲主義とは憲法にもとづく政治のことだ。
 日本では東アジアでいちばん最初に立憲主義が導入された。つまり憲法がつくられたのだ。それが1890年の明治憲法である。
 ヨーロッパで憲法がつくられたのは、そもそも王の絶対的権力を制限するためだった。そして、近代憲法は議会制、人権の保障、権力の分立を原則とするようになる。
 1890年に施行された明治憲法もまたこうした原則を満たすものだった。しかし、それはとつぜん出現したものではない。江戸時代の合議制という政治的伝統(権力の抑制均衡のメカニズム)があったからこそ可能だった、と著者はいう。
 司法、行政、立法の三権分立という考え方は日本人に受け入れやすかった。江戸時代から独裁は嫌われていたのだ。
 これにたいし、日本では古くから公議が重視されていた。だから、明治になって、公議を形成する場として議会制が取り入れられるのは、とうぜんの方向だった。こうして、1890年(明治23年)7月に初の総選挙が実施される。
 ところで、明治維新とは王政復古であって、あたかも天皇親裁が実現されたかに思えるかもしれない。しかし、著者によれば、王政復古の目的は幕府のような絶対政権を排除することにほかならなかった。したがって、明治憲法に規定された「一見集権的で一元的とされた天皇主権の背後には、実際には分権的で多元的な国家のさまざまな機関の相互的抑制均衡のメカニズムが作動」していたという。
 太平洋戦争中の軍部独裁政治は、むしろ明治憲法体制からの逸脱だった、と著者は考えている。もともと明治憲法は、議会が政治の全権を握るのを抑えるよう組み立てられていたからである。
 明治憲法には、しかし根本的な欠陥があった。著者によれば、それは「最終的に権力を統合する制度的な主体を欠いていた」ことだという。権力主体といえば、天皇がいると思うかもしれない。しかし、名目はそうであれ、現実の天皇は「権力を統合する政治的な役割を担う存在」ではありえなかった。
 行政をになう内閣は、議院内閣制のかたちをとっていない。あくまでも天皇によって組閣を命じられる。また個々の閣僚は首相ではなく天皇に直結する建前なので、「遠心的であり、求心力が弱かった」。
 だから、明治体制のもとでは、藩閥のリーダーである元老が影の統合主体となっていた。いわばバランサーとしての役割をはたしていたのである。つまり元老が内閣の生みの親の役割を果たしていた。
 だが、しだいに議会が存在感を増してくると、その多数を占める政党の役割が無視できなくなる。藩閥の側も政党をつくらざるを得なくなった。
 転機となったのは1900年である。この年、伊藤博文は衆議院での多数派形成をめざして、立憲政友会(略称、政友会)を結成した。いっぽう、これに反対するグループも政党をつくり、こうして日本でも複数政党制が成立していくことになる。それにつれて、藩閥の力はじょじょに衰えていった。
 日本では大正の終わりから政党政治が本格的に作動する。いわゆる大正デモクラシーである。しかし、1931年の満州事変以後、政党政治の権威はゆるぎはじめる。
 学者のあいだからも、議会に代わる「立憲的独裁」の機関を設立せよとの声がわきあがった。それが大政翼賛会へとつながり、軍部独裁に転じていったことは周知の通りだ。
 いまは戦後民主主義の時代から、時代がひとまわりした。
 著者は、ふたたび「立憲的独裁」の傾向が強まるのではないかと危惧している。「立憲デモクラシー」がこれにいかに対抗するかが問われているという。
 政党政治の危機だといってよい。

アテナイの消費生活について(2)──論集『消費の歴史』から [本]

 アテナイの買い物ではよく魚の話がでてくるという。とくにビッグサイズの魚は値段も高く、シーフードはあこがれの的だった。魚はご馳走だったといえるだろう。
 アテナイ人はだいたいにおいて、犠牲に供される牛やヤギ、ブタ、羊の肉で栄養をとっていた。こうした肉は宗教的儀式にともなうもので、市場では売られていない。氏族(オイコス)のもとで分配されるのがふつうだった。
 しかし、市全体や地区全体でおこなわれる大がかりな儀式もあり、民衆の支持を得ようとする金持ちが、しばしばそうした儀式のスポンサーになった。政府がカネを出すこともあった。
 ところが肉とちがって、魚は市場で売られるぜいたく品だった。それはまさに食欲を満たすとともに消費の対象となる商品だったといえる。
 問題は魚が腐りやすく、早く食べなければならないことだった。そのため朝早く市場に行き、新鮮な魚を買って、すばやく調理する必要がある。その点、魚は理想的な商品だったかもしれない。すぐに売れて、消費され、カネになったからである。
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[アテナイの銀貨。ウィキペディアから]

 もうひとつカネのかかるものといえば、セックスだった。アテナイにもふつうの売春婦から高級娼婦まで、カネで買える女性はさまざまだった。
 大勢の女や少年を集めて宴会を催すには、びっくりするほど費用がかかった。そこでは音楽のバンドもいれ、食事や酒の用意もしなければいけなかったから、その費用は想像にあまりある。だが、そうした宴会は金持ちのみえのためではなかっただろう。
 高級娼婦を囲うにはとてつもなくカネがかかった。それでも古代アテナイ人も、カネで欲求が満たせるという誘惑にはあらがえなかったようである。
 アテナイ人の消費に関する記述には、不思議なことに、衣服や家財の話がほとんど見当たらない。職人は大勢いたのだから、こうした商品も購買され、使用されていたことはまちがいない。
 衣服はもちろん手織りで、アテナイの工房で織られ、市場でも売られていた。なかには高いものもあり、とくに高級なマントが知られていた。しかし、衣服や家財は、直接注文が多く、そのためあまり市場にあらわれなかったのだろうか。
 民主政のアテナイでは奴隷やメトイコイ(外国人)にたいする扱いがゆるやかになり、かれらの服装も市民と変わらなくなっていたという。
 逆にいえば、紀元前5世紀になるにつれ、金持ちもだんだん庶民と同じような服を着るようになっていったのである。
 アテナイでは、服装の面でも民主化が進んでいたといえるだろう。
 しかし、いっぽう民主政のもとで、金持ちはことあるごとに資金の提供を求められるようになった。さらに税金もかけられる。とりわけ戦争ともなると、金持ちはより多くの負担を求められた。
 さらに重要なのは、アテナイでは多くの判事や検事が30代以上の市民のなかから選ばれていたことである。財産の差し押さえがしばしばおこなわれ、不正蓄財がなされていないかが厳しく調査された。
 そのため、いかにも金持ちのようにふるまうのは禁物だった。紀元前414年には、あるエリートがエレウシスの秘儀を冒涜し、ヘルメスの像を破壊したとして告発され、財産を没収されている。
 しかし、実際、紀元前5世紀末のアテナイでは、個人的にはそれほど贅沢な生活は見られなくなっていた。豪華なものがあるとすれば、それはあくまでも神殿を飾るものだったという。
 アテナイでは個人の家が小さく質素だったのにたいし、神殿は巨大で豪奢につくられていた。神殿に置かれたアテナの巨大な像は、象牙と黄金で飾られていた。
 これをみれば、富裕層は神殿や祭りなどに大きな寄進をするかぎりにおいて、その存在を認められていたといえるだろう。
 豪華な衣装や馬車が認められたのも、祭りの場においてだけである。祭り以外でも、ぜいたくぶりを見せびらかしていると、ヒュブリス(傲慢)罪で告発される恐れがあった。
 つまり、古代ギリシアでは、祭り以外の場では、個人の物質的ぜいたくにたいし、モラル面、文化面、宗教面で大きな制約が課せられていたのである。
 以上をまとめると、どういうことがいえるだろう。
 ここでえがかれているのは、紀元前500年から300年にかけての民主制アテナイの消費の様子についてである。
 アテナイでは史上はじめて貨幣経済が全面開花した。はじめて常設の市場が生まれ、多くの商品が売られるようになった。
 アテナイの市場の繁栄は、アテナイの海軍力のたまものでもある。さらにいえば、それは民主政のたまものでもあった。
 市場にたいしては、当時も多くの反対や批判があった。それでもアテナイの市場は発展し、アクロポリスからディピュロン門にまで広がった。
 市場で売られていたのはものだけではない。音楽から勉強にいたるさまざまなサービスも提供されていた。
 また多くの監督官がいて、計量が適切か、価格が妥当かなどと監視していた。
 正式な市場はアゴラの中心部にあり、そこには人民裁判所や五百人委員会などもあったから、市場はまさに民主政の中心部に位置していたといえる。そこではしばしばギリシア喜劇が演じられ、ソクラテスをはじめ、民主主義を批判するプラトンなどの哲学者もたむろしていた。
 アテナイの市場では、家具インテリア、衣服などのぜいたく品はあまりおいていなかった。個人的なぜいたくは避けられる傾向があった。まれに甲冑や馬などに多額の金額が費やされることはあっても、それは個人のためではなく、あくまでも国家や神のためにだとされていた。
 ギリシア世界では紀元前480年以降、スパルタの影響が次第に強くなり、アテナイでもぜいたくが避けられ、質実剛健が尊ばれるようになる。ペルシア風の豪華さは、ペルシアに内通しているのではないかと疑われる可能性もあった。また金持ちにみえると、それだけで国家への多くの資金提供を求められ、民衆裁判所で糾弾される恐れもあった。
 アテナイの市場経済は、民主政と密接な関係をもっている。しかし、それはきわめて特異な市場経済だったといえるかもしれない。
 民主政といえば、日本人は平和と思いがちだが、それは誤解である。とくにアテナイでは、民主政は戦争と植民地主義、奴隷制、女性差別と結びついている。
 家政は奴隷によって支えられ、すぐれた技能をもつ職人集団と、海外との貿易を取り仕切るメトイコイ(外国人)が、土地を所有する市民の生活を成り立たせている。
 市民はものをつくり、ものを売るためにはたらいているわけではない。そんなふうにはたらくのは市場の奴隷である。アテナイ市民とは、あくまでも政治に参加し、戦争で戦う存在を意味していた。だが、そんな市民にとっても、にぎやかな市場は楽しみの場所だったにちがいない。

アテナイの消費生活について(1)──論集『消費の歴史』から [本]

 オックスフォード版論集『消費の歴史』は、少し読みはじめたところで、英語を読むのがめんどうなこともあって、途中でやめてしまった。まあ、しかし、そうめんどうがらず、気長に気楽に読んでみることにしよう。閑人の読書である。
 というわけで、まずはジェームズ・ダヴィッドソンの「アテナイの消費生活」を読んでみる。
 ヨーロッパで最初に消費社会が花開いた場所は、古代ギリシア、とりわけアテナイ(アテネ)だった。古代ギリシアはヨーロッパ文明発祥の地。そこで、どのような消費生活がいとなまれていたのかを、のぞいてみようというわけである。
 アテナイといえばデモクラシー、そして貨幣経済がはじめて本格化した場所だ。ドラクマを単位とするさまざまな貨幣が使われていた。アテナイのアゴラ(広場)にはさまざまな商品が並び、ショッピングを楽しむこともできた。
 しかし、こうした市場を守るには、民主政府による安定した貨幣管理と、アゴラノモイと呼ばれる市場監督人の存在が欠かせなかった。
 アテナイではなぜ貨幣経済が盛んになったのだろう。紀元前4世紀には、政治の舞台である集会に参加する市民に、貨幣で報酬が支払われていた。そのことも貨幣経済の隆盛と関係していたのかもしれない。
 アテナイは巨大な海軍力に支えられ、それによって、ペルシアやスパルタに対抗することができた。アテナイの繁栄がデモクラシーや消費社会をつくりあげたということもできる。だが、その繁栄はいつまでもつづかなかった。
 酒の神ディオニソスをたたえる祭りなどで演じられたギリシア喜劇には、当時アゴラで並べられていた商品の数々が出てくる。
 イチジク、ブドウ、カブ、ナシ、リンゴ、バラ、カリン、ハギス[羊肉の煮込み]、ミツバチの巣、ヒヨコ豆。スミレの花束、ツグミ、コオロギ、オリーブ、肉などなど。
 近隣に限らず遠方からも多くの品物がもたらされていた。
『アテナイ人の国制』には、アテナイ人がその海運力によって、シチリアやイタリア、キプロス、エジプト、リュディア[現トルコ]、黒海などから、さまざまなめずらしい品物を集めていたことが記されている。
 さらに、ほかの本にはこんなリストもある。
 キュレネ[現リビアの町]からは薬草や牛革、ヘレスポント[ダーダネルス海峡]からはサバなどの魚、イタリアからはエンバクや牛のあばら肉、トラキアからは薬剤、マケドニアからはライ麦、シラクサからはブタとチーズ、エジプトからは帆布やパピルス、シリアからは乳香、クレタ島からはヒノキ材、アフリカからは象牙、ロードス島からは干しブドウや干しイチジク、エヴィア島[エーゲ海]からはナシとリンゴ、フリギア[現トルコ]からは奴隷、アルカディア[ペロポネソス半島中央部]からは傭兵、カルタゴからは敷物や枕などなど……。アテナイには海外からほんとうに多くの品物が集まっていたのだ。
 しかし、これらの品物は市場で雑然と置かれていたわけではない。女性もの、魚、家具、野菜、衣服などとコーナーにわけられ、それぞれ別々の店で売られていたのだ。料理人を雇うことのできる斡旋所などもあった。
 市場は特化していたといえるだろう。だからアテナイ人はどこに行けば何が買えるかをわかっていなければならなかった。
 こうした市場の分化は、古代では大量生産ができなかったあかしでもある。
 市場はどこにでもあったわけではない。アゴラには常設の市場があった。祭りのときは臨時の市が開かれた。魚を売る行商もいた。
 しかし、アテナイでアゴラのほかに常設の市場があったのは、港のピレウスとラウリウム(ここには銀鉱があった)だけである。
 とはいえ、ふだんギリシア人は(とくにいなかでは)市場に行かなくても、ふつうに暮らせたという。
 それはそれとして、市場では、たとえば高級品と大衆品といったように、さまざまな品質の商品が置かれていた。エジプト綿は高級輸入品だった。
 ギリシア人は馬にはうるさかった。これは現在の車選びとおなじかもしれない。
 少し時代は下るが、アレクサンドロスの愛馬ブケパロスはテッサリア産で、9万6000ドラクマもしたという。馬にしてもワインにしても、血統とかブランドが重視されていたのは、いまも昔も変わらない。
 アテナイの特産品は、すぐれたデザインの陶器だった。陶器は海外にも多く輸出されていた。なかにはブランドを示すマークがつけられたものもあった。だが、たいていはノーブランドである。
 アテナイの市場はアゴラの中心部にあり、アゴラはアクロポリスの北の平坦な地に位置していた。しかし、市場は次第にディピュロン門のほうにも広がっていった。市場の建物も柱廊付きのりっぱなものへと変わっていくが、もともとは粗末で雑多な店の集まりで、その場所は品物に応じて区割りされていた。
 市場にはご多分に漏れず中心と周辺がある。ソクラテスは仲間たちとよく市場にでかけていた。ディピュロン門周辺の場末には、薄汚い製陶所や墓地、風呂屋、露天の店などがあり、旅人たちはそこにある飲み屋や売春宿で羽を休めていた。
 アテナイ人はアゴラや市場でぶらぶらしながら、かなりの時間をすごしていた。ソクラテスもその一人だ。そこで、金持ちで鼻持ちならないソフィストをやっつけたわけだ。
 アゴラの近くには若者たちがたむろして、おしゃべりできる店もあった。いっぽう、ぜいたくな料亭のような店もある。こうした料亭では、時に使い込みのカネが吸い取られたり、政治的な陰謀がくわだてられたり(いまなら共謀罪)することもあったらしい。
 こんなふうにみていくと、遠いアテナイの人もなんだか身近に感じられてくるから不思議である。
 この話、もう一回つづく。

瓦礫のなかから──カーショー『地獄の淵から』を読む(10) [本]

 1945年、大陸ヨーロッパでは、交通網が爆撃で破壊され、ガスや電気、水道もないありさまだった。住まいはなくなり、飢餓と病気が蔓延していた。
 そんな状況から、ヨーロッパはどのようにして立ちなおるきっかけをつかんだのか。これが本書最終章のテーマである。
 戦争が終わったとき、最初にはじまったのは報復である。強制収容所では囚人たちが衛兵を襲撃する場面もみられた。しかし、連合国の占領によって、ドイツでは残忍な報復はすぐに抑えられた。
 しかし、イタリアでは元ファシスト党員が1万2000人虐殺されている。フランスではヴィシー政権の支持者が9000人殺された。ナチスと親密にしていた女性たちは、公衆の面前で辱めを受けた。そうした暴力が短期間で終息したのは、占領軍、あるいは文民政権がすぐに統制力を把握したからである。
 問題はヤルタとポツダムで合意された国境の変更が、実際には追放といってもよい人口移動をともなったことである。ユダヤ人にたいする偏見は根強く、多くのポグロムが発生した。ポーランドやチェコスロヴァキアにもともと住んでいたドイツ人は、虐殺されたり強制追放されたりしている。
 多民族の東欧はほぼ姿を消す。「徹底した追放と猛烈な民族浄化が、おぞましい効果を上げた」と、著者は記している。
 ソ連の勢力下にある国々では、対敵協力者はただちに処刑されるか、労働収容所に送られた。西欧では死刑は比較的少なく、短期間で釈放されるケースが多かった。ナチスの党員が多かったオーストリアでは死刑判決はごくわずかだった。多くの者が特赦を受け、社会復帰している。
 ドイツでは、戦争末期、何人かのナチス幹部が自殺していた。ヨーゼフ・ゲッベルス、マルティン・ボルマン、ロベルト・ライ、ハインリヒ・ヒムラーなど。
 アウシュヴィッツ収容所の所長だったルドルフ・ヘスは逮捕され、処刑された。アドルフ・アイヒマンは、ひそかに南米に逃げたが、のちに逮捕され、エルサレムで裁判にかけられた。
 ゲーリングやリッベントロップ、ルドルフ・ヘスなどは捕縛され、ヴィルヘルム・カイテル、アルフレート・ヨードル、エーリヒ・レーダー、カール・デーニッツなどの軍指導者とともに裁判にかけられた。
 ニュルンベルク裁判は1945年から46年にかけて開かれ、24人が死刑判決を受けた。勝者の裁きという声もなかったわけではない。しかし、ドイツ国内でも大半の人がナチスにたいする告発を支持した。
 とはいえ、ドイツ社会を徹底して非ナチ化するのは、ほとんど不可能な仕事だった。それにいつまでも連合国がドイツを占領しているわけにもいかなかった。ドイツはドイツ人によって運営されるほかなかったのである。
 西ドイツ政府は1951年に最悪の犯罪者を除き、数十万人を特赦する法律を制定し、非ナチ化に終止符を打った。だが、ソ連占領地域では、非ナチ化は苛酷な道をたどった。ソ連秘密警察が運営する収容所で数万人が亡くなり、さらに多くがソ連の労働収容所に送られた。
 しかし、著者はこう指摘する。
「冷戦が始まるとともに、東西で政治的配慮がはたらき、追放の時代は終わり、東側では社会主義の団結のために、西側ではますますかまびすしくなる反共主義のために、過去に抹消線が引かれることになった」
 ヨーロッパでは戦後めざましい勢いで複数政党政治が復活した。とりわけ左翼政党が支持基盤を拡大した。左翼のなかでは共産党が、レジスタンスの業績をかかげながら、ソ連を支持する立場をとった。
 フランスやイタリアでは共産党が戦前の倍以上に勢力を伸ばした。しかし、イギリスでは共産党は伸びなかった。
 社会主義政党は一般的に共産党支持を上回り、オーストリア、スウェーデン、ノルウェー、西ドイツで大きな得票を獲得する。
 イタリアとフランスでは、左翼票は社会党と共産党でまっぷたつに割れていた。
 イギリスの労働党は大戦末期の1945年に勝利を収めた。クレメント・アトリーの率いる労働党新政権は、民主的手段を通じた社会・経済改革をめざした。炭鉱、鉄道、ガス、電力、イングランド銀行が国有化された。教育改革がなされ、、労働者の権利が向上し、住宅建設計画が進められた。国民健康保険も導入され、福祉国家の建設がスタートする。
 イギリスは返済しなければならない巨額の負債をかかえ、緊縮財政を強いられていた。食料もガソリンもしばらくのあいだは配給制のままだ。経済状況は苦しい。とはいえ、労働党の提唱した福祉政策は、ほかの政党にも受け入れられるようになった。
 しかし、西欧の大半の国では、左翼の時代はあっという間に終わる。左翼の亀裂が深まりつつあった。そのかん、キリスト教民主主義にもとづく保守政党が勢いを増していった。
 イタリアではアルチーデ・デ・ガスペリが率いるキリスト教民主党が勢力を伸ばした。1948年の下院選挙で過半数を獲得し、その後、何年にもわたって政権を維持することになる。
 フランスでは戦後初の1945年10月の選挙で、共産党が第一党となり、社会党、キリスト教民主主義系の人民共和運動(MRP)と、憲法制定のための三党連立を組んだ。
 シャルル・ドゴールはすでに臨時政府を発足させている。しかし、ドゴールは新憲法のもとづく第4共和政が気にくわず、1946年1月に大統領を辞任し、翌年、フランス国民連合(RPF)という新政党を発足させる。
 第4共和政は1958年までつづく。しかし、三党連立体制はすでに1947年にほころび、共産党が離脱、それ以降、フランスでは脆弱な政権がつづいた。
 占領下ドイツの西側地域では、キリスト教民主同盟(CDU)、社会民主党(SPD)、それに共産党までもが、挙国一致内閣をめざして、活動を再開していた。
 コンラート・アデナウアーの率いるキリスト教民主同盟は、社会的公正と民主主義を唱え、しばしば第一党となった。これにたいし、左派は分裂状態に戻りつつあった。共産党は支持を伸ばせない。急進的な社会・経済改革を唱えていた社会民主党は、大きな国民の支持を獲得できないままでいた。
 ドイツの東側では複数政党制は見せかけだけで、実際の主導権はソ連の影響下にある共産党が握っていた。1946年には左翼政党の強制合併がおこなわれ、ドイツ社会主義統一党(SED)が誕生する。そして1949年1月にSEDはマルクス・レーニン主義政党だと宣言し、複数政党制の痕跡は徐々に消されていった。
 ハンガリーでも共産党は政治的反対派を徐々に排除し、1949年には完全に権力を掌握した。
 ポーランドでも共産党が警察と治安機関を掌握していた。ロンドン亡命政府は見捨てられるかたちとなった。1947年の選挙では、共産党に敵対する人びとが100人以上殺害され、数万人が投獄され、多くの対立候補が資格を剥奪された。
 チェコスロヴァキアでは、1946年5月の自由選挙で共産党が第一党になった。連立政権で非共産党の閣僚が抗議の辞任をすると、それを機に共産党は一挙に権力を掌握した。反対派は弾圧され、スターリン主義的支配が確立された。
 ユーゴスラヴィアだけはソ連の支配に服さなかった。ティトーのパルチザンは、ソ連の赤軍に頼ることなく、本土の大半を掌握した。ティトーには国民の絶大な支持が寄せられていた。そのためモスクワから中傷を浴びながらも、ユーゴスラヴィアは独自の路線を歩むことになる。
 ソ連では、1945年の勝利の歓喜が大きな幻滅に変わっていた。スターリン体制は締めつけを強め、抑圧機構がふたたび稼働する。新たに勝ちとった領土を維持し、資本主義と対抗し、国を再建するのは容易な仕事ではなかった。あらゆる反抗の兆候は、容赦なくつぶさなければならなかった。こうしてソ連の収容所と流刑地は500万人もの囚人をかかえることになった。
 冷戦は避けようもなかった。
 第2次世界大戦は帝国主義の終焉をもたらした。ヨーロッパの帝国が引き上げたことで生じた空間にふたつの強大国、アメリカとソ連が勢力を広げていく。両国の覇権争いはヨーロッパにとどまらず、世界じゅうで生じた。しかし、当初、冷戦の主戦場はヨーロッパとなった。
 チャーチルのいう「鉄のカーテン」がヨーロッパを分断していた。アメリカの外交官ジョージ・ケナンは、ソ連の拡大を抑えるために「封じ込め」政策を打ちだす。
 ギリシアでは内戦が勃発する可能性があった。アメリカはギリシアの右翼に軍事援助を与え、左翼の伸張を打ち砕いた。
 決定的な戦場はドイツだった。ソ連管理地域の東側はすでに独自の道を歩みはじめていた。これにたいし、アメリカは1947年以降もドイツの西側地区で駐留をつづけると表明した。
 アメリカは1947年6月に「マーシャル・プラン」を打ちだす。マーシャル・プランはヨーロッパの復興を促した。とりわけ重点が置かれたのは、ドイツを復興させ、ソ連の膨張主義を防ぐことだった。ソ連はとうぜんマーシャル・プランを拒否した。
 1948年秋には、ヨーロッパの経済的分断は政治的亀裂と重なりあうようになる。ソ連はコミンテルンの後身としてコミンフォルムを創設し、マーシャル・プランに対抗して、コメコンを創設する。
 西側はすでに国家として西ドイツを樹立するつもりで、さまざまな経済政策を打ちだしていた。ソ連はベルリンから西側連合国を追いだそうとする。だが、ソ連によるベルリン封鎖は失敗に終わる。
 西ドイツでは1949年5月29日に基本法(憲法)が制定され、アデナウアー首相のもと9月20日に新国家が発足する。これにたいして、ソ連は10月7日、旧東部地域に東ドイツを建国した。
 このころ西側諸国にとって、脅威はドイツではなくソ連であることが明らかになりつつあった。1949年4月には北大西洋条約機構(NATO)が設立されていた。のちにソ連はこれに対抗してワルシャワ条約機構を創設することになる。
 冷戦がはじまっていた。とはいえ、ヨーロッパにおけるアメリカのプレゼンスは、ヨーロッパでの資本主義の勝利を保証した、と著者は書いている。そして、そこからはチャーチルのいう「ヨーロッパ合衆国」の構想すら生まれてくるのである。
 戦後のヨーロッパをえがく本書の後半部分はまだ出版されていない。しかし、まもなく出版される予定だという。
 これにたいして、われわれがきちんとしたアジア史をもっていないのはなぜなのだろう。ぼくの知るかぎりでは宮崎市定の『アジア史概説』があるのみである。日本人はどちらかというと自国中心の歴史で満足しているようにみえる。しかし、これから必要なのは、西アジア、南アジア、東南アジア、北東アジアを統合したアジア史(とりわけ現代史)なのではないかという気がする。

ヨーロッパ社会の変化──カーショー『地獄の淵から』を読む(9) [本]

 1914年から45年にかけてヨーロッパが自滅する30年間のあいだに、社会でどのような変化があったかを著者は考察する。その考察は、経済的・社会的変化、キリスト教会の役割、知識人の反応、そして文化産業の領域におよんでいる。
 まず経済的・社会的変化をみよう。
 ヨーロッパでは各国間の政治的対立が激しかったが、社会の発展傾向は似かよっていた、と著者はいう。
 この時期、ヨーロッパで人口変動がもっとも著しかったのは東欧である。殺戮や強制移住によって、人口が激変している。スターリンの農業集団化とドイツの侵攻というダブルパンチで、東欧で死亡や逃亡、強制移住に追いこまれた人びとの数は数千万人にのぼる。
 にもかかわらず、ヨーロッパでは全体でみれば、人口は増加した。1913年に5億だった人口は、1950年には6億に増えた。その原因はおもに死亡率の低下である。保健衛生の向上、緩やかに上昇する実質所得、質のよい食事が死亡率の低下と平均寿命の増加をもたらした。感染症への予防や治療の技術は格段と進歩した。いっぽう出生率は避妊と家族計画の普及によって低下した。
 農業人口は減った。1910年には人口の55パーセントだったのに、1950年には40パーセントになっている。工業化の進展につれて、人口は農村部から都市部に移動した。
 戦争が経済発展を中断させたことはまちがいない。にもかかわらず、戦争が技術進歩を刺激し、機械化を含む効率的な生産手法を開発したことも事実である。無線放送、レーダー、合成繊維、電子計算機などは戦時の発明である。ロケットやミサイルもそうだ。核技術もそうだといえるだろう。
 いっぽう戦争は国家による経済管理の手法を発展させた。国家は、租税や利率、インフレの抑制、食料供給、国債発行、住宅・道路建設などに取り組まねばならなかった。こうした国家による経済管理は、復興期においても必要になってくる。
 国家の役割への期待は、完全雇用や社会福祉医療などの社会政策にも向けられるようになった。しかし、それが本格化するのは第2次世界大戦後である。
 20世紀前半でも女性の権利は徐々に拡大していた。イギリスでは1918年に、フランスでは1944年に女性に投票権が与えられた。しかし、家庭でも職場でも女性の地位はまだ低く、教育面でも不利な立場に置かれていた。
 ソ連では革命により社会的大変動が起き、地主の財産は没収され、土地は再配分された。イギリスでは貴族の生活様式はおおむね消滅するが、それでもその地位が失われることはなかった。フランスでは政治・経済エリートにいくぶんの変化があったものの、地方レベルではエリートはその地位を保った。それはドイツでもほぼ同じだった。
「全体として見れば、政界・経済界のエリートは20世紀の前半、自己再生する傾向が続いた」と記している。庶民がエリートになるのは困難だった。それが変わるのは20世紀後半になってからである。
 第2次世界大戦が終わるまでは、貧困の連鎖が世の中をおおっている。労働者階級が中産階級に上昇する流動性はほとんどなかった。それでもサービス部門が拡大するにつれ、事務や管理業務をまかされる労働者も増えつつあった。
 この時期、もっとも悲惨な目にあったのは、とりわけウクライナ、ベラルーシ、ポーランドなど東欧からソ連にいたる地域である。これらの地域はドイツ軍、ソ連軍双方によって痛めつけられた。
 ソ連では戦争に勝利したことによってスターリン体制が正当化され、国民はますます警察国家の監視下におかれることになった。
 第2次世界大戦により、世界の貿易に占めるヨーロッパのシェアは減少し、アメリカが世界経済の中心に浮上した。アメリカが1941年に制定した武器貸与法により、連合国は戦争を優位に進めることができるようになった。アメリカの経済的優位は、戦後経済の制度的枠組みを決めるさいにも決定的となり、ドルを基軸とするブレトンウッズ体制がつくられることになる。
 戦後経済で主流となったのは、自由貿易と国家管理による混合経済、経済自由主義と社会民主主義の混合である。この混合経済が戦後にかつてない繁栄をもたらした。だが、1945年の廃墟のなかでは、そうした繁栄がやってくるとは、だれも予想しなかった。
 20世紀前半においても、ヨーロッパではキリスト教が人びとのあいだで圧倒的な影響力をもっていた。戦争の時代は、ナショナリズムがキリスト教と接合した。教会はボリシェヴィズムとの戦いを重視していた。
 教会はかならずしも反民主主義的だったわけではない。だが、ヒトラーを支持しつづけた教会もある。
 イタリアではラテラノ条約でヴァティカン市国が誕生すると、法王庁はファシズム支配を容認するようになった。長年、第三共和制に敵意を示していたフランスのカトリック教会はヴィシー政権を歓迎した。カトリック教会は、スペインではフランコ政権のイデオロギー的支柱となった。ドイツでもカトリック教会は最初、ヒトラーを警戒していたが、ヒトラーが首相になると、たちまち彼を支持する。ユダヤ人のポグロムにたいしても批判を加えていない。ローマ法王庁もおなじだった。
 クロアチアでもスロヴァキアでもハンガリーでも、キリスト教会は人種政策と反ユダヤ政策を黙認していた。これにたいし、ポーランドではカトリック聖職者が危険をおかして、数千人のユダヤ人に救いの手を延べた。オランダでもユダヤ人の追放にたいして、教会から抗議の声があがった。だが、抗議の声をあげるのがせいいっぱいだった。
 フランスの聖職者や修道院のなかには、ユダヤ人の子どもをかくまおうとする動きもあったが、たいていは傍観の立場をとった。法王のピウス12世は、ローマのユダヤ人を救うために、修道院に約5000人のユダヤ人をかくまった。だが、ジェノサイドにたいし、おおやけに非難したわけではなく、ほぼ沈黙する態度に終始していた。
 それでも、戦時中、カトリック教会は信仰復興の気配すら経験する。教会は栄え、人気を博した。衰弱の傾向をたどったプロテスタント教会でも、信仰が放棄されることはなかった。
 危機の時代にあって、ドイツでは、多くのユダヤ人知識人が国外移住を強いられた。
 知識人のあいだでは、ブルジョア社会にたいする幻滅が広がっていた。彼らは一般に左翼の立場をとったが、右翼ファシストに流れる知識人もいた。社会民主主義に目を向ける知識人はほとんどいなかった、と著者はいう。
 マルクス主義に傾倒する知識人が多かった。イタリアのアントニオ・グラムシ、ハンガリーのジェルジ・ルカーチ、フランスのロマン・ロラン、ドイツのベルトルト・ブレヒト、イギリスのジョージ・オーウェル、ハンガリー人のアーサー・ケストラーなどもそうである。彼らはナチズムを嫌悪していた。
 ソ連のプロパガンダに目をくらまされた知識人もいる。たとえばシドニーとベアトリスのウェッブ夫妻など。いっぽうバートランド・ラッセルやアンドレ・ジイドは実際にロシアを訪れ、その体制に嫌悪感をいだいた。ケストラーはウクライナの強制集団化と飢饉を見て、ソ連に幻滅し、共産主義と絶縁した。
 知識人のなかには少数ながらファシズムに引かれた人もいる。たとえばイタリアのフィリッポ・マテオッティ、ドイツのゴットフリート・ペン、それから批評家のエズラ・パウンド、フランスのピエール・ドゥリュ・ラ・ロッシェルなど。ドイツの哲学者、マルティン・ハイデガー、法学者のカール・シュミットもナチズムに傾倒していた。
 哲学者のルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタインは政治から一線を画していた。経済学者のジョン・メイナード・ケインズは、共産主義、ファシズムのいずれをも嫌っていた。小説家のイヴリン・ウォーは政治にはまったく関心がなかった。
 もっとも強力な反ファシズム知識人として知られるのは、ドイツから亡命したマックス・ホルクハイマーとテオドール・アドルノである。
 ジョージ・オーウェルは小説『動物農場』と『1984年』でディスユートピアをえがき、スターリニズムの現実をあばいた。
 ハンナ・アーレントは『全体主義の起源』で、ナチズムとスターリニズムという根源的悪のもたらす文明の崩壊をえがいた。
 しかし、知識人の苦しい試みに関心をもつ大衆はほとんどいなかった、と著者はいう。宗教も影響力を失いつつあった。教会はからっぽになった。その代わり、バーやサッカー場、ダンスホール、映画館には人があふれた。
 人びとが欲したのは娯楽だった。1920年代には娯楽産業はまださほど発展していない。しかし、ラジオと蓄音機が大量生産されると、人びとは自宅にいながら楽しみをみつけることができるようになった。
 娯楽の発信地はアメリカだった。とりわけポピュラー音楽と映画が人びとをひきつけていた。音楽とラジオは切り離せない関係にあった。スーパースターの第一号はビング・クロスビーで、フランク・シナトラがそれにつづく。ヨーロッパでは1930年代にエディット・ピアフがスター街道を歩きはじめ、マレーネ・ディートリヒの歌う英語版の「リリー・マルレーン」は連合国の兵士のあいだで大ヒットした。
 黒人ミュージシャンはアメリカではまだ差別を受けていた。ルイ・アームストロングが最初に喝采を浴びたのはヨーロッパにおいてである。ジャズの王様、デューク・エリントンはヨーロッパ巡業で人気を獲得した。ユダヤ人でロシアから逃げてきた父親をもつベニー・グッドマンは、スウィングの王様となった。だが、ナチスはジャズを嫌い、ニグロ音楽とけなしていた。また多くのユダヤ人音楽家がナチスのために命を落としている。
 1920年代から映画は観客を引きつけていた。しかし、映画がサイレントからトーキーになると、映画産業はいよいよ隆盛を迎える。1940年代の最盛期には、ハリウッドは年間400本の映画を制作していた。ディズニーのミッキーマウスとドナルドダックは映画を通じてヨーロッパでも知られるようになった。ヒトラーはディズニー映画の大ファンだったという。
 ドイツではマレーネ・ディートリヒ主演の『嘆きの天使』や、レニ・リーフェンシュタール監督のプロバガンダ映画『オリンピア』などが製作された。イタリアではムッソリーニがローマ郊外にチネチッタ(映画村)をつくった。
 映画が流行しはじめると、それまでの芝居小屋は映画館に衣替えした。映画からはジョン・ウェイン、ハンフリー・ボガート、ローレン・バコールなどの大スターが生まれた。クラーク・ゲーブルは『風と共に去りぬ』(1937年)で、一躍スターになった。
 しかし、こうした華やかな消費文化が隆盛するなか、ヨーロッパは破局と自滅への道を歩んでいたのである。

第2次世界大戦とジェノサイド──カーショー『地獄の淵から』を読む(8) [本]

 第2次世界大戦は黙示録的なスケールの戦争だった、と著者はいう。戦争にからむヨーロッパ(ソ連を含む)での死者は4000万人を超えた。
 アジア・太平洋地域を含めると、第2次世界大戦の死者は5000万〜8000万人といわれる。もっとも死者が多いのはソ連の推定2100万〜2800万人(著者は2500万人としている)。ついで、中国の推定1000万〜2000万人である。ソ連の数字には、ロシア西部、ベラルーシ、ウクライナなどでの死者の数が含まれている。ポーランドの死者は600万人。ドイツは700万人。
 いっぽうイギリスは45万人、フランスは55万人と第1次世界大戦より死者数は少ない。日本は260万〜310万人。アメリカは42万人弱だった。戦場になった地域ほど死者数が多いのはいうまでもない。民間人の死亡率が高かった。第2次世界大戦の核心にはジェノサイドがある、と著者はいう。
 ヨーロッパの大戦は、3つの局面に分けることができる。
 第1局面は1939年9月から1941年6月にかけてである。戦線はポーランドからバルト3国、スカンディナヴィア諸国、西ヨーロッパ、バルカン、北アフリカへ拡大した。
 ポーランドはドイツとソ連によって分割された。バルト3国はソ連に占領された。フィンランドは赤軍の攻勢をしのいだものの、ソ連に一部領土を割譲せざるをえなかった。
 1940年春、ドイツはデンマーク、ノルウェー、オランダ、ルクセンブルクを制圧。6月にはフランスが降伏した。41年春、ユーゴスラヴィアとギリシアもドイツに屈した。いっぽう、イギリスはチャーチル首相のもと、ドイツ、イタリアと戦いつづけることを宣言した。
 戦争の第2局面は1941年6月から1944年6月にかけてである。
 1941年6月22日、ドイツ軍はソ連に侵攻を開始する。ヒトラーはあせっていた。アメリカがイギリス側に立って参戦するまでに、ソ連の資源を確保し、大陸の制覇を成し遂げねばならない。
 だが、ヒトラーの「バルバロッサ作戦」は冬前に完了しそうになかった。ウクライナは手に入れたが、カフカス油田までは到達せず、レニングラードを手に入れるのも難しかった。ドイツ軍がモスクワに接近するにつれ、スターリンは首都を放棄しそうになるが、ようやくもちこたえる。そして、1941年12月5日なって、反撃に転じた。
 12月7日、日本が真珠湾を攻撃し、戦争は世界規模に拡大した。ヒトラーは日本がアメリカを釘付けにすることを期待していたが、それは過大評価だった。1942年6月のミッドウェー海戦で、日本の優位は限界に達する。
 ドイツの支配権拡大にもかげりがみえてきた。潜水艦Uボートの破壊力は、エニグマ暗号機の開発によって失われようとしていた。
 1942年10月から11月にかけ、北アフリカではアラメインの戦いで、ドイツの前進がはばまれる。ソ連にたいする第2次大攻勢でも、スターリングラードで大敗を喫していた。
 連合国の指導者は勝利を確信するようになる。1943年1月、ルーズヴェルトとチャーチルはカサブランカで会談し、枢軸諸国を無条件降伏に追いこむことを確認した。
 北アフリカで勝利した連合国軍は1943年7月、シチリア島に上陸した。9月にはイタリアと連合国が休戦協定を結ぶが、これにたいしドイツ軍はイタリアの大半を占領し、ふたたび戦闘がはじまる。
 1942年5月からはじまったイギリス空軍によるドイツの都市への無差別空襲は、翌年さらに勢いを増していた。とりわけ1943年7月末のハンブルク空襲はすさまじかった。
 1943年7月、ドイツ軍は東部戦線で最後の大攻勢をかけた。だが、1週間とつづかない。イタリアに兵力を回さなければならなかった。11月にはソ連軍がキエフを奪回した。
 第3局面は1944年6月からドイツ敗戦までである。
 6月6日、前年11月のテヘラン会談での合意にもとづいて、連合国軍はノルマンディー上陸作戦を敢行した。ソ連軍は、その2週間後、バグラチオン作戦にもとづいて、大規模な突破作戦を開始する。
 ドイツの空襲では市民の犠牲は膨大な数にのぼった。1945年3月のドレスデン空襲では民間人の死者は2万5000人を数えた(同じ3月の東京大空襲の死者は8万人以上である)。
 ドイツ軍は最後の最後まで戦った。しかし、敗北は時間の問題だった。東部戦線が崩壊すると、ルーマニアとブルガリアはソ連軍に占領された。ワルシャワは1944年8月の蜂起後、ドイツ軍によって破壊されていたが、1945年1月にはソ連軍が掌握する。ハンガリーも3月にソ連軍支配下にはいった。
 ソ連軍は4月16日にベルリンにはいり、25日にエルベ川で西からやってきたアメリカ軍部隊と邂逅した。ベルリンでの戦闘は5月2日に終了。その2日前、ヒトラーは官邸の地下壕で自殺していた。ドイツ軍が完全に降伏したのは5月8日のことである。

 第2次世界大戦では、とりわけ東部で、一般市民にたいするテロと殺戮がくり広げられた。ユダヤ人がジェノサイドの対象となった。ドイツの征服地域ではユダヤ人の「浄化」は自明のこととみなされていた。
 ドイツ軍に囚われたソ連の戦争捕虜もあわれだった。570万人のうち330万人が飢餓ないし病気で亡くなっている。
 当初、ドイツ軍が占領したポーランドでは、ポーランド人は下等人間として扱われ、気まぐれに投獄、処刑された。カトリック教会は閉鎖され、聖職者は投獄ないし殺害された。
 いっぽうソ連に占領された東部ポーランドでは、土地が集団化され、地主は強制退去させられた。銀行は国有化され、貯蓄は没収された。スターリンの命令により、ポーランド人のエリート2万人が殺害された。そのなかにはスモレンスク近郊のカティンの森で殺害された1万5000人のポーランド軍将校が含まれている。
 そのあとも10万人単位で逮捕と強制労働、強制移住、処刑がつづく。ソ連軍はユダヤ人にたいしても容赦なかった。多くのユダヤ人が逮捕され、財産を奪われ、追放された。
 1941年4月にドイツはユーゴスラヴィアを占領し、新国家クロアチアをつくりあげた。クロアチアはファシストの「ウスタシャ」が支配する国家だった。ウスタシャは総人口630万人の半分にあたる非クロアチア人を「浄化」(改宗と追放、殺害)するのに躍起となった。とりわけ標的となったのが、セルビア人とユダヤ人、それにロマ(ジプシー)である。ウスタシャは1943年までに40万人を殺害している。
 1941年夏のドイツによるバルバロッサ作戦では、ソ連軍兵士は獣とみなされただけではなく、一般市民も攻撃の対象とされた。ソ連のユダヤ人殺害も当初から織りこまれていた。ソ連に占領されたバルト3国は、当初ナチス・ドイツを歓迎し、治安警察と群衆がポグロムで手当たり次第ユダヤ人を殺害した。
 ウクライナでもソ連にたいする憎しみは深かった。ドイツ軍は当初、解放軍とみられたが、ヒトラーは「無政府主義的でアジア的な」ウクライナ人をウクライナから排除したいと思っていた。
 ドイツによる弾圧や徴集、強制送致が強まると、パルチザンが活動するようになる。ドイツ当局の取り締まりもさらに厳しくなった。ウクライナでもユダヤ人は大量虐殺された。
 1942年1月の時点で、ドイツおよびその占領地域で殺害されたユダヤ人はすでに550万人にのぼっていた。その背後には、「工業化された集団絶滅システム」があった、と著者はいう。
 当初、ヒトラーはヨーロッパのユダヤ人をすべてロシアに追放するという計画をもっていた。だが、それがうまく行きそうもないとわかると、「ユダヤ人問題の最終解決」のために、ユダヤ人をソビボルやトレブリンカといったポーランドの殺害場所に移動させる計画(ラインハルト作戦)を立てた。
 ここを「収容所」と呼ぶのはまちがいだ、と著者はいう。なぜなら、ユダヤ人は到着後、数時間以内に殺害されたからである。1942年には、こうした場所で270万人が殺害されている。
 1943年、44年の殺害場所は主にアウシュヴィッツに移った。アウシュヴィッツではユダヤ人は奴隷労働をさせられたあげく110万人が殺害された。ヨーロッパ全土からユダヤ人が集められていた。ビルケナウやマイダネクなど、ほかにも死の強制収容所は各地にいくつも存在した。
 ドイツ軍兵士のなかにもユダヤ人への蛮行に逆らった者もいる。だが、それは例外だった。ほとんどのドイツ軍兵士は、ドイツ人の人種的優越にもとづく「新秩序」の建設を求めて戦っていた。
 ソ連赤軍の兵士の場合は、戦う以外に選択肢はなかった。戦わなければ殺されたからである。あえていえば祖国防衛の愛国主義が彼らをようやく支えていた。
 イギリスはドイツに占領されることがなかった。チャーチルのいうように大英帝国の偉大さを守るために戦ったイギリス軍兵士はさほどいない。よりよい未来を切り開くという希望が、わずかに戦闘の意欲をかきたてていた、と著者はいう。
 イギリスに拠点をおく亡命ポーランド政府の目的ははっきりしていた。ドイツの占領から祖国を解放することである。加えて、亡命ポーランド政府にとっては、祖国がソ連の支配下にはいらないようにすることが重要だった。だが、その希望はワルシャワ蜂起の鎮圧とヤルタ会談によって潰えることになる。
 ほとんど無名の存在だったシャルル・ドゴールはイギリスの後押しで、ロンドンを拠点とする自由フランスの指導者となった。自由フランスが祖国フランスで注目されるようになるのは、ドイツが不利となり、ヴィシー政権が支持を失ってからである。1943年にドゴールは自由フランスの本部をアルジェに移し、国内のレジスタンス運動を支持することで名声を獲得した。
 イギリスは参戦国のなかでは比較的幸運だった。とはいえ、ドイツの空爆によって、ロンドンをはじめとする都市では、多くの家屋が破壊され、30万近い人びとが死傷した。食料や物不足による困窮は深刻だった。夫の出征中の育児や家事、長時間労働の重みが主婦の肩にのしかかった。しかし、市民のあいだでは、この戦争は正義だという基本的な認識があり、国民の結束はゆるがなかった。
 ソ連では厳しい強制と抑圧をともなう国民総動員体制がとられた。しかし、祖国防衛を強調する政治宣伝のもとで、国民は苦難を耐え抜いた。
 ソ連ではドイツ軍の侵攻によって2500万人が家を失い、レニングラードでは100万人が餓死した。女性が新たな労働力として職場に組みこまれた。以前の2、3倍の生産ノルマも課せられたが、労働者はそれによく堪えた。ロシアでは戦争によって、新たな共同体意識さえ生まれていた、と著者はいう。
 ドイツの保護領となったチェコでは、終戦までほぼ戦闘はなかった。しかし、チェコの愛国者にたいするナチスの弾圧は激しかった。
 クロアチアではウスタシャによる残虐行為がつづいている。いっぽう大セルビアの復興を望む将校グループの率いるチェトニクと、ティトーが率いる共産党パルチザン勢力の動きも活発になった。パルチザンはティトーのもと、ユーゴスラヴィアをひとつにまとめ、戦後、政府を樹立することに成功する。
 ギリシアではドイツ、イタリアの占領軍に対抗する動きが強まるなか、共産党レジスタンス運動とナショナリスト共和派の対立が激しくなっていた。
 イタリアは1943年7月にムッソリーニ政権が崩壊したあと、北部はドイツ、南部は連合国によって支配されるようになった。
 1943年9月、ムッソリーニはドイツ軍の支援を受けて、北部に傀儡政権を築く。それによりパルチザン闘争が活発になった。1万2000人のファシストとその協力者が殺害され、パルチザンの側には4万人の犠牲者がでた。
 1945年4月、パルチザン側はムッソリーニを逮捕して射殺し、その遺体をミラノ中心部につるした。これにより、イタリアは停戦を迎えた。
 ドイツが占領したオランダ、ベルギー、ノルウェー、デンマークにもナチスの協力者はいた。1942年以降、ドイツの力が弱まると、ドイツへの大衆の反発が高まる。とはいえ、地下のレジスタンス活動は危険であり、恐ろしい報復をともなうこともあった。
 これらの国々でもユダヤ人はよそ者とみられていた。とくにユダヤ人の多かったオランダでは14万人のユダヤ人のうち10万7000人が強制移住させられ、死の収容所に送りこまれた。ベルギーでも2万4000人のユダヤ人がアウシュヴィッツに送られている。
 フランスは国のほぼ3分の2を占める占領地域と、中部のヴィシーを首都とする非占領地域に分断されていた。右派のなかにはナチスに協力する者が多かった。しかし、大方の国民は占領体制に順応し、時が移り変わるのを待つ姿勢をとっていた。
 ドイツの占領は、当初、穏やかだった。しかし、逆境に立ちはじめると、フランスにたいするドイツの経済的要求は苛酷になった。食料や物資の不足にも悩まされるようになった。
 ペタン元帥の指導するヴィシー政権は、ファシズム的な統治体制を敷き、7万5721人のユダヤ人を死の収容所に強制移送した。
 だが、次第にレジスタンス運動も高まってくる。これにたいするナチスの報復もすさまじかった。にもかかわらず、共産系、保守系もあわせて、積極的レジスタンスの波は収まることがなかった。
 ドイツでは1942年ごろから物資の欠乏がひどくなり、政権への支持が低下した。最後の2年間は連合国による空襲が住民を恐怖におとしいれた。この空襲で40万人以上が死亡し、80万人が負傷、500万人近くが家を失った。
 さらにソ連赤軍が侵攻すると、大勢の難民が押し寄せてきた。東部からの逃避行のなかで、多くの女性と子どもを含む50万人近くが命を落とした。兵士と民間人の死者が、けたちがいに増えるにつれ、ドイツ人はヒトラーとナチ司令部、連合国をうらみ、自分たちを戦争の犠牲者とみなすようになった。
 第2次世界大戦の結果、ソ連の影響圏は東欧全域とドイツにまでおよぶようになる。アメリカは戦争を通じて超大国に変貌し、西欧全域に支配権を確立した。英仏独というかつての3つの大国は弱体化した。帝国の解体にともない、植民地では民族独立運動が巻き起こる。そして、ユダヤ人問題は何世代にもわたって、ヨーロッパの人びとに道徳上の問題を投げかけることになった。
 第2次世界大戦は広島と長崎に原爆が投下されることによって終結する。だが、それ以来、世界じゅうの人びとは核による絶滅の脅威と向きあうことを余儀なくされている。