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『遅刻してくれて、ありがとう』を読む(5) [本]

 われわれは嵐のような時代のなかに跳びこみ、そこからエネルギーを吸って、「自分のハリケーンの目を築かなければならない」と著者は書いている。
 だが、ハリケーンの目を築くことができるのは、信頼できるコミュニティがあってこそだ。コミュニティに守られていると感じることで、人は安心して創造的な仕事に取り組めるし、何度失敗してもまた試せばいいという解放感にひたれる。
 著者はアメリカを支えているのは、都市、町、コミュニティからのボトムアップの活力だという。健全なコミュニティとパブリック・スペース、地元産業や商業があってこそ、地方は活性化する。
 著者が育ったのはミネソタ州ミネアポリス郊外のセントルイスパークというちいさな市だ。そこは平凡ながらもアメリカン・ドリームにあふれる町だったという。
 この町は多くの人を輩出してきた。映画監督、政治学者、作家、音楽家、スポーツ選手。哲学者のマイケル・サンデルも近くの町で生まれている。そして元副大統領のウォルター・モンデールもセントルイスパークの出身だ。
 著者はユダヤ人だが、排他的ではないミネソタの町で育ったことを感謝している。
 ユダヤ人がなぜミネソタ州のセントルイスパークというちいさな町に集まってきたのか。ユダヤ人が最初に定住したのはミネアポリスの北部で、1880年代から1900年代初頭にかけてだという。著者の祖父の代は廃品回収業や写真屋をやっていた。父はボールベアリングの販売会社を経営していた。
 ロシアや東欧からやってきたユダヤ人がミネアポリスに定住したのは、ここが差別されずに家を借りられる数少ない場所のひとつだったからだという。黒人が多かったのもそのためだ。
 しかし、白人のあいだでは反ユダヤ主義が濃厚で、ユダヤ人はロータリークラブや医療施設、ゴルフクラブからもしめだされ、百貨店に就職することもできなかった。そのため、第2次世界大戦後に郊外のセントルイスパークに移動したのだという。そこには売れ残った住宅地があった。この町が異色の自由な文化を育てた。
 ユダヤ人は商売によって富を築いた。公職や専門的職業から締めだされていたからだ。信仰を核としたコミュニティは親密だった。ともにヨーロッパのホロコーストから逃れてきたことが、結束の土台になっていた。
 白人の施設からしめだされていたユダヤ人は、自分たちの病院やゴルフ場、ボウリング場をつくった。高校ではユダヤ人とからかわれ、けっこういじめを受けたという。その著者にとって聖なる場所は、シナゴーグでもヘブライ学校でもなく、母が帳簿係をしている町の食堂「リンカーン・デル」だった。ここはみんなが集まる場所、友情の場所、肉体と魂の両方を満たしてくれる親密な場所だった。
 著者が19歳のとき、父がなくなった。大学の学費が払えなくなると、伯父や叔母が援助してくれた。
 セントルイスパークは多元的共存を確立するための実験場だった、と著者はいう。この町で、白人とユダヤ人とアフリカ系アメリカ人などが多元的に共存できるようになるまでには、経験と交流を積み重ねる長い道のりが必要だった。
 セントルイスパーク公立学校の質は高かった。著者はここでジャーナリズムの基本を学ぶ。この時代は教育省の補助金を高校教師が利用して、自由に新カリキュラムをつくりだすこともできたという。そのため「世界の宗教」や「世界の女性」というカリキュラムもあって、その授業は熱気にあふれていたという。
 セントルイスパークにゲーデッドコミュニティ(立ち入り禁止地域)はない。公営バスが走っていて、週末にはバスでミネアポリスに行くのが楽しみだったという。セントルイスパーク高校は冒険的で創造的でオープンだった。教師の質は高く、だれもが学習に真剣で、生徒は自由に才能を伸ばすことができた。
 冬になると道路が凍結するため、住民は団結して事故がおこらないよう協力していた。野原や公園でよく遊んだという。
 当時のミドルクラスの生活はいまよりずっとのびのびしていたという。スタジオでプロ野球の試合をみるのも安かった。全米オープンのゴルフ・トーナメントがあると、地元の高校生がキャディをする慣例があった。いまでは、キャディはみんなプロになっている。あのころはカネで買えないものがある時代だった。
 しかし、そういうのびのびした時代があったのは、経済全体が向上し、公共政策がうまく機能していたからだ。「排他的ではない政治が行われるためには、パイの拡大が欠かせない」。1950年代から70年代初頭にかけては、国民すべてが誇りとチャンスに酔いしれていた最高の時代だった、と著者は認める。その時代には繁栄が共有され、高い平等がもたらされた。
 だれでも成功のチャンスがある追い風の時代だった。当時は経済的な安心感とコミュニティに定着しているという心理的な感覚があった。だから、好きなことを学ぶことができた。いまのようにITを会得しなければ食べていけないというような切迫感はなかった。企業も気楽に営業利益の5%を民間のボランティア活動に寄付していた。著者は20歳のころからミネソタを離れる。だが、その後、どこにいてもミネソタを忘れたことはないという。
 しかし、ミネソタがマイノリティに排他的でなくなったのは、第2次世界大戦後にすぎない。それには経済の改善も大きかったが、政治家の役割も欠かせなかった。当時の政治家は反ユダヤ主義や黒人差別を根絶するために闘っていた。ヒューバート・ハンフリーは、いまは絶滅したリベラル派共和党員の典型だった。
 政治の潮目が変わったのはレーガンが大統領になったころで、そのころから政党どうしの非難合戦がはじまった。
 1970年代半ばまでは黄金時代だった。みんなが物事はよくなりつづけるだろうと期待していた。コミュニティが機能し、賃金が上がり、子育てが楽になることを、だれもが期待していた。いまは政治が麻痺してしまっている。
 著者と同郷で友人でもあるマイケル・サンデルの政治哲学には、かつてのよき時代のミネソタの理想主義が反映されているという。それは市民中心の伝統だ。
 コミュニティでは公立学校が充実し、公園や娯楽施設がいっぱいあり、あらゆる人が好きなように楽しむことができた。経済格差は少なく、社会はいまよりもずっと民主的だったという。いまではあらゆる面で、富裕層と一般の人とのあいだに差がつけられてしまっている。
 政治の場においても、いまでは社会正義やフェアプレイ、市民権を守るという感覚が失われてしまった。
 健全な社会の構成単位がコミュニティであることはいうまでもない。そうしたコミュニティをつくることは、現在はるかにむずかしくなっている。だが、それはほんとうに不可能だろうか、と著者は問うている。
 ミネソタのセントルイスパークに帰ると、著者はいつもここが故郷だと感じる。そして、不思議なことにソマリアからやってきた移民もここが故郷だという。
 それはなんなのか。その理由として、著者は有能な指導者が多いこと、官民協力が根づいていること、企業がコミュニティに貢献していること、市民のあいだで信頼が維持されていることなどを挙げる。とはいえ、差別がないわけではない。白人と黒人、ヒスパニック系やアジア系移民、ネイティブ・アメリカンとの壁はいまも厚い。ラオスのモン族も多い。いまではイスラム教徒のほうがユダヤ教徒よりも多くなっている。
 アメリカはマイノリティ・マジョリティの国になりつつある。多くの人が不安と希望をいだいている。だが、著者は楽観的だ。
 行政の意欲的な取り組み──たとえば市全体にWi-Fi網を設ける試み──が失敗した場合でも、健全なコミュニティはそれを単純に非難せず、次を見守ってくれる。市民の信頼があるからだ。市と地区評議会とのあいだの話しあいがつねにおこなわれている。マイノリティへの差別を解消する方策もとられている。
 地域での政治参加にこそ、アメリカン・デモクラシーの真骨頂がある、と著者はいう。それこそが、市民意識に必要な「心の習慣」をつくっているのだ。
 セントルイスパーク市は公立学校のために多くの予算をつぎこんでいる。そのために財産税の増税も辞さなかった。教育に力をいれ、多くの人種を受け入れたことが、地域の活性化と多様化に寄与している。この市はどんな波も受け入れ、差別をなくすことに取り組んできた。そこからは異彩を放つ子供たちが輩出している。多様化が進んだにもかかわらず、教育を支援するエネルギーは衰えていない、と著者はいう。
 教育予算を減らす方策はとられていない。そのため学校の指導者は、ゆとりのある活動をおこなえる。コミュニティが学校の後ろ盾になっている。生徒どうしの話し合いもひんぱんにおこなわれる。子どもたちは学校に来ても疎外感を味わうことがない。ソマリア人の子供たちも自由に話ができる。
 マイノリティ・マジョリティの国になろうとしているアメリカで、ともに暮らして繁栄していくには、出会いを積み重ねるほかない、と著者はいう。それには相手に積極的に信頼を示すことが必要だ。
 セントルイスパークでは、イスラム教徒のソマリア人にたいする差別もない。ハラールの食料を見つけることもできる。
 チルドレン・ファーストという団体も立ち上げられていた。これは若者を支援するための組織だが、実際は大人の行動を変えることをめざしている。無料小児科クリニックをつくったり、自宅の私道にバスケットボールのゴールを設置したりすることも支援している。
 セントルイスパークには多くのアフリカ人移民が流入し、貧困層が増えているが、貧しい子どもたちを支援する活動も活発におこなわれている。こうした活動が新しい住民と古い住民とのあいだの信頼を築くのだ、と著者は信じている。
 社会のイノベーションはすべて地方レベルからはじまる、と著者はいう。公立学校の補講をおこなう教師を提供するための基金も設けられている。文化と宗教のちがいがあるさまざまな住民を一夜にして統合することはできない。しかし、その溝を埋める努力はつづけられている。
 差別のない社会をつくるには、経済のパイを大きくすることもだいじだ。地元経済の成長をうながすプロジェクトもこころみられている。インフラを整備し、マイノリティを受け入れ、教育を支援し、経済格差の解消に取り組む。それを地元の経済界が主導し、そのための市民の会をつくっている。
 アフリカ系アメリカ人のコミュニティも当事者意識をもつようになった。差別や偏見をなくすためのNPOが活発な活動をくり広げ、非白人を雇用する習慣も根づいてきた。
 だいじなのは文化や習慣を押しとおすことではない。コミュニティのルール、法の支配を守りながら、ともにコミュニティを発展させることだ。
 悪戦苦闘はつづいている。しかし、著者は市民の良識を信じるという。「その良識がひろがって、締め出されたり取り残されたりしている人々を受け入れ、その受け入れが報われることに賭ける」
 そのためには人が集まり話し合うダイニングテーブルの場を広げ、コミュニティを前進させるための努力をつづけなければならない、と著者は書いている。

 アメリカの政治は年を追うごとに中東に似てきたという印象を著者はいだいている。「民主党と共和党は、まるでスンニ派とシーア派、パレスチナとイスラエルのように、お互いを敵視している」。それはおぞましいことだし、国力を衰えさせる原因にもなっている。数多くの領域でイノベーションを加速させなければならないのに、それができないのは、信頼関係が欠けているためだ。
 イノベーションをとりいれながら、政治的安定を確保するには並々ならぬリーダーシップを必要とする。「世界が高速なとき、針路からそれたら、もとに戻るには、長い距離を行かなければならない」。ナビゲーションのミスは重大な結果を招きかねない。
 現在のアメリカ最大の病患は、がんでも心臓疾患でもなく、孤立だと著者はいう。人間どうしの結びつきがどんどんなくなっていることが問題なのだ。
 機械やロボットが労働者の仕事を奪ってしまうという見方に著者は否定的だ。「人間は知的な機械の力を借りて、もっと弾力的に、生産的に、裕福になる方法を見いだすにちがいない」と考えている。
 だが、そのためには手をこまねいているだけではだめだ。コミュニティを発展させ、政治や経済、文化のあり方を見直していかなければならない。
 過渡期はほんとうにやっかいだという。移行はけっして容易ではない。

〈だが、その移行期を乗り切るのに必要なソーシャル・テクノロジーを開発し、経済を開放的にして、万民の学習能力を向上させつづけるような、最低レベルの政治協力が実現すれば、従来よりもずっと多くの人々がよりよい暮らしを手に入れられるようになり、21世紀の第2四半期は、すばらしい時代になるだろう。〉

 これが本書の結論といえるだろう。

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『遅刻してくれて、ありがとう』を読む(4) [本]

 日本語版はここから下巻にはいる。第3部「イノベーティング」の途中、第9章「制御対混沌」以降を読んでいる。例によって、雑なダイジェストをつづけている。
 ポスト冷戦後の世界は制御された世界と混沌とした世界に分裂している、と著者はいう。冷戦後はアメリカの経済・政治システムが勝利を収めると思われていた。だが、アメリカは次第にパワーと自信を失い、アメリカ、ロシア、中国が競いあう時代がふたたびやってきた。ナショナリズムの勢いが強まっている。EUにも亀裂が走り、日本は弱体化している。いっぽう、中東やアフリカでは、多くの弱い国々のコントロールがきかなくなり、混沌状態がおとずれている。
 ポスト冷戦後の世界は、ソ連の封じ込めさえ考えていればよかった冷戦時代とちがって、はるかにやっかいだ、と著者はいう。国家間の抗争や無統治空間にどう対応したらいいか、簡単に答えが出せないからだ。
 第2次世界大戦からベルリンの壁崩壊までは、経済的には平穏で安定した時期だった。だが、それも終わりを告げると、多くの発展途上国が無秩序におちいり、四方に難民を放出している。
 マダガスカルの荒廃は目をおおうばかりだ。シリアでは政治腐敗と干魃、貧困、内戦によって、多くの難民がでている。アフリカ中央部はさらに砂漠化が進み、セネガル、ニジェール、ナイジェリア、ガンビア、エリトリアなどから、人びとがわずかの希望を求めて、大量に流出している。そのなかにはボコハラムなどの聖戦主義者に加わる者もでている。こうした地域では、国家もコミュニティも崩壊しつつある。
「地球全体で現在、122人に1人が難民か、強制退去させられるか、庇護を求めている」と著者はいう。地球の人口が現在74億人だとすれば、その数は6000万以上、イタリアの全人口に匹敵するほどだ。
 崩壊した国を立て直すのは容易ではない。ソーシャル・ネットワークは連絡や抗議活動には向いているが、政治秩序の安定には寄与しない。むしろ、それが間違った情報やうわさ、ヘイトスピーチを広げ、社会の分裂を招くことも多い。
 現在のソーシャル・メデイアは「関与より拡散、討論よりも投稿、深淵な会話よりも浅薄なコメント」へと向かいがちだ。それだけではない。意見が一致する人びととだけコミュニケーションをとり、それ以外の人間を排除する傾向もある。
 ネットワーク世界は瞬間的で移ろいやすい。インターネットはあくまでも道具にすぎず、それ自体が安定した政治秩序を築くわけではない。
 スーパーノバ[クラウド状のコンピュータ・ネットワーク]は、人間の思考や行動を増幅する。だが、個人はその力を創造にだけでなく、破壊にも使うことができるのだ。「未来のテクノロジーと過去の敵意」が組み合わさると、予測もしなかった事態も生じうる。携帯電話付き爆弾やドローン爆弾、サイバー恐喝や詐欺は、すでに現実のものとなっている。
 一匹狼のテロリストも増えている。かれらをテロに走らせるのは、具体的な組織の命令ではなく、過激なウェブサイトから生じた衝動だ。それを抑止するのはむずかしい。「テロ組織は、ソーシャル・ネットワークを通じて不満分子の怒りを煽り、そのあとは離れてショーを見物する」。これにたいし、国家は対応しきれない。
 ほとんどコストがかからない政治的なサイバー攻撃も盛んになっている。アメリカ大統領選でロシアがヒラリー・クリントン候補に打撃を与えるために利用したのもこの方法だ。いっぽうロシアや中国ではメデイアが規制されているために、情報は行き渡らず、逆にネットで指導者を批判する政敵が暗殺されたり逮捕されたりしている。
 現在、世界の勢力均衡を理解するには、軍事力や経済力について知るだけではじゅうぶんではない。もはやアメリカは世界の重みを支えきれなくなっている。だからといって、無秩序の世界を制御しなければ、自分たちのところへ無秩序がやってくるだろう、と著者はいう。じっさい、ヨーロッパにはアフリカと中東から難民が押し寄せ、EUの吸収能力では対応しきれなくなっているのだ。
 では、どうすればよいのか。
 著者は、無秩序になりかかっている地域に「良識をはぐくむ拠点」を広げるために資金を投入すべきだと考えている。学校や大学に資金を投入すると同時に、奨学金制度を充実させること。それは軍事援助より、よほど意味があるという。
 さらには人びとの生活基盤を安定化させること。それには基礎教育、基礎的インフラ、農業基盤、統治(社会秩序安定)基盤をつくることが欠かせない。ビル・ゲイツがアフリカの貧しい地域に勧めるのは、まずニワトリを飼うことだ。それだけでも生活基盤は強化されるという。
 アフリカ版のマーシャル・プランを唱える学者もいる。村から1人を選抜して「グリーン部隊」をつくり、土と水を維持しながら植物を植える方法を教え、その植物を育てるための手間代として、ひと月200ドルの給料を払うというものだ。それによって緑の壁をつくり、サハラ砂漠から砂が押し寄せるのを食い止められるなら、気候変動への対応策にもなる。アフリカのどの村にも高速ワイヤレス・ブロードバンドを導入するという計画もある。
 国際政治のうえで、抑止力がいまだに重要なツールであることは認めざるをえない、と著者はいう。その象徴が核抑止力だが、抑止力はそれだけにとどまらない。冷戦が終わったとしても、ロシアや中国、その他の国々の野望が衰えたわけではない。
「アメリカはこの2超大国[ロシア、中国]を片手で抑止しながら、もう一方の手では、拡大する無秩序の世界と超強力な破壊者を封じ込めるために、2超大国の支援を求めなければならない」。アメリカは、いまそういうジレンマにおちいっている。
 だが、アメリカにはまだ力が残っている。自由、民主主義、自由市場、多元的共存、法の秩序といった価値観を支えることが、いままで以上に重要になっている、と著者は主張する。

 テクノロジーとグローバリゼーション、環境が関連して同時に変化する時代においては、これまでの前提が崩れてしまっている。もはや、並みのスキルで仕事をしていれば、ミドルクラスにはいれない。無数の移民を無前提に受け入れるのは無理になっている。さらに、都市といなかとの亀裂が深まっている。
「安定した多元的共存を実現する民主主義国が数多くある世界を維持するためには、政治イノベーションを加速の時代と組み合わさなければならない」と、著者はいう。
 そのなかでも、とりわけ著者が重視するのが、テクノロジーとグローバリゼーション(市場)が加速度的に変化するなかで、「母なる自然」から何を学ぶかということだ。
 たとえば、自己給水システム搭載のウォーターボトルは、ナミブ砂漠のカブトムシの生態をモデルにしている。
 自然には耐久力や復元力、修正力がある。多様性をはぐくみ、全体のバランスを維持し、共に繁栄する力がある。さらに「自然はあらゆる生息場所のために生物を進化させている」。自然はちいさな微生物からはじまって大きな動物まで、いくつものネットワークを織りなして、巨大な生態系をかたちづくっている。「さまざまな種は自分たちに最適の場所や生息場所で共進化する」。そこに管理者はいない、と著者はいう。
 だが、自然システムはけっして停滞していない。絶え間なく変化しながら、持続している。それに適応できないものは絶滅し、適応できるものだけが生き残る。だが、そこから新しい生命が生まれてくるのだ。
 生態系は健全な相互依存システムのうえになりたっている。この相互依存システムが破壊されると、森が消滅し、地球温暖化が進み、海面が上昇する。
 著者は人間の政治や文化も、こうした「母なる自然」から学ぶことが多いはずだと考えている。よそ者の強者に対応する能力、多様性を受け入れる能力、当事者としての責任を引き受ける能力、中心と部分のバランスを保つ能力、加速の時代に前向きに対応する能力、そうした能力はすべて自然から学べるものだという。
 そして、よき政治指導者は、現実を直視し変化をおこすよう人びとに訴えかけなければならない。その一例として、著者はネルソン・マンデラのケースを挙げている。マンデラは、それまでの文化を変え、黒人と白人のあいだの壁を崩し、たがいの信頼を強めることに成功した。
 よそ者の強者をかたくなに拒むのではなく、よそ者から学ぼうとする意欲が、政治や文化の方向性に大きなちがいをもたらす。著者はその成功例が19世紀後半の日本なのだという。「明治維新は、日本のレジリエンス[しなやかな強さ]を強めただけでなく、国力も強めた」。中国もまた長い屈辱の時代をへて、鄧小平の時代から世界にたいし門戸を開くようになった。ロシアはソ連崩壊後も、相変わらず過去の栄光にとらわれ、停滞におちいっている。アラブ世界はいまだに聖戦へのこだわりを捨てていない、と著者はいう。
 多様性を受け入れることが不可欠になっている。「多元的共存を実現した多元的社会は、政治的な安定を享受する」。実際にはむずかしいことかもしれないが、これはたしかに理想だろう。
 地理的な開放性と文化の多様性と許容力が、経済発展をうながす。多様性と許容力は社会を維持・発展させる原動力だ、と著者はいう。
 また当事者意識がないと、社会は荒廃していく。上からの命令がないと動かない社会は不健全だ。著者は「世界市場、レンタカーを洗車した人間は1人もいなかった」という警句をもちだす。ここには、まだおカネの倫理がはたらいている。しかし、人が自分たちの国、自分たちの町という意識をもたなくなれば、社会はたちまち荒廃していくだろう。
 中央と地方のバランスもだいじだという。著者は20世紀におきた権力の中央集中を地方分権に向けて逆転させなければいけないという。国全体の経済や安全保障、医療、税制、社会保障などは中央政府の仕事だ。しかし、コミュニティの行政は、当事者意識をもつ地方自治体が中心になり、市民の協力を得ておこなうべきだ、と著者は主張する。
 著者は、これから取り組むべき課題として次のようなものを挙げる。消費税を財源とする国民皆保険制度、低所得者層と子供をもつ家庭への減税、より開放的な自由貿易協定、賃金保険制度の拡充、高校の授業料免除、生涯学習の支援、光ファイバー網の拡大、インフラの更新、銃規制、法人税減税、炭素税・金融取引税の導入、キャピタルゲイン優遇税の廃止、ファストフードの過剰摂取への警告、規制の見直し、選挙制度の見直し、サイバー攻撃やテロへの対応強化、平和部隊の拡大、ジェンダー平等の促進、デジタル・イノヴェーションの加速、健全な民主主義の拡大・維持などなど。
 要するに「ダイナミックでハイブリッドな政治」を実現することが求められているという。それはイノベーションを促進し、セーフティ・ネットを拡充し、開放された世界をめざす政治だ。いままでのように古い考え方にいつまでも固執していたら、世界の激しい動きに適応できない、と著者はいう。

「現在の世界では、サイバースペースほど神が人間に選択の自由を与えている場所はない」と、著者は書いている。
 多くの人が1日のかなりの時間をサイバースペースに割くようになっている。「空想し、信じ、渇望する物事に基づいて行動することが、より速く、深く、安く、幅広くできるようになった」。まるで人間が神に近づいたかのようだ。
 サイバースペースは破壊も創造もできる世界だ。ここでは悪意と善意が行き交っている。スマホはたしかに便利だが、それが性犯罪を含め、さまざまな問題をもたらしているのも事実だ。神のいない領域であるサイバー世界と、わたしたちはどう向きあえばよいのか、と著者は問う。
 グローバルなフローの接続には、フェイクニュースや誹謗中傷、ハッキング、コンピュータ・ウイルス、詐欺などがつきものだ。そのため接続にさいしては、少し立ち止まって考えてみること、記事を信用できるかどうか判断すること、つまりフリクション(摩擦)をつけてみることが必要だ、と著者はいう。警察による注意喚起やサイト運営会社による管理もだいじだし、親が子供を守るガードも欠かせない。もちろん、なによりも個々人の倫理観を高めることが求められる。
 倫理の進化が必要になっている。ネット上でも健全なコミュニティを育てなければならない。そのためにはコミュニティを拡張すること。思いやりや愛、助けあいこそが、世界を分断や対立から救う唯一の道なのだ、と著者は述べている。

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『遅刻してくれて、ありがとう』を読む(3) [本]

 ここから第3部にはいる。「イノベーティング」と題されている。加速するイノベーションが人びとや社会、文化、政治にどのような影響を与えているかを論じたパートである。第3部は日本語版で500ページ近くあるので、何回かにわけてメモしておくことしよう。
 著者がジャーナリストとしての仕事をはじめた1970年代後半はまだタイプライターと初期ワープロの時代だった。そのころはまだ携帯電話もメールもなかった。急ぎの記事は必死に電話を確保して、口頭で送稿しなければならなかった。
 80年代半ばには変化の速度がすこし早まり、大きなフロッピーディスクを差し込むIBMのデスクトップが登場する。そして90年代半ばになると、コンピュータでメールやインターネットが使えるようになった。
 それ以降、ウェブ接続はどんどん速くなっていった。アメリカでは新聞配達がほとんどなくなり、新聞の廃刊も増え、広告はどんどんウェブに移り、記事は携帯で読まれることが多くなった。ところが、記者の仕事はますます忙しくなる。ウェブのために1日に何本も記事を書くだけでなく、ツィッターやフェイスブックの投稿もこなさなければならなくなった。
 スーパーノバ(高度化するコンピュータ・ネットワーク・システム)のおかげで、ブルーカラーの仕事は奪われ、ホワイトカラーのスキルも変更を余儀なくされた。
 車も自動運転の時代が着実に近づいている。もはや人が車を運転するより、ソフトウェアに運転してもらったほうが安全と思える時代なのだ。どこかに行きたいときはスマホでプログラミングするだけでいい。未来の工場は、ほとんど人がいなくても稼働するようになるだろう。リラックスしたいときは、コンピュータがここちよい詩や音楽を流してくれる。
 ともかく、変化が速すぎるのだ。だが、それを阻止するすべはない。「あらたな速度の変化を学び、順応するほかに、手立てはない」。要するに、動的安定をうまく維持するほかないのだ。
 社会はテクノロジーの変化に追いつけない。そのため空隙が生まれ、多くの市民が漂流しているような気分におちいり、不安を解消する単純な答えを聞かせてくれるような人間を望むようになっている。しかし、脅し戦術や子供だましの単純な解決策では、安心が得られるわけがない。不安な空隙を埋めるには「創造力とイノベーション」を発揮する以外にない、と著者はいう。
 ロボットが雇用をすべて奪うことにはならない、と著者はみる。だが、そうならないためには、教育と仕事のイノベーションが必要だ。一所懸命に働けば何とかなるという時代はすぎさった。
 かつてのように中スキルでも高給という仕事はなくなってしまった。たえず自分をつくりなおし、いっそう努力しなければ、ミドルクラスにはいられない。これからはスーパーノバが生みだすツールとフローを、みずからのモチベーションによってすべて利用できる人間が生き残っていくのだ。
 しかし、だいじなのは全員が成長していくことだ。幸運な少数の人間だけが資産やビジネスチャンスを手に入れられるような社会は健全とはいえない。これからの知識・人間経済では、人的資本が資産になってくる。
 これまでの経験でいうと、労働の自動化はかならずしも雇用を奪わなかった。自動化によって商品の価格が低下すると、商品の需要も用途も増え、あらたな仕事が生まれた。たとえば銀行のATMもその例外ではない。ATMのおかげで、銀行の支店運営コストは下がり、そのため銀行は支店を多く開設することができるようになった。
 テクノロジーの影響は一様ではないが、それによって仕事はなくならず、新しい仕事が生みだされる、と著者はいう。古いありきたりのスキルはもう役に立たない。ただし、一部のスキルだけが貴重になり、その他のスキルは時代遅れになるため、スキルの格差が生じ、貴重なスキルをもつ人びとの需要と賃金が高騰する公算が高い。
 自動的な反復作業は最低賃金になるか、ロボットの仕事になる。ミドルクラスの仕事は高度化しており、仕事を首尾よくやるには、より高度な知識とそのための教育が求められる。専門的な能力に加え、新しい時代への対応力がだいじになってくる。
 AIをIAに変えることだ、と著者はいう。すなわち、AIを知的支援(インテリジェンス・アシスト=IA)する仕組みをつくること。人間の能力を拡張して、AIを駆使できるようにならなければならない。
 企業は常時、社員全員のスキルをアップするよう努めるべきだ。そのためには、勤務時間外に大学や大学院で学べるよう支援をおこなってもよい。一生ずっと社員でいるためには、一生学びつづけなければならない時代なのだ、と著者はいう。
 手軽なコストで空いた時間にオンラインで学べる生涯学習講座(MOOC)も便利なツールだ。それによって、受講者はたとえばグラフィック・デザインその他の手法を身につけることができる。モチベーションさえあれば、グローバルなフローによって学び、それを仕事に生かせるようになるのだ。
 ここで著者が紹介するのはLearnUp.com(ラーンナップ・コム)というサイトだ。このサイトでは職探しを斡旋している。そこにアップされているのは、該当する会社に必要なスキルや条件、求職者のためのミニ講座、面接にさいしての手法など。
 ラーンナップ社は、企業と組んで、求人サイトで企業に適合する人材を集めている。求職者をふるいにかけるのではなく、具体的な求人に合わせて求職者を訓練し、指導するのだという。これを試しながら、求職者は仕事のできそうな会社を選ぶ。このサイトを利用すれば、求職者は職業安定所に行かなくても、自分の仕事を見つけることができる。
 カーン・アカデミーはユーチューブの動画を使って、無料の授業を英語で提供している。その授業は多岐にわたる。これを見れば、学習塾に行ったり家庭教師をつけたりして、大学進学のために大金を払わなくてもよくなった。カーン・アカデミーの無料模擬試験を受ければ、どの科目のどの部分に弱点があるかもわかり、それを克服するための練習プログラムを選択することもできるという。
 多くの学生が無料の演習ツールを利用して、自分にもっとも適した大学を選べるようになった。こうしたツールが役立つのは大学受験だけではない。生涯学習にも役立つはずだ。ただし、生徒はこれまで以上に集中力を発揮し、演習に没頭しなければ、大きな成果が得られないだろう。学ぼうという意欲がある者は、どこまでも進むことができるのがいまの時代だ、と著者はいう。
 またネットワーク上の活動で評価されて、学位がなくても雇用されるケースも増えている。「知的アルゴリズム[いわばコンピュータの扱い方]と知的ネットワークが登場して、新しい社会契約を可能にしている」と、著者はいう。それは新しい経済的機会を提供することにつながる。
 ウェブのサイトで、編み物やガーデニング、配管工事、その他の専門知識を学び、それを仕事で役立てることもできる。
 リンクトインはビジネスのつながりを広げ、人材を採用するためのネットワークだ。職種や本人の能力とは無関係かもしれないのに、いまだに世の中では学歴が幅をきかす傾向がはびこっている。しかし、あらたなネットワークは、学歴ではなく専門技能によって人的資本を発掘し、雇用を創出しようというものだ。
 アウトソーシング、自動化、ロボット化、デジタル化できる仕事は、どんどんなくなっていくだろう。これから残るのは「テクノロジーと対人関係のスキルの両方を利用する能力が求められ、それで報酬が得られる仕事」しかない、と著者は断言する。
 仕事は手から頭に、そして心に移っていく。知的な機械が存在する時代に人間であることがもつ重要な意味は、心しかない。技術力はもちろん必要だが、これからはそれに加えて、協力、共感、柔軟性などの社会的スキル、言い換えればソフト・スキルがますます求められるようになる、と著者は考えている。
 仕事の形態も変わってきている。企業に雇用されなくても、自営のプラットフォームを運営すれば、じゅうぶん仕事ができる時代になっている。
 変化が加速する時代には、大学で学んだ知識など、あっという間に古びてしまう。長い仕事人生のなかでは、一生学びつづけることが求められるだろう、と著者はいう。
 これからは職を探すのではなく、みずから職をつくりだすくらいの気構えと努力がなければ、生き残れない。みずからが常にビジネスチャンスをつくりだしていかなければならないのだ。
 けっきょくは自分次第、やる気の問題だ、と著者は断言する。オンライン・ツールを利用して、一生学びつづけ創造しつづける人間が勝利するのだ。政府や企業には、それが可能になる環境を市民や労働者に提供する義務がある。
 未来予想では現在の雇用の47%が失われるとされている。だが、著者はこの見方に否定的だ。「新産業、あらたなかたちの仕事、人間が自分の情熱を利益に変える新しい方法を生み出す、人間の工夫と意志の力を見くびってはいけない」。
 そうした例として著者があげるのが、ウーバーとAirbnbだ。ウーバーは、スマホの画面をタッチして目的地を入力すればすぐにタクシーが来て、目的地に到着するとスマホで料金が支払えるというシステム。Airbnbは前に書いたように世界最大の民宿ネットワークだ。ほかにもコンピュータ・ネットワークをもとに、多くの新たな企業家が生まれている。
 9時から5時までという古い労働の時代は二度と戻らない。これからは加速度的に発展するAIとセルフ・モチベーション、思いやりを組み合わせた仕事だけが生き残っていく、と著者は断言する。
 ぼくのような年寄りは、やれやれと嘆息するばかりである。

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『遅刻してくれて、ありがとう』を読む(2) [本]

 スーパーノバ(すなわちクラウド=巨大なコンピュータ・ネットワーク)が、人類全体のパワーを増幅している、と著者はいう。スーパーノバは人類がこれまでつくったことのない最高のツールだ。
 たとえば、少し前なら2年かかっていたジェットエンジンの設計を、いまではコンピュータの3次元ソフトと3Dプリンターを用いて、1週間で完成させることができる。テクノロジーの加速度的な進歩がそれを可能にした。
 スーパーノバの登場によって、データのデジタル化と保存の速度・規模が飛躍的に向上した。それに反比例して、データ利用のコストは急激に低下し、コンピュータの操作も複雑ではなくなった。それが生じたのは2007年前後だ。
 現在は経済もスーパーノバ経済に移行している過渡期だ、と著者はいう。運輸やエネルギーをはじめ、あらゆる産業がスーパーノバによって大きく転換しようとしている。その流れを活用できる者は絶好の機会を獲得し、取り残される者は、恩恵にあずかることができない。
 IBMが開発しているのは情報を解釈し、整理し、説明するコグニティブ[認識]・コンピュータだ。それによって微妙で複雑な翻訳作業をしたり、膨大な医学データにもとづいて、診断の手助けをしたりすることも可能になった。
 いまでは多くの機械にAIが取り入れられている。まもなく、だれもが個人用の賢いアシスタント(専用の小型ワトソンや、Siri、アレクサなど)をもつような時代になるだろう、と著者はいう。
 あらゆるもののデジタル・モデルをつくるソフトウェアも開発されている。それは建築や自動車、ゲーム、映画などの分野でも活用できる。恐竜の標本だってつくれる。かつてはそれらをつくるのに、膨大な時間と費用がかかったが、いまではあっという間に、それらをデザインすることができる。それにより、さまざまなムダが省かれ、実験と創造のための時間も増えた。これからはデザインも人間と機械の共同作業になる、と著者は断言する。
 ある若者は自宅の空き部屋を収入源にしたいと思った。そこで、スーパーノバを活用し、家の空き部屋を貸してカネを儲けられるようなネットワークを構築した。それがAirbnbのはじまりである。Airbnbは急成長し、いまでは巨大なプラットフォームを築いている。それを可能にしたのは、契約や決済、写真による紹介、ランクづけ、評価や連絡などが簡単にできるさまざまなテクノロジーが発達したおかげだ。
 アマゾンはスーパーノバをもっともうまく利用した巨大小売会社だが、ウォルマートなどの既存業者にとってもスーパーノバは欠かせなくなっている。ウォルマートは事業のあらゆる面にITを導入している。顧客はモバイル・アプリを使って、さまざまな商品を検索し、購入する。その商品をどの地域の店舗から配送するのがベストかをコンピュータは瞬時に判断する。
 こうしたスーパーノバ技術は、世界のどんな僻地でも利用されている。IT企業を立ち上げるのは、世界のどこでもできるのだ。ちゃんとした頭脳と短期間の訓練、それにアイデアがあれば、すばらしいビジネスを展開できる、と著者はいう。
 著者によれば、グローバリゼーションとはモノやサービス、カネが国境を越えて移動することを意味している。それはモノだけとはかぎらない。モノ以上に、デジタル・グローバリゼーションが爆発的に広がっている。そのことはフェイスブックなどをみてもわかる。
 ビジネス・プロセスのデジタル化は生活のあらゆる面に浸透し、企業や顧客に利益をもたらしている。その影響は社会活動全般におよぶ。

〈金融面で世界は相互依存が強まり、どの国も外国の経済の影響を受けやすくなった。見知らぬ人間同士の接触が、前代未聞の速さと規模を示すようになり、悪い思想といい思想が敵対し、あっという間に偏見を消滅させたり、逆に生みだしたりするようになって、すべての指導者が姿をさらけ出し、透明性が高まった。〉

 いまや携帯電話やスマホは手放せないものになっている。世界は相互接続しているだけでなく相互依存している。よい情報も悪い情報もすぐに伝わる。どんな貧しい人も携帯をもち、ゲームに参加している。急速にキャッシュレス社会に移行した中国では、多くの人がスマホで購入商品の支払いをするようになった。電子ブックやアプリ、オンラインゲーム、音楽、ソフトウェアなどの仮想商品がデジタル取引によって瞬時に決済されている。
 いまやメールはあまり急ぎでない連絡にかぎられ、メッセージ・アプリが日常的コミュニケーションの主流になりつつある。フェイスブック・メッセンジャーの月間ユーザー数は、すでに10億人を超えるという。
 ビジネスにおいては、ストックよりフローが重要になった。その背景にはデジタル・テクノロジーの発達と都市化がある。製品のサイクルは短くなっている。変化の速度はおどろくほどだ。それについていかなければ生き残れない時代がやってきた。新製品を開発するのは、自社のエンジニアとはかぎらない。世界中からアイデアを引きだすプロジェクトがつくられているのだ。
 いまやグローバリゼーションを推進するのは、デジタル・フローだ、と著者はいう。たとえばGE(ゼネラル・エレクトリック)は、中国の建設会社と手を組んで、アフリカやアジアでの受注を獲得している。というのも、「すべての国を市場とスキルの源の両方だと見なして、製造と設計の最適な人材、物流能力、金融、市場での販売機会をデジタルで編み合わせる必要がある」からである。それは一社ではできないことだ。
 こうして、グーグル自動車やアップル銀行、アマゾン映画会社などの派生業種も誕生する。どの会社もクラウド・コンピューティングを基盤として、業態が広がっていった。いまやフローのなかにいることが、戦略と経済で絶大な優位性を占める、と著者はいう。
 インドではだれもが安い値段で買えるよう、タブレットの開発が進められている。いまでは30ドルのタブレットも売られているという。タブレットさえあれば、だれもが英語を学んだり、数学や物理学の授業をダウンロードしたりすることもできる。それが貧困から抜けだすための一つの手段を提供する。欧米のハイテク企業で働いていた若者がインドに戻ってきて、旅行検索サービスを立ち上げ、それが大きな会社に発展した例もあるという。

〈先進国はたしかにフローと結びつき、新しい商品やサービスを創出して、輸出品として売り込むのが簡単になった。しかし、話はそこで終わりではない。もっとも貧困な人々も、グローバルなフローによって簡単に稼げるようになったのだ。〉

 こうしたグローバル・フローは、中小企業がグローバルに仕事を展開する気運をもうながしている。
 金融の世界では、デジタル化された金融のフローが猛烈な勢いで動き、市場の相互依存がますます高まっている。コンピュータを使った超高速グローバル取引は時にエラーや犯罪と結びつく。だが、金融デジタル化の勢いはとまらない。スマホをもってさえいれば、支払いや入金、融資もできるようになりつつある。アメリカでも、現金を使うのをやめて、ペイパルを使う人が増えているという。
 医療の分野でもデジタル化の勢いはとまらない。ますます多くの診断と処方がパソコンやスマホのオンラインでおこなわれ、それによってコスト削減と遠隔医療が見込めるようになった。
 それは製造業でも同じだ。パソコンと3Dプリンターがあれば、新規事業に参入できる。自動車製造部品のモデルをつくるときも、パソコンでデザインして、3Dプリンターで鋳型をつくればいいのだ。
 フェイスブックは未知の人間や敵どうしをも結びつける。フローの加速が、人間の接触をスピーディにしている。そして他者から学び、その最善のものを総合することができるかどうかが、加速の時代に繁栄できるか、そうではないのかの分かれ道になってくる、と著者はいう。それは社会全体にとっても言えることだ。
 未知の人間どうしが新しいテクノロジーによって接触すると、そこにはコミュニティ意識が生まれてくる。それがフローのグローバル化のもっともありがたい部分だ、と著者はいう。もっともそれはネオナチや自爆テロのネットワークもつくりうるのだが、いまのところは、マイナス面よりプラス面のほうが大きい。ブログによる訴えで、賛同者の署名が集まり、大きな運動へとつながるのは、最近よく見かける傾向だ。
 グローバリゼーションにはよい面と悪い面がある。信じられないくらいの民主化をうながすいっぽう、多国籍企業に信じられないくらいの力を集中させることもある。適切なバランスをとるのは容易ではない。だからといって、デジタル・フローの流れを遮断するのは、適切な対策とはいえない。
「私たちはうまくバランスをとることができるし、デジタル・グローバリゼーションを最大限に利用して最悪の影響を緩和する努力をつづけるインセンティブは膨大にある」。いまだいじなのは壁を築くことではなく、床を広げることだ、と著者は主張している。
 だが、ここで忘れてならないのは、いま人類が気候変動に直面していることだ、と著者はいう。
 地球温暖化、森林破壊、海水の酸性化、生物多様性の消滅。われわれの周囲には、こうした問題が発生している。にもかかわらず、われわれはその対処を怠っている。
 地球環境問題を加速しているのが、テクノロジーとグローバリゼーションだということは、著者も認識している。
 たとえばグリーンランド氷床の融解は加速している。グリーンランドでもはや犬橇(いぬぞり)で隣の島に渡れなくなった。北極圏では冬に雨が降っている。山をおおっていた氷河が消えようとしている。現在のCO²温度は80万年前の最大濃度より35%高くなっている、などなど。
 穏やかで安定した気候状態がつづいたのは、じつはこの1万1000年にすぎない、と著者はいう。しかし、それは永遠につづくわけではない。産業革命以降、人間は地球環境を変えるほどの影響力をもつようになった。「われわれは地球を最適な状態から追いだそうとしている」と、ある地球科学者は指摘する。
 地球は大洋、森林、大地、大気などからなるシステムで、それらが維持されるためには、ぎりぎりの臨界点がある。その臨界点を超えると、地球というシステムは次第に壊れていく。現在の地球の健康状態は思わしくない。人間の活動があらゆる面で地球の臨界点を突破しつつある。地球には驚異的なバランス維持能力があるものの、いまのような状況がつづけば、それも急速に失われる恐れがある、と著者は懸念する。
 地球人口はいまも増えつづけている。2015年の73億人が2050年には97億人に増えると予想されている。1959年の地球人口は30億人だった。それが2倍どころか3倍になろうとしている。人口が急速に増えるアフリカが、これからますます餓えや貧困、水不足、環境悪化、政治的混乱に苦しむことになる恐れはじゅうぶん考えられる。
 人口がますます増加していく地球を考えれば、われわれはクリーン・エネルギー、エネルギー効率、エネルギー節約のモデルを発明する責任がある、と著者はいう。「ソーラー・エネルギー、風力、電池、エネルギー効率の面で、毎日のように飛躍的進歩があり、数十億人が利用できるぐらい安価で大規模なクリーン・エネルギーの実現が期待できる」。そのことを自覚し、努力しなければならない。
 さらに問題は次のことだ。

〈母なる自然のプラネタリー・バウンダリーを超えたら、再建できないものが数多く残される。グリーンランド氷床、アマゾンの熱帯雨林、グレートバリア・リーフは再建できない。サイ、コンゴウインコ、オランウータンも同じだ。3Dプリンターでは、それらを生き返らせることはできない。〉

 たしかにそのとおりだ。


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『遅刻してくれて、ありがとう』を読む(1) [本]

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 著者のトーマス・フリードマンは著名なジャーナリストで、著作家でもある。『レクサスとオリーブの木』、『フラット化する社会』などのベストセラーで知られる。その信条は、社会の仕組みをわかりやすく説明することだ。
 その著者が、いまわれわれは歴史的な大転換点をくぐり抜けているという。「地球上の3つの大きな力──テクノロジー、グローバリゼーション、気候変動──が、いまはすべて同時に加速している」という。
 そういうときこそ、立ち止まって、じっくり考えてみなければならない。ジャーナリストの著者は、毎日、多くの人と会う忙しい生活を送ってきた。そんなとき、たまたま何かの事情で遅刻してくる人がいる。しかし、それによって自分の時間が奪われたとは思わない。むしろ考える時間ができたことに気づくのだ。相手があやまる。それにたいし、著者は「遅刻してくれてありがとう」と答える。この経験が本書のタイトルになっている。
 立ち止まって、じっくり考える時間ができたのだ。めまぐるしい変化に追いつくだけが精一杯の忙しい毎日。だが、そこで一時ストップして、回りを見渡してみると、そこから思わぬ発見や人とのつながりが生まれてくることに気づく。
 いまはだれもがブログで自分の意見や感想を発表できる時代だ。無数の人がキーボードを叩くだけで、歴史を創っている。ブログはみずからの心象に光を当て、読者の気持ちをかきたてる。そのテーマは無限にある。ブログでは、自分が世界をどう見、それについてどう思うかを発信することがだいじだ。そのためには常に世界への関心を広げ、世界について学びつづけることが求められる。
 あるブロガーにそんなことを教えているうちに、著者はいま自分が生きている時代はどんな時代なのかを、あらためて考えるようになったという。
「本書は、史上でもっとも変化が激しい時期、この加速の時代に、繁栄し、レジリエンス[復元力]を高めるための、楽観主義者のガイドブックだ」と書いている。つまりサバイバル読本だ(ぼくのような年寄りには、もう無用かもしれないが)。

 そこで、まずはテクノロジーの現状についてである。
 その変わり目は2007年だったという。この年、いったい何がおきたのだろう。
 2007年1月9日、アップルのスティーブ・ジョブズはサンフランシスコで最初のiPhoneを発表した。ジョブズはプレゼンテーションで、このひとつの機器に、世界最高のメディアプレーヤー、最高の電話、ウェブに接続する最高の方法が盛りこまれていると語った。その後、スマホ用アプリが爆発的に開発され、1年のあいだにスマホとインターネットがたちまち一体化していくことになる。
 この年には、1台のコンピュータで複数のOSを使用できるソフトも開発された。コンピュータのデータ容量も一挙に向上した。フェイスブックも世界的に拡大する。グーグルがアンドロイドを発表する。アマゾンはキンドルを発売する。ビッグデータの解析がはじまり、機械学習と人工知能(AI)を組み合わせたシステムが設計された。非シリコン素材の導入により、より高速で効率のよい新世代のマイクロプロセッサがつくられた。
 ほかにもソーラー・エネルギー、風力発電、バイオ燃料、シェールガス、LED照明、電気自動車、DNA解析テクノロジーなどが本格的に開発されるようになる。ビットコインの構想が生まれたのもこの年である。
 進んだのはテクノロジーだけではない。最初のコンピュータを動かすには、特別の知識が必要だった。しかし、現在のスマホは、幼い子供や、読み書きができない人でも、簡単に利用することができる。そうした利便性が暮らしやビジネス、政治の面にも大きな変化をもたらした。
 2004年の段階ではフェイスブックもSNSもSkypeも4Gもなかったのだ。ほとんどの変化は2007年前後におきた、と著者はいう。いまではAIを使う機械のほうが、人間よりもすぐれた判断をするようになった。それを可能にしたのはマイクロチップの演算処理能力の急速な成長である。自動運転車が実現するのも、そう先のことではないだろう。
 いまは加速の時代だ、と著者はいう。テクノロジーの変化を加速しているのは、グローバリゼーション、すなわち市場の勢いだ。

〈商業、金融、クレジット、ソーシャル・ネットワーク、コネクティビティの世界的な流れは、総じて、市場、メディア、中央銀行、企業、学校、コミュニティ、個人を、いままでになく緊密に織り合わせている。そこから生まれる情報と知識のフローは、世界を相互に、高度に連結しているだけでなく、相互依存を強めている──あらゆる場所の人々が、ますます他のあらゆる場所の人々の行動から影響を受けるようになっている。〉

 いっぽうでテクノロジーの加速とグローバリゼーションの進展が、社会や道徳、地球環境に大きな影響を与えていることも忘れてはならない、と著者は強調する。
 こうした変化の度合いに、はたして人間は対応できるのだろうか。20世紀にはいってから、テクノロジーの発展は急速に進み、ますます加速している。「イノベーションの加速度は、平均的な人間と社会構造が適応して吸収する能力を、はるかにしのいでいる」。それが、社会的・文化的不安をもたらしている。手術支援ロボット、ゲノム編集、クローン、AIなどの新テクノロジーは人間をどこに連れていこうとしているのだろうか。
 唯一の対応策は社会の適応力を増大させることだと著者はいう。人はいわば「動的安定」のなかで生きることを学ばなければならない。政府も大学もコミュニティもそのために力を貸すべきだ、と著者は考えている。
 テクノロジーの急速な発展、グローバリゼーションの広がり、地球環境の変化、そのなかで人はどう生きていくのかが本書のテーマだといえる。

 本書は膨大だ。コンピュータにもスマホにもついていけない、ぼくのような年寄りにはなかなか読むのがつらい本だが、以下、メモ代わりに、読み終わった部分の話だけでもつづっておくことにしよう。
 まず、テクノロジーがどう発展してきたかについて。
 ムーアの法則というのがあるらしい。
 1965年にフェアチャイルド社のゴードン・ムーアは、集積回路(マイクロチップ)の素子数がこれからは毎年倍増していくだろうと予言した。この予言は現実のものとなった。
 たとえばインテルのマイクロチップでいうと、1971年のものとくらべ、現在の第6世代インテル・コアは、性能は3500倍、エネルギー効率は9万倍向上し、コストは6万分の1になっているという。それによって、1992年のばかでかいスーパーコンピュータの演算能力を、いまでは2005年のちいさなプレイステーション3がもつようになった。
 ムーアの法則の勢いはつづいている。まだとまっていない。いまでは爪ほどのマイクロチップに10億個のトランジスタが組みこまれている。

〈チップ設計とソフトウェアを通じて、相互に強化し合うこの飛躍的進歩は、最近のAIの飛躍的進歩の基盤になった。次世代の量子コンピュータも進歩させた。従来では想像もできなかったような速度で機械が多量のデータを吸収し、処理できるようになったので、AIのパターン認識学習能力がヒトの脳に近づいた。〉

 あらためて、そういう時代なのだということを認識する。
 著者はセンサーの小型化がますます進んだことにも注目する。センサーは視覚、味覚、触覚、聴覚をデジタル化し、そのデータを伝達し、何らかの判断を促す。
 いまやセンサーはあらゆるものにとりつけられている。洗濯機や冷蔵庫、自動車、カメラ、スマホなど。それらは単なる機械ではなく、知的な機械、言い換えればインダストリアル・インターネットになっている。それがいわゆるIoT(インターネット・オブ・シングズ)と呼ばれるものだ。
 センサーは警告を与え、正しい判断を促す。労働の節約や効率にも役立つ。それは機械にだけでなく、人間や生物にも取りつけることができ、病気の症状や健康の改善、あるいは性能の向上をもたらす。機械が五感をもち、人間と交流する時代がはじまっている。
 ビッグデータによって、人間行動を調査し分析すれば、その目的に応じて、より効率的な対策をとることができる。ビジネス面でも、これまでの当てずっぽうな宣伝に変わって、より正確なターゲティング広告がなされるようになった。それは、アマゾンをはじめ、ネットで買い物をしたことがある人には、ちょっとうるさいくらいに痛感できることだ。
 こうしたことが可能になったのは、記憶装置(メモリ)の飛躍的発展があったからだ、と著者はいう。
 ソフトウェアの貢献も見逃せない。ソフトウェアによって、数百万台のコンピュータがつながって、1台のコンピュータのように機能し、すべてのデータを検索できるようになった。いまではグーグルは検索エンジンとしてウェブ生活に欠かせない道具になっている。グーグルは世界の全情報を整理するという野望をいだいていた。それが夢ではなくなったのはHadoopというソフトウェアができたからだという。
 Hadoopはビッグデータ革命をもたらした。デジタル情報の登場によって、情報の記録、保存、普及がほとんど無料になった。ビッグデータは生活にもビジネスにも欠かせないものになっている。そして、このデータをうまく生かせる能力をもち、製品を改善していく者が勝ち残っていくのだ、著者はいう。
 ソフトウェアの開発といえば、マイクロソフトのビル・ゲイツの名が思い浮かぶかもしれない。ゲイツはソフトウェアそのものに価値があると考え、それによって莫大な利益をあげた。ソフトウェアは複雑な手続きを単純化してくれる。人と人、人とものを容易に結びつける。垂直の積み重ねと水平の相互接続を可能にする。それが、アマゾンやウィキペディア、フェイスブックなどの素地となっている。
 こうしたソフトウェアの開発はいまでも加速度的に進められている。著者はそうした企業のひとつとしてGitHubを取りあげている。ここではオープン・ソース・コミュニティ方式がソフトウェア開発の原動力になっている。
 だが、接続の進歩が加速しなければ、現在のようなインターネットの発達は考えられなかった。それをもたらしたのは、世界中に広がる光ファイバー網、それにワイヤレス・システムの能力向上と高速化である。いまでは、それによって、ほとんど無限に近い情報量をゼロに近いコストで送信できるようになりつつある。iPhoneなどのスマホも、ワイヤレス・ネットワークの確立なしには普及しえなかっただろう。
 携帯電話革命を引き起こした人物はクアルコムのアーウィン・ジェイコムズだという。かれは1988年に最初の移動電話を発明した。それから、かれは電話とインターネットを接続する方法を確立し、さらにカレンダーやアドレス帳、予定表、メモなども組みこんでいく。それが1998年に開発されたスマートフォンのはじまりである。だが、そのかたちは不格好で、スマートフォンが製品として普及するには、アップルによる2007年のiPhoneの登場を待たなければならなかった。
 そして、現在はクラウドへの融合がはじまっている。
 著者によれば、クラウドとは「ありとあらゆるプログラムを動かし、膨大な保存・処理能力を提供するコンピュータの集合のことで、ユーザーは携帯電話、タブレット、デスクトップのコンピュータを使い、インターネット経由でそれに接続できる」。
「人間と機械のパワーの歴史でもっとも注目に値する増幅器」、それがクラウドだという。

〈クラウドへのアクセスによって、地球上の人間はすべてそれぞれの仮想頭脳、仮想書類キャビネット、仮想工具箱を利用できる機会を得た。それらを使って、あらゆる疑問の答えを見つけ、お気に入りのアプリ、写真、健康記録、本、演説の原稿、株の売買記録を保存し、モバイルゲームを楽しみ、思いついたすべての物事を設計する。そのコストは、想像を絶するほど低い。〉

 クラウドがどういうものか、ぼくはまったくわかっていない。だが、著者は人類にとって、クラウドというエネルギー源は、火や電気よりも重要なものだと述べている。著者によれば、それはクラウド(雲)などといったぼんやりしたものではなく、スーパーノバ(超新星)と呼ぶべきものだという。
 次回は、そのスーパーノバについての話からはじめよう。

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西部邁『保守の遺言』について(ひとつのまとめ) [本]

 西部邁氏の多摩川入水を聞いて、なぜか1970年の三島由紀夫の割腹自殺を思い起こした。西部氏は1988年に東京大学を辞職して、評論家に転じた。最初に書いた評論が三島由紀夫論だったという。そのとき「自己の人生に自裁をもって幕を閉じる決意が固まった」と、最晩年の著書『ファシスタたらんとした者』のなかで書いている。三島とは天皇観も運動論もちがっていたが、それでも三島にはひかれるものがあったのだろう。
 死の4カ月前、三島は「このまま行ったら『日本』はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであろう」と書いていた。西部氏の思いもどこかそれと似ている。
 人はけっしてひとりでは死ねない。三島が「楯の会」をつくり、集団の力学で自殺したことを批判していた西部氏だが、みずからの死にさいしても、幇助者を得なければならなかったのは、なんとも悲しい。
 さらにいうと、人は死ぬときはかならずひとりだが、その死に共同性をともなわないわけにはいかない。ひとりの人間の死は、どんなにちいさくても、ひとつの共同性の死としても受け止められるだろう。まして影響力の大きかった人の場合は、広く大きな感慨を与える。
 西部氏はニヒリズムに陥る一歩手前で踏みとどまらなくてはならないと語っていた。「字義通りに懸命に生きて、時至ればこれまた字義通りに懸命に死ぬという生き方」をつらぬく以外にないのだとも書いていた。その点、三島の死が政治的な死であったのとちがい、西部氏の死は生老病死の流れに早々と終止符を打っただけなのかもしれない。
 それでも自裁という行為は衝撃を与える。恬澹(てんたん)と生き死ぬだけだと語っていた西部氏が、計画どおり入水したと聞くと、やはり強い力のようなものを感じる。ひとつの預言が残されたとみるほかないからである。
 最後の著書『保守の遺言』を読んでみた。
 本書の最後に、著者はみずからの絶望を救い、堕落からはいあがらせてくれたのは妻の存在であった、と4年前に先立った妻への感謝を述べている。しょせんこの世は無常である。人は無常のなかで恒常を保ちながら生死する以外にない。それでも、最後には感謝があった。左翼とも右翼とも闘い、戦後日本社会への批判を投げかけつづけた言論の人は、亡き妻や周囲の人に感謝をささげながら、寝たきりにならない幸せな死を選びとったのだろうか。
 著者の思想は保守である。保守といっても柳田国男のように、ふるさとの「くに」を守ろうとする保守ではなく、アンチ・アメリカニズムに固執する保守といってよい。著者の原体験は、日本が敗北した年、えらそうな様子をした進駐軍に石を投げたところからはじまる。戦後民主主義には小学校のころから疑問を感じていた。60年安保では共産主義者同盟(ブント)の一指導者として反米闘争に加わるが、逮捕され、大きな挫折を味わう。その後、大学に復帰し、近代経済学を教えるものの、1972年の連合赤軍事件にショックを受け、それ以降、学び直して、革命思想から保守思想へと転じた。
 しかし、その過程で唯一変わらなかったもの、それがアンチ・アメリカニズムである。戦後日本の保守は概して親米の立場をとっている。これにたいし、真性保守を称する著者は、あくまでも反米を貫く。こうして、著者の主張は、時に右派を喜ばせ左派を怒らせ、また時に左派を喜ばせ右派を怒らせることになった。
 著者によれば、アメリカニズムとはアメリカに由来する風潮であり、それはむきだしの熱狂、技術信仰、拝金主義、人間中心主義、歴史と伝統の破壊を特徴とする。まさに技術貨幣的文明、インモラル(不道徳)な力である。アメリカニズムに冒された現代人は「おおむね実際主義を旨として、経済的利得や政治的権力や文化的栄誉にありつくべく、我欲丸出しで生きそして虚無のうちに死んでいる」。
 アメリカニズムはとりわけマネーフェティシズムにふける傾向がある。人びとは流行の商品に取り憑かれ、みずからの精神を市場の動きに従属させ、人間の商品化もいとわず、その結果、共同体の伝統をみずから掘り崩してしまう。
 アメリカニズム、ひいてはその根幹をなす近代主義を批判する著者の舌鋒は鋭い。まして、そのアメリカニズムが戦後日本をおおいつくしたとなれば、日本の病状は深刻といわざるをえない。著者には戦後日本がどこを見渡してもアメリカに毒されているとみえてくる。憲法しかり、民主主義しかり、自由主義しかり、大衆(マス)社会しかり、マスメディアしかり、資本主義しかり。こうして、戦後日本からアメリカニズムの影響を排除するための、著者のいう真性保守の闘いが八面六臂にわたってくり広げられることになる。
 読んでいて息苦しくなるほどだ。
 まず民主主義なるものを疑うべきだ、と著者はいう。デモクラシーを民主主義と訳すのはあやまりで、民衆政治と呼ぶのがただしい。民衆政治は衆愚政治と紙一重だ。古代アテネの政治をみてもわかるように、「デモクラシーは、独裁者をもたらすかもしくは衆愚のポピュラリティ(人気)にほぼ完全に左右される」のが落ちである。とうぜん議会への不信感は強い。
 自由にしても、社会秩序を無視した「個人の自由」などはありえない。過剰な格差は問題だが、過剰な平等も避けられねばならない。社会保障の目的は弱者を保護すること自体にあるのではない。あくまでも社会秩序を守り、社会の活力を維持することにある。
 戦後日本で進展したのが大衆化、正確にはマス化である。大衆にはまだ一般庶民という肯定的なニュアンスがあるが、マス化はそうではない。マス化は俗悪化以外のなにものでもない。
 いまは人がバラバラに生きるマスの時代である。大量生産される商品の回りに群がるマス、選挙に集まるマスが流行に合わせて、浮かんでは消えていく。人気主義(ポピュリズムならぬポピュラリズム)が政治も経済もだめにしている。多数派の人気がすべてを左右する愚かな現代文明は、不治の狂気におちいっている、と著者は断言する。
 日本は戦後、宗主国アメリカに従属し、国家の誇りを奪われてきた。自尊と自立を失った国は空無と屈辱におちいるほかない。実力なき言葉だけの外交が無力なのは、けっきょく現在の外交がアメリカ追随におちいっているためだという。
 一人前の国家なら国防軍をもつのはとうぜんのことだ。それを認めないのはどうかしている。日本は強力な軍隊をもち核武装を推し進めなければならない、と著者は主張する。それによって、日本は「武力と言葉」を巧みにつかいこなして、米中露3大国を相手に合従連衡の外交戦を展開することができるのだという。
 日本が核をもつのは、核戦争をするためではない。核を「報復核」としてしか用いないと宣言することで、ほんとうの意味での戦争抑止力が生まれる。現在の「核の傘」は、日本を保護領にとどめようとするアメリカのくわだてにほかならないというのが、著者の見方である。
 憲法と日米安保、自由民主主義とマス社会が日本をおかしくしているとしたら、それ以上に問題なのが資本主義だ、と著者はいう。
 現在の企業は支配欲動にかられて拝金主義に傾き、イノヴェーションを追求するあまりに、被雇用者をないがしろにすることもいとわない。人びとは商品の論理にあやつられて、ロボットやサイボーグと化している。投機や詐欺、社会的格差の拡大も、企業の行動と無関係ではない。イノヴェーションによる社会秩序の劣化がいつまでも許されていいわけがない。国家が資本主義に歯止めをかけ、経済を統制しなければならない、と著者は主張する。
 こうして、著者は国民社会主義(刺激的に言い換えればナチズム)だけが未来に可能な国家像だとの結論に達する。国民社会主義が重視するのは公共性の強化、国家の強靱化である。日本は保有している巨大な資産を用いて、さまざまなプロジェクトを立ち上げ、とりわけ食糧・エネルギーの自給度向上と都市住環境の再整備をはかるべきだという。
 世界は多極化し、すでに世界大戦の前哨戦にはいっている、と著者は感じている。だが、現行の安保体制下では日本はアメリカに追随せざるをえず、そこから脱却して独立するには核を保有しなければならない。そして、厳しい世界で生き残りをはかるために、日本は外交戦を展開して国家を防衛するだけでなく、公共性を重視し、経済の統制を強めねばならないという。
 また、戦時体制が近づきつつあるのかというのが、ぼくの率直な懸念である。快哉を叫ぶどころか、正直いって気が重い。
 戦後日本のよさは、アメリカなどとちがって、戦争をしない国というところにあったのではないか。それがだんだんと失われつつある。もうひとつのよさ。それは、ふつうの人が国からの圧迫を受けずに、節度を守りながら自由に気楽に暮らしていける社会、不幸や病気や災害など困ったことがあれば、国やまわりの人が助けてくれる社会。そうした社会を日本はめざしていたはずなのだ。
 いまはまた国家が強くなりはじめている。国家の規律がどんどん強まり、社会がぎすぎすし、自由で気楽な雰囲気が失われようとしているのは、とても悲しいことだ。舌鋒鋭い著者の預言にたじろぎながら、ぼくはそんなことを感じてしまう。だが、時代はすでにそう甘くなくなっているのかもしれない。

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西部邁『保守の遺言』を読む(4) [本]

 ようやく最後の章にたどりついた。
 戦後日本を動かしてきたのはアメリカニズムだ。著者は保守の立場から、そのアメリカニズムを批判する。
 奇妙なことに戦後日本では、アメリカを支持する側が「保守」、ソ連を支持する側が「革新」と呼ばれてきた。「革新」はもちろん虚妄だったが、著者にいわせれば「保守」もけっしてほんらいの保守ではなく、アメリカニズムに毒されていたのだった。
 保守とは共同体の歴史と伝統を維持しようという者をいう。したがって、そもそもアメリカニズムと鋭く対立するのである。
 アメリカニズムとは何か。それは、ひとつにモダニズムである。「最新のモデル(模型)」を「大量のモード(流行)」として流すやり方。次にレフティズム(左翼主義)。すなわち、歴史と伝統を破壊しつづけるやり方。さらにラショナリズム(合理主義)。すなわち形式化と数量化。言い換えれば技術主義の支配。そしてマスクラシー(衆愚政治)。すなわち民主主義という名のもとでの、世論の風向きによる政治。
 こうした要素からなるアメリカニズムが、戦後日本を毒してきた、と著者はいう。
 著者はさらに現在の商品社会にもふれる。商品(コモディティ)とは、市場で取引される財やサーヴィスを指すが、それはもともと「だれにとっても共通するもの」という意味だったという。その商品はひたすらコンヴィニエンス(便利さ)を求めて、次々つくりだされる。それはたしかに短期的には便利なものかもしれないが、長期的には「社会制度を混乱させたり公共性の規準を破壊したり」する事態を招く。
 商品の世界では、つねにイノヴェーションが進行している。次々と便利さを求めて刷新される商品が、貨幣を通じて大量に消費されるのは避けがたい。だが、こうしたマスの行動が社会秩序を破壊し、ひいては世界秩序を混乱させ、紛争や戦争を招くのだ、と著者はいう。金融市場がバブルとその崩壊をくり返すのも、イノヴェーションにともなう拝金主義のせいである。
 こうしたなかで、国家の役割は欠かせない。というのも、危機にさいして対応できるのは国家しかないからである。現在の企業は拝金主義に傾き、イノヴェーションを追求するあまりに、被雇用者をないがしろにすることもいとわない。投機や詐欺、社会的格差の拡大も、こうした企業の行動と無関係ではない。イノヴェーションによる社会秩序の劣化(その象徴がIT)がいつまでも許されていいわけがない、と著者はいう。
 資本主義に歯止めをかけなくてはならない。私有財産はもちろん認めるべきだが、それには一定の枠がはめられてしかるべきだ。所得税や固定資産税、財産税を強化するのも、そのひとつの方策だ。資本分配率が高すぎないように、政府が企業統治に関与することも検討されてよいという。
 シュムペーターによれば、イノヴェーションが生じるのは、商品、技術、販路、資源、経営の分野においてであり、それらを結合することによって、資本家は利潤と資本蓄積の最大化をめざすとされる。そうしたイノヴェーションが求められるなか、資本は国境を越え、グローバルに拡大していく。資本と資金の野放図な動きに国家が規制をかけ、社会を保護するのはとうぜんのことだ、と著者は考えている。
 資本家は日々、資産を増やすことだけを目的として生きている。そこに働いているのは、いわば「支配欲動」である。この支配欲動のもとで、労働者は資本家の意思のままに動かされ、ロボットやサイボーグと化す。それでも人間は自己意識を捨てることなどできず、資本家の仕打ちに不快や不満、反発を覚えるだろう。
 とはいえ、労働者集団が企業を支配するのは不可能である。そうなれば絶え間ない内部紛争が生じて、拠って立つ企業そのものが分解してしまうからである。そこで、実際には、資本家が懸命に企業の運営と拡大をめざすのと同様に、労働者もみずからを企業と一体化する傾向が生じる。この傾向を著者は勤労主義と呼んでいる。
 資本の拡大に向かって突き進む企業活動が寄り集まると、ついには経済の膨満と破裂に行き着く。これにたいし、計画経済を対置しても、中央政府による指令はきわめて硬直したものとなり、経済の活力を奪ってしまうことになる。したがって「有効なのは資本主義を中心におきつつも、それにたいして様々なレギュレーション(規制)をかけるということのみであろう」と、著者はいう。
 問題は資本主義の市場経済が、個人主義を表現する見本としての近代経済学によって席巻されてしまっていることだ、とも述べている。個人主義を玉条とする資本主義を政府は規制しなければならない、と著者は主張する。
 それは経済のゆるやかな規制にとどまらず、いわば経済統制の次元に達しているとみるべきだろう。というのも、著者は国民社会主義、刺激的に言い換えればナチズムだけが未来に可能な国家像だと主張しているからである。ただし、ヒトラーやムッソリーニのようなデマゴーグ独裁者を著者が認めているわけではない。
 著者によれば、国家とは「国民性にもとづく政府制度」を指している。国家は対外的には独立自尊をめざし、対内的には公共性の保全をめざす。そのことを踏まえていれば、ナショナリズムや国家主義が危険だという言説に惑わされることはないという。
 国家の将来は、世界共和国や世界連邦主義などではない、と著者はいう。「開かれた国家」と「多様な地域」こそが、国家の将来ヴィジョンであって、これに経済体制として国民社会主義が加わる。
 国民社会主義が重視するのは公共性の強化である。日本は巨大な資産を使い、主として食糧とエネルギーの自給度向上と都市住環境の再整備を中心として、さまざまなプロジェクトを立ち上げるべきだ、と著者はいう。
 財政赤字は現段階では恐れるに足りない。高齢化や格差是正のために社会保障費がさらに必要になるとしても、それによって社会的安定が確保されるのであれば、それは未来世代にも寄与することになる。
 土木建築に資金をつぎ込むことだけが能ではない。国家の強靱化をめざすことこそが、財政投資の目的である。
 消費税であれ、所得税であれ、法人税であれ、いずれ税金を上げていくのはとうぜんの措置だ。しかし、法人税を下げる必要はない。資本輸出に関する規制はもっと強化すべきだ、と著者は述べている。
 マスクラシーとキャピタリズムが現代社会を支配している、と著者は嘆く。要するに数とカネの世界だ。まさに文暗の時代だという。
 とはいえ、ニヒリズムに陥る一歩手前で踏みとどまらなくてはならない。「字義通りに懸命に生きて、時至ればこれまた字義通りに懸命に死ぬという生き方」をつらぬく以外にないのだ。
 日本人はみずからアメリカニズム、さらにはその深層としての近代主義を選び取ることによって、伝統を失おうとしている。生産者と消費者、インテリとマスは、進歩主義において共犯関係にある。マス社会には逃げ道がない、と著者は感じている。
 最後に著者はみずからの絶望を救い、堕落からはいあがらせてくれたのが妻の存在であったと述べている。「日常性のただなかで生き、日常の仕事を休みなくこなし、そしてごく日常的な形で骨(こつ)に変じていく女たちの、いわば『物たる者』としての存在論的な重みというものに僕は感銘を覚えずにはおられない」。このあたり感動を覚えないわけにはいかない。
 しょせんは無常である。しかし、無常のなかで恒常を保ちながら生死する以外にない、というのが、本書のしめくくりとなっている。

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西部邁『保守の遺言』を読む(3) [本]

 第3章にはいる。
 ここでの主張もおもに核武装論と経済統制論(国民社会主義論)にあてられているといってよい。その根幹にある考えは、アメリカの支配からの独立だ。独自の国防軍と核武装化、自立した経済体制がそれを可能にするとしている。
 まず、核武装論についてみておこう。
 いま日本人は「アメリカに首根っこを押さえつけられて侵略に加担させられ、中国の侵略に黙って屈従し、北朝鮮の恫喝にただ身をふるわせて戦(おのの)いている」と、著者は嘆いている。
 トランプ政権のアメリカ・ファーストの考え方は、アメリカが孤立主義に向かう方向を示しているが、国際的にみれば、それは実際にはありえないことだ。アメリカの侵略的姿勢はこれからもつづくだろう、と著者はいう。とはいえ、アメリカは今後、「世界から徐々に撤退しつつ内部抗争を漸進的に激化させていく」可能性が強い。
 トランプ政権が行き当たりばったりの外交と内政を展開するのは目にみえている、と著者はいう。国家とは「国民とその政府」を意味するが、国民を代表する政府は国際的には戦争を含めた外交を担い、覇権的性格をもつ。トランプ政権は国際的な覇権を手放すわけではないものの、現状維持にこだわるだろう。世界は一極体制から多極体制に移行している。そのなかで、日本はいつまでアメリカ追随をつづけるのだろう、と著者は論じる。
 多極化の時代がはじまっている。日米同盟は虚構になっていくだろう。というより、このままでは日本は侵略的なアメリカの補完勢力になってしまいそうだ。
 日本はアメリカの「核の傘」なるものを信じこんでいる。だが、北朝鮮まで核を保有するなか、日本ははたしてアメリカの破れ傘に安住したままでいいのだろうか。
 多極化する世界のなかで、日本がこれから生き残るには、米中露3大国を相手に合従連衡の外交戦を展開するほかない。「武力と言葉」を巧みにつかいこなさなければならない。力をともなわない外交は無力だ。国際的に存在感をもつためにも日本は自衛の態勢を整え、核武装をしなければならない、と著者は主張する。
 日本が核をもつのは、核戦争をするためではない。核を「報復核」としてしか用いないと宣言することで、ほんとうの意味での戦争抑止力が生まれる。現在の「核の傘」は、日本を保護領にとどめようとするアメリカのくわだてにほかならないというのが、著者の見方である。
 自衛隊という交戦可能な戦力を認めない現憲法は憲法の名に値しないとも述べている。憲法を変えなくてはならない。国防軍を明記すること。その目的は自衛であって、けっして侵略ではない。ただし、国際情勢に応じて、自衛のための「海外派兵」はおおいにありうる、と著者はいう。
 領土に関しては、そもそも固定した領土など存在しないと理解すべきである。その範囲は戦争と施政の結果によって決まってくる。「領土は戦争の勝利で取り戻す」ものという国際社会の冷厳たる事実を直視しなければならない。
 著者は、すでに世界大戦の前哨戦がはじまっているとみている。戦争は非常事態といえるが、現行の憲法には非常事態の規定がない。憲法の一時停止を可能にする非常大権を首相に与えるべきだとも述べている。
 著者の主張をうまくまとめられたかどうかは別として、ここまで書き写してきて思うのは、息苦しい時代になってきたなということである。まるで戦前が戻ってきたようにも感じる。いや、核武装までするというのだから、ウルトラ戦前体制の出現である。
 核武装しなければ国が守れないというのは、北朝鮮とおなじ理屈である。これに応じて日本が核武装すべきだということになれば、韓国も台湾もベトナムも核武装したほうがいいということになるだろう。そうなれば、核の海はますます広がっていく。それではたしていいのだろうか。
 現行の安保体制下では、日本はアメリカに追随せざるをえず、そこから脱却するにも核を保有しなければならない、と著者は主張する。ここがユニークなところだ。いや、あるいはそうではなくて、こうした主張を岸信介や清水幾太郎もしていたようにも思う。
 日本がふたたび世界をリードする大国になる。中国が世界の大国になるなど許しがたい。政治家にかぎらず、国民のなかにも、そういう気持ちは強いのかもしれないと想像したりもする。しかし、国中心の思想は超えられないものなのだろうか。
 この世は食うか食われるか。そんな甘いことをいっているからだめなのだという声が聞こえてきそうである。ここでも反論はできそうにない。ため息をつくしかない。それでも核爆弾だらけの世界が広がっていくのを、何とかして防ぐ手立てはないのか、日本までもが核武装してしまったらこの世はおしまいではないかという気持ちが、ぼくには強い。
 ここで、気をとりなおして、著者のアメリカニズム批判にも触れておくことにしよう。
 著者によれば、アメリカニズムとはアメリカに由来する風潮であり、それはむきだしの熱狂、技術信仰、拝金主義を特徴としている。まさにインモラル(不道徳)な力がアメリカニズムを支えているという。
 アメリカニズムに冒された現代人は「おおむね実際主義を旨として、経済的利得や政治的権力や文化的栄誉にありつくべく、我欲丸出しで生きそして虚無のうちに死んでいる」と、著者は断言している。実際主義者がこの世を破壊し、「文明の冬」をもたらしているのは、近代の大いなる皮肉だとも述べている。
 アメリカニズムはとりわけマネーフェティシズムにふける傾向がある。人びとは流行の商品に取り憑かれ、みずからの精神を市場の動きにあわせ、人間の商品化もいとわず、その結果、伝統ある共同体をみずから掘り崩すことになる。技術貨幣的文明に惑わされてはならない、と著者は訴える。
 しかし、そもそもアメリカニズムのもとには近代主義がある。近代主義とは何か。歴史と伝統を捨て去ること、人を神とみなすこと、ヒューマニズムを礼賛すること、サイエンティシズム(科学主義)、事実こそすべてと考えることだ、と著者はいう。そこには人間の不完全性への自覚などまるでない。
 おのれの不完全性を自覚せず、独創性と称して、マスの群れをたぶらかし、新奇なもの、イノヴェーションに走るのが近代人なのだ、と著者はいう。そうした近代人の行動が未来への展望をあやうくし、人間の心身ばかりか自然をも破壊し、社会秩序を瓦解に追いこんでいく、と著者は指摘する。

〈イノヴェーションの枝葉が『鬱』となり、つまり異様に繁茂しすぎ、そのせいで現代人の気分が鬱屈さらには鬱陶しくなり、それで身動きがとれなくなる結果、物質・技術の繁栄の頂点において人々が深いメランコリーにとらわれている。〉

 近代化とは「物事をすべて模型化し、それを社会の流行となす」ことだという。近代化が進むにつれて、人間は人倫を失っていった。
 もういっぽうで進展したのが大衆化、正確にはマス化である。大衆にはまだ一般庶民というニュアンスがあるが、マス化はそうではない。よく大衆社会と誤訳されるマス社会では、新奇さやイノヴェーションによって、大量にまき散らされる商品、あるいは言説に人々が右往左往する状態が日常となる。その意味で、マス化は俗悪化以外のなにものでもない。マス化によって、日本人はジャパニーズに変質し、それによって日本では無国籍文明が生まれてしまった。高度情報技術社会の未来には絶望しかない、と著者は断言している。
 資本主義経済はすでに長期停滞におちいっている。そんななかで、規制緩和やイノヴェーションを叫んだところでむなしい。だいじなのは国家が社会秩序を維持することだ。国家に求められているのは、文明を破壊するイノヴェーションに加担することではなく、共同体の伝統と慣習を守ることだ、と著者は主張する。
 国家が保護主義をとるのはとうぜんのことだとも書いている。秩序なき自由は社会に危機をもたらす。自由主義は社会格差を拡大し、民主主義は政治の不安定性さを増大させるのだ。保護主義とは鎖国のことではない。「国家の長期路線を守るための秩序形成」が目的なのだ。伝統と文化を維持するためには、国家の保護が欠かせない、と著者は断言している。
 こうした著者の主張は、一種の経済統制へつながるといってもよいだろう。もし著者のいうように、すでに世界大戦への前哨戦がはじまっているとするなら、反アメリカニズム、反近代主義にもとづく経済統制は、戦前に似た軍事優先の総力戦体制をとるはずである。いや、アメリカの干渉を排除するところからはじまって、戦前以上にナショナリスティックな経済体制となるのではないか。はたして、それが望ましいものなのかどうか。ぼくとしては、ごめんこうむりたいところである。
 最後に著者の近代主義批判をみていく。

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西部邁『保守の遺言』を読む(2) [本]

 第2章は断章からなる。
 いまは世も末だ、と著者は感じている。
 電車に乗ると、客の8割がスマホとやらをいじり、時間つぶしに興じている。沈思黙考したり、人と真剣に対話したりしない現代人。かれらは、まさにスマホに精神を乗っ取られ、ちいさな砂粒のように生きている、と著者は嘆く。
 選挙権を18歳に引き下げるのも反対だ。いまは幼稚化の時代。むしろ30歳くらいまで引き上げたほうがいいのではないかという。国のあり方について、まじめに考えている人は少ない。立候補者も2世、3世議員かテレビ・タレント、えせ学者ときている。そこでくり広げられる人気投票などに付き合う必要などないと考える人が多くなるのも、もっともなこと。世論はあてどもなくシーソーのように揺れる。それが主権在民の実態なのだ、と著者はいう。
 いのちがだいじだ、などと言われるとむかつくとも書いている。自分が生かされている、などと聞かされると、むしずが走るという。人がみずからの精神を保てなくなる状態が近づいてくれば、自裁する準備をし、実行するまでだ。いのちを無条件に礼賛する現代の風潮はおかしい。死の選択の議論があってもいい、と著者はいう。
 現行の憲法を楯にとって「非武装・不交戦」を唱える平和主義者は、臆病者にして卑怯者だ、と著者は怒る。いちばんだいじな国を守ることを無視して、もうけ話やグルメ話、健康話にふける日本人はまさに幼稚であり、それ以前に気概がないといわねばならない。
 いまはバラバラのマスの時代である。大量生産される商品の回りに群がるマス、選挙に集まるマスが流行に合わせて、浮かんでは消えていく。人気主義(ポピュリズムならぬポピュラリズム)が政治も経済もだめにしている。多数派の人気がすべてを左右する愚かな現代文明は、不治の狂気におちいっている、と著者は断言する。
 戦前と同じく、いやそれ以上に、エロ・グロ・ナンセンスとダダイズム(既成秩序への反発)が、いまの世をおおっている。そうした左翼・右翼の軽挙妄動に対抗するには「伝統の保守」の立場をとる以外にない、と著者は強調する。
 ビジネスマンとは「多忙人」のことであり、会社に閉じこめられて心を亡くした人のことだ、と著者はいう。かれらは自分を大きくみせる「夜郎自大」のやからで、話といえば、カネか異性、品物のことばかり。チェスタトンのいうとおり、この世は悪党階級と阿呆階級と狂人階級が支配している。そういう連中から距離をおくことがだいじだというわけだ。
 無礼なやつが多いのにも困ったものだ。そういうやつらにかぎって、戦争と聞いただけで怯える臆病な連中ときている。物書き人種の数少ない特権は「不快な出来事を書くことによって忘れることができる」ということだ。とはいえ、なにがしかいやな記憶が残るには困ったものだ、と著者はいう。
 憲法は慣習にもとづく不文法がのぞましいのであって、無理やりつくった、あるいは押しつけられた憲法はしっくりこないものだ、と著者はいう。ところが、それを金科玉条のようにして、改憲すらまかりならぬというやからが多いのは困ったものだ。いまこそ憲法制定議会を開き、コモンセンスにもとづく新たな憲法を制定すべきだ、と著者はいう。
 そして、いまはメディアが世界を覆いつくしている。メディアを飛び交っていることばは、レッテル貼りにも似た、きわめて皮相な政治的分類にほかならない。連日、ありきたりのオピニオンが飛び交っているメディアは、一種のお茶の間エンタメ劇場のようなものである。まさに、この世は末法だと思わざるをえない、と著者は述べている。
 読んでいると、だんだんこちらも絶望的な気分になってくるから不思議なものだ。
 久しぶりに鶴田浩二の歌を思いだす。生まれた土地は荒れ放題、いまの世の中、右も左も真っ暗闇じゃござんせんか。
 それでも、ぼくはいなかから東京に出てきたときの自由な気分がどこか忘れられず、やっぱりいまさら保守に針路を変えられないなと思ったりもするのである。反論にはなっていないけれど……。

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西部邁『保守の遺言』を読む(1) [本]

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 西部邁最後の著書だ。そのあとがきは1月21日に自決する6日前に書かれている。「保守」の立場からみた状況への発言といってよいだろう。日本の世相への怒りがぶちまけられている。
 以下、少しずつ、できるだけさらりと読んでみたい。ややこしいリクツにはあまり立ち入らないようにしよう。
 最初に、著者はこれまで選挙で投票に行ったことなんかないと書いている。一票の重みなどなきが等しきものである。なぜ、わざわざ人気投票みたいなものに出向かなければならないのか。
 といって、著者は政治に無関心なわけではない。むしろ関心が強すぎるほどだ。しっかりした主張ももっている。投票を権利ではなく義務にすべきだとさえ思っている。ただ、いまの選挙のやり方が気にくわないのだ。
 選挙区をもっとちいさくし、選挙人が政治のあり方についてたがいに議論して、代理人を選ぶ。そして、その代理人がまた集まって、さらなる代理人を選ぶようにして、最後に議員を選出する。そのようなやり方のほうが、政治への親密感がわくはずだというのだ。
 投票はあくまでも便宜的に代表者を選ぶ手段にすぎない。著者にいわせれば、いまの選挙はしょせんドタバタ劇であって、ほんとうに有能な議員が選ばれているか、はなはだあやしいものがある。
 まず民主主義なるものを疑うべきだ、と著者はいう。デモクラシーを民主主義と訳すのはあやまりで、民衆政治と呼ぶのがただしい。
 民衆政治は衆愚政治と紙一重だ。古代アテネの顚末をみてもわかるように、「デモクラシーは、独裁者をもたらすかもしくは衆愚のポピュラリティ(人気)にほぼ完全に左右される」。
 いまの日本の政治はどうなのか。民衆を主権者と呼び、民主主義なるものを絶賛するなど、ちゃんちゃらおかしい。崇高さなどどこにも見られない。
 そもそもおかしいのが憲法だ。一人前の国家なら国防軍をもつのはとうぜんのことだ。それを認めないのはどうかしている。アメリカの間違った指揮に従わないためにも、日本は強力な軍隊をもつとともに核武装を推し進めなければならない、と著者はいう。
 普通選挙にもとづく代議制は認めるべきだが、主権は国民に存するといった表現は改められねばならない。
 基本的人権が認められるのは、あくまでも公共の秩序が守られるかぎりにおいてである。テレビなどでみられる政治のドンチャン騒ぎは、おもしろおかしい人気取りショーで、あまりに愚劣だ、と著者は嘆く。
 日本のリベラリズムは「反権力と弱者保護」をうたうが、そこには欺瞞と偽善の臭いを感じずにはおられない、と著者はいう。野党のリベラリズムは権力を求める方便にすぎない。また過度の社会保障が社会の活力を奪うことは目にみえている。
 西欧の自由は、ほんらい神のもとでの自由を意味し、自由意思にもとづく行動には神の審判がともなう。けっして勝手気ままということではない。伝統の尊重があってこその自由なのだ。
 社会秩序はモラルと法にもとづく支配と服従によって成り立っている。社会秩序を無視した「個人の自由」などはありえない。社会保障の目的は弱者を保護すること自体にあるのではなく、あくまでも社会秩序を守り、社会の活力を維持することにある。「過剰な平等」も「過剰な格差」も避けられなければならない、と著者はいう。
 自由民主主義という価値観は虚妄だ、と著者は断言する。重要なのは公正な社会秩序であり、衆愚政治を避ける知恵なのだ。
 また国家を維持するためには、国家間の「友好と敵対」のバランスを巧みにとりつづける外交の実践術が必要になってくるという。ヒューマニズム(人道主義)やパシフィズム(平和主義)などの空語にふりまわされてはいけない。
 人がパトリオティズム(祖国愛)をもつのはいわば宿命である。とくにアメリカと北朝鮮の関係が瀬戸際にあり、いつ戦争が起きてもおかしくないいま、わが国が戦争に備えるのはとうぜんだ、と著者はいう。アメリカの「核の傘」などあてにならない。
 大韓航空の爆破事件や拉致問題をはじめとして北朝鮮の侵略性はあきらかなのに、その国が核武装したとなれば、それはたしかにゆゆしき問題である。
 しかし、それ以上に大問題なのは、世界でもっとも侵略的な国家がアメリカということなのだ、と著者はいう。
 日本は戦後、宗主国アメリカに従属し、伝統を奪われてきた。自尊と自立のない国は空無と屈辱におちいるほかない。そのことが日本人の誇りを奪っているのだ。
 日本が自尊と自立を取り戻すためには、国防軍を創設し、核武装しなければならない、と著者は訴える。実力なき言葉だけの外交が無力なのは、けっきょく現在の外交がアメリカ追随におちいっていることをみてもわかる。
 もちろん著者が原子力発電の廃棄などに賛同しないのはいうまでもないだろう。
 こうしてみると、著者の主張はぼくなどのぼんやり思うことと、かなり食いちがっている。
 ばくぜんと感じるのは、いまや日本が戦時体制にはいりつつあるということ。息苦しささえおぼえるほどだ。
 戦後日本のよさは、アメリカなどとちがって、戦争をしない国というところにあったのではないか。それがだんだんと失われつつある。
 もうひとつのよさ。それは、ふつうの人が国からの圧迫を受けずに、節度を守りながら、自由に気楽に暮らしていける社会、不幸や病気や災害など困ったことがあれば、国やまわりの人が助けてくれる社会。そうした社会を日本はめざしていたはずなのだ。
 いまはまた国家が強くなりはじめている。国家の規律がどんどん強まり、社会がぎすぎすし、自由で気楽な雰囲気が失われようとしているのは、とても悲しい。
 舌鋒鋭い著者の主張にたじろぎながら、ぼくなどが感じるのはそんなことだ。とても反論にはなっていないけれど……。


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