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レヴィンソン『例外時代』(まとめ) [本]

   1 短かった黄金時代

 20世紀後半の経済史だ。
 著者のマルク・レヴィンソンはこの時代を、はっきりふたつに分けている。
 第一期が「世界の多くの地域で異常なほどの好景気が見られた時期」。第二期は経済成長が失速し、「繁栄のぬくもりが冷たい不安感に取って代わられた」時期。その分水嶺となったのが1973年、石油ショックの年だ。
 第一期は「黄金時代」だった。しかし、それは長くつづかない。

〈時代の流れを見れば、黄金時代はごく短いものだった。瓦礫だらけの世界から花開いて四半世紀も経たないうちに、着実に改善していく生活水準と誰もが仕事を手に入れられるという想像を絶するほどの繁栄の真っただ中で、その時代は突然に終わりを迎えたのだ。……あの長い好景気は、二度と訪れることのない一度限りの出来事だったのかもしれない。〉

 戦後直後の四半世紀、日本がいわゆる高度成長期を迎えたころ、世界経済も着実に発展していた。だが、それは経済史のうえでは「例外時代」であって、黄金時代は長くつづかない。その後はジェットコースターのように激しくゆれ動く通常の経済が再開された、と著者はみているようだ。
 1945年から1970年代初頭までは、歴史上もっとも驚異的な経済発展が生じた時代だった。この時代に人びとの生活水準は大きく上昇した。
 戦後直後は、戦争で経済が疲弊しきったなかで、だれも経済の奇跡がおこるなどとは思っていなかった。平和が訪れたとき、まず求められたのは福祉だった。1945年から46年にかけ、イギリスでは子ども手当や失業保険、老齢年金、寡婦補助金、国民健康保険などが導入された。こうした動きは各国に広がっていく。
 ヨーロッパ諸国や日本で、復興は困難をきわめた。日本では空襲により製鉄所や化学工場が壊滅していた。だが、幸いにも鉄道や発電所は残っていた。道路や橋を再建し、農業生産力を回復させるなど、やるべき仕事はいくらでもあった。
 問題は資金が足りなかったことだ。工場再建に必要な機材や、国民のための食料を輸入することもできなかったのだ。
 ヨーロッパでもアジアでも、共産党の勢いが強くなっていた。これに警戒を強めたアメリカは、1948年、ヨーロッパにマーシャル・プランを導入し、ヨーロッパの経済再建を支援した。同様に、日本の経済復興にも手を貸すようになった。
 1948年の世界は近代的とはいいがたかった、と著者は書いている。アメリカで高校を卒業する若者は半分にも満たなかったし、黒人にたいする人種隔離政策もつづいていた。日本人は狭い住宅でくらしていた。フランスで冷蔵庫を所有するのは30世帯に1世帯の割合。田を耕すのも、工場ではたらくのも、家事をこなすのも、すべて肉体仕事だった。
 世界経済が好調に転じるのは1950年の朝鮮戦争以降となる。軍関係の発注が経済を刺激した。工場が従業員を雇い入れると、従業員もものを買うようになり、商品やサービスの需要が増えていった。
 日本の経済規模は1948年から73年にかけて6倍に、西ドイツも4倍になった。フランスも西ドイツほどではないにせよ、経済が大きく拡大した。
 アメリカでもイギリスでも、この25年間に住宅が増え、多くの庶民がマイホームを獲得した。ローマでは自転車がスクーターに変わり、さらに2人乗りの自動車に変わった。
 1960年ごろには失業率も低くなる。アメリカ南部では新しい綿摘み機によって、多くの労働者が失業においやられた。だが、すぐにデトロイトやシカゴの工場が労働者を受け入れ、南部から中部への人口「大移動」が生じる。
 年金の支給により、人びとは65歳くらいで退職できるようになり、子どもたちは親の扶養義務をまぬかれるようになった。
 著者は、こうした好景気の原因を、長年の緊縮経済によって閉じこめられていた需要と投資が一挙に解放されたためだとみている。
 技術変化も大きい。蒸気機関に代わって電気モーターが主流になると、工場も立て替えをはからねばならなかった。
 加えてベビーブームにより、新しい住居や家具、衣服が必要になった。
 国際交渉によって、輸入関税が切り下げられ、貿易が拡大していった。
 生産性の驚異的な伸びも指摘される。産業は農業から工業へと大きく転換した。新鋭設備を整えた工場が農村出身の労働者を雇い入れていく。新しい設備にたいする需要が膨らむと、機械への需要が増え、人手も必要になる。日本の製造業労働人口は1955年の690万人から1970年の1350万人へと拡大した。
 1950年代には高速道路の建設もはじまる。高速道路によって、1日に運べる商品の距離が長くなり、交通運輸関係の生産性は劇的に増大する。より安い陸上輸送は商品の販売地域を拡大した。それにより、手作業の小さな工場より「多くの商品をより安く生産する大規模工場」が圧倒的優位に立った。
 1948年から1973年のあいだに、1時間の労働による平均生産量は、北米では約2倍、ヨーロッパでは3倍、日本では4倍になった。これを支えたのは技術進歩と資本設備投資である。加えて、教育が大きな役割を果たした。
 この時期の特徴は、技術進歩が労働者を置き去りにしなかったことだ、と著者は書いている。

〈戦後の世界では、成功したのは富裕層だけではなかった。農業従事者や路上清掃員も、給料袋が厚くなっていくのを年々感じていた。組合は工員のために昇給と福利厚生だけでなく、雇用の確保も勝ち取った。法律や労働契約のため、雇用主が不要になった従業員を放り出すのがどんどん難しくなっていったのだ。状況は誰にとっても改善していた。〉

 保守政党も福祉国家を後押ししていた。「保守派の指導者は誰一人として、政府が経済における責任を放棄して市場に状況を支配させるべきだという考えに同調しなかった」
 さらに、著者はこの四半世紀の好景気が、資本主義そのものの元気さによるものではなく、慎重な経済計画によるものだったと指摘する。
 日本では、通産省が輸出入や企業の新工場計画、外国特許の許諾を統制していた。フランスでは政府が自動車工場や製鉄所の計画を立てていた。完全雇用の確保も政府の責任とされていた。そのためには赤字財政支出もやむをえないと考えられるようになった。こうして、政府が経済発展を支える体制がつくられていったのだ。
 問題はそれがごくわずかな期間しかつづかなかったことだ。

   2 国家への期待

 戦後の特徴は、経済にたいする国家の役割が大きくなったことかもしれない。政府は歳出や税、金利を調整することで、市場経済の手綱をさばけるという考え方が強くなっていった。
 著者によると、たとえば、西ドイツの蔵相カール・シラーは、経済の大枠は政府が計画し、企業は市場の枠で、それぞれ事業判断をおこなうものと考えていた。経済にたいする政府の目標は、市場経済のもとで、高い雇用率と着実な成長、安定した価格、国際貿易と投資の均衡を保つことに置かれていた。
 1967年に、西ドイツ政府は今後5年間の目標として、平均4%の経済成長率、0.8%の失業率、1%のインフレ率、1%の経常黒字をかかげた。それをめざすための政策が総動員された。だが、経済は政府の思うままに進まなかった。貿易黒字は増えすぎ、インフレが進み、労働組合のストが頻発した。1972年、シラーは蔵相を辞任する。
 政府の思わくどおりに経済が進むことは、まずないとみてよいだろう。そこには市場独自の力がはたらくからである。
 戦後、アフリカ、アジア、中南米の新興国でも、国家の役割がおおいに期待されていた。開発途上国の特徴は、国が上からの急速な産業化を実施しようとすることである。農業中心の貧困経済から脱出することが目的だった。そのために、開発途上国では国家統制が経済政策の中心となった。
 開発途上国の商品は、1種類か2種類に特化していた。たとえばアルゼンチンなら牛肉と小麦、ブラジルならコーヒー、チリなら銅というように。だが、その経営はたいてい海外資本によって握られており、世界市況は景気の波により大きく変動した。
 著者はアルゼンチン出身のラウル・プレビッシュという人物に焦点をあてている。プレビッシュは1949年にキューバのハバナで開かれたラテンアメリカ経済連合体(ECLA)の会議で演説し、自由貿易の原理を批判した。中南米の貧困の根本原因は不公平な貿易にあり、巨大な工業国が得ている莫大な利益は周辺国に届いていないと訴えたのだ。
 発展途上国の力を強め、不公平な(言い換えればあまりにも低価格な)輸出商品価格を是正することが求められた。加えてプレビッシュは、政府が主導して製造分野を開拓し、特定の輸入製品を国産製品で置き換える「輸入代替」政策をとることで、新興国の自立をはかるべきだと提言した。
 この提言は1955年4月にインドネシアのバンドンで開かれたアジア・アフリカ会議でも受け入れられることになった。このとき、資本主義とも社会主義ともことなる「第三世界」という区分が生まれた。
 原料価格を安定させながら、製造業を発展させていくというプレビッシュの考え方は、先進国の反発を招いた。というのも、先進国は開発途上国からできるだけ安い原料を手にいれるとともに、開発途上国にできるだけ多く自国製品を輸出したいと望んでいたからである。
 それが「開かれた自由市場」というもっともな主張に隠されていた、ほんらいの意図である。先進国は実際には高い貿易障壁をもうけて、開発途上国によるアクセスをはばもうとしていたのだ。
 だが、開発途上国側も黙ってはいなかった。
 先進国と開発途上国側の対立を調整するためつくられたのが「関税および貿易に関する国際協定(GATT)」と、国連貿易開発会議(UNCTAD)だ。
 開発途上国は、先進国に対抗するため、スズ、コーヒー、砂糖、油などの輸出商品について、カルテルを結び、価格を安定させようと努めるいっぽう、政府が銀行や船会社、航空会社をつくって、国内の雇用を確保しようと躍起になった。
 だが、それはなかなかうまくいかない。多くの開発途上国にとって、20世紀の第3四半期は、ほんとうにひどい時代だった、と著者は書いている。それは戦争や反乱、内戦、自然災害、飢餓の時代だった。それでも、穀物や鉱物への依存から脱却して産業化をとげようとした国も多い。ケニアやパキスタン、ボリビアもそうした国々の代表だ。
 国が主導する経済は、次第に腐敗と癒着を生んでいく。指導者の親族などが、もうかる独占企業を手に入れて巨万の富を築くのにたいし、農民はおきざりにされたまま貧困にあえいでいた。
 1960年から74年にかけては、先進国の好調な経済に支えられて、開発途上国でも、輸出食料品や輸出原料の価格が上昇し、それなりに経済がうるおった。ところが先進国の経済が1973年に破綻すると、原料にたいする世界需要が落ち込み、途上国ほんらいの姿があらわになる。政府が繁栄を保障し、全国民の生活水準を上げるという考えは幻想だった、と著者は論じている。
 ここで、場面は米国へと転じる。
 米国のニクソン大統領は経済にはあまり興味がなく、経済のことは連邦準備制度理事会(FRB)議長となるアーサー・バーンズ(コロンビア大学教授)にまかせきりだった、と著者は論じている。
 FRBは経済への資金の流れを締めたり緩めたりすることで、経済全体のパフォーマンスを調整する役割を担っている。FRBの役割をめぐっては大きな論争があった。失業率を抑えることを優先すべきだという考え方と、インフレ率を抑えることを優先すべきだという考え方である。ニクソンは両方を抑えてもらうことをバーンズに期待した。
 バーンズ自身は金融政策だけでインフレが収まるわけではないことを知っていた。実際、アメリカのインフレは1971年前半にすこし落ち着いただけで、ふたたび上昇しはじめる。
 だが、このことが1944年以来のブレトン・ウッズ体制の崩壊をもたらすことになる。ブレトン・ウッズ体制のもとでは、米ドルを基軸として為替レートが固定されていた(たとえば1ドル=360円というように)。加えて、海外で余ったドルを35ドル=1オンスの金(きん)でアメリカが引き取る約束になっていた。
 しかし、1968年段階で、すでにドルは海外にあふれており、実際に余ったドルを金に交換できる状況ではなくなっていた。1971年8月、ニクソンは金ドル交換の停止と、賃金・物価の90日間停止を発表した。これが、いわゆるニクソン・ショックである。
 金ドル交換の停止は為替レートの安定にはつながらなかった。金融市場にはむしろ混乱が広がった。そのため1971年終わりにスミソニアン協定が結ばれ、ほかの通貨にたいしドルを切り下げる(たとえば1ドル=308円)という弥縫策がとられた。
 そんななか、FRB議長のバーンズは金利引き下げに走る。1972年の大統領選挙を前に、ニクソンから経済に弾みをつけるよう求められていた。アメリカでは、インフレが多少進んでも、景気がよくなれば、それでかまわないという考えが主流だった。じっさい、アメリカでは金利引き下げによって失業率が下がり、ニクソンは楽々再選をはたした。
 ところが、安易な金融政策のつけがすぐに回ってくる。インフレは収まることなく、固定為替制度の崩壊を招くことになるのだ。




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瀘定橋、羅城鎮──今井駿『四川紀行』を読む(2) [本]

 著者は滞在する成都から、よく1泊2日か2泊3日の旅に出かけている。
 雅安は成都から南西に120キロ。成蔵公路(成都─チベット道)沿線の町だ。
 いまはどうかしらないが、1992年の時点ではバスで5時間以上かかった。丘の上を通る平坦な道を通り、最後に坂を下って雅安にはいる。
 江河(青衣江)が流れている。かつては前回に紹介した軍閥・劉文輝の支配下にあり、アヘンの集散地として悪名をとどろかせていた。
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[雅安。ウィキペディアから]
 外国人は中国の「旅館」に泊まれない。著者は外国人でも泊まれる「交通飯店」すなわち中国版のモーテルを確保してから街にでかけていった。もう夕方だ。
 町を一周してみる。解放広場に記念碑が立つくらいの変哲もない町だ。
 モーテルの夜は、隣の部屋のラジオやテレビの音がうるさくて、よく眠れなかった。それに次々と到着するトラックの騒音。さすがに、大声で話しまくる「無神経な」な中国人に腹が立ったと書いている。
 翌日は朝6時に起きて、バスに乗りこむ。雅安の雅称は雨城という。その名のとおり雨が降っている。朝食はバス停前のうどん屋で牛肉麺(ニューローミェン)。成都より3割方安い。
 著者がめざすのは、ここからさらに西の瀘定(ろてい)だ。オンボロのバスで確保できた座席は通路側。横にはいちゃいちゃするアベックが座っていた。しかも、男のほうがよくタバコを吸うので、うんざりする。
 バスはしばらく江河沿いに走り、それから丘にのぼってから盆地にくだった。隣のアベックのせいで景色はほとんど見えない。バスはまた山道をのぼりはじめる。大きな材木を積んだトラックとすれちがうたびに、ひやひやする。そして、2時間半走り、小さな橋を渡ったところで休憩。なんと2時間の大休憩だという。それには理由がある。ここから時間交代の一方通行になっているのだ。
 食堂と雑貨店があり、ここで昼食をとる。時間があるので、周辺をあちこち歩いてみる。車が数珠つなぎになっている。これから海抜3437メートルの二郎山(アルランシャン)の峠(峠の標高は3000メートル)を越えなければならない。
 周囲の低山は頂上まで畑になっている。トウモロコシや蔬菜、柑橘類などが植わっている。豊かな土壌とはいえない。こんな場所に猫の額ほどでも土地を開いて、営々と生きつづけてきた人たちの労苦と忍耐に感嘆する。
 若い農民がリヤカーにリンゴと柿を積んで売りにきた。著者は柿を3個ばかり買ってみたが、これがすべて渋柿。抗議したが、青年は「リンゴはどう?」とすすめるばかり。怒るのがばかばかしくなった。
 バスに戻った著者はふとしたきっかけで、隣のアベックと仲良くなる。これも旅の醍醐味というものだろう。
 二郎山の峠はたいへんな悪路だった。上るにつれ霧が濃くなり、前がほとんど見えなくなる。だが峠を越えると霧が晴れ、雪をいただいた大雪山系の山々、さらには奥のチベット高原につながる四、五千メートル級の山々が見えてくる。バスはここでしばし休憩。カメラを構える人もいる。
 夕方、バスは9時間かけて、ようやく瀘定についた。終点の康定に向かうアベックがニコニコ笑って、手を振ってくれる。なんだかうれしくなってきた。
 著者が遠路はるばる瀘定までやってきたのは目的があった。
 大渡河の瀘定橋を見るためである。1935年、長征中の紅軍は瀘定橋の戦闘で国民党軍に勝利した。それによって、毛沢東は窮地を脱し、四川省を抜けて、やがて陝西(せんせい)省に革命根拠地を築くことになる。
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[大渡河にかかる瀘定橋。ウィキペディアから]
 著者は紅軍がどのようにこの橋を攻略したのか、あれこれと想像をめぐらす。
『長征記』には、国民党の守備部隊が橋頭堡に火を放ち、紅軍兵士はその燃えさかる火をものともせずに敵陣に突入し、ついに対岸の瀘定県城の占領に成功したと書かれている。だが、実際に橋を前にすると、英雄的なストーリーに、どこかしっくりこないものを覚えた。
 まもなく薄暮が迫ってくる。詮索は中断。
 瀘定の宿は安かったが、例によって、大きなテレビの音と人の声に悩まされた。
 成都に帰ってからも、著者は瀘定橋の攻略について考えつづける。
 瀘定橋の戦闘は、エドガー・スノーの『中国の赤い星』にもえがかれている。
 だが、「スノーによって歴史に名を留めた瀘定橋の攻防戦の悲劇的・英雄的な一場面に立ってみると、いろいろな矛盾した問題に直面する」と、著者は書いている。紅軍が真剣に戦ったのはわかるが、はたして国民党軍にどれほど戦意があったのか、疑問がわく。反蒋介石派の軍閥・劉文輝がどんな動きをしたかも気になる。
 英雄的な長征史も、実際に現場に立つと再検証が必要だと思わざるを得ない。それは毛沢東正統史観も同様だ。
 いまでも中国では、共産党史観以外の歴史は受け入れられない。だが、旅はいやおうなく伝説となった歴史の検証をうながすのである。

 今回はもうひとつ著者が訪れた羅城鎮についても紹介しておこう。まずは楽山県に向かう。成都から南に130キロほど。1992年に著者が訪れたころはバスで8時間かかった。いまは高速道路もでき、1時間半ほどで着くらしい。
 楽山は岷江(みんこう)と大渡河の合流点の町で、楽山大仏で有名だ。
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[楽山大仏と市街。ウィキペデイアから]
 凌雲山の断崖に彫られた大仏を遊覧船に乗って眺めたり、大仏の足もとにある穴をくぐったりするのが、おすすめだという。
 例によって遊覧船の切符を買うのがひと苦労。著者はそれでもなんとか切符を確保し、河の合流点を真っ正面に望む地点に立つ大仏を眺めることができた。
 だが、著者の目的は観光ではない。川下の犍為(けんい)県に足を踏み入れてみることだった。翌朝、犍為県の羅城鎮(らじょうちん)に行くバスがあったので、それに乗りこんでみた。1時間半ほどで着く。
 ここはイスラム教徒が多い町だという。地図をみると、その街並みは舟の形をしていて、舳先(へさき)と艫(とも)があって、そのまんなかにアーケイド街のようなものがある。おもしろそうな町だ。
 著者によれば、こうだ。

〈この「アーケイド街」に入るまでに、すでに狭い路地に各種の商人が店を開いていた。肉(回民が多いから豚肉は扱われず牛肉か鶏肉であろう)、野菜、果物、薬草、壺や皿などの瀬戸物、包丁・釘・鋤などの金物、各種の食べ物、洋服や生地等々、あらゆる日常品が並んでいる。その前を人びとが肩をぶつけ合うようにして歩いている。物売りの呼び声、掛け合いの声、鶏の鳴き声などの喧噪と異様なほどの熱気があたりを包んでいる。〉

 アーケイドの屋根は竹の骨の上に小さな瓦を載せただけの簡単なものだった。そこには茶店もあって、人びとが何やら話をしている。ここまでの閑散とした田野のどこから、これほどの人がわき出るように出てきたか不思議でならなかったという。
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[羅城鎮。ウィキペディアから]
 帰りのバスは乗り継ぎがうまくいき、楽山でほとんど待たずに成都に帰ることができた。だが、そのなかが大騒ぎ。予約席に勝手に座る人もいる。人の荷物に腰掛ける人もいる。降りる人よりも乗る人のほうが多いので、立ち席は混むいっぽうだ。著者は車掌の女性の重労働をみて、「『社会主義市場経済』の繁栄の陰では、このような労働条件の悪化が心配されるのだ」との感想をもらしている。
 日本のテレビでは「イタリア・ちいさな村の物語」というような番組も放映されている。それと同じように、どうして「中国・ちいさな村の物語」のような番組がつくれないのだろうか。そもそも中国では、いまでも自由な報道が認められていないのだろう。いつか、そんな日が来ることを願いたい。
 旅はつづく。

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今井駿『四川紀行』を読む(1) [本]

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 出版社の友人からいただいた本。
 いつも不義理している。たまには読まなければ申し訳ないと思い、読みはじめている。まだ、ほんの少しだけ。
 略歴によると、著者は1942年生まれ。中国の近代史が専門で、静岡大学の名誉教授だ。汲古書院から『中国革命と対日抗戦』、『四川省と近代中国』という著書を出版している。
『四川省と近代中国』(サブタイトルは「軍閥割拠から抗日戦の大後方へ」)がおもしろそうだと思い、千葉県立図書館のデータベースを引いたら、その内容紹介にこうあった。

〈軍閥割拠体制=防区制の成立から発展・消滅の過程の概観、四川軍閥の搾取その他の四川社会に関する個別研究、日中戦争期を中心にした軍閥無き後の四川における地方行政の実態と新県制下の地方自治問題についての論考を収録。〉

 むずかしそうだが、ともかく著者が四川省近代史の専門家であることはまちがいない。
 驚くのはそのページ数で6695ページとある。めまいがした。
 でも、6695ページとはあまりにもへん。そこで国会図書館のデータベースにあたってみると695ページとわかり、ひと安心した。
 県立図書館のデータベースにも打ち間違いがある。それでも本体価格1万5000円というのは、いくら専門書とはいえ、ぼくらにはとても手がでない本だ。
 本書『四川紀行』は2014年に旧版がでている。あまり売れなかったらしい。それでも再チャレンジしようというこころざしが、いまどきすばらしい。中身はそのままとして、漢字のルビを増やし、若干注を加えて、版を改めてできたのが、2017年の新版、すなわち本書である。
 そのおもな中身は1992年夏の四川省のちいさな町めぐりといっていいだろう。それを中心に、1989年春の北京の様子、2001年夏の四川省再訪の記録がサンドイッチのようにはさまり、春夏秋冬の部に大別されている。季節が移り変わるのは、著者の心象風景をあらわしている。著者のなかでは、いま中国はどうやら冬の時代を迎えているようだ。
 この紀行の特徴は、日本のツアー旅行者があまり行きそうもないところを訪れていること、それから旅で出会った「中国のふつうの人たち」がえがかれていることである。
 四川省で著者が訪れるのは、大邑(だいゆう)、邛崍(きょうらい)、雅安(があん)、楽山(らくざん)、大足(だいそく)などの県、それに西昌、自貢などの市[中国では市は県に属していない]である。無教養なぼくが四川省で知っているのは成都くらい(重慶は直轄市で四川省に属さないらしい)だから、ちょっと情けない。
 だが、著者は日本人観光客にもおなじみの三峡下りもし、四川料理の案内もしてくれているから、これからツアーで四川を訪れる人にも、本書はおおいに役立つかもしれない。
 例によって、いいかげんなぱらぱら読みである。最初の「春」の部と、最後の「冬」の部は後回しにして、「夏」と「秋」の部から読みはじめる。

 まず著者が向かうのは大邑(だいゆう)県安仁(あんじん)鎮だ。鎮というのは日本でいえば村という感じだろう。
 成都から安仁鎮に行くには、まず大邑行きのバスに乗って2時間、そこから三輪車のタクシーに乗って、ようやくたどりつく。
 ここは軍閥、劉氏の出身地だ。劉湘(りゅうしょう、1890〜1938)は蒋介石に認められ、四川省を治める。いっぽう、その叔父にあたる劉文彩と劉文輝の兄弟は蒋介石と対立し、劉湘によって追放される。
 その劉文彩の屋敷の一角に「収租院」がある。収租院とは小作人が小作料を納める場所だ。そこが、いま博物館になっている。
 有名なのは収租院に並べられた一群の塑像だ。著者によれば「『解放』以前の地主の支配がいかに苛酷で冷酷かつ残忍なものであったか一目で分かる」ようになっているとか。文革時には数千万人の人がここに学習にやってきた。
 しかし、1992年に著者が訪れたときは、塑像はみなほこりをかぶっていた。
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[ヤフオクから。収租院塑像の写真集]
 劉文彩の屋敷は広大で、日本の大地主の家とくらべると格段の規模だという。弟の劉文輝が軍閥として台頭すると、劉文彩はその後ろ盾で徴税官になり、金を蓄えて「それを土地や商業(特にアヘンの密売)・金融業に投じてボロ儲けをした」。
 したがって、解放後は「階級闘争」を忘れないための格好の教材となった。いわゆる「憶苦思甜(おくくしてん)」運動のモデルだ。憶苦思甜とは、苦い過去を忘れず、現在の幸せを思うこと。
 その運動は無謀な「大躍進運動」の悲惨さをおおいかくすための、中国共産党の欺瞞策にすぎなかった。だが、「収租院のような大地主の支配と闘って、新中国が誕生したのも確か」だ、と著者はいう。
「改革・開放」以降、近年は収租院を訪れる人もまばらになっている。中国では、もう「階級闘争」の必要はなくなったというのが当局の見解だという。しかし、近年、貧富の格差はますます広がっている。
 いまはひっそりした収租院をおとずれ、現在の貧富の格差に思いを寄せるあたり、著者の風刺はなかなか鋭い。

 次に向かうのは邛崍(きょうらい)だ。
 成都から西に75キロにある郊外の町(中国の言い方では県)だ。
 著者がこの町にひかれたのは、成都の大衆雑誌で、「乞食博士」という一文をみたからだという。
 邛崍にある乞食がいた。博士だった。
 雑誌にはその経歴がえがかれていた。早稲田大学の「航空学部」で博士号を取得し、東京大学「音楽部」の日本人女性と恋におち、結婚する。だが、日中関係が険悪化するなかで、1937年に帰国し、故郷の邛崍で小学校の教師となった。
 かれはうつうつとした日を送るなかで、アヘンを吸うようになり、仕事もやめ、先祖伝来の土地も手放して、乞食になってしまった。そして、雨の日も風の日も、ぼろぼろのスーツを着て、県城のあたりで物乞いをしていたというのだ。
 この記事を雑誌に投稿したのは、邛崍中学の教師で、それはかれが子どものころにみた光景だという。日中戦争が終わったあと、博士の妻が子どもを連れて、邛崍県にやってきたとの記述もあった。
 そこで、がぜん興味をいだいた著者は、バスに乗って、この町にやってくる。
 街の外には南河という川が流れ、左手に回瀾塔という塔が立っていた。近くでみると、お世辞にも美しいとはいえない。明の時代に建てられた塔だ。
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[回瀾塔。ウィキペディアより]
 著者は最上層をめざして、ひたすら塔をのぼった。ようやく最上層にたどりつき、周囲を見渡すと、野菜や小麦の畑、南河などが「パッチワークのように美しく広がっていた」。
 乞食博士のことを思い浮かべた。博士というのは、おそらくウソだった。しかし、乞食博士は実在の人物だ。日中対立というような政治的要因がなければ、かれのような悲劇も生まれなかったのではないか。
 だが、そのうち「このような美しい情景のなかで要らぬ詮索をしている自分が恥ずかしく思われ」てきた。数人連れの青年たちが登ってきたのを潮時に、塔をあとにした、と書いている。
 乞食博士の消息はたどれなかった。それでも悲劇が物語として伝えられ、それに興味をひかれる自分がいることがだいじなのだ。
 旅はテレビなどではわからない、じかのふれあいと発見をもたらしてくれる。日本人も中国人もそれぞれの国を自由に旅することができれば、たがいにもっとおおらかになれるのではないか。日本人も中国人もそれぞれの国のことを、あまりにも情報としてしか知らされていないような気がする。
 国はだいじだ。だが、時に国をとっぱずしてみること、ふつうの人間の立場に立つこと。そのほうがずっと視野が広がると思う。
 本書をめくりながら、そんなことを感じた。
 旅はつづく。

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繁栄のあとで──レヴィンソン『例外時代』を読む(9) [本]

 第三世界にとって、1970年代はけっして悪い時代ではなかった、と著者は書いている。貧しい農村の家族が都会にでて、苦労の末に自宅を確保するまでになった。ブラジルのサンパウロには高層ビルが建ち並び、ジャカルタやカイロでも高速道路に車が走るようになった。
 このころ第三世界の成長を後押ししたのがオイルマネーだ。富裕国の銀行はありあまるオイルマネーを自国でこなしきれず、発展途上国にそそぎこんだ。世界銀行などの公的機関も発展途上国への融資額を引き上げた。そうした資金はほとんどが独裁的な政府に流れ、その運用は自由にまかされていた。
 発展途上国への外国からの融資は、1972年に170億ドル。それが1981年には4620億ドルに膨らんでいた。その資金によって、第三世界は発展した。
 ところが1980年代にはいると、どんちゃん騒ぎは終わりを迎える。債務の支払いが、発展途上国にのしかかったのだ。
 1982年3月にはメキシコが債務危機におちいる。メキシコでは対外債務が膨らみ、通貨ペソが暴落し、融資返済ができなくなっていた。それはほかの国々でも同じだった。
 発展途上国の債務不履行は、富裕国の金融機関に大きな打撃を与えた。不良債権が銀行の連鎖破綻を招く恐れもあった。それを何とか食い止めなければならなかった。
 スイスの国際決済銀行は、各国中央銀行への緊急融資パッケージをまとめた。アメリカ財務省は、メキシコがもちこたえられるよう、多くの資金をかきあつめた。メキシコがデフォルトを宣言しないよう時間稼ぎをするのが目的だった。その交渉窓口になったのが国際通貨基金(IMF)である。
 IMFは1944年に通貨安定のためにつくられた機関だ。それがいまメキシコの債務危機を防ぐために乗り出していた。IMFが融資を実施するにあたっては、厳しい条件が設けられていた。IMFの経済改革プログラムを受け入れなければならなかったのだ。メキシコはその条件を受け入れ、1年間の支払い猶予をかちとる。
 メキシコにつづいて、債務危機はブラジル、アルゼンチンにも広がった。アルゼンチンの軍事政権は借りた金のほとんどを武器や飛行機につぎこんでいた。民間経済はほとんどが破産状態におちいっていた。
 こうした債務国の多くはIMFに泣きつき、経済改革を約束して、返済の延長を交渉した。それによって危機は回避できたかのようにみえた。
 1980年代にはいると、発展途上の債権国は大きな貿易黒字をつづける以外に債務を返済することができなくなる。そのため、途上国の製造品が膨大な量で富裕国に輸出される。そのかたわら、債務危機は富裕国の工業労働者にとって、生活水準を圧迫するひとつの要因になった。
 発展途上国では輸出ブームの陰で国民が耐乏生活を強いられていた。ただでさえ苦しい生活水準はさらに低下し、貧困率は急増した。外国からの投資が干上がったため、人びとはふたたび裏経済の労働に身を落とし、公園で靴をみがいたり、町で大道芸をみせたりして、日銭をかせぐようになった。IMFの改革プログラムは、だれの生活も改善することがなかった、と著者はいう。
 途上国の債務負担はますます増えていった。融資はなかなか返済できず、新規投資は欠如し、経済は縮小していた。国民にとって緊縮経済は災厄をもたらした。
 アメリカ政府は途上国が成長する条件として、政府支出の削減、限界税率の引き下げ、自由貿易、外国投資の受け入れ、民営化を公式のように唱えていた。だが、発展途上国の経済問題は「高い税率と大きな政府よりは、むしろ大規模な税金逃れと無能な政府によるものだ」と著者は論じる。
 著者は債務危機を克服した模範として、韓国を挙げている。韓国も1985年に深刻な対外債務危機におちいった。これを乗り越えるために、韓国が採用したのは、アメリカ方式対策のまったく逆だった。5年計画によって優先的な産業を決め、そこに銀行の融資を集中し、輸入障壁をもうけ、ぜいたく品を抑え、国民に貯蓄をうながした。それによって外国から融資を受けなくても、事業への投資が可能になる体制を整えるいっぽう、人材育成のため教育に膨大な予算をつぎこんだ。こうして、韓国の経済は順調に成長し、対外債務から抜けだし、軍事独裁から選挙制民主主義の国へと転換していくことになる。
 一般的に債務国はなかなか苦境から抜けだせなかった。途上国では軍事指導者の多くが権力の座を奪われていった。だが、そのあとの指導者も経済状況をうまく改善したわけではない。国民の生活水準が回復するには、債務危機から15年、20年の歳月を必要とした。

 これまで長々とまとめてきた本書も、ようやく最終章にたどりついた。
 最後の章は「新しい世界」と題されているが、全体の結論とみてよい。1970年代の転換期をへて、世界はいまどんな状況にあるのかが論じられている。
 1959年から73年にかけ、先進12カ国の労働生産性は年平均4.6%成長した。しかし、石油ショック以後、生産性の伸びは低下する。それから25年のあいだ、同じ12カ国の平均成長率はほぼ2%にとどまっている。
 生産性が鈍化したのは、農業から工業への人口移動が終息したこと、ベビーブーム世代の労働力が増えたため労働節約的な技術への投資が控えられたこと、企業の収益性が悪くなったこと、エネルギーコストの上昇、環境保護意識の普及などが考えられる。生産性の伸びが低下したのは製造分野だけではなかった。農業でも1960年代に爆発的に向上した生産性が、1980年代にはそれほど伸びなくなった。サービス分野でも、消費者がマイホームや車、家電、家具などを買い終わると、需要の伸びは低下し、商品よりもサービスが求められるようになった。さらにサービス業で生計を立てる労働者が増えるにつれて、労働生産性の平均成長率は鈍化していった。
 だが、著者はむしろ「世界が経済成長の新しい段階」に進んでいることを強調する。もはや高度成長期のような黄金時代を取り戻すことはできない。
 1980年代になって、インフレは抑えられたが、失業率は高いままで、所得の増加もほとんどなかった。そのなかで日本だけは例外と思われたが、その日本も1990年代初頭以降は欧米以上に厳しい20年以上におよぶ停滞期に突入する。
 政府による刺激策は一時的に景気をよくするかもしれないが、経済の長期的成長の可能性は、生産性の高さに依存する、と著者は断言する。
 革新的なイノベーションが実用化されるには長い時間を要する。たとえばアメリカでは、カラーテレビは1950年代に開発されていたが、それが普及するには10年後のカラーテレビ番組放送を待たなければならなかった。1971年に発明されたマイクロプロセッサは20年間、生産性に貢献することはなかった。
 第2次世界大戦後の高度成長期は、それまでのイノベーションのサイクルによって一挙に景気が上昇した時期だという。だが、それ以降の伸びは緩慢なものとなり、生活水準の向上も遅くなった。1970年代以降のイノベーションは娯楽や通信、情報の収集と処理に関するものが多く、根本的な衣食住に関しての進歩は微々たるものだったという見方もある。
 さらに1970年代後半以降のイノベーションによって、かつての大規模工業団地は過去の遺物となった。いまやコンピューターによるネットワークが、生産単位をつなぎ、労働を配分するようになった。
 1980年代以降はグローバル化が進み、国境を越えた供給の仕組みができあがった。その恩恵をもっとも受けたのが東アジアの新興国だ。だが、21世紀にはいると、東アジア新興国の生産性の伸びも鈍化し、中国でも2012年に奇跡の生産性も終わりを迎えた。
 もはや自由市場という魔法の薬も、政府の力強い計画も、生産性の鈍化を回復させることはできない。世帯収入は停滞した。所得の伸び率が低下すれば、生活水準の向上も見込めない。スマホ、パソコン、ワイドテレビ、病院での治療など、物質的な進歩は広がっているが、人びとがそこそこの生活を実現するには、長期のローンを組んで、とりあえず手に入れたい商品(住宅にせよ車にせよ)を確保する以外に方法がなくなっている。2008年のリーマンショックは、その行きすぎが最悪の結果を招いた。
 富裕国でも、所得増はごく一部の世帯だけでしかみられなかった。資本がより高い見返りを求めて流動的に飛び回るなかで、そこから利益を稼ぎだす人はごく一部にすぎない。政府は安定したフルタイム労働者の賃金を上げようと介入する。しかし、大多数の労働者は、短期的で臨時的な仕事にしかつけず、それまで親の世代が経験しなかったような不安定な生活を強いられている。
 生活水準が低迷するなか、豊かさが得られないという不満、自分たちの仕事を奪う移民への怒り、増税への憤り、公共サービスへの批判が、政治の主流ではない新しい指導者を求めて噴出するようになった。それがトランプを生んだ土壌だ。
 戦後の平和と繁栄は、一種の社会規制によってもたらされたものだ、と著者はいう。それは異例な時代だった。競争は制限され、操業時間や営業場所も決められ、投資や輸入も規制され、そのなかで企業家も労働者も、安定した経営と賃金を保証されていた。だが、1980年以降は、その体制を維持するのがむずかしくなる。そのために、さまざまな改革がおこなわれたが、いずれもふたたび奇跡をおこすことはできなかった、と著者は総括している。
 経済成長や繁栄は、政府の意図によってもたらされるものではない。予期せずにおこるものだ。実際、政府のもたらした繁栄が、長期的には逆効果をもたらす場合もある。株価が上がって景気がよくなったようにみえても、下層では生活水準の低下に苦しむ人びとが多くなっている。2008年のバブル崩壊も、生産性の伸び率以上に早く経済を成長させようとした政治介入のもたらした結果だった。それと同じことがおきないという保証はない。
 著者は本書のしめくくりに経済学者ポール・サミュエルソンのことばを引く。

〈アメリカ人経済学者ポール・サミュエルソンがうまくまとめている。「20世紀の第3四半期は、経済発展の黄金時代だった。この時代は、あらゆる合理的な期待を上回っていた。そして、同じような時代が近いうちに再び訪れることは、まずないだろう」〉

 そのなかで、どう生きていくかがこれからの課題といえるだろう。

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ミッテランの挫折、そしてレーガノミクス──レヴィンソン『例外時代』を読む(8) [本]

 1980年代に世界じゅうが右傾化していくなかで、唯一、社会主義政権が誕生した国がフランスだ。1981年5月、フランスでは社会党のフランソワ・ミッテランが大統領に就任した。経済が停滞し、失業率が高まり、インフレが高止まりし、通貨フランが動揺するなか、国民はベテラン政治家のミッテランを選んだ。
 1981年の社会党の選挙綱領は、重工業の国有化、富裕層にたいする新たな課税、15万人分の公務員職の創出、大規模な公共事業、最低賃金の引き上げ、すべての労働者に5週間の有給休暇、子どものいる世帯に多くの補助金などをうたっていた。
 ミッテラン大統領のもと、1982年に公共支出は27%増大した。政府が社会保障費や住宅手当、建設プロジェクトへの投資を増やしたためだ。経済は成長する。だが、企業の設備投資は伸びず、失業率も改善しなかった。
 ミッテラン政権は失業率を減らす方法として、退職年齢を60歳に引き下げ、労働時間を減らし、仕事をシェアする方策を打ち出した。さらに、これまでの郵便、電話、鉄道などに加えて、工業大手5社と金融38社の国有化も提案する。こうして、製鉄業の79%、基礎化学部門の52%、電子機器部門の42%、金融部門のほとんどが国の管理下にはいった。もっとも、その運営は個々の事業体にまかされていた。
 自動車大手の国有企業ルノーも政府の指導により、3500人の早期退職者の代わりに同人数の従業員を雇いいれることに合意した。賃上げ要求は認められ、労働力の削減はむずかしくなり、国有銀行は国有産業に融資するよう命じられていた。だが、それによって、黒字になった国有企業は少ない、と著者はいう。
 富裕税に不安を覚えた投資家は、フランを売り払う行動に出る。そのためフランの価値は下落し、政府は通貨切り下げに追いこまれた。
 政府の超過支出にもかかわらず、経済は活性化しなかった。インフレは下がらず、雇用率も改善しない。そこで政府は方針を転換し、起業家を保護するために、法人税率を引き下げ、小規模企業が資金を調達しやすくする方策を打ち出す。
 財務大臣に就任したジャック・ドロールは、フランの安定を最優先し、支出削減と増税を組み合わせて、財政赤字を劇的に縮小させようとした。高額納税者だけではなく、低所得者にたいする税金も引き上げられた。アルコール、タバコ、ガソリン、電気の料金も上がった。
 緊縮財政を敷くいっぽうで、フランス政府は外国からのフランス企業への投資を歓迎し、金融市場の規制を緩和し、資金の移動に関する管理を撤廃するようになる。だが、それでもフランス経済は回復しない。国有化政策は悲惨な結末を迎えようとしていた。
 1986年の国民議会選挙で、中道右派との連立政権が発足する。ミッテラン大統領は中道右派のジャック・シラクを首相に選んだ。正統派社会主義はついに効力を発揮せず、新しい社会主義が求められていた。それは国営企業ではなく、民間企業から生まれる社会主義だった。競争を促進し、規制撤廃を推し進め、企業が利益を上げられるよう支援し、政府の役割を縮小しようとする社会主義だ。
 1986年、シラク首相は国有企業の売却に動きだす。それは最初おずおずとはじまったが、次第に金融機関、テレビ局、電器メーカーなどにおよんでいく。1986年から88年にかけ、フランスでは22もの国有企業が民営化され、国庫に120億ドルをもたらした。
 1988年にシラクが大統領選に出馬し、ミッテランに敗れると、民営化の動きはいったん中断される。だが、民営化された企業がふたたび国有化されることはなかった。
 企業は民間所有のほうがうまくいくというのが経済学の常識だ。実際、多くの企業は国の支配から離れて、商業ベースで自由に経営されるようになって、大きな成功を収めた。だが、すべての企業がそうだったわけではない、と著者はいう。
 民営化がかえって失敗だった例も多いという。「民間所有のほうがコストが低かったり効率がよかったりするという万国共通のルールは存在しない」
 国家統制主義モデルも、市場志向の政策も、栄光の時代を取り戻す万能策ではなかった、と著者は述べている。

 いっぽうアメリカでは、1979年7月にカーター大統領が連邦準備制度理事会(FRB)議長として、ポール・ボルカーを任命していた。インフレと投機、失業がアメリカ経済をおおっていた。このときボルカーは単純に金利を引き上げるのではなく、イングランド銀行と同じく、通貨供給の成長を抑制することによって、景気後退に対応しようと考えていた。高い金利は経済成長の鈍化と失業率の増加を招いていた。これ以上、金利を高くするわけにはいかなかった。
 景気の停滞はまもなく回復へと転じる。インフレも落ち着いてくる。だが、アメリカ国民は、その前にカーターに代えてドナルド・レーガンを大統領に選んでいた。レーガンは右派の象徴のような人物だったが、厳格な保守派とちがい、一般の人びとにたいする思いやりがあり、国民から人気があった。
「小さい政府に対する陳腐な考えと自由企業に対する底なしの信頼以外に、レーガンにはとりたてて経済理念というものはなかった」と著者は記している。
 その経済顧問は雑多な集まりで、頑固なマネタリストからサプライ(供給)サイド経済学者まで、多岐にわたっていた。
 なかでも、当初、注目を集めたのがサプライサイド派である。サプライサイド派は、消費者需要よりも供給側の発明家や投資家、起業家たちを重視すべきだと主張した。政府は社会福祉への支出を減らし、公共部門の支出を削減すべきだ。そのうえで減税を実施すれば、経済活動が活発になり、むしろ税収が増えるかもしれないと論じた。とりわけ富裕層の税率を引き下げよというのがポイントだった。
 税金を引き下げれば、経済は活性化するという考え方は魅力的だった。レーガンは就任直後、この教条に飛びつき、個人税と事業税の大幅減税と大胆な予算削減案を打ち出す。
 富裕層への減税はすぐに実施された。しかし、予算削減案にはすぐに手がつけられなかった。年金や医療費の大幅なカットは、大きな抵抗を生むことがわかっていた。軍事費や国債の利息なども削るわけにはいかなかった。それでも、社会給付の多くが大胆にカットされた。
 ボルカーのFRBによるインフレ対策はある程度効果を発揮し、消費者物価上昇率は15%から10%に減じていた。そのいっぽう、一時解雇が増え、税収が大幅に下回るなかで、連邦予算は巨額の赤字をかかえるようになった。当初の減税案はなし崩し式に取り消される。また軍事増強をめざすレーガン政権が、政府支出を削減できるはずもなかった。
 1982年8月時点で、アメリカの経済見通しには暗雲がただよっていた。ところが8月半ばに株価が底を打つと、それ以降、トントン拍子に株価が上昇しはじめる。アメリカの高い金利が、海外から前例のないほどの資金を引き寄せるようになったのだ。1982年から85年にかけてはドル高が進んだ。
 海外からの資金流入はにわか景気を生み、アメリカ経済を立ちなおらせる。だが、そこには副作用もあった。ドル高によって、アメリカの製造業が大きな打撃を受けたのだ。安い輸入品がアメリカ市場を席捲していた。
 工場の町では多くの雇用が奪われ、地域経済が停滞し、学校や公園、図書館が荒れ果て、マイホームの資産価値が下落した。
 1984年の大統領選で、レーガンは「アメリカにまた朝日が昇ってきました」というコマーシャルを大量にながして大勝した。だが、コマーシャルとは裏腹にレーガンの経済政策の成果は感心するほどのものではなかった、と著者はいう。
 失業率が6%に下がったのは、ようやく1987年のことだ。表向きの宣伝とはちがい、経済に活況は感じられなかった。所得税率の引き下げにより、平均的労働者の購買力は多少増えたが、1980年から89年のあいだに低所得層の所得は4%減少した。多くの世帯が住宅ローンやクレジットカード、自動車ローンなどの支払いをかかえて苦しんでいた。
 レーガンの復活政策は、株や債券を持っている世帯の所得を押し上げた。サプライサイド派の経済学者は、経済のピラミッドの頂点にいる人びとがいい思いをすれば、いずれは下層の人びとにも繁栄がもたらされると主張したが、そんな約束はいつまでたっても実現されなかった。
 生産性の向上もみられなかった。その理由は企業が金融市場でカネを稼ぐほうが手っ取り早いと考えるようになったからだ。企業の投資は製造分野の設備に向かわなかった。資本はオフィスビルやショッピングセンターに投下された。
 著者はこう書いている。

〈レーガン革命はアメリカ人が期待した生活水準の広範囲にわたる改善は実現できなかった。半数以上の世帯で、1989年のインフレ調整後の収入は1981年と比べても上がってはいなかった。……国全体の所得は1982年以降はきれいに上がり続けたが、その利益のほとんどは企業経営者や、株式や債券を所有する資産家に流れていった。ほかの富裕国でも見られたように、生活が苦しくなる中流層はどんどん増えていき、信頼を寄せていた国家がもはや自分たちを救ってくれないのではないかという恐れを抱くようになっていった。〉

 これはいまにつづく光景のはじまりだったともいえる。

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右旋回──レヴィンソン『例外時代』を読む(7) [本]

 1970年代半ばは、政治が「統治不能性」を露呈した時代だった、と著者は書いている。1974年には西ドイツのブラント首相、アメリカのニクソン大統領、日本の田中首相が辞任した。
 統治不能性は大きくみれば経済停滞に関連していると著者はいう。もはや生活水準の着実な向上もなければ、さらなる平等化の進展もない。そんななかで、統治はだれかが得をすればだれかが損をするというゼロサムゲームになってしまった。最大多数の利益を実現しようとする民主主義は後退し、特定の利益集団を利する政治が主流になろうとしていた、と著者はいう。
 統治不能性をかかえようとしていたのは、富裕国だけではない。ソ連圏も同じだった。戦後はソ連圏の国営経済も経済発展して、黄金期を迎えていた。大工場が建てられ、計画にしたがって鉄鋼や布が生産され、トラクターやワンピースになって配給されていた。
 だが問題があった。「共産主義経済は商品の生産にはかなり長けていたが、消費者が本当に欲しがっているものを作るということにかけては、まったく無能だった」と、著者はいう。
 武器や重工業製品が優先され、アパートや自動車にはほとんど資源が割かれない。生産される商品はおしなべて時代遅れの粗悪品だった。服装にしても色や柄、デザインなどには無頓着。加えて、社会全体を政治的抑圧がおおい、民衆の不満が次第にふくらんでいった。
 1970年代半ば、ドイツではシュミット、フランスではジスカールデスタン、日本では三木武夫、アメリカではカーターが政権を担うようになった。だが、経済は低迷する。1974年から79年にかけて先進国の経済成長率は1.9%(日本は2.6%)にとどまっていた。この時期、先進国では税金の割合がほぼ3ポイント増加する。にもかかわらず、どの国でも6年前より失業率は高く、インフレがふたたび上昇しようとしていた。
 とりわけあまりの高い税率に国民がそっぽを向いたのがスウェーデンだ。社会民主党の人気が急落した。そして、ついに1932年以来、長期にわたって政権を担ってきた社会民主党が1976年に権力の座からすべり落ちる。
 イギリスでは、1974年から79年まで、ウィルソンとキャラハンの2代にわたって労働党が政権を握っていた。労働党政権は「第2次世界大戦以来どの先進国経済よりも無能だったかもしれない統治をおこなった」と著者は断言する。インフレ率は高く、失業率は高いままだった。経済が縮小し、生活水準が落ちていくなか、ポンドの価値はみじめなほど落ちこんだ。
 1978年にキャラハン内閣はインフレから脱却するため、賃金上昇を抑制するよう訴えるが、組合は反発し、ストにはいった。そして、1979年に労働党政権は崩壊し、保守党のサッチャーが政権を掌握する。
 著者はこう書いている。

〈労働党の陥落は、なんといっても、第2次世界大戦後の繁栄をもたらした経済モデルの破綻の結末だった。1950年代と60年代を通じて、労働党の考え方が福祉国家を定義づける政策に浸透していくなか、イギリスでの暮らしは改善を続けていた。だが1970年代までにはイギリス人が期待するようになった着実に上がり続ける生活水準を、どのような経済政策ももたらすことができなくなっていた。この消えゆく夢こそが、保守派に権力を与えたのだ。〉

 いっぽう、アメリカでは1979年の第2次石油ショックが、カーター政権を直撃する。ふたたびガソリンスタンドに行列ができ、トラック運転手たちがストライキを宣言した。カーターは消費者に節約を呼びかけるが、国民の不満は高まるばかりだった。
 そこに登場したのがロナルド・レーガンだ。レーガンは国民にアメリカが強くなれば、外敵とも戦えるし、国の繁栄も回復できると訴えかけた。国民はそのイメージに引きつけられ、おかげでレーガンは80年の大統領選で、おもしろみのないカーターを打ち負かすことになる。レーガンの経済政策はシンプルだった。生活水準を上げるには、インフレを抑え、税を引き下げ、政府の規模を小さくすればいいというのだ。
 右への転回はイギリスとアメリカだけではなかった。1982年、ドイツでは社会民主党のシュミット政権が崩壊し、キリスト教民主同盟のヘルムート・コールが政権の座につく。第2次石油ショックで、景気が後退し、失業率が高まっていた。コールは税の引き下げと、いきすぎた福祉の改善を約束した。ドイツではその後16年間、社会民主党が政権に復帰することはない。
 日本でも1982年に中曽根康弘が首相の座を射止めた。中曽根は「増税なき財政再建」を唱え、行政改革による小さな政府の実現を訴えて、幅広い支持を得たのだ。
 こうして1976年から6年のうちに、世界の政治はすっかり保守政権に衣替えする。強い指導者が求められていた。問題は「かつての頑健で健全な経済を取り戻せるかどうかだった」と、著者は論じている。
 1980年前後に成立した保守政権は、インフレの制御に成功し、ソ連との闘いにも勝利した。だが、その代償は大きく、完全雇用と平等性、経済の安定性が達成されたわけではない、と著者はいう。
 この時代を代表する経済学者がミルトン・フリードマンだ。フリードマンは通貨供給量を調整することによってインフレは制御できると唱えた。加えて、政府は労働市場への介入を避け、大規模な雇用創出計画を実施すべきではないと論じた。小さな政府と均衡のとれた予算がフリードマンのめざす方向だった。
 1979年に発足したサッチャー政権は、当初フリードマン流の経済政策を実行に移そうとした。通貨供給量の伸び率を抑え、公的支出の割合を減らし、消費税を引き上げ、所得税を引き下げた。だが、イギリス経済は2年たっても思いどおりに好転しなかった。
 そこで、サッチャーはマネタリズムを放棄し、公的支出を拡大する方向に方針を転換する。1982年にはインフレ率が下がりはじめ、イギリス経済はそれ以降8年にわたって成長をつづけることになる。
 サッチャーは労働組合と国有企業に攻撃目標を定めていた。イギリスでは第2次世界大戦後、労働組合が大きな影響力をもち、伝統的な社会主義路線を推進していた。炭鉱や発電所、鉄道、バス、トラック、船会社、旅行代理店、鉄鋼業、航空会社、自動車会社、電信会社、建設会社、石油会社も国営化されていた。1970年代にはいると、これらの国営企業の業績は悪化し、組合の要求にもとづく政治介入で、経営は混乱していた。
 1979年段階で、国有企業はイギリスの国内総生産の10%程度を占め、150万人の労働者を雇用していた。サッチャーはいきなり労働組合や国営企業を攻撃するような愚策はとらなかった。徐々に労働組合や国営企業の力を弱める方向に舵を切っていった。
 手始めに採用されたのが、国営企業の資産売却である。政府が51%の株式を保有するブリティッシュ・ペトロリアムの株の一部が売却されることになった。資産の売却はさらに製鉄公社や全国バス会社、国有貨物輸送などにもおよんだ。
 全国石炭庁は1984年3月に赤字経営の炭鉱20カ所を閉鎖すると発表した。これにたいし、全国炭鉱労働組合委員長のアーサー・スカ−ギルは、全国規模のストで対抗した。だが、勝利したのは、周到な準備を重ねてきたサッチャーのほうだった。組合は1985年3月にストを中止する。その結果、170の鉱山を運営していた全国石炭庁は、5年以内にその半分以上の鉱山を閉鎖し、7万9000人の労働者には転職のための補助金が与えられることになった。
 イギリスでは国営企業の売却と民営化が次々と進められていった。ブリティッシュ・ガス、ブリティッシュ・テレコム、ブリティッシュ・エアウェイズ、ロールスロイス、ブリティッシュ・スチール、ブリティッシュ・レールウェイズ(イギリス国鉄)などなど。
 もっとも、民営化はすべてにわたって成功を収めたわけではない。その実績は玉石混淆だった。赤字になった企業もある。だが、「民営化がイギリス経済の強制的な再構築につながった」ことはまちがいない、と著者はいう。
 サッチャー政権のもとで、製造業の雇用は30%から22%に減り、イギリスはサービス経済に移行していった。組合の力は衰え、1979年に54%だった組織率は、8年後には42%まで低下していた。
 サッチャリズムはイギリスにとっては気付け薬のようなものだった、と著者はいう。しかし、その経済的実績はけっしてかんばしいものではない。世界水準からすれば、インフレ率は高かったし、労働生産性の伸びも低かった。失業率も高いままだった。イングランド中部と北部の工業都市や炭鉱都市は失業者であふれていた。

〈サッチャーは、秘密の方程式を知っていたわけではない。彼女の政策は、イギリスの一見瀕死の経済を1980年代後半に復活させたとしてかなりの称賛を受けた。だが1979年から1990年までの在職期間にわたり、経済は彼女が首相になる前の10年と同じくらいのスピードで成長しただけだ。失業者の長い列がサッチャー就任時よりも短くなるのは2000年の秋になってようやくで、黄金時代の衰えはじめていた数カ月と同じくらいその列が短くなることは二度となかった。〉

 サッチャリズムを冷静にみれば、やはりこういう評価に落ち着くのだろう。だが、これはかならずしもサッチャーだけの責任とは言い切れない。

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労働分配率の下落と福祉国家の困難──レヴィンソン『例外時代』を読む(6) [本]

 戦後の産業拡大は、大量の雇用を生み、労働者の生活水準向上をもたらした。その影響は周辺の商店や酒場にもおよび、福祉の広がりにも助けられて、世の中全体に豊かさがあふれるようになった。産業国家ではより平等な社会がもたらされ、労働者には安定した仕事と賃金が保証されたかにみえた。
 戦後、平等が拡大したことは、所得格差が縮まったことをみてもわかる。高い相続税が、富の分布を次第に平均化していった。労働者の組織化も、平均的労働者の生活を向上させていく一因だった。製造業の成長が、労働者に所得水準の増加をもたらしていたのだ。
 こうした平等化傾向は1970年代半ばに逆転する。その時期は国によって、多少ずれる。だが、分岐点はほぼ70年代半ばだった。
 アメリカでは、1973年以降、上位5分の1の層が所得の割合を増やすのにたいし、下位5分の3の層は、その割合を減らしている。イギリスでも1980年代以降は所得格差が広がっている。1970年代に所得の平等化を実現した日本でも、1981年以降は不平等が広がっている。中流階級の暮らしが足もとから崩れはじめていた。
 著者は、賃金上昇の鈍化と格差の広がりが世界的に起こっていたことに注目する。
 国民所得に占める賃金の割合を示すのが労働分配率だ。この労働分配率が、世界各地で1970年代後半以降、下がっている。経済のパイそのものが、ほとんど大きくなっていないのに、労働分配率がさがっていることは、国民所得のなかで労働者の受け取る報酬が減っているということを意味する。その分、資本の所有者の取り分が増えているのだ。
「上澄みの一握りの人間だけが前進を続け、下層の多くの人間が置き去りにされているという印象」はぬぐいがたい、と著者はいう。
 労働分配率が下がったのは技術進歩と競争の激化が原因だ。新技術によって、競争が激化し、それによって企業の利益が圧迫され、その結果、労働コストの削減につながった。自動化が労働者の技能に取って代わると、労働組合の交渉力も低下してくる。
 いっぽう、戦時中に生まれた福祉国家の理念も、このころから逆風にさらされるようになった。政府が子ども手当や年金、健康保険、障害補償、失業手当などを充実させることができたのは、1960年代の繁栄があったからだ。
 だが、福祉の充実にはカネがかかる。政府は次第に増税というかたちで、その負担を国民に求めるようになった。
 戦後の所得税では、高額所得者に高い税率が課されていた。その結果、税引き後の所得は多少なりとも平均化されることになった。
 福祉国家はすばらしい成果を挙げた、と著者はいう。だが、福祉を充実させればさせるほど国家の負担は増えてくる。とりわけ1973年の危機は福祉政策の転換点となった。
 経済が低迷するなか、社会保険給付への要求がふくらんでいったのだ。給付を減らすわけにはいかなかった。それに対応するには増税か借り入れしかない。1965年から77年までに、ほとんどの国が税率を引き上げている。その極端な例がスウェーデンで、1977年には国民の稼ぎの45%が税金にとられるほどだった。
 インフレのなかで、人びとは税負担の重さに苦しむようになった。高い税率が個人の所得にのしかかっていた。
「福祉国家の費用はますます所得税に依存するようになり、それを直接支払う労働者は給与明細からどんどん天引きされていくのに気づいた」と、著者は書いている。
 それでも帳尻はあわなかった。そこで、政府は借り入れを重ね、財政赤字があたりまえになっていく。国民所得にたいする政府債務の割合は1975年を境に徐々に膨らんでいった。
 福祉国家を支えるために税金を上げようとする政府のこころみは、次第に抵抗にあうようになる。スウェーデンでもデンマークでもノルウェーでも1970年代はじめから反対運動が巻き起こった。こうした反税運動はイギリスにも飛び火する。その代弁者となったのが、もっと小さな政府を、と訴えるマーガレット・サッチャーだった。次回はそのあたりの動きをみていく。

[残念ながら、年内に本書を読み切ることはできませんでした。つづきは来年ということになります。どうぞお楽しみ(?)に。それにしても、本書を読み進むにつれて、日本語版のタイトル『例外時代──高度成長はいかに特殊であったか』というタイトルはややミスリーディングではないかという気がしてきました。原題はAn Extraordinary Time: The End of the Postwar Boom and the Return of the Ordinary Economy です。直訳すれば『大変な時代──戦後ブームの終わりと通常経済への復帰』ということになりましょうか。本書は何も例外的に黄金期だった高度成長時代を直接、扱っているわけではありません。戦後の大きな転換点となった1970年代がいかに異様な時代であったかを再現したものといえるでしょう。Extraordinaryを「例外」と訳すのは、すくなくともぼくには違和感があり、しかも、その論点をずらしているような気がしてなりません。まあ、それはともかくとして、来年も年寄りらしく(あまり世間とかかわらずに)のんびり老後の読書をつづけられればいいと願っております。よろしければ、また本ブログにおつきあいいただければ幸甚と存じます。それでは、みなさま、よいお年をお迎えください。]

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石油ショックと日本──レヴィンソン『例外時代』を読む(5) [本]

 身近なところで、石油ショックといわれて思いだされる光景は、トイレットペーパー買い占め騒ぎだろう。トイレットペーパーが品薄になるといううわさが流れて、主婦がスーパーに殺到した。1973年秋のことである。
 そのころ日本では水洗トイレが普及し、トイレットペーパーはなくてはならない商品になっていた。トイレ用の紙が使えなくなれば、家庭にとっては一大事だ。
 トイレットペーパー騒ぎはすぐに収まる。しかし、それは日本経済にとっても、象徴的なできごとだったかもしれない。
 石油は現代文明を支える根幹的な商品となっていた。自動車にも船にも、暖房用にも欠かせなかっただけではない。石油がなければ、電力に支障をきたし、家庭も工場も会社も立ちゆかなくなってしまうかもしれない。ナイロンやプラスチック、ビニールもつくれなくなる。
 アメリカとちがい、日本では石油が産出されるわけではない。全部、輸入に頼っている。日本人が石油に敏感だったのはそのためだ。一見、石油とは無関係なトイレットペーパー騒ぎは、石油がなくなれば、明日の生活がどうなってしまうのかという恐怖感が、次から次へと連想を呼んで、引き起こされたパニックだったといえるだろう。
 アメリカは石油ショックを、金融のグローバル化と規制緩和によって乗り切ろうとした。これにたいし、日本は輸出の強化によってそれを乗り切ろうとした、と著者は書いている。日本人は、原油価格の上昇によって輸入金額が増えるとするなら、これに対応するには、エネルギーの節約をはかりつつ輸出を増やすしかないと考えたのだ。
 著者のいうように、「その努力が世界貿易のパターンを変え、世界のほかの産業国家で危機感を高める一因となった」のは皮肉だった。
 1960年代に日本は超特急で成長した。農業人口より産業人口のほうが多くなっていく。メーカーは欧米の最新機器を導入し、生産性を上げながら、雇用を増やしていった。それにより、何百万もの消費者が冷蔵庫や自動車、テレビを買えるようになった。
 しかし、日本では工場が大規模化するいっぽうで、サービス分野はまだ非効率だった、と著者はいう。大規模店は規制され、小売店が守られていた。毎年、何千軒もの小売店が生まれていた。銀行も衣料品店も薬局もパン屋もトラック輸送も、日本のサービス分野は効率が悪く、立ち後れていたという。
 1970年代になると、通産省はサービス部門の近代化と産業のハイテク化に乗りだした。小売店や中小企業の経営者と労働者は、転換を余儀なくされ、もっと生産性の高い仕事を見つけなければならなくなる。
 そこに変動為替制により円高ドル安となり、インフレが追い打ちをかける。加えて石油ショックにより、日本の輸出競争力が失われていく。雇用にも大きな影響が出はじめた。
 日本にとって、輸出主導は目新しいアイデアではなかった。1950年代から60年代にかけ、日本は海外にブラウスやラジオを輸出していた。つづいて、輸出の主力は繊維や鉄鋼に移る。それでも石油や機械の輸入量が多かったので、日本では貿易赤字がつづいていた。コンテナ船の輸送費が安くなり、日本がアメリカにテレビやステレオ、電子レンジなどの家電製品を輸出するようになるのは60年代後半からだ。これによって、日本の慢性的な貿易赤字は黒字へと転じた。
 だが、そのころアメリカでは日本の輸出攻勢にたいする反発が巻き起こる。ニクソン大統領は南部の繊維会社に、日本からの繊維輸入を制限すると約束した。1969年には日米間で沖縄返還に向けての協議がもたれ、そのさい繊維問題も論議された。日米繊維交渉が決着するのは1972年のことだ。これにより日本はアメリカへの繊維製品輸出を「自主規制」することになった。
 原油価格の上昇と貿易摩擦により、鉄鋼や繊維、アルミ、石油化学製品など、日本の基幹産業は大きな打撃を受けた。1973年から79年のあいだに80万人が職を失い、1976年に失業率は2%を超えた。日本政府は新産業に雇用を移転させようとはかった。
 しかし、産業の転換は困難をきわめた。日本の造船会社は1973年から78年のあいだに90%注文を減らした。日本の造船所は1980年までに138カ所のうち50カ所が閉鎖され、11万9000人の仕事がなくなった。
 1972年に日本は100万トン以上のアルミを生産していたが、10年後にはその生産量は70%減少し、精錬所も半分が閉鎖された。扇風機などをつくる中小工場は製品の需要がほとんどなくなる。ナイロンなどをつくる繊維工場も多くが閉鎖された。
 産業の転換は必至だった。

〈旧経済は、新経済に道を譲った。安価なエネルギーと安価な労働力よりも、エンジニアリングとデザインのほうが重視される経済だ。日本はトン単位で売られる日用品ではなく、自動車や高度な電子機器、精密機械を作って裕福になるのだ。〉

 1973年の石油価格上昇は、日本の自動車メーカーを優位な立場へと導いた。日本車はちいさくて燃費がよかったのだ。1973年に450万台だった日本の自動車製造は、1980年には700万台まで増え、その輸出量は1973年から80年までのあいだにほぼ3倍となった。
「もっと軽く、もっと薄く、もっと短く、もっと小さく」というかけ声のもと、最先端の光学レンズを備えたカメラや、数値制御された工作機械、高性能カラーコピー機などがつぎつぎ生みだされていった。
 石油価格の上昇がもたらした貿易赤字は、たちまち黒字に転じる。「1970年代後半から1980年代前半にかけて、日本はほかのどの大規模産業経済国よりも速いペースで成長した」と、著者は論じている。
 その反動があらわれるのは、もう少ししてからだ。
 いっぽう、アメリカやヨーロッパでは「産業の空洞化」によって「ラスト・ベルト(錆びついた工業地帯)」が広がりつつあった。アメリカの中西部、イギリスのミッドランド、ドイツのルール地方、フランス、ベルギーの鉄鋼の町などが衰退していった。
「石油の高値が操業コストを引き上げる中、最先端の製造業への日本の強引な参入、そして日本に続く台湾と韓国の急速な産業化によって、世界中の製造能力が突然過剰になった」と、著者は説明する。
 日本への風当たりが強くなった。アメリカは保護主義へと動く。日本製品の広がりによって利益を失った業界が高い輸入関税を求め、外国製品を市場から閉めだそうという動きに出たのだ。
 それは「必要とされなくなった製造業の雇用を保護するコストを事実上アメリカの消費者に負担させるというものだった」と、著者は断じる。だが、いくら政府が保護しても、けっきょく時代遅れの産業を守りつづけることはできなかった。
 日本の輸出攻勢にたいするヨーロッパの対応は、アメリカよりもう少しソフトだった。テープレコーダー、繊維、自動車、トラック、バイク、特殊鋼、ボールベアリング、テレビなどの輸出を制限するよう日本に求めながら、ヨーロッパ各国は自国の造船所や鉄鋼メーカー、航空機業界に助成金を出した。
 助成金の効果は薄かった。ヨーロッパでは、10年のうちに鉄鋼メーカーが規模を縮小し、造船所の多くが閉鎖されていった。
 アメリカがもっとも敏感だったのは自動車だ。日本車の進出により、ビッグスリーといわれるGM、フォード、クライスラーの牙城が崩れはじめていた。
 アメリカ政府はビッグスリーの保護に乗りだし、日本にたいし貿易制裁をちらつかせる。これにたいし、通産省は自動車輸出の自主規制を宣言した。1981年5月のことである。日本の自動車メーカーはこの自主規制により、むしろ多くの利益を確保し、北米に組み立て工場を建設することになる。
 構造調整という名の保護政策は、鉄鋼業にせよ、衣料品分野にせよ、生産性の落ち込みを深刻化させ、産業の転換を遅らせる結果になった、と著者は述べている。
 グローバル時代の特徴は、国際的な競争のもとで、産業構造が次々と変化を強いられ、商品生産の仕組みもそれにつれて変化していくことかもしれない。
 著者は、かつての工業団地に代わって、国境を越えたサプライチェーンが供給のネットワークを形成していくところに、現代の経済変化をとらえている。

〈賃金の高い工場での仕事が誰にでもある時代は終わった。新しい経済では価値はイノベーションとデザイン、そしてマーケティングからくるもので、原料を加工品に仕上げる物理的なプロセスからは生まれない。……産業経済はゆっくり情報経済に道を譲っていて、政府の支援がどれだけあっても昔に戻ることはできないのだった。〉

 まったく、たいへんな時代になったものだ。

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石油ショック後の対応──レヴィンソン『例外時代』を読む(4) [本]

 1973年10月の石油ショック以降、経済環境は激変した。インフレが進むなか不況が深刻化し、失業率が高まっていく。変動為替制のもと為替レートは大きく動いた。こうしたなか、著者は金融システムが大きく変化していったことをとらえている。そのきっかけとなったのはオイルマネーの流入だった。
 1973年7月にイングランド銀行総裁に就任したゴードン・リチャードソンは、世界の金融センター、ロンドンに中東のドル建てオイルマネーが流れこんでいることに気づいた。その額はあまりに大きく、大手銀行はそのカネを融資に回しきれないほどだった。それでも、イングランド銀行は、大手銀行に無理やり市中への資金投入を指示した。
 その結果、不動産投機が生じ、一時不動産市場が活況を呈したものの、すぐにバブルがはじけて、多くの中小銀行が破綻した。イングランド銀行が金融機関への監督を強化するようになったのはそれからだという。銀行は融資や預金、貸入についての情報を、イングランド銀行に定期的に報告しなくてはならなくなった。加えてリチャードソンは、海外からのドルの大量流入が金融システムのバランスを崩す可能性があるとして、各国中央銀行による協議を提案した。
 変動為替制のもとで、国際金融はこれまでにないリスクをかかえるようになった。銀行の資金が、為替レート変動のリスクと切り離せなくなったからである。
 冒険に乗り出す中級銀行もでてきた。たとえばニューヨーク市郊外に拠点を置くフランクリン・ナショナル銀行は、バハマやロンドンに支店を開き、外貨取引をおこなっていたが、それによって巨額の損失をだした。
 ケルンの金融機関バンクハウス・ヘルシュタットも為替ギャンブルにのめりこみ、大きな損失をこうむっていた。ドイツ当局はヘルシュタットを閉鎖するが、ヘルシュタットは外国の銀行とも取引をおこなっていたため、通貨市場に何カ月にもわたって混乱を引き起こした。
 イスラエルで6番目に大きな銀行、イスラエル・ブリティッシュ銀行はヘルシュタットと取引していたため、破綻に追いこまれる。イスラエル・ブリティッシュ銀行は見かけよりずっと大きな風呂敷を広げていた。スイスの銀行を通じて、系列会社に不正な融資をおこなっていることも発覚した。フランクリン銀行にも210万ドルの債務を負っていた。こうして、イスラエル・ブリティッシュ銀行が破綻すると、フランクリン・ナショナル銀行も破綻する。
 1974年のこの連鎖倒産が与えた教訓は何か。「たとえかかわっているのが小さな銀行であっても、国境を越えた銀行業務にからむ問題は火元からはるか遠く離れたところで膨大な経済危機に転じる可能性がある」と著者は論じている。
 変動為替制のもとでの金融流動化が、国際金融システムにこれまでにないリスクをもたらしていたのだ。
 スイスのバーゼルには、各国中央銀行間の決済をおこなう国際決済銀行(BIS)が置かれている。1975年9月、国際決済銀行の「銀行規制および監督業務委員会」で、銀行の外国支店(ないし子会社)にたいする監督強化を目的とするバーゼル合意が結ばれた。だが、国境を越えて運営される金融機関を監督することは困難をきわめた。
 オイルマネーはその後も先進国の銀行に流れこんだ。1973年10月に1バレル=5ドル12セントだった原油価格は、74年1月には11ドル65セント、75年には12ドル37セントに上昇した。このかんOPEC加盟国の受け取った額は1350億ドルにのぼる。そのカネが先進国の銀行に預けられたのだ。「世界中の銀行がフランクフルトやニューヨーク、ベイルート、アトランタに支店を開き、預金を手に入れようと奔走し、それまで接点のなかった借り手に融資を申し出た」と、著者は書いている。
 アメリカ連邦準備制度理事会(FRB)理事長のアーサー・バーンズは、銀行が短期預金を積極的に集めすぎ、融資の期間と返済の可能性を考慮せず、カネを貸しすぎていると警告した。万一の事態に備えるための、銀行の資本不足が懸念された。銀行はオイルマネーという時限爆弾をかかえていた。そして、オイルマネーを燃料とした無謀な銀行業務が、数年後には世界金融システムに深刻な影響をもたらすことになる。

 世界の銀行にオイルマネーが流れこむ金融激流が発生するなかで、アメリカは原油価格の急上昇にどう対応しようとしていたのだろう。
 1973年10月に石油ショックがおきたとき、アメリカは何の備えもできていなかった、と著者は述べている。人びとは郊外の住宅地から1人1台の車で都会に通勤していた。自動車の燃費は悪く、週末のガソリンスタンドはガソリンを満タンにしようとする車でもともと混みあっていたのに、オイルショックがさらに輪をかけた。ディーゼル燃料も不足し、長距離トラックの輸送に支障が出はじめるようになっていた。
 そのとき、ニクソン大統領はエネルギー担当の財務副長官として、ウィリアム・サイモンを指名した。サイモンは1974年5月には財務長官に昇格し、エネルギー問題だけではなく、財政全般を統括することになる。
 当初、議会が求めていたのは、政府が石油市場にさらに介入し、石油の安定供給を確保することだった。ところが、サイモンは石油にたいするこれまでの規制はまちがっており、市場に任せておけば、おのずと価格と需要が調整され、石油不足は解消されると考えていた。
 だが、サイモンの考えはなかなか受け入れられない。その対応が遅れたのは、ニクソン政権はウォーターゲート事件などにより、末期症状におちいっていたことが大きかった。
 石油不足に対応するため、当初、サイモンは心にもない石油の配給計画を提案する。だが、本心ではそんなものがうまくいくはずがないと思っていた。
 政府のさまざまな規制がアメリカでの石油増産にしばりをかけていた。著者によれば「エネルギーはアメリカの経済部門すべての中でもっとも規制の厳しい部門だった」という。
 石油にしても天然ガスにしても、エネルギー部門にたいするアメリカの規制は複雑多岐にわたり、多くの混乱を招いていた。石油も天然ガスもその価格は政府によって決められ、課税がなされており、石油の輸入量も制限されていたのだ。
 アメリカの石油は輸入石油より18%高い値段で売られていた。とうぜん輸入石油への希求が高まるが、政府は輸入量を制限し、精製業者にその配分を割り当てていた。そこには特別割り当てという抜け穴もあった。「石油の輸入割当制度は、複雑怪奇だっただけではない。並外れて非効率でもあった」、と著者は指摘する。
 国内と国外の価格差は消費者にしわよせされていた。いっぽう、インフレに対処するため、政府はガソリン価格を安く抑えようとするあまりに、暖房用の灯油不足を招くという事態も生じていた。
 そこに石油ショックがやってきたのだ。エネルギー問題を解決するには、規制を撤廃すべきではないかという考えが次第に広まっていった。
 特定の商品やサービスの価格は政府の判断によってではなく、競争によって決めたほうが、経済はうまく機能すると主張する経済学者も増えてきた。
 規制にたいするニクソンの考えは一貫していなかった。規制撤廃を呼びかけたかと思うと、規制を維持したり、価格凍結を打ち出したりと、対応は二転三転した。それは議会も同じだった。
 いっぽう、エネルギー問題を担当することになったサイモンは、規制撤廃に向けて、舵を切っていく。価格規制がなくなれば、石油や天然ガスの値段が下がるのか、それとも上がるのか、だれも予想できなかった。
 けっきょく、その後も政府と議会はためらいつづけ、規制は一部緩和されるものの、撤廃されることはなかった。石油や天然ガスの価格は低めに抑えられ、アメリカの石油輸出も21世紀になるまで規制されることになった。
 ニクソンが退陣し、フォード大統領が誕生したあとも、サイモンは財務長官として規制撤廃を訴えつづけた。
 エネルギー分野が行き詰まると、焦点は運輸部門へと移った。それまで運輸業界では政府の規制が強く、自由競争が制限されていた。パイプライン、飛行機、鉄道、船舶、バス、トラックも規制され、その利用価格も政府の認可した額に決められていた。新たな企業が業界に参入しようとしても、その門戸は閉ざされていた。「高い料金と非効率性は業界の大前提で、運輸機構の利用者だけでなく、経済全体の重荷となっていた」と、著者はいう。
 1975年冬、アメリカ政府は航空会社、トラック、鉄道の規制撤廃計画を発表した。それを受けて、1978年にはカーター政権のもと、議会が航空貨物、旅客運賃、トラック、バス、鉄道、海洋貨物などへの規制を撤廃する法案を可決する。
 運輸は手始めにすぎなかった。その後もさまざまな分野で、アメリカでは規制撤廃の動きが相次いだ。金融、電気通信、電力、商業、配送などの分野でも、次々に規制が撤廃される。規制撤廃はイノベーションの波を引き起こした。宅配サービスや格安航空会社、携帯電話会社なども生まれ、商店の営業時間にたいする制限もなくなった。
 だが、エネルギー分野では規制撤廃の効果はさほどあらわれなかった(ガソリン価格の規制が撤廃されるのは1981年)。
 利息の規制撤廃は銀行業界を不安定にし、アメリカでは多くの貯蓄・貸付会社が倒産に見舞われた。格安航空会社の登場で、古参の航空会社は苦しい経営を強いられ、賃金カットや解雇が相次ぐ。それは運輸会社や通信会社も同じだった。
 それでも著者は、規制撤廃はプラスに作用したとみる。古い仕事や古い会社は消えたが、新しい会社や新製品が生まれたからである。
 とはいえ、次のように書き足すことを忘れていない。

〈だが規制という皮膜構造がなくなると、黄金時代の非常に根本的な側面だった安定と安心は決定的にそこなわれてしまう。政府が生産性の伸びを復活させ、経済を再活性化しようとする中で、安定は手の届かないぜいたくになってしまったのだった。〉

 石油ショック以降、世界の経済潮流は大きく変わろうとしていた。

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高度経済成長の終わり──レヴィンソン『例外時代』を読む(3) [本]

 1970年代初期は環境問題が強く意識されはじめた時代でもあった。ローマ・クラブという謎の団体が『成長の限界』という本を出版した。そこには、あくなき経済成長の追求が、環境汚染と資源枯渇、人口増加、食糧不足を招き、その結果、100年後には世界が危機におちいると記されていた。じつはローマ・クラブというのは、マサチューセッツ工科大学の研究者グループが仮に名づけた名前だったという。
『成長の限界』について、著者はこう要約している。

〈戦後世界の驚異的な成長は、持続不可能なばかりではない。不道徳でさえあったのだ。世界は、自らの資源を不法に占有することで豊かになってきた。そろそろ帳尻を合わせるときが来たのだ。「地球は有限である」と著者らは強調した。そして人口が増え続ける限り、一人ひとりがもっと少ない資源で生活することを学ばなければならなくなる、と。〉

 70年代初期は、高度経済成長のツケが回ってきた時代だ。周囲をふり返ってみれば、空も海も川も汚れ、道路にはまるで凶器と化した自動車が走っていた。このままではいけないと感じる人が多くなったのもとうぜんだろう。
 この時代まで、人間の活動が環境にどのような影響を与えるかという知識は乏しかった。戦後20年のあいだに、プラスチックや化学薬品など、これまでにない新商品が発明されていた。レイチェル・カーソンは『沈黙の春』で、殺虫剤が鳥や動物、人間に深刻な影響を与えていることを早くも1962年に警告している。だが、そのころは環境問題にたいする意識は低かったのだ。
 しかし、70年代はじめには、大気汚染問題が深刻になってくる。アフリカ、アジア、中南米の人口爆発が貧困と飢餓を招いていた。このままでは絶望的な食糧不足が生じることが懸念された。
 各国政府もさすがに重い腰を上げた。水質汚染防止法や大気汚染防止法が可決され、自動車の排ガス規制も実施されるようになった。多くの国々が環境局や環境庁を設立した。
 新たな環境運動は、国民総生産(GNP)などの経済指標が社会の豊かさを反映していないことをあきらかにした。どうしてか。著者は次のような例を示している。

〈製鉄所や精製所からの生産品が増えることは純粋にプラスとみなされ、結果として増える環境汚染がもたらす害によるマイナスは考慮されなかった。だがそのくせ、企業や政府が汚染のあとで汚れた水をきれいにするために金を使えば、それも経済成長として計算に入れられるのだ。〉

 環境主義者はここから経済成長は虚構であり、繁栄は敵であり、裕福な国は人口や商品がこれ以上増えない「定常状態経済」をめざすべきだと訴えた。
 70年代からはじまった環境規制は、環境と人びとの健康に、幅広い恩恵をもたらした。いっぽう、環境に配慮しなくてはならなくなった企業は、汚染対策に多くの投資を割くようになった。このことが経済成長のひとつの足かせになったことはまちがいない、と著者はいう。
 とはいえ、環境主義者が求めたように、これで経済成長が限界を迎えたわけではなかった、と著者は指摘する。たとえば70年代以降、トウモロコシなどの平均収量は40年間で66%増加した。新素材にたいする研究もはじまった。アルミ缶のリサイクルも定着した。自動車、ビル、発電所でも、化石燃料の燃焼効率がずっとよくなった。原料のムダも省かれるようになった。その点では、かつてのマルサスの予言と同様、環境主義者の悲観論も杞憂に終わった、と著者は論じている。
 だが、1973年には経済にふたつの大きな地殻変動が発生する。ひとつは固定為替制から変動為替制への移行、もうひとつは石油ショック。その結果生じたのがスタグフレーションである。
 1973年の景気は明るいとみられていた。所得は上がり、消費も好調だった。とりわけ住宅価格が上がっていた。ところがインフレが進み、為替投機がはじまり、スミソニアン協定で決められた為替レートがもちこたえられなくなると、株価が下落する。
 ドルが崩壊しようとしていた。ドル建てで収入を得る石油輸出国機構(OPEC)は、これに不満をいだき、石油価格の値上げを要求した。そのリーダーとなったのが、サウジアラビアの石油相アハマド・ザキ・ヤマニだった。
 1960年代、石油輸出国は貧しかった。石油ビジネスは欧米の企業グループが握っていたのだ。これに対抗するため、サウジアラビアなど5カ国がOPECをつくった。サウジ、クウェート、アラブ首長国連邦、カタールは欧米の石油大手企業に、国有化をちらつかせながら、企業の所有権の一部売却を迫り、ついにそれを勝ち取る。
 1972年にはドルの購買力低下を理由に、アラブ6カ国が石油価格値上げを求めた。交渉の結果、1973年6月には、1バレル=2ドル59セントだった石油が1バレル=2ドル90セントへと値上がりする。
 そこに1973年10月、第4次中東戦争が勃発する。中東6カ国は、イスラエルと戦うエジプト、シリアを支援するため、石油価格を一挙に2倍の1バレル=5ドル12セントに上げた。
 そのころ世界経済は好況で、むしろ物資不足におちいっていた。日本のメーカーは電力から鉄鉱まで、何もかも不足していると訴えている状況だった。紙も繊維も生産が追いつかなかった。物価も上がっていた。完全雇用のもとで、インフレが進行していたのだ。政府はインフレを抑えるため、需要抑制政策(増税、政府支出削減、高金利、銀行融資制限)を打ちだそうとしていたほどだ。
 そこに石油ショックがやってくる。石油価格が2倍になったことで、生産コストが一気に上昇する。生産性の上昇だけでは、このコストアップを吸収できない。

〈石油の高値は、安価な石油を前提として構築された産業基盤全体を時代遅れにしようとしていた。世界は、その後何年も続く困難かつ金のかかる調整に苦しめられることになる。〉

 デマンドプル(需要牽引型)インフレがあったところに、コストプル(原価上昇型)インフレが追い打ちをかけた。しかも生産性の上昇がみられないことから、インフレが進行しているにもかかわらず、経済が停滞する現象が発生した。それがスタグフレーションである。

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