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山本義隆『近代日本150年』を読む(4) [本]

 1945年8月、アジア・太平洋戦争の敗北により帝国日本は崩壊した。しかし、総力戦体制で形成された戦時体制の多くはその後も残りつづけた、と著者はみている。
 戦後の農地改革にせよ、じつは小作制度は戦時下の食管制度のもとですでに形骸化していた。健康管理制度がはじまったのも戦時中だ。いっぽう占領下でも、官僚機構はほとんどそのまま維持された。
 戦後の高度成長は、満州の地ではじまった総力戦体制の延長上に準備されたものだという。「科学技術の世界では戦後の戦中との連続性がとりわけ顕著であった」。科学の発展も総力戦時代の発想を引き継いでいるというわけだ。
 科学者の内部からは戦争への反省がほとんど聞こえてこなかった。むしろ、日本は科学戦で敗れたのだという無責任な発言が飛びだすほどだった。湯川秀樹さえ、日本は「総力戦の一環としての科学戦においても残念ながら敗北した」と語っている。
 こうした発言は、アメリカに先立って日本が原爆を製造できなかった悔しさを表現したもので、そこにはアジア侵略の政治的・道義的責任のかけらもみられない、と著者はいう。加えて、戦争に加担した科学者の責任はなんら問われることがなかった。むしろ、科学者は軍によって冷遇されていたとの見方さえ広がるほどだった。
 戦後は「科学振興による平和国家の建設」がうたわれるようになるが、それは高度国防国家の建設という戦前の看板を書き換えただけだ、と著者は皮肉る。何はともあれ、戦後、科学と科学技術にたいする信頼はむしろ強化され、科学技術立国が戦後の国是となった。
 戦後の高度成長も戦時の総力戦体制の思想を引き継いでいた。1950年代に政府は重点産業に国家資金を積極的に投入し、電力、造船、鉄鋼部門の再建をはかった。自動車産業をはじめとする機械工業の育成にも取り組んだ。
 1960年代には産業構造の軸を重化学工業に移して、輸出産業の発展に重点が置かれた。「官僚機構と産業界と大学の協働による1960年代の経済成長は、戦後版の総力戦であった」
 戦後の高度成長は、戦時下に開発された軍事技術に支えられていた。戦時下のレーダー開発は、戦後のトランジスターやダイオードへとつながり、電気通信分野の基礎となった。
 東芝、日立、松下はいずれも軍需生産を担っていた企業である。ソニーもまた海軍技術研究所の人脈が母体になっている。トヨタ、日産、いすゞ、三菱などの自動車産業、それに国鉄などの鉄道技術は、いずれも戦前の軍事技術が基盤になっているという。
 著者はまた1950年代の朝鮮特需、1965年以降のベトナム特需が日本の経済成長を支えたことを忘れてはならないという。さらに「60年代に日本本土が平和で高度成長を維持できたのも、沖縄に米軍と統治と基地を押しつけ続けていたからこそであった」。
 軍需産業も徐々に復活を遂げた。自衛隊が誕生すると、企業の本格的な軍事技術開発がスタートした。1960年代にはいると国産化による兵器生産の道が探られるようになる。三菱重工や川崎重工、石川島播磨重工、東芝、富士重工などがそれにかかわった。
「戦後の航空機産業は自衛隊に依存して復活を遂げた」。戦闘機だけではない。イージス艦や軍用ミサイルなどの開発も進められた。戦後は平和技術が優位だったというのは神話にすぎない、と著者は断言する。
「自衛隊の増強、そして防衛予算の増大とともに、日本の軍需産業は着実に肥大化し実力をつけていった」。三菱電機や富士通、日本電気、日産自動車なども防衛産業に深くかかわっており、東芝には防衛整備部門が備わっているという。
 高度成長により日本人の生活はたしかに便利になった。しかし、そのいっぽうでさまざまな問題が生まれていた。交通戦争や通勤地獄、公害や自然環境の破壊、地域共同体の崩壊、地価の高騰などである。
 水俣の悲劇を忘れることはできない。

〈生産第一・成長第一とする明治150年の日本の歩みは、つねに弱者の生活と生命の軽視をともなって進められてきたと言わざるをえない。その挙句に、日本は福島の破局を生むことになる。〉

 高度成長期に官僚機構と企業、大学は協働体制にあった。まさに総力戦だったのだ。公害や事故が発生しても、大学の専門家は政府や企業の肩をもち、被害者の労働者や住民にはむしろ冷たい姿勢をとっていた。「『専門の知』なるものが患者や地域の住民や被災者にとっては権力としてあったのだ」
 科学技術性善説と成長神話を見直すべき時期にきていた。公害の深刻化や環境汚染はもはや見逃すことができなかった。1970年以降、さすがの政府も公害規制に乗りだす。いっぽう日本企業は生産拠点を海外に移し、経済の合理化・効率化をはかるとともに、アメリカ市場を中心に輸出を伸ばしつづけていった。
 しかし、1990年代にはいると、中国、韓国、台湾、インドなどが台頭し、日本企業は競争力を失ってしまう。資源多消費型の基幹産業はいまでは衰退産業となり、それに代わってIT産業や情報技術が登場してくる。だが、日本はアメリカに大きく水をあけられてしまった。そこで、政府は企業を支援するため、法人税率を下げ、非正規雇用を認めて賃金を押し下げる政策をとった。

〈実際、現在多くの労働者は、結婚すらできない状態に置かれている。しかしそうなると、早い話、物を作っても売れなくなっているのであり、たとえ金融緩和があっても、企業が国内で積極的に設備投資にむかうこともない。だいいち結婚もできない、子育てもできないとなると、少子高齢化は必然的になる。そのようにして人口が減少している現在、将来的な市場の拡大は望むべくもなく、経済成長の現実的条件は失われているのである。〉

 いま安倍政権のもとで、政府と財界は海外への原発輸出と並んで武器輸出を画策しているという。外国企業と競争できる武器を生産するには、大学の協力体制が欠かせない。兵器生産や武器輸出が犯罪行為であることはいうまでもない。いくら経済のためとはいえ、そんなことはやめるべきだ、と著者はいう。
 最後の章は「原子力開発をめぐって」。
 核開発はもともと軍事目的で進められた。1945年8月6日、ウラン爆弾が広島に、8月9日、プルトニウム爆弾が長崎に投下された。
 原爆のために開発された核エネルギーを発電に利用しようとするこころみが登場したのは戦後である。日本はそれを原子力の平和利用という名目で受け入れることになった。
 しかし、そもそも軍事技術と非軍事技術の境界はあいまいで、とくに核技術は原爆製造に直結する技術にちがいなかった。著者によれば、岸信介は日本がその気になればいつでも核武装できる状態に転換できるようにするため、原子力開発に熱心に取り組んだという。実際、岸は1957年に「現行憲法下でも、自衛のための核兵器保有は許される」と語っている。
 日本の原子力開発は経済問題にとどまらず、軍事や外交の問題ともからんでいた。「将来的な核武装のオプションを残しておくという日本の一部の支配層の思惑を過小視してはならない」と著者はいう。
 原子力発電についていうと、戦後、日本は最初イギリスからコールダーホール型原子炉を取り入れたが、すぐにアメリカの軽水炉が取って代わった。
 日本の原子力開発は通産省と科学技術庁の二本立てでおこなわれたという。通産省は電力会社、原発メーカーと組んで、商業用の原子炉を建設した。いっぽう科学技術庁は増殖炉の技術開発をめざした(けっきょくのところ失敗)。
 日本の原発建設にはずみがついたのは1973年の石油ショック以降である。20世紀末に日本は有数の原子力大国になっていた。日立、東芝、三菱などの原発メーカーは「国策会社」は保護され、原子力ムラができあがった。
 しかし、原子力工学はそれ自体きわめて問題のある技術で、とりわけ原子力発電は、民生用技術としてはきわめて未熟で不完全だ、と著者はいう。

〈そもそも原発は、軽水炉にかぎらず、燃料としてのウラン採掘の過程から定期点検にいたるまで労働者の被曝が避けられないという問題、運転過程での熱汚染と放射能汚染という地球環境への重大な影響、そして使用後にはリサイクルはおろか人の立ち入りをも拒む巨大な廃炉が残され、さらに数十万年にわたって危険な放射線を出し続ける使用済み核燃料の処分方法が未解決であるという、およそ民生用の商品としては致命的ともみられる重要な欠陥をいくつも有している。〉

 原発はほんらい商品としては市場に出せない未成熟な技術なのだ。さらに原発とそれまでの技術とのちがいは、原発はひとたび大事故を起こすと、人間のコントロールがきかなくなり、取り返しのつかない惨事を招くということだ。
 こうして、2011年3月、福島第一原発の爆発事故が発生した。日本人はこの事故の後始末に今後何十年もつきあっていかなければならない。
 これからどのような社会をめざすべきなのだろうか。著者はこう書いている。

〈限りある資源とエネルギーを大切にして持続可能な社会を形成し、税制や社会保障制度をとおして貧富の差をなくしていくことこそが、現在必要とされている。かつて東アジアの諸国を侵略し、二度の原爆被害を受け、そして福島の事故を起こした国の責任として、軍需産業からの撤退と原子力使用からの脱却を宣言し、将来的な核武装の可能性をはっきりと否定し、経済成長・国際競争にかわる低成長下での民衆の国際連帯を追求し、そのことで世界に貢献する道を選ぶべきなのだ。〉

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山本義隆『近代日本150年』を読む(3) [本]

「[1914年の]第1次世界大戦への『参戦』と『勝利』は、その後のシベリア出兵そして日中戦争とアジア・太平洋戦争への道を開くものであった」と著者は書いている。
 第1次世界大戦は最初の科学戦だったといわれる。ドイツでは一流の学者がこぞって毒ガス研究に没頭し、イギリスでも超一流の物理学者が無線電信や潜水艦探知などの軍事研究に従事した。実際、このときの戦争では、軍用自動車や重砲戦車、軍用航空機、飛行船、潜水艦、機関銃、無煙火薬、焼夷弾、毒ガスなども使用されている。
 日本も科学戦の動向にすばやく対応した。国家による組織的な科学技術研究、工学研究がはじまった。それを支えたのは日本経済の発展であり、この時期に各種の研究機関や学術研究会議、航空気象調査委員会などが発足している。
 日本のネックは資源だった。それを打開する鍵が本格的な化学工業にあると考えた政府はドイツを見習って、近代化学工業の育成に乗りだした。
 明治のはじめから軍は火薬や爆薬を自給するようになっていた。大阪に硫酸や炭酸ナトリウム、ガス、コークスの製造工場をつくり、これを民間に払い下げたりもしている。
 とはいえ、明治期、民間の化学工業といえば、化学肥料が中心で、大正期まで日本は化学工業製品の多くを輸入に頼っていた。1915年に政府は国策の染料会社を発足させる。染料工業は毒ガス製造と深くかかわっていたから、潜在的軍事力とみなされていたのだ。
 ヨーロッパにおいて、第1次世界大戦は国家総力戦の様相を呈した。そこで問われていたのは軍備の近代化だけではない。新たに登場した自動車や航空機も軍事の一環としてとらえられていた。そのため、「日本では自動車産業も航空機産業も、ともに兵器産業として育成された」のだという。
 化学工業の発展は電力を抜きにしては考えられなかった。日本で化学工業が本格化するのは20世紀にはいってからである。日本カーバイド商会の工場が水俣に建設されたのは1906年で、その会社はまもなく日本窒素肥料と名前を変えた。
 日本窒素肥料は石灰窒素肥料を硫安に変成するだけではなく、1920年代からは合成アンモニアを生みだしていく。工場がつくられたのは内地だけではない。朝鮮半島にも巨大コンビナートが次々とつくられていった。窒素を扱う肥料工場はそのまま爆薬工場に転換することができた。その意味で肥料産業は「国防産業」にほかならなかった。
 朝鮮半島ではコンビナート建設と並行して、鴨緑江上流に次々と水力発電用の巨大ダムがつくられていった。なかでも水豊ダムは、貯水湖の面積が琵琶湖の半分という巨大なもので、その最大出力は戦後の黒四ダムの倍以上だった。このダムを建設するために、現地の朝鮮人や中国人は使役されたり、強制移住させられたりした。「エネルギー革命による最新化学工業の発展は、植民地の資源と労働力に支えられていた」と、著者はいう。
 1930年代にはいると、日本では軍と官僚による統制経済の色彩が強まっていく。技術官僚や技術エリートも政治に積極的にかかわり、技術こそ「国防国家」最重要資源のひとつだと主張するようになっていた。
 1937年に日中戦争が勃発すると、軍需産業優先と経済直接統制の姿勢がさらに強まり、軍需にかかわる主要工場は陸海軍の管理下におかれるようになった。内閣には国家総動員の中枢機関として企画院が設立された。そして、翌1938年には国家総動員令が発令され、政府の権限が強められた。
 統制経済の焦点は、電力の国家管理だった。1931年の電気事業法により、電力料金は認可制となり、政府が決定することになった。1938年には電力国家管理法により、大半の電力会社が統合され、日本発送電株式会社がつくられる。さらにその4年後には北海道から九州まで9ブロックの配電会社が設立された。それが現在の9電力体制の原型である。そのとき、電力国家統制の目的が軍事におかれていたことはいうまでもない。
 昭和のはじめ、日本の産業の中心は紡績や製糸の繊維産業から、すでに機械、金属、化学などの重化学工業に移行していたが、列強との競争に勝ち抜くために科学技術の開発がさらに求められていた。1932年には学術振興会がつくられる。軍と産業の要請にこたえ、科学技術研究を促進することが目的だった。学術振興会の研究費が主として配分されたのは、航空燃料、無線通信、原子核・宇宙線研究だった。いずれも軍事にかかわる分野である。
 1937年の日中戦争勃発後は、「科学動員」が叫ばれるようになる。資源不足を補うため、空中窒素を固定して火薬をつくったり、粘土からアルミをつくったりするのも科学の役割だとされていた。
 大学もまた研究体制の拡充と近代化を求められていた。文部省はこれまで以上に積極的に科学行政に取り組み、大学での軍事研究に文部省科学研究費、通称「科研費」を支出するようになった。海洋研究や気象観測もめざましい進展をみせた。戦争遂行が科学の発展を促していた。
「科学動員・科学振興が叫ばれていたこの時代は、同時に、学問の自由が侵され、反文化主義・反知性主義の横行した時代でもあった」と、著者は論じている。天孫降臨神話や、万世一系の天皇をいだく神国日本といったイデオロギーが声高に語られていた。それは田辺元のいうように、科学的精神とは正反対の蒙昧主義にほかならなかった。
 国粋主義者による国民の思想統制が進むいっぽうで、軍部は科学なくして近代戦は戦えないと考えていた。1938年の国家総動員法は、科学者や技術者を戦争遂行に向けて動員することをも目指していた。軍部独裁による総力戦体制・高度国防国家の建設が進んでいたのだ。
 1940年6月にはじまる「新体制運動」は、経済の統制と科学技術による国家総力戦体制の確立をめざした。当時は、マルクス主義者のあいだでも、経済統制や技術統制を評価する向きが強くなっていた、と著者は指摘する。
 さらに、著者はこう記している。

〈「資源小国」の観念に囚われていた日本の支配層にとって、資源確保は何事にもまさる優先事項と考えられていたのであり、満洲国の建設から南方への進駐、そして大東亜共栄圏の確立は、すべて資源の収奪を第一の目的にしていた。〉

 資源確保がすべて戦争遂行に向けられていたことはいうまでもない。1942年には技術院が発足するが、それはいわば「技術参謀本部」だった。科学界はむしろこうした動きを歓迎し、「自主的に学問統制・研究動員への協力」に応じた。「大部分の理工系の学者は、研究費が潤沢であるかぎりで、科学動員による戦時下の科学技術ブームに満足していた」と著者はいう。
 総力戦体制は、国民を「国民共同体」と一体化させるこころみでもあった。戦時中の食糧管理制度、国民健康保険改革などは、一種の社会革命であって、社会関係の平等化、近代化をもたらした。だが、こうした福祉国家政策が戦時動員体制と深く結びついていたことも事実だ。過度の社会格差は、徴兵制にとっても不都合と考えられていたからである。
 科学振興の目的は、不足資源の補填と生産力拡充にあった。だが、その陰で、労働者は酷使され、それにともない各地で労働災害が頻発していた。炭鉱災害や工場火災も増えていた。戦争がはじまり、労働力がさらに払底すると、強制連行された多くの朝鮮人や中国人が炭鉱などで働かされるようになった。「科学技術の急速な振興と、それによる急ピッチの生産拡大は、その背後でつねに弱者にたいする犠牲をもたらしてきた」と、著者は指摘している。

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山本義隆『近代日本150年』を読む(2) [本]

 明治国家は殖産興業・富国強兵をスローガンにかかげた。「軍と産業の近代化が同時並行で上から進められたことが、日本の資本主義化を特徴づけている」と、著者は書いている。
 その役割を担ったのが兵部省(のちの陸軍省・海軍省)と工部省である。軍は西南諸藩の兵器工場や造船所を接収し、官営の軍事工場とした。いっぽう、工部省は諸藩の産業設備を引き継ぐとともに、官営工場を設立した。それとともに、工業技術者を養成するために、工学寮(後の工部大学校)をつくった。
 文部省の指導により、法・理・文・医の4学部からなる東京大学が誕生したのは1877(明治10)年のことである。そして、1885(明治18)年に工部大学校が東京大学に併合され、翌年、帝国大学が生まれる(1897年に東京帝国大学と改称)。
 工部大学校と東京大学が併存していた時代は、工部大学校が技術者教育の主流だったという。だが、帝国大学が生まれ、そのなかに工科大学(現在の東大工学部の前身)ができると、その重点は技術者養成自体よりも学理研究に置かれるようになった。大学を卒業した工学士は、国家に仕えるとともに、民を見下すエリートとして振る舞った、と著者はいう。
 1886年の帝国大学誕生は日本の産業革命開始と重なる。近代的な官僚制度がつくられるようになったのはこのころだが、大学での物理学講義も外国語から日本語に変わっている。日本は古典物理学の体系が整った絶妙のタイミングで西欧科学を移植した、と著者は指摘する。だが、その目的はあくまでも実用性と国力増強に置かれていた。
 日本が西洋技術の習得と導入に成功した理由は、ひとつにタイミングのよさが挙げられる。「蒸気と電気の使用によるエネルギー革命が欧米で起こってから明治維新まで、せいぜい半世紀、追いつくことのできるぎりぎり可能な時間差であった」。しかも、日本には最新の機械技術を取り入れられるというメリットもあった。
 日本の産業化は国家権力、すなわち上からの主導によって進められた。電信の敷設は1869年にはじまり、1879年にはほぼ主要都市を結ぶネットワークが完成している。新橋−横浜間に鉄道が開通するのは1872年のことで、当時、汽車は陸蒸気(おかじょうき)と呼ばれていた。鉄道(まさに鉄と石炭)は文明化と富国化のバロメーターととらえられていた。電信と鉄道はその後も配備され、郵便制度と合わせて、国内市場統一の土台となっていく。
 蒸気動力は製糸業にも導入された。1872年には官営の富岡製糸場がつくられる。その後、製糸業の機械化は全国に普及し、生糸は日本の輸出を支える主要商品になっていく。
 明治中期には製糸業と並んで紡績業も発展する。紡績業の急成長も、蒸気動力と機械化なしにはなり遂げられなかった。紡績業の代表が1882年に設立された大阪紡績である。安い中国・インド綿の使用、最新式のリング精紡機の導入、若い女工による昼夜二交代勤務がこの産業を支えていた。
 そして、日本では産業設備のメインテナンスを可能にするだけの技術力がすでに民間に備わっていた。輸入機械の部品製造や「使い勝手の良い和洋折衷の機械、あるいは比較的単純で小型化された模倣品」がつくられるようになったのは、こうした土台があったからだ。
 近代化の次のステップとなったのが電化である。電力エネルギーの特徴は汎用性にあった。電力は動力だけではなく、暖房や照明、情報通信や化学反応にも用いることができる。日本では1883年に東京電燈が設立され、1887年には神戸、大阪、京都にも電燈会社がつくられていた。この年、東京・日本橋には火力発電所が設けられ、1891年には京都に水力発電所が完成している。
 その後、京都を皮切りに名古屋、大阪、東京では、電気を使った路面電車が走るようになる。ローソクや石油に変わって、家庭に白熱電灯が普及するのは20世紀にはいってからのことだ。
 だが、産業化の背後では、すでにおびただしい犠牲や被害が生まれていた。女工と呼ばれた若年女子労働者には昼夜10時間の苛酷な労働が課されていた。明治時代の製糸業と紡績業は「ウルトラ・ブラック企業」だった、と著者はいう。機械化は労働を軽減するのではなく、かえって労働を強化する方向に作用していたのだ。
 足尾鉱毒事件もこの時代を象徴する悲惨なできごとだった。銅の需要は電力使用の拡大とともに増大していた。電気伝導度が高く、柔らかくて加工しやすい銅は、電力には欠かせない産物だった。だが、そのための犠牲は大きかった。周辺の山林は破壊され、川は汚染され、農業や漁業の被害が拡大した。
 著者はいう。

〈官民挙げての『国益』追求のためには、少数者の犠牲はやむをえないというこの論理は、その後、今日にいたるまで、水俣で、三里塚で、沖縄で、そして日本各地で、幾度もくり返され、弱者の犠牲を生み出してきたのである。〉

 日本の近代化は周辺のアジア諸国にも大きな影響をもたらした。西洋へのコンプレックスは、アジア諸国への優越感をともなっていた。
 日本は朝鮮支配をめぐって清国と争う。その結果、1894年に日清戦争が勃発した。
 日本の近代化は軍事化と並行して進んだ。電信や鉄道も軍事と密接にかかわっていた。1894年には、すでに釜山、漢城(現ソウル)、仁川などにも電報局が開設されている。京城(現ソウル)と釜山を結ぶ京釜鉄道の建設がはじまるのは1898年のことである。以降、朝鮮での電信設置と鉄道敷設は怒濤のようにつづく。最終的な目標は中国大陸への進出だった。
 日本の重工業化が軌道に乗るのは、1904〜05年の日露戦争後である。それまでは製糸、紡績、マッチ製造、織物、たばこ、製紙などが産業の中心だった。1901年に操業を開始した八幡製鉄所は、日露戦争後、満州の鉄と石炭を得ることによって、鉄鋼自給体制を築くことに成功した。それに呼応して、造船業や機械工業も発展していく。
 日本でエネルギー革命をともなう産業革命が完成するのは、ちょうど第1次世界大戦中の1910年代半ばだった、と著者はいう。蒸気エネルギーに代わって電力エネルギーが工場制機械工業を支えるようになった。そのころ、日本各地で数多くの水力発電所がつくられている。
 京都帝大は日清戦争の賠償金でつくられ、九州帝大と東北帝大は古川鉱業の寄付によって生まれたという。
 各地の帝国大学で教えられる物理学や化学は、国家主義と実用主義に枠づけられていた。当初、日本の物理学は電気工学が中心だったが、さらに地震学や気象学、測地学、海洋学などの地球物理学にも広がっていく。これらが軍事や国防と密接に結びついていたことはいうまでもない。台湾や朝鮮、満州、中国本土での日々の気象観測は、けっして戦争とは無縁ではなかった。
 帝国大学では早くから軍と学の協力関係がはじまっていた。著者はその象徴的人物として、東大理学部物理教室の創設者とされる田中館愛橘(たなかだて・あいきつ、1856-1952)の名前を挙げている。田中館は軍と協力しながら、全国的な地磁気測定をおこない、さらに航空学の講座や研究所をつくり、科学を戦争のために利用することに努めた。
 そうした姿勢はもちろん田中館だけにかぎられていたわけではない。物理学者の長岡半太郎も軍事技術の開発を熱心に支援した。世界に先駆けて無線電信装置を戦争で利用したのは日本が最初だった。
 民間での発明も見逃せない。京都の島津源蔵(島津製作所)がつくった蓄電池は日露戦争でおおいに効果を発揮した。屋井先蔵が1887年に発明した乾電池を、陸軍は厳寒の中国大陸で電信機の電源として用いている。
 こうして、著者は科学技術が軍事と密接につながっていたことを指摘するのである。
 つづきは、また次回。

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山本義隆『近代日本150年』を読む(1) [本]

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 科学技術の面から日本の近代化をとらえなおそうとした力作といえるだろう。
 序文にはこうある。

〈明治以降の日本の近代化は、中央官庁と産業界と軍そして国策大学としての帝国大学の協働により、生産力の増強による経済成長とそのための科学技術の振興を至上の価値として進められてきた。戦後の復興もその延長線上にあった。明治の「殖産興業・富国強兵」の歩みは、「高度国防国家建設」をめざす戦時下の総力戦体制をへて、戦後の「経済成長・国際競争」へと引き継がれていったのである。〉

 近代日本の歩みは、最新の科学技術をとりいれ、ひたすら国力の増強をはかることに向けられていた、と著者は論じている。それは明治から平成の現在まで変わらなかった。
 国力とはいったい何だろう。それは軍事力であったり、経済力であったり、あるいは文化力であったりする。だが、要は外に向かって誇示する国の力だといってよい。だが、はたして、それにどれだけの意味があるのか。国力を求めるあまりに、犠牲になっているものが、実に多いのではないか。まして、それが戦争である場合は、内外にわたる犠牲はあまりにも大きい。
「大国主義ナショナリズムに突き動かされて進められてきた日本の近代化をあらためて見直すべき決定的なときがきている」と著者はいう。それは国力の思想から転換すべきだという主張だとみてもよい。
 本書の記述にしたがって、幕末からの歩みをふり返ってみることにしよう。
 まず第1章の「欧米との出会い」を読んでみる。
 江戸時代の蘭学は医学が中心で、せいぜい本草学や天文学、そのほか趣味の技術が受け入れられていたにすぎなかった。ところが、1842年に中国がアヘン戦争で敗れ、1853年と54年にペリーが来航すると、日本は列強の脅威を感じるようになる。
 1855年、幕府は洋学所(のち蕃書調所)を開設し、西洋の軍事技術を研究するようになった。長崎には海軍伝習所がつくられ、航海術の実習もはじまった。
「医師の蘭学」から「武士の洋学」への転換がなされた、と著者は書いている。この場合、洋学とは兵学、すなわち軍事技術にほかならなかった。
 欧米と日本の力の差はどこにあったのだろう。1860(万延元)年に渡米した幕府使節団の玉虫左太夫は、工場を見て回り、蒸気動力による機械の強大な生産能力に驚きを隠せなかった。このとき同行した福沢諭吉も、蒸気機関と電信機が世界を変えたという思いをいだいた。
 1871(明治4)年に明治新政府の首脳陣は2年近くにわたり、欧米諸国を視察した。いわゆる岩倉(具視)使節団である。西洋各国の制度、法律、財政、産業、軍事を調査することが大きな目的だった。その記録は久米邦武の『欧米回覧実記』に残されている。
 著者によれば、使節団は「機械化された大規模な工場によって商品が大量に生産されている欧米の工業と商業に圧倒されていた」。とりわけ、それを支える石炭と鉄こそが、国富の源泉だと感じていた。
 それまで日本では工業や商業は、ほかのアジア諸国と同様、いやしまれ、軽んじられてきたといってよい。欧米での見聞は、そうした政治意識を大きく揺り動かすものとなった。
 著者はこう書いている。

〈欧米諸国が帝国主義段階にむかいつつあるこの時代に福沢や久米たちが見たのは、科学が技術に直結し、産業の発展と軍事力の強化にとって不可欠の要素となっていることにとどまらず、国家が科学技術の振興と革新を積極的に支援していることであった。〉

 西洋コンプレックスという言い方があるが、それは単なる劣等感ではない。西洋への恐怖感でもあった。西洋的なものを取り入れていかなければ、日本は生き残っていけないという思いが、強迫観念のようになって、明治の支配層の頭に染みついていたのではないだろうか。その意味で、幕末の「尊皇攘夷」思想は、明治の「独裁欧化」思想に転化する契機をはらんでいたともいえる。
 明治になっても官の優位という考え方は根強く残っていた。欧化、すなわち「文明開化」は大衆への啓蒙(上からの意識注入)のかたちで実施される。それを象徴する著述が福沢諭吉の『文明論之概略』だったといってよい。
 福沢は東洋にないものは、数理学と独立心だと書いている。つまり科学と公民意識だと言い換えてもよいだろう。
 独裁政権のもとでは国民意識は育ちようもなかった。いっぽう数理学の中心が「窮理学」であることを福沢は認めている。窮理学とは、いまでいう物理学や化学などを中心とする自然科学のことである。福沢の『訓蒙窮理図解』は、日本で窮理学ブームを巻き起こすきっかけになった、と著者は書いている。その中心テーマは機械と蒸気、電気だった。好奇心の強い日本の民衆は、新しい西洋の科学に無関心ではいられなかった。
 ここで、著者は科学と技術が異なることに注意をうながしている。科学は世界の理解と説明をめざし、何らかの実際的応用を意図しているわけではなかった。科学が技術と本格的に結びつくようになるのは19世紀になってからだ。それによって科学自身も「自然への働きかけの指針を与えるもの」へと変わっていく。
 日本はまさに「科学技術」の生まれた時代の西洋と接触したのだ。福沢は西洋の技術の背後に「窮理学」(物理学や化学)をみた。それは裏返せば、日本では西洋の科学がもっぱら「実用の学」として受け止められたということを意味している、と著者はいう。

〈西欧の技術を科学技術と捉えた明治日本は、そのことで、科学を技術のためのもの、言うならば技術形成の妙法と矮小化することになったが、逆に技術にたいしては、過剰に合理的な、そして過度に強力有効なものとして受け止め、受け入れることになった。〉

 そこにいわば「科学技術幻想」なるものが生まれる。とはいえ、西洋でもこのころ科学は自然の秘密を解き明かすだけではなく、技術と融合して自然を征服するための研究として位置づけられるようになっていたのだ。
 近代科学にもとづく技術への過大な期待が生まれていた。福沢自身も『文明論之概略』のなかで、大洋を渡る蒸気船やアルプスのトンネル、避雷針、科学肥料、電信機などを絶賛している。こうした過大な科学技術幻想が明治維新以後150年にわたって日本を呪縛したのだ、と著者は指摘する。
 ちいさな本だが、大きな内容がつまっている。
 なかなか進まないけれど、少しずつでも読んでいくことにしよう。

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マルク・レヴィンソン『例外時代──高度成長はいかに特殊であったのか』短評 [本]

 20世紀後半の経済史は「世界の多くの地域で異常なほどの好景気が見られた」戦後期と、「繁栄のぬくもりが冷たい不安感に取って代わられた」1970年代半ば以降とに分けられるという。しかし、本書が単なる経済書ではないと感じるのは、ここにはぼく自身のこれまで生きてきた時代が、多彩な人物とともに世界的視野でえがかれているからかもしれない。
 いろいろなことを思いだしながら読んだ。繁栄の時代から不安の時代へというのは、まるで自身の心象風景のようでもある。不安の時代の先には何があるのかという思いにも駆られる。社会主義が崩壊したあと、資本主義もまた終焉を迎えるのだろうか。それとも何かこれまでとはまったくちがうポスト資本主義の世界が生まれようとしているのだろうか。
 だが、それは本書の課題ではない。焦点となるのは1970年代である。あのころ、経済史のうえでは「例外時代」だった黄金期が終わって、競争と格差という通常の経済過程が再開されたのだという。いったい何がおこったのだろう。重点はその時代を再現することにおかれている。「例外時代」、すなわち高度経済成長時代はむしろ背景として論じられるにすぎない。中心となるのは「例外時代」ではなく、黄金期の崩壊過程だといってもよい。そして、われわれはいまポスト黄金期を生きているわけだ。
 戦後の四半世紀はどういう時代だったのだろう。1945年から1970年代初頭までは、驚異的な経済発展があり、人びとの生活水準は大きく上昇した。多くの庶民がマイホームを獲得した。冷蔵庫やテレビ、洗濯機、掃除機、自動車などが普及するもこの時代である。失業保険や老齢年金、健康保険なども導入され、福祉が充実する。子どもたちは親の扶養義務をまぬかれるようになった。高校や大学への進学率も高まっていく。戦争が終わった荒廃のなかで、こんな奇跡がおこるなどとは、ほとんどだれもが思っていなかった。
 こう書いていて、ぼく自身も少年のころを思いだす。わが家にテレビがやってきたのは中学生のころだ。そのころまで冷蔵庫や洗濯機も掃除機もなかった。あのころはご飯もかまどで炊いていた。父親が自動車に乗るようになったのは高校にはいったころだろうか。それまでは自転車やスクーターだった。ぼくが大学に行けたのも、たぶん高度経済成長で家庭にゆとりができたおかげである。ああそれなのに、と反省はつづくけれど。
 自分のとしのせいもあるが、その後あの時代の高揚感はなくなってしまった。だが、はたしてそれは黄金期だったといえるのか。たしかに生活革命はもたらされたが、そのいっぽうで、何ごともがカネの時代がはじまっていた。工場や家庭の排水で海や川は汚れに汚れていた。アジアでは冷戦どころか朝鮮戦争にはじまりベトナム戦争にいたる熱い戦争がつづいていた。黄金期の陰ではすでに闇が深くなっていたのだ。68年の学生反乱などを嚆矢として、その闇が噴出するのが1970年代だったのではないだろうか。
 本書は70年代におきた経済の地殻変動に焦点をあてている。
 1972年にローマ・クラブは『成長の限界』というセンセーショナルな本を出版した(実際の著者はマサチューセッツ工科大学の研究者グループ)。そこには、世界がこのままあくなき経済成長をつづければ、環境汚染、資源枯渇、人口増加、食料不足によって、100年後に地球が危機におちいると記されていた。しかし、ローマ・クラブの報告をまつまでもなく、すでに環境汚染は深刻さを増していた。各国が野放図な経済活動に歯止めをかけ、環境規制を実施するようになったのはこのころからだ。
 さらに1973年にはふたつの大きなできごとが発生する。ひとつは固定為替制から変動為替制への移行、もうひとつは石油ショックである。アメリカは1971年のスミソニアン協定により、なんとか固定為替制を維持しようとしたが、国内のインフレと為替投機が進んで、けっきょくもちこたえられなかった。いっぽうドル建てで収入を得ていた石油輸出国機構(OPEC)は、弱くなるドルに不満をいだき、以前から石油価格の値上げを要求していた。そこに第4次中東戦争が勃発し、OPECはいきなり石油価格を2倍に上げるという行動にでた。それにより各国の生産コストは一気に上昇し、インフレにもかかわらず経済が停滞するスタグフレーションが発生した。
 石油価格の上昇は産油国にオイルマネーをもたらした。だが、皮肉なことに、オイルマネーは国内に直接投資されることなく、欧米の銀行に流れこんでいく。その結果、イギリスやドイツでは不動産バブルが生じ、それがはじけて、多くの中小銀行が破綻した。為替相場の変動とあいまって、金融システムがマネーゲームによって振り回される時代がはじまったのだ。
 石油ショック後の状況に対応するため、アメリカは規制緩和を打ちだす。それによって企業の競争を促進し、イノベーションをはかり、経済を活性化しようとした。だが、競争の激化によって、それ以降、経済の安定性は失われ、産業分野や地域に激しい盛衰の波がやってくる。
 いっぽう日本はアメリカとは対照的に、エネルギーの節約をはかり輸出を増大させることで危機を乗り切ろうとした。日本の自動車輸出量は1973年から1980年のあいだに3倍となった。高性能のテレビやカメラ、精密機械、電子機器、コピー機などの輸出にも拍車がかかった。だが、それによって貿易摩擦が生じ、アメリカは保護主義へと動いた。日本は自動車輸出の「自主規制」を迫られていく。
 1970年代半ば以降のもうひとつの特徴は、戦後の平等化傾向が逆転することだ。賃金の伸びが鈍化し、経済格差が広がっていった。これはほぼ世界共通の現象である。ほとんど大きくならない経済のパイにたいし、労働者の受け取る報酬分が減り、資本の所有者の取り分が増えていく。技術進歩と競争の激化によって、労働分配率が下がっていった。
 さらに福祉国家の理念もこのころから逆風にさらされるようになった。経済が低迷し、社会保障への要求がふくらむなか、ほとんどの国が税率を引き上げている。それでも帳尻はあわなかった。そこで、政府は借り入れを重ね、財政赤字があたりまえになっていく。
 政治も方向性を失っていった。ソ連では民衆の不満が高まり、やがて体制崩壊へといたる。西側でも第2次世界大戦後の経済モデルが破綻し、それまでの左派政権が崩壊していく。イギリスでは1979年にサッチャー政権が成立する。1980年、アメリカではカーターに代わって、レーガンが大統領に当選した。西ドイツでも1982年にこれまでの社会民主党に代わって、キリスト教民主同盟のコール政権が誕生する。日本でも中曽根政権が成立した。こうして世界の政治はこぞって右旋回していく。唯一の例外が社会党のミッテランが大統領に就任するフランスだった。
 サッチャー政権は国営企業の資産を売却し、次々と民営化を進めていった。だが、その経済的実績はけっしてかんばしいものではなかった。いっぽう、ミッテランは社会主義路線に沿って、当初、公共支出を拡大し、国有化を推し進めるが、経済は活性化せず、途中で方針を転換せざるをえなくなった。
 レーガン政権は「小さな政府」をうたい、富裕層への減税と社会給付のカットを実施する。だが、軍事増強をめざしたため、政府支出は削減できなかった。アメリカが一見元気になったようにみえたのは、海外からの資金が流入し、株価が上昇したからだ。企業の投資は製造分野にではなく、金融市場に向かっていく。その陰で地域経済はどんどん疲弊し、大規模工業地帯は荒廃していった。富裕層が豊かになれば、下層の人びともやがて豊かになるという約束は、いつまでたっても実現されなかった。多くの世帯が住宅や自動車のローン、クレジットカードの支払いをかかえて苦しんでいた。
 それ以降、状況はあまり変わっていない。
 著者は次のように指摘している。もはや自由市場という魔法の薬も、政府の力強い計画も、経済の鈍化を回復させることはできない。世帯収入が停滞し、所得の伸び率が低下すれば、生活水準の向上も見込めない。株価が上がって景気がよくなったようにみえても、下層では生活水準の低下に苦しむ人びとが多くなっている。2008年のバブル崩壊は、生産性の伸び率以上に早く経済を成長させようとした政治介入の結果だったが、それと同じことがおきないという保証はない。
 こう書くと、なんだか気が滅入ってくる。資本主義は行き着くところまで行き着いてしまったようにみえる。豊かさと便利さを求めて拡大しつづけた経済体制は、膨大な商品やサービスを生みだすなかで、多くの人をすりつぶし、麻痺させ、疲弊させ、不安へと追いこむようになった。もはや、社会主義もケインズ主義もマネタリズムも新自由主義も賞味期限が切れてしまった。だとすれば、新たな経済構想が求められているのだろうか。たぶん、そうではない。求められているのは、新たな文明の構想なのである。現在が歴史の大きな変わり目であることを示唆しながら、本書は読者に歴史から学ぶことの重要性を教えてくれる。

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大足、それから三峡下り──今井駿『四川紀行』を読む(5) [本]

 1992年11月、重慶に滞在していた著者はバスで大足にでかけている。例によってターミナルでは案内が不親切で、45分遅れでようやくバスに乗りこむことができた。そのかん、いらいらがつのる。
 重慶会談というのがあったらしい。1945年8月28日に蒋介石と毛沢東が会って、これからの中国について話し合いがもたれた。その会談がおこなわれたのが重慶の歌楽山で、バスはそこを通って大足に向かう。
 著者が大足に行きたいと思ったのは、絵葉書でみた石刻群に感激したからだ。とくに北山の数珠観音と宝頂山の鵜飼いの女に魅せられたという。
 バスは西に向かい、6時間かけて大足県龍崗(りゅうこう)鎮に到着。長旅である。
 ホテルを確保してから、さっそく北山の石窟を見に行く。石細工の露店が並んでいる。ここでも案内は不親切。最初、道に迷ったほどだ。
 数珠観音には圧倒された。やはり来てよかった、と書いている。
 翌日、著者は宝頂山に向かう。ミニバスで30分ほど。
 宝頂山は密教の成都瑜伽(ゆが)派の中心地だった。南宋の名僧、趙智鳳(ちょうちほう)がここを伝教の本拠地とした。
「智鳳は資金を募り、約70年間をかけて小仏湾と大仏湾を中心とする周囲2キロの山々に1万余体の磨崖仏を彫り、ここを中国未曾有の密教道場とした」。その資金源はやはり塩業だった。
 宝頂山では仏教の教えが石刻になっている。お目当ての「鵜飼いの女」は、地獄変像のなかに慎ましく納まっている。一匹のみみずを二羽の鶏が争っている。これがどういう教えなのか、よくわからないが、すばらしいものだった、と著者は感嘆している。
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[鵜飼いの女。本書より]
 牛飼いの像、千手観音像、華厳三聖像、涅槃像もすばらしい。ともかく百聞は一見にしかず。おすすめの場所だという。
 北山の静にたいして、宝頂山の動。中国のふたつの側面を見ることができてよかった。重慶行きのバスに揺られながら、著者はつくずくそう思った。
 最後にしめくくりとして、「三峡下り」の旅を紹介しておこう。
 1992年12月21日午前8時半、著者は重慶から上海行きの船に乗り、武漢まで2泊3日の旅を楽しんでいる。このころはまだ三峡ダムが完成していなかった。
 船は300トンくらい、乗客は300人くらい、2階が3等、4等の船室で、3階が2等の船室。著者は中国人のふりをして2等の船室に乗りこんだ。外国人だと倍の値段をとられる。食堂もあるが、お世辞にもきれいとはいえない。
「私は、こんな豚小屋のごとき状況の中で飯を喰わせておいて平気な汽船会社に対して、無性に腹が立ってきた」
 さらに「『プロレタリア独裁』は社会教育が苦手と見えて、交通道徳といい、市民的マナーといい、日本よりまだまだひどい部分が相当にある」と憤慨している。
 しばらくすると、街並みも消え、変哲もない段丘がつづく。それから船は長寿、涪陵(ふりょう)に停泊して、やがて夜になった。
 もってきた『三峡詩文選』を開いて時をすごした。これは南北朝時代から清代までの三峡を詠ったものだという。
 猿のでてくる詩が多いことをみれば、いまははげ山が広がるこのあたりも、昔はさぞ緑が多かったのだろうと思う。
 午前零時、船は万県に着く。ここで1時間休憩。著者は船を下りて、買い物に出かけた。変哲もない町だが、1926年9月に、ここで万県事件がおきている。中国側に捕らえられた商船を奪回するため、イギリス軍艦が砲撃し、2000軒ほどの民家が破壊され、600人以上の死者が出た。国民革命時代の反帝意識の高まりを思わないわけにはいかなかった。
 瞿塘(くとう)峡にはいったのは、翌日の昼。水墨画のような光景に身をおいてみると、迫りくる断崖にむしろ圧迫感を覚えた、と著者は書いている。
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[瞿塘峡。ウィキペディアから]
 ダムの準備は着々と進んでいた。宜昌(ぎしょう)の手前には巨大な閘門があって、パナマ運河と同じようなやり方で、水位を調整して船を通していた。
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[宜昌。ウィキペディアから]
 帰国してから、川沿いの山がなぜはげ山になったかを調べたら、原因は塩業だった。井戸からくみ上げた塩水を煮詰めるために、薪が必要だったのだ。
 四川の森林面積は漢・唐代に70%もあったのに、20世紀初頭には40%程度となり、1960年代には何と9%以下になってしまった。大躍進政策で、鉄づくりのためにさらに木が刈られたせいだ。加えて、人口増と畑の開発、家屋建築や燃料のための伐採も増えたという。
 宜昌に着いたときは夜になっていた。翌朝おきてみると岳陽(がくよう)だった。風景は一変し、長江の川幅は300メートルを超え、まるで海のように思えた、と著者は記している。
 武漢までは思ったよりも時間がかかった。到着は夕方。イルミネーションがまたたき、重慶よりずっと洗練された大都会だった。
 三峡の旅はこれでおわりである。
 本を読んだだけでは中国のことはよくわからない。
 ともかく、知らないことが多すぎる。
 もっと中国のことを知りたいものだ。それには旅がなんといっても、手ごろな手段なのだ。
 久しぶりに旅心がわいてきた。本書に感謝したい。

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自貢の塩、栄県の白塔──今井駿『四川紀行』を読む(4) [本]

 著者の旅行記で、四川省の旅を楽しんでいる。
 今回の行き先は自貢である。重慶から西に列車で約8時間。
 ホテルの場所がわからなかったので、著者は仕方なくふだんは乗らない人力車に乗った。ようやくホテルにたどりついたが、法外な料金をふっかけられたという。
 自貢という地名はもともとあったわけではない。この地域にあった自流井(じりゅうせい)と貢井(こうせい)というふたつの塩井(えんせい)の名をあわせて、1939年に自貢市という地名が誕生した。
 塩井は文字どおり塩をくむ井戸のこと。自貢は塩の都である。
 翌朝、著者は塩業歴史博物館に出かけた。入り口は4層の屋根で、門をくぐると広い内庭があり、正面に3層の屋根をもつ楼閣、左右に楼閣式の回廊がある。華麗きわまりない建物だ。
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[塩業歴史博物館。ウィキペディアから]
 博物館では、塩井から塩をくみ上げる技術が紹介されている。労働消耗型ではあるが、聞きしにまさる生産技術だった、と著者は書いている。
 塩は人間にとってなくてはならないものだ。日中戦争当時、日本軍は中国沿岸の塩業地帯を占領した。しかし、この四川奥地の塩井にまでは支配がおよばなかった。中国が執拗な抵抗をつづけられたのは、自貢の塩のおかげだという説がある。
 博物館をでてから、著者はいまも操業をつづける塩井を見学にでかけた。現在、塩井からは揚力ポンプで、塩水がくみ上げられている。
 著者は郊外にある恐竜博物館にも足を延ばしている。広大な建物の恐竜群の展示は大迫力。ただし表示が××サウルスではなく、××龍となっているので、慣れるまでは、ちょっとくたびれるという。
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[恐竜博物館の展示。ウィキペディアから]
 博物館を出たあとは、ホテルのある沙湾に戻り、王爺廟(おうやびょう)の茶店で一服。町で夕食をとって、古本屋をのぞいてみた。思いがけず貴重な本を見つけ、何冊かを買いこんだ。
 そのうちの1冊が『天安門詩文集』。1976年、北京の天安門広場では、周恩来を偲んで、革命記念碑に詩や短文がささげられた。『天安門詩文集』はそれらを収録したもの。
 江青らの四人組は、このとき広場に集まった民衆に解散を命じ、それに従わなかった3000人の人びとを強制的に排除した。いわゆる第1次天安門事件である。このとき100人以上の死者がでたといわれている。
 その「詩文集」を著者は四川省の奥地、自貢の古本屋で見つけたわけだ。
 さらに翌日の12月30日、著者は自貢のバスターミナルからバスに乗って栄県まで出かけている。
 自貢から西へ約40キロ。栄県は自貢市に属している。県が市に含まれるというのは、ちょっと不思議な感じだ。
 栄県は呉玉章(1878〜1966)の生まれた地だ。呉玉章といっても知る人は少ない。中国の政治家・教育家である。
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[呉玉章。ウィキペディアから]
 例によって、オンボロバス車内の一騒動があって、著者はようやく栄県のバスターミナルに到着。
 手に入れた略図を頼りに、呉玉章の旧家をたずねようとするが、これがなかなか見つからない。何人もの人に聞いて、わかったのは14、5キロも先だということ。仕方なく断念し、引き返した。
 呉玉章は早くから成都などで学び、日本にも留学して、孫文の側近として活躍した。辛亥革命が挫折したあと、フランスに留学した。その実家がどんな家だったか見ておきたかったが、返す返す残念だった、と著者は書いている。
 旭東河のほとりまでたどり着いて、くたびれはてた著者は仕方なく人力車を頼んで、大仏寺の正面まで乗せてもらった。大仏寺のほんらいの寺の名は真如寺だ。
 寺の階段を登っていくと、正面に王天傑(?〜1913)の祈念碑が立っている。清朝にたいし決起した好漢。辛亥革命後も袁世凱の独裁に反対して、ふたたび立ちあがったが、敗れ、殺された。
「まことに、その名に恥じぬ天下の快男児である」と、著者はいう。
 そこからさらに行くと、大仏の真下に出る。
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[栄県の大仏]
 大仏の大きさは、楽山の大仏につづいて、中国では第2位。保存状態はあまりよくない。
 大仏の頭部の上にある亭でひと休みし、北側の崖沿いに下りた。洞のなかに達磨大師の石像があった。
 著者は街に戻って、昼食をとってから、気になる白塔があったので、そこに向かった。
 あぜ道を通っていくと、前方の丘にすばらしい白塔が立っている。犬の遠吠えを背に坂道を登っていく。
 白塔にたどり着く。高さは20メートルほど。7、8メートル四方の基台の上に乗っている。様式からみて、宋代のものだ。塔は心持ち右に傾いている。「鉛色の冬空がずっしりと歳月の重みを感じさせる」と、著者は書いている。
 大仏も白塔も、塩業の繁栄が生みだす財力を抜きにして考えられない。いまは畑だが、白塔のまわりはかつて大小の伽藍がいらかを並べていたのだろう。
 著者はなぜかこの塔に心ひかれた。「ただひたすら天に向かわんとする精神」、「人を威圧する力がない」おおらかさが好きだという。
「大楼・寺観は灰となっても、塔は数百年の歳月を生き残り、世知辛い現実主義に疲れ果てた人々に、無力がゆえの慰めを捧げつつ、立ちつくしている」
 街に戻ってきた。露店が並んでいるが、ろくなものはない。もうすぐ正月だというのに日本の暮れのような雰囲気はない。それもそのはず、中国人にとっては旧正月の春節こそがほんとうの正月なのだ。
 街角ではおばさんどうしの激しい言い争い。それを取り巻く野次馬たち。
 ふり返ると超然とたたずむ千年の塔が見え、なぜかほっとする。
 天について考えながら、著者は思う。

〈中共は革命により天帝とその属僚を追っ払い、地上に浄土を実現することをめざしていたはずであった。が、天帝とその属僚の席には結局、党主席と党員たちが納まった。「天」は依然として在り、人々の運命を握っていた。しかも、神々よりもずっと確実に、だ。こうして「天」は地上近くに引き下ろされたが、その分苦しさが増すことになった。〉

 いささか暗澹たる気分をいだいたまま、著者は夕方4時半のバスに乗りこむ。しかし、バスに揺られながら、この道を王天傑が袁世凱を倒すため、重慶に向けて出撃していったかもしれないと思うと、いささか高揚感をおぼえたと記している。

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邛海のほとり──今井駿『四川紀行』を読む(3) [本]

 1992年11月半ば、著者は飛行機で成都から西昌に飛んだ。ところが帰りの飛行機の切符がとれない。著者はそこで汽車で帰るほかあるまいとあきらめるところから、今回の旅はスタートした。
 泊まったのは涼山賓館。小ぎれいなホテルだ。何よりも静かなのが気に入ったと書いている。
 昼時なので、食堂にはいり、料理を注文する。西昌市の地図をみていたら、店のお姉さんがやってきて、すっかり仲良くなった。
 西昌には邛海(きょうかい)や人工衛星発射センター、土林(トゥーリン)などの名所がある。
 西昌は涼山(りょうざん)彜(イ)族自治区の中心都市。彜族はチベット・ビルマ系の少数民族で、その祖先は8世紀から10世紀はじめにかけ、南詔(なんしょう)という国を築いていた。
 紅軍は、長征で雲南省、四川省、陝西省へと抜けていくが、西昌では彜族の地を通った。
 紅軍の指揮官、劉伯承は部族長の小葉丹と盟約を結び、規律を守って、大きなトラブルもなく、この地を通過することができたという。
 中国共産党政権の樹立後、彜族には区域自治が認められた。
 著者によれば、西昌には彜族自治区らしい特色はどこにもない。古い建物は取り壊され、高層の集合住宅がつくられようとしている。旧市街は1キロ四方ほどの大きさ。それが、現在はかつての3倍に膨らんでいる。
 自治区の東部には大涼山の山なみが連なっている。
 日中戦争期には大涼山のふもとで、アヘンが栽培されていた。アヘン経済は辺境少数民族に商品経済を持ちこんだ。それにより部族の生活は殺伐とし、荒廃したという。
 翌日、著者はホテルを出て、きのうの食堂で朝食をとってからバス停に急いだ。邛海(きょうかい)には15分ほどで着いた。湖には霧がかかっていてよく見えなかった。そのため、さっさと引き上げることにした。
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[邛海。中国の百科事典から]
 バスで町に戻り、ぶらぶらしていると、彜(イ)族の民族衣装をまとった女性たちと出会った。だれもが垢じみて、薄汚れた格好をしているのに、胸が痛んだという。
 北の城門の上に立って周囲を眺めてみた。東には赤い色をした川原が広がり、南の街並みは新旧雑然としていて汚い。城門の近くはいまにも崩れ落ちそうな家が並んでいる。ホテルに戻ったときには、頭の上に月がでていた。「月城」という西昌の雅名を思いだした。
 翌日、著者は温泉にでも行こうと思ってバス停に行ったが、時間の都合であきらめ、土林(トゥーリン)に行くことにした。
 土林は文字どおり土の柱が林立する観光地だという。バスで1時間くらい。途中の村では藍色の民族衣装を着た彜族の娘さんたちがにこやかに観光客を出迎えてくれる。
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[彜族の娘さん。ウィキペディアから]
 バスを降り、安寧河を渡り、しばらくすると土林に行き着く。入場料を払ってなかにはいる。なかなかの奇観だった。頂きから見渡す光景は雄大だった。
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[土林。ウィキペディアから]
 交通の便が悪く、帰りのバスをつかまえるのに著者は苦労したらしい。しかし、帰りの景色はすばらしかった。「私は、こぼれそうな夕日に映えて、まるで印象派の絵の中を行くような色彩の世界を堪能しつつ帰途に着いた」と記している。
 翌日はまた邛海に出かけた。ホテルでとってくれた成都行きの列車は夕方7時の便だ。それまでたっぷり時間がある。
 彜族の民族博物館があった。だが月曜で、休館。しかたなく廬山[江西省の有名な廬山とは別]に登った。上にはいくつも道教のお堂(道観)があり、金ぴかの像や磁器の観音様が並んでいる。どうも趣味に合わない。その前で、人びとは熱心に祈りをささげている。観察したところ、どうやら受験や安産、夫婦円満、健康などといった中身が多い。このあたりは日本と変わらない。
 さらに上まで登ってみる。邛海(きょうかい)がよく見える。頂上には五祖堂があった。どうせたいしたことはなかろうと思いながら、なかをのぞくと、「一瞬思わず息を呑んだ」と著者は書いている。すばらしい白亜の塑像群が並んでいたのだ。
 写真がないので、それがどのようなものだったかは想像するしかない。
 合計12体の塑像が並んでいた。左から慈航真人(じこうしんじん)、純祐帝君(じゅんゆうていくん)劉操、輔極帝君(ほきょくていくん)王重陽、東華帝君(とうかていくん)王玄甫といったところ。遠目ではまるでギリシャ彫刻のようだったという。道教の寺(道観)で、これほど芸術的にすぐれたものは、これまで見たことがないという。著者は廬山に登ってよかったと思った。
 夕方、駅前に戻り、なじみになった食堂で食事をとったあと、汽車に乗ろうとした。だが、それがひと苦労。駅員の案内もいいかげんだった。
「この成昆線(成都〜昆明を結ぶ鉄道)は……列車強盗によく襲われることで有名である」と、著者は書いている。しかし、幸か不幸か、列車は強盗に襲われることなく、12時間かかって成都に到着した。
 こんなふうに書き写していると、ぼくも中国に行ってみたくなった。

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レヴィンソン『例外時代』(まとめ) [本]

   1 短かった黄金時代

 20世紀後半の経済史だ。
 著者のマルク・レヴィンソンはこの時代を、はっきりふたつに分けている。
 第一期が「世界の多くの地域で異常なほどの好景気が見られた時期」。第二期は経済成長が失速し、「繁栄のぬくもりが冷たい不安感に取って代わられた」時期。その分水嶺となったのが1973年、石油ショックの年だ。
 第一期は「黄金時代」だった。しかし、それは長くつづかない。

〈時代の流れを見れば、黄金時代はごく短いものだった。瓦礫だらけの世界から花開いて四半世紀も経たないうちに、着実に改善していく生活水準と誰もが仕事を手に入れられるという想像を絶するほどの繁栄の真っただ中で、その時代は突然に終わりを迎えたのだ。……あの長い好景気は、二度と訪れることのない一度限りの出来事だったのかもしれない。〉

 戦後直後の四半世紀、日本がいわゆる高度成長期を迎えたころ、世界経済も着実に発展していた。だが、それは経済史のうえでは「例外時代」であって、黄金時代は長くつづかない。その後はジェットコースターのように激しくゆれ動く通常の経済が再開された、と著者はみているようだ。
 1945年から1970年代初頭までは、歴史上もっとも驚異的な経済発展が生じた時代だった。この時代に人びとの生活水準は大きく上昇した。
 戦後直後は、戦争で経済が疲弊しきったなかで、だれも経済の奇跡がおこるなどとは思っていなかった。平和が訪れたとき、まず求められたのは福祉だった。1945年から46年にかけ、イギリスでは子ども手当や失業保険、老齢年金、寡婦補助金、国民健康保険などが導入された。こうした動きは各国に広がっていく。
 ヨーロッパ諸国や日本で、復興は困難をきわめた。日本では空襲により製鉄所や化学工場が壊滅していた。だが、幸いにも鉄道や発電所は残っていた。道路や橋を再建し、農業生産力を回復させるなど、やるべき仕事はいくらでもあった。
 問題は資金が足りなかったことだ。工場再建に必要な機材や、国民のための食料を輸入することもできなかったのだ。
 ヨーロッパでもアジアでも、共産党の勢いが強くなっていた。これに警戒を強めたアメリカは、1948年、ヨーロッパにマーシャル・プランを導入し、ヨーロッパの経済再建を支援した。同様に、日本の経済復興にも手を貸すようになった。
 1948年の世界は近代的とはいいがたかった、と著者は書いている。アメリカで高校を卒業する若者は半分にも満たなかったし、黒人にたいする人種隔離政策もつづいていた。日本人は狭い住宅でくらしていた。フランスで冷蔵庫を所有するのは30世帯に1世帯の割合。田を耕すのも、工場ではたらくのも、家事をこなすのも、すべて肉体仕事だった。
 世界経済が好調に転じるのは1950年の朝鮮戦争以降となる。軍関係の発注が経済を刺激した。工場が従業員を雇い入れると、従業員もものを買うようになり、商品やサービスの需要が増えていった。
 日本の経済規模は1948年から73年にかけて6倍に、西ドイツも4倍になった。フランスも西ドイツほどではないにせよ、経済が大きく拡大した。
 アメリカでもイギリスでも、この25年間に住宅が増え、多くの庶民がマイホームを獲得した。ローマでは自転車がスクーターに変わり、さらに2人乗りの自動車に変わった。
 1960年ごろには失業率も低くなる。アメリカ南部では新しい綿摘み機によって、多くの労働者が失業においやられた。だが、すぐにデトロイトやシカゴの工場が労働者を受け入れ、南部から中部への人口「大移動」が生じる。
 年金の支給により、人びとは65歳くらいで退職できるようになり、子どもたちは親の扶養義務をまぬかれるようになった。
 著者は、こうした好景気の原因を、長年の緊縮経済によって閉じこめられていた需要と投資が一挙に解放されたためだとみている。
 技術変化も大きい。蒸気機関に代わって電気モーターが主流になると、工場も立て替えをはからねばならなかった。
 加えてベビーブームにより、新しい住居や家具、衣服が必要になった。
 国際交渉によって、輸入関税が切り下げられ、貿易が拡大していった。
 生産性の驚異的な伸びも指摘される。産業は農業から工業へと大きく転換した。新鋭設備を整えた工場が農村出身の労働者を雇い入れていく。新しい設備にたいする需要が膨らむと、機械への需要が増え、人手も必要になる。日本の製造業労働人口は1955年の690万人から1970年の1350万人へと拡大した。
 1950年代には高速道路の建設もはじまる。高速道路によって、1日に運べる商品の距離が長くなり、交通運輸関係の生産性は劇的に増大する。より安い陸上輸送は商品の販売地域を拡大した。それにより、手作業の小さな工場より「多くの商品をより安く生産する大規模工場」が圧倒的優位に立った。
 1948年から1973年のあいだに、1時間の労働による平均生産量は、北米では約2倍、ヨーロッパでは3倍、日本では4倍になった。これを支えたのは技術進歩と資本設備投資である。加えて、教育が大きな役割を果たした。
 この時期の特徴は、技術進歩が労働者を置き去りにしなかったことだ、と著者は書いている。

〈戦後の世界では、成功したのは富裕層だけではなかった。農業従事者や路上清掃員も、給料袋が厚くなっていくのを年々感じていた。組合は工員のために昇給と福利厚生だけでなく、雇用の確保も勝ち取った。法律や労働契約のため、雇用主が不要になった従業員を放り出すのがどんどん難しくなっていったのだ。状況は誰にとっても改善していた。〉

 保守政党も福祉国家を後押ししていた。「保守派の指導者は誰一人として、政府が経済における責任を放棄して市場に状況を支配させるべきだという考えに同調しなかった」
 さらに、著者はこの四半世紀の好景気が、資本主義そのものの元気さによるものではなく、慎重な経済計画によるものだったと指摘する。
 日本では、通産省が輸出入や企業の新工場計画、外国特許の許諾を統制していた。フランスでは政府が自動車工場や製鉄所の計画を立てていた。完全雇用の確保も政府の責任とされていた。そのためには赤字財政支出もやむをえないと考えられるようになった。こうして、政府が経済発展を支える体制がつくられていったのだ。
 問題はそれがごくわずかな期間しかつづかなかったことだ。

   2 国家への期待

 戦後の特徴は、経済にたいする国家の役割が大きくなったことかもしれない。政府は歳出や税、金利を調整することで、市場経済の手綱をさばけるという考え方が強くなっていった。
 著者によると、たとえば、西ドイツの蔵相カール・シラーは、経済の大枠は政府が計画し、企業は市場の枠で、それぞれ事業判断をおこなうものと考えていた。経済にたいする政府の目標は、市場経済のもとで、高い雇用率と着実な成長、安定した価格、国際貿易と投資の均衡を保つことに置かれていた。
 1967年に、西ドイツ政府は今後5年間の目標として、平均4%の経済成長率、0.8%の失業率、1%のインフレ率、1%の経常黒字をかかげた。それをめざすための政策が総動員された。だが、経済は政府の思うままに進まなかった。貿易黒字は増えすぎ、インフレが進み、労働組合のストが頻発した。1972年、シラーは蔵相を辞任する。
 政府の思わくどおりに経済が進むことは、まずないとみてよいだろう。そこには市場独自の力がはたらくからである。
 戦後、アフリカ、アジア、中南米の新興国でも、国家の役割がおおいに期待されていた。開発途上国の特徴は、国が上からの急速な産業化を実施しようとすることである。農業中心の貧困経済から脱出することが目的だった。そのために、開発途上国では国家統制が経済政策の中心となった。
 開発途上国の商品は、1種類か2種類に特化していた。たとえばアルゼンチンなら牛肉と小麦、ブラジルならコーヒー、チリなら銅というように。だが、その経営はたいてい海外資本によって握られており、世界市況は景気の波により大きく変動した。
 著者はアルゼンチン出身のラウル・プレビッシュという人物に焦点をあてている。プレビッシュは1949年にキューバのハバナで開かれたラテンアメリカ経済連合体(ECLA)の会議で演説し、自由貿易の原理を批判した。中南米の貧困の根本原因は不公平な貿易にあり、巨大な工業国が得ている莫大な利益は周辺国に届いていないと訴えたのだ。
 発展途上国の力を強め、不公平な(言い換えればあまりにも低価格な)輸出商品価格を是正することが求められた。加えてプレビッシュは、政府が主導して製造分野を開拓し、特定の輸入製品を国産製品で置き換える「輸入代替」政策をとることで、新興国の自立をはかるべきだと提言した。
 この提言は1955年4月にインドネシアのバンドンで開かれたアジア・アフリカ会議でも受け入れられることになった。このとき、資本主義とも社会主義ともことなる「第三世界」という区分が生まれた。
 原料価格を安定させながら、製造業を発展させていくというプレビッシュの考え方は、先進国の反発を招いた。というのも、先進国は開発途上国からできるだけ安い原料を手にいれるとともに、開発途上国にできるだけ多く自国製品を輸出したいと望んでいたからである。
 それが「開かれた自由市場」というもっともな主張に隠されていた、ほんらいの意図である。先進国は実際には高い貿易障壁をもうけて、開発途上国によるアクセスをはばもうとしていたのだ。
 だが、開発途上国側も黙ってはいなかった。
 先進国と開発途上国側の対立を調整するためつくられたのが「関税および貿易に関する国際協定(GATT)」と、国連貿易開発会議(UNCTAD)だ。
 開発途上国は、先進国に対抗するため、スズ、コーヒー、砂糖、油などの輸出商品について、カルテルを結び、価格を安定させようと努めるいっぽう、政府が銀行や船会社、航空会社をつくって、国内の雇用を確保しようと躍起になった。
 だが、それはなかなかうまくいかない。多くの開発途上国にとって、20世紀の第3四半期は、ほんとうにひどい時代だった、と著者は書いている。それは戦争や反乱、内戦、自然災害、飢餓の時代だった。それでも、穀物や鉱物への依存から脱却して産業化をとげようとした国も多い。ケニアやパキスタン、ボリビアもそうした国々の代表だ。
 国が主導する経済は、次第に腐敗と癒着を生んでいく。指導者の親族などが、もうかる独占企業を手に入れて巨万の富を築くのにたいし、農民はおきざりにされたまま貧困にあえいでいた。
 1960年から74年にかけては、先進国の好調な経済に支えられて、開発途上国でも、輸出食料品や輸出原料の価格が上昇し、それなりに経済がうるおった。ところが先進国の経済が1973年に破綻すると、原料にたいする世界需要が落ち込み、途上国ほんらいの姿があらわになる。政府が繁栄を保障し、全国民の生活水準を上げるという考えは幻想だった、と著者は論じている。
 ここで、場面は米国へと転じる。
 米国のニクソン大統領は経済にはあまり興味がなく、経済のことは連邦準備制度理事会(FRB)議長となるアーサー・バーンズ(コロンビア大学教授)にまかせきりだった、と著者は論じている。
 FRBは経済への資金の流れを締めたり緩めたりすることで、経済全体のパフォーマンスを調整する役割を担っている。FRBの役割をめぐっては大きな論争があった。失業率を抑えることを優先すべきだという考え方と、インフレ率を抑えることを優先すべきだという考え方である。ニクソンは両方を抑えてもらうことをバーンズに期待した。
 バーンズ自身は金融政策だけでインフレが収まるわけではないことを知っていた。実際、アメリカのインフレは1971年前半にすこし落ち着いただけで、ふたたび上昇しはじめる。
 だが、このことが1944年以来のブレトン・ウッズ体制の崩壊をもたらすことになる。ブレトン・ウッズ体制のもとでは、米ドルを基軸として為替レートが固定されていた(たとえば1ドル=360円というように)。加えて、海外で余ったドルを35ドル=1オンスの金(きん)でアメリカが引き取る約束になっていた。
 しかし、1968年段階で、すでにドルは海外にあふれており、実際に余ったドルを金に交換できる状況ではなくなっていた。1971年8月、ニクソンは金ドル交換の停止と、賃金・物価の90日間停止を発表した。これが、いわゆるニクソン・ショックである。
 金ドル交換の停止は為替レートの安定にはつながらなかった。金融市場にはむしろ混乱が広がった。そのため1971年終わりにスミソニアン協定が結ばれ、ほかの通貨にたいしドルを切り下げる(たとえば1ドル=308円)という弥縫策がとられた。
 そんななか、FRB議長のバーンズは金利引き下げに走る。1972年の大統領選挙を前に、ニクソンから経済に弾みをつけるよう求められていた。アメリカでは、インフレが多少進んでも、景気がよくなれば、それでかまわないという考えが主流だった。じっさい、アメリカでは金利引き下げによって失業率が下がり、ニクソンは楽々再選をはたした。
 ところが、安易な金融政策のつけがすぐに回ってくる。インフレは収まることなく、固定為替制度の崩壊を招くことになるのだ。




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瀘定橋、羅城鎮──今井駿『四川紀行』を読む(2) [本]

 著者は滞在する成都から、よく1泊2日か2泊3日の旅に出かけている。
 雅安は成都から南西に120キロ。成蔵公路(成都─チベット道)沿線の町だ。
 いまはどうかしらないが、1992年の時点ではバスで5時間以上かかった。丘の上を通る平坦な道を通り、最後に坂を下って雅安にはいる。
 江河(青衣江)が流れている。かつては前回に紹介した軍閥・劉文輝の支配下にあり、アヘンの集散地として悪名をとどろかせていた。
雅安.jpg
[雅安。ウィキペディアから]
 外国人は中国の「旅館」に泊まれない。著者は外国人でも泊まれる「交通飯店」すなわち中国版のモーテルを確保してから街にでかけていった。もう夕方だ。
 町を一周してみる。解放広場に記念碑が立つくらいの変哲もない町だ。
 モーテルの夜は、隣の部屋のラジオやテレビの音がうるさくて、よく眠れなかった。それに次々と到着するトラックの騒音。さすがに、大声で話しまくる「無神経な」な中国人に腹が立ったと書いている。
 翌日は朝6時に起きて、バスに乗りこむ。雅安の雅称は雨城という。その名のとおり雨が降っている。朝食はバス停前のうどん屋で牛肉麺(ニューローミェン)。成都より3割方安い。
 著者がめざすのは、ここからさらに西の瀘定(ろてい)だ。オンボロのバスで確保できた座席は通路側。横にはいちゃいちゃするアベックが座っていた。しかも、男のほうがよくタバコを吸うので、うんざりする。
 バスはしばらく江河沿いに走り、それから丘にのぼってから盆地にくだった。隣のアベックのせいで景色はほとんど見えない。バスはまた山道をのぼりはじめる。大きな材木を積んだトラックとすれちがうたびに、ひやひやする。そして、2時間半走り、小さな橋を渡ったところで休憩。なんと2時間の大休憩だという。それには理由がある。ここから時間交代の一方通行になっているのだ。
 食堂と雑貨店があり、ここで昼食をとる。時間があるので、周辺をあちこち歩いてみる。車が数珠つなぎになっている。これから海抜3437メートルの二郎山(アルランシャン)の峠(峠の標高は3000メートル)を越えなければならない。
 周囲の低山は頂上まで畑になっている。トウモロコシや蔬菜、柑橘類などが植わっている。豊かな土壌とはいえない。こんな場所に猫の額ほどでも土地を開いて、営々と生きつづけてきた人たちの労苦と忍耐に感嘆する。
 若い農民がリヤカーにリンゴと柿を積んで売りにきた。著者は柿を3個ばかり買ってみたが、これがすべて渋柿。抗議したが、青年は「リンゴはどう?」とすすめるばかり。怒るのがばかばかしくなった。
 バスに戻った著者はふとしたきっかけで、隣のアベックと仲良くなる。これも旅の醍醐味というものだろう。
 二郎山の峠はたいへんな悪路だった。上るにつれ霧が濃くなり、前がほとんど見えなくなる。だが峠を越えると霧が晴れ、雪をいただいた大雪山系の山々、さらには奥のチベット高原につながる四、五千メートル級の山々が見えてくる。バスはここでしばし休憩。カメラを構える人もいる。
 夕方、バスは9時間かけて、ようやく瀘定についた。終点の康定に向かうアベックがニコニコ笑って、手を振ってくれる。なんだかうれしくなってきた。
 著者が遠路はるばる瀘定までやってきたのは目的があった。
 大渡河の瀘定橋を見るためである。1935年、長征中の紅軍は瀘定橋の戦闘で国民党軍に勝利した。それによって、毛沢東は窮地を脱し、四川省を抜けて、やがて陝西(せんせい)省に革命根拠地を築くことになる。
瀘定橋.jpg
[大渡河にかかる瀘定橋。ウィキペディアから]
 著者は紅軍がどのようにこの橋を攻略したのか、あれこれと想像をめぐらす。
『長征記』には、国民党の守備部隊が橋頭堡に火を放ち、紅軍兵士はその燃えさかる火をものともせずに敵陣に突入し、ついに対岸の瀘定県城の占領に成功したと書かれている。だが、実際に橋を前にすると、英雄的なストーリーに、どこかしっくりこないものを覚えた。
 まもなく薄暮が迫ってくる。詮索は中断。
 瀘定の宿は安かったが、例によって、大きなテレビの音と人の声に悩まされた。
 成都に帰ってからも、著者は瀘定橋の攻略について考えつづける。
 瀘定橋の戦闘は、エドガー・スノーの『中国の赤い星』にもえがかれている。
 だが、「スノーによって歴史に名を留めた瀘定橋の攻防戦の悲劇的・英雄的な一場面に立ってみると、いろいろな矛盾した問題に直面する」と、著者は書いている。紅軍が真剣に戦ったのはわかるが、はたして国民党軍にどれほど戦意があったのか、疑問がわく。反蒋介石派の軍閥・劉文輝がどんな動きをしたかも気になる。
 英雄的な長征史も、実際に現場に立つと再検証が必要だと思わざるを得ない。それは毛沢東正統史観も同様だ。
 いまでも中国では、共産党史観以外の歴史は受け入れられない。だが、旅はいやおうなく伝説となった歴史の検証をうながすのである。

 今回はもうひとつ著者が訪れた羅城鎮についても紹介しておこう。まずは楽山県に向かう。成都から南に130キロほど。1992年に著者が訪れたころはバスで8時間かかった。いまは高速道路もでき、1時間半ほどで着くらしい。
 楽山は岷江(みんこう)と大渡河の合流点の町で、楽山大仏で有名だ。
楽山大仏.jpg
[楽山大仏と市街。ウィキペデイアから]
 凌雲山の断崖に彫られた大仏を遊覧船に乗って眺めたり、大仏の足もとにある穴をくぐったりするのが、おすすめだという。
 例によって遊覧船の切符を買うのがひと苦労。著者はそれでもなんとか切符を確保し、河の合流点を真っ正面に望む地点に立つ大仏を眺めることができた。
 だが、著者の目的は観光ではない。川下の犍為(けんい)県に足を踏み入れてみることだった。翌朝、犍為県の羅城鎮(らじょうちん)に行くバスがあったので、それに乗りこんでみた。1時間半ほどで着く。
 ここはイスラム教徒が多い町だという。地図をみると、その街並みは舟の形をしていて、舳先(へさき)と艫(とも)があって、そのまんなかにアーケイド街のようなものがある。おもしろそうな町だ。
 著者によれば、こうだ。

〈この「アーケイド街」に入るまでに、すでに狭い路地に各種の商人が店を開いていた。肉(回民が多いから豚肉は扱われず牛肉か鶏肉であろう)、野菜、果物、薬草、壺や皿などの瀬戸物、包丁・釘・鋤などの金物、各種の食べ物、洋服や生地等々、あらゆる日常品が並んでいる。その前を人びとが肩をぶつけ合うようにして歩いている。物売りの呼び声、掛け合いの声、鶏の鳴き声などの喧噪と異様なほどの熱気があたりを包んでいる。〉

 アーケイドの屋根は竹の骨の上に小さな瓦を載せただけの簡単なものだった。そこには茶店もあって、人びとが何やら話をしている。ここまでの閑散とした田野のどこから、これほどの人がわき出るように出てきたか不思議でならなかったという。
羅城鎮.jpg
[羅城鎮。ウィキペディアから]
 帰りのバスは乗り継ぎがうまくいき、楽山でほとんど待たずに成都に帰ることができた。だが、そのなかが大騒ぎ。予約席に勝手に座る人もいる。人の荷物に腰掛ける人もいる。降りる人よりも乗る人のほうが多いので、立ち席は混むいっぽうだ。著者は車掌の女性の重労働をみて、「『社会主義市場経済』の繁栄の陰では、このような労働条件の悪化が心配されるのだ」との感想をもらしている。
 日本のテレビでは「イタリア・ちいさな村の物語」というような番組も放映されている。それと同じように、どうして「中国・ちいさな村の物語」のような番組がつくれないのだろうか。そもそも中国では、いまでも自由な報道が認められていないのだろう。いつか、そんな日が来ることを願いたい。
 旅はつづく。

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