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カーショー『地獄の淵から』を読む(2) [本]

[50枚ほどの翻訳の仕事が終わって、ほっとしています。また読書を再開します。戦前のヨーロッパ史を読んでいます。きょうはその2回目。両親の介護で、またいなかに戻る前に読み終わるといいのですが……。]

 第1次世界大戦は「以前のどの戦争にも増して、大量殺戮を産業化した戦争だった」と、著者は書いている。大量の近代兵器が人命の大量損失を招いた。
 高性能砲、手榴弾、火炎放射器に加え、毒ガス、戦車、潜水艦、飛行船など、あらゆる軍事技術が戦場に投入された。兵士だけではなく、一般住民も殺害対象になった。
 1914年9月6日から9日にかけてのマルヌの会戦で、フランス軍はドイツ軍の進撃をくいとめる。塹壕が構築され、それから4年間、西部戦線は膠着状態となった。
 しかし、東部戦線では、戦況は中央同盟国側に有利に進んだ。
 東プロイセンのタンネンベルク近郊で、ドイツ軍はロシア軍に大敗北を負わせた。ガリツィアでは、ロシア軍がオーストリア軍を破り、ユダヤ人が大量に虐殺された。
 トルコではダーダネルス海峡のガリポリに上陸した50万人の連合国軍を、同盟国側のケマル・パシャ(アタテュルク)率いるトルコ軍が撃破する。そのいっぽう、アナトリア東部では、ロシアに共感をもつアルメニア人をトルコ軍が虐殺している。
 西部戦線が膠着しているため、1915年夏、ドイツ軍は東部に攻勢をかけた。同盟国のオーストリア軍はあてにならなかった。ドイツ軍はガリツィアを奪還し、ポーランドを占領、さらにラトヴィア、リトアニアを制圧した。
 ドイツ軍は、さらにオーストリア軍、ブルガリア軍とともにバルカン方面に進出し、セルビアを支配下においた。
 問題は西部戦線だった。1916年夏から冬にかけ、ヴェルダン(フランス北東部)では大激戦がつづいた。ドイツ軍、フランス軍双方の戦死者は70万人を超える。ソンムではイギリス軍と植民地軍がドイツ軍と戦い、双方で100万人以上の犠牲者をだしたが、戦略的には何の進展もなかった。
 ドイツはベラルーシ、ウクライナまで、軍を進めていた。そのあたりで、ロシア軍の反攻がようやくはじまる。
 1917年にはいると、ドイツは無制限潜水艦戦を開始する。Uボートに脅威を感じたアメリカのウィルソン大統領は、4月になってドイツに宣戦を布告する。
 激しい戦闘がくり広げられたものの、西部戦線では膠着状態がつづいていた。イギリス軍は11月のカンブレーの戦いで、はじめて戦車を投入する。
 だが、このとき、ロシアではすでに革命が発生していた。3月にロマノフ王朝が倒れ、ケレンスキー内閣が発足した(ロシア暦「2月革命」)。つづいて11月(ロシア暦10月)、レーニンが権力を掌握する。
 レーニンはさっそくドイツとの停戦合意に乗りだし、翌1918年3月にブレストリトフスク条約を結ぶ。これにより、ロシアは戦線から離脱し、バルト3国、ウクライナ、ポーランド領を失うことになる。
 アメリカのウィルソン大統領は1918年1月に「14カ条宣言」を発表する。戦争終結とヨーロッパ平和をめざす宣言で、のちに民族自決の原則と称される内容を含んでいる。
 だが、戦争はまだ終結していたわけではない。ロシアの戦線離脱により、中央同盟国は広大な領土を獲得した(のちに破棄)。
 ドイツは西部戦線に兵力を集中することができるようになった。しかし、そのドイツ軍にも疲れがみえるようになる。
 連合国軍にアメリカ軍が加わるようになると、ドイツ軍の総退却がはじまる。
 1918年11月9日、ヴィルヘルム2世が退位し、ドイツ帝国は崩壊、新政府が発足する。11月11日、ドイツは敗北を認め、休戦協定に調印した。それにより、第1次世界大戦は終結する。
 前線の兵士はいうまでもなく、戦争が人びとにおよぼした影響はさまざまだ。その影響は国によってもことなる。
 しかし、どの国でも、大勢の若者が動員された。統制経済と国家支出の大幅増がみられた。総力戦のもと、官僚機構は肥大化し、監視と強制、弾圧が強化された。東欧では、とりわけユダヤ人がひどい扱いを受けた。
 イギリスでもフランスでも、さまざまな意見対立はあったが、戦争遂行に向けた団結意識は揺るがなかった。ドイツでは総動員法が導入され、すべての国民が軍需産業での労働奉仕を義務づけられていた。
 だが、ロシアでは政府への反乱が発生する。1916年から17年にかけての厳しい冬場、激しいインフレが進むなか、人びとは深刻な食糧難と燃料不足に苦しんでいた。その怒りが労働者のストライキとデモを誘発し、兵士も労働者を支持した。帝国当局はその状況を収拾できず、皇帝はついに退位へと追いこまれた。最終的にボリシェヴィキが権力を握ったのは「平和とパン、土地の配分、工場の所有と管理、そして人民による法の掌握という約束」が支持されたからだ、と著者はいう。
 1917年4月、ドイツでは社会民主党が分裂し、戦争に反対する少数急進派がのちのドイツ共産党を結成することになる。1918年になると、ドイツの敗色は濃くなり、前線では脱走や投降が相次ぐ。10月末にはキールで水兵が反乱をおこした。翌月のドイツ敗北は、帝国の崩壊を意味した。
 イタリアは三国協商側についていたにもかかわらず、戦争では負けつづきだった。戦争末期、政府への不満が高まり、世論は分裂する。そんなころファッシ(結束)を標語とする右翼グループが台頭する。
 ハプスブルク帝国は終焉を迎えようとしていた。1916年11月には皇帝フランツ・ヨーゼフ1世が死去し、カール1世が帝位を継承する。しかし、1918年にはいると、食料暴動とストライキ、抗議デモ、民族主義的分離運動が広がり、帝国は四分五裂状態になった。
 10月末になると、チェコスロヴァキアとハンガリー、そしてその後ユーゴスラヴィアとなる地域が独立を宣言する。戦争は11月3日に終結する。それにより、カール1世は退位し、ハプスブルク家の支配は終わった。
 トルコではオスマン帝国が崩壊する。1916年以降、中東ではアラブ人の反乱が巻き起こっていた。この反乱を指導したのはイギリスとフランスである(アラビアのロレンスが名高い)。しかし、イギリスとフランスによる中東の領土分割は、のちに禍根を残すことになる。
「戦争は、粉々に壊れたヨーロッパを後に残した」と、著者は書いている。
 帝国ドイツとハプスブルク君主国、帝政ロシアの廃墟からは、不吉な力が生まれようとしていた。ナショナリズムとボリシェヴィズム、それに領土紛争の火種が熾火となって、新たな憎悪を呼び寄せようとしていたのである。

カーショー『地獄の淵から』(ヨーロッパ史)を読む(1) [本]

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 1914年から49年までのヨーロッパ史である。その後、現在までをえがく続巻も予定されている。著者のイアン・カーショーは、とりわけナチズム研究で知られ、ヒトラーについての浩瀚な伝記も書いている。
 大冊だ。はたして最後まで読めるか、心もとない。一度に読み切るのはとても無理だから、少しずつながめて、ごく短いメモと感想なりとも残しておきたい。
 まず、概論と第1章を読む。
 1914年から45年まで、ヨーロッパは悲惨な自滅の時代を経験した、と著者は書いている。地獄の淵にあったわけではない。まさに地獄を抜けたのである。
 破局をもたらした要因は4つあるという。

(1)民族主義・人種差別主義的ナショナリズム
(2)領土修正をめざす激しい要求
(3)ロシア革命を背景とした先鋭的階級闘争
(4)長期化する資本主義の危機

 並べてみると、なんだかいまと似ているような気がする。
 たとえ状況は変わっても、歴史はくり返されるのだろうか。
 本書にえがかれる現代ヨーロッパ史の概要は、次のようなものだ。
 第1次世界大戦(1914〜18)は、100年つづいたウィーン体制を崩壊させた。だが、終戦後の領土再編は、国家間、民族間、階級間の対立と緊張をさらに悪化させ、次の衝突を導いていく。
 とりわけイタリアとドイツでは、反ボリシェヴィズムとナショナリズムが結合して、右翼大衆運動が巻き起こり、過激右翼が政権を掌握する。
 大恐慌(1929)後の世界経済は混乱していた。大衆の不安にかこつけて、強さをうたう政治勢力が台頭していく。その運動は武力が国を救うという思想へと結実していく。こうして破滅的な第2次世界大戦(1939〜45)がはじまった。
「しかし、驚いたことに、第1次世界大戦が生み出した大混乱とは対照的に、第2次世界大戦はヨーロッパが20世紀後半に再生する道を切り開く」と、著者は記している。
 ヨーロッパ列強がヨーロッパ半島の覇権をめざして争う時代は終わり、二大国の米ソが核の力を背景ににらみあう時代がはじまったのだ。
 これが本書(全2巻を予定)のえがこうとする時代の大きな流れである。
 本巻では、とりあえず20世紀前半のヨーロッパに焦点があてられる。
 それをぼつぼつ読もうとしているわけだ。

 まずは第1章「瀬戸際で」。
 第1次世界大戦によって、ヨーロッパは「大破局」を迎えることになる。当時はだれも気づかなかったが、それは20世紀の「30年戦争」の幕開けだった。
 戦争がはじまる前、ヨーロッパは安定と繁栄、平和を謳歌していた。フランスはベル・エポック、ドイツはヴィルヘルム時代、アメリカは金ぴか時代の絶頂にあり、ヨーロッパ各地の都市は華やかな文化にあふれている。もっとも、ロンドンは文化よりも経済の都で、世界貿易の中心地だった。それを支えていたのは金本位制とイングランド銀行である。
 1900年、パリではオリンピックと万国博が開催された。繁栄はいつまでもつづくと思われた。だが、ヨーロッパ全体に繁栄が行き渡っていたわけではない。東西、南北、それに国による格差も大きい。ほとんどの国では、王権の支配がつづいていた。
 それでも社会の変化がおきつつある。普通選挙制度が導入された背景には、労働者階級の台頭があった、と著者はいう。イギリスでもフランスでもドイツでも労働者政党が生まれている。
 いっぽうで、ナショナリズムをあおる右翼の大衆運動も出現する。狂信的愛国主義にあふれた運動は、しばしば排外主義的で、人種差別主義的だった。それを支持したのは中産階級か下層中産階級で、かれらは拡張主義的な外交政策を支持した。
 反ユダヤ主義も広がりつつある。経済が悪化すると、ユダヤ人はスケープゴートにされがちだった。反ユダヤ主義は、第1次世界大戦前はある程度抑えられていた。それでも、ロシアでは何度もポグロムがおき、1905年10月には、3000人以上のユダヤ人が殺害されている。
 そのころ、優生学や社会ダーウィニズムが大手を振ってまかりとおるようになった。
「第1次世界大戦前のヨーロッパは、うわべの平穏とは裏腹に、のちの爆発的な暴力の種を宿していた」と、著者は書いている。
 ヨーロッパはずるずると第1次世界大戦に突入したようにみえる。だが、サラエヴォ事件のあと、1914年7月の危機において、決定的な引き金を引いたのはドイツだ、と著者はいう。
 ドイツはオーストリア・ハンガリー帝国(ハプスブルク帝国)を無条件で支持した。いっぽう、ロシアはセルビアを無条件で支持する。
 フランスとロシアは1894年に同盟を結んでいた(仏露同盟)。両方の側からドイツをはさんで、その力をそぐためだ。
 だが、その当のロシアは、オスマン帝国をたたくことで、ボスポラス、ダーダネルス両海峡を制し、念願の地中海進出をもくろんでいる。
 イギリスはロシアの勢力拡大を恐れている。ロシアが地中海、中東、中央アジアに進出すれば、イギリスの重要植民地であるインドがあやうくなるからだ。
 イギリスは1907年にロシアと英露協商を結んだ。日露戦争で敗北したロシアの勢力をいまならコントロールできると考えていた。
 1904年、イギリスはドイツの力を抑えるため、フランスとも英仏協商を結んでいる。これにより、1907年の協商とあわせて、イギリス、フランス、ロシアとのあいだで三国協商が結ばれたことになる。たがいに疑心暗鬼をひめた虚々実々の協商である。
 大きな陸軍をもたないイギリスは別として、ヨーロッパ各国は積極的に軍を増強していた。ロシアは350万、ドイツは210万、フランスは180万、オーストリア・ハンガリーは130万である。
 ほんとうなら、サラエヴォでの皇太子暗殺事件は、オーストリア・ハンガリー帝国とセルビアとのあいだで決着してもよかったはずである。それがなぜヨーロッパ全体を巻きこむ大戦争へと発展したのだろうか。
 暗殺直後、オーストリアの対応はにぶかった。それが、かえって「ゆっくりと燃え上がる導火線」になった、と著者はいう。
 そのかんドイツは素早く戦争の準備に動いた。オーストリアがセルビアに最後通牒を突きつけるのは、事件から3週間半が経過した7月23日になってからである。セルビアは当初、それを受け入れるつもりだった。ところが、セルビア側に立つロシアは、受諾に反対し、軍に総動員をかけた。単なる脅し、あるいは万一に備えただけかもしれない。
 ところが、ドイツは不安に駆られた。ドイツは8月1日、ロシアに宣戦を布告する。ロシアと協商関係にあるフランスは、これをみて軍に総動員をかける。8月3日、ドイツはフランスに宣戦を布告した。
 イギリスはドイツがヨーロッパ全土を支配することを恐れていた。そこで、ドイツがベルギーに侵攻した8月4日、ドイツに宣戦を布告した。
 いちばん最後に参戦したのは、皮肉なことにオーストリア・ハンガリー帝国である。大戦がはじまると、セルビアはむしろ蚊帳の外におかれた。
 ロシアの進出をおそれるオスマン帝国は、必然的にドイツ側に立って戦わざるをえない。
 どの当事国も、戦争は短期で終わると確信していた。そのために、最新の軍事技術を一気に投入した。長期の消耗戦は避けたい。
 モルトケの指揮するドイツ軍は、シュリーフェン作戦にもとづき、西部戦線でフランス軍を速攻で下し、とって返して東部戦線でロシアを撃破する計画を立てていた。ひと月もあれば、戦争に勝利するとみていた。
 ベルリンでもウィーンでもサンクトペテルブルクでもパリでも、多くの市民が愛国的熱気のなかで、戦争がはじまるのを歓迎した。やむなく祖国防衛に立ち上がる人もいた。
 どの国の新聞も、敵国へのヒステリーをあおった。
 ロシアでは首都のサンクトペテルブルクがペトログラードと改称された。サンクトペテルブルクという名前はあまりにもドイツ風と考えられたのである。
 ほとんどの人がクリスマスには戦争が終わると思っていた。
 だが、そうはならなかった。戦争ははじめるのは簡単だが、おわらせるのはむずかしいのである。
 しかも、その戦争は帝国主義時代の動向とからんで、ヨーロッパにかぎらず世界じゅうに飛び火していった。


『負債論』(デヴィッド・グレーバー)書評 [本]

 借金やローンは悩みの種だ。借金なんかしなければよかったと思っても後の祭り。家や車がほしかったり、教育資金や事業資金が必要だったりと、借金には人さまざまな理由がある。商売がうまく立ちゆかず、負債に悩んでいる人も多い。板子一枚下はまさに借金地獄。それなのに、国が1200兆円以上も借金をかかえながら、ひとごとのように平気な顔をしていられるのは、なぜか。
 本書の著者、デヴィッド・グレーバーは、イギリスの名門大学、ロンドンスクール・オブ・エコノミクス(LSE)の人類学教授で、アナキストの活動家としても知られる。「われわれは99パーセントだ」というスローガンをつくり、ウォール街占拠運動の理論的指導者として一躍有名になった。反グローバリズムを唱え、サミットにも反対している。そのグレーバーの代表作が、この『負債論』である。
 本書が問題にするのは、人がいつのまにか信じこんでいる、お金にまつわる道徳意識についてである。「借りたお金は返さなければならない」。だが、ほんとうにそうなのかと問うところから、著者の探求ははじまる。
 そもそも負債、借金とは何か。負債は貨幣で計算され、貨幣で返済を義務づけられる。だとすれば、負債の根源には貨幣がある。著者が負債の歴史を研究しようと思い立ったのは、2008年の金融危機を経験してからだという。それは「念の入った詐欺」以外のなにものでもなかった。さらに、そのさい救済されたのが一般市民ではなく、金融企業すなわち銀行だったことに疑問をいだいた。
 それにしてもすごいのは、本書が負債のもととなる貨幣の歴史を、5000年さかのぼって古代メソポタミアからたどろうとしていることだ。
 経済学では、ふつう貨幣は物々交換から生まれたとされる。その神話を著者は疑う。なぜなら、双方の欲求が一致しなければ成立しない物々交換ほどむずかしいやりとりはないからだ。物々交換の困難さを解消するために貨幣が生まれたという経済学の仮説は、観念上の操作でしかない。
 世界の歴史をたどれば、人類が物々交換をおこなっていた形跡はどこにもみあたらない。分かち合いや贈与、広い意味での貸し借りはあったけれども、物々交換はなかった。実際に物々交換らしきものがおこなわれたのは、かえって近代になってからであり、貨幣崩壊が生じた戦後の混乱期などにかぎられる。
 経済学の考え方は、当初、貨幣には塩や貝殻や干鱈、たばこ、砂糖、釘など、だれもが交換しやすい物品が用いられていたが、次第に金属が貨幣として用いられるようになり、次に紙幣が登場して、信用が発達し、金融システムが形成されていったというものである。だが、それは貨幣のほんとうの歴史ではない、と著者はいう。
 スミスもマルクスも、国家から市場社会を切り離して、経済理論を構築した。そのため、商品の物々交換から貨幣が生じ、さらに貨幣が資本をつくりだしたと考えた。そうではない。商品から貨幣が生まれるのではなく、貨幣があるからこそ商品が出てくるのだ。
 スミスが市場社会ユートピアを構想したのにたいし、マルクスは市場社会ディストピアを暴きだした。スミスは資本の拡張が豊かな社会を生みだすと考えたが、マルクスは資本の蓄積こそ貧富の拡大と社会の分裂を招くととらえた。そのため、スミス流では資本の拡張、マルクス流では資本の解体が求められる。
 だが、著者によれば、スミスもマルクスもまちがっているということになる。実際には、スミスは国家なき市場社会を理想とし、マルクスは市場社会なき国家(プロレタリア独裁国家)を理想としているのだ。その前提となったのが、貨幣は商品交換ないし物々交換から生じたという考え方である。そうでないとすれば、貨幣はいったいどこから生じたのだろうか。
 歴史を振り返れば、貨幣が発生したのは、紀元前3000年ほど前、メソポタミアのシュメール文明においてである。貨幣は官僚によって発明され、都市に貯蔵される物資を集めたり分配したりするのに用いられた。その貨幣は金属片ではなく、粘土板に刻まれたしるし(仮想貨幣)だった。
 貨幣をつくったのは国家にほかならない。国家は常備軍を維持するために、兵士に貨幣を配布し、それで食料品をはじめとする物資を調達させた。いっぽう、国民にたいしては、税を貨幣で払うよう求める。すると、この貨幣は流通しはじめ、市場が生まれるのだ。国家と市場はつきものであり、国家なき社会は市場も持たないと著者はいう。
 メソポタミアでは、神殿の役人が商人たちを国外に派遣し、羊毛や皮革を売らせて、国に足りない木材や金属を買わせていた。そのため仕入れの前貸しとして渡されたのが貨幣である。貸し付けは利子をともなって返済されなければならなかった。やがて、貸し付けは商人だけではなく農民にもおよぶようになる。農民はしばしばその負債に堪えきれず、歴代の王は権力の座につくとき債務取り消しの特赦を発令するのが慣例になった。貨幣と市場は国家によって生みだされ、人びとは国家に借りを返すよう求められる。それが税の原点だと著者は考えている。そして、負債もまた貨幣とともに発生した。
 貨幣の歴史は負債の歴史でもあり、血と暴力によっていろどられている。それを象徴するのが奴隷制だ。奴隷制は古代から存在した。戦争と債務が奴隷を生みだした。奴隷は貨幣によって売買される。メソポタミアも古代ギリシアもローマ帝国も奴隷制の上に成りたっていた。
 ふたたび奴隷制が復活するのは近世になってからである。16世紀から18世紀にかけ、1000万人以上のアフリカ人奴隷が大西洋の向こうに輸送されていった。奴隷制は人間が商品となる貨幣経済時代の到来を象徴していた。そこにはかならず暴力が介在していた。貨幣はけっして純粋無垢ではない、と著者はいう。
 ところで、貨幣といわれて、まず思い浮かべるのは金属貨幣だろう。世界ではじめて硬貨がつくられたのは、紀元前600年ごろ、リュデイア王国(現アナトリア西部)においてである。丸い琥珀金(金と銀の合金)に記章が刻印されていた。まもなく地域をへだてた華北平原、ガンジス川流域、エーゲ海周辺でも、ほぼ同時期に硬貨の鋳造がはじまる。
 硬貨のもつ意味は大きい。硬貨は金属のかたまりであるけれども、そこには数と像がきざまれており、一片の金属以上のものとして流通した。問題は硬貨の保証が主に都市の内部にかぎられることだった。都市の外に出て、無縁の地に出れば出るほど、硬貨はただの金属のかたまりに戻ってしまう。遠方交易はそうした硬貨の難点を乗り越えねばならなかった。とはいえ、金属としての硬貨が出現することによって、貨幣は世界貨幣への一歩を踏みだしたといえる。
 著者が貨幣の出現以来5000年の歴史を5段階に分類し分析しているところが、本書後半の読みどころである。仮想貨幣と金属貨幣の交替に沿って、世界史は次のように区分される。(1)最初の農業帝国時代(前3500年—前800年)(2)枢軸時代(前800年—後600年)(3)中世(600年—1450年)(4)資本主義時代(1450—1971年)(5)現代(1971年以降)。
 この壮大な世界史を詳しく紹介するわけにもいかない。だが、一般的に世界史においては、国家が弱体な時代と強大な時代がくり返し生じ、それにともなって貨幣が仮想貨幣になるか金属貨幣になるかが決まるという。金属貨幣の時代は、国家が強大化し、奴隷制と人間の商品化が進展する時代でもあった。
 著者によれば、資本主義が生まれるのは、15世紀後半、ヨーロッパにおいて、国家から特許状を受けた冒険商人組合、すなわち会社が武装し、海外で冒険をはじめたときからである。国家なき純粋な資本主義など、最初からありえなかった。1520年から1640年にかけ、ヨーロッパにはアメリカから途方もない金銀が流入し、価格革命を引き起こした。その結果、物価が上昇し、囲い込み運動によって農民は土地を追われ、海外植民地に行くか、国内の工場で働くかのどちらかを選ばねばならなくなった。
 著者は、アメリカ大陸に侵攻し、アステカ帝国を倒し、世界史上最大の窃盗行為をおこなった、借金まみれのコルテスの行動こそが、資本主義の原型だったと述べている。そのアメリカでは、疫病と鉱山での強制労働によって、先住民が次々と死んでいった。スペイン人はインディオに重税を課し、支払いのできない者にカネを貸し、返せないものを負債懲役人にしていった。
 資本主義をもたらしたのは国家権力である。国家は市場をつくり、人びとを働かせ、貨幣なしには暮らしていけないシステムをつくりあげていく。そこでは貨幣の暴力が作用し、負債に縛られる人が数多く生まれる。
 紙幣をつくったのも国家だといえる。1694年にイングランド銀行が設立され、はじめて生粋の紙幣が発行された。国王による負債を認める見返りとして、商人たちが銀行券発行の許可を得たのが、そもそものはじまりである。したがって、紙幣とは国家による約束手形のようなものだといってよい。信用されなくなれば、たちまち紙切れになってしまう。
 資本主義は継続的で終わりのない成長を必要とする。5パーセント程度の経済成長が必要だとだれもが思っている。そうした一種の強迫観念が生まれたのは19世紀はじめではなく、むしろ1700年ごろを起点とする近代資本主義の黎明期だった。そのときすでに信用と負債からなる巨大な金融装置のもとで、ヨーロッパ諸国家の海外進出がはじまった。
 資本主義とは貨幣の循環的拡大をめざす国家システムなのだ。それは債権者が次々と債務者をつくりだし、貨幣を回収しつづけることで、はじめて成り立つシステムだといってもよい。それを媒介するのが商品である。貨幣はけっして媒介ではない。労働者は給料どろぼうと指さされないように、一生懸命ものをつくり、売るためにはたらく。そう考えれば、経済学者が称賛するのとは裏腹に、資本主義はずいぶん倒錯した経済モデルだということができる。
 いつも回転しつづけていなければ倒れてしまう資本主義というシステムは不安定で、常に時限爆弾の恐怖につきまとわれている。順調な成功を収めると思えた瞬間に、なぜかがらがらと崩壊しはじめるという「黙示録」的な見通しを、著者は資本主義にいだいている。
 1971年8月のニクソン・ショックによって、ブレトンウッズ合意は崩れ、変動通貨体制がはじまった。これが新しい時代の扉だったことはまちがいない。現在は過渡的な時代だ、と著者はいう。アメリカの時代が終わるのか、新しい中世がくるのか、これから先はなかなか見通せない。変動為替制になったいまも、ドルが基軸通貨であることに変わりはなく、むしろ、これまで以上にドルに振り回される通貨体制ができあがっているかのようにみえる。
 しかし、なにかがはじまっている予感は、仮想貨幣の広がりをみてもわかる、と著者はいう。VISAとマスターカードが登場したのは1968年だが、本格的にキャッシュレス経済がはじまるのは1990年代になってからだ。仮想通貨が国家紙幣をのみこんでしまう時代が訪れようとしている。
 いまはどういう状況にあるか。アメリカの軍事力は巨大なのに、はるかに弱体な勢力を倒せないでいる。ライバルの中国やロシアを圧倒することもできなくなった。好き勝手に通貨を創造しようとしたアメリカの力は、数兆ドルの支払い義務を累積させ、世界経済を全面崩壊寸前にまで追いつめてしまった。いまアメリカの長期国債を支えているのは、おもに日本と中国だ。とりわけ中国の役割が見逃せない。
 戦後のケインズ時代には生産性と賃金が上昇し、消費者経済の基礎がつくられた。だが、1970年代後半以降、サッチャー、レーガン政権が誕生すると、ケインズ主義は終焉を迎え、生産性と賃金の連動性は失われ、賃金は実質的に低落していった。マネタリズムによって、貨幣は投機の対象と化した。そして、賃金が上昇しないなか、労働者はクレジットカードをもつようになり、サラ金にはまり、住宅ローンに追われるようになった。
 個人の負債は、けっして放縦が原因なのではない。カネを借りなければ、まともな生活などできないのだ。家族のために家を、仕事のために車を、その他、教育やさまざまな楽しみのためにカネをかけてはいけないのだろうか。じぶんたちも投資家とおなじように、無からカネをつくりだしてもいいはずだ。すると、どんどんカードをつくり、どんどんローンを借りればいいということになる。その結果、だれもが罠にはまった。2008年のサブプライム危機が発生したのだ。このとき政府が救済したのは一般市民ではない。金融業者は税金で救済された。だが、一般の債務者には自己破産という苛酷な仕打ちが待っていた。
 資本主義は終わりそうだという見通しに直面したが、そのオルタナティブはまだ想像の外にある、と著者はいう。いや、むしろ、そうしたオルタナティブを封じるために、国家は恐怖と愛国主義をあおり、銃(軍備)と監視の社会をさらに強化しようとしている。加えて、グローバル化の進展が、先進工業国の停滞(とりわけ中産階級の没落)と新興国民国家の躍進を生み落とし、それが双方のナショナリズムをかきたてているのだ。
 しかし、いまでも現在の経済活動に秘められているのは自己破壊衝動でしかなく、統制不能の破局が生じる可能性は低くない、と著者はいう。だからこそ、われわれは民衆のひとりとして、歴史的な行為者になることを求められている。だとすれば、「いま真の問いは、どうやって事態の進行に歯止めをかけ、人びとがより働かず、より生きる社会にむかうか、である」と、著者は論じる。
 著者は、聖書にえがかれたヨベルの律法のように、国際的債務と消費者債務を帳消しにせよと求める。借金を返せという原理は、はれんちな嘘だという。すべてを帳消しにし、再出発を認めることこそが、「わたしたちの旅の最初の一歩なのだ」と宣言している。
『負債論』は世界じゅうに大きなインパクトを与えた。世界を想像しなおすことを求めて、本書は終わる。読みやすいとはいえないが、さまざまな想像をかきたてるラディカルな本である。

デヴィッド・グレーバー『負債論』(まとめ) [本]

   1 はじめに

 デヴィッド・グレーバーは、イギリスの名門大学、ロンドンスクール・オブ・エコノミクス(LSE)の人類学教授で、アナキストの活動家として知られている。「われわれは99パーセントだ」というスローガンをつくり、ウォールストリート占拠運動の指導者として一躍有名になった。反グローバリズムを唱え、サミットにも反対している。そのグレーバーの代表作が、この『負債論』である。
 本書が問題にするのは、人がいつのまにか信じこんでいる、お金にまつわる強迫的な道徳意識についてである。「借りたお金は返さなければならない」。そのためには、多少、人が死んでも仕方がない。しかし、それはほんとうに正しいのかと疑問を発するところから、著者の探求ははじまっている。

〈消費者負債はわたしたちの経済の活力源である。近代のあらゆる国民国家は赤字支出の上に成り立っている。負債は国際政治の中心的課題にまでなっている。だが、そもそも負債とはなんなのかを理解している人間、または負債についてどう考えたらよいかわかっている人間はどこにもいないようにみえる。〉

 これが『負債論』の問いである。
 負債とはなにかがわかっていないにもかかわらず、「負債は返さなければならない」という道徳意識が人びとをしばりつけている。
 植民地にたいする宗主国の債務の押しつけは、いまも第三世界を圧迫しつづけている。そのくせ、万年債務国であるアメリカ「帝国」は、世界じゅうから「貢納」を求めて、そのうえにあぐらをかいている、と著者はいう。
 金を借りても平気な国と、金を借りて苦しむ国とのちがいはどこにあるのだろうか。
 金を貸して権威をふるう階級と、金を借りて黙々とはたらく階級がいる。その関係は代々、永久につづくのだろうか。
 中世のキリスト教世界では、金貸しは罪深い存在とされてきた。
 それはヒンドゥー教の世界でも、仏教の世界でも同じである。
『日本霊異記』には、強欲な広虫女(ひろむしめ)なる金貸し女が死んで、醜い怪物になる物語が残されている。
 しかし、こうした物語の背景には、高利貸から金を借りるなという教訓めいた説教もひそんでいる。
 貨幣によって計量され、返済を義務づけられ、強制されることが負債の特徴だといえる。すごいのは本書が、負債のもととなる貨幣の歴史を古代メソポタミアからたどろうとしていることだ。
 著者が負債の歴史を研究しようと思い立ったのは、2008年の金融危機を経験してからだという。それは「念の入った詐欺」以外のなにものでもなかった。さらに、そのさい救済されたのは、一般市民ではなく、金融企業、すなわち銀行だったことに疑問をいだいた。
 著者はアナキストらしく、債務の帳消しと金融支配体制の解体を求める。
 だが、同時により根源的な大きな問いを投げかける。「人間とはなにか、人間社会とはなにか、またどのようなものでありうるのか」と。
 本書では、さまざまな神話に疑問が呈される。物々交換なるものは存在したのか。国家と市場は、それぞれ独立した存在だったのか。人間は交換を運命づけられているのか。貨幣はどのように発生したのか。
 こうした問いを秘めながら、「過去5000年間の負債と信用についての実在の歴史」をたどろうというのである。

  2 物々交換の神話

 経済学では、ふつう貨幣は物々交換から生まれたとされる。
 ほんとうにそうだろうか、と著者は疑う。
 なぜなら、双方の欲求が一致しなければ成立しない、物々交換ほどむずかしいやりとりはないからだ。物々交換の困難さを解消するために貨幣が生まれたという経済学の仮説は、あくまでも観念上の操作にもとづいている。
 紀元前330年ごろ、アリストテレスはすでにこう考えていた。もともと家族は必要なものをすべて自前でつくっていた。ところが、たとえば、ある家族は穀物だけをつくるようになり、別の家族はワインだけをつくるようになって、たがいに商品を交換しあうようになり、そのための道具として貨幣が登場したのだ、と。
 アダム・スミスの『国富論』の展開も、アリストテレスのこうした考えを引き継いでいる。
 ところが、スミス以前の大航海時代に、スペインやポルトガルの冒険家が世界じゅうを探査しても、物々交換をじっさいにおこなっている場所は、どこにも発見できていなかったのである。
 にもかかわらず、スミスは商品を交換するために貨幣が必要になったという理論を組み立てた。そして、マルクスも商品から貨幣が生まれ、貨幣から資本が生まれたと考えた。
 分業によって、さまざまな職業が生まれ、商品がつくられ、貨幣を媒介として、多種多様な商品が交換され、社会が発展していくというのが近代の商品世界の考え方である。
 当初、貨幣には塩や貝殻や干鱈、たばこ、砂糖、釘など、だれもが交換しやすい物品が用いられることもあった。しかし、次第に金属、さらには鋳貨が貨幣として用いられるようになり、次に紙幣が登場して、信用が発達し、金融システムが形成されていく。
 これが経済学のとらえ方だ。
 ほんとうなのだろうか。
 著者はここで人類学の知見を導入し、そもそも物々交換など存在しなかったと論じる。
 ルイス・ヘンリー・モーガンは、19世紀半ばに北アメリカのイロコイ6部族連邦を調査し、ロングハウス(いわば長屋)にものが貯蔵され、それらが分配される様子を記した。
 ここでは、ものの分配はあったが、物々交換などはなかった。
 そして、交換がなされる場合も、やっかいな手続きを必要とする。
 レヴィストロースはブラジルのナンビクワラ族の交換について記述している。ふだん100人ほどの集団(バンド)でくらすかれらは、相手の集団と交易をおこなうさい、まず宴会を開く。そこで相手の持ち物(たとえば首飾りや斧)をほめちぎり、さまざまな駆け引きをへて、最後はそれをもぎとるのだという。
 交換といっても、生やさしいものではない。それはにぎやかな宴会のなかでおこなわれるが、一歩まちがえれば戦争に転じかねない緊張感をはらんでいる。
 物々交換というより、贈与の強制といった趣がある。
 オーストラリアのグヌィング族は、キャンプ地の宴会で、歌ったり踊ったりしながら近隣の部族と、ものを交換しあう。それは性の饗宴でもあり、ビーズやたばこが循環し、布地が行き交う。つまり、ここでも宴会があって、はじめて交易がなされるのだ。
 部族間でものが交換されるのは、日常的なことではない。

〈ある物をべつの物と直接に取り替えて、そこからありうるかぎりの利益を引きだそうとするようなふるまいは、ふつうどうでもよい人間、二度と会うこともない人間との関係の様式である。……それに対して、隣人や友人というような気がかりな相手には、公平で親切な交流を求め、その人の個人的な必要、欲望、状況に配慮するだろう。ある物をべつの物と交換するにせよ、それを贈与とみなしたがるはずだ。〉

 交換はよそよそしい。むしろ贈与が基本である。経済学が出発点とする物々交換は、現代社会の交換関係を抽象化し、人類社会一般に投影した幻想でしかない、と著者はいう。
 贈与は、相手からほしいものをもらい、相手にほしいものをあげるという一方的な関係である。その時点で、交換は成立しない。いつかお返しをすればよいのだ。それが、部族社会のあり方だ。
 だとすれば、ここに貨幣がはいりこむ余地はない。

〈物々交換がことさら古い現象ではないこと、真に普及したのは近代においてはじめてであること、実のところ、そう考えるには正当な理由がある。知られているほとんどの事例において物々交換の起きるのは、貨幣の使用に親しんでいるが、なんらかの理由でそれをふんだんにもちあわせていない人たちのあいだにおいてなのだ。手の込んだ物々交換のシステムの出現するのは、しばしば国民経済が崩壊するときである。〉

 物々交換が生じるのは、むしろ近代だ。なにかの拍子に、これまで使っていた貨幣が使えなくなったときに、物々交換が発生する。
 日本でも、敗戦直後、都会の主婦は着物をかついで、村に食糧の買い出しに出かけたものだ。
 かつてニューファンドランド島では、出稼ぎの漁師が干し鱈を商人に渡して、商人から必需品をもらうという、一見、物々交換のような場面がみられた。だが、それは物々交換だったのか、と著者は疑う。
 じつは、ニューファンドランドでは、決定的に硬貨が不足していた。そこで、商人は干し鱈の市場価格を計算したうえで、それを受け取り、漁師に価格に見合った必需品を手渡したのである。まるで干し鱈を貨幣に見立てたかのように、物々交換が発生したのだが、実際にここでおこなわれていたのは、一種の信用経済にほかならなかった、と著者はいう。
 歴史を振り返れば、貨幣が発生したのは、紀元前3000年ほど前、メソポタミアのシュメール文明においてである。貨幣は官僚たちによって発明され、都市国家に貯蔵された物資を差配するために用いられた。
 その貨幣は金属片ではなく、粘土板に刻まれたしるしである。
 したがって、スミスのいうように、貨幣は商品の自然な取引のなかから生まれたわけではない。

〈物々交換からはじまって、貨幣が発見され、そのあとで次第に信用システムが発展したわけではない。事態の進行はまったく逆方向だったのである。わたしたたちがいま仮想貨幣(ヴァーチャル・マネー)と呼んでいるものこそ、最初にあらわれたのだ。硬貨の出現はそれよりはるかにあとであって、その使用は不均等にしか拡大せず、信用システムに完全にとってかわるにはいたらなかった。それに対して物々交換は、硬貨あるいは紙幣の使用にともなう偶然の派生物としてあらわれたようにみえる。歴史的にみれば物々交換は、現金取引に慣れた人びとがなんらかの理由で通貨不足に直面したときに実践したものなのだ。〉


  3 原初的負債

 経済学では、「貨幣とは交換を促進させるべく選ばれたひとつの商品であり、じぶん以外の商品の価値を測定するために使用されるにすぎない」とされる。
 ところが、実際は貨幣がなければ商品も存在しないし、政治権力がなければ貨幣もない、と著者はいう。
 著者はここで貨幣の起源として、たとえば軍隊を想定している。国家は常備軍を維持するために、兵士に貨幣を配付し、それで食料品をはじめとする物資を調達させる。いっぽう、国民にたいしては、税を貨幣で払うよう求める。すると、この貨幣は流通しはじめ、市場が生まれるのだ。国家と市場はつきものだ、国家なき社会は市場ももたない、と著者はいう。
 貨幣の発生は、植民地の経験からもたどることができる。フランスは植民地としたマダガスカルでマダガスカル・フランを発行し、プランテーションをつくり、そこで住民をはたらかせては、税の支払いを求めた。こうして、貨幣はいやおうなく市場をつくりだし、植民地から解放されたいまも、人びとは市場にしばられるようになった。
 1971年にリチャード・ニクソンがドルを金から切り離し、変動通貨制に移行して以来、貨幣は法定不換紙幣となった。いまでは貨幣を国家=信用理論でとらえる見方がますます幅をきかせるようになっている。
 国家の発行する紙幣のもとで、国民は市場で経済活動をいとなみ、国家に税金を支払う。税金を払うのは、国家に治安と行政サービスを求めるためだというのが一般的な理解である。しかし、そもそも人はなぜ国に税金を払わなければならないのだろうか。
 著者は「原初的負債論」という考え方を紹介する。
 人は生まれたときから、いってみれば社会や両親、家族に負債を負っている。だから、人は生きているかぎり、その負債を返していかなければならない。貨幣はまずもって、ささげものである。
 実際、著者は「どの地域であっても貨幣は神々への捧げものに最もふさわしい物品から発生しているようにみえる」と記している。日本語でも、貨幣の幣(ぬさ)は、神へのささげものをさしている。
 子安貝などのような原始通貨が物の売買に使用されることはめったにない。著者によれば、「それらは事物の入手にではなく、主として人びとのあいだの関係の調整のため、とりわけ結婚の取り決めや、殺人や傷害から生じるいさかいの調停のために使用される」。
 原始通貨は長くつづく関係への確認、あるいはこれからも負債を返しつづけるという象徴のようなものとなる。そういえば、結納の品も両家の末長い関係をつなぐ象徴にちがいない。つまり、ささげものである。
「つまるところ、わたしたちは自己存在すべてを他者によっている」。われわれがここにあるのは、すべてだれかのおかげなのだ。だとすれば、社会に借りを返すという意識がどこかに生じてきても不思議ではない。
 だが、そもそも優越する者、すなわち神や王に負債を返す必要はないはずだ。古代世界では、自由市民が国に税を払うことはふつうなかったという。税を課せられたのは市民以外である。
 だから受けた恩義にたいし、借りを返すところから、貨幣が発生するわけではないのだ。
 ここで著者はシュメールやバビロニアのあった古代メソポタミアに思いをはせる。
 古代メソポタミアの流域は豊かで、多くの穀物がとれ、おびただしい家畜が飼われ、羊毛や皮革がつくられていた。しかし、石や木、金属は不足し、輸入しなければならなかった。そこで、神殿の役人は、商人たちを国外に派遣し、メソポタミアの産物を売らせて、足りない資材を買わせた。
 そのための前貸しとして渡されたのが、貨幣である。貸し付けは利子をともなって返済されなければならなかった。やがて、貸し付けは商人だけではなく農民にもおよぶようになる。農民はしばしばその負債に堪えきれず、歴代の王は権力の座につくとき債務取り消しの特赦を発令するのが慣例になった。
 ここでふたたび著者は原始的負債の論議に戻って、人が生まれたときから社会に負債を負っているという主張のいかがわしさに論及している。実際、社会という概念はいいかげんであって、いかようにも解釈できる。だが、人は社会から負債を返すよう求められる。
 紀元前500年から400年ごろに成立したとされるインドのヴェーダでは、負債にたいする考え方はもっと明快だった、と著者はいう。
 人が負債を負っているのは第一に宇宙の力にたいしてであり、第二に文化を授けてくれた人にたいしてであり、第三に育ててくれた両親や祖父母にたいしてであり、第四に周囲の人びとの寛容にたいしてである。それらにたいして、わたしはお返しをしなければならない。だが、それは金銭によってなされるのではない。わたしは自身が先達となり、祖先となり、人道を守り、祭儀をおこなうことによって、負債を返すのである。
 であるなら、原始的負債から貨幣が発生するわけではない。
 だが、ここに国家が登場してくると、負債をめぐる論議は一変する。
 19世紀の社会学者、オーギュスト・コントは、人は社会への債務者として生まれると論じ、人は社会に奉仕することで、社会への返済義務をはたさなければならないと述べた。コントのいう社会とは、国家そのものだといってもよい。
 著者はこう書いている。

〈市場と国家は正反対のものであり、それらのあいだにこそ人間の唯一の可能性があると、わたしたちはたえまなく教えられてきた。しかしこれはあやまった二分法である。国家は市場を創造する。どちらもたがいになくしては存続しえないし、少なくとも今日知られているようなかたちでは存続しえないのである。〉

 貨幣と市場は国家によって生みだされ、そこで生活をいとなむ人びとは、国家に借りを返すよう求められる。それが税の原点だと考えられる。


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なにがはじまろうとしているのか──グレーバー『負債論』を読む(11) [本]

 1971年8月のニクソン・ショックによって、ブレトン・ウッズ合意は崩れ、変動通貨体制がはじまった。その結果、ドルの価値は暴落し、長期のインフレが引き起こされた。
 とはいえ、いまでも、世界の金の5分の1から4分の1にあたる5000トンの金は、アメリカのフォートノックスと連邦準備制度理事会の金庫に保管されているらしい。
 現在は過渡的な時代だ、と著者はいう。これからどうなっていくのか、先は見通せない。
 戦争と軍事の役割は、ますます強まっている。
 そもそも、近代の貨幣は政府債務に基盤をおいている。そして、政府が債務を調達するのは、おもに戦争のためだった。ニクソン政権がドルの為替レートを変動させたのも戦費調達がその背景にあったという。
 アメリカはいまでも世界でずぬけた軍事費を支出している。その目的は、グローバルな権力の掌握である。
「世界における合衆国の軍事的支配の本質は、……望むならば、2、3時間のあいだに、地球上のどの地域をも絶対的に爆撃することができること[空軍力]にある」と著者は指摘する。
 変動為替制になっても、ドルが基軸通貨であることに変わりなかった。むしろ、ドルに振り回される通貨体制ができあがっている。
 サダム・フセインが2000年にドルからユーロに通貨体制を転換すると、アメリカはただちにイラクへの爆撃と軍事侵略で応えた。「あらゆる帝国の組み立ては、つまるところ、テロルに基礎づけられている」と、著者はいう。
 なにかがはじまっている予感は、仮想通貨の広がりにおいてもみられる。VISAとマスターカードが登場したのは1968年だが、本格的にキャッシュレス経済がはじまったのは、1990年代になってからだ。そして、いまサラリーマンはローンの返済に追われる。かれらは、自分たちがあくせく働かねばならないのは、ローンのためだと思っている。
 いまはどういう状況にあるか。アメリカの軍事力は巨大なのに、はるかに弱体な勢力を倒せないでいる。ライバルの中国やロシアを圧倒することもできなくなった。好き勝手に通貨を創造しようとした力は、数兆ドルの支払い義務を累積させ、世界経済を全面崩壊寸前にまで追いつめてしまった。
 アメリカの長期国債を支えているのは、おもに日本と中国だ。とりわけ中国の役割が見逃せない。著者は「中国の視点に立ってみると、まさにこれは合衆国を伝統的な中国の従属国[冊封国]にしていく長期の過程の第一段階であると考えることに、それほど無理はない」というが、これはちょっと買いかぶりすぎだろう。だが、いずれにしても米国債にたいする中国と日本のスタンスには、大きなちがいがある。
 2008年の大暴落は信じがたいほどの詐欺だった、と著者はいう。
 戦後のケインズ時代の到来によって、階級闘争は一時停戦となり、生産性の上昇と賃金の上昇がみられ、消費者経済の基礎がつくられた。同時に景気の停滞期に需要を刺激する方法として、政府は「無」からの貨幣の創造を促進させる政策をとった。だが、それでも経済的平等がもたらされることはなかった。
 1970年代後半以降、サッチャー、レーガン政権が誕生すると、ケインズ主義は終焉を迎え、生産性と賃金の連動性は失われ、賃金は停滞するか、低落していった。
 マネタリズムによって、貨幣は投機の対象と化してしまう。そして、賃金が上昇しないなか、労働者はクレジットカードをもつようになり、サラ金にはまり、住宅ローンに追われるようになった。こうした新しい体制は「金融の民主化」あるいは「日常生活の金融化」と呼ばれている。この世界の最大のモラルは「借りを返せ」だ、と著者はいう。
 無から価値を生みだす投資家は正義であり、債務者は自己否定により罪を償わなければならないことになっている。だが、個人の負債は、はたして放縦が原因なのだろうか。いまや万人が負債をかかえている。
 カネを借りなければ、まともな生活などできないのだ。家族のために家を、仕事のために車を、パーティのために酒や音響システムを、友達に贈り物を、結婚式や葬式にカネをかけてはいけないのだろうか。じぶんたちも投資家とおなじように、無からカネをつくりだしてもいいはずだ。どんどんカードをつくり、どんどんローンを借りればいいのだ。
 だれもが罠にはまった。その結果が2008年のサブプライム危機である。だが、このとき政府が救済したのは一般市民ではない。金融業者は税金で救済されたのだ、と著者はいう。そして、一般の債務者には、自己破産という苛酷な仕打ちが待っていた。
 資本主義は実際に終わりそうだという見通しに直面した。にもかかわらず、われわれはよりましなオルタナティブを想像することができないため、いまあるものにひたすらしがみついている、と著者はいう。いや、むしろ、そうしたオルタナティブを封じるために、体制側は恐怖と愛国主義をあおり、銃(軍備)と監視の社会をより強化しようとしている。
 にもかかわらず、統制不能の破局が生じる可能性は低くない。
 だからこそ、われわれは民衆のひとりとして、歴史的な行為者になることを求められている、と著者はいう。そのさいの新しい理念はどこにあるのだろうか。
 コミュニズムや愛をいっても仕方ない。それらは別の新たなヒエラルキーを築くことになるだけだ。負債のモラリティは、好むと好まざるにかかわらず、世界をカネになるかどうかで見る視点を植えつけている。現在の経済秩序は、次々と世界を征服することによってしか、負債を返せないというモラルをつくりだしてしまった。そこに秘められているのは、自己破壊衝動でしかない。
 だとすれば、「いまは真の問いは、どうやって事態の進行に歯止めをかけ、人びとがより働かず、より生きる社会にむかうか、である」と、著者はいう。
 最後に著者は、国際的債務と消費者債務に特赦を求める。金銭はけっして神聖なものではない。借金は返さなければならないという原理は、はれんちな嘘だ、という。すべてを帳消しにし、再出発を認めることこそが、「わたしたちの旅の最初の一歩なのだ」と述べている。
 2011年出版の本書には、2014年の新版にさいし、みじかいあとがきが追加されている。
 本書の目的のひとつは「未来への視座」を拡張することにあった、と著者は書いている。そのために歴史をさぐることが必要だった。そして300年前においてさえ、「経済」なるものは存在しなかったという。
「現実に生きていた大多数の人びとにとって、『経済的事象』とは、政治、法、家庭生活、宗教と呼び習わされている幅広い事象の一つの様相にすぎなかった」。それがいつのまにか、経済、経済の世の中になってしまった。
 本書『負債論』は大きなインパクトを与えた。2011年のウォール街占拠運動を支える理論的根拠ともなった。学生の奨学金負債問題にたいしても、新たな運動を立ちあげるきっかけも与えた。
 2014年のあとがきで、著者はこう述べている。

〈「経済」と呼ばれるなにかが存在するという思想は比較的新しいものである。まさに今日、生まれた子どもたちは、もはや「経済」がなく、それらの問題がまったく異なった言語で検討される日を経験するだろうか? そのような世界はどのようなものだろうか? わたしたちの立っている現在の地点からは、そのような世界を想像することさえむずかしい。だが、もしわたしたちが、一世代かそこらのあいだに人類全体を一掃してしまう危険のない世界を創造しようとするならば、まさにそのような規模でもろもろの事柄を想像し直しはじめねばならないだろう。〉

 世界を想像し直すことを求めて、本書は終わる。難解だが、ラディカルな本だ。
 あらっぽいまとめにすぎないが、とりあえず、全体の内容をかいつまんで紹介してみた。

資本主義帝国の時代──グレーバー『負債論』を読む(10) [本]

 1450年ごろから大航海時代がはじまる。この時代の特徴は、貨幣が金銀へと回帰し、近代科学、資本主義、国民国家が台頭したことだろう。
 1347年以来、ペストが何度も襲来したことにより、ヨーロッパでは労働者人口が3分の2に激減していた。商業経済は衰えた。だが、皮肉なことに、経済が回復するにつれて、労働者の賃金は上昇し、祝祭的生活は全盛期を迎える。
 だが、その後、締めつけがはじまる。1500年から1650年にかけて、イングランドでは物価が500%上昇する。いっぽう賃金上昇率は緩慢だった。著者によると、この間、労働者の実質賃金はかつての半分以下になったという。
 いわゆる「価格革命」が生じていた。1520年から1640年にかけ、メキシコやペルーから途方もない金銀が流入したのが、価格革命をもたらす原因だった。だが、実際には銀地金はそっくり中国に流出していたのだ。
 中国では、1271年にモンゴル人の元王朝が成立したあとも、紙幣制度は維持されていた。その元が倒れると、1368年に明が成立する。明は農村共同体の復興を政策理念としてかかげ、農民、職人、兵士の身分を固定するいっぽうで、道路や灌漑、運河への大規模な投資をおこなった。そのため、農業への課税は強化され、逃散する農民が増大した。
 土地を追われた農民たちは行商や芸人、山賊、海賊などになる道を選んだ。鉱山に向かう者もいた。当初、政府はかれらを取り締まろうとしたが、ついにあきらめ、「市場を奨励しながら資本の過度の集中を予防する」という古くからの政策に立ち戻った。紙幣の発行は停止され、銀地金を公認通貨とし、民間造幣局にも現金発行権限が与えられた。
 その結果、市場は好景気に沸いた。中国の人口は激増したが、生活水準も向上した。問題は銀が圧倒的に足りなかったことである。まもなく、中国は銀の供給先をヨーロッパと新世界に求めることになる。
 ローマ時代以来、ヨーロッパは絹や香辛料などを手にいれるため、東方に金銀を輸出してきた。その構造は近代になっても変わらなかった。新大陸での金銀の発見は、たちまちヨーロッパに価格崩壊をもたらす。この時点で、中国からの需要がなければ、アメリカの植民地計画はただちに失敗していただろう、と著者はいう。

〈16世紀後半には、すでに新大陸の銀の90パーセントにあたるおよそ年間50トンの銀を中国は輸入していた。17世紀初頭にはそれが97パーセントにあたる116トンとなる。その銀への支払いのために、大量の絹や陶器、その他中国産の製品の輸出が必要になった。……このアジア貿易が新生グローバル経済にとってただひとつの最重要の要因となった。そしてこれらの金融手段を最終的に統制する者たち──とくにイタリア、オランダ、ドイツの商人、銀行家たち──が途方もない富を手に入れたのだった。〉

 ヨーロッパだけでは、世界全体の流れを理解できない。
 南北アメリカから大量の金属がはいったにもかかわらず、ヨーロッパでは通貨が不足気味だった、と著者は書いている。日常生活は割符や約束手形で間に合った。だが、税金の支払いには硬貨が必要だった。
 金銀を統制していたのは、政府、銀行家、大商人にほかならない。価格革命は、共有地の囲い込みをもたらした。それにより、農民たちは村から逃亡するか、強制的に海外植民地に送られるか、国の工場で働くかのどれかを選ばなければならなくなった。
「地金による貨幣の新体制は、ほとんど前代未聞の暴力の行使を通じてのみ押しつけることが可能になったものである」と、著者は述べている。
 ヨーロッパ人の進出した南北アメリカでは、疫病と鉱山での強制労働によって、先住民が次々と死んでいった。
 その前に、コルテスは1518年にアメリカ本土に侵攻し、世界史上最大の窃盗行為をおこない、各地を支配していた。
 著者はいう。

〈一方の、あらゆるリスクをも辞さぬ覚悟をもった恐れ知らずの冒険者と、他方の、すべての行動の基準を着実かつ正確そして冷徹に収益を増殖させることにおく計算高い投資家のあいだにみられるおなじ関係こそ、現在「資本主義」と呼ばれるものの核心部分に位置している。〉

 インディオたちに負債を押しつけ、かれらを負債懲役人にしていくヨーロッパ人のトリックは次のようなものだった。
「重税を要求する、支払いできない者に利子付きで金を貸す、それから働いて金を返せと要求する」──植民地では、こうした慣行が蔓延していた。
 教会が高利を禁止したのは、貨幣が人のモラルを破壊する力をもっていることを知っていたからだ。貨幣のもとでは、人間関係すら費用便益計算の問題に化してしまう。
 アジアでは、どうだったのだろう。
 東インド会社はまさしく「利潤以外のあらゆるモラルの命法を排除することを意図した形成物」だった、と著者はいう。自分のカネならともかく、会社のカネをおろそかにできないというのが、資本の冷酷で貪欲な倫理となった。

〈新たに台頭してきた資本主義的秩序のもとでは、貨幣の論理に自律性が与えられた。政治的・軍事的権力は、徐々にその貨幣の論理の周辺に再編成されるようになる。これこそが、国家と軍隊をそもそも背後に抱えていなければ決して存在しえぬ金融の論理だったのだ。〉

 ここで、著者は最初高利を批判する猛烈なキャンペーンをくり広げて人気を博したルターが、1525年の農民暴動をへたあと、大きく転回をとげたことを紹介している。
 ルターはいう。福音書が書きとめているのは理想であって、罪深い生き物である人間には法律が必要であり、高利はともかく、4、5パーセントの利率なら認められるべきだ、と。そして、人に借りたものは、返さなくてはならない、と。
 まもなく、プロテスタントのすべての宗派は、理にかなった利率は罪深いものではないという共通認識をもつようになった。
 こうして、「金銭の増殖はいまや不自然であるどころか期待されて当然のものとなった」。しかも異邦人にたいしてならば、高利も、いかなる搾取も許されるというお許しがでた。
 そこからは、ドイツ・ルネサンス期の「狂王」カジミール(1481−1527)のような人物も登場してくることになる。
 かれはカネを集めるために、自分の領民に暴虐のかぎりを尽くした。
 カジミールの狂気の正体を、著者は次のように解説する。
「その心理とは、じぶんのまわりに存在するものすべてを金銭に変えねばならないという狂わんばかりの焦燥であり、そしてそのようなことをせねばならない人間に貶められたことに対する憤怒と義憤である」
 これは現代人の狂気とも通じるのかもしれない。

 共同体は相互扶助から成りたっている。それは農村共同体でも、貴族社会共同体でもいえることである。信用が野蛮で計算づくのものになるのは、むしろ見知らぬ者どうしだからだろう。
 16世紀の庶民は金や銀の硬貨を使っていたわけではなかった。ふだんの買い物は、近所の商店が発行していた鉛や木でできた代用貨幣で間に合ったのだ。
 肉屋やパン屋、靴屋などからはツケで買うことができた。隣人どうしでは、たがいに貸し借りがあり、どこかの時点で、硬貨なり現物なりで、清算をすればよかった。現金でものを買うのは、通りすがりの旅人か見知らぬ人である。ただし、家賃と税金は現金で支払わねばならなかった。
 市場はほんらい相互扶助の拡張の場、言いかえれば日常的コミュニズムの場であって、現金取引の場ではなかった、と著者はいう。
 ホップズの時代になって、新しい哲学が生まれた。ホッブズが強調したのは「自己利益」という概念である。18世紀まで、人間生活のすべては自己利益によって説明できるという考え方は受け入れられなかった。
 だが、それは次第に受け入れられるようになる。そして、人を動かしているのは感情ではなく、合理的な計算だというとらえ方が、根づくようになる。愛は利益へと置き換えられる。その利益とは、けっきょくのところ「増殖をやめることのない貨幣の追求」以外のなにものでもなかった、と著者はいう。

〈資本主義の起源の物語は、市場の非人格的力による伝統的共同体の段階的解体の物語ではないのである。それはむしろ、信用の経済がいかにして利益の経済に転換されたかという物語であり、非人格的──でしばしば報復的──な国家権力の侵入によってモラルのネットワークが変容させられてゆく物語なのだ。〉

 資本主義は市場の外部、すなわち国家権力の側からやってくる。
 伝統的な村は、できるだけ司法制度に訴えるのを避けるきらいがあった。それは、当時の法律がはなはだ苛酷だったからでもある。
 だが、16世紀終わりに利子が合法化されるとともに、債権者が裁判所に訴える事例が一気に増えてくる。債務者監獄の恐怖が、だれをも苦しめるようになった。こうして硬貨がモラルの座に躍りでる。
 アダム・スミスは、だれもが現金を使うユートピアをえがいた。だが、それはスミスの時代の現実ではなかった、と著者はいう。
 スミスは「相互扶助のエートス」を切り捨てるとともに、「競争的で利己的な市場に形成に実際に貢献してきた暴力と赤裸々な復讐心」を無視している、と著者は批判している。

 次に論じられるのが、紙幣についてである。
 経済学者のあいだでは、貨幣とは金銀だという見解が一般的だ。だが、テューダー朝でもステュアート朝でも、民衆のあいだで用いられていたのは信用システムだった、と著者はいう。
 それでは、紙幣はどこから生じたのだろうか。為替手形が裏書されて流通し、そこから紙幣が生じたと解釈できるのだろうか、と著者は問う。
 そうではなかった。紙幣をつくったのも、やはり国家なのである。
「近代的金融手段の歴史そして紙幣の究極の歴史は、地方債発行とともにはじまった」と、著者はいう。ヴェネツィア政府は12世紀に市民に強制融資を課し、国債を発行した。この債券が、いわば紙幣として流通するようになった。
 国債は、いわば税の支払いの前倒しだった。そして、この負債が現金化されるときに、通貨が流通するという逆の流れが生じたのだ。
 16世紀には、政府のさまざまな債券が信用貨幣になっていた。著者はそこに「価格革命」の起源を求めている。
 新世界から到着した地金は、セビーリャからそのままジェノヴァの銀行家の金庫に向かい、そこから東方に送られた。銀行家は地金を担保にして、皇帝に融資をおこなっていた。そして、政府はこの融資をもとに、証書を発行していた。その手形がインフレを引き起こす要因になったというわけである。
 はじめて生粋の紙幣が発行されたのは、1694年にイングランド銀行が設立されたときである。その紙幣はもとはといえば、王による負債であった。ロンドンとエディンバラの商人は、フランスと戦争をする王に融資をおこない、その見返りとして銀行券を発行する会社設立の許可を求めた。著者によれば、「その銀行券は、事実上王が彼らに負っている額面の約束手形だった」。
 そのころのイギリスの通貨は、哲学者ジョン・ロックの提案──通貨を回収し、かつてとおなじ価値に再鋳造すること──によって大混乱し、イギリス社会は大不況に陥っていた。全体的に状況が改善されるようになるのは、紙幣と小銭が広範に利用できるようになってからである。そして、大混乱をへたあと、肉屋やパン屋などとの日常的取引も小銭でおこなわれるような世界が徐々に形成されていった。
 バブルの歴史もはじまっている。オランダでの1637年のチューリップ・バブル、1690年代のロンドン市場のバブル、1720年代の南海泡沫事件、そしてジョン・ローの設立したフランス王立銀行の崩壊(ミシシッピ計画の失敗)へと、人びとがカネに振り回される事件があいついだ。
 人が貨幣を信じなくなれば、紙幣はたちまち紙切れになってしまう。
 ホッブズは「市場は存在できるとしたら、約束を守り他人の財産を尊重するよう強制する絶対主義国家の庇護のもとでのみである」と信じていた。だからといって、国家があれば、このシステムがいつまでももちこたえるとはかぎらない、と著者は考えている。というのも、国家こそ、金融の混乱をもたらす元凶になりうるからだ。
 けっきょく資本主義とはなんだろうか。
 資本主義といえば、ふつう人は産業革命以降、とりわけ19世紀以降の産業資本主義を思い浮かべるかもしれない。だが、著者は、資本主義を形づける金融システムはすでにずっと前からできあがっていたという。
 資本主義は継続的で終わりのない成長を必要とする。企業も国家も成長しなくてはならない。そのためには5パーセント程度の経済成長が必要だとだれもが思っている。それは一種の強迫観念のようなものだ。
 そうした観念が生まれたのは、19世紀はじめではなく、むしろ1700年ごろを起点とする近代資本主義の黎明期だった、と著者はみている。そのときすでに信用と負債からなる巨大な金融装置が生まれていた。
 その装置のもとで、イギリスの東インド会社は、軍事力と貿易を背景にインドを制圧し、中国に触手を伸ばした。だが、その前に、スペインとポルトガルがつくりあげた世界市場システムが、すでにアメリカを征服し、アフリカからアメリカに奴隷を送りこんでいたのだ。
 その背景には、人を負債の罠にはめ、がんじがらめにしてしまう金融システムの構造があった。「資本主義はいかなる時点においても『自由な労働』をめぐって組織されていたことなどなかった」と著者はいう。
 さらに、こうも述べている。

〈わたしたちの資本主義の起源についての支配的なイメージは、あいかわらず産業革命下の工場で苦役するイングランドの労働者であって、このイメージからシリコンバレーまで一直線の発展としてたどることができると考えられている。ところがここからは、無数の奴隷、農奴、苦力、負債懲役労働者は蒸発してしまっているのである。〉

 いうまでもなく、著者が資本主義にいだいている第一のイメージは、無数の奴隷、農奴、苦力、負債懲役労働者をつくりだすシステムである。
 自由な労働者は、ユートピア的な構想のもとで描かれた理想像でしかない。著者によれば、マルクスの労働者ですら、一種の理念だった。「彼[マルクス]の時代のロンドンには、工場労働者よりも、靴磨き、娼婦、執事、兵士、行商人、煙突掃除夫、花売り娘、路上音楽家、服役囚、子守り、辻馬車の御者などの方がはるかに多かった」のだ。
 著者は、資本主義が「政治的自由、科学技術の進歩、大衆的繁栄」をもたらしたという見方に同意しない。それらの進歩は、資本主義とは別次元の話であって、資本主義がなくても生じえたことだという。
 それよりも、著者は、労使協調システムを構想した途端に、資本主義というシステムはがらがらと崩壊しはじめるという見通しをいだいている。
 その予感は「黙示録」と名づけられている。
 フランス革命は新しい思想をもたらしたとされる。社会は望ましい方向に変化し、社会の発展を政府が管理し、その政府の正当性を人民が認証するというのが、その考え方だった。
 ところが、その思想を深めているさいちゅうに、フランスの哲人たちがほんとうに懸念していたのは、デフォルトと経済崩壊によって、文明が破壊されてしまうのではないかということだった、と著者は述べている。

〈実際に破局が起こるとして、それはどんなものになるのか。貨幣は無価値になるのだろうか? 軍事体制が権力を把握し、ヨーロッパ中の体制がおなじようにデフォルトを強制され、将棋倒しに果てしのない野蛮と暗黒と戦争へと大陸を沈めていくのか? 多くの人びとは、革命自体のはるか以前にテロルの見通しを立てていた。〉

 そして、いまも資本主義はこうした時限爆弾の恐怖につきまとわれている、と著者は述べている。

中世をめぐる考察──グレーバー『負債論』を読む(9) [本]

 古代帝国の崩壊により、戦争と鋳貨と奴隷制の結びつきは解体され、新しい国家のもとで、経済生活は宗教的権威によって規制されることになる。ユーラシア大陸で貨幣は仮想信用通貨へと回帰する。それが中世(600−1450年)という時代の特徴だった。
 著者によれば、中世は西ヨーロッパだけに存在したわけではない。また、中世は暗黒時代だったわけでもない。それは、むしろ「枢軸時代」のさまざまな恐怖から解き放たれた時代だった。
 そうした中世の諸相を、著者はインド、中国、近西(イスラーム世界)、極西(キリスト教世界)にわたって横断的に論じようとする。近東ではなく近西、西欧ではなく極西と名づけるところに、著者独自の歴史観が感じとれる。
 インドではマウリヤ朝やグプタ朝のあと、諸王国の分裂がはじまり、都市が衰退するとともに、それまでの鋳貨は姿を消していった。
 とはいえ、寺院への寄進はつづき、寺院は集まった金(きん)を商業貸し付けに回すだけではなく、それらをみずからの祭壇や聖所、祭具などの材料に用いていた。だが、インドでは寺は次第に仏教ではなく、ヒンドゥー教へと変わっていく。
 カースト制ができあがった。バラモン僧は武人カーストと手を組んで、古くからの村落を統制する。難民たちは地主カーストに仕え、地主は村を統制した。さまざまな職業がヒエラルキー的な秩序のうちに位置づけられようになる。
 こうして、金属貨幣を使わなくても運営できる秩序が生まれた。インドでは労働者人口の大部分が、地主やそれ以外の債権者の負債懲役人として働いていた、と著者は記している。
 紀元1000年ごろから、インドはイスラームの版図にはいっていく。だが、カースト制は存続する。カースト制というのは、下位が上位に永遠に借りがあるという思想の上に成りたっている。カーストの等級は永遠に固定されていた。その階層間を商品やサービスが移動するとしても、そこには交換の原理はまったく働いていない。

 舞台は中国に移る。
 中国でも220年ごろに漢王朝が滅んだあと、都市の衰退と硬貨経済の縮小がみられた。北方の遊牧民からの脅威はつづき、農民反乱もくり返されていた。その動きが、また新王朝をつくる契機となっていく。
 著者は中国を基本的に儒教的官僚国家ととらえている。その国家は農民の安定をはかることを一義としながら、市場を促進することをめざしていた。市場では、投機にもとづかない正当な商業利潤は認められていた。
 中国について、著者はこう述べている。

〈歴史のほとんどを通じて、中国は世界で最も高い生活水準を維持してきたのだ。イギリスでさえも、それに本当に追いついたのはおそらく1820年代、産業革命の時代を十分すぎてのことである。〉

 これは現在、歴史家の共通の認識になりつつある。
 著者によれば、儒教は宗教というより倫理・哲学体系なのだが、そこに中央アジアの隊商路を通して、仏教が到来する。南朝の梁(502−557)や唐(618−907)の時代に、仏教は空前のブームを巻き起こした。商人や大地主は財産を寺に寄進した。あげくのはてに、成仏を願っての焼身自殺さえ横行したという。
 著者はいう。自殺を無私無欲の贈与と考えることは、利益という観念の対極にあるようにみえる。生とははてしなき負債の重荷を負うことにほかならない。だとすれば、そこから救済されるには、はてしなく寄進をつづけるか、みずからを滅却する以外にない。
 儒教が徳性の根拠を父親に求めたのにたいし、仏教は母親からの負債を返済することを重視した。そのためにも寄進が必要になった。なかには「経済的焼身自殺」と見紛うまでのものもあった。僧院の宝物庫は膨張していった。
 だが、行きすぎた仏教ブームにたいし、この段階で、国家の介入がはじまる。僧侶を弾劾する布告がだされた。845年には、全部で4600の僧院が取り壊され、26万人もの僧と尼僧が地位を剥奪され、同時に15万の奴碑が寺から解放されたという。
 その理由は経済的なものだ。僧院が財を貯めこむことによって、経済が破綻していたのだ。「金属の価格が高騰し、鋳貨は消失し、田舎の市場は動かなくなり、……地方の民衆さえも僧院への負債にはまり込んでいた」というのが、僧院取り壊しの理由だった。
 中国の商人のあいだで、仏教はこれほどまでに流行をみせていたのだ。
 前に述べたように、中世においては、金や銀が教会や寺院に集中し、貨幣はふたたび仮想的になっていた。
 中国では青銅製の小額面貨幣が使われつづけていた。とはいえ、地域の商店主や商人たちは信用売買を多用していたようだ。勘定計算は割符棒でなされていたという。
 旅行や輸送のために約束手形も考案されていた。宋時代には紙幣も発行されるようになる。金属貨幣論者は紙幣の発行を失敗とみなすけれども、紙幣の時代の中国が繁栄していたことを忘れてはならない、と著者は述べている。

 次に著者は、西方において、この時代に勃興していたのは、イスラーム世界だったと指摘する。ビザンツ帝国と野蛮なヨーロッパの王国からなるキリスト教世界は、辺境の地と化していた。
 イスラーム世界の学者たちは「アブラハムやモーゼにはじまる啓示宗教の伝統とギリシア哲学の諸カテゴリーを調和させるというおなじ課題に取り組んでいた」。
 著者はさらにこう述べている。

〈中世のほとんどを通じ、イスラーム世界は西洋文明の中枢であっただけでない。それは西洋文明の拡張する前線であり、インドへの途をつけ、アフリカとヨーロッパに勢力を拡げ、インド洋を越えて宣教師を送り、多くの改宗者を獲得していったのだ。〉

 イスラーム的統治の特徴は、法にたいしては厳格で、政府にたいしては懐疑的なことであった。法学者であるウラマーたちは、軍と権力を背景とする政府に、一定の距離を置いていた。
 政府は戦争をおこし、領土を拡張し、多くの富を獲得した。そして、兵士に気前よく金のディナールや銀のディルハムからなる硬貨をばらまいた。イスラーム世界には奴隷も流入し、かれらは兵士となっていった。
 イスラームの法典は、信者が奴隷になること、信者から高利をとることを禁止していた。だが、商業に否定的だったわけではない。商人がまっとうな利潤をとること、銀行家が信用業務をおこなうことは、むしろ推奨されていた。
 融資については、一方が資金を準備し、他方が企業を経営するという共同経営方式が好まれた。投資者は利潤の一部を受け取った。その分配原理を左右したのは、社会の評判である。
 こうした信頼のネットワークは、イスラームの伝播に大きな役割をはたし、やがてインド洋はイスラーム世界の湖となっていく。アデンからモルッカ諸島にいたる通商ルートが確立される。マラッカは国際商業都市になった。
 イスラーム社会において、遠方への冒険をおこなう商人は、いわば模範的な存在として尊敬されていた。そのことは、『千夜一夜物語』に出てくるシンドバッドの物語をみてもわかる。
「この商人崇拝には世界初の自由市場イデオロギーという以上にふさわしい名称がない」と、著者はいささか皮肉をまじえながら述べている。実際、著者によると、アダム・スミスはイスラームの文献から大きな影響を受けたという。
 ちがいがあるとすれば、分業についても、スミスが個の利益を強調するのにたいして、イスラームの経済学者が相互扶助に力点をおいたことだ。イスラームでは、市場の目的自体、コミュニズムの拡張ととらえられていた。
 ガザーリーやトゥースィーの著書には見るべきものが多く含まれている。かれらは「貨幣が純粋に仮想的な形式において使用されることがごくあたりまえになった時代」に、「貨幣の特性──象徴、抽象的尺度、それ自体の特性をもたぬこと、恒常的な運動を維持することによってのみ保持される価値など」について論じた、と著者は高く評価している。

 最後に論じられるのが「極西」のキリスト教世界である。
 中世のヨーロッパでも、貨幣は仮想的領域に撤退していった、と著者は書いている。「人びとはみな、ローマの通貨で、そしてのちにはカロリング王朝の『想像貨幣』によって経費の計算をつづけていた」
 通貨はひんぱんに徴収され、再鋳造されていたものの「ほとんどの日常的取引は、まったく現金に依拠することなく、割符や商品券、簿記、現物取引によっておこなわれていた」。
 実際の金銀は教会に集まっていた。集権国家の消失とともに、市場は教会によって統制されることになる。
 カッパドキアの聖バシレイオス(330頃—379)やミラノの聖アンブロシウス(340頃—397)は高利貸を非難する説教をおこなった。「同胞に利子をつけて貸してはならない」というのが、かれらの主張である。
 教会は利子を禁じていた。だが、富者が貧者にほどこしをおこない、貧者が富者に感謝を示すことには反対していない。こうして「かつての負債懲役人は、次第に農奴あるいは家臣に変容していった」
 だが、利子の禁止に例外もあった。ユダヤ人はキリスト教世界から排除されていたが、諸侯はその立場を利用した。ユダヤ人は商人や職工になれなかった。唯一認められたのが、金貸しという例外的な仕事である。諸侯はユダヤ人を保護すると称しながら、戦費支払いのためにユダヤ人からカネをしぼりとった。なかにはユダヤ人を金貸しと軽侮し、民衆にユダヤ人虐殺をあおりたてる諸侯もいた。
 著者はユダヤ人にたいする誤解を解くために、こう書いている。

〈金貸しについてユダヤ人の役割を過大にみてはならない。ほとんどのユダヤ人は、この商売とはなんの関係もなかった。金貸しを商売とする者も、なんらかの現物と引き換えに穀物や布地を貸すといった典型的な脇役だった。実際にはその多くはユダヤ人でさえなかったのだ。……1100年代には、ほとんどのユダヤ人金貸しは、すでに長らく北イタリアのロンバルディア人やフランスのカオール人にとってかわられていた。〉

 中世盛期の商業革命によって、ヨーロッパでは商業的農業や都市手工業者ギルドが台頭し、それによってヨーロッパは他地域と同じ経済水準に到達した。高利は禁止されていたが、中世末期には商業や私有財産までも否定する教理さえ巻き起こった。だが、そのいっぽうで、利子や利益を正当化する考え方も生まれてくる。
 おそらく利益や利子を正当化したのは、政治情勢の混乱と戦争だ、と著者はみている。ヴェネツィアやジェノヴァを動かしていたのは、冒険商人とガレー船団である。
 中世といえば、遍歴する騎士を思い浮かべるが、こうした騎士は「まさに略奪するものを求めて流浪する暴徒」以外のなにものでもなく、かれらこそ冒険商人の原型にほかならない、と著者はいう。

〈神秘の森アルビオンを放浪し、鬼や妖精や魔女や怪獣と遭遇する孤独な遍歴の騎士というイメージは、いったいなにに由来しているのか? いまやその答えは明白であろう。端的に旅する商人たち、つまり、なんの成果の保証もなく未開地や森林への孤独な冒険に出発した男たちじしんの、昇華されロマン化された像でしかない。〉

 そして後世、リヒャルト・ワーグナーは、歌曲『パルジファル』のなかで、こうした遍歴する騎士たちが求めたのが、聖杯であったことを暗示した。その聖杯とは、けっきょくなんだったのだろう。それは、不可視で無形であるにもかかわらず無限の価値をもつマネーにほかならなかった。

「枢軸時代が唯物論的な時代だったなら、中世はなによりも超越性の時代であった」と、著者はいう。
 この時代の特徴は宗教性である。とはいえ、中国やインド、イスラーム世界とちがって、キリスト教世界は極端に暴力的であり、また不寛容であった。
 手形や割符、紙幣というように、中世の通貨は抽象的で仮想的な形態をとっていた。貨幣をシンボロン(シンボル)、すなわち象徴と呼んだのはアリストテレスである。シンボロンとはある種の暗号や護符をさしていた。
 中世にいたって、シンボルは現実に対応する、知覚可能な具体的しるしを意味するようになった。そのシンボルは高次の存在からの「絶対的で、自由で、ヒエラルキー的な贈与」でなければならなかった。
 中国においては、紙幣とは割府であり、それは皇帝、さらに究極的には天から与えられたものだった。「金や銀が神聖なる場に集中するにつれ、日常的な取引はどこでも、主要に信用を通しておこなわれるようになった」
 それとともに、負債とモラリティに関する議論が発生する。ヨーロッパとインドではヒエラルキーへの回帰がおこった。中国では天の原理がはたらき、イスラーム世界では神の意志が顕現するとされた。
 中国とイスラーム世界は、市場の繁栄した豊かな社会だったが、近代資本主義の特徴となる金融・産業システムを生むことはなかった。つまり、カネがカネを生むシステムはつくられなかったのだ。
 これにたいし、法人、ないし会社をつくりだしたのはヨーロッパである。その原型は修道院、とりわけシトー修道会だった、と著者はいう。その修道院施設は、製粉所や鍛冶屋に囲まれ、羊毛をつむぎ、それを輸出する工場をもっていた。だが、それは資本主義にはほど遠い。
 資本主義が生まれるのは、特許状を受けた冒険商人組合、すなわち会社(カンパニー)が、武装し、海外で冒険をはじめたときだ、と著者は述べている。
 そこから西洋の主導する近代がはじまるのだ。

歴史のサイクルをたどる──グレーバー『負債論』を読む(8) [本]

 古代の奴隷制は中世にいたって廃止され、近代においてまた大々的に復活する。それはヨーロッパにかぎらず、インドや中国でも同じだった。
 すると、歴史には何らかのサイクルがあるのではないか。そこで著者は貨幣と負債、信用の歴史を中心に、ユーラシア大陸5000年の歴史を検証しようとする。
 硬貨の鋳造は、紀元前500年から600年ごろ、地域をへだてた華北平原、ガンジス川流域、エーゲ海周辺で、ほぼ同時にはじまっている。
 それから1000年、あらゆる国家が硬貨を発行するようになるが、それが紀元600年ごろに突然、停止され、それから信用システムへの回帰がはじまる。
 金銀の時代は戦乱の時代でもある、と著者はいう。これにたいし、信用システムは平和な時代しか成りたたない。
 そこで、著者は、仮想貨幣と金属貨幣の交替に沿って、世界の歴史を、次のように区分する。

(1)最初の農業帝国時代(前3500年—前800年)
(2)枢軸時代(前800年—後600年)
(3)中世(600年—1450年)
(4)資本主義時代(1450—1971年)
(5)現代(1971年以降)

 まず、(1)最初の農業帝国時代を取りあげてみよう。仮想の信用貨幣が支配的だった時代である。
 ここで検討されるのは、メソポタミア、エジプト、中国である。
 最初の都市文明がおこったメソポタミア(前3500年—前800年)では、信用貨幣が用いられていた。銀のシェケルを単位として、貸し借りは粘土の銘板に記録されていた。遠方交易をおこなう商人には、有利子の貸し付けがなされていた。王は祭典のさいなどに、たびたび負債の帳消しを宣言している。粘土板を壊せと。それによって、社会的混乱を未然に防ごうとしたのだ。
 エジプト(前2650年—前716年)も穀物を単位とする信用貨幣が用いられていたが、のちに銅や銀も使われている。国家は膨大な税を徴収し、戦争や土木工事に多くの報酬や給金を支払った。メソポタミアのような有利子貸し付けはみられない。貸し付けは相互扶助のかたちをとっていた。もし負債が支払えない場合は、債務者は法廷に引きだされ、棒打ち刑か、借金の2倍返済を命じられた。プトレマイオス家の王は、戦争で兵を集めるさいなど、債務の帳消しを命じて、囚人に恩赦を与えている。
 中国(前2220年—前771年)では、真珠や翡翠、タカラガイ、鋤、ナイフといったさまざまな社交通貨が用いられていた。これらは報償や贈り物、罰金の支払いのために用いられた。ほかに、著者は木や竹の棒に記した信用手段があったのではないかと推測している。『管子』には皇帝が貧窮におちいった民衆を救うため、貨幣を鋳造したというエピソードが記されているが、まだこの時代に鋳貨はあらわれていない。それよりも穀物倉(社倉)によって、民衆を救済するという考え方が強かった。

 つづいて、論じられるのが、(2)枢軸時代についてである。
 この時代、中国では孔子と老子、インドでは釈迦が生まれ、それからギリシアではソクラテス、プラトンが登場し、やがてキリストが誕生し、ムハンマドがあらわれる。その意味では、世界の思想的骨格ができた時代である。著者は哲学者ヤスパースの命名にしたがって、この時代を枢軸時代と名づけている。貨幣の分野では、鋳造貨幣(鋳貨)、すなわち硬貨が流通の基軸となった。
 ここで取り上げられる主な舞台は地中海世界、インド、中国である。
 世界ではじめて硬貨がつくられたのは、紀元前600年ごろ、リュデイア王国(現トルコ・アナトリア西部)においてである。丸い琥珀金(金と銀の合金)に記章が刻印されていた。その後、ギリシアの都市国家も貨幣を鋳造するようになる。ペルシア帝国は紀元前547年にリュディア王国を併合したあと、硬貨の製造に乗り出した。インドでも紀元前6世紀に銀の棒に刻印された貨幣が登場した。中国でもさまざまなかたちをした青銅が貨幣として用いられるようになった。
 戦争の盛んな時代には、多くの貴金属と宝石が略奪された。そして、国家は兵に支払うために、硬貨を導入した。軍事力の拡大は、鋳貨の広がりと連動している。
 古代ギリシアでは、民衆が貴族に対抗して立ち上がり、負債懲役制の廃止と土地の再分配を求めた。負債懲役制の問題を解決し、自由農民による土地所有を可能にするためには、戦争によって植民地を獲得することが求められた。都市国家は鋳貨を発行し、戦士でもある農民に貨幣を配った。金や銀は戦争で捕虜にされた奴隷によって採掘されており、造幣局は神殿に置かれていた。貨幣は市場の発展をうながした。
 軍事=鋳貨=奴隷制複合体ができあがった。アレクサンドロスの遠征は、古代の信用制度を一掃し、新たな貨幣経済を生みだした。戦利品は鋳貨と化し、兵士に配分された。
 ローマもこの方式を引き継ぐ。ローマで硬貨の鋳造がはじまったのは紀元前338年のことである。「最盛期におけるローマ帝国全体が、貴金属を取得し、それを硬貨に鋳造し軍隊に配分する巨大機械」となった。被征服民には、硬貨を日常的取引に使い、硬貨で税を納めるよう通達がだされた。それでも、ローマ帝国内で硬貨が使用されていたのは、イタリア半島といくつかの主要都市、それに軍団が配置されていた辺境にとどまっていた。
 軍事的拡大によって債務危機を回避するには限界があった。債務危機が再燃するたびに、人びとは農奴や隷属平民の立場に追いやられた。「帝国末期には、……地方在住のほとんどの人びとは、実質的に、富裕な領主の負債懲役人と化していった」という。自由農民がいなくなったため、軍は辺境の蛮族ゲルマン人の徴兵に依拠せざるを得なくなる。それがローマ帝国崩壊の引き金となった。
 インドでは紀元前600年ごろ、ガンジス川流域に都市文明が出現した。その王国や共和国は、それぞれ銀と銅の鋳貨を発行していた。鋳貨の目的は、軍を保持することにあった。そのなかでもマカダ国が優位に立ったのは、ほとんどの鉱山を手中にしていたからである。その後のマウリヤ朝時代に記された『実利論』にはこう書かれている。「国庫は鉱山を源とする。国庫より軍隊が成立する。……領土は国庫と軍隊により獲得される」
 マガダ国は歩兵20万、騎兵2万、ゾウ4000頭の軍をもち、野営のさい、多くの下級商人や売春婦、従者をともなった。アレクサンドロスの部下たちは、マガダ国の軍と正面衝突するのを恐れたという。
 著者はこう書いている。

〈かくして、戦争から生まれた市場経済が徐々に政府によって乗っ取られていった。この過程によって通貨の拡大は抑制されるどころか、2倍にも3倍にもなったようだ。すなわち、軍事的論理が経済全体にまで拡大されたのである。政府は、穀倉、工房、商館、倉庫、牢獄を計画的に設置し、有給の役人を配置する。次に、あらゆる生産物を市場で売りに出し、兵士や役人に支払われた銀貨を集め、ふたたび王室の国庫に戻すのである。その結果は日常生活の貨幣化であった。〉

 政府は多くの戦争捕虜を管理下におき、厳しい労働にあたらせていた。
 アショーカ王の時代(前273—前232)に、マウリヤ朝はインドとパキスタンの全土を支配するようになった。アショーカ王は仏教に帰依したことで知られる。だが、その王国は長つづきせず、軍の衰退は商業と鋳貨の衰退へとつながっていく。
 前475年から前221年までの中国は、戦国時代を迎えていた。その後、秦が全土を統一し、すぐに漢に取って代わられる。
 中国の哲学が誕生したのは戦国時代である。中国でも、政治情勢が混沌とするなか、職業的軍隊が登場し、その支払いのために鋳貨がつくられた。ただし、中国の貨幣は金貨や銀貨ではなく、青銅の貨幣で、まんなかに穴があき、数珠つなぎできるようになっていた。
 ここで、著者は中国の経済に深入りするのを避けて、むしろ枢軸時代に誕生した思想の特徴を追っている。
 この時代にいったいなにが変わったのだろうか。
 見知った者どうしの贈与ではなく、見知らぬ者どうしの現金取引がはじまったのだ。

〈そのようなときには売買される物品の来歴にこだわらないほうが無難であるし、いずれにせよ継続的な人格的関係をつくることに関心をもつものなどもいない。ここでは取引というものは、端的にある量のXがどの量のYに相当するかを定める計算と化している。……それが「利益」や「優位性」のような概念について語りはじめるのを可能にするのである。〉

 商業的利潤という考え方は、すでに孔子の時代に生まれている。
 そして、次第に名誉よりも利や益が重んじられるようになる。
 法家は国に黙って従うことこそ民衆の利になると広言し、墨子は戦争自体、利のない活動であることを示そうとした。
 儒家も道家も、主張のちがいはあるが、「それぞれが市場の論理を反転させた鏡像を提示しようとした試み」だった、と著者は述べている。
 さらに著者は、「枢軸時代の精神性は唯物論を基盤に構築されている」と述べている。
 リュディア王国ではじめてつくられたあと、鋳貨はたちまちイオニア地方に広がっていった。とりわけギリシアで鋳貨を生みだしたのはミレトスだといわれる。そこはまたギリシア哲学発祥の地でもあった。哲学者たちは存在するすべての物質的基盤には、それ自体は知覚不能だが、純粋に抽象的な実体があると考えていた。
 貨幣のもととなる黄金は、まさに抽象でもある物質的実体だった。それは金属の塊でありながら、それ以上のものだった。イギリスの古典学者シーフォードは、硬貨は一片の金属であるけれど、「特定の形状を与え、言葉と像を刻むことによって、それを一片の金属以上のものにすることに、市民共同体は合意した」と述べている。
 硬貨の思想には、一種の唯物論哲学が横たわっている、と著者は考えている。物質がすべてというわけではない。「頭のなかにある観念、記号、紋章、モデルは、物質に刻印され、物質上に構築され、物質に押しつけられ、物質を介して現実のものとなる」というのが唯物論の考え方だ。
 こうして、硬貨には、都市の神の紋章が刻まれ、ある種の集団的約束のもとに、市民はたがいに次の保証を与えることになった。「当該の硬貨が公的負担の支払いにさいして受領されるのみならず、だれもがどんな負債に対してもその硬貨を受領し、それゆえだれがなにを欲するときもその硬貨が使用できること」
 問題は硬貨の保証が都市の内部にかぎられることだった。都市の外に出て、無縁の地に出れば出るほど、硬貨はただの金属のかたまりへと変貌してしまうのだ。遠方交易はその硬貨の難点を乗り越えねばならなかった。
 硬貨と市場の出現は、新たな負債を生みだし、これまでの人びとの生活を一変させていった。同時にそのなかから人間性を超越した神や倫理、徳性を求める教えもあらわれ、それが人びとの心に根づいていく。
 物質的で利己的な市場社会のなかから、慈愛を説く世界宗教が生まれてくる。
 市場と宗教。それについて、著者はこう書いている。

〈純粋な貪欲と寛大とは相補的な概念なのである。どちらも他方抜きでは想像することすらできない。双方とも、そのような純粋かつ目的の限定されたふるまいを要求する制度的文脈においてのみ生じえたのだ。そして、双方とも、非人格的で物理的な銭貨が姿をあらわす場所であればどこでも、そろって出現しているようにおもわれる。〉

 宗教は単なる現実逃避に終わらなかった。「少なくとも、彼岸的な宗教は、根本的なべつの世界を垣間みさせてくれた」。そして、事態は変化しはじめる。戦争は批判され、奴隷制は衰弱し、負債のもたらす社会の崩壊に人びとは危惧を覚える。こうして市場社会のもたらした膨張と混乱を収拾するために、新しい時代、すなわち中世が登場する。著者はそう理解している。

貨幣への軽蔑と欲望──グレーバー『負債論』を読む(7) [本]

 奴隷制はアフリカを一挙に市場社会(商品世界)へと巻きこんでいった。イギリスが奴隷貿易を廃止するのは1807年のことである。その後も、リンカーンが奴隷制廃止宣言を発するまで、アメリカでは奴隷制がつづく。16世紀から19世紀にかけてが、奴隷貿易の全盛時代だった。
 だが、奴隷制の開始は、はるか古代にさかのぼる。
 かくも長く奴隷制がつづいたのはなぜか。著者はそこには名誉と不名誉に関する意識がからんでいるという。
 人が奴隷になる理由はさまざまである。戦争で捕虜になる、誘拐される、犯罪で処罰される、父親に売却される、あるいは自発的にみずからを売却する、などなど。
 とりわけ、負債による奴隷が増えるのは、社会が崩壊する兆候をあらわしていた。
 エジプト人社会学者、アル・ワヒードは「人間が奴隷になるのは、さもなければ死ぬよりほかない状況においてのみである」と述べている。奴隷になった人は、死んだものとみなされる。
 奴隷にとって、奴隷になることが不名誉であることはいうまでもない。だが、主人にとって、奴隷をもつことは名誉であった。
 主人は「人間を商品に還元するために必要とされる暴力」を有している。
 その暴力とは貨幣にほかならず、貨幣の発生は奴隷制と深くからんでいる、と著者はいう。
 ここで、著者は中世初期のアイルランドで売買されたクマルと呼ばれる少女奴隷に言及する。
 クマルは負債を清算するさい、貨幣単位として用いられた。たとえば7クマル=7人の少女奴隷というように。
 中世アイルランドでは、貨幣経済が浸透していない。
 領主は職人や医師、詩人、判事、芸能人などに、何らかの報酬を支払っていた。農民は領主に食糧を納め、領主はたまに開かれる宴会で、それを豪勢にふるまった。農民は食べるものをそれぞれ分かちあっていた。必要な道具や家具、衣服があれば、職人に頼んでつくってもらった。
 人びとは身分に応じて、「名誉代価」をもっている。名誉を傷つけた場合、人はその代価を支払わねばならない。加えて、殺人や障害にともなう代価もあった。王の名誉代価は7クマルまたは牛21頭とされていた。その取り決めは、じつにこまごまとしている。
 メソポタミアでも、代価は名誉と関連していた。戦争と徴税が連動するなか、メソポタミアでは、次第に家父長制が進展し、花嫁には家畜と銀で代償が支払われるようになっていた。
 花嫁は奴隷ではない。だから売ることはできなかった。ところが、夫の債務が重なると、事態は一変し、妻子を売りにだす事例もでてくる。
 遊女たちの多くは「主人によって労働を強いられた奴隷、あるいは宗教的な誓約や負債をまっとうしようとする女、借金のかたとなった女、さらに借金の束縛からは逃れたが行き場のない女であった」。
 メソポタミアの売春の起源を、著者は、農民の窮乏化を背景とした債務奴隷の発生に見ているようだ。
 いずれにせよ、花嫁代価と債務奴隷が、女性の地位を低下させる要因となった。
 つづいて、著者は古代ギリシアに目を転じる。
 ホメロスの叙事詩の世界は、まさに英雄時代だった。そこは、交易を軽蔑する英雄的な戦士たちが、名誉を追い求める世界だった。
 ところが、市場が勃興すると、様相が変わってくる。
 ギリシアでは都市国家がそれぞれ貨幣を鋳造し、それを兵士への支払いにあてるいっぽう、罰金や税の支払いのために用いていた。
 だが、硬貨はすぐに日常的取引にも使用されるようになる。そして集会の場だったアゴラが、市場の役割もはたすようになった。
 市場経済がはじまると、債務危機におちいる人も増えてくる。これにたいし、ギリシアの諸都市はしばしば恩赦を実施し、債務者の借金を棒引きにするとともに、かれらの子どもたちを海外に送りこんで、軍事的植民地を拡張した。
 こうした領土拡張は奴隷を急増させた。市民は奴隷制度に乗っかって、都市の政治的・文化的生活に参加するようになった。
 貴族たちは金銭と市場を軽蔑していた。「貴族たちは、贈与と気前のよさと名誉の世界をあさましい商業的交換の上位に位置づけた」という。
 意外なことにアテナイでは女性の地位は低かった。女性たちの名誉は、性的な面においてのみ規定されていた。「ペルシアやシリアの女性たちとは違って、民主政アテナイにおける女性たちは公共の場に出るにあたって、ヴェールを着用するものとされていた」という。
「かくて貨幣は、名誉の尺度から転じて名誉ではないすべての尺度と化してしまった」と、著者は書いている。ギリシアにおいては、貨幣はいわば「名誉剥奪の象徴」となってしまったのだ。つまり、カネは不名誉と連動していたのだ。
 その背景には、戦士もまた捕虜になれば、たちまち奴隷の境遇に落とされるという現実があった。
 万人に共有され、なんでも買うことのできる貨幣は、貴族にとって軽蔑の対象でありながら、同時に欲望の対象でもあった。
 著者はこう書いている。

〈こうしてみると、貨幣は欲望の民主化を持ち込んだといえるかもしれない。だれもが貨幣を欲するかぎり、身分が高かろうと低かろうが、そのおなじふしだらな物体を追い求めるというわけだ。だがそこで終わらない。ますます欲しくなるというだけでなく、それが必要になってしまうのである。〉

 ギリシアでは紀元前600年ごろ、商業的市場が勃興するにつれて、債務危機が深刻化するようになった。多くの農民が借金を重ね、そのあげく、富裕者の奴隷に身を落とした。なかには海外に売り飛ばされた者もいた。こうした事態が社会的な騒乱や公然たる革命を招く場合もあった。
 貨幣の出現した社会では、それまでの贈与と返礼という共同体の仕組みが崩れて、下手をすると略奪的暴力に転じかねないシステムが発生したのだ。貨幣はそのシステムの中心であり、いわば計量化されるモラルとなりつつあった。
 プラトンは航海中、とらわれの身となり、アイギナ島で競売にかけられた。そのとき、偶然エピクロス派のリビア人哲学者がプラトンをみつけ、身代金を払って釈放してくれた。プラトンはお金を集めて、この哲学者に返済しようとするが、かれは受け取らない。そこで、プラトンは、この代金をアカデメイアの土地の購入にあてたという、有名なエピソードがある。
 だが、プラトンはふしぎなことに、このリビア人哲学者にまったく言及していない。おそらく、プラトンは二重の意味で屈辱の経験を頭から追い払いたかったのかもしれない、と著者は推測している。以来、プラトンの哲学において、貨幣的なもの、すなわち権力や利益は、極力排除され、名誉がなによりも重んじられるようになっていくのは偶然ではない、と著者は考えている。
 ここでも貨幣が名誉と不名誉の問題にからんでいることがわかるだろう。
 最後に論じられるのが、ローマについてである。
 ローマ法には財産の私的所有権に関する規定がある。それは実際には、単なる物の所有権を意味するのではなく、奴隷にたいする所有権を意味していた。
 ローマでは「[征服による]奴隷の流入の増大によって、やがて、ほどほどに豊かな家庭さえも奴隷を所有することが可能になった」というような状況が生まれていた。家庭の維持には、奴隷が欠かせなくなっていたのである。
 ローマの奴隷制が奇妙なのは、ときに奴隷のほうが主人よりも知的にも勝れていたことが多くみられたことである。それでも戦争捕虜である奴隷にたいして、主人は絶対的な権利を有していた。
 ローマでいうリベルタス(自由)とは、奴隷でないことを意味していたが、リベルタスは次第に主人の力能、すなわち望むがままにことをおこなうことのできる能力を意味するようになった。そして、ローマの皇帝たちは、みずからの支配権のおよぶ領域で、絶対的自由を有すると主張するようになった。
 自由とは権利というより権能のことだった。これは逆説中の逆説だった、と著者はいう。自由は財産であり、それは売り渡すことができる。奴隷がみずから身体を売り渡すように、労働者は賃金によって資本家に自由を貸与する。古代ローマ時代と同じように、われわれは所有者であると同時に、所有される事物である、と著者はいう。
 こうして著者は、人が人として存在する「人間経済」が解体し、人間が交換の対象となりうる貨幣経済の時代が出現したと述べる。そこではかならず暴力が介在している。こうした事態は、日常的な市場が存在しない場合でも発生しうるが、現在の商品世界でも、暗黙の暴力が経済を支配している、と述べている。
 これでようやく半分ほど読み終わったことになる。難解な本なので、はたしてどこまで理解できたか、はなはだ心もとない。
 これからは後半の歴史編となる。よく理解できないものの、手探りで少しずつ進んでいくことにしよう。

奴隷制をめぐって──グレーバー『負債論』を読む(6) [本]

 著者は、経済学がすべての経済的経験を交換に還元してしまっていることを批判する。そのため経済学は「殺菌された見方しかできなくなって」いる。
 たとえば、かつてアイルランドでは、賠償は貴金属や牛で支払われていただけではない。ほかに、無賃で働かされる女性もいた。それはクマルと呼ばれていた。
 無賃で働かされる女性は、事実上の女奴隷だった。女奴隷、すなわちクマルは貨幣でもあり商品でもあった。著者はクマルのことを、負債懲役人あるいは債権奴隷とも呼んでいる。
 経済には暴力がつきものだった。
 ここで、商品世界の経済以外に目を転じてみよう。
 北アメリカのイロコイ族のウォンパム(貝殻数珠)や、アフリカの布、ソロモン諸島の羽根などは原始貨幣だとされている。だが、それは、なにかの売り買いに用いられるわけではない。それは人と人との関係を取り結ぶために用いられる。だから、現在の貨幣とはまるで趣がちがう。
 そうした原始貨幣を著者は「社交通貨」(改訳)と名づけ、原始貨幣が使用されている経済を「人間(じんかん)経済」と名づける。商業経済は比較的新しく登場したもので、人間経済の時代は商業経済(商品世界)の時代より、はるかに長い。
「人間経済」では、貨幣はたとえば結婚をとりもつために使われる(結納品のようなものだ)。それを贈られた側は、娘を花嫁として差しだす。花嫁代償として支払われる貨幣は、真鍮棒であったり、クジラの歯であったり、タカラガイであったり、牛であったりとさまざまである。
 ここでは、あたかも花嫁が商品として売りにだされているようにみえる。だが、そうではない。これらの貨幣は「どうやっても支払い不可能である負債」が存在することを示す証拠として贈られるのだ。その返礼は、折につけ果たされねばならない。
 社交通貨は、血の代償として支払われることもある。カネを払っても、人の命の賠償がすむわけではない。ただ、貨幣を渡すことによって、相手にわびをいれ、負債のあることを認め、今後もその解消に努めることを表明するのである。それは大きな借りがあることの証拠のようなものだ。
 人間経済では、貨幣は「二者のあいだの関係のネットワーク」にほかならない。だれもが、なにかの負債を負っている。したがって、社会とは「負債そのものである」と、著者はいう。
 ここで、著者はレレ族の血債について論じる。
 アフリカのベルギー領コンゴに住んでいたレレ族は、トウモロコシやマニオクの栽培と狩猟で暮らしていた。ほかに、ラフィア布と呼ばれる布をつくっていた。
「布は周辺の人びとの贅沢品と交換されたし、地域内部では、一種の通貨として機能していた」。しかし、この布で食料や道具が買えたわけではない。布はあくまでも贈り物として、人間関係にはなくてはならないものだった。布は治療師への報酬や、年長者をわずらわせたお礼として手渡された。結婚には、布だけではふじゅうぶんで、カムウッド棒という稀少な木材が必要だった。
 男たちはつねに血債におびやかされている。出産で女が亡くなるのは不貞によるもので、赤ん坊が亡くなるのも、だれかのせいである。そのときは、血債を支払わねばならない。血債は若い女によって支払われるから、男たちはつねに人質(ポーン)を確保しておく必要があった。いのちを救われた場合も同じである。いのちを救ってくれた男に、たとえば自分の姉妹を人質として差しださねばならなかった。
 これは男による女の支配にほかならない。だが、女が人質になりたくない場合は村妻となる方法があった。村全体で保護する妻のことである。彼女は優遇され、若者組の男たちと性的関係をもった。「彼女は村落全体と結婚していることになっていた」
 しかし、血債が部族間の抗争を生み落とすこともある。だが、戦闘を避けるために、貨幣(たとえば100枚のラフィア布と5本のカムウッド棒)による解決がはかられたとしよう。そのとき、人の値打ちは、貨幣によって測られているわけだ。それがうまくいくかどうかはわからない。
 ここで、著者はこう述べている。

〈[人間経済においては]貨幣はほとんど常に、第一に人間を装飾するために使われる物品からあらわれている。飾り玉、貝殻、羽根、犬や鯨の歯、そして金や銀は、こうした使用法でよく知られている。これらのものは、人びとを飾りより美しくみせる以外にはなんの役にも立たない。……例外(たとえば牛)も存在するが、概して、政府それに次いで市場が介入したときはじめて、麦やチーズ、タバコや塩が、通貨としてあらわれたのである〉

 人のいのちはお金には代えられない。それは別のいのちによってしか支払うことができない。
 貨幣で支払えないとすれば、どうするか。ナイジェリアのティブ族は共同体のネットワークからはずれた女奴隷を買って引き渡すことで、問題の解決をはかろうとした。
 ティブ族の経済は3層から成りたっている。日常的な経済は女たちが管轄し、オクラや木の実、魚などを贈与しあっている。男たちはトゥグドゥと呼ばれる布と、輸入される真鍮棒を扱い、それを政治的な駆け引きや呪術の儀式、秘密結社の参加費などに用いている。それらは雌牛や異邦の妻を購入するためにも使用される。そして、最後に男たちによる女性への後見制度(男による女の支配)があった。
 ティブ族の男たちをおびやかしていたのが「人肉負債」である。「強心臓」になるには、ツァヴを増強させなければならず、そのためには人の肉を食べる必要があるとされていた。ティブ族がじっさいに食人族だったわけではない。だが、強心臓の男は、秘密結社にはいって、人を食ったのだと思われていた。人を食った者は、力とカリスマをもつ怪物となり、大きな富を得るが、常に負債に追いかけられ、ついには自滅へといたる。これが人肉負債の結末である。
 この伝説には、人間経済から貨幣経済に移行する過程が表象されている。
 ところで、アフリカといえば、近世の奴隷制度を思い浮かべるだろう。
 アフリカの奴隷売買はどのようにして発生したのだろうか。
 1750年代、ティブ族は奴隷売買に巻きこまれるのを避けるため、奥地へと移住し、銅棒を一般通貨としないようにしていた。だが、すでにナイジェリアでは、イギリスでつくられた銅棒が日常的な通貨として利用されるようになっていた。
 ナイジェリアのクロス川河口にあるカラバルでは、何万人ものアフリカ人が鎖につながれ、大西洋の向こう側に輸送されていた。奴隷貿易の時代に輸送された奴隷の数はおよそ150万人といわれる。かれらは債務のために身柄を押さえられていた。
 ヨーロッパの商人はナイジェリアに、大量の布地や鉄製品、銅製品、飾り玉、鉄砲などを持ちこんでいた。それらにたいする支払いは、銅棒によってなされる。だが、商人たちはアフリカの取引相手に商品を委託する前に、担保として人質を要求した。これはアフリカの風習を悪用したものだ。
 人質狩りが横行する。「襲撃がひんぱんに生じ、単独で旅をする者だれもが、徘徊する盗賊団に誘拐され、カラバルに売られる危険性に直面していた」。さらに、因果は回って、次は、誘拐者たちが狩りだされ、奴隷として売られていく番だった。その後、秘密結社が債務を取り立て、債権者が武装集団をひきつれ、債務者の村を襲撃し、人や物、家畜などを奪うこともあった。
「しばしば債務者は、じぶんの子どもや従僕を、次々に人質に出すよう余儀なくされ、しまいにはじぶん自身をさしだすよう強いられた」。こうして人質と奴隷との区別は次第になくなっていく。
 こうして、人質を確保し、人間の生命を守るはずの「人間経済」が、こんどは逆方向に作動しはじめ、人間存在を破壊する手段と化していった。
 奴隷売買はアフリカだけでの現象ではない。それは東南アジアでもおきている。タイでは貧しい兄弟が、兄弟のひとりの結婚費用を、スポンサーに工面してもらう代わりに自分や家族を抵当にいれるという風習があった。かれらはスポンサーにこきつかわれても、がまんしなければならなかった。
 それは17世紀から18世紀にかけてのバリ島でも同じだった。退嬰的でアヘン中毒のバリの貴族たちは、臣民を奴隷として外国人に売り払うことで富を築いた。闘鶏で債務を負った多くの農民が、妻や子どもたちもろともジャワに売られていった。
 お金は人には代えられないというのが、「人間経済」の特徴だった。だが、貨幣経済になって、人をものとして扱うには、継続的で組織だった暴力の介在が欠かせなくなった、と著者はいう。
 アフリカで起きたことは、たとえてみれば次のようなことだ。

〈突然、わたしたちの社会に、無敵の軍事技術によって武装したとてつもなく豊かで理解不能なモラルの体系をもった宇宙人があらわれ、人間の労働者をつれてくれば1人あたり100万ドル支払うと、にべもなく告知する。こうした状況を利用して儲けにありつこうとする悪辣な者は少なくとも一握りは常にいるものだ──そしてほんの一握りで事足りるのである。〉

 その手口は、まず負債を払えというところからはじまる。戦争と征服と奴隷制の遺産は消え去っていない。われわれはいまも負債社会のなかにいる、と著者は論じている。