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歴史のサイクルをたどる──グレーバー『負債論』を読む(8) [本]

 古代の奴隷制は中世にいたって廃止され、近代においてまた大々的に復活する。それはヨーロッパにかぎらず、インドや中国でも同じだった。
 すると、歴史には何らかのサイクルがあるのではないか。そこで著者は貨幣と負債、信用の歴史を中心に、ユーラシア大陸5000年の歴史を検証しようとする。
 硬貨の鋳造は、紀元前500年から600年ごろ、地域をへだてた華北平原、ガンジス川流域、エーゲ海周辺で、ほぼ同時にはじまっている。
 それから1000年、あらゆる国家が硬貨を発行するようになるが、それが紀元600年ごろに突然、停止され、それから信用システムへの回帰がはじまる。
 金銀の時代は戦乱の時代でもある、と著者はいう。これにたいし、信用システムは平和な時代しか成りたたない。
 そこで、著者は、仮想貨幣と金属貨幣の交替に沿って、世界の歴史を、次のように区分する。

(1)最初の農業帝国時代(前3500年—前800年)
(2)枢軸時代(前800年—後600年)
(3)中世(600年—1450年)
(4)資本主義時代(1450—1971年)
(5)現代(1971年以降)

 まず、(1)最初の農業帝国時代を取りあげてみよう。仮想の信用貨幣が支配的だった時代である。
 ここで検討されるのは、メソポタミア、エジプト、中国である。
 最初の都市文明がおこったメソポタミア(前3500年—前800年)では、信用貨幣が用いられていた。銀のシェケルを単位として、貸し借りは粘土の銘板に記録されていた。遠方交易をおこなう商人には、有利子の貸し付けがなされていた。王は祭典のさいなどに、たびたび負債の帳消しを宣言している。粘土板を壊せと。それによって、社会的混乱を未然に防ごうとしたのだ。
 エジプト(前2650年—前716年)も穀物を単位とする信用貨幣が用いられていたが、のちに銅や銀も使われている。国家は膨大な税を徴収し、戦争や土木工事に多くの報酬や給金を支払った。メソポタミアのような有利子貸し付けはみられない。貸し付けは相互扶助のかたちをとっていた。もし負債が支払えない場合は、債務者は法廷に引きだされ、棒打ち刑か、借金の2倍返済を命じられた。プトレマイオス家の王は、戦争で兵を集めるさいなど、債務の帳消しを命じて、囚人に恩赦を与えている。
 中国(前2220年—前771年)では、真珠や翡翠、タカラガイ、鋤、ナイフといったさまざまな社交通貨が用いられていた。これらは報償や贈り物、罰金の支払いのために用いられた。ほかに、著者は木や竹の棒に記した信用手段があったのではないかと推測している。『管子』には皇帝が貧窮におちいった民衆を救うため、貨幣を鋳造したというエピソードが記されているが、まだこの時代に鋳貨はあらわれていない。それよりも穀物倉(社倉)によって、民衆を救済するという考え方が強かった。

 つづいて、論じられるのが、(2)枢軸時代についてである。
 この時代、中国では孔子と老子、インドでは釈迦が生まれ、それからギリシアではソクラテス、プラトンが登場し、やがてキリストが誕生し、ムハンマドがあらわれる。その意味では、世界の思想的骨格ができた時代である。著者は哲学者ヤスパースの命名にしたがって、この時代を枢軸時代と名づけている。貨幣の分野では、鋳造貨幣(鋳貨)、すなわち硬貨が流通の基軸となった。
 ここで取り上げられる主な舞台は地中海世界、インド、中国である。
 世界ではじめて硬貨がつくられたのは、紀元前600年ごろ、リュデイア王国(現トルコ・アナトリア西部)においてである。丸い琥珀金(金と銀の合金)に記章が刻印されていた。その後、ギリシアの都市国家も貨幣を鋳造するようになる。ペルシア帝国は紀元前547年にリュディア王国を併合したあと、硬貨の製造に乗り出した。インドでも紀元前6世紀に銀の棒に刻印された貨幣が登場した。中国でもさまざまなかたちをした青銅が貨幣として用いられるようになった。
 戦争の盛んな時代には、多くの貴金属と宝石が略奪された。そして、国家は兵に支払うために、硬貨を導入した。軍事力の拡大は、鋳貨の広がりと連動している。
 古代ギリシアでは、民衆が貴族に対抗して立ち上がり、負債懲役制の廃止と土地の再分配を求めた。負債懲役制の問題を解決し、自由農民による土地所有を可能にするためには、戦争によって植民地を獲得することが求められた。都市国家は鋳貨を発行し、戦士でもある農民に貨幣を配った。金や銀は戦争で捕虜にされた奴隷によって採掘されており、造幣局は神殿に置かれていた。貨幣は市場の発展をうながした。
 軍事=鋳貨=奴隷制複合体ができあがった。アレクサンドロスの遠征は、古代の信用制度を一掃し、新たな貨幣経済を生みだした。戦利品は鋳貨と化し、兵士に配分された。
 ローマもこの方式を引き継ぐ。ローマで硬貨の鋳造がはじまったのは紀元前338年のことである。「最盛期におけるローマ帝国全体が、貴金属を取得し、それを硬貨に鋳造し軍隊に配分する巨大機械」となった。被征服民には、硬貨を日常的取引に使い、硬貨で税を納めるよう通達がだされた。それでも、ローマ帝国内で硬貨が使用されていたのは、イタリア半島といくつかの主要都市、それに軍団が配置されていた辺境にとどまっていた。
 軍事的拡大によって債務危機を回避するには限界があった。債務危機が再燃するたびに、人びとは農奴や隷属平民の立場に追いやられた。「帝国末期には、……地方在住のほとんどの人びとは、実質的に、富裕な領主の負債懲役人と化していった」という。自由農民がいなくなったため、軍は辺境の蛮族ゲルマン人の徴兵に依拠せざるを得なくなる。それがローマ帝国崩壊の引き金となった。
 インドでは紀元前600年ごろ、ガンジス川流域に都市文明が出現した。その王国や共和国は、それぞれ銀と銅の鋳貨を発行していた。鋳貨の目的は、軍を保持することにあった。そのなかでもマカダ国が優位に立ったのは、ほとんどの鉱山を手中にしていたからである。その後のマウリヤ朝時代に記された『実利論』にはこう書かれている。「国庫は鉱山を源とする。国庫より軍隊が成立する。……領土は国庫と軍隊により獲得される」
 マガダ国は歩兵20万、騎兵2万、ゾウ4000頭の軍をもち、野営のさい、多くの下級商人や売春婦、従者をともなった。アレクサンドロスの部下たちは、マガダ国の軍と正面衝突するのを恐れたという。
 著者はこう書いている。

〈かくして、戦争から生まれた市場経済が徐々に政府によって乗っ取られていった。この過程によって通貨の拡大は抑制されるどころか、2倍にも3倍にもなったようだ。すなわち、軍事的論理が経済全体にまで拡大されたのである。政府は、穀倉、工房、商館、倉庫、牢獄を計画的に設置し、有給の役人を配置する。次に、あらゆる生産物を市場で売りに出し、兵士や役人に支払われた銀貨を集め、ふたたび王室の国庫に戻すのである。その結果は日常生活の貨幣化であった。〉

 政府は多くの戦争捕虜を管理下におき、厳しい労働にあたらせていた。
 アショーカ王の時代(前273—前232)に、マウリヤ朝はインドとパキスタンの全土を支配するようになった。アショーカ王は仏教に帰依したことで知られる。だが、その王国は長つづきせず、軍の衰退は商業と鋳貨の衰退へとつながっていく。
 前475年から前221年までの中国は、戦国時代を迎えていた。その後、秦が全土を統一し、すぐに漢に取って代わられる。
 中国の哲学が誕生したのは戦国時代である。中国でも、政治情勢が混沌とするなか、職業的軍隊が登場し、その支払いのために鋳貨がつくられた。ただし、中国の貨幣は金貨や銀貨ではなく、青銅の貨幣で、まんなかに穴があき、数珠つなぎできるようになっていた。
 ここで、著者は中国の経済に深入りするのを避けて、むしろ枢軸時代に誕生した思想の特徴を追っている。
 この時代にいったいなにが変わったのだろうか。
 見知った者どうしの贈与ではなく、見知らぬ者どうしの現金取引がはじまったのだ。

〈そのようなときには売買される物品の来歴にこだわらないほうが無難であるし、いずれにせよ継続的な人格的関係をつくることに関心をもつものなどもいない。ここでは取引というものは、端的にある量のXがどの量のYに相当するかを定める計算と化している。……それが「利益」や「優位性」のような概念について語りはじめるのを可能にするのである。〉

 商業的利潤という考え方は、すでに孔子の時代に生まれている。
 そして、次第に名誉よりも利や益が重んじられるようになる。
 法家は国に黙って従うことこそ民衆の利になると広言し、墨子は戦争自体、利のない活動であることを示そうとした。
 儒家も道家も、主張のちがいはあるが、「それぞれが市場の論理を反転させた鏡像を提示しようとした試み」だった、と著者は述べている。
 さらに著者は、「枢軸時代の精神性は唯物論を基盤に構築されている」と述べている。
 リュディア王国ではじめてつくられたあと、鋳貨はたちまちイオニア地方に広がっていった。とりわけギリシアで鋳貨を生みだしたのはミレトスだといわれる。そこはまたギリシア哲学発祥の地でもあった。哲学者たちは存在するすべての物質的基盤には、それ自体は知覚不能だが、純粋に抽象的な実体があると考えていた。
 貨幣のもととなる黄金は、まさに抽象でもある物質的実体だった。それは金属の塊でありながら、それ以上のものだった。イギリスの古典学者シーフォードは、硬貨は一片の金属であるけれど、「特定の形状を与え、言葉と像を刻むことによって、それを一片の金属以上のものにすることに、市民共同体は合意した」と述べている。
 硬貨の思想には、一種の唯物論哲学が横たわっている、と著者は考えている。物質がすべてというわけではない。「頭のなかにある観念、記号、紋章、モデルは、物質に刻印され、物質上に構築され、物質に押しつけられ、物質を介して現実のものとなる」というのが唯物論の考え方だ。
 こうして、硬貨には、都市の神の紋章が刻まれ、ある種の集団的約束のもとに、市民はたがいに次の保証を与えることになった。「当該の硬貨が公的負担の支払いにさいして受領されるのみならず、だれもがどんな負債に対してもその硬貨を受領し、それゆえだれがなにを欲するときもその硬貨が使用できること」
 問題は硬貨の保証が都市の内部にかぎられることだった。都市の外に出て、無縁の地に出れば出るほど、硬貨はただの金属のかたまりへと変貌してしまうのだ。遠方交易はその硬貨の難点を乗り越えねばならなかった。
 硬貨と市場の出現は、新たな負債を生みだし、これまでの人びとの生活を一変させていった。同時にそのなかから人間性を超越した神や倫理、徳性を求める教えもあらわれ、それが人びとの心に根づいていく。
 物質的で利己的な市場社会のなかから、慈愛を説く世界宗教が生まれてくる。
 市場と宗教。それについて、著者はこう書いている。

〈純粋な貪欲と寛大とは相補的な概念なのである。どちらも他方抜きでは想像することすらできない。双方とも、そのような純粋かつ目的の限定されたふるまいを要求する制度的文脈においてのみ生じえたのだ。そして、双方とも、非人格的で物理的な銭貨が姿をあらわす場所であればどこでも、そろって出現しているようにおもわれる。〉

 宗教は単なる現実逃避に終わらなかった。「少なくとも、彼岸的な宗教は、根本的なべつの世界を垣間みさせてくれた」。そして、事態は変化しはじめる。戦争は批判され、奴隷制は衰弱し、負債のもたらす社会の崩壊に人びとは危惧を覚える。こうして市場社会のもたらした膨張と混乱を収拾するために、新しい時代、すなわち中世が登場する。著者はそう理解している。

貨幣への軽蔑と欲望──グレーバー『負債論』を読む(7) [本]

 奴隷制はアフリカを一挙に市場社会(商品世界)へと巻きこんでいった。イギリスが奴隷貿易を廃止するのは1807年のことである。その後も、リンカーンが奴隷制廃止宣言を発するまで、アメリカでは奴隷制がつづく。16世紀から19世紀にかけてが、奴隷貿易の全盛時代だった。
 だが、奴隷制の開始は、はるか古代にさかのぼる。
 かくも長く奴隷制がつづいたのはなぜか。著者はそこには名誉と不名誉に関する意識がからんでいるという。
 人が奴隷になる理由はさまざまである。戦争で捕虜になる、誘拐される、犯罪で処罰される、父親に売却される、あるいは自発的にみずからを売却する、などなど。
 とりわけ、負債による奴隷が増えるのは、社会が崩壊する兆候をあらわしていた。
 エジプト人社会学者、アル・ワヒードは「人間が奴隷になるのは、さもなければ死ぬよりほかない状況においてのみである」と述べている。奴隷になった人は、死んだものとみなされる。
 奴隷にとって、奴隷になることが不名誉であることはいうまでもない。だが、主人にとって、奴隷をもつことは名誉であった。
 主人は「人間を商品に還元するために必要とされる暴力」を有している。
 その暴力とは貨幣にほかならず、貨幣の発生は奴隷制と深くからんでいる、と著者はいう。
 ここで、著者は中世初期のアイルランドで売買されたクマルと呼ばれる少女奴隷に言及する。
 クマルは負債を清算するさい、貨幣単位として用いられた。たとえば7クマル=7人の少女奴隷というように。
 中世アイルランドでは、貨幣経済が浸透していない。
 領主は職人や医師、詩人、判事、芸能人などに、何らかの報酬を支払っていた。農民は領主に食糧を納め、領主はたまに開かれる宴会で、それを豪勢にふるまった。農民は食べるものをそれぞれ分かちあっていた。必要な道具や家具、衣服があれば、職人に頼んでつくってもらった。
 人びとは身分に応じて、「名誉代価」をもっている。名誉を傷つけた場合、人はその代価を支払わねばならない。加えて、殺人や障害にともなう代価もあった。王の名誉代価は7クマルまたは牛21頭とされていた。その取り決めは、じつにこまごまとしている。
 メソポタミアでも、代価は名誉と関連していた。戦争と徴税が連動するなか、メソポタミアでは、次第に家父長制が進展し、花嫁には家畜と銀で代償が支払われるようになっていた。
 花嫁は奴隷ではない。だから売ることはできなかった。ところが、夫の債務が重なると、事態は一変し、妻子を売りにだす事例もでてくる。
 遊女たちの多くは「主人によって労働を強いられた奴隷、あるいは宗教的な誓約や負債をまっとうしようとする女、借金のかたとなった女、さらに借金の束縛からは逃れたが行き場のない女であった」。
 メソポタミアの売春の起源を、著者は、農民の窮乏化を背景とした債務奴隷の発生に見ているようだ。
 いずれにせよ、花嫁代価と債務奴隷が、女性の地位を低下させる要因となった。
 つづいて、著者は古代ギリシアに目を転じる。
 ホメロスの叙事詩の世界は、まさに英雄時代だった。そこは、交易を軽蔑する英雄的な戦士たちが、名誉を追い求める世界だった。
 ところが、市場が勃興すると、様相が変わってくる。
 ギリシアでは都市国家がそれぞれ貨幣を鋳造し、それを兵士への支払いにあてるいっぽう、罰金や税の支払いのために用いていた。
 だが、硬貨はすぐに日常的取引にも使用されるようになる。そして集会の場だったアゴラが、市場の役割もはたすようになった。
 市場経済がはじまると、債務危機におちいる人も増えてくる。これにたいし、ギリシアの諸都市はしばしば恩赦を実施し、債務者の借金を棒引きにするとともに、かれらの子どもたちを海外に送りこんで、軍事的植民地を拡張した。
 こうした領土拡張は奴隷を急増させた。市民は奴隷制度に乗っかって、都市の政治的・文化的生活に参加するようになった。
 貴族たちは金銭と市場を軽蔑していた。「貴族たちは、贈与と気前のよさと名誉の世界をあさましい商業的交換の上位に位置づけた」という。
 意外なことにアテナイでは女性の地位は低かった。女性たちの名誉は、性的な面においてのみ規定されていた。「ペルシアやシリアの女性たちとは違って、民主政アテナイにおける女性たちは公共の場に出るにあたって、ヴェールを着用するものとされていた」という。
「かくて貨幣は、名誉の尺度から転じて名誉ではないすべての尺度と化してしまった」と、著者は書いている。ギリシアにおいては、貨幣はいわば「名誉剥奪の象徴」となってしまったのだ。つまり、カネは不名誉と連動していたのだ。
 その背景には、戦士もまた捕虜になれば、たちまち奴隷の境遇に落とされるという現実があった。
 万人に共有され、なんでも買うことのできる貨幣は、貴族にとって軽蔑の対象でありながら、同時に欲望の対象でもあった。
 著者はこう書いている。

〈こうしてみると、貨幣は欲望の民主化を持ち込んだといえるかもしれない。だれもが貨幣を欲するかぎり、身分が高かろうと低かろうが、そのおなじふしだらな物体を追い求めるというわけだ。だがそこで終わらない。ますます欲しくなるというだけでなく、それが必要になってしまうのである。〉

 ギリシアでは紀元前600年ごろ、商業的市場が勃興するにつれて、債務危機が深刻化するようになった。多くの農民が借金を重ね、そのあげく、富裕者の奴隷に身を落とした。なかには海外に売り飛ばされた者もいた。こうした事態が社会的な騒乱や公然たる革命を招く場合もあった。
 貨幣の出現した社会では、それまでの贈与と返礼という共同体の仕組みが崩れて、下手をすると略奪的暴力に転じかねないシステムが発生したのだ。貨幣はそのシステムの中心であり、いわば計量化されるモラルとなりつつあった。
 プラトンは航海中、とらわれの身となり、アイギナ島で競売にかけられた。そのとき、偶然エピクロス派のリビア人哲学者がプラトンをみつけ、身代金を払って釈放してくれた。プラトンはお金を集めて、この哲学者に返済しようとするが、かれは受け取らない。そこで、プラトンは、この代金をアカデメイアの土地の購入にあてたという、有名なエピソードがある。
 だが、プラトンはふしぎなことに、このリビア人哲学者にまったく言及していない。おそらく、プラトンは二重の意味で屈辱の経験を頭から追い払いたかったのかもしれない、と著者は推測している。以来、プラトンの哲学において、貨幣的なもの、すなわち権力や利益は、極力排除され、名誉がなによりも重んじられるようになっていくのは偶然ではない、と著者は考えている。
 ここでも貨幣が名誉と不名誉の問題にからんでいることがわかるだろう。
 最後に論じられるのが、ローマについてである。
 ローマ法には財産の私的所有権に関する規定がある。それは実際には、単なる物の所有権を意味するのではなく、奴隷にたいする所有権を意味していた。
 ローマでは「[征服による]奴隷の流入の増大によって、やがて、ほどほどに豊かな家庭さえも奴隷を所有することが可能になった」というような状況が生まれていた。家庭の維持には、奴隷が欠かせなくなっていたのである。
 ローマの奴隷制が奇妙なのは、ときに奴隷のほうが主人よりも知的にも勝れていたことが多くみられたことである。それでも戦争捕虜である奴隷にたいして、主人は絶対的な権利を有していた。
 ローマでいうリベルタス(自由)とは、奴隷でないことを意味していたが、リベルタスは次第に主人の力能、すなわち望むがままにことをおこなうことのできる能力を意味するようになった。そして、ローマの皇帝たちは、みずからの支配権のおよぶ領域で、絶対的自由を有すると主張するようになった。
 自由とは権利というより権能のことだった。これは逆説中の逆説だった、と著者はいう。自由は財産であり、それは売り渡すことができる。奴隷がみずから身体を売り渡すように、労働者は賃金によって資本家に自由を貸与する。古代ローマ時代と同じように、われわれは所有者であると同時に、所有される事物である、と著者はいう。
 こうして著者は、人が人として存在する「人間経済」が解体し、人間が交換の対象となりうる貨幣経済の時代が出現したと述べる。そこではかならず暴力が介在している。こうした事態は、日常的な市場が存在しない場合でも発生しうるが、現在の商品世界でも、暗黙の暴力が経済を支配している、と述べている。
 これでようやく半分ほど読み終わったことになる。難解な本なので、はたしてどこまで理解できたか、はなはだ心もとない。
 これからは後半の歴史編となる。よく理解できないものの、手探りで少しずつ進んでいくことにしよう。

奴隷制をめぐって──グレーバー『負債論』を読む(6) [本]

 著者は、経済学がすべての経済的経験を交換に還元してしまっていることを批判する。そのため経済学は「殺菌された見方しかできなくなって」いる。
 たとえば、かつてアイルランドでは、賠償は貴金属や牛で支払われていただけではない。ほかに、無賃で働かされる女性もいた。それはクマルと呼ばれていた。
 無賃で働かされる女性は、事実上の女奴隷だった。女奴隷、すなわちクマルは貨幣でもあり商品でもあった。著者はクマルのことを、負債懲役人あるいは債権奴隷とも呼んでいる。
 経済には暴力がつきものだった。
 ここで、商品世界の経済以外に目を転じてみよう。
 北アメリカのイロコイ族のウォンパム(貝殻数珠)や、アフリカの布、ソロモン諸島の羽根などは原始貨幣だとされている。だが、それは、なにかの売り買いに用いられるわけではない。それは人と人との関係を取り結ぶために用いられる。だから、現在の貨幣とはまるで趣がちがう。
 そうした原始貨幣を著者は「社交通貨」(改訳)と名づけ、原始貨幣が使用されている経済を「人間(じんかん)経済」と名づける。商業経済は比較的新しく登場したもので、人間経済の時代は商業経済(商品世界)の時代より、はるかに長い。
「人間経済」では、貨幣はたとえば結婚をとりもつために使われる(結納品のようなものだ)。それを贈られた側は、娘を花嫁として差しだす。花嫁代償として支払われる貨幣は、真鍮棒であったり、クジラの歯であったり、タカラガイであったり、牛であったりとさまざまである。
 ここでは、あたかも花嫁が商品として売りにだされているようにみえる。だが、そうではない。これらの貨幣は「どうやっても支払い不可能である負債」が存在することを示す証拠として贈られるのだ。その返礼は、折につけ果たされねばならない。
 社交通貨は、血の代償として支払われることもある。カネを払っても、人の命の賠償がすむわけではない。ただ、貨幣を渡すことによって、相手にわびをいれ、負債のあることを認め、今後もその解消に努めることを表明するのである。それは大きな借りがあることの証拠のようなものだ。
 人間経済では、貨幣は「二者のあいだの関係のネットワーク」にほかならない。だれもが、なにかの負債を負っている。したがって、社会とは「負債そのものである」と、著者はいう。
 ここで、著者はレレ族の血債について論じる。
 アフリカのベルギー領コンゴに住んでいたレレ族は、トウモロコシやマニオクの栽培と狩猟で暮らしていた。ほかに、ラフィア布と呼ばれる布をつくっていた。
「布は周辺の人びとの贅沢品と交換されたし、地域内部では、一種の通貨として機能していた」。しかし、この布で食料や道具が買えたわけではない。布はあくまでも贈り物として、人間関係にはなくてはならないものだった。布は治療師への報酬や、年長者をわずらわせたお礼として手渡された。結婚には、布だけではふじゅうぶんで、カムウッド棒という稀少な木材が必要だった。
 男たちはつねに血債におびやかされている。出産で女が亡くなるのは不貞によるもので、赤ん坊が亡くなるのも、だれかのせいである。そのときは、血債を支払わねばならない。血債は若い女によって支払われるから、男たちはつねに人質(ポーン)を確保しておく必要があった。いのちを救われた場合も同じである。いのちを救ってくれた男に、たとえば自分の姉妹を人質として差しださねばならなかった。
 これは男による女の支配にほかならない。だが、女が人質になりたくない場合は村妻となる方法があった。村全体で保護する妻のことである。彼女は優遇され、若者組の男たちと性的関係をもった。「彼女は村落全体と結婚していることになっていた」
 しかし、血債が部族間の抗争を生み落とすこともある。だが、戦闘を避けるために、貨幣(たとえば100枚のラフィア布と5本のカムウッド棒)による解決がはかられたとしよう。そのとき、人の値打ちは、貨幣によって測られているわけだ。それがうまくいくかどうかはわからない。
 ここで、著者はこう述べている。

〈[人間経済においては]貨幣はほとんど常に、第一に人間を装飾するために使われる物品からあらわれている。飾り玉、貝殻、羽根、犬や鯨の歯、そして金や銀は、こうした使用法でよく知られている。これらのものは、人びとを飾りより美しくみせる以外にはなんの役にも立たない。……例外(たとえば牛)も存在するが、概して、政府それに次いで市場が介入したときはじめて、麦やチーズ、タバコや塩が、通貨としてあらわれたのである〉

 人のいのちはお金には代えられない。それは別のいのちによってしか支払うことができない。
 貨幣で支払えないとすれば、どうするか。ナイジェリアのティブ族は共同体のネットワークからはずれた女奴隷を買って引き渡すことで、問題の解決をはかろうとした。
 ティブ族の経済は3層から成りたっている。日常的な経済は女たちが管轄し、オクラや木の実、魚などを贈与しあっている。男たちはトゥグドゥと呼ばれる布と、輸入される真鍮棒を扱い、それを政治的な駆け引きや呪術の儀式、秘密結社の参加費などに用いている。それらは雌牛や異邦の妻を購入するためにも使用される。そして、最後に男たちによる女性への後見制度(男による女の支配)があった。
 ティブ族の男たちをおびやかしていたのが「人肉負債」である。「強心臓」になるには、ツァヴを増強させなければならず、そのためには人の肉を食べる必要があるとされていた。ティブ族がじっさいに食人族だったわけではない。だが、強心臓の男は、秘密結社にはいって、人を食ったのだと思われていた。人を食った者は、力とカリスマをもつ怪物となり、大きな富を得るが、常に負債に追いかけられ、ついには自滅へといたる。これが人肉負債の結末である。
 この伝説には、人間経済から貨幣経済に移行する過程が表象されている。
 ところで、アフリカといえば、近世の奴隷制度を思い浮かべるだろう。
 アフリカの奴隷売買はどのようにして発生したのだろうか。
 1750年代、ティブ族は奴隷売買に巻きこまれるのを避けるため、奥地へと移住し、銅棒を一般通貨としないようにしていた。だが、すでにナイジェリアでは、イギリスでつくられた銅棒が日常的な通貨として利用されるようになっていた。
 ナイジェリアのクロス川河口にあるカラバルでは、何万人ものアフリカ人が鎖につながれ、大西洋の向こう側に輸送されていた。奴隷貿易の時代に輸送された奴隷の数はおよそ150万人といわれる。かれらは債務のために身柄を押さえられていた。
 ヨーロッパの商人はナイジェリアに、大量の布地や鉄製品、銅製品、飾り玉、鉄砲などを持ちこんでいた。それらにたいする支払いは、銅棒によってなされる。だが、商人たちはアフリカの取引相手に商品を委託する前に、担保として人質を要求した。これはアフリカの風習を悪用したものだ。
 人質狩りが横行する。「襲撃がひんぱんに生じ、単独で旅をする者だれもが、徘徊する盗賊団に誘拐され、カラバルに売られる危険性に直面していた」。さらに、因果は回って、次は、誘拐者たちが狩りだされ、奴隷として売られていく番だった。その後、秘密結社が債務を取り立て、債権者が武装集団をひきつれ、債務者の村を襲撃し、人や物、家畜などを奪うこともあった。
「しばしば債務者は、じぶんの子どもや従僕を、次々に人質に出すよう余儀なくされ、しまいにはじぶん自身をさしだすよう強いられた」。こうして人質と奴隷との区別は次第になくなっていく。
 こうして、人質を確保し、人間の生命を守るはずの「人間経済」が、こんどは逆方向に作動しはじめ、人間存在を破壊する手段と化していった。
 奴隷売買はアフリカだけでの現象ではない。それは東南アジアでもおきている。タイでは貧しい兄弟が、兄弟のひとりの結婚費用を、スポンサーに工面してもらう代わりに自分や家族を抵当にいれるという風習があった。かれらはスポンサーにこきつかわれても、がまんしなければならなかった。
 それは17世紀から18世紀にかけてのバリ島でも同じだった。退嬰的でアヘン中毒のバリの貴族たちは、臣民を奴隷として外国人に売り払うことで富を築いた。闘鶏で債務を負った多くの農民が、妻や子どもたちもろともジャワに売られていった。
 お金は人には代えられないというのが、「人間経済」の特徴だった。だが、貨幣経済になって、人をものとして扱うには、継続的で組織だった暴力の介在が欠かせなくなった、と著者はいう。
 アフリカで起きたことは、たとえてみれば次のようなことだ。

〈突然、わたしたちの社会に、無敵の軍事技術によって武装したとてつもなく豊かで理解不能なモラルの体系をもった宇宙人があらわれ、人間の労働者をつれてくれば1人あたり100万ドル支払うと、にべもなく告知する。こうした状況を利用して儲けにありつこうとする悪辣な者は少なくとも一握りは常にいるものだ──そしてほんの一握りで事足りるのである。〉

 その手口は、まず負債を払えというところからはじまる。戦争と征服と奴隷制の遺産は消え去っていない。われわれはいまも負債社会のなかにいる、と著者は論じている。

人間関係の3原理──グレーバー『負債論』を読む(5) [本]

 人の生活を支えているモラルの基盤に立ち返ってみよう、と著者はいう。
 そもそも、著者は、負債は返さなければいけないというモラルに疑問をいだいている。マルセル・モースが1925年に発表した画期的な論考『贈与論』以降に展開された人類学の膨大な論考にも批判的だ。そこには、けっきょくのところ、贈与には返礼をせねばならないという了解がしみついているからだ。
 贈与論からは互酬性という概念が導かれた。すべての人間関係は互酬性にもとづいているというわけだ。だが、それはほんとうだろうか。たとえば、親子の関係は、互酬性などでは割り切れないようにみえる。
 じつは、旅行記などには、一方的な贈与を強制されたという話が多々残っている。「だれかの命を救うと永久にその人物の面倒をみる責任がある」という話がまことしやかに伝えられる。それは互酬性とは正反対だ。いったん関係が生じた以上、その関係は永遠の贈与によって持続されなければならない。そういう考え方もありうるわけだ。
 ここで著者は人間関係のあり方を(1)コミュニズム、(2)交換、(3)ヒエラルキーの3つの位相に沿って考察している。
 それぞれをみておくことにしよう。
(1)コミュニズム
 コミュニズムという言い方は誤解を招きやすい。そのことを、著者も認めている。ほんらい、そこには原始共産制へのあこがれがひめられていた。それを政治的に追求しようとしたところから、あやまりが生じた。
 人間関係にはコミュニズムの原理がすでに含まれている、と著者はいう。「ちょっと手伝ってくれない」といわれて手伝うのが、コミュニズムである。日本でいえば、結い(ユイ)の思想だ。助けあいの精神といってもよい。
 人間関係の根底にコミュニズムがなければ、コミュニケーションは成りたたない。助けあいを拒否するのは、相手を敵とみなすことと同じである。
 タバコの火を借りたり、道をたずねたりする。こうしたささやかなやりとりができなければ、社会的関係はきわめて希薄なものとなってしまうだろう。
 人類学の調査によると、平等社会では、食物などの必需品を分けあう習慣がよくみられる。釣りや狩猟の獲物は惜しみなく分かたれる。家をつくったり、葬儀をおこなったりするときも、助けあいの精神が発揮される。
 こうした社会では、現在でもみられる家族の原理が、集団全体に適用されているということもできる。
 ここにみられるのは厳密な互酬性の原理ではない。収支決算は求められていない。おどろくべき寛大さが行き渡っている。それはときに交換のルールを無視するところまで行き着く。
 食物を共有する者は、たがいに傷つけてはならないとされている。人間どうしの関係が緊密なこうした社会では、「相手の状況を完全に無視することはむずかしい」。だから、利益をしぼりとるようなビジネスは成り立ちにくい、と著者はいう。
(2)交換
「交換とは……相対する双方が、それぞれ与えたぶんだけ受け取るといったやりとりのプロセス」である。厳密な等価性があるわけではない。ただ等価性にむかうやりとりの不断のプロセスがみられる。
 贈与交換でも、そこに見せびらかしの要素がはいってくると、ポトラッチのように、激しく寛大さを競う儀式が発生する場合もある。
 著者は交換の特徴を非人格性に求めている。交換の場に立ち会う買い手と売り手は、たがいをよく知っているわけではない。そこではいわば芝居がくり広げられ、取引が終われば、原則的には、それですべておしまいとなる。贈与のやりとりのように、人間関係がずっとつづくわけではない。
 交換には等価と自律性が内包されている、と著者はいう。金銭が支払われ、交換が完了すれば、両者はともに見知らぬ者どうしとして立ち去ることができる。
 だが、贈与交換というヴァリエーションも存在する。18世紀のニュージーランドでのことだ。イギリス人の入植者がマオリ族の戦士が身につけた翡翠の首飾りをほめた。すると、マオリの戦士はそれを贈るといいはり、それを渡したあと、しばらくたってから、入植者のコートや銃をほめたたえるために戻ってきた。「贈り物を受け取ってしまえば、それは暗黙のうちに贈り主に[受取人に等価のものを要求する]権限を与えることになる」と著者は記している。
(3)ヒエラルキー
 もうひとつの人間関係がヒエラルキー(上下関係)である。そこでは互酬性とまったく異なる原理がはたらく。
 ヒエラルキーはたとえば征服によって生じる。征服によって領主は村人に保護を与え、これにたいし、村人は領主に食糧を差しだす。そうした関係は一度きりでは終わらず、しだいに慣習に組みこまれ、さらに義務とみなされるようになる。
 こうした取り決めが、カーストの論理へ転化されることもある。王との関係で、すべての人びとが集団としてランクづけされるのだ。
 ヒエラルキーの関係においては、富のやりとりの相対的価値は数量化できない。たとえば領主の統治の値段がいくらとか、司祭の祈りの値段がいくらとはいえないだろう。逆に、貴族が詩人や音楽家を支援しても、それに応じて、どれだけ値打ちのある作品ができるというわけでもない。
 ヒエラルキーの例外は、そこから再分配が生じることである。パプアニューギニアの「ビッグマン」はそういう存在で、かれらは大宴会でばらまく巨額の富を集めるために、日々、人びとを動かすことを認められている。
 著者によれば、社会の平等性の度合いは「おもてむき権威的な立場にある人物が、たんに再分配の経路になっているだけか、それとも富を蓄積するために自身の立場を利用できるのか」によって決まってくるという。だから、ヒエラルキーは、かならず再分配をもたらすともいえない。
 ところで、こうしたコミュニズム、交換、ヒエラルキーの3原理は、それぞれが異なる社会の原理となっているわけではなく、おなじ社会で共存している、と著者は述べている。つまり、商品世界においても、ヨコの交換原理だけではなく、助けあいや上下関係の原理がはたらいていることになる。
 これは、われわれの日常の経験からもわかることである。
 にもかかわらず、人びとは互酬性という概念にしたがって社会を解釈しがちだ。それはかならずしも現実ではない。だが、そう解釈することによって、倫理のしばりが強まってくる、と著者は論じる。つまり、借りたものは、お礼といっしょに返しなさいというわけだ。
 イヌイットの老人はいう。
「この地でわれわれがよくいうのは、贈与は奴隷をつくり、鞭が犬をつくる、ということだ」
 なかなか味のあることばだ。
 当初、相互扶助の盟約から出発したコミュニズムが、時がたつにつれ、贈与交換へと、さらにはヒエラルキーへと移行するケースは多い。負債を支払えないとき、互酬性の強迫観念が、従属関係をつくりだす要因になっていく。
 ここで著者が例に挙げるのは、相互扶助を重んじるピレネーのふもとの村の話だ。
 ある農民が、工場を経営している社長のところに行き、仕事をくれないかと頼む。社長は仕事をみつけてやる。それ以来、農民は社長に頭が上がらなくなり、菜園の収穫物を届けるようになる。ここで生じているのは、一種のヒエラルキーだ。
「もはや対等ではないとする対等な者たちのあいだのこの合意こそ……『負債』と呼ぶものの本質だ」と、著者は論じる。
 逆に、ほんの少しの貸し借り(負債)が、かえって人間関係をスムーズにすることもある。また、上の人におごってもらったからといって、その負債はかならずしも返す必要がない。ごめんなさい、ありがとうというのは、日常のモラルである。
 ラブレーの『ガルガンチュアとパンタグリュエル』には、パニュルジュという学者の、独自の借金哲学が開陳されている。それは借金をしているからこそ、金貸しは、じぶんをだいじにしてくれるし、借金があるからこそ、この世の秩序は保たれているというものである。
 パニュルジュのとらえた皮肉な世界を、著者はこう要約している。

〈負債がなければだれかがだれかになにか借りがあるということもなくなるだろう。負債なき世界は、原初的混沌へと、万人の万人に対する闘争へと逆行してしまうことだろう。他人に対してだれも、いかなる責任も感じなくなるだろう。人間であるという単純な事実に、なんの意味もなくなるだろう。だれもが、じぶん自身の正しい軌道の維持さえあてにできない、孤立した惑星になるだろう。〉

 だが、それはブルジョアのいいそうなことだ。
 巨人パンタグリュエルは、パニュルジュの哲学を認めない。
「おたがいの慈しみや慈愛を除いては、汝は、だれにも、なにも借りてはならない」という使徒パウロのことばで、パニュルジュに反撃を加えるのだ。
 著者の目的も、貨幣によるニセの秩序の解体に向けられている。

宗教にも救いはない──グレーバー『負債論』を読む(4) [本]

 人類学者のキース・ハートによれば、貨幣には商品と信用(借用証書)の二面性がある。商品といっても、物々交換ではない。だが、信用だけでも信用されない。金貨であり銀貨であり、実物であることによって信用される。だから、ローマの貨幣がインドや中国にまで到達することができたのだという。
 賭博場の発行する模造貨幣、小売店の発行する代用貨幣は、いうまでもなく流通範囲がかぎられている。
 現実の市場では、さまざまな通貨が入り交じっていた。中央アフリカではカカオや塩、植民地時代のヴァージニアではタバコ、その他、各地でさまざまなものが貨幣として扱われている。「かくして貨幣は、商品と借用証書のあいだをほとんど常にさまよっているのである」。
 ここで、著者は商業について独自の考察を加えた思想家として、フリードリヒ・ニーチェの名前を挙げている。
 ニーチェはこう書いている。

〈値段をつけること、価値を測定すること、同等な価値のあるものを考えること、交換すること──これらは人間のごく最初の思考において重要な位置を占めていたものであり、ある意味では思考そのものだったのである。人間の最も古い種類の鋭敏さが育てられたのはここにおいてであり、人間が他の動物と比較してみずからに誇りをもち、優越感を抱いたのも、ここにおいてである。〉

 そうした人間の相互関係のなかから共同体が生まれてくる。自分に平和と安全を与えてくれる共同体に、人は負債を負う。そのため、人は共同体に借りを返さなければならない、とニーチェはいう。それには犠牲がともなう。
 しかし、はたして人は共同体、いいかえれば祖先からの借りを返しきれるのだろうか。人は贖罪の不可能性の前に立ちすくむことになる。永遠の罪の前に、良心のやましさを覚え、神に救いをもとめる。これがキリスト教の罠だ、とニーチェは考える。
 こうしたニーチェの考え方に、著者は違和感をおぼえる。
 ニーチェの前提は貸し借り計算のうえに成りたっている。だが、人はいっぽうで助けあいに重きを置き、打算を拒絶することで生きている面もある。
 著者は旧約聖書の「ネヘミヤ記」を思い浮かべる。ここにはヨベルの律法についての記述があった。ヨベルの律法では、7年ごとの安息の年に、あらゆる負債が自動的に無効になり、負債のために苦しんでいる者すべてが解放される。ユダヤの徳政令だといってもよい。
 当時、ユダヤの人びとは、累積的な債務危機におちいり、農地を失い、借地人となっていた。息子や娘を債権者に召使いとして差しだすか、外国に奴隷として売り払わねばならないところまで追い詰められていた。
 ヨベルの律法は、そうした負債から人びとを解放しようとする。それは、計算システム総体を破壊しようというものだ、と著者はいう。考えてみれば、日本の百姓一揆にも、こうした思想があるのかもしれない。
 だが、こうした救済はシステムの完全破壊にいたらない。それはいっときの祝祭にとどまる。
 イエスは地上の負債は返されねばならないという。「しょせん、われわれ罪人の救済されるのはあの世においてのみなのだ」と、著者は手厳しい。
 こう書いている。

〈世界宗教はまさにこのような両義性(アンビヴァレント)に充ちている。一方で、世界宗教は市場に対する怒号である。ところが他方で、そうした異議を商業的な観点から枠づけてしまう傾向をも世界宗教は有しているのである。人間の生を商取引に還元してしまうことがよくないのは、それがよい商取引ではないからだ、とでも主張するかのようなのだ。〉

 かくて、人びとは負債のとらわれ人となったままである。
 貨幣のもたらす「残酷さと償い」。
 宗教にもニーチェの超人思想にも救いはない、と著者は考えている。

原初的負債──グレーバー『負債論』を読む(3) [本]

 経済学の一般的理解によると、「貨幣とは交換を促進させるべく選ばれたひとつの商品であり、じぶん以外の商品の価値を測定するために使用されるにすぎない」。
 ところが、実際は貨幣がなければ商品も存在しないのだ、と著者は主張する。さらに、政府なくして貨幣なしともいえるのではないか、とも。
 貨幣信用論も登場する。貨幣とはそこに表示されている額面を支払う約束であって、いわば借用証書にほかならない。この借用証書がぐるぐると流通することで、それは貨幣として受け取られるというのだ。そして、この借用証書を最終的に保証するのが国家ということになる。
 国家が税として受け入れるものは、それがなんであっても貨幣として扱われる。国家は次第に統一された尺度をもつ貨幣をみずから発行するようになり、それを国民のあいだで流通させたあとで、税として返すよう求める。
 著者はここで貨幣の起源として、たとえば軍隊を想定している。国家は常備軍を維持するために、兵士に硬貨を配付し、それで食料品をはじめとする物資を調達させる。そして、国民にたいし、税を硬貨で払うよう求める。すると、この硬貨は流通しはじめ、市場が生まれるのだ。国家と市場はつきものだ。「国家なき社会は市場ももたない傾向がある」と、著者はいう。
 さらに、植民地はしばしば収奪の場と化す。フランスはマダガスカルでマダガスカル・フランを発行し、プランテーションをつくり、住民をはたらかせては、税の支払いを求めた。貨幣はいやおうなく市場をつくりだす。人びとは、いまでもその市場にしばられている。
 1971年にリチャード・ニクソンがドルを貴金属から切り離し、変動通貨制が登場して以来、貨幣は法定不換紙幣となった。いまでは貨幣を国家=信用理論でとらえる見方がますます幅をきかせるようになっている。
 国家の発行する紙幣のもとで、国民は市場で経済活動をいとなみ、国家に税金を支払う。税金を払うのは、国家に治安と行政サービスを求めるためだというのが一般的な理解である。しかし、そもそも人はなぜ国に税金を払わなければならないのだろうか。
 著者は「原初的負債論」という考え方を紹介する。
 いってみれば、人は生まれたときから、社会や両親、家族に負債を負っているというわけだ。だから、人は生きていくなかで、その負債を返していかなければならない。貨幣はまずもって、ささげものである。
 実際、著者は「どの地域であっても貨幣は神々への捧げものに最もふさわしい物品から発生しているようにみえる」と記している。日本語でも、貨幣の幣(ぬさ)は、神へのささげものにほかならなかった。
 子安貝などのような原始通貨が物の売買に使用されることはめったにない。著者によれば、「それらは事物の入手にではなく、主として人びとのあいだの関係の調整のため、とりわけ結婚の取り決めや、殺人や傷害から生じるいさかいの調停のために使用される」。
 原始通貨は長くつづく関係への確認、あるいはこれからも負債を返しつづけるという象徴のようなものとなる。そういえば、結納の品も両家の末長い関係をつなぐ象徴にちがいない。
 著者は負債の根拠を次のように考えている。
「つまるところ、わたしたちは自己存在すべてを他者によっている」。われわれがここにあるのは、すべてだれかのおかげなのだ。だとすれば、社会に借りを返すという意識がどこかに生じてきても不思議ではない。
 だが、そもそも優越する者、すなわち神や王に負債を返す必要はないはずだ。古代世界では、自由市民が国に税を払うことはふつうなかった、と著者も書いている。税を課せられたのは市民以外である。
 だから受けた恩義にたいし、借りを返すというなかから、貨幣が発生するわけではないのだ。
 ここで著者はシュメールやバビロニアのあった古代メソポタミアに思いをはせる。
 古代メソポタミアの流域は豊かで、多くの穀物がとれ、おびただしい家畜が飼われ、羊毛や皮革がつくられていた。しかし、石や木、金属は不足し、輸入しなければならなかった。そこで、神殿の役人は、商人たちを国外に派遣し、メソポタミアの産物を売らせて、足りない資材を買わせた。
 そのための前貸しとして渡されたのが、貨幣である。貸し付けは利子をともなって返済されなければならなかった。やがて、貸し付けは商人だけではなく農民にもおよぶようになる。農民はしばしばその負債に堪えきれず、歴代の王は権力の座につくとき債務取り消しの特赦(徳政)を発令したという。
 ここでふたたび著者は原始的負債の論議に戻って、人が生まれたときから社会に負債を負っているという主張のいかがわしさに論及している。実際、社会という概念はいいかげんであって、いかようにも解釈できる。だが、人は社会から負債を返すよう求められる。
 紀元前500年から400年ごろに成立したとされるインドのヴェーダでは、負債にたいする考え方はもっと明快だった、と著者はいう。
 人が負債を負っているのは第一に宇宙の力にたいしてであり、第二に文化を与えてくれた人びとにたいしてであり、第三に育ててくれた両親や祖父母にたいしてであり、第四に周囲の人びとの寛容にたいしてである。それらにたいして、わたしはお返しをしなければならない。だが、それは金銭によってではない。わたしは自身が先達となり、祖先となり、人道を守り、祭儀をおこなうことによって、負債を返すのである。
 であるなら、原始的負債から貨幣が発生するわけではない。
 だが、ここに国=社会が登場してくると、負債をめぐる論議は一転する。
 19世紀の社会学者、オーギュスト・コントは、人は社会への債務者として生まれると論じ、人は社会に奉仕することで、社会への返済義務をはたさなければならないと述べた。コントのいう社会とは、市場社会をさすわけではない。それは国家そのものだといってもよい。
 著者はこう書いている。

〈市場と国家は正反対のものであり、それらのあいだにこそ人間の唯一の可能性があると、わたしたちはたえまなく教えられてきた。しかしこれはあやまった二分法である。国家は市場を創造する。どちらもたがいになくしては存続しえないし、少なくとも今日知られているようなかたちでは存続しえないのである。〉
 貨幣と市場は国家によって生みだされ、そこで生活をいとなむ人びとは、国家に借りを返すよう求められる。それが税の原点だと考えられる。

物々交換の神話──グレーバー『負債論』を読む(2) [本]

 安直な気持ちで読みはじめたが、途中で、これは手に負えないと気づいた。
 しかし、乗り出した船である。途中で投げだす可能性は高いが、ともかく最後まで目をとおそうと思っている。まだ2章にはいったところである。
 前回、負債の特徴は、それが貨幣で計算され、貨幣で返済を義務づけられることだと書いた。すると、負債の歴史は、貨幣の歴史にほかならないことになる。
 経済学では、貨幣は物々交換から生まれたとされるのが一般的である。
 ほんとうにそうだろうか、と著者は疑う。
 なぜなら、双方の欲求が一致しなければ成立しない、物々交換ほどむずかしいやりとりはないからだ。ところが、経済学では、その不便さを解消するために貨幣が生まれたというのだ。
 紀元前330年ごろ、アリストテレスはすでにこう考えていた。もともと家族は必要なものをすべて自前でつくっていた。ところが、たとえば、ある人は穀物だけをつくるようになり、ある人はワインだけをつくるようになって、たがいに商品を交換しあうようになり、そのための道具として貨幣が登場したのだ、と。
 アダム・スミスの『国富論』の展開も、アリストテレスのこうした考えを引き継いでいる。
 ところが、スミス以前の大航海時代に、スペインやポルトガルの冒険家が世界じゅうを探査しても、物々交換をじっさいにおこなっている場所は、どこにも発見できていなかったのである。
 にもかかわらず、アダム・スミスは、効率的につくられた商品を交換するために貨幣が必要になったという理論を立てた。そして、スミスをより深化させたマルクスも、商品から貨幣が生まれ、貨幣から資本が生まれたと考えた。
 分業によって、さまざまな職業や役割が生まれ、商品がつくられ、貨幣を媒介として、多種多様な商品が交換され、社会が発展していくというのが近代の商品世界の考え方である。
 当初、貨幣には塩や貝殻や干鱈、たばこ、砂糖、釘などが用いられることもあった。しかし、次第に金属、さらには鋳貨が貨幣として用いられるようになり、次に紙幣が登場して、信用が発達し、金融システムが形成されていく。
 これが経済学のとらえ方だ。
 しかし、それはほんとうなのだろうか。
 著者はここで人類学の知見を導入し、そもそも物々交換など存在しなかったと論じる。
 ルイス・ヘンリー・モーガンは、19世紀半ばに北アメリカのイロコイ6部族連邦を調査し、ロングハウス(いわば長屋)に、ものが貯蔵され、女たちの話しあいによって、それらが分配される様子を記した。
 ここでは、ものの分配はあったが、物々交換などはなかった。
 そして、交換がなされる場合も、やっかいな手続きを必要とするのだ。
 レヴィストロースはブラジルのナンビクワラ族どうしの交換について記述している。ふだん100人ほどの集団(バンド)でくらすかれらは、相手の集団と交易をおこなう場合、まず宴会を開く。そこで相手の持ち物(たとえば首飾りや斧)をほめ、さまざまな駆け引きをつうじて、最後はそれをもぎとるのだという。
 交換といっても、生やさしいものではない。それはにぎやかな宴会のなかでおこなわれるが、一歩まちがえれば戦争状態に転じかねない雰囲気さえただよっている。
 それは、物々交換というより、贈与の強制といった趣がある。
 オーストラリアのグヌィング族は、キャンプの宴会で、歌ったり踊ったりしながら近隣の部族と、ものを交換しあう。それは性の饗宴でもあり、そのなかでビーズやたばこが循環し、布地が与えられる。つまり、宴会があって、はじめて交易がなされるのだ。
 部族間でものが交換されるのは、日常的なことではない。
 著者はこう書いている。

〈ある物をべつの物と直接に取り替えて、そこからありうるかぎりの利益を引きだそうとするようなふるまいは、ふつうどうでもよい人間、二度と会うこともない人間との関係の様式である。……それに対して、隣人や友人というような気がかりな相手には、公平で親切な交流を求め、その人の個人的な必要、欲望、状況に配慮するだろう。ある物をべつの物と交換するにせよ、それを贈与とみなしたがるはずだ。〉

 交換はよそよそしい。むしろ贈与が基本である。経済学が出発点とする物々交換は、現代社会の交換関係を抽象化し、人類社会一般に投影した幻想でしかない、と著者はいう。
 贈与というのは、相手からほしいものをもらい、相手にほしいものをあげるという一方的な関係である。その時点で、交換は成立しない。いつかお返しをすればよいのだ。それが、部族社会のあり方だ。
 だとすれば、ここに貨幣がはいりこむ余地はない。
 著者はこう考える。

〈物々交換がことさら古い現象ではないこと、真に普及したのは近代においてはじめてであること、実のところ、そう考えるには正当な理由がある。知られているほとんどの事例において物々交換の起きるのは、貨幣の使用に親しんでいるが、なんらかの理由でそれをふんだんにもちあわせていない人たちのあいだにおいてなのだ。手の込んだ物々交換のシステムの出現するのは、しばしば国民経済が崩壊するときである。〉

 日本でも、敗戦直後、都会の主婦は着物をかついで、村に買い出しに出かけたものだ。
 かつてニューファンドランド島では、出稼ぎの漁師が干し鱈を商人に渡して、商人から必需品をもらうという、一見、物々交換のような場面がみられたことがある。だが、それは物々交換だったのだろうか。
 じつは、ニューファンドランドでは、決定的に硬貨が不足していた。そこで、商人は干し鱈の市場価格を計算したうえで、それを受け取り、漁師に必需品を手渡したのである。まるで干し鱈を貨幣に見立てたかのように、物々交換が発生したのだが、実際にここでおこなわれていたのは、一種の信用経済にほかならない、と著者はいう。
 歴史を振り返れば、貨幣が発生したのは、紀元前3000年ほど前、メソポタミアのシュメール文明においてである。
 そのとき貨幣は、神殿を中心とした都市国家を維持するために、官僚たちによって発明されたのである。
 その貨幣は、都市国家内部の貯蔵物資を管理したり、さまざまな部門で物資をやりとりしたりするために用いられた。
 したがって、スミスのいうように、貨幣は商品の自然な取引のなかから生まれたわけではない、と著者はいう。
 まとめを紹介しておこう。

〈物々交換からはじまって、貨幣が発見され、そのあとで次第に信用システムが発展したわけではない。事態の進行はまったく逆方向だったのである。わたしたたちがいま仮想貨幣(ヴァーチャル・マネー)と呼んでいるものこそ、最初にあらわれたのだ。硬貨の出現はそれよりはるかにあとであって、その使用は不均等にしか拡大せず、信用システムに完全にとってかわるにはいたらなかった。それに対して物々交換は、硬貨あるいは紙幣の使用にともなう偶然の派生物としてあらわれたようにみえる。歴史的にみれば物々交換は、現金取引に慣れた人びとがなんらかの理由で通貨不足に直面したときに実践したものなのだ。〉

 なかなか説得力がある。

グレーバー『負債論』を読む(1) [本]

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 著者のデヴィッド・グレーバーは、ロンドン大学の一環、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス(LSE)の人類学教授で、経済人類学と社会人類学を専攻し、アナキストの活動家として知られる。「われわれは99パーセントだ」というスローガンをつくり、ウォールストリート占拠運動の指導者として一躍有名になった。反グローバリズムを唱え、サミットにも反対している。
 訳者あとがきに、「例外なく時間に遅れる困った奴である」と紹介されているように、訳者のひとり、高祖岩三郎とは友人であるらしい。そのグレーバーの代表作が、この『負債論』である。
 本体6000円と値段も高く、830ページ以上あるので、長らく買うのをためらっていたが、とうとう買ってしまった。勝手な感想をいえば、ページの行間をもう少しつめ、訳者あとがきを短くし、原注と参考文献の組み方を変えれば700ページ程度に収まるとみた。そうすれば本体価格も5000円程度(もっとも発行部数とも関連するが)に安くできるのではないか。致命的なのは索引がないことである。索引づくりは編集者にとって苦行にはちがいないのだが、索引のない本は読者に不親切だといわざるをえない。
 こういう感想が口をつくのは、編集者時代の習性がまだ残っているためで、われながら苦笑するほかない。
 でも、おもしろそうな本だ。おもしろそうというのは、まだ少ししか読んでいないからである。このところ、諸事情があって、本をゆっくり読む時間がとれない。ほんとうは全部ひととおり読み終えてから感想を記すべきなのだが、その余裕がない。それに、何もかもすぐに忘れてしまう。備忘録として読書ノートをつづることにした。
 最初に1980年代以降、銀行とIMFが世界経済、とりわけ第三世界の経済を大混乱におとしいれてきたことが記されている。そのやり方はえげつないと評してもいいほどのものだ。だが、その手口より、著者が問題にするのは、人がいつのまにか信じこんでいる、お金にまつわる強迫的な道徳意識についてである。
「借りたお金は返さなければならない」。そのためには、多少、人死にがでても仕方がない。しかし、それはほんとうに正しいのかと疑問を発するところから、著者の探求ははじまっている。

〈消費者負債はわたしたちの経済の活力源である。近代のあらゆる国民国家は赤字支出の上に成り立っている。負債は国際政治の中心的課題にまでなっている。だが、そもそも負債とはなんなのかを理解している人間、または負債についてどう考えたらよいかわかっている人間はどこにもいないようにみえる。〉

 これが『負債論』の問いである。
 負債とはなにかがわかっていないにもかかわらず、「負債は返さなければならない」という倫理が人びとをしばりつけている。
 植民地にたいする宗主国の債務の押しつけは、いまも第三世界を圧迫しつづけている。そのくせ、万年債務国であるアメリカ「帝国」は、世界じゅうから「貢納」を求めて、そのうえにあぐらをかいている、と著者はいう(わが国の国債だって、そうかもしれない)。
 金を借りても平気な国と、金を借りて苦しむ国とのちがいはどこにあるのだろうか。
 さらに、金を貸して権威をふるう階級と、金を借りて黙々とはたらく階級がいる。その関係は代々、永久につづくのだろうか。
 中世のキリスト教世界では、金貸しは罪深い存在とされてきた。
 それはヒンドゥー教の世界でも、仏教の世界でも同じである。
 たとえば『日本霊異記』には、強欲な広虫女(ひろむしめ)なる金貸し女が死んで、醜い怪物になる物語が残されている。
 しかし、こうした物語の背景には、高利貸から金を借りるなという教訓めいた説教もひそんでいる。
 負債の特徴は、それが貨幣によって計量され、返済を義務づけられ、強制されることにある。著者はその歴史を古代メソポタミアからたどろうとしている。
 著者が負債の歴史を研究しようと思い立ったのは、2008年の金融危機を経験してからだという。それは「念の入った詐欺」以外のなにものでもなかった。そして、そのさい救済されたのは、一般市民ではなく、金融企業、すなわち銀行だった。
 なぜ、こうした事態が生じたのか。
 著者はアナキストらしく、債務の帳消しと金融支配体制の解体を求める。
 だが、同時により根源的な大きな問いを投げかける。
「人間とはなにか、人間社会とはなにか、またどのようなものでありうるのか」と。
 本書では、さまざまな神話に疑問が呈される。はたして物々交換なるものは存在したのか。国家と市場は、はたしてそれぞれ独立した存在だったのか。人間は、はたして交換を運命づけられているのか。貨幣はどのように発生したのか。
 こうした問いを秘めながら、「過去5000年間の負債と信用についての実在の歴史」をたどろうというのである。
 まだ、ほんのとば口だが、おもしろそうだ。
 断続的になってしまうかもしれないが、ゆっくり読んでいきたい。


『宇沢弘文傑作論文全ファイル』(短評) [本]

 ふつう経済学者といえば、どうすれば経済活動が活発になり、国の経済規模を大きくできるかを考えている人のことを思い浮かべるかもしれない。しかし、世界的な経済学者として知られた宇沢弘文(1928〜2014)は、そうではなかった。経済第一の考え方が、いかに人や自然、社会を破壊しているかをあきらかにし、市場主義や国家主義に代わる「社会的共通資本」の構想を打ちだした。
 その業績は、今後も長く伝えられるだろう。
 宇沢にはすでに刊行された大量の著作があり、11巻の『著作集』も出ている。しかし、そのすべてを読むのは困難だ。その点、今回の「全ファイル」は、宇沢の全体像をつかむ格好の窓口となる。それでも、A5版で420ページ。没後、残されていた5000万字におよぶ膨大な原稿から、主要な論文を選んで1冊にまとめるという編集作業は、多くの時間と労力を要したにちがいない。
 宇沢は1948年に東京大学数学科に入学した。そのころ、日本の思想界をリードしていたのはマルクス主義だった。いくつかの勉強会にはいって、マルクス主義経済学を学んだが、とても理解できなかったという。だが、それは謙遜で、その体系にどこか違和感をおぼえていたのだろう。宇沢の考えに近かったのは、マルクスより、むしろミルやヴェブレンである。
 宇沢はそのうち数学より経済学を勉強するようになり、経済学部で近代経済学を本格的に学ぶようになる。それまで数学を学んできたかれにとって、数理経済学はまさにうってつけの分野だった。
 分権的経済計画に関する論文を執筆したところ、それがアメリカの経済学者、ケネス・アローに認められ、いきなり1956年に研究助手として、スタンフォード大学に招かれた。夢のような話である。
 スタンフォードで輝かしい業績を上げた宇沢は、1964年にシカゴ大学に教授として迎えられる。36歳のことだ。しかし、そのころシカゴ大学では、ミルトン・フリードマンの市場原理主義(新自由主義)派が勢力を拡大していた。人間の値打ちはどれだけもうけるかで決まるという新自由主義の考え方に、宇沢は嫌悪をおぼえた。
 当時、アメリカはベトナム戦争をエスカレートさせていた。アメリカ各地で反戦運動が巻き起こった。宇沢もまた反戦運動を支持する。だが、当局の弾圧は激しく、反戦運動にかかわった助教授たちは解雇され、多くの学生が逮捕された。正教授の宇沢は身分を保証されているため解雇を免れたが、大学を去っていくかれらにたいし、良心の呵責を覚えないわけにはいかなかった。
 そのころ東大の経済学部から帰ってこないかという誘いを受けた宇沢は、その要請を受け入れることにした。東大での身分は当面、助教授だったが、大学紛争の吹き荒れる1968年に帰国した宇沢は、翌年、すぐに教授に昇格した。
 しかし、12年ぶりに帰国した宇沢が見たのは、はなやかな高度成長とは裏腹の現実だった。混乱と破壊が日本社会をおおっていた。宇沢は水俣を訪れる。「水俣の地を訪れ、胎児性水俣病の患者に接したときの衝撃は、私の経済学の考え方を根本からくつがえし、人生観まで決定的に変えてしまった」と、そのときの思いを語っている。
 宇沢が心を痛めたのは、いわば商品世界の光と影の影の部分である。
 われわれの前にあるのは、完成された商品の姿でしかない。商品の生産過程や流通過程の内側は、表からはほとんどみえない。消費過程においても、商品は使用上の便利さと裏腹に、さまざまな害毒をまき散らす。最終処理にあたっての廃棄問題(ゴミ問題)も無視できない。商品世界の全体は表の論理だけではなく、裏の現実をみて、はじめて理解できる。社会的共通資本の発想は、いわば商品世界の裏の現実にどう対応するかという課題から生まれたとみることもできる。
 1974年に出版された『自動車の社会的費用』は、宇沢の代表作のひとつである。十数年アメリカにいて日本に帰国した宇沢は、乗用車やトラック東京の街なかをものすごいスピードで走りぬける様子にショックを受けた。しばらくは交通事故に遭わないかと、毎日ひやひやしていたという。
 日本でモータリゼーションがはじまるのは1950年代後半、マイカーブームがおきるのは60年代後半からだ。1967年に日本の人口は1億人を突破し、自動車の台数も1000万台を超えた。だが、それにともない、人びとは大気汚染と騒音、危険に悩まされるようになった。交通事故死も1970年に年1万6700人を超えた。そんなとき出版された宇沢の本は、おおきな反響を呼んだ。
 自動車には大きな利便性があるが、その害毒も深刻なものがあると宇沢は指摘する。自動車はすぐそこにある、走る凶器でもあるのだ。
 自動車が危険性と大気汚染をもたらし、人びとの生活環境をこわしていることはじゅうぶんに認識されなければならない。また自動車道路を確保するために、広い土地と空間が割かれている。道路建設にはさまざまな破壊や摩擦、犠牲をともなう。自動車社会から抜けださないかぎり、新たな時代の方向性は見いだせない、と宇沢は考えるようになる。
 新古典派理論とケインズ経済学を知り尽くした宇沢は、さまざまな社会問題に目を向けるうちに、経済学の限界を強く意識するようになった。経済学は環境破壊や人間疎外、豊かさのなかの貧困、インフレや失業、寡占、所得分配の不平等化といった現実の問題と向きあっていない。宇沢は日に日にそう感じるようになった。
 日本の高度経済成長は、資本主義的な市場経済制度のもと、重化学工業化を中心に急速なテンポで進められた。その結果、日本は製鉄、造船、自動車などの分野で世界をリードし、「経済大国」と呼ばれるようになった。GNPも拡大した。それと並行して、日本の国土は改造され、社会構造や人びとの生活様式は一変した。高速道路が建設され、新幹線が走り、飛行場がつくられた。住宅、自動車、電話、テレビ、服装、食事などをみると、日本人のくらしぶりは、ずいぶん豊かになったように思えた。
 だが、はたしてそうだろうか、と宇沢は問う。自然破壊と社会的・文化的環境の荒廃、人間の疲弊はむしろ目を覆うばかりだ。豊かにみえる消費生活も、その内容はきわめて貧困で殺伐としている。市場経済が発達するにつれ、「ありとあらゆるものが市場機構を通じて取り引きされ、利潤追求の対象となり、人々はできるだけ利己的な立場に立って競争的に行動するという傾向がますます強くなってきた」と、宇沢はいう。
 市場がすべて、経済がすべてというのが、市場原理主義の考え方である。ケインズ経済学では市場の欠陥(恐慌や失業)に対処するのが政府の役割とされてきた。ところが、市場原理主義では、市場の拡大に奉仕するのが、政府の役割になってしまった。宇沢も現実に対応できないケインズ経済学に限界を感じていた。だが、その思考は市場原理主義派とは逆の方向をたどった。
 公害や自動車の問題を考えるうちに、宇沢は「社会的共通資本」の概念に行き着く。
 社会的共通資本は自然環境だけをさすわけではない。道路、鉄道、電力などのインフラ、さらには医療、教育、金融、行政などの「制度資本」も社会的共通資本に含まれる。こうした社会的共通資本を「社会的な基準にもとづいて管理・維持し」、それによって「公正で社会正義に適った安定的な社会を実現」することこそが、ポスト・ケインズ経済学の課題なのではないか、と宇沢は考えるようになる。
 マルクスは資本を私有財産ととらえ、その権力性を否定したが、宇沢は資本に、市民の共有財産としての資本という視角を加えた。私有財産でもなく、国家財産でもなく、市民の共有財産としての「資本」が存在する。その「資本」すなわち「社会的共通資本」は、つねに補充され、拡張されなければならない。それが豊かな社会の基盤になっていく。こうした社会的共通資本の管理・維持は、国家や企業によってなされるのではなく、関係する団体やコミュニティによってなされるべきだ、と宇沢は主張した。
 そのなかでも、注目すべきは宇沢の環境問題への取り組みだった。経済活動が活発化すればするほど、環境は破壊されやすい。だが、環境を破壊した企業や個人は、たいがいその対価を支払わない。「破壊した社会的共通資本に対して、その帰属価格による評価額を社会に支払うという制度を確立する必要がある」と宇沢はいう。公害防止は、けっきょくそこから始まるほかないのだ。
 自然環境が資本とみなされるのは、それが人間にとって、いわば原資(生存条件)だからである。森林や海洋、土地、大気、水、鉱物などは無限にあるようにみえて、限られた資源である。しかも、自然環境は単に物質的に存在しているわけではなく、エコロジカルな共存システムのもとで成り立っている。
 伝統的社会は「エコ・システムが持続的に維持できるように、その自然資源の利用にかんする社会的規範をつくり出してきた」。ところが、近代にいたると、自然にたいする人間の優位という思想が強まり、自然環境の破壊、収奪が加速度的に進み、人類の社会的共通資本の破壊につながった。
 工業化と都市化は、1960年代から70年代にかけて、多くの公害問題を生み落とした。その後、有害な化学物質の排出規制がなされ、公害の深刻化にはある程度の歯止めがかかった。
 とはいえ、地球温暖化、生物種の多様性の喪失、海洋の汚染、砂漠化などにどう対応するかは、まさにこれからの課題だ、と宇沢はいう。とりわけ宇沢が熱心に取り組んだのが、地球温暖化問題だった。地球環境問題への対応がむずかしいのは、その規制に関する国際的合意を形成するのがきわめて困難だからだ。たとえばCO²の排出は、一国だけではなく全世界に影響をもたらす。大気は人類にとって最大の社会的共通資本だといってもよい。それを管理・維持するには、どのような制度やルールをつくっていけばよいのか。そのことを、宇沢は考えつづけた。
 いま、どこかで歯止めをかけなければ、地球環境は取り返しのつかない事態を招く恐れがある。
 宇沢はその対策の一つとして、炭素税の導入を提案した。炭素税が導入されれば、企業も個人も二酸化炭素の排出量を抑制する方向で行動することが期待される。とはいえ、炭素税は世界一律にかければよいというものではない。各国の一人当たり国民所得を考慮してかけるのがベターだろう。その方式を宇沢は「比例的炭素税」と名づけた。
 ヨーロッパではすでに炭素税が導入されるようになった。だが、経済を優先する日本やアメリカの取り組みは遅れている。宇沢の唱えた「大気安定化国際基金」の構想も、いまだに実現されていない。
 宇沢が教育問題に熱心に取り組んだことも知っておくべきだろう。日本の学校教育は全面的危機にある。その根源に横たわっているのは、「非人間的、反倫理的な受験地獄を生み出してきた現行の学校教育制度の矛盾」であり、とりわけセンター試験は、およそ考えられるかぎり最悪の大学入試制度だ、と宇沢はみていた。センター試験に象徴される人間の差別化と規格化が、心身ともにすさみきった子どもたちを生む要因となっている。加えて教科書検定制度などにみられる文部官僚による国家主義的な統制が、子どもたちの自由な発展をいかに阻害しているか、と宇沢は批判する。
 宇沢は教育を社会的共通資本として位置づけていた。教育を国家や市場原理から切り離し、社会全体の共有財産として制度化することをめざしていた。政府は教育という自由な社会的資本が機能するように財政的支援をおこなうことを義務づけられるが、けっして教育内容に干渉してはならない。教育内容は、社会から認められた、教育にかかわる職業的専門家が責任を負うものである。
 教育の費用に関しては、「国民所得のうち、学校教育に投下された費用の割合が高ければ、高いほど望ましい」と述べている。宇沢によれば、真に豊かな社会とは、環境をはじめとして、医療や教育、農業などの社会的共通資本、すなわち公共的制度がより充実している社会をさすのだ。
 残念ながら、現在の日本はますます空虚な経済優先社会のビジョンを加速させようとしている。宇沢の示した展望は、それとは異なる未来の方向性として徐々に理解されつつある。次世代に残された課題は、社会的共通資本の構想にもとづく政治経済システムの全体像をえがくことだといえるだろう。

『サピエンス全史』を読む(まとめ) [本]

   1 狩猟採集社会

 いまや超サピエンスの時代がはじまろうとしているのだという。
 本書はホモ・サピエンスが超サピエンスに向かおうとしている人類の全史を追うという壮大な試みである。
 著者のユヴァル・ノア・ハラリは、イスラエルの若い歴史学者だ。
 ホモ・サピエンスが誕生したのはおよそ20万年前。しかし、人類がはじめて姿をあらわしたのは250万年前の東アフリカで、アウストラロピテクスと呼ばれる猿人から進化した。
 この太古の人類は200万年前に、北アフリカ、ヨーロッパ、アジアに進出し、その地に定着した。ヨーロッパとアジア西部にいた人類はネアンデルタール人と呼ばれ、アジア東部にいた人類はホモ・エレクトスと呼ばれる。10万年前の地球では、少なくとも6つの異なるヒト種が暮らしていた。
 人類の特徴は大きな脳をもつことと、直立二足歩行をすることだ。しかし、それは生きていくのに大きな欠陥ともなり、安全に暮らすには家族や仲間の協力が欠かせなかった。
 初期の人類は小さな生き物を狩り、食べられるものを採集するいっぽう、大きな捕食者にねらわれていた。人類が食物連鎖の頂点に達するのは大きな獲物を狩るようになった40万年前〜10万年前にかけてのことだ。
 約30万年前から人類は火を使っていた。火によって、調理が可能になり、食物の範囲が広がり、消化も楽になった。それだけではない。人類は無限の力を制御できるようになったのだ。
 ホモ・サピエンスがアフリカ大陸の外に出たのは7万年前である。サピエンスはほかの人類に取って代わりながら、世界じゅうに進出する。
 それがどんな経緯をたどったかは、よくわかっていない。いずれにせよ、ホモ・サピエンスの進出によって、ジャワ島のホモ・ソロエンシスは5万年前に、ヨーロッパのネアンデルタール人は3万年ほど前に絶滅したことはたしかである。
 なぜサピエンスは、ほかの人類に勝利することができたのだろうか。
 著者はここで「認知革命」という概念をもちだす。
 認知革命を象徴するのが、言語の発明である。サピエンスは言語によって仲間に情報を伝えるようになった。
 サピエンスの特徴は、何よりも「虚構」を語る能力にある、と著者はいう。つまり、想像力によってイメージをえがき、それを伝えることができた。
 動物が集団を維持できるのは50個体が限度だ。人間もたがいが認知できる範囲は、150人がせいぜいだろう。しかし、人類がそれ以上の人数からなる共同体をつくれるのは、共通の物語(国家や宗教、法などもそうした物語のひとつだ)を共有できるからである。
 物語は想像力の産物だといってよい。サピエンスの特徴は、自然の客観的現実のなかだけではなく、神や国家といった想像上の現実のなかを生きていることだ、と著者は論じる。
 認知革命はサピエンスに想像力をもたらした。想像力は言語を生み、物語をつむぎだした。サピエンスの強さは、想像力と情報伝達力にもとづく集団行動にあった。
 つくりだされた物語は、いくらでも変更可能だった。そこから柔軟な対応能力が生まれた。
 サピエンスが3万年以上前から長距離交易をはじめていたことも注目すべきだろう。貝殻と黒曜石の交易は、農耕よりも早く太古からおこなわれていた。
 交易をおこなうのはサピエンスだけである。
 交易は単なる実務的やりとりのようにみえるが、そうではない。信頼関係がなければ交易はなりたたない。部族間で交易がはじまるときには、共通の神や祖先、トーテムへの呼びかけがなされなければならない。
 サピエンスの歴史は、狩猟採集時代が圧倒的に長い。農耕がはじまるのは1万年前にすぎないし、産業文明の時代になってからはわずか200年だ。
 狩猟採集時代については、さまざまな説があるが、たしかなことはわかっていない。
 人びとが現代人のように多くのものをもっていなかったことはたしかだ。ごくわずかの遺物からは、ほとんどその様子が浮かびあがってこない。
 辺境に残る狩猟採集生活を観察することで、先史時代の生活を推し測ることは可能かもしれない。しかし、それにも限界がある。
 現代の狩猟採集民はあまりにも辺境の地に追い詰められているし、その暮らしぶりは民族的にも文化的にもばらばらである。そこから、はたして原初の生活を思いえがくことなどできるのだろうか。
 それでも一般論として、著者が指摘するのは、次のようなことだ。
 人びとは数十人、最大でも数百人の単位でくらしていた。1万5000年前には、すでに犬を飼い慣らしていた。集団は主に親族から形成され、内部は親密な関係が保たれていた。
 近隣の集団とは戦いもあったが、交流もあった。いっしょに狩りをし、贅沢品(貝や琥珀、顔料など)を交換し、ともに祭りをすることもあったろう。とはいえ、ふだんそれぞれの集団は、ほとんど顔を合わせず、別々にくらしていた。
 集団は食べ物を探して、あちこち移動する。その移動範囲は時に数十キロにおよんでいた。こうした移動は人類が拡散する原動力となった。
 食料資源が豊富なのは、海や川に沿った場所だった。そうした場所に、人類ははじめて集落をつくった。
 基本は狩りよりも採集だったろう。食べ物に加えて、燧石や木材なども集められ、素材に加工がほどこされた。
「平均的な狩猟採集民は、現代に生きる子孫の大半よりも、直近の環境について、幅広く、深く、多様な知識を持っていた」し、身体的にも鍛えられていたと、著者はいう。それにくらべれば、現代人の知識はごく専門的な分野にとどまっており、動作もはるかににぶい。
 狩猟採集民は全体として、現代の労働者より、快適で実りの多い生活を営んでいた、と著者はいう。狩りや採集にかける時間はごく短く、家事の負担も少ない。よほどのことがないかぎり、飢えたり栄養不良になったりすることもなかった。木の実、イモ、ベリー、キノコ、果物、貝、魚、動物をはじめとして、食物は多様で、ふんだんに存在した。天然痘やはしか、結核などの感染症はなかった。
 要するに、狩猟採集社会の生活は意外にも豊かだった。とはいえ幼児死亡率は高かったし、集団の足手まといになる老人がおきざりにされることもあった。自然の猛威に身をさらされることも少なくなかったはずだ。
 狩猟採集民のあいだではアニミズムが信じられていた。生きとし生けるもの、死者にも霊が宿っており、魔物や妖精も実在すると信じられていた。
 だが、部族ごとに、その信仰はじつに多様だった。その精神生活については、ほとんどわかっていない。
 身分や家族など、集団生活の実態についても、たしかなことはわからない。しかし、何らかの政治的、宗教的、社会的秩序があったことはまちがいないだろう。
 部族どうしの戦いもあったにちがいない。しかし、それがどの程度だったかも判然としない。ドナウ川流域やスーダンでは、武器によって死亡したとみられる古い遺骨が見つかっている。だが、狩猟採集民が常に残忍な戦いをくり広げていたという証拠はない。
 平和な時代もあったし、戦争の時代もあったということくらいしかいえない。沈黙の帳が、狩猟採集社会の全体像をおおいかくしている、と著者はいう。
 ただし、サピエンスに関していえることがひとつある。それは人類の移住にともなって、地域生態系が変化し、大型生物が絶滅したことである。
 大型生物の絶滅をすべて気候変動のせいにはできない。「歴史上の痕跡を眺めると、ホモ・サピエンスは、生態系の連続殺人犯に見えてくる」と著者は書いている。
 オーストラリアでも、アメリカでも、シベリアでも、ホモ・サピエンスの進出にともない、マンモスやディプロトドン、マストドン、オオナマケモノといった巨大生物が絶滅した。その絶滅にサピエンスが関与したことはまちがいない。
 著者はこう書いている。

〈私たちの祖先は自然と調和して暮らしていたと主張する環境保護運動家を信じてはならない。産業革命のはるか以前に、ホモ・サピエンスはあらゆる生物のうちで、最も多くの動植物種を絶滅に追い込んだ記録を保持していた。私たちは、生物史上最も危険な種であるという、芳しからぬ評判を持っているのだ。〉

   2 農業革命

 農耕への移行がはじまったのは紀元前9500〜8500年ごろとされる。場所はトルコ南東部とイラン西部、そしてレヴァント地方だ。そのころ小麦が栽培され、ヤギが家畜化された。その後、紀元前8000年ごろには、エンドウ豆やレンズ豆、紀元前5000年にはオリーブが栽培され、紀元前4000年には馬が家畜化された。
 中国の長江流域で稲作がはじまったのも、紀元前8000年のころだ。紀元前3500年ごろには、世界中で、小麦、稲、トウモロコシ、ジャガイモ、キビ、大麦が栽培されるようになっていた。
 農業革命は中東からはじまって、各地に伝播したわけではない。中国を含め、いくつかの地域で独立して発生したとみられる。



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