So-net無料ブログ作成

『山本七平の思想』(東谷暁)を読む(4) [人]

 山本七平は昭和天皇のことをどうみていたのだろうか。
 それをうかがうことができるのが1989年に刊行された『昭和天皇の研究』である。
 昭和天皇は3つの事例を例外として、立憲君主の枠からはみださなかった、と七平はみる。憲法を順守すること、きわめて厳密だったという。
 戦前、戦中においても、国務に関しては、国務大臣に権限をゆだね、その意志決定に容喙(ようかい)することはなかった。美濃部達吉の天皇機関説を支持していた。天皇自身が統帥権をふりまわして政府を批判したことは一度もない。
 ただし、例外がある。そのひとつが二・二六事件にさいして、昭和天皇が青年将校を暴徒と呼び、反乱鎮圧を指示したことである。
 もうひとつの例外。それは開戦が近づくなか、1941年9月の御前会議で、明治天皇の御製を詠みあげたことだ。「よもの海みなはらからと思ふ世になど波風のたちさわぐらむ」という歌だ。明治天皇が内心、日露戦争に反対していたように、昭和天皇も日米開戦に懐疑的だった。しかし、軍部はそれを天皇が開戦を是認したと解釈した。
 さらに、第3の例外が終戦の「聖断」である。終戦を決断できない重臣たちにかわって、昭和天皇がポツダム宣言受諾による終戦を決断した。
 そのほかにも天皇がみずから「ご意向」を述べることがなかったわけではない。だが、それは通ることもあったし、通らないこともあったという。
 著者の東谷はこう書いている。

〈七平が指摘するように昭和天皇が立憲君主としての「自己規定」を守り続け、そしてもし重臣たちや軍部もまた立憲政治の「自己規定」を貫いて責任を自覚すれば、戦前・戦中の日本は違ったものになったかもしれない。〉

 日本の政治は戦争の空気に流され、無責任ないけいけ精神によって、無謀な戦争に突入してしまった。
 以前の現人神思想批判の激しさからすれば、昭和天皇を立憲君主としてとらえようとした七平の視点は、意外なほどあまいようにみえる。しかし、それは、天皇に過剰な幻想を加えることなく、天皇を立憲君主としてとらえる姿勢がだいじだと七平が考えていたからだ、と著者はいう。
 おそらく、七平は日本に大統領制はなじまないと考えていただろう。

 晩年の七平はイエス伝を書こうと思っていた。
 みずから経営する山本書店からは、ヨセフスの『ユダヤ古代誌』や『ユダヤ戦記』を出版している。これは紀元66年から70年にかけてのローマへの抵抗を記録したものだ。そこでは奇しくもイエス・キリストの実在が証言されている。
 七平の方法は、歴史を通じてイエスを見るというものだ。とうぜん、ユダヤ人の物語にもふれることになる。
 著者の東谷は、不幸に不幸を重ねながらも神と対峙するヨブの姿勢が、戦争中の七平の姿と似ているという。七平は聖書の『ヨブ記』を、みずからの卑小性を認めながら、神に訴えて撥ねつけられ、それでも神に訴えつづける男の物語として読み解いていた。
 七平の父親は内村鑑三の弟子だった。だが、七平自身は内村に相矛盾する感情をいだいていた。
 こんなふうに書いている。

〈言うまでもなく内村は、その前半生において、日本の社会に徹底的にもまれ、叩かれ、再起不能なまでに叩き付された人間である。そしてこの経験は否応なく彼に、「日本なる一種の怪物」を凝視させる目を与え、これに対処する道を教えたといえる。〉

 これはまるで七平自身の自画像のようにみえる。七平もまた「日本なる一種の怪物」とぶつかっていた。
 遠藤周作が『沈黙』や『深い河』などでえがいた日本的なキリスト教に、七平は懐疑的だった。それは日本の「空気」にのみこまれたキリスト教なのだと思われた。
 生前最後の作品『禁忌の聖書学』は未完のまま残された。
「イエス伝は僕のライフ・ワークになるだろうが、それを書いたとき、僕は命を吸い取られるかもしれない」と、七平は語っていたという。
 七平は日本民族の永遠性の保証を、日本教、すなわち日本的自然の象徴である天皇制にみていたように思える、と著者は書いている。しかし、天皇制がはたしていつまでつづくかに疑問ももっていた。
「七平は最期まで聖書の世界と日本教の世界を行き来していた」と著者はいう。

〈七平は「現人神」に対して強い憎悪を抱いていたし、それを生みだした「日本教」に対しても戦いを挑んできた。七平説では、この「日本教」は「空気」を生みだすアニミズム的な文化なのだから文句なしに「敵」だといってよい。
 ところが、そのいっぽうで日本を継続させるためには天皇制が必要だという説には同意を示し、また、昭和天皇には立憲君主としての自己規定を貫いた見事な君主として高い評価を与えているのである。〉

 そこには一歩踏み外せば破綻しかねない矛盾した論理があったが、その矛盾に耐えながら、常に緊張を忘れず、現実にありうる狭いエッジのうえで考え抜くところに七平の真骨頂があったのかもしれない。
 1991年12月10日、山本七平はがんのため69歳で亡くなっている。もともと病弱な人なのに、20年あまりの評論活動で、200冊以上の本を残した。

nice!(9)  コメント(0) 

『山本七平の思想』(東谷暁)を読む(3) [人]

 戦後、山本七平は出版界のなかで生きてきた。いくつかの出版社を渡り歩いたあと、1950年代半ばに自分の出版社、山本書店を立ち上げた。聖書学の本をだすのが念願だったという。
 本を刊行するかたわら、古本屋で江戸時代の思想書をみつけては読みふけっていた。その蓄積があったからこそ、1979年にカッパ・ブックス(光文社)から『日本資本主義の精神』を刊行することができたのである。この本では儒教や仏教、さらには鈴木正三(しょうさん)や石田梅岩の考え方が紹介されていた。
 七平は、経済学者の考える日本経済が、大企業中心のかなりゆがんだもので、その実態とはかけ離れたものであることをあきらかにした。
 日本の会社は合理的な計算だけで成り立っているわけではない。古くからの家族的ないし共同体的な性格が会社を支えている。それはけっして西洋にくらべて遅れていることを意味するわけではない。あくまでも日本社会の特徴なのだ、と七平は論じていた。
 その思想的ルーツを、七平は石田梅岩(1685-1744)に求めている。士農工商の身分秩序で商がいやしまれるなか、梅岩は商人に存在意義があるとし、「倹約」と「奉仕」の心構えこそが商人の道だと説いていた。ここから、いわゆる「石門心学」が生まれる。商人が売買するのは天下の助けになる、商人が売買によって利益を得るのは商人としての役割をはたすためである、と梅岩は論じた。
 さらに七平は江戸時代の藩に注目する。藩こそが日本企業の原型だったと述べている。藩は擬似的な「家」だった。
 江戸時代、財政逼迫により藩の運営は困難をきわめた。倹約とリストラによる改革を実行するのは簡単なようにみえる。だが、そうではなかった。
 藩主と家臣が一体となって苦労を重ね、それによって国を次の世代に伝えていくという心づもりがなければ、藩はつづかないのだ。それは商家でも同じである。現代の企業でもそうだろう。
 この独特の家意識、共同体意識が日本の企業、ひいては日本資本主義を支えてきた。
 だが、七平は単にそれを絶賛するわけではない。同時に、こうした共同体意識の強い日本企業が一歩誤れば、逆説的な結果を招くことも自覚していた、と著者の東谷はいう。
 共同体意識は、会社至上主義や甘え、無意味な競争意識、見かけだけの忠誠心をも生みだす。そのことは、バブル崩壊後、とりわけあらわになった傾向である。
 七平自身、こう書いている。

〈長所とは裏返せば短所であり、美点は同時に欠点である。このことは、日本に発展をもたらした要因はそのまま、日本を破綻させる要因であり、無自覚にこれに呪縛されていることは「何だかわからないが、こうなってしまった」という発展をもたらすが、同時に「何だかわからないが、こうなってしまった」という破綻をも、もたらしうるからである。〉

 ここには日本社会の特質をさぐるとともに、その長所と欠点を認識することで、自覚的な判断の必要性を説く七平ならではの発想がみられる。

 もうひとつ、次の代表作にもふれておこう。
 戦争中、フィリピンの戦場で、七平は日本人とは何かという疑問につきあたった。なかでも、「現人神(あらひとがみ)」への疑問が長くつきまとっていた。その謎を解くために書かれたのが1983年に刊行された『現人神の創作者たち』だという。
 その根源をさぐるために、七平は江戸時代の思想家、とりわけ山崎闇斎(1619-82)とその学派、崎門(きもん)派までさかのぼっている。
 学者のあいだでは、闇斎にたいする評価は低かった。せいぜい朱子学に神道思想をとりいれた思想家とみなされているだけだった。
 尊皇思想、言い換えれば「現人神」思想の起源をさぐるうちに、七平は江戸時代初期に日本に亡命した朱舜水(1600-82)という存在に気づく。徳川光圀(みつくに、すなわち水戸黄門)は、朱舜水の影響を受けて、『大日本史』の編纂をはじめたのだった。
 山崎闇斎は、その『大日本史』に心ふるわされた。闇斎にはエキセントリックなところがあり、みずからを絶対とし、いわば力づくで、弟子たちを自分の考え方にしたがわせた。
 しかし、晩年、神道に帰依すると、なかにはついていけなくなる弟子がでてくるようになり、闇斎学派すなわち崎門派は分裂する。この分裂は、朱子学が日本化されるなかで生じたといってもよい。そこに七平は思想のドラマをみた。
 崎門派は、君主とは何か、臣とは何かという問いをめぐって分裂した。儒教には、あやまちを犯した君主は放伐すべしという思想がある。しかし、日本ではどんなことがあっても君主は絶対だという考え方が生まれていた。
 そして、その究極の君主こそ天皇だということになる。天子をおいて君主はなく、臣たる者は天子に尽くさねばならない。激しい論争のなかで、闇斎派からそうした考えが噴出してくる。ここからは幕末の水戸学まで一息である。すなわち絶対忠君の考え方が生まれ、万世一系思想が確立されていく。
 ここで話は脇にそれるけれど、著者の東谷は、丸山眞男による日本政治思想史研究の方法を批判し、尊皇思想の淵源を追求した山本七平のほうに軍配をあげて、こんなふうに述べている。

〈江戸時代は朱子学で始まり、荻生徂徠の「作為」によって近代への道筋を見出したという[丸山眞男の]借り物の構図は、あまりにも無理な議論だったといえる。そもそもこの構図では、七平が『現人神の創作者たち』で示そうとした、日本の近代を実現した主役である、尊皇攘夷思想へと発展した日本的朱子学の役割を無視してしまうことになる。……
 七平は戦場での悲惨な体験を経るなかで、なぜこのような思いをせざるを得なかったのかという激しい疑念を抱き、まったく独力で孤独な探求を二十年余も続けた末に、本来あるべき江戸時代の思想史研究の道筋を日本に取り戻したのである。〉

 おそらく、これはただしい。
 クリスチャンである七平は、現人神の思想に賛同していたわけではない。しかし、多くの知識人のように、現人神の思想を小馬鹿にして、うっぷんを晴らしたりはしなかった。その根は意外と深いとみていたのである。
 現人神の思想は、変動いちじるしい日本の近代社会に一種の秩序意識をもたらした。だが、それは同時に諸刃の剣でもあった。現人神の名のもとに、一千万人以上が戦場に送られ、何百万もの人びとが戦没死したことは否定できないからである。
 戦後、天皇はみずから現人神でないことを宣言した。だが、日本人のなかには、いまも天皇を神のようにあがめる気持ち、そして天皇の国が認める殿上人になりたいという気持ちがまだ根強く残っている。その根源には伝統的な尊皇思想がある。『現人神の創作者たち』は、そのルーツをさぐろうとした作品だったといえるのかもしれない。

nice!(9)  コメント(0) 

『山本七平の思想』(東谷暁)を読む(2) [人]

 戦争末期の1944年5月に、山本七平はフィリピンに送られ、ルソン島北部のジャングル戦で悲惨きわまる経験をしている。かれは、その体験を『ある異常体験者の偏見』、『私の中の日本軍』、『一下級将校の見た帝国陸軍』で、くり返し語っている。
 ジャングル戦の実態はどういうものだったのだろう。それは「放置されて腐敗していく死体がありふれた風景となるなかで、生命の危機に怯え、まともな食料もないまま、病名も分からない皮膚病に悩まされる、はてしない地獄のような毎日のこと」だった、と東谷は書いている。
 この戦場で、七平は自分の誤った判断で、部下を2名戦死させてしまう。戦争だから、それは仕方ないことだったのだが、七平はそのことをいつまでも悔やんでいた。
 軍は機械的な規則や命令だけでは動かない。組織には微妙な人間関係が存在している。組織間には、暗黙の了解や、貸し借りの関係もある。七平が部下を戦死させることになったのは、他の部隊への義理を返そうとしたためだった。
 終戦まぢか、親しかった少尉の分隊を見殺しにしたことも、七平の心に重くのしかかっていた。その少尉は「オレたちがここで頑張り、一兵でも多くの米兵をここに引きつけておく限り、敵の本土侵攻はそれだけ遅れる」と語っていたという。
 1945年8月27日、七平はアメリカ軍に降伏し、ルソン島南部のカランバン収容所に送られた。そこで見たのは、それまでの秩序が崩壊して、ヤクザによる暴力支配が生まれたことだった。自治組織ができず、暴力支配が横行するのは、日本人集団の大きな特徴だった。
 収容所では、現実と言葉とが乖離しているという、日本人の特色についても考えさせられた。あまりにも空疎な言葉、精神主義が横行している。そうした傾向は、右翼、左翼を問わない。日本人は、精神力という「不確定要素」を発揮すれば、たとえ軍備が劣っていても、相手に勝つことができると思っていたのだ。
 実体語に空体語を対置するのが、いまも変わらぬ日本人の特徴だ、と七平は指摘する。実体は常に希望的観測によってごまかされてしまうというわけだ。
 東谷は「甘い見通しが裏切られ、現実のほうがどんどん重くなってしまうと、その分のバランスをとるために、非現実的な言葉だけが膨らんでいくという現象」が、いまも多く見られると解説している。そして、最後は自然的虚脱状態がやってくる。
 東谷はこうも書いている。

〈多くの戦争体験記は、いかに戦争とは悲惨なものかを描こうとする。ところが、七平の場合には悲惨な戦場に直面した日本人はどのように行動するか、なのである。〉

 七平にはどこか冷めているところがある。それは、かれが日本では少数派でマージナルなクリスチャンであることと関係している、と東谷はみる。だが、いずれにせよ、戦争体験は七平に日本人とは何か、日本社会とは何かという根源的な問いがわきあがらせる大きなきっかけになったのである。
 こうして書かれたのが、1977年に出版された名著『「空気」の研究』である。
 日本社会は空気で動いているといわれる。しかし、日本人はしばしば空気に流され、判断を誤る。戦艦「大和」の特攻作戦が決まったのも、こうした戦争末期の空気のさなかだった。インパール作戦もそうだろう。
 だが、七平は単純に空気(ムード)を否定していない、と東谷はいう。人びとが空気に流されるのは、いまも昔も変わらない。いつのまにか、戦前の空気が否定され、戦後の空気が肯定されているだけだ。だが、その空気がはたして正しいかどうかとなると、疑問がわいてくる。
 空気とは臨在感だ、と七平はいう。臨在感とは、周囲の物や言葉に影響力を感じ、それに動かされてしまう心理的習慣を指す。日本人が空気を読むのは、アニミズム的な宗教感覚に由来しているのではないか、と七平は考えていた。つまり、目の前の現象を自分の同類のものとして、肯定的に受け入れてしまうのだ。
 こうした空気から抜けだすきっかけが水だ、と七平はいう。水をさす、あるいは水をかけることによって、人は現実に引き戻される。とはいえ、水をさすのは容易ではない。それが別の空気を生んでしまうこともある。
 しかも、日本人はみずからの正しさを、つじつまの合わない論理をもちだしたり、状況にあわせて平気で事実をねじまげたりして正当化する傾向がある。
 七平にとっては、戦後の平和主義は戦前の軍国主義と同じ空気なのだった。日本人がこうした空気に流されるのは、絶対的な固定倫理をもたないからである、と七平は論じた。
 日本の根本原理はキリスト教のような絶対神ではなく、汎神論にもとづく家族的相互主義であって、その頂点に天皇がいる、と七平はとらえた。それは西洋が進んでいて、日本が遅れているということではない。日本には日本のよさがあると同時に、問題もあるのだ。それは逆に西洋も同じである。
 日本人がその時々の空気によって動くのは、ある意味では自然なのだ。だが、それが場合によっては、あやまった判断につながることも、おおいにありうる。だとすれば、どうすればよいのか。
 東谷は七平の示した方向を、次のように解説している。

〈私たちはこうした「空気」について、それが「本能」と化していることを自覚しつつ、性急な理解を排して、ひとつひとつの事態について手をなぞるように確認し、バランス感覚を発揮し、「虚語」や「空体語」が肥大していないか確かめるしかないのである。〉

 まるで綱渡りのような、一種緊張に満ちた日々の精神的格闘を思わせる。だが、それが批評の宿命というものなのだろう。

nice!(7)  コメント(0) 

『山本七平の思想』(東谷暁)を読む(1) [人]

img181.jpg
 このところ、ずっと体調が悪かった。
 ひどい花粉症で、つらい咳と喉の痛みがつづくなか、転倒して顔をしたたか地面にぶつけ、そのあと胃腸をこわし、すっかり弱った。
 どこにもでかけず、近くのレンタルショップで借りた韓流ドラマをみている。だいぶ流行遅れだが、『善徳女王』が、このところのお気に入り。とくに悪役のミシルが好きだ。
 元気な人をみると、うらやましくなるが、体力と気力の衰えは、いかんともしがたい。終日、ぼんやりすごすことが多くなった。歳だなと思う。
 しかし、あんまりぼんやりしていても、ますますぼけてしまいそうなので、読み残しの本を本棚からとりだしてみることにした。
 今回、読むのは東谷暁の『山本七平の思想』である。

 プロローグにこうある。

〈本書は、運命的な人生を歩むことで日本の未来を透視した、山本七平[1921-1991]という人間の生涯をたどりながら、私たちに残してくれた日本人および日本についての鋭い分析を、いまの時点で振り返りつつ読み直すことを目的としている。〉

 山本七平の著書は膨大にある。ぼくはこれまでほとんど読んだことがないので、このようなガイドブックはありがたい。
 そのデビュー作は1970年にイザヤ・ベンダサンの名前で、みずから経営する山本書店から出した『ユダヤ人と日本人』だった。七平は最後まで自分がイザヤ・ベンダサンだと認めることはなかった。だが、かれこそベンダサンだということは、なんとなく知れ渡っていく。
 大宅壮一ノンフィクション賞を受賞したこの作品は、日本文化の特色をユダヤ文化との対比で軽妙にえがきだしたものである。七平が実際のユダヤ人とその文化をよく知っていたわけではない。かれが知り尽くしていたのは聖書である。とりわけユダヤ教の原典でもある旧約聖書の思想こそが、日本文化の奇妙な特徴をあぶりだす手品のたねとなっていた。
 先にたねあかしをしてしまうと、『ユダヤ人と日本人』のおもしろさを半減してしまうことになる。この本は、いわばユダヤ人をだしにして、日本人があたりまえとして疑わぬことに疑問を投げかけ、それがいかに特異なことかをあぶりだしたところにユニークさがあった。
 たとえば、日本人は、安全と水は無料で手にはいると思いこんでいる。あるいは、日本人はユダヤ人とちがって、全員一致の決議がよいことと思いこんでいる。日本人はコメの文化をあたりまえと思っているが、牧畜文化を基層とする世界の大勢からすれば、それはじつにめずらしい文化なのだ、というように。
 日本の文化は、全員一致で同一行動をするのをよしとする。そのため、独裁者を必要としない。古来、祭儀権と行政権を分立して、独裁者を生みださない工夫がこらされていた。
 また、日本人には理屈を超えた「理外の理」というようなものがあって、なるべく皆が損をしないような仕組みがはかられている。日本には「日本教」とでもいうべき独自の宗教があって、「世間」と結びついた規範や規律が人びとのあいだに行き渡っている。
 この本は、作者が謎ということもあって、単行本だけでも75万部以上売れたという。
 著者はこう書いている。

〈『日本人とユダヤ人』の「日本人は世界的な視野でみると、異質だといわれているユダヤ人と比べても、もっと異質な存在なのだ」というメッセージは、まさに知りたいこと、知らねばならないことが書いてあると思わせるに十分だった。〉

 たしかに、それもこの本が売れた要因のひとつだろう。
 しかし、より重要なのは、この本が山本七平の暗黙のデビュー作として、その後の活躍を支えるジャンピング・ボードになったことだ。
 これ以降、山本七平は、日本人とは何か、日本社会とは何かというテーマを終生にわたって追求していくことになる。
 著者のいうように、七平がこうしたテーマに固執するようになった理由は、その出自と関係している。七平自身が「私は生まれながらのクリスチャンなので、もの心のついたときすでに教会の中にいた」と書いている。
 日本のキリスト教徒はカトリック、プロテスタント、ギリシャ正教のすべてを合わせて100万人そこそこ、全人口のわずか1%だ。七平はクリスチャン共同体のなかで、少数派であることを自覚しながら育った。
 さらに、その親戚のなかに、トリさまと呼ばれる人がいた。父の叔父にあたり、大逆事件で幸徳秋水とともに処刑された大石誠之助の実兄だった。トリさまは、口癖のように「怒りを抑える者は、城を攻めとる者に勝る」と話していたという。
 著者はこう書いている。

〈少数派であるキリスト教徒という立場は、それだけなら必ずしも逆境ではなかったかもしれない。しかし、戦前において天皇の弑逆(しぎゃく)を試みた人間の係累であるという境遇は、社会生活のなかで肩身を狭くする理由でありえた。ましてや、戦争遂行のために天皇崇拝が強く鼓吹されている時代にあっては、迫害に至ってもおかしくなかった。〉

 七平は大逆事件について、ほとんど論じなかった。むしろ避けて通っている。怒りを抑える道を選んだのだろう。耐えることが習い性になっていたともいえる。
 七平は少年のころから無類の読書好きだった。マルクスやクロポトキン、バクーニン、幸徳秋水の本も読んでいた。聖書の研究書も読みあさった。そうしたなかで、七平はいまさらながらに日本が神仏習合の国であることに気づく。それがのちに、かれを徳川時代の思想の研究をうながすことになったという。
 青山学院高等商業学部に進学した七平は、相変わらず読書の日々を送り、ドストエフスキーやカント、それにコーランや古代エジプトの歴史書まで読書範囲を広げていた。
 1941年12月8日、日米開戦の日がやってくる。翌年6月、七平は徴兵検査を受けた。そして、その10月に入営して、1年半後の1944年5月に下関からの輸送船でフィリピンの戦場へと向かう。
 そして、フィリピンでの絶望的な戦いと収容所での経験が、日本軍と日本人について、さらに深く考えさせることになるのだが、それについてはまた次回述べることにしよう。

nice!(7)  コメント(0) 

苅部直『丸山眞男』を読みながら思うこと二、三(2) [人]

 丸山は終戦直後の状況を「多様で混沌とした可能性をはらんでいた民主主義の沸騰期」と呼んでいる。丸山はこのころ埴谷雄高や武田泰淳、竹内好と出会い、互いに往き来する仲となった。丸山がおしゃべりで、話しはじめると止まらなかったというのは意外である。この習性はおそらく最晩年までつづいたにちがいない。
 思想の科学研究会などの文化団体結成にもかかわり、三島市のサークルに呼ばれて講義もしている。大学に閉じこもることなく、行動範囲を広げて、生き生きと活動していた様子がうかがえる。
 連合国軍、とりわけ米軍の占領下であったにもかかわらず、この国には奇妙なことに「多様で混沌とした」自由の空間が生まれていた。共産党までもが合法化され、広く人権が認められ、思想統制がなくなり、言論の自由が保証されるというのは、戦時中では考えられない状況だった。丸山自身も解放感を感じていた。
 とはいえ、戦後の自由はあてがわれた自由にちがいなかった。丸山はそれを自主的な自由にまで高めねばならないと主張している。制度の変化に満足するのではなく、それを支える人間の精神を改革しなければならない。とりわけ、政治の場にかぎらず、職場や団体にも民主主義を定着させなければならない。精神の改革こそがポイントである。
 このころ、丸山は健全で民主的なナショナリズムの形成を支持していた。憲法9条については軍事的国防力をもたない国家という新しい国家概念に共鳴している。労働組合の活動にも期待を寄せていた。
 戦後、丸山が注目されたのは、その天皇制批判である。もともと昭和天皇自身には敬意をいだいていた。だが、悩みに悩んだ末に、丸山は天皇制が日本人の自由な人格形成に致命的な障害をもたらしているとの結論に達する。こうして、1946年5月号の『世界』に代表論文「超国家主義の論理と心理」が発表された。
 この論文で、丸山は日本では国家が人間の内面へ無限に介入するいっぽう、「私的利害」が国家権力をたやすく動かすこと、そしてより上位の者へと随順する「権威への依存症」が上から下まで日本人全体に浸透していることを指摘した。まるで、現在の森友・加計の構図があてはまるかのようだ。
 権力の偏重が日本の宿痾だった。ここで、蛇足ながら、ぼく自身の思いつきのセオリーをもちだすと、日本では、政治家は支持者に弱く、役所は政治家に弱く、民間は役所に弱いというじゃんけんのような関係が成り立っている。民間が役所に便宜をはかってもらおうとすれば、政治家を動かすのがいちばんだ。役所は政治家と昵懇の民間業者をけっして邪険にせず、政治家から具体的な指示がなくても積極的に便宜をはかる。日本では、こうした図式で利権構造がつくられてきた。森友・加計問題は、たまたま安倍首相がらみで目立つだけで、日本の利権構造のなかでは、ほんの氷山の一角のできごとだともいえる。
 おそらく戦後直後は、こうした日本の政治構造、利権構造が変わると期待された「空白」の時代だった。
「超国家主義」とは別の論文で、丸山は政治家や軍人、官僚にみられる「無責任の体系」を指摘している。これも、現在とまるで同じ光景ではないだろうか。口先はともかく、ほんとうに責任をとろうとする政治家や官僚がいないのが、日本の政治世界である。丸山は、昭和天皇も政治責任は免れないと論じた。だが、その先は急に弱腰になる。日本社会の病理をただすには各人が「純粋な内面的な倫理」を確立し、「自由なる主体的意識」を育てるほかない、というのが丸山の考え方だった。
 丸山は日本人の倫理性と主体性の欠如を指摘しつづけた。それはわかりにくく、しばしば誤解を生んだこともたしかだ、と著者は指摘する。倫理性や主体性の問題では片づかないと思う人も多かっただろう。しかし、戦後たてつづけに発表された丸山の論考が、日本人の無意識にまで踏みこむことで、マルクス主義などではみられないユニークな視点を提示したのはまちがいないだろう。
 だが、そもそも倫理性と主体性とは何を意味するのか。それは前に述べたように、自由と平和と正義の理念を指すのだろうか。大衆社会状況のなかで、そうした古典的理念はすでに失われつつあった。
 人びとはすでに情報の渦に巻きこまれ、政治よりも娯楽やスポーツなどに関心をもつようになっている。自主的判断といっても、それはマスメディアによってすり込まれた見解をなぞっているだけかもしれない。大衆社会のなかで、人はむしろ情緒や欲望に突き動かされ、政治権力はそうした流れを統合するものとして機能していた。
 カール・シュミットがいうように、敵と味方を区別し、味方を結集し敵を排除しようとする努力が「政治的なるもの」だとすれば、政治はこの世界のどこにも遍在する。こうしたせめぎあいを最終的に調整し統合する権力が政治権力なのである。政治権力によって構成される国家は、かつてないほど強力な存在となった。にもかかわらず、その権力を行使する意志の中心が見当たらない空虚な制度体になってしまっている。そのようななかで、はたして個人は倫理性と主体性を保つことができるのか、と丸山は問わざるをえなかったという。
 だが、それは難問だった。
 戦後の解放の時代はそう長くつづかなかった。いわゆる「逆コース」がはじまる。朝鮮戦争の勃発、警察予備隊の発足、レッド・パージ、日の丸・君が代の復活と、事態は急速に展開する。講和条約をめぐる論争が盛んになるころ、「恐怖の時代」の到来を感じた丸山は「平和問題談話会」に参加し、リベラリストの立場から、平和共存と非武装中立の立場を唱えた。
 だが、そのころから丸山は結核をわずらい、1951年2月から1年2カ月、1954年1月から1年4カ月、国立中野療養所での入院生活を強いられることになる。ストレプトマイシンによる化学療法はまだ普及していなかった。
 療養生活のなかで、丸山は「他者感覚」の重要性に思い至る。すなわち、安易に同情するのではなく、相手を他者として理解し、対話をつづけていくことがだいじだと考えるようになったという。
 政治的無関心の広がりは政治への無力感のあらわれだ、と丸山はみていた。だが、それは「焦燥と内憤」と背中合わせになっており、いったん政治指導者にあおられると、「権威への盲目的な帰依」に向かっていく。それがファシズム独裁を生むのではないか、と思うようになっていた。
 こうした反動的な動きに対抗するには、「国民ができるだけ自主的なグループを作って公共の問題を討議する機会を少しでも持つこと」がだいじになってくると考えていた。このころ丸山はナショナリズムへの警戒を強めている。政府の動きを監視しなくてはならない。それをおこなうのは政治のアマチュアだ。「政治を目的としない人間の政治活動によってこそデモクラシーはつねに生き生きとした生命を与えられる」。そうした経験を積むことによって、人びとは適切な政治的思考力と判断力を身につけていくことができる、と丸山は主張した。
 こうして、丸山は市民のひとりとして、60年安保反対運動に加わる。だが、運動が盛り上がるなか、丸山は大きな不安を感じていた。一時的な盛り上がりのあとには、宿酔いにも似た長い停滞がやってくるのではないかと思っていたという。熱狂的な大衆運動には、どちらかというと懐疑的だった。
 丸山は政治を本来的に保守的(あるいは精神的)なものと考えており、激しい行動によるラディカルな変革へのあこがれを、ファシズム的なものとみて嫌っていたという。
 丸山の手記には、イギリスの政治哲学者マイケル・オークショットの次のようなことばがつづられている。
「政治学とは、恒久に完璧な社会を打立てる技術ではなくて、すでに存在しているある種の伝統的社会を研究してつぎにはどこへ行ったらよいのかを知る術である」
 60年安保闘争のあと、丸山は現実の政治状況から離れて、日本思想史の研究に立ち戻っていく。だが、スランプがつづいた。
 1968年から69年にかけての大学紛争のあと、病気もあって1971年に57歳で東大を退官。悠々自適の生活にはいったあとも、82歳で死去するまで、ほとんど論文らしいものは発表しなかった。
 丸山は日本人の思考様式には、現在の状況を仕方がないとする歴史観、共同体秩序からの離反を罪とみなす倫理意識、上位の人に奉仕するのをよしとする政治意識がまとわりついていると指摘していた。だとすれば、こういう社会のなかで、はたしてありのままの「個」としての自我などというものが芽生えるのか。
 丸山は1960年の「忠誠と反逆」という論文のなかで、徳川時代の武士がみずからの主君をいさめるための「諫争(かんそう)」に注目する。ここには、まさに忠誠と反逆の葛藤が引き起こすエネルギーの噴出がみられる。
 しかし、こうしたダイナミズムは明治以降、次第に失われていく。人びとの自我は内なる相克の意識を失い、陰影を欠く平凡なものになっていった。ばくぜんとした反逆が現代の気分なのである。
 現代人は国家や社会の内部に浸透するイデオロギーや常識によって、世界をはじめから一定の「イメージ」でとらえるようになっている。自分が「逆さの世界」に生きていることも、なかなか気づかない。
 だいじなのは、内と外との境界に自分を置くことだ、と丸山はいう。それ以外に、内側から与えられたイメージを突き崩すことはできない。そして「他者をあくまでも他者としながら、しかも他者をその他在において理解すること」。こうした日々の営みが新たな思索を切り開いていく、と丸山は考えていた。
 丸山は日本思想史の研究を通じて、引き継ぐべき伝統を新たにえがきなおそうとした。そして、それを日本人にあった「型」として抽出した。そのようなこころみのひとつが、1986年に刊行された『「文明論之概略」を読む』に結実している、と著者はいう。そこで強調されたのは庶民の智恵だった。
 1978年に丸山は来日したフランスの哲学者ミシェル・フーコーと会っている。「目の前の現実を見すえながら過去の歴史に沈潜し、史料の森の中をかけめぐって、これまで支配的な伝統と考えられてきたものとは異なる、もうひとつのありえた伝統をくみだし、それを明確な形に描きあげること」──その点で丸山とフーコーの方法は共通していた、と著者はいう。
 1980年の論文「闇斎学と闇斎学派」では、朱子学者たちの激しい論争をふり返りながら、不寛容の悲劇が広がる時代に、「他者感覚」をもちながら「境界」に立ちつづけることを、ぎりぎりの選択肢として示したという。それは新左翼が内ゲバにふける時代への忠告でもあった。
「政治と同じく学問についてもアマチュアによる『在家仏教』を唱えた丸山にとっては、あらゆる人々が広い意味での知の担い手として、対話の相手なのだった」と、著者はしめくくる。
 精神的格闘ということばが思い浮かぶ。晩年の丸山は、大衆社会化する日本のなかで、単純に西洋の知に依拠せず、真にリベラルであるための通路を切り開こうとしていたのかもしれない。

nice!(8)  コメント(0) 

苅部直『丸山眞男』を読みながら思うこと二、三(1) [人]

img180.jpg
 読み残しの本から取り出して、ぱらぱらとめくってみる。
 丸山眞男(1914−1996)については、学生時代から気になりながら、これまであまりまじめに読んでこなかった。そのくせ、主要著作は買っている。『日本政治思想史研究』、『現代政治の思想と行動』、『日本の思想』、『戦中と戦後の間』、『反逆と忠誠』、『「文明論之概略」を読む』、それに「講義録」。
 買っただけで、満足してしまうのが、昔からの悪い癖だ。おそらく買った当初はぱらぱらとめくったのかもしれないが、いまとなってはほとんど中身を覚えていない。たぶんむずかしすぎて理解できなかったのだろう。
 いちばんおもしろかったのは『日本政治思想史研究』だ。この本で、ぼくは荻生徂徠のことを知った。
 ぼくの学生時代にはすでに象牙の塔の人だった。東大闘争のときに、学生たちが丸山の資料室を占拠し、それにたいし丸山が「ファシストもこんなことはやらなかった」と憤激したといううわさが、ぼくの近辺にも伝わってきた。よほどだいじな資料があったのだろう。
 1968年のころ、丸山はすでに学生運動はおろか、ベトナムにも成田にも興味をもっていなかったようにみえた。学生たちにしてみれば、60年安保の思想的リーダーと思われた丸山が、政治学者でありながら、なぜ現実の戦争や大学問題に無関心を決め込んでいるのかが不思議でならなかった。
 それから3年後の1971年、丸山は定年まで3年を残して、57歳で東京大学を退官する。そのあとは、社会的に活躍することなく、残りの25年を隠居のように暮らした(という印象を、すくなくともぼくはもっている)。
 ぼくは丸山眞男のよい読者ではない。それどころか吉本隆明や滝村隆一の影響を受けているせいか、どちらかというと丸山をずっと毛嫌いしてきた。にもかかわらず、いまでも丸山の熱烈な愛好者は多い。逆にこの年になって、ぼく自身、丸山のことをよくわかっていなかったのではないかと思うようになってきた。
 本書を読んでみることにした。
 丸山は1914(大正3)年に大阪で生まれた。父の幹治はリベラルな新聞記者で、長谷川如是閑と親しかった。丸山は自由な中流家庭で、のびのび育ったようにみえる。
 一高に入学した年、満州事変が勃発した。その後、日本は急速に軍国主義化していく。
 印象的なのは、高校3年生になった1933(昭和8)年4月に、丸山が警察に引っぱられ、取り調べを受けたことである。丸山自身は共産党員でもなんでもなく、むしろノンポリだった。たまたま貼り紙で長谷川如是閑の名前をみて、その講演会に出席したところ、警察に目をつけられて、連行されたのである。
 特高による取り調べは苛烈だった。その経験が、精神の内側にまで踏み込んでくる国家権力の姿を丸山に思い知らせた、と著者は書いている。
 見えないところからじっと監視されつづける恐怖というものは、じっさいにそれを味わった者しか、わからないものだろう。当時、国民は官憲による無気味な弾圧の実態をほとんど知らなかった。
 逮捕の翌年、1934年に東京帝国大学法学部政治学科に入学した。卒業後は法学部の助手に採用され、研究者の道を歩むことになる。
 国家が社会や経済を統制する「政治化」の時代がはじまっていた。美濃部達吉をはじめ、矢内原忠雄、河合栄治郎などリベラル派の大学人が、政府に目をつけられ、大学を追われていた。
 大学時代、丸山は数多くのマルクス主義文献を読んでいる。だが、党やコミンテルンに魅力を感じたことはなかった。マルクス主義には革命思想はあっても政治学がなかったからである。日本の政治体制を分析するという学問上の動機のほうがまさっていた。
 丸山が評価したのが、いわゆる「講座派」である。日本では農村部における封建的生産様式と都市部における資本主義的生産様式が不均衡なかたちで共存し、そのうえに絶対主義的な天皇制が成り立っている──これが講座派のとらえ方である。その考え方に丸山はひかれた。
 戦前の丸山は、みずからも述懐するとおり「ムード的左翼」だったという。戦前の知識人がそうだったように、天皇中心の「国体」思想など信じていない。一般国民が国体を素朴に信奉している社会の実情こそが問題だと思われた。
 このころ丸山は、発表論文で、市民社会や個人主義はブルジョアジーのイデオロギーであり、それは乗り越えられなければならないと述べていた。だからといって、ファシズムやマルクス主義にくみしたわけではない。国家権力を制御する必要についてもふれている。
 丸山は強靱かつ柔軟な自由主義に、みずからの思想的立場を置くようになった。それは自由と平和と正義を普遍とする立場である。マルクス主義とはおおいにことなる。
 1940年10月8日に昭和天皇が東京帝国大学に行幸したとき、丸山は法学部助教授になっていた。
 そのころ刊行された福沢諭吉の『文明論之概略』を読んで、その自由な物言いに感銘を受けている。そこには当時の軍国主義時代の風潮にたいする痛烈な批判が隠されていた。個人が独立して自主的人格を形成し、政治社会にかかわっていく姿を福沢がえがいていることを、丸山は高く評価した。それこそが近代のあり方だと思われたのである。
 助教授になった丸山は、大学で「東洋政治思想史」の講座を担当するようになる。さまざまな文献を読みあさったすえ、徳川時代の思想家では荻生徂徠がいちばんだと思った。
 徂徠の独創性は、儒教を道徳の学ではなく、政治の学として再解釈したことである。徂徠における「政治の発見」は、新たな政治的地平を開いた。それは丸山が徂徠や諭吉を西洋政治哲学の文脈で読み込んだことと関係している。
「[丸山は]全体を管制する政治権力のもとで『私的』な活動がさまざまに展開するという『寛容』の体制を『近代的なもの』と呼んだ」と、著者はいう。
 すなわち、道徳と政治の分離、社会と政治の分離といってもよい。政治は個人道徳や社会秩序に恣意的に干渉してはならない。いっぽう個人の自由の確保と、政治権力にたいする批判が認められなければならない。
 著者によると「ありのままの個人と、倫理を内面化した『主体』がおりなす『人間仲間』と、政治秩序との3つの層」を、丸山は近代の「秩序原理」ととらえるようになっていたという。
 ばくぜんとマルクス主義に共感をいだいていた丸山は、内外の政治哲学を学ぶなかで、ここではっきりと「近代の理念」すなわちリベラリズムに軸足を移すことになる。
 丸山を近代主義者、リベラリストと呼ぶのは、けっしてまちがいではない。問題はそういうレッテル貼りをして丸山を葬り去る側が、はたして近代やリベラリズムについて、どれだけ深く理解しているかである。丸山からみれば、日本の現実は、近代やリベラリズムからはるかに遠かったのである。
 丸山は1944年3月、30歳で結婚し、その直後の7月に軍隊にとられた。東京帝国大学の助教授が徴兵されることはめずらしく、まして陸軍二等兵としての召集は例がなかったという。一種の懲罰だった。
 丸山は松本の連隊に入隊し、そのまま朝鮮の平壌に送られた。皇民化教育を受けた朝鮮人の一等兵から、意地の悪い仕打ちを受けたという。植民地朝鮮での軍隊経験は、丸山に生涯忘れられない記憶を刻んだ。
 11月、丸山は病気にかかり、いったん東京に戻った。政府の上層部では、すでに戦争終結の構想が練られはじめていた。
 1945年3月、丸山はふたたび召集を受ける。こんど配属されたのは広島市宇品町の陸軍船舶司令部だった。平壌にくらべれば苛酷な環境ではなかった。与えられた任務は船舶情報と国際情報の収集。
 7月にはポツダム宣言を新聞で読み、「言論、宗教および思想の自由ならびに基本的人権の尊重」というくだりに、むしろ感動を覚えていた。しかし、軍隊のなかで、そんな思いを口にするわけにはいかなかった。
 そして8月6日、広島に原爆が投下される。宇品の司令部にいた丸山は閃光を目にしたものの、建物の陰にいたため、熱や爆風の直撃を受けることはなかった。しばらくして、重傷を負い、助けを求めてやってきた市民の群れで司令部は埋めつくされることになる。
 8月15日、ラジオの玉音放送で日本が無条件降伏したことを知る。「やっと救われた」というのが、そのときの正直な気持ちだったという。9月になり、丸山は焼け野原の東京に戻ってきた。玉音放送があった日に母は病気で亡くなっていた。
 軍隊経験をへて、リベラリズムの立場はさらに確乎たるものになっていた。
 著者はこう書いている。

〈どんな状況でも自由の価値の普遍性を信じ、リベラルであること、とりわけこの日本でリベラルであること。1945年8月15日は、希望と悲哀をたずさえながら、この課題を追求していく営みの、原点となったのである。〉

 次回は戦後の丸山眞男の歩みを見ていくことにしよう。

nice!(8)  コメント(0) 

『気の向くままに』から(1) [人]

img177.jpg
 ジョージ・オーウェルは1943年12月から47年4月にかけて、途中1年9カ月の休載をはさみながら、ほぼ毎週、独立左派系の新聞「トリビューン」にコラム「気の向くままに」を連載していた。
 第2次世界大戦末期から戦後にかけてのことである。
 オーウェルは戦争の時代に、みずからをどう保っていたのか。そのことが気になっていた。
 本棚を整理していて、この本をみつけ、いなかと往復する新幹線のなかで読んでみた。
 ドイツがポーランドに侵攻し、第2次世界大戦がはじまったのは1939年9月のことである。
 その前、1936年末にオーウェルはPOUM(マルクス主義統一労働党)市民軍の一員としてスペインに渡り、アラゴン戦線でフランコ軍と戦い、首を撃たれ、あやうく死ぬ目にあった。バルセロナでは共和国政府を牛耳るコミンテルンによるPOUM弾圧がはじまっていた。1937年6月、オーウェルは妻のアイリーンとともにバルセロナを脱出する。
 イギリスに戻ったオーウェルは、スペイン内戦でみずから体験したことをありのままにつづった。それが『カタロニア讃歌』である。初版は1500部で、700部しか売れなかった。
 オーウェルは1938年3月に吐血し、ケント州プレストンホールのサナトリウムに送られる。休養が必要だった。
 サナトリウムでは、次の小説の構想を練ったり、短いエッセイを書いたりしてすごした。
 そのころのオーウェルの考え方について、伝記作家のマイクル・シェルダンはこう書いている。

〈当時、彼の戦争観はかなり素朴なものだった──支配階級が戦争を社会変革の引き延ばし策に利用するつもりならば、そのために武器を取って戦っても意味がない。〉

 このころのオーウェルは、独立労働党(ILP)を支持し、戦争反対を唱えていたことがわかる。オーウェルは終生、社会主義者でありつづけた。支配階級と資本家は、戦争の危機をあおることで、労働者の賃上げを認めず、社会変革を引き延ばそうとしていると考えていたのだ。
 オーウェルはさらに療養をつづけるため、妻とともにモロッコのマラケシュに移った。空気が乾燥し、温暖な地を選んだのだ。住み着いたのは郊外にあるオレンジ畑の真ん中にたつ邸宅だった。ここで、オーウェルは次の小説『空気を求めて』を執筆し、さらにエッセイ「マラケシュ」を書く。
 ボロ着を身につけたマラケシュの人びとと、道を行進するフランスの植民地軍を対比的にえがくエッセイはいきなりこう結ばれる。

〈われわれはどれほど長くこれらの人々をだましつづけられるだろうか。どれほどしたら、彼らが銃口をべつの方角にむけるようになるだろうか。〉

 マラケシュで6カ月すごしたあと、オーウェル夫妻は1939年3月末にイギリスに戻った。
 6月には(さして好みではない)ゴランツ社から『空気を求めて』が出版される。初版は2000部で、すぐに再版となり、3000部ほどが売れた。この月、ロンドンの父が82歳で亡くなる。死ぬ前に不和が解消できたのが、なによりも幸いだった。
 オーウェルの自宅は、ロンドンから北に50キロほど離れたハートフォードシャーのいなかウォリントンにあった。ここで、かれはさまざまな文芸エッセイを書きはじめる。「チャールズ・ディケンズ」、「鯨の腹の中で」、「少年週刊誌」など。
 そして、9月1日、ナチス・ドイツがポーランドに侵攻し、開戦となった。
 それから1週間もたたないうちに、オーウェルは中央登録局にすすんでみずからの名前を登録する。祖国が危機におちいれば、戦うのはとうぜんだと考えていた。
 1940年末に発表されるエッセイ「右であれ左であれわが祖国」では、その心情をこう説明している。

〈愛国心は保守主義となんら関係ない……チェンバレン首相[前内閣]下のイギリスにも明日[いまのチャーチル内閣、そしてその後]のイギリスにも忠誠をつくすのは、日常生活のひとつの確たる現象なのだ〉

 このころオーウェルは、かつてヒトラーを容認し、絶対平和主義を唱えた独立労働党(ILP)から完全に離れ、かれらを「左翼の腰抜けども」とまで呼ぶようになった。
 オーウェルは社会主義者から保守主義者に転向したのだろうか。そうではない。かれは終生、社会主義者だった。資本主義と帝国主義の国家には、ずっと抵抗しつづけた。
 だが、スペイン内戦で、オーウェルはファシズムとコミュニズムの全体主義をまのあたりにしたのだ。全体主義との戦いは、いまや最大の課題と思われた。
 こうして、かれの社会主義は、新社会主義とでもいうべきものに移行する。それは愛国心に根ざしながら、全体主義と戦い、言論の自由を守り、社会的正義と公正を求める社会主義だった。
 1940年春になると、オーウェルは戦火がイギリスにおよぶことを覚悟していた。自宅周辺の畑を耕し、大量のジャガイモを植えた。
 妻のアイリーンはいなかを離れて、ロンドンではたらくようになった。それを追いかけてオーウェルもロンドンに移り、戦争遂行に役立つ仕事を探しはじめた。身体検査にも出頭したが、軍務に不適格と判定された。
 そのため、オーウェルはしばらく雑誌に映画や演劇の批評を書く仕事を引き受けるようになった。絶賛した映画が、チャップリンの『独裁者』だ。大衆文化についてのエッセイも数多く書いた。まさに書きまくったといってよい。
 6月、ドイツ軍はフランスを占領した。軍務につけなかったオーウェルも国土防衛軍に加わる。万一、敵がロンドンに侵入した場合、市街戦を戦う市民兵組織だ。8月には大空襲(ブリッツ)がはじまる。ロンドンのイーストエンド埠頭が炎上し、グリニッジも空襲を受けた。
 大空襲はつづく。ダンケルク撤退戦で兄を失った妻のアイリーンは、このころすっかり落ちこんでいた。
 そんななか、オーウェルは猛烈な勢いでタイプを叩きつづける。書評や映画評に加えて、年末にはアメリカの独立左派の文芸誌『パーティザン・レビュー』から「ロンドン便り」執筆の依頼が届き、それを引き受ける。
 1941年2月にはエッセイ集『ライオンと一角獣』を刊行、1万2000部以上が売れるヒットとなった。オーウェルはマルクス主義に汚染されない社会主義運動、「妥協の伝統と国家の上にある法の信頼」にもとづくイギリス型社会主義を称揚した。
「トリビューン」のコラムはまだはじまらない。
『ライオンと一角獣』で名声を得たオーウェルは、BBC(英国放送協会)から声をかけられ、1941年8月から2年間インド向けのラジオ放送を担当するようになったからである。それは制約の多い、検閲を通さねばならないやっかいな仕事だった。かれなりにファシズムと戦うためにはじめた仕事だったが、枠づけられた戦時放送に縛られている自分に次第にうんざりしてきた。
 オーウェルはBBCに辞表を提出し、やっと解放される。そして、「トリビューン」のスタッフに加わって、まさにその名のとおり、「気の向くままに」(As I Please)というコラムを書くようになるのだ。まだ戦時統制がつづいていたが、これからは書きたいことを書くつもりだった。
 今回は、そのコラム集について紹介しようと思ったのだが、そのとば口でくたびれてしまった。また、気が向けばということにしよう。

nice!(8)  コメント(0) 

ビルマのエリック・ブレア [人]

img176.jpg
[ビルマ時代のブレア。後列中央]
 世の中が不安になってくると、なぜかこの人のことが気になる。
 エリック・ブレア。1903年に生まれ、1950年1月に46歳で亡くなった人だ。
 その伝記を読んでみた。
 19歳のブレアがイギリス人警察官としてビルマ(現ミャンマー)に赴任したのは1922年11月のことだ。当時のビルマはイギリスの植民地で、インド帝国に属していた。
 ブレアはイギリスの名門、イートン校を卒業したのに、オックスフォード大学やケンブリッジ大学(日本なら一高から東大に行くようなもの)に進まず、植民地の警察官になった。たぶんに家庭の事情がある。
 家は裕福でなかった。高校での成績も悪く、大学の奨学金をもらえそうになかったことが、進学を断念したひとつの理由だろう。イートンでのエリート教育にもうんざりしていた。
 仕事先にビルマを選んだのは、たぶんわけがある。エリックの父は定年でイギリスに戻るまで、インドのアヘン局に務めていた。ベンガル地方で生産されるアヘンを管理するのが、その仕事だった。
 フランス人とイギリス人のあいだに生まれたエリックの母は、ロンドンで生まれ、ビルマ第3の都市、モーラミャインで育った。その実家は材木業と造船業を営んでいた。
 つまり両親はインドで出会ったのだ。
 エリックは1903年にネパールとの国境に近いインドのちいさな町モティハリで生まれた。だが、1歳になるかならないかで、母親は父親を単身インドに残したままイギリスに引き揚げてくる。
 幼年期から少年期をすごしたのはテムズ川のほとりにあるヘンリー・オン・テムズ(オクスフォードシャー)である。有名私立に入学できたのは、頭がよくて、奨学金をもらえたからだ。
 エリック・ブレアにとって、ビルマはなじみのない土地ではなかった。かれが就職するころ、父はすでに定年を迎え、イギリスに戻ってきていたが、一家にとって、ビルマを含むインド地域は、いわば第二のふるさとだったといってよい。
 植民地のイギリス人警官は、いわば行政官で、現場に出動して、犯人を逮捕するような危険な仕事に従事したわけではない。各地に分散した駐在地で、数千人にのぼる現場の巡査を指揮するのがおもな仕事である。それでも、警官になるというのは、ちょっとびっくりする。
 若いブレアにとって、遠いビルマはみずからの冒険心と好奇心を満たす絶好の場所と思えたのかもしれない。だが、じつはそこは決して安全な地ではなかった。イギリスの支配にたいする反発は強かったし、ダコイツと呼ばれるギャング団も横行していた。
 そんなことも知らないままインド帝国警察警視補見習としてビルマに着任したブレアは、まずラングーン(現ヤンゴン)から北部のマンダレーに向かい、州警察訓練学校で、ほんものの植民地警察官になるため2年間の訓練を受けることになった。
 異国情緒に満ちていたにもかかわらず、マンダレーはブレアの心を引きつけなかった。
「マンダレーはどちらかといえば不愉快な街である」と書いている。そこは5つのPからなる町、すなわち、パゴダ、パリア(不可触民)、ピッグ(ブタ)、プリースト(僧侶)、プロスティチュート(売春婦)の町だった。そして、なによりも、かれ自身、その地を支配するイギリス人であることに罪悪感と自己嫌悪を覚えるようになった。
 ブレアは丸5年、ビルマで警察官として勤務した。訓練学校を出てからは、5つの地区を転々と回った。最初の任地はラングーン(現ヤンゴン)の西130キロほどにあるイラワジ川デルタのミャウンミャだった。勤務成績は優秀だった。
 半年後、その勤務ぶりが認められ、ラングーンにほどちかいトゥワンテという分署の警察隊をまかせられる。まだ二十歳そこそこなのに、召使いにかしづかれる生活だったという。
 さらに半年後、こんどはラングーン北郊のインセインに異動となる。ここには2500人以上の囚人を収容する大きな刑務所があり、数多くの死刑が執行されていた。
 しかし、イギリス人警察官は死刑の立ち会いを求められていたわけではなかった。当時を知るあるビルマ人は、ブレアが死刑に立ち会ったのは、インセインではなく、次の勤務地下ビルマ、モールミェンの刑務所で、しかもそれを志願したのではないかと推測している。モールミェンはビルマ第3の都市で、かれはその分署で、あらゆる警察活動の責任を担っていた。
 のちにブレアは、死刑執行のディテールをエッセイにえがくことになる。
 その囚人はヒンズー教徒で、はだけた褐色の背中を見せながら、両腕をしばられたまま、ぎこちない足どりで絞首台に向かっていた。濡れた砂利のうえに残された足跡、ひょいと水たまりを避けた瞬間が、目にきざみついた。

〈その瞬間まで私は、健康かつ冷静な人間の一命を断つのがいったいどういうことなのかついぞ考えたためしがなかった……その頭脳は依然として記憶し、予知し、判断をくだしていた──水たまりについてさえ判断をくだしていたのである。死刑囚とわれわれはともども歩く一団の人間であり、おなじ世界をその目で見、耳で聞き、肌で感じ、理解していた。するとわずか2分間で、突如ガタンという音とともにわれわれのひとりが消え失せてしまうのだ──ひとつの精神が断たれ、ひとつの世界が断たれる。〉

 この描写は何度もくり返し、読まれるべきだろう。
 モールミェン管区でブレアは、もうひとつの大きな出来事を体験する。
「私は大勢の人からにくまれていた──わが人生のなかで、そのようなことがわが身に起こるほど重要人物だったのは、この時期だけである」と、皮肉っぽく書いている。
 大勢の人からにくまれていたのは、ブレアがイギリス人のエリート警察官だったからである。だが、かれもにくんでいたのだ。支配者と被支配者を、そして、自分自身も。心の奥底には、不条理な感情が渦巻いていた。
「心の片隅ではイギリスの統治を難攻不落の暴政だと思った……もうひとつの片隅ではこの世に最高の喜びがあるとすれば、仏教僧のどてっ腹に銃剣を突き刺してやることだと思った」
 そんなとき事件が発生する。
 モールミェンのチーク材置き場では、木材を運ぶのに何十頭もの象が使われていた。そのうち一頭の象が、群れを離れて、とつぜん町なかをふらふらしはじめたのだ。
 暴走して、人を傷つけたわけではない。通報を受けて、ブレアが駆けつけたときには、迷い象はのんびり水田にたたずみ、口もとに草をつめこんでいた。象使いが連れて帰れば、それで事は収まったはずである。
 しかし、そうはならなかった。ぞくぞくと集まってきた人たちは、もっと派手な始末を期待したのだ。人のいうことをきかない迷い象には、処罰が与えられなければならない。ビルマの群衆は、象が撃たれて倒れるシーンをわくわくしながら待ち望んでいた。

〈白人(サーヒア)の旦那は白人の旦那らしくふるまわなくてはならないのだ。決然とした態度を見せ、はっきりした意思のもとに物事をしかとやってのけなければならない。〉

 ブレアは「ただまぬけに見えるのをさけたいばかりに」象を撃ち殺す。これは、かれにとっても一生忘れられない思い出となった。
 最後の勤務地となったのはマンダレーの北220キロほどにある上ビルマのカターという町だった。イラワジ川上流にあるこの辺境の湿潤な地で、ブレアはデング熱にかかった。高熱がでて、首筋や肩のあたりに発疹ができ、それが直るまで数週間を要した。もうろうとした鬱状態のなかで、かれはビルマの日々をふり返り、大英帝国の実態を見直していた。
 仕事柄、ビルマでは何十人となく殺された男たちの死体を見てきた。しかし、そうした犯罪による殺人よりも、公的な処刑ほど残虐なものはないと感じていた。のちにこう書いている。

〈私はいちどだけ絞首刑に処せられる男を見たことがある。千の殺人よりずっとひどいように思われた。〉

 ブレアは長期休暇を申請し、それが認められて、本国に戻る。ビルマには帰らないと決意していた。もちろん、インド帝国警察もやめる。それでどうするのか。子どものころからあこがれていた作家になろうと思っていたのである。
 ビルマのことを書くつもりだった。だが、いきなりは無理だった。作家としてデビューするまでに、5年の歳月を要した。
 1932年に最初の作品『パリ・ロンドン放浪記』がロンドンのゴランツ社から出版されるときにペンネームが必要になった。本が刊行されるわずか7週間前、ようやく名前を決めた。それ以降、エリック・ブレアはジョージ・オーウェルと呼ばれるようになるのである。

nice!(5)  コメント(0) 

ひとつのアンチテーゼ──西部邁『ファシスタたらんとした者』を読む [人]

img174.jpg
 西部邁は思想の人である。
 2018年1月21日日曜日、多摩川に入水し、自死した。享年78歳。
 かれの思想的自伝ともいえる『ファシスタたらんとした者』を読んでみた。
 英語のサブタイトルがついている。そこにはCeaseless but unsuccessful life of a would-be fascista と記されている。ファシスタ(英語流にいえばファシスト)になろうとして、日々努力しつつも失敗に終わった人生、ということになろうか。
 いまどき、みずからファシスタ(ファシスト)などと名乗れば、世間から白い眼でみられることはわかりきっている。テレビに出演し、さまざまな雑誌に寄稿して、それなりに人気者だったにもかかわらず、この人は孤立無援という立場に自分を追いこむ癖があった。それが思想を担う者の宿命なのかもしれない。
 最大限、好意的に解釈すれば、ファシスタとは思想の力で人を動かし、人と結束して、世界の(国家ならびに社会の)秩序を立て直そうとする者を指している。ファシストといわず、ファシスタと名乗ったのは、みずからをムッソリーニやヒトラーの同類とみなされたくなかったからである。しかし、かれが左翼や近代主義者と対峙する立場を貫こうとしていたことはまちがいない。
 かれは日夜、世界の秩序を立て直すべく日々奮闘努力した。だが、世に受け入れられず、失意のまま人生を終えようとしていた。これ以上老いさらばえ、周囲に迷惑をかけるのは忍びがたい。そのため、自死の道を選ぶというのが、かれの心境だったのだろう。
 とはいえ、ファシスタというのは、あくまでも反語ではなかったのか。かれは発言者であり、表現者であったが、組織者ではなかった。結社や党や軍事組織をつくろうとしたわけではない。人間性や思想にたいし、行動と統制を優先するほんもののファシスタは、もっと残忍な存在である。
 とすれば、ファシスタという自己規定は、さほど意味をなさない。それは国家社会にたいしてという以上に、みずからに突きつけた刃でもあった。
 その人生をたどってみる。

   1 60年安保まで

 西部邁は1939(昭和14)年3月に、北海道の長万部町で生まれた。4歳のときに厚別村(現在は札幌市)に移った。父は長沼町にある浄土真宗末寺の末男として生まれ、産業組合(いまでいう農協)に務めていた。その父が召集されなかったのは、おそらく戦時下の物資供給に必要な人員とみなされていたためだろうという。
 厚別で覚えているのは、5月末か6月はじめに、あらゆる花が一斉に咲き誇っている風景だ。厚別は、西は大都会の札幌、東は野幌(のっぽろ)原生林の境に位置する。かれによれば、その住民は内地からの「移民」もしくは「棄民」のなれの果てで、つまらぬ村だった。
 1人の兄、4人の妹がいた。母の実家は長沼村の農家で、戦時中も戦後もいろいろと援助してくれた。そのおかげで深刻な餓えを知らずに育った。
 小学校前の思い出は、箱からマッチを取りだして、こすったところ、火が障子に燃え移ったことだ。それを見つけた祖母が何とか消し止めた。「この子はオトロシヤ」といわれたことを覚えている。
 1945(昭和20)年、厚別村の小学校にはいった。そのころから記憶は鮮明だ。8月15日、敗北の日がやってくる。「アメリカは吾に仇なすものなり」という感覚が芽生えたという。
 8月末か9月初めに、米軍があらわれた。少年はえらそうな様子をした米軍に敵意を燃やした。兄とともに抗議の投石を実行したという。
 2年生のとき、女の先生から「これからは民主主義」といわれて、反発を覚える。そのころから吃音がはじまる。
 元気な少年で、成績は抜群だった。しかし、戦後なるものに偽善めいたものを感じていた。それが、かれに鬱勃たる気分をもたらす。
 小学4年のころには、長靴を加工して雪の道路を走る「雪スケート」がはやっていて、熱中するが、あるとき足をひねって捻挫をおこしてしまう。それを下手に暖めたものだから、ばい菌がはいって、足首が膨れあがり、札幌の病院に入院するはめになった。
 そのころ父が左遷されて帯広に転勤となり、一家ともども帯広に向かった。小学校ではマーケットの少年やアイヌの少女とも出会った。
 成績はクラスで一番だったが、孤独感のようなものが貼りついていた。吃音を知られるのがいやなために、ほとんど失語症者のように暮らしていた。
 父はさらに根室転勤を命じられたため、職場をやめて、肥料販売会社をおこし、一家は厚別に戻った。リンチも経験するが、それをはねのける。小学校の卒業式では、卒業生総代として答辞を読まされることになった。吃音者にとっては恐怖だったが、どういうわけかすらすらと読むことができた。
 春からは札幌の中学に通うことになった。父の会社はうまくいかず、一家は貧乏生活を強いられた。10円のパン代にも事欠き、冬場もコートなしで通学しなければならなかった。
 カネがないので、なにも買えなかった。だが、幸いにもまわりの少年たちが映画代やおやつをおごってくれるのだった。こうして、かれは成績優秀だが、映画好きのいささか不良少年に育っていく。本の万引きをしたことも認めている。
 札幌南高校にはいると、1年生のときに3年分の教科書や参考書を一気に読んでしまった。それを読めば、少しは人生の見通しが開けるかと思ったからだ。2年のはじめに大学入試の模擬試験を受けてみたら、ほとんどの科目でトップに近い成績だった。
 だが、一人の女生徒と出会って、急に勉学意欲を失う。10年後にかれの妻となる人だ。事件がおこる。妹を自転車に乗せていて、けがをさせてしまったのだ。あわや死ぬかというほどの大事故だった。それから1年4カ月、かれは痴呆のようにすごした。
 高校時代の唯一の友人は、「半チョッパリ」(両親のどちらかが朝鮮人)の同級生で、朝鮮人の父はソ連軍によって銃殺されたのだという。その友人は高校を退学して土方になり、そして暴力団員に墜ちていった。
 文学書を読みふけったのもこのころだ。「少年は、世界文学なるものから『人間の不幸』の数々にかんする知識を入手し、それらの不幸の記憶だけを糧にして、いわば蛹(さなぎ)と化した」と、本人が書いている。
 一浪して東大にはいった。浪人中、ズック靴で十勝岳に登り、生爪をはがしたこともある。年末、北大にはいっていた兄の知り合い、唐牛健太郎と出会った。
 東大を受験したときは、ドストエフスキーの『罪と罰』を一睡もせずに読みふけり、かえって頭がさえて、試験に落ちる気がしなかったという。
 東大にはいるとなぜか虚しい気分に襲われた。そこで5月の終わり、自治会室を訪れ、「あの、学生運動というものをやってみたいのですが」と申し出た。
 樺美智子が先輩のお姉さんという風情だった。先輩の坂野潤治(のちの歴史学者)に共産党にはいらないかと誘われた。すぐに「はいります」と返事をしたら、かえってしかられたという。
 駒場細胞会議にもでるようになる。日教組の勤務評定反対闘争を支援するため和歌山にも行った。被差別部落の集会所にも出かけた。
 その年の暮れ、左派の学生組織が共産党から除名されて、「共産主義者同盟」が結成される。いわゆるブントである。かれはそれにもあっさり加入した。
 平和と民主にたいし、革命と自由がブントのめざす方向だった。だが、革命と自由がどんなものか、いささかの見当もついていなかった。
 1959(昭和34)年10月、日比谷野外音楽堂で開かれた安保改定反対の集会では、突然、演説するよう求められた。膝ががくがくしたが、いつもの吃音ではなく、ことばがあふれるように流れでた。以来、安保闘争が終結するまでの8カ月、かれは名アジテーターとして知られるようになる。じっさいは「敗北への予感」と「自滅への願望」がみずからを揺り動かしていたと書いている。
 11月、東大の駒場自治会選挙で、いたしかたなく委員長に立候補し、当選する。ほかの候補者が立候補資格を失っていたためだが、票のねつ造と入れ替えで当選したことを認めている。
 60年の1・16では岸渡米を阻止しようとして、羽田空港で、ブント幹部連とともに逮捕され、起訴される。4・26の国会デモに向けて、駒場ではストが成立した(だが、これも票数を数えた振りをしただけのでっち上げだったと認めている)。6・15、ブントは国会突入を呼号していた。正面からではなく、南通用門からの突入となったが、そのとき樺美智子が死亡した。
 7月3日の全学連大会で逮捕される。6・3事件でも6・15事件でもかれは起訴され、けっきょく3つの裁判で被告人となった。東京拘置所では向かいが帝銀事件の平沢貞道、右隣が雅樹ちゃん誘拐殺人事件の本山茂久だった。
 拘置所を出る11月末までの4カ月半、かれは沈思黙考するほかなかった。差し入れられた『資本論』を読むが、つくり話だとしか感じなかった。「自分は予定通りに一介の襤褸(らんる)と化し独りになって裏町に姿を隠そう」と思っていたという。

   2 革命思想から保守思想へ

 60年安保闘争の終わったあと、ブント書記長の島成郎は、3000人の職業革命家からなる秘密組織をつくろうと叫んでいた。しかし、そんなものは絵空事だと思っていた。政治の季節は終わったのだ。拘置所からでてくると、すでにかつての同志はちりぢりになり、おのれの保身に走りはじめていた。
 家からは勘当を言い渡されていた。それでもいったん北海道に帰り、家に泊めてもらい、つきあっていた彼女にも別れをつげた。
 ブントは事実上、解散となる。青木昌彦(のちの経済学者)は組織を離れ、清水丈夫と(京大の)北小路敏、(北大の)唐牛健太郎は革共同(革命的共産主義者同盟)に合流することになった。かれは「戦線逃亡する」とつげて、ひとりになった。

続きを読む


nice!(6)  コメント(1) 

西部邁『ファシスタたらんとした者』を読む(6) [人]

 著者にとって、2014(平成26)年3月の妻の死は、まるで半身をもがれるようなショックを与えた。自分は生と死のあわいにある「半死者」になったと感じた。
 左翼の学者、知識人、ジャーナリストはばかだと思いつづけてきた。民主主義、高度情報社会、したり顔のインテリや解説者が気にくわなかった。それでも自分の無力を感じていた。酒を飲んで世間話をするのは楽しいが、それにも飽きがきた。世間は煉獄なのだと思った。
 自分の発行する雑誌も孤立して、おさらばする潮時が近づいていた。もうろくと病気にどう対処するかだけが課題となった。安楽死や尊厳死などもばかげている。著者は55歳以来、シンプル・デス(簡便死)を選ぶと公言していた。最初、友人の暴力団員からピストルを入手しようとしたが、うまくいかない。そして、ついに妻に先立たれてしまった。自分のこの先を考えると、家族や社会に迷惑をかけたくなかった。かっこよく死にたいと思っていた。
 人間の時間(歴史)と空間(社会)はあまりにも複雑、広大だ。それにたいし全知を得ることなど不可能である。人間にできるのは、そのなかで、決断し、実践し、何かの規準を選び取ることだけだ。総合知に向けての努力を、著者はエッセイのかたちで表現しようとした。
 人間の意識は「総合への欲動」に突き動かされている、と著者はいう。人は一回切りの人生で、ひとつの「物語」をつくろうとするのだ。著者は他者との連帯を求めて、エッセイをつづった。それはひとつの幻想にすぎなかったが、それでも人はその幻想を生き、死んでいくしかない。
 自分の生は芽も出ず花も咲かず実も成らなかった、と著者は絶望した。著者はみずからの考えを穏健な思想だという。だから世間の支持を得られなかったとふり返る。しょせんはアウトサイダーだったと自嘲している。言論活動にもあきあきしていたのかもしれない。
 ここで、この長いエッセイはしめくくりを迎える。
 著者はみずからの遍歴をふり返り、自分はエッセイで人間と社会の全体像をせめて輪郭だけでもえがこうとしてきたのだという。仕事の中心は人性論と実践論、大衆社会・マスメディア・アメリカニズム批判、保守思想の普及からなっていた。
 著者は仮説を体系化して理論化する、いわゆる社会科学にうんざりし、体験にもとづいて知の発露をこころみるエッセイストに転じた。ケインズやヴェブレン、オルテガ、福田恆存、福澤諭吉、中江兆民などの評伝を書いた。亡き友人たちを顕彰するために一文を草した。書くことはしゃべることと同じなので、テレビや講演会にでたり、塾を開いたりもした。
 状況のただなかに身を置くと、生のアクチュアリティが実感されるように思えた。それはじゅうぶんに満足できる人生だった。
 著者がとりわけ力を入れたのが大衆批判である。というより、人を大衆として扱い、それにもとづいて、あるいはそれにおもねって、自己の思想と行動を正当化する風潮への批判である。それは知識人やマスメディア、大量情報社会やアメリカニズムへの批判につながった。だが、日々発生する果てしなき戦いにもくたびれはてた。妻の死が人生の幕引きを決意させたのだという。
 現在、世界は混迷状態にあり、第三次世界大戦の前哨戦がはじまっている、と著者は感じている。だからこそ、日本はアメリカの道具となるのではなく、みずから身を守らなければならず、そのためには核武装もやむなしと主張した。しかし、それもどうにもならないと思うようになった。
 天皇制は「半聖半俗」の虚構だと考えていた。それは日本の伝統として、長くつづく安定した文化制度だった。国家による政策決定には、宗教的儀式が必要になってくる。その点、天皇はカトリックでいう法王と同じ位置にいる。現人神ではないし、普通人ではない。
 国家がつづくためには、伝統が継承されなければならない。そのことを象徴するのが皇位の世襲なのだ。天皇は国家の歴史に時代の刻印を押す存在である。著者は女帝を否定しない。むしろ国民を統合する能力としては女帝のほうがすぐれていると考えている。
 そのいっぽう著者は天皇が平和主義や民主主義に同調する言動をすることに反対している。むしろ、日本の漂流を防ぐために、天皇と皇室はなくてはならぬ存在だと感じていた。
 神仏は信じなかった。俗世から隠遁しようとも思わなかった。信心なるものは、現世利益への執着を延長したものにすぎない。良心をつらぬいて、恬澹(てんたん)として生き、そして死ぬことだけが残された課題となった。
 世の中は現実主義的な保守とグローバル資本主義に支配される時代になっている。著者の「真性保守」思想は、右翼を喜ばせ左翼を怒らせ、また左翼を喜ばせ右翼を怒らせた。著者は市井の散人として終わるのではなく、あくまでも輝く星になることをめざした。りっぱな戦いぶりだったと思う。

nice!(8)  コメント(0)