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人口、生産、労働力──マーシャル『経済学原理』を読む(9) [経済学]

 マーシャルは労働者を資本のもとで働かされる単純労働力とはみない。労働者とは商品世界のなかで一定の仕事をはたす人びとの総体を指すのであって、その質は長い時間をかけて社会的に形づくられてきたと考えている。
 労働力の前提となるのは人口である。人口問題は古くから論じられ、さまざまな議論が重ねられてきた。一般的にいって、人口が増加すると抑制論が台頭し、逆に人口が減少すると増加論が登場する傾向がある。
 しかし、人口がマルサスの指摘するように自然増の傾向をたどってきたことはまちがいない。
 出生数は結婚によって左右される。19世紀末のイギリスでは、中産階級の結婚は比較的遅く、労働者階級の結婚は比較的早かった。
 ヨーロッパの農村では、結婚は長子にしか認められず、長子以外は結婚すると村をでなければならなかった。ヨーロッパの小農のあいだでは出生率が低かっのにたいし、広大な土地に恵まれたアメリカの自作農や移民のあいだでは出生率は高かった。
 全般的にいって、「妊娠率はぜいたくな生活をおくることによって低下」し、「精神的な過労が強ければ多くの子供を産む可能性は低くなる」とマーシャルは書いている。これは現代にあてはまりそうな定言である。
 中世においては、伝染病や飢饉、戦乱、きびしい慣行などによって、イングランドでもほとんど人口が増えなかった。急速に人口が増えるようになったのは18世紀後半になってからである。都市と産業の発達が、人口の増加をうながした。19世紀初期には、結婚率は小麦価格とともに変化した。しかし、19世紀後半では、小麦価格よりも景気が結婚率に与える影響のほうが大きくなっている、とマーシャルは指摘している。また労働者階級はその生活水準を保つために子供の数を制限するようになり、そのため人口増加率は次第に低下するようになったとも述べている。
 次に論じられるのは、人口と労働、健康の関係である。
 人間が健康に仕事をするには、肉体面、知性面、道徳面での健全性が求められる。筋肉労働も肉体だけでなく、意志の力や気力を要するのだ。
 人間の寿命は気候や食料と関係している。ほかに衣料や住居、燃料も欠かすわけにはいかない。休養もだいじである。しかし、希望や自由、そして何よりも人生の理想が寿命に影響を与える。
 19世紀初頭の工場労働者の状態が、不健康で抑圧的なものであったことをマーシャルは認めている。それを改善することを、マーシャルは経済学のひとつの課題だと考えていた。
 かつて都市の環境は劣悪だった。都会に集中する才能ある人びとが、郊外に居を定めるのはとうぜんといえる。産業が郊外に分散し、労働者がそれにともなって移動するのはもっと喜ばしい。しかし、公園や運動場ができ、住環境も改善されるようになると、都市もきっと住みやすくなるだろう、とマーシャルは期待を寄せる。
 憂慮すべき点もある。それは国民の活力が次第に失われていくことである。医療と衛生の進歩、政府の社会保障、物的富の成長、晩婚化、小家族などは、人間の活力を奪う要因だ、とマーシャルはいう。しかし、家族数が適切に抑制され、子どもたちにじゅうぶんな教育がほどこされ、都市住民に新鮮な空気と運動の機会が与えられ、実質所得の低下がおこらず、人びとに衣食住や余暇、文化が提供されるなら、過剰人口の弊害を避けて、「人間はたぶんかつて経験したことのないほど高い肉体的ならびに知性的な優秀さに急速に達することができるであろう」とも述べている。
 そのうえで、マーシャルは産業時代における労働のあり方について論じている。
 産業時代においては、どの分野の労働力にも、長い訓練が必要になってくる。機械制工場の労働は、ギルドの職人仕事とちがって、安直で容易なようにみえるかもしれないが、それでも機械をうまく扱えるようになるには、精神的な強さと自制力、知識、訓練が欠かせない。
 さらにマーシャルはいう。

〈一時に多くのことがらに気をくばり、必要な場合にはなにごとにも容易に移っていけ、なにか錯誤があった際には機敏に処置して対策をじょうずにたて、仕事の細部の変化にたいしてはよく順応し、堅実で信頼に値し、つねに余力を残して有事の際に備えている──これらはすぐれた産業人を生み出すのに必要な性能なのである。〉

 まるで、自動車を運転するさいの注意を聞かされているようだが、これはマーシャルが産業時代の労働全般のあり方について述べているのである。
 産業時代の勤労者は、こうした一般的能力に加えて、業種に応じ特化された肉体的・知的能力をもたねばならない、とマーシャルはいう。
 産業人(社会人)としての能力を身につけるには、家庭や学校の役割が欠かせない。実務につくには、普通教育に加えて、技術教育や企業内教育も必要になってくるだろう。
 マーシャルは教育の重要性を強調する。「たまたま社会の底辺にいる両親のあいだに生まれたというだけの理由で、天賦の才能を低級な仕事に空費してしまうというむだほど、国富の発達にとって有害なものはないであろう」
 教育はそれだけで天才的な科学者や有能な経営者をつくりだすわけではない。しかし、天賦の才能を無為に消耗させてしまうのを防ぐには、教育が多少なりとも役立つだろう、とマーシャルはいう。
 成果を生むかどうかはともかく、公私にわたる教育への投資は今後ますますだいじになってくる。「教育投資は大衆にとっても他の投資で一般に得られるより大きな収益機会がある」というのは、いかにも経済学者らしい。
 さらに国家であれ、一般家庭であれ、教育にカネをかけるのはムダだという意見にたいし、マーシャルは次のように反論している。「もしニュートンないしダーウィン、シェイクスピアないしベートーベンのような人が一人でも生みだせれば、高等教育を大衆化しようとして長年にわたって投じた資金も十分に回収されるであろう」
 マーシャルは中産階級と上流階級以外は、教育にさほど熱心でないことも認めている。ある職業階層から別の職業階層に急速に上昇することが、なかなか困難であることも事実である。それでも、かれは教育の力が、人びとがより有利な職種を選ぶことを可能にすると信じていた。
 暫定的な結論として、マーシャルはこう述べる。

〈他の事情に変わりがなければ、労働によって得られるであろう稼得が増大すれば労働力の増加率を高める、すなわちその需要価格の上昇は供給の増大をもたらす、と結論することはできるだろう。〉

 すぐれた労働力が社会全体により多くの収入をもたらすなら、より多くの労働力が求められるようになり、それによって賃金が上昇し、働こうとする労働者の数もさらに増えてくる。
 これはあまりに楽観的な結論かもしれない。
 しかし、マーシャルは、働く人びとの数と賃金が徐々に増えていく方向で、社会が少しずつ豊かに発展していくことを願ったのである。

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収穫逓減の法則──マーシャル『経済学原理』を読む(8) [経済学]

 長らくご無沙汰してしまったが、ここからは生産要因についての考察にはいる。
 はじめにマーシャルは生産要因を土地・労働・資本に分類する。土地とは人間にたいし自然が提供してくれるもの、労働とは人間の経済的なはたらき、資本とは財の生産に役立つ富のたくわえを意味する。
 マーシャルはこの3つの生産要因がからまって、生産、すなわち供給がどのように形づくられていくかをみていくのだが、最初に論じられるのが土地、すなわち自然要因についてである。
 マーシャルはいう。

〈人間は物質を創造する力をなんらもっていず、ただそれを有用な形態に組みかえることによって効用を創造するだけなのである。そして人間によってつくられた効用は、その需要が増大すればその供給も増大させることができる。それらは供給価格をもっている。〉

 ここでは人間の経済の仕組みが説明されている。人は物質そのものを創造するわけではない。物質を人に有用なものへと変換することによって効用をつくりだすのだ。そして、貨幣経済においては、その効用が一定の価格で売買されて、生産・消費・分配のシステムが機能し、それを通じて、人びとはみずからの生活を築き、向上させてきたというわけである。
 しかし、そもそも人間に有用なものたりうる物質を提供する自然、とりわけ土地がなければ(それは海洋や鉱山であってもいいのだが)、そもそも経済は成り立たない。「地表のある区域を利用することは、人間がなにごとかをおこなうためには、その始原的な条件となる」と、マーシャルも書いている。
 土地とのかかわりといえば、まず思い浮かべるのが農業だろう。
 土地が植物ないし動物の生育を支えるには、水と太陽をはじめとしてそれなりの条件が必要である。人間はこれに肥料などを加えることによって、土壌の肥沃度を高める。さらに土地を改良したり、灌漑施設をととのえたり、土壌に合う作物を栽培したりする人間の努力と工夫が、土地のより効果的な利用をもたらす。それでも、土地には本源的な特性があり、人間の努力をもってしてもいかんともしがたいものもある、とマーシャルは述べている。
 とはいえ、どのような場合にも、資本と労働の追加投入にたいする土地収益は早晩次第に減少していく。これが、いわゆる収穫逓減の法則である。
 開墾しないでも役に立つ広大な土地が存在するのなら、資本と労働を投入することによって、ときに収穫逓増が生じることもある。だが、変わらない農業技術で、同じ土地を耕作しつづけるかぎり、収穫逓増がいつか収穫逓減に転ずることはまちがいない、とマーシャルは論じる。
 新開地に入植する場合、最初に耕作されるのは、いうまでもなく耕作に適した肥沃な土地である。ただし、農業や牧畜では、それぞれ適した土地があって、肥沃度の意味合いは異なってくるだろう。
 また、耕作法の変化や需要の変化が、土地の評価を変えることもある。たとえばクローバーを植えて地力を養成してから小麦をつくったほうが、よく小麦が育つことがわかると、それまで見向きもされなかった土地ががぜん注目されるようになる。木材の需要が増えたことによって、山の斜面の地価が上がることもある。ジュートや米への需要が低湿地の開発を促すこともある。また人口の増加によって、かつては無視されていた土地が開発されていくこともある。このように考えていくと、肥沃度というのは絶対的な尺度ではなく、相対的な尺度にもとづく、とマーシャルは述べている。
 収穫逓減の法則を打ち出したのはリカードだが、リカードは肥沃度を絶対的なものととらえたために、その法則をあまりに単純化してしまい、多くの誤解や批判を招くことになった、とマーシャルは論じている。肥沃度というものは、周辺の人口の変化や、市場の広がり、新たな需要の発生などによって、その評価が異なってくる。
 逆にいえば、土地にたいする収穫逓減の法則は、きわめて限定的な条件のもとで成り立つのである。それは耕作可能地がかぎられていて、しかも生産方法が変わらない場合に、追加労働によって得られる収穫が次第に減少していくという仮説なのである。マーシャルはこうした前提を抜きに、この法則を拡張することには慎重でなければならないとしている。
 にもかかわらず、収穫逓減の法則が重要なのは、それが生産の「不効用」という考え方を導く土台になっているからである。同じ生産方法のもとで、いくら追加労働を投入しても、生産量の増加割合は次第に減少していく。それは農業に限らない。
 マーシャルはたとえば次のような事例を挙げている。

製造業者がたとえば3台の平削盤をもっていたとすれば、これらの機械によって容易になされる作業の量の限界があるはずである。もしこの限界以上のことをしようと思えば、その機械をつかう平常の作業時間のあいだ時間をむだなくつかうように細心の努力をしなくてはならないし、たぶん超過勤務をもしなければなるまい。このように機械を適正な操業状態までもってきてしまえば、それからあとは努力を注ぎこむにつれて収益逓減が起こる。そしてついには古い機械を無理して稼働させるより新しく4台目の機械を購入したほうがかえって経費の節約になるほど、純収益は減ってしまう。〉

 これは農業における収穫逓減の法則を、製造業にも拡張したケースといえる。
 マーシャルはおそらく、次のような構想をいだいている。古典的な収穫逓減の法則が成り立つのは、限定的な条件のもとにおいてのみである。しかし、一定の条件のもとでは、収穫逓減の法則は、農業だけでなく、生産(供給)一般の法則に拡張することができる。
 こうしてみると、供給面における収穫逓減の法則は、需要面における限界効用逓減の法則とペアになっていることがわかる。
 それにしても、生産面では労働者が搾取され、消費面では消費者が高い品物を買わされるというマルクス主義的な発想とは逆に、生産面では生産者が「不効用」の発生を危惧し、消費面では消費者が消費者余剰を得るというマーシャルの考え方はなかなかユニークである。

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限界効用と消費者余剰──マーシャル『経済学原理』を読む(7) [経済学]

 需要についての考察が進んでいる。
 マーシャルは「需要の弾力性」という考え方をもちだしている。
 価格の変化が購入量に大きな変化をもたらす場合は、需要の弾力性は高く、逆にちいさな変化しかもたらさない場合は、需要の弾力性は低い。
 需要に所得階層があることもマーシャルは認めている。富裕な人びとは何本でも高級ワインを買えるが、貧しい人びとは安い焼酎しか買えない。
 しかし、一般的傾向として、「とにかく財がひろく一般に使用されるようになれば、その価格が相当低落すればその需要の大幅な増加がまもなくおこってくる」といえるだろう。
 とはいえ、価格が最低限にまで下落していくと、需要の弾力性も低くなっていく。つまり、需要が飽和状態に達してしまうのだ。その度合いは財によっても所得階層によってもことなる。
 マーシャルは当時のイギリス社会に即して、需要の弾力性を分析しているが、社会的地位を誇示するための上流階級の消費は、量的にはかぎられているものの、見境がないとしている。これにたいし、庶民にとっても、塩や砂糖はすでに需要の弾力性が低くなっているとしている。
 食肉やミルク、バター、羊毛、タバコなどは、値段を安くすればまだ需要がある。上等の果物、上質の魚などは、労働者には手が届かないが、中流階級にとってはまだ需要が見込めるなどとも述べている。
 小麦などの必需品は例外で、需要の弾力性は低い。もともと安い食料だが、多少値段が上がっても必需品は購入せざるをえないし、逆に値段が下がっても余分に購入しようとは思わないからである。
 いっぽう、魚や野菜などは値段の変動が激しくても、耐久性がないため、需要は非弾力的である。住宅については、必要性だけではなく社会的地位とも関係しているので、需要がなくなることはない。ごく日常的な衣服は需要に飽和点があり、価格を安くしても、需要が増えない、などとも述べている。
 水や塩にはじまって、必需品、住宅、医師や弁護士のサービス、高級品、高級肉、音楽会にいたるまで、商品にはことごとく需要があり、また需要の弾力性の大小をともなう、というのがマーシャルの見方である。
 マーシャルはエンゲルが分析した年収別の家計支出についても紹介している。
 それによれば所得の低い階層ほど、食料に支出する割合(いわゆるエンゲル係数)が高く、教育や保健衛生、娯楽にかける割合が低いというものだ。逆に所得の高い階層は、エンゲル係数が低く、教育や保健衛生、娯楽にかける割合が高い。
 経済学者はこれまで生産や企業に重点を置き、消費や家計の分析をおこたってきた。マーシャルの研究は、需要、とりわけ消費者需要の重要性を指摘したものである。
 いっぽう、マーシャルは消費研究の困難さは時間にあるとも論じている。その理由は、第1に時代によって貨幣の購買力が変動するからである。第2に景気変動によって消費行動が変化することも挙げられる。第3に人口と富の成長が消費行動に変化をもたらす。第4に新商品の登場も消費に大きな変化をもたらす。

〈ある財の価格の上昇が消費に与える影響があらわれつくすには時間がかかる。消費者がその財の代わりに代替品をつかいなれるにも、生産者が代替品を十分多量に生産しつづけるようになるにも時間がかかる。新しい財をつかう習慣が形成されるにも、それらを経済的に使用する方法を発見するにもまた時間がかかる。〉

 にもかかわらず、経済学者は消費の世界でおこりつづけている変化を注意深く見極めねばならない、とマーシャルはいうのである。

 商品世界においては、欲望は欲望そのものとしてはあらわれない。貨幣にもとづく需要のかたちをとってあらわれる。貨幣を使うにあたっては、諸商品の効用がはかられ、どの商品にどれだけ支出をすれば、効用の減少を防ぎ、全体としての効用を最大化することができるかが判断されることになる。
 購入される商品は、消費財とはかぎらない。長期にわたって利用される財やサービスもあるだろう。そこには不確実性の問題や、現在から将来にわたって、いかに価値を配分するかといった問題も生じてくる。
 人は「一般に将来の快楽がただ確実でさえあれば、これを得るために現在の同じ大きさの快楽をすすんで犠牲にする」と、マーシャルは書いている。貯蓄や年金保険などが、これにあてはまるだろう。
 しかし、将来などほとんど考えない人もいる。かれらは「忍耐心や克己心が弱いために、すぐに手にはいらないような利便にたいしてはほとんど興味を示さない」。「いな、同じ人でもその気分がいつも同じではなく、性急に現在の享楽を求めることもあれば、将来のことを考え、そう無理なく延期できる享楽ならすべてこれを繰り延べてしまおうとすることもある」
 つまり、需要には価格弾力性だけではなく、それが促進されたり繰り延べられたりする時間的(あるいは世代的)弾力性もあるのだ。
 将来の利便性を考慮して、現在の価値を「割引く」ことは、消費行動においてよくみられる。その割引率の大きさは貯蓄性向に影響を与える。そのいっぽう、より効用のある耐久財を求めるために、現在の消費を抑制するといった消費行動も存在する。
 耐久財(たとえば土地)を求める欲望には、はかりしれないものがある。

〈これら耐久的な財に関連してこそ所有のよろこびが感ぜられるのだ。所有しているという感情だけからの狭い意味の通常の快楽よりも強い満足を味わう人々が少なくない。……所有それ自体のよろこびのほかに、その所有によって得られる見栄からくる喜びがある。〉

 人間には所有の欲求とよろこびがある。それを無理やりに抑えつけることには無理がある、とマーシャルは考えている。
 将来の利便と現在の価値を比較することは不可能である。とはいえ、貨幣によって、将来の利便にたいする割引率を測定することはできる。たとえば100万円の貯蓄(投資)が、20年後に122万円になるとすれば、そのさいの利率(割引率)は年1%と想定されていることになる。
 また耐久財の価値は、1回の使用で消耗してしまうわけではなく、将来にかけ多くの効用を生みだすことになるから、その価値は長期の使用による効用の総計にほかならない、とマーシャルは述べている。
 ここで、マーシャルは価格(価値)と効用の関係を取りあげる。
 消費者はじゅうぶんな効用が得られると考えて、ある価格の商品を購入する。価格にくらべて得られる効用が低いと思われたら、その商品は購入されないだろう。したがって、商品が購入されるさいには、だいたいにおいて、得られる効用が失う貨幣(価格)より大きいと考えられる。これをマーシャルは「消費者余剰」と呼んでいる。
 前に挙げた例でいうと、ある消費者が3000円なら1袋しか買わないコーヒー粉が、2600円なら2袋買うとすれば、そこに消費者余剰を認めているということになる。ほんらい6000円するものが5200円で買えるのだ。2200円なら3袋なのに1400円なら5袋という場合も同じだ。ほんらい1万1000円のものを7000円で買うことができたのだ。
 これはまるでトリックのようにみえるけれども、その関係は一個人の場合よりも、市場全体にあてはめたほうが、より納得のいく説明となるだろう。
 ある財の限界効用は全体効用を示すものではない。たとえば水や塩は人間にとってなくてはならないものであり、その全体効用は茶やコーヒーより高い。しかし、水や塩は茶やコーヒーより豊富にあって、(ブランドの塩や水は別として)その限界効用は低く、価格も安い。価格に作用するのは、全体効用ではなく、あくまでも限界効用なのである。
 マーシャルは、同じ1万円のもたらす満足が、貧乏な人と富裕な人とでは異なることも指摘している。たとえば年金額が1万円減ったとしても、貧乏な人と富裕な人とでは、その受け止め方はずいぶん異なる。
 またパンの価格が上昇すると、貧しい労働者の家計は苦しくなり、それでも食肉や嗜好品への消費を切り詰めて、よけいにパンを買うといった特殊な反応も出現する。
 しかし、マーシャルは経済学が扱うのは、あくまでも一般的傾向だと論ずる。「消費者余剰論を適用しようとするのは[すなわち需要曲線の分析は]主として、とりあげている財の価格が慣行的な価格の近傍において変動したのにともなって起こる変化に関することがらである」
 マーシャルは消費論において、価格と需要の関係を論じ、そのさい限界効用や消費者余剰という概念にもとづいて、需要曲線の法則を導きだした。これはかれの大きな功績である。
 消費論を終えるにあたって、マーシャルは、いかにも賢者らしく、富と幸福との関係について論じているので、それを紹介しておくことにしよう。
 こんなことを書いている。

〈人の幸福はその外部的な条件よりも、かれ自身の肉体的・知性的かつ道徳的な健康によって左右される……[さらに忘れられがちなものが]自然の天与の贈り物である。〉

 健康と自然の恵みは、物質的な富からだけでは得られない。
 とはいえ、「ある人の富のたくわえは、その使用などがあってはじめて幸福をもたらす手段となるのである」。
 人は生存を維持できる所得を得ることではじめて満足し、その所得が増加するにつれて、その満足度を増していく。逆に所得が減るにつれて、満足度は減っていく。これをマーシャルはベルヌーイの説だとしている。
 しかし、人はしばらくたつと新しい富によろこびを感じなくなってしまう。逆に、富を失うと、大きな苦痛を感じる。
 富はやっかいだ。ありすぎると、かえって肉体的な力が衰え、神経の疲れが増し、感受性が失われることもある。
 文明国では、人生の理想は欲望や欲求にながされて物質的な富を求めるのではなく、静穏な心の落ち着きを得ることだという仏教的な考え方をする人もいる。だが、いっぽうで、新しい欲望と欲求があってこそ、人は努力するのだと考える人もいる。
 マーシャルはこの両方の考え方を批判する。前者のような仏教的な考え方は、努力の放棄につながる。しかし、ひたすら貨幣を求めて働く後者のような考え方は、まるで「人生のために働くのではなく、働くために生きる」ようなものだと述べている。
 マーシャルの人生哲学は次のような箇所に言いあらわされる。

〈真理はむしろ、人間性にはなんらかのつらい仕事をやり、なんらかの困難にうちかつことがないと、急速に退化していく傾向があり、肉体的にも道徳的にも健康であるためには、なんらかの苦しい努力を傾けることが必要であるというところにあるであろう。人生の充実のためには、できるだけ多くの資質をできるだけ高く展開させ活動させることがたいせつである。それが実業上の成功であれ、また芸術と科学の発達であれ、あるいは同胞の生活の向上であれ、とにかくなんらかの目標を熱意をもって追求することのうちに深いよろこびがあるのだ。〉

 マーシャルは人に見せびらかすための誇示的な消費を批判する。むしろ「労働者階級の富が増大すれば、それは主として真の欠乏をみたすためにつかわれるであろうから、人間生活の充実と品位を高めることになる」と述べている。
 富の追求に意味があるとすれば、それは贅沢ぶりをひけらかすためではない。すべての家族に生活と教養のための必需品が行き渡り、公共的な建造物や公園、美術館、図書館、競技場などが充実し、それらをだれもが利用できるようにするためだ、とも述べている。
 さらに、将来の消費のかたちとして、すべての人が安い粗悪品をやみくもに選択するのではなく、高賃金労働でつくった美しく機能的な優良品を適量購入するようになれば、世の中はもっとよくなる、とも考えていた。
 このあたりは、マーシャルがまさに「冷静な頭脳と温かい心」の持ち主だったことを示している。

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消費の問題──マーシャル『経済学原理』を読む(6) [経済学]

 商品とは貨幣によって購入することのできるモノやサービス、情報、コトをさしている。
 商品世界では、そうしたモノやサービス、情報、コトが限りなく拡張していく。そのかんに、古い商品が新しい商品に取って代わられることもあるし、長いあいだ昔ながらの商品がそのまま珍重されることもある。
 激しく変遷する商品の歴史はそのまま人びとの生活史とつながっている。その背後にはどのような力がはたらいているのだろうか。
 商品世界は貨幣とともにはじまる。だが、こうした商品世界が本格的にはじまるのは、せいぜい16世紀からで、それが全面的に開花するのは19世紀になってからだといってよい。とりわけ20世紀にはいってからの進展ぶりはめざましかった。
 商品世界とそれ以前の世界とを比較対照することは重要である。そのことによって、商品世界のもつ意味や問題もあきらかになってくるだろう。さらに、商品世界が今後どうなっていくかを想像することもできる。
 ところで、このブログではマーシャルの『経済学原理』を読もうとしている。
 いまは予備的な考察や基本的概念の整理を終えて、第3編「欲望とその充足」にはいるところである。
 商品世界は生産だけで成り立っているわけではない。消費がなされなければ、その世界は回っていかない。
 商品世界を生みだす最大の要因は資本である。だが、その資本も、資本がつくりだす商品が流通し、販売され、購入されなければ、資本として維持できない。
 生産、すなわち供給の側だけで、商品世界がつくられているわけではない。消費、すなわち需要の側の動きがあって、はじめて商品世界は成り立つのである。
 マーシャルは、そのことを強く認識していた。そして、そのうえで、消費・生産・分配からなる商品世界の構造をさぐろうとしていたのだといってよい。
 とりわけ、かれが意識したのが、消費と生産、すなわち需要と供給のぶつかる場である市場の問題だった。
 しかし、その前提として、消費、すなわち需要の問題が検討されなければならない。
『経済学原理』第3編の「欲望とその充足」は、需要がどのように成り立っているかを考察しようとしたものである。
 ここで、若干われわれの問題意識をつけ加えておくと、近代において、消費・生産・分配からなる経済の循環構造、いいかえれば分離と結合からなる経済の仕組みが生まれるのは、貨幣と商品によって生活世界が形成される商品世界が社会の基本となることによってである。
 商品世界の実体は商品と貨幣からなり、それを支えているのが消費・生産・分配からなる経済構造だといってよい。商品と貨幣には、いわば消費・生産・分配の構造が隠されており、商品と貨幣は対になって商品世界を動かしている。そのことをまず踏まえておいてもよいだろう。
 それはさておいて、最初にマーシャルは「最近にいたるまで需要すなわち消費の問題はいささかなおざりにされてきた」と論じている。
 その原因は、第1にリカードが生産費に力点をおいて交換価値を規定してきたこと、第2に最近は数理的な思考が進んできて、需要についての綿密な分析が必要になってきたこと、第3に人びとの幸福や福祉と消費がどのように関係しているかを吟味しなければならなくなったためだとしている。
 とはいえ、消費、すなわち欲望とその充足は、人間の経済生活の一面であって、それだけを取りあげてすませるわけにもいかないと強調することも忘れてはいない。
 未開人にくらべ、現代人の欲求は多種多様、かつ大量に事物を求めるようになり、事物の品質の向上や、事物の選択の範囲の拡大をも望むようになった、とマーシャルは論じている。
 最初の重要な一歩は、火の発見だった。火によって、多様な食料を調理することを学び、それによって食品の種類も量も次第に増えていった。
 衣服にたいする欲求は、自然の欲求にとどまらず、風習や地位、それに自分をよりよく見せようとする欲望に支えられている、とマーシャルはいう。
 住宅は雨露をしのぐだけが目的ではない。人びとはより快適な住宅、「多くの高次な社会的活動をおこなうための要件」としての住宅の拡充を求めつづける。
 さらに、人間の欲求は衣食住にかぎられるわけではない。文学や芸術、音楽、娯楽、旅行、運動なども欲求の大きな要素である。
 また人間には優越性への欲求もある。「[よりよいものを求めるという]この種の欲求こそ最高の資質、最大の発見を生みだすのに大きな貢献をするのであるが、またそれらにたいする需要の側面においても少なからぬ役割をはたすのだ」と、マーシャルはいう。

〈おおざっぱに言えば、人間の発展の初期の段階ではその欲望が活動をひき起こしたのであるが、その後の進歩の一歩ごとに、新しい欲望が新しい活動を起こしというより、むしろ新しい活動の展開が新しい欲望を呼び起こしてきたとみてさしつかえないようである。〉

 原則的に、マーシャルは、欲望は「努力と活動」から導きだされたもので、重要なのはむしろ「努力と活動」のほうであり、欲望の充足はその結果、あるいは補完物だととらえている。このあたりはいかにもマーシャルらしい。
 次にマーシャルは消費者需要について取りあげる。流通業者や製造業者が生産目的で、何かを購入したとしても、それは最終的には消費者需要によって規制されている。「したがって、すべての需要の究極の規制要因は消費者需要にある」
 効用と欲求は相関しているが、欲求は測定できない。「その測定はある人がその欲求の実現ないし充足のために支払おうとする価格を介しておこなわれる」
 ここで、マーシャルは個々人の欲望の法則、ないし欲求を満たす効用の法則について論じる。
 ここで持ちだされるのが欲望飽和の法則、すなわち「効用逓減の法則」である。
「ある人にたいするある財の全部効用はかれのその保有量の増加につれて増大していくが、保有量の増加と同じ速度で増大していくわけではない」
 そこには限界効用(marginal utility)が発生する。誤解されやすいが、ここでいう限界とはあくまでも(最終的な)追加という意味である。つまりある財にたいする追加購入によって生じる効用が限界効用である。
 ある財の消費にあたっては、限界効用逓減の法則が成立する。
「ある人にたいするある財の限界(追加)効用はかれがすでに保有するその量が増大するにつれて逓減していく」
 追加の効用が逓減するというのは、たとえばビールは2杯目より、最初の1杯がうまいという意味である。
 人間の消費行動が、はたして限界効用逓減の法則によってのみ説明できるのかどうかは疑問の余地がある。それは仮説にとどまっているとみるべきだろう。
 だが、ここで限界効用逓減の法則がもちだされるのは、欲求は測定できず、それは価格によってしか表せないという次の展開を導くためなのである。
 効用の大きさは具体的な数字で表せるわけではない。それが数量で表せるとしたら、経済においては価格によらざるをえないということになる。
 いま、たとえばある銘柄のコーヒーの粉1袋が3000円だとする。ある人は1年のうちにこれを1袋しか買わない。かれがこれを2袋買わないのは、追加の1袋の効用が3000円の価値があると認めていないからである。
 この3000円の価格を、マーシャルは「限界需要価格」と名づけている。
 ところが、いまコーヒーが何らかの理由で値下がりして、1袋3000円ではなく2600円になったとしよう。すると、ある人は1年にコーヒーを1袋ではなく、もう1袋買うようになるかもしれない。そこでは、ある人にとって、新たな「限界需要価格」が逓減する限界効用を満たすものとなっているからである。
 限界効用が逓減すると仮定すれば、価格と需要について、たとえば次のような関係が成り立つ。

   値段   コーヒー
  3000円    1袋
  2600円    2袋
  2200円    3袋
  1800円    4袋
  1400円    5袋

 縦軸に価格をとり、横軸に数量をとって、これをグラフに表せば、右下がりの需要曲線がえがけるだろう。
 マーシャルはこれをひとりの需要にかぎらず、市場全体の一般市場についても拡張できるとする。
 それは日々の消費財だけではなく、耐久財についてもあてはまる。耐久財はいったん購入すれば、一定の時間がたたなければ、次の追加購入はなされないものである。ところが、その値段が下がれば、それまで耐久財の購入をためらっていた人が、それを購入しようと決断し、それによって需要が高まる。
 こうして、一般的には次のようにいうことができる。

〈大きな市場──そこでは富裕なものも貧しいものも、年とったものも若いものも、男も女も多種多様な嗜好・気性および職業をもった人々もたがいに混じりあっている──においては、個々人の欲望の特殊性はたがいに相殺しあって総需要の比較的規則的な階差を生みだしていくであろう。一般的に使用されている財の価格がたとえわずかでも低落すると、他の事情に変わりがなければ、その総売上高を増加させる。〉

 ここから、マーシャルは一般的な需要法則を導きだす。

〈売却しようとする量が大であればあるだけ、購入者を見いだそうとするには供給しようとする価格を低くしなくてはならない。あるいはいいかたを換えると、需要される量は価格の低落によって増大し、価格の上昇によって縮小するのだ。〉

 マーシャルは、この一般的な需要法則を、(競合商品の発達を含め)商品世界全体の広がりのなかで、さらに考察していくことになる。

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いくつかの基本用語──マーシャル『経済学原理』を読む(5) [経済学]

 断続的に読み進めている。われながら集中力のないことには、あきれるほかないのだが、いまのような刺激の強い時代には、興味があちこち移るのもいたしかたない。しかし、いつかは全体をまとめなおしたいと思っている。
 またマーシャルの「原理」に戻ってきた。
 第2編で、マーシャルは経済学の基本用語を定義するところからはじめている。きょうは、それをごく簡単にまとめておく。
(1)富
 富は財からなるといってよい。
 財は物質的なものと非物質的なものに分類することができる。非物質的なものは、主に人的なものである。
 ここでマーシャルは「自由財」という用語をもちだす。それは自然によって与えられ、だれもが自由に利用できる財のことである。しかし、現在のように、経済が発展してくると、「自由財」という概念は、再検討の必要が生じている。
 それはともかく、ある人の富は、私有権をもつ物質的な財と、人的関係(契約や権利)にもとづく非物質的な財からなる。つまり、個人の富は「物質的ならびに人的な富」からなる、とマーシャルはいう。
 だが、人は私有していない財からも便宜を得ている。すなわち、自然環境や社会環境(軍事的安全保障や道路、水道、ガス、社会福祉なども含む)からである。
 自然環境はともかくとして、社会環境は私有されない「公共財」とみなすことができる。こうした公共財は国民の公有財産だが、音楽や文学作品、科学的知識や発明も、ある面では公共財にちがいない、とマーシャルはいう。
 したがって、国富は個々人の富の総計から成り立っているわけではなく、むしろそれ以上のものである。それは世界の富に関してもいえる。世界の富は、それぞれの純国富を合計したものではない。たとえば大洋が地球全体の富であることを考えれば、世界の富は国富の総計よりも大きい、とマーシャルは論じている。
 財は価格であらわすことができる。そして、マーシャルは、価格とは貨幣で表現された財の交換価値にほかならないと注記している。
 なにはともあれ、私有財産にとどまらず、公共財の大きさに富の豊かさの尺度を求めたところに、マーシャルの真骨頂があるといえるだろう。

(2)生産、消費、生活水準
 人間は物質をつくりだせない。つくれるのは効用だけだ。「別のことばでいえば、かれの努力と犠牲によって物質の形態としくみを変化させて欲求の充足によりよく適合するようにするだけなのである」と、マーシャルはいう。
 農民や漁民や職人が効用をつくりだすように、八百屋や魚屋や家具商などの商人も商品を移動し、配置することで効用をつくりだしている、とマーシャルは主張する。商人が不生産的とはいえない。マーシャルによれば、生産とは効用をつくりだすことにほかならないからだ。生産的労働と不生産的労働をめぐる議論はばかばかしいという。
 いっぽう、人間が消費するのも効用だけである。家具にせよ何にせよ、消費によって、人はその物質自体を消尽しているわけではなく、商品の効用を使用し、味わっているにすぎない。
 財は人の欲求を直接満たす消費財(たとえば食品や衣服など)と、間接的に欲求を満たす生産財(道具や機械)に分類することができる、とマーシャルは述べている。
 労働とは、なんらかの効用を生みだすことを目標にしてなされる精神的・肉体的活動を指す。したがって、労働はだいたいにおいて生産的活動であり、召使いの労働とてけっして不生産的ではない。
 生産の目的は消費である。そして、消費は生産を促す。そのような消費がなされることを、マーシャルは生産的消費と名づけている。
 かつて必需品とは、生活を維持するのに必要かつ十分なものを指していた。だが必需品の水準(言いかえれば生活水準)は時と場所によって異なる。その水準を下げることは、多くの損失をもたらす。
 マーシャルは現在(20世紀はじめ)のイギリスにおいても、通常の農業労働者、あるいは都市の未熟練労働者が、次のような必需品(生活水準)を満たせるようにすべきだと述べている。
 それは、数室つきの住宅、下着とあたたかい衣服、清浄な水、肉と牛乳と茶をふんだんにとれる食事、一定の教育と娯楽、主婦が育児と家事を適切におこなえる自由時間というものだ。さらに慣行として、ある程度の嗜好品も必需品だとしている。
 労働を神聖視せず、消費を重視し、生活水準の上昇をめざすところに、マーシャル経済学の性格がにじみでている。

(3)所得、資本
 貨幣経済において、所得は一般に貨幣形態をとる。
 いっぽう、所得を得るために、企業は資本を必要とする。資本は工場や建物、機械、原材料、従業員への支払い、営業上ののれんを確保するためなどに用いられる。
 企業の純所得は、粗収入から生産経費(原材料費や賃金など)を控除したものである。個人営業の場合も、この考え方は成り立つ。
 純所得から借り入れの利子を差し引いたものが純収益となる。純収益が得られない場合、企業は営業の続行を断念するだろう、とマーシャルは書いている。この純収益は利潤と呼ばれる。
 企業の年間の利潤は、年間の経費にたいする収益の超過額である。また、資本に対する利潤の比率は利潤率と呼ばれる。
 企業活動には、さらに地代(レント)が発生する。これは土地などの自然要素の借り入れにたいして支払われる費用である。加えて、機械など人工の設備にたいする借り入れ(レンタル)にたいしても、費用が発生するが、これは地代と区別して、準地代と名づけよう、とマーシャルはいう。
 次にマーシャルは資本の中身に立ち入り、これを消費資本と補助(手段)資本に分類している。消費資本とはいわば賃金にあたる部分である。これにたいし、補助資本は労働を補助する材料、すなわち原材料や道具、機械、建物から構成される。
 いっぽうで、資本はJ・S・ミルが提案したように、運転(流動)資本と固定資本に分類することもできるという。賃金や原材料から構成される運転資本が1回ごとにその役割を終えるのにたいし、機械や工場などから構成される固定資本は、その耐用期間に応じて、商品をつくりだす。
 さらにマーシャルは、実業家の観点からだけではなく、社会的視点から所得について考察する。
 所得とは資産を利用することによって得られる報酬であり、それは一般に貨幣所得のかたちをとる。
 生産の3要素は土地、労働、資本であり、そのそれぞれが資産だと考えられる。したがって、地主は土地、労働者は労働、資本家は資本を資産として利用することによって、それぞれの所得を獲得する。その所得は地主なら地代、労働者なら賃金、資本家なら利潤というかたちをとるだろう。
 こうした所得(純所得)を総計したものが社会所得、すなわち国民所得となる。国民所得は(年間の)富の流れ(フロー)をあらわす尺度である。
 マーシャルはこう述べている。

〈貨幣所得すなわち富の流れは一国の繁栄を計る一つの尺度となり、しかもこの尺度は、十分信頼できるものではないけれども、それでもある意味においては富のストックの貨幣表示額という尺度よりもすぐれている。〉

 マーシャルは現在でいう国民総所得、すなわち国民総生産の考え方を、はじめて導入したということができる。
 しかも、経済指標としては、国民所得のほうが国富よりもすぐれているとした。なぜなら、国民所得はすぐに消費できる財貨に対応しており、現在の豊かさの度合いを示す指標だからである。
 ここでもう一度整理しておこう。
 国富は富のストック、国民所得は所得の(1年間の)フローを示す概念である。
 国富は純資産の総計からなる。資産は不動産その他の財産、貯蓄、保有株などからなり、個人や企業、国家が所有する純資産を総計したものが国富となる。
 アダム・スミスの『国富論』は、国民の富をいかに増やすかを論じた著作とみることもできる。しかし、じっさいにスミスが強調したのは、資本の役割についてだった。だが、スミスの時代には、国富と国民所得のちがいがさほど意識されてはいなかった。
 マーシャルは国民所得こそが主な経済指標であると主張することで、経済の新たな目標を示した。かれにとっても、資本が重要であったことはまちがいない。資本は需要と供給に応じて、資産のなかから取りだされる。だが、マーシャルにとって、資本の目的は、単に企業(資本家)の所得を増大させることではなく、国民所得全体を潤すことだったのだ。
 そのことは、最初に強調しておいてもよいだろう。

経済法則──マーシャル『経済学原理』を読む(4) [経済学]

 資料を集め、整理し、解釈し、それをもとに推論をおこなう。それはほかの科学と同じように、経済学でも用いられる手法だ、とマーシャルはいう。帰納と演繹はどちらも欠かすことはできない。
 ときには、新しい事実を確認することも、既知の事実の推論を吟味しなおすことも必要になってくるだろう。
 科学的分析からは法則が導かれる。その前提となるのは、きわめて精密な条件である。
 人間の行動は多様で、不確かだから、そこから精密な命題をとりだすのはむずかしい。とはいえ、人間行動の傾向についても、何らかの命題はとりだせるはずだ、とマーシャルは考える。
 マーシャルによれば、経済法則は次のように定義することができる。

〈経済法則、すなわち経済的傾向に関する命題は、その主要な動機の強さが価格によって測定できるような行為に関連したところの社会法則なのである。〉

 経済にからむ人間行動は、価格によって左右される傾向があり、ある条件のもとなら、一般にこうなると予測される命題が経済法則として取りだされることになる。
 ただし、経済法則は道徳からは切り離されているし、それが人間的に正しいとはかぎらない、とマーシャルはいう。
 しかも、経済法則は一定の条件のもとにしか成り立たないから、それはあくまでも仮説というべきものである。
 さらに、「経済的な分析と推論とはひろく適用されうるものであるが、それぞれの時代それぞれの国はそれに固有の課題をいだいており、社会状態が変動するたびに新しい経済学説の展開が要求される」。
 経済学者はどのようなテーマを取り扱うべきか。
 これについても、マーシャルははっきり書いている。

〈富の消費と生産、ならびに分配と交換、産業と交易の組織、金融市場、卸小売外国貿易、および雇主と従業員の関係──これらを、とくに現代においてうごかしている原因はなんであるのか。これらすべての運動はたがいにどのように作用し反作用しあっているのか。これらの究極の傾向は即時の傾向とどうちがうのか。〉

 経済全体の仕組みと流れを理解することが経済学の目標とされている。そこには何らかの経済法則がはたらいている。さらに、マーシャルは時間の概念を導入し、長期と短期の動きを射程にいれていたことがわかる。
 ほかにも、価格と欲求の関連、富と福祉の関連、生産性と所得の関連、経済自由と独占、租税が社会にもたらす影響などといった問題もある。
 経済学は理念からではなく現実から出発する、とマーシャルはいう。
 ただし、現実は単に肯定されるだけではない。それは変更可能なものとして措定される。
 ここでマーシャルはイギリスの当面する問題として、つぎのような課題を挙げている。
 経済自由を展開するにあたって、その効果を促進し、その弊害を抑制するには、どのようにすればよいか。
 分配の平等化は望ましいにちがいないが、そのさい経済的指導者の活力をそぐことなく、貧しい人びとの所得を増大させるには、どのようにすればよいか。
 労働者がより高レベルの仕事をおこなえるようにするために、どのような教育をほどこすのがよいのか。
 文明生活に欠かせない公共的活動は、どのようなやり方で充実させていけばよいのか。
 個人や会社の業務にたいする政府の規制はどの程度まで認められるのか。
 経済学はこうした社会的生活にかかわる問題についても、一般的な指針を出せるよう努めねばならない、とマーシャルはいう。ただし、その方向性が政治的価値観にゆがめられてはならないことはいうまでもない。
 経済学者には知覚と想像力、理性が求められるが、とりわけ重要なのは、問題の所在を探る想像力だ、とマーシャルは強調する。
 たとえば、失業を減らし、雇用を安定化させるためにはどのような対策をとるべきか。こうした問題を検討するさいにも、経済学者はあらゆる経済知識に加え、力強い想像力をはたらかせることが必要である。
 最低賃金の増加が、雇用者、労働者、産業にあたえる影響を考察する場合も、広い知識と想像力、そして時に批判力が必要になってくるだろう。それは、その他の経済問題を検討するさいも同様だ、とマーシャルはいう。
 ところで、マーシャルがユニークなのは、経済学者には同情心がだいじだとしていることである。それも「とくに同じ階級のものばかりでなく、他の階級のものの境遇に身をおいて考えてみることのできるような非凡な同情心」が必要だと述べている。これも一種の想像力にはちがいない。
 マーシャルは経済自由に力点を置いた。そして、その経済自由を実現する鍵は、産業組織(企業ないし会社)のあり方にあると考えていた。それが、どのようなあり方なのか、いまは問わない。
 だが、マーシャルにとって、経済自由が反社会的な独占を意味していなかったのはたしかである。かれはまた、「全民衆の福祉こそ、すべての個人的努力および公共的政策の究極の目標」だと考えていた。財産権を廃止すべきだという主張にたいしては懐疑的だった。そうした主張にたいしては、「慎重で柔軟な態度をとるのが、責任ある人間のなすべきことだ」と述べている。
 こうした論及のなかから、かれの経済自由がどのようなものであったかを、ある程度推察することができる。

経済学とは何か──マーシャル『経済学原理』を読む(3) [経済学]

 経済学の主な目的は、ビジネスの世界で活動する人間の行動を研究することだ、とマーシャルは述べている。そして、ビジネスに取り組む姿勢は、人さまざまだが、「それでもなお、日常の業務にとっては、その仕事の物質的報酬たる(貨幣)収入を得ようとする欲求こそが最も着実な動機」なのだ、と明言している。
 人の欲望は、直接には測定できない。しかし、500円だせば、たとえば、たばこを買い、お茶を飲み、タクシーに乗るなどの、どれかができる場合、人は時と場所に応じて、どれかを選択するだろう。
 つまり、貨幣を通じて、人は何らかの欲望を満たすことを期待している、とマーシャルはいう。その欲望は、自己の肉体的満足に向けられているとはかぎらない。他者に何かを与えることが喜びだとすれば、それもまたひとつの欲望にちがいない。
 しかし、いずれにせよ、その動機はともかく、経済学的にみれば、重要なのは何らかの欲望に裏づけられた貨幣の動きである。「経済学は貨幣による尺度の研究だけに終わってはならないが、それでもこの研究はその出発点ではあるのだ」とマーシャルはいう。
 貨幣のもたらす快楽や、それを失う苦痛は、時と場所、あるいは人によって異なる。同じ金額でも、所得の大小によって、快楽と苦痛の大きさは異なるだろう。しかし、それにもある傾向はみられる。統計で所得が同一の人を集め、均(なら)してみれば、貨幣による快楽や苦痛は、ほぼ同じ程度と推測することができる、とマーシャルはいう。経済学は統計学でもある。
 同じ10万円でも、それをもらったり、なくしたりした場合、貧しい人と金持ちでは、その意味は大いに異なる。しかし、両者とも、10万円より20万円のほうが、その満足度あるいは打撃は、より大きいといえるだろう。その点、数字の大小は、それなりに共通の意味をもっている。
 ビジネス社会で、日常生活の中心をなしているのは、生計の資を得ようとする部分だといってよい。人びとは貨幣を求めて行動する。それはけっして低級な行動ではなく、現代社会での一般的な人間行動である、とマーシャルはいう。
 貨幣は「一般的な購買力」であり、「物的富にたいする支配権」を得るための手段として追求される。それは、たしかに競争かもしれない。しかし、ビジネス社会は、正直と信頼があって、はじめて成り立つ、とマーシャルは論じている。
 さらに、貨幣を求める行動は、苦痛だとはかぎらず、大きな楽しみのもととなることも多い、と指摘するのが、いかにもマーシャルだ。なぜなら、ビジネスから得られる成果が、人の競争本能や権力本能を満たすからである。
「商工業者はその資産をふやそうとする欲求よりも商売がたきにうちかとうとする希望によってうごかされることが多い」と、マーシャルは書いている。
 こうした発言をみると、マーシャル経済学は心理学でもあることがわかる。
 さらにマーシャルはいう。
 人が職業を選ぶさいには、それなりの社会的地位が得られる職業を選ぼうとするだろう。人はまわりから協賛を得るとともに侮蔑を避けようとするものである。また人は、自分の生存中も死後も、家族をゆたかに暮らさせたいと思うものである。経済学は貨幣の動きを分析する学問にはちがいないが、貨幣所得の背後には、人びとのこうした行動があることを忘れてはならない。
 初期の経済学者は、個人の行動の動機にあまりに重点を置きすぎた、とマーシャルはいう。これからは共同事業や公共福祉、協同組合運動なども含め、社会生活全体を経済学の対象としなければならない。
 最後にマーシャルは、経済学とは何かについての暫定的な結論として、こう述べている。

〈経済学者は個人の行動を研究するが、それを個人生活よりも社会生活に関連させて研究するのであり、したがって気質や性格についての個人的な特殊性はほとんど問題としない。〉

 つまりマーシャルは、個人的な特性を捨象して、集団としての人びとに焦点を合わせ、かれらの貨幣取得努力や貨幣使用活動を考察することを、経済学の目線としたのである。
 そして、経済活動にはある程度の予測が可能だと考えた。たとえば、ある場所で事業をはじめるとして、人を雇う場合、その能力に応じて、どれくらい給与が必要かはおのずから決まってくる。また、何かの事情で生産が減った場合、価格がどの程度上がるか、また価格の上昇が生産にどのような影響を与えるかも予測することができる。
 経済学はこうした単純なケースから出発して、次にさまざまな産業の配置や遠隔地間の交易条件、さらに景気変動の影響、税の価格への転嫁などについても考察し、その動きを予測することもできる、とマーシャルはいう。
 経済学があつかうのは、理念化された「経済人」ではなく、ありのままの人間だ、とマーシャルはいう。人間は利己的であり、虚栄心や冷酷さをもつ反面、仕事をやりとげることに誇りをもち、家族や隣人、祖国のために自分を犠牲にすることもいとわない。そうした血と肉をもった人間を対象にするのだというのは、いかにもイギリス経験論に裏づけられた見解である。
 最後に、経済学は事実と記録にもとづき、検証に耐えるものでなくてはならないとも述べている。これも大いに心すべきことだ。

経済自由──マーシャル『経済学原理』を読む(2) [経済学]

 前回から間があいてしまった。
 前回は『経済学原理』を読むにあたっての心構えみたいなものを記してみたのだが、きょうからはいよいよ本文を読むことにする。
 といっても、マーシャルは悠々と論を進めており、本論にはいる前に、まず「予備的な考察」が長々とつづく。こちらは暇人なのだから、あせらずにのんびり読むことにしよう。
「序論」において、マーシャルは「経済学は一面においては富の研究であるが、他の、より重要な側面においては人間の研究の一部なのである」と書いている。
 経済が人の日常生活に与える影響はきわめて大きい。人は経済活動をいとなむなかで、みずからの性格や思考、感情を形成していく。
 所得に大小があるのはやむを得ない。しかし、極度の貧困は「肉体的・知能的および道徳的な不健全さ」をもたらす、とマーシャルはいう。

〈過重に働かされ、教育は十分にうけられず、疲れはてて心労にさいなまれ、安静も閑暇もないために、[人が]その性能を十分に活用する機会をもちえないというようなことは、甘受してよいものではない。〉

 貧困の研究は、経済学の大きな課題だ。
 貧困はなくしていかなければならない。「すべての人々が、貧困の苦痛と過度に単調な労苦のもたらす沈滞的な気分から解放されて、文化的な生活を送る十分な機会」を与えられなければならない。
 そのための条件をさぐることが経済学の目標のひとつだ、とマーシャルは書く。
 歴史的にみれば、現代の産業生活、生産、分配、消費の方法は、わりあい新しいものだ。その特徴はひと言では言い表せない。
 独立独歩と競争というのも、そのひとつの側面にすぎない。なぜなら、共同と結合もまた、産業生活の特徴だからである。さらに「利己心ではなく、慎重さ」こそ、現代の特徴になっている、とマーシャルはいう。
 共同体のきずなは弱まったかもしれないが、家族のきずなは強まり、またよその人びとにたいする差別は減り、同情が増してきたのも、現代の特徴である。人間が以前にくらべて無情冷酷になってきたという証拠は見当たらない。
 また、現代の商取引についても、以前よりもはるかに「信頼にこたえようとする習慣と不正を退けようとする力」が強まった、とマーシャルは書いている。
 貨幣の力が強くなる以前の古代のほうが、人は安楽に暮らしていたという作り話をマーシャルは信じない。人びとの生活状態は、現代のほうがよほどすぐれている。
 競争を非難する人は多いが、競争があるからこそ、社会の活力と自発性が維持されている面もある。競争を規制すれば、一団の特権的な生産者が形成され、「有能なものがみずから新しい境遇を切り開いていこうとする自由を奪ってしまう」恐れがある。
 協同社会の推奨者は、理想社会のもとでは、人びとが私有財産を放棄し、だれもが一般の福祉のために全力を尽くしてはたらくだろうと主張する。だが、宗教的熱意にかられた小集団を除いて、普通の人間が純粋に愛他的行動をとりつづけるのは、ほぼ不可能だ、とマーシャルは断言する。
 そのうえで、現代の産業的生活を言いあらわすには、競争という表現がいやなら、「経済自由」という言い方をしたほうがいいかもしれない、とマーシャルは提言する。
 この経済自由が確立されるまでには、長い歴史を要した。しかも、18世紀末に、産業と企業の自由が解き放たれた当初は、多くの弊害をともない、その改革は冷酷で、荒々しいものとなった。しかし、それはほんらいの経済自由の姿ではない。
 経済自由は、「知性と決断力にとんだ精神が……忍耐強い勤労精神と結合」することによって花開く。そして「全国民が経済自由の教説をうけいれるようになってはじめて新しい経済時代の夜明けが訪れた」のだ、とマーシャルは論じている。
 経済自由は身分制社会にたいする産業社会の思想を意味するが、自由という概念はなかなかむずかしい。しかし、いまそれについて拘泥するのは、やめておこう。
 いずれにせよ、ここで、マーシャルは社会主義ではなく自由主義の立場をとることを表明している。そして、その自由主義社会のもとでは、企業と家計が経済自由をもって、独立独歩のなか、競争しあいながらも、たがいに信頼する関係が築かれることが想定されている。

マーシャル『経済学原理』を読む(1) [経済学]

 例によって、ツンドク本の整理である。
 若いころに買った本がたまっている。
 友人にいわせると、買いこんだ本は5冊に1冊読めればいいほうで、読めなかった本は、ときどき本棚を眺めて、感慨にふければ、それでじゅうぶんだという。
 たしかに、そうかもしれない。
 しかし、引っぱりだしついでに奥付をみると、1979年8月20日の第14刷になっている。
 買ったのは少なくとも35年以上前のことだ。
 たぶん、あのころは経済学を勉強しようと思っていたのだ。
 しかし、サラリーマン生活の多忙にまぎれて、とうとう読まずじまいで、ここまで(人生の最終ラウンドまで)きてしまった。
 ツンドク本になってしまったのは、おそらく理由がある。
 いきおいこんで買ったものの、まったく歯がたたなかったのか、身過ぎ世過ぎにまかせて、興味を失ってしまったのか。それとも、買っただけで、読んだ気になってしまったのか。
 まあ、何はともあれ、身辺整理のつもりで、本棚からこの本(4分冊)をとりだしてみた。
 ざっと目をとおすだけにしても、はたして読み切ることができるか、はなはだ心もとない。それに、こちらは経済学のシロウトときている。
 学問的なレベルは期すべくもない。ただ、興味本位に読むだけである。
 訳者は馬場啓之助で、その解題によると、アルフレッド・マーシャル(1842-1924)はロンドンで生まれ、マーチャント・テーラーズ・スクールをへて、ケンブリッジ大学に進んだ。父親はイングランド銀行の出納係だった。数学の才能に恵まれ、大学では倫理学を学び、徐々に経済学に興味をもちはじめる。
 1879年に『外国貿易と国内価値の純粋理論』、1882年に妻との共著『産業経済学』を公刊、1885年にケンブリッジ大学の政治経済学教授に就任する。
 就任講演の一節はいまもよく知られている。
「経済学者は冷静な頭脳と温かい心を持たねばならない」
 1881年から執筆をはじめた『経済学原理』は1890年に出版された。1908年には健康悪化のため教授職を退く。しかし、その後も経済学の研究をつづけた。ピグーやケインズはかれの弟子である。
『経済学原理』は原著で800ページ。日本語の翻訳で約1300ページ。数学の付録もついている。
 構成は全6編。

 第1編 予備的な考察
 第2編 若干の基本的概念
 第3編 欲望とその充足
 第4編 生産要因 土地・労働・資本および組織
 第5編 需要・供給および価値の一般的関係
 第6編 国民所得の分配

 マーシャル自身は1890年に出版された『経済学原理』を第1巻と考えていた。
 予定していた第2巻、第3巻はついに刊行されることがなかった。
 第2巻、第3巻は、産業と商業、金融の歴史と現状、それに将来について論じるはずのものとなるはずだった。
 その構想の一部は、1919年刊の『産業と貿易』、および1923年刊の『貨幣、信用、および商業』に結実している。
 ぼく流にいえば、マーシャルは商品世界の仕組みについて論述しようとしたといえる。
 マーシャルは、自分の仕事をスミスやリカード、ミルの延長上にあると考えていた。そこには国家という重要な要因が欠落しているが、のちに弟子のケインズは、その欠落を補う仕事をすることになるだろう。
 初版の序文で、マーシャルはこう書いている。

〈イギリスの伝統にしたがって、著者は経済学の職分は経済的事実を収集・整理・分析することであり、観察と経験から得た知識を応用して、種々な原因の短期および究極の結果はどうであろうかを判断することであるとの見解をとり、また経済学の法則は直説法で表示された諸傾向に関する命題であって、命令法による倫理的戒律ではないとの見解をとった。経済法則および推論は、良心および常識が実際的問題を解決し、生活の指針となるような規則をたてるにあたって活用すべき材料の一部にすぎないのである。〉

 ここでは政治にたいし、一歩距離を置く立場が表明されている。おうおうにして命令ないし戒律といった形態で経済を動かそうとする政治にたいし、経済が政治の思いどおりにならないのは、経済には経済の仕組みがあるためである。
 政治が経済に作用をおよぼそうとし、じっさいに作用をおよぼしたようにみえても、経済はその仕組みによって同時に反作用をもたらす。したがって、その仕組みを理解しないまま加えられた政治の作為は、長期的にはかえって災厄すらもたらすことがある。
 マーシャルは、そのことをよく理解していたといえるだろう。
 ところで、シュンペーターはマーシャルについて、『経済分析の歴史』のなかで、こんなことを書いている。

〈読者はマーシャルにおいて、単に高性能の経済学の専門技術家、深遠な学識をもつ歴史家、説明的仮説の確乎たる形成者のみならず、なかんずく一個の偉大な経済学者そのものを看守されるであろう。経済理論の技法に関するかぎり、……彼は資本主義過程の動きをよく理解していた。ことに彼は、同時にみずからも実業家であった科学的経済学者を含めた、その他の科学的経済学者の多数そのものよりも、よりよくビジネス、ビジネス問題、およびビジネスマンを理解していた。彼は自らが定式化した以上にさえ深く経済生活の切実な有機的必然性をも感得していた。〉

 シュンペーターが、とりわけ評価したのは『原理』の第5編「需要・供給および価値の一般的関係」の考察である。同時にシュンペーターは、マーシャルの本質は、晩年の『産業と貿易』と『貨幣、信用、および商業』を抜きにしては把握できないとも述べている。
 ここでは、マルクスの資本家と労働者の階級対立図式とはことなる企業論、すなわち経営者とビジネスマンの問題が考察されているとみてよい。シュンペーターはそこにマーシャルの現代性をとらえたのだった。
 日本では近代経済学の体系は、主としてワルラスとシュンペーターを通じて導入されたといわれる。そして、そのあとケインズの時代がつづいた。だから、どちらかというとマーシャルはさほど読まれなかった。
 ぼくがマーシャルを読むのは、学者的な興味からではなく、たまたま何かの拍子で、この本を買ってしまい、そのまま本棚に眠っていたからにすぎない。
 柳田国男の信奉者でもあるぼく自身は、商品世界に大きな懐疑をいだいている。とはいえ、渋沢栄一論で書いたように、日本の近代化に資本主義が貢献したことを認めないわけにはいかない。だが、それは矛盾した表記ではなく、ものごとのもつコインの裏表なのだ。
 マーシャルの『原理』を読むということは、商品世界の仕組みを理解し、それがもたらした裏面をも認識することにほかならない。そして、それは倫理的要請によってなされるのではなく、経済的・社会的・文化的事実を知ることにつながると考えている。
 そう書いてみたものの、この先ははなはだ心もとない。はたして、どうなりますやら。

ミル『経済学原理』 (まとめ) [経済学]


   1 はじめに

 ジョン・ステュアート・ミル(1806−1873)はロンドンに生まれ、3歳から父親で有名な評論家のジェームズから厳しく教育されて育った。3歳で、まずギリシャ語、8歳でラテン語、12歳で論理学、13歳からリカードの経済学を学んだという。ものすごい英才教育。しかし、本人はこれが負担だったようで、青年期にはノイローゼをわずらっている。
 17歳になった1823年に、父親の勤めていた東インド会社に入社し、次第に高い地位につくが、1858年に東インド会社が廃止されるとともに、退職した。
 東インド会社時代も著作をつづけていた。当時から名士だったといえるだろう。
 退職後はロンドンのウェストミンスター区から選挙に立候補して、保守党議員を破って、1865年から68年まで無所属の国会議員を務めている。人妻だったハリエット・テイラーとの親しい交際は、モラルにうるさいヴィクトリア朝時代の一大事件となった。ミルはのちにハリエットと結婚するが、彼女は早く亡くなる。ミルが女性の解放を唱えたのは彼女の影響が大きかったといわれる。そして、ミル自身も、ハリエットの墓のあるアヴィニョンに滞在中、感染症のため67歳で急逝する。
 自由主義者のミルは、功利主義を擁護した。功利主義といえば、最大多数の最大幸福という標語が知られている。代表的な著作に『論理学体系』(1843)、『経済学原理』(1848)、『自由論』(1859)、『功利主義』(1861)、『代議制統治論』(1861)、『女性の解放』(1869)、『自伝』(1873)などがある。
 ここで取りあげる『経済学原理』は1848年に出版され、1871年まで7回改訂されている。いまミルの『経済学原理』を読む人はあまりいないだろうが、この本は、マルクスの『資本論』と対照的に、経済学のテキストとして、当時大いにもてはやされたという。大英帝国全盛時代のこのテキストを読むことを通じて、われわれは19世紀後半に、商品世界の広がりがどのようにとらえられていたかを知ることができるだろう。
 ミルはマルクス(1818-83)とほぼ同時代人である。年齢としては、マルクスより、ひとまわり上。マルクスはほとんどミルを評価していない。リカードを読めばじゅうぶんだといっている。後世のシュンペーターも、マーシャルは評価しても、ミルは読まなくてもいいといわんばかりである。いまは見捨てられた存在といってよい。
 ここでは、ミルの経済学だけを取りあげるが、同時代に生きたミルとマルクスを比較することで、われわれは19世紀後半という時代を、複眼的にとらえることができるかもしれない。
 すべての人が幸福になれるわけではない、いまはともかく辛抱して、将来の進歩に期待するというのが、ミルの基本的な考え方だったようにみえる。それにたいして、もう辛抱できない、自分たちの世界をつくろうというのがマルクスの考えだったといえるだろうか。でも、これはあまりに浅薄なとらえ方かもしれない。先入観は禁物である。
 岩波文庫で5分冊となる本書のテーマは、5篇に分かれている。

(1)生産
(2)分配
(3)交換
(4)社会の進歩が生産と分配におよぼす影響
(5)政府のおよぼす影響

 けっこうな大冊なので、読むのに骨が折れそうである。でも、あまり厳密に考えないで、さっと眺めるというのが、学者ではないぼくの流儀だ。
 序論のなかで、ミルは、人が経済学に興味をもつのは、富に関心をいだいているからだと、実に率直に述べている。そして、まず富についての通念を批判する。
 それは、富とはカネだという考え方である。かつて、重商主義の時代においては、他国と競争し、外国貿易でより多く財貨を輸出して、カネを稼ぐことが奨励されていた。それは国内のビジネスでも同じで、より多くのカネを得ることが、経済の最終目的とされていたのである。
 たしかにカネがあれば、どんな品物でも購入できる。莫大な貨幣をもつということは、それだけ社会的な力を有するということでもある。しかし、よく考えてみれば、「貨幣は、貨幣としては、何ら欲望を満たすものではない」。それは便利な購買手段にすぎない、とミルは断言する。だから、貨幣(カネ)だけが富ではない。貨幣によって買うことのできる商品こそが富だというのが、ミルの理解のようだ。

富を定義して次のようにいうことができるであろう。富とは、交換価値を有するあらゆる有用または快適なものであると。あるいは、富とは労働または犠牲なしに欲するままの量において得られるもの[たとえば空気など]以外のあらゆる有用または快適なるものであると。

 これがミルによる富の定義である。あくまでも生産に重点が置かれている。
 しかし、富は歴史的にも地理的にも、場所によってちがいがあるという。
 狩猟生活では、獣皮の着物、粗末な小屋、その他いくつかの器や飾り物、武器となる弓矢や刀が、数少ない富であった。
 遊牧・牧畜生活の段階になると、有用な動物が馴化され、人びとは牛乳や乳製品、食肉によってくらすようになり、狩猟時代よりはるかに多くの富が蓄積されるようになる。
 この時代から農業状態への移行はけっして容易ではないが、人口と家畜の増加が土地の耕作をうながした。遊牧民と農民との争いがはじまるようになる。国家が誕生するのも、この時代である。
 古代ヨーロッパにおいては、植民と交易、遠征によって都市国家が繁栄する。やがてローマ帝国が広大な領地を築き、農奴制が生まれるが、ローマ帝国の崩壊後も、それが中世に引き継がれることになる。
 やがて農奴は解放され、生命および財産の安全が保証されるようになり、自由な農民が登場する。技術はたえず進歩し、社会の経済発展が確実なものになると、封建ヨーロッパは成熟して、商工業ヨーロッパへと移行する、とミルは記している。
 こうして近代においては、富が豊富に供給され、多くの食料が獲得され、人口も増大し、広大な植民地が形成されるようになったという。
 しかし、同じ近代工業社会といっても、その形態は国によってずいぶんことなる。富裕な国もあれば、貧しい国もある。農業のやり方、商業のやり方もそれぞれだ。
 さらに、アメリカにはいまだに狩猟社会が残っているし、アラビアや北アジアには遊牧社会があり、アジアの国々は以前と変わらないし、ロシアは封建ヨーロッパのままだし、加えて世界各地にはまだ未開民族がくらしている、とミルはつけ加える。諸国民の経済状態のちがいが、自然環境によってではなく、人間行動が原因で生じているのだとすれば、そのちがいがなぜ生じるのかを研究することが経済学の役割だ、とミルは論じている。
 そこで、生産と分配の法則、さらにそこから生じるいくつかの帰結を論じようというところから、本書はスタートすることになる。

   2 生産をめぐって

 生産には、まず労働と自然物が必要になる、とミルは書いている。
 自然物は労働を加えることによって、はじめて人間の欲求を満たすものとなる。その労働は単なる物理的な力にとどまらず、発見や加工など、さまざまな工夫をともなうことはいうまでもない。そして、人間の労働によってかたちづくられた生産物は、時に直接の自然物とは似ても似つかぬものとなって、社会にとりいれられることになる。
 ここで、注目すべき点は、生産物がつくられるさいに、ミルが労働だけを賛美するのではなく、自然力の偉大さを強調していることである。エコロジーの先駆者といわれるゆえんである。
 労働は自然を支配するかのようにみえる。しかし、じつは労働は自然物の内在的な力を引きだしているだけで、自然そのものを生みだしているわけではない、とミルはいう。労働に代えて、風力や水力、あるいは機械を利用する場合にも、そこには自然エネルギーが大いにかかわっている。
 つまり、すべての生産物は、自然の産物であるとともに、それにも増して労働の産物だということになる。そのどちらが優先しているという問題ではない。
 ただし、自然の恵みは場所によって、ちがいがある。土地にしても、水にしても、気候にしても、海や河川にしても、はたまた鉱物資源にしても、どれだけ人間に好都合なものが配置されているかは、場所ごとにことなる。こうした自然的要因が経済社会に大きな影響をもたらすことはいうまでもない。
 次に労働について考えてみよう。
 ミルはパンづくりを例にとる。
 最終的な消費物となるパンをつくるには、パン職人の労働が必要である。しかし、それだけだろうか。
 よく考えてみると、パンには小麦粉という材料がなくてはならず、さらに小麦粉ができるためには小麦が欠かせない。
 きわめて簡単に図示すると、

  パン←小麦粉←小麦

 ということになるだろう(もちろん、ほかにも材料が必要だが)。
 材料を製品に転化するための←にあたる部分の努力を、労働と理解することができる。
 しかし、この←は、実際には一直線ではなく、放射状に広がっているとみるべきである。たとえば、ひとつの農家のつくる100トンの小麦が、10の製粉所で小麦粉に加工され、100のパン屋に売られるというように。
 さらに、この製造過程には、補完的な部分も必要になるだろう。
 そもそも小麦をつくるには、農家自体の労働以前に、農場の建物や囲い、スキやクワなどの道具、溝の整備なども欠かせない。そのための材料もまた、どこかで生みだされねばならない。製粉所やパン屋にしたところで、素手で製品をつくるわけではなく、たいてい何かの道具を要するだろう。
 加えて「穀物を市場へ、また市場から製粉業者のもとへ運び、小麦粉を製粉業者のところからパン屋のもとへ運び、パンをパン屋から最終消費地へ運ぶ労働」、つまり輸送のための労働も必要となってくる。
 こうして、ひとことでパンといっても、そこには全工程でみて、最終的な商品がつくられるまで、ものすごい種類と量の労働が投入されていることがわかる、とミルはいう。
 そして、中間財・最終財、あるいは耐久財・消費財を問わず、生産物がとどこおりなくつくられるためには、労働を媒介として商品が連鎖する、商品世界のネットワークが形成されていなければならない。このネットワークは命令によってつくられたわけではなく、自然に生まれてきたものだ。人がそれぞれの場で働くことによって、つながっている社会のあり方を考えることが、ミルにとっても、経済学の目標だったのかもしれない。
 ここで、ミルは労働について、さらに詳しく観察し、その種類を以下のように8つに分類している。

(1) 食糧をつくるための労働
 現在の労働を維持するためには、前もって労働者を養うための労働が必要になってくる。こうした労働をミルは「先行的労働」と呼ぶ。先行的労働がもたらすのは食糧などの必需品である。
(2)原料や材料をつくるための労働
 労働は食糧などの生産だけに向けられるわけではない。製品を生みだすには原料や材料が必要である。ミルは石炭や金属などの鉱物、木材などの建築資材、亜麻や綿花、羊毛、獣皮などの衣服素材を例に挙げている。そうした原料は、もちろん労働によってつくられる。
(3)道具や機械をつくるための労働
 人間は労働するにあたって、かならずといっていいほど道具や機械を利用する。しかも、燃料や材料がいわば使い切りであるのにたいして、道具などは繰り返し使用することができる。労働になくてはならない道具や機械をつくりだすのも、また労働である。
(4)労働を守るための労働
 ここでミルが想定しているのは、工場や倉庫、穀倉など、産業用・農業用の施設である。商品を製造するには生産設備や施設が必要で、その設備や施設をつくるには、多くの労働を要する。ミルはこれに加えて、軍人や警察官、裁判官の労働も、社会の治安を守り、産業を保護するために使われていると述べている。
(5)輸送や分配のための労働
 ここでの労働は、陸上・水上の運輸業者の労働、船舶や機関車などの運輸機関にかかわる労働、さらには水路維持や道路建設のための労働を指している。こうした労働は「生産された物を消費すべき人々へ近づけることに使用される」とミルはいう。もちろん、商人の存在も欠かせない。生産者と商人が同一の場合もなくはないが、ふつうは生産者から独立して、行商や小売商、卸売商、大商人などの階層が発達する。ミルはかれらのことを「配給業者階級」と名づけており、その役割は「生産者階級」のはたらきを補助して、生産者と消費者を結ぶことにあるとしている。
(6)人間のための労働
 これは人間を対象とする労働で、人間を育てるために、教育をおこなったり、病気を治療したりする労働を指している。教師や医師など、教育・医療関係者がこうした労働に従事しているわけだが、ミルはこうした労働は「社会がその生産的作業を完成する手段である労働の一部、換言すれば社会が生産物のために必要としたものの一部とみるべきものである」というような言い方をしている。商品世界を維持するには、働く人びとをケアするための教育や医療などの労働が欠かせないというのである。
(7)発明、発見のための労働
 近代はとりわけ発明・発見の時代であり、それにもとづく技術が近代の産業を支えていることはいうまでもない。発明・発見は精神労働とみられがちだが、肉体労働でもある、とミルは指摘する。逆に左官の下働きでも、それは単なる肉体労働ではなく精神労働でもあるというのがミルの考え方である。いずれにせよ、ニュートンの『原理』、ワットの蒸気機関、はたまた装飾家の仕事、学者の思弁、電磁電信機、航海術にいたる、あらゆる発明・発見は、一種の労働であって、こうした知的探索こそが、「高度に生産的な部分」なのだと、ミルは考えていた。
(8)農業、工業、商業のための労働
 ここでは産業が農工商の3つの部門に分類される。第1次、第2次、第3次産業といってもよいだろう。それぞれの産業における労働は、独自ではあるけれど、ばらばらではなく、他の部門と密接に結びついている。ひとつの部門が繁栄すれば、他の部門も繁栄し、またその逆もありうるという。ミルは、その例として、カロライナの綿花栽培業者や、オーストラリアの飼羊業者が、紡績業者や織物業者と共同の利害関係をもっていることを挙げている。
 ミルによる、こうした労働の分類は、かならずしもうまく整理されているわけではない。にもかかわらず、ミルは労働を分類することによって、近代の商品世界が、人びとの労働のつながりによって形成されていることを示そうとしていた。
 さらにミルは、生産的労働と不生産的労働という、アダム・スミス以来の伝統的な労働の分類についても言及する。
 はじめに、不生産的労働という言い回しは、非難や侮辱ではなく、単なる分類上の用語にすぎないと注意をうながしている。ミルによれば、不生産的労働とは、物質的生産を目的としない労働のことである。
 ここでもミルは労働が物質を生産するという考え方を批判している。労働は物質をつくりだすわけではなく、労働が生みだすのは効用にすぎないという。
 そのうえで、ミルは、生産的労働とは、富(生産物、商品)を生みだす労働だといってよい、と述べている。ミルによれば、富とは効用を有する物質的生産物のことである。商人や輸送業者の仕事も、広い意味では生産的労働の範囲にはいる。
 これにたいし、物質的富を創造しない労働は、どんなに有用であっても不生産的労働ということになる。
 ミルの挙げる例はおもわず吹きだしてしまうものだが、たとえば魂の救済にあたる宣教師の労働が不生産的だというのは、たしかにそのとおりかもしれない。僧侶がやたら多くて、生産に従事する人口が少なければ、たとえ僧侶の実入りが多くても、社会全体はかえって貧しくなるというあたりは、いかにもミルらしい。
 そして、この関係は消費についてもいうことができて、消費のなかにも生産の助けにならない消費があるという。ミルがその例として、シャンパンやワインを挙げているのは、ぼくにいわせれば少し抵抗がある。
 すると、労働にも、「生産的消費に対して物を供給するための労働と、不生産的消費に対して物を供給するための労働」とがあるということになる。これは生産的労働と不生産的労働との区別とは、また少しことなる区別である。
 少しややこしい。
 倫理的な問題ではないといいながら、やはり「不生産的」という形容詞は、やや分が悪いようだ。生産的労働と不生産的労働の区別がはたして必要なのかは、やや疑問である。
 とはいえ、ミルはここで助け船をだして、こんなふうに述べている。

しかしながら、豊かな国においてその年々の生産物の大部分が不生産的消費の需要を満たしているのを見て悲しむのは、大きな間違いというべきである。……大きな余剰があって、それをこのような目的に使用しうるということ、およびそれがこのように使用されるということは、まことに喜ぶべき事柄にほかならぬ。

 もっとも、余剰が不均等に分配され、一部の富裕層だけが不生産的な消費を享受しているとしたら、それは問題だ、とミルは指摘している。
 このあたりに、ミルの社会意識を感じ取ることができる。

   3 資本について

 ミルは生産をおこなうには、労働と自然力だけではなく資本が必要になってくると書いている。これはミルが資本主義の擁護者というわけではない。資本主義であろうがなかろうが、生産には資本が必要だというのである。
 資本とは何か。資本は即貨幣ではない。貨幣はそれだけで資本であるわけではなく、何かと交換されて生産に用いられて、はじめて資本となる、とミルはいう。建物や機械、原材料をそろえる資金、それに労働者を雇う資金も資本といってよい。
 つまり、資本とは、これから事業をはじめるにあたって、「新規の生産を営むための基金」だ、とミルは書いている。ただし、生産は「生産のための生産」を目的とするわけではないから、資本とは「新規のビジネスを営むための基金」と解釈したほうがよいだろう。
 資本家はその資本によって、さまざまな手配をし、目標である商品をつくりだして、ビジネスをはじめる。ミルは資本家が不生産的支出にではなく、生産的支出に資本を投じることに大いなる意義を見いだしている。
 次にミルは資産と資本を区別する。資産は資本の前提になり、資産の額は資本の額より大きい。
 資本とは商品をつくりだすための基金だから、いわばフローであり、これにたいし資産はいわばストックと考えられている。
 いずれにせよ、資本は豊富な資産のなかから生みだされる。そして、近代の特徴は、資本が生産基金として回転しつづけ、労働者を雇用するとともに、新たな商品を次々とつくりだして、みずからの存続をはかることにあるといってよいだろう。
 人類社会は、近代にいたるまで、商品に埋もれて生活する時代を経験してこなかった。
 資産家と資本家は重なることが多いが、ほんらいは異なるものだとミルはいう。工場を営んでいる資産家は、資本家だが、遊んで暮らしている資産家は資本家ではない。
 ところが、資産家が自分の財産を、農業家や工業家に貸して何らかの事業を営ませ、それによって利子を得たとすれば、その資産家は資本家になる。要するにここでは、商品の生産に結びつく基金が資本ととらえられているのである。
 次にミルは資本に関するいくつかの根本命題を挙げている。
 それを列挙してみる。

(1)資本なくして雇用はない。資本によって雇われる労働者は足りないときも余っているときもあるが、一般に資本の増加は雇用の増加、ないし賃金の増加に結びつく。
(2)資本は略取によってではなく貯蓄によって生まれる。消費を超える生産分の増加、すなわち利潤が資本を増やす源である。
(3)資本は商品をつくりだすために消費されるのであって、貨幣として退蔵されたものや蕩尽されたものは資本ではなくなる。だが、資本によってつくられた商品の価値は、利潤とともに償還され、それが資本の回転を保証していく。資本の増加は、社会や個人を豊かにしていくことにつながる。
(4)資本は保存によって維持されるのではなく、絶えざる再生産によって維持される。言い換えれば、生産過程に投入されなくなった資本は、いずれ消えてなくなってしまう。建築物であれ機械であれ、「各種の資本の大部分は、その性質上長き保存に耐えない」。いっぽう、天災や人災によって生じた災禍が、人口が減らないかぎり、すみやかに回復されるのは、資本が再生産能力をもつからである。
(5)資本は商品にたいする需要を見込んで労働者を雇用するのであって、それが見込めなければ、単に労働者を雇用することはない。しかし、労働者を雇用するのは、あくまでも資本であって、商品を購入する消費者ではない。したがって、資産家は奢侈品などへのムダな出費をやめて、資本を形成し、それによって労働者を雇用すべきである。労働者を救うのは国家の救貧法ではない。産業が発展し、労働者が雇用され、その賃金が上がってこそ、労働者の生活は豊かになる。

 これを読むと、ミルは経済を動かすのは資本であり、資本が持続し、蓄積されることによって、労働者の雇用も増え、生活世界に提供される商品も豊富になり、社会全体が豊かになっていくと考えていたことがわかる。貴族や資本家が奢侈な生活にふけるのは愚の骨頂だと思っていた。かといって、資本のための資本を礼賛していたわけではない。資本の意義は、労働者の生活を向上させ、より豊富に商品を生みだすところにあるとみていた。しかし、資本によって、社会が無限に豊かになるとも考えていなかったのである。
 ここで、ミルは資本を流動資本と固定資本に分類している。
 原料や賃金など、「生産においてただ一度の使用によって、その役目の全部を果たしてしまう」のが流動資本である。
 これにたいし、建物や機械、その他の生産用具など、生産過程において「多かれ少なかれ永続的な性格」と「耐久的形態」を備えているものが固定資本である。とはいえ、固定資本も消耗するから、日ごろの手入れや一定期間での更新が必要になってくる。
 商品は、流動資本と固定資本を組み合わせることによって生産される。そして商品の販売によって実現される価値は、流動資本の全額と固定資本の損耗分、それに利潤を加えた金額を満たすものでなければならないという。
 固定資本の増加が、流動資本を犠牲にしておこなわれる場合、具体的には機械の導入によって、労働者の雇用が抑制され、場合によっては労働者が解雇されるケースがあることをミルも認めている。
 しかし、それはしばしばあることではないという。
「なぜかといえば、固定資本の増加の割合が流動資本のそれよりも大きいというような国は、おそらくないからである」
 さらに「およそ改良というものは、それが社会の総生産物および流動資本を一時は減少させることがあるとしても、結局は両者を増大させる傾向をもつものである」と述べている。
 こうして、ミルは「機械の発明は労働者に結局利益を与える」という楽観的な結論に達する。マルクスの悲観とは対照的である。

   4 生産性をめぐって

 労働、資本、自然が生産要因であることを論じたあと、ミルは生産性がどのように決まるのかについて考察をめぐらせていく。
 生産性を考えるうえで、最初に想定されるのは、自然の特典である。土地の肥沃度や気候、それに資源の豊富さ、地理的な位置などが、生産の促進に大きな影響をもたらす。
 次が労働のエネルギーである。ミルは怠惰を嫌い、人は「当面の仕事に熱心に秩序立って専念するという性質」を養うべきだとした。
 技能と知識も欠かせない。技能と知識が、道具や機械の発明と使用につながり、人間の活動効率を高めるからである。
 ミルは普通教育によって、民衆の知性や徳性が高まることを期待していた。それによって、人びとはたがいに信頼し、理解し、助けあえるようになるのであって、共同作業をおこなうさいには、こうした相互信頼が欠かせないと考えていた。
 さらにミルが重視するのは、社会の安寧である。社会において、人びとは安心して生活できねばならない。そのためには「政府による保護」と「政府に対する保護」が必要になってくる。人間社会において、生命、財産の安全と言論の自由は、守られなければならない最低条件であり、それを脅かす暴虐な政府は否定されねばならないということである。
 そのうえで、ミルは協業について論じる。
 協業とは労働の結合であり、協業が労働の生産性を増大させることはまちがいない。単純な協業は目に見えるが、複雑な協業は目に見えない。しかし、協業のネットワークはからみあうことで、最終的な生産物(商品)をつくりあげる、とミルはいう。
 中間的な生産の場は、ネットワークの結節点であり、そこで作りだされた生産物は市場を通して次のネットワークへと流れていく。
 そのネットワークは、農村の労働と都市の労働、ないし国内の労働と国外の労働を結びつける装置でもある。
 近代の特徴のひとつは、職業や職種の多様化だといってよいだろう。
 多様化といえば、工場内の分業が知られるが、これも協業のひとつの側面だといってよい。アダム・スミスが例に挙げたピン工場での分業をみるまでもなく、分業が労働効率を高めていくのは事実である。
 スミスは、その理由として分業が熟練の度合いを高め、時間の無駄を省くことを挙げたが、加えてミルは、分業が能力に応じた労働者の配置を可能にすることも見逃せないとしている。
 そして、市場の規模が大きくなると、断然、大規模生産が有利になってくる。大規模生産の場合は、多くの機械が必要になってくるし、それに応じて労働者を配置しなければならなくなる。
 雇用する労働者の数が増えると、それを監督する者がいなくてはならないし、仕入れ係や販売係、会計係なども任命しなくてはならない。
 大工場をつくるのは、商品の大量生産と大量販売を可能にするためである。そうしたシステムは、労働の生産性を高めていく。そして、小規模生産の事業所が何もしないのなら、大規模生産をおこなう大資本が、小資本を徐々に駆逐していくのは必定だ、とミルはいう。
 ミルの時代から、大資本をつくるには、小額の出資を集めて株式会社をつくるという方式が考えられるようになっていた。鉄道、郵船、銀行、保険などもそうした株式会社の分野だった。しかし、政府が頑固に特許会社を守りつづけている部門も残っていた。
 ミルによれば、株式会社の欠点は、労働者が仕事をさぼりやすいことと、金銭のムダな出費が多いことだ。しかし、有能な指導者がいて、会社内に適切なルールが確立されれば、その欠点は克服され、協同の精神が発揮されるだろうという。
 その結果、「もっとも能率が高くかつもっとも経済的な」株式会社が、個人経営会社を経済競争面で圧倒していくにちがいないとみていた。
 ただし、大資本による大生産制度が有効なのは、人口の多い繁栄している社会にかぎられるという。
 ミルは独占とカルテルの弊害も認識している。しかし、ガス会社や水道会社、鉄道会社などの場合は、経済効率を考えれば、これを公営事業とし、政府がそれを直接経営せずに「公共のためにもっともよい条件で営みうる会社または組合に全部移管すべきである」と考えていた。
 とはいえ、農業の場合は、工業とちがって、大農制がすぐれているとは、かならずしもいえない。その理由として、ミルは小農がそれなりの技術と知識をもち、しかも驚くほど勤勉であることを挙げている。
 これにたいし、大農の土地は、労働賃金を節約しなければならないため、それほど高度に耕作されることがない。
 どうやらミルは「穀物および糧秣については大農場の方がよいけれども、多大の労働と注意とを必要とする種類の耕作は、断然小規模耕作の方がよい」という方向に傾いていたようである。
 小さい地所や小農場においても、農業上の改良をおこないうること、そして農業の生産性を増加し、余剰食料を生みだし、それによって商工業部門にたずさわる非農業人口を養えるようにするところに、ミルは経済発展の方向性をみいだしていた。
 いずれにせよ、政治が社会の安寧を維持し、そのなかで人びとが、それぞれの場所において、生産性を高めるために日々工夫し、少しでも豊かな将来をめざしていくというのが、ミルの『経済学原理』の基本スタンスだったように思える。
 第1篇の生産論を閉じるにあたって、ミルはこんなふうに問題を提起する。

〈……[近代においては]勤労の生産物は通例増加の傾向をたどってきたのであった。けだし生産者たちが消費手段を増やそうと欲するからであり、また消費者の数も増加してゆくから、それに刺激されて、増加の傾向をたどってきたのである。このような生産増加の法則をつきとめること、生産増加の条件をつきとめること、生産増加に実際上限度があるかどうか、あるとすればそれは何か、ということをつきとめること──経済学においてこれほど重要なことはない。〉

 ミルは経済が発展し、生産が増加するかどうかは、生産の3要素、すなわち労働、資本、土地がどれだけ大きくなっていくかにかかっていると述べていた。
 そこでまず、労働の増加についてである。労働が増加するには、人口が増えなくてはならない。人類の増加力はほんらい無限だ、とミルはいう。
 しかし、人口の増加が妨げられるとすれば、生殖力の欠乏ではなく、別に要因がある。それは戦争と疾病、それに窮乏、飢餓である。
 窮乏にたいする恐れは、人口を抑制する原因となりうる。ヨーロッパでは19世紀前半から、食料と仕事が未曾有の増加を示したのにもかかわらず、人口増加の割合がそれまでより減少した。それは労働者階級が生活を守るため、家族数の増加を抑制したためだ、とミルはみる。
 いっぽう、資本はすべて貯蓄の産物であると書いている。人は将来の福利のために、現在の福利を犠牲にすることによって、貯蓄をなすことができる。
 そのため、浪費や奢侈、無分別や不摂生を避けるという心性が育たない場所では、貯蓄はなされず、資本は形成されないという。ミルはそうした例として、インディアンや中国人の場合を挙げている。ずいぶん人種的偏見に満ちたとらえ方だが、当時はそう考えられていたのだろう。
 ミルによれば、中国人は勤勉であるにもかかわらず、分別が足らない。中国人は資本を蓄積せず、生産技術に改良を加えることを怠っているために、社会全体が停止状態におちいり、(イエズス会神父の観察を借りれば)「その日暮らしに満足し、辛苦の生活をも幸福と考えている」。
 中国において、資本の増加が止まっているのは、中国人が「たいていのヨーロッパ国民よりも現在にくらべて将来をはるかに低く評価しているということを物語る」と、ミルはいう。
 これにたいし、ヨーロッパの国々の特徴は、自由職業の人びとや商工業階級の人びとのあいだで、すこぶる貯蓄精神が盛んなことだ。そして、ヨーロッパにおいては、貯蓄によって形成された資本の大部分が、事業に投下されることによって、国の富が急速に増加しているという。
 ミルは土地についても述べる。
 土地からの生産物の増加は、土地の広さがかぎられることによって妨げられる。とはいえ、地表の大部分は耕作され尽くしたとはいいがたい。
 すると、問題は土地の生産性ということになる。
 ここで、ミルはいわゆる収穫逓減の法則をもちだしている。さらに劣等地や土地の位置といった問題も挙げている。そうした土地から収穫を得るには、より多くの労働や資本が必要となるだろう。
 しかし、土地の改良は可能だし、それがなされれば、わざわざ劣等地を開発する必要もなくなり、収穫逓減の法則を一時停止させることができる。さらに農業上の知識や技術、発明がなされれば、農法を改良し、効率のよい(つまり労働と費用を減少させる)農産物生産が可能になるだろう。輪作や堆肥、新作物の導入、役畜の使用方法の改善(いまなら機械の発明)、輸送の改善など、いくらでも改良の余地はある。
 ここから、ミルは次のような結論に達する。

〈すべて分量に限りがある自然諸要因は、その究極の生産力に限りがあるのみならず、その生産力の極限に達しないよほど前から、すでに需要の増加分を満たすのに条件がますます困難となる。しかし、この法則は、人間が自然を制御する力が増加すれば、ことに人間の知識が増大して、その結果自然諸要因の性質や力を支配する力が増大すれば、停止せられ、あるいは一時抑制されるものである。〉

 もう一度、くり返していうと、ミルによれば、生産を決定づけるものは、労働(人口)と資本と土地(食料・資源)である。
 この3つがうまく結びつかなければ、豊かな生産物は生まれず、社会は貧しいままにとどまってしまう。
 たとえ、労働がなされていても、その成果が蓄えられず、社会が停滞したままで、人口だけが増大していくなら、資本不足と土地不足により、その社会はますます貧しくなっていくだろう。
 人間の生活が豊かになるためには、衣食住が満たされ、新たな生活用品が生みだされ、生活環境が整えられねばならない。それには、勤勉と蓄積が増進される社会体制が必要になってくる。
 勤勉と蓄積は資本を増加させ、それが知識や技術の増大とあいまって、生産性の拡大をもたらすとともに、新たな生活商品を生みだしていく。
 労働と資本と土地は相関関係にある。

〈時代のいかんを問わず、使用された労働に比べてその勤労の生産物が増加しているか、また国民の平均的生活状態が向上しつつあるか低下しつつあるか、ということは、人口が改良よりすみやかに増加しつつあるか、それとも改良が人口よりすみやかに進行しつつあるか、ということによって定まるものである。〉

 もし、一国の生活水準が低下しているとして、その低下を防ごうとすれば、外国から食料を輸入するか、または海外に移民するしか方法がない、とミルはいう。しかし、食料を輸入するにも、それには綿製品であれ金属製品であれ、なんらかの見返り商品が必要であり、移民や植民もはたしてどこまで現実的に可能な地域があるのかと考えれば、なかなか容易なことではない。
 いずれにせよ、いかなる社会もその時代の限界と壁にぶつかるのであって、それを突破するには、社会体制の改革と生産性の向上が求められる。そのなかでも資本がとりわけ大きな役割をはたすだろう、とミルは考えていた。
 ミルの考え方は漸進的かつ楽天的である。

   4 分配論の前提

 ここから第2篇「分配」にはいる。
 ミルははじめに、富の分配は人為的制度であり、社会の法律と慣習によって定まる、と書いている。
 現在の社会は私有財産制にもとづいている。しかし、19世紀半ばのミルの時代には、すでに私有財産制の全廃を唱える共産主義や、その制限を訴える社会主義の考え方が盛んになっていた。
 共産主義は、財産の共有と生産物の平等な分配をめざす。ひとつの村落共同体を想定すれば、こうしたシステムは可能だとミルは考える。
 こうした社会ができれば人は働かないという批判をミルはしりぞける。共産主義集団においては人びとの公共心が高まり、世論に導かれて公共のために尽くすという姿勢があらわれるかもしれないからだ。
 だが、問題は労働の割り振りである。ある人には紡績の仕事を、別の人には煉瓦積みをというような割り振りを、だれがどう決めるのか。時に、仕事を変えることも考えられるが、実際にはなかなかむずかしいだろう。共産主義はいまのところ観念上の存在にとどまっている、とミルはいう。
 だからといって、私有財産制は万全の制度ではない。それが征服と暴力によって生まれたことをミルは知っている。また私有財産制が不公平を拡大し、すべての人が完全に平等な条件でスタートすることをさまたげているのも事実である。
 私有財産制の原則は、努力すれば、そのぶん報酬が与えられるが対応するというものだが、それとてもまず公平が保たれて、はじめていえることだ。
 これにたいし、共産主義の問題は、はたして、この制度のもとで、人間の自由と自主性、いいかえれば完全な独立と行動の自由が保証されるかということだ、ミルはいう。

〈共産制には個性のための避難所が残されるか、与論が暴君的桎梏(しっこく)とならないかどうか、各人が社会全体に絶対的に隷属し、社会全体によって監督される結果、すべての人の思想と感情と行動とが凡庸たる均一的なものになされてしまいはしないか──これらのことが問題である。〉

 サンシモンとフーリエの「社会主義」はどうだろう。
 サンシモンは、選挙によって社会の指揮者集団を選び、その指揮者が人びとに、能力や才能に応じて仕事を与え、その業績に応じて、報酬を払うという方式を構想した。とうぜん、指揮者集団は、絶対的な権威をもたなければならない。
 これにたいし、労働者が組合をつくり、その組合がリーダーを選び、リーダーの指導のもとで、労働者が協同作業をするというのが、フーリエの社会主義である。仕事ができる人もできない人も、社会の成員には、最低限の生活保障が与えられる。そして、労働者は等級に応じて報酬を受け取る。住宅に関しても、同じ一棟の建物に住む権利が認められている。
 フーリエは労働を魅力あるものに変えようとしていた。ミルはフーリエの実験がうまくいき、私有財産制にもとづく産業組織とことなる制度が生まれることに期待を寄せている。しかし、それはまだ実験段階にとどまっているとみていた。
 当面、ミルは私有財産制にもとづく制度を改良し、そこに人びとが参与できる方向を目指そうとしている。
 私有財産制のもとでは、人は贈与または公正な契約によって得たものを、自由に処分してよい権利を有する、とミルはいう。労働者は資本家との契約によって賃金を獲得する権利を有するが、だからといって、新たな契約を結ばないまま、資本家の私有財産を侵害する権利はもたない。
 私有財産制の根本は、個人の所有権にあり、これは贈与の権利をも含む。だが、親族は自動的に相続権を有するのではなく、贈与はあくまでも親の権利だという。
 とはいえ、遺贈権は制限されなければならない。それによって、個人が労せずして、最高限度より以上の富を得ることがないようにし、それ以上の遺産は、公の用途にささげられなければならない、とミルはいう。しばしば財産の不公平を伴う私有財産制は、どこかで是正されねばならないものだった。
 また土地の所有権は、土地所有者が土地改良家である場合にのみ成り立つ、とミルはいう。そして、大地主である貴族の長子相続制を批判して、こんなふうに述べている。

〈何びとも、土地を作ったものはまだいないのである。土地は、本来、全人類の相続財産である。その土地を人に私有させるのは、まったく人類全般の便宜に出でることである。土地の私有がもしも便宜を与えないならば、その私有は不正である。〉

 大貴族には批判的だった。社会の一般的利益(たとえば鉄道や道路)にとって必要な場合は、国家が一定の賠償を支払えば、地主の土地所有権を自由に処理できるというのが、ミルの考え方である。
 さらに、以下の所有権は認められない、とミルはいう。ひとつは他の人間を財産として所有する権利である(奴隷制は禁止されねばならない)。もうひとつは公職にたいする所有権である(公職の世襲は認められない)。その他の公的に認められない排他的特権も排除されなければならない。
 私有財産には一定の制限が設けられなければならない。そして、社会的に認められた私有財産制のもとで、土地および労働の生産物が3階級(地主、資本家、労働者)のあいだに、どのように分配されていくかを研究するのが経済学だ、とミルは述べている。
 しかし、ミルは同時に、この3階級がきちんと分かれているのは、イングランド、スコットランド、ベルギー、オランダくらいのもので、あとは同じ人がふたつ、ないし三つを兼用していることが多いとも述べている。資本家と労働者を兼ねる職人もいれば、地主と労働者を兼ねる小農もいる。そして、奴隷制のもとでは、自立した労働者はおらず、資本家がすべてを兼ねている。またアジアにおいては、国家が土地の所有権を握っているとも記している。
 ただし、工業が発達してくると、労働者を雇用する資本家と、資本家に雇用される労働者とが、はっきりと区別されるようになる。「一般に資本家は、指揮監督の労働よりほかの労働には携わらない」
 そこからミルは分配論を展開していくことになる。経済学の前提となるのは、あくまでも競争である。だが、現実には慣習の力が見過ごせない。そのため、慣習の問題を抜きにして、競争だけで経済のあり方を語るのは危険だという考え方をあらかじめ示している。

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