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産業組織論つづき──マーシャル『経済学原理』を読む(11) [経済学]

 ここでは分業と機械化、産業立地の条件、大規模生産、企業経営などがテーマとして取りあげられる。
 集中と反復が作業の能率化につながるのはいうまでもない。とりわけ、ひとつの製品をつくるにあたっては、ひとりがすべての作業をおこなうのでなく、ある工程だけの作業をくり返しおこなうほうが、はるかに効率的である。そのことはアダム・スミスが分業論のなかで示したとおりだ。
 しかし、作業が型にはまったものになってしまえば、ほぼ機械で代替できる状態になっている。近代的な生産の特徴は、機械が肉体的技能に取って代わったことだ、とマーシャルはいう。
 金属工業の部門でも、精巧な機械なら容易に金属製品を多量につくりだすことができる。工作機械は金属の加工を容易にした。
 機械は年ごとに自動になり、手労働による補助をだんだん必要としなくなっている。そのため、機械を取り扱う人には、肉体的能力より、高い判断力と細心の注意が求められる。
 機械を扱うにはかつての職人のような特殊の技能はいらない。高次の知性があれば、少しの訓練で、機械が扱えるようになる。
 機械化のメリットは商品価格を下げ、それによって、より多くの人がその商品を買えるようにすることだ。
 労働面でいうと、機械は人間の肉体的過労を抑える役割をはたしてきた。いやむしろ、人間の筋肉力では限界がある作業をも可能にした。画一的で単調な作業は、次第に機械に取って代わられるだろう、とマーシャルは断言する。
 機械化が労働力を排除するとはかぎらない。機械化の進展にともなって、判断力や創造力を必要とする新たな種類の仕事が増えてくるはずだからである。
 次にマーシャルは、産業発展には企業の内部的効率の増進に加えて、立地条件などの外部的要因が重要になってくると述べている。
 文明の初期段階では、重い物は地場で生産するほかなかった。水運だけが重い物を遠くに運ぶ手段だった。しかし、徐々に交通が開けてくると、遠方からの製品──たとえば被服や金属製の道具、香料など──もはいってくる。定期市などに、こうした商品が並ぶと、消費者に新たな欲望がめばえていった。
 地域に特化した産業がある、とマーシャルはいう。その原因は地域独自の気象や土壌、あるいは近くに鉱山や採石場があるということだ。金属工業は一般に鉱山の近く、あるいは燃料に恵まれた場所に誕生した。
 また宮廷などがあれば、そこに人が集まり、高級な財への需要がおこり、熟練の職人たちもやってきて、工芸が発達してくる。
 産業の条件は自然条件だけではない。宗教的、政治的、経済的な要因もからんでくる。そして、産業がその場所を選択すると、そこにとどまることが多い。やがて、近隣に補助産業が生まれ、道具や機械、素材を提供するようになる。産業はさらに流通の発達をうながす。
 マーシャルによれば、大都市の中心部は地価が高いので、工場地帯は都市の郊外に形成されやすい。イギリスでは、鉱業や機械工業のある近辺に繊維産業も引き寄せられ、いくつかの異なる産業が集まることによって、工業地帯が形成されてきたという。
 いっぽう、生産面だけでなく、消費面をみると、商店もまたある地点に集まる傾向がある。こうして商店街ができあがる。
 運輸通信手段の発達と低廉化は、産業にも大きな影響をおよぼす。それによって、いわば産業の場が拡散するのだ。
 産業が発達するにつれ、非農業人口の割合が増えてきたことはまちがいない。「中世には農業人口は全人口の4分の3を占めていたが、最近[20世紀はじめ]のセンサスでは9分の1の者しか農業に従事していない」と述べている。とはいえ、かつての農民は「いまでは醸造屋やパン屋、紡績工や織布工、れんが積みや大工、仕立屋や婦人服屋その他多くの業種が行っている仕事を大部分自分でやっていた」のだから、「農業人口の縮小の実態は外見ほど大きなものでもない」。労働者は農民から分化したにすぎない、とマーシャルは考えている。
 さらにマーシャルは農業から流出した人口は製造業に吸収されたわけでもない、と述べている。製造業においては機械化が進んだため、生産力の割に労働力をさほど必要としなかった。

〈1851年以来イングランドにおいて農業の縮小によって急速に膨張していった職種は、鉱業・建設業・商業・道路および鉄道による輸送業をはじめ中央および地方の政府職員・初等から高等にいたる学校・医療・音楽・劇場その他娯楽などであった。……これら職種では人間の労働は1世紀以前に比べて著しく能率が高くなったわけではない。これらによってみたされなくてはならない欲望が一般的な富の増大につれて拡大してくれば、産業人口のいよいよ大きな割合がこの分野に吸収されていくのは見やすい道理である。〉

 マーシャルはいわゆる第3次産業に従事する労働者の割合が増加することを予測していたといえるだろう。
 ここで、ふたたびマーシャルは産業組織の問題に戻って、大規模生産のメリットについて論じる。
 大規模な製造業者は改良された新たな商品をつくりだし、それを広告宣伝することによって、消費者の欲望をつくりだすことができる。だが、小規模な製造業者では、そうしたことはとても無理だ。
 大きな事業体のメリットは、大量に安く仕入れができ、輸送費を節約でき、また商品を大量に安く販売できることである。商品ブランドが世間に知られるようになると、顧客の信頼もついてくる。こうした経済の高度化が、企業の巨大化をうながすのだ、とマーシャルは述べている。
 さらに大規模な製造業者は、多種多様な人間を適性に応じて現場に配分することによって分業の効率を高めることができる。いっぽう、経営者は現場管理者を適切に配置することによって、営業のもっとも重要な課題にのみ全力を集中し、市場全体の動きをみながら、企業の方向性を決めていくようになる。
 小さな事業体では、たとえ能力のある経営者でも、現場の仕事にほとんどの時間をとられてしまう。とはいえ、小企業の経営者が現場に目が行き届き、そこから独自の経験知を獲得し、ユニークな活動を展開する可能性もマーシャルは否定していない。
 たとえ大企業であっても、企業には競争がつきものである。大きな資本、高度な機械、優秀な労働力、広範な営業取引関係をもつ大企業にたいしても、独創性と機動力、忍耐強さをもって挑んでくる新興勢力が現れる可能性は常にある。マーシャルは企業を発展させ存続させていくことが、いかにむずかしいかを認識している。
 困難なのは製品の販売である。単純で均質な財であれば、大規模生産のメリットを生かせるから、こうした分野では大企業が小企業を駆逐し、小企業を統合していくだろう。だが、特殊な商品については、大規模生産のメリットは生かせない。手間のかかる特殊な商品が限られた市場で引きつづき販売される。
 いっぽうマーシャルは大企業の最盛期が長く続くことはまずないとも指摘している。「その台頭をささえた非凡な活力を失ってしまった企業は遠からず衰退するかたむきがある」というのだ。
 大きな事業体が小さな事業体にたいし優位性をもつのは製造業だけとはかぎらない。小売業でも小さな店は日々、その地盤を失いつつある。小売業でも大型化が進み、消費者は豊富な商品をより適切な価格で購入することができるようになった、とマーシャルはいう。
 最後にマーシャルは企業経営のむずかしさについても述べている。
 ちいさな個人商店では、店主が商品の仕入れから陳列、販売、店内の掃除まで、全部自分でこなさなければならない。ところが大きな企業では、経営者の仕事は資本と労働力を結合させ、細部にわたって事業計画の実施を監督することに特化される。
 経営者の仕事は労働者を監督することだけではない。自己の商品にたいする知識をもち、商品の生産・消費動向を予測し、消費者の欲求に応える新たな商品をつくりだし、常に古い商品の生産方法を改善するよう努めねばならない。そのために、経営者は「慎重に判断し、大胆に危険をおかすことができなくてはならない」と、マーシャルはいう。
 経営者は指導者としての能力を問われる。スタッフを育て、信頼し、スタッフの機略と創造力を引きだすのも経営者の仕事である。
 一見すると実業家の息子は父親から経営のノウハウを学び、代々にわたって企業を発展させていくかに思えるが、「事態の真相はこれとはたいへん異なっている」と、マーシャルはいう。二代目、三代目で没落していく企業が多いのは、かれらが経営者としての気質や能力を失ってしまうからだ。そのとき事業の活力をよみがえらせるには、優秀なスタッフのなかから次期経営者を選ぶほかない、とマーシャルは断言している。
 個人会社とちがって株式会社の場合は、たいてい経営者に事業の運営がまかされる。経営者は株式を所有していなくてもよい。経営者は業績に応じて、低い職階から高い職階に昇格するのがふつうだ、とマーシャルはいう。
 株式会社の弱点は、その主要な危険をになう株主が往々にして営業についての知識を欠いていることだ。そのため、株式会社という民主的な経営形態が発展していくには、営業上の秘密が減少し、公開性が増大していくことが求められる、とマーシャルは指摘する。
 製造業や鉱業、運輸業、通信業、銀行業などは巨額な資本を要するようになり、ちいさな事業体が活躍する余地がなくなってきた。このことは、経済の発展にとってかならずしもプラスとはいえない。トラストやカルテルはその最たる弊害である。
 独占企業ににたいし協同組合は理想的な事業体のようにみえる。しかし、協同組合の管理者にはなかなかよい人が得られないのが実情で、協同組合はいまのところ消費組合以外に顕著な成功例はみられない。だが、マーシャルは収益配分制を旨とする協同主義の発展に大きな期待を寄せている。
 イングランドの総人口の4分の3は勤労階級だ、とマーシャルはいう。だが、かれらはずっと労働者にとどまるわけではない。管理職をめざして努力すれば、企業の共同経営者になれる可能性だってある。あるいは自分でお金をためて、小さな店をいとなむこともできる。一世代のあいだに最高の地位まで昇進することは無理だとしても、二世代のあいだにそれを実現することは不可能ではない。
「大観してみると広範な上向運動がある」のが、現代の特徴なのだ。もっとも、そのための競争は激烈だ。労働者は産業上の技能や能力の向上を求められている。同時に経営者も「判断・機敏・機略・綿密・意志の強固さ」といった広範な能力を求められるようになっている、とマーシャルはいう。
 その結果、有能な実業家は紆余曲折があっても、大きな資本を動かすことができるようになる。いっぽう無能な実業家はたちまち資本を失ってしまい、事業を破産へと追いこんでしまう。いまはそういう厳しい時代なのだ、とマーシャルはいう。自由な時代は、厳しい競争をともなう組織の時代でもあることをマーシャルは認識していたといえるだろう。

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資本と産業組織──マーシャル『経済学原理』を読む(10) [経済学]

 久しぶりにマーシャルの「原理」を読む。前にメモした部分をすっかり忘れてしまっている。困ったものだ。じつに困った。それでも、こんどもメモしておかないと、また忘れてしまうのが目に見えている。
 公開するほどの代物ではない。あくまでも年寄りの備忘録、たまった本の整理に尽きる。それが遅々として進まぬのが自分でもおかしい。もう手遅れ、まもなく「はいそれまでよ」のお声がかかりそうだが、それはそれとして、愚鈍ながら、すこしでも本を読みつづけることができれば幸いと思っている。
 生産要因と問えば、ふつう土地、労働、資本との答えが返ってくる。土地と労働についてはこれまでみてきた。きょうからは資本の話だ。マーシャルは、資本は富のなかから生まれて、産業組織をかたちづくり、また富をつくっていくと考えている。
 そこでまず富の発達をみていこう。
 マーシャルは人間の富は徐々に発達してきたという。未開時代の富は、狩猟漁獲用具と装飾品、衣服と小屋、それに家畜くらいなものだった。だが、村がつくられ、農業が営まれるようになると、これに土地や井戸が加わるようになった。宝石や貴金属も貴重な富となった。王侯があらわれると、宮殿や道路橋梁、運河用水施設も登場し、都市が出現する。だが、都市の人口は農村にくらべて、ごくわずかだ。水運業や建築業が発達してくるが、仕事に用いられる道具も、ごく簡単なものだった。
 イギリスでは、18世紀ごろから農業機具が次第に高度化してくるが、水力、ついで蒸気が動力として利用されるようになると、18世紀末から19世紀にかけ、さまざまな産業部門に高価な機械が導入されるようになり、大工場が出現する。鉄道や船舶、電信電話、水道、ガスも普及してくる。機械は人間の労働生産性を飛躍的に拡大させた
 文明が進むにつれて、人びとはいつも新しい欲望をもつようになり、それを満たすための新しい方法を編みだしてきた。その欲望はとどまることを知らない。マーシャルは現代人が定常状態──すなわち「充足すべき新しい主要な欲望もあらわれず、将来に備えて有利に現在の資力を投資する余地もなく、富を蓄積しても報酬が得られないようになる」状態──に近づいていると信じてよい理由はどこにもないと述べている。
 マーシャルはあくまでも楽観的だ。資本が投下され、生活必需品を超える生産物がつくられるようになると、余剰が増大し、富が蓄積され、知識も増大してくるという。
 将来への備えや、合理的な貯蓄の重要性を強調することも忘れていない。だが、保障のないところに貯蓄は存在しない。収奪や侵略などがあれば、貯蓄などたちまち消えてしまうのだ。マーシャルはまた、かつての救貧法は、労働者の自助努力をそこない、労働者階級の進歩にとっては大きな損害となったとも述べている。
 マーシャルは貨幣経済が安直な消費とぜいたくをもたらしたことを認めるいっぽうで、それが将来にたいする貯蓄をも容易にし、個人が資本を活用する(つまり商売をする)機会を増やしたことも指摘している。富をつむのは、みずからの力を誇示し、社会的地位を上昇させるためという見方があるかもしれないが、ほんとうは家族愛がむしろ動機になっていることが多いというあたりは、いかにもマーシャルらしい。
 貯蓄の源泉は余剰所得といってよいが、19世紀初頭の商工階級にとっては資本利得こそが主要な貯蓄の源泉だった。とはいえ、地主や知的職業人、労働者の貯蓄も無視できない。「賃金労働者への配分を増し資本家への配分を減少させるような富の分配の変化は、他の事情に変わりがなければ、物的生産の増大を促進するし、物的富の蓄積を目にみえるほど抑制することはない」というあたり、マーシャルは単純に資本家の味方とはいえない。
 マーシャルにとっては、富の公平な分配と、民主主義にもとづく公共資産の蓄積こそが、豊かな社会を築く源泉と考えられていた。そのためには労働組合や協同組合、互助組合、貯蓄銀行の役割が重要だとしている。
 ところで、人が貯蓄するのは、将来、稼得力が低下するのを想定して、そのときに備えるためである。その点、富の蓄積は「人の展望性、すなわち将来をいきいきと思い浮かべる性能に依存している」と、マーシャルはいう。とはいえ、富を蓄積するには、将来のために働き、享受をくりのべること、すなわち「待忍」が必要になってくる。
 貯蓄が利子率と関係するのはいうまでもない。一般的に利子率の低下は、貯蓄を減少させる傾向がある。逆に利子率が上がれば貯蓄の意欲を高めることは普遍的な準則だ、とマーシャルは論じている。
 このあたり、いまの日本はどうなのだろうと思わぬでもないが、いまは先を急ごう。
 次に検討されるのは産業組織についてである。資本は産業組織(企業)に体現されるとするのが、マーシャル経済学の特徴といえるだろう。
 マーシャルは生物学とのアナロジーで、社会の発達をとらえる。
 社会が生き延び、発展していくには、機能の分化が必要だ。政治と経済、文化の分化もそのひとつだろう。それが産業面においては「分業すなわち専門的技能・知識および機械の発達」となり、同時に「総合」すなわち金融や交通、通信手段の発達となってあらわれる、とマーシャルは論じる。
 近代社会の特徴は分業と総合にあるというわけだ。これは組織面においてもあてはまる。
 マーシャルはダーウィンの適者生存の法則を念頭におき、有機体と組織をアナロジーとしてとらえている。組織が生き残っていくには、厳しい生存競争に耐えねばならず、残念ながら、労働者の経営参加や利潤分配要求に安直に応じるわけにはいかない。
 生存競争で組織が生き残っていくには、「自己犠牲」の性向、国においては愛国心、企業においては愛社精神のようなものが必要だ。また組織が長く存続するためには、時に寄生しなければならないこともあるが、何よりも独立自尊の精神がなくてはならない、とマーシャルはいう。
 古い時代においては、宗教、政治、軍事、経済で密接につながる人間集団を統制していくには、身分制(ないしカースト制)が有益だった。だが、こうした制度を守りつづけた国家は、けっきょく硬直し、進歩から取り残されていった。
 これに代わったのが、近代の階級制度だ、とマーシャルはいう。それは流動的で、環境に応じて変化するものだ。
 だが、職階をなくすわけにはいかない。分業と総合の仕組みをもつ近代社会にあっては、人はそれぞれの職階で、自己犠牲をもともなう貢献が求められるのだ、とマーシャルは論じる。
 とはいえ、マーシャルは、組織は常に硬直する恐れがあるという。そのため、組織は進歩する方向をさぐりつづけなければならない。だが、あまりに急激な変化は、かえって組織を不安定なものにしてしまう可能性がある。

〈進歩は徐々におこなわれなくはならない。単に物質的な視点からみても、生産の直接の能率をほんのすこし向上させるような変化でも、もし富の生産がいっそう能率的で分配がいっそう平等な組織に向かって人間をすすませるようなものであれば、そのような変化は実現させてみるだけの価値がある。どのような組織にせよ、産業の下級な職階にあるものの性能をむだにしてしまうような組織にたいしては、重大な疑問をなげかける余地が多分にあるのだ。〉

 マーシャルは、組織は組織のためにあるのではなく、あくまでも社会と人間のためにあると考えている。

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人口、生産、労働力──マーシャル『経済学原理』を読む(9) [経済学]

 マーシャルは労働者を資本のもとで働かされる単純労働力とはみない。労働者とは商品世界のなかで一定の仕事をはたす人びとの総体を指すのであって、その質は長い時間をかけて社会的に形づくられてきたと考えている。
 労働力の前提となるのは人口である。人口問題は古くから論じられ、さまざまな議論が重ねられてきた。一般的にいって、人口が増加すると抑制論が台頭し、逆に人口が減少すると増加論が登場する傾向がある。
 しかし、人口がマルサスの指摘するように自然増の傾向をたどってきたことはまちがいない。
 出生数は結婚によって左右される。19世紀末のイギリスでは、中産階級の結婚は比較的遅く、労働者階級の結婚は比較的早かった。
 ヨーロッパの農村では、結婚は長子にしか認められず、長子以外は結婚すると村をでなければならなかった。ヨーロッパの小農のあいだでは出生率が低かっのにたいし、広大な土地に恵まれたアメリカの自作農や移民のあいだでは出生率は高かった。
 全般的にいって、「妊娠率はぜいたくな生活をおくることによって低下」し、「精神的な過労が強ければ多くの子供を産む可能性は低くなる」とマーシャルは書いている。これは現代にあてはまりそうな定言である。
 中世においては、伝染病や飢饉、戦乱、きびしい慣行などによって、イングランドでもほとんど人口が増えなかった。急速に人口が増えるようになったのは18世紀後半になってからである。都市と産業の発達が、人口の増加をうながした。19世紀初期には、結婚率は小麦価格とともに変化した。しかし、19世紀後半では、小麦価格よりも景気が結婚率に与える影響のほうが大きくなっている、とマーシャルは指摘している。また労働者階級はその生活水準を保つために子供の数を制限するようになり、そのため人口増加率は次第に低下するようになったとも述べている。
 次に論じられるのは、人口と労働、健康の関係である。
 人間が健康に仕事をするには、肉体面、知性面、道徳面での健全性が求められる。筋肉労働も肉体だけでなく、意志の力や気力を要するのだ。
 人間の寿命は気候や食料と関係している。ほかに衣料や住居、燃料も欠かすわけにはいかない。休養もだいじである。しかし、希望や自由、そして何よりも人生の理想が寿命に影響を与える。
 19世紀初頭の工場労働者の状態が、不健康で抑圧的なものであったことをマーシャルは認めている。それを改善することを、マーシャルは経済学のひとつの課題だと考えていた。
 かつて都市の環境は劣悪だった。都会に集中する才能ある人びとが、郊外に居を定めるのはとうぜんといえる。産業が郊外に分散し、労働者がそれにともなって移動するのはもっと喜ばしい。しかし、公園や運動場ができ、住環境も改善されるようになると、都市もきっと住みやすくなるだろう、とマーシャルは期待を寄せる。
 憂慮すべき点もある。それは国民の活力が次第に失われていくことである。医療と衛生の進歩、政府の社会保障、物的富の成長、晩婚化、小家族などは、人間の活力を奪う要因だ、とマーシャルはいう。しかし、家族数が適切に抑制され、子どもたちにじゅうぶんな教育がほどこされ、都市住民に新鮮な空気と運動の機会が与えられ、実質所得の低下がおこらず、人びとに衣食住や余暇、文化が提供されるなら、過剰人口の弊害を避けて、「人間はたぶんかつて経験したことのないほど高い肉体的ならびに知性的な優秀さに急速に達することができるであろう」とも述べている。
 そのうえで、マーシャルは産業時代における労働のあり方について論じている。
 産業時代においては、どの分野の労働力にも、長い訓練が必要になってくる。機械制工場の労働は、ギルドの職人仕事とちがって、安直で容易なようにみえるかもしれないが、それでも機械をうまく扱えるようになるには、精神的な強さと自制力、知識、訓練が欠かせない。
 さらにマーシャルはいう。

〈一時に多くのことがらに気をくばり、必要な場合にはなにごとにも容易に移っていけ、なにか錯誤があった際には機敏に処置して対策をじょうずにたて、仕事の細部の変化にたいしてはよく順応し、堅実で信頼に値し、つねに余力を残して有事の際に備えている──これらはすぐれた産業人を生み出すのに必要な性能なのである。〉

 まるで、自動車を運転するさいの注意を聞かされているようだが、これはマーシャルが産業時代の労働全般のあり方について述べているのである。
 産業時代の勤労者は、こうした一般的能力に加えて、業種に応じ特化された肉体的・知的能力をもたねばならない、とマーシャルはいう。
 産業人(社会人)としての能力を身につけるには、家庭や学校の役割が欠かせない。実務につくには、普通教育に加えて、技術教育や企業内教育も必要になってくるだろう。
 マーシャルは教育の重要性を強調する。「たまたま社会の底辺にいる両親のあいだに生まれたというだけの理由で、天賦の才能を低級な仕事に空費してしまうというむだほど、国富の発達にとって有害なものはないであろう」
 教育はそれだけで天才的な科学者や有能な経営者をつくりだすわけではない。しかし、天賦の才能を無為に消耗させてしまうのを防ぐには、教育が多少なりとも役立つだろう、とマーシャルはいう。
 成果を生むかどうかはともかく、公私にわたる教育への投資は今後ますますだいじになってくる。「教育投資は大衆にとっても他の投資で一般に得られるより大きな収益機会がある」というのは、いかにも経済学者らしい。
 さらに国家であれ、一般家庭であれ、教育にカネをかけるのはムダだという意見にたいし、マーシャルは次のように反論している。「もしニュートンないしダーウィン、シェイクスピアないしベートーベンのような人が一人でも生みだせれば、高等教育を大衆化しようとして長年にわたって投じた資金も十分に回収されるであろう」
 マーシャルは中産階級と上流階級以外は、教育にさほど熱心でないことも認めている。ある職業階層から別の職業階層に急速に上昇することが、なかなか困難であることも事実である。それでも、かれは教育の力が、人びとがより有利な職種を選ぶことを可能にすると信じていた。
 暫定的な結論として、マーシャルはこう述べる。

〈他の事情に変わりがなければ、労働によって得られるであろう稼得が増大すれば労働力の増加率を高める、すなわちその需要価格の上昇は供給の増大をもたらす、と結論することはできるだろう。〉

 すぐれた労働力が社会全体により多くの収入をもたらすなら、より多くの労働力が求められるようになり、それによって賃金が上昇し、働こうとする労働者の数もさらに増えてくる。
 これはあまりに楽観的な結論かもしれない。
 しかし、マーシャルは、働く人びとの数と賃金が徐々に増えていく方向で、社会が少しずつ豊かに発展していくことを願ったのである。

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収穫逓減の法則──マーシャル『経済学原理』を読む(8) [経済学]

 長らくご無沙汰してしまったが、ここからは生産要因についての考察にはいる。
 はじめにマーシャルは生産要因を土地・労働・資本に分類する。土地とは人間にたいし自然が提供してくれるもの、労働とは人間の経済的なはたらき、資本とは財の生産に役立つ富のたくわえを意味する。
 マーシャルはこの3つの生産要因がからまって、生産、すなわち供給がどのように形づくられていくかをみていくのだが、最初に論じられるのが土地、すなわち自然要因についてである。
 マーシャルはいう。

〈人間は物質を創造する力をなんらもっていず、ただそれを有用な形態に組みかえることによって効用を創造するだけなのである。そして人間によってつくられた効用は、その需要が増大すればその供給も増大させることができる。それらは供給価格をもっている。〉

 ここでは人間の経済の仕組みが説明されている。人は物質そのものを創造するわけではない。物質を人に有用なものへと変換することによって効用をつくりだすのだ。そして、貨幣経済においては、その効用が一定の価格で売買されて、生産・消費・分配のシステムが機能し、それを通じて、人びとはみずからの生活を築き、向上させてきたというわけである。
 しかし、そもそも人間に有用なものたりうる物質を提供する自然、とりわけ土地がなければ(それは海洋や鉱山であってもいいのだが)、そもそも経済は成り立たない。「地表のある区域を利用することは、人間がなにごとかをおこなうためには、その始原的な条件となる」と、マーシャルも書いている。
 土地とのかかわりといえば、まず思い浮かべるのが農業だろう。
 土地が植物ないし動物の生育を支えるには、水と太陽をはじめとしてそれなりの条件が必要である。人間はこれに肥料などを加えることによって、土壌の肥沃度を高める。さらに土地を改良したり、灌漑施設をととのえたり、土壌に合う作物を栽培したりする人間の努力と工夫が、土地のより効果的な利用をもたらす。それでも、土地には本源的な特性があり、人間の努力をもってしてもいかんともしがたいものもある、とマーシャルは述べている。
 とはいえ、どのような場合にも、資本と労働の追加投入にたいする土地収益は早晩次第に減少していく。これが、いわゆる収穫逓減の法則である。
 開墾しないでも役に立つ広大な土地が存在するのなら、資本と労働を投入することによって、ときに収穫逓増が生じることもある。だが、変わらない農業技術で、同じ土地を耕作しつづけるかぎり、収穫逓増がいつか収穫逓減に転ずることはまちがいない、とマーシャルは論じる。
 新開地に入植する場合、最初に耕作されるのは、いうまでもなく耕作に適した肥沃な土地である。ただし、農業や牧畜では、それぞれ適した土地があって、肥沃度の意味合いは異なってくるだろう。
 また、耕作法の変化や需要の変化が、土地の評価を変えることもある。たとえばクローバーを植えて地力を養成してから小麦をつくったほうが、よく小麦が育つことがわかると、それまで見向きもされなかった土地ががぜん注目されるようになる。木材の需要が増えたことによって、山の斜面の地価が上がることもある。ジュートや米への需要が低湿地の開発を促すこともある。また人口の増加によって、かつては無視されていた土地が開発されていくこともある。このように考えていくと、肥沃度というのは絶対的な尺度ではなく、相対的な尺度にもとづく、とマーシャルは述べている。
 収穫逓減の法則を打ち出したのはリカードだが、リカードは肥沃度を絶対的なものととらえたために、その法則をあまりに単純化してしまい、多くの誤解や批判を招くことになった、とマーシャルは論じている。肥沃度というものは、周辺の人口の変化や、市場の広がり、新たな需要の発生などによって、その評価が異なってくる。
 逆にいえば、土地にたいする収穫逓減の法則は、きわめて限定的な条件のもとで成り立つのである。それは耕作可能地がかぎられていて、しかも生産方法が変わらない場合に、追加労働によって得られる収穫が次第に減少していくという仮説なのである。マーシャルはこうした前提を抜きに、この法則を拡張することには慎重でなければならないとしている。
 にもかかわらず、収穫逓減の法則が重要なのは、それが生産の「不効用」という考え方を導く土台になっているからである。同じ生産方法のもとで、いくら追加労働を投入しても、生産量の増加割合は次第に減少していく。それは農業に限らない。
 マーシャルはたとえば次のような事例を挙げている。

〈製造業者がたとえば3台の平削盤をもっていたとすれば、これらの機械によって容易になされる作業の量の限界があるはずである。もしこの限界以上のことをしようと思えば、その機械をつかう平常の作業時間のあいだ時間をむだなくつかうように細心の努力をしなくてはならないし、たぶん超過勤務をもしなければなるまい。このように機械を適正な操業状態までもってきてしまえば、それからあとは努力を注ぎこむにつれて収益逓減が起こる。そしてついには古い機械を無理して稼働させるより新しく4台目の機械を購入したほうがかえって経費の節約になるほど、純収益は減ってしまう。〉

 これは農業における収穫逓減の法則を、製造業にも拡張したケースといえる。
 マーシャルはおそらく、次のような構想をいだいている。古典的な収穫逓減の法則が成り立つのは、限定的な条件のもとにおいてのみである。しかし、一定の条件のもとでは、収穫逓減の法則は、農業だけでなく、生産(供給)一般の法則に拡張することができる。
 こうしてみると、供給面における収穫逓減の法則は、需要面における限界効用逓減の法則とペアになっていることがわかる。
 それにしても、生産面では労働者が搾取され、消費面では消費者が高い品物を買わされるというマルクス主義的な発想とは逆に、生産面では生産者が「不効用」の発生を危惧し、消費面では消費者が消費者余剰を得るというマーシャルの考え方はなかなかユニークである。

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限界効用と消費者余剰──マーシャル『経済学原理』を読む(7) [経済学]

 需要についての考察が進んでいる。
 マーシャルは「需要の弾力性」という考え方をもちだしている。
 価格の変化が購入量に大きな変化をもたらす場合は、需要の弾力性は高く、逆にちいさな変化しかもたらさない場合は、需要の弾力性は低い。
 需要に所得階層があることもマーシャルは認めている。富裕な人びとは何本でも高級ワインを買えるが、貧しい人びとは安い焼酎しか買えない。
 しかし、一般的傾向として、「とにかく財がひろく一般に使用されるようになれば、その価格が相当低落すればその需要の大幅な増加がまもなくおこってくる」といえるだろう。
 とはいえ、価格が最低限にまで下落していくと、需要の弾力性も低くなっていく。つまり、需要が飽和状態に達してしまうのだ。その度合いは財によっても所得階層によってもことなる。
 マーシャルは当時のイギリス社会に即して、需要の弾力性を分析しているが、社会的地位を誇示するための上流階級の消費は、量的にはかぎられているものの、見境がないとしている。これにたいし、庶民にとっても、塩や砂糖はすでに需要の弾力性が低くなっているとしている。
 食肉やミルク、バター、羊毛、タバコなどは、値段を安くすればまだ需要がある。上等の果物、上質の魚などは、労働者には手が届かないが、中流階級にとってはまだ需要が見込めるなどとも述べている。
 小麦などの必需品は例外で、需要の弾力性は低い。もともと安い食料だが、多少値段が上がっても必需品は購入せざるをえないし、逆に値段が下がっても余分に購入しようとは思わないからである。
 いっぽう、魚や野菜などは値段の変動が激しくても、耐久性がないため、需要は非弾力的である。住宅については、必要性だけではなく社会的地位とも関係しているので、需要がなくなることはない。ごく日常的な衣服は需要に飽和点があり、価格を安くしても、需要が増えない、などとも述べている。
 水や塩にはじまって、必需品、住宅、医師や弁護士のサービス、高級品、高級肉、音楽会にいたるまで、商品にはことごとく需要があり、また需要の弾力性の大小をともなう、というのがマーシャルの見方である。
 マーシャルはエンゲルが分析した年収別の家計支出についても紹介している。
 それによれば所得の低い階層ほど、食料に支出する割合(いわゆるエンゲル係数)が高く、教育や保健衛生、娯楽にかける割合が低いというものだ。逆に所得の高い階層は、エンゲル係数が低く、教育や保健衛生、娯楽にかける割合が高い。
 経済学者はこれまで生産や企業に重点を置き、消費や家計の分析をおこたってきた。マーシャルの研究は、需要、とりわけ消費者需要の重要性を指摘したものである。
 いっぽう、マーシャルは消費研究の困難さは時間にあるとも論じている。その理由は、第1に時代によって貨幣の購買力が変動するからである。第2に景気変動によって消費行動が変化することも挙げられる。第3に人口と富の成長が消費行動に変化をもたらす。第4に新商品の登場も消費に大きな変化をもたらす。

〈ある財の価格の上昇が消費に与える影響があらわれつくすには時間がかかる。消費者がその財の代わりに代替品をつかいなれるにも、生産者が代替品を十分多量に生産しつづけるようになるにも時間がかかる。新しい財をつかう習慣が形成されるにも、それらを経済的に使用する方法を発見するにもまた時間がかかる。〉

 にもかかわらず、経済学者は消費の世界でおこりつづけている変化を注意深く見極めねばならない、とマーシャルはいうのである。

 商品世界においては、欲望は欲望そのものとしてはあらわれない。貨幣にもとづく需要のかたちをとってあらわれる。貨幣を使うにあたっては、諸商品の効用がはかられ、どの商品にどれだけ支出をすれば、効用の減少を防ぎ、全体としての効用を最大化することができるかが判断されることになる。
 購入される商品は、消費財とはかぎらない。長期にわたって利用される財やサービスもあるだろう。そこには不確実性の問題や、現在から将来にわたって、いかに価値を配分するかといった問題も生じてくる。
 人は「一般に将来の快楽がただ確実でさえあれば、これを得るために現在の同じ大きさの快楽をすすんで犠牲にする」と、マーシャルは書いている。貯蓄や年金保険などが、これにあてはまるだろう。
 しかし、将来などほとんど考えない人もいる。かれらは「忍耐心や克己心が弱いために、すぐに手にはいらないような利便にたいしてはほとんど興味を示さない」。「いな、同じ人でもその気分がいつも同じではなく、性急に現在の享楽を求めることもあれば、将来のことを考え、そう無理なく延期できる享楽ならすべてこれを繰り延べてしまおうとすることもある」
 つまり、需要には価格弾力性だけではなく、それが促進されたり繰り延べられたりする時間的(あるいは世代的)弾力性もあるのだ。
 将来の利便性を考慮して、現在の価値を「割引く」ことは、消費行動においてよくみられる。その割引率の大きさは貯蓄性向に影響を与える。そのいっぽう、より効用のある耐久財を求めるために、現在の消費を抑制するといった消費行動も存在する。
 耐久財(たとえば土地)を求める欲望には、はかりしれないものがある。

〈これら耐久的な財に関連してこそ所有のよろこびが感ぜられるのだ。所有しているという感情だけからの狭い意味の通常の快楽よりも強い満足を味わう人々が少なくない。……所有それ自体のよろこびのほかに、その所有によって得られる見栄からくる喜びがある。〉

 人間には所有の欲求とよろこびがある。それを無理やりに抑えつけることには無理がある、とマーシャルは考えている。
 将来の利便と現在の価値を比較することは不可能である。とはいえ、貨幣によって、将来の利便にたいする割引率を測定することはできる。たとえば100万円の貯蓄(投資)が、20年後に122万円になるとすれば、そのさいの利率(割引率)は年1%と想定されていることになる。
 また耐久財の価値は、1回の使用で消耗してしまうわけではなく、将来にかけ多くの効用を生みだすことになるから、その価値は長期の使用による効用の総計にほかならない、とマーシャルは述べている。
 ここで、マーシャルは価格(価値)と効用の関係を取りあげる。
 消費者はじゅうぶんな効用が得られると考えて、ある価格の商品を購入する。価格にくらべて得られる効用が低いと思われたら、その商品は購入されないだろう。したがって、商品が購入されるさいには、だいたいにおいて、得られる効用が失う貨幣(価格)より大きいと考えられる。これをマーシャルは「消費者余剰」と呼んでいる。
 前に挙げた例でいうと、ある消費者が3000円なら1袋しか買わないコーヒー粉が、2600円なら2袋買うとすれば、そこに消費者余剰を認めているということになる。ほんらい6000円するものが5200円で買えるのだ。2200円なら3袋なのに1400円なら5袋という場合も同じだ。ほんらい1万1000円のものを7000円で買うことができたのだ。
 これはまるでトリックのようにみえるけれども、その関係は一個人の場合よりも、市場全体にあてはめたほうが、より納得のいく説明となるだろう。
 ある財の限界効用は全体効用を示すものではない。たとえば水や塩は人間にとってなくてはならないものであり、その全体効用は茶やコーヒーより高い。しかし、水や塩は茶やコーヒーより豊富にあって、(ブランドの塩や水は別として)その限界効用は低く、価格も安い。価格に作用するのは、全体効用ではなく、あくまでも限界効用なのである。
 マーシャルは、同じ1万円のもたらす満足が、貧乏な人と富裕な人とでは異なることも指摘している。たとえば年金額が1万円減ったとしても、貧乏な人と富裕な人とでは、その受け止め方はずいぶん異なる。
 またパンの価格が上昇すると、貧しい労働者の家計は苦しくなり、それでも食肉や嗜好品への消費を切り詰めて、よけいにパンを買うといった特殊な反応も出現する。
 しかし、マーシャルは経済学が扱うのは、あくまでも一般的傾向だと論ずる。「消費者余剰論を適用しようとするのは[すなわち需要曲線の分析は]主として、とりあげている財の価格が慣行的な価格の近傍において変動したのにともなって起こる変化に関することがらである」
 マーシャルは消費論において、価格と需要の関係を論じ、そのさい限界効用や消費者余剰という概念にもとづいて、需要曲線の法則を導きだした。これはかれの大きな功績である。
 消費論を終えるにあたって、マーシャルは、いかにも賢者らしく、富と幸福との関係について論じているので、それを紹介しておくことにしよう。
 こんなことを書いている。

〈人の幸福はその外部的な条件よりも、かれ自身の肉体的・知性的かつ道徳的な健康によって左右される……[さらに忘れられがちなものが]自然の天与の贈り物である。〉

 健康と自然の恵みは、物質的な富からだけでは得られない。
 とはいえ、「ある人の富のたくわえは、その使用などがあってはじめて幸福をもたらす手段となるのである」。
 人は生存を維持できる所得を得ることではじめて満足し、その所得が増加するにつれて、その満足度を増していく。逆に所得が減るにつれて、満足度は減っていく。これをマーシャルはベルヌーイの説だとしている。
 しかし、人はしばらくたつと新しい富によろこびを感じなくなってしまう。逆に、富を失うと、大きな苦痛を感じる。
 富はやっかいだ。ありすぎると、かえって肉体的な力が衰え、神経の疲れが増し、感受性が失われることもある。
 文明国では、人生の理想は欲望や欲求にながされて物質的な富を求めるのではなく、静穏な心の落ち着きを得ることだという仏教的な考え方をする人もいる。だが、いっぽうで、新しい欲望と欲求があってこそ、人は努力するのだと考える人もいる。
 マーシャルはこの両方の考え方を批判する。前者のような仏教的な考え方は、努力の放棄につながる。しかし、ひたすら貨幣を求めて働く後者のような考え方は、まるで「人生のために働くのではなく、働くために生きる」ようなものだと述べている。
 マーシャルの人生哲学は次のような箇所に言いあらわされる。

〈真理はむしろ、人間性にはなんらかのつらい仕事をやり、なんらかの困難にうちかつことがないと、急速に退化していく傾向があり、肉体的にも道徳的にも健康であるためには、なんらかの苦しい努力を傾けることが必要であるというところにあるであろう。人生の充実のためには、できるだけ多くの資質をできるだけ高く展開させ活動させることがたいせつである。それが実業上の成功であれ、また芸術と科学の発達であれ、あるいは同胞の生活の向上であれ、とにかくなんらかの目標を熱意をもって追求することのうちに深いよろこびがあるのだ。〉

 マーシャルは人に見せびらかすための誇示的な消費を批判する。むしろ「労働者階級の富が増大すれば、それは主として真の欠乏をみたすためにつかわれるであろうから、人間生活の充実と品位を高めることになる」と述べている。
 富の追求に意味があるとすれば、それは贅沢ぶりをひけらかすためではない。すべての家族に生活と教養のための必需品が行き渡り、公共的な建造物や公園、美術館、図書館、競技場などが充実し、それらをだれもが利用できるようにするためだ、とも述べている。
 さらに、将来の消費のかたちとして、すべての人が安い粗悪品をやみくもに選択するのではなく、高賃金労働でつくった美しく機能的な優良品を適量購入するようになれば、世の中はもっとよくなる、とも考えていた。
 このあたりは、マーシャルがまさに「冷静な頭脳と温かい心」の持ち主だったことを示している。

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消費の問題──マーシャル『経済学原理』を読む(6) [経済学]

 商品とは貨幣によって購入することのできるモノやサービス、情報、コトをさしている。
 商品世界では、そうしたモノやサービス、情報、コトが限りなく拡張していく。そのかんに、古い商品が新しい商品に取って代わられることもあるし、長いあいだ昔ながらの商品がそのまま珍重されることもある。
 激しく変遷する商品の歴史はそのまま人びとの生活史とつながっている。その背後にはどのような力がはたらいているのだろうか。
 商品世界は貨幣とともにはじまる。だが、こうした商品世界が本格的にはじまるのは、せいぜい16世紀からで、それが全面的に開花するのは19世紀になってからだといってよい。とりわけ20世紀にはいってからの進展ぶりはめざましかった。
 商品世界とそれ以前の世界とを比較対照することは重要である。そのことによって、商品世界のもつ意味や問題もあきらかになってくるだろう。さらに、商品世界が今後どうなっていくかを想像することもできる。
 ところで、このブログではマーシャルの『経済学原理』を読もうとしている。
 いまは予備的な考察や基本的概念の整理を終えて、第3編「欲望とその充足」にはいるところである。
 商品世界は生産だけで成り立っているわけではない。消費がなされなければ、その世界は回っていかない。
 商品世界を生みだす最大の要因は資本である。だが、その資本も、資本がつくりだす商品が流通し、販売され、購入されなければ、資本として維持できない。
 生産、すなわち供給の側だけで、商品世界がつくられているわけではない。消費、すなわち需要の側の動きがあって、はじめて商品世界は成り立つのである。
 マーシャルは、そのことを強く認識していた。そして、そのうえで、消費・生産・分配からなる商品世界の構造をさぐろうとしていたのだといってよい。
 とりわけ、かれが意識したのが、消費と生産、すなわち需要と供給のぶつかる場である市場の問題だった。
 しかし、その前提として、消費、すなわち需要の問題が検討されなければならない。
『経済学原理』第3編の「欲望とその充足」は、需要がどのように成り立っているかを考察しようとしたものである。
 ここで、若干われわれの問題意識をつけ加えておくと、近代において、消費・生産・分配からなる経済の循環構造、いいかえれば分離と結合からなる経済の仕組みが生まれるのは、貨幣と商品によって生活世界が形成される商品世界が社会の基本となることによってである。
 商品世界の実体は商品と貨幣からなり、それを支えているのが消費・生産・分配からなる経済構造だといってよい。商品と貨幣には、いわば消費・生産・分配の構造が隠されており、商品と貨幣は対になって商品世界を動かしている。そのことをまず踏まえておいてもよいだろう。
 それはさておいて、最初にマーシャルは「最近にいたるまで需要すなわち消費の問題はいささかなおざりにされてきた」と論じている。
 その原因は、第1にリカードが生産費に力点をおいて交換価値を規定してきたこと、第2に最近は数理的な思考が進んできて、需要についての綿密な分析が必要になってきたこと、第3に人びとの幸福や福祉と消費がどのように関係しているかを吟味しなければならなくなったためだとしている。
 とはいえ、消費、すなわち欲望とその充足は、人間の経済生活の一面であって、それだけを取りあげてすませるわけにもいかないと強調することも忘れてはいない。
 未開人にくらべ、現代人の欲求は多種多様、かつ大量に事物を求めるようになり、事物の品質の向上や、事物の選択の範囲の拡大をも望むようになった、とマーシャルは論じている。
 最初の重要な一歩は、火の発見だった。火によって、多様な食料を調理することを学び、それによって食品の種類も量も次第に増えていった。
 衣服にたいする欲求は、自然の欲求にとどまらず、風習や地位、それに自分をよりよく見せようとする欲望に支えられている、とマーシャルはいう。
 住宅は雨露をしのぐだけが目的ではない。人びとはより快適な住宅、「多くの高次な社会的活動をおこなうための要件」としての住宅の拡充を求めつづける。
 さらに、人間の欲求は衣食住にかぎられるわけではない。文学や芸術、音楽、娯楽、旅行、運動なども欲求の大きな要素である。
 また人間には優越性への欲求もある。「[よりよいものを求めるという]この種の欲求こそ最高の資質、最大の発見を生みだすのに大きな貢献をするのであるが、またそれらにたいする需要の側面においても少なからぬ役割をはたすのだ」と、マーシャルはいう。

〈おおざっぱに言えば、人間の発展の初期の段階ではその欲望が活動をひき起こしたのであるが、その後の進歩の一歩ごとに、新しい欲望が新しい活動を起こしというより、むしろ新しい活動の展開が新しい欲望を呼び起こしてきたとみてさしつかえないようである。〉

 原則的に、マーシャルは、欲望は「努力と活動」から導きだされたもので、重要なのはむしろ「努力と活動」のほうであり、欲望の充足はその結果、あるいは補完物だととらえている。このあたりはいかにもマーシャルらしい。
 次にマーシャルは消費者需要について取りあげる。流通業者や製造業者が生産目的で、何かを購入したとしても、それは最終的には消費者需要によって規制されている。「したがって、すべての需要の究極の規制要因は消費者需要にある」
 効用と欲求は相関しているが、欲求は測定できない。「その測定はある人がその欲求の実現ないし充足のために支払おうとする価格を介しておこなわれる」
 ここで、マーシャルは個々人の欲望の法則、ないし欲求を満たす効用の法則について論じる。
 ここで持ちだされるのが欲望飽和の法則、すなわち「効用逓減の法則」である。
「ある人にたいするある財の全部効用はかれのその保有量の増加につれて増大していくが、保有量の増加と同じ速度で増大していくわけではない」
 そこには限界効用(marginal utility)が発生する。誤解されやすいが、ここでいう限界とはあくまでも(最終的な)追加という意味である。つまりある財にたいする追加購入によって生じる効用が限界効用である。
 ある財の消費にあたっては、限界効用逓減の法則が成立する。
「ある人にたいするある財の限界(追加)効用はかれがすでに保有するその量が増大するにつれて逓減していく」
 追加の効用が逓減するというのは、たとえばビールは2杯目より、最初の1杯がうまいという意味である。
 人間の消費行動が、はたして限界効用逓減の法則によってのみ説明できるのかどうかは疑問の余地がある。それは仮説にとどまっているとみるべきだろう。
 だが、ここで限界効用逓減の法則がもちだされるのは、欲求は測定できず、それは価格によってしか表せないという次の展開を導くためなのである。
 効用の大きさは具体的な数字で表せるわけではない。それが数量で表せるとしたら、経済においては価格によらざるをえないということになる。
 いま、たとえばある銘柄のコーヒーの粉1袋が3000円だとする。ある人は1年のうちにこれを1袋しか買わない。かれがこれを2袋買わないのは、追加の1袋の効用が3000円の価値があると認めていないからである。
 この3000円の価格を、マーシャルは「限界需要価格」と名づけている。
 ところが、いまコーヒーが何らかの理由で値下がりして、1袋3000円ではなく2600円になったとしよう。すると、ある人は1年にコーヒーを1袋ではなく、もう1袋買うようになるかもしれない。そこでは、ある人にとって、新たな「限界需要価格」が逓減する限界効用を満たすものとなっているからである。
 限界効用が逓減すると仮定すれば、価格と需要について、たとえば次のような関係が成り立つ。

   値段   コーヒー
  3000円    1袋
  2600円    2袋
  2200円    3袋
  1800円    4袋
  1400円    5袋

 縦軸に価格をとり、横軸に数量をとって、これをグラフに表せば、右下がりの需要曲線がえがけるだろう。
 マーシャルはこれをひとりの需要にかぎらず、市場全体の一般市場についても拡張できるとする。
 それは日々の消費財だけではなく、耐久財についてもあてはまる。耐久財はいったん購入すれば、一定の時間がたたなければ、次の追加購入はなされないものである。ところが、その値段が下がれば、それまで耐久財の購入をためらっていた人が、それを購入しようと決断し、それによって需要が高まる。
 こうして、一般的には次のようにいうことができる。

〈大きな市場──そこでは富裕なものも貧しいものも、年とったものも若いものも、男も女も多種多様な嗜好・気性および職業をもった人々もたがいに混じりあっている──においては、個々人の欲望の特殊性はたがいに相殺しあって総需要の比較的規則的な階差を生みだしていくであろう。一般的に使用されている財の価格がたとえわずかでも低落すると、他の事情に変わりがなければ、その総売上高を増加させる。〉

 ここから、マーシャルは一般的な需要法則を導きだす。

〈売却しようとする量が大であればあるだけ、購入者を見いだそうとするには供給しようとする価格を低くしなくてはならない。あるいはいいかたを換えると、需要される量は価格の低落によって増大し、価格の上昇によって縮小するのだ。〉

 マーシャルは、この一般的な需要法則を、(競合商品の発達を含め)商品世界全体の広がりのなかで、さらに考察していくことになる。

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いくつかの基本用語──マーシャル『経済学原理』を読む(5) [経済学]

 断続的に読み進めている。われながら集中力のないことには、あきれるほかないのだが、いまのような刺激の強い時代には、興味があちこち移るのもいたしかたない。しかし、いつかは全体をまとめなおしたいと思っている。
 またマーシャルの「原理」に戻ってきた。
 第2編で、マーシャルは経済学の基本用語を定義するところからはじめている。きょうは、それをごく簡単にまとめておく。
(1)富
 富は財からなるといってよい。
 財は物質的なものと非物質的なものに分類することができる。非物質的なものは、主に人的なものである。
 ここでマーシャルは「自由財」という用語をもちだす。それは自然によって与えられ、だれもが自由に利用できる財のことである。しかし、現在のように、経済が発展してくると、「自由財」という概念は、再検討の必要が生じている。
 それはともかく、ある人の富は、私有権をもつ物質的な財と、人的関係(契約や権利)にもとづく非物質的な財からなる。つまり、個人の富は「物質的ならびに人的な富」からなる、とマーシャルはいう。
 だが、人は私有していない財からも便宜を得ている。すなわち、自然環境や社会環境(軍事的安全保障や道路、水道、ガス、社会福祉なども含む)からである。
 自然環境はともかくとして、社会環境は私有されない「公共財」とみなすことができる。こうした公共財は国民の公有財産だが、音楽や文学作品、科学的知識や発明も、ある面では公共財にちがいない、とマーシャルはいう。
 したがって、国富は個々人の富の総計から成り立っているわけではなく、むしろそれ以上のものである。それは世界の富に関してもいえる。世界の富は、それぞれの純国富を合計したものではない。たとえば大洋が地球全体の富であることを考えれば、世界の富は国富の総計よりも大きい、とマーシャルは論じている。
 財は価格であらわすことができる。そして、マーシャルは、価格とは貨幣で表現された財の交換価値にほかならないと注記している。
 なにはともあれ、私有財産にとどまらず、公共財の大きさに富の豊かさの尺度を求めたところに、マーシャルの真骨頂があるといえるだろう。

(2)生産、消費、生活水準
 人間は物質をつくりだせない。つくれるのは効用だけだ。「別のことばでいえば、かれの努力と犠牲によって物質の形態としくみを変化させて欲求の充足によりよく適合するようにするだけなのである」と、マーシャルはいう。
 農民や漁民や職人が効用をつくりだすように、八百屋や魚屋や家具商などの商人も商品を移動し、配置することで効用をつくりだしている、とマーシャルは主張する。商人が不生産的とはいえない。マーシャルによれば、生産とは効用をつくりだすことにほかならないからだ。生産的労働と不生産的労働をめぐる議論はばかばかしいという。
 いっぽう、人間が消費するのも効用だけである。家具にせよ何にせよ、消費によって、人はその物質自体を消尽しているわけではなく、商品の効用を使用し、味わっているにすぎない。
 財は人の欲求を直接満たす消費財(たとえば食品や衣服など)と、間接的に欲求を満たす生産財(道具や機械)に分類することができる、とマーシャルは述べている。
 労働とは、なんらかの効用を生みだすことを目標にしてなされる精神的・肉体的活動を指す。したがって、労働はだいたいにおいて生産的活動であり、召使いの労働とてけっして不生産的ではない。
 生産の目的は消費である。そして、消費は生産を促す。そのような消費がなされることを、マーシャルは生産的消費と名づけている。
 かつて必需品とは、生活を維持するのに必要かつ十分なものを指していた。だが必需品の水準(言いかえれば生活水準)は時と場所によって異なる。その水準を下げることは、多くの損失をもたらす。
 マーシャルは現在(20世紀はじめ)のイギリスにおいても、通常の農業労働者、あるいは都市の未熟練労働者が、次のような必需品(生活水準)を満たせるようにすべきだと述べている。
 それは、数室つきの住宅、下着とあたたかい衣服、清浄な水、肉と牛乳と茶をふんだんにとれる食事、一定の教育と娯楽、主婦が育児と家事を適切におこなえる自由時間というものだ。さらに慣行として、ある程度の嗜好品も必需品だとしている。
 労働を神聖視せず、消費を重視し、生活水準の上昇をめざすところに、マーシャル経済学の性格がにじみでている。

(3)所得、資本
 貨幣経済において、所得は一般に貨幣形態をとる。
 いっぽう、所得を得るために、企業は資本を必要とする。資本は工場や建物、機械、原材料、従業員への支払い、営業上ののれんを確保するためなどに用いられる。
 企業の純所得は、粗収入から生産経費(原材料費や賃金など)を控除したものである。個人営業の場合も、この考え方は成り立つ。
 純所得から借り入れの利子を差し引いたものが純収益となる。純収益が得られない場合、企業は営業の続行を断念するだろう、とマーシャルは書いている。この純収益は利潤と呼ばれる。
 企業の年間の利潤は、年間の経費にたいする収益の超過額である。また、資本に対する利潤の比率は利潤率と呼ばれる。
 企業活動には、さらに地代(レント)が発生する。これは土地などの自然要素の借り入れにたいして支払われる費用である。加えて、機械など人工の設備にたいする借り入れ(レンタル)にたいしても、費用が発生するが、これは地代と区別して、準地代と名づけよう、とマーシャルはいう。
 次にマーシャルは資本の中身に立ち入り、これを消費資本と補助(手段)資本に分類している。消費資本とはいわば賃金にあたる部分である。これにたいし、補助資本は労働を補助する材料、すなわち原材料や道具、機械、建物から構成される。
 いっぽうで、資本はJ・S・ミルが提案したように、運転(流動)資本と固定資本に分類することもできるという。賃金や原材料から構成される運転資本が1回ごとにその役割を終えるのにたいし、機械や工場などから構成される固定資本は、その耐用期間に応じて、商品をつくりだす。
 さらにマーシャルは、実業家の観点からだけではなく、社会的視点から所得について考察する。
 所得とは資産を利用することによって得られる報酬であり、それは一般に貨幣所得のかたちをとる。
 生産の3要素は土地、労働、資本であり、そのそれぞれが資産だと考えられる。したがって、地主は土地、労働者は労働、資本家は資本を資産として利用することによって、それぞれの所得を獲得する。その所得は地主なら地代、労働者なら賃金、資本家なら利潤というかたちをとるだろう。
 こうした所得(純所得)を総計したものが社会所得、すなわち国民所得となる。国民所得は(年間の)富の流れ(フロー)をあらわす尺度である。
 マーシャルはこう述べている。

〈貨幣所得すなわち富の流れは一国の繁栄を計る一つの尺度となり、しかもこの尺度は、十分信頼できるものではないけれども、それでもある意味においては富のストックの貨幣表示額という尺度よりもすぐれている。〉

 マーシャルは現在でいう国民総所得、すなわち国民総生産の考え方を、はじめて導入したということができる。
 しかも、経済指標としては、国民所得のほうが国富よりもすぐれているとした。なぜなら、国民所得はすぐに消費できる財貨に対応しており、現在の豊かさの度合いを示す指標だからである。
 ここでもう一度整理しておこう。
 国富は富のストック、国民所得は所得の(1年間の)フローを示す概念である。
 国富は純資産の総計からなる。資産は不動産その他の財産、貯蓄、保有株などからなり、個人や企業、国家が所有する純資産を総計したものが国富となる。
 アダム・スミスの『国富論』は、国民の富をいかに増やすかを論じた著作とみることもできる。しかし、じっさいにスミスが強調したのは、資本の役割についてだった。だが、スミスの時代には、国富と国民所得のちがいがさほど意識されてはいなかった。
 マーシャルは国民所得こそが主な経済指標であると主張することで、経済の新たな目標を示した。かれにとっても、資本が重要であったことはまちがいない。資本は需要と供給に応じて、資産のなかから取りだされる。だが、マーシャルにとって、資本の目的は、単に企業(資本家)の所得を増大させることではなく、国民所得全体を潤すことだったのだ。
 そのことは、最初に強調しておいてもよいだろう。

経済法則──マーシャル『経済学原理』を読む(4) [経済学]

 資料を集め、整理し、解釈し、それをもとに推論をおこなう。それはほかの科学と同じように、経済学でも用いられる手法だ、とマーシャルはいう。帰納と演繹はどちらも欠かすことはできない。
 ときには、新しい事実を確認することも、既知の事実の推論を吟味しなおすことも必要になってくるだろう。
 科学的分析からは法則が導かれる。その前提となるのは、きわめて精密な条件である。
 人間の行動は多様で、不確かだから、そこから精密な命題をとりだすのはむずかしい。とはいえ、人間行動の傾向についても、何らかの命題はとりだせるはずだ、とマーシャルは考える。
 マーシャルによれば、経済法則は次のように定義することができる。

〈経済法則、すなわち経済的傾向に関する命題は、その主要な動機の強さが価格によって測定できるような行為に関連したところの社会法則なのである。〉

 経済にからむ人間行動は、価格によって左右される傾向があり、ある条件のもとなら、一般にこうなると予測される命題が経済法則として取りだされることになる。
 ただし、経済法則は道徳からは切り離されているし、それが人間的に正しいとはかぎらない、とマーシャルはいう。
 しかも、経済法則は一定の条件のもとにしか成り立たないから、それはあくまでも仮説というべきものである。
 さらに、「経済的な分析と推論とはひろく適用されうるものであるが、それぞれの時代それぞれの国はそれに固有の課題をいだいており、社会状態が変動するたびに新しい経済学説の展開が要求される」。
 経済学者はどのようなテーマを取り扱うべきか。
 これについても、マーシャルははっきり書いている。

〈富の消費と生産、ならびに分配と交換、産業と交易の組織、金融市場、卸小売、外国貿易、および雇主と従業員の関係──これらを、とくに現代においてうごかしている原因はなんであるのか。これらすべての運動はたがいにどのように作用し反作用しあっているのか。これらの究極の傾向は即時の傾向とどうちがうのか。〉

 経済全体の仕組みと流れを理解することが経済学の目標とされている。そこには何らかの経済法則がはたらいている。さらに、マーシャルは時間の概念を導入し、長期と短期の動きを射程にいれていたことがわかる。
 ほかにも、価格と欲求の関連、富と福祉の関連、生産性と所得の関連、経済自由と独占、租税が社会にもたらす影響などといった問題もある。
 経済学は理念からではなく現実から出発する、とマーシャルはいう。
 ただし、現実は単に肯定されるだけではない。それは変更可能なものとして措定される。
 ここでマーシャルはイギリスの当面する問題として、つぎのような課題を挙げている。
 経済自由を展開するにあたって、その効果を促進し、その弊害を抑制するには、どのようにすればよいか。
 分配の平等化は望ましいにちがいないが、そのさい経済的指導者の活力をそぐことなく、貧しい人びとの所得を増大させるには、どのようにすればよいか。
 労働者がより高レベルの仕事をおこなえるようにするために、どのような教育をほどこすのがよいのか。
 文明生活に欠かせない公共的活動は、どのようなやり方で充実させていけばよいのか。
 個人や会社の業務にたいする政府の規制はどの程度まで認められるのか。
 経済学はこうした社会的生活にかかわる問題についても、一般的な指針を出せるよう努めねばならない、とマーシャルはいう。ただし、その方向性が政治的価値観にゆがめられてはならないことはいうまでもない。
 経済学者には知覚と想像力、理性が求められるが、とりわけ重要なのは、問題の所在を探る想像力だ、とマーシャルは強調する。
 たとえば、失業を減らし、雇用を安定化させるためにはどのような対策をとるべきか。こうした問題を検討するさいにも、経済学者はあらゆる経済知識に加え、力強い想像力をはたらかせることが必要である。
 最低賃金の増加が、雇用者、労働者、産業にあたえる影響を考察する場合も、広い知識と想像力、そして時に批判力が必要になってくるだろう。それは、その他の経済問題を検討するさいも同様だ、とマーシャルはいう。
 ところで、マーシャルがユニークなのは、経済学者には同情心がだいじだとしていることである。それも「とくに同じ階級のものばかりでなく、他の階級のものの境遇に身をおいて考えてみることのできるような非凡な同情心」が必要だと述べている。これも一種の想像力にはちがいない。
 マーシャルは経済自由に力点を置いた。そして、その経済自由を実現する鍵は、産業組織(企業ないし会社)のあり方にあると考えていた。それが、どのようなあり方なのか、いまは問わない。
 だが、マーシャルにとって、経済自由が反社会的な独占を意味していなかったのはたしかである。かれはまた、「全民衆の福祉こそ、すべての個人的努力および公共的政策の究極の目標」だと考えていた。財産権を廃止すべきだという主張にたいしては懐疑的だった。そうした主張にたいしては、「慎重で柔軟な態度をとるのが、責任ある人間のなすべきことだ」と述べている。
 こうした論及のなかから、かれの経済自由がどのようなものであったかを、ある程度推察することができる。

経済学とは何か──マーシャル『経済学原理』を読む(3) [経済学]

 経済学の主な目的は、ビジネスの世界で活動する人間の行動を研究することだ、とマーシャルは述べている。そして、ビジネスに取り組む姿勢は、人さまざまだが、「それでもなお、日常の業務にとっては、その仕事の物質的報酬たる(貨幣)収入を得ようとする欲求こそが最も着実な動機」なのだ、と明言している。
 人の欲望は、直接には測定できない。しかし、500円だせば、たとえば、たばこを買い、お茶を飲み、タクシーに乗るなどの、どれかができる場合、人は時と場所に応じて、どれかを選択するだろう。
 つまり、貨幣を通じて、人は何らかの欲望を満たすことを期待している、とマーシャルはいう。その欲望は、自己の肉体的満足に向けられているとはかぎらない。他者に何かを与えることが喜びだとすれば、それもまたひとつの欲望にちがいない。
 しかし、いずれにせよ、その動機はともかく、経済学的にみれば、重要なのは何らかの欲望に裏づけられた貨幣の動きである。「経済学は貨幣による尺度の研究だけに終わってはならないが、それでもこの研究はその出発点ではあるのだ」とマーシャルはいう。
 貨幣のもたらす快楽や、それを失う苦痛は、時と場所、あるいは人によって異なる。同じ金額でも、所得の大小によって、快楽と苦痛の大きさは異なるだろう。しかし、それにもある傾向はみられる。統計で所得が同一の人を集め、均(なら)してみれば、貨幣による快楽や苦痛は、ほぼ同じ程度と推測することができる、とマーシャルはいう。経済学は統計学でもある。
 同じ10万円でも、それをもらったり、なくしたりした場合、貧しい人と金持ちでは、その意味は大いに異なる。しかし、両者とも、10万円より20万円のほうが、その満足度あるいは打撃は、より大きいといえるだろう。その点、数字の大小は、それなりに共通の意味をもっている。
 ビジネス社会で、日常生活の中心をなしているのは、生計の資を得ようとする部分だといってよい。人びとは貨幣を求めて行動する。それはけっして低級な行動ではなく、現代社会での一般的な人間行動である、とマーシャルはいう。
 貨幣は「一般的な購買力」であり、「物的富にたいする支配権」を得るための手段として追求される。それは、たしかに競争かもしれない。しかし、ビジネス社会は、正直と信頼があって、はじめて成り立つ、とマーシャルは論じている。
 さらに、貨幣を求める行動は、苦痛だとはかぎらず、大きな楽しみのもととなることも多い、と指摘するのが、いかにもマーシャルだ。なぜなら、ビジネスから得られる成果が、人の競争本能や権力本能を満たすからである。
「商工業者はその資産をふやそうとする欲求よりも商売がたきにうちかとうとする希望によってうごかされることが多い」と、マーシャルは書いている。
 こうした発言をみると、マーシャル経済学は心理学でもあることがわかる。
 さらにマーシャルはいう。
 人が職業を選ぶさいには、それなりの社会的地位が得られる職業を選ぼうとするだろう。人はまわりから協賛を得るとともに侮蔑を避けようとするものである。また人は、自分の生存中も死後も、家族をゆたかに暮らさせたいと思うものである。経済学は貨幣の動きを分析する学問にはちがいないが、貨幣所得の背後には、人びとのこうした行動があることを忘れてはならない。
 初期の経済学者は、個人の行動の動機にあまりに重点を置きすぎた、とマーシャルはいう。これからは共同事業や公共福祉、協同組合運動なども含め、社会生活全体を経済学の対象としなければならない。
 最後にマーシャルは、経済学とは何かについての暫定的な結論として、こう述べている。

〈経済学者は個人の行動を研究するが、それを個人生活よりも社会生活に関連させて研究するのであり、したがって気質や性格についての個人的な特殊性はほとんど問題としない。〉

 つまりマーシャルは、個人的な特性を捨象して、集団としての人びとに焦点を合わせ、かれらの貨幣取得努力や貨幣使用活動を考察することを、経済学の目線としたのである。
 そして、経済活動にはある程度の予測が可能だと考えた。たとえば、ある場所で事業をはじめるとして、人を雇う場合、その能力に応じて、どれくらい給与が必要かはおのずから決まってくる。また、何かの事情で生産が減った場合、価格がどの程度上がるか、また価格の上昇が生産にどのような影響を与えるかも予測することができる。
 経済学はこうした単純なケースから出発して、次にさまざまな産業の配置や遠隔地間の交易条件、さらに景気変動の影響、税の価格への転嫁などについても考察し、その動きを予測することもできる、とマーシャルはいう。
 経済学があつかうのは、理念化された「経済人」ではなく、ありのままの人間だ、とマーシャルはいう。人間は利己的であり、虚栄心や冷酷さをもつ反面、仕事をやりとげることに誇りをもち、家族や隣人、祖国のために自分を犠牲にすることもいとわない。そうした血と肉をもった人間を対象にするのだというのは、いかにもイギリス経験論に裏づけられた見解である。
 最後に、経済学は事実と記録にもとづき、検証に耐えるものでなくてはならないとも述べている。これも大いに心すべきことだ。

経済自由──マーシャル『経済学原理』を読む(2) [経済学]

 前回から間があいてしまった。
 前回は『経済学原理』を読むにあたっての心構えみたいなものを記してみたのだが、きょうからはいよいよ本文を読むことにする。
 といっても、マーシャルは悠々と論を進めており、本論にはいる前に、まず「予備的な考察」が長々とつづく。こちらは暇人なのだから、あせらずにのんびり読むことにしよう。
「序論」において、マーシャルは「経済学は一面においては富の研究であるが、他の、より重要な側面においては人間の研究の一部なのである」と書いている。
 経済が人の日常生活に与える影響はきわめて大きい。人は経済活動をいとなむなかで、みずからの性格や思考、感情を形成していく。
 所得に大小があるのはやむを得ない。しかし、極度の貧困は「肉体的・知能的および道徳的な不健全さ」をもたらす、とマーシャルはいう。

〈過重に働かされ、教育は十分にうけられず、疲れはてて心労にさいなまれ、安静も閑暇もないために、[人が]その性能を十分に活用する機会をもちえないというようなことは、甘受してよいものではない。〉

 貧困の研究は、経済学の大きな課題だ。
 貧困はなくしていかなければならない。「すべての人々が、貧困の苦痛と過度に単調な労苦のもたらす沈滞的な気分から解放されて、文化的な生活を送る十分な機会」を与えられなければならない。
 そのための条件をさぐることが経済学の目標のひとつだ、とマーシャルは書く。
 歴史的にみれば、現代の産業生活、生産、分配、消費の方法は、わりあい新しいものだ。その特徴はひと言では言い表せない。
 独立独歩と競争というのも、そのひとつの側面にすぎない。なぜなら、共同と結合もまた、産業生活の特徴だからである。さらに「利己心ではなく、慎重さ」こそ、現代の特徴になっている、とマーシャルはいう。
 共同体のきずなは弱まったかもしれないが、家族のきずなは強まり、またよその人びとにたいする差別は減り、同情が増してきたのも、現代の特徴である。人間が以前にくらべて無情冷酷になってきたという証拠は見当たらない。
 また、現代の商取引についても、以前よりもはるかに「信頼にこたえようとする習慣と不正を退けようとする力」が強まった、とマーシャルは書いている。
 貨幣の力が強くなる以前の古代のほうが、人は安楽に暮らしていたという作り話をマーシャルは信じない。人びとの生活状態は、現代のほうがよほどすぐれている。
 競争を非難する人は多いが、競争があるからこそ、社会の活力と自発性が維持されている面もある。競争を規制すれば、一団の特権的な生産者が形成され、「有能なものがみずから新しい境遇を切り開いていこうとする自由を奪ってしまう」恐れがある。
 協同社会の推奨者は、理想社会のもとでは、人びとが私有財産を放棄し、だれもが一般の福祉のために全力を尽くしてはたらくだろうと主張する。だが、宗教的熱意にかられた小集団を除いて、普通の人間が純粋に愛他的行動をとりつづけるのは、ほぼ不可能だ、とマーシャルは断言する。
 そのうえで、現代の産業的生活を言いあらわすには、競争という表現がいやなら、「経済自由」という言い方をしたほうがいいかもしれない、とマーシャルは提言する。
 この経済自由が確立されるまでには、長い歴史を要した。しかも、18世紀末に、産業と企業の自由が解き放たれた当初は、多くの弊害をともない、その改革は冷酷で、荒々しいものとなった。しかし、それはほんらいの経済自由の姿ではない。
 経済自由は、「知性と決断力にとんだ精神が……忍耐強い勤労精神と結合」することによって花開く。そして「全国民が経済自由の教説をうけいれるようになってはじめて新しい経済時代の夜明けが訪れた」のだ、とマーシャルは論じている。
 経済自由は身分制社会にたいする産業社会の思想を意味するが、自由という概念はなかなかむずかしい。しかし、いまそれについて拘泥するのは、やめておこう。
 いずれにせよ、ここで、マーシャルは社会主義ではなく自由主義の立場をとることを表明している。そして、その自由主義社会のもとでは、企業と家計が経済自由をもって、独立独歩のなか、競争しあいながらも、たがいに信頼する関係が築かれることが想定されている。