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均衡分析への補足──マーシャル『経済学原理』を読む(16) [経済学]

 ある商品が急にはやりだして、需要が増えると、その価格が急に上昇することがある。しかも、この流行が長期間つづく場合は、規模の経済がはたらいて、収穫逓増の傾向が生じ、その価格は次第に低下していくだろう、とマーシャルは述べている。
 一般に商品価格が低落すれば、その商品にたいする需要は増大する。逆に商品の価格が上昇すれば、その商品にたいする需要は減少する。
 供給の場合は、需要の場合ほど単純ではない。短期的にみると、価格が上昇すれば、供給も増大する。長期的にみても、収穫逓増の法則にしたがう商品はいくらでも供給を増やしていくことができる。
 その結果、産業が発展し、供給が増えるにつれて、次第に価格は低下していくことになる。その動きについていけない個別企業は衰退を免れないだろう。
 とはいえ、価格の下落には限度がある。財貨の生産には装備や営業面でも多額の資本が投入されている。主要費用に加えて、そうした補足費用も回収されなければならないとすれば、価格下落にもおのずから歯止めがかかってくる。
 長いあいだ、進歩をつづけている企業というのは、意外と少ないものだ、とマーシャルは指摘している。したがって、産業の発展をみるには、代表的企業の動きをみて、経済行動のモデルを把握するほかないという。
 そこで注目すべきは、代表的企業の限界費用である。この企業においても、需要が急増した場合、それに際して産出高を増やすなら、供給価格も上昇していく。しかし、それは短期の場合である。
 それでも需要が堅調に伸びていくなら、長期的にみれば、需要に対応して商品は低い価格で供給され、しかも企業にとっては収益があがるような生産規模の拡張が工夫されるだろう。経済は「静学的均衡」にとどまることはできないのだ。
 マーシャルはさらに需要と供給の変動について、考察を進めている。
 流行の変化、新発明、人口の増減、資源・原料の枯渇、代替品の開発など、需給関係に影響をもたらす要因は多い。
 需要が増大するのは、新商品の流行や普及・代替、新市場の開発、社会の富ないし一般的購買力の増加などがみられる場合である。いっぽう、供給側もそれに対応して、商品の種類や量を増やすとともに、その価格をできるだけ安くしていくだろう。それにさいしては、輸送手段の改善や新しい供給源の開発、新しい生産工程や新しい機械の導入などがこころみられる。逆に需要や供給が減少するのは、購買力が低下したり、税負担が重くなったりする場合と考えられる。
 長期を念頭におくと、ある商品にたいする需要が増大する場合は、規模の経済がはたらいて、供給価格は低下する傾向がある。すなわち、新しい発明、新しい機械の応用、新資源の開発、物品税の廃止、補助金の給付などによって、大幅な生産増大と価格低落が生じるというのである。ここでは、いわば収穫逓増の法則がはたらいている。
 この収穫逓増型の商品に課税がなされた場合は、あるいは逆に補助金が給付された場合は、どのような現象が生じるか。
 マーシャルはこう書いている。

〈課税は需要を減少させ産出高を削減させる。おそらくは製造経費をいくらか増大させ、課税額よりも大幅に価格を上昇させ、結局財政当局の収得する総収入額よりはるかに大きな額だけ消費者余剰を削減させる。その反面、このような商品にたいする補助金の給付は、政府が生産者に支払う総給付額を上回って消費者余剰を拡大させるほど大幅に、消費者価格を低落させる。〉

 マーシャルは消費税や補助金などの財政政策に、政府がよほど慎重でなければならない、と主張しているわけだ。
 需給均衡点は需要側にとっても供給側にとっても、ほぼ最大満足点だとマーシャルはいう。その均衡点においては、当事者のいずれも失う効用よりも受け取る効用のほうが大きくなる。つまり、需給均衡点では、売り手も買い手もおたがいに損をせず、満足を得るのだ。それをはずれていくと、売り手側、買い手側のどちらかが損失をこうむる。したがって、そうした状況は永続せず、ふたたび均衡点への回帰が模索されることになる。
 ただし、この学説は普遍的に妥当するわけではない、とマーシャルはいう。富の分配が不平等であれば、満足度にたいする評価もことなってくるからである。さらに、収穫逓増型の商品の場合は、技術改良による価格の低落が、消費者を利するだけではなく生産者を利することが多い。
 最後にマーシャルは独占について、ふれている。簡単に紹介しておこう。
 ここでいう独占とは「ある個人ないしは数人の連合組織が、売りにだされる商品の分量またはそれらが供給される価格を決定する力をもっている」場合をさしている。独占企業は需要にたいして供給を調節して、最大可能な純収入を確保しようとするだろう。
「独占体のもとで生産される分量は独占がなかった場合に比べるといつも少なく、またその消費者価格はいつも高いように思われるが、じつはそうではない」。 というのも、独占企業のもとでは、競争が激しい場合より、かえって経費が節約できる場合があるからである。店舗数や広告宣伝費も少なくてすむかもしれない。生産規模の大きさにともなうメリットもある。生産方法の改良や機械の導入もよりスムーズにおこなわれるだろう。
 競争を排除することが、公衆により利益をもたらすこともあるのだ、とマーシャルはいう。独占企業が将来の事業の発展を期待して、価格を引き下げることもおこりうる。その場合、会社はべつに人道的動機で動いているわけではないが、「純収入を一時的には多少犠牲にしても消費者余剰を増大したほうがかえって長期的には利益になる」と考えているのだ。
 理想的には、独占企業が商品を販売することで、独占収入を得るだけではなく、同等の消費者余剰をもたらし、双方の純利便が大きくなることが望ましい。いや、むしろ、独占企業が最大可能な独占収入を獲得することだけをめざすのではなく、できるだけ消費者の利益を高めることが望ましいと考えて、商品の価格を低く抑え、販売量を増やしたほうが、社会にとってはメリットが大きいといえる。しかし、実際には、それはなかなかおこりえないことである。
 マーシャルはビジネス活動をふり返りながら、「種々な行動経路について生産者の利害だけでなく消費者の利害にたいしてもある秤量値を与えようとするものは多くはいない」と指摘する。消費者の利害や需要に関する公共的な統計もまだ整備されていない。そのため企業家は経験と勘に頼って、経営判断を下し、おうおうにして失敗する。
 消費に関する研究はまだじゅうぶんに進んでいない。統計もまだそろっていない。需要や消費者余剰に関する研究は将来の課題として残されている、とマーシャルは述べている。公共事業や企業活動のよしあしは、政府や企業のメリット、デメリットだけではなく、消費者のメリット、デメリットをみて、はじめて判断されるのだ、というのが、かれの考え方といってよいだろう。
 マーシャルは独占企業がすぐれているといっているわけではない。しかし、独占企業を否定して、競争が正しいとも主張していない(マーシャルの独占体論は公営企業にも適用できるものだ)。
 独占企業が高価格を維持し、消費者に不利益をもたらすケースも紹介している。そのいっぽうで、公共の利益のために、補完的な独占体は合併するほうが望ましいとも述べている。
 また現実の世界では、純粋で永続的な独占企業などどこにもないと認めている。それどころか、「現代の世界では、既存のものが消費者の利益を増すように開発されていないとすると、これに代わって新しい商品、新しい方法が台頭し、これらに代替していこうとする傾向がいよいよ強くなってきている」とも指摘している。
 独占企業も永遠ではありえない。産業の合理化をめざした企業間の合併も、それがはたして公共の利益につながるかどうかという面から判断・評価されなければならない、とマーシャルは論じている。
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地代と地価──マーシャル『経済学原理』を読む(15) [経済学]

 近代商品世界の特徴は、市場を通じて商品が貨幣によって売買されることである。市場の場所はかならずしも固定されているわけではない。商品のあるところ、商品の流れにおうじて現れ、消えていくものだ。いってみれば、商品のある場所が市場だといってもよい。
 とりわけ重要な現象は、商品世界においては、人間の能力(知力、労働力、サービス活動)と土地が商品の構造に組みこまれ(商品化され)、ランク分けされ、価値づけられていくことだといってよいだろう。人間能力も土地(自然)もほんらい商品たりえない存在である。商品化は、かならずしも搾取を意味するわけではないにせよ、商品世界においては、人間能力も土地(資源を含む)も、商品をつくる商品として機能するようになる。それを人材や労働力、農地や不動産、資源として評価し、商品の構造のなかに組みこんでいくことによって、商品世界は成り立っている。
 それはさておき、今回とりあげるのは、土地の問題である。土地からは地代が発生し、商品としての土地の価値は、地価によって表される。
 マーシャルはいちおう農村と都市を分けて考察しているが、かれが言いたいのは、リカード流の農地における差額地代論が、都市の地価にもそのまま延長して適用できるということである。
 農村においては、土地でつくられる農産物が売買されることによって、生産者の利潤と地主の取り分である地代が発生する。地主と生産者は同じ場合もあるが、20世紀初頭までイギリスではまだ大地主貴族やジェントリーの力が強く、大地主と借地農、農業労働者は分かれていたとみてよいだろう。
 最初に、農産物価格は一般の商品と同じく需要と供給の関係によって決まってくる、とマーシャルは述べている。需要を規制するのは、消費者人口と、人びとの欲求の度合い、そして支払い能力である。いっぽう供給を規制するのは、利用可能な土地の広さと肥沃度、耕作者の数と資力、生産費用である。もちろん、天候や災害は農産物の収穫に大きな影響をもたらす。
 ここでマーシャルは、何らかの事情(たとえば戦争)で、農産物の増産が必要になった場合を想定する。そのときはさらに化学肥料を投入したり、砕土機を導入したり、耕作者を増やしたりして、資本と労働が追加投入され、それによって収穫量の増加がこころみられるだろう。
 追加所得が得られるかぎり、投資は引きつづきなされるし、追加所得が得られなくなれば、投資はストップする。収穫逓減の法則がはたらくと考えてよい。したがって、農産物の供給価格は、限界生産経費(費用)によって規制されるということができる。追加費用によって生みだされる純所得は、じゅうぶんな正常利潤をもたらすものでなければならない。その正常利潤が得られなくなれば、追加投資はなされない。その正常利潤を、マーシャルは「準地代」と名づけている。
「資本および労働の収益性をともなう投入の限界における生産費こそ、需要と供給の全般的な状態の規制のもとで、全生産物の価格がそれに向かってひきよせられていくところのものにほかならない」と、マーシャルはいう。だが、もちろん、限界生産費だけが価格を決定するわけではない。需要側の要因もあるからである。
 耕作の限界は、農作物にたいする需要と供給によって規制される。地代が生じるのは、土地の肥沃度や土地の条件、生産物の価格に応じてである。言い換えれば、地代が生じるのは、土地の状況のちがいによるといっていいだろう。しかし、農産物価格を決めるのは地代ではなく、地代はあくまでも結果として(いわば差額地代として)もたらされるとみるのが正当だ。にもかかわらず、地代は当初から設定されていることが多い。
 自由市場においては、土地から得られる収入は地代の性格をもっている。無限に利用できる土地があり、しかも肥沃度もその他の条件も変わりがないのであれば、地代は発生しない。だが、土地が稀少になってくる時点がかならずあらわれてくる。いい土地と悪い土地(あるいは開拓地と未開拓地)の区別もかならず出てくる。そこから地代が発生する。
「土地は個別の生産者の視角からみれば、資本のひとつの特殊な形態にほかならない」と、マーシャルは書いている。生産者にとっては、そこからどれだけの生産物が生みだされるかが問題なのだ。その点は、農業者も製造業者、流通業者もなんら変わりはない。
 土地はたとえ改良が可能だとしても、その面積にはかぎりがあり、いわば「永続的で固定的なストック」である。そこからは、豊かな土地と貧しい土地、市場に近い土地と市場から遠い土地の区別が生じてくる。
 いま農産物に課税がなされると仮定しよう。その影響は消費者にとどまらず、生産者にもおよぶ。しかし、課税による影響は、市場に遠い貧しい土地と、市場に近い豊かな土地とではことなってくる。その打撃は遠方で貧しい土地の生産者のほうが大きい、とマーシャルは論じている。
 土地の所有者が地主であれば、農産物にたいする課税の影響は地代にもおよんでくる。地代そのものへの課税は、農産物価格に影響をおよぼさないが、地代に重い税が課されることになれば、土地所有者は土地改良への意欲を失っていくだろう、とマーシャルは弁ずる。
 次にマーシャルは同じ畑にホップとカラスムギが植えられている場合を想定して、ホップに課税がなされる場合、どのような事態が生じるかを推察している。農業者は税負担を軽減するために、おそらくホップの作付けを減らして、カラスムギを多く栽培しようとするだろう。しかし、ホップへの課税にともなってホップの収穫が減り、それにたいしてビール需要がさほど減らないとすれば、ホップの価格自体が上昇していくことになる。そうなると、ホップの減産に歯止めがかかり、作付面積は回復していくはずだ。
 人が常に必要とする農産物にしても、需給の変化によって、商品の動きは絶え間なく変わっていく。新しい作物が登場して、作物への需要が変化すれば、作付面積にも影響があらわれ、それにより作物の供給が調整されていく。そのプロセスをマーシャルはことこまかに説明している。
 地代は農地においてのみ発生するわけではない。
 農地では、資本と労働の追加投入にたいし、徐々に収穫が増えていかなくなるという「収穫逓減の法則」がはたらく。にもかかわらず、「耕作者は生産物を販売するよい市場と必需品を購入するよい市場とをもつことによって、いっそう高く売りいっそう安く買うことができ、社会生活の便益とたのしみにいっそうめぐまれるようになる」。それは「外部経済」(この場合は都市に近いという)がはたらくためだ、とマーシャルはいう。
「外部経済」は場所の有利性でもある。そこから場所価値が発生し、地価が生まれる。地価とは「建築用地の敷地価額」のことである。マーシャル流のもったいぶった言い方をするなら、「ある建築用地の敷地価額の集計額は、建造物をとりのぞいてその用地を自由市場で売れば取得しえたであろう地価を示すものにほかならない」ということになる。
 地価の大半は「公共的価値」によってはかられる。公共的価値といっても、役所が地価を決めるというわけではない。ほとんどだれもがここは高いと思う地所が高くなり、ここは安いと思う地所が安くなるといった意味合いである。
 ここでマーシャルは、企業が地方で新都市を開発するケースを持ちだしている。企業はその場所がいずれ高い場所価値をもつと見越して投資をおこなう。そこには工場なり商店なり住宅なりが立つことが見込まれており、企業は危険をともなう投資にみあう純収益を期待している。その純収益は土地から得られる所得といってよいだろう。
 だが、新都市の開発でなくても、何らかの事業投資が、既存の土地価格を上昇させることもある、とマーシャルはいう。たとえば、近くに新たな鉄道駅がつくられるとか、排水設備が改良されるとかいったことが、地価を上昇させるのだ。発展しつつある都市の近郊に広がる土地が、整備された住宅地として開発される場合も、その場所が公共的価値をもつようになると、地価が上昇して、元の地主と開発者には大きな報酬がもたらされることになる。
 住宅の賃貸費には、住宅建設費と地代が含まれている。住宅と土地の所有者は、そこに投資された費用を何十年かかけて回収し、収益を得ることになる。
 建築業の場合も農業と同じように、これ以上、資本と労働を追加投入しても収益が減少するという限界面が存在する。しかし、敷地が稀少価値をもっている場合は、敷地の拡張に追加用地費をかけるよりも、その場所での建築投資を増やしたほうがよいこともある、とマーシャルは述べている。
 ここでマーシャルが想定しているのは、稀少な土地にいわば高層マンションを建てようという場合である。用地費は節約できるだろう。しかし、高層マンションへの投資限界を定めるものは「需要供給の価値を規制する力のはたらき」にほかならない。はたして、建設コストに見合う需要があるかどうかが問題になってくる。
 ホテルや工場を建てる場合は、「地価が安ければ多くの土地を使うが、地価が高ければ土地は少なくし高層の建物をたてようとする」。そこでは、土地と建築にかける費用の組み合わせが選択されることになる。
 市街地の店舗やマンションにたいする需要が増大していくなら、地価が上昇しても、それはじゅうぶん見合うようになる。逆に、その場所に工場を構えていた製造業者が、地代の上昇で生産経費の負担が大きくなれば、それに耐えかねて、工場をいなかに移転するケースも発生するかもしれない。
 土地にたいする産業用の需要は、農業の場合と変わらない。地代が高くなって生産経費が上がり、需要に応じた価格では生産経費が回収できなくなれば、企業も農業者も、価格が高くても売れる新しい製品を開発するか、別の場所に移転するほかない。
 いずれの場合も、土地需要が上昇することで、収益を実現できる限界が移動することになる。この限界費用が地価の上昇を左右する要因になっていく、とマーシャルは考えている。
 市街地の便利な場所にあり、高い賃借料を払わなければならない店舗では、せまいスペースでも少ない売上高で高い収益率が得られるような高額商品が並べられる。これにたいし、多少不便な場所にあっても、安い賃借料で広いスペースが確保できる店では、低い価格で収益率が低くても数多く売れるような商品が並べられるだろう。いずれにせよ、商品とその価格にくらべて、より多くの顧客をつかむことができなければ、商店は生き残ることができない。そして、地価が上昇していくと、店舗用地が不足し、一般に店舗ではより高い価格の商品が扱われていくようになる、とマーシャルはいう。
 こんなふうに、マーシャルは農業や産業、商業と地代、地価の関係をことこまかに論じている。だが、これで地価の経済学が論じ尽くされたとは、だれも思わないだろう。とくに土地バブルとその崩壊をまのあたりにしたわれわれからすれば、地価の経済学はさらに掘り下げられるべきテーマなのである。

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価値と限界費用──マーシャル『経済学原理』を読む(14) [経済学]

 生産物の価値と限界費用の関係を論じるにあたって、マーシャルは正常な状態と長期の結果を前提としている。それを前提とすれば、変則的な状態や短期の場合にも応用がきくからだ。
 まず、一般原則が述べられ、次に農産物の価値(価格)、さらに都市の地価と限界費用の関係が論じられる。
 それを紹介する前に、もう一度商品世界の成り立ちをおさらいしておこう。需要と供給が分離される商品世界においては、商品と貨幣を媒介にして、経済が結合、維持されている。供給は需要なくして実現しないし、需要は供給なくして実現しない。供給と需要の変化は、ごくわずかなものであっても、相互に連動して、全体の供給と需要に影響をおよぼす。供給と需要の流れは、一瞬もとまることなく、いわば潮流をかたちづくっている。
 その流れを切り取って図示すれば、こんなふうになるかもしれない。

  ↓
 供 給(=需要)[総生産]
  ↓
 商 品[直接財]
 (日用品、消耗財、耐久財、公共財、サービスなど)
  ‖
 需 要(=供給)[総所得]
  ↓
 商 品[間接財]
 (労働力、原材料、機械、装備、エネルギーなど)
  ‖
 供 給(=需要)
  ↓

 こうした流れがいわばエンドレスにつづくことによって、現代社会はかろうじて維持されているともいえる。
 マーシャルは、いちおうこうした正常な事態を前提として、生産物の価値(価格)と限界費用の関係を論じているわけである。構造的な不均衡があるとしても、それはとりあえず考慮の外におかれている。
 まず企業家は「だれもまたどんな場合も目的に適合した生産要因を選択しようとする」。この行動をマーシャルは「代替の原理」と呼んでいる。どれほど労働者を雇用するか、新しい機械を増やすか、どんな原材料を選ぶかは、企業家が採算に応じて決定しなければならない。
 念のためにいうと、ここでいう企業家は資本家である場合もあるし、資本家でない場合もある。資本と企業は密接にかかわっているが、マーシャルが重視するのは、あくまでも企業家である。
 企業家はある生産要素を、これ以上投入すれば収益が逓減するぎりぎりまで限界投入すると考えられる。
 マーシャルはいう。

〈企業者はだれでもかれが使用しているすべての生産要素、さらにはそのどれかに代用できる他の生産要素について、その相対的な能率を知ろうとして、その活力と能力のゆるすかぎり、たえず努力を傾けている。かれはどれかの要因を追加投入することによって、どれだけの純生産額(その総生産額にたいする純増分)が得られるかをできるだけ推定しようとする。〉

 生産費をかけて、ある生産要素を追加し、追加供給が得られるとして、それが正常な利潤を得られるなら、需要が供給を上回っていることになる。その場合、企業家は生産費の追加投入をいとわない。企業家は純収益が得られなくなる限界まで、投資(原料であれ、労働力、機械、広告、あるいは土地、建物であれ)をすすめていくことになる。
 ただし、土地、建物、機械などの固定資本の投入については、その回収期間が長くなることを考えれば、細心の注意が必要だ、とマーシャルはいう。
 さらにいえば土地の場合は、より長く固定されるのにたいし、機械の場合はいわば際限なく増加できるかわりに、新しい発明や流行の変化によって陳腐化する危険性がある。
 そのため機械などについては、その消耗にたいする償却費を考慮したうえで、生産費にたいする正常な利潤を確保することに気を配らなければならない。そして、純収益は利潤から利子(準地代)、言い換えれば出資者の取り分を引いたものとなることも念頭においておかねばならない、とマーシャルはいう。
 上に挙げた図との関係でいえば、ここでマーシャルが論じているのは、マルクスのいう拡大再生産と同じである。なぜ拡大した経済循環が生じうるかが説明されている。ただ、マルクスと異なるのは、マーシャルが均衡分析にしたがって、限界費用投入の決断を前提としなければ、需要供給の増大は生じないと考えていることである。
 つぎにマーシャルが論じるのは、租税の影響についてである。単純にいえば、この場合は、逆に需要供給の循環にマイナスの影響をもたらす。
 たとえば出版物に重い税をかけると、出版物の値段が上がるので、その影響は直接消費者におよぶ。しかし、出版物の需要はたちまち減り、それにより印刷所は大きな打撃をこうむることになる。また、その従業員の賃金も低く抑えられることになるだろう。出版物の売り上げが減ると、出版社や著者、書店も打撃をうけることはいうまでもない。
 つぎに税をかけるのが出版物ではなく、印刷機械だとしよう。この場足、直接影響を受けるのは印刷業者である。出版物の生産量や価格にすぐさま影響はでない。業者の稼得がいくらか減る程度である。流動資本にたいする利潤率も低下するわけではない。しかし、業者にとっては経費が増大することになるから、新しい印刷機械の導入は控えられるだろう。「新しい印刷機はただ、印刷業者が一般に租税を支払っても経費にたいし正常な利潤が得られると判断するような限界のところまでしか導入されないことになろう」。その結果、新しい印刷機を導入せず、旧来の印刷機を昼夜二交代でフル稼働させる事態も生じる。さらに、ついに印刷費が上昇すれば、出版物にたいする需要が減ることになる。
 つまり、こういうことだ。出版物という直接商品に税をかければ、その影響はまず消費者におよび、つぎに業者にはねかえるのにたいし、たとえば印刷機という間接商品に税をかければ、その影響はまず業者におよび、つぎに消費者にはねかえってくるということになる。これは課税が需要供給のサイクルを冷やす要因になるということにほかならない。
 さらに、ある地域にストックのかぎられた画期的な資源が発見されたケースについても、マーシャルは論じている。まず発見者は、その新資源にたいする需要の大きさによって、多額の生産者余剰を獲得することだろう。
 新資源を購入した製造業者もそれによって大きな利潤を得る。だが、これに味をしめた製造業者この限られた資源を再取得して、さらなる増産をめざすのにちがいない。
 もっとも、その商品にたいする需要によって価格が変化するため、製造業者の得る所得はことなってくる。製造業者は利潤が得られる限界費用まで、その資源の購入をめざしていく。いっぽう発見者も製造業者の需要があるかぎり、コストを増やしてもその資源を開発しつづけていくことになる。
 ここでえがかれているのは、新資源の発見によって、需要供給のサイクルが拡大していく局面である。
 だが、その資源の量がほんとうに限られているとすれば、どうなるか(思わず笑ってしまうのだが、マーシャルは大きなダイアモンドの隕石が空から落ちてくるといった場合を想定している)。
 くり返し使用できるものだとすれば、この貴重資源は新たな使途がみつかれば、すでに使われている部分から引き抜いて利用するほかない。そのさい資源に支払われる価格は、あらたな用役の価値によって定められるだろう。
 いっぽう、その資源の供給が徐々に増加しうるものである場合はどうか。労力と資本の投下に見合う所得が期待されるかぎり、資源の探索はつづけられる。そして資源の価値は、その需要と供給のバランスを維持するような高さに決まってくる。
 また、その資源が無尽蔵で、1回しか使用できないにもかかわらず、確実に補給できるものだとすれば、資源の価値(価格)は費用に対応し、そこから得られる所得は生産費に利子を加えたものとほとんど変わらなくなる。需要の変動もその価格にほとんど影響を与えないだろう、とマーシャルは書いている。
 こうしたさまざまなケースを並べながら、マーシャルは資源、ひいては商品からは、その形態、あるいは需給関係に応じて、地代、利潤、利子、ないしはその混合からなる余剰が生じると述べている。地代(差額地代と稀少地代)、企業の利潤、資本の利子とは、カシの木とリンゴの木がちがうように区別されなければならないが、いずれも賃金やその他の経費を除いた余剰が、それぞれの形態をとったものと理解されねばならないと示唆している。
 マーシャルにとって重要なのは、需要と供給の流路から生じる余剰なのだ。この余剰が生まれなくなれば、経済は定常状態に近づいていく。そして余剰が、一方的ではない新たな供給と需要を生みだしていくならば、経済は成長していくことになる。
 長くなってしまった。農産物価格や都市の地価の問題については、次回、論じることにしよう。

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短期均衡と長期均衡──マーシャル『経済学原理』を読む(13) [経済学]

 企業家はじゅうぶんな成果が見込めなければ、支出(投資)をしようとしないものだ、とマーシャルは書いている。
 失敗の危険にたいしては引き当て分を用意しておかなければならない。また成果がでるまで時間がかかるとしたら、それまでの支出にたいする元利も累計して支出の合計を計算しておかなければならない。これらのすべてが事業にかかる費用となる。加えて、成果をだすまでの努力や待忍も費用の要素だ。それは追加的な収益とは別のもので、事業主自身の仕事の報酬だという。
 こうした費用の回収が見込めなければ、企業家は事業をはじめるわけにはいかない。
 事業が開始されるまでの経費や効率は常に見直されなければならない。仕入先や機械の選択、販売方法の検討も必要だ。投資はぎりぎりの収益が見込めるところまでなされるだろう。
 ここで、生産と消費の関係について、マーシャルは次のように述べている。

〈生産の新しい方法は新しい商品を生みだし、あるいは古い商品の価格を低下させてより多くの消費者が購入できるようにする。他方また消費のしかたが変化し消費量が変動することによって、生産の新しい展開を生みだし、生産資源の新しい配分をもたらしてくる。人間生活の向上にたいへん役立つような消費のしかたのうちには、物的富の生産を促進するとしても、ほんのわずかしか効果を生まないものもあるのだが、それでもなお生産と消費とは密接に関係しあっているのだ。〉

 マーシャルが強調しているのは、生産が消費と対応しており、消費を念頭におかない生産はありえないということである。自給自足の世界では、生産は消費と即つながっていた。だが、商品世界においては、生産と消費は分離され、商品=貨幣を媒介することで、はじめて社会の構造が保たれるのだ。そのとき資源もまた商品=貨幣を通じて配分されていくことになる。
 商品世界において困難が生じるのは、生産と消費が分離されているためだ。
 たとえば建築業者が一般の需要を見越してマンションを建てたとしよう。その判断が的中すれば業者は利益を得るばかりか社会にも便益を与えるだろう。だが、その判断がまちがっていれば、業者は大きな損失をこうむり、最悪の場合は、倒産に追いこまれる。
 大きな損失が発生するのは、生産費用が回収されないためだ。
 生産費は主要費用と補足費用とからなり、それらを合わせたものをマーシャルは全部費用と名づけている。主要費用は直接費であり、原料費、賃金、機械の消耗費などからなる。補足費は間接費であり、工場の固定費、幹部職員などの給与、その他特別費からなる。
 長期的には、これらの全費用が回収されなければならない。企業の運営には労苦と心痛がともなう。全費用を回収しても、それを上回る余剰が得られなければ、だれも企業などはじめようと思わないだろう、とマーシャルは書いている。

 ふたたび需要と供給の均衡について。
 正常とか異常とかは、長期もしくは短期で考えたり、現行の特殊な要因を勘案したりするなかで判断が異なってくる、とマーシャルはいう。商品市場や労働市場はさまざまな変動にさらされている。突然の災害や反乱もありうる。したがって、何をもって正常とするかはなかなか断定しがたい。
 そこで論議を進めるうえでは、攪乱的な影響がなく、生産と消費、分配の条件が変わらず、人口も不変という仮定のもとで、一般的傾向を推論していくほかない、とマーシャルはいう。
 市場に攪乱のない定常状態では、商品の価値を規制するのは生産費であって、供給価格と需要価格は一致し、正常価格は変動しない。だが、実際にこういう状態はありえない。生産方法や生産量、生産費は常に動いているし、需要の流れも変動しているからだ。人口も富も変化し、土地も不足し、通商関係も変わるかもしれない。
 定常状態のモデルから、厳しい条件をとりはずしていけば、少しずつ現実の生活に接近してくる。あるいは静学的なモデルに現実の条件を加えていけば、新たなモデルをつくり、それを検証することもできるだろう。
 ここでマーシャルは漁業を例にとる。たとえば、天候不順がつづいた場合は漁獲量が減り、供給価格が上昇していく。いっぽう、疫病が発生して食肉への不安が高まり、魚肉への需要が高まった場合も供給価格は上昇していくだろう。資源が枯渇の兆候を示した場合も同じだろう。だが大きな需要に応じるため、漁師が漁船の規模や装備を増強し、漁獲高を増やしていくなら、供給価格はいくらか下がっていくかもしれない。
 こうした例示は、漁業や農業だけではなく、工業の場合もあてはまる。市場価格は需要とストックに依存しているのだ。
 マーシャルは「限界生産」という考え方を持ちだす。市場において、価格の上昇が期待されると、生産の限界が押し広げられ、主要費用を上回る余剰を求めて、余剰があるかぎり、生産が増大していくというのだ。
 ただし、その行動は短期と長期でことなる。

〈短期においては、生産の装備の大きさはほぼ固定しているので、人々の行動はこれら装備をどの程度まで積極的に活用するかを検討する際の需要の期待によって決められてくるし、長期においては、これら装備の供給は生産しようとする財にたいする需要の期待に対応するよう調整されるのだ。〉

 高い価格が期待されると、短期では労働時間を延長してまで装備がフルに動かされる。短期においては、生産者はすでに使用している装備によって、できるだけその供給を需要に適合させるよう努力していくしかない。だが、そうした生産の増大には限度がある。
 そこで長期の対応が検討される。
 長期の計画においては、大規模生産の経済が予想されている。そこでは供給価格は逓減し、それによってより多くの需要が得られるものと考えられている。
 大規模生産にいたる道は、ふじゅうぶんな資本しかもたない小企業が苦労の末、大きな事業体をつくるにいたることもあれば、富裕な資本家が巨額の投資によって、大規模な事業を立ち上げることもある。
 長期と短期のあいだに厳密な区別があるわけではない。短期においては、現存の設備にもとづいて商品供給の増加がはかられる。これにたいし長期においては設備や工場の拡張が、商品供給の原動力となる。そして、最後に人口や知識、技術、資本の成長、ならびに世代の変遷にともなう、超長期の商品ならびにその価格の移動が考えられる。マーシャルはそんなふうにとらえている。


 さらにマーシャルは需要と供給の流れをもう少し細かく検討している。
 たとえば、ビールは直接に需要される。しかし、ビールができあがり、消費者のもとに届くまでには、次のような工程が考えられるだろう。

  麦 芽[右斜め下]
      ビール工場→ビール→消費者
  ホップ[右斜め上]

 ここでは麦芽やホップは間接的(あるいは派生的)に需要される。そして、ビール工場で結合されて、供給され、消費者に需要されるのである。
 厳密な数理的論証は省くとして、材料である麦芽やホップの値段や供給量が上下すると、最終製品の価格や供給量も変化する。それに応じて消費者需要のあり方も変わってくる。一般にビールの価格が上昇すれば、消費者はビールを飲むのを多少控えるだろうし、逆にその値段がさがれば、もう少し飲もうと思うかもしれない。
 間接需要の変化が最終需要にどのような影響をもたらすかは、ケースバイケースである。多少値段があがっても、ビールが飲みたいのは変わらないのだから、需要はさして減らないということもある。しかし、あまりに値段が上がると、ビールの代わりに焼酎にするということも考えられるだろう。また工場の側がこれまでの麦芽やホップに代えて、新たな原料の仕入先を見いだすかもしれない。さらにホップと麦芽の割合を変えて、できるだけ値段をあげないようにするのもひとつの手段である。
 いずれにせよ、ここでは供給が単なる供給ではなく、それ自体がさまざまな需要の束からできあがっていることを認識することが重要である。とりわけ、その中心となるのが労働力にたいする需要であることはまちがいない。
 マーシャルはいう。

〈ほとんどすべての原料と労働は数多くの異なった産業部門で使われ、ひじょうに多種多様な商品の生産に寄与している。これらの商品はそれぞれその直接の需要をもっており、それから生産要因のそれぞれにたいする派生需要が起こってくる。〉

 これらの派生需要を合計したものが全体需要となるわけだ。
 いっぽうで、結合生産物も存在する。
 たとえば、羊は羊毛と羊肉に分けられる。小麦は食料としての小麦と麦わらに分けられる。したがって、羊や小麦は結合生産物なのである。そして、どの用途を優先するかによって、手間のかけ方は変わってくる。
 同じことが一般的な産業についてもいえる。生産過程において、主要な産物と副次的な産物が発生するのはよくあることだ。そのうちのどれを優先するかは、いわば市場の動きによる。
 複合供給ないし複合需要の現象もよくみられる。たとえば牛肉と豚肉は競合商品だといってもよい。それらは別々の商品でありながら、価格と質におうじて消費者の欲求を満たすことになる。
 こうした商品のさまざまな関係を見ながら、商品の動きをとらえていくことがだいじだ、とマーシャルはいう。過大な需要が資源の枯渇をもたらすこともあれば、交通の発達が生産経費の削減につながることもある。またある分野の製品価格の変動が、ほかの製品の価格に影響をことも多い。このように、商品世界は一商品だけで独立しているわけではなく、多岐にわたる商品の連鎖のなかで成り立っているのである。

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安定均衡──マーシャル『経済学原理』を読む(12) [経済学]

 最近は集中力も記憶力もますますダウンしている。
 前にマーシャルの『経済学原理』を読んだのはいつのことだったか。読みとおしてみたいと思いつつ、いつも途中で挫折してしまう。
 それは山登りにも似ている。だが、80歳でエベレストに登頂した三浦雄一郎さんの例もあるから、あきらめないことがだいじだ。
 というわけで、また戻ってきた。
 第5編の「需要・供給および価値の一般的関係」にはいろうとしている。日本版では第3巻にあたる。それを少しずつ読んでみようというわけだ。
 まずマーシャルは需要と供給が出会う場、商品の売買がなされる市場について論じている。
 市場(いちば)はもともと食料などの品物が並べられる公開の場所を意味していた。だが、のちにそれはもっと広く使われ、食料にかぎらず綿花や石炭、砂糖、鉄、貴金属、証券など、すべての商品が取引される場を意味するようになった。その場は一般に市場(しじょう)と呼ばれる。
 商品はその性格によって、さまざまな市場をもつ。近隣でしかさばけない耐久性のない商品もあれば、遠隔地で大きな需要が見込める貴重な商品もある。それに応じて、市場は世界市場から僻地市場までの幅をもつ。
 市場は抽象概念だ。どんな商品であれ、商品が取引される場が市場と呼ばれる。マーシャルの時代とちがって、いまや市場は商店にとどまらずデパートやスーパー、郊外店、さらにインターネット上にも広がっている。
 その市場は空間だけでなく、時間によっても左右されるということをつけ加えておこう。
『経済学原理』では、現代の市場における普通の取引が取りあげられる。
 マーシャルが挙げているのは、小麦市場の例だ。
 まだ取引は成立していない。価格に応じて、売り手が売りたいと思う量と買い手が買いたいと思う量はことなってくる。
 日本流にアレンジするとこんなふうになる。1袋は仮に300グラムとしておこうか。

  価格    売り手   買い手
  500円   3000袋   1000袋
  400円   2000袋   2000袋
  300円   1000袋   3000袋

 ここでは400円なら売り手が2000袋市場に出したいと思い、買い手は2000袋買いたいと思う。ここで供給と需要が均衡する。
 この例はあくまでもひとつのモデルにすぎない。実際の取引の動きとはことなるかもしれない。だが、それはさておき、マーシャルは供給と需要の均衡する価格が存在すると想定している。その価格では、商品が売り尽くされ、買い尽くされることになる。
 とはいえ、価格は供給側の胸算用によって、とりあえず算出される。たとえば商品となる作物のでき、予想される収穫量などをみて判断されるだろう。
 次に穀物だけではなく、一般商品に枠を広げてみよう。
 商品をつくるには、多様な資本と労働を要する。これに商品ができあがるまでの「待忍」の費用を加えたものが商品の「真実の生産費」だ、とマーシャルはいう。つまり、生産費に適切な利潤(「待忍」の費用)を加えたものが、商品の供給価格となる。
 もちろん商品は多量に生みだされるだろうから、市場での供給価格は、商品1単位の価格で表示されることになる。さらに、実際の市場価格には流通経費も加わるだろう。
 生産者はできるだけ経費のかからない生産方法を選択する。社会もまた能率のよくない生産者より能率のよい生産者を選ぶだろう。マーシャルは、これを「代替の原理」と名づけている。
 ここでマーシャルは、一般市場とことなる労働市場の特殊性を指摘している。労働市場では「労働力の売り手は処分できる労働力をただ一単位しかもっていない」。からだはひとつだ。そのため、何が何でも職を得ようとする労働者は、低い賃金でもみずからの労働力を売りに出す場合がある。
 労働市場では、企業は供給側でなく需要側に立っている。一般市場では労働者は商品を買う側なのに、労働市場ではみずからの能力を売る側になる。企業はそうした人間の能力(人材)を買うことによって、原料や機械だけでは得られない商品価値をつくりだそうとする。したがって、労働力は単なる商品ではない、とマーシャルはいう。
 こうして、商品世界は製造物を商品化するだけではなく、人間の能力をも商品化することによって、はじめて循環していくことになる。ただし、一般商品と労働力商品とでは、その需給の流れが逆であることに注目しなければならない。つまり商品をつくる商品が労働力商品であるのにたいして、労働力をつくる商品が一般商品なのだ。
 商品に需要と供給の力関係がはたらくのは、商品世界の対位変換構造が存在するためである。商品は売り手と買い手がいて、はじめて成り立つ。労働者は売り手であると同時に買い手である。企業もまた買い手であると同時に売り手である。こうした商品世界は近代において成立した。
 商品の需要について、マーシャルは商品には一定の需要価格があるという。そして、「どんな場合にも市場に売りにだされる分量が多くなればその買い手を見いだせるような価格は低くなっていく」と論じる。
 きわめてシンプルにいうと、供給価格は前に述べたように企業の生産費(経営の租利益を含む)に一致する。新しい生産方法が導入されなければ、ふつう生産量の増加にともなって、生産費は上昇していく(収穫逓減の法則)。しかし、生産が大規模化し、手労働に代えて機械作業が導入され、人力の代わりに蒸気動力(いまなら石油や電気のエネルギー)が用いられるようになると、生産費は下がっていく。
 市場において、需要価格が供給価格より高い場合は、生産者はその商品の生産をもっと増やそうとする。逆に需要価格が供給価格より低い場合は、生産者はその商品の生産量を減らそうとする。そして、需要価格と供給価格が一致する場合には、安定均衡が生じる。
 商品の生産量と価格は、わずかに変動することがあっても、安定均衡に収束する傾向がある。ただし、この均衡点は常に同じというわけではない。需要表と供給表がたえず変動しているためである。そのため安定均衡点は常に再形成されていく。
 ここで時間の要素がはいってくる。「われわれは将来を完全に予測することはできない」と、マーシャルはいう。予想もしなかったことが起こるかもしれない。資源の枯渇、競争の激化、新商品の開発といったこともありうるだろう。アダム・スミスが述べた商品の正常価値ないし「自然価値」を設定するのはむずかしい。
「価値が効用で決まるか生産費で決まるか議論するのは、紙を切るのははさみの上刃か下刃かと争うようなものであろう」とマーシャルはいう。
 とりあえずの結論はこうだ。

〈われわれは一般原則としては、とりあげる期間が短ければ、価値にたいする需要側の影響をそれだけ重視しなくてはならないし、期間が長ければ、生産の影響をそれだけおもく考えなくてはならない、と結論してさしつかえないようである。……[長期においては]結局は持続的な諸原因が価値を完全に支配することになる。しかしながら最も持続的な原因でも変動をまぬかれない。世代の移り変わりにつれて、生産の全構造も変容していき、いろいろな事物の生産費の相対的な大きさもまったく変わってしまうのだ。〉

 われわれは新たに生まれては消えていく変動めまぐるしい商品の価値体系のなかでくらしているといえるだろう。

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産業組織論つづき──マーシャル『経済学原理』を読む(11) [経済学]

 ここでは分業と機械化、産業立地の条件、大規模生産、企業経営などがテーマとして取りあげられる。
 集中と反復が作業の能率化につながるのはいうまでもない。とりわけ、ひとつの製品をつくるにあたっては、ひとりがすべての作業をおこなうのでなく、ある工程だけの作業をくり返しおこなうほうが、はるかに効率的である。そのことはアダム・スミスが分業論のなかで示したとおりだ。
 しかし、作業が型にはまったものになってしまえば、ほぼ機械で代替できる状態になっている。近代的な生産の特徴は、機械が肉体的技能に取って代わったことだ、とマーシャルはいう。
 金属工業の部門でも、精巧な機械なら容易に金属製品を多量につくりだすことができる。工作機械は金属の加工を容易にした。
 機械は年ごとに自動になり、手労働による補助をだんだん必要としなくなっている。そのため、機械を取り扱う人には、肉体的能力より、高い判断力と細心の注意が求められる。
 機械を扱うにはかつての職人のような特殊の技能はいらない。高次の知性があれば、少しの訓練で、機械が扱えるようになる。
 機械化のメリットは商品価格を下げ、それによって、より多くの人がその商品を買えるようにすることだ。
 労働面でいうと、機械は人間の肉体的過労を抑える役割をはたしてきた。いやむしろ、人間の筋肉力では限界がある作業をも可能にした。画一的で単調な作業は、次第に機械に取って代わられるだろう、とマーシャルは断言する。
 機械化が労働力を排除するとはかぎらない。機械化の進展にともなって、判断力や創造力を必要とする新たな種類の仕事が増えてくるはずだからである。
 次にマーシャルは、産業発展には企業の内部的効率の増進に加えて、立地条件などの外部的要因が重要になってくると述べている。
 文明の初期段階では、重い物は地場で生産するほかなかった。水運だけが重い物を遠くに運ぶ手段だった。しかし、徐々に交通が開けてくると、遠方からの製品──たとえば被服や金属製の道具、香料など──もはいってくる。定期市などに、こうした商品が並ぶと、消費者に新たな欲望がめばえていった。
 地域に特化した産業がある、とマーシャルはいう。その原因は地域独自の気象や土壌、あるいは近くに鉱山や採石場があるということだ。金属工業は一般に鉱山の近く、あるいは燃料に恵まれた場所に誕生した。
 また宮廷などがあれば、そこに人が集まり、高級な財への需要がおこり、熟練の職人たちもやってきて、工芸が発達してくる。
 産業の条件は自然条件だけではない。宗教的、政治的、経済的な要因もからんでくる。そして、産業がその場所を選択すると、そこにとどまることが多い。やがて、近隣に補助産業が生まれ、道具や機械、素材を提供するようになる。産業はさらに流通の発達をうながす。
 マーシャルによれば、大都市の中心部は地価が高いので、工場地帯は都市の郊外に形成されやすい。イギリスでは、鉱業や機械工業のある近辺に繊維産業も引き寄せられ、いくつかの異なる産業が集まることによって、工業地帯が形成されてきたという。
 いっぽう、生産面だけでなく、消費面をみると、商店もまたある地点に集まる傾向がある。こうして商店街ができあがる。
 運輸通信手段の発達と低廉化は、産業にも大きな影響をおよぼす。それによって、いわば産業の場が拡散するのだ。
 産業が発達するにつれ、非農業人口の割合が増えてきたことはまちがいない。「中世には農業人口は全人口の4分の3を占めていたが、最近[20世紀はじめ]のセンサスでは9分の1の者しか農業に従事していない」と述べている。とはいえ、かつての農民は「いまでは醸造屋やパン屋、紡績工や織布工、れんが積みや大工、仕立屋や婦人服屋その他多くの業種が行っている仕事を大部分自分でやっていた」のだから、「農業人口の縮小の実態は外見ほど大きなものでもない」。労働者は農民から分化したにすぎない、とマーシャルは考えている。
 さらにマーシャルは農業から流出した人口は製造業に吸収されたわけでもない、と述べている。製造業においては機械化が進んだため、生産力の割に労働力をさほど必要としなかった。

〈1851年以来イングランドにおいて農業の縮小によって急速に膨張していった職種は、鉱業・建設業・商業・道路および鉄道による輸送業をはじめ中央および地方の政府職員・初等から高等にいたる学校・医療・音楽・劇場その他娯楽などであった。……これら職種では人間の労働は1世紀以前に比べて著しく能率が高くなったわけではない。これらによってみたされなくてはならない欲望が一般的な富の増大につれて拡大してくれば、産業人口のいよいよ大きな割合がこの分野に吸収されていくのは見やすい道理である。〉

 マーシャルはいわゆる第3次産業に従事する労働者の割合が増加することを予測していたといえるだろう。
 ここで、ふたたびマーシャルは産業組織の問題に戻って、大規模生産のメリットについて論じる。
 大規模な製造業者は改良された新たな商品をつくりだし、それを広告宣伝することによって、消費者の欲望をつくりだすことができる。だが、小規模な製造業者では、そうしたことはとても無理だ。
 大きな事業体のメリットは、大量に安く仕入れができ、輸送費を節約でき、また商品を大量に安く販売できることである。商品ブランドが世間に知られるようになると、顧客の信頼もついてくる。こうした経済の高度化が、企業の巨大化をうながすのだ、とマーシャルは述べている。
 さらに大規模な製造業者は、多種多様な人間を適性に応じて現場に配分することによって分業の効率を高めることができる。いっぽう、経営者は現場管理者を適切に配置することによって、営業のもっとも重要な課題にのみ全力を集中し、市場全体の動きをみながら、企業の方向性を決めていくようになる。
 小さな事業体では、たとえ能力のある経営者でも、現場の仕事にほとんどの時間をとられてしまう。とはいえ、小企業の経営者が現場に目が行き届き、そこから独自の経験知を獲得し、ユニークな活動を展開する可能性もマーシャルは否定していない。
 たとえ大企業であっても、企業には競争がつきものである。大きな資本、高度な機械、優秀な労働力、広範な営業取引関係をもつ大企業にたいしても、独創性と機動力、忍耐強さをもって挑んでくる新興勢力が現れる可能性は常にある。マーシャルは企業を発展させ存続させていくことが、いかにむずかしいかを認識している。
 困難なのは製品の販売である。単純で均質な財であれば、大規模生産のメリットを生かせるから、こうした分野では大企業が小企業を駆逐し、小企業を統合していくだろう。だが、特殊な商品については、大規模生産のメリットは生かせない。手間のかかる特殊な商品が限られた市場で引きつづき販売される。
 いっぽうマーシャルは大企業の最盛期が長く続くことはまずないとも指摘している。「その台頭をささえた非凡な活力を失ってしまった企業は遠からず衰退するかたむきがある」というのだ。
 大きな事業体が小さな事業体にたいし優位性をもつのは製造業だけとはかぎらない。小売業でも小さな店は日々、その地盤を失いつつある。小売業でも大型化が進み、消費者は豊富な商品をより適切な価格で購入することができるようになった、とマーシャルはいう。
 最後にマーシャルは企業経営のむずかしさについても述べている。
 ちいさな個人商店では、店主が商品の仕入れから陳列、販売、店内の掃除まで、全部自分でこなさなければならない。ところが大きな企業では、経営者の仕事は資本と労働力を結合させ、細部にわたって事業計画の実施を監督することに特化される。
 経営者の仕事は労働者を監督することだけではない。自己の商品にたいする知識をもち、商品の生産・消費動向を予測し、消費者の欲求に応える新たな商品をつくりだし、常に古い商品の生産方法を改善するよう努めねばならない。そのために、経営者は「慎重に判断し、大胆に危険をおかすことができなくてはならない」と、マーシャルはいう。
 経営者は指導者としての能力を問われる。スタッフを育て、信頼し、スタッフの機略と創造力を引きだすのも経営者の仕事である。
 一見すると実業家の息子は父親から経営のノウハウを学び、代々にわたって企業を発展させていくかに思えるが、「事態の真相はこれとはたいへん異なっている」と、マーシャルはいう。二代目、三代目で没落していく企業が多いのは、かれらが経営者としての気質や能力を失ってしまうからだ。そのとき事業の活力をよみがえらせるには、優秀なスタッフのなかから次期経営者を選ぶほかない、とマーシャルは断言している。
 個人会社とちがって株式会社の場合は、たいてい経営者に事業の運営がまかされる。経営者は株式を所有していなくてもよい。経営者は業績に応じて、低い職階から高い職階に昇格するのがふつうだ、とマーシャルはいう。
 株式会社の弱点は、その主要な危険をになう株主が往々にして営業についての知識を欠いていることだ。そのため、株式会社という民主的な経営形態が発展していくには、営業上の秘密が減少し、公開性が増大していくことが求められる、とマーシャルは指摘する。
 製造業や鉱業、運輸業、通信業、銀行業などは巨額な資本を要するようになり、ちいさな事業体が活躍する余地がなくなってきた。このことは、経済の発展にとってかならずしもプラスとはいえない。トラストやカルテルはその最たる弊害である。
 独占企業ににたいし協同組合は理想的な事業体のようにみえる。しかし、協同組合の管理者にはなかなかよい人が得られないのが実情で、協同組合はいまのところ消費組合以外に顕著な成功例はみられない。だが、マーシャルは収益配分制を旨とする協同主義の発展に大きな期待を寄せている。
 イングランドの総人口の4分の3は勤労階級だ、とマーシャルはいう。だが、かれらはずっと労働者にとどまるわけではない。管理職をめざして努力すれば、企業の共同経営者になれる可能性だってある。あるいは自分でお金をためて、小さな店をいとなむこともできる。一世代のあいだに最高の地位まで昇進することは無理だとしても、二世代のあいだにそれを実現することは不可能ではない。
「大観してみると広範な上向運動がある」のが、現代の特徴なのだ。もっとも、そのための競争は激烈だ。労働者は産業上の技能や能力の向上を求められている。同時に経営者も「判断・機敏・機略・綿密・意志の強固さ」といった広範な能力を求められるようになっている、とマーシャルはいう。
 その結果、有能な実業家は紆余曲折があっても、大きな資本を動かすことができるようになる。いっぽう無能な実業家はたちまち資本を失ってしまい、事業を破産へと追いこんでしまう。いまはそういう厳しい時代なのだ、とマーシャルはいう。自由な時代は、厳しい競争をともなう組織の時代でもあることをマーシャルは認識していたといえるだろう。

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資本と産業組織──マーシャル『経済学原理』を読む(10) [経済学]

 久しぶりにマーシャルの「原理」を読む。前にメモした部分をすっかり忘れてしまっている。困ったものだ。じつに困った。それでも、こんどもメモしておかないと、また忘れてしまうのが目に見えている。
 公開するほどの代物ではない。あくまでも年寄りの備忘録、たまった本の整理に尽きる。それが遅々として進まぬのが自分でもおかしい。もう手遅れ、まもなく「はいそれまでよ」のお声がかかりそうだが、それはそれとして、愚鈍ながら、すこしでも本を読みつづけることができれば幸いと思っている。
 生産要因と問えば、ふつう土地、労働、資本との答えが返ってくる。土地と労働についてはこれまでみてきた。きょうからは資本の話だ。マーシャルは、資本は富のなかから生まれて、産業組織をかたちづくり、また富をつくっていくと考えている。
 そこでまず富の発達をみていこう。
 マーシャルは人間の富は徐々に発達してきたという。未開時代の富は、狩猟漁獲用具と装飾品、衣服と小屋、それに家畜くらいなものだった。だが、村がつくられ、農業が営まれるようになると、これに土地や井戸が加わるようになった。宝石や貴金属も貴重な富となった。王侯があらわれると、宮殿や道路橋梁、運河用水施設も登場し、都市が出現する。だが、都市の人口は農村にくらべて、ごくわずかだ。水運業や建築業が発達してくるが、仕事に用いられる道具も、ごく簡単なものだった。
 イギリスでは、18世紀ごろから農業機具が次第に高度化してくるが、水力、ついで蒸気が動力として利用されるようになると、18世紀末から19世紀にかけ、さまざまな産業部門に高価な機械が導入されるようになり、大工場が出現する。鉄道や船舶、電信電話、水道、ガスも普及してくる。機械は人間の労働生産性を飛躍的に拡大させた
 文明が進むにつれて、人びとはいつも新しい欲望をもつようになり、それを満たすための新しい方法を編みだしてきた。その欲望はとどまることを知らない。マーシャルは現代人が定常状態──すなわち「充足すべき新しい主要な欲望もあらわれず、将来に備えて有利に現在の資力を投資する余地もなく、富を蓄積しても報酬が得られないようになる」状態──に近づいていると信じてよい理由はどこにもないと述べている。
 マーシャルはあくまでも楽観的だ。資本が投下され、生活必需品を超える生産物がつくられるようになると、余剰が増大し、富が蓄積され、知識も増大してくるという。
 将来への備えや、合理的な貯蓄の重要性を強調することも忘れていない。だが、保障のないところに貯蓄は存在しない。収奪や侵略などがあれば、貯蓄などたちまち消えてしまうのだ。マーシャルはまた、かつての救貧法は、労働者の自助努力をそこない、労働者階級の進歩にとっては大きな損害となったとも述べている。
 マーシャルは貨幣経済が安直な消費とぜいたくをもたらしたことを認めるいっぽうで、それが将来にたいする貯蓄をも容易にし、個人が資本を活用する(つまり商売をする)機会を増やしたことも指摘している。富をつむのは、みずからの力を誇示し、社会的地位を上昇させるためという見方があるかもしれないが、ほんとうは家族愛がむしろ動機になっていることが多いというあたりは、いかにもマーシャルらしい。
 貯蓄の源泉は余剰所得といってよいが、19世紀初頭の商工階級にとっては資本利得こそが主要な貯蓄の源泉だった。とはいえ、地主や知的職業人、労働者の貯蓄も無視できない。「賃金労働者への配分を増し資本家への配分を減少させるような富の分配の変化は、他の事情に変わりがなければ、物的生産の増大を促進するし、物的富の蓄積を目にみえるほど抑制することはない」というあたり、マーシャルは単純に資本家の味方とはいえない。
 マーシャルにとっては、富の公平な分配と、民主主義にもとづく公共資産の蓄積こそが、豊かな社会を築く源泉と考えられていた。そのためには労働組合や協同組合、互助組合、貯蓄銀行の役割が重要だとしている。
 ところで、人が貯蓄するのは、将来、稼得力が低下するのを想定して、そのときに備えるためである。その点、富の蓄積は「人の展望性、すなわち将来をいきいきと思い浮かべる性能に依存している」と、マーシャルはいう。とはいえ、富を蓄積するには、将来のために働き、享受をくりのべること、すなわち「待忍」が必要になってくる。
 貯蓄が利子率と関係するのはいうまでもない。一般的に利子率の低下は、貯蓄を減少させる傾向がある。逆に利子率が上がれば貯蓄の意欲を高めることは普遍的な準則だ、とマーシャルは論じている。
 このあたり、いまの日本はどうなのだろうと思わぬでもないが、いまは先を急ごう。
 次に検討されるのは産業組織についてである。資本は産業組織(企業)に体現されるとするのが、マーシャル経済学の特徴といえるだろう。
 マーシャルは生物学とのアナロジーで、社会の発達をとらえる。
 社会が生き延び、発展していくには、機能の分化が必要だ。政治と経済、文化の分化もそのひとつだろう。それが産業面においては「分業すなわち専門的技能・知識および機械の発達」となり、同時に「総合」すなわち金融や交通、通信手段の発達となってあらわれる、とマーシャルは論じる。
 近代社会の特徴は分業と総合にあるというわけだ。これは組織面においてもあてはまる。
 マーシャルはダーウィンの適者生存の法則を念頭におき、有機体と組織をアナロジーとしてとらえている。組織が生き残っていくには、厳しい生存競争に耐えねばならず、残念ながら、労働者の経営参加や利潤分配要求に安直に応じるわけにはいかない。
 生存競争で組織が生き残っていくには、「自己犠牲」の性向、国においては愛国心、企業においては愛社精神のようなものが必要だ。また組織が長く存続するためには、時に寄生しなければならないこともあるが、何よりも独立自尊の精神がなくてはならない、とマーシャルはいう。
 古い時代においては、宗教、政治、軍事、経済で密接につながる人間集団を統制していくには、身分制(ないしカースト制)が有益だった。だが、こうした制度を守りつづけた国家は、けっきょく硬直し、進歩から取り残されていった。
 これに代わったのが、近代の階級制度だ、とマーシャルはいう。それは流動的で、環境に応じて変化するものだ。
 だが、職階をなくすわけにはいかない。分業と総合の仕組みをもつ近代社会にあっては、人はそれぞれの職階で、自己犠牲をもともなう貢献が求められるのだ、とマーシャルは論じる。
 とはいえ、マーシャルは、組織は常に硬直する恐れがあるという。そのため、組織は進歩する方向をさぐりつづけなければならない。だが、あまりに急激な変化は、かえって組織を不安定なものにしてしまう可能性がある。

〈進歩は徐々におこなわれなくはならない。単に物質的な視点からみても、生産の直接の能率をほんのすこし向上させるような変化でも、もし富の生産がいっそう能率的で分配がいっそう平等な組織に向かって人間をすすませるようなものであれば、そのような変化は実現させてみるだけの価値がある。どのような組織にせよ、産業の下級な職階にあるものの性能をむだにしてしまうような組織にたいしては、重大な疑問をなげかける余地が多分にあるのだ。〉

 マーシャルは、組織は組織のためにあるのではなく、あくまでも社会と人間のためにあると考えている。

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人口、生産、労働力──マーシャル『経済学原理』を読む(9) [経済学]

 マーシャルは労働者を資本のもとで働かされる単純労働力とはみない。労働者とは商品世界のなかで一定の仕事をはたす人びとの総体を指すのであって、その質は長い時間をかけて社会的に形づくられてきたと考えている。
 労働力の前提となるのは人口である。人口問題は古くから論じられ、さまざまな議論が重ねられてきた。一般的にいって、人口が増加すると抑制論が台頭し、逆に人口が減少すると増加論が登場する傾向がある。
 しかし、人口がマルサスの指摘するように自然増の傾向をたどってきたことはまちがいない。
 出生数は結婚によって左右される。19世紀末のイギリスでは、中産階級の結婚は比較的遅く、労働者階級の結婚は比較的早かった。
 ヨーロッパの農村では、結婚は長子にしか認められず、長子以外は結婚すると村をでなければならなかった。ヨーロッパの小農のあいだでは出生率が低かっのにたいし、広大な土地に恵まれたアメリカの自作農や移民のあいだでは出生率は高かった。
 全般的にいって、「妊娠率はぜいたくな生活をおくることによって低下」し、「精神的な過労が強ければ多くの子供を産む可能性は低くなる」とマーシャルは書いている。これは現代にあてはまりそうな定言である。
 中世においては、伝染病や飢饉、戦乱、きびしい慣行などによって、イングランドでもほとんど人口が増えなかった。急速に人口が増えるようになったのは18世紀後半になってからである。都市と産業の発達が、人口の増加をうながした。19世紀初期には、結婚率は小麦価格とともに変化した。しかし、19世紀後半では、小麦価格よりも景気が結婚率に与える影響のほうが大きくなっている、とマーシャルは指摘している。また労働者階級はその生活水準を保つために子供の数を制限するようになり、そのため人口増加率は次第に低下するようになったとも述べている。
 次に論じられるのは、人口と労働、健康の関係である。
 人間が健康に仕事をするには、肉体面、知性面、道徳面での健全性が求められる。筋肉労働も肉体だけでなく、意志の力や気力を要するのだ。
 人間の寿命は気候や食料と関係している。ほかに衣料や住居、燃料も欠かすわけにはいかない。休養もだいじである。しかし、希望や自由、そして何よりも人生の理想が寿命に影響を与える。
 19世紀初頭の工場労働者の状態が、不健康で抑圧的なものであったことをマーシャルは認めている。それを改善することを、マーシャルは経済学のひとつの課題だと考えていた。
 かつて都市の環境は劣悪だった。都会に集中する才能ある人びとが、郊外に居を定めるのはとうぜんといえる。産業が郊外に分散し、労働者がそれにともなって移動するのはもっと喜ばしい。しかし、公園や運動場ができ、住環境も改善されるようになると、都市もきっと住みやすくなるだろう、とマーシャルは期待を寄せる。
 憂慮すべき点もある。それは国民の活力が次第に失われていくことである。医療と衛生の進歩、政府の社会保障、物的富の成長、晩婚化、小家族などは、人間の活力を奪う要因だ、とマーシャルはいう。しかし、家族数が適切に抑制され、子どもたちにじゅうぶんな教育がほどこされ、都市住民に新鮮な空気と運動の機会が与えられ、実質所得の低下がおこらず、人びとに衣食住や余暇、文化が提供されるなら、過剰人口の弊害を避けて、「人間はたぶんかつて経験したことのないほど高い肉体的ならびに知性的な優秀さに急速に達することができるであろう」とも述べている。
 そのうえで、マーシャルは産業時代における労働のあり方について論じている。
 産業時代においては、どの分野の労働力にも、長い訓練が必要になってくる。機械制工場の労働は、ギルドの職人仕事とちがって、安直で容易なようにみえるかもしれないが、それでも機械をうまく扱えるようになるには、精神的な強さと自制力、知識、訓練が欠かせない。
 さらにマーシャルはいう。

〈一時に多くのことがらに気をくばり、必要な場合にはなにごとにも容易に移っていけ、なにか錯誤があった際には機敏に処置して対策をじょうずにたて、仕事の細部の変化にたいしてはよく順応し、堅実で信頼に値し、つねに余力を残して有事の際に備えている──これらはすぐれた産業人を生み出すのに必要な性能なのである。〉

 まるで、自動車を運転するさいの注意を聞かされているようだが、これはマーシャルが産業時代の労働全般のあり方について述べているのである。
 産業時代の勤労者は、こうした一般的能力に加えて、業種に応じ特化された肉体的・知的能力をもたねばならない、とマーシャルはいう。
 産業人(社会人)としての能力を身につけるには、家庭や学校の役割が欠かせない。実務につくには、普通教育に加えて、技術教育や企業内教育も必要になってくるだろう。
 マーシャルは教育の重要性を強調する。「たまたま社会の底辺にいる両親のあいだに生まれたというだけの理由で、天賦の才能を低級な仕事に空費してしまうというむだほど、国富の発達にとって有害なものはないであろう」
 教育はそれだけで天才的な科学者や有能な経営者をつくりだすわけではない。しかし、天賦の才能を無為に消耗させてしまうのを防ぐには、教育が多少なりとも役立つだろう、とマーシャルはいう。
 成果を生むかどうかはともかく、公私にわたる教育への投資は今後ますますだいじになってくる。「教育投資は大衆にとっても他の投資で一般に得られるより大きな収益機会がある」というのは、いかにも経済学者らしい。
 さらに国家であれ、一般家庭であれ、教育にカネをかけるのはムダだという意見にたいし、マーシャルは次のように反論している。「もしニュートンないしダーウィン、シェイクスピアないしベートーベンのような人が一人でも生みだせれば、高等教育を大衆化しようとして長年にわたって投じた資金も十分に回収されるであろう」
 マーシャルは中産階級と上流階級以外は、教育にさほど熱心でないことも認めている。ある職業階層から別の職業階層に急速に上昇することが、なかなか困難であることも事実である。それでも、かれは教育の力が、人びとがより有利な職種を選ぶことを可能にすると信じていた。
 暫定的な結論として、マーシャルはこう述べる。

〈他の事情に変わりがなければ、労働によって得られるであろう稼得が増大すれば労働力の増加率を高める、すなわちその需要価格の上昇は供給の増大をもたらす、と結論することはできるだろう。〉

 すぐれた労働力が社会全体により多くの収入をもたらすなら、より多くの労働力が求められるようになり、それによって賃金が上昇し、働こうとする労働者の数もさらに増えてくる。
 これはあまりに楽観的な結論かもしれない。
 しかし、マーシャルは、働く人びとの数と賃金が徐々に増えていく方向で、社会が少しずつ豊かに発展していくことを願ったのである。

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収穫逓減の法則──マーシャル『経済学原理』を読む(8) [経済学]

 長らくご無沙汰してしまったが、ここからは生産要因についての考察にはいる。
 はじめにマーシャルは生産要因を土地・労働・資本に分類する。土地とは人間にたいし自然が提供してくれるもの、労働とは人間の経済的なはたらき、資本とは財の生産に役立つ富のたくわえを意味する。
 マーシャルはこの3つの生産要因がからまって、生産、すなわち供給がどのように形づくられていくかをみていくのだが、最初に論じられるのが土地、すなわち自然要因についてである。
 マーシャルはいう。

〈人間は物質を創造する力をなんらもっていず、ただそれを有用な形態に組みかえることによって効用を創造するだけなのである。そして人間によってつくられた効用は、その需要が増大すればその供給も増大させることができる。それらは供給価格をもっている。〉

 ここでは人間の経済の仕組みが説明されている。人は物質そのものを創造するわけではない。物質を人に有用なものへと変換することによって効用をつくりだすのだ。そして、貨幣経済においては、その効用が一定の価格で売買されて、生産・消費・分配のシステムが機能し、それを通じて、人びとはみずからの生活を築き、向上させてきたというわけである。
 しかし、そもそも人間に有用なものたりうる物質を提供する自然、とりわけ土地がなければ(それは海洋や鉱山であってもいいのだが)、そもそも経済は成り立たない。「地表のある区域を利用することは、人間がなにごとかをおこなうためには、その始原的な条件となる」と、マーシャルも書いている。
 土地とのかかわりといえば、まず思い浮かべるのが農業だろう。
 土地が植物ないし動物の生育を支えるには、水と太陽をはじめとしてそれなりの条件が必要である。人間はこれに肥料などを加えることによって、土壌の肥沃度を高める。さらに土地を改良したり、灌漑施設をととのえたり、土壌に合う作物を栽培したりする人間の努力と工夫が、土地のより効果的な利用をもたらす。それでも、土地には本源的な特性があり、人間の努力をもってしてもいかんともしがたいものもある、とマーシャルは述べている。
 とはいえ、どのような場合にも、資本と労働の追加投入にたいする土地収益は早晩次第に減少していく。これが、いわゆる収穫逓減の法則である。
 開墾しないでも役に立つ広大な土地が存在するのなら、資本と労働を投入することによって、ときに収穫逓増が生じることもある。だが、変わらない農業技術で、同じ土地を耕作しつづけるかぎり、収穫逓増がいつか収穫逓減に転ずることはまちがいない、とマーシャルは論じる。
 新開地に入植する場合、最初に耕作されるのは、いうまでもなく耕作に適した肥沃な土地である。ただし、農業や牧畜では、それぞれ適した土地があって、肥沃度の意味合いは異なってくるだろう。
 また、耕作法の変化や需要の変化が、土地の評価を変えることもある。たとえばクローバーを植えて地力を養成してから小麦をつくったほうが、よく小麦が育つことがわかると、それまで見向きもされなかった土地ががぜん注目されるようになる。木材の需要が増えたことによって、山の斜面の地価が上がることもある。ジュートや米への需要が低湿地の開発を促すこともある。また人口の増加によって、かつては無視されていた土地が開発されていくこともある。このように考えていくと、肥沃度というのは絶対的な尺度ではなく、相対的な尺度にもとづく、とマーシャルは述べている。
 収穫逓減の法則を打ち出したのはリカードだが、リカードは肥沃度を絶対的なものととらえたために、その法則をあまりに単純化してしまい、多くの誤解や批判を招くことになった、とマーシャルは論じている。肥沃度というものは、周辺の人口の変化や、市場の広がり、新たな需要の発生などによって、その評価が異なってくる。
 逆にいえば、土地にたいする収穫逓減の法則は、きわめて限定的な条件のもとで成り立つのである。それは耕作可能地がかぎられていて、しかも生産方法が変わらない場合に、追加労働によって得られる収穫が次第に減少していくという仮説なのである。マーシャルはこうした前提を抜きに、この法則を拡張することには慎重でなければならないとしている。
 にもかかわらず、収穫逓減の法則が重要なのは、それが生産の「不効用」という考え方を導く土台になっているからである。同じ生産方法のもとで、いくら追加労働を投入しても、生産量の増加割合は次第に減少していく。それは農業に限らない。
 マーシャルはたとえば次のような事例を挙げている。

〈製造業者がたとえば3台の平削盤をもっていたとすれば、これらの機械によって容易になされる作業の量の限界があるはずである。もしこの限界以上のことをしようと思えば、その機械をつかう平常の作業時間のあいだ時間をむだなくつかうように細心の努力をしなくてはならないし、たぶん超過勤務をもしなければなるまい。このように機械を適正な操業状態までもってきてしまえば、それからあとは努力を注ぎこむにつれて収益逓減が起こる。そしてついには古い機械を無理して稼働させるより新しく4台目の機械を購入したほうがかえって経費の節約になるほど、純収益は減ってしまう。〉

 これは農業における収穫逓減の法則を、製造業にも拡張したケースといえる。
 マーシャルはおそらく、次のような構想をいだいている。古典的な収穫逓減の法則が成り立つのは、限定的な条件のもとにおいてのみである。しかし、一定の条件のもとでは、収穫逓減の法則は、農業だけでなく、生産(供給)一般の法則に拡張することができる。
 こうしてみると、供給面における収穫逓減の法則は、需要面における限界効用逓減の法則とペアになっていることがわかる。
 それにしても、生産面では労働者が搾取され、消費面では消費者が高い品物を買わされるというマルクス主義的な発想とは逆に、生産面では生産者が「不効用」の発生を危惧し、消費面では消費者が消費者余剰を得るというマーシャルの考え方はなかなかユニークである。

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限界効用と消費者余剰──マーシャル『経済学原理』を読む(7) [経済学]

 需要についての考察が進んでいる。
 マーシャルは「需要の弾力性」という考え方をもちだしている。
 価格の変化が購入量に大きな変化をもたらす場合は、需要の弾力性は高く、逆にちいさな変化しかもたらさない場合は、需要の弾力性は低い。
 需要に所得階層があることもマーシャルは認めている。富裕な人びとは何本でも高級ワインを買えるが、貧しい人びとは安い焼酎しか買えない。
 しかし、一般的傾向として、「とにかく財がひろく一般に使用されるようになれば、その価格が相当低落すればその需要の大幅な増加がまもなくおこってくる」といえるだろう。
 とはいえ、価格が最低限にまで下落していくと、需要の弾力性も低くなっていく。つまり、需要が飽和状態に達してしまうのだ。その度合いは財によっても所得階層によってもことなる。
 マーシャルは当時のイギリス社会に即して、需要の弾力性を分析しているが、社会的地位を誇示するための上流階級の消費は、量的にはかぎられているものの、見境がないとしている。これにたいし、庶民にとっても、塩や砂糖はすでに需要の弾力性が低くなっているとしている。
 食肉やミルク、バター、羊毛、タバコなどは、値段を安くすればまだ需要がある。上等の果物、上質の魚などは、労働者には手が届かないが、中流階級にとってはまだ需要が見込めるなどとも述べている。
 小麦などの必需品は例外で、需要の弾力性は低い。もともと安い食料だが、多少値段が上がっても必需品は購入せざるをえないし、逆に値段が下がっても余分に購入しようとは思わないからである。
 いっぽう、魚や野菜などは値段の変動が激しくても、耐久性がないため、需要は非弾力的である。住宅については、必要性だけではなく社会的地位とも関係しているので、需要がなくなることはない。ごく日常的な衣服は需要に飽和点があり、価格を安くしても、需要が増えない、などとも述べている。
 水や塩にはじまって、必需品、住宅、医師や弁護士のサービス、高級品、高級肉、音楽会にいたるまで、商品にはことごとく需要があり、また需要の弾力性の大小をともなう、というのがマーシャルの見方である。
 マーシャルはエンゲルが分析した年収別の家計支出についても紹介している。
 それによれば所得の低い階層ほど、食料に支出する割合(いわゆるエンゲル係数)が高く、教育や保健衛生、娯楽にかける割合が低いというものだ。逆に所得の高い階層は、エンゲル係数が低く、教育や保健衛生、娯楽にかける割合が高い。
 経済学者はこれまで生産や企業に重点を置き、消費や家計の分析をおこたってきた。マーシャルの研究は、需要、とりわけ消費者需要の重要性を指摘したものである。
 いっぽう、マーシャルは消費研究の困難さは時間にあるとも論じている。その理由は、第1に時代によって貨幣の購買力が変動するからである。第2に景気変動によって消費行動が変化することも挙げられる。第3に人口と富の成長が消費行動に変化をもたらす。第4に新商品の登場も消費に大きな変化をもたらす。

〈ある財の価格の上昇が消費に与える影響があらわれつくすには時間がかかる。消費者がその財の代わりに代替品をつかいなれるにも、生産者が代替品を十分多量に生産しつづけるようになるにも時間がかかる。新しい財をつかう習慣が形成されるにも、それらを経済的に使用する方法を発見するにもまた時間がかかる。〉

 にもかかわらず、経済学者は消費の世界でおこりつづけている変化を注意深く見極めねばならない、とマーシャルはいうのである。

 商品世界においては、欲望は欲望そのものとしてはあらわれない。貨幣にもとづく需要のかたちをとってあらわれる。貨幣を使うにあたっては、諸商品の効用がはかられ、どの商品にどれだけ支出をすれば、効用の減少を防ぎ、全体としての効用を最大化することができるかが判断されることになる。
 購入される商品は、消費財とはかぎらない。長期にわたって利用される財やサービスもあるだろう。そこには不確実性の問題や、現在から将来にわたって、いかに価値を配分するかといった問題も生じてくる。
 人は「一般に将来の快楽がただ確実でさえあれば、これを得るために現在の同じ大きさの快楽をすすんで犠牲にする」と、マーシャルは書いている。貯蓄や年金保険などが、これにあてはまるだろう。
 しかし、将来などほとんど考えない人もいる。かれらは「忍耐心や克己心が弱いために、すぐに手にはいらないような利便にたいしてはほとんど興味を示さない」。「いな、同じ人でもその気分がいつも同じではなく、性急に現在の享楽を求めることもあれば、将来のことを考え、そう無理なく延期できる享楽ならすべてこれを繰り延べてしまおうとすることもある」
 つまり、需要には価格弾力性だけではなく、それが促進されたり繰り延べられたりする時間的(あるいは世代的)弾力性もあるのだ。
 将来の利便性を考慮して、現在の価値を「割引く」ことは、消費行動においてよくみられる。その割引率の大きさは貯蓄性向に影響を与える。そのいっぽう、より効用のある耐久財を求めるために、現在の消費を抑制するといった消費行動も存在する。
 耐久財(たとえば土地)を求める欲望には、はかりしれないものがある。

〈これら耐久的な財に関連してこそ所有のよろこびが感ぜられるのだ。所有しているという感情だけからの狭い意味の通常の快楽よりも強い満足を味わう人々が少なくない。……所有それ自体のよろこびのほかに、その所有によって得られる見栄からくる喜びがある。〉

 人間には所有の欲求とよろこびがある。それを無理やりに抑えつけることには無理がある、とマーシャルは考えている。
 将来の利便と現在の価値を比較することは不可能である。とはいえ、貨幣によって、将来の利便にたいする割引率を測定することはできる。たとえば100万円の貯蓄(投資)が、20年後に122万円になるとすれば、そのさいの利率(割引率)は年1%と想定されていることになる。
 また耐久財の価値は、1回の使用で消耗してしまうわけではなく、将来にかけ多くの効用を生みだすことになるから、その価値は長期の使用による効用の総計にほかならない、とマーシャルは述べている。
 ここで、マーシャルは価格(価値)と効用の関係を取りあげる。
 消費者はじゅうぶんな効用が得られると考えて、ある価格の商品を購入する。価格にくらべて得られる効用が低いと思われたら、その商品は購入されないだろう。したがって、商品が購入されるさいには、だいたいにおいて、得られる効用が失う貨幣(価格)より大きいと考えられる。これをマーシャルは「消費者余剰」と呼んでいる。
 前に挙げた例でいうと、ある消費者が3000円なら1袋しか買わないコーヒー粉が、2600円なら2袋買うとすれば、そこに消費者余剰を認めているということになる。ほんらい6000円するものが5200円で買えるのだ。2200円なら3袋なのに1400円なら5袋という場合も同じだ。ほんらい1万1000円のものを7000円で買うことができたのだ。
 これはまるでトリックのようにみえるけれども、その関係は一個人の場合よりも、市場全体にあてはめたほうが、より納得のいく説明となるだろう。
 ある財の限界効用は全体効用を示すものではない。たとえば水や塩は人間にとってなくてはならないものであり、その全体効用は茶やコーヒーより高い。しかし、水や塩は茶やコーヒーより豊富にあって、(ブランドの塩や水は別として)その限界効用は低く、価格も安い。価格に作用するのは、全体効用ではなく、あくまでも限界効用なのである。
 マーシャルは、同じ1万円のもたらす満足が、貧乏な人と富裕な人とでは異なることも指摘している。たとえば年金額が1万円減ったとしても、貧乏な人と富裕な人とでは、その受け止め方はずいぶん異なる。
 またパンの価格が上昇すると、貧しい労働者の家計は苦しくなり、それでも食肉や嗜好品への消費を切り詰めて、よけいにパンを買うといった特殊な反応も出現する。
 しかし、マーシャルは経済学が扱うのは、あくまでも一般的傾向だと論ずる。「消費者余剰論を適用しようとするのは[すなわち需要曲線の分析は]主として、とりあげている財の価格が慣行的な価格の近傍において変動したのにともなって起こる変化に関することがらである」
 マーシャルは消費論において、価格と需要の関係を論じ、そのさい限界効用や消費者余剰という概念にもとづいて、需要曲線の法則を導きだした。これはかれの大きな功績である。
 消費論を終えるにあたって、マーシャルは、いかにも賢者らしく、富と幸福との関係について論じているので、それを紹介しておくことにしよう。
 こんなことを書いている。

〈人の幸福はその外部的な条件よりも、かれ自身の肉体的・知性的かつ道徳的な健康によって左右される……[さらに忘れられがちなものが]自然の天与の贈り物である。〉

 健康と自然の恵みは、物質的な富からだけでは得られない。
 とはいえ、「ある人の富のたくわえは、その使用などがあってはじめて幸福をもたらす手段となるのである」。
 人は生存を維持できる所得を得ることではじめて満足し、その所得が増加するにつれて、その満足度を増していく。逆に所得が減るにつれて、満足度は減っていく。これをマーシャルはベルヌーイの説だとしている。
 しかし、人はしばらくたつと新しい富によろこびを感じなくなってしまう。逆に、富を失うと、大きな苦痛を感じる。
 富はやっかいだ。ありすぎると、かえって肉体的な力が衰え、神経の疲れが増し、感受性が失われることもある。
 文明国では、人生の理想は欲望や欲求にながされて物質的な富を求めるのではなく、静穏な心の落ち着きを得ることだという仏教的な考え方をする人もいる。だが、いっぽうで、新しい欲望と欲求があってこそ、人は努力するのだと考える人もいる。
 マーシャルはこの両方の考え方を批判する。前者のような仏教的な考え方は、努力の放棄につながる。しかし、ひたすら貨幣を求めて働く後者のような考え方は、まるで「人生のために働くのではなく、働くために生きる」ようなものだと述べている。
 マーシャルの人生哲学は次のような箇所に言いあらわされる。

〈真理はむしろ、人間性にはなんらかのつらい仕事をやり、なんらかの困難にうちかつことがないと、急速に退化していく傾向があり、肉体的にも道徳的にも健康であるためには、なんらかの苦しい努力を傾けることが必要であるというところにあるであろう。人生の充実のためには、できるだけ多くの資質をできるだけ高く展開させ活動させることがたいせつである。それが実業上の成功であれ、また芸術と科学の発達であれ、あるいは同胞の生活の向上であれ、とにかくなんらかの目標を熱意をもって追求することのうちに深いよろこびがあるのだ。〉

 マーシャルは人に見せびらかすための誇示的な消費を批判する。むしろ「労働者階級の富が増大すれば、それは主として真の欠乏をみたすためにつかわれるであろうから、人間生活の充実と品位を高めることになる」と述べている。
 富の追求に意味があるとすれば、それは贅沢ぶりをひけらかすためではない。すべての家族に生活と教養のための必需品が行き渡り、公共的な建造物や公園、美術館、図書館、競技場などが充実し、それらをだれもが利用できるようにするためだ、とも述べている。
 さらに、将来の消費のかたちとして、すべての人が安い粗悪品をやみくもに選択するのではなく、高賃金労働でつくった美しく機能的な優良品を適量購入するようになれば、世の中はもっとよくなる、とも考えていた。
 このあたりは、マーシャルがまさに「冷静な頭脳と温かい心」の持ち主だったことを示している。

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