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民衆と道徳 [くらしの日本史]

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 安丸良夫(1934-2016)の名前を知ったのは、奥武則氏(毎日新聞客員編集委員、法政大学教授)による追悼記事を目にしたときだ。安丸の最初の著書『日本の近代化と民衆思想』は1974年に刊行されたが、それを読んだときの「衝撃は大きかった」という。
 追悼記事はこうつづく。

〈後に「通俗道徳」論と呼ばれる民衆史の発想に目からウロコが落ちる思いだった。勤勉・倹約・孝行・正直などの民衆的な諸道徳(通俗道徳)は、封建的・前近代的とされてきた。安丸さんはそれらにまったく別の光を当てた。
 通俗道徳は民衆の自己規律・自己鍛錬の様式なのであり、こうした形態を通じて発揮された膨大な人間的エネルギーが、日本社会の近代化の基底部を支えたというのだ。
 当時、脚光を浴びていた近代化論はもとより、マルクス主義歴史観が主流の戦後歴史学もとらえることができなかったリアルな民衆がここにいた。〉

 こういう歴史学者がいたのを知らなかったのは、いかにもうかつだった。
 民衆史といわれて、ぼくが頭に浮かべるのは色川大吉くらいだが、その内容にしたってよく覚えているわけではない。
 奥氏のいうように、安丸良夫が読者に衝撃を与えたのは、そこにこれまでとらえられていたのとはちがう、生き生きとした民衆の姿がえがかれていたからである。
 民衆というと、封建制のもとに抑圧された民衆、無知蒙昧な民衆を思い浮かべるかもしれない。しかし、それは上から目線による歪められた像だ。
 実際の民衆とは「勤勉・倹約・孝行・正直など」の道徳によって、自らを律し、人生を切り開いている人びとのことである。
 おそらく安丸の視点がユニークだったのは、封建的とされがちな道徳をもちあげたからではない。そうではなくて、道徳をみずからとりいれることで、忍従しているのではない自立的で活発な民衆の像をえがいたからである。
 ところで、いちおうつけたりでいうと、ぼく自身は民衆ということばに、何となくむずがゆいものを感じてしまう。ほんとうはひとくくりにした民衆などというものはないのかもしれない。いろいろな人がいる。だから、民衆といわれても、それはどんな人びとのことかと問うてみる必要があると思うのだ。
 ここで安丸が示している民衆の像として、ぼくが思い浮かべるのは、たとえば金光教の信者でもあった祖母のことであり、墓参りで出会った篤実な老人の姿などである。
 だから、安丸の示す民衆像に、どこかなつかしさを感じるのかもしれない。しかし、それが民衆のすべてかというと、それだけではないような気もする。怒れる民衆も、消沈する民衆も、泣き叫ぶ民衆もいるだろう。それに民衆を民衆としてとらえるときには、どうしても自分の視線がはいってしまう。民衆といっても一筋縄ではいかないのである。
 それはともかくとして、いまは「日本の近代化と民衆思想」という論文をざっと眺めてみることにしよう。
 はじめにさまざまな徳目が挙げられている。
 勤勉、倹約、謙譲、孝行、忍従、正直、献身、敬虔、早起き、粗食。こうした徳目は江戸時代のころから、民衆のあいだで共有されていた。日本人のなかでは、それらはごくあたりまえの生活規範として、いまでも強い命脈を保っている。
 さまざまな困難(たとえば貧乏)に出会ったとき、人びとはこのような規範にもとづいて行動し、それによって問題を解決しようとする。こうした規範が「民衆のきびしい自己形成・自己鍛錬」をもたらし、「その過程で噴出した厖大な社会的人間的エネルギーが日本近代化の原動力(生産力の人間的基礎)となった」と、安丸は書いている。
 しかし、こうした「通俗道徳」は、古代や中世から存在したものではない。

〈そうした諸思想は、研究史の現段階においては、元禄・享保期に三都[京都・江戸・大坂]とその周辺にはじまり、近世後期にほぼ全国的な規模で展開し、明治20年代以降に最底辺の民衆までまきこんだ、といえよう。〉

 この指摘は鋭い。
 民衆道徳が思想として誕生したのは、元禄・享保期になってからである。
 大きく時代が変わろうとしていた。貨幣経済にもとづく商品世界が展開し、その渦に巻きこまれた旧家が急速に没落するというような現象が生じていたのだ。
 石門心学[石田梅岩の心学]などが成立するのは、そうした近世の危機にこたえるためだった、と安丸は理解している。
 心学はもともと町人階級の思想だった。しかし、とりわけ天明期以後は、地方の農村にまで広がっていく。
 さらに、文化・文政期以降にはさまざまな宗教運動が登場する。
 また大原幽学や大蔵永常、二宮尊徳は、地方の農村に出向いて、村の復興を指導するようになる。
 通俗道徳のテーゼはひとつといってもよい。すなわち勤勉、倹約、和合に努めなければ、人は病気、貧乏、不和に見舞われるというのだ。
 実際に家が没落する背景には、貢租が高かったり、事業に失敗したり、高利貸にカネを返せなくて土地が小作地になったりといった、政治的・社会的要因があったと思われる。
 しかし、政治や社会が悪いと嘆いても、日々の困難を解決できるわけではない。みずから困難を招かないようにするために、おのれが心機を鍛え、奢侈や遊芸、親不孝、不和、さらには吝嗇を避けるよう努めなければならない。
 さらに、貧困から立ちなおるには、どうすればよいのか。
「現在の貧困から逃れるためには、なによりも、現在の生活習慣を変革してあらたな禁欲的生活規律を樹立しなければならない、というのが尊徳の一貫した立場だった」と安丸は記している。
 そのためには、博奕や芝居狂言の禁止をはじめとして、若者宿や娘宿のような旧来の村の風習を廃止するべきである。
 安丸はこう書いている。

〈商品経済の発展は人々に伝統的な諸関係を打破して上昇する機会をあたえるとともに、没落の「自由」をもあたえるものだった。だから人々は、自分で禁欲して勤労にはげまねばならぬのである……没落するまいとすれば、伝統的生活習慣の変革──あらたな禁欲的な生活規律の樹立へとむかわざるをえなかった。〉

 このあたりの論述は、マックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を彷彿させる。
 日本では、プロテスタンティズムの代わりに、通俗道徳がいわば「勤勉革命(industrious revolution)」を生み、それが近代化への原動力になったのだ。
 それを担ったのが、石門心学であり、二宮尊徳や大原幽学らの訓導であり、さらには新宗教であって、町や村の民衆はみずからそうした心の哲学をとりいれることで、その生活態度を律していったという。
「禁欲的な生活規律の確立」を唱えた心の哲学は、人びとに自己鍛錬・自己変革を求める宗教のように作用したといえるかもしれない。それが近代の激動に堪える心性を生みだしていったことはまちがいない。
 ただし、安丸は精神主義のあやうさを指摘することも忘れていない。
 こう書いている。

〈こうした民衆思想に共通する強烈な精神主義は、強烈な自己鍛錬にむけて人々を動機づけたが、そのためにかえってすべての困難が、自己変革─自己鍛錬によって解決しうるかのような幻想をうみだした。この幻想によって、客観的世界(自然や社会)が主要な探求対象とならなくなり、国家や支配階級の術策を見ぬくことがきわめて困難になった。〉

 それでも、日本の近代化の背景に、変動期を生き抜こうとする民衆の強い精神があったことを否定すべきではないだろう。そして、その民衆は精神だけでは足りないこと、世界を切り開くには知が必要であること、さらには時に抵抗こそが変革をもたらすことを、やがて自覚するようになったはずである。

ゴードン「日本の消費」をめぐって(2)──論集『消費の歴史』から [くらしの日本史]

 前回のつづき。
 1920年代の日本には、大きな経済的不平等が存在していた。近代産業文明のもたらす文化生活は、まだ憧れの対象にすぎなかった。それでも消費社会は着実に進展していた、と著者は書いている。
 大衆に消費を促したのが信用制度である。当時、日本に進出していた外国企業は、月賦方式を積極的に取り入れようとした。たとえば、タイムズ社は丸善と組んで、『エンサイクロペディア・ブリタニカ』を月賦方式で売り出しはじめた。
 シンガーもミシンの売り込みをはじめた。当時、ミシンの代金は、サラリーマンの給料の2カ月分ほど。それでも値段としては高かった。
 シンガーは1920年代に毎年5万台前後を日本で売り上げている。その3分の2が、月賦販売だったというから、この信用制度は功を奏したのである。
 ミシンを購入する人は、月賦を恥ずかしいとは考えず、高級な外国品を買っているのだから、むしろ誇りととらえていたという。
 日本で消費者信用が本格化するのは、1920年代半ばからである。
 1924年には日本楽器(ヤマハ)が、ピアノとオルガンの月賦販売をはじめた。月賦は何年にもわたったというから、高級な趣味である。ピアノやオルガンを買ったのは、東京郊外に住む中流家庭が多かった。
 昭和のはじめ、人びとは月賦(クレジット)でどんなものを買っていたのだろう。著者は背広や自転車、自動車、靴、ラジオ、時計、百科事典、医療器具、カメラ、時計、宝石、西洋家具などを挙げている。当時としては高級品である。
 どれも文化を感じさせた。その商品は月賦で購入されたとはいえ、すべてモダンな西洋文化と結びついていたといってよい。つまり、そのころになって、中流階級にもあこがれの西洋化の波がおよんできたのである。
 ステータスともからんでいたのかもしれないが、その消費は意欲的で、日本の消費者は西洋の文物を熱心に取り入れた。当時の東京商工会議所も、月賦による商品の購入を、計画的で合理的な賢い消費行動として推奨している。
 いっぽうで、消費者信用が贅沢をあおっているのではないかと、その行きすぎを心配する声も上がるようになった。さらに、日本人は食べ物でも住まいでも着物でも、日本式と西洋式の「二重生活」におちいっているという批判も登場する。
 いっぽうで、西洋のものをそのまま取り入れるのではなく、日本流に改善しようという動きもはじまった。洋裁学校などが設立され、日本人に合ったワンピースなどの洋服も工夫されるようになったのも、この時代である。
 しかし、著者は、「日本の伝統」と「西洋の近代性」とが対立していたと論じるのは、あまりに短絡的だという。そこには絶妙な融合があり、伝統は消えることがなかったし、モダンにたいするあこがれも根強かった。
 1930年代にはいると、ラジオが家庭に浸透する。1929年にラジオを持っているのは65万世帯だったが、1941年には660万世帯に増えていた。ラジオの所有は、太平洋戦争に突入したあとも増えつづけ、1944年には750万世帯にまで膨れあがった。
 その結果、最初は中流階級の宝だったラジオが、次第に大衆化していき、都市部だけではなく、農村部でも欠かせない情報手段となった。当時、ラジオはニュースを聞くだけではなく、娯楽や趣味のためにもなくてはならない生活商品となっていく。
 いっぽうラジオは帝国にとっては、重要な宣伝手段でもあった。日中戦争がはじまっていた。戦争でよく読まれるようになったのは新聞も同じである。新聞各社はいち早く戦況を伝えるため、前線に特派員を送った。戦場の様子を伝えるニュース映画も各地の劇場で盛んに上映されていた。
 アメリカとの緊張が高まっていた。それでも日本人はアメリカ発祥の映画やスポーツが大好きだった。喜劇王チャーリー・チャップリンが来日するのは1932年。日本でプロ野球がはじまるのが1934年。同じ年、ベーブ・ルースが日本にやってきて、親善試合をおこなっている。プロ野球の試合は戦争末期の1944年11月まで中断されなかった。
 戦争だからといって、消費熱が衰えたわけではない。1930年には美容室が日本に広がり、パーマネントが流行する。1939年には東京だけで850軒の美容室があったという。
 洋裁学校や洋品店も増えており、1943年になっても、東京の洋品店は1282軒もあった。ミシンの販売台数も1935年から40年にかけ、大幅に増えた。太平洋戦争開戦前夜には、日本の家庭の10軒に1軒がミシンを所有していたという。1930年代には女性の服が、いっぺんに洋装に変わっていった。それは何かにつけ、洋服のほうが動きやすく、快適だったからである。
 1920年代には、モダンな消費生活は中流階級のものにすぎなかったが、1930年代にはいると、それは急速に大衆化していった、と著者は記している。そのころになると、多くの人が街の通りで買い物をし、雑誌を読んだり映画を見たり、ラジオを聞いたり洋裁学校に通ったりするようになっていた。
 戦時色が強まるにつれ、政治指導者は節約を唱えるようになるが、物質的にも文化的にも新しいものを求める大衆の欲求はとどまることがなかった、と著者は書いている。だから、戦前はかならずしも暗い時代ではない。
 世界的大恐慌のあと、日本の景気は1931年の満州事変によって急速に回復し、その後も引きつづき戦争景気がつづいていた。転機が訪れたのは1939年、とりわけ1942年から43年にかけてである。
 1939年には統制経済色が強まり、資源が軍事に回されるようになって、生活はだんだん苦しくなってくる。配給がはじまり、空襲が広がると、庶民の生活は生きていくのが精一杯になった。
 それでも1944年まで、音楽にせよ、ヘアスタイルにせよ、洋服にせよ、戦前の文化の香りは残っていたのであり、政府がいくら反英米を唱えても、人びとはそれなりの近代性を求めていたのだ、と著者は論じている。
 戦後の占領期が終わり、1950年代にはいると、日本の消費は一気に盛り上がった。しかし、そのブームは戦前の延長上にあったといってよい。
 戦後の回復は、まず当たり前の日常を取り戻すことからはじまった。例によって、庶民の夢をかきたてたのは、ラジオやテレビ、新聞、雑誌、映画などである。街にはさまざまな情報があふれはじめた。
 物不足と統制、配給の時代は終わり、近代生活の夢が次第に現実のものになっていく。家庭の電化が夢ではなくなる。実際、日本の電化は急速に進んでいった。アメリカに追いつき、追い越せの時代がはじまろうとしていた。
 著者によると、1960年に日本の世帯では、主な家庭製品の普及率はすでに次のようになっていた。
 ラジオ89%、ミシン72%、自転車66%、テレビ54%、カメラ47%、洗濯機45%、扇風機42%、電気炊飯器38%、トランジスターラジオ25%、レコードプレーヤー20%、電気冷蔵庫16%、オートバイ(スクーター)12%。
 こうした消費を促進したのは、またもクレジット(月賦)販売である。当初は消費の行きすぎを心配する声もあったが、むしろこうした信用制度は日常生活に規律をもたらし、景気を刺激する起爆剤となった。
 いっぽうで日本人は将来の消費に備えて、貯蓄にも励んだから、それが投資に必要な資金に回っていった。
 豊富な商品によって、それなりに生活の土台ができあがると、日本の消費社会は新しい段階にはいった。ターニングポイントとなったのは1970年代から80年代にかけてだ、と著者はみる。
 消費はニッチ(残された分野)をめざして細分化され、ヴァーチャル消費の領域まで広がっていった。コンピュータゲームなどがもてはやされるようになった。あるいはキティちゃんのようなキャラクターものが、はやりはじめる。
 1990年代には韓流ブームが押し寄せた。著者はこうした文化商品の消費は、不思議なことに日本の景気低迷と結びついているという。最近では車を持ちたいという若者の数も減ってきたらしい。こうしたトレンドはおそらく消費がポストモダン状況にはいってきたことを示している、と著者は述べている。
 アベノミクスとやらで、いくらカネをばらまいても、足下の消費とくらしを見なくては、ほんとうの意味での日本の経済は語れない。

ゴードン「日本の消費」 をめぐって(1)──論集『消費の歴史』から [くらしの日本史]

 読み残しの本から。
 The Oxford Handbook of The History of Consumption に収録されているアンドルー・ゴードンの論文を簡単に紹介しておきたい。
 ここで研究されているのは、近世(17世紀以降)から現代にかけての日本の消費である。
 つい先ごろまで、江戸時代は武士に支配された動きのない時代で、経済的にも停滞し、しょっちゅう飢饉が襲い、間引きが日常的におこなわれていたと思われていた。江戸時代は貧しい時代だというのが通り相場である。実際、衣服や食事を規制する倹約令も出されていた。
 だが、元禄時代に、都市では華やかな文化が花開いていたのだ。それに、倹約令がしばしば出されていたことをみれば、実際は倹約はそれほどなされていなかったのではないか、と著者は疑っている。
 近世はじつは経済的活力に満ちた時代だった。19世紀まで飢饉はたびたび襲い、村を荒廃させたのは事実だが、いつも同じ場所で毎年のように飢饉が起こったわけではなかった。むしろ、徳川時代に町や村の人口が増えていることをみれば、この時代にも一定の経済成長があったことがわかる。
 江戸時代には、手工業や市場も発達したし、都市住民はさまざまな食事や飲み物、衣服、装飾品、書籍、版画などを楽しむことができた。劇場にもことかかなかったし、両替屋なども利用することができた。
 農村部や都市郊外でつくられる商品は、次第に豊富になり、町に流れこんでいた。商業や金融、生産に携わる農民が増えるいっぽうで、貧しさにあえいでいう農民も増えていたのは事実である。とはいえ、19世紀初めには、生産者と販売者、消費者を結ぶネットワークのようなものができていて、地方では、特産品をつくる中心地も誕生するようになっていた、と著者はいう。
 さらに江戸時代後半になると、一種の信用制度も生まれていて、それが日常の買い物にも利用されるようになっていた。互いにお金を融通する無尽や講などもできていた。
 ここで著者は江戸近郊のある村の店で買うことのできた商品のリストを列挙している。それは筆や瓶、針、キセル、たばこ、茶碗、皿、酢、醤油、納豆、塩、麺、昆布、酒、まんじゅう、茶、煎餅、穀物、油、蝋燭、鬢付け、櫛、笄、綿服、手ぬぐい、足袋、草履、下駄、草鞋、その他の日用品である。
 こうした品々をみれば、近世の生活がどんなものだったかを想像することができる。さらにさまざまな商品を紹介した出版物も数多く出回り、庶民の消費志向をあおっていた。
 著者はそのころ日本橋の通りにどんな店が並んでいたかを紹介している。
 漆器屋、文房具屋、着物屋、本屋、合羽屋、鏡屋、扇屋、仏具屋、刀剣屋、印刷屋、琴三味線屋、細工屋、菓子屋、煙草屋、紙屋、蝋燭屋、籠屋……。いやいやきりがない。
 江戸は繁華な町だった。こうした商業のにぎわいがあったからこそ、19世紀になってから、日本は近代化をなしとげることができた、と著者はみているようである。
 そして、1868年には明治維新が起こり、武士の時代が終わる。多くの改革がなされ、憲法も発布される。しかし、明治時代になったからといって、いきなり消費に大きな変化が訪れたわけではない。著者によると、日常の物質文化が大きく変わるのは20世紀になってからで、そのころから日本人のくらしは次第に西洋化していく。
 その鍵となったのは、都市の中産階級だった。かれらは百貨店を通じて、ブランド品を買い求めた。新聞や雑誌による広告の影響も大きかった。
 1924年(大正13)の時点で、朝日新聞と毎日新聞の購読部数は100万部を超えた。1920年代の初めには『婦人界』、『主婦の友』、『婦人倶楽部』といった女性誌が登場した。その発行部数は、それぞれ20万部以上だったというから、人気があったことがわかる。こうした雑誌には、歯磨き粉や石鹸、扇風機、ミシンなどの宣伝が掲載されていた。
 日本が消費社会に突入したのは、大正の終わりから昭和の初めにかけての1920年代だったといえるだろう。
 そのころ、都市ではいわゆるサラリーマンが多くなっていた。職業に占めるサラリーマンの割合は、東京で1908年に6%だったものが、1920年には21%まで増えている。サラリーマンが増大する背景には、企業の勃興に加えて、学校教育の普及があった、と著者はみている。
 1920年代初めには、すでに文化生活や文化住宅などといった言い回しも登場していたという。くらしの夢をあおったのは、デパートやマスコミである。
 さらに昭和の初め、銀座などではミルクホールやビアホール、西洋料理店などが軒をつらねるようになり、温泉旅行やスポーツ観戦(とくに野球)などのレジャーも盛んになる。洋裁やパーマ(山野愛子が山野結髪所を開業したのが1925年)、タイピストや教師などの仕事につく女性も増えてきた。
 銀座ではモガ(モダンガール)が町を闊歩するようになる。新しい流行を導くうえで、やはりメディアの影響は大きかった、と著者はいう。銀座をぶらぶらし、デパートで買い物をするような生活は、やはりあこがれだった。
 そのころ普及したのが自転車である。1910年には50万台だった自転車の販売台数が、1930年には800万台に増えている。自転車はまだ男性の乗り物だった。これにたいし、女性が求めたのがミシンで、1903年から1930年のあいだに、シンガーは日本に約50万台のミシンを売り込んでいる。広告や雑誌記事、口コミ、全国で800の支店網、そこで働くセールスマンがミシン売り込みの原動力になった。1930年には、日本の家庭の約4%にミシンが普及していたという。
 NHKがラジオ放送を開始したのも1925年だった。しかし、1930年の時点で、ラジオをもっている家庭はわずか5%。このころ日本で普及していた電気製品は、アイロンと扇風機ぐらいのもので、アメリカ人がすでにもっていた冷蔵庫や電気ストーブ、洗濯機、蓄音機などは、日本人にとってはまだ高嶺の花でしかなかった。
 日本人の生活はまだまだ貧しかった。ゴードンは1918年2月17日付の東京朝日新聞に掲載された、ある小学校教師の投書を紹介している。それによると、かれの月給は20円75銭(いまでいうと13万円くらいだろうか)で、手取りは18円。これでどうやって生活していけるのかと嘆いている。
 米代を節約するためにご飯には麦を半分まぜ、しかも1日1回はおかゆにする。薪代が高いため、家族はひと月風呂にはいっていない。一杯の酒、数切れの肉、じゃがいもさえ満足に買えない。新しい着物をこしらえるなど問題外。正月になっても、子どもの着物もつくってやれず、餅さえ買えないみじめな生活だ。
 そのころの小学校教員の月給は少なくても40円くらいだったから、この人の場合は代用教員か何かで、極端に少なかったのかもしれない。
 消費の夢は膨らむのに、くらし向きは毎月やりくりするのにせいいっぱい。昭和のはじめは、まだそんな時代だったことがわかる。
 それがどんなふうに変わっていったか。
 もう少しみていくことにしよう。

戦時下のくらし──半藤一利『B面昭和史』斜め読み(3) [くらしの日本史]

 あれよという間に戦争がはじまっていた、と著者は書いている。しかし、アメリカと戦争して日本が勝てるわけがない、とだれもが思っていた、とも。
 ほかに手の打ちようがない、来るべきものが来たというのが、大半の国民の心境だった。
 ところが緒戦の連戦連勝にだれもが小躍りする。まさに万歳の嵐。
 開戦後からラジオを購入する家庭が増えた。
 その裏では、アカとスパイの摘発と称して、治安維持法と軍機保護法によって逮捕される人も増えていた。
 昭和17(1942)年1月には衣料切符制が導入される。衣料は自由に買えなくなった。政府はファッションにも口をはさみ、婦人標準服なるものまで定めている。戦時といえば、モンペ姿を思い浮かべる。
 2月には大日本婦人会が結成される。女子青年団員は傷痍軍人との結婚を奨励されていたという。
 何はともあれ、戦争に勝利するため、国民を総動員する体制がつくられていた。宮城遙拝をはじめ、連日さまざまな精神昂揚の儀式が用意されていた。
 この年4月18日には、早くも空襲があった。損害は軽微だったが、当時、国民学校の生徒だった著者は「戦争がびっくりするくらい近くにあるんだ」と思ったという。
 それから、まもなくして灯火管制が実施される。夜に電灯の光を外にもらすのは非国民と非難されるようになる。
 このころ貯蓄が奨励されたのは、もう国家予算だけでは戦費をまかなえなくなっていたからである。
 6月5日にはミッドウェー沖の海戦があり、日本海軍の機動部隊は完敗。しかし、国民に真実は知らされなかった。
 7月には紙の配給を理由に、地方紙は1県1紙に統合されることになった。これによって、新聞ジャーナリズムは完全に情報局の統制下にはいった。
 文学の方面では、すでに日本文学報国会が結成されている。
 著者は秋も深まった11月15日に大東亜戦争1周年を記念して「国民決意の標語」が大募集されたことを覚えている。著者の学校からも、選ばれた優等生が応募したが、あえなく落選。
 そのとき選ばれたのが、「欲しがりません勝つまでは」の標語。国民学校5年生の作とされたが、戦後しばらくたってから、実際はその父親がつくったとわかった。
 このころから赤紙による召集が増えていた。町には若者の姿が少なくなり、年寄りや女子どもの姿が目立つようになる。
 まもなくして、みそ、醤油、塩、ちり紙なども統制・配給となった。
 南方では、ガダルカナル島が、まさに餓島となり、多くの兵が餓死していた。
 その撤退作戦がおこなわれるのは、翌昭和18(1943)年2月のことである。
 すでに日本軍は守勢に立っている。
 昭和18年はじめ、国内では、敵性国家に関係する楽曲はすべて禁止となった。ジャズやブルースはもちろん禁止。1000曲が追放された。
「サンデー毎日」や「オール読物」など、英語のつく雑誌、喫茶店は改名させられた。野球の用語も変更になる。ストライクは「よし」、ファウルは「だめ」。
 そこに煙草、酒がいっせい値上げになる。
 そのころ陸軍報道部のつくった標語が「撃ちてし止まむ」。
 国民学校では、男子は5年生から武道が必修科目になっていた。
 3月からは朝鮮、台湾の植民地にも徴兵制が敷かれた。
 そのさなか、4月18日に連合艦隊司令長官山本五十六が戦死する。
 5月30日には、大本営がアッツ島の守備部隊が玉砕と発表した。
 戦況が悪化するなか、中学生のあいだでは愛国熱血少年が増えた、と著者は記憶している。
 こんなふうに抜き出していたのでは切りがない。しかし、このころから国民生活が急迫の度を加えていったのは事実である。食糧難がはじまっていた。
 そして学徒出陣。全国で数万の学生が出征し、その多くが戦場に散った。
 加えて、国民兵役法の改正により、兵役が45歳まで延長された。
 東京では建物疎開、すなわち住宅の強制撤去が計画される。家族ぐるみの地方転出も推奨されるようになった。
「戦争が突如として日常生活の中に押し入ってきた」と、著者は書いている。
 昭和19(1944)年になると、日本の前途はますます暗くなった。
 それでも政府は、いまだに永久戦争をもくろんでいた。戦争がやっかいなのは、いったん戦争がはじまったら、双方がどんな犠牲を払っても、勝つまで戦うという姿勢を崩さないことである。
 このころは出版統制も進んで、出版社も雑誌も統合され、政府に批判的な雑誌は認められなくなっていた。
 圧倒的なアメリカ軍を前に、日本軍は太平洋の島々で玉砕につぐ玉砕を重ねている。国内では政府が「決戦非常措置要綱」を定めた。これにより劇場や料亭、待合、芸者置屋が閉鎖された。時代は「一億一心」から「一億玉砕」に向かおうとしていた。
 そのころ中学生の著者は、軍事教育や鉄拳制裁の日々をすごしていた。税金も物価も上がり、物資不足はますますひどくなってきた。
 6月にはマリアナ諸島のサイパン島が陥落する。これにより、日本本土空襲は必至となった。
 東京では、疎開がますます現実味を帯び、強制的な建物取り壊しが実施され、8月から9月にかけ学童疎開がはじまる。
 著者の弟や妹も母親とともに実家の下妻市に疎開することになった。東京に残った著者は、その結果、東京大空襲を経験し、九死に一生を得ることになる。
 7月には、サイパン島陥落を天皇に詫び、東条内閣が総辞職する。
 8月にはテニアン島、グアム島が陥落した。
 著者の記憶では、「鬼畜米英」の標語があふれだしたのはこのころからだという。
 神社での調伏祈願も盛んになった。もはや期待できるのは、神風が吹いてくれることしかなかったのである。
 10月の終わりごろから、中学生だった著者は、軍需工場に動員されることになった。
 11月24日からは、B29による本格的な空襲がはじまる。
「この日から東京は“生き地獄”となり、無残な死は、すべて民草のすぐ隣りにあった」と、著者は記している。
 空襲は、以来、ずっとつづいた。
 明けて昭和20年。
 家庭ではガスの割り当てはごくわずかで、薪や炭もほとんど配給されていなかった。家庭でも職場でも、書類や本棚、机を燃やして、寒さをしのいだ。
 食糧事情も惨憺たるもので、統制下におかれた米や野菜、肉を買い求めるのに長時間行列するのがあたりまえになった。いきおいヤミの流通がさかんになる。いなかへの買い出しもはじまっていた。そんな窮乏生活をあざ笑うように、爆弾や焼夷弾が落ちてくる。
 大本営は、でっちあげの戦果を、いさましい軍艦マーチとともに流しつづけていた。そして、ついに「本土決戦」をいいはじめる。
 3月10日。東京大空襲。「それは東京の下町にたいする猛火と黒煙による包囲消尽作戦であった」
 まったくひどいことをするものだ。著者はこのとき、川に落ちて、あやうく死ぬところだった。このときの死者は約10万人。想像を絶する。
 アメリカ軍による絨毯爆撃は、それから名古屋、大阪、神戸にもおよび、また東京、横浜、川崎に戻って、それが何度もくり返されることになる。
 3月からは沖縄戦がはじまった。4月1日には、アメリカ軍が沖縄に上陸する。その戦いが終わったのは6月22日。沖縄県民の死亡者は12万2228人(うち軍人・軍属が2万8228人)、他の府県出身の軍人の戦死者は6万5908人を数えたという。
 日本軍による特攻作戦もはじまったが、それはアメリカ軍にさほどの打撃を与えなかった。もうひとつの悲劇以外の何ものでもない。
 沖縄戦の終結を受けて、日本政府はようやく戦争終結に向けて、重い舵を切った。その周旋役に選んだのがソ連だったというのは、いかにも愚劣である。
 そのころ、国内では国民義勇隊が組織され、女性も竹槍訓練に励んでいた。もう勝つ見込みはなくなっていた。
「このころの軍部には、結局のところ、戦争とはただただ戦う行為であり、そのために国民は命を捨てるのが当然のこと、という考えしかなかった」と、著者は書いている。
 7月27日には、日本に降伏を勧告するポツダム宣言が送られてくるが、日本政府はそれを「黙殺」する。それを連合国側は「拒否」と受け取った。
 8月6日には広島への原爆投下、9日未明にはソ連の満州侵攻、そして長崎への原爆投下とつづく。
 8月15日、天皇放送により、日本は降伏する。その日、虚脱と慟哭が日本じゅうを駆けめぐった。
 しかし、その後の日本人の変貌たるや、すさまじいものがあった、と著者はいう。「生き抜くためには、もう自分のことしか考えられなくなった」
 闇市、占領軍用の慰安婦施設、軍人や役人の逃亡、統制の解除、一億総懺悔(だれに向かってか)、このころの話題はいくらでもある。
 しかし、ともかく長い戦争は終わったのだ。
 最後に著者はこう書いている。
「人間が断々乎として、無謀で悲惨な殺し合いを拒否する意思を保たなければ、歴史はくり返すというほかないかと、いまはわたくしもそう考えないわけにはいかないかという気持ちになっています」
 はたして歴史はくり返すか。そう断言するのを著者はためらっている。
 日本はアメリカと戦争をする。
 これが歴史だとすれば、現在の方向も、あきらかにそちらに向かっている。
 ただし、戦前の「と」がagainstの「と」だとすれば、現在の「と」はwithの「と」である。すなわちアメリカに対して戦うのか、それともアメリカと共に戦うのか。そこに歴史はくり返すという定言にたいする、著者の大いなるためらいがある。
 それでもあえていうならば、どちらの「と」でもあっても、その行動が戦争に接続していることはまちがいない。
 日本人には日本に大空襲をおこない、原爆を落としたアメリカを許せないという気持ちがどこかにある。そのアメリカと共に戦うことなどご免こうむりたい。
 そのいっぽうで、日本人はアメリカにはかなわない、おべっかを使ってでもアメリカの関心を引きたいという気持ちももっている。
 この二律背反に引き裂かれているのが、現代日本の状況といえるのかもしれない。
 ただ、唯一、日本人がはっきり意思を示せるとすれば、著者のいうように、「断々乎として、無謀で悲惨な殺し合いを拒否する」ということ、つまり戦争はいやだと表明することくらいしかないだろう。
 戦争がいかに人びとのくらしを破壊するかは、戦前の経験からも明らかである。本書はそのことを後世に伝えるために書かれたといってよい。

太平洋戦争への道──半藤一利『B面昭和史』斜め読み(3) [くらしの日本史]

 著者はこう書いている。

〈そもそも歴史という非情にして皮肉な時の流れというものは、決してその時代に生きる民草によくわかるように素顔をそのままに見せてくれるようなことはしない。いつの世でもそうである。何か起きそうな気配すらも感ぜぬまま民草は、悠々閑々と時代の風にふかれてのんびりと、あるいはときに大きくゆれ動くだけ、そういうものなのである。〉

 それはそうなのだが、時代の風にゆれ動きながらも、歴史の最終判断を下すのも民草だ、と信じたい思いはある。
 何はともあれ、昭和11(1936)年から16(1941)年の世相をざっとみておきたい。
 昭和11年1月、警視庁は緊急連絡電話番号として119番を設定した。自動車の時代がはじまり、交通事故が増えていたのだ。
 プロ野球公式戦もこの年からはじまっている。
 2月20日の衆院選では、合法左翼の社会大衆党が躍進している。
 世の中に「革新」への期待は大きかったが、まさか「二・二六事件」が発生するなどとは、だれも思っていなかった。
 物情騒然。世間には秩父宮待望論もあったという。
 とはいえ、翌2月27日には、市民生活は活気を取り戻し、映画や舞台もふつうに上演されていたというから、すでに先は見えていたのである。29日に反乱は終息する。
 しかし、「この年を境として、それ以前とそれ以後とでは、[日本は]同じ昭和と思えないほどの変質と変貌をとげていった」と、著者は書いている。
 日本はすでに国連からもロンドン軍縮条約からも脱退している。政府は軍事予算を捻出するために、増税と低金利政策を導入する。
 クーデター未遂によって、陸軍はかえってその傲岸ぶりを発揮するようになる。萎縮したのは、むしろ内閣のほうだった。
 知る人ぞ知る安倍定事件が起こったのは5月18日のことである。事件はセンセーショナルに報じられた。
 物騒な世相のなかに、庶民がセンセーショナルな話題や、憂さ晴らしの楽しみを求めるのは、いつの時代も変わらない。
 7月18日には戒厳令が解除された。
 ベルリンでは8月からオリンピックが開催されていた。日本人は、平泳ぎ決勝の「がんばれ前畑!」の放送に熱狂した。
 11月には日独防共協定が結ばれる。国際的に孤立する日本は、ドイツと手を結ぶことによって、局面の打開をはかろうとしていた。
 しかし、この年の景気は悪くなかった。軍需が景気を引っ張っていた。大学生は引っ張りだこ、東北でも娘の身売り話などなくなった。新婚生活のすばらしさを歌った歌謡曲がヒットし、都市では結婚ブームが巻き起こっていた。
 そんな明るい世相を背景に、官憲による左派の弾圧は着々と進んでいる。
 昭和12(1937)年にはいっても、好景気はつづいている。
 年平均国債発行高は100億円を超えたが、そのほとんどは日銀引き受けだった。
 6月には、国民の期待を担った近衛文麿内閣が発足。
 それからわずか33日後の7月7日、北京郊外の盧溝橋で日中両軍が衝突する。日中戦争がはじまった。戦争がさらに景気を刺激する。この年の経済成長率は、23.7%だったというから驚く。
 戦争が起こる前も、世相はどこかのんびりしている。名古屋城天守閣に輝く金のしゃちほこのうろこ58枚が盗まれるという珍事に関心が集まっていた。
 文芸界では、この年、堀辰雄『風立ちぬ』、太宰治『晩年』、川端康成『雪国』などの名作が登場、新聞では吉川英治が『宮本武蔵』、横光利一が『旅愁』、永井荷風が『濹東綺譚』を連載している。戦前では、日本文学の最後のあたり年だった、と著者は述べている。
 純国産機「神風」が東京─ロンドン間を飛行したのもこの年だった。呉の海軍工廠では、戦艦大和の建造がはじまっている。
 著者によると、国民は日中戦争が亡国につながるような大戦争になるとは思っていなかったという。暴支膺懲、つまり乱暴な支那をこらしめることに、何の疑問もいだいていなかった。
 こうして、戦争はどんどん拡大していく。
 軍国歌謡、すなわち軍歌が流行する。
 宮中に大本営が設けられた。
 そして12月の南京陥落を、国民は盛大に祝った。
 だが、昭和13(1938)年になっても、戦争は終わらなかった。
 4月には国家総動員法が成立する。これによって、日本は国を挙げての戦時体制に移行した。言論の自由は完全になくなる。政府は必要に応じて、新聞記事を制限または禁止することができるようになった。雑誌にたいしても発禁のオンパレードである。
 そのいっぽうで、ペン部隊が組織され、文学者が従軍するようになっている。文学者の書く戦場ルポは評判になって、それが掲載された雑誌はよく売れたという。ただし、石川達三の『生きている兵隊』は、あまりにも生々しいルポだったせいか、これを掲載した『中央公論』はたちどころに発禁をくらった。
 この年、ヒットした映画は『愛染かつら』。その主題歌「旅の夜風」も大当たりした。「人生劇場」も、この年、はやった歌謡曲である。
 銃後では隣組がつくられ、献金や千人針などの町内活動も盛んになっていた。これぞ、国民精神総動員のあかし。
 物価は上がり、ガソリンの配給切符制がはじまっていた。バスは木炭車に変わっていく。
 この戦争の前途を心配する者もいたが、それはごく少数だった。ほとんど、だれもが、あっけないほど楽観的だった。それに、そんな疑問を口にすれば、たちまち特高が飛んできて、逮捕されたからである。
 昭和14(1939)年1月、漢口を攻略したものの、日中戦争終結のめどがたたない近衛文麿は内閣を投げだす。
 その後、成立した平沼内閣、阿部内閣のもとで、世界は激変する。
 5月にはノモンハン事件が発生、7月にはアメリカが日米通商航海条約の廃棄を通告、そして8月には独ソ不可侵条約が成立。何が何だかわからなくなった平沼騏一郎は総辞職。そして、9月にはドイツがポーランドに侵攻、第2次世界大戦がはじまる。
 庶民の生活は戦時色が濃くなっている。学生には軍事教練がほどこされ、賃金統制令がだされ、満蒙開拓青少年義勇軍の計画が発表されている。国民精神総動員委員会が生活刷新案を決定し、それを次々と通告する。遊びにたぐいするものは禁止、学生の長髪も禁止される。女子学生のパーマネントも禁止である。
 とはいえ、中国戦線は膠着しており、国民のあいだで厭戦気分が生じるなかで、政府は次々と国民生活を統制するための法律を乱発した。用紙の統制によって、新聞・雑誌も統合されていく。
 そして、「産めよ殖やせよ国のため」とくる。
 それでも、この時分は、まだ「つかの間の平和」気分が残っていた。
 昭和15(1940)年は紀元二千六百年の年。
 その年のはじめ、議会では斎藤隆夫がいわゆる「反戦演説」をおこない、内閣に支那事変(日中戦争)の処理案を示せと迫ったが、議員を除名される。その後、衆議院は聖戦貫徹決議で一致し、柔軟路線の米内光政に代わって、またも近衛文麿が担ぎだされるのである。
 ヨーロッパでは、西に向けてのドイツの総攻撃がはじまり、ドイツ軍はベルギー、オランダ、フランスをたちまち占領した。
 このころ「わらわし隊」と称する芸能人の軍隊慰問団が、満州や中国に送られていた。
 日中戦争以降、人気があったのはニュース映画で、家庭にテレビのない時代、人びとは映画館で皇軍の活躍に見入っていた。
 物資の統制もはじまっている。砂糖とマッチの支給は配給切符制となった。
「ぜいたくは敵だ」という標語がちまたにあふれるようになった。
 くず鉄や鉛の対日輸出を禁止したアメリカは、すでに日本への石油輸出を許可制にすると発表していた。日本は危機感を強めた。
 英米を敵視する排外的な論調が強まり、それが「ドイツへの親近感を増幅させ、日本人の心情をぐんとヒトラーに傾斜させていった」と、著者は書いている。
 首相の座に返り咲いた近衛は、八紘一宇の精神で、世界平和をつくりだすと、ぶちあげた。そして、ドイツの快進撃に目がくらみ、日本軍は北部仏印(現ベトナム北部)に進駐を開始、9月27日には日独伊三国同盟が締結される。
 すでに国内では翼賛体制が敷かれており、防空演習や軍事訓練のときには、在郷軍人会が町内を仕切っていた。一億一心という標語もつくられている。
 11月10日には、紀元二千六百年の大祝典が挙行された。
 そして、いよいよ太平洋戦争突入の年、昭和16(1941)年が幕を開ける。
 著者によれば、「ともかく世は四方が何となく行き止まりで、頭に重たいものが乗っかっているように鬱陶しく、だれの心もくさくさしていた」というのが、この年の雰囲気だったという。
 その春、小学校の名称が国民学校へと変わった。
 国民学校は少国民を要請する場となった。子どもたちが次の「戦力」になるよう養成しようというのである。
 4月には日ソ中立条約が締結される。ところが、それから2カ月たった6月22日に、ドイツはソ連に宣戦布告し、独ソ戦がはじまる。
 アメリカが日本への石油輸出禁止に踏みだすのは、もう時間の問題だった。すると、日本は東南アジアの石油を確保する以外にない。
 こうして7月に、日本は南部仏印に進駐する。アメリカはとうぜん、石油の全面禁輸で応じる。
 9月1日には金属類特別回収令が施行された。校庭に立っていた二宮金次郎の銅像がどしどし供出されたという。
 さらに、その10日後には、タクシーやハイヤーなどのガソリン使用営業車が禁止されている。
 11月27日には「ハル・ノート」が送られてきた。これで万事休す。
 新聞は、アメリカ、イギリス、オランダ、中国のABCD包囲網に日本が包囲されているという記事を盛んに流した。
 こうして12月8日、日本はハワイの真珠湾を奇襲攻撃、太平洋戦争がはじまる。
 しかし、皮肉なことに、ソ連に攻め込んだナチス・ドイツ軍は苦戦しており、「無敵ドイツ」の歴史は終わっていた。
「大日本帝国はつかの間の勝利で有頂天になっているときではなかった」と、著者は書いている。

満州事変と民衆──半藤一利『B面昭和史 1926-1945』斜め読み(2) [くらしの日本史]

 昭和6(1931)年は、満州事変の年である。
 現在、よく使われる歴史用語でいうと、15年にわたるアジア・太平洋戦争がはじまった年だといってもよい。
 いまなら、国民はなぜこの無謀な戦争に反対しなかったのかという疑問がわいてくるかもしれない。しかし、当時、そんな疑問を世間にぶつけようものなら、治安維持法でたちまち逮捕されたし、そもそも国民自体が国家は戦争をするものだと思いこんでいた。
 明治以来、西南の役も含めると、日本という国は、ほぼ10年に一度、戦争をおこなって、国を大きくし、帝国を築いてきた。
 国が戦争をするのはあたりまえだった。戦争で国が大きくなるのだから、ほとんどの国民が戦争を支持していた。
 軍を指揮するのは、軍の頂点に立つ天皇である。したがって、軍は皇軍と呼ばれた。
 軍の指揮権(統帥権と呼ばれた)は天皇にあるから、形式上、議会は軍の行動に干渉できない。といっても、立憲制の原則に立つ以上、軍の動きは、実際には天皇によってではなく内閣によって掌握されることになっていた。しかし、昭和にはいると、次第に軍にたいする歯止めがきかなくなってくる。
 満州事変はそうした動きのはじまりだった。日本軍は奉天(現瀋陽)郊外、柳条湖での鉄道爆破事件(実は自作自演)を口実に、満州全土を占領した。
 軍は国民生活とも密接に関係していた。なぜなら、軍は徴兵制によって支えられていたからである。当時は、男子はだれもが二十歳になれば、徴兵検査を受けなければならなかった。そして、そこから選抜され、現役兵、召集兵として、軍務につくことを命じられた。その命令に逆らうことは許されない。
 ちなみに、満州事変の時点で、日本軍の規模は、陸軍が17個師団約20万人、海軍が約7万8000人、これにたいし昭和20(1945)年の敗戦時には、陸軍は歩兵師団だけで169個師団約547万人、海軍は169万人にふくれあがっている。
 軍は国民を呑みこみながら膨張していった。
 戦前の生活では、軍と戦争、天皇と国家が常に身近にある。

 以上は長い前置き。本題に戻って、『B面昭和史』のつづきを読んでみよう。
 暗い時代はまだはじまっていない。
「モガ・モボにはじまるエログロ・ナンセンス。そしていろいろなガールの出現」、「労働争議」ならぬ「家庭争議」が流通語になっていたというのだから、大衆社会はとっくに出現していた。
 それでも、経済は世界恐慌のあおりを受けて、不況のどん底にあり、公務員の賃金カットまではじまっている。古賀政男作曲の「酒は涙か溜息か」や「侍ニッポン」がヒットしていた。
 そのいっぽうで、このころ日本の技術水準は飛躍的に高くなっていた。当時、世界最長の清水トンネルが完成し、初のトーキー映画『マダムと女房』がつくられ、国産第一号旅客機が完成したのもこの年である。
 軍は大不況のさなか、中国軍の隙をねらって、満州事変を引き起こした。新聞はこぞって軍を支持し、部数を伸ばした。
 戦争気分がうっとうしい不況を吹き飛ばそうとしていた。いままでのマルクス・ブームはうそのように消えてしまった。
 時代相は鬱から躁へといっぺんに変わる。
 昭和7(1932)年には満州国が設立される。
 しかし、不況はまだつづいていた。決められない政党政治、財閥の経済支配にいきりたつ民間右翼や軍の一部は、次々と暗殺事件を決行する。
 血盟団事件、「五・一五」事件である。
 それで、軍が批判の槍玉に上がったかというと、じつはそうではなさそうなのである。
「忠義と憂国の名においてなされる世直しに、人びとは大いに共感したのである」と、著者は書いている。
 青年将校らは、赤穂義士のようにみられたのだろうか。
 思い切った行動によって、現状を打破する。人びとはそんな気分におかれていた。あとから見ると、それは悪夢に終わる誘惑の滴だった。
 しかし、ともかく軍には期待が寄せられていた。その軍が連戦連勝で勝ちとった満州。「赤い夕日の曠野にこそ国家発展の夢がある」
 人びとは現地の実情を知ることなく、ひたすらみずからの夢だけを膨らませていた。
 日本は満州から手を引くべきだというリットン調査団の報告は一蹴される。
 民衆生活はまだどことなくのんびりしている。それでも「非常時」がはじまろうとしている。
 昭和8(1933)年から昭和10(1935)年にかけては「束の間の穏やかな日々」がつづいていた、と著者はいう。
 しかし、昭和8年早々、三原山が自殺の名所になったのは、いったいどういうわけだろうか。
 2月には作家の小林多喜二が逮捕され、虐殺されている。
 そして、日本は国際連盟を脱退する。
 そんななか、民衆は悲痛な思いにうちひしがれていたわけではなく、お花見に浮かれていた。しかも、満州には無限の可能性があると思いこんでいた。
 著者も「人間には生まれながらにして楽観的な気分が備えられているのではないか」、「民草は国策がどんどんおかしくなっているのには気づこうとしない、いや気づきたくなかったのか」と書いている。
 教科書が変わったのもこの年で、「忠君愛国の精神」が強調されるようになる。
 防空演習もはじまった。
 しかし、どこかで憂さをはらしたいという気持ちがはたらいたのか、この夏には「ヤーットナー、ソレ、ヨイヨイヨイ」とがなりたてる「東京音頭」が大流行した。
 そして12月23日には皇太子(現天皇)が誕生、宮城前広場は喜びの人波で埋め尽くされた。
 明けて、昭和9年。中国大陸の戦火はひとまずおさまった。
 官営八幡製鉄所を中心に、多くの鉄鋼会社が合併して、日本製鉄ができる。
 重化学工業がめざましく発展するのも、このころである。
 軍需インフレが景気を刺激していた。戦争景気というべきだろう。職工や熟練工の給料も上がった。
 街では新規開店の店の宣伝に、チンドン屋が練り歩いていた。活動写真も大賑わい。カフェーに代わって、喫茶店やミルクホールが盛り場に登場した。
 しかし、景気が良くなったといっても、凶作に見舞われた東北は別であった。娘の身売りがはじまっていた。東北は貧しさから抜けだせないでいる。
 いっぽう、都会では近代化が進む。丹那トンネルの完成により、東海道線が御殿場を通らず、熱海から沼津に抜けて走るようになった。
 電話も普及しはじめる。
 満鉄では特急「あじあ」号が走りはじめている。
 昭和10(1935)年になると、軍部が政治を掌握し、思想を統制する動きがはじまる。天皇を現人神として祭りあげるのは、軍部主導の体制をつくるためである。
 それでも昭和10年には、まだ自由主義的な風潮が残っていた、と著者はいう。社会全体としては、景気も悪くなかった。ラジオや畜音機をもつ家庭が増え、レコードも大いに売れていた。この年、大流行したのが、「二人は若い」。
 銀座にはネオンサインが増えている。日劇ダンシングチームの公演もはじまろうとしている。
 サラリーマンの月収も増え、月賦販売が普及しはじめている。
 百貨店が高層化し、エレベーターが登場する。
 中産階級が生まれ、消費社会が誕生していたのだ。
「昭和日本の都市のほとんどが質量ともにサラリーマン社会になりつつあった」と、著者も書いている。
 そこに「革新」を唱える国粋主義的な軍部や官僚、右翼が勢力を伸ばすというのは、何やら矛盾していると思えなくもない。
 しかし、事実はそうなのである。相沢三郎中佐が永田鉄山少将を斬り殺す事件も発生して、世は軍国主義の時代へと転換していく。
 そのつづきは、また。

半藤一利『B面昭和史 1926-1945』斜め読み(1) [くらしの日本史]

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 歴史のA面が政治・経済・外交・軍事だとすれば、それにたいして、「民草の日常の生活のすぐそこにある『こぼれ話』」がB面ということになる。だから、ここには、戦前の庶民生活史がえがかれている。
 このブログのカテゴリー「くらしの日本史」に沿って、戦前のくらしをふり返ってみたい。それこそ、おもしろエピソード満載の本書の流れからすれば、ここで拾っているのは、わりあいまじめくさった話だから、歴史のお宝発掘を楽しみたい方は、本書の隅から隅まで楽しんでいただくことをおすすめする。
 まず昭和の特徴は、デモクラシーよりナショナリズムの傾向が強まることだ、と著者は指摘している。大正デモクラシーは長くつづかず、大正の終わりころから、国粋主義が勢いを増してきた。
 おやおや、これはいきなりA面の話。でも、生活と関係がなくもない。ナショナリズムが強まると、生活のうえに国家がのしかかってくるようになるのは必定だからである。
 テレビの受像実験が成功するのが、大正15(1926)年12月25日。翌26日から「昭和」がはじまる。
 だが、昭和のはじまりは、けっして明るくなかった。各地では労働者のストや小作争議、植民地では爆弾騒ぎが起きていた。
 不景気がつづいていたのだ。
 すでに都会の家には電灯がある。しかし、コンセントなどというしゃれたものはない。二股ソケットが重宝された。
 昭和2年3月、金融恐慌が発生。
 そのいっぽうで、日本の出版界に時ならぬ円本ブーム。
 そんななか、芥川龍之介が自殺する。
 関東大震災のあと、東京の住宅地は郊外に広がっていった。
「こうして東京はぐんぐん変貌していく。震災のため下町から焼けだされた人びとが、山の手からさらにその先の、とくに西や南の郊外へと移っていった。必然的にその郊外への起点である渋谷や新宿が存在を重くしていく」
 上野─浅草間に地下鉄が開通する。
 昭和は電気時代のはじまりだった、と著者は書いている。
 その象徴がラジオだった。全国中継網が完成するのは昭和3年11月のこと。
 普通選挙もはじまった。ただし、投票権があるのは25歳以上の男子のみ。
「治安維持法にもとづき、いわゆる『3・15事件』の大検挙があったにもかかわらず、世はまさにマルクス・ボーイが大手を振って闊歩していた」と、著者はいう。
 1920年代後半はマルクス主義の全盛時代だった。知識人はそこに解決策を見出そうとしている。
 いっぽう、大正以来の不景気がつづくなか、軍部は満州進出をねらっていた。
 昭和4年には「東京行進曲」が大ヒット。銀座、浅草、新宿。東京はモダン都市である。浅草ではエノケンが大活躍。
 映画は小津安二郎の『大学は出たけれど』。就職難の時代。
 政府は国民に緊縮生活を呼びかけていた。
 ニューヨークでは株式が大暴落、世界大恐慌がはじまる。
 昭和5(1930)年3月、東京では帝都復興祭。関東大震災から7年、このときばかりは、不況も何のその、東京はわきたった。しかし、街にはルンペン(浮浪者)があふれている。
 東京市電・市バス(このときはまだ市)は首切りと賞与減額に反対してストにはいる。しかし、5日目には惨敗。
 三木清、山田盛太郎、平野義太郎が、共産党シンパとして逮捕される。
 米価は低落、農村の困窮ははなはだしかった。
 この年の流行語は、エログロ・ナンセンス。暗い世相をばかばかしさやエロで吹き飛ばそうという意識がはたらいたか。東京や大阪では、カフェーやダンスホールが大流行した。浅草の興行界もエロを前面に出す。とうぜん、当局も取り締まりに乗りだした。
 著者はこの年に生まれている。「わたくしの生まれたのは、このように猥雑で、どことなくやけくそ半分のユーモラスな空気が巷にあった年であった」と書いている。
 世の中は不況ではあったが、まだどことなくのんびりとし、庶民のエネルギーがあふれていたのだ。
 争議貫徹を叫ぶ男が赤旗をもって高さ45メートルの煙突にのぼり、ここから下りてこないという事件も発生している。
 人口も増えていた。日本の人口は、この年6000万に達した。明治維新のころが3000万だから、約60年間で人口は倍増したのである。
 海軍のなかには、すでに締結された軍縮条約に反対する動きも根強かった。
 浜口首相狙撃事件も発生して、政党政治にたいする不信感も広がっている。そしていまふうにいえば「決められる政治」を求める声が高まっていく。政府が決められないのであれば、軍が問題を解決するほかない。それが満州全土の軍事占拠という直接行動につながっていく。
 昭和6年は満州事変のおきた年である。
 その年のB面として、著者は漫画「のらくろ」の登場である。のら犬のくろ、略してのらくろは、不況で食えなくなり、軍に入隊した。この漫画は軍によって禁止されるまで、約10年間つづいた。
 そこに出てくる食いものを調べた著者は、天ぷらとアイスクリームが登場するのが昭和8(1933)年、鍋焼きうどんと豚饅、チョコレートとお汁粉が昭和9年、トンカツが10年、大福が13年、鶏の肉団子が14年、キャラメルが15年に登場するのを発見している。その後、戦時下になると、こうした御馳走は次第に食べられなくなってくる。
 しくじりやヘマを、頓智と勇気と努力で克服していくのらくろは、子どもたちに大人気を博した。
 少しくたびれてきたので、つづきはまたとしよう。

変わりゆく村 [くらしの日本史]

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 村が変わっていったのは、町が発達してきたからだ、と宮本常一は書いている。
 町は自給できないから、村に食料や原料を依存しなければならない。すると、どうしても交換が必要になってくるため、町から村に商品が流れていく。百姓道具をはじめとして、着物、家具などが町から村にはいってくる。
 そうした商品がはいってくると、村自体も変わってくる。
 ほしいものができると、お金が必要になってくる。そのため、農産物を売りにだすようになる。こうして市ができる。
 そのあたりの関係は、どっちが先なのか、よくわからない。
 市はもともと決まった日に開かれていた。四日市とか、五日市、八日市、十日市などの地名はその名残である。
 そうした市が常設の店になり、店が集まると、新しい町ができていった。神社や寺が市を管理し、それが町へと発展していく場合もあった。
 交通が発達してくると海には港町ができ、陸の交通の要所には宿場町が発達する。
 江戸時代には、武士が村から離れ、城下町に集まるようになった。
 宮本によると、町の古い家は何代か前をたどると、いなかからでてきて住み着いた人がほとんどだという。そんなふうに、町は大勢の人がさまざまな地方からやってきて、大きくなっていったのだ。
 税によってくらす武士はともかくとして、庶民が町で食っていくには商売をするほかない。ものをつくったり、集めたりして、それを売って、生活の足しにするのだ。
 町や近在の村でつくられる商品の量や種類は、どんどん増えていく。
 商品は町だけではなく、村にも流れていく。
 村の人がそれを買うにはお金が必要だから、村では米や麦以外にも、お金になる作物をつくるようになる。山ではコウゾや茶がとれたが、畑ではナタネやワタ、サトウキビ、アイ、アサなどがつくられ、クワをつくって蚕を飼う仕事もはじまった。
 しかし、そうした換金作物を栽培するには、肥料を買って、それを畑にいれなければならなかった。田畑で使う鍬や鋤、家で使う釜や鍋、山で使うノコギリやナタも町から買わなければならない。
 町といなかを結んで、あちこちを回りながらものを売っているのが行商の人たちだった。高野聖(こうやひじり)とは、もともと旅をしながらものを売って歩く高野山の坊さんだったという。
 人の通行が盛んになると、どんな山の奥にも、道は次第に開けていった。
 ものを運ぶ決まったルートもできていく。
 飛騨や信濃の山中では、ボッカと呼ばれる人たちが重い荷物をかついで、山道を往復していた。富山の海でとれたブリはボッカによって運ばれ、「飛騨ブリ」として信濃で珍重された。
 天竜川筋では、三河のほうから、馬で塩などが運ばれていた。
 京都の町に柴を売りにくる大原女も有名である。

『ふるさとの生活』の最後に、宮本常一は日本の衣食住の変遷を記している。
 着物は、もともと家でつくられていた。フジやコウゾ、アサなどから糸をつくり、それを布に織り、裁断して仕立てた。ずいぶん手間がかかっただろう。糸車や機(はた)は、その苦労をしのぶよすがである。
 江戸時代にはいって木綿が登場すると、木綿はまたたくまに日本じゅうに広がっていった。麻にくらべると、木綿のほうがやわらかで、あたたかく、紺の色があざやかに浮き立った。
 村でふだん着る着物は上下別々になっていて、上着は腰のあたりまでしかなく、下はモンペやモモヒキをはいていた。作業をしやすくするためである。
 ふとんが使われるようになったのは比較的新しく、ワタがいくらでも手にはいるようになってからだという。それまで、村人はワラにもぐったり蓑をつけたりして寝ていた。
 ワラからは、蓑やわらじ、ぞうり、背中当て、背負い袋などがつくられた。いまでいえば、コートや靴、スリッパ、リュックサックというところか。身につけるものに、ワラが使われなくなったのは、明治の洋服時代になってからだ。
 食べ物についていうと、狩猟採集時代に人が食べていたのは、貝や木の実、動物の肉などだった。それが2000年ほど前、弥生時代にはいると、コメやムギ、アワ、ヒエ、豆、サトイモなども食べられるようになった。
 しかし、百姓はそんなにコメを食べていたわけではない。コメは特別の日の食べ物で、ふだんはムギ、アワ、ヒエが常食だった。コメは多くが年貢や小作米として収められ、残ったコメもお金を得るために売られていた。
 ポルトガル人により日本にトウモロコシ(中南米原産)がもたらされたのは16世紀終わり。それ以来、四国や近畿の山のなかではトウモロコシが多くつくられるようになった。
 同じく中南米原産のサツマイモが、中国から琉球にはいってきたのは1600年ごろ。以来、サツマイモは薩摩をへて、救荒作物として日本じゅうに広がっていった。
 モチや団子はハレの日の食べ物で、神さまと縁が深かった。
 そして、祭りといえば、酒盛りとうたが欠かせなかった。
 うどんやそうめんは、もともと中国の食べ物だったという。
 いなかとちがい、江戸時代から、町ではコメばかり食べていた。コメを煮て食べるようになったのも江戸時代からだという。食事の回数が2回から3回になったのも、このころである。
 菓子の語源は野生のくだものの実。いなかでは、ヤマモモ、ブドウ、ヤマナシ、イヌビワ、アケビ、カキ、クリなどを食べていた。それが、だんだんちがった意味になり、ついに現在のお菓子が誕生する。それも江戸時代だったろうか。
 動物の肉を食べることが少なかった日本人は、その代わり、魚を多く食べた。
 生活には塩が欠かせなかった。最近は見かけることも少なくなったが、塩田がつくられるようになったのは1700年ごろといわれる。
 そして、最後に住居である。
 大昔の人は竪穴式住居に住んでいた。高床式の家はもともと神を祭ったり、食物をいれたりするものだったが、次第に人も床の上に住むようになる。しかし、煮炊きは土間のほうが便利だった。
 村の家には神棚とイロリがあり、土間にはカマドがつくられていた。
 屋根は茅葺きか藁葺き。それが明治以降、瓦葺きに変わっていった。
 床にはふつうムシロが敷かれていた。しかし、町の影響を受けるようになると、だんだん畳が敷かれるようになる。
 コモをたらしていた窓にも、障子がはめられるようになると、家のなかはずっと明るくなった。
 こんなふうに、宮本常一の記述にしたがって、衣食住の変遷を並べてきたけれど、ざっと並べてみただけでも、その変遷ぶりはとどまることがない。
 いまも町や村は、めまぐるしく変わっている。人のくらしもどんどん変わる。せめて、それがよい方向に変わるようにしたいものである。

村のくらし [くらしの日本史]

 新しい土地をひらくときには、神さまを祭らなければならなかった、と宮本常一は書いている。
 山と田のあいだには山の神、ひらいた土地には田の神(地神)、屋敷や畑にはお稲荷さんを祭った。
 新しく家を建てるときの地鎮祭にも、そうした名残がある。
 畑の字は火と田からなる。これはもともと林や森に火をかけて、田をつくっていたことの名残である。いわゆる焼畑だ。
 これにたいし、火をかけないでひらいた「はたけ」が、白い田、つまり畠である。
 畠や畑では、ヒエ、アワ、ダイズ、アズキ、ソバ、ダイコンなどがつくられていた。
 家をつくるときには、ともかくも水が確保できること、風よけがあること、たきぎがとれる森や林を背後に控えていることがだいじだった。
 田畑は家の前に開けていた。
 東北の古い村では、御館(おやかた)と呼ばれる中心の家があり、そのまわりを二、三十戸の名子の家が取り囲んでいたという。
 本家と分家がひとかたまりになった村、草分けの百姓たちが集まった村、親方と子方でむすばれた村もあった。
 村は入会地や共有地をもっていた。
 そこは村人がたきぎや草をとる場所だった。
 村のくらしは、どんなふうだったのだろう。
 ここでも宮本常一に教えてもらうのが、いちばんのような気がする。
 男の子は、15歳で若者組にはいるか、元服をすませると大人になった。
 女の子はだいたい11歳から15歳のあいだに成人式を迎えたという。
 昔は動力も機械もないので、仕事はすべて人の力に頼るほかなかった。
 田植え、田の草取り、収穫はけっこうな労働を要した。
 ぞうりやわらじを編むのは男の仕事、布織りは女の仕事だった。
 村では共同作業が多かったという。
 田植えや畑おこし、作物の収穫も、村人の手伝いがなければできなかった。家を建てたり、カヤで屋根をふいたり、草を刈ったりするのも、共同作業である。
「村の人はみんな大工のうでがあり、屋根をふくことが上手だった」と、宮本常一は書いている。
 こうして、たがいに手伝うことをユイと呼ぶ。
 田植えもユイでなされたが、大きな田では、着飾ったさおとめが四五十人も集まり、にぎやかで、はなやかなお祭りみたいになったという。
 センバコキができるまでは、稲穂から籾をとるのは、たいへんな作業だったろう。とてもひとりではできなかった。
 地域によっては、コウゾを煮たり、みそをつくったりするのも、共同作業、つまりユイでおこなわれたという。
 農家ははたらきづめで、なかなか8時間労働などでは仕事が片づかなかった、と宮本は書いている。
 田や畑で作物をつくり、収穫をし、草取りをし、夕飯後は夜なべでわら仕事をするといった毎日だった。
 そのうえ、不作に備えて、たくわえも用意しておかなければならなかった。
 そんな忙しい毎日でも、休みの日はあった。
 それは神を祭る日だ。
 正月やお盆、節句、お宮の祭、ほかに年中行事などもある。
 さらに、家の祝いや祭りの日も休みをとった。
 祭の日は、ハレの日で、この日ばかりは日々の仕事のことを忘れて、先祖に感謝し、一家の無事を祝い、村人こぞって楽しく遊んだ。
 しかし、そんな村の生活もだんだん変わっていく。

村のおこり [くらしの日本史]

 引きつづき、宮本常一の『ふるさとの生活』を読む。
 村や町はどんなふうにはじまったのだろう。
 宮本はまず今井町の場合を紹介している。
 奈良盆地の今井町には、いまも古い街並みが保存されている。
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[今井町。ウィキペディアより]
 このあたりには、もともと古い村があった。その土地は、古代の条里制によって、きちんと区分されていた。
 そこに中世、今井御坊(称念寺)と呼ばれる一向宗(真宗)のお寺ができて、町が広がる。郷の周囲には土塁がめぐらされた。
 そして、ここに今西家という豪商が移り住み、戦国時代には堺と同じく自治都市として栄えるようになったという。
 これは村というより町のおこりだが、宮本はとくに「堀を村のまわりにほっている村などは古いものだ」と書いている。
 ここで注目されるのは、あとから来た者が、それまでの村の仕組みを変えていくということである。
 村にはよく氏神がまつられている。氏神とは、そもそもなんだろう。
 それは、もともとその土地に住んでいた豪族の祖先をまつったものだといってよいだろう。
 そこで、氏神を調べ、それがどのように祭られているかを知れば、村の成り立ちを探る手がかりになる、と宮本はいう。
 あとから村に来た者は、氏神を祭る宮座になかなか加えてもらえなかったという。宮座とは神社のまつりにかかわる村の組織のことだ。
 ややこしいのは、氏神にもいろいろあることだ。
 村の氏神があるかと思えば、家の氏神もある。
 村の氏神というのは、村を治めていた豪族の神さまだ。これにたいし、家の氏神は家を開いた祖先である。
 案外、村の氏神より、家の氏神があつく祭られていることも多い。これは昔の豪族が、すでに村とは縁遠くなっていることを示している。
 村ではしばしば鎮守の神さまが氏神として祀られている場合もある。しかし、鎮守というのは本来、氏神ではない。荘園を守るために置かれた神だ。
 だから、鎮守の神さまがいるというのは、その村がかつて荘園だったことを示している。荘園とは、だいたい貴族(のちには武士)や寺社が所有していた土地である。
 こうして、氏神をたどっていけば、村の変遷もたどれるのだという。
 荘園を支配した貴族や武士がいなくなったあと、村を管理するようになったのが、大地主でもある庄屋だった。
 ちなみに荘園は西に多かった。
 これにたいし、名田(みょうでん)はのちに開かれた土地である。
 大名は、もともと名田を多く支配する豪族を指していた。大名にくらべ、所有する名田が少ない豪族が小名と呼ばれた。
 名田の地主を名主(みょうしゅ)という。かつて名主は大名や小名にしたがって、戦争におもむいたものだ。
 しかし、近世になると、「みょうしゅ」は「なぬし」と変わり、百姓身分の村役人となった。
 村の百姓代表は、西では庄屋、東では名主と呼ばれる。それは西が荘園、東は名田が多かったことと関係している。
 寺と墓も村の由来を知る手がかりになる、と宮本はいう。
 寺と村が一般に結びつくのは、江戸時代になってからで、さほど古いことではない。幕府はキリスト教の浸透を防ぐため、宗門改めの制度を設け、その運営を寺にゆだねた。それによって、村や町の住人は、だれもがどこかの寺に帰属しなければならなくなった。
 古い墓は石塔や板碑などが多いものの、寺にいまのような墓が立てられるようになったのは、江戸時代のなかばぐらいからだという。
 それまでは死骸は森や河原に埋められていた。
 関東地方では、寺ではなく家の畑の端に先祖の墓がつくられることもあった。そうした墓を調べれば、その村のおこりがわかってくるという。

 縄文時代や弥生時代の遺跡をみれば、家はだいたい固まって建てられていたことがわかる。ひとところに集まらねばならなかったのは、天変地異や外敵に備えたり、協同作業をおこなったりするためだったという。
 ごく最近まで、田畑の周囲には竹垣や石垣がもうけられていることが多かった。イノシシやサルが田畑を荒らすのを、少しでも防ぐためである。
 古代の条里制の敷かれた近畿の村々でも、集落はだいたい固まっていた。
 ところが、次第に家を耕地の近くにつくる傾向が強まってくる。世の中が平和になり、便利さが優先されるようになったからである。
 関東では名田がどんどん開かれていく。
 戦国時代には、戦いに敗れた豪族が、家来をひきつれて、山中に村を開く場合が増えてきた。そうした村では、おどろくほど大きな構えをした家が、中心に居を構えている。
 いっぽう、農家の次男や三男が村を出て、新しい土地を見つけ、そこに村をつくる場合もあった。草分(くさわけ)の村である。
 土佐(高知県)では、江戸時代にはいって、旧主、長宗我部家の旧家臣に新しい土地を開かせ、低い武士身分の郷士にした。
 また幕府や藩に願いでて、村全体、あるいは町や村の金持ちが土地を開墾するケースもでてきた。いわゆる新田である。
 村全体、すなわち村請(むらうけ)で新田を開いた場合は、それを村人のあいだで仲良く分け合って、くじ引きによって交代で土地を耕すやり方もあったという。これを地割制度と呼ぶ。
 地割が多いのは西日本で、東日本はそれが少なかった。
 東日本では、大きな土地を所有する地主が、名子と呼ばれる小作人をおき、作男や下女をたくさん使っていた。
 宮本は、東日本とりわけ東北では気候が厳しく、万一に備えて、中心になる家が必要だったためではないかとしている。
 こうしてみると、村のおこりも一律ではなく、いろいろだったと気づく。

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