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最晩年の自由論──若森みどり『カール・ポランニー』を読む(6) [思想・哲学]

 1954年にコロンビア大学を退職したあと、ポランニーは『自由と技術』と題する著作で、産業文明にたいする考察を進めるつもりでいた。しかし、病気のため、それは完成にいたらず、断片的な草稿が残されるにとどまった。
 そのかたわら、弟子のロートシュテインは3年間にわたりポランニーとの対話を書き留めていた。それが「ウィークエンド・ノート」なるものである。
 著者はポランニーの断片的草稿や聞き書きのノートをもとに、かれの最晩年の思想をさぐろうとしている。
 ポランニーの思考は難解である。だから、そのすべてを理解するのは無理としても、せめてその一端だけでも紹介しておきたい。
 ポランニーは、「産業社会における良き生活」という断片のなかで、産業文明における「自由の喪失」に触れて、こう述べている。

〈複雑な社会において、われわれの意図的行為の、意図せざる結果が啓示された。これらのなかには、われわれを脅かす二つのものがある。権力と経済的価値決定がそれである。これらは、われわれが望もうが望むまいが、他者の精神的生活に強制を強いる権力の創出にわれわれを巻きこむ。これこそ、われわれが苦しんでいる自由の喪失である。〉

 この謎のようなことばは、いったい何を言わんとしているのだろう。
 現代は自由な社会だといわれる。
 だが、ポランニーのことばは、それを疑わせるものだ。
 自由な社会といっても、人は朝から晩までお金にがんじがらめになっているではないか。お金で好きなものを買うというけれど、ほんとうはどんどんつくられる新規商品を買わされているだけではないか。それに働いているというけれど、それは人に売れるものをつくったり、人にものを売りつけたりしているだけではないのか。それがほんとうに自由な生活なのか。選挙があれば投票するというけれど、ほんとうは選ばされているだけで、それは権力の創出に貢献しているだけではないか。
 社会が複雑化すればするほど、人は充満するモノと情報、イメージのなかで自分を見失っているのではないか。そして、何か大きな不安に突き動かされるように、産業文明という監獄をさらに広げることに邁進しているのではないか。
 現代人は、与えられた自由という檻のなかで、自由を縛る権力と経済価値(商品)をみずからつくりだしている。そして、その権力と経済価値(商品)が他者=自己の精神を空疎なものとしていることに気づいていない。
 平たくいってしまえば、ポランニーのいわんとするのは、そういうことだ。
 ポランニーは、複雑な社会における権力・経済価値・自由についての「意識改革」が必要だという。
 権力や経済価値(商品)はなくならない。だが、人びとは、みずからが権力や商品の創出にかかわっていることを、せめて意識しなければならない。そして、それが自由を奪うのをできるだけ阻むために、自由の領域を制度的に広げていかなければならない、とポランニーは訴える。
「ウィークエンド・ノート」で、ポランニーは、20世紀の技術的に複雑な社会には、隣人と「異なることの自由」を萎縮させる傾向があり、そうした同調主義的傾向が世論という匿名の権力を生みだす源になっていると指摘している。
 ポランニーは、交通手段や電気、ガス、水道など技術に依存した文明が、何かの災害によって、とつぜんストップし、社会がひどく混乱する事態を想定する。そのとき、人間は恐怖におちいるとともに、近代産業文明が脆弱な「機械の絆」によって、かろうじて支えられていることに気づく。
 ポランニーによれば、こうした複雑な技術社会は、3段階にわたって促進されてきた。それは、(1)19世紀における機械の導入、(2)日常生活への暖房、電気、水道、輸送などのシステムの導入、(3)全生命の抹殺を可能にする原爆の拡散や、すべての精神を支配しうるテレビ[いまならパソコンがつけ加わるだろう]の普及、によってである。
 そして技術文明に固有な全体主義的傾向は、個人の自由を圧殺する方向にはたらく。
 こうした全体主義的傾向に対抗するためには、単に個人の精神的自由をかかげるだけでは、とても間に合わない。市民的自由を制度的に拡大することが求められるのだ。
 具体的には、それは言論の自由、良心の自由、集会の自由、結社の自由を意味するが、加えて、個人の「不服従の権利」が認められなければならない。
 さらにポランニーはルソーにならって、ふつうの人びとを中心として、自由と平等の対立を調整する制度改革のあり方をさぐっている。自由と平等は、抽象的にみれば対立している。だが、ふつうの人びとの文化に依存するかぎり、「自由と平等は、それらがいかに相違していても、文化という具体的な媒介のなかで共存しうるし、同時的な開花を求めることができる」と、ポランニーは論じている。
 著者によれば、ポランニーにとって第2次世界大戦後の社会の現実は、自由と平和への大いなる可能性の幕開けではなく、新しい全体主義的傾向の出現であった。戦後の産業社会は、効率第一主義をめざし、自由や生の充足は後回しにされた。
 最晩年のポランニーは、ガルブレイスの『ゆたかな社会』に注目していた。というのも、この本が「産業社会は自由で人間的でありうるのか」というテーマを扱っていたからである。
 技術的進歩と商品の増大は、むしろ自由をさらに縮小していくのではないか、とポランニーは問いかける。これにたいし、ポランニーがめざすのは「人格的生活」であり「生活に意味と統一を回復すること」である。
 『ゆたかな社会』では、人格的自由が私的消費に埋没しようとしていることが指摘されていた。
 ガルブレイスはまた、飢餓と失業の脅威にさらされていた19世紀と、大量生産と大量消費に支えられる20世紀が、どのように異なっているかについても論じていた。
 著者のまとめによれば、ガルブレイスのいう「ゆたかな社会」では、「完全雇用を達成するために高水準の生産が要請され、高水準の生産に照応する需要を引き出すために生産の側が広告・宣伝を通じた依存効果によって欲求と必要を人為的に創出している」のであった。
 しかし、ガルブレイスによれば、「ゆたかな社会」は社会的なアンバランスをもたらしていた。それは私的消費が拡大するかたわら、教育や住宅、医療といった公共的投資が不足する社会だったのである。これはとりわけアメリカ社会にみられる特質だったのかもしれない。だが、ここでもポランニーは、効率優先主義が、「自由への目に見えない妨害になっている」ことを感じている。
 ポランニーが求めるのは、産業社会において自由を制度化することである。
 著者によれば、ポランニーはそのために、「子供たちのための良い教育、労働・研究・創造的活動の機会、余暇を享受するすべての人のための自然・芸術・詩との広い触れ合い、言語・歴史の享受、自己を賤しめないで暮らすことができる保障、市町村や政府や自発的なアソシエーション[団体]によって提供されるサービス」などが制度化されなければならないと論じた。休暇制度の充実、労働者の保護、職場環境の改善、不服従の権利、その他、さまざまな制度も考えられるだろう。
 こうした制度化は、産業社会において自由を保証し、拡大・深化していくには不可欠だった。
 物質的豊かさを達成した社会は、良き生活を目標としてかかげなくてはならない、とポランニーはいう。
 良き生活の核心となるのは、個人の自由である。そのためには産業社会の効率優先主義はむしろ民主的に制限されるべきだというのが、ポランニーの考え方だったと思われる。
 ポランニーは、自由は無償で手に入るのではなく、そのためには費用の増大や産業効率の低下もやむをえないとみていた。
 ポランニーは、産業社会を人間化していくための「自由のプログラム」を具体的に構想していくことを提唱していた。それこそが、現代民主主義の最大のテーマだと考えていたのである。

『人間の経済』へ──若森みどり『カール・ポランニー』を読む(5) [思想・哲学]

 翻訳の仕事がはいり、ほかにも諸事情が重なったため、しばらくブログが更新できませんでした。
 それにしても、相変わらず、だらだらとつづく、じいさんのぱっとしないブログです。

   ※  ※  ※

 1947年にポランニーはコロンビア大学客員教授となり、アメリカに移り住む。だが、かつて共産党員だった妻のイロナは入国を認められず、そのためふたりはカナダのトロント郊外に住み、ポランニーはコロンビア大学のそばに小さなアパートを借りて、長時間かけて大学まで通ったという。
 コロンビア大学では、1947年から1953年まで、一般経済史を教えた。そのころアメリカの大学では新古典派経済学が主流になりつつあったが、ポランニーはマックス・ウェーバーに依拠しながら、経済社会学を教えた。
 非市場経済についての共同研究もはじまった。その成果は、1957年に『初期帝国における交易と市場』という共著にまとまり、ポランニーは経済人類学者としての名声を確立する。
 ポランニーはその後、『人間の経済』というテーマで、一般経済史をまとめようとして、原稿を書きためていた。だが、それは完成にいたらず、がんのため1964年に死去する。
 死後、1966年に『ダホメと奴隷貿易』、1977年に遺稿集『人間の経済』が出版された。日本でも翻訳されている(ただし、前者の邦題は『経済と文明』)。
 若森みどりはどちらかというと経済人類学より経済社会学の方向に沿って、ポランニーの晩年の業績をふり返ろうとしている。
 ここでは学術的な論議はさておいて、なるべく簡単にポランニーの考え方を追いかけたい。
 著者によれば、ウェーバーは、市場経済の制度的要件は、労働者にとって飢餓の脅威が存在することだと考えていたという。
 たしかにそのとおりだが、人間の社会は常に経済主義的に構成されていたわけではない、というのがポランニーの論点である。
 ポランニーは、初期、古代、近代の社会経済構造を比較しながら、それが互酬、再分配、交換の形態において成り立っていたと主張する。
 あらゆる時代において、経済は占有(所有)の移動と、場所の移動をともなうものだ。すなわち、労働によってものがつくられ、ものが運ばれ、そのものが誰かの所有するものとなる。
 互酬においては親族システムのもとで、集団間で財・貨幣・サービスが動く。これはいまも残っている贈答のやりとりを考えれば、多少なりともイメージがわくだろう。
 再分配においては、財・貨幣・サービスは、中心ないし中枢へと向かい、そこからふたたび周辺に分配されていく。
 これにたいし、交換においては、市場においてランダムな経済行為がくり広げられる。
 ポランニーは経済社会の形態を、この3つのパターンに分類した。
 そして、初期社会においては互酬が、古代社会においては再分配が、近代社会においては交換が主流になっていると論じた。
 その背景には、市場だけが人間の経済ではないという考え方がある。
 ポランニーは、人間の経済が、互酬から再分配、交換へと移行すると主張したわけではない。それはあくまでも3つの形態であって、逆転することもありうる。
 ポランニーがとりわけ着目したのが、アリストテレスの経済論である。ギリシアのアテネにおいては「初期の市場交易」が出現した。
 アリストテレスが問題としたのは、ポリスの規律と、市場的な慣習・思考様式とをいかに調和させるかということだった。
 ギリシアといえば、もっぱら奴隷制に焦点があてられがちだが、ポランニーは、民主政のポリスと市場の関係を深く探ろうとしている。
 そこで、遺著『人間の経済』第Ⅲ部で展開された、古代ギリシア経済論をざっと紹介することにしよう。
 最初にポランニーは、紀元前700年ごろに活躍したヘシオドスの著作を取りあげ、かれが歴史を黄金の時代、白金の時代、青銅の時代、英雄の時代、鉄の時代に分類していることを紹介する。そして、いまは鉄の時代だとされる。
 鉄の時代においては、農業技術が進歩し、人間の労働が強化される。鉄製の農具ができると、豊穣な地以外でも、穀物が栽培されるようになり、耕作地の拡大とともに、人はいままで以上に働かなくてはならなくなった。
 孤独な飢えを避け、より多くの豊かさを求めて、人は競争に生き、勤勉を求められるようになる。かつての共同体の相互扶助には、すでに期待できなくなっていた。民衆は、飢餓の脅威を避けるために日々、はたらきつづけねばならず、政治に参加する余裕もなくなっていた。いっぽう、ポリスにおいては富者による富者のための政治がおこなわれていた。
 これにたいし、アリストテレスの時代においては、古代アテネが全盛期を迎えていた。著者によれば、ポランニーは「アテネ人にとって、良き生活とは公共生活に参加することを意味しており、経済は、この目的の手段となるように社会に埋め込まれていた」という。
 ポランニー自身はこう述べている。

〈アテネ人の精神にとっては、矛盾しているようにもみえるが、次の二つのことが必要だった。──一方では、食糧の分配がポリス自身によって行われなければならない、しかも他方では、官僚制が入ってくることは許されない。なぜなら民主主義とは、民衆による民衆の支配を意味したのであって、その代表や官僚による支配を意味するのではなかったからである。代議制も官僚制も、そのアンチテーゼとみなされていた。人民主権の考えに依拠するすべての近代思想の源であるかのルソーは、この原理に頑として執着した。だが、いったいどうしてこの国家による分配は、官僚制を抜きにして行われるのだろうか。アテネでは、食糧市場がその答えを与えるものとなったのである。〉

 ペリクレスの時代、アテネは直接民主政を選択した。つまり、すべての民衆が政治に参加したのである。もちろん、それに反対する貴族や金持ちもいた。だが、それを押し切って、短い期間ではあるが、直接民主政の時代が出現した。
 そこでは、食糧市場、貨幣、穀物交易が、民衆政府のもとに置かれていた。アテネ市民は公共生活への貢献にたいして、ポリスから支払われた貨幣によって、市場で食糧を買った。
 食糧の価格はポリスによって定められた公定価格である。穀物交易もまたポリスの管理下にある。海外交易に従事するのは居留区に住む外国人であり、アテネ市民ではなかった。市民が貨殖に走るのは禁じられていた。
 著者によれば、古代アテネの経済は「民主政を維持するために『交易・貨幣・市場』を巧みに組み合わせ、再分配の統合形態として経済過程を制度化した」ところに、その特徴があるという。
 ポランニーが、こうした古代経済の仕組みを紹介したのは、民主政のもと、社会に埋め込まれた経済がありうることを示したかったからにちがいない。それは現代の経済優先国家=社会にたいするひとつの反証でもあった。

『大転換』──若森みどり『カール・ポランニー』を読む(4) [思想・哲学]

 ポランニーのイギリス時代は1933年から47年にまでおよぶ。年齢でいえば、49歳から63歳までである。キリスト教左派のネットワークがかれの生活を支えていた。天性の教育者であるポランニーは、労働者教育協会やロンドン大学公開講座にかかわりながら、イギリス各地を回るとともに、イギリス経済史を学んだ。
 また労働者協会の講師として、ひんぱんにアメリカを訪れ、ファシズムとヨーロッパ情勢に関する講演をおこなっている。1941年から43年にかけては、ロックフェラー財団の奨学金を受けて、合衆国北東部ヴァーモント州のベニントン大学に滞在し、『大転換』を執筆した。
『大転換』はポランニーの主著である。その初版は1944年にニューヨークで出版された。翌年、ロンドンで出版されたときには、『われらの時代の起源──大転換』とタイトルが変えられた。そして、1957年にふたたび『大転換──われらの時代の起源』として再刊され、2001年にも新装版が出版されている。
 日本でも2009年に新装版の翻訳がでた。ぼくがもっているのは1957年版の翻訳で(サブタイトルは「市場社会の形成と崩壊」となっている)、『大転換』について論じるには、せめてこの本にもとづいて、あれこれと考えてみたいものだ。やはり、原著を読むのと解説書を読むのとでは、そこから受ける印象がことなるだろう。それでも、いまは若森みどりさんの解説書にしたがって語るのが、簡便なのかもしれない。
 以下は『大転換』の解説についての短い感想にとどまる。もし、残された時間があれば、きちんと読みなおしてみたい本である。
『大転換』は、19世紀から20世紀にかけて、経済社会に何が生じたのかを論じたスケールの大きな著作である。
 19世紀といえば、産業革命を連想するだろう。このころから時代が大きく変わりはじめたことはまちがいない。その大転換は、農業中心社会から産業中心社会への変化という言い方であらわされるのかもしれない。それはいくつもの曲折をへながら、現在にまでいたっている。
 ポランニーは、世界を画一的な商品世界へと巻きこんでいく近代文明の起源を19世紀のはじめに求めて、そこで何が起こったかを追求していく。それは「悪魔のひき臼」にも似た文明だった。人はいやおうなく、このひき臼に巻きこまれていく。
 資本主義、あるいは市場社会の発生がいつなのかは、その定義ともからんで、いまでも論争の的になっている。市場社会は古代からあるという人もいれば、資本主義は16世紀に発生するという人もいて、それをいつだと断定するのは、なかなかむずかしい。
 ポランニー自身は19世紀前後にかけて、市場社会が発生したという立場をとっている。マルクスは資本主義は16世紀ないし17世紀にはじまるが、それが産業資本主義として本格化するのは19世紀からだとみていた。だから、ポランニーのいう市場社会は、マルクスのいう産業資本主義とほぼ同義だとみてよいだろう。ぼく自身は、これを商品世界としてとらえている。
 19世紀前半、イギリスでは、新しい工業都市が勃興するにつれて、仕事や職を失った失業者が急速に増大していった。こうした貧民を救うために1795年につくられたのがスピーナムランド法である。
 著者によると、スピーナムランド法は、パンの価格に応じて、家族を養うのに必要な標準生活費と賃金との差額を教区が補填することで、貧民を救済するというものだった。ところが、その対象者があまりにも増大したこと、また貧民を甘やかせるなという批判が噴出したこともあって、スピーナムランド法は1834年に廃止され、新たなより厳しい救貧法がもうけられることになった。
 ベンサムやマルサス、リカードなど、当時の論客は、さまざまな面で意見を異にしていたが、ことスピーナムランド法に関しては、まったく同じ意見をもっていた。ポランニーによれば、かれらはこうした法律が「安易な結婚や出産を助長させ怠惰な人間をより怠惰にする悪法である」と考えていた。そして、貧困問題を解決するには「競争的な労働市場を確立すること」しかないと主張したのである。
 つまり、貧困は怠惰な個人の責任であって、貧困から脱するには、労働力商品としてみずからを競争的な労働市場で売る以外に解決方法はないというわけである。
 労働力の商品化は、商品世界の誕生を促したといえるだろう。人はそれまで人に帰属していたのに、商品に帰属するようになった。すなわち、商品にみずからを合わせるようになったのである。
 いっぽうで、農業生産物も自家用に消費されるのではなく、商品として売りだされることになる。加えて土地も単に豊かさを与えてくれる自然ではなく、商品として評価される対象へと変わっていった。
 こうして、人も土地も、自然から与えられたありのままの存在としてではなく、商品としてランクづけされる存在へと変わっていったのである。ポランニーはそうした商品世界への大転換がはじまった時期を19世紀前後とみている。
 市場メカニズムには「冷徹な強制と排除の論理」が含まれている、と著者はいう。事実、19世紀においては、こうしたメカニズムが強力に作用して、人間の協同世界は商品世界へと組み替えられていった。
 だが、同時にこれと対抗する運動がはじまったことも見逃してはならない。ポランニーはこれを「社会の自己防衛」と名づけている。それは「社会的文化的破局」を避け、「共同体の一般的利害」を守るための動きであった。
 商品世界の発達は、国民国家の発達をも促した。工場法などの社会法がつくられ、失業保険や関税が導入され、通貨を安定させるための中央銀行制度がもうけられ、労働組合が認められるようになったのも、19世紀半ばのことである。
 しかし、ポランニーのいう市場経済と対抗的な防衛との「二重運動」は常に緊張感をはらんでいた。市場経済の絶対性を主張する側は、国家による干渉が市場を麻痺させ、社会を停滞させると非難しつづけたからである。
 これにたいし、ポランニーは、経済的自由主義だけでは、社会の共通の問題に対処することができず、むしろ市場主義を単純に推し進めていけば、それこそ社会の対立と混乱、ひいては崩壊を招くだろうと反論している。
 ポランニーが『大転換』を執筆することができたのは、ロックフェラー奨学金のおかげで、アメリカ東部の田舎町にあるカレッジで、3年間、静かに研究生活を送ることが許されたからである。
 ときあたかも、第2次世界大戦の真っ最中だった。ロンドンに残っていれば、研究どころではなかっただろう。しかし、アメリカの田舎町にいたおかげで、ポランニーはヨーロッパの来し方行く末を冷静に見つめなおすことができたのである。
 ポランニーからみれば、ファシズムとは、協調組合主義にもとづく経済改革を基本として、それをヨーロッパ全体に広げる運動でもあった。
 ファシズムはキリスト教的個人主義と政治的民主主義の根絶をめざしていた。1929年の大恐慌を発端とする経済不況は、ヨーロッパ全体に深刻な打撃を与えた。ナチスは国家と社会が一体となった経済改革を唱え、ヴェルサイユ体制の打破を訴えることで、国民の支持を獲得し、その勢いで無謀な戦争へと突入していった。
 ポランニーは、自由と責任にもとづく社会主義を信条としている。それは社会民主主義の立場といってよいだろう。民主主義を否定するファシズムとは対立していた。しかし、市場絶対主義の経済的自由主義とも立場を異にしている。
 ポランニーは、マルクス主義者とちがって、民主主義と経済的自由主義はほんらい対立するものだという考え方を示している。
 著者によれば、「必然的に周期的に生じる失業や貧窮は、市場経済の自己調整メカニズムによって解決されるべきものであり、貧しい人びとが自己調整的市場経済に介入する権力を持つならば、このシステム自身が破壊されて文明や自由といった価値も消滅してしまうだろう」というのが、ポランニーのとらえた経済的自由主義の核心である。
 したがって、経済的自由主義と政治の民主化とは相容れないものだ、とポランニーはいう。
 しかも、自己調整的市場システムという経済的自由主義は、くり返す恐慌と、それを引き金とする大戦によって、完全に破綻したとポランニーはみていた。
 先進諸国においては、1920年代はいわば経済的自由主義による揺り戻し(自由貿易、競争的労働市場、金本位制)がなされた時代だった。だが、その結果は大恐慌を招き、ファシズムの勃興をもたらしたのである。
 ポランニーは長い目でみれば、市場社会の終焉、すなわちポスト市場社会への転換が、万人のための自由をもたらすと考えていた。
 ポランニーが目標とするのはオーウェン流の社会主義(協同の原理にもとづく社会主義)である。それは、キリスト教的伝統にもとづいたものである。
 その社会主義について、ポランニーはこう述べている。

〈社会主義は、本質的に、自己調整的市場を意識的に民主主義社会に従属させることによって自己調整的市場を克服しようとする、産業文明に内在する傾向のことである。〉

 社会の現実を「覚悟して受け入れること」のなかから、新しい希望と創造的な生活を引きだすことが、ポランニーにとっては「責任を通しての自由」にほかならなかった。そして、現にある社会をより良い社会に変化させる継続的な努力こそが、人類に求められる永遠の課題なのだった。そのためには市場経済の渦を何らかのかたちで調整することのできる民主主義の灯を消してはならないとポランニーは訴えつづけた。それが大戦争の末期に書きつづけられた『大転換』の基本テーマだったといってよいだろう。

ロンドン時代──若森みどり『カール・ポランニー』を読む(3) [思想・哲学]

 1933年にポランニーはロンドンに亡命する。ウィーンではもう自由な言論活動ができなくなっていた。身の危険も感じていただろう。
 しかし、ロンドンに身を寄せてからしばらくは『オーストリア・エコノミスト』に論説を書いていた。いわば島から大陸の状況を見ていたのである。
 そのテーマは、1929年の世界大恐慌からヨーロッパはどのように脱出をはかろうとしているのかということに尽きる。それは同時代的考察へとつながっていった。
 ウィーンを脱出する前に書いた「経済と民主主義」(1932)という論考で、ポランニーは、民主主義と資本主義とがともに機能不全を起こしているところに、現代の危機をとらえている。政治が資本主義に介入し、資本主義が政治に介入する。そのことによって、政治も資本主義もほんらいの姿を見失い、かつての機能をはたせなくなりつつあるというのだ。
 ポランニーは「世界恐慌のメカニズム」(1933)のなかで、経済危機の原因を、第1次世界大戦により各国が膨大な財政赤字を抱えてしまったことに求めた。それがただちに経済危機につながらなかったのは、アメリカの援助があったからだ。しかし、その支えにも限界があって、ついにはアメリカ自体の支柱が崩れて、ウォール街の大暴落を招いたというのである。
 ヨーロッパの政府はこの経済危機に対応できなかった。むしろ下手な対応が経済の弱体化を招く。加えて、資本家側は過度の賃金と社会保障こそが問題だと政府を責め立てたため、政治的民主主義は危機にひんする。こうして左右の対立が激化し、イタリアやドイツ、オーストリアなどではファシズム勢力が政権を握るのである(その後、オーストリアはドイツと合邦の道を歩む)。
 資本主義経済が危機を迎えるなか、ポランニーはあくまでも共産主義やファシズムとは一線を画した機能的社会主義をめざしていた。ここで、ポランニーがいう機能的という言い方には、多元的で民主主義的で、自由をめざすという意味合いが含まれている。何といっても、ここで優先されるのは民主主義的な議会である。
 ポランニーによれば、ファシズムのもとで推進されているのは「協調的組合主義(コーポラティズム)」にほかならなかった。それは機能的社会主義とは正反対の考え方だった。
 著者によれば、ポランニーによるファシズム把握の特徴は、「政治国家の消滅と経済による社会全体の支配」という言い方に集約される。ポランニーにとって、政治国家の消滅というのは、議会制民主主義の消滅と同義だった。それにたいし、国民意識をあおりながら資本主義的経済の立て直しを打ちだすのがファシズムなのである。
 ファシズムのもとでは、「共同体の生活にとって重要な立法、司法、行政のすべての機能が経済秩序に属することになる」と、ポランニーはいう。
 第2次世界大戦の結末をみた、われわれからすれば、ポランニーのこうしたとらえ方はいっぷう変わっている。たとえば、滝村隆一のいうように、ファシズムの本質は、世界での覇権を確立するための戦時体制の常態化とみるのが、もっとも適切なのではないか。
 だが、ポランニーはファシズムの特徴を協調的組合主義ととらえた。これは1930年代にファシズムが熱狂的に支持された理由を実感的に語っているのかもしれない。当時はまだ、誰もが大戦争がはじまるとは思っていなかった。
 民主主義を廃止し、経済本位の独裁体制をつくろうという政治的潮流が、当初のファシズムを引っぱっていた。それは政治と経済の領域に民主主義を広めることで危機を乗り越えようとする機能的社会主義の方向とは正反対の考え方だった。
 ポランニーは、マルクス主義のファシズム分析に疑問をいだいていた。
 マルクス主義では、政治は経済の上部構造ととらえられ、民主主義とはブルジョア民主主義にほかならないと考えられていた。民主主義を否定する点は、ファシズムもマルクス主義も同じである。
 これにたいし、ポランニーは、発達した産業社会では、政治と経済は対立しうると考えた。そして、産業社会が危機にひんするときは、その対応策として、政治が完全に経済を吸収するか、逆に経済が政治を崩壊させるかの、どちらかの常態が現出しやすい。前者が共産主義であり、後者がファシズムである。
 これにたいし、機能的民主主義においては、政治のヘゲモニーを労働者階級が握ることで、資本主義的な経済社会をコントロールするのである。
 このようにみるなら、ポランニーの考え方は、いわゆる社会民主主義に近いということができる。
 民主主義を廃止して、資本主義を救済するというのが、ファシズムの本質だ、とポランニーはいう。人びとは、この救済のうたい文句にひきつけられていった。
 こうして、人びとは自由の領域を独裁者に売り渡した。ファシズムが導入するのは、非自由主義的な資本主義、言い換えれば協調組合主義的資本主義である。協調組合主義とは、資本家が指導する計画経済、労使協調にもとづく国家経済の推進にほかならない。
ファシズムには、社会主義革命を阻止する政治革命としての性格がある、とポランニーは考えていた。ファシズムはまた個人に無限の価値を求めるキリスト教の個人主義を破壊しようとしていた。全体としての社会的有機体への個の従属が、ファシズムにめざす世界観なのだ。そうなれば、自由の領域は完全に消滅してしまうだろう、とポランニーはとらえていた。
 ファシズムは協調組合を単位として、個人を全体に従属させる経済国家をつくりあげようとしていた。その先に戦争マシーンが形成されることを、ポランニーは予感していただろう。
 1937年の小冊子『今日のヨーロッパ』で、ポランニーはファシズムと戦うことが喫緊の課題だと訴えている。
 マルクスの『経済学・哲学草稿』(経哲草稿)が発見されたのは、1930年代のことである。ポランニーもこの草稿に大きな影響を受けた。ロンドン時代のポランニーは、この経哲草稿とキリスト教への思索を深めながら、社会主義のあり方を探求していった、と著者は述べている。
 キリスト教の熱心な信仰者でありながら、マルクスを高く評価するところが、ポランニーのおもしろさである。
 ポランニーはキリスト教が逆説的に示す個の思想に信をおく。そして、個人間の肯定的な関係にもとづいて形成される共同体こそが、キリスト教の求める理想なのだと確信した。だが、問題は、キリスト教に社会理論がないことだ。そのために、共同体の理念に到達する道が、空疎なものになっていることはいなめない。
 いっぽう、マルクス主義は、資本主義社会が人間のあるべき関係を疎外しているとして、共産主義社会をめざそうとする。しかし、ポランニーによれば、マルクス主義は、共産主義社会を真の共同体とみなすことによって、大きな錯誤におちいるという。
 ポランニーにいわせれば、理念としての共同体と現実の社会は区別されなければならない。共同体は永遠の規範であって、けっして実現されるものではないのだ。人間の社会においては、権力関係や経済関係はけっして消え去ることがない。人が自由を求めるのは、人間の社会がけっして完成することがなく、それが永遠の規範である共同体からはずれているからでもある。マルクス主義のいうように、共産主義社会を理想の共同体と規定してしまえば、そこにいたる道筋は、きわめて抑圧的なものとなってしまうだろう。
 こうして、ポランニーはいかなる社会も完全なものとはなりえないという見方に達した。それでも、それが個と個とが対等につながる共同体に向けて、日々歩むべきものだとすれば、それを支える力は、個々にゆだねられた自由と責任の自覚にほかならない。
 ここにみられるのは、現実主義的な転換である。それは諦念とは異なる。ポランニーは歴史のなかに共同体へと向かう契機をさぐりなおそうとしていた。

ポランニーとウィーン──若森みどり『カール・ポランニー』を読む(2) [思想・哲学]

 第1次世界大戦後、ウィーンでは社会民主労働党が10年以上にわたって政権を保持し、労働者の生活改善や福祉政策、教育改革などに取り組んでいた。「赤いウィーン」と呼ばれたゆえんである。
 このころウィーンに亡命していたポランニーの関心は、中央集権的ではない社会主義の可能性を探ることであった。
『ビヒモス』と名づけた長大な草稿を書きつづけるかたわら、ポランニーは新聞や雑誌にさまざまな論説を寄稿するようになる。
 初期ポランニーの特徴は、自由についての独特の考え方にある。
 人は自由な意志にもとづいて行動しなければならない。しかし、その行動が人や社会にもたらす影響については責任をもたなければならないというのだ。ポランニーの場合、自由は社会への自覚および責任と裏表一体の関係になっていたといってよいだろう。
 こうした考え方がでてきたのは、ポランニーがハンガリーにおけるベラ・クン共産党独裁政権のもとでの弾圧を経験したからにちがいない。ほんらい解放をめざすべき共産党政権が、なぜ独裁と弾圧に転じてしまうのかという疑問が、渦巻いていた。
 1920年から22年にかけて書き綴られた草稿『ビヒモス』(その全容はまだ公刊されていない)において、ポランニーは一見実証主義的な社会科学を絶対視することに疑問を呈している。
『ビヒモス』のなかで、ポランニーは、人間は自由に行動しているようにみえても、実際には国家や社会、取引や市場、学校や労働組合、世論、風習、近所、知り合いの意志に従っていることが多く、私の自由の領域は意外と少ないものだと論じている。
 すると、自由とはいったい何だろう。

〈私は堅固な客観性として存在する疎遠な意志の力が直面する、ささやかな疑問符となるだろう。〉

 私が提出するのは、堅固な慣性(イナーシア)にたいする「ささやかな疑問符」でしかない。しかし、たとえそうであっても、自由は疑問符から発するのだ、とポランニーはいう。
 それは科学的法則とされるものにたいしても同じである。
 決定論的な見方は「人間の自由の倫理的な意味を排除する」。
 これは科学的社会主義なるものによって独裁権力を正当化しようとするマルクス主義者の傲慢にたいする痛烈な批判ともなりうる。
 ポランニーは歴史法則や経済法則をけっして自明のものとして、受け入れない。あくまでも、自由な意志を尊重するのだ。
 しかし、意志の自由を確保するには、不断の努力を必要とする。それは、いつも全体性によって押し流されてしまいがちになるからである。
 自由には条件がある。人が自由を求めるのは、理想を追いかけるからだ。だが自由が価値をもつのは、責任をともなう場合においてのみである。
「われわれは、尽きることなく自分たちの内的願望に責任を付与することによって、自分たちの世界を創出していかねばならない」
 ポランニーにとって、社会主義とは倫理にほかならなかった。資本家が労働者を「自由に」搾取するのはまちがっている。かといって、共産主義者が反対派を「自由に」暴力で抹殺するのもまちがっている。社会主義の理想は、自由と責任の論理によって裏づけられていなければならなかった。
 ポランニーの社会主義は、ソ連型の中央集権制とはまるでちがっていた。

 ウィーン時代にポランニーがかかわった論争がある。
 当時、オーストリアの経済学者ミーゼスは、社会主義のもとでは、合理的な経済計算ができないと主張した。簡単にいえば、社会主義は経済的に成り立たないということでもある。
 これにたいして、ポランニーは反論し、「社会主義経済計算は集権的社会主義経済のもとではできないが、機能的民主主義に基づく社会主義システムの下においては可能である」と論じた。
 ここでポランニーがもちだしている社会主義のモデルは分権的である。
 それは生産者評議会(アソシエーション)と消費者評議会、それにコミューン(民主的政府・自治体)から成り立っている。
 諸個人の生活は、生産と消費、くらしによって成り立つが、そうした分野は、生産者評議会と消費者評議会、コミューンによって社会的に保証される。
 生産者評議会は生産に責任をもち、消費者評議会は流通に責任をもつ。コミューンの役割は、社会全体の調整をおこない、公共サービスを向上させることである。
 さらに、くらしを支える賃金や物価の基本は、コミューンを含む3者の交渉と協議によって決定されることになっていた。
 社会主義経済がめざすものは最大生産性と社会的公正である。効率のよい生産と、生産物の公正な分配、それに生産調整がなされねばならない。
 ポランニーは価格システムにもとづく社会主義を構想していたともいえるだろう。その場合、社会主義企業がどのようにものになるのか、その具体的なイメージははっきりと描かれているわけではなかった。しかし、かれは社会主義のもとでこそ、より適切な賃金と、社会的費用の公正で透明な配分が実現できると考えていた。

 1927年にポランニーは「自由論」を執筆する。
 ポランニーにとっては、自由こそが社会主義の眼目だったのだ。かれは資本主義の経済論理に縛られない自由の領域をいかに広げるかに最大の関心をもっていた。
 こう述べている。

〈社会主義者にとって「自由に行為する」というのは、われわれが人間の相互的関連──その外部にいかなる社会的現実も存在しない──に関与することに対して責任があるという事実、まさにこのことに対して責任を担わねばならないという事実を意識して行為する、ということである。〉

 ポランニーはかならずしも社会主義革命を優先しているわけではない。むしろ、自由の領域を拡大することを目指して行動しつづけることが、社会主義者の役割だと主張しているのだ。こうした考え方はジョージ・オーウェルとも共通する。
 ポランニーにとって、自由とは責任や義務からの自由ではない。カネさえあれば人間は自由に何でもできるわけではない。むしろ、なにごともカネで解決することによって、その背後にある社会の現実が見えなくなってしまうのだ。
 これにたいし、ポランニーの倫理的社会主義は、社会的自由の拡大をめざす。それは権力を取得することによってなされるというより、むしろ「社会的存在の避けられない負債残高を自由にわが身に引き受け」ることによって実現されるのである。
 ポランニーは、「社会主義の生活形式」にとっては、機能的民主主義が欠かせないと考えていた。というのも機能的民主主義があってこそ、社会生活の現実が、力によって隠されることなく、透明化されるからである。
 見通しがないところには自由もない。社会的現実があらわにされることで、現実的改革ははじめて可能になるのだ。これに反して、全体主義は社会的現実を隠すことで、人びとを虚無の幻想へと巻きこんでいくだろう。

 全体主義の暗雲がウィーンにも近づいている。
 1929年には世界大恐慌が発生。それ以降、政治の流れは大きく変わっていく。オーストリアでは、保守的な傾向が強くなり、反ユダヤ主義が頭をもたげる。かつての帝国への郷愁もよみがえりつつあった。
 ウィーンを握っていた社会民主労働党に対する反発が強まっていく。オーストリアの中央政府は、もともとキリスト教社会党が政権を掌握していた。だが、社会民主党とはうまく協調をはかっていた。ところが、右翼勢力が台頭してくると、キリスト教社会党も権威主義的な色彩を強めていくことになる。
 1931年には、大銀行クレディット・アンシュタルトが倒産し、失業が急増、街頭では左右勢力の衝突が激しくなった。
 国民社会主義を名乗る右翼勢力は、まもなくナチと呼ばれるようになる。突撃隊(SA)運動が4万人の若者たちを引きつけ、オーストリアの政治をのみこんでいく。
 1932年には、キリスト教社会党のエンゲルベルト・ドルフースがオーストリアの首相になった。ドルフースはイタリアのムソリーニに心酔していたものの、ヒトラーの提案したドイツとの合併(アンシュルス)構想は拒否した。あくまでもオーストリア一国のファシズム体制をつくろうとしていたのだ。
 1933年3月、ドルフースは議会を解散し、大衆集会を制限し、新聞に検閲を課した。これにたいし、社会民主党は反発し、戦闘準備を整える。いっぽうナチはテロ行為に走った。
 5月、ドルフースは祖国戦線を創設し、政党を解散、護国団による人民国家を樹立すると発表する。社会民主労働党にたいする弾圧がはじまり、1934年2月には、オーストリア社会主義者の砦、ウィーン市庁舎に、ついに護国団の旗がひるがえる。労働組合は非合法化された。
 ドルフースが社会民主労働党を完全に追いだしたのをみはからって、こんどはナチがドルフースに攻撃をしかける。1934年7月、ナチはドルフースを暗殺した。
 この事件によって、オーストリアではかえってナチにたいする反発が強まった。とはいえ、オーストリアの政権は弱体であり、けっきょく1938年3月にオーストリアはドイツに合併されることになるのである。
 こうした激動のなか、ポランニーはどうしていたのだろう。
 1924年からポランニーは『オーストリア・エコノミスト』の副編集長となり、国際問題をテーマとして、さまざまな論説を執筆していた。その基本的な方向は、民主主義にもとづく自由で平和な国際関係の擁護であり、自由主義的資本主義に取って代わる経済体制の模索であったという。
 しかし、ファシズム勢力が台頭するなかで、1933年にポランニーはイギリスへの移住を余儀なくされるのだ。それはあたかもドルフースがオーストリアの全権を掌握し、社会主義勢力の排除をはかろうとしていた時期にあたる。
 妻のイロナは、その後もウィーンで非合法活動をつづけていた。だが、そのイロナもついに1936年にイギリスに渡った。
 ポランニーは1938年まで、「海外編集長」として、『オーストリア・エコノミスト』に寄稿しつづけた。だが、この雑誌もついに廃刊を命じられる。
 第2次世界大戦がはじまろうとしていた。

若森みどり『カール・ポランニー』を読む(1) [思想・哲学]

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 ポランニーの名前を知ったのは1980年ごろ、たぶん栗本慎一郎のカッパブックス・シリーズを読んだときが最初である。経済人類学という新しいジャンルがあると知り、少しばかり関心をいだいたものだ。その後、主著の『大転換』も散読したが、よく理解できなかった。
 最近になって、ポランニーの全体像を紹介した若森みどりの本書を読んでみた。難解で、さっぱり頭にはいらない。むずかしい本を読みはじめると、すぐに眠くなるのは、昔からの癖だ。最近はとみにその傾向が激しい。
 それでも、せめてポランニーがどういう人だったかだけでも、つかんでおきたい。以下はメモに近い、勝手な感想である。
 カール・ポランニー(1886〜1964)は、ウィーンに生まれ、幼少期と青年期をブダペストですごした。当時のブダペストはオーストリア=ハンガリー帝国のもうひとつの首都で、華やかな文化が花開いていた。
 父はユダヤ系ハンガリー人で、実業家として名をなしていた。一家は早くからカルヴァン派のプロテスタントに改宗している。
 2女3男に恵まれた裕福な家庭だった。だが、父の会社が1899年に倒産し、それから一家の苦労がはじまった。
 ポランニーはアルバイトをしながら、1904年にブダペスト大学法律・政治学部に入学する。その1年後に、父は亡くなる。
 最終学年の1908年、法学部教授のピクレルが排撃される事件がおこった。ピクレルはスペンサー哲学を奉じていたというから、社会進化論を唱えていたのだろう。それをキリスト教守旧派が攻撃したのだ。
 そのときポランニーは教授を擁護して、「ガリレイ・サークル」を創設した。サークル名が言い得て妙である。いくら弾圧されても、真実はおのずからあらわれる。
 しかし、教授を擁護した活動によって、ポランニーは放校処分を受ける。そのため、トランシルヴァニアにあるコロスヴァール大学(現ルーマニアのクルジュナポカ)で、法学博士号を取得せざるをえなかった。1909年のことだ。
 ガリレイ・サークルは、その後、成長し、約2000人のメンバーを抱えるようになった。このサークルは、民衆のためにさまざまなセミナーを開き、著名な思想家をドイツから招いたりもした。第1次世界大戦末期の1917年に禁止されるまで、「数千の成人教育クラスを組織し、数万人の労働者がそれに参加した」というから、たいしたものである。
 当時、ポランニーに影響を与えた人物として、ジェルジ・ルカーチ(1885〜1971)がいる。哲学者でもあり、文芸批評家でもある。ぼくも若いころ、かれの『歴史と階級意識』を読んだものだ。
 著者によると、ポランニーは、急進的なサンディカリスト(労働組合主義者)のサボー・エルヴィン(1877〜1918)や、穏健なフェビアン社会主義者のヤーシ・オスカール(1875〜1957)とも親しくしていた。
 大学を卒業してから、ポランニーは1914年まで、ガリレイ・サークルの活動に全力を注いだ。ヤーシ・オスカールが急進市民党をつくったときには、その書記長になっている。ハンガリー(といっても現在の倍以上の大きな国である)の民主化が目標だった。
 1914年に第1次世界大戦が勃発する。ポランニーは翌1915年に、オーストリア=ハンガリー帝国の騎兵将校として従軍した。
 父の死後、10年にわたって、実は進行性の鬱病に苦しんでいた。従軍中は、くり返しシェイクスピアの『ハムレット』を読んだ。そして、死の淵に立つなかで、一種のさとりに達する。
 人は時代の過ちや社会の苦しみと分かちがたく結びつけられている。だとすれば、その根源をみつめることが、自分の使命ではないのか、と。
 東部戦線で負傷したポランニーは1917年に除隊となる。その後、傷が癒えぬまま、1919年6月にウィーンに亡命し、手術を受けた。
 1920年秋までウィーン郊外の療養所で静養する。そのころ、ハンガリーの女性革命家、イロナ・ドゥチンスカと出会い、1923年に結婚することになる。
 ポランニーがウィーンに亡命したのは、ハンガリー革命のさなかである。
 第1次世界大戦の敗北により、ハプスブルク帝国は崩壊し、ハンガリー民主共和国が成立した。かつての領土は分割され、見る影もなくなった。
 そこにベラ・クン(姓が先にくるハンガリー語でいえばクン・ベラ)が率いる共産党が社会民主主義者の協力を得て、革命をおこし、ハンガリーは1919年3月から8月までソヴィエト共和国となるのである。
 1919年6月、ハンガリー共産軍はかつての領土だったスロヴァキアに侵入する。同じ月、新憲法が制定され、急進的な改革が布告された。
 歴史家のノーマン・デイヴィスによれば、それは「すべての産業の国営化、教会の資産没収に加え、司祭や農民はひとしく強制労働に駆り出される」というすさまじい改革だった。
 改革に反対してストに参加した者には弾丸が浴びせられ、武装蜂起した農民は集団処刑されたという。
 ポランニーがハンガリーを脱出したのは、このころである。共産党による弾圧に身の危険を感じていたのかもしれない。妻となるイロナもこのころ国を出たとすれば、共産党員であった彼女もベラ・クンのやり方に批判的だったのだろう。実際1922年に、彼女は共産党を除名されている。だが、そのあたりの事実関係は微妙である。
 しかし、ハンガリーの共産政権は長くつづかなかった。ミクロシュ・ホルティの率る旧将校グループが、ルーマニアに支援を求め、8月にルーマニア軍がブダペストにはいり、ベラ・クンの共産政権はあっけなく崩壊する。
 そのあと、反動政府のもとで、容赦ない白色テロがはじまった。共産主義者とユダヤ人は無差別に報復された。
 そして1920年には提督のミクロシュ・ホルティが摂政となり、ハンガリーでは、その後、24年にわたる独裁政権が築かれることになる。
 ポランニーはハンガリーに戻れなかったわけである。
 そのころ亡命先のウィーンは「赤いウィーン」と呼ばれ、オーストリア社会民主党が1918年から34年まで、政権を握っていた。
 そのウィーンで、ポランニーは1919年から21年にかけ、「ビヒモス」と名づけた、膨大な草稿を書き綴る。
『旧約聖書』に登場するビヒモスとは、世界の終末にあらわれる怪物のことである。ポランニーは自分を動かす歴史の巨大な怪物のようなものを背後に感じていたのだろうか。
 長くなったので、その内容については、あらためて紹介する。
 とはいえ、ポランニーの人間像を最初につかんでおくのが、便利かもしれない。
 著者はこう書いている。

〈彼は、現代世界への関心をリアルタイムで考察するジャーナリストであると同時に、古代社会の経済や政治を読み解く歴史家でもあった。また、人間と社会と歴史についての冷徹な分析を行う社会科学者であると同時に、人間の自由や共同体の可能性を追究するモラリストでもあった。ポランニーは社会主義者であったが、特定の政治的党派性とも社会運動とも係わりを持たず、マルクス主義についての批判も行っていた。また彼は、敬虔なキリスト教徒ではあったが特定の教会に属することはなく、社会変革に取り組むことをキリスト教徒の使命と心得ていた。〉

 なかなか複雑そうな人である。
 そして、かれのこうした人間像がウィーンではぐくまれたのだとすれば、われわれは次の舞台ウィーンに目を移す必要がある。

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