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部族国家から帝国へ、そして中世国家のはじまり──滝村隆一『国家論大綱』を読む(17) [思想・哲学]

 ここからは第2巻の歴史的国家論にはいる。ただし、『国家論大綱』には断片的な(といっても膨大だが)論考しか残されていないので、おそらく当初予期されていた全体的考察からはほど遠いものになっている。
「方法としての世界史」において、滝村はヘーゲルとマルクスの方法を踏まえながら、世界史における国家の発展を、原初的、アジア的、古代的、中世的、近代的という段階的区別においてとらえることを提唱していた。それは必然的な歴史的発展というより、あくまでも把握の方法的枠組みだったといってよい。
 国家の起源、すなわち原初的国家は部族国家に求められる。部族は氏族の連合から成り立っているが、その部族が祭祀的・政治的・軍事的指導者として王を立て、貴族層とそれ以外の一般成員、奴隷とを包摂するときに、部族国家が成立する、と滝村は書いている。
 部族の経済基盤は農耕や牧畜である。部族においては、殺人や傷害、姦通や窃盗をはじめとして、さまざまなもめごとが発生する。自然の猛威も日常茶飯事だ。人間の集団には、内部のもめごとを解決したり、祭祀によって安全を祈ったり、死者をほうむったりする手法が不可欠になってくる。首長や長老が、こうした役割を担っていた。
 いっぽうで、部族は他の共同体を略奪したり、逆に他の共同体の侵略を防いだりするために戦争をくり返している。部族の命運のかかる戦争にさいしては、一時的にでも軍事的指導者が必要になってくる。そして、部族が発展し、戦争や防御が日常的に要請されるようになると、当初は一時的だった軍事指導者が、次第に首長の祭祀的・裁判的役割をも吸収して、恒久的な王として擁立されることになる。それが部族国家を成立させる経緯だといってよい。
 こうした部族国家は、ギリシャやローマでも、あるいは古代オリエントやゲルマン人共同体でも、はたまたアジア諸民族のあいだでも全世界的に出現したとみることができる。だが、その形態はかなり異なっていた、と滝村はいう。
 そこでまず取りあげられるのが、部族国家段階のギリシャである。ギリシャでは諸部族が都市に集住して、独自の地域共同体をつくりあげた。そこでは異部族の連合にもとづく王政、ないし貴族政がおこなわれていた。そうした部族国家が必要とされたのは、たえまない戦争と交易の両面に対応するためである。部族的な王は何よりも軍事指導者であり、内部では祭祀長としてふるまい、裁判に関しては民会にしたがっていた。こうした形態は王政時代のローマも同じである。
 だが、ギリシャでもローマでも、王政ないし貴族政は、下層の平民層によってくつがえされることになる。こうして、都市が発展するにつれて、法と共同機関を備えた市民の都市共同体が次第に誕生してくる。それを一般的に古典古代的段階の都市国家と呼ぶ。
 次に滝村はマケドニアの場合を紹介している。マケドニアといえば、またたく間に世界帝国を築いたアレクサンドロス大王(BC356-BC323)の名が思い浮かぶ。もともとちいさな部族国家だったマケドニアでは、軍事的、政治的、祭祀的に最高の権能をもつ王が、ヘタイロイと呼ばれる騎士たちを親衛組織としてかかえていた。
 アレクサンドロス大王のとき、このヘタイロイは8部隊に分かれ、それぞれが300騎から形成されていた。そして、8名の親衛隊長が、軍の最高幹部として王に仕えていた。従来の血統による貴族とは別に、王はこうした騎士階級をみずからに服属する新貴族として育て、その功績に応じて、かれらに所領を与えた。ここに部族国家が王国、帝国へと転じ、その中心に国家権力が形成されていく契機をみることができる、と滝村はいう。
 アレクサンドロスの帝国を、滝村はギリシャ的というよりオリエント的、ないしアジア的[ヨーロッパからみてエーゲ海の東を意味する]なものととらえている。
 帝国とは中心共同体が異系文化圏の共同体を従属的に支配する国家体制を意味する。帝国の形成は征服にもとづき、それによって従属共同体から貢納、租税、賦役を徴収する。その体制を維持するには、帝国は強大な軍事組織と行政機構を保持するとともに、それを指揮する帝権を必要とした。
 父親のフィリッポス2世から軍事国家マケドニアを引き継いだアレクサンドロスは、強大な軍事力によって、次々と領土を拡張し、エジプト、ペルシャを征服した。広大な領土はすべて王のものとされたが、実質的には貴族層である将軍に下賜された。将軍たちは下賜された領地にたいする地租・地代徴収権と裁判権をもち、その治安維持にあたった。だが、アレクサンドロスの死により、その帝国はたちまち崩壊していく。
 ローマ帝国もまたアレクサンドロスの帝国支配方式を受け継ぐ。共和政時代(BC509-BC27)のローマの政治体制は、元老院と上級政務官(執政官と法務官)、民会の三者によってかたちづくられていた。三者の関係は複雑で重層的である。とはいえ、滝村によれば、共和政ローマは、元老院が大きな役割をはたしながら、実質的には上級政務官が支配していたという。
 ローマは外部世界への拡張によって発展した。宣戦や和平は元老院の決定にもとづく。だが、戦争の遂行にあたったのは上級政務官の執政官(コンスル)である。さらに属州が拡大するにつれて、属州統治の総督には、前執政官(プロコンスル)が任命された。民会はそれらの決定を承認するにすぎない。とはいえ、古代ローマの政治が、貴族層だけでなく平民層によってもかたちづくられていたのは、それが騎士と重装歩兵からなる戦士共同体の性格をもっていたからである。
 しかし、第2次ポエニ戦争(BC219-BC201)以降、領土が飛躍的に拡大するなかで、ローマ帝国の政治体制は次第に変質していく。貴族が大土地所有者になるいっぽうで、自由農民が没落し、無産市民が生まれ、貴族の庇護民となっていく。民会は有名無実の存在に変わっていく。属州にたいする元老院の形式的権限(命令権)は強化されたが、軍事・裁判・徴税を掌握した上級政務官の属州統治権はそれ以上に強大化していった。そのなかでも、とりわけ注目すべきは、イタリア内を統治する執政官(コンスル)と属州を統治する前執政官(プロコンスル)の権限が分化していったことだ、と滝村は指摘している。

〈このような元老院の形式的かつ名目的強大化と、上級政務官権力の独立的強大化および民会の衰退という、共和政諸権力の実質的変形の下で、やがて共和政末期の長期にわたる内乱、すなわち強大な属州クリエンテス[庇護民]を抱える、有力政治家=武将間の血みどろの権力闘争が、展開される。それは、支配共同体の政治的共同体としての実質的解体を証示するものであるとともに、帝国支配としての一元制と統一性を実現するための、新たな政治的共同体としての統一的再編成への、胎動と飛躍の道であった。〉

 ローマ帝国が共和政から帝政にいたる道筋をたどるのは必至だった。カエサルが独裁政権を樹立したあと、武将間の権力闘争と内乱に勝ち残ったのはオクタヴィアヌス(BC63-AD14)である。オクタヴィアヌスは初代ローマ皇帝となり、アウグストゥス[元首]の称号を得る。
 オクタヴィアヌスは元老院へのかぎりなき忠誠と尊重を誓いながら、その権限を巧妙に奪いつつ、みずからの実質的支配権を確立した。帝国の属州全体への支配権と指揮統帥権を得たオクタヴィアヌスは、さらに元老院の議決権や裁判権を骨抜きにし、元首直属の軍事・官僚組織を確立していった。
 いっぽう、帝国の周辺では、ゲルマン人の動きが次第に活発になっていた。紀元前50年ごろに書かれたカエサルの『ガリア戦記』には、ゲルマン人が農耕を嫌って、常に移動しながら、戦争と略奪をくり返していること、その生活様式が狩猟と粗野な牧畜にもとづくきわめて原始的なものであることが記されている。ところが、それから150年後、紀元100年くらいに書かれたタキトゥスの『ゲルマーニア』によると、ゲルマン人はすでに牧畜と農耕を主とする定着民族だとされている。カエサルとタキトゥスのちがいについては多くの論争がある。
 だが、それはともかく、滝村が注目するのは、カエサルの記述に、ゲルマン人が戦時には戦争指揮者として首領を選び、首領のいない平時には長老が裁判でもめごとを収めるとされているところだ。いっぽう、タキトゥスは、すでにゲルマン人の多くの部族が王をもち、長老とともに村落を治める体制がつくられつつあると記している。ちいさなもめごとは長老によって処理されるが、宗教上・政治上の犯罪については、王と長老が民会を開き、裁判をおこなっていた。
 滝村は次のようにとらえる。ゲルマン人の共同体において、軍事指揮者はもともと戦時においてのみ選出されていた。しかし、外部世界との緊張関係が常態化するにつれて、非日常的だった軍事指揮者が、祭祀の主催者たる地位を包摂することで超越的な部族王へと転成し、それによって萌芽的な部族国家が形成されたのだ、と。
 もっとも、宗主権をもつ帝国の強制下で、部族を治めるために王が選出されるケースもないわけではない。この場合、王は帝国の手先ないし代官という性格をもつことになる。だが、帝国の苛酷な支配にたいする部族の抵抗や反発が強まったときには、傀儡首長が追放され、統一部族の首長のもとで独立戦争が戦われ、それが勝利したあかつきには、新たな部族国家が誕生するのである。
 滝村は次のように書いている。

〈相次ぐ戦争と征服の只中から、典型的な部族国家を形成させた部族では、部族的・王が……とりもなおさず最高軍事指揮者として、下級の軍事指揮者たる各首長ないし長老を統率し……最高祭祀者として登場した。……そうして、この部族的・王および首長・長老層の、指導的ないし支配的な政治的地位は、直接富裕かつ筆頭的な経済的地位を、決定し保障する。〉

 タキトゥスが指摘するように、ゲルマン人の生活は戦争と略奪を中心に回っていた。そして、勇敢に戦うことこそが、戦士としての権威と名誉、褒賞を保証したのである。
 日常的な戦時体制によって、ゲルマン人は部族国家を形成し、王と貴族層(首長・長老)、従士を生みだした。とはいえ、「生まれたばかりの王権は、いぜん部族制度のおしめのなかにくるまって」いた、と滝村はいう。
 そして、ゲルマン民族は4世紀の民族移動期をへて、部族国家から王国の段階へと突き進む。ローマ帝国が滅亡し、分裂する過程で、いわば戦国の覇者となったのは、ゲルマン民族の一族、フランク人だった。フランク人は5世紀後半にフランク王国を築くことになる。中世国家のはじまりである。
 部族国家はどのようにして中世国家に転じていったのだろうか。
 民族大移動と戦争は、王のもとに直属従士団をつくりあげていった。直属従士団は新貴族となり大土地を所有するいっぽう、王国には昔ながらの氏族による農民村落も残っていた。新貴族は王権のもと、領主として、租税・警察・裁判権を掌握し、私兵を育成した。王は貴族の上に立ち、徴兵権や裁判権を含む最高の権力を有していたが、その権力は部族共同体的な規範により大きな制約を受けたものだった。
 だが、王の権力は次第に強まっていく。王は王国全域にわたる祭祀権(具体的には教会の保護)、外部にたいする戦争と講和の権利、政治秩序維持のための裁判権・警察権、経済面における関税徴税権、貨幣鋳造権、地代徴収権、採塩権などを有するようになる。そして上級貴族にたいしては、君臣関係にもとづき土地を給付して領地の支配をまかせるのと引き換えに、王が貴族にたいする軍役徴収権と官職任命権を握った。
 こうして8世紀にはいると、王権と封建領主的支配権が確立し、農奴制にもとづく自給自足的な農村共同体が誕生する。これが中世国家のはじまりである。

[翻訳の仕事がはいったため、しばらくブログを休みます。つづきは後日。]
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滝村国家論をめぐって(まとめ2) [思想・哲学]

   8 国家とは何か

『国家論大綱』には、国家とは国家権力によって組織された社会だという言い方がでてくる。国家権力がないと、国家は存在しない。社会がなくても、国家は存在しない。
 ポイントは国家権力である。国家権力とは何か。それは社会全体、すなわち国家を支配する力だといってよい。
 滝村はこういう言い方をしている。

〈国家権力が、社会全体を法的規範にもとづいて組織化したとき、この法的に総括された〈社会〉は、他の歴史的社会との区別において、〈国家〉と呼ばれる。〉

 論理的には、まず社会があって、次に外部社会との関係で国家が成立し、国家権力が誕生するということになる。
 国家権力と国家とは区別されなければならない。
 というのも、国家権力の形態が変わり、権力が移行しても、国家は存続しうるからである。逆に、国家権力が完全に消滅すれば、国家もまた消滅する。そのとき、かつての国家すなわち社会全体は、植民地ないし新たな領土として、別の国家に組み入れられてしまうことになるだろう。
 国家と社会もまた区別されなければならない。
 国家は社会を包みこむかたちで、国家として成立する。いっぽう、社会が国家を包みこむことはありえない。
 というのも、完全に国家から隔離された部族社会も存在しうるからである。
 また国家権力の正統性が問われるときには、あたかも国家と社会が乖離するような事態が生じてくるかもしれない。
 近代においては、一般に国家は政治を担い、社会は経済を担うと思われている。しかし、国家は「法的に統合・総括された社会」なのであって、社会は国家から分離されているわけではないのである。
 このように国家と国家権力と社会は別の概念なのだが、実際はからみあっているので、その関係をしっかりと押さえておく必要がある、と滝村はいう。
 じつにややこしいが、とりあえず、国家とは国家権力によって法的に組織された社会である、という定義をもう一度頭に入れておこう。
 それでは国家と国家権力は、どのようにして生まれてきたのだろうか。
 国家の成立は国家権力に先行する、と滝村は書いている。
 国家の前は部族社会が存在した。
 部族社会は首長をもつ血縁的共同体である。だが、それはたったひとつしかなかったわけではない。多くの部族社会があったと考えられる。
 ある部族社会が外部の部族社会との関係を有するようになったとしよう。その関係には、戦争や交易が含まれるが、とりわけ緊張が高まるのが戦争の可能性が生じたときである。そのとき、部族社会は外部の脅威に備えるため始原的な国家を形成する。そして、その内部に部族社会全体を統率する国家権力が生まれてくるのである。
 そこで、国家についての滝村の新たな定義が生まれる。

〈〈国家〉は内外危機から〈社会〉全体を維持・遵守するために、〈社会〉を挙げて構成された、統一的で独立的な組織体である。〉

 つまり、国家は共同体が外敵に備える体制をつくる必要に迫られたときに誕生するのだ。
 国家の存立根拠は外敵にたいして社会を守ることだといってよい。しかし、守ることは攻めることでもある。
 国を守ることが、いつの間にか、ほかの国を滅ぼすことへとつながっていく。
 こうして、国家は部族国家から王国、帝国へと発展していくのだ。
 部族国家は始原的な国家である。その部族国家が他の部族国家を吸収したときには王国が成立する。そして、帝国は「特定の王国が、数種の異系文化圏の諸王国や諸部族国家を、その政治的傘下に包摂した」段階で成立するといってよい。
 世界史的にみれば、こうした国家は、アジア的、古代的、中世的といった典型的形態をたどった。いま、それを詳しく述べるのは、やめておくが、近代以前の世界史的国家についていえることは、どの形態の国家においても、国家権力はじゅうぶんに発達していなかったということだ。
 国家権力が社会全体を法的に包摂するまでに発達するのは、近代国家にいたってである。
 近代国家のひとつの特徴は、社会の構成員が社会的活動と精神的活動の自由を国家によって保証されていることだ。
 市民権を付与された個人は、法的には市民と呼ばれ、政治的には国民と呼ばれる。市民権を付与された国民が登場するのは、民主的政治形態のもとにおいてのみである、と滝村は述べている。
 近代国家において、国民は多かれ少なかれ国家意識をもつようになる。それは教育などによって培われたものであるが、いくらコスモポリタンだと思っていても、海外に行けば、たとえば自分が日本人であることは、いやおうなく意識させられるものだ。
 そうしたことをいわば前置きとして、滝村は自分自身もいやおうなく組みこまれている現代の国家とは何かを説き起こしていく。

   9 社会と国家

 社会はなぜ国家を必要とするか、と滝村は書いている。
 これは頭から国家を抑圧・統制機関とする発想とはことなる。
 たしかに、時に国家はいまわしいほどの抑圧・統制機関へと転じる。それでも、なぜ社会は国家を必要とするのだろうか。
 国家とは、国家権力によって政治的に(法的に)組織された社会のことだ、と滝村は定義した。それは内外の危難にたいし、社会全体として対応する(その対応はしばしば攻撃のかたちをとるが)ために形成された。
 すると、内外に危難がなくならないかぎり(あるいは逆に別の国家に統合されないかぎり)、国家は存続するということになる。
 ところで、国家権力を構成するのは公務員と呼ばれる人びとである。中央、地方合わせて、その数は日本では総人口の約7%(米国は約15%、イギリスは17%、フランスは23%)にあたる。かれらは社会的な生産に従事するわけではなく、税金によってその公的活動に当たっている。
 それでは国民はなぜ大きな租税負担に耐えてまで、公務員による国家的活動を容認しているのか、と滝村は問う。
 それはやはり社会が国家を必要としているからではないのか。
 現在の先進国において、社会は近代市民社会の形態をとっている。
 近代市民社会では、個人の経済的・社会的・精神的な活動の自由が認められている。こうした社会が築かれるまでには、長い抵抗と闘争の歴史があったことはいうまでもない。そして、近代市民社会が形成されることによって、専制的国家体制は倒され、ようやく民主主義的国家体制が生まれた。
 とはいえ、滝村によれば、その自由な社会が「ごく一握りの少数者と大多数の一般大衆との間の、かつてない経済的な格差と〈不平等〉をもたらした」ことも事実だった。その社会は自由であるからこそ、常に苛酷な経済的・社会的闘争がくり広げられる、競争と対立の場になった。
 そこで、国家権力は社会において生ずる紛争を処理するためにも必要とされるようになる。
 それ以上に重要なのが、外部の国家との関係だった。その関係は常に交易だけではなく紛争を内在させている。そして、紛争は最悪の場合、戦争へと発展しかねない可能性を秘めている。
「他の歴史的社会は、友好・同盟・対立・競合のすべてを超えて、つねに〈敵国〉へと転化しうるというところに、歴史社会の〈国家〉的構成の必要と必然が、内在している」と滝村は述べている。
 歴史的にみれば、あらゆる部族国家は、部族国家どうしの対立のなかから、王国ないし帝国へと発展する可能性をもっていた。さもなければ、どこかの王国ないし帝国に従属するほかなかった。
 その傾向は近代国家においても変わらない。
「先進諸国相互においては、一方で、かつてない網の目のように緊密な貿易的連関を生み出しながら、同時に他方で、後進諸国を政治的な手中に収めんという世界的覇権をめぐる戦いが、つい半世紀ほど前まで、国民社会の総力を挙げてくり返されてきた」と、滝村は指摘する。
 こうして、国家としては、軍事・防衛が政治上、最大の任務となるのである。
 次に国家に求められるのが、国民の共通利害を守ることである。その筆頭に挙げられるのは、社会秩序を守るための治安活動である。またインフラを整備するための公共土木工事も求められるだろう。最近は、経済政策や社会政策も重要になってきた。
 いっぽう、共通利害が分裂する場合、あるいは特定の利害に国家がかかわることもある。
 たとえば社会的紛争や経済的紛争が当事者間で解決しない場合である。この場合は国家が介入することになる。さらに、突然の自然災害や経済危機など、諸個人や地域社会だけでは対応しきれない事態が生じた場合にも、国家が問題解決に乗りだし、社会的救済にあたらなくてはならない。
 これらは、実際には国家の名において、国家権力によって対応がなされる。
 言い換えれば、どのような国家権力であっても、政治的に組織された社会、すなわち国家の安全を守ることが求められるのである。逆に社会の安全を守れなくなれば、国家権力は解体・変更を余儀なくされる。最悪の場合、国家権力自体の消滅、すなわち国家の崩壊を招くことになるだろう。
 国家と国家権力を区別することは重要だ、と滝村は強調している。国家権力が民主的か専制的かによって、国家のかたちはかなり異なってくる。
 国家はしばしば国家権力と同一視されがちだった。レーニンは国家を暴力装置と規定し、その暴力装置を取り除きさえすれば、国家は消滅するのだと考えた。この規定は、どうみても国家と国家権力を同一視している。
 ところが、どうだろう。レーニンのソヴィエト政権は、それ自体、独裁政権と化し、ソヴィエト政権を守ることがあたかも国家を守ることであり、ソヴィエト政権を対外的に拡張することが、社会主義を広げることだという幻想におちいってしまった。そこでは、近代社会における国民の自由な活動を保証するという、国家としての最低限の役割さえ見失われがちだった。
 いっぽう、アナキズムもまた国家と国家権力を同一視しているとみてもよい。そこでは反権力・反国家がどこまでも追求されることになり、その先の展望はまったく見えなくなってしまうのである。パリの五月革命や日大・東大闘争など、1968年当時の雰囲気が思い出される。
 国家と国家権力の区別と連関をあきらかにした滝村国家論の意義は大きいといわねばならない。

   10 統治と行政

 国家活動をおこなうのは、いうまでもなく国家権力である。
 国家活動は大きく対外的活動と対内的活動に分けられる。前者を外政、後者を内政と呼ぶことができる。
 しかし、より本質的にいうなら、国家の活動は統治と行政から成り立っている、と滝村はいう。
 統治は国家の根幹を保持するための対外的な政治活動である。対外的というのは、外部国家の動きに、国家がどう応じるかという問題にほかならない。それは、具体的には、外交、軍事、通商、治安、金融などへの対応を意味している。
 これにたいし、行政は国民に向けられた、いわば対内的な政治的対応である。滝村によれば、行政とは「国家権力による当該社会の内部的な統制・支配の全般的活動」と定義されている。
 具体的には財政政策や公共土木工事、労働政策、社会保障、警察活動などが含まれるだろう。教育や宗教政策も行政の分野にちがいないが、それは統治にもかかわる問題である。
 統治と行政はいちおう区分けできる。しかし、たとえば行政レベルで問題が解決できず、それが国家の根幹を揺るがす事態になれば、問題はとうぜん統治レベルへと格上げされる。また対外的な政策が、国内に影響をもたらすこともたしかである。その点、統治と行政は密接にからんでいる。
 それでも、滝村国家論が特徴的なのは、国家権力による国家的活動を、統治と行政に区分けしたところである。統治なき行政、行政なき統治はともに国家の存立をあやうくするだろう。
 そこで、まず統治について、見ていくことにしよう。
 ここでもっとも重要なのは対外政策(外交・軍事)である。対外政策には国家の存亡と興廃がかかっている。
 現実世界では、主要な敵国を念頭において、政治的同盟政策が展開されている。それは軍事同盟の性格をもつから、対外政策は軍備力をともなう軍事政策と関連していく。
 現実世界において、はたして非武装中立、あるいは武装中立はありうるんだろうか。
 国際政治の世界は、「力の均衡」によって成り立っている、と滝村はいう。その均衡は、「自国の現状に飽き足らない諸国」が「飛躍的な発展」を遂げることによって崩れやすい。
 そのために「均衡」政策は、「新興政策による『秩序』の革命的破壊を未然に封殺し、局地での紛争が『秩序』破壊にまで拡大しないよう、強力に制御すること」をめざすという。
 しかし、それが抑えられず、国際世界の政治秩序が大きく破壊されるときには、世界戦争が勃発する可能性がある。
 国家権力が外交と軍事を掌握するのは、端的にいって、国家を守るためである、と滝村はいう。国際政治の現実は無視できない。外交と軍事にたいする、しっかりした自主性があってこそ、国家は守られるのだ、と滝村は考えている。賢い選択が必要だろう。
 滝村はさらに対外政策としての通商問題にも触れている。通商政策はけっきょく自由貿易か保護貿易かの選択に帰着する。具体的にいえば、通商政策は関税や自由化、国内産業の保護育成、輸出奨励などの問題にかかわる。
 通商政策は、外交や軍事といちおう切り離すことができる。たとえ政治的に敵対関係にあったとしても、通商関係は経済問題として扱える。だが、いくら経済的に切り離せるといっても、経済関係の対立が深まれば、それは容易に外交問題、さらには軍事問題へと発展する可能性を内在している。
 もちろん外交関係の樹立なくして、通商関係がありえないことはいうまでもない。
 さらに滝村は、統治にかかわる重要課題として、治安活動に触れ、それが二重に分化するとして、こう述べている。

〈それは、当該社会全体を直接震撼させる、大規模な組織的違法[犯罪]活動を制圧し、また未然に制御するための特殊〈治安警察〉活動と、その他の個別的違法[犯罪]活動に実践的に対応する、一般〈行政警察〉活動との分離である。〉

 つまり、治安活動は、治安警察活動と行政警察活動にわけて考えることができる。そして、ここから政府に直属する治安警察と、地方の管轄する行政警察とがわかれることになる。
 これはあたりまえのように思えるが、そうではない。軍と警察の分離、治安部門と行政部門への警察の分離と二重化は、きわめて近代的な現象なのである。
 言い換えれば、近代以前においては、軍と警察が一体化しており、それはすべて国家権力のための治安活動に向けられており、国民の安寧はほぼ無視されていたといってよい。
 次に論じられるのは行政である。
 行政は資本主義的生産様式と議会制民主主義とがセットになった近代国家において、はじめて発現する、と滝村は書いている。
 行政のなかでも、とりわけ重要なのが経済政策である。
 経済政策は財政政策と金融政策に分類することができる。
 基本的に国家の財政は、国民から強制的に徴集された租税によって成り立っている。国家財政は予算にもとづいて運営される。その予算は議会において審議され、承認される。
 国家予算は外交・軍事・治安など統治にかかわる部分と、公共事業・社会保障・医療・文教・環境・公害防止など行政にかかわる部分から成り立っている。
 財政政策が登場するのは1930年代以降である。それによって、予算は社会に還元されるようになった。それまで財政は専制的国家を維持するためにのみ運用されていた。
 いっぽうの金融政策は、中央銀行が金融の流れを調節することによって、金融制度全体の維持・安定をはかることを目的としている。
 とりわけ1930年以降は通貨が兌換制から管理体制へと移行するなかで、金融政策の重要性が高まってきた。金融政策は景気循環を調整し、とりわけ恐慌を防止する手段として、広く活用されるようになった。
 社会政策はもっとも新しい分野である。滝村によれば、社会政策が本格的に展開されるようになったのは第2次世界大戦後であって、「社会的な弱者・貧困者への国家的保護・救済の必要」が高まったためである。
 その背景には、普通選挙制度を通じて議会制民主主義が定着し、それによって労働組合が大きな勢力として登場したことがあるという。
 とはいえ、社会政策には長い前史がある。それは治安維持と結びついた救貧行政からはじまって、失業者対策などの労働政策、さらに社会保険の導入へとつづき、現在では医療・失業・年金の社会保険に加えて、生活保護の公的扶助が加わるようになった。
 滝村によれば、社会政策は「個別資本による労働者への際限なき苛酷な搾取と抑圧に、国家権力が〈平均的な必要労働[つまり雇用]の保障〉という、一定の歯止めをかけるもの」であったという。
 つまり、社会政策には、労働者の生活を改善することで、労働者階級の反乱を防ぐとともに、消費市場を拡大するねらいがあった。
 そして、最後が公教育である。滝村は、公教育とは単に国家による教育を指すのではないという。それは国民教育でもあって、「国家権力が社会構成員[国民]の全子弟に対して、一定期間明確な目的をもって行なう学校教育」であり、義務教育としての性格をもっている。
 さらに滝村は、「〈公教育〉とは、国家権力による目的的な人間形成であり、とりもなおさず〈近代社会〉に対応した社会的人間を、目的的につくりあげるためのものであった」と述べている。
 そのため、公教育においては、読み書きそろばんに加えて、自然科学の知識や道徳・倫理、社会・歴史の知識が生徒に注入される。それは、国民になるための「思想的・イデオロギー的教育」の性格をもっている。
 以上で、統治と行政からなる、国家権力の実質的構成が概観された。
 滝村国家論はいかにもぶっきらぼうである。
 しかし、それは国家嫌いの左翼の幻想を打ち破るとともに、国家至上主義の思想を振りまく右翼にも痛棒をくらわす性格をもっているのである。


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滝村国家論をめぐって(まとめ1) [思想・哲学]

  1 はじめに

 国家とは何かと問われて、簡単に答えられる人はいるだろうか。
 滝村隆一(1944-2016)は、アカデミズムに属することなく、生涯をかけて国家とは何かを考えつづけた世界的政治学者である。その思索が『国家論大綱』第1巻としてまとまったのは2003年のことだ。第2巻の歴史編は2014年に出版されたものの未完に終わった。第3巻の思想編は構想だけで終わった。
 ここでは『国家論大綱』を中心に、滝村国家論の概要をごく簡単に示すことにする。膨大な学説批判については省略した。あくまでも、ぼくが理解できるかぎりでのメモにすぎない。
 大雑把にわけて、「大綱」第1巻は3つの部分と補論から成り立っている。3つの部分のうち、最初のふたつは序論と総説であり、あくまでもメインは一般的な国家を論じることに置かれている。第2巻の歴史編は残念ながら、断片的なものしか残されていないが、これについては、また後日、紹介することにしよう。

 (1)政治とは何か
 (2)権力とは何か
 (3)国家とは何か

 これが3つの部分で、きわめてシンプルな構成といえよう。
 それに補論として、ファシズム国家論、社会主義国家論、マルクス主義による国家死滅論の批判、国家連合(とりわけEU)の問題などが論じられている。

「はじめに」のなかで、滝村はこう述べている。

〈厳密な学的・理論的方法という点からみれば、〈世界史〉の学的思想において、ヘーゲルとマルクスのみが、社会科学の正当な学的方法、つまり社会的事象の学的・理論的解明を可能にする、唯一の学的方法を確立した。〉

 ヘーゲルとマルクスの方法だけが、国家を解明する唯一のカギだというわけだ。ホッブズのように個人を原子として分解し、その衝突や対立から、国家を構成的に論じるやり方はまちがっている、と滝村はみる。
 ただし、滝村がヘーゲルやマルクスの国家論を正しいとみているかというと、まったくそうではない。

〈ちなみにヘーゲルは、いまだ憲法さえもたぬ悪名高き、かのプロイセン専制国家を神聖化する、国家主義的な立場から脱却できなかった。マルクスは、すべての階級対立を廃絶する、プロレタリア独裁をテコにして、〈国家が消滅した共産主義社会〉が実現できる、と夢想した。〉

 要するに、政治思想的にはヘーゲルもマルクスもまちがっているというわけだ。にもかかわらず、ふたりの国家をとらえる方法は、西洋のほかの学者とはまったく異質、異端であり、「それはまさに、〈正当ゆえの「異端」〉といっていい」と評価している。
 こうしたアプローチは、滝村が国家とは何かを考察するさいに生かされることになる。
 ここで、本論にはいる前に、滝村の学問的な歩みをふり返っておこう。
 滝村が執筆活動を開始したのは、1967年ごろから。大学闘争はなやかなりし時代だった。
 このころ、滝村はマルクスやエンゲルスの著作を読みとおし、国家と国家権力が異なること、そして国家権力は第三権力であることを明らかにした。
 そのころはやっていたのは、国家とは暴力装置だというレーニン流の考え方だった。そこでは、国家と国家権力は区別されず、むやみやたらに国家が暴力と結びつけられていた。
 しかし、滝村はそうではないという。国家権力とは、さまざまな勢力が抗争をくり広げる社会の上に立って、いわば第三者(第三権力)として、社会を統制するものだ。そのことを滝村は明らかにした。
 さらに、国家がもっぱら社会を抑圧する装置とかんがえられていたのにたいして、滝村は〈共同体─即─国家〉論を提唱する。すなわち〈内的国家〉にたいする〈外的国家〉論である。
 国家は共同体の内部にたいしてだけ存在するのではなく、同時に共同体の外部にたいしても存在する。つまり、国家は外部の国家にたいする存在でもあることを明らかにした。
 その後、滝村は国家の歴史の考察へと移った。当時は、いわゆる唯物史観がまだはやっていた。つまり、人間社会は原始的、古代的、中世的、近代的な発展段階をへて、共産主義社会にいたるのが世界史的必然だと考えられていたのだ。これはマルクスのというより、マルクス主義の公式だった。
 もともとこの歴史観はヘーゲルに由来している。近代の国家はそれ以前の国家とはあきらかにちがうかたちをしている。ヘーゲルは、国家がさまざまな段階をへて、近代国家へと流れこんでいったととらえていた。すると、たとえば古代国家やアジア的国家は、どういうかたちをしていたのか。こうして滝村は、典型的な歴史国家の具体像を描くことに取り組むことになった。
 そうした研鑽のなかから、滝村はマルクス主義史観でいう、世界史的必然として国家なき共産主義社会がやってくるといった発想がいかにたあいないものだったかということに気づく。
 滝村はソ連や中国などの社会主義国家が、近代的な三権分立さえ実現していないことを厳しく批判する。三権分立なきプロレタリア独裁は、純粋な専制国家に行き着くしかない。
 こうして、それまで信条としていたマルクス主義を捨てた滝村は、歴史理論的作業をつづけながら、国家とは何かを明らかにするために、より高度な研究に向かっていくことになった。
 これまでのあらゆる国家学説に検証が加えられ、ウェーバーやラスウェルなども批判された。中途半端に西洋の学説を切り貼りしている丸山真男の政治学も、徹底して解体されていった。
 国家論が経済学とはことなる理論的構成を必要とすることに気づいた滝村は、こう書いている。

〈〈国家〉は、最初から、〈社会〉総体の統一的な政治的組織として、歴史的に出現した。〈国家〉と各種社会的権力との共通性は、組織的権力としての一般性という点にしかない。同じく社会的事象に対する学的解明といっても、経済学と政治学とでは、このような資本制社会と〈国家〉とのちがいから、その学的展開・構成方法もまた、大きくことなってくる。〉

 要するに国家の歴史は、資本主義の歴史よりはるかに長いということだ。その国家を歴史的、構造的に解明する作業が、資本主義を分析する経済学と根本的にことなることはいうまでもない。
 人類史において、長い歴史をもつ国家が、これからいったいどこに向かうのか。東アジアの一体化はありうるのか。はたして世界共和国は成立しうるのか。それらもまた、この著書から浮かび上がる大きな研究テーマといえるだろう。

   2 政治とは何か

 いざ、政治とは何かというと、なかなか答えるのがむずかしい。
 滝村のいうように、政治とは国家にかかわる事象(動きやできごと)だというのが、いちばんシンプルな規定だろう。
 したがって、政治の広がりは国家の広がりと重なってくる。
 国家といえば、まず外交、軍事、治安を考える。社会全体を管轄する政治機構が国家だとすれば、国家の範囲はますます大きくなってくる。
 国家の機構は、それこそ社会にしっかりとかぶさっている。その仕組みは中央と地方とで二重になっている。警察や役所、議会、裁判所にしてもそうだ。そこでは、法の制定と執行、経済政策から社会保障にいたる行政、その他さまざまな社会的統制がなされている。
 そこで、政治とは国家による社会的統制を指すという見方がでてくる。
 だが、それはあまりにも一面的なとらえ方だ。
 新聞や週刊誌などでよく目にするのは、政権争いやら党内のゴタゴタ、その他さまざまなスキャンダル。利権癒着というのもよく聞く。
 与野党の攻防、さまざまな裏工作、日々流されるニュースや解説など、それこそ、わたしたちの毎日は政治にあふれているといってもいいくらいである。
 そのほか、原発再稼働や沖縄の基地新設にたいする反対運動、さらに政府打倒に向けてのデモだって、りっぱな政治だということができるだろう。
 こんなふうに、政治活動は日常のあらゆる場所で、ごくあたりまえにおこなわれている。
 政の意味は、もともと征服し支配するということで、それに、ことをおさめる治がともなう。
 いっぽう、会社でも政治はつきものではないか、と思ったりもする。実際、ぼくの会社員時代でも、社内政治が横行していた。役員改選の時期になると、次は誰が社長になり、誰が専務になるかに、社員の関心が集まったものだ。
 これは、人が集まる組織には、権力が発生し、政治が必要になってくるということなのだろうか。しかし、これはあくまでもたとえといわなければならない。
 組織のなかで発生する人間の行動のすべてを、政治と呼ぶわけにはいかない。そこには、ある程度厳密な区別を必要とする。
 政治はあくまでも国家と政治権力をめぐる動きととらえるべきだろう。
 水のないプールが無意味なように人民のいない国家もまた無意味である。社会があってこそ国家は存在しうるし、国家なくして社会も存続しえない。
 ことばの正確な意味で、国家の廃絶はありえない。もちろん、国家のかたちは、いくらでも変わりうる。専制的な国家が民主的な国家に変わるとか、連邦国家をつくるとか、あるいは逆にひとつの国家がいくつもに分裂することも考えられる。しかし、そのこと自体は国家の廃絶を意味するわけではない。
 国家がわたしたちにかかわっているように、わたしたちもまた国家にかかわっている。そのかかわりの総体を政治と呼ぶことができるだろう。政治は国家権力から発する場合もあるし、逆に社会(個人や組織)から国家権力に向かっていく場合もある。
 政治とは、わたしたちを取り囲みながら日々生起する国家現象ということができる。その源が国家権力にある以上、次に権力とは何かについて考えなければならない。

   3 権力とは何か

 この世に権力が存在することは否定できない事実である。
 権力とはいったいなんなのだろうか。
 滝村は権力を「人間主体に対する、外部的・客観的な〈支配力〉」と規定している。
 人間社会において、こうした支配力は、当初、「原初的な神的・宗教的権力」のかたちをとって出現した。神(自然)の力と、神の力を律する者が、人びとの生活を支配したのである。
 神的・宗教的権力は、次第に強力な政治的権力へと発展していく。その背景に、人間社会の歴史的発展があったことはいうまでもないだろう。
 権力は国家だけの現象ではない。職場においても、学校においても、支配−服従関係の発生する場においては、どこでも権力が発生する。
 権力が存在するところでは、権力者の指示・命令(支配者の意志)にしたがって人が行動する。逆に、そうした関係がまったくないところでは権力は成立していない。
 支配者の意志は単なる個人の考えではない。個人の考えなら、別にしたがっても、したがわなくてもいいことになる。ところが、それが「外部的・客観的な規範」となれば、そうはいかない。自分の意志がどうであれ、おおやけに示された規範にはしたがわなければならない。規範にみずからの意志をしたがわせるところに権力関係が発生する、と滝村は述べている。
 規範とは認められた取り決め、ないし約束のことを指す。認めたのだから、守らなくてはならない。たとえば、青信号は進めという交通ルール。おれは反対だからといって、このルールを守らなければ、交通事故をおこす可能性がある。
 こうした規範によって、人びとの実践と活動は社会的に規制されている。規範は社会のルールを指すといってもいいかもしれない。法律もこうした規範にあたる。もちろん、こうした規範は、社会の状況が変化するにつれて、変更されていく可能性がある。
 近代以降、支配者の意志は国家意志となり、その規範は法律のかたちをとり、それに違反した者を規定にもとづいて罰するようになる。そして、支配者自身もまた法律にしたがわなくてはならなくなるのが近代の特徴だといえる。
 そこで、滝村は、権力とは「規範にもとづいた観念的な支配力」にほかならないと規定することになる。
 ところで、服従はどのようなかたちで実現されるのだろうか。相手を服従させるには、命令(したがわない場合は処罰)、あるいは説得や教化、さらには利益誘導といったやり方が考えられるだろう。
 これにたいし、したがう側も、自己犠牲的献身から面従腹背、あるいは秘めた敵意まで、その態度はさまざまだと思われる。
 とはいえ、権力関係が成立しているときには、それが安定的な場合も、不安定な場合でも、いちおうは「規範としての意志」にたいし、被支配者による「意志の服従」がなされていることになる。もっとも、「意志の服従」がいつまでつづくかは、状況次第といえるだろう。
 権力が強い力をもつようになるのは、組織があってこそである。組織は個人の集まりにちがいないが、単なる集団ではない。滝村によると、「組織とは、規範にもとづいて結集し構成された特殊な人間集団」ということになる。つまり、組織は特別な目的をもつ集団を指している。
 したがって、組織の内部では、支配と従属からなる権力関係が築かれている。
 組織は目的をもつため、その意志は内部だけではなく、外部にも向けられている。とはいえ、組織が外部を支配する力は、他の組織との力関係による。これにたいし、組織の内部においては、規範としての組織的意志が貫徹される。これは企業をみればよくわかることだ。
 個人が組織に結集するのは、そこでの協同活動によって「倍加された強力な集団力」の獲得が可能になるからだ、と滝村はいう。戦争であれ土木工事であれ、それはけっして個人ではなしえない事業だ。こうした協同活動をおこなうには、組織としての「単一意志」(規範)のもとに全員が服従することが求められ、さらに、それをコントロールするための「指揮中枢」と組織内組織が必要になってくる。
 近代国家でいえば、そうした組織的規範は、憲法を基軸として、刑法・民法・商法、あるいは行政法によって定められることになる。企業でいえば、その規範は、社是・社訓、年間計画、定款によって定められるといってよいだろう。
 そして、こうした組織的規範に反対する意見をもっていても、現実的な行動として、それに違反しなければ、処罰されることはないというのが、近代の原理だといえる。
 権力は大きく分けて、経済権力と政治権力にわかれる。企業や労働組合などの経済権力が、おもに物質的な富の生産と分配にかかわるとすれば、政治権力は思想やイデオロギーなどの観念にかかわっている。ほかに思想やイデオロギーにかかわる権力としては、宗教組織(教団)などが挙げられる。マスメディア権力にも、たぶんにそうした側面がある。
 もちろん、経済権力、政治権力、宗教権力、思想権力といっても、その分類は画然としたものではない。たとえば宗教組織が、政治的・経済的役割をもつこともあり、経営者団体や労働組合などの経済権力が政治的性格を帯びることもある。
 国家権力には、とうぜん対抗権力が存在する。近代以前では、領主権力とそれにたいする農民反乱組織、近代以降では、議会政党(野党)と革命政党といった主流、反主流の組織がある。
 組織においては、意志決定がどのような形態でなされるかが問われる。
 滝村によれば、組織における意志決定の方式は、民主制か専制かの、どちらかしかないという。民主主義の場合は、直接民主主義か間接民主主義、専制の場合は、親裁か寡頭制のどちらかによって、意志決定がなされる。
 これまでの歴史においては、社会組織はたいていが専制で、民主主義はごく例外だったという。しばしば組織間で深刻な対立と抗争が発生することを考えれば、緊急事態に対応するために、往々にして専制的な意志決定をせざるをえなかったからである。
 たとえば古代ギリシアのアテナイでは、都市中枢の支配層のなかで直接民主制がとられていたといわれるが、そうした民主主義は被支配層や周辺の従属共同体にとっては、専制以外のなにものでもなかった、と滝村は指摘する。
 民主主義の登場は近代を待たねばならなかった。もともと専制化しがちな国家権力が大きくなるにつれて、それに一定の歯止めをかけることが求められたためである。
 国家組織を含め、一般に社会組織は専制形態をとる。その組織は拡大するにつれ、専門化して細かく分かれ、上級幹部層が生まれてくる。組織においては、その上級幹部層の意志をすりあわせて、意志の合意がなされ、組織としての一般的意志が形成されていくことになる。
 この調整と妥協はときにきわめて難航することがある。そんなときにワンマンのツルの一声が、組織の意志を決定する場合も少なくない。しかし、その意志決定には成功も失敗もあって、成功するならともかく、あまりにも失敗がつづくようだと、ワンマン追放のクーデターが発生しかねない状況となる。
 現代の議会主義には、国民主権と多数支配という原則がある。にもかかわらず、実際には「少数者支配の法則」がつらぬかれている、と政治評論家はしばしば憤慨する。民主主義は表看板だけで、政治はいつも少数者によって牛耳られており、ほんとうの民主主義を取り戻さねばならないという主張もでてくる。
 しかし、だからといって専制と民主制を混同してはならない、と滝村はいう。民主制のもとでは、国民から選ばれた議員は、国民各層の意志や利害をまったく無視して、みずからの意志を主張できるわけではない。専制体制とはことなり、民主体制のもとで、国民は市民権を与えられ、中央および地方の議会に代表者を送る権利をもっているからである。
ソ連の体制は民主主義とはかけ離れていた。レーニンやスターリンが主導した共産党は、みずからをプロレタリアートの代表と位置づけ、プロレタリアート独裁の名のもとで、寡頭支配をつづけた。そのツケはあまりにも大きく、その独善的思想によって、もっとも醜悪な「社会主義」専制国家が生まれたことを忘れてはならない、と滝村は述べている。


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竹田青嗣『欲望論』を読む(1) [思想・哲学]

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 買うか買うまいか迷った末にとうとう買ってしまった。
 上下2巻1200ページを超える大作である。
 第1巻は「『意味』の原理論」、第2巻は「『価値』の原理論」と銘打たれている。このほかに、続刊として倫理学と社会哲学が予定されているというから、まだ先が残っている。
 第1巻と第2巻は4部から構成されている。

 第1部 存在と認識
 第2部 世界と欲望
 第3部 幻想的身体
 第4部 審級の生成

 著者は1947年生まれの哲学者、文芸評論家。現在、早稲田大学国際教養学部教授の肩書をもつ。哲学に関する多くの著書があるが、本書はその総決算といえるだろう。
 オビには「一切の哲学原理の総転換!! 21世紀、新しい哲学がはじまる! 2500年の哲学の歴史を総攬し、かつ刷新する画期的論考!!」とうたわれている。こういううたい文句には、いかにも売らんかなの姿勢がみえみえで、あまり信じたくないのだが、これまでの哲学史を塗り替え、新たな地平を開くというのは、たしかに壮観にはちがいない。
 2冊で税別7800円という値段にも、ちとたじろいだ。しかし、なによりためらったのは、これまで哲学など無縁で、それほど先のないぼくなどに、はたしてこの本が理解できるかどうか、まったく自信がもてなかったからである。
 でも、思い切って買ってしまった。
 人間とはなにかがわかる手がかりになればいいと思ったからである。
 誤読の可能性はおおいにあるが、わからないなりにも断続的に1年くらいかけて読んでいけば、人間という親密かつ凶暴な存在について、なにかあらたな知識が得られるのではないか。そんな軽い気持ちで、本書のページをめくることにした。途中で挫折する可能性は高いが、例によって、きれぎれの感想である。
 はじめに暴力があり戦争があったと著者は書いている。人間がそのなかを生きていくには、共同体をつくらねばならなかった。暴力や戦争はつねにあり、人はつねに死におびやかされていた。それに対抗するため生まれたのが宗教や哲学だ。宗教はよりよく死ぬための「物語」であり、哲学はよりよく生きるための「原理」だった。
 著者はいう。

〈古来、哲学の問いの中心には世界とは何であるか、世界を正しく認識できるかという問いが、すなわち「存在の問い」と「認識の問い」が存在してきた。しかし、この問いの根底には、いかに善き生を生きうるかという問いとともに、いかに人間が潜在的な暴力の不安から逃れうるかという問いが潜んでいる。〉

 人間は世界のなかに生きている。その世界とは何なのか。また人間ははたして世界を正しく認識できるのか。それが存在と認識の問いである。だが、その根底には人間とは何であるのかという、さらに根本的な問題がひそんでいる。
 だいじなのは哲学的原理という方法なのだ、と著者はいう。つまり考えるためのテコだ。その方法は時代に応じて、つねに再生されねばならず、それが失われれば、混乱が支配する。
 現代哲学は、哲学的原理を打ち立てようとした近代哲学を乗り越えるため、批判的相対主義におちいり、批判のための批判をくり返している。だいじなのは哲学的原理という方法を再生することだ。そのためには「一切の哲学と思想の中心的方法と原理を、新しい思想の解剖学によって解体し、これを吟味し尽くさねばならない」と、著者は宣言する。
 現代思想の特徴は「相対主義」にあるといってよい。絶対的な認識はありえないとして、すべてを相対化し、批判する考え方だ。そこからは、正当なものは何もない、逆にいえば、あらゆるものは正当化されるという思想が生まれる。
 こういう考え方が生まれたのは、20世紀前半に人類が全体主義(スターリニズムとファシズム)という原理主義的思想の災厄をこうむったためだろう。そこから、近代そのものを否定するポストモダン思想が登場した。その標的となったのは、ドイツ観念論に代表されるヨーロッパの形而上学だった。
「このことで、現代の批判思想は、形而上学的、独断論的普遍主義に対抗する批判的相対主義という、決して答えの見出せない哲学的な袋小路に入り込むことになった」と、著者はいう。それは不毛な対立を招いた。
 形而上学的独断論と懐疑的相対主義の不毛な対立を回避するには、まず「本体」の観念を解体するところからはじめなければならない。哲学は「本体」なるものが存在すると考えてきた。逆に本体には誰もアクセスできないというのが、懐疑論の思考だった。
 著者は、独断論であれ相対主義であれ、「本体」から出発するこれまでの哲学的思考を克服しようとした哲学者として、ニーチェとフッサールの名前を挙げている。
「『本体』の存在が暗黙のうちに想定されているかぎり、認識は可能であるか可能でないかのいずれかでしかない」。このことが、哲学に不毛な論争を招いてきたのだ。
 著者は本体論を解体する手がかりとして、「認識相関性」という概念をもちだす。これは認識相対主義とはことなる。認識相対主義は、自分自身の観点からしか対象を見ることができないため、すべての認識は相対的であって、「本体」自体の正しい認識はできないとする。ところが、「認識相関性」の考えでは、人はみずからの身体−欲望に関連づけて「世界」を生成するとみるから、そもそも「本体」を想定することはできず、想定する必要もないのだ。
 このとき「世界」は「生世界」となる。だれにとっても個別に存在する世界、それが「生世界」だ。「『生世界』は生きとし生けるものにとっての絶対的、偶有的事実であり、それゆえまったくドクサ(臆見)を含むことのない、『世界意識』の根源的出発点である」と、著者はいう。
 そこから新しい認識論が生まれる。「本体」の認識という考え方は廃棄される。それに代わって個々の「世界体験」から間主観的な問題構成に展開し、世界存在の普遍性を理解する方法が開けるのだ。
 意味は記号の本体ではない。意味と価値はほんらいひとつのものだ。世界は「生けるもの」の「欲望−身体」相関性としてのみ生成する。したがって、世界は価値と意味のたえず生成変化する連関の総体としてとらえられる、と著者はいう。
 世界体験から出発して世界の普遍的理解にいたる「言語ゲーム」を著者は哲学と名づけているようにみえる。それは「暴力原理」にもとづく思考の停止、あるいは懐疑主義によるデカダンとは対極にある努力にほかならず、現実世界の「現実論理」と対抗するものなのだ。したがって、これからえがかれようとするのは、いわば希望の哲学といってもよいものかもしれない。
 気の向くままに、少しずつ読んでいきたい。

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最晩年の自由論──若森みどり『カール・ポランニー』を読む(6) [思想・哲学]

 1954年にコロンビア大学を退職したあと、ポランニーは『自由と技術』と題する著作で、産業文明にたいする考察を進めるつもりでいた。しかし、病気のため、それは完成にいたらず、断片的な草稿が残されるにとどまった。
 そのかたわら、弟子のロートシュテインは3年間にわたりポランニーとの対話を書き留めていた。それが「ウィークエンド・ノート」なるものである。
 著者はポランニーの断片的草稿や聞き書きのノートをもとに、かれの最晩年の思想をさぐろうとしている。
 ポランニーの思考は難解である。だから、そのすべてを理解するのは無理としても、せめてその一端だけでも紹介しておきたい。
 ポランニーは、「産業社会における良き生活」という断片のなかで、産業文明における「自由の喪失」に触れて、こう述べている。

〈複雑な社会において、われわれの意図的行為の、意図せざる結果が啓示された。これらのなかには、われわれを脅かす二つのものがある。権力と経済的価値決定がそれである。これらは、われわれが望もうが望むまいが、他者の精神的生活に強制を強いる権力の創出にわれわれを巻きこむ。これこそ、われわれが苦しんでいる自由の喪失である。〉

 この謎のようなことばは、いったい何を言わんとしているのだろう。
 現代は自由な社会だといわれる。
 だが、ポランニーのことばは、それを疑わせるものだ。
 自由な社会といっても、人は朝から晩までお金にがんじがらめになっているではないか。お金で好きなものを買うというけれど、ほんとうはどんどんつくられる新規商品を買わされているだけではないか。それに働いているというけれど、それは人に売れるものをつくったり、人にものを売りつけたりしているだけではないのか。それがほんとうに自由な生活なのか。選挙があれば投票するというけれど、ほんとうは選ばされているだけで、それは権力の創出に貢献しているだけではないか。
 社会が複雑化すればするほど、人は充満するモノと情報、イメージのなかで自分を見失っているのではないか。そして、何か大きな不安に突き動かされるように、産業文明という監獄をさらに広げることに邁進しているのではないか。
 現代人は、与えられた自由という檻のなかで、自由を縛る権力と経済価値(商品)をみずからつくりだしている。そして、その権力と経済価値(商品)が他者=自己の精神を空疎なものとしていることに気づいていない。
 平たくいってしまえば、ポランニーのいわんとするのは、そういうことだ。
 ポランニーは、複雑な社会における権力・経済価値・自由についての「意識改革」が必要だという。
 権力や経済価値(商品)はなくならない。だが、人びとは、みずからが権力や商品の創出にかかわっていることを、せめて意識しなければならない。そして、それが自由を奪うのをできるだけ阻むために、自由の領域を制度的に広げていかなければならない、とポランニーは訴える。
「ウィークエンド・ノート」で、ポランニーは、20世紀の技術的に複雑な社会には、隣人と「異なることの自由」を萎縮させる傾向があり、そうした同調主義的傾向が世論という匿名の権力を生みだす源になっていると指摘している。
 ポランニーは、交通手段や電気、ガス、水道など技術に依存した文明が、何かの災害によって、とつぜんストップし、社会がひどく混乱する事態を想定する。そのとき、人間は恐怖におちいるとともに、近代産業文明が脆弱な「機械の絆」によって、かろうじて支えられていることに気づく。
 ポランニーによれば、こうした複雑な技術社会は、3段階にわたって促進されてきた。それは、(1)19世紀における機械の導入、(2)日常生活への暖房、電気、水道、輸送などのシステムの導入、(3)全生命の抹殺を可能にする原爆の拡散や、すべての精神を支配しうるテレビ[いまならパソコンがつけ加わるだろう]の普及、によってである。
 そして技術文明に固有な全体主義的傾向は、個人の自由を圧殺する方向にはたらく。
 こうした全体主義的傾向に対抗するためには、単に個人の精神的自由をかかげるだけでは、とても間に合わない。市民的自由を制度的に拡大することが求められるのだ。
 具体的には、それは言論の自由、良心の自由、集会の自由、結社の自由を意味するが、加えて、個人の「不服従の権利」が認められなければならない。
 さらにポランニーはルソーにならって、ふつうの人びとを中心として、自由と平等の対立を調整する制度改革のあり方をさぐっている。自由と平等は、抽象的にみれば対立している。だが、ふつうの人びとの文化に依存するかぎり、「自由と平等は、それらがいかに相違していても、文化という具体的な媒介のなかで共存しうるし、同時的な開花を求めることができる」と、ポランニーは論じている。
 著者によれば、ポランニーにとって第2次世界大戦後の社会の現実は、自由と平和への大いなる可能性の幕開けではなく、新しい全体主義的傾向の出現であった。戦後の産業社会は、効率第一主義をめざし、自由や生の充足は後回しにされた。
 最晩年のポランニーは、ガルブレイスの『ゆたかな社会』に注目していた。というのも、この本が「産業社会は自由で人間的でありうるのか」というテーマを扱っていたからである。
 技術的進歩と商品の増大は、むしろ自由をさらに縮小していくのではないか、とポランニーは問いかける。これにたいし、ポランニーがめざすのは「人格的生活」であり「生活に意味と統一を回復すること」である。
 『ゆたかな社会』では、人格的自由が私的消費に埋没しようとしていることが指摘されていた。
 ガルブレイスはまた、飢餓と失業の脅威にさらされていた19世紀と、大量生産と大量消費に支えられる20世紀が、どのように異なっているかについても論じていた。
 著者のまとめによれば、ガルブレイスのいう「ゆたかな社会」では、「完全雇用を達成するために高水準の生産が要請され、高水準の生産に照応する需要を引き出すために生産の側が広告・宣伝を通じた依存効果によって欲求と必要を人為的に創出している」のであった。
 しかし、ガルブレイスによれば、「ゆたかな社会」は社会的なアンバランスをもたらしていた。それは私的消費が拡大するかたわら、教育や住宅、医療といった公共的投資が不足する社会だったのである。これはとりわけアメリカ社会にみられる特質だったのかもしれない。だが、ここでもポランニーは、効率優先主義が、「自由への目に見えない妨害になっている」ことを感じている。
 ポランニーが求めるのは、産業社会において自由を制度化することである。
 著者によれば、ポランニーはそのために、「子供たちのための良い教育、労働・研究・創造的活動の機会、余暇を享受するすべての人のための自然・芸術・詩との広い触れ合い、言語・歴史の享受、自己を賤しめないで暮らすことができる保障、市町村や政府や自発的なアソシエーション[団体]によって提供されるサービス」などが制度化されなければならないと論じた。休暇制度の充実、労働者の保護、職場環境の改善、不服従の権利、その他、さまざまな制度も考えられるだろう。
 こうした制度化は、産業社会において自由を保証し、拡大・深化していくには不可欠だった。
 物質的豊かさを達成した社会は、良き生活を目標としてかかげなくてはならない、とポランニーはいう。
 良き生活の核心となるのは、個人の自由である。そのためには産業社会の効率優先主義はむしろ民主的に制限されるべきだというのが、ポランニーの考え方だったと思われる。
 ポランニーは、自由は無償で手に入るのではなく、そのためには費用の増大や産業効率の低下もやむをえないとみていた。
 ポランニーは、産業社会を人間化していくための「自由のプログラム」を具体的に構想していくことを提唱していた。それこそが、現代民主主義の最大のテーマだと考えていたのである。

『人間の経済』へ──若森みどり『カール・ポランニー』を読む(5) [思想・哲学]

 翻訳の仕事がはいり、ほかにも諸事情が重なったため、しばらくブログが更新できませんでした。
 それにしても、相変わらず、だらだらとつづく、じいさんのぱっとしないブログです。

   ※  ※  ※

 1947年にポランニーはコロンビア大学客員教授となり、アメリカに移り住む。だが、かつて共産党員だった妻のイロナは入国を認められず、そのためふたりはカナダのトロント郊外に住み、ポランニーはコロンビア大学のそばに小さなアパートを借りて、長時間かけて大学まで通ったという。
 コロンビア大学では、1947年から1953年まで、一般経済史を教えた。そのころアメリカの大学では新古典派経済学が主流になりつつあったが、ポランニーはマックス・ウェーバーに依拠しながら、経済社会学を教えた。
 非市場経済についての共同研究もはじまった。その成果は、1957年に『初期帝国における交易と市場』という共著にまとまり、ポランニーは経済人類学者としての名声を確立する。
 ポランニーはその後、『人間の経済』というテーマで、一般経済史をまとめようとして、原稿を書きためていた。だが、それは完成にいたらず、がんのため1964年に死去する。
 死後、1966年に『ダホメと奴隷貿易』、1977年に遺稿集『人間の経済』が出版された。日本でも翻訳されている(ただし、前者の邦題は『経済と文明』)。
 若森みどりはどちらかというと経済人類学より経済社会学の方向に沿って、ポランニーの晩年の業績をふり返ろうとしている。
 ここでは学術的な論議はさておいて、なるべく簡単にポランニーの考え方を追いかけたい。
 著者によれば、ウェーバーは、市場経済の制度的要件は、労働者にとって飢餓の脅威が存在することだと考えていたという。
 たしかにそのとおりだが、人間の社会は常に経済主義的に構成されていたわけではない、というのがポランニーの論点である。
 ポランニーは、初期、古代、近代の社会経済構造を比較しながら、それが互酬、再分配、交換の形態において成り立っていたと主張する。
 あらゆる時代において、経済は占有(所有)の移動と、場所の移動をともなうものだ。すなわち、労働によってものがつくられ、ものが運ばれ、そのものが誰かの所有するものとなる。
 互酬においては親族システムのもとで、集団間で財・貨幣・サービスが動く。これはいまも残っている贈答のやりとりを考えれば、多少なりともイメージがわくだろう。
 再分配においては、財・貨幣・サービスは、中心ないし中枢へと向かい、そこからふたたび周辺に分配されていく。
 これにたいし、交換においては、市場においてランダムな経済行為がくり広げられる。
 ポランニーは経済社会の形態を、この3つのパターンに分類した。
 そして、初期社会においては互酬が、古代社会においては再分配が、近代社会においては交換が主流になっていると論じた。
 その背景には、市場だけが人間の経済ではないという考え方がある。
 ポランニーは、人間の経済が、互酬から再分配、交換へと移行すると主張したわけではない。それはあくまでも3つの形態であって、逆転することもありうる。
 ポランニーがとりわけ着目したのが、アリストテレスの経済論である。ギリシアのアテネにおいては「初期の市場交易」が出現した。
 アリストテレスが問題としたのは、ポリスの規律と、市場的な慣習・思考様式とをいかに調和させるかということだった。
 ギリシアといえば、もっぱら奴隷制に焦点があてられがちだが、ポランニーは、民主政のポリスと市場の関係を深く探ろうとしている。
 そこで、遺著『人間の経済』第Ⅲ部で展開された、古代ギリシア経済論をざっと紹介することにしよう。
 最初にポランニーは、紀元前700年ごろに活躍したヘシオドスの著作を取りあげ、かれが歴史を黄金の時代、白金の時代、青銅の時代、英雄の時代、鉄の時代に分類していることを紹介する。そして、いまは鉄の時代だとされる。
 鉄の時代においては、農業技術が進歩し、人間の労働が強化される。鉄製の農具ができると、豊穣な地以外でも、穀物が栽培されるようになり、耕作地の拡大とともに、人はいままで以上に働かなくてはならなくなった。
 孤独な飢えを避け、より多くの豊かさを求めて、人は競争に生き、勤勉を求められるようになる。かつての共同体の相互扶助には、すでに期待できなくなっていた。民衆は、飢餓の脅威を避けるために日々、はたらきつづけねばならず、政治に参加する余裕もなくなっていた。いっぽう、ポリスにおいては富者による富者のための政治がおこなわれていた。
 これにたいし、アリストテレスの時代においては、古代アテネが全盛期を迎えていた。著者によれば、ポランニーは「アテネ人にとって、良き生活とは公共生活に参加することを意味しており、経済は、この目的の手段となるように社会に埋め込まれていた」という。
 ポランニー自身はこう述べている。

〈アテネ人の精神にとっては、矛盾しているようにもみえるが、次の二つのことが必要だった。──一方では、食糧の分配がポリス自身によって行われなければならない、しかも他方では、官僚制が入ってくることは許されない。なぜなら民主主義とは、民衆による民衆の支配を意味したのであって、その代表や官僚による支配を意味するのではなかったからである。代議制も官僚制も、そのアンチテーゼとみなされていた。人民主権の考えに依拠するすべての近代思想の源であるかのルソーは、この原理に頑として執着した。だが、いったいどうしてこの国家による分配は、官僚制を抜きにして行われるのだろうか。アテネでは、食糧市場がその答えを与えるものとなったのである。〉

 ペリクレスの時代、アテネは直接民主政を選択した。つまり、すべての民衆が政治に参加したのである。もちろん、それに反対する貴族や金持ちもいた。だが、それを押し切って、短い期間ではあるが、直接民主政の時代が出現した。
 そこでは、食糧市場、貨幣、穀物交易が、民衆政府のもとに置かれていた。アテネ市民は公共生活への貢献にたいして、ポリスから支払われた貨幣によって、市場で食糧を買った。
 食糧の価格はポリスによって定められた公定価格である。穀物交易もまたポリスの管理下にある。海外交易に従事するのは居留区に住む外国人であり、アテネ市民ではなかった。市民が貨殖に走るのは禁じられていた。
 著者によれば、古代アテネの経済は「民主政を維持するために『交易・貨幣・市場』を巧みに組み合わせ、再分配の統合形態として経済過程を制度化した」ところに、その特徴があるという。
 ポランニーが、こうした古代経済の仕組みを紹介したのは、民主政のもと、社会に埋め込まれた経済がありうることを示したかったからにちがいない。それは現代の経済優先国家=社会にたいするひとつの反証でもあった。

『大転換』──若森みどり『カール・ポランニー』を読む(4) [思想・哲学]

 ポランニーのイギリス時代は1933年から47年にまでおよぶ。年齢でいえば、49歳から63歳までである。キリスト教左派のネットワークがかれの生活を支えていた。天性の教育者であるポランニーは、労働者教育協会やロンドン大学公開講座にかかわりながら、イギリス各地を回るとともに、イギリス経済史を学んだ。
 また労働者協会の講師として、ひんぱんにアメリカを訪れ、ファシズムとヨーロッパ情勢に関する講演をおこなっている。1941年から43年にかけては、ロックフェラー財団の奨学金を受けて、合衆国北東部ヴァーモント州のベニントン大学に滞在し、『大転換』を執筆した。
『大転換』はポランニーの主著である。その初版は1944年にニューヨークで出版された。翌年、ロンドンで出版されたときには、『われらの時代の起源──大転換』とタイトルが変えられた。そして、1957年にふたたび『大転換──われらの時代の起源』として再刊され、2001年にも新装版が出版されている。
 日本でも2009年に新装版の翻訳がでた。ぼくがもっているのは1957年版の翻訳で(サブタイトルは「市場社会の形成と崩壊」となっている)、『大転換』について論じるには、せめてこの本にもとづいて、あれこれと考えてみたいものだ。やはり、原著を読むのと解説書を読むのとでは、そこから受ける印象がことなるだろう。それでも、いまは若森みどりさんの解説書にしたがって語るのが、簡便なのかもしれない。
 以下は『大転換』の解説についての短い感想にとどまる。もし、残された時間があれば、きちんと読みなおしてみたい本である。
『大転換』は、19世紀から20世紀にかけて、経済社会に何が生じたのかを論じたスケールの大きな著作である。
 19世紀といえば、産業革命を連想するだろう。このころから時代が大きく変わりはじめたことはまちがいない。その大転換は、農業中心社会から産業中心社会への変化という言い方であらわされるのかもしれない。それはいくつもの曲折をへながら、現在にまでいたっている。
 ポランニーは、世界を画一的な商品世界へと巻きこんでいく近代文明の起源を19世紀のはじめに求めて、そこで何が起こったかを追求していく。それは「悪魔のひき臼」にも似た文明だった。人はいやおうなく、このひき臼に巻きこまれていく。
 資本主義、あるいは市場社会の発生がいつなのかは、その定義ともからんで、いまでも論争の的になっている。市場社会は古代からあるという人もいれば、資本主義は16世紀に発生するという人もいて、それをいつだと断定するのは、なかなかむずかしい。
 ポランニー自身は19世紀前後にかけて、市場社会が発生したという立場をとっている。マルクスは資本主義は16世紀ないし17世紀にはじまるが、それが産業資本主義として本格化するのは19世紀からだとみていた。だから、ポランニーのいう市場社会は、マルクスのいう産業資本主義とほぼ同義だとみてよいだろう。ぼく自身は、これを商品世界としてとらえている。
 19世紀前半、イギリスでは、新しい工業都市が勃興するにつれて、仕事や職を失った失業者が急速に増大していった。こうした貧民を救うために1795年につくられたのがスピーナムランド法である。
 著者によると、スピーナムランド法は、パンの価格に応じて、家族を養うのに必要な標準生活費と賃金との差額を教区が補填することで、貧民を救済するというものだった。ところが、その対象者があまりにも増大したこと、また貧民を甘やかせるなという批判が噴出したこともあって、スピーナムランド法は1834年に廃止され、新たなより厳しい救貧法がもうけられることになった。
 ベンサムやマルサス、リカードなど、当時の論客は、さまざまな面で意見を異にしていたが、ことスピーナムランド法に関しては、まったく同じ意見をもっていた。ポランニーによれば、かれらはこうした法律が「安易な結婚や出産を助長させ怠惰な人間をより怠惰にする悪法である」と考えていた。そして、貧困問題を解決するには「競争的な労働市場を確立すること」しかないと主張したのである。
 つまり、貧困は怠惰な個人の責任であって、貧困から脱するには、労働力商品としてみずからを競争的な労働市場で売る以外に解決方法はないというわけである。
 労働力の商品化は、商品世界の誕生を促したといえるだろう。人はそれまで人に帰属していたのに、商品に帰属するようになった。すなわち、商品にみずからを合わせるようになったのである。
 いっぽうで、農業生産物も自家用に消費されるのではなく、商品として売りだされることになる。加えて土地も単に豊かさを与えてくれる自然ではなく、商品として評価される対象へと変わっていった。
 こうして、人も土地も、自然から与えられたありのままの存在としてではなく、商品としてランクづけされる存在へと変わっていったのである。ポランニーはそうした商品世界への大転換がはじまった時期を19世紀前後とみている。
 市場メカニズムには「冷徹な強制と排除の論理」が含まれている、と著者はいう。事実、19世紀においては、こうしたメカニズムが強力に作用して、人間の協同世界は商品世界へと組み替えられていった。
 だが、同時にこれと対抗する運動がはじまったことも見逃してはならない。ポランニーはこれを「社会の自己防衛」と名づけている。それは「社会的文化的破局」を避け、「共同体の一般的利害」を守るための動きであった。
 商品世界の発達は、国民国家の発達をも促した。工場法などの社会法がつくられ、失業保険や関税が導入され、通貨を安定させるための中央銀行制度がもうけられ、労働組合が認められるようになったのも、19世紀半ばのことである。
 しかし、ポランニーのいう市場経済と対抗的な防衛との「二重運動」は常に緊張感をはらんでいた。市場経済の絶対性を主張する側は、国家による干渉が市場を麻痺させ、社会を停滞させると非難しつづけたからである。
 これにたいし、ポランニーは、経済的自由主義だけでは、社会の共通の問題に対処することができず、むしろ市場主義を単純に推し進めていけば、それこそ社会の対立と混乱、ひいては崩壊を招くだろうと反論している。
 ポランニーが『大転換』を執筆することができたのは、ロックフェラー奨学金のおかげで、アメリカ東部の田舎町にあるカレッジで、3年間、静かに研究生活を送ることが許されたからである。
 ときあたかも、第2次世界大戦の真っ最中だった。ロンドンに残っていれば、研究どころではなかっただろう。しかし、アメリカの田舎町にいたおかげで、ポランニーはヨーロッパの来し方行く末を冷静に見つめなおすことができたのである。
 ポランニーからみれば、ファシズムとは、協調組合主義にもとづく経済改革を基本として、それをヨーロッパ全体に広げる運動でもあった。
 ファシズムはキリスト教的個人主義と政治的民主主義の根絶をめざしていた。1929年の大恐慌を発端とする経済不況は、ヨーロッパ全体に深刻な打撃を与えた。ナチスは国家と社会が一体となった経済改革を唱え、ヴェルサイユ体制の打破を訴えることで、国民の支持を獲得し、その勢いで無謀な戦争へと突入していった。
 ポランニーは、自由と責任にもとづく社会主義を信条としている。それは社会民主主義の立場といってよいだろう。民主主義を否定するファシズムとは対立していた。しかし、市場絶対主義の経済的自由主義とも立場を異にしている。
 ポランニーは、マルクス主義者とちがって、民主主義と経済的自由主義はほんらい対立するものだという考え方を示している。
 著者によれば、「必然的に周期的に生じる失業や貧窮は、市場経済の自己調整メカニズムによって解決されるべきものであり、貧しい人びとが自己調整的市場経済に介入する権力を持つならば、このシステム自身が破壊されて文明や自由といった価値も消滅してしまうだろう」というのが、ポランニーのとらえた経済的自由主義の核心である。
 したがって、経済的自由主義と政治の民主化とは相容れないものだ、とポランニーはいう。
 しかも、自己調整的市場システムという経済的自由主義は、くり返す恐慌と、それを引き金とする大戦によって、完全に破綻したとポランニーはみていた。
 先進諸国においては、1920年代はいわば経済的自由主義による揺り戻し(自由貿易、競争的労働市場、金本位制)がなされた時代だった。だが、その結果は大恐慌を招き、ファシズムの勃興をもたらしたのである。
 ポランニーは長い目でみれば、市場社会の終焉、すなわちポスト市場社会への転換が、万人のための自由をもたらすと考えていた。
 ポランニーが目標とするのはオーウェン流の社会主義(協同の原理にもとづく社会主義)である。それは、キリスト教的伝統にもとづいたものである。
 その社会主義について、ポランニーはこう述べている。

〈社会主義は、本質的に、自己調整的市場を意識的に民主主義社会に従属させることによって自己調整的市場を克服しようとする、産業文明に内在する傾向のことである。〉

 社会の現実を「覚悟して受け入れること」のなかから、新しい希望と創造的な生活を引きだすことが、ポランニーにとっては「責任を通しての自由」にほかならなかった。そして、現にある社会をより良い社会に変化させる継続的な努力こそが、人類に求められる永遠の課題なのだった。そのためには市場経済の渦を何らかのかたちで調整することのできる民主主義の灯を消してはならないとポランニーは訴えつづけた。それが大戦争の末期に書きつづけられた『大転換』の基本テーマだったといってよいだろう。

ロンドン時代──若森みどり『カール・ポランニー』を読む(3) [思想・哲学]

 1933年にポランニーはロンドンに亡命する。ウィーンではもう自由な言論活動ができなくなっていた。身の危険も感じていただろう。
 しかし、ロンドンに身を寄せてからしばらくは『オーストリア・エコノミスト』に論説を書いていた。いわば島から大陸の状況を見ていたのである。
 そのテーマは、1929年の世界大恐慌からヨーロッパはどのように脱出をはかろうとしているのかということに尽きる。それは同時代的考察へとつながっていった。
 ウィーンを脱出する前に書いた「経済と民主主義」(1932)という論考で、ポランニーは、民主主義と資本主義とがともに機能不全を起こしているところに、現代の危機をとらえている。政治が資本主義に介入し、資本主義が政治に介入する。そのことによって、政治も資本主義もほんらいの姿を見失い、かつての機能をはたせなくなりつつあるというのだ。
 ポランニーは「世界恐慌のメカニズム」(1933)のなかで、経済危機の原因を、第1次世界大戦により各国が膨大な財政赤字を抱えてしまったことに求めた。それがただちに経済危機につながらなかったのは、アメリカの援助があったからだ。しかし、その支えにも限界があって、ついにはアメリカ自体の支柱が崩れて、ウォール街の大暴落を招いたというのである。
 ヨーロッパの政府はこの経済危機に対応できなかった。むしろ下手な対応が経済の弱体化を招く。加えて、資本家側は過度の賃金と社会保障こそが問題だと政府を責め立てたため、政治的民主主義は危機にひんする。こうして左右の対立が激化し、イタリアやドイツ、オーストリアなどではファシズム勢力が政権を握るのである(その後、オーストリアはドイツと合邦の道を歩む)。
 資本主義経済が危機を迎えるなか、ポランニーはあくまでも共産主義やファシズムとは一線を画した機能的社会主義をめざしていた。ここで、ポランニーがいう機能的という言い方には、多元的で民主主義的で、自由をめざすという意味合いが含まれている。何といっても、ここで優先されるのは民主主義的な議会である。
 ポランニーによれば、ファシズムのもとで推進されているのは「協調的組合主義(コーポラティズム)」にほかならなかった。それは機能的社会主義とは正反対の考え方だった。
 著者によれば、ポランニーによるファシズム把握の特徴は、「政治国家の消滅と経済による社会全体の支配」という言い方に集約される。ポランニーにとって、政治国家の消滅というのは、議会制民主主義の消滅と同義だった。それにたいし、国民意識をあおりながら資本主義的経済の立て直しを打ちだすのがファシズムなのである。
 ファシズムのもとでは、「共同体の生活にとって重要な立法、司法、行政のすべての機能が経済秩序に属することになる」と、ポランニーはいう。
 第2次世界大戦の結末をみた、われわれからすれば、ポランニーのこうしたとらえ方はいっぷう変わっている。たとえば、滝村隆一のいうように、ファシズムの本質は、世界での覇権を確立するための戦時体制の常態化とみるのが、もっとも適切なのではないか。
 だが、ポランニーはファシズムの特徴を協調的組合主義ととらえた。これは1930年代にファシズムが熱狂的に支持された理由を実感的に語っているのかもしれない。当時はまだ、誰もが大戦争がはじまるとは思っていなかった。
 民主主義を廃止し、経済本位の独裁体制をつくろうという政治的潮流が、当初のファシズムを引っぱっていた。それは政治と経済の領域に民主主義を広めることで危機を乗り越えようとする機能的社会主義の方向とは正反対の考え方だった。
 ポランニーは、マルクス主義のファシズム分析に疑問をいだいていた。
 マルクス主義では、政治は経済の上部構造ととらえられ、民主主義とはブルジョア民主主義にほかならないと考えられていた。民主主義を否定する点は、ファシズムもマルクス主義も同じである。
 これにたいし、ポランニーは、発達した産業社会では、政治と経済は対立しうると考えた。そして、産業社会が危機にひんするときは、その対応策として、政治が完全に経済を吸収するか、逆に経済が政治を崩壊させるかの、どちらかの常態が現出しやすい。前者が共産主義であり、後者がファシズムである。
 これにたいし、機能的民主主義においては、政治のヘゲモニーを労働者階級が握ることで、資本主義的な経済社会をコントロールするのである。
 このようにみるなら、ポランニーの考え方は、いわゆる社会民主主義に近いということができる。
 民主主義を廃止して、資本主義を救済するというのが、ファシズムの本質だ、とポランニーはいう。人びとは、この救済のうたい文句にひきつけられていった。
 こうして、人びとは自由の領域を独裁者に売り渡した。ファシズムが導入するのは、非自由主義的な資本主義、言い換えれば協調組合主義的資本主義である。協調組合主義とは、資本家が指導する計画経済、労使協調にもとづく国家経済の推進にほかならない。
ファシズムには、社会主義革命を阻止する政治革命としての性格がある、とポランニーは考えていた。ファシズムはまた個人に無限の価値を求めるキリスト教の個人主義を破壊しようとしていた。全体としての社会的有機体への個の従属が、ファシズムにめざす世界観なのだ。そうなれば、自由の領域は完全に消滅してしまうだろう、とポランニーはとらえていた。
 ファシズムは協調組合を単位として、個人を全体に従属させる経済国家をつくりあげようとしていた。その先に戦争マシーンが形成されることを、ポランニーは予感していただろう。
 1937年の小冊子『今日のヨーロッパ』で、ポランニーはファシズムと戦うことが喫緊の課題だと訴えている。
 マルクスの『経済学・哲学草稿』(経哲草稿)が発見されたのは、1930年代のことである。ポランニーもこの草稿に大きな影響を受けた。ロンドン時代のポランニーは、この経哲草稿とキリスト教への思索を深めながら、社会主義のあり方を探求していった、と著者は述べている。
 キリスト教の熱心な信仰者でありながら、マルクスを高く評価するところが、ポランニーのおもしろさである。
 ポランニーはキリスト教が逆説的に示す個の思想に信をおく。そして、個人間の肯定的な関係にもとづいて形成される共同体こそが、キリスト教の求める理想なのだと確信した。だが、問題は、キリスト教に社会理論がないことだ。そのために、共同体の理念に到達する道が、空疎なものになっていることはいなめない。
 いっぽう、マルクス主義は、資本主義社会が人間のあるべき関係を疎外しているとして、共産主義社会をめざそうとする。しかし、ポランニーによれば、マルクス主義は、共産主義社会を真の共同体とみなすことによって、大きな錯誤におちいるという。
 ポランニーにいわせれば、理念としての共同体と現実の社会は区別されなければならない。共同体は永遠の規範であって、けっして実現されるものではないのだ。人間の社会においては、権力関係や経済関係はけっして消え去ることがない。人が自由を求めるのは、人間の社会がけっして完成することがなく、それが永遠の規範である共同体からはずれているからでもある。マルクス主義のいうように、共産主義社会を理想の共同体と規定してしまえば、そこにいたる道筋は、きわめて抑圧的なものとなってしまうだろう。
 こうして、ポランニーはいかなる社会も完全なものとはなりえないという見方に達した。それでも、それが個と個とが対等につながる共同体に向けて、日々歩むべきものだとすれば、それを支える力は、個々にゆだねられた自由と責任の自覚にほかならない。
 ここにみられるのは、現実主義的な転換である。それは諦念とは異なる。ポランニーは歴史のなかに共同体へと向かう契機をさぐりなおそうとしていた。

ポランニーとウィーン──若森みどり『カール・ポランニー』を読む(2) [思想・哲学]

 第1次世界大戦後、ウィーンでは社会民主労働党が10年以上にわたって政権を保持し、労働者の生活改善や福祉政策、教育改革などに取り組んでいた。「赤いウィーン」と呼ばれたゆえんである。
 このころウィーンに亡命していたポランニーの関心は、中央集権的ではない社会主義の可能性を探ることであった。
『ビヒモス』と名づけた長大な草稿を書きつづけるかたわら、ポランニーは新聞や雑誌にさまざまな論説を寄稿するようになる。
 初期ポランニーの特徴は、自由についての独特の考え方にある。
 人は自由な意志にもとづいて行動しなければならない。しかし、その行動が人や社会にもたらす影響については責任をもたなければならないというのだ。ポランニーの場合、自由は社会への自覚および責任と裏表一体の関係になっていたといってよいだろう。
 こうした考え方がでてきたのは、ポランニーがハンガリーにおけるベラ・クン共産党独裁政権のもとでの弾圧を経験したからにちがいない。ほんらい解放をめざすべき共産党政権が、なぜ独裁と弾圧に転じてしまうのかという疑問が、渦巻いていた。
 1920年から22年にかけて書き綴られた草稿『ビヒモス』(その全容はまだ公刊されていない)において、ポランニーは一見実証主義的な社会科学を絶対視することに疑問を呈している。
『ビヒモス』のなかで、ポランニーは、人間は自由に行動しているようにみえても、実際には国家や社会、取引や市場、学校や労働組合、世論、風習、近所、知り合いの意志に従っていることが多く、私の自由の領域は意外と少ないものだと論じている。
 すると、自由とはいったい何だろう。

〈私は堅固な客観性として存在する疎遠な意志の力が直面する、ささやかな疑問符となるだろう。〉

 私が提出するのは、堅固な慣性(イナーシア)にたいする「ささやかな疑問符」でしかない。しかし、たとえそうであっても、自由は疑問符から発するのだ、とポランニーはいう。
 それは科学的法則とされるものにたいしても同じである。
 決定論的な見方は「人間の自由の倫理的な意味を排除する」。
 これは科学的社会主義なるものによって独裁権力を正当化しようとするマルクス主義者の傲慢にたいする痛烈な批判ともなりうる。
 ポランニーは歴史法則や経済法則をけっして自明のものとして、受け入れない。あくまでも、自由な意志を尊重するのだ。
 しかし、意志の自由を確保するには、不断の努力を必要とする。それは、いつも全体性によって押し流されてしまいがちになるからである。
 自由には条件がある。人が自由を求めるのは、理想を追いかけるからだ。だが自由が価値をもつのは、責任をともなう場合においてのみである。
「われわれは、尽きることなく自分たちの内的願望に責任を付与することによって、自分たちの世界を創出していかねばならない」
 ポランニーにとって、社会主義とは倫理にほかならなかった。資本家が労働者を「自由に」搾取するのはまちがっている。かといって、共産主義者が反対派を「自由に」暴力で抹殺するのもまちがっている。社会主義の理想は、自由と責任の論理によって裏づけられていなければならなかった。
 ポランニーの社会主義は、ソ連型の中央集権制とはまるでちがっていた。

 ウィーン時代にポランニーがかかわった論争がある。
 当時、オーストリアの経済学者ミーゼスは、社会主義のもとでは、合理的な経済計算ができないと主張した。簡単にいえば、社会主義は経済的に成り立たないということでもある。
 これにたいして、ポランニーは反論し、「社会主義経済計算は集権的社会主義経済のもとではできないが、機能的民主主義に基づく社会主義システムの下においては可能である」と論じた。
 ここでポランニーがもちだしている社会主義のモデルは分権的である。
 それは生産者評議会(アソシエーション)と消費者評議会、それにコミューン(民主的政府・自治体)から成り立っている。
 諸個人の生活は、生産と消費、くらしによって成り立つが、そうした分野は、生産者評議会と消費者評議会、コミューンによって社会的に保証される。
 生産者評議会は生産に責任をもち、消費者評議会は流通に責任をもつ。コミューンの役割は、社会全体の調整をおこない、公共サービスを向上させることである。
 さらに、くらしを支える賃金や物価の基本は、コミューンを含む3者の交渉と協議によって決定されることになっていた。
 社会主義経済がめざすものは最大生産性と社会的公正である。効率のよい生産と、生産物の公正な分配、それに生産調整がなされねばならない。
 ポランニーは価格システムにもとづく社会主義を構想していたともいえるだろう。その場合、社会主義企業がどのようにものになるのか、その具体的なイメージははっきりと描かれているわけではなかった。しかし、かれは社会主義のもとでこそ、より適切な賃金と、社会的費用の公正で透明な配分が実現できると考えていた。

 1927年にポランニーは「自由論」を執筆する。
 ポランニーにとっては、自由こそが社会主義の眼目だったのだ。かれは資本主義の経済論理に縛られない自由の領域をいかに広げるかに最大の関心をもっていた。
 こう述べている。

〈社会主義者にとって「自由に行為する」というのは、われわれが人間の相互的関連──その外部にいかなる社会的現実も存在しない──に関与することに対して責任があるという事実、まさにこのことに対して責任を担わねばならないという事実を意識して行為する、ということである。〉

 ポランニーはかならずしも社会主義革命を優先しているわけではない。むしろ、自由の領域を拡大することを目指して行動しつづけることが、社会主義者の役割だと主張しているのだ。こうした考え方はジョージ・オーウェルとも共通する。
 ポランニーにとって、自由とは責任や義務からの自由ではない。カネさえあれば人間は自由に何でもできるわけではない。むしろ、なにごともカネで解決することによって、その背後にある社会の現実が見えなくなってしまうのだ。
 これにたいし、ポランニーの倫理的社会主義は、社会的自由の拡大をめざす。それは権力を取得することによってなされるというより、むしろ「社会的存在の避けられない負債残高を自由にわが身に引き受け」ることによって実現されるのである。
 ポランニーは、「社会主義の生活形式」にとっては、機能的民主主義が欠かせないと考えていた。というのも機能的民主主義があってこそ、社会生活の現実が、力によって隠されることなく、透明化されるからである。
 見通しがないところには自由もない。社会的現実があらわにされることで、現実的改革ははじめて可能になるのだ。これに反して、全体主義は社会的現実を隠すことで、人びとを虚無の幻想へと巻きこんでいくだろう。

 全体主義の暗雲がウィーンにも近づいている。
 1929年には世界大恐慌が発生。それ以降、政治の流れは大きく変わっていく。オーストリアでは、保守的な傾向が強くなり、反ユダヤ主義が頭をもたげる。かつての帝国への郷愁もよみがえりつつあった。
 ウィーンを握っていた社会民主労働党に対する反発が強まっていく。オーストリアの中央政府は、もともとキリスト教社会党が政権を掌握していた。だが、社会民主党とはうまく協調をはかっていた。ところが、右翼勢力が台頭してくると、キリスト教社会党も権威主義的な色彩を強めていくことになる。
 1931年には、大銀行クレディット・アンシュタルトが倒産し、失業が急増、街頭では左右勢力の衝突が激しくなった。
 国民社会主義を名乗る右翼勢力は、まもなくナチと呼ばれるようになる。突撃隊(SA)運動が4万人の若者たちを引きつけ、オーストリアの政治をのみこんでいく。
 1932年には、キリスト教社会党のエンゲルベルト・ドルフースがオーストリアの首相になった。ドルフースはイタリアのムソリーニに心酔していたものの、ヒトラーの提案したドイツとの合併(アンシュルス)構想は拒否した。あくまでもオーストリア一国のファシズム体制をつくろうとしていたのだ。
 1933年3月、ドルフースは議会を解散し、大衆集会を制限し、新聞に検閲を課した。これにたいし、社会民主党は反発し、戦闘準備を整える。いっぽうナチはテロ行為に走った。
 5月、ドルフースは祖国戦線を創設し、政党を解散、護国団による人民国家を樹立すると発表する。社会民主労働党にたいする弾圧がはじまり、1934年2月には、オーストリア社会主義者の砦、ウィーン市庁舎に、ついに護国団の旗がひるがえる。労働組合は非合法化された。
 ドルフースが社会民主労働党を完全に追いだしたのをみはからって、こんどはナチがドルフースに攻撃をしかける。1934年7月、ナチはドルフースを暗殺した。
 この事件によって、オーストリアではかえってナチにたいする反発が強まった。とはいえ、オーストリアの政権は弱体であり、けっきょく1938年3月にオーストリアはドイツに合併されることになるのである。
 こうした激動のなか、ポランニーはどうしていたのだろう。
 1924年からポランニーは『オーストリア・エコノミスト』の副編集長となり、国際問題をテーマとして、さまざまな論説を執筆していた。その基本的な方向は、民主主義にもとづく自由で平和な国際関係の擁護であり、自由主義的資本主義に取って代わる経済体制の模索であったという。
 しかし、ファシズム勢力が台頭するなかで、1933年にポランニーはイギリスへの移住を余儀なくされるのだ。それはあたかもドルフースがオーストリアの全権を掌握し、社会主義勢力の排除をはかろうとしていた時期にあたる。
 妻のイロナは、その後もウィーンで非合法活動をつづけていた。だが、そのイロナもついに1936年にイギリスに渡った。
 ポランニーは1938年まで、「海外編集長」として、『オーストリア・エコノミスト』に寄稿しつづけた。だが、この雑誌もついに廃刊を命じられる。
 第2次世界大戦がはじまろうとしていた。

若森みどり『カール・ポランニー』を読む(1) [思想・哲学]

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 ポランニーの名前を知ったのは1980年ごろ、たぶん栗本慎一郎のカッパブックス・シリーズを読んだときが最初である。経済人類学という新しいジャンルがあると知り、少しばかり関心をいだいたものだ。その後、主著の『大転換』も散読したが、よく理解できなかった。
 最近になって、ポランニーの全体像を紹介した若森みどりの本書を読んでみた。難解で、さっぱり頭にはいらない。むずかしい本を読みはじめると、すぐに眠くなるのは、昔からの癖だ。最近はとみにその傾向が激しい。
 それでも、せめてポランニーがどういう人だったかだけでも、つかんでおきたい。以下はメモに近い、勝手な感想である。
 カール・ポランニー(1886〜1964)は、ウィーンに生まれ、幼少期と青年期をブダペストですごした。当時のブダペストはオーストリア=ハンガリー帝国のもうひとつの首都で、華やかな文化が花開いていた。
 父はユダヤ系ハンガリー人で、実業家として名をなしていた。一家は早くからカルヴァン派のプロテスタントに改宗している。
 2女3男に恵まれた裕福な家庭だった。だが、父の会社が1899年に倒産し、それから一家の苦労がはじまった。
 ポランニーはアルバイトをしながら、1904年にブダペスト大学法律・政治学部に入学する。その1年後に、父は亡くなる。
 最終学年の1908年、法学部教授のピクレルが排撃される事件がおこった。ピクレルはスペンサー哲学を奉じていたというから、社会進化論を唱えていたのだろう。それをキリスト教守旧派が攻撃したのだ。
 そのときポランニーは教授を擁護して、「ガリレイ・サークル」を創設した。サークル名が言い得て妙である。いくら弾圧されても、真実はおのずからあらわれる。
 しかし、教授を擁護した活動によって、ポランニーは放校処分を受ける。そのため、トランシルヴァニアにあるコロスヴァール大学(現ルーマニアのクルジュナポカ)で、法学博士号を取得せざるをえなかった。1909年のことだ。
 ガリレイ・サークルは、その後、成長し、約2000人のメンバーを抱えるようになった。このサークルは、民衆のためにさまざまなセミナーを開き、著名な思想家をドイツから招いたりもした。第1次世界大戦末期の1917年に禁止されるまで、「数千の成人教育クラスを組織し、数万人の労働者がそれに参加した」というから、たいしたものである。
 当時、ポランニーに影響を与えた人物として、ジェルジ・ルカーチ(1885〜1971)がいる。哲学者でもあり、文芸批評家でもある。ぼくも若いころ、かれの『歴史と階級意識』を読んだものだ。
 著者によると、ポランニーは、急進的なサンディカリスト(労働組合主義者)のサボー・エルヴィン(1877〜1918)や、穏健なフェビアン社会主義者のヤーシ・オスカール(1875〜1957)とも親しくしていた。
 大学を卒業してから、ポランニーは1914年まで、ガリレイ・サークルの活動に全力を注いだ。ヤーシ・オスカールが急進市民党をつくったときには、その書記長になっている。ハンガリー(といっても現在の倍以上の大きな国である)の民主化が目標だった。
 1914年に第1次世界大戦が勃発する。ポランニーは翌1915年に、オーストリア=ハンガリー帝国の騎兵将校として従軍した。
 父の死後、10年にわたって、実は進行性の鬱病に苦しんでいた。従軍中は、くり返しシェイクスピアの『ハムレット』を読んだ。そして、死の淵に立つなかで、一種のさとりに達する。
 人は時代の過ちや社会の苦しみと分かちがたく結びつけられている。だとすれば、その根源をみつめることが、自分の使命ではないのか、と。
 東部戦線で負傷したポランニーは1917年に除隊となる。その後、傷が癒えぬまま、1919年6月にウィーンに亡命し、手術を受けた。
 1920年秋までウィーン郊外の療養所で静養する。そのころ、ハンガリーの女性革命家、イロナ・ドゥチンスカと出会い、1923年に結婚することになる。
 ポランニーがウィーンに亡命したのは、ハンガリー革命のさなかである。
 第1次世界大戦の敗北により、ハプスブルク帝国は崩壊し、ハンガリー民主共和国が成立した。かつての領土は分割され、見る影もなくなった。
 そこにベラ・クン(姓が先にくるハンガリー語でいえばクン・ベラ)が率いる共産党が社会民主主義者の協力を得て、革命をおこし、ハンガリーは1919年3月から8月までソヴィエト共和国となるのである。
 1919年6月、ハンガリー共産軍はかつての領土だったスロヴァキアに侵入する。同じ月、新憲法が制定され、急進的な改革が布告された。
 歴史家のノーマン・デイヴィスによれば、それは「すべての産業の国営化、教会の資産没収に加え、司祭や農民はひとしく強制労働に駆り出される」というすさまじい改革だった。
 改革に反対してストに参加した者には弾丸が浴びせられ、武装蜂起した農民は集団処刑されたという。
 ポランニーがハンガリーを脱出したのは、このころである。共産党による弾圧に身の危険を感じていたのかもしれない。妻となるイロナもこのころ国を出たとすれば、共産党員であった彼女もベラ・クンのやり方に批判的だったのだろう。実際1922年に、彼女は共産党を除名されている。だが、そのあたりの事実関係は微妙である。
 しかし、ハンガリーの共産政権は長くつづかなかった。ミクロシュ・ホルティの率る旧将校グループが、ルーマニアに支援を求め、8月にルーマニア軍がブダペストにはいり、ベラ・クンの共産政権はあっけなく崩壊する。
 そのあと、反動政府のもとで、容赦ない白色テロがはじまった。共産主義者とユダヤ人は無差別に報復された。
 そして1920年には提督のミクロシュ・ホルティが摂政となり、ハンガリーでは、その後、24年にわたる独裁政権が築かれることになる。
 ポランニーはハンガリーに戻れなかったわけである。
 そのころ亡命先のウィーンは「赤いウィーン」と呼ばれ、オーストリア社会民主党が1918年から34年まで、政権を握っていた。
 そのウィーンで、ポランニーは1919年から21年にかけ、「ビヒモス」と名づけた、膨大な草稿を書き綴る。
『旧約聖書』に登場するビヒモスとは、世界の終末にあらわれる怪物のことである。ポランニーは自分を動かす歴史の巨大な怪物のようなものを背後に感じていたのだろうか。
 長くなったので、その内容については、あらためて紹介する。
 とはいえ、ポランニーの人間像を最初につかんでおくのが、便利かもしれない。
 著者はこう書いている。

〈彼は、現代世界への関心をリアルタイムで考察するジャーナリストであると同時に、古代社会の経済や政治を読み解く歴史家でもあった。また、人間と社会と歴史についての冷徹な分析を行う社会科学者であると同時に、人間の自由や共同体の可能性を追究するモラリストでもあった。ポランニーは社会主義者であったが、特定の政治的党派性とも社会運動とも係わりを持たず、マルクス主義についての批判も行っていた。また彼は、敬虔なキリスト教徒ではあったが特定の教会に属することはなく、社会変革に取り組むことをキリスト教徒の使命と心得ていた。〉

 なかなか複雑そうな人である。
 そして、かれのこうした人間像がウィーンではぐくまれたのだとすれば、われわれは次の舞台ウィーンに目を移す必要がある。

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