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寅さんの旅(3)──『「男はつらいよ」を旅する』をめぐって(5) [われらの時代]

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 翻訳の仕事がはいったので、少し間があいてしまった。
 寅さんの旅のつづきである。
 著者の川本三郎は、寅さんを追って、九州に出かけている。
 佐賀市の西にある小城(おぎ)。唐津線が通る。昔は石炭を唐津港まで運んでいた。第42作(89年)に出てくる。静かないい町だという。

〈駅前にまっすぐ北にのびる商店街がある。高い建物はない。空が広い。酒蔵があり、レンガの煙突が青空に映える。〉

 ここに後藤久美子演じる泉が住んでいて、寅さんの甥っ子、満男(吉岡秀隆)が彼女を追いかけてくる。
 羊羹屋が多いという。羊羹づくりが盛んなのは、茶の文化が発達していたこと、それにかつて軍が羊羹を保存食として買い入れていたためだという。
 軍と羊羹という組み合わせがおもしろい。
 大日本帝国時代、佐世保には海軍、久留米には陸軍の拠点があり、小城はその中間に位置していた。
 川本は映画のロケ地をあちこち歩いている。
 呼子は第14作(74年)、平戸は第20作(77年)に登場する。
 著者は江戸時代のはじめに栄えた平戸を訪れている。和洋の文化が混在した町だ。寅さんはこの町をすっかり気に入ってしまう。しかし、例によって美女にふられる。
 佐世保で1泊した著者はフェリーで五島列島に向かう。その中通島(なかどおりじま)は、第35作(85年)の舞台。
 寅さんはほんとうによく旅をしている。このころ、ぼくはずっと会社と家を往復する仕事がつづいていた。
 中通島では新しいホテルができているが、町並みや漁港の様子は変わっていないという。
 五島列島では、明治になって隠れキリシタンが自分たちの手でいくつもカトリック教会を建てた。
 そのひとつ福江島も第6作(71年)のロケ地になった。映画『悪人』にでてくる灯台はこの島の西端にある。
 第6作に写る玉之浦の中村旅館はいまも残るが、もう営業はしていない。かつては捕鯨船基地にもなったという玉之浦の漁港も、いまはひっそりしている。
 寅さんはテキヤらしく全国どこにでも出かけるが、どちらかというと辺鄙な場所が好きだ。「寅は旅の名人、知られていなかった日本の美しい町の発見者と言える」と川本も書いている。
 若狭湾の伊根もそのひとつ。第29作(82年)の舞台だ。
 ブリの好漁場で、湾に面した舟屋群で知られる。映画のころと、町並みはほとんど変わっていないという。
 川本はそのあと山陰を旅する。
 列車で豊岡に出て、城崎温泉、浜坂、鳥取、米子、温泉津(ゆのつ)のルートをたどる。
 温泉津は第13作(74年)の舞台。ここで、寅さんはまたも旅館の番頭をする。
 石見銀山の銀の積み出し港として栄えた。千年以上前に発見されたという温泉があり、20軒ほどの湯宿が並んでいる。やきものの町としても知られている。
 昔の商店街は、いまではシャッター通りとなっている。映画の撮影当時とくらべて、過疎化が進んだようだ。
 第44作(91年)は倉吉が舞台。映画の撮影された小学校は廃校になった。駅前の商店街も閉店、空き家が目立つ。しかし、いっぽうで、町おこし、村おこしも盛んで、一概に過疎ということばをかぶせるのは問題だという。「実際には、故郷に留まって頑張っている若者もいる」
 第13作には津和野もでてくる。山陰の小京都として、若い女性のあいだで人気がある。町は映画の撮影された40年前とさほど変わっていない。
 寅さんの妹、さくらが第7作(71年)で訪れるのが五能線の驫木(とどろき)駅。青森県にある秘境の駅だという。列車は1日に5本しか止まらない。
 その駅から少し山のほうにはいった田野沢の小学校は、映画に登場するが、いまは廃校になっている。集落では人間が減って、猿が増えている。
 さくらは寅さんを探すため、バスで弘前に向かう。
 その途中、千畳敷と呼ばれる寂しい海岸線を通りながら、さくらは想像する。

〈一瞬、さくらは寒風にさらされた寅が、寂れた海辺の小屋に身を寄せる姿を想像する。あの陽気な兄が、海からの風に吹き飛ばされそうになって、賽の河原のような海辺を歩く。ボロ屋の板壁にもたれかかる。〉

 そう思った矢先に、次に停車した嶽(だけ)温泉から、何とおにいちゃんの寅さんが乗りこんでくる。
「俺、死んだかと思ったか」「冗談じゃないわよ」と、兄妹のにぎやかなやりとりがはじまり、観客はほっとする。
 それにしても、テキヤ稼業は、野垂れ死にと紙一重だ。
 そんな風来坊の孤独をにじませた一篇が、第16作(75年)で、ここでは山形県の寒河江(さがえ)がでてくる。人口は4万。サクランボの産地として知られる。ニット生産でも有名だ。
 寅さんは昔世話になった女性の墓参りをするため、寒河江の慈恩寺を訪れている。
 寒河江は「思っていた以上にきれいな町だった。老後、住みたいと思ったほど」と、川本は書いている。地方にはいい町が残っている。日本のよさは、もう地方にしかないのではないか。
 時に寅さんはテキヤをやめて、カタギの仕事をしようとすることもある。実際にはじめると、なかなかつづかないのだが。
 そんな場所のひとつが江戸川下流の町、浦安だ。1970年の第5作にでてくる。
 そのときの仕事は豆腐屋だ。例によって美人の娘がいる。しかし、もののみごとにふられ、浦安を去っていく。
 いまではディズニーランドで知られる町だが、大規模な空襲にあっていないので、昔ながらの住宅が残っているところもあるという。ぼくのところからも近いので、いちど散歩してみよう。
 近いといえば、茨城県だ。寅さんは茨城県によく出没している。
 たとえば、第39作(87年)に登場するのが、水海道(みつかいどう)の木橋。
 常総線の中妻駅がアヴァン・タイトル(タイトル前の寸劇シーン)に写っている。
 第42作(89年)では、水戸と郡山を結ぶ水郡線に乗っている。途中降りるのが袋田駅。ここには袋田の滝がある。ぼくもいったことがある。
 第34作(84年)には牛久沼がでてくる。大手証券会社課長(米倉斉加年)は、ここから東京に通っている。マイホームをもつのも楽ではない。
 そして、とつぜん蒸発する。奥さん(大原麗子)と寅さんは男の行方を追って、鹿児島に出かける。
 筑波山の「がまの油売り」がでてくるのも、この作品だ。
 この作品は、めずらしく名画座でぼくも見たのだが、「がまの油売り」のシーンはまったく覚えていない。もう一度見てみよう。
 寅さん映画には会社勤めがいやになるサラリーマンが、しばしば登場する。第33作(84年)の佐藤B作、第41作(89年)の柄本明もそう。ぼくも会社が嫌いだった。
 次は九州の温泉めぐりだ。
 第28作(81年)で、寅さんは佐賀県鳥栖(とす)駅前の大衆食堂で、トンカツをさかなにビールを飲んでいる。駅前再開発で、いまこの大衆食堂はない。ただ、1911年に建てられた駅舎は、そのまま残っているという。
 次に寅さんがあらわれるのは、久留米と大分を結ぶ久大本線の夜明(よあけ)駅。名前がいい。
 田主丸駅の駅舎はカッパの形をしているという。ちょっと想像がつかない。
 寅さんは、その中央商店街を歩く。いまはさびれている。
 しかし、法林寺や月読(つくよみ)神社はそのまま残っている。
 ぶどうの巨峰の町として知られる。三連水車が観光名所。
 寅は久留米の水天宮で商売をする。
 そこで、仲間のテキヤが病気だと知り、秋月にいく。
 秋月は隠れ里のような町だ。坂の上には秋月城があったが、いまは中学校になっている。

〈瓦屋根が並ぶ。高い建物はない。城下町だが城はなく商家が目立つ。和紙の店、和菓子屋、製麺所が通りに落着きを与えている。〉

 第37作(86年)には、福岡県の田川伊田駅がでてくる。この作品は筑豊が舞台。飯塚の芝居小屋、嘉穂劇場もでてくる。
 久大本線の大きな町は大分県の日田(ひた)。第43作(90年)の舞台だ。
 小鹿田焼(おんたやき)の里、温泉街、豆田町のほか、周辺の天ヶ瀬温泉も登場する。
 近くには、湯平(ゆのひら)温泉がある。ここは第30作(82年)の舞台。沢田研二と田中裕子がでてくる。寅さんは映画のなかで、ふたりの縁結びをする。
 湯平は人気の湯布院などとくらべると、ひなびた温泉だ。ネットのおかげで、最近はアジアからの観光客も増えてきたらしいが、ホテルの数はだいぶ減った。
 もうひとつ、ひなびた温泉が田の原(たのはる)温泉。久重山の西麓にある秘湯。人気の黒川温泉の隣にある。ここは熊本県だ。寅さんはここに長逗留する。人が押し寄せない、ひなびた温泉が好きなのだ。
 第21作(78年)の舞台。寅さんの泊まった太朗舘はいまも残っている。静かな温泉で、歓楽施設は何もない。露天風呂がすばらしいという。
 そして、最後に寅さんが行き着くのが、奄美の加計呂麻島(かけろまじま)である。
 しかし、そこに行く前に、著者の川本は、第19作(77年)の舞台、愛媛県の大洲(おおず)と、第45作(92年)の舞台、宮崎県の油津(あぶらつ)に立ち寄っている。
 第19作は予讃線の下灘(しもなだ)駅からはじまる。海を目の前にしたちいさな駅だ。「青春18切符」のポスターにもなっているらしい。
 伊予大洲は城下町。伊予の小京都とうたわれる。
 嵐寛寿郎が殿様役ででてくる。
 第45作の油津には、宮崎から日南線で向かう。飫肥(おび)杉の積み出し港、漁港として栄えた。山で切り出された杉は、堀川運河で、港まで運ばれた。いまも赤レンガの建物や銅板張りの商家が残る。ここも小京都の雰囲気。
 理容師役の風吹ジュンがすばらしい、と川本は絶賛する。
「地方の衰退が言われて久しいが、こういう町を歩くと、地方の町のストックの豊かさを感じさせる」と書いている。
 そして、ついに最終作の地、加計呂麻島に。
 奄美大島の古仁屋(こにや)からフェリーで30分。島の人口は1300人ほど。
 映画のなかで、寅さんはリリー(浅丘ルリ子)といっしょに、ちいさな家で暮らしている。
 映画ででてくるデイゴの木のある民家は、いまはだれも住まない廃屋になっているという。
 こうして、寅さんの旅は終わった。
 川本は「あとがき」に、こう書いている。

〈[「男はつらいよ」は]寅の放浪の旅であり、しかも、旅先は、瓦屋根の家や田圃の残る懐しい町が多い。はじめから古い町を舞台にしているから何年たっても古くならない。繰返しに耐えられる。……根底に、失われた風景に対する懐かしさ、ノスタルジーがあるから、時間の風化に耐えられる。〉

 なかなか旅ができないぼくにとっては、ありがたい本だった。
 いままでほとんど見ていない寅さん映画をできるだけ見たいと思った。

寅さんの旅(2)──『「男はつらいよ」を旅する』をめぐって(4) [われらの時代]

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 著者の川本三郎は、寅さんの旅をつづけている。
 第9作「柴又慕情」(72年)には吉永小百合が登場する。吉永はOL役で、友達ふたりと金沢旅行している。そこで寅さんと遭遇する。
 映画の最初、寅さんは、小松から分かれる尾小屋(おごや)鉄道の駅のひとつ金平駅で目が覚め、あわてて汽車に乗る。その駅舎も線路もいまは残っていない。
 現在の金平集落は戸数50ほどで、寺と神社、公民館、九谷焼の工房があるだけ。鉄道がなくなり、すっかりさびしくなっても、あたりの様子は、映画のなかにしっかり「動態保存」されている、と川本はいう。
 京福電鉄の永平寺線も廃線になってしまった。しかし、映画にはいまはない京善(きょうぜん)駅が残されている。京善には古民家群が残っている。
「『男はつらいよ』が何度見ても面白い理由のひとつはそこに、失われた鉄道風景が残っていることにある」と川本はいう。
 寅さんはマイカーに乗ったりしない。汽車とバスで日本じゅうを旅するのだ。
 第9作では、寅さんが旅行に来たOLたちと、永平寺や東尋坊で遊んでいる。そのたたずまいは昔と同じ。
 第36作「柴又より愛をこめて」(85年)には只見線の会津高田駅がでてくる。会津若松から4つ目の駅だ。
 隣の根岸駅には「中田の観音様」と親しまれる弘安寺がある。「寅は、テキヤであると同時に、寺社を巡る巡礼者でもある」。門前の名物は「ボータラ」(棒ダラ)。
 会津柳津(やないづ)は温泉町。高台に圓藏寺がある。寅さんは柳津の小川屋で下駄を買い求めて、さくらと博に送ろうとするが、カネがないので、あきらめる。残念。
 著者はいう。

〈主観(自分を立派な渡世人と思い込んでいる)と客観(端からは間抜けにしか見えない)の大きな落差は、寅の特色であり、それが笑いを生んでいく。〉

 奥会津には、まだ昔の風情が残っている。
 寺社と温泉は滅びることのない最強の組み合わせだ。
 映画の第7作(71年)では、只見線の越後広瀬駅から、集団就職の少年少女が東京に向かう。そのころまで、まだ集団就職が残っていたのだ。
 この駅を通る列車は、いま1日4本しかない。
 著者はそのあと新潟から佐渡に向かう。寅さんは31作(83年)で、佐渡・宿根木(しゅくねぎ)の民宿に泊まっている。失踪した人気歌手と「佐渡の休日」を楽しんだあと、小木(おぎ)港で別れるという設定だ。
 出雲崎は日本海に面した北国街道の宿場町で、良寛の出身地。寅さんはここでも商売をする。「寅が一瞬、良寛のようにみえる」。このあたりも昔と変わらない。
 木曽路に向かう。
 寅さんの映画では、ちいさな駅がよくでてくるという。中央本線の落合川駅もそのひとつ。馬籠宿が近い。
 奈良井宿のある奈良井駅、奈良井と塩尻のあいだにある日出塩(ひでしお)駅も、そうした駅のひとつだ。
 日本ではいまも山里に大きな寺が残っている。昔の街道がすたれ、経済の中心が別の場所に移っても、寺は残るのだ。
 映画は大桑村(長野県南西部)の定勝寺をスクリーンに収めている。
 経済成長とはいったい何なのだろうかと思ってしまう。商品世界では、商品とカネの集まる場所に人が移っていく。だが、それによって失われるものも多い。カネの動きに合わせて、人が移り移った末、あとにはいったい何が残るのだろう。そんなことをふと思ってしまう。
 寅さん映画は回を重ねるごとにロードムービーになる、と著者は指摘する。
 上田の先には別所温泉がある。ここは第18作(76年)の舞台。寅さんはここでも無銭飲食で、警察のやっかいになる。
 第40作(88年)は上田と小諸が舞台。老人問題や地方の過疎化も取りあげられている。このころから事態は深刻になっていた。限界集落が増えている。
 かつてテキヤ、渡世人(あるいは行商や旅芸人)は、村の人にとっては、いろいろと旅の話を聞かせてくれる「まれびと」だった。だが、そうした旅人はいつ行き倒れになるかもしれぬ、はかない存在でもある。
 寅さんの映画には、そんなはかなさもにじみでる。山梨県明野(あけの)町(北杜市)で撮られた第10作(72年)の一シーンが印象的だ、と川本は書いている。
 京都では、寅さんの生みの母が連れ込みホテルの女将になっている。そこは祇園に近い安井毘沙門町。いまホテルはない。おしゃれで、にぎやかな場所になっている。外国人客も多い。こんなところにラブホテルがあってもカップルにははいりづらいだろう、と著者はいう。
 京都は変わっていないようで、時代とともに大きく変わっている。
 四日市から山にはいったところに湯の山温泉がある。寅さんは、ここの旅館で厄介になったものの、例によってカネがなく、旅館ではたらくことになる。そして、女将さんにほれて、いつものように振られる。
 映画は道中、煙突からもうもうと煙をはく四日市の町をとらえている。
 湯の山温泉は、昔より少し客が減った。「現在の湯の山温泉は寂しいところだった」と川本は書いている。車社会になって、温泉のはやりすたりは激しい。それでも、湯の山温泉が大きな歴史的財産であることには変わりあるまい。
 岡山県のあちこちを寅さんは訪れている。
 備中高梁(たかはし)市、総社市、津山市、勝山町(真庭市)など。
 川本はその町々を駆け足で回っている。
 津山には姫路からでる姫新線と、岡山からくる津山線、鳥取からくる因美線がクロスする。ここには扇形機関車庫も残っている。吉井川とともに発達した城下町だ。
 最終作、第48作(95年)の舞台となった。寅さんの甥、満男が狭い道で結婚式に向かう泉の車を妨害する。
 その冒頭に寅さんがでてくる。撮影されたのは、因美線美作滝尾(みまさかたきお)駅。
 いまは無人駅になっている。このあたり、かつては林業が盛んだった。
 津山から勝山までは姫新線の列車で1時間ほど。
 勝山は出雲街道の宿場町。その面影が残っている。瓦屋根、連子(れんじ)格子の商家が並ぶ。昔の日本のよさは、こんなところにしかないのかもしれない。ここも最終作のロケ地だ。
 つづいて、備中高梁に。寅さんは第32作(83年)で、国分寺から高梁に川舟ではいるが、さすがにそのころも川舟はなかったようだ。
 高梁には備中松山城がある。戦国の山城だ。
 高梁は第8作(71年)にも登場。さくらのつれあい、博の実家があるという設定。
 往事の武家屋敷が何軒も残っている。寅さんはそのあたりを博の父(志村喬)と歩く。
 第32作、博の父の3回忌で、ふたたび高梁を訪れた寅さんは、山裾にある薬師院に出向いている。
 町の様子は、撮影当時とほとんど変わらない。でも人口は減った。1970年の約5万3000人が、85年には約4万6000人、そして2015年には3万2000人になっている。
 第17作(76年)に登場するのが、播州龍野(たつの市)。ここはぼくの母の実家なので、ぼくにとってもなじみ深い町だ。子どものころは、夏休みになると、しょっちゅう祖母の和菓子屋に行っていた。
 川本は「いまどきこんな昔ながらの町が残っていると感動する」と書いたうえで、こう記す。

〈白壁と瓦屋根の武家屋敷、格子や卯建(うだつ)のある町家、寺社、堀割、鍵形の狭い道。戦災にも遭っていないためだろう、脇坂家5万3千石の城下町がそのままに残っている。〉

 町は映画がとられたときとほとんど変わらないという。「それも、努力して保存しているというより自然に残っているという生活感がある」。
 しかし、どうだろう。ぼくが子どものころの下川原商店街の様子はすっかり変わってしまった。おじが亡くなったとき、龍野に行けなかったのが悔やまれる。嘴崎屋の羊羹をもう一度食べたい。
 なお、映画に登場する龍野芸者(太地喜和子)は、当時からもういなかったという。
 寅さんは大阪でも商売している。第31作(81年)では、宗右衛門町(そえもんちょう)あたりの芸者(松坂慶子)に恋をするが、例によって行き違いで終わる。寅さんと大阪はどうも相性が悪い。
 ロケ地の通天閣近くの商店街の様子は、撮影当時(81年)とさほど変わっていないという。
 大阪は第39作(87年)にも登場する。
 寅さんはともかく、山田洋次と大阪の相性は悪くないようだ。

寅さんの旅(1)──『「男はつらいよ」を旅する』をめぐって(3) [われらの時代]

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「男はつらいよ」が製作されたのは1969年から95年にかけてである。足かけ27年の映画シリーズはギネス記録だという。
 学生時代からサラリーマン時代の大半にいたるまでを、ぼくは寅さんと併走したといってもよい(といっても映画はほとんど見ていなかったが)。
 だから、寅さんの旅をたどることは、ひとつにわれらの時代を思い起こす意味合いもある。
 じっさい、寅さん映画には、いろいろな風俗がえがかれている。たとえば第2作に登場するラブホテルというのもそうだ。キャバレーやダンスホールなどもいまはあまりなかろう。
 よく柴又に電話をかける寅が、電話機がコードレスなのに気づいて、びっくりするという場面もある。現在のような携帯電話やスマホはまだ誕生していない。
 高度成長、低成長にかかわらず、日常生活をめぐる風景、住まいや風俗、商品はめまぐるしく変化している。
 もうひとつ、寅さんの旅をたどるのは、文字どおり寅さんの行った場所を追体験するという意味である。
 北海道から沖縄まで、寅さんはじつにさまざまな場所を訪れている。
 川本三郎は本書で、寅さんの訪れた場所を再訪する。
 そこはどんな場所だったのだろうか。
 とはいえ、映画がつくられてから、寅さんの場所は、すでに長くて50年近く、短くても20年以上たっている。その場所がどう変わったか、あるいはいまも変わらないかが、気になるところである。
 川本は寅さんの訪れた場所をできるだけ網羅しようと奔走している。しかし、読者の側はあまり構える必要はないだろう。のんびりと、気ままに、著者と寅さんの旅を楽しめばよいのである。
 著者の川本は最初は沖縄、それから柴又周辺、そして北海道、北陸、会津、佐渡、木曽路、京都、岡山、播州、大阪、長崎、丹後、茨城、青森、九州、最後に奄美と、1年数カ月旅をしている。
 ほかに、本書の企画以前に、取材で寅さんがらみの場所をいくつも訪れたという。
「寅がどんな町を歩いたか、どんな鉄道に乗ったか、どんな風景を見たか」に興味があったという。
 川本は「『男はつらいよ』は、消えゆく日本の風景の記録映画でもある」と書いている。
 そこで、こちらもふらり旅だ。
 川本は、おそらく監督の山田洋次と同様、大の鉄道好きである。だから、寅さんめぐりをしていても、寅さんそっちのけで、鉄道の話題にのめり込む。沖縄を訪れたときも、戦前の沖縄に鉄道が走っていたことを知って、大喜びしている。
 それでも現実の沖縄が、いまも基地の島であることを痛感せざるをえない。
 寅さんの時代と少しも変わっていないのだ。変わったのは、キャンプハンセン前にあった米兵相手の商店や飲食店がさびれ、いまや廃墟のようになっていることだった。
 柴又とその周辺はどうだろう。
 柴又は下町というより、帝釈天参りにいく「近所田舎」で、1960年ごろは訪れる人も少なく、閑散としていたという。裏を江戸川が流れている。高い建物はなく、閉鎖的な土地柄。寅さんの舞台となる1970年ごろは「周囲の繁栄から取り残された町」だった。回りにはまだ畑が残っていた。
 江戸川の取水塔と「矢切の渡し」、水元公園はいまもある。
 このあたりは京成電鉄の文化圏だ。京成沿線は寅さんのシリーズにしょっちゅう登場する。下町よりマイナー感がある。
 柴又に行くには京成電鉄本線の京成高砂から金町線に乗り換える。高砂と金町の途中に柴又がある。
 金町は常磐線の駅でもあり、柴又よりにぎやかで、いまはイトーヨーカドーや東急ストアもできている。15階建ての公団住宅もある。
 寅さんシリーズでは、この金町がよくでてくる。柴又からみれば、何でもある町だ。しかし、もともと金町も江戸時代は近郊の農村地帯。町は成長し、変化する。
 葛飾区の地場産業は玩具だ。立石に、はじめてセルロイドの玩具工場ができたのが1914年。1960年代にはタカラのダッコちゃん、70年代にはセキグチのモンチッチが大ヒットする。そのころまで、集団就職の少年少女がおもちゃ工場に働きにきていた。映画はその光景も取り入れている。
「男はつらいよ」には東東京、京成文化圏への思い入れがある、と著者はいう。江戸川だけではなく、目立たない中川もよくでてくる。このあたりの景色も、おそらく寅さんの時代から、だいぶ変わっただろう。町も生き物だ。
 著者が次に足を運ぶのが北海道。
「男はつらいよ」には、北海道がよくでてくる。
 寅さんは第11作(1973年)で、カタギになろうとして、北海道の牧場ではたらきはじめる。撮影場所は網走の西、卯原内(うばらない)にある栗原牧場だ。いまは300頭の乳牛を飼っているというから、大規模牧場といってよい。
 酪農の仕事は生き物相手だから休む暇もなく、重労働だ。そのため、酪農家は全国で減りつづけ、いまでは最盛期(ピークは70年代だった)の4%、1万8000戸に落ちこんでしまったという。
 当の寅さんは慣れない仕事で、たちまち倒れ、寝込んでしまう。そして、妹のさくらが駆けつける仕儀となる。
 映画には網走の町も登場する。郊外にショッピングセンターができたため、当時の商店街はさびれてしまった。造船所も残っているものの活気がない。これも70年代と現代の大きなちがいだ。
 ほかに変わったといえば、観光客が増えたこと。外国人が観光バスに乗って、網走刑務所やオホーツク海を見にくる。
 しかし、漁業、農業の景気は悪くない。「漁業はサケ、マス、ウニが好調。農業はジャガイモ、小麦、ビート」。日本の食卓を支えている。
 1987年の第38作は知床が舞台。映画には離農する酪農家の姿がでてくる。知床は2005年に世界遺産に登録された。自然がすばらしいという。漁業は網走と同様、好調だ。
 中標津、別海町はいまでも酪農がさかん、広々とした牧場がつづいている。
 とはいえ、酪農家の生活はきびしい。
 北海道では、かずかずの映画の舞台となった鉄道がつぎつぎ廃線になっている。それが加速されたのは80年代からで、近年はさらに廃線化が進む。
 根室はロシアとの緊張関係で、漁業の不振がつづき、人口も減っているという。
 1984年の第33作は、釧路と根室のあいだにある霧多布が舞台になっている。撮影された昆布小屋は、2011年3月11日の津波で流されてしまったようだ。
 著者は第26作(1980年)の舞台となった奥尻島も訪れている。
 1993年の地震で、奥尻島は津波の被害を受け、火事も加わり、200人の死者をだした。
「男はつらいよ」が撮影されたのは地震のだいぶ前。
 寅さんは最初に江差で商売し、それから奥尻島に渡っている。ニシン漁で栄えた江差に、かつてのにぎわいはなかった。札幌一極集中が進んでいる。
 奥尻島では、地震のとき、漁港も町も全滅した。映画にでてくる青苗地区の町並みはすべて津波で消えたという。そこに津波館が立てられている。
 イカの加工場と商店街は残っている。
 岬の突端に賽の河原と呼ばれる霊場がある。
 地震のあと、奥尻島復活の象徴となったのが、ワイナリーでつくられている奥尻ワインだという。
 江差線は2014年に廃線になった。旅行客が函館に行くにはバスに乗るしかない。
 著者は寅さんの跡をたどって、函館に1泊したあと、小樽に向かう。その途中、寄り道をして、倶知安からいまは無人駅となった小沢(こざわ)駅に立ち寄っている。駅はいま閑散としている。
 小沢には開拓地があったという。戦後、樺太からの引揚者が入植した。しかし、高冷地のため、満足な収穫は得られなかった。けっきょく、入植地はなくなる。
 小沢は共和町の一部。
 共和町の人口は1970年に9478人だったが、2015年には6224人になった。スイカ、メロン、ジャガイモ、カボチャ、トウモロコシ、ブロッコリーなどがよくとれる。それでも、人口の流出がつづく。
 寅さんは北海道の小さな駅をほんとうによく訪れている。いまは懐かしい蒸気機関車が走っているのが、映画の魅力のひとつだ。その蒸気機関車も1970年代から徐々に姿を消していく。
 寅さんが旅した北海道の国鉄路線は、廃線が相次いでいる。国鉄がJRに移行するのは1987年。しかし、その前から北海道では廃線化が進んでいた。
 函館本線の小沢駅から分岐する岩内線も85年に廃線になった。小沢駅がさびれたのも、そのことが一因になっている。
 カネのない寅さんは、小樽の手前にある蘭島(らんしま)駅で野宿している。
 そして、小樽。
 小樽について、川本はこう記している。

〈小樽は現在、運河の町として人気があるが「寅次郎相合い傘」が作られた1975年頃には運河の汚れがひどく一時は埋立ての話もあった。それでも市民の保存の努力が実った。それには運河の風景をとらえた「寅次郎相合い傘」の力もあったのではないか。〉

 これも寅さんの功徳である。

寅さんについて──『「男はつらいよ」を旅する』をめぐって(2) [われらの時代]

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 著者の川本三郎と寅さんの旅をたどる前に、寅さんがどういう人物だったかを、本書から抜きだしておこう。
 寅さんはテキヤである。
「男はつらいよ」はもともとテレビドラマで、寅さんをテキヤにするのは、企画に参加した渥美清自身の考えだったという。
 当時は東映やくざ映画の全盛期。

〈東映やくざ映画の男たちがまなじり決し、深刻な顔をして戦うのに、寅さんは、ここぞというところでころぶ。挫折する。負ける。そこが愉快だった。〉

 川本はそう書いている。
 映画のなかで、寅さんは自分の父親はたいへんな「女道楽」で、へべれけのとき、芸者とのあいだでおれをつくったと語っている。もうすこし、まじめにやってほしかったというのが笑える。
 腹ちがいの妹、さくらがいる。
 第1作で、寅さんが20年前(高校生のころだろうか)父親と喧嘩をして、家をおんでて、そのうちテキヤになり、日本全国を放浪していたことがあかされている。
 そのあと両親が亡くなり(実母は長生き)、商売の団子屋は父親の弟(おいちゃん)が継いで、おばちゃんといっしょに、さくらを育ててくれた。
 かたぎの仕事につこうと決心することもあるが、長続きしない。けっきょくテキヤ商売に舞い戻る。
 テキヤはほとんどが旅の空ですごす。だが、寅さんのふるさとは、いつでも葛飾柴又。柴又に戻ってきては、ひと騒ぎおこすのがいつものパターンだ。
 ともかく女にほれやすい。そして、ふられて、意気消沈し、また旅にでる。
 女にたいしては純情としか、いいようがない。とくに、かたぎの女性には意気地がない。
 初期の寅さんは、威勢がよくて、けっこう暴れん坊だった。警察のやっかいにもなっている。
 寅さんは自由人だ。そして、人情家でもある。まわりの人を幸せにしたいと願っている。それが時に突飛な行動、とんちんかんな行動を引き起こす。
 妹さくらのお見合いの席を盛り上げようとして、下品なギャグを連発し、相手のひんしゅくを買い、縁談を台無しにしたりもしている。
 その結果、さくらと隣の印刷工場ではたらく博が結婚するのだから、なにが幸いするかわからない。
 だれもが勤め人になり、役所や企業のなかで、黙々と仕事をするのが一般的になるつつある時代、寅さんはもはや稀少な人間として、(テキヤというのが不適切なら)昔かたぎの移動式独立自営業をいとなんでいる。
 おなじみの立て板に水の口上からしても、寅さんは超一流のテキヤだとわかる。
「四角四面は豆腐屋の娘、色が白いが水くさい。四谷、赤坂、麹町、ちゃらちゃら流れるお茶の水、粋な姐ちゃん、立ちションベン」
「黒い黒いは、なに見てわかる。色が黒くてもらいてなけりゃ、山のカラスは後家ばかり」
 名調子である。
 テキヤは旅する芸人だといってもよい。だが、くらしの厳しさ、わびしさはつきものだ。いつどこで行き倒れになるか、わからない。ニコニコしていても、どこかさびしさをかかえている。
 それでも、寅さんには人をひきつける磁力のようなものがある。気がいいから、みんなほっとするのだ。だから、豪邸に住む高名な画家も、女房に逃げられたサラリーマンも、仕事がいやになったサラリーマンも、わけありの女たち、あまりにも忙しい毎日にくたびれてしまった人気女性歌手も、かれのところに寄ってくるのだ。そんなとき寅さんはまるで、純朴な子どものようにみえる。寅さんもけっこう人に甘えている。
 著者もこう書いている。

〈寅が、気ままな風来坊だからだろうか、「男はつらいよ」には、お決まりの日常生活が息苦しくなった人間たちが、蒸発、失踪して寅と共に旅の空に、いっとき、行方をくらましてしまう話がよくある。日本人の世捨人願望があらわれている。本来、定住者である者が寅のような放浪の人間に憧れる。〉

 映画をみると、だれもがバカだなあと思いつつ、寅さんと旅の空をいっとき楽しんで、ほっとした気分になるのは、映画の効用である。
 映画をみる前と、映画をみたあとでは、気分が変わっている。
 大人のおとぎ話かもしれない。しかし、それでいいのだ。
 吉行淳之介にいわせれば、寅さんは「主観と客観の落差の烈しい人物」だという。映画の観客は、寅がまたあんなことを言って、とハラハラする。そして、最後はやっぱり「ばかだねえ」と笑う。
 威勢のよい啖呵を切るわりに、寅さんは喧嘩にはまるで弱い。
 本人は二枚目のつもり。その落差が笑いをさそう。
 渥美清なくしては、寅さんは存在しない。
 そして、寅さんは家族思いでもある。妹のさくらにたいしてだけではない。おいちゃん、おばちゃんにも恩義を感じている。
 シリーズの後半では、さくらの子どもで、自分と似てだめなところの多い満男をいつもかばっている。満男の恋の指南役もつとめる。
 どこがとんちんかんだが、けなげでもある。
 満男は「社会を否定しているおじさんが羨ましい」という。

〈それを聞いた母親のさくらは、満男をきつくとがめる。「おじさんは社会を否定しているんじゃなくて、社会に否定されているのよ」。確かに一人息子が寅のような風来坊になったら、母親はたまらない。〉

 さくらの分析はおかしいが、笑いたくても笑えない。
「渡世人の自由きままさと、いつ倒れるかわからない無常感は隣り合っている」と川本も書いている。
 最後の作品「寅次郎紅の花」では、寅さんは奄美の加計呂麻島で、どさ回りの歌姫リリーと暮らしている。
 渥美清の体調は、見るのも気の毒なくらい悪化していた。
 この映画を撮り終えた翌年、渥美清は亡くなる。
 ロケ地には、山田洋次監督の言葉が刻まれているという。

〈寅さんは居なくなったのではない。我等が寅さんは、今も加計呂麻島のあの美しい海岸で、リリーさんと愛を語らいながらのんびり暮らしているのだろう──きっとそのはずだ、とぼくたちは信じている。〉

「男はつらいよ」シリーズは50作まで予定されていたという。
 甥っ子の満男がようやく初恋の泉と結婚し、寅さんは幼稚園の用務員になり、かくれんぼうをしている最中になくなる。そして、町の人は寅さんの思い出のために地蔵をつくるというのだ。
 さびしい終わり方だが、いかにも風来坊の寅さんらしいかもしれない。
 しかし、映画は最後まで撮影されなかった。
 実際の最終作は48作までだ。
 それでもこの作品で、大震災被災地の神戸や、奄美の加計呂麻島を訪れる寅さんには、聖者の風格すら感じられると言ってもよいのではないか。
 それは畏れ多く、かしこまる聖者ではなく、笑われ、愛される聖者である。
 だれでもが知っていて、親しみやすく、慈愛に満ちた寅さんは、最後に、大きな悲しみや苦労を背負う人たちをはげましながら、舞台を去っていった。
 ぼくには、そんなふうに思える。
 そんな寅さんを演じた渥美清は、やはり不世出の役者だった。

川本三郎『「男はつらいよ」を旅する』をめぐって(1) [われらの時代]

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 渥美清主演の「男はつらいよ」は1969年から95年にかけて、48本つくられた。監督は2本を除いて、山田洋次。第3作を森崎東、第4作を小林俊一が監督をしている。
 もちろん「男はつらいよ」はみた。しかし、48本のうち、せいぜい4、5本くらいだから、とても寅さん好きとはいえない。
 とくに会社に勤めはじめ、結婚してから映画を見る機会はほとんどなくなってしまった。「男はつらいよ」も、仕事の待ち時間にみた1本を除いて、72年以降の作品はまったくみていない。
 最近は少しひまができ、アマゾンプライムで、ときどき映画をみるようになった。たまたま第1作の「男はつらいよ」をみたが、意外とおもしろかった。寅さん若くて、威勢がよい。
 3900円の年会費を払えば、アマゾンプライムでは膨大な数の映画を無料でみることができる。「男はつらいよ」も48本全部がリストにはいっている。
 第1作を見て、おもしろかった(というより懐かしかった)せいか、たまたま本屋に並んでいた寅さん本を買ってしまった。
 それが本書である。
 はじめにこう書かれている。

〈「男はつらいよ」は旅の映画である。
 渥美清演じる寅は、日本各地を実によく旅している。北海道から沖縄まで例の古ぼけたトランクをささげ、たいていは雪駄履きで日本の町や村を歩く。……
「男はつらいよ」を見ると、寅が歩いた町に出かけたくなる。いっとき寅のような自由な風来坊になりたくなる。
 本書は寅が旅したさまざまな町を辿ったシネマ紀行文集である。〉

 それで、思わず買ってみたという次第だ。
 最初に寅さんが、どれほど旅していたかを、本書から抜きだしてリストアップしてみた。
 著者は、そのほとんど全部を訪ねている。
 製作年、タイトル、相手役の女性とともに、映画で寅さんが訪れた場所を記してみた。書き落とした場所もあるだろうし、実際はもっと多くの場所を寅さんは訪れているはずだ。しかし、とりあえず、だいたいの旅のイメージを思い起こしてもらえばいい。

1 男はつらいよ(1969年)光本幸子[柴又(以下毎回)、奈良]
2 続・男はつらいよ(1969年)佐藤オリエ[金町、京都]
[以下、タイトルの「男はつらいよ」は略]
3 フーテンの寅(1970年)香山美子[奈良井宿、鹿児島、湯の山温泉]
4 新・男はつらいよ(1970年)栗原小巻[名古屋
5 望郷篇(1970年)長山藍子[小樽、札幌、浦安]
6 純情篇(1971年)若尾文子[長崎、福江島(五島)]
7 奮闘篇(1971年)榊原るみ[越後広瀬、沼津、津軽]
8 寅次郎恋歌(1971年)池内淳子[高梁(岡山)]
9 柴又慕情(1972年)吉永小百合[金町、金沢、永平寺]
10 寅次郎夢枕(1972年)八千草薫[奈良井宿、甲斐路]
11 寅次郎忘れな草(1973年)浅丘ルリ子[網走]
12 私の寅さん(1973年)岸恵子[中川、天草、別府
13 寅次郎恋やつれ(1974年)吉永小百合[温泉津(島根)、津和野]
14 寅次郎子守唄(1974年)十朱幸代[金町、呼子(佐賀)]
15 寅次郎相合傘(1975年)浅丘ルリ子[八戸、函館、小樽]
16 葛飾立志篇(1975年)樫山文枝[金町、中川、寒河江]
17 寅次郎夕焼け小焼け(1976年)太地喜和子[龍野]
18 寅次郎純情詩集(1976年)京マチ子、檀ふみ[別所温泉(上田)]
19 寅次郎と殿様(1977年)真野響子[大洲(愛媛)]
20 寅次郎頑張れ!(1977年)大竹しのぶ、藤村志保[金町、平戸]
21 寅次郎わが道をゆく(1978年)木の実ナナ[田の原温泉(熊本)]
22 噂の寅次郎(1978年)大原麗子[木曽路]
23 翔んでる寅次郎(1979年)桃井かおり[支笏湖]
24 寅次郎春の夢(1979年)香川京子、林寛子[和歌山、京都]
25 寅次郎ハイビスカスの花(1980年)浅丘ルリ子[沖縄]
26 寅次郎かもめ歌(1980年)伊藤蘭[奥尻]
27 浪花の恋の寅次郎(1981年)松坂慶子[大阪、生駒山]
28 寅次郎紙風船(1981年)音無美紀子、岸本加世子[鳥栖(佐賀)、夜明(大分)、原鶴温泉(福岡)、久留米、秋月]
29 寅次郎あじさいの恋(1982年)いしだあゆみ[京都、豊岡、丹後伊根]
30 花も嵐も寅次郎(1982年)田中裕子[湯平温泉、臼杵(大分)]
31 旅と女と寅次郎(1983年)都はるみ[佐渡、出雲崎(新潟)、羊蹄山]
32 口笛を吹く寅次郎(1983年)竹下景子[高梁、総社(岡山)]
33 夜霧にむせぶ寅次郎(1984年)中原理恵[釧路、霧多布]
34 寅次郎真実一路(1984年)大原麗子[土浦、牛久沼、筑波山、鹿児島]
35 寅次郎恋愛塾(1985年)樋口可南子[五島列島]
36 柴又より愛をこめて(1985年)栗原小巻[会津、伊豆式根島]
37 幸福の青い鳥(1986年)志穂美悦子[中川、新小岩]
38 知床慕情(1987年)竹下景子[知床]
39 寅次郎物語(1987年)秋吉久美子、五月みどり[常総(茨城)、大阪]
40 寅次郎サラダ記念日(1988年)三田佳子[小諸、上田]
41 寅次郎心の旅路(1989年)竹下景子[栗原(宮城)、ウィーン]
42 ぼくの伯父さん(1989年)後藤久美子、檀ふみ[小城(佐賀)、袋田(茨城)]
43 寅次郎の休日(1990年)後藤久美子、夏木マリ[日田、天ヶ瀬温泉(大分)]
44 寅次郎の告白(1991年)後藤久美子、吉田日出子[木曽路、倉吉]
45 寅次郎の青春(1992年)風吹ジュン[油津、飫肥(宮崎)]
46 寅次郎の縁談(1993年)松坂慶子[瀬戸内海]
47 拝啓車寅次郎様(1994年)小林幸子、かたせ梨乃、牧瀬里穂[長浜]
48 寅次郎紅の花(1995年)浅丘ルリ子[津山、勝山(岡山)、加計呂麻島(奄美)]

 じつに足かけ27年。
 ぼくの人生に重なる。
 映画はほとんど見ていないのに懐かしい気分に誘われる。そのなかには、きっとだれにとっても、故郷に近い場所、あるいはいつか旅した場所が含まれているのではないだろうか。
 ぼくにとっては、やはり母の実家があった播州龍野(たつの市)が懐かしい。
 渥美清が亡くなってから、もう20年以上たつ。時の流れは早いものだ。
 寅さんの映画には時代と場所、人がえがかれ、保存されている。
 東京をはずれた、観光ともさほど縁がなさそうな、いなか町の様子をみていると、日本のよさは、ほんとうはこんなところに残っているのではないかと思ってしまう。
 大都市の中心街や観光地に背を向けて旅する人は、近代やポスト近代への懐疑論者でもあるのだ。
 ごたくを並べすぎた。
 本書を読みながら、寅さん映画をふり返ってみたい。

永野健二『バブル』を読む(4) [われらの時代]

 1989年末に3万8915円の最高値をつけた株価は90年にはいると急落。その1年半後、地価も落ちはじめた。これにより銀行は膨大な不良債権をかかえることになる。
 そうしたなか、尾上縫という大口個人投資家の名前がとつぜん浮かび上がる。大阪ミナミで料亭を経営していた女性である。
 尾上は興銀から特別金融債「ワリコー」を2500億円買い付け、それを担保に興銀などの銀行やノンバンクから資金借り入れ、それを株式投資や土地購入に振り向けていた。
 尾上の資金は、もともと大阪経済界の有力者から出ていたという。だが、気の遠くなるほど巨額というわけではない。
 はじまりは、87年5月に興銀の難波支店長が、飛びこみで尾上から10億円のワリコーを契約したことだった。それが融資につながり、株や土地への投資、さらにワリコー購入と次々に回転し、雪だるま式に巨額の資産へとふくらんでいく。
 89年末に尾上の金融資産は6182億円になっていた。それを指南したのが、興銀だったことはまちがいない。
 しかし、尾上の資産は、バブル崩壊を受けて、90年末には2650億円にまで減少し、負債額は逆に7271億円に膨らんでいた。負債額はピーク時、1兆円を超えていたという。
 その過程で、東洋信用金庫が尾上名義で、3420億円の架空預金証書を発行するという事件も発生している。この事件によって尾上縫は逮捕され、破産宣告を受けた。
 しかし、それは単なる詐欺事件では終わらなかった。尾上縫をあやつった興銀の犯罪性が徐々にあばかれていく。こうして、巨額の不良債権をかかえた興銀は、ついに2002年に解散を余儀なくされる。そして、富士銀行、第一勧業銀行とともに、みずほ銀行として再編されることになる。
「日本の戦前の近代産業の発展を支え、戦後はまさに日本の『戦後システム』のフラッグシップとして、敬意と尊敬を集めたモデル企業は、こうして消滅の道を歩んだ」と、著者は述懐している。
 バブル崩壊後、株価暴落により個人投資家や中小企業は大きな痛手をこうむった。しかし、日立やトヨタ、松下電器、日産、丸紅といった一流企業や年金福祉事業団などは、証券会社から補填を受けていたことがあきらかになる。
 ほかにも、大手証券会社のかずかずのスキャンダルが発覚、野村証券や日興證券の社長が辞任に追いこまれた。
 公表されたところでは、証券会社が一流会社などに支払った損失補填額は1200億円以上とされる。だが、それは氷山の一角だった。公表された損失補填額は、一種の大口手数料割引にすぎなかった、と著者はみる。
 89年12月のピーク時に、証券会社は企業から預かった20兆円前後の営業特金をかかえていた。それが株式に投資されていたとしたら、株価が半分になった時点で、10兆円の損害が出ていてもおかしくなかった。だとすれば、公表された証券会社の損失補填額は営業特金の0.6%にすぎない、と著者はいう。
 証券会社の営業特金とは、いってみれば「事業会社や機関投資家が、証券会社と結ぶ『大口預金』契約だった」。80年代後半、企業や機関投資家の財務担当者は、証券会社と信託銀行に、利回り保証を前提に、みずからの資金の運用をまかせていた。
 それがお寒い財テクの実態だった、と著者は書いている。
 実際にどれだけ損失補填がなされたかはわからない。しかし、バブル崩壊によって損害をこうむったのは、個人投資家や中小企業だけではあるまい。大企業も銀行も証券会社もその損害は大きかったのである。
 いずれにせよ、バブル崩壊によって、甘い財テクなど存在しないことが明らかになったのはたしかである。
 1992年8月11日に日経平均株価は1万5000円を割り込んだ。
 日銀の公定歩合は、89年5月以降、わずか1年強のあいだに、2.5%から6.0%へと段階的に引き上げられていた。その指揮をとったのが、日銀総裁となった三重野康である。
 いっぽう、大蔵省も90年3月に不動産関連融資にたいする総量規制を打ち出した。それによって不動産価格が下がりはじめる。
 1992年にはいると、株価と土地価格の暴落が、信用システムの崩壊を招きかねない状況になってきた。土地神話に加えて、銀行不倒神話までが、過去のものとなりつつあった。
 当時の首相、宮沢喜一は公的資金の投入も辞さないと表明したものの、それは決意にとどまる。じっさい、宮沢は不良債権を処理するため、金融機関に公的資金を投入するつもりでいた。だが、それは大蔵省と大手銀行首脳の反対によって阻まれたのだ、と著者はいう。
 そのことによって、その後の不況が長期化した。著者は宮沢の直感こそが正しい判断だったと、バブル処理が遅れたことを残念がる。
「大蔵省の危機意識の欠落と、銀行経営者の自己保身が、宮沢構想をつぶした」と著者は書いている。
 宮沢自身はのちにこう述べている。
「我慢していれば、いずれ株価も地価も上がる。まだそんな楽観論が支配して、結果として不良債権処理が遅れてしまった」
 こうして、「失われた10年」いや「20年」がつづくことになる。
 世界経済が変動相場制に移行するなかで、新しい仕組みづくりや制度改革を先送りにしてきたことが、日本が混乱におちいった原因だ、と著者はいう。

〈日本のリーダーたちは、円高にも耐えうる日本の経済構造の変革を選ばずに、日銀は低金利政策を、政府は為替介入を、そして民間の企業や銀行は、財テク収益の拡大の道を選んだ。そして、異常な株高政策が導入され、土地高も加速した。
 その大きなツケを支払う過程が「失われた20年」といわれる、バブル崩壊から現在まで続くデフレ状況である。アベノミクスというのは、80年代のバブル時代の失政を償うための経済政策でもあるのだ。〉

 著者はアベノミクスに懸念をいだいている。
 それは日本経済を水ぶくれにするだけで、筋肉質にするものではないからだ。

永野健二『バブル』を読む(3) [われらの時代]

 1988年から89年にかけては、バブル狂乱の時代だった。
 ちょうど昭和から平成へと年号が変わる時期である。
 リクルート事件はそのさなかにおこった。
 リクルート社長の江副浩正が、子会社リクルートコスモスの未公開株を政治家や官僚、経営者、マスコミなどに配り、1件数千万円単位の利益を供与したとされる事件である。
 この事件により、藤波孝生官房長官や、真藤恒NTT会長をはじめ、労働省、文部省の次官などが逮捕され、竹下登内閣は総辞職した。
 江副浩正は就職広告や情報通信分野に新しい波をおこした人物だった。リクルートコスモスは、リクルートグループの不動産会社で、ほかにリクルートにはファーストファイナンスという金融会社があった。
 江副は自身が経営者をしているとき、リクルート本体の株式公開を認めなかった。不動産と金融はどちらかというと、江副が嫌っていた分野だったという。
 事件が発覚すると、世間から怒りが巻き起こったことはいうまでもない。
 政官財癒着ということばも生まれた。
 裁判は長引き、10年以上におよんだ。結果は、リクルートコスモス株の賄賂性が認められ、江副は2003年に懲役3年執行猶予5年の有罪となった。
 この事件により、江副は経営者としての地位を失い、失意の晩年を送った。
 田原総一郎はリクルート事件が「国策捜査」だったという。
 著者もまたリクルート事件は「ご都合主義で検察が正義の基準を決めて立件する仕組み」から生まれた、いびつな事件だったと述べている。
 そういうのは、傑出した経営者としての江副の才覚を惜しんでのことである。それでも、違法か合法かはともかく、未公開株を配ること自体が、ふつうの人の感覚でいう賄賂であったことはまちがいないだろう。
 バブルのころは野心家の時代だった。
 そんなひとりが高橋治則である。
 イ・アイ・イ・インターナショナルという会社を率い、85年から4年間で、銀行から1兆5000億円を借り入れ、国内外の不動産やホテル、ゴルフ場を買いあさった。その主力銀行が日本長期信用銀行だった。
 高橋のやり方を著者は「慶応ボーイの空虚な信用創造」と呼んでいる。
 高橋は家業の電子周辺機器商社の後を継いだが、それに飽き足らず、不動産や株の投資に乗りだす。その過程で、東京協和信用組合の理事長に就任したことがきっかけで、バブルの寵児となっていく。
 高橋が徹底的に利用したのが慶応閥だったという。三洋証券社長の土屋陽一と結びついたのも、そうした関係である。
 かれはひたすら拡大路線を突っ走った。
 資金繰りの悪化が表面化するのが90年末、長銀がはいって、整理をはじめるが時すでに遅し。
 東京協和信用組合にも公的資金が投入され、高橋は業務上横領の容疑で逮捕された。
 三洋証券が倒産するのは97年、長銀が破綻するのはその翌年である。
 長銀の債務超過額は3兆6000億円、その全額が公的資金でまかなわれた。
 バブルに踊った買い占め屋は高橋治則だけではない。光進の小谷光浩、麻布土地の渡辺喜太郎、第一不動産の佐藤行雄、秀和の小林茂などもそうである。
 著者は、そのなかでも経営センスのあった人物として小林茂の名前を挙げている。コンパと呼ばれるスナックバー形式の酒場をつくり、秀和レジデンスと呼ばれる一連の建て売りマンションを建てたのが小林である。
 秀和は巨額の負債をかかえ、2005年にモルガン・スタンレー証券に1400億円で買収されることになる。
 小林茂の活躍は、88年から90年にかけて、流通業界関連株を大量に取得し、一時、流通再編の目になったことで知られる。
 伊勢丹、松坂屋、忠実屋、いなげや、長崎屋、ライフストアなどがターゲットにはいった。小林は中堅スーパーを大合同して、1兆円規模のスーパーを設立したいと願っていたという。
 だが、そのM&Aはうまくいかない。忠実屋といなげやは相談しあって、防衛策に走った。
 しかし、その後、日本の流通業界が再編されていくのをみると、小林には先見の明があった。だが、それはエスタブリッシュメント側による再編だった。小林はそのエスタブリッシュメントに体を張っていどみ、ついに敗れ去った、と著者はいう。
 M&Aが本格化しはじめていた。
 1989年3月、アメリカの投資家ピケンズは、トヨタ系列の部品メーカー、小糸製作所の株式20.2%を取得して、筆頭株主となった。その狙いはサヤ取り。ピケンズの黒幕は麻布建物の渡辺喜太郎だったという。
 だが、トヨタの会長、豊田英二は小糸の株を肩代わりすることを拒否し、安定株主比率を守り抜いた。
 89年から2年のうちにバブルは崩壊する。小糸製作所の株も半値近くになって、麻布建物は大きな損害をこうむり、けっきょく倒産に追いこまれる。ピケンズも手を引いた。
 製造業の経営者としての意地が、バブルの時代のサヤ取りを粉砕した。しかし、ピケンズの動きは、金融自由化とグローバリゼーションのもとでM&Aが本格化する時代を先取りしていた、と著者は述べている。
 バブル真っ盛りのころ仕手グループ光進の小谷光浩は、相場師としてセンセーションを巻き起こした。
 小谷は、蛇の目ミシン、国際興業、藤田観光、協栄産業、東洋酸素などの大株主となった。当初、その出資元はよくわからなかった。だが、それが住友銀行であることがしだいにわかってくる。
 小谷は90年7月に、証券取引法違反容疑で逮捕される。住友銀行は知らぬ顔を決めこむ。しかし、その10月には住友銀行青葉台支店長の山下彰則が、仕手戦の資金づくりで小谷に協力していたとして、逮捕されるにいたる。
 住友銀行はそのころ磯田一郎会長のもと、イトマンの処理に苦しんでいた。イトマンは住友銀行の商社部門で、住友銀行銀行の常務だった河村良彦が社長を務めていた。その河村が常務に据えたのが、協和綜合開発研究所の伊藤寿永光だった。
 伊藤寿永光は、総額700億円近い不動産や美術品を買いこんでいた。背後には関西の裏社会の顔役、許永中が暗躍していた。
 磯田一郎は小谷問題で、支店長が逮捕された責任を取って辞任する。イトマン事件には言及されないままだった。だが、辞任の背景にイトマン事件がからんでいたことはいうまでもない。
 磯田の後任となったのが、西川善文である。西川はその後、8年間、住友銀行の頭取をつとめ、さらに2006年から3年間、日本郵政の社長となる。
 だが、西川の回顧録には、バブルをふくらませた住友銀行の責任について、ほとんど反省の言は書かれていないという。
 いっぽう、熱狂相場の終わりを早くから読んでいたのが、野村証券会長の田淵節也だった、と著者はいう。
 90年2月、相場は昨年末の3万8957円から下がりはじめていたが、株式市場ではまだ強気の意見が多かった。それにたいし、田淵はバブルの崩壊が間近に迫っているとみていた。
 田淵は、銀行の有担保主義がつくりあげた土地神話が、土地バブルを生んだと考えている。バブルの崩壊は全銀行におよぶだろう。だが、株式市場でバブルの増殖を加速した責任は、証券会社にもあると感じていた。

〈株高の崩壊は、土地価格の下落につながる。住専などのノンバンクの破綻につながる。そして仕上げは、大蔵省と銀行が持ちつ持たれつで守り続けてきた銀行不倒神話の崩壊である。〉

 田淵はこうしたシナリオを読み切っていた。
 だが、このシナリオがあたることは、証券界のドンと呼ばれてきたみずからの破局をも意味する。
 田淵のつきあいは多岐におよんだ。清濁併せ呑むというタイプの経営者だったという。
 バブルの崩壊によって、田淵はみずからの運命を静かに受け入れようとしていた、と著者は書いている。
 そして、90年以降、バブルの清算がはじまるのである。
 次回はそのことをみておきたい。

永野健二『バブル』を読む(2) [われらの時代]

 日本のバブルのきっかけは、1985年9月22日のプラザ合意だった。ドル高是正するため、各国通貨当局が協調介入することが決まった。
 それにより、円ドル・レートは円高に振れ、1ドル=242円だった円相場は1年後には150円台で取引されるようになる。
 71年のニクソンショック(金ドル兌換停止)、73年の変動相場制への移行から十数年たっていた。プラザ合意は、アメリカ一国時代の終わりを象徴していた。もはやアメリカだけで世界経済をリードできなくなっていた。G7(先進7カ国)の時代がはじまろうとしていた。
 プラザ合意のもたらす円高ドル安は、日本経済を危機におとしいれるのではないかと考えられた。そのため日銀は公定歩合を86年1月の5.0%から87年2月の2.5%へと5回にわたり引き下げる。
 そのことが日本の構造改革を遅らせ、金融機関を不動産投資に向かわせてしまう原因だったのではないか、と著者は指摘している。
 86年4月には、元日銀総裁、前川春雄による、いわゆる「前川レポート」がだされた。内需拡大、産業構造の転換、市場アクセスの改善がうたわれていた。だが、このレポートはしっかりと議論されることなく、日本は金融引き締めの時期を失してバブル経済の渦中に突っ込んでいった、と著者はいう。
 日本のバブルは、資産バブルである。とりわけ、地価が急速にあがった。その原因は、銀行が土地融資にのめりこんだことだ。
 企業会計には含み益というのがあるらしい。含み益とは取得原価(簿価)と時価の差益をいう。
 メインバンクは土地の含み益を担保に、企業に融資をおこなった。これによれば、たとえ赤字でも、土地価格が上昇しつづけるかぎり、企業は引きつづき融資を受け、存続することが可能になる。
 日本の地価は上がりつづけるという土地神話が、日本の金融を支えていた。
 土地の含み益は企業の評価にもつながり、有利な土地を所有しているとみなされるだけで、企業の株価も上昇した。
 低金利のもと、銀行は不動産融資を加速する。企業だけではなく、サラリーマンもそれに飛びついた。本来なら融資の枠は土地価格の70%が相場なのに、120%まで認める金融機関まででてくるほどだった。
 こうして東京の住宅地の地価は、87年に22%、88年に69%、89年に33%、90年に56%上昇した。
 著者はこう書いている。

〈86年から89年に発生した、土地・株式のキャピタルゲインは1452兆円にのぼり、家計が得たキャピタルゲインは89年だけで260兆円となった。土地と株価は、連動して上がることが当然のようになっていた。誰もがユーフォリアに酔っていた。日本のGDPが400兆円の時代だった。〉

 こうして、2、3年のうちにいきなり資産が増えた。とはいえ、土地や株をもたない個人にとっては、まったく関係のない話だった。
 個人にしてみれば、たとえ一戸建ての住宅やマンションに住んでいたとしても、それを簡単に売るわけにもいかなかった。たとえ売ったところで、別の家やマンションを買わなければならなかったから、資産が倍増したといっても、ほとんど意味はなかったともいえる。
 だから、誰もがユーフォリアに酔っていたというより、ぼくなどは、キツネにつままれたみたいな気持ちで、株価や地価が上がっていくのを、指をくわえて見ていた。もっとも、幸い、そのころはすでに一戸住宅に住んでいたから、そんなのんきなことがいえたのである。
 だが、これからマンションや土地を買おうという人はたいへんだった。まして、高値で買ったマンションが、バブル崩壊後、大暴落し、それでも多額のローンを払いつづけなければいけなかったことを考えれば、バブルの罪は大きかったのである。
 とはいえ、証券会社にとっては、80年代後半、株式相場はまさに熱狂のうちにあった。
 著者は86年当時、懇意にしていた、山一証券の成田副社長から深刻な話を聞いている。
 それは、山一が地道な路線から逸脱して、企業から一任勘定で自由に扱える営業特金を1兆円集める作戦を展開しているという話だった。
 なかには、あやしげなスキャンダルもまじっていた。それが97年の山一倒産にいたる第一歩だったことを、当時、ほとんどの人は気づかなかった。
「三菱重工CB事件」というのがあった。CBとはいわば転換社債のこと。
 転換社債は発行価格で証券会社に配分され、証券会社はその一部を顧客に配分できる。発行価格の転換社債をもっている顧客は、上場直後の値上がりが期待できる。そうなれば、顧客は労せずして巨額の利益を手にする。いわば、有力顧客優遇サービスである。
 山一証券が三菱重工の転換社債を事前に配分した顧客は、ほとんどが総会屋だったという。そのリストが外部に漏れた。山一は総会屋をうまく使って、企業から特金を集めようとしていたのかもしれない。
 当時、企業社会ではすでに総会屋一掃作戦が広がっていた。検察は成田を事情聴取したものの、けっきょく動かなかった。
 そして、山一証券はリスト漏洩の責任を成田副社長に押しつけ、成田が自殺することになる。
 その後、山一証券は営業特金路線をつっぱしり、大失敗した末に粉飾決算に走り、あげくのはて自主廃業に追いこまれるのである。
 1987年2月にはNTT株が上場された。民営化が本格化しようとしていた。一般売り出し値の119万7000円にたいし、初値は160万円という好調なすべりだしだった。
 NTT内部では、ホンネのところ1株50万円弱が相場とみられていた。ところが、当時の市場の雰囲気から1株119万7000円と決められたのだ。
 これにたいし申込者数は1060万に達し、6.4倍の抽選率になった。このとき抽選にあたったかどうかわからないが、たしか、ぼくの義母もNTT株を買って、最初は喜んでいたはずだ。
 上場から3カ月後、NTT株は318万をつけた。それが7月には225万まで下げる。そして、89年10月には135万円になった。
 88年から89年にかけてバブル相場はピークを迎えていた。にもかかわらず、NTT株が低迷したのは、政府が追加の売り出しを強行したからである。それによってNTTは完全民営化に移行する。
 ところがである。バブルが崩壊したあとの92年には、NTT株は当初の試算値である50万円に迫っていた。NTT株に泣かされた人は多いだろう。
 NTTの民営化を推し進めたのは中曽根康弘と民営化初代社長になる真藤恒である。その真藤は89年3月にリクルート事件で逮捕されることになる。
 NTT経営者も、監督官庁の郵政省、政治家もバブル相場に便乗して、投資家をくいものにした。それは、あまりにも無責任ではなかったか、と著者は批判している。
 1987年10月19日、ニューヨークでは株が22.6%暴落する、いわゆるブラックマンデーを経験した。翌日、日本でも株価は14.9%下落。それから1カ月、株価は乱高下する。だが、その後、日経平均は上昇に転じ、88年4月にブラックマンデー直前の2万6643円を上回る。そのあとは一本調子となり、狂乱のバブル相場に突入した。
 ブラックマンデーでいったん冷やされたあと、バブルが破裂するのではなく、むしろバブルが膨張したのはどうしてだろう。
 ブラックマンデー以降も、日本は公定歩合2.5%の超低金利政策をつづけた。それだけではない。大蔵省は、含み損を表面化させないで、積極的に財テクをつづけるよう、企業を指導した。
 このあたりの会計処理のあやはぼくにはよくわからない。いずれにせよ、ここで大蔵省はブレーキを踏むのではなく、むしろアクセルを踏むよう指導したのだ。
 その結果、財テク資金は涸れることなく、証券会社では営業特金と呼ばれる投資資金が膨張していった。営業特金とは、企業や公的機関、生保などが証券会社とのあいだで取り結ぶ「利回り保証」をした運用商品だという。ほんらいは利回り保証などないはずだ。それを保証してもらい、証券会社に資金を預けて、一任勘定で運営してもらう。俗に「にぎり」というそうだ。
 このころ、銀行は低金利であふれかえった資金を、企業などの土地投資にだけではなく、特金・ファントラによる資金運用にも融資していたという。銀行が企業にどんどんカネを貸して、土地を買わせ、証券会社を通じて株を買わせているのだから、バブルが膨れあがらないわけがない。こうして、日経平均は88年1月の2万2000円台から89年12月29日の3万8957円まで、右肩上がりで上昇する。
 大蔵省が財テクの異常な実態に危機感をいだきはじめたのは89年末になってからである。証券会社に利回りを確約した営業特金などを90年3月までに整理するよう通達を出した。しかし、時すでに遅かったのである。
 財テクをはじめたのは商社だという。とくに三菱商事が金融業務に力をいれ、財務部門の役割を強化した。これとは対照的に、三井物産は財テクから一歩距離をおいていた。三井物産の資金部長、福間年勝は利回りを保証するという「握り」をまったく信用していなかった。その結果、バブルの時代を慎重に乗り切り、その後の破裂から深刻な影響を受けるのを免れたのだという。
 この時代には財テク企業も登場している。著者が紹介するのは阪和興業だ。阪和興業は新日鉄に出入りする一鉄鋼商社にすぎなかったが、その社長、北茂は財テク中心の経営に舵を切り、ワラント債を発行して資金を集め、その資金や銀行からの借入金を、特金やファンドトラスト、外国為替取引、土地売買に投入した。
「阪和興業の経営陣に欠落していたのは、上場企業としてのガバナンスと、変動する市場のリスクへの自覚だった」と著者は書いている。しかし、その稼ぎっぷりに「銀行や証券会社は砂糖にむらがる蟻のように、阪和興業の支払う金融・証券の手数料にすり寄っていった」のも事実だった。
 ところで、87年10月から88年9月にかけて、ぼくはふたたび出版営業の仕事に舞い戻り、書店回りや地方の新聞社回りをしていた。
 そのころ、ラビ・バトラの『1990年の大恐慌』という本を読んだことを覚えている。たしか、88年の春だったと思う。
 そこには、こんな予言が記されていた。
 1990年のある日、突然ドルの下落と円の急激な上昇が引き金になって、東京の株式相場が崩壊する。日本企業はいっせいに海外の資産を引き上げ、ニューヨークやロンドンでも株が大暴落し、世界大恐慌が幕を開ける。物価は下落し、企業倒産が続発して、失業者が急増する。一夜にして、人々は路頭に迷い、あちこちの街角で食料を求める長蛇の列が生まれる。こういう恐るべき事態が少なくとも6年はつづく。
 ラビ・バトラの予言がショックだったのは、ぼく自身、ケインズ時代になって、もう恐慌などおこらないと信じていたからである。しかし、そうではない、とラビ・バトラは予言していた。
 いまからふり返ると、ラビ・バトラの予言は、あたったともいえるし、あたらなかったともいえる。
 たしかに90年はバブルの崩壊した年になった。それから、日本は平成の失われた20年を経験する。それでも、その大不況は1929年の大恐慌とはどこかちがっていた。
 そのあたりの様子を、本書からもう少したどってみることにしよう。

永野健二『バブル』を読む(1) [われらの時代]

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「1980年代後半に、日本はバブル経済を経験した。バブル経済とは好景気のことではない。特定の資産価格(株式や不動産)が事態から掛け離れて上昇することで、持続的な市場経済の運営が不可能になってしまう現象である」
 本書は1980年代の日本で、なぜバブルというユーフォリア(陶酔的熱狂)が生じたかを振り返り、そこから教訓をくみ取ろうというドキュメントである。
 著者は日本経済新聞の証券部記者として、バブルさなかの時代をつぶさに観察してきた。本書は兜町で著者が身近に経験したバブル時代の記録だともいえる。
 本書を紹介する前に、自身のことも、少し書いておこう。
 大学でほとんど授業を受けなかった全共闘世代のぼくは、レポートを提出して大学を6年かかって卒業し、友人のつてで、世代群評社というちいさな出版社にはいった。実家には帰らず、東京でくらすつもりだった。結婚を約束した彼女もいたからである。
 就職先の出版社の社長は、いわゆる総会屋だった。
 総会屋というと、こわもてのヤクザめいた人物を想像するかもしれないが、かれはそうではなかった。話好きで、面倒見がよく、気が弱いところもある好人物だった。
 70年代はじめは、まだバブル時代ではない。
 とはいえ、なぜかバブルというと、裏世界のイメージがまとわりつき、総会屋の顔もちらつく。わが社の社長は日に何度か地下のちいさな事務所に顔をだすだけだった。だから、ふだんどんな活動をしていたか、よくわからなかった。
 ぼくはこの会社を2年足らずでやめてしまう。結婚もし、子どもも生まれそうだったので、それなりに給料をもらえる会社にはいらなければならなかった。
 世代群評社の2年間は、雑誌の編集をし、いくつもの銀行や企業を回って、賛助金や広告費を集める毎日だった。営業の仕事も嫌いではなかった。総務部の人たちといろんな話ができて、それなりにおもしろかった。
 もちろん、雑誌の編集は楽しかった。社長は編集内容には口を出さなかった。あのころが編集者として、いちばん充実していたのではないか。最後の仕事が、豊浦志朗の『硬派と宿命』を出版することだった。
 豊浦志朗は本名、原田建司。のちに船戸与一と名乗って、売れっ子の冒険作家となる。その船戸与一も先ごろ亡くなってしまった。
 それから、中途採用の試験を受けて、マスコミの子会社にすべりこんだ。
 しかし、そこでやったのも、最初は営業の仕事である。
 そのセクションは、300社ほどの企業を集めて、毎月会費をとり、毎週、情報誌を発行し、毎月講演会を開き、年に1回、ゴルフコンペをして、各社の親睦をはかるといった業務をおこなっていた。ぼくは下っ端の雑務係である。
 ここでも4年半、会社回りをやっていた。30社ほど新規会員を増やして、社から努力賞ももらった。でも、身がはいらなかった。自分でもなにをやっているか、よくわからなかったのだ。身過ぎ世過ぎで毎日を送っていたような気がする。
 ニュースの現場をあつかう本社の仕事とは無縁だった。しかし、いまになってみれば、せっかくいろんな会社とつきあっていたのだから、もう少し日本の企業について勉強しておけばよかったと悔やまれる。
 79年に人事異動の話があったので、それに乗り、出版局に移った。やはり出版から離れがたかったとみえる。最初は販売部の仕事である。地下の倉庫で、本や雑誌の発送をし、先輩といっしょに取次を回った。前のセクションもそうだったが、ほとんど残業もなかった。よくさぼることができて、のんびりすごせた時代だった。夜は毎晩のように飲んだくれていたのではないか。
 それでも、どこか編集の仕事をしたいという気持ちがあったのだろう。出版局を支えていたのは音楽雑誌だったが、音楽とはほとんど無縁のぼくにはとてもこの仕事は無理だった。
 そこで、82年になんとか図書編集部にもぐりこませてもらう。図書編集部といっても、当時、一般書籍はほとんど出していなかった。年鑑と、記事を書くためのハンドブック、報道写真、それに皇室やオリンピックの写真集が中心だった。いずれも、ぼくにとっては、あまり興味のない分野である。
 そうした定期刊行物のあいだをぬって、ぼくは書籍編集の仕事をはじめた。最初に編集したのが、ノーベル化学賞を受賞した福井謙一さんの本で、ここでぼくは大失敗をしでかす。しかし、それにめげず、2冊目に出した斎藤茂男さんの『妻たちの思秋期』が大ベストセラーになった。
 その後、一時期、販売部に戻ったこともあったが、定年近くに窓際族になるまで、ほぼ20年にわたり書籍編集の仕事をすることができた。もっとやりたいことはあったが、力がおよばなかった。書籍編集者となるにはそれなりの基本的訓練が必要である。その基本がよくわかっていなかったのが、致命的だった。人づきあいも得意ではなかった。
 出版にかげりが見えはじめたのは80年代末ごろだったかもしれない。それもバブルの崩壊と関係していたのだろうか。
 年寄りの悪いくせで、長い前置きになってしまったが、本書『バブル』を読もうとして、ついつい、いろんなことを思いだしてしまった。
 こんなよしなしごとを書いていてもきりがない。
 ようやく、ここからが本論である。
 正直いって、ぼくはバブルとはあまり縁がなかった。あのころ景気がよかったという実感がない。土地や株の値段がものすごく上がったといっても、ぼく自身がその商売にからんでいたわけではない。だから、バブルは横目で見ているうちに、通りすぎていったという感じである。
 例によって、1日で読めるのは少しだけである。
 本書はバブル前の1970年代からスタートする。
 最初に日本興業銀行の話がでてくる。
 1902年に発足したこの国策銀行は、連合国軍総司令部(GHQ)によって「戦犯銀行」と指名されながら、戦後も生き残った。
 1952年に設立された日本長期信用銀行、戦前の朝鮮銀行を引き継いだ日本不動産銀行とあわせて長信銀3行と呼ばれる。
 ふり返ってみれば、世代群評社時代、この3行ともぼくの受け持ちだった。よく賛助金をもらいにいったことを覚えている。
 高校時代の友人は、東大の経済学部を卒業したあと、たしか興銀にはいったはずだ。最後はそごうの監査役になったはずだが、そのころの話をそのうち聞いてみたいと思っている。
 長期金融をおこなう長信銀は、日本の高度成長をささえるエンジンだったという。日本の金融システムは、長信銀が頂点で、その下に都市銀行、地方銀行、信用金庫というランク付けがなされていた。長信銀のなかでも、頂点に立っていたのが日本興業銀行だった。だから、興銀は日本のトップ銀行だったといってもよい。
 その会長が中山素平、1970年に難航する八幡、富士製鉄の合併をまとめ、新日鉄を誕生させた人物である。財界の鞍馬天狗と呼ばれた。
 その興銀の支配体制を揺るがす事件がおこる。
 話は1971年に三光汽船がジャパンライン株を買い占めようとしたところからはじまる。当時、日本の海運業界は日本郵船や大阪商船三井船舶など6社によって支配されていた。それを運輸省と興銀がコントロールしていた。
 三光汽船はこの体制に立ち向かったのだ。
 三光汽船の実質上のオーナーは、三木派の実力政治家、河本敏夫だった。グローバルな市場で日本の海運業界がもはや立ちゆかなくなってきたことを理解していた。そこで、三光汽船は、船舶を海外で生産し、船員を外国人とするこころみをはじめていた。
 ちなみに、ぼくの友人は、慶応大学を卒業してから、河本敏夫の秘書をしていた。その後、相生市長になるが、そういえば、かれの話もよく聞いていない。
 それはともかく、三光汽船は和光証券などを通じて、ジャパンライン株を買い占めた。著者によれば、戦後最大のM&A(企業の買収・合併)だったという。
 三光汽船は株価操作によって、資金調達力をつけながら、高株価経営を加速させていた。しかし、運輸省と興銀は、三光汽船によるジャパンライン合併を認めなかった。
 右翼の児玉誉士夫などを動かして、水面下の調整に持ちこむ。
 買収工作は失敗、ジャパンラインは三光汽船から自社株を高値で買い戻し、いっぽう児玉誉士夫は多額の報酬を受け取った。
 この事件が決着した73年はオイルショックの年。ちょうど、ぼくが世代群評社にはいった年だ。
 日本の高度成長が終わり、国際化がはじまろうとしていた。
 タンカー市況は低迷し、タンカーの運賃は73年と75年をくらべると、10分の1に落ちこんだという。
 だいぶ先になるが、ジャパンラインはけっきょく89年に格下の山下新日本汽船に吸収される。
 そのかんも興銀とアングラ社会のつながりは、ずっとつづいていた。それが、興銀の解体をもたらす一因となる。
 アングラ社会と興銀の関係は、すでに70年代から根深いものになっていたことがわかる。そして、考えてみれば、ぼく自身も総会屋の仕事の一端を担い、その後、マスコミと企業をつなぐ仕事をしていたのだから、バブルを動かす裏の事情は、けっしてひとごとではなかったのだ。
 著者は株式市場では、70年代後半に仕手グループによる株の買い占めが激しさを増していたと記している。
 有名なのはヂーゼル機器の株買い占め事件で、誠備グループの加藤暠や日本船舶振興会の笹川良一、平和相互銀行の小宮山英蔵が暗躍していた。その手口は株価をつり上げて、市場外の取引で決着をはかるというおなじみのものだ。
 これにたいし、東証理事長の谷村裕は、特別報告銘柄制度を導入して、まったをかけた。それによって、仕手グループを分断し、株価の沈静化をはかろうとしたのだという。
 特別報告銘柄制度とは、異常な動きをする銘柄を証券取引所が公表して、投資家に注意をうながし、不当な利益獲得を防止することを目的とする。
 ヂーゼル機器事件では、最終的には笹川グループの買い占めた株をいすゞ自動車や日産自動車が肩代わりすることで合意した。けっきょくは裏取引が成立したことになる。だが、この一件によって、笹川良一にたいする世間の目は厳しくなった。
 加藤暠の誠備グループの仕手戦はその後もつづいた。だが、資金繰りがむずかしくなる。ここに登場するのが、伝説の相場師、是川銀蔵である。
 是川は加藤暠の買い銘柄、石井鉄工所、日立精機、ラサ工業などに「空売り」で挑戦し、誠備グループを崩壊に追いこむ。
 70年代後半から80年代前半にかけ、兜町では仕手グループが暗躍した。だが、それも80年代半ば、投資ジャーナル事件の中江滋樹を最後に姿を消すことになる。
 株式市場は急速にグローバル化・自由化していた。それまでの閉じられた株式市場は終わりを迎えた、と著者は記している。
 だが、その過程で、異様な株価高騰が生ずるのである。
 ここで、著者は海外の状況に視線を転じる。
 70年代のアメリカの株式相場は73年がピークで、その後、ずっと低迷をつづけていた。状況が変わるのは、80年代にはいってからだ。
 アメリカの株式市場は急に活気づき、長期的な上昇局面に転じた。その理由はまちがいなくグローバリゼーションだ、と著者はいう。
 グローバリゼーションとは国の枠を越えて、ヒト、モノ、カネが動くことをいう。とりわけ、カネの動きが国際金融システムをカジノめいたものに変えてしまった。そのきっかけとなったのが、1973年の変動為替制への移行と石油価格の大幅な上昇だった。
 カジノ資本主義はジェットコースターのように荒っぽい。好景気になったかと思うと、いきなり87年のブラックマンデー、97年のアジア通貨危機、2008年のリーマンショックのような危機を招く。国際金融システムはリスクを内在している、と著者は指摘する。
 80年代の経済状況は、日本をいやおうなくグローバル化の波に巻きこんでいくことになる。
 著者は1983年に野村証券とモルガン銀行とのあいだで、信託会社をつくるという構想があったことを紹介している。信託会社は資産の運用と管理をおこなう会社だ。だが、大蔵省はこの構想を認めなかった。金融体制からすれば、外様である証券会社の野村が、勝手にモルガン銀行と話をまとめようとしていることが気にいらなかったのだという。
 それでも、大蔵省はこの一件をきっかけに金融国際化と自由化への対応を迫られることになる。あっというまに外国銀行による信託業務が認められ、投資顧問会社に一任勘定を認める投資顧問業法も成立した。
 野村証券が存在感を強めていくのは80年代からだ。国債の発行が増えるなか、公社債流通市場が生まれていた。それに為替取引が自由化され、対日、対外の債券投資が拡大していた。円建て外債も本格化する。証券会社の役割が欠かせなかった。
 銀行と証券会社が、海外を舞台に証券業務でぶつかりあう時代がはじまっていた。
 企業もまた海外、国内での社債発行を通じて、みずから資金運用を模索する「財テク」時代に突入する。銀行離れがはじまっていた。
 ここで著者は83年に大蔵省証券局長に就任し、85年に死亡した佐藤徹という大蔵官僚の鬼気迫る仕事ぶりを紹介している。資本市場の国際化(金融自由化)が進展するなか、銀行と証券会社のつばぜり合いが激しくなっていた。そんななか、佐藤は、日本で無担保社債を発行するための格付け機関を設立しようとした。証券局を資本市場局にするというのが、佐藤の思いだったという。
 さらに佐藤は興銀を投資銀行に変えようとしていた。だが、その構想も、かれの死によって挫折する。著者は金融国際化の時代に先んじようとしたある大蔵官僚の奮闘を紹介することで、その早すぎる死を悼んでいる。
 もうひとり著者が紹介するのが、M&Aの歴史をつくった高橋高見という人物である。
 高橋高見はミニチュアベアリングをつくるミネベアの社長だった。かれは日本初のTOBを行使し、果敢に企業買収を推進した。そのターゲットとなったのが、蛇の目ミシンであり、三協精機だった。だが、この企業買収はすんでのところで、失敗する。小佐野賢治の横やりがはいったり、海外投機筋の妨害があったりしたためである。
 著者はこう書いている。

〈高橋高見は、バブルの時代のはるか昔から日本のM&Aの歴史を作り、バブルの時代もバブルにまみれるのではなく、体制に穴を開け続けて逝った。高橋高見が命を賭けて闘い、切り開いてきた道は、いまや誰もが通る当たり前の道になっている。〉

 バブルがはじまる前の時代に、こういう勇猛果敢な企業経営者がいたのだ。
 そして、時代はいよいよバブルに突入していく。

『アンダーグラウンド』と『1Q84』──『村上春樹は、むずかしい』を読む(3) [われらの時代]

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 1995年。1月には阪神淡路大震災、3月にはオウム真理教による地下鉄サリン事件が発生した。
 村上春樹もショックを受けたにちがいない。
 このあたりから、世の中がおかしくなった。
 災厄つづきの時代がはじまった。
 考えてみれば、村上春樹の小説は否定の否定からはじまっていた。
 否定の否定とは、ありていにいってしまえば、そもそも全共闘運動という否定を否定することだった。
 もはや革命的蜂起は夢想でしかなくなった。その先にはなにかあるのだろうか。
 否定の否定からは、ふたつの方向が導きだされる。
 デタッチメントとコミットメントだ。
 図示すれば、こうなるだろう。

        デタッチメント=外在的否定性
       [右斜め上] 
  否定の否定
       [右斜め下]
        コミットメント=内在的否定性

 阪神淡路大震災と地下鉄サリン事件は、村上春樹にデタッチメントからコミットメントへの姿勢の転換を余儀なくさせたといってよい。
 加藤典洋もそんなことを書いている。
 ぼくの読んだ本でいうと、そのあらわれが地下鉄サリン事件の被害者と遺族62人(うち2人は掲載を拒否)からの聞き書きをまとめた『アンダーグラウンド』だったことはまちがいない。
 村上春樹はオウム真理教によるこの事件に異様なくらい関心をひきつけられた。
 加藤典洋は、この聞き書き『アンダーグラウンド』で、村上ははじめて「ただの人」、すなわち日本のサラリーマンたちと出会った、と書いている。でも、たぶんそんなことがポイントではない。凶悪ともいうべき否定性にひきつけられたのだ。
 地下鉄サリン事件は、被害者の経験をとおして、じつにリアルに再現されている。
 1997年に本書が発売されたとき、ぼくはすぐに買って、読み、30枚ほどの長い感想を書いた。
 その一部をひろってみる。
「爆弾ならともかく、[ポリ袋から]じわりじわりと漏れだしてくる妙な液体が、それほど危険だとはふつうは思わない。爆発も閃光もないまま、ただ息をしているだけで、いつのまにか死の淵に立たされる。ここから想定されるのは静まりかえった死の光景だ。だが、その前に乗客は危険が迫っていることに気づく」
 この事件で死者は13人、被害者は約6300人におよんだ。
 村上自身は、オウム真理教を、麻原彰晃という奇妙な指導者に率いられたカルト集団ととらえている。
 そして、こんなふうに書いていた。

〈私たちの社会はそこに突如姿を見せた荒れ狂う暴力性に対して、現実的にあまりに無力、無防備であった。我々はその到来を予測することもできず、前もって備えることもできなかった。またそこに出現したものに対して、機敏に効果的に対応することもできなかった。そこであきらかにされたのは「こちら側」のシステムの構造的な敗退であった。〉

 ここから導かれる結論は、警察による事件の解明と、それにもとづく危機管理体制の確立がだいじだということになるだろう。
 しかし、発売早々この本を読んだぼくは、どこか不満を覚えていた。
 そして、こんなふうに感想を書きつけている。
「この本は通常の犯罪ドキュメンタリーのように犯人の性格や動機、行動を中心に事件を追っているわけではない。だから、オウム真理教の引き起こした地下鉄サリン事件の全容は、この本を読んでもわからない。特異な宗教団体と犯罪との関係、教祖である麻原彰晃の目的と動機、それに実行者の心理と行為についても、あまり多くは書かれていない。事件の全容が解き明かされるまでには、これからも多くの時間と努力が必要とされることだろう」
 ずいぶんいい気なものだと思わないわけにはいかない。
 村上春樹はさらに努力して、元オウム真理教の信徒からも聞き書きをおこない『約束された場所で』という本を出版しているのだから。それを、ぼくは読んでもいない。
 しかし、村上春樹の超人的な努力をもってしても、オウム真理教の闇はまだ解明されていないというべきだろう。
 だが、この聞き取り経験をもとに、村上春樹は小説世界において、さらに闇の奥に向かおうと決意したのだろう。加藤典洋もそう書いている。
 1999年の『スプートニクの恋人』、2000年の『神の子どもたちはみな踊る』、2002年の『海辺のカフカ』、2004年の『アフターダーク』は読んでいない。
 ぼくが読んだのは2009年から10年にかけて発表された『1Q84』だけである。
 ところが、その記憶がはっきりしない。たぶん2009年に1部と2部を買って、2日ほどで読み終えたはずだ。エンターテインメントとして、すなおにおもしろかったが、何だこれという感想もいだいた。
 第3部は買ったのかどうかもはっきりしない。いずれにせよ、本はたぶん娘がもっていってしまったので、いま手元に残っていない。
 最近はぼけが進んで、なにもかもすぐ忘れてしまう。
 それで、加藤典洋にしたがいながら、話を進めるほかないのだが、加藤は全3部を読んで、「未了感が消えない」という感想をいだいた。つまり、完結感、達成感がないというのだ。
『1Q84』はどんな小説なのだろう。
 加藤の本から引用してみる。

〈この小説は、もと護身術インストラクターの女主人公青豆が、TV番組の『必殺仕掛人』よろしく「正義」のため、世のきわめて悪質なDV男性──「ネズミ野郎」──たちを鍼灸術的秘儀で殺人の痕跡もなしに抹殺していく冒険譚と、予備校数学教師で小説家志望の青年天吾が、ふかえりという不思議な少女の書いた新人応募作『空気さなぎ』のリライトを編集者に頼まれ、引き受けたことから、面倒な新宗教がらみのトラブルにまきこまれていく話とが、交互に語られて進む。
 背景には新宗教集団の秘められた動きがあり、青豆は、幼女を巻きこんだ性的秘儀を繰り返す教団の指導者『リーダー』の殺害を「柳屋敷」の「老婦人」に支持され、これを実行し、天吾は作品『空気さなぎ』を世に出し、期せずしてその教団の「ご神体」をなす「リトル・ピープル」の秘密を暴くことに関わり、それぞれ教団組織、ご神体集団に追われる身となる。〉

 そして、じつは青豆と天吾は小学校時代の同級生で、赤い糸で結びあっているから、この小説は愛の物語でもある。
 だが、全3部を読みつくしたあと、加藤は「これでは、青豆の物語が、終わらない」と感じたという。それが、かれのいう未了感である。

〈青豆は、人を殺した。どうすれば、人を殺した青豆が、その後、天吾との「愛」のもとで、ことによれば「リーダー」の種を宿した赤ん坊とともに、生きていけるのか、というのが、このあと書かれなければならないことである。〉

 謎が謎呼ぶ殺人事件ではないが、世の中は解けない謎に満ちている。
 それがひとつでも解ければ、いい人生だったということになるだろう。解けたと思った答えがまちがっていることもある。
 村上春樹は否定の否定を重ねることで、解けない謎にいどもうとしている。はたして、災厄の時代を乗り越えていく力を、はたしてわれわれはどこにみいだせばよいのだろうか。
 だが、おそらく答えはすでに出ているのだ。
 否定の否定はもし制度に帰着するならば、永劫回帰を繰り返すほかないだろう。最悪の場合、それはファシズムやスターリニズムに行き着いて、さらに大きな災厄をもたらす。
 ここで、とつぜん、ロシアの作家、シャラーモフのことばを思いだす。
「愛は最後にやってくる。愛は最後に蘇(よみがえ)る」
 何十年もシベリアのラーゲリ(強制収容所)を経験したシャラーモフは、人間の最初の感情が憎しみであることを、いやなくらい知っている。
 それでも、かれはいうのだ。
「愛は最後にやってくる。愛は最後に蘇る」
 村上春樹も否定の否定がいきつく先が、最後は愛であることを、ついにつかんだのではないだろうか。

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