So-net無料ブログ作成
検索選択
われらの時代 ブログトップ
前の10件 | -

永野健二『バブル』を読む(4) [われらの時代]

 1989年末に3万8915円の最高値をつけた株価は90年にはいると急落。その1年半後、地価も落ちはじめた。これにより銀行は膨大な不良債権をかかえることになる。
 そうしたなか、尾上縫という大口個人投資家の名前がとつぜん浮かび上がる。大阪ミナミで料亭を経営していた女性である。
 尾上は興銀から特別金融債「ワリコー」を2500億円買い付け、それを担保に興銀などの銀行やノンバンクから資金借り入れ、それを株式投資や土地購入に振り向けていた。
 尾上の資金は、もともと大阪経済界の有力者から出ていたという。だが、気の遠くなるほど巨額というわけではない。
 はじまりは、87年5月に興銀の難波支店長が、飛びこみで尾上から10億円のワリコーを契約したことだった。それが融資につながり、株や土地への投資、さらにワリコー購入と次々に回転し、雪だるま式に巨額の資産へとふくらんでいく。
 89年末に尾上の金融資産は6182億円になっていた。それを指南したのが、興銀だったことはまちがいない。
 しかし、尾上の資産は、バブル崩壊を受けて、90年末には2650億円にまで減少し、負債額は逆に7271億円に膨らんでいた。負債額はピーク時、1兆円を超えていたという。
 その過程で、東洋信用金庫が尾上名義で、3420億円の架空預金証書を発行するという事件も発生している。この事件によって尾上縫は逮捕され、破産宣告を受けた。
 しかし、それは単なる詐欺事件では終わらなかった。尾上縫をあやつった興銀の犯罪性が徐々にあばかれていく。こうして、巨額の不良債権をかかえた興銀は、ついに2002年に解散を余儀なくされる。そして、富士銀行、第一勧業銀行とともに、みずほ銀行として再編されることになる。
「日本の戦前の近代産業の発展を支え、戦後はまさに日本の『戦後システム』のフラッグシップとして、敬意と尊敬を集めたモデル企業は、こうして消滅の道を歩んだ」と、著者は述懐している。
 バブル崩壊後、株価暴落により個人投資家や中小企業は大きな痛手をこうむった。しかし、日立やトヨタ、松下電器、日産、丸紅といった一流企業や年金福祉事業団などは、証券会社から補填を受けていたことがあきらかになる。
 ほかにも、大手証券会社のかずかずのスキャンダルが発覚、野村証券や日興證券の社長が辞任に追いこまれた。
 公表されたところでは、証券会社が一流会社などに支払った損失補填額は1200億円以上とされる。だが、それは氷山の一角だった。公表された損失補填額は、一種の大口手数料割引にすぎなかった、と著者はみる。
 89年12月のピーク時に、証券会社は企業から預かった20兆円前後の営業特金をかかえていた。それが株式に投資されていたとしたら、株価が半分になった時点で、10兆円の損害が出ていてもおかしくなかった。だとすれば、公表された証券会社の損失補填額は営業特金の0.6%にすぎない、と著者はいう。
 証券会社の営業特金とは、いってみれば「事業会社や機関投資家が、証券会社と結ぶ『大口預金』契約だった」。80年代後半、企業や機関投資家の財務担当者は、証券会社と信託銀行に、利回り保証を前提に、みずからの資金の運用をまかせていた。
 それがお寒い財テクの実態だった、と著者は書いている。
 実際にどれだけ損失補填がなされたかはわからない。しかし、バブル崩壊によって損害をこうむったのは、個人投資家や中小企業だけではあるまい。大企業も銀行も証券会社もその損害は大きかったのである。
 いずれにせよ、バブル崩壊によって、甘い財テクなど存在しないことが明らかになったのはたしかである。
 1992年8月11日に日経平均株価は1万5000円を割り込んだ。
 日銀の公定歩合は、89年5月以降、わずか1年強のあいだに、2.5%から6.0%へと段階的に引き上げられていた。その指揮をとったのが、日銀総裁となった三重野康である。
 いっぽう、大蔵省も90年3月に不動産関連融資にたいする総量規制を打ち出した。それによって不動産価格が下がりはじめる。
 1992年にはいると、株価と土地価格の暴落が、信用システムの崩壊を招きかねない状況になってきた。土地神話に加えて、銀行不倒神話までが、過去のものとなりつつあった。
 当時の首相、宮沢喜一は公的資金の投入も辞さないと表明したものの、それは決意にとどまる。じっさい、宮沢は不良債権を処理するため、金融機関に公的資金を投入するつもりでいた。だが、それは大蔵省と大手銀行首脳の反対によって阻まれたのだ、と著者はいう。
 そのことによって、その後の不況が長期化した。著者は宮沢の直感こそが正しい判断だったと、バブル処理が遅れたことを残念がる。
「大蔵省の危機意識の欠落と、銀行経営者の自己保身が、宮沢構想をつぶした」と著者は書いている。
 宮沢自身はのちにこう述べている。
「我慢していれば、いずれ株価も地価も上がる。まだそんな楽観論が支配して、結果として不良債権処理が遅れてしまった」
 こうして、「失われた10年」いや「20年」がつづくことになる。
 世界経済が変動相場制に移行するなかで、新しい仕組みづくりや制度改革を先送りにしてきたことが、日本が混乱におちいった原因だ、と著者はいう。

〈日本のリーダーたちは、円高にも耐えうる日本の経済構造の変革を選ばずに、日銀は低金利政策を、政府は為替介入を、そして民間の企業や銀行は、財テク収益の拡大の道を選んだ。そして、異常な株高政策が導入され、土地高も加速した。
 その大きなツケを支払う過程が「失われた20年」といわれる、バブル崩壊から現在まで続くデフレ状況である。アベノミクスというのは、80年代のバブル時代の失政を償うための経済政策でもあるのだ。〉

 著者はアベノミクスに懸念をいだいている。
 それは日本経済を水ぶくれにするだけで、筋肉質にするものではないからだ。

永野健二『バブル』を読む(3) [われらの時代]

 1988年から89年にかけては、バブル狂乱の時代だった。
 ちょうど昭和から平成へと年号が変わる時期である。
 リクルート事件はそのさなかにおこった。
 リクルート社長の江副浩正が、子会社リクルートコスモスの未公開株を政治家や官僚、経営者、マスコミなどに配り、1件数千万円単位の利益を供与したとされる事件である。
 この事件により、藤波孝生官房長官や、真藤恒NTT会長をはじめ、労働省、文部省の次官などが逮捕され、竹下登内閣は総辞職した。
 江副浩正は就職広告や情報通信分野に新しい波をおこした人物だった。リクルートコスモスは、リクルートグループの不動産会社で、ほかにリクルートにはファーストファイナンスという金融会社があった。
 江副は自身が経営者をしているとき、リクルート本体の株式公開を認めなかった。不動産と金融はどちらかというと、江副が嫌っていた分野だったという。
 事件が発覚すると、世間から怒りが巻き起こったことはいうまでもない。
 政官財癒着ということばも生まれた。
 裁判は長引き、10年以上におよんだ。結果は、リクルートコスモス株の賄賂性が認められ、江副は2003年に懲役3年執行猶予5年の有罪となった。
 この事件により、江副は経営者としての地位を失い、失意の晩年を送った。
 田原総一郎はリクルート事件が「国策捜査」だったという。
 著者もまたリクルート事件は「ご都合主義で検察が正義の基準を決めて立件する仕組み」から生まれた、いびつな事件だったと述べている。
 そういうのは、傑出した経営者としての江副の才覚を惜しんでのことである。それでも、違法か合法かはともかく、未公開株を配ること自体が、ふつうの人の感覚でいう賄賂であったことはまちがいないだろう。
 バブルのころは野心家の時代だった。
 そんなひとりが高橋治則である。
 イ・アイ・イ・インターナショナルという会社を率い、85年から4年間で、銀行から1兆5000億円を借り入れ、国内外の不動産やホテル、ゴルフ場を買いあさった。その主力銀行が日本長期信用銀行だった。
 高橋のやり方を著者は「慶応ボーイの空虚な信用創造」と呼んでいる。
 高橋は家業の電子周辺機器商社の後を継いだが、それに飽き足らず、不動産や株の投資に乗りだす。その過程で、東京協和信用組合の理事長に就任したことがきっかけで、バブルの寵児となっていく。
 高橋が徹底的に利用したのが慶応閥だったという。三洋証券社長の土屋陽一と結びついたのも、そうした関係である。
 かれはひたすら拡大路線を突っ走った。
 資金繰りの悪化が表面化するのが90年末、長銀がはいって、整理をはじめるが時すでに遅し。
 東京協和信用組合にも公的資金が投入され、高橋は業務上横領の容疑で逮捕された。
 三洋証券が倒産するのは97年、長銀が破綻するのはその翌年である。
 長銀の債務超過額は3兆6000億円、その全額が公的資金でまかなわれた。
 バブルに踊った買い占め屋は高橋治則だけではない。光進の小谷光浩、麻布土地の渡辺喜太郎、第一不動産の佐藤行雄、秀和の小林茂などもそうである。
 著者は、そのなかでも経営センスのあった人物として小林茂の名前を挙げている。コンパと呼ばれるスナックバー形式の酒場をつくり、秀和レジデンスと呼ばれる一連の建て売りマンションを建てたのが小林である。
 秀和は巨額の負債をかかえ、2005年にモルガン・スタンレー証券に1400億円で買収されることになる。
 小林茂の活躍は、88年から90年にかけて、流通業界関連株を大量に取得し、一時、流通再編の目になったことで知られる。
 伊勢丹、松坂屋、忠実屋、いなげや、長崎屋、ライフストアなどがターゲットにはいった。小林は中堅スーパーを大合同して、1兆円規模のスーパーを設立したいと願っていたという。
 だが、そのM&Aはうまくいかない。忠実屋といなげやは相談しあって、防衛策に走った。
 しかし、その後、日本の流通業界が再編されていくのをみると、小林には先見の明があった。だが、それはエスタブリッシュメント側による再編だった。小林はそのエスタブリッシュメントに体を張っていどみ、ついに敗れ去った、と著者はいう。
 M&Aが本格化しはじめていた。
 1989年3月、アメリカの投資家ピケンズは、トヨタ系列の部品メーカー、小糸製作所の株式20.2%を取得して、筆頭株主となった。その狙いはサヤ取り。ピケンズの黒幕は麻布建物の渡辺喜太郎だったという。
 だが、トヨタの会長、豊田英二は小糸の株を肩代わりすることを拒否し、安定株主比率を守り抜いた。
 89年から2年のうちにバブルは崩壊する。小糸製作所の株も半値近くになって、麻布建物は大きな損害をこうむり、けっきょく倒産に追いこまれる。ピケンズも手を引いた。
 製造業の経営者としての意地が、バブルの時代のサヤ取りを粉砕した。しかし、ピケンズの動きは、金融自由化とグローバリゼーションのもとでM&Aが本格化する時代を先取りしていた、と著者は述べている。
 バブル真っ盛りのころ仕手グループ光進の小谷光浩は、相場師としてセンセーションを巻き起こした。
 小谷は、蛇の目ミシン、国際興業、藤田観光、協栄産業、東洋酸素などの大株主となった。当初、その出資元はよくわからなかった。だが、それが住友銀行であることがしだいにわかってくる。
 小谷は90年7月に、証券取引法違反容疑で逮捕される。住友銀行は知らぬ顔を決めこむ。しかし、その10月には住友銀行青葉台支店長の山下彰則が、仕手戦の資金づくりで小谷に協力していたとして、逮捕されるにいたる。
 住友銀行はそのころ磯田一郎会長のもと、イトマンの処理に苦しんでいた。イトマンは住友銀行の商社部門で、住友銀行銀行の常務だった河村良彦が社長を務めていた。その河村が常務に据えたのが、協和綜合開発研究所の伊藤寿永光だった。
 伊藤寿永光は、総額700億円近い不動産や美術品を買いこんでいた。背後には関西の裏社会の顔役、許永中が暗躍していた。
 磯田一郎は小谷問題で、支店長が逮捕された責任を取って辞任する。イトマン事件には言及されないままだった。だが、辞任の背景にイトマン事件がからんでいたことはいうまでもない。
 磯田の後任となったのが、西川善文である。西川はその後、8年間、住友銀行の頭取をつとめ、さらに2006年から3年間、日本郵政の社長となる。
 だが、西川の回顧録には、バブルをふくらませた住友銀行の責任について、ほとんど反省の言は書かれていないという。
 いっぽう、熱狂相場の終わりを早くから読んでいたのが、野村証券会長の田淵節也だった、と著者はいう。
 90年2月、相場は昨年末の3万8957円から下がりはじめていたが、株式市場ではまだ強気の意見が多かった。それにたいし、田淵はバブルの崩壊が間近に迫っているとみていた。
 田淵は、銀行の有担保主義がつくりあげた土地神話が、土地バブルを生んだと考えている。バブルの崩壊は全銀行におよぶだろう。だが、株式市場でバブルの増殖を加速した責任は、証券会社にもあると感じていた。

〈株高の崩壊は、土地価格の下落につながる。住専などのノンバンクの破綻につながる。そして仕上げは、大蔵省と銀行が持ちつ持たれつで守り続けてきた銀行不倒神話の崩壊である。〉

 田淵はこうしたシナリオを読み切っていた。
 だが、このシナリオがあたることは、証券界のドンと呼ばれてきたみずからの破局をも意味する。
 田淵のつきあいは多岐におよんだ。清濁併せ呑むというタイプの経営者だったという。
 バブルの崩壊によって、田淵はみずからの運命を静かに受け入れようとしていた、と著者は書いている。
 そして、90年以降、バブルの清算がはじまるのである。
 次回はそのことをみておきたい。

永野健二『バブル』を読む(2) [われらの時代]

 日本のバブルのきっかけは、1985年9月22日のプラザ合意だった。ドル高是正するため、各国通貨当局が協調介入することが決まった。
 それにより、円ドル・レートは円高に振れ、1ドル=242円だった円相場は1年後には150円台で取引されるようになる。
 71年のニクソンショック(金ドル兌換停止)、73年の変動相場制への移行から十数年たっていた。プラザ合意は、アメリカ一国時代の終わりを象徴していた。もはやアメリカだけで世界経済をリードできなくなっていた。G7(先進7カ国)の時代がはじまろうとしていた。
 プラザ合意のもたらす円高ドル安は、日本経済を危機におとしいれるのではないかと考えられた。そのため日銀は公定歩合を86年1月の5.0%から87年2月の2.5%へと5回にわたり引き下げる。
 そのことが日本の構造改革を遅らせ、金融機関を不動産投資に向かわせてしまう原因だったのではないか、と著者は指摘している。
 86年4月には、元日銀総裁、前川春雄による、いわゆる「前川レポート」がだされた。内需拡大、産業構造の転換、市場アクセスの改善がうたわれていた。だが、このレポートはしっかりと議論されることなく、日本は金融引き締めの時期を失してバブル経済の渦中に突っ込んでいった、と著者はいう。
 日本のバブルは、資産バブルである。とりわけ、地価が急速にあがった。その原因は、銀行が土地融資にのめりこんだことだ。
 企業会計には含み益というのがあるらしい。含み益とは取得原価(簿価)と時価の差益をいう。
 メインバンクは土地の含み益を担保に、企業に融資をおこなった。これによれば、たとえ赤字でも、土地価格が上昇しつづけるかぎり、企業は引きつづき融資を受け、存続することが可能になる。
 日本の地価は上がりつづけるという土地神話が、日本の金融を支えていた。
 土地の含み益は企業の評価にもつながり、有利な土地を所有しているとみなされるだけで、企業の株価も上昇した。
 低金利のもと、銀行は不動産融資を加速する。企業だけではなく、サラリーマンもそれに飛びついた。本来なら融資の枠は土地価格の70%が相場なのに、120%まで認める金融機関まででてくるほどだった。
 こうして東京の住宅地の地価は、87年に22%、88年に69%、89年に33%、90年に56%上昇した。
 著者はこう書いている。

〈86年から89年に発生した、土地・株式のキャピタルゲインは1452兆円にのぼり、家計が得たキャピタルゲインは89年だけで260兆円となった。土地と株価は、連動して上がることが当然のようになっていた。誰もがユーフォリアに酔っていた。日本のGDPが400兆円の時代だった。〉

 こうして、2、3年のうちにいきなり資産が増えた。とはいえ、土地や株をもたない個人にとっては、まったく関係のない話だった。
 個人にしてみれば、たとえ一戸建ての住宅やマンションに住んでいたとしても、それを簡単に売るわけにもいかなかった。たとえ売ったところで、別の家やマンションを買わなければならなかったから、資産が倍増したといっても、ほとんど意味はなかったともいえる。
 だから、誰もがユーフォリアに酔っていたというより、ぼくなどは、キツネにつままれたみたいな気持ちで、株価や地価が上がっていくのを、指をくわえて見ていた。もっとも、幸い、そのころはすでに一戸住宅に住んでいたから、そんなのんきなことがいえたのである。
 だが、これからマンションや土地を買おうという人はたいへんだった。まして、高値で買ったマンションが、バブル崩壊後、大暴落し、それでも多額のローンを払いつづけなければいけなかったことを考えれば、バブルの罪は大きかったのである。
 とはいえ、証券会社にとっては、80年代後半、株式相場はまさに熱狂のうちにあった。
 著者は86年当時、懇意にしていた、山一証券の成田副社長から深刻な話を聞いている。
 それは、山一が地道な路線から逸脱して、企業から一任勘定で自由に扱える営業特金を1兆円集める作戦を展開しているという話だった。
 なかには、あやしげなスキャンダルもまじっていた。それが97年の山一倒産にいたる第一歩だったことを、当時、ほとんどの人は気づかなかった。
「三菱重工CB事件」というのがあった。CBとはいわば転換社債のこと。
 転換社債は発行価格で証券会社に配分され、証券会社はその一部を顧客に配分できる。発行価格の転換社債をもっている顧客は、上場直後の値上がりが期待できる。そうなれば、顧客は労せずして巨額の利益を手にする。いわば、有力顧客優遇サービスである。
 山一証券が三菱重工の転換社債を事前に配分した顧客は、ほとんどが総会屋だったという。そのリストが外部に漏れた。山一は総会屋をうまく使って、企業から特金を集めようとしていたのかもしれない。
 当時、企業社会ではすでに総会屋一掃作戦が広がっていた。検察は成田を事情聴取したものの、けっきょく動かなかった。
 そして、山一証券はリスト漏洩の責任を成田副社長に押しつけ、成田が自殺することになる。
 その後、山一証券は営業特金路線をつっぱしり、大失敗した末に粉飾決算に走り、あげくのはて自主廃業に追いこまれるのである。
 1987年2月にはNTT株が上場された。民営化が本格化しようとしていた。一般売り出し値の119万7000円にたいし、初値は160万円という好調なすべりだしだった。
 NTT内部では、ホンネのところ1株50万円弱が相場とみられていた。ところが、当時の市場の雰囲気から1株119万7000円と決められたのだ。
 これにたいし申込者数は1060万に達し、6.4倍の抽選率になった。このとき抽選にあたったかどうかわからないが、たしか、ぼくの義母もNTT株を買って、最初は喜んでいたはずだ。
 上場から3カ月後、NTT株は318万をつけた。それが7月には225万まで下げる。そして、89年10月には135万円になった。
 88年から89年にかけてバブル相場はピークを迎えていた。にもかかわらず、NTT株が低迷したのは、政府が追加の売り出しを強行したからである。それによってNTTは完全民営化に移行する。
 ところがである。バブルが崩壊したあとの92年には、NTT株は当初の試算値である50万円に迫っていた。NTT株に泣かされた人は多いだろう。
 NTTの民営化を推し進めたのは中曽根康弘と民営化初代社長になる真藤恒である。その真藤は89年3月にリクルート事件で逮捕されることになる。
 NTT経営者も、監督官庁の郵政省、政治家もバブル相場に便乗して、投資家をくいものにした。それは、あまりにも無責任ではなかったか、と著者は批判している。
 1987年10月19日、ニューヨークでは株が22.6%暴落する、いわゆるブラックマンデーを経験した。翌日、日本でも株価は14.9%下落。それから1カ月、株価は乱高下する。だが、その後、日経平均は上昇に転じ、88年4月にブラックマンデー直前の2万6643円を上回る。そのあとは一本調子となり、狂乱のバブル相場に突入した。
 ブラックマンデーでいったん冷やされたあと、バブルが破裂するのではなく、むしろバブルが膨張したのはどうしてだろう。
 ブラックマンデー以降も、日本は公定歩合2.5%の超低金利政策をつづけた。それだけではない。大蔵省は、含み損を表面化させないで、積極的に財テクをつづけるよう、企業を指導した。
 このあたりの会計処理のあやはぼくにはよくわからない。いずれにせよ、ここで大蔵省はブレーキを踏むのではなく、むしろアクセルを踏むよう指導したのだ。
 その結果、財テク資金は涸れることなく、証券会社では営業特金と呼ばれる投資資金が膨張していった。営業特金とは、企業や公的機関、生保などが証券会社とのあいだで取り結ぶ「利回り保証」をした運用商品だという。ほんらいは利回り保証などないはずだ。それを保証してもらい、証券会社に資金を預けて、一任勘定で運営してもらう。俗に「にぎり」というそうだ。
 このころ、銀行は低金利であふれかえった資金を、企業などの土地投資にだけではなく、特金・ファントラによる資金運用にも融資していたという。銀行が企業にどんどんカネを貸して、土地を買わせ、証券会社を通じて株を買わせているのだから、バブルが膨れあがらないわけがない。こうして、日経平均は88年1月の2万2000円台から89年12月29日の3万8957円まで、右肩上がりで上昇する。
 大蔵省が財テクの異常な実態に危機感をいだきはじめたのは89年末になってからである。証券会社に利回りを確約した営業特金などを90年3月までに整理するよう通達を出した。しかし、時すでに遅かったのである。
 財テクをはじめたのは商社だという。とくに三菱商事が金融業務に力をいれ、財務部門の役割を強化した。これとは対照的に、三井物産は財テクから一歩距離をおいていた。三井物産の資金部長、福間年勝は利回りを保証するという「握り」をまったく信用していなかった。その結果、バブルの時代を慎重に乗り切り、その後の破裂から深刻な影響を受けるのを免れたのだという。
 この時代には財テク企業も登場している。著者が紹介するのは阪和興業だ。阪和興業は新日鉄に出入りする一鉄鋼商社にすぎなかったが、その社長、北茂は財テク中心の経営に舵を切り、ワラント債を発行して資金を集め、その資金や銀行からの借入金を、特金やファンドトラスト、外国為替取引、土地売買に投入した。
「阪和興業の経営陣に欠落していたのは、上場企業としてのガバナンスと、変動する市場のリスクへの自覚だった」と著者は書いている。しかし、その稼ぎっぷりに「銀行や証券会社は砂糖にむらがる蟻のように、阪和興業の支払う金融・証券の手数料にすり寄っていった」のも事実だった。
 ところで、87年10月から88年9月にかけて、ぼくはふたたび出版営業の仕事に舞い戻り、書店回りや地方の新聞社回りをしていた。
 そのころ、ラビ・バトラの『1990年の大恐慌』という本を読んだことを覚えている。たしか、88年の春だったと思う。
 そこには、こんな予言が記されていた。
 1990年のある日、突然ドルの下落と円の急激な上昇が引き金になって、東京の株式相場が崩壊する。日本企業はいっせいに海外の資産を引き上げ、ニューヨークやロンドンでも株が大暴落し、世界大恐慌が幕を開ける。物価は下落し、企業倒産が続発して、失業者が急増する。一夜にして、人々は路頭に迷い、あちこちの街角で食料を求める長蛇の列が生まれる。こういう恐るべき事態が少なくとも6年はつづく。
 ラビ・バトラの予言がショックだったのは、ぼく自身、ケインズ時代になって、もう恐慌などおこらないと信じていたからである。しかし、そうではない、とラビ・バトラは予言していた。
 いまからふり返ると、ラビ・バトラの予言は、あたったともいえるし、あたらなかったともいえる。
 たしかに90年はバブルの崩壊した年になった。それから、日本は平成の失われた20年を経験する。それでも、その大不況は1929年の大恐慌とはどこかちがっていた。
 そのあたりの様子を、本書からもう少したどってみることにしよう。

永野健二『バブル』を読む(1) [われらの時代]

5138khxiNlL._SX337_BO1,204,203,200_.jpg
「1980年代後半に、日本はバブル経済を経験した。バブル経済とは好景気のことではない。特定の資産価格(株式や不動産)が事態から掛け離れて上昇することで、持続的な市場経済の運営が不可能になってしまう現象である」
 本書は1980年代の日本で、なぜバブルというユーフォリア(陶酔的熱狂)が生じたかを振り返り、そこから教訓をくみ取ろうというドキュメントである。
 著者は日本経済新聞の証券部記者として、バブルさなかの時代をつぶさに観察してきた。本書は兜町で著者が身近に経験したバブル時代の記録だともいえる。
 本書を紹介する前に、自身のことも、少し書いておこう。
 大学でほとんど授業を受けなかった全共闘世代のぼくは、レポートを提出して大学を6年かかって卒業し、友人のつてで、世代群評社というちいさな出版社にはいった。実家には帰らず、東京でくらすつもりだった。結婚を約束した彼女もいたからである。
 就職先の出版社の社長は、いわゆる総会屋だった。
 総会屋というと、こわもてのヤクザめいた人物を想像するかもしれないが、かれはそうではなかった。話好きで、面倒見がよく、気が弱いところもある好人物だった。
 70年代はじめは、まだバブル時代ではない。
 とはいえ、なぜかバブルというと、裏世界のイメージがまとわりつき、総会屋の顔もちらつく。わが社の社長は日に何度か地下のちいさな事務所に顔をだすだけだった。だから、ふだんどんな活動をしていたか、よくわからなかった。
 ぼくはこの会社を2年足らずでやめてしまう。結婚もし、子どもも生まれそうだったので、それなりに給料をもらえる会社にはいらなければならなかった。
 世代群評社の2年間は、雑誌の編集をし、いくつもの銀行や企業を回って、賛助金や広告費を集める毎日だった。営業の仕事も嫌いではなかった。総務部の人たちといろんな話ができて、それなりにおもしろかった。
 もちろん、雑誌の編集は楽しかった。社長は編集内容には口を出さなかった。あのころが編集者として、いちばん充実していたのではないか。最後の仕事が、豊浦志朗の『硬派と宿命』を出版することだった。
 豊浦志朗は本名、原田建司。のちに船戸与一と名乗って、売れっ子の冒険作家となる。その船戸与一も先ごろ亡くなってしまった。
 それから、中途採用の試験を受けて、マスコミの子会社にすべりこんだ。
 しかし、そこでやったのも、最初は営業の仕事である。
 そのセクションは、300社ほどの企業を集めて、毎月会費をとり、毎週、情報誌を発行し、毎月講演会を開き、年に1回、ゴルフコンペをして、各社の親睦をはかるといった業務をおこなっていた。ぼくは下っ端の雑務係である。
 ここでも4年半、会社回りをやっていた。30社ほど新規会員を増やして、社から努力賞ももらった。でも、身がはいらなかった。自分でもなにをやっているか、よくわからなかったのだ。身過ぎ世過ぎで毎日を送っていたような気がする。
 ニュースの現場をあつかう本社の仕事とは無縁だった。しかし、いまになってみれば、せっかくいろんな会社とつきあっていたのだから、もう少し日本の企業について勉強しておけばよかったと悔やまれる。
 79年に人事異動の話があったので、それに乗り、出版局に移った。やはり出版から離れがたかったとみえる。最初は販売部の仕事である。地下の倉庫で、本や雑誌の発送をし、先輩といっしょに取次を回った。前のセクションもそうだったが、ほとんど残業もなかった。よくさぼることができて、のんびりすごせた時代だった。夜は毎晩のように飲んだくれていたのではないか。
 それでも、どこか編集の仕事をしたいという気持ちがあったのだろう。出版局を支えていたのは音楽雑誌だったが、音楽とはほとんど無縁のぼくにはとてもこの仕事は無理だった。
 そこで、82年になんとか図書編集部にもぐりこませてもらう。図書編集部といっても、当時、一般書籍はほとんど出していなかった。年鑑と、記事を書くためのハンドブック、報道写真、それに皇室やオリンピックの写真集が中心だった。いずれも、ぼくにとっては、あまり興味のない分野である。
 そうした定期刊行物のあいだをぬって、ぼくは書籍編集の仕事をはじめた。最初に編集したのが、ノーベル化学賞を受賞した福井謙一さんの本で、ここでぼくは大失敗をしでかす。しかし、それにめげず、2冊目に出した斎藤茂男さんの『妻たちの思秋期』が大ベストセラーになった。
 その後、一時期、販売部に戻ったこともあったが、定年近くに窓際族になるまで、ほぼ20年にわたり書籍編集の仕事をすることができた。もっとやりたいことはあったが、力がおよばなかった。書籍編集者となるにはそれなりの基本的訓練が必要である。その基本がよくわかっていなかったのが、致命的だった。人づきあいも得意ではなかった。
 出版にかげりが見えはじめたのは80年代末ごろだったかもしれない。それもバブルの崩壊と関係していたのだろうか。
 年寄りの悪いくせで、長い前置きになってしまったが、本書『バブル』を読もうとして、ついつい、いろんなことを思いだしてしまった。
 こんなよしなしごとを書いていてもきりがない。
 ようやく、ここからが本論である。
 正直いって、ぼくはバブルとはあまり縁がなかった。あのころ景気がよかったという実感がない。土地や株の値段がものすごく上がったといっても、ぼく自身がその商売にからんでいたわけではない。だから、バブルは横目で見ているうちに、通りすぎていったという感じである。
 例によって、1日で読めるのは少しだけである。
 本書はバブル前の1970年代からスタートする。
 最初に日本興業銀行の話がでてくる。
 1902年に発足したこの国策銀行は、連合国軍総司令部(GHQ)によって「戦犯銀行」と指名されながら、戦後も生き残った。
 1952年に設立された日本長期信用銀行、戦前の朝鮮銀行を引き継いだ日本不動産銀行とあわせて長信銀3行と呼ばれる。
 ふり返ってみれば、世代群評社時代、この3行ともぼくの受け持ちだった。よく賛助金をもらいにいったことを覚えている。
 高校時代の友人は、東大の経済学部を卒業したあと、たしか興銀にはいったはずだ。最後はそごうの監査役になったはずだが、そのころの話をそのうち聞いてみたいと思っている。
 長期金融をおこなう長信銀は、日本の高度成長をささえるエンジンだったという。日本の金融システムは、長信銀が頂点で、その下に都市銀行、地方銀行、信用金庫というランク付けがなされていた。長信銀のなかでも、頂点に立っていたのが日本興業銀行だった。だから、興銀は日本のトップ銀行だったといってもよい。
 その会長が中山素平、1970年に難航する八幡、富士製鉄の合併をまとめ、新日鉄を誕生させた人物である。財界の鞍馬天狗と呼ばれた。
 その興銀の支配体制を揺るがす事件がおこる。
 話は1971年に三光汽船がジャパンライン株を買い占めようとしたところからはじまる。当時、日本の海運業界は日本郵船や大阪商船三井船舶など6社によって支配されていた。それを運輸省と興銀がコントロールしていた。
 三光汽船はこの体制に立ち向かったのだ。
 三光汽船の実質上のオーナーは、三木派の実力政治家、河本敏夫だった。グローバルな市場で日本の海運業界がもはや立ちゆかなくなってきたことを理解していた。そこで、三光汽船は、船舶を海外で生産し、船員を外国人とするこころみをはじめていた。
 ちなみに、ぼくの友人は、慶応大学を卒業してから、河本敏夫の秘書をしていた。その後、相生市長になるが、そういえば、かれの話もよく聞いていない。
 それはともかく、三光汽船は和光証券などを通じて、ジャパンライン株を買い占めた。著者によれば、戦後最大のM&A(企業の買収・合併)だったという。
 三光汽船は株価操作によって、資金調達力をつけながら、高株価経営を加速させていた。しかし、運輸省と興銀は、三光汽船によるジャパンライン合併を認めなかった。
 右翼の児玉誉士夫などを動かして、水面下の調整に持ちこむ。
 買収工作は失敗、ジャパンラインは三光汽船から自社株を高値で買い戻し、いっぽう児玉誉士夫は多額の報酬を受け取った。
 この事件が決着した73年はオイルショックの年。ちょうど、ぼくが世代群評社にはいった年だ。
 日本の高度成長が終わり、国際化がはじまろうとしていた。
 タンカー市況は低迷し、タンカーの運賃は73年と75年をくらべると、10分の1に落ちこんだという。
 だいぶ先になるが、ジャパンラインはけっきょく89年に格下の山下新日本汽船に吸収される。
 そのかんも興銀とアングラ社会のつながりは、ずっとつづいていた。それが、興銀の解体をもたらす一因となる。
 アングラ社会と興銀の関係は、すでに70年代から根深いものになっていたことがわかる。そして、考えてみれば、ぼく自身も総会屋の仕事の一端を担い、その後、マスコミと企業をつなぐ仕事をしていたのだから、バブルを動かす裏の事情は、けっしてひとごとではなかったのだ。
 著者は株式市場では、70年代後半に仕手グループによる株の買い占めが激しさを増していたと記している。
 有名なのはヂーゼル機器の株買い占め事件で、誠備グループの加藤暠や日本船舶振興会の笹川良一、平和相互銀行の小宮山英蔵が暗躍していた。その手口は株価をつり上げて、市場外の取引で決着をはかるというおなじみのものだ。
 これにたいし、東証理事長の谷村裕は、特別報告銘柄制度を導入して、まったをかけた。それによって、仕手グループを分断し、株価の沈静化をはかろうとしたのだという。
 特別報告銘柄制度とは、異常な動きをする銘柄を証券取引所が公表して、投資家に注意をうながし、不当な利益獲得を防止することを目的とする。
 ヂーゼル機器事件では、最終的には笹川グループの買い占めた株をいすゞ自動車や日産自動車が肩代わりすることで合意した。けっきょくは裏取引が成立したことになる。だが、この一件によって、笹川良一にたいする世間の目は厳しくなった。
 加藤暠の誠備グループの仕手戦はその後もつづいた。だが、資金繰りがむずかしくなる。ここに登場するのが、伝説の相場師、是川銀蔵である。
 是川は加藤暠の買い銘柄、石井鉄工所、日立精機、ラサ工業などに「空売り」で挑戦し、誠備グループを崩壊に追いこむ。
 70年代後半から80年代前半にかけ、兜町では仕手グループが暗躍した。だが、それも80年代半ば、投資ジャーナル事件の中江滋樹を最後に姿を消すことになる。
 株式市場は急速にグローバル化・自由化していた。それまでの閉じられた株式市場は終わりを迎えた、と著者は記している。
 だが、その過程で、異様な株価高騰が生ずるのである。
 ここで、著者は海外の状況に視線を転じる。
 70年代のアメリカの株式相場は73年がピークで、その後、ずっと低迷をつづけていた。状況が変わるのは、80年代にはいってからだ。
 アメリカの株式市場は急に活気づき、長期的な上昇局面に転じた。その理由はまちがいなくグローバリゼーションだ、と著者はいう。
 グローバリゼーションとは国の枠を越えて、ヒト、モノ、カネが動くことをいう。とりわけ、カネの動きが国際金融システムをカジノめいたものに変えてしまった。そのきっかけとなったのが、1973年の変動為替制への移行と石油価格の大幅な上昇だった。
 カジノ資本主義はジェットコースターのように荒っぽい。好景気になったかと思うと、いきなり87年のブラックマンデー、97年のアジア通貨危機、2008年のリーマンショックのような危機を招く。国際金融システムはリスクを内在している、と著者は指摘する。
 80年代の経済状況は、日本をいやおうなくグローバル化の波に巻きこんでいくことになる。
 著者は1983年に野村証券とモルガン銀行とのあいだで、信託会社をつくるという構想があったことを紹介している。信託会社は資産の運用と管理をおこなう会社だ。だが、大蔵省はこの構想を認めなかった。金融体制からすれば、外様である証券会社の野村が、勝手にモルガン銀行と話をまとめようとしていることが気にいらなかったのだという。
 それでも、大蔵省はこの一件をきっかけに金融国際化と自由化への対応を迫られることになる。あっというまに外国銀行による信託業務が認められ、投資顧問会社に一任勘定を認める投資顧問業法も成立した。
 野村証券が存在感を強めていくのは80年代からだ。国債の発行が増えるなか、公社債流通市場が生まれていた。それに為替取引が自由化され、対日、対外の債券投資が拡大していた。円建て外債も本格化する。証券会社の役割が欠かせなかった。
 銀行と証券会社が、海外を舞台に証券業務でぶつかりあう時代がはじまっていた。
 企業もまた海外、国内での社債発行を通じて、みずから資金運用を模索する「財テク」時代に突入する。銀行離れがはじまっていた。
 ここで著者は83年に大蔵省証券局長に就任し、85年に死亡した佐藤徹という大蔵官僚の鬼気迫る仕事ぶりを紹介している。資本市場の国際化(金融自由化)が進展するなか、銀行と証券会社のつばぜり合いが激しくなっていた。そんななか、佐藤は、日本で無担保社債を発行するための格付け機関を設立しようとした。証券局を資本市場局にするというのが、佐藤の思いだったという。
 さらに佐藤は興銀を投資銀行に変えようとしていた。だが、その構想も、かれの死によって挫折する。著者は金融国際化の時代に先んじようとしたある大蔵官僚の奮闘を紹介することで、その早すぎる死を悼んでいる。
 もうひとり著者が紹介するのが、M&Aの歴史をつくった高橋高見という人物である。
 高橋高見はミニチュアベアリングをつくるミネベアの社長だった。かれは日本初のTOBを行使し、果敢に企業買収を推進した。そのターゲットとなったのが、蛇の目ミシンであり、三協精機だった。だが、この企業買収はすんでのところで、失敗する。小佐野賢治の横やりがはいったり、海外投機筋の妨害があったりしたためである。
 著者はこう書いている。

〈高橋高見は、バブルの時代のはるか昔から日本のM&Aの歴史を作り、バブルの時代もバブルにまみれるのではなく、体制に穴を開け続けて逝った。高橋高見が命を賭けて闘い、切り開いてきた道は、いまや誰もが通る当たり前の道になっている。〉

 バブルがはじまる前の時代に、こういう勇猛果敢な企業経営者がいたのだ。
 そして、時代はいよいよバブルに突入していく。

『アンダーグラウンド』と『1Q84』──『村上春樹は、むずかしい』を読む(3) [われらの時代]

img101.jpg
 1995年。1月には阪神淡路大震災、3月にはオウム真理教による地下鉄サリン事件が発生した。
 村上春樹もショックを受けたにちがいない。
 このあたりから、世の中がおかしくなった。
 災厄つづきの時代がはじまった。
 考えてみれば、村上春樹の小説は否定の否定からはじまっていた。
 否定の否定とは、ありていにいってしまえば、そもそも全共闘運動という否定を否定することだった。
 もはや革命的蜂起は夢想でしかなくなった。その先にはなにかあるのだろうか。
 否定の否定からは、ふたつの方向が導きだされる。
 デタッチメントとコミットメントだ。
 図示すれば、こうなるだろう。

        デタッチメント=外在的否定性
       [右斜め上] 
  否定の否定
       [右斜め下]
        コミットメント=内在的否定性

 阪神淡路大震災と地下鉄サリン事件は、村上春樹にデタッチメントからコミットメントへの姿勢の転換を余儀なくさせたといってよい。
 加藤典洋もそんなことを書いている。
 ぼくの読んだ本でいうと、そのあらわれが地下鉄サリン事件の被害者と遺族62人(うち2人は掲載を拒否)からの聞き書きをまとめた『アンダーグラウンド』だったことはまちがいない。
 村上春樹はオウム真理教によるこの事件に異様なくらい関心をひきつけられた。
 加藤典洋は、この聞き書き『アンダーグラウンド』で、村上ははじめて「ただの人」、すなわち日本のサラリーマンたちと出会った、と書いている。でも、たぶんそんなことがポイントではない。凶悪ともいうべき否定性にひきつけられたのだ。
 地下鉄サリン事件は、被害者の経験をとおして、じつにリアルに再現されている。
 1997年に本書が発売されたとき、ぼくはすぐに買って、読み、30枚ほどの長い感想を書いた。
 その一部をひろってみる。
「爆弾ならともかく、[ポリ袋から]じわりじわりと漏れだしてくる妙な液体が、それほど危険だとはふつうは思わない。爆発も閃光もないまま、ただ息をしているだけで、いつのまにか死の淵に立たされる。ここから想定されるのは静まりかえった死の光景だ。だが、その前に乗客は危険が迫っていることに気づく」
 この事件で死者は13人、被害者は約6300人におよんだ。
 村上自身は、オウム真理教を、麻原彰晃という奇妙な指導者に率いられたカルト集団ととらえている。
 そして、こんなふうに書いていた。

〈私たちの社会はそこに突如姿を見せた荒れ狂う暴力性に対して、現実的にあまりに無力、無防備であった。我々はその到来を予測することもできず、前もって備えることもできなかった。またそこに出現したものに対して、機敏に効果的に対応することもできなかった。そこであきらかにされたのは「こちら側」のシステムの構造的な敗退であった。〉

 ここから導かれる結論は、警察による事件の解明と、それにもとづく危機管理体制の確立がだいじだということになるだろう。
 しかし、発売早々この本を読んだぼくは、どこか不満を覚えていた。
 そして、こんなふうに感想を書きつけている。
「この本は通常の犯罪ドキュメンタリーのように犯人の性格や動機、行動を中心に事件を追っているわけではない。だから、オウム真理教の引き起こした地下鉄サリン事件の全容は、この本を読んでもわからない。特異な宗教団体と犯罪との関係、教祖である麻原彰晃の目的と動機、それに実行者の心理と行為についても、あまり多くは書かれていない。事件の全容が解き明かされるまでには、これからも多くの時間と努力が必要とされることだろう」
 ずいぶんいい気なものだと思わないわけにはいかない。
 村上春樹はさらに努力して、元オウム真理教の信徒からも聞き書きをおこない『約束された場所で』という本を出版しているのだから。それを、ぼくは読んでもいない。
 しかし、村上春樹の超人的な努力をもってしても、オウム真理教の闇はまだ解明されていないというべきだろう。
 だが、この聞き取り経験をもとに、村上春樹は小説世界において、さらに闇の奥に向かおうと決意したのだろう。加藤典洋もそう書いている。
 1999年の『スプートニクの恋人』、2000年の『神の子どもたちはみな踊る』、2002年の『海辺のカフカ』、2004年の『アフターダーク』は読んでいない。
 ぼくが読んだのは2009年から10年にかけて発表された『1Q84』だけである。
 ところが、その記憶がはっきりしない。たぶん2009年に1部と2部を買って、2日ほどで読み終えたはずだ。エンターテインメントとして、すなおにおもしろかったが、何だこれという感想もいだいた。
 第3部は買ったのかどうかもはっきりしない。いずれにせよ、本はたぶん娘がもっていってしまったので、いま手元に残っていない。
 最近はぼけが進んで、なにもかもすぐ忘れてしまう。
 それで、加藤典洋にしたがいながら、話を進めるほかないのだが、加藤は全3部を読んで、「未了感が消えない」という感想をいだいた。つまり、完結感、達成感がないというのだ。
『1Q84』はどんな小説なのだろう。
 加藤の本から引用してみる。

〈この小説は、もと護身術インストラクターの女主人公青豆が、TV番組の『必殺仕掛人』よろしく「正義」のため、世のきわめて悪質なDV男性──「ネズミ野郎」──たちを鍼灸術的秘儀で殺人の痕跡もなしに抹殺していく冒険譚と、予備校数学教師で小説家志望の青年天吾が、ふかえりという不思議な少女の書いた新人応募作『空気さなぎ』のリライトを編集者に頼まれ、引き受けたことから、面倒な新宗教がらみのトラブルにまきこまれていく話とが、交互に語られて進む。
 背景には新宗教集団の秘められた動きがあり、青豆は、幼女を巻きこんだ性的秘儀を繰り返す教団の指導者『リーダー』の殺害を「柳屋敷」の「老婦人」に支持され、これを実行し、天吾は作品『空気さなぎ』を世に出し、期せずしてその教団の「ご神体」をなす「リトル・ピープル」の秘密を暴くことに関わり、それぞれ教団組織、ご神体集団に追われる身となる。〉

 そして、じつは青豆と天吾は小学校時代の同級生で、赤い糸で結びあっているから、この小説は愛の物語でもある。
 だが、全3部を読みつくしたあと、加藤は「これでは、青豆の物語が、終わらない」と感じたという。それが、かれのいう未了感である。

〈青豆は、人を殺した。どうすれば、人を殺した青豆が、その後、天吾との「愛」のもとで、ことによれば「リーダー」の種を宿した赤ん坊とともに、生きていけるのか、というのが、このあと書かれなければならないことである。〉

 謎が謎呼ぶ殺人事件ではないが、世の中は解けない謎に満ちている。
 それがひとつでも解ければ、いい人生だったということになるだろう。解けたと思った答えがまちがっていることもある。
 村上春樹は否定の否定を重ねることで、解けない謎にいどもうとしている。はたして、災厄の時代を乗り越えていく力を、はたしてわれわれはどこにみいだせばよいのだろうか。
 だが、おそらく答えはすでに出ているのだ。
 否定の否定はもし制度に帰着するならば、永劫回帰を繰り返すほかないだろう。最悪の場合、それはファシズムやスターリニズムに行き着いて、さらに大きな災厄をもたらす。
 ここで、とつぜん、ロシアの作家、シャラーモフのことばを思いだす。
「愛は最後にやってくる。愛は最後に蘇(よみがえ)る」
 何十年もシベリアのラーゲリ(強制収容所)を経験したシャラーモフは、人間の最初の感情が憎しみであることを、いやなくらい知っている。
 それでも、かれはいうのだ。
「愛は最後にやってくる。愛は最後に蘇る」
 村上春樹も否定の否定がいきつく先が、最後は愛であることを、ついにつかんだのではないだろうか。

『羊をめぐる冒険』から『ねじまき鳥クロニクル』まで──『村上春樹は、むずかしい』を読む(2) [われらの時代]

5187HinveKL._SY349_BO1,204,203,200_.jpg
 1982年『羊をめぐる冒険』
 1985年『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』
 1987年『ノルウェイの森』
 1988年『ダンス・ダンス・ダンス』
 1992年『国境の南、太陽の西』
 1994年〜95年『ねじまき鳥クロニクル』

 村上春樹の創作活動はきわめてコンスタントだ。まるで、毎日の朝の勤行にようにおこなわれている。
 そのことにまず驚く。躁鬱型でも破滅型でもないようだ。
 ほんとうにものを書くのが楽しいのだろう。その純粋さがたぶん読者に伝わるのだ。
 ここに挙げた作品で、ぼくが読んだのは『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』と『ノルウェイの森』だけである。
 だから、えらそうなことはいえない。それも、あまりよくわかっていないのだ。
 加藤典洋にいわせれば、80年代から90年代にかけて、ポストモダンの時代がはじまっている。
 ポストモダンの特徴は「情報社会化」と「ヴァーチャル・リアルな世界」だ。
 それを先取りした作品が『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』だという。
 この作品では、意識の世界と無意識の世界がパラレルにえがかれる。
 意識の世界は、めくるめくリアル(小説的現実)によって翻弄される。これにたいし、無意識の世界は、「私」の奥底にある「僕」の静謐な思いに満ちている。
 と書いてみたものの、ほんとうにその解釈が正しいかどうか、心もとない。
 リアルな世界、つまりハードボイルド・ワンダーランドは、ハリウッド映画のように、冒険に冒険がつづく場所だ。
 物語は、かわいい太った女の子と地下にもぐり、その祖父である博士から、「計算士」である「私」が仕事を依頼されるところからスタートする。地上に戻った「私」にいきなり邪悪なものが襲いかかる。その謎を解くべく、「私」はふたたび地下にもぐり、太った女の子の協力を得て、邪悪なものと戦いつつ、ようやく地上に帰還するのだ。
 これは頭にえがかれたファンタジーだ。しかし、あのころ、ぼくも会社という場所で戦っていたことを思いだす。上司に叱咤激励されながら、いろいろな会社を回って契約をとってくる仕事は、きつくはなかったけれど、それなりにたいへんだった。まるで相手にされないこともあったし、同僚と喧嘩をすることもあった。その点、人生はたしかにハードボイルド・ワンダーランドなのである。
 しかし、そうした戦いの毎日とは別に、何か別のわきだしてくるもの、ぼくが求めているのは、ほんとうはこんなことではないという思いがあったのもたしかである。そうした思いは年を取るにつれて、しだいに枯れていくものなのかもしれないが、村上春樹はそうした無意識の場所をパラレルワールド、すなわち「僕」の行き着く「世界の終り」として、やはり映画のようにえがいている。
 加藤典洋によれば、「世界の終り」は「否定性のない定常的な世界」だという。ここでは誰もが生来もつ苦しみと矛盾は切り捨てられる。いわばニルヴァーナ(涅槃)に向かう場所だ。いずれ人の心の核にある無意識は、熱い塊から、だんだんと冷えて、黒い塊へと落ち着いていくのだろう。
 しかし、村上春樹はまだ若い。心を滅却して、「世界の終り」に安住することを拒否するのだ。その選択はかなり微妙なものとならざるをえない。
 というのも、「世界の終り」に安住することを拒否するとしても、その方法はふたつあるからである。
 ひとつは「世界の終り」から完全に脱出することだ。すると、無意識の欲求は完全に断ちきられ、現実に順応することがすべてとなる。これにたいし、村上が選んだ道は「世界の終り」を苦しみながらさまようことだったと思われる。
 無意識のなかからわきだしてくるものを、現実の必要性(身過ぎ世過ぎ)のために抑え、切り捨ててしまうのではなく、そのわきだしてくるものに随伴すること。
 加藤はその方向について、竹田青嗣のことばを借りながら、「自らの内閉的な『世界』のイメージにこそ抵抗しようとする『作家のひどく困難な意志のかたち』を指し示している」と表現している。
 このとき、村上春樹の無意識には、何がわだかまっていたのだろう。
 加藤は村上のある習作をもとに、こう紹介している。

恋人は精神的な病いに苦しみ、自殺している。死ぬ前、彼女はいった、本当の自分はここにいるのではない、「高い壁に囲まれ」た内部の世界に閉じこめられていると。彼は尋ねる。「そこに行けば本当の君に会えるのかい?/そして、彼女が死んだあと、「僕」はそこに向かう。」

 それが大ベストセラー『ノルウェイの森』に結実することはいうまでもない。
 ぼくは、最近、とみに老人力が増してきて、昔読んだ小説の筋など忘れてしまっている。
『ノルウェイの森』を読んだのは、はるか昔のことで、いまではほとんど何も覚えていない。
 映画はみた覚えがある。たしか、このブログにもその感想を書いたはずだと思い、検索してみると、でてきた。定年退職後の2011年2月のことだ。
 参考までに、それを挙げておく。

 http://kimugoq.blog.so-net.ne.jp/2011-02-02

 原作をもう一度読んでみることにしようと書いておきながら、それからまったく読んでいないのは、いかにもなまけもののぼくらしい。
 だから、加藤典洋の本にしたがいながら、筋を思いだすしかないのだが、友人のかつての恋人で、いまは「僕」の恋人となった直子がなぜ死んだのかが、「僕」につきまとう謎だったことはまちがいない。
 加藤典洋によると、『ノルウェイの森』は、それまで一歩下がって内閉するデタッチメントにこだわっていた村上春樹が、足場のない空間にこぎだして、ふつうの書き方で書いた、初の恋愛小説だという。

〈主人公の「僕」=ワタナベ・トオルが自殺した高校時代の友人キズキの恋人だった直子と、大学進学後、東京で再会し、恋愛する。直子はその後、大学をやめ、東京を去り、心を病んで京都の医療施設に入って、やがて自殺する。「僕」は東京で大学のクラスメート緑とつきあうようになり、直子の死後、緑に愛を告白する。〉

 これが加藤による『ノルウェイの森』のあらすじである。
 ここには同じ寮にいて、外交官をめざしている永沢さんという人物がでてくる。永沢さんにはハツミさんという恋人がいる。
 それなのに永沢さんはガールハントが好きで、「僕」もその片棒をかつがされ、セックスのとき女の子をとりかえたりする。
『ノルウェイの森』はセックス小説でもある。ふたりの男はそれぞれ恋人がいるのに、「ときどきすごく女の子と寝たくなる」。
 そして、「僕」の恋人、直子も、永沢さんの恋人、ハツミさんも自殺する。直子は精神を病んで、ハツミさんは別の相手と結婚したあと。
 ハツミさんが自殺したあと、外交官になった永沢さんから、「僕」に「たまらなく哀しく辛い」という手紙が届くが、「僕」はその手紙を破り捨て、二度とかれに手紙を書かない。
 青春時代を回顧したほろにがい小説といってしまえば、それまでである。
「僕」と永沢さんのちがい。「僕」が彼女に去られるのにたいし、永沢さんは彼女を捨てたのだ。そして、彼女のことを青春の思い出のひとこまとしか思っていない。これにたいし、直子は「僕」の心の奥底に生きつづけている。
『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』というたぐいなき超日常的な小説世界を築いていたとき、おそらく村上春樹のなかには、「直子」のことが、よみがえっていたはずである。
『ノルウェイの森』は、書かれるべくして書かれた作品だった。そのパワーが作品に結実したあと、村上春樹はようやく解き放たれ、ふたたび自己の小説世界に立ち戻ることができたのである。
 加藤典洋によると、『ノルウェイの森』は累計で1000万部を超えるベストセラーとなり、その結果、村上春樹は「日本からの逃亡」を余儀なくされたという。
 そのあと1995年まで、作品は海外で書かれ、次の大長編『ねじまき鳥クロニクル』も全3部のうち、2部がアメリカで執筆された。
『ねじまき鳥クロニクル』は読んでいない。そのあと、ぼくが読んだのは『アンダーグラウンド』と『1Q84』だけだ。最近の『騎士団長殺し』も買っていない。
『ねじまき鳥クロニクル』については、加藤典洋の解説を紹介するほかない。
 この小説は、いってみればさえないハウス・ハズバンドの「夫婦の物語」である。「僕」、岡田トオルは、妻のクミコに突然失踪される。その妻を探して、みずからの内面の闇に降りていき、そこで予期せぬものとぶつかりながら、妻を取り返す話だといってよい。
 加藤典洋によると、「主人公が『社会』から遠ざかり、自分の無意識の闇に沈潜すると、そこに『歴史』が現れる」のが、この物語の特徴だという。
 その歴史とは、日本による中国侵略、新京(満州国の首都、現長春)の植民地生活、ノモンハン事件である。ここでは初期の「中国行きのスロウ・ボート」がついに中国の内部に到着したことが示唆されている。
 それにしても、すさまじい暴力描写である。ストーリーは無意識の奥(いわば父の記憶)から吹きだす歴史の暴力と、意識のとらえる現実の暴力が交錯しながら展開する。
 加藤はこう書いている。

〈カギは、暴力と死とセックスにある。それを避けて、ではなく、その内側に入り、そこをくぐり、どう「戦争の記憶」に達し、「反戦と非戦の意志」へと抜け出ていくことができるか。/『ねじまき鳥クロニクル』は、そのような私たち日本人の戦後の「冥界くぐり」の先駆例だというのが、いまの私の考えである。〉

 この評価が正しいかどうか、わからない。
 しかし、こういう記述をみると、やはり村上春樹は、われらの時代の作家なのだという思いを強くするのである。

『村上春樹は、むずかしい』(加藤典洋)を読む(1) [われらの時代]

41R13MDt57L._SX309_BO1,204,203,200_.jpg
 村上春樹は、むずかしい。
 おもしろいのだけれど、よくわからない。
 ほんとうにそう思う。
 先日、両親を介護するため、いなかの高砂に帰り、往復の新幹線や夜寝る前に『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』を読んだ。しかし、正直いって、よく理解できなかった。
 これまでの小説にない世界がつくられていることはたしかである。まるでゲームのようにストーリーが展開し、最後まであきさせない。夢中で読んでしまった。たいしたものだと思う。
 こんな世界を構築できる小説家はそうざらにいない。ひたすら感心する。
 だが、ふりかえってみると、頭に何も残っていないのだ。展開の早いハリウッド映画を見終わったあとのような感覚。それでも、村上春樹はくせになる。
 村上春樹をよく読んだとはいえない。たぶん妻や娘たちのほうが読んでいると思う。『ノルウェーの森』や『アンダーグラウンド』、『1Q84』は飛ばし読みした。短編も読んだ覚えがある。
 それらの本は本棚に残っていない。結婚した娘たちがもっていってしまったのだ。なぜか「世界の終り」だけがぽつんと残っていたので、先日兵庫県のいなかに戻るときに、またも飛ばし読みした次第だ。
 村上春樹とは同世代である。出身地も兵庫県で、大学も同じだ。それなのに、こちらは「おとうさん」「おじさん」から「じいさん」になり、サラリーマンを定年退職して、いまは日がなぼんやりすごしている。うらやんでも仕方ないが、えらいちがいである。
 村上春樹の小説は、かっこいいし、気が利いているし、ミステリアスだ。ハードボイルドの要素もあり、何よりも主人公が女の子にもてる。やっぱり芦屋生まれの人はちがうわと、いなか育ちのぼくなどはついつい、ひがんでしまう。
 こんなふうに書きはじめると、最初から最後までぐちであふれそうになるので、いいかげんなところでおしまい。
 ここでは、同じ世代ということだけを取り柄にして、ひたすら村上春樹が切り開いてきた小説世界を取りあげてみることにしよう。
 といっても、ぼくはとても村上春樹の熱心な読者とはいえないので、加藤典洋の『村上春樹は、むずかしい』(岩波新書)を、これまた斜め読みして、お茶をにごそうというのである。
 この解説書は3部にわかれている。

 第1部 否定性のゆくえ 1979-87年
 第2部 磁石のきかない世界で 1987-99年
 第3部 闇の奥へ 1999-2010年

 村上春樹の作品に沿って、話が展開している。
「はじめに」は省略して、第1部から読みはじめる。
 村上春樹のデビュー作は1979年の『風の歌を聴け』である。
 あのころ、ぼくは結婚し、ちいさな出版社から某マスコミの子会社に転職し、会社回りの営業の仕事をしていた。
 もともと小説はあまり読まなかったから、村上春樹の登場にはさほど注目しなかった。
『風の歌を聴け』も翌年の『1973年のピンボール』も芥川賞をとれなかったという。そのころ注目されていたのは、中上健次や村上龍である。
 しかし、芥川賞をとれなかったのが、かえってよかったのだ。それ以降、村上春樹は芥川賞などには目もくれず、長編小説をめざすことになったのだから。
 村上春樹にとって1970年代は小説修業の時期である。そのころ、ぼくは世間の広さを知り、上司や先輩と毎日のように飲み歩き、子育てに明け暮れていた。
 ぼくが「風の歌」を読んだのは、ようやく60歳近くになってからである。
 とても懐かしい感じがした。
 その感想については2度ブログに書いたので、いまつけ加えることはない。

 http://kimugoq.blog.so-net.ne.jp/2007-07-24
 http://kimugoq.blog.so-net.ne.jp/2007-07-25

 加藤が注目するのは「風の歌」に登場する「鼠」という友人の存在だ。
「鼠」は金持ちの息子だ。「金持ちなんて・みんな・糞くらえさ」というのが口癖。
 加藤はこの口癖を「自己否定ないし否定性の表現」と評している。
 これにたいし、主人公である「僕」のモットーは、作中に登場する架空の小説家デレク・ハートフィールドの作品タイトル『気分が良くて何が悪い?』だという。
 否定性と肯定性が対比されている。
 加藤によると、「この小説は、[学生運動に見られたような]『否定性』を抱えた『鼠』が徐々に時代遅れになり、没落していくさまを……重層的な構成のもとにえがいている」ということになる。
 だが、ぼくはそうは思わない。希望も絶望も捨てて、ひたすら井戸(フロイトのいうイド)を掘って、次の世界に抜けることをめざすと宣言した小説と読んだからである。
 まあしかし、そう大げさに考えなくてもいいのかもしれない。村上春樹の小説は楽しい。軽やかだし、スリルもあるし、しゃれている。そうでなければ、小説をつづけて書く気分にはなれないだろう。それでいいのだ。
 1982年には長編小説『羊をめぐる冒険』(ぼくは読んでいない)、1985年には『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』が出る。
 そのかん、かれはいくつかの短編を書いている。ぼくが気に入ったのは、ちょうど定年の年に読んだ「中国行きのスロウ・ボート」と「パン屋再襲撃」だ。あのころ、ぼくの家のネコが死にかけていた。
「友よ、中国はあまりに遠い」という謎のひとことで終わる「中国行きのスロウ・ボート」には、中国にたいする村上春樹の思い入れの深さがこめられている。
 加藤によれば、教師で僧侶でもあった村上の父親は徴兵され、中国大陸での戦闘に加わったのだという。だから、中国のことは、どこかでいつも気になる。
 スロウ・ボートとは船足の遅い小舟。いつまでもこぎ続けて、いつか中国にたどりつきたいと願っている。でも中国は遠い。
 加藤はほかに「貧乏な叔母さんの話」についてもふれている。この作品もぼくは読んでいないけれど、加藤によれば、これは「『貧しい人々』への罪障感のゆくえを書こうとした」作品だという。
「僕」はかれらにたいして何もできない。かれらが革命を起こして、貧乏な国ができても、たぶん「僕」には居場所がない。「僕」ができるのは、この豊かな世界で孤立したかれらに寄り添うことくらいだ。
 ぼくが加藤の評論から読み取ったのは、そういうメッセージだが、ほんとうはそんなことではないような気もする。作品を読んでいないので、これも何ともいえない。
「ニューヨーク炭鉱の悲劇」という作品もあるらしい。加藤によると、内ゲバにたいする村上の「ささやかなコミットメント」だという。
 内ゲバは1969年から1981年ごろまでが猖獗(しょうけつ)をきわめ、そのピークは1975年だった。そのかん100人近くが命を落としている。
 革マル派の拠点があった早稲田の文学部でも、ずいぶんひどい内ゲバがあった。ぼく自身は党派に属さなかったので、内ゲバとは無縁でいられたが、あのころはひやひやしていたことを覚えている。
 たぶん内ゲバの死者には、村上の知り合いもいたことだろう。
 そもそも「ニューヨーク炭鉱の悲劇」というのは、1967年にビージーズが発表した反戦歌のタイトルだ。
 加藤はこう書いている。

〈1941年に起こったニューヨーク炭鉱の悲劇とは、いま進行しているベトナム戦争の「落盤」の悲劇のことで、この若いロックバンドは、その「悲劇(disaster)」を銃後の社会で地球の裏側の戦場に遺棄された若い兵士たちの孤絶の側から、歌ったのである。〉

 この作品についても読んでいないので、何ともいえない。
 加藤の論評はわかったような、わからないようなところがある。
「パン屋襲撃」と「パン屋再襲撃」は、やはり定年の年に(ネコのからだを心配しながら)通勤電車のなかで読んだ。
 ブログにこんな感想を書いている。

http://kimugoq.blog.so-net.ne.jp/2008-03-06

 加藤によれば、この作品は過激な学生運動の後日譚、ただしパロディということになる。京浜安保共闘による銃砲店襲撃も村上春樹の念頭にあったかもしれないという。しかし、この作品では、反体制的な否定性は、ポストモダニティにからめとられてしまう。つまり、革命がとんちんかんなお笑いになってしまう時代がはじまっていたのだ。
 だが、ぼくの解釈はここでも加藤とはちがい、むしろ近代の逆立性ということを強く感じたものだ。
 人によって、作品の受け止め方はずいぶんちがうのだなあと思わざるをえない。しかし、多様な読み方ができることが、小説の深さであり味わいなのだろう。
 村上春樹はたしかに、われらの同時代人である。村上春樹を読むということは、笑ったり、驚いたり、どきどきしながら、いまの時代を眺めるということにほかならない。それが楽しい。

武田泰淳『富士』をめぐって [われらの時代]

51CD3STPXVL._AC_US218_.jpg
 最近はめったに小説を読まなくなったし、映画館で映画を見ることもほとんどなくなった。小説や映画が日常に大きな部分を占めていたのは、1960年代後半から70年代はじめの学生時代だ。といっても、ぼく自身、文学青年にはほどとおく、ひたすらのらりくらり日を送っていたにすぎない。
 あのころ、武田泰淳の小説もよく読んだ。泰淳の大作『富士』が出版されたのは1971年のことだ。そのとき、司修の装丁と造本に圧倒され、本を買ったのを覚えている。ところが、その本がいまは見当たらない。たぶん、だれかがもっていったのだろう。いま本棚に残っているのは、その後、出された文庫本で、ハードカバーの原著を知る者としては、いささか悲しい造りになっている。
 最近、両親の具合が悪く、東京といなかを往復することが多くなっている。車内の退屈をまぎらわすために、本棚からおもしろそうな本を見つけようとして、泰淳の『富士』を発見したというわけだ。
 新幹線で二度往復するなかで、ざっと読み終わった(行きも帰りも富士山がよく見えた)が、学生時代に一度読んだはずなのに、ほとんど忘れていることが驚きだった。たぶん、あのころは何もわかっていなかったのだ。
 そして、正直、いまもよくわからない。
 爽快でも愉快でもない小説である。富士の裾野にあった、太平洋戦争末期(1944年)の国立精神病院が舞台となっている。
 その病院は、戦争にくるった国が、戦争でくるった人たちを隔離し、押しこめた施設といってよいかもしれない。そこから見える富士は、日本一の美しい山というより、むしろ鬱勃として、秘めたる力をみなぎらせていた。
 あくまでも小説である。じっさいの精神科病院で治療にあたる先生が、この小説を読んだら、こんな患者も先生もいないというだろう。
 小説の主人公である大島は、戦時中、この精神病院の研修医をしており、いまは富士山麓に別荘を構えて、妻とともにくらしている。その大島があのころから四半世紀たった1969年に、当時の病院長や患者のこと、そして、さまざまなできごとを思いだして手記をつづるというのが、『富士』という小説の筋立てになっている。

 最近、親友が肺がんで亡くなった。大学時代、そして卒業後もしばらくともにすごした仲間である。その奥さんから、戒名をもらったのでというメールがはいった。慈眼院という院号がついていて、だれもにやさしかったかれに、ぴったりだと思った。快人居士というのもかれらしいと思った。
 それで、ふと連想してしたのだが、『富士』の主人公、大島もまた慈眼でもって、患者に接し、手記をつづったのではないかという気がした。
 院長の甘野も慈眼の人である。だが、甘野院長が神のごとくであるのにたいし、大島はあくまでも「狂気」に寄り添う。「正気」と「狂気」の区別はなきがごときだ。
 実際、戦時中の「正気」は敵を殺せであり、「狂気」は敵を殺すなであった。
 正気と狂気を分けるのは、国家であり、世間である。それは戦前も戦後も変わらない。そして、戦後の正気が、ほかに目もくれず経済の発展に邁進せよとの号令のもとにあった時代に、武田泰淳はこの小説を書きはじめた。
 慈眼はたんにやさしいわけではない。それは世間の引いた区別を溶解してしまうのだ。狂気が正常というのではない。ただ、意識が狂気に溶けこむことによって、狂気をしっかりと囲いこんでいた正常の鎖が、ほどけてしまい、溶けだした狂気のマグマが秩序の側に流れこんでいく。慈眼には、そんな作用をうながすこわさもある。
 そんな人の諸行無常を富士がながめている。神はあくまでも人のかたちをしている。だが、富士は神を超えた存在だ。作品の最後に、その富士が燃えて、滅亡がやってくる。しかし、それはまだ幻覚のなかでしかおこらない。富士は、予兆をはらみながら、静かにどっしりとたたずんでいる。
 大島の手記、つまりこの小説にえがかれている患者たちは、男も女も含めて、じつに魅力あふれ、躍動感にみちている。
 大島の友人で、いまは入院している美貌の青年、一条実見は、虚言症患者で、自分を宮様だと称している。かれによれば「地上の権威や支配とは全く無関係に、ミヤでありうる者のみが、真のミヤ」なのである。
 かれの行動は自由で、まったく神出鬼没だ。患者のひとりである、てんかん症の大木戸孝次が亡くなる前から、その美しい夫人と性的交渉をもついっぽうで(ただし、それ自体、虚言である可能性もある)、近所の茶店の娘、中里里江を夢中にさせている。
 一条は「富士曼荼羅図」をえがこうとしていると伝えられる。だが、だれもその絵をみた者はない。「曼荼羅図」をえがくのは、一条には不可能だった。というのも、曼荼羅図のなかの一体の仏こそが、一条にほかならなかったからだ。そして、けっきょく曼荼羅図をえがくことなく、一条は自死し、その仕事は大島の手記にゆだねられることになる。つまり、大島の手記、『富士』という小説こそが、富士曼荼羅となるのである。
 一条は死すべく行動する。かれは警官の格好をして、御陵に参拝する本物の宮様に、「ミヤ様」として「日本精神病院改革案」を手渡す。そして、警備員に袋だたきにあい、憲兵隊に引き渡されたとき、青酸カリを飲んで、自殺するのである。
 1970年11月25日に、「楯の会」の制服を着た三島由紀夫が自衛隊市ヶ谷駐屯地に出向き、バルコニーで自衛隊員にクーデターへの決起を呼びかける演説をしたあと、割腹自殺するという事件がおこった。
 当時、大学生だったぼくも衝撃を受けたものだ。
 小説『富士』の一条事件は、まるで三島事件を写したようにみえる。だが、実際には、この部分は三島事件の前にすでに書かれていた。その符合に驚いたのは、むしろ武田泰淳のほうである。泰淳は三島の葬儀で、弔辞を読むことになる。
 一条実見の姿に、三島由紀夫のイメージが重なってくるのは、なんともいたしかたない。一条の思いつめた行動は、傍目からみれば滑稽である。一条はほんとうに精神病院の改革にいのちを賭けたのだろうか。虚無にいのちをささげた感さえある。
 むなしく死ぬのは一条だけではない。
 てんかん症の大木戸は、一の日と八の日にかならず発作をおこす。
 一の日と八の日とはなにか。小説に解説がある。

〈一の日とは、毎月1回の興亜奉公日[国民精神総動員にもとづく生活運動]。この日は学校、会社、工場などで、宮城遙拝、神社参拝、早朝の集合や行進をやる。八の日とは12月8日の大詔奉戴日[対英米戦争がはじまった日]。大木戸にとっては、八の日は12月ばかりでなかったし、毎月の18日、28日も彼独自の連想がからんで警戒しなければならないのである。〉

 大木戸が発作をおこすのは、国民の義務に自分が参加できないことによる緊張感のためである。その大木戸にとって生きるあかしは、めしをたらふく食うことでしかない。だが、戦時中の食糧事情の悪化が、かれの唯一の楽しみを奪おうとしていた。栄養失調と発作が重なって、大木戸はあっというまに死ぬ。「人間なんて、つまらないものだなあ」というひと言を残して。このことばは、意外と重い。
 梅毒患者の間宮は、伝書鳩の飼育だけを生きがいにしている。だが、あるとき、そのハトがいなくなる。伝書鳩はスパイが利用する可能性があるとして、憲兵隊が連れ去ってしまったのだ。それを間宮は甘野院長が憲兵隊に通報したのだと勘違いして、院長を逆恨みする。その怒りにかられて、かれは院長宅を襲撃し、愚鈍そうにみえる子守女を殺害し、なおも手斧をふるおうとしたところ、たまたまそこに居合わせた大木戸夫人が手にしたシャベルによって殴り殺される。これも、いたたまれない殺人事件だ。
 男たちが次々死んでいくのにたいし、『富士』の女たちはだれも強い。患者の庭京子も、大木戸夫人も、茶店の娘、中里里江も、甘野院長夫人も、魅力的で、圧倒的な存在感を示している。武田泰淳のえがく女たちについて論じるだけでも、おそらく1冊の評論ができるだろう。若いころに読んだときも、その猛烈さに打ちのめされたものだ。いまも、ぼくは女の人がこわい。
『富士』を壮大な失敗作と呼ぶことは可能だろう。ここにはふつうの小説がめざす感動もカタルシスもない。混沌があるばかりだ。
 だが、人はかならず失敗するのではないだろうか。かならずくるうのではないだろうか。かならず敗北するのではないだろうか。かならず死ぬのではないだろうか。
 そう考えれば、『富士』は世界の見方を根底から揺さぶる小説だった。世界を変える小説だった。
 われわれは人間とはこういうものだ、人間はこうでなくてはという思いこみで生きている。それ以外は見ようとしない。見て見ぬふりをする。
 しかし、『富士』は人間とはなにか、男とはなにか、女とはなにかという、われわれの無意識の囲いこみを、根こそぎ崩してしまう。人の世を支配する国家という秩序、人の精神を御する神という存在、人と動物のさかいさえ、あやしくしてしまう。
『富士』は、ニンゲンであるわれわれを押しながす。そして、目をそらさず、もういちど人の世を見ることをうながすのだ。
 ふりかえってみれば、若いころ、小説を通じて知った武田泰淳の慈眼は、いまもぼくの背中をほほえみながら見ているような気がする。そして、富士もまた。

日中国交回復と竹内好 [われらの時代]

 きのう親しい友人が亡くなった。またさびしくなる。
 しかし、生きているかぎり、その魂はともにあると思いなおす。
 前回は途中でくたびれてしまい、『中国を知るために』を最後まで読み切ることができなかった。
 今回はそのつづきである。
 1972年はベトナム戦争終結に向けて、世界秩序が大きく変化した年である。
 2月のニクソン米大統領訪中のあと、5月15日には沖縄が日本に返還され、それを花道として6月に佐藤栄作が退陣し、7月に田中角栄が首相に就任した。
 8月にはミュンヘン・オリンピックが開幕。9月5日にパレスチナの武装組織が選手村を襲い、イスラエルの選手11人を射殺する事件も発生した。
 ぼくが日中学生友好会に加わって訪中したのは、ちょうどこのころである。じつにのほほんとした物見遊山の旅であった。
 ところが、そのころ状況は大きく動いていた。2週間ほどの旅行を終え、日本に戻ってすぐ、田中訪中のニュースが伝わってきた。9月25日、田中首相は日航特別機で北京空港に降り立つ。そして、9月29日、田中角栄、周恩来両首相によって、日中国交回復の共同声明に調印がなされるのである。
 ぼくが「中国の会」の姉妹組織である「魯迅友の会」に2、3回顔をだしたのは、学生友好会の訪中から戻ってきてからである。田端にあった学習塾を借りて、中国語を勉強しはじめていた。
 雑誌『中国』が休刊になる話を聞いたのも、どこかの喫茶店で開かれた「友の会」の集まりでだったろう。中国の地図で台湾の部分が中華民国と表記されているという、大きな編集ミスが見つかって、竹内さんが休刊(事実上の廃刊)を決意したという話を聞いた。
 しかし、竹内好のそのころの思いを理解していたわけではない。なにせ、こちらは、はじめて彼女ができて、有頂天になっていたのだから。退学して家に戻ろうかと、それとなく思っていたのが、これで立ち消えになる。大学を卒業して、いなかの高砂に戻らず、東京ではたらこうと考えるようになった。
 きみまろのせりふではないが、あれから45年。おたがい言わぬが花である。
 それはともかく、あのころ竹内が何を思っていたかを知りたくなり、『中国を知るために』のつづきを読んでいる。

 1972年8月号に掲載されたエッセイで、竹内はこう書いている。

〈中国との国交回復は、いずれは実現するだろう。遠からず実現するかもしれない。なにしろ時勢が変ってしまった。戦争の危機が完全に消えたとは思わないが、しばらく遠のいたことだけは、人なみ以上にペシミストである私でも認めないわけにはいかない。おまけに国交回復は、いまではもうアメリカのお墨付きもあるし、財界の公認ずみでもある。一年前とはまったく条件がちがう。〉

 まもなく国交回復が実現されるであろうと思いながらも、しかし、竹内の気持ちはけっしてはずんではいない。国交回復が、1937年からはじまった全面戦争という過去の負債をおきざりにしたまま、なされようとしていたからである。政治と経済の都合が国交回復を急がせている。
 これにたいし、竹内は「ただ、そこに日本人民の良心がかけられ、それによって中国人民との連帯が期待可能であった形では、ついに日中国交回復は、実現されなくなったことだけは肝に銘じておかなくてはならない」とつづっている。
 とはいえ、「たといアメリカに尻押ししてもらっての講和であっても、講和がないよりはマシである」と、その気持ちは揺れている。
 そして、9月の田中訪中とあいなる。このときも竹内はテレビに見入った。
 まず、わいてきたのが、次の感想だ。

〈共同声明の内容が逐次紹介されるにつれて、肩からスーッと力がぬけてゆく感じがした。ほとんど予期のとおり、というよりも、予期以上のものだった。よくもここまでやれた、というのが正直な印象である。中国の犠牲者たちは、これではまだ浮かばれないかもしれないが、少なくとも日本の戦争犠牲者たちは、やっと瞑目できるのではないか。〉

 これはいつわらぬ感想だったろう。
 日中共同声明の前文には、こう書かれていた。
「日本側は、過去において日本国が戦争を通じて中国国民に重大な損害を与えたことについての責任を痛感し、深く反省する」
 おそらく入れたくなかった文言だろう。
 だが、中国側はみずから賠償請求権の放棄を明言することによって、日本側から「反省」の文言をかちとった。
 これによって、ともかくも、日中間の講和が実現され、国交が回復されたのである。
 ただ、ひとつ気になったことがあった。それは宴会のときに、田中角栄が述べたことばである。
 竹内はこう書いている。

〈最初の宴会での田中首相のあいさつに「多大のご迷惑」ということばがあった。ずいぶん軽い表現だな、とそのときは感じた。さきにあいさつを述べた周さんが「1894年から半世紀にわたる日本軍国主義の中国侵略」といっているのだ。それを受けるにしては軽すぎるな、と思った。しかし、それが「添了麻煩(テンラマーファン)」と翻訳されたとは、そのときは気がつかず、翌日の新聞を見てはじめて知った。/「迷惑」は軽すぎるが、「麻煩」はもっと軽い。軽いというより、誤訳に近いのではないか。〉

 麻煩というのは、「ごめんなさい」という程度の軽い表現らしい。
 「迷惑」ということばをめぐる、中国側の激しい反発については、以前、このブログでも紹介したので、ここではくり返さない。(「田中訪中と『迷惑』論争」http://kimugoq.blog.so-net.ne.jp/2007-06-25 を参照)
 竹内は「迷惑」という表現から、「反省」ということばについても、日本側と中国側とでは、受けとめ方がずいぶんちがうのではないかと感じていた。
「前事不忘、後事之師」と題するエッセイで、こう記している。

〈反省するからには、当然、それが行為となってあらわれるべきだ、というのが中国語の語感でもあるし、中国側の期待でもある。それにひきかえ日本側は、「反省」という文字を記せばそれで反省行為はおわった、と考えている節が見える。言いかえると、共同声明を国交正常化の第一歩ととらえるか、それとも国交正常化の完了としてとらえるかのちがいである。〉

 日本には「反省」といえば、それですむという、みそぎの思想、過去を水に流すという姿勢がどこかにある。そのあと、つづくのがカネをだせば、「誠意」をみせたことになるという考え方である。
「多大のご迷惑」につづいて、宴会で田中は、今こそ明日のために話しあうことが重要だと述べた。「とりもなおさず、アジアひいては世界の平和と繁栄という共通の目標のために」とことばを継いだ。
 これにたいし、先にあいさつした周恩来は、「前事不忘、後事之師」という格言、すなわち「前の事を忘れることなく、後の戒めとする」ということばを引用していた。
 竹内は田中発言のあまりの軽さに怒りすらおぼえて、こう記している。

〈過去の侵略戦争の事実、そして戦争がおわっても終戦処理を怠った事実、そればかりでなく、虚構にもとづいて終戦処理はおわったと主張してきた事実、それをタナにあげて、ほかならぬ中国を相手として、「アジアひいては世界の平和と繁栄」について話合えると本気で信じているのだろうか。〉

 さらに、竹内はこうも述べている。

〈「反省」は未来にかかわる。友好を築くために反省が必要なのだ。そのために過去を知ることが必要になる。過去を切捨てるならば反省はいらない。その代り友好の望みも捨てるべきだ。〉

 トゲはまだ刺さったままだ。
 雑誌『中国』は1972年10月号で休刊となった。
 竹内の連載エッセイ「中国を知るために」は、次のひと言で結ばれている。

〈すべて始めあるものは終りあり、ただし有終の美をなさなかったことは確かだ。まことに残念である。〉

 非力を感じていた。
 苦い決断だった。

『中国を知るために』を読みながら [われらの時代]

 日本老年学会が75歳以上を高齢者と呼ぶようにしようと提言したそうだ。これによると、後期高齢者といういやな役所用語はなくなって、75歳からめでたく高齢者になるわけだ。
 ところが、65歳から75歳までは後期壮年者ならぬ准高齢者と呼ぶようにするとか。これもへんな言い方である。
 何はともあれ、年寄りが元気といわれるのはめでたい。ただ心配なのは、そのうち医療保険が引き上げられ、年金は70歳から支給となり、少なくとも70歳まで働かなくては生活できない時代がやってくるのではないか。
 うたがうのも、ほどほどにしたほうがよさそうだ。
 ぼく自身は、じゅうぶん年寄りだと思っている。先日ジムに行き、少し運動したあと、帰りぎわ、コーチの女の子に「お世話さま」と声をかけたら、「おだいじに」といわれてしまった。
 推して知るべしである。
 読む本も、昔の思い出を呼びさますものが多くなっている。
 そんなわけで、きょうも竹内好の『中国を知るために』の第3集(1970〜72年)を読んでいる。
「世界の大勢から説き起こさない」のが、「中国の会」のスタイルのはずなのだが、ぼくの関心は、どうしてもそちらに向かってしまう。

〈今年[1970年]にはいってから、新聞は各紙ともいわゆる中国問題の記事や解説で競争状態を呈している。またもや間歇熱の発作の周期がめぐってきたのかもしれない。……私としても、意見がないわけではないが、それを述べるのは気がすすまない。〉

 当時の新聞記事を調べるのはわずらわしい。
 記憶だけでいうと、このころ中国では文化大革命が終息期にはいっていたはずである。文革の嵐を収めるには、軍の力を借りなければならなかった。
 日本の大学紛争も収まりつつあった。その代わり、政治党派の動きが活発になっていた。内ゲバがはじまり、赤軍派が結成されていた。
 ベトナム戦争はやむことなく、つづいていた。
 日米間では沖縄返還の合意がなされた。
 そうしたなか、新聞は、文化大革命の行方や、これからの日中関係をめぐって、さまざまな論評をくり広げていたのだろう。
 竹内のエッセイは、そうしたこうるさい時評を尻目に、身近なテーマを中心に、淡々と書き継がれていたのである。
 それでも時の勢いはいやおうなく押し寄せてくる。
 4月19日には日中覚書貿易のコミュニケが発表された。
 そこに「日本の軍国主義」という表記が含まれていたので、日本じゅうが大騒ぎになった。
 竹内はこう書いている。

〈日本は貿易立国だから、当然に戦争をおそれるし、だから平和国家だという説は、私には詭弁に思える。本末を顚倒した立論に思える。その証拠に、戦争は買いだという証券市場の体質は、朝鮮戦争からヴェトナム戦争まで改まっていない。たぶん今後も変らぬだろうと思う。他人の不幸がわが喜びになる、これほど人間性をスポイルするものはない。〉

 ただ、中国もじっと閉じこもっていたわけではない。
 4月24日には、中国初の人工衛星が打ちあげられた。
 アフリカのタンザニアでは、中国の鉄道建設隊がザンビア間の鉄道を敷設していた。さらに中国の医療隊が、タンザニア、モーリタニア、ギニア、アルジェリア、さらにはイエメンなどで、巡回しながら診察や治療にあたっていた。そうした『人民中国』の記事を竹内は紹介している。
 アフリカにたいし中国はさかんに援助をおこなっている。紡績工場や農機具工場、小型ダムもつくった。軍事面でも、約200人の軍事顧問がタンザニア軍の訓練にあたっていた。
 フランスとパキスタンの共同航空路が上海まで伸びるようになった。フランスと中国のあいだでは、すでに1964年から国交が結ばれている。
 これにたいし、国交のないアメリカや日本の飛行機は、中国に乗り入れることができない。日本が中国へ輸出できたプラントはクラレのビニロン一件にとどまっていた。
 竹内は日中貿易交渉の一行に加わった自民党議員からも話を聞いている。北京では市民が防空壕を掘ったり、民兵訓練をやったりしているらしい。しかし、日本のスモッグ公害のようなものはないようだと思う。
 そしてふと思ったりする。

〈おそろしいのは予想を超えた事件の突発である。……人類滅亡の予想はおそろしくないが、人類不滅の確信はおそろしい。〉

 また大きな戦争がはじまるのではないか、と心配していたのである。
 このころ竹内は評論活動から足を洗って、ほとんど魯迅の翻訳に専念していた。1930年の上海をえがいた茅盾(マオトン)の『子夜』も訳している。それがいささか自慢だった。「30年代がわからなくては、現代中国について何ひとつわかるわけがない」と思っていた。
 竹内は1970年の終わりに、来年正月には、中国問題がジャーナリズムではでに取りあげられるのではないかと予想していた。だが、自身は「黙して語らぬに如かない」。
「国交回復ということばは乾涸(ひから)び……いまでは慎重に検討いたします、前向きに善処します、と等価なのだ」と、なかばあきらめ顔だった。
 むしろ思いだすのは1年半前の旅行のことだ。
 このときは旅行社のツアーで、武田泰淳夫妻とともに、シルクロードを含むソ連各地を見て回った。
 飛行機から天山山脈の「ほとんど無限大にひろがる起伏」を見て感動し、中央アジアでは荒涼たる沙漠の風景に心奪われ、イスラムのことを考えたものだ。
 ちなみに、このときの旅行については、同行した武田百合子が『犬が星見た』という日記をつづっている。ぼくももっているので、いずれ紹介することにしよう。
 そうこうしているうちに、1971年も春たけなわとなり、やがて初夏がやってきた。雑誌『中国』の6月号に、竹内はこう書いた。

〈この春は天候不順で、いつ過ぎたと知らぬうちに、気がついてみたら花の盛りが過ぎていた。その代り、人工の蝶ならぬピンポン玉は華麗にとび交うた。息つくひまもないほどだった。まずは結構至極といわねばならない。〉

 ここでピンポン玉というのは、71年3月から4月にかけ、日米中間でくり広げられた、いわゆるピンポン外交をさす。
 発端は名古屋市で開かれた世界卓球選手権に、中国が久しぶりに出場したことだった。その後、中国がアメリカなどの卓球選手を自国に招き、それを機に米中間の交流が再開された。キッシンジャーの極秘訪中をへて、72年2月のニクソン訪中へとつながるきっかけとなったできごとである。
「まさか、ピンポン玉から本物の鳩がとび出そうとは、私には予想もつかなかった」と竹内は述懐し、その外交の背後にジャーナリストのエドガー・スノウがいるのではないかと推測している。
 71年8月には、ニクソンが突然、来年の訪中を発表した。日本政府には寝耳の水の話だった。

〈ニクソン訪中声明は、ふたをあけてみると、長い、慎重な準備工作の結果であることが、だんだんわかってきた。複雑怪奇はふたをあけてみれば複雑怪奇ではない。これは歴史の常道である。……わが日本国政府は、泰然として腰を抜かすこと、これまた歴史の教訓である。〉

 大きな歴史の波がやってきたのだ。
 だが、竹内はまだ日中国交回復に悲観的だった。
 10月1日の国慶節ではパレードが中止になった。重要人物が亡くなったのではないか、中ソ国境で紛争が勃発したのではないか、あるいは内乱が発生したのではないか、と憶測がとぶ。
 中国側はパレード中止の理由は、行事を簡素化するためだと説明した。9月に林彪が毛沢東の暗殺に失敗し、モンゴルで墜落死したことは、この時点ではまだ明らかにされていない。竹内もてっきり行事を簡素化するためだと思いこんでいた。
 そして、日本時間の10月26日(現地では10月25日)、国連で中国の代表権が差し替えられ、中華人民共和国が中国の代表権を回復するという大きなできごとがあった。竹内も思わず、この日のテレビ中継に見入っている。
 明けて1972年の2月、ついにニクソン訪中が実現した。だが、このときのエッセイの表題を、竹内はなぜか「鬱屈」としている。

〈……おわってみると、格別の感想もない。おこるべくしておこり、過ぎるべくして過ぎた事件であったという気がするだけだ。それよりも浅間山荘の事件のほうがいまでも重くのしかかっている。〉

 たしかにそうだ。連合赤軍事件は、まさにニクソン訪中と重なりあっていた。日本じゅうが米大統領の訪中より、あさま山荘に釘付けになっていた。
「鬱々としてたのしまぬのは、そこら辺に原因があるのかもしれないし、そうでないのかもしれない」と、竹内は書いている。
 おそらく、竹内が「鬱々」としていたのは、国交回復でアメリカに先を越されたからでも、連合赤軍のあさま山荘事件があったからでもない。いや、それもあったかもしれないが、かれには日中間の問題にたいして、もっと根本的な疑念がわだかまっていたのである。
 日本ははたして中国と講和を結ぶつもりがあるのだろうか。そのつもりがないのなら、日中国交回復は不可能である。
 竹内は日中国交回復に悲観的になっていた。
 その理由を、同じころ『朝日ジャーナル』に載せたエッセイで、こう書いている。

〈いまから思うと、身びいきというか、私なりの日本政府への過大評価があったようです。米中関係と日中関係は原理的にちがう、そのことは政府も承知しているはずだ、と私は思い込んでいました。第二次世界大戦における米中は同盟国であるが、日中は交戦国である。したがってアメリカは、中国と和解するために、朝鮮戦争までさかのぼるだけでよいが、日本は1937年または1931年までさかのぼらなくてはならない。そしてこの解決には当然、アメリカの助けを借りるわけにはいかない。これが私の悲観論の根拠であります。〉

 竹内の悲観論については、さらに述べなくてはならない。
 問題はいまもまだいっこうに解決されていないからである。
 この項、もう少し書かなければ収まらない。

前の10件 | - われらの時代 ブログトップ