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サルトルを読みたい [われらの時代]

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 サルトル(1905-1980)を読みたいと思ったのは、1966年秋のころである。高校3年生のときだった。河出書房から発行されていた「世界の大思想」シリーズの1冊にサルトルが含まれていて、少ない小遣いのなかから、それを買った。いまからすればけっこう高かったと思う。訳者は松波信三郎で、そこには『存在と無』の抄訳、それにいくつかの短い哲学論文が含まれていた。
 それを高砂から姫路に通学する山陽電車の車中で、毎日読んでいた。まるで歯が立たなかった。けっきょく、ひと月もたたないうちに放棄したのではなかったか。しかし、本を集めるという妙な癖だけは残って、東京大学にはいってからも、古本屋で人文書院から出ているサルトル全集をみると、何となくほしくなり、それをせっせと買いこんだものである。こうして、ぼくの本棚にはいまでも、『存在と無』や『弁証法的理性批判』、『シチュアシオン』、あるいは『反逆は正しい』が残っていて、いくつかの解説書やサルトル伝まで鎮座している。
 よくわからないままに、サルトルというブランドだけで次々と買ってしまった。これはどうみてもブランドに踊らされていたのである。その始まりが高校生時代だった。どうして、1966年だったのだろうとふり返っているうちに、渡部佳延の『サルトル、存在と自由の思想家』を読んで、その理由がやっとわかった。
 この年、1966年9月にサルトルが来日し、日本じゅうがサルトル・ブームにわきたっていたのだ。東京・日比谷講堂での講演には、人びとが押し寄せたという。渡部の著書には、新幹線に乗り遅れそうになったサルトルとボーヴォワールの到着を、列車がじっと待ったというエピソードがでてくる。そのため10時発新大阪域の新幹線は、発車時間を3分間遅らせることになった。それほどサルトルは、世界を代表する文化人とみられていたのである。
 おそらく新聞や雑誌、テレビもサルトル、ボーヴォワールの来日を、ふた月ほど前のビートルズ来日と同じくらい、にぎやかに報じていたのだろう。その熱狂的な報道ぶりが、いなかの高校生であるぼくにも伝わって、サルトルを読んでみたいという気をおこさせたにちがいない。ふり返ってみれば、もう50年も前のできごとなのに、流行に踊らされるという癖は、困ったことに、それからもつづき、いまだに直っていない。
 高校生のとき読んだのは、『存在と無』の抄訳である。当時は、実存はもとより、即自存在や対自存在という概念がまるで理解できず、加えて、その華麗な論理展開にまったく頭がついていかなかった。
 最近読んだ渡部の著書は、ぼくのサルトル理解(というより無理解)に大きな光を投げかけてくれた。もし残された時間があるなら、本棚に飾ってある『存在と無』や『弁証法的理性批判』を、今度こそ読んでみたいと思わせたほどである。それは自由な時間を与えられた高齢者の特権というものだろう。
 渡部は『存在と無』について、「この膨大な大著をあえて一言で言い表わすとすれば、人間は『無、しかしそれゆえに一切』と表現できるだろう」と言い切っている。
 さらに、こんなふうに解説する。

〈この世のあらゆる存在は「物」と「意識」とに分けられる。それは世界と人間のことでもあり、即自存在と対自存在、すなわち存在と無とも表現される。〉

 あれほどわからなかった「即自」と「対自」がここではすっきり説明されている。即自とは物のことであり、対自とは意識のことである。そして、意識はそれ自体、かたちをもたない無なのである。
 サルトルが無である意識を重視することはいうまでもない。
 渡部はいう。

〈意識は自らの裡(うち)に根拠を持たぬ『無』ではあるが、その本源的な否定能力のゆえに、自己や過去から常に自由であり、他者を対象化し続けることで自由を得ようとし、またあるべき世界像を作り出し、その実現に向けて現実を変えようとする自由そのものの存在なのである。〉

 ぼくは滑稽なことに、存在とは生きることであり、無とは死ぬことであると思いこんでいた。死ぬ気で生きるというのは、何やら処世訓じみているし、死して生を残すとなれば、三島由紀夫に近くなる。これでは、まったくサルトルが理解できなかったはずである。
 サルトルは基本的に明るい。暗そうにみえて、楽観的である。つまり、自由と希望の思想家なのである。人は何ものにも縛られない自由を根源的にもっている。そして、理想世界の実現に向けて、自由にみずからを投企することができる。
 投企とは、自分自身を世界に向けて投げかけていくこと、言い換えればアンガージュマン、すなわち世界を変えるために、みずから社会参加していくことを指す。それがサルトルのいう自由であった。単に気ままに遊ぶことだったわけではない。
 自由、それは何と魅力的なことばだろう。当時、ぼくはアンガージュマンなどということを考えていたわけではない。一刻も早く、つらい受験勉強を終えて、自由になる日を憧れていた。そうやってみると、サルトルへの憧れは、受験勉強からの解放と関連していたのではないかと思えるほどである。
 しかし、ほんとうはいつの時代も、人は自由を求めているのではないだろうか。この場合、自由とは束縛や桎梏(しっこく)からの解放を意味する。戦後のフランスで、サルトルがあれほどもてはやされたのは、フランス人がドイツの占領下から解放されて、これまでにない自由なフランスに向けての希望をいだいたからだろう。1966年に日本人がサルトルを熱狂的に迎えたのは、会社社会を含むさまざまな束縛から逃れて、もっと自由な日本への展望をサルトルが示してくれるのではないかとの期待が、どこかにひそんでいたためだろうか。
 いや、あるいは、そうではなくて、それはメディアのつくりだしたブームに、お祭り好きの日本人が、ただ乗っかっただけのことだったのかもしれない。時は高度成長のまっただなかである。世界的な文化人が日本にやってくるというだけで、あのころはみんな沸きたっていた。
 ところで、前にも述べたように、ぼくのサルトルへの関心は、高校時代だけで終わったわけではない。1968年にパリでは「五月革命」があり、日本でもベトナム反戦運動と大学闘争がおこっていた。一時、フランス思想界からほとんど無視されていたサルトルは、この「五月革命」によってふたたび脚光を浴びる。しかし、そのことは68年を語るさいに、あらためて取りあげることにしよう。
 ここでは1966年に来日するまでのサルトルの軌跡を、渡部の著書によって簡単にふり返っておきたい。
 サルトルは猛烈な書き手だった。その執筆活動は哲学、文学だけではなく、評伝、評論、劇作におよび、日本語に翻訳されたものだけで、その総量は何と400字詰めの原稿にして3万6700枚におよぶという。1冊の本が500枚だとすれば、その量はざっと73冊分である(人文書院の『サルトル全集』は38巻)。
 その代表作は、哲学では『存在と無』や『弁証法的理性批判』、文学では『嘔吐』や『自由への道』、評伝では『ボードレール』や『聖ジュネ』、評論では『シチュアシオン』、劇作では『蝿』や『出口なし』、『アルトナの幽閉者』など。いちばん量が多いのが評伝というのは意外だが、ここには膨大な未完のフローベル伝、『家の馬鹿息子』が含まれている。その翻訳は、現在にいたっても、途中までしか終わっていない(現段階で全4巻、2400ページ)。サルトルはまさに世界と人間のすべてを自分の頭で把握したいと願っていた。
 しかし、『家の馬鹿息子』を除いて、サルトルは1966年の来日までに、ほとんどの仕事を成し遂げていたといってもよい。『存在と無』につづく哲学書『弁証法的理性批判』も完成したのは1960年である(日本語訳は1962〜73年)。日本にやってきたころのサルトルは、世界を又にかけて行動する思想家になっていた。1962年にはアルジェリアの独立を支持して右翼にいのちをねらわれたにもかかわらず、それにひるむことなく、その後もベトナム反戦運動を支援していた。日本にやってきたときも、ベ平連主催の「ベトナム戦争と反戦の原理」という集会に参加したはずである。
 その行動には、どのような思想が横たわっていたのだろう。それを知るには『弁証法的理性批判』の概要を知っておく必要がある。
 渡部佳延はこう書いている。

〈我々一人一人が歴史の原動力なのであり、その歴史創造のダイナミズムを知の力で掴み取ることができるならば、人間がついに自らの手で歴史を創造することも可能なのではないか。こうした希望を担って書き始められた哲学こそが、『弁証法的理性批判』だったであろう。〉

 サルトルの『弁証法的理性批判』は、マルクスやヘーゲルの再検討を通じて、そこから歴史創造の原理を導きだそうとした作品といえる。
 残念ながら、ぼくはこの本もきちんと読んでいない。そこで渡部の要約に頼りながら、その内容をかいつまんで紹介しておくと、歴史を動かすのは、個の認識にもとづく実践であり、それが個の領域にとどまらず全体に広がるときに、それはひとつの意味をもつ歴史となるというのである。サルトルがもっとも嫌悪したのは、先験的な観念を押しつけることによって、人びとの実践をしばろうとする教条的マルクス主義の考え方だった。
 渡部はいう。

〈『弁証法的理性批判』は、実存主義的立場からなされた、きわめてユニークな社会哲学の試みである。個人の自由な実践を最重要視し、人間が知と力とをもって物質を加工し、また自身をつくることを世界の根底においている。しかし「加工された物質」のネットワークは、「実践的=惰性態」となって社会を形成する。この無気力な組織という巨大な塊の中で、人間もまた惰性的な存在に陥っている。これを打ち破るものこそ、自由の再点火たる溶融集団という革命的エネルギーであり、人はその中でこそ至福の瞬間を味わうことができる。しかし集団は、やがて自らの存在の維持のために惰性を取り込み、規約や制度をつくって国家にまで至る。その惰性の極で、再び革命集団が結成されて循環する──こうした経緯を、弁証法を駆使して説いた書である。〉

 むずかしい言い方だが、説明は省略。サルトルが歴史のダイナミズムをとらえようとしたこと、そして、革命的実践に大きな意義を認めたことを感じとればよい。そこには1968年の思想が準備されていた。
 サルトルがめざしたのは、自由な社会主義の実現である。しかし、それはもはや妄想に近かったのではないか。あのころから、ほぼ50年たったいま、ふと思うのはそんなことである。

ゲバラの死 [われらの時代]

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「われらの時代」と題したこのコーナーは、1970年代論のつもりで書きはじめたのだが、まるで進んでいない。いまだにその前段階にあたる1967年のころをうろうろしている。それもめったに書くわけではないから、いつしか自分のなかでも忘れられたコーナーになってしまっている。
 意志薄弱なぼくのことだ。たぶん、この話もいいかげんなところで終わりになるのだろう。
 それにしても人間のエネルギーには、いつもおどろかされる。どの1年をとっても、平穏な年はなく、いつも世界は波立っている。
 1967年もそんな1年だった。米国はベトナム戦争にのめりこみ、中国では文化大革命があり、ヨーロッパではEUの前身となるECが発足し、東南アジアでもASEANが誕生し、中東では「6日戦争」があり、そしてボリビアではエルネスト(通称チェ)・ゲバラが戦死した。
 ゲバラが亡くなったのは10月9日のことである。その前日、日本では佐藤首相の東南アジア歴訪を阻止しようとして、学生が立ち上がり、羽田で警官隊と衝突し、京大生の山崎博昭が死亡する事件がおきていた。
 あのころ、ぼくはあまり大学に行かなくなり、はっきりした目標を失って、下宿で寝転んで本を読んだり、池袋や飯田橋で映画をみたりする生活がつづいていた。情けないことに、親の仕送りで、日々、惰弱な平穏をむさぼっていた。
 そんなときゲバラが死ぬ。
 それは、歴史的なできごとだった。
 その死を知ったのは、たぶんどこかの食堂においてあった新聞や雑誌からだったろう。しかし、ぼくはそれを遠い国のできごとと感じていた。
 ボリビアといわれても、その国のイメージがさっぱりわいてこなかったし、アルゼンチン出身とはいえ、なぜキューバ革命を担った中心人物が、ボリビアでゲリラ闘争の末、戦死したのかも、よく理解できなかった。
 しかし、ゲバラの死が、この時代の風潮を代表していたのは、まちがいない。
 ゲバラはゲリラであり、ゲバルトでもあった。
 そのメッセージを、われわれはこう受け止めていた。
 権力の不正を前にして、黙っていてはいけない。しかし、反対の声を挙げるだけでは不十分なのだ。正義のために権力と戦うのだ。勝利するためには、死ぬことも辞さない。理屈より行動だ──。
 当時、こういう考えに共鳴する若者は少なくなかった。
 だが、武器をとって山中にこもり、手薄な政府軍を個別にたたきながら、しいたげられた農民の共感を得て、根拠地を広げ、全国的に反政府運動の気運を高め、ついには政権を打倒するという方式がはたしてとれるかというと、それは日本では空想に近かっただろう。
 政治においては、常に正義が問われる。
 あらゆる政治闘争は、正義をめぐる戦いだといってよい。
 暴力による政権奪取を呼号するだけでは、ただの権力亡者にすぎない。できもしない政策を掲げて、民衆の期待をあおって、政権の座を獲得すると、その座にしがみつこうとするのは、政治屋の所業以外のなにものでもないだろう。
 ゲバラの正義は、はたしてどこにあったのか。

 米国(とソ連)による帝国主義体制の打破。
 政治の抑圧、資本の横暴から民衆を解放すること。

 そうした正義にもとづく政治的信念が、ゲバラに行動をうながしていた。
 そして、ボリビアの山中でむなしく戦死することによって、かえってゲバラは多くの青年に、みずからの正義のありようを問うメッセージを伝えたのである。ゲバラの死の衝撃は、世界じゅうで巻きおこった1968年の運動と、どこかでつながっていたのではないだろうか。
 とはいえ、前に書いたように、当時、ぼくはゲバラの死を、どこか遠い国のできごとと受けとめており、それをまじめにはとらえていなかった。
 そして、いまでは正義にもとづく行動が、思わぬ独断と専制の危険性をもたらす可能性があることにも気づくようになった。
 最近になって、スティーヴン・ソダーバーグ監督、ベニチオ・デル・トロ主演の映画『チェ39歳 別れの手紙』をレンタルDVDで見る機会があった。
 それはゲバラのボリビアでの行動を追った、淡々としたドキュメンタリーのような作品だった。ゲバラはけっして聖人のように扱われているわけではない。しかし、映画からは、ゲバラへの敬意がひしひしと伝わってきた。
 映画は最初に、カストロがキューバ共産党の大会で、ゲバラの「別れの手紙」を読みあげるところからはじまる。キューバの国立銀行総裁、工業大臣を歴任し、実質的な国務長官でもあったゲバラは、1965年3月から公式の場に姿をみせなくなり、世間ではその動向に関心が集まっていた。
 それから半年以上がすぎた。カストロはいまや真実をあきらかにする。ゲバラが「いま世界のほかの国が、ぼくのささやかな力添えを望んでいる」という手紙を残して、キューバを去ったことを発表したのである。手紙にはゲバラがキューバの市民権を捨てるとも記されていた。
 ゲバラが最初に向かったのは、アフリカのコンゴ(現コンゴ民主共和国)だった。タンザニアをへて、コンゴ東部に潜入したゲバラの遠征隊は、数十年後にコンゴ大統領となるカビラの反政府軍に加わり、モブツの政府軍にたいしゲリラ闘争をしかける。しかし、戦況は悪化するいっぽうで、キューバの部隊はついに撤退を余儀なくされる。
 ゲバラは1966年4月ごろ、いったんハバナに戻った。
 映画では、ゲバラが家族に別れを告げて、ふたたびゲリラ闘争を展開するためボリビアに向かうシーンがえがかれている。
 ゲバラの計画を知ると、キューバ革命を戦った大勢の盟友たちが、政府や党の要職をなげうって、ゲバラの軍に加わることを決意する。かれらはゲバラに先立って、ひそかにボリビアに潜入。ボリビア中南部を作戦地帯とすることにし、サンタクルス南西の山中ニャンカウアスに農場を確保した。
 1966年11月4日、はげ頭姿に変装したゲバラはOAS(米州機構)特使を名乗って、ボリビアの首都ラパスに降り立つ。
 ゲバラの同志は、ボリビア共産党第一書記のマリオ・モンヘと事前に接触し、ゲリラ闘争への協力と参加を呼びかけていた。モンヘは20人をゲリラ部隊に参加させると約束したものの、すぐに裏切ることになる。その兆候は最初からみられた。
 ゲバラが根拠地となったニャンカウアスの農場に到着したのは、11月7日である。映画ではこの山野で、ボリビアやペルーから集まった志願者が、銃を支給され、訓練を受ける様子がえがかれている。
 12月31日に、ゲバラはこの農場で、ボリビア共産党のモンヘと会談した。革命の状況にないというモンヘにたいし、ゲバラはボリビアで労働者や農民のおかれている状況を説明する。しかし、モンヘはあくまでも革命の可能性はないと言い張り、「ゲリラの指導者が外国人だと知ったら、だれも武装闘争なんか支持しない」と捨てぜりふを残し、根拠地を去っていく。
 ゲバラの決意は固い。「私はもうここにいる。出ていくのは死んだ時だ」と話している。
 水は不足し、食べるものも少なかった。もってきた缶詰もすぐに底をつく。はらぺこの状態がつづいた。やむなく農民から食糧や肉を調達したが、その場合はかならず多めにカネを払った。眼病の子どもがいれば、それをなおしてやったりもした。部隊には医者もいたし、そもそもゲバラ本人が医師なのだ。
 軍事訓練はつづいていた。そのさい、ゲバラは軍の規律について話すことを忘れなかった。いろいろなことがある。連絡係として、タニアという女性が軍に加わる。なかにはつらい訓練や作業にねをあげる者も出はじめていた。
 戦闘への準備は着々と進んでいる。前線にキャンプ(野営地)がつくられた。3月にはいって、ふたりのボリビア人が脱走する。かれらは政府軍にゲリラの動きをしゃべった。ほかにも脱走兵があり、筒抜けになった情報から、政府はゲリラの指導者がゲバラであることを知り、仰天する。
政府軍が動きはじめた。偵察飛行もはじまる。
 映画では、ボリビア大統領が米国にゲバラの潜入を伝え、大統領官邸で米軍とCIAが対策会議に加わって、特殊部隊を養成するよう求めるシーンがある。
 3月20日、前線に移動したゲバラは、連絡係のタニアと、ハバナからやってきたフランス人理論家のレジス・ドブレと会った。ゲバラは、ドブレに資金援助を依頼し、サルトルとラッセルに、ボリビア解放運動について知らせるよう求めた。
 ゲバラの要請を受けて、ドブレはボリビアからの脱出をはかる。しかし、南部のムユパンパで軍に拘束され、拷問を受ける(4月20日)。
 政府軍との戦争がはじまったのは、3月23日である。ゲリラ軍が圧勝し、政府軍はいったん撤退した。だが、政府軍は脱走兵の情報から中央キャンプの位置を確認し、ここを占拠する。
 移動しながら戦うゲリラ軍のなかからも死者がではじめる。ゲバラの本隊と副司令官ホアキンの別働隊との連絡がとれなくなった。
 シグロ鉱山では、ゲリラ軍と呼応するように鉱山労働者によるストがはじまっていた。しかし、政府軍はこれを徹底的に弾圧し、87人の労働者が虐殺される。そのことをラジオで聞いたゲバラは、憤りを隠せなかった。
 政府軍特殊部隊による包囲がせばまっていた。政府軍との戦闘で、ゲバラの盟友たちは次々と亡くなっていく。
 7月6日にゲリラ部隊は、コチャバンバとサンタクルスを結ぶ主要街道の拠点サマイパタを占拠し、その存在感を見せつけた。サマイパタでは、食糧と医薬品を確保する。しかし、ぜんそく持ちのゲバラがもっとも必要とする薬はなかった。
 ゲバラの本隊は、ホアキンの別働隊と合流するため、けわしい山中を南下した。退却戦がはじまっていた。政府軍の特殊部隊は、南北からゲバラの部隊を挟み撃ちしようとしていた。
 このころゲバラはぜんそくの発作がつづき、夜も眠れず、疲れ切っていた。
 8月31日、農民の手引きでリオグランデ川の支流を渡ろうとしたホアキンの部隊は、川岸に待機していた政府軍の攻撃を受け、全滅する。この農民が政府軍に通報していたのだ。そのなかには部隊と行動をともにしていた女性兵士タニアの姿もあった。
 山中のゲバラは、このニュースをラジオで知って、ホアキン隊との合流をあきらめる。
 ゲバラの部隊は、政府軍の攻撃を避けるため、さらに高地へと移動していく。アルトセコ村でようやく食糧を調達したものの、農民は政府軍にゲリラが来たことを通達した。
 イゲラ村についたとき、村には人っ子ひとりいなかった。しかし、そのとき政府軍はしっかりゲリラ部隊の動きをつかみ、包囲網を敷いていたのだ。
 山中のゲリラ軍にたいする政府軍の攻撃がはじまる。
 ゲバラは撤退しようとするが、リオグランデ川に抜けるユーロ渓谷付近の山地で、脚を撃たれて政府軍の捕虜となった。
 イゲラ村で尋問を受けたのち、ゲバラは10月9日に処刑された。
 映画では、処刑シーンはなく、画面はゲバラの視線によって構成されている。なぜかためらう処刑者に「撃て、やるんだ」と静かにいうゲバラの声が流れる。そのあと映像は、ボリビアの上空をヘリコプターで運ばれるゲバラの遺体のシーンへと移っていく。
 この映画がゲバラの最後の戦いを、細部まで、かなり忠実に再現したものであることは、まちがいない。
 世界を変えるという革命的ロマンティシズムにもとづく、そのくわだては、あきらかに失敗だった。しかし、ゲバラは死ぬことによって、権力やカネとは異次元の、ひとつのこころざしを残したのである。

『総長賭博』をめぐって [われらの時代]

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 正確なタイトルは『博奕打ち 総長賭博』。1968年1月に封切られた、鶴田浩二主演の東映やくざ映画である。監督は山下耕作。
 このとき、鶴田浩二は43歳。ぼくからみれば、父親に近い年代だった。
 最近になって、この映画をDVDでみた。みおわってから、前にみたような気がしてきた。あまり大学に行かなくなったあのころ、ぼくは安い映画館で、やたらやくざ映画をみていたので、ひょっとしたら、そのなかに、この映画も含まれていたのかもしれない。
 最近あまり映画をみなくなったぼくが、このDVDを借りたのは、昨年亡くなった友人の編集者が、この映画を絶賛していたからだ。かれはぼくより4歳年上だったから、会社につとめはじめたころに、この映画をみたにちがいない。
 ぼくには『総長賭博』をみた、はっきりした記憶がなかった。それで、たまたま駅前の本屋のレンタルコーナーで、このDVDを見つけて、借りる気になった。
 重く暗い映画だった。健さんのような爽快感は残らない。
 脚本は笠原和夫。
 天竜一家というやくざの組の話である。時代は昭和9年(1934年)、すでに満州国がつくられ、やくざにも大陸進出の気運が強い。
 そんななか、昔かたぎの組長が病気で倒れる。跡目をだれが継ぐかということになって、衆目の一致するところ鶴田の演じる中井信次郎の名前があがる。しかし、もともと客分だった中井はこれをことわり、いま服役中の兄弟分、松田鉄男を推薦する。この一徹な松田を演じるのが、ぼくの好きな若山富三郎だ。
 ところが、ここで叔父貴分にあたる金子信夫(仙波多三郎役)が介入し、無理やり年若い名和宏(石戸幸平役)を二代目にかつぎあげる。金子信夫は、名和宏をうまく操縦して、組の実権を握り、悪徳政治家と結んで、満州で荒稼ぎをするため、天竜組を利用しようとしていたのだ。
 初代組長の引退と二代目襲名を兼ねた花会(親分たちが集まる博奕大会)が、伊豆修善寺で開かれることになった。鶴田浩二は、その仕切りをまかされる。
 そんな折も折、若山富三郎が出所するのだ。兄弟分の鶴田が二代目を継ぐならともかく、若山は若い名和が二代目になることにがまんがならない。それならば、とうぜん自分が二代目となるのが筋だと思っている。
 鶴田の妹役が藤純子で、藤純子は若山に嫁ぎ、夫の出所を待ちながら、小料理店を開いている。だから、鶴田と若山は、文字どおり兄弟分なのだ。さらに鶴田は、若山が入獄中、若山の組の者を自分の組であずかってやっている。
 怒りが収まらない若山は、名和と対立し、その抗争は次第にエスカレートして、刃物まで飛び交うようになる。鶴田は若山をいさめようとするが、直情径行の若山は聞く耳をもたず、ついに一家を破門となる。その抗争の渦中で、鶴田の女房役の桜町弘子が、鶴田と若山のあいだにはさまれ、やむにやまれず自殺する悲劇までおこる。
 そして、花会の当日。若山は修善寺の神社に詣でる名和を襲い、重傷を負わせる。しかし、名和はまだ生きていて、何とか二代目襲名の儀を終わらせることができた。だが、寝ている名和を、金子信夫の子分(沼田曜一)がひそかに刺殺し、その不始末の責任を鶴田に負わせるのだ。
 鶴田は湯ヶ島に身をひそめる兄弟分の若山を殺しにいく。若山を殺したあと、山中で鶴田を金子信夫の子分が襲う。
 最後の場面。金子の前に鶴田があらわれる。ことの真相はすでに露見している。
「叔父貴のわしにドスを向けるのか、おまえの任侠道はそんなものだったのか」となじる金子。
 鶴田がいう。「任侠道か。そんなもん、おれにはねえ。おれはただの、ケチな人殺しなんだ」
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 鶴田はしぶいし、かっこいい。しかし、全編、重く暗い映画である。
 どうして、友人がこんな映画が好きだったのか、よくわからなかった。
 ところが、ふと思った。これはやくざ映画にちがいないが、実はサラリーマン映画ではないか、と。
 組というのは会社と同じである。サラリーマンは会社組織にがんじがらめになっている。そうした、がんじがらめから抜けだす方向として、いっぽうでは森繁久弥の「社長シリーズ」や植木等の「無責任シリーズ」、加山雄三の「若大将シリーズ」などがはやった。そうした虚構に対抗する、もうひとつの虚構がここにえがかれたとみるのは、当たらずとも遠からずではないか。
 男は恩義を受けた会社に尽くしている。すくなくとも、それなりにきちんと仕事をしている。しかし、最近、どうも社風が変わった。いろいろ、いやな仕事も命じられる。あたらしくやってきた部長は、どうも気にくわない。サラリーマンなら、だれもがこんな経験をするのではないだろうか。
 最初、メーカーに勤めていた友人にも、ひょっとしたら、そんな経験があったため、その会社をやめて出版社に移ったのかもしれない。これは、ぼくの勝手な憶測で、ほんとうのことは聞きそびれた。たぶん、かれが会社を代わった実際の経緯はもっと軽く、なんとなくおもしろくないから、というものだったと推測する。
 鶴田浩二は、究極的には、すべてをぶっこわすアナーキズムの道を選択する。実際にはアナーキーになれないサラリーマンにとっても、これは幾分か、想念上のカタルシスをもたらしたはずだ。
 しかし、この映画を、そんなサラリーマン映画として受け取らなかった人物がいる。このころ42歳の三島由紀夫である。
 三島は1968年の暮れに、東京・阿佐ヶ谷の場末の映画館で『総長賭博』をみた。そして、その感想を翌年早々『キネマ旬報』に寄稿している。
 阿佐ヶ谷の商店街を抜けたところにある古ぼけた映画館は、かなりの入りで、最前列にやっと腰をおろすことができたという。
「舞台上手の戸がたえずきしんで、あけたてするたびにバタンと音を立て、しかもそこから入る風が厠臭(ししゅう)を運んでくる」。やくざ映画をみるには、おあつらえむきの環境。
 そんな「理想の環境」でみた『総長賭博』に、三島ははなはだ感心し、これは「何の誇張もなしに『名画』だと思った」。
 三島はなにに感動したのだろう。
 こんなふうに書いている。

〈何といふ自然な必然性の糸が、各シークエンスに、綿密に張りめぐらされていることだらう。セリフのはしばしにいたるまで、何といふ洗練が支配しキザなところが一つもなく、物語の外の世界への無関心が保たれてゐることだらう。(それだからこそ、観客の心に、あらゆるアナロジーが許されるのである)〉

「観客の心に、あらゆるアナロジーが許される」というのは、まったくそのとおりである。
 三島は「鶴田の戦中派的情念と、その辛抱立役への転身」を絶賛し、これに比べれば高倉健などは「ただのデク人形」だという。
 そして、自分を鶴田に重ねあわせて、こう書く。

〈思へば私も、我慢を学び、辛抱を学んだ。そう云うと人は笑ふだらうが、本当に学んだのである。自分ではまさか自分の我慢を美しいと考へることは困難だから、鶴田のさういふ我慢の美しさを見て安心するのである〉

 三島は、アメリカの庇護下で民主主義と経済的繁栄を満喫する、ふぬけた日本のていたらくを、ずっと我慢してきたのである。その我慢の糸がそろそろ切れかかっている。

〈彼[鶴田の演じる中井信次郎]は正義の戦争ができないやうになつてゐる。その基本的情念は困惑であり、彼が演ずるのは困惑の男性美なのだ。……その世界に住むことは、決して快適ではなく、いつも困惑へ彼を、みちびくほかはないのであるが、その困惑においてだけ、彼は「男」になるのである。それこそはヤクザの世界であつた〉

 三島は鶴田の「思ひつめた『愚かさ』」に共感する。「しがらみ」からの解放は個の情念においてだけ生じ、けっきょくは事件のあとに、糊塗された新たな「しがらみ」が生みだされるだけかもしれない。しかし、当今の「しがらみ」を断ち切ることが、日本人本来の「純粋しがらみ」にいたる唯一の道であることを、三島は示そうとした。ここには書かれていないが、「純粋しがらみ」という表現のなかに、かれは天皇への恋闕(れんけつ)をみたのかもしれない。
 この原稿を書き終えたとき、「東大安田砦」の攻防戦は終わっていた。その攻防を見守っている東大の教授陣たちの顔に、三島は何ともいえない「愚かさ」を感じる。かれらには、まったく思いつめた様子が感じられなかった。
「『人間性と生命の尊厳』にしか到達しない思考が、人間の顔をもつとも醜く愚かにする」と書く三島は、このときすでに自決を覚悟していたのだろう。
 三島とぼくのあいだには、深い断絶が横たわっている。

なぜ唐獅子牡丹だったのか [われらの時代]

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 あのころはよく映画を見ていた。ただし、出かけたのは池袋や飯田橋の安い映画館だけ。二本立てがふつうだった。三本立てもあったかもしれない。大学の授業にはほとんどでず、昼間から夕方までスクリーンの前で時間をつぶしていた。
 ことし亡くなった4歳年上の友人は、木下恵介監督の『二十四の瞳』(高峰秀子主演、1954)が好きで、毎年、正月になるとDVDを借りてきて、それを見ながらひとり涙していたという。もうひとつ、かれが必ずおす1本が、山下耕作監督の『博奕打ち 総長賭博』(鶴田浩二主演、1968)だった。『二十四の瞳』と『総長賭博』が、かれのなかでどのように結びついていたかを、聞きそびれたことが悔やまれる。
 その2本はどちらも見ていない。あのころは足繁く映画館に通っていたのだから、少なくとも『総長賭博』は見ていてもおかしくないのだが、なぜか通りすぎてしまっている。ひょっとしたら『博奕打ち』という題にひっかかって敬遠したのかもしれない。
 大学にはいって見ていたのは、洋画と日本映画が半分ずつといったところ。まだ日活ロマンポルノの時代ではなかった。映画館は入れ替わり立ち替わりやくざ映画を上映していた。
 高倉健主演の『昭和残侠伝 唐獅子牡丹』はたしかに見た覚えがある。1966年製作の映画で、監督は佐伯清。全部で7本ある昭和残侠伝シリーズの第2作で、高倉健が侠客、花田秀次郎を演じている。そのころ高倉健は同時に「網走番外地」シリーズを撮っていたから、年柄年じゅう、映画のなかでやくざ役を演じていたわけで、内心いささかうんざりしていたのではないかと思われる。
 池袋の地下にあった二番館で、ぼくが『唐獅子牡丹』を見たのは、大学にはいってまもなくのころだから、封切りから1年くらいたっている。二本立て、ひょっとしたら三本立ての一本だった。映画館のなかは、ひまそうな学生や、時間つぶしの勤め人であふれていて、途中でも出入り自由、女性の姿はまず見かけなかった。男の熱気むんむんといえば何やらかっこよさそうだが、館内はすえた汗臭いにおいがただよっていて、とても清潔とはいえなかった。こんでいるときなど、前方の通路に汚いズボンのまま座ることもあった。
 スクリーンの洞窟に足を踏み入れると、たいてい映画ははじまっていて、途中からのことが多かった。半分だけみて、次の回がまわってきたときに、はじめの半分をまたみる。途中からみても、だいたい筋はつながる。ワンパターンだからだ。
 主役のヒーローと悪役がいて、それに可憐な女性がからまる。悪役は主役とかかわりのある(たいていは別の実直な組の)人たちをいじめぬく。とうとうだれかが悪役に殺される。そこで、がまんにがまんを重ねてきたヒーローがついに立ち上がり、悪役を成敗するのだ。そのときの決めぜりふが「死んでもらいますぜ」。
『唐獅子牡丹』もはっきりストーリーを覚えているわけではない。でも、だいたい同じ筋書きの範囲におさまっているはずだ。そう思いながら、たまたま、とってあった録画をみた。高倉健のかっこよさをきわだたせる映画にしあがっている。
 たいていのやくざ映画もそうだが、『唐獅子牡丹』のおもしろさは、歌舞伎の伝統をついだ時代劇と、颯爽としたアメリカの西部劇を結合したところにあった。
 西部劇? まさかと思うだろう。しかし、『唐獅子牡丹』には『シェーン』を思わせる部分がある。
 花田秀次郎役の高倉健はふらっとその町にやってくる。けなげに石場を差配する榊組の女組長(三田佳子)は、勢力を伸ばしつつある左右田組から、さんざいやがらせを受けている。それをみかねた高倉健は、ついに堪忍袋の緒が切れ、悪逆非道な左右田組の親分(水島道太郎)を斬って、ひょうぜんと町を去っていく。
 高倉健をしたっていた三田佳子の子ども(穂積ぺぺ)は、「行かないで」と「おじちゃん」を引き留めようとする。これは、まさに「シェーン、カムバック」をほうふつとさせるシーンだ。しかし、高倉健は「坊や、はやく大きくなって、おかあちゃんを助けるんだぞ」と言い残して、雪がふりしきる道をあとにする。それを三田佳子が万感の思いで見送っている。
 なぐりこみのシーンにダイナマイトやピストルが登場するところにも、アメリカの西部劇、あるいはギャング映画の影響があるといっていい。
 歌舞伎めいたところもある。榊組の女組長と高倉健のあいだには、実はつらい因縁があった。かつて左右田組のやっかいになっていた高倉健は、やむにやまれぬ浮き世の義理から、果たし合いのすえ、榊組の組長(菅原謙二)を斬ったという過去をもっていた。だから、三田佳子にとって、高倉健は夫のかたきなのだ。そのことがわかって、三田佳子は煩悶する。ほんとうはひかれあっているのに、ふたりのあいだには越すに越せない深い川が横たわっている。こういう設定は、いかにも歌舞伎の世界といえるだろう。
 さらに、かつて三田佳子をしたっていた(畑中圭吾役の)池部良がからんでくる。池部良は組の窮状を知って、満州から戻ってきたのだ。そして、かれもまた左右田組のあまりの横暴ぶりが腹に据えかねて、組にひとりなぐりこみをかけようとする。そこで小雪の舞う路上で、同じくなぐりこみをかけようとする高倉健と、ばったり出会う。
 こうして、おなじみの道行きのシーンとなる。そのバックに唐獅子牡丹の歌が流れるのはいうまでもない。観客から声がかかる場面だ。

  義理と人情を 秤にかけりゃ
  義理が重たい 男の世界
  幼なじみの 観音さまにゃ
  俺の心は お見通し
  背中(せな)で泣いてる 唐獅子牡丹

 なぐりこみは、和服でなければさまにならない。バックで流れる主題歌は、歌舞伎でいえば義太夫の名調子だ。
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 そして目にもあざやかな高倉健の立ち回りと、池部良の壮絶な死がある。この死も歌舞伎の様式美だ。池部良の死があるからこそ、最後に親分を斬り殺すときの「死んでもらいますぜ」がいきてくる。
 歌舞伎と西部劇を結合した日本のやくざ映画は、観客にカタルシスをもたらすようにつくられていた。映画を見終わったあとは、だれもが健さんになった。高倉健はずっとそういう映画をつくりつづけてきた。
 高倉健が逝ったあと、あれは何だったのだろうと思う。やくざ映画と全共闘と三島由紀夫をつなぐ線もみえてくる。残侠と残響。思えば劇的な時代だった。あのころ、多くの男たちが、健さんを生きていたのだ。

石牟礼道子の世界 [われらの時代]

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[自伝の口絵から。1970年ごろ]
 石牟礼道子は1927(昭和2)年3月、天草に生まれた。祖父が水俣町で道路港湾建設業をいとなんでいた。その関係で、一家こぞって天草下島の宮野河内(現河浦町)に出張しているときに、母親が産気づいた。もの心ついたのは一家が店を構える水俣の栄町だという。
 チッソのわきに立つ水俣第二小学校に通った。しかし、8歳のときに、祖父の事業が失敗したため、栄町の自宅を差し押さえられ、水俣川河口の荒神、さらに猿郷へと転居を強いられる。新しい家の前は浜辺で、すぐうしろの道は火葬場へと通じていた。近くに伝染病患者などを収容する「避病院」があった。
 転校先の第一小学校を卒業したあと、水俣実務学校にはいった。小学校の先生が、成績のよい道子を「尋常小で終わらせるのは惜しい、せめて実務学校にやってはくださるまいか」と親に頼んでくれたからである。中国との戦争がはじまろうとしていた。実務学校を卒業すると、校長先生のすすめで、「代用教員」の試験を受け、小学校の先生になった。男子教員が戦争にとられたため、教員が不足していた。まだ16歳。そのころから歌をよみはじめていた。
 戦争が終わり、ある日、駅で戦災孤児をみつけた道子は、兵庫県の加古川に帰るという、その「骸骨と見まがう少女」を自宅につれていき、50日間めんどうをみた。そのことをつづった文章が残っている。
 別の小学校に異動になってすぐ、道子は結核にかかり、しばらく自宅で療養した。弟がチッソの工場で働くようになっていた。
 1947年に小学校を退職したあと、はたちのとき結婚し、石牟礼姓となった。翌年、長男が生まれた。夫も代用教員で、生活は苦しかった。化粧品売りや針仕事などの内職もし、レストランに勤めたりもした。歌や詩をよむのが好きで、熊本の歌会にはいり、熱心に歌を発表するようになった。しかし、どこかむなしさがつのった。
 水俣病のことを聞いたのは、そのころである。10歳になった息子が、結核にかかったため、市立病院に入院させて、見舞いにかよっているときのことだ。結核病棟の隣に「奇病病棟」と呼ばれる建物が立ちはじめた。うわさによると、水俣市内の各地で奇病がはやっていて、その人たちを収容する病棟だという。
 できあがった病棟を訪れた道子は、患者の無残なありさまをみて、ショックを受ける。抗議のため、漁民がチッソの工場に乱入したときは、あとについて行った。水俣病が多発する地区を訪れ、海や漁のことを聞くようになったのは、そのころからである。患者の家族とも出会った。
 そのときのことを、こう書いている。

〈『苦海浄土』を刊行したあと、わたしがノート片手に、患者さん宅を回って取材したように思いこんだ人たちがいたが、わたしはそういうことは一切しなかった。見も知らぬ患者さんの家を直接訪ねるなどできるものではない。職業的なライター、あるいはそれを志す人にとってはとうぜんの行為かも知れないが、わたしは水俣病について何か書こうと思って、湯堂や茂道を訪ねたのではなかった。何か重大なことが起こっているのを感じとって、気にかかってならず、それを見届けたかったのである〉

 とはいえ、石牟礼道子が不知火の語りべに成熟していくには、水俣を縁にした、もうひとつ、いや、いくつもの出会いが必要だった。
 そのひとつが谷川雁との出会いである。谷川家は水俣の名家で、眼科医。道子はもともと、その家の娘、徳子と友達で、小学生のころ、その大きな屋敷にたびたび遊びにいったこともある。そこには健一、雁、道雄、公彦(のちに吉田姓を名乗る)の4人息子がいた。健一は民俗学者、雁は詩人、道雄は東洋史学者、公彦は出版人となる。
 谷川雁と会ったのは1956(昭和31)年ごろだという。チッソの付属病院に入院していた雁を見舞いに行き、すっかり気に入られた道子は、57年に谷川と上野英信、森崎和江の創刊した雑誌『サークル村』に加わることになった。
 1960年に谷川雁は大正炭鉱の争議にかかわって、労組から独立した大正行動隊を組織していた。道子も筑豊の炭鉱地帯におもむき、そこで労働者の仕事ぶりや生活を知った。62年に水俣のチッソでも、大争議がおこった。組合は賃上げをめぐって、第一組合と、会社側につく第二組合にわかれ、はげしく争っていた。
 雑誌『サークル村』はすぐ廃刊となった。しかし、道子は何かを書いてみたいと思っていた。この百年、庶民はどう生きてきたのか。そんな思いがわきあがる。「近代とは何か、という大テーマがわたしの中に根付きつつあった」と、彼女は記している。
『西南役伝説』を書こうと思い立つ。その冒頭が、谷川雁編集の『思想の科学』に掲載された。もうひとつ、頭に浮かんだテーマが、女性の歴史だった。道子は高群逸枝と出会うことになる。
 高群逸枝は1964年6月に亡くなっていた。しかし、高群自身が熊本の下益城郡豊川村出身で、その夫で編集者の橋本憲三も水俣生まれであり、憲三の妹と道子は前から知り合いだった。そうした縁から、1966年に道子は高群がずっと仕事場としていた東京世田谷の「森の家」に招かれ、そこにしばらく滞在し、逸枝のことをかんがえつづけた。
 そのころ、道子は熊本の渡辺京二が創刊した雑誌『熊本風土記』に、のちに『苦海浄土』としてまとまる連載を書きはじめていた。これは実に50年越しの仕事となる。橋本憲三も道子に水俣のことは「早く表現しないと間に合いません」と、水俣を優先するよう勧めた。
 水俣病でいちばんよくわからなかったのが、有機水銀のことだった。道子はそのころ、東大助手の宇井純と出会う。組合の知り合いにいわせると、「会社のこつば根掘り葉掘り聞いて回りよる」あやしい青年とのことだった。
「私は有機水銀のことが知りたいんです。有機水銀とは何でしょう」
 道子ははじめて有機水銀ということばを口にだして、宇井にたずねた。
 宇井は丁寧に教えてくれた。書生さんみたいだ、と道子は思った。
 10年ほど前から、水俣の道子の家には青年たちがやってきていた。
「妙な案配の病気がはやっとっとばい」といううわさが出はじめていた。
 市役所の職員は、内緒でマル秘書類をみせてくれた。前代未聞の奇病が広がっているのを知って、道子はがくぜんとした。
「茂道や湯堂付近では、猫が鼻の先でぎりぎり舞うて、鼻が逆むけしとっとばい。最後は海に飛び込んで死んでしまいよる。茂道へんには猫のおらんごつなりよる。猫おどり病とかいわれとるらしい」
 知り合いの市会議員は、そう話した。
 道子は病院や町を回り、患者さんたちの話を聞くようになる。
 その話を書きとめておこうと思ったときの気持ちを、のちにこう記している。

〈「こやんこつばあんたは体験しよっとよ、忘れちゃならん。患者さんたちが一所懸命語んなはっとば、ちゃんと耳に入れとかんばいかんよ」
 執筆にあたって、私はそう時分に言い聞かせていた。患者さんの思いが私の中に入ってきて、その人たちになり代わって書いているような気持ちだった。自然に筆が動き、それはおのずから物語になっていった。誰に読んでもらいたいとか考えていたわけではなく、とにかく書いて思いを吐き出さないと耐えられなかった〉

 こんなふうにして『苦海浄土』の執筆がはじまったのである。

水俣のたたかい [われらの時代]

 1967年にぼくが東京大学にはいることができたのは、高度成長のおかげといえなくもない。両親は地方で個人経営の衣料品店をいとなんでいたが、教育熱心で、中学、高校時代から、ぼくを電車で20分ほどの姫路の私立校に通わせ、東京の大学を受験させた。あのころ、商売はもうかり、両親も波に乗っていた。町いちばんの店をめざしていたのだ。そのため息子も町いちばんに仕立てようと思ったのかどうかわからない。しかし、生来、気弱な息子は、両親の期待にこたえられなかった。東京の大学にはいったのをいいことに、自堕落な毎日を送っていたのである。
 東京はにぎやかだった。どこに行っても、人混みと騒音に満ちていた。空気は汚れ、大学は雑踏だった。マンモス教室には見知らぬ人の群れがあり、マイクをとおして遠くから聞こえてくる教員の声は、うつろに頭のなかを通りすぎていった。
 下宿から大学に向かう途中で、いつも渡る橋の下を流れる神田川は、どぶ川のように汚れていた。あのころはすでに公害が大きな社会問題になりつつあった。熊本の水俣病が、新聞やテレビでも取りあげられるようなっていた。富山県のイタイイタイ病が、三井金属神岡事業所の廃水に含まれるカドミウムが原因だと発表されたのも、このころのことだ。新潟水俣病をめぐっては、すでに裁判がはじまっていた。四日市ではコンビナートの排ガスによって、多くの人がぜんそくに苦しんでいた。
 日本全体が多かれ少なかれ公害列島になりつつあったのではないだろうか。その春、東京都で社会党、共産党の推薦する美濃部亮吉が、都知事に当選し、それ以降3期12年にわたって都政を維持できたのは、東京都民が環境汚染のような高度成長のひずみを是正してほしいという期待を、どこかでいだいていたからだろう。美濃部都政は毀誉褒貶あるものの、それなりに成果を挙げた。最近になって、年配の書籍編集者と話していて、美濃部都政になって、いちばんよかったのは、川が少しきれいになったことだ、という話を聞いたことがある。
 それはともかく、「われらの時代」において、とりわけ注目を集めたのが、九州の水俣病だったことはまちがいない。
 宮本憲一の『戦後日本公害史論』によると、不知火海に面した水俣に日本窒素、すなわちのちのチッソが進出したのは、1908(明治41)年のことだった。最初はカーバイドから肥料用の硫安などを製造していた。日本窒素は昭和初期に一大コンツェルンとなり、現在の信越化学や旭化成の母体となり、朝鮮にも進出していたという。
 水俣は次第にチッソの企業城下町になっていく。水銀を触媒とするアセトアルデヒド(塗料や殺虫剤の材料)の製造がはじまったのは1932(昭和7)年のことである。しかし、水俣は太平洋戦争末期、5度の空襲を受け、工場は壊滅状態となる。戦後、日本窒素に残されたのは水俣の工場だけだった。だが、工場はすぐに再開され、食糧増産に必要な硫安がつくられるようになった。財閥解体により、積水化学が分離してからは、社名を新日本窒素とあらためる。チッソという名称になるのは1965年からだ。
 それまでに水俣では、工場周辺の漁場がすでにヘドロと化していた。風光明媚な海水浴場もなくなり、工場に変わっていた。工場が取水する川も汚れていた。町にはチッソの社宅や病院があり、商店街もあった。チッソに雇われている人も多く、一時、市の歳入の半分近くが、チッソの納税でまかなわれていたという。
 こんなふうに書き写していて思うのは、この町は、ぼくの生まれ育った兵庫県の高砂とうり二つだったな、ということである。かつて白砂青松で知られた高砂の海べは、ぼくが子どものころ、すでにカネカ(鐘淵化学)などの工場によって占拠されようとしていた。おそらく水俣と同じような工場町は、あのころ全国に広がっていたのではないだろうか。
 1960年代にはいると、大きな転換があった。時代の流れが電気化学から石油化学へと移行したのである。それにともない、チッソ水俣工場は縮小・合理化への道を歩みはじめる。従業員数もピーク時の5000人から3000人以下へと減っていく。1968年にはアセトアルデヒドの製造も中止となっている。1970年には、チッソの納税額の割合も市税の2割以下となり、水俣市の財政は慢性赤字におちいるようになっていた。しかし、水俣病が多発したのは、この1960年代なのだ。
 水俣病の話は書くのもつらい。けれど、見すごすわけにはいかないだろう。
 水俣病の原因は、いまでははっきりしている。
 宮本憲一はこう書いている。

〈水俣病は化学工場などから海や川に排出されたメチル水銀化合物を魚介類が直接吸収して、あるいは食物連鎖を通じて体内に高濃度に蓄積し、これを日常的に大量に摂取した住民の中に発生した中毒性の中枢神経疾患である〉

 共通する症状は「四肢末梢の感覚障害で、視野狭窄、言語障害、運動失調、難聴などの障害が複合する場合があり」、臓器や血管が侵される全身病だった。重症患者のなかには「狂い死に」する者もあり、母親の胎内で毒物を摂取したために、強度の身体障害をもって生まれた患者もいた。被害の全貌はまだわからず、亡くなった人も含め、現時点で6万人の患者がでているという。被害は水俣にとどまらず、不知火海一帯に広がっている。
 患者が「公式に」発見されたのは1956年だというが、それ以前から被害はでていた。政府が水俣病を公害病として認定するのは、ようやく1968年になってからのことだ。ぼくが大学にはいったときには、まだ水俣病は公害病と認定されていなかったのだ。
 この認定の遅れが、水俣病の拡大をもたらしたのは疑いない。国と企業の責任は大きい。多くの患者がではじめているにもかかわらず、会社は石油化学への早急な移行をめざして、かえって減価償却を促進する挙にでた。老朽化した設備でアセトアルデヒドを増産し、メチル水銀を水俣湾に排出しつづけたのだ。排水規制はなされることなく、水俣病の原因追及はないがしろにされたままだった。被害者には口封じをするため、わずかの見舞金が配られていた。
 その経緯を少しふりかえってみよう。
 1956年4月に、チッソ水俣工場付属病院に、手足が動かず、ことばを発することのできなくなった5歳の少女が運ばれてきた。病院長はこの「原因不明の中枢神経疾患」を、水俣保健所に報告した。水俣病が「公式に」発見されたとされる、最初のできごとである。
 水俣保健所から届を受けた熊本県衛生部は、熊本大学医学部に原因究明を依頼する。これが伝染病ではなく、水俣湾の魚介類に含まれる毒物が原因であることはすぐに判明した。危険物質は特定できなかったが、チッソの工場廃水に問題があることはあきらかだった。しかし、国も県もまったく動かない。チッソが責任を認めなかったのはいうまでもない。漁業はつづけられ、工場からの排水もやむことがなかった。
 熊本大学医学部の「水俣奇病医学研究班」は、1959年7月に水俣湾の排水口から湾内にかけて、大量の水銀を発見し、水俣病の原因を有機水銀だとする説を発表した。厚生省もそれを認めたが、通産省はチッソの排水が水俣病の原因とは断定できないと反論し、工場に根本的な対策は求めなかった。加えて、チッソと化学工業協会は有機水銀説を否定し、水俣病の原因は、腐敗した魚介類を食べたことによるという、信じられない見解を打ちだした。みずから調査しようともしない通産省は、ただちにこの見解を支持している。
 チッソの態度に誠意がみられないため、漁民は賠償やヘドロの除去、浄化装置の設置を求めて、闘争に立ち上がった。しかし、チッソは工場排水が水俣病の原因ではないとして、漁民との交渉をこばみ、これに抗議する漁民が工場に乱入する事件もおきた。逮捕され、有罪判決を受けたのは漁民側だった。
 しかし、漁民の抗議がつづくなか、1958年に熊本県知事がチッソの社長を説得し、チッソ側は患者にたいし見舞金をだすことにした。それにより79名の患者に8686万円が支払われ、水俣病問題の決着がはかられた。今後、新たな補償金の要求はしないという条件つきである。
 1961年には、魚介類の汚染はなくなったという報告もあって、水俣市漁協は62年以降、漁業を再開する。しかし、それによって水俣病はさらに広がることになった。
 1962年になると、チッソ社内でも水俣病の原因が、アセトアルデヒド精留廃液中に含まれるメチル水銀化合物であることがわかっていた。だが、会社はこれを公表せず、有機水銀説を否定しつづけた。通産省もチッソ擁護の姿勢を崩すことがなかった。アセトアルデヒドは増産され、水銀を含む廃液は中間プールをへて、水俣川河口から不知火海に放出されていた。
 そのころ、新潟でも水俣病と同じ症状をもつ患者がでるようになっていた。病気はいつしか新潟水俣病と呼ばれるようになる。1967年に厚生省は、新潟水俣病はメチル水銀中毒が原因と報告する。国が、熊本水俣病、新潟水俣病は、それぞれメチル水銀中毒によるものであり、チッソ水俣工場、昭和電工鹿瀬工場の廃水が原因と認定するのは、ようやく1968年9月になってからである。
 そのあと長い裁判がはじまった。水俣病問題は2014年現在でも、まだ終わっていない。
 宮本憲一の『戦後日本公害史論』には、そうした事実が淡々と記されており、あとがきには「歴史は未来の道標」ということばが刻まれている。

吉永小百合の魅力 [われらの時代]

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 このところ駅前の本屋さんで、ときどき昔の映画レンタルDVDを借りて見るようになっています。それが意外とおもしろかったりして、昔はよかったなと思うのは、やはり年をとった証拠かもしれません。
 このあいだ、ひとつの発見がありました。
 中学生のころ、はやっていた歌に「寒い朝」というのがあります。
 こんな歌です。

  北風吹き抜く 寒い朝も
  心ひとつで 暖かくなる
  清らかに咲いた 可憐な花を
  みどりの髪にかざして今日も ああ
  北風の中にきこうよ春を
  北風の中にきこうよ春を

 歌っているのは吉永小百合。和田弘とマヒナ・スターズがバックコーラス。橋幸夫とデュエットしたもうひとつの歌「いつでも夢を」とともに大ヒットしました。
 ところで、発見というのは、この前たまたま借りたDVDの冒頭にこの歌が流れたので、ちょっとびっくりしたという次第です。
 映画のタイトルは「赤い蕾(つぼみ)と白い花」。
 製作は1962年、監督は西河克己です。
 どう見ても季節は初夏というところでしょうか。実際、映画も6月に公開されました。
 だから「寒い朝」というのはへんですよね。そこで、急きょタイトルが「赤い蕾と白い花」に変更されたというわけです。味も素っ気もないですね。
 この映画には原作があります。石坂洋次郎の「寒い朝」です。
 映画のストーリーもせりふも、いくつかのプロットをのぞいて、ほぼこの原作を踏襲しています。ですから「寒い朝」で進行していて、最後の最後になって、突然とってつけたようなタイトルに変更されたわけです。
 ところが佐伯孝夫作詞、吉田正作曲の歌のほうは、原作をもとに別進行していて、映画ではこれが初夏の光景をバックに流れるというトンチンカンなことになるわけですが、そんな些細なくいちがいはどうでもよろしい。
 初夏に「寒い朝」だっていいじゃないですか。それが青春というものです。
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 ストーリーは、たあいないものです。
 でも驚きの発見となったのは、吉永小百合はこんなに魅力的だったんだということです。
 一途ではあるが、まじめくさっていて、どこかもたもたしているというのが、失礼ながら、ぼくが吉永小百合にもっていた印象でした。それは名画座で見た「キューポラのある街」や、テレビの「夢千代日記」などを通じて刻みつけられた印象といっていいかもしれません。
 でも、この映画の吉永小百合はそうではありません。いつも活発に動いていて、せりふもリズム感があって、相手役の浜田光夫との呼吸もぴったり。
 だれもがこんな夢のようなガールフレンドがいたら、それこそ毎日が楽しくてしょうがないと思ったにちがいありません。それほど吉永小百合は輝いていました。そこに登場するだけで、画面がぱっと明るくなるのです。
 さっき、たあいないストーリーだといったばかりですが、この映画に、そこはかとない懐かしさを感じるのは、自分自身の高校生時代と状況を重ねあわせるからかもしれません。もっとも現実の自分とは、おおいにギャップがあって、その部分があこがれともなるわけですが……。
 吉永小百合の演じる岩淵とみ子と、浜田光夫の演じる三輪重夫は、仲のいい高校3年の同級生で、ふたりとも大学受験をひかえています。
 とみ子の家は田園調布にあって、父親は亡くなり、服装学院の理事長である母、真知子が一家のあるじです。いっぽう、重夫の家は日吉にあって、母親がなくなり、父親の貞一が内科の開業医をしています。
 真知子役が高峰三枝子、貞一役が意外にも悪役でおなじみの金子信雄。ふたりとも、いい味をだしています。
 岩淵家と三輪家は、それぞれ母と父が、再婚せずに、ひとりで娘と息子を自由にのびのびと育てているという設定。楽しい家族のなかでは、会話と笑いがたえません。
 とみ子と重夫は、都立大学駅にある高校に通っています。ふたりの関係は友達以上、恋人未満といったところでしょうか。いつも、いろんなことを、たえまなく話していて、どこに行くのもいっしょ。おたがいの家を行ったり来たりして、親どうしも仲のいいふたりを目を細めて見守っています。
 ふたりは同級生ですが、どちらかというと、おしゃまなとみ子(とみィ)が、おっちょこちょいの重夫をしたがえています。重夫はとみィのことが大好きで、とみィのいうことは何でも聞くし、まるでナイトのように彼女を守っています。
 たとえば、朝食をすませた重夫が、とみィの家に行って、また朝ご飯をごちそうになり、それからふたりでいっしょに学校にでかけようというシーン。
 とみ子は玄関で重夫にこういいます。
「重夫さん、靴の紐むすんで……。面倒くさいのよ」
「ほい、きた」
 その様子を見た母親の真知子は、さすがに娘の態度をとがめますが、とみ子はこう答えます。
「いいのよ、ママ。こんなふうに甘えられるところがボーイフレンドのいいとこなのよ……。重夫さんだって、私にサービスして、ある程度いい気分なのよ。そうでしょう。重夫さん」
 重夫はこう応答します。
「いやなこと言うな。父親がいない哀れな娘だと思って、面倒みてやってんのに……」
「私だって、母親がいないボサッとした男の子だと思って、つき合ってやってんのよ。……ママ、行ってまいります」
 まるで漫才のかけあいみたい。
 おそらくこの映画をみた若者たちは、吉永小百合の王女さまぶりに、むしろうっとりしたのではないかと思います。それと同時に、女の子とのつきあい方を学んだはずです。
 浜田光夫は何の下心も感じさせず、きりっとしていて、抑制的で、すばらしい。ぼくの高校生時代と同じだといいたいところですが、そこはどうも自信がありません。でも、やはりあのころの雰囲気が懐かしいです。
 たぶん、これが石坂洋次郎のたどりついた戦後民主主義のあるべき姿だったのでしょう。
 このあと映画は、とみ子が重夫に相談を持ちかけて、ふたりの親どうしをつきあわせるよう画策します。そして、実際にふたりがつきあっている証拠をつかむと、とみ子はこんどは母親に反発して、家出レジスタンスを実行するという運びになります。
 重夫はもちろんとみ子につきしたがいます。ふたりで銀座で食事をし、映画館で西部劇をみて、そのあと綱島の温泉旅館で泊まろうということになります。
 さあ、ふたりはどうなるか。ハラハラドキドキですよね。でも、そこは青春映画、日活ロマンポルノにはなりません。
 翌朝、ふたりは多摩川(綱島なら鶴見川ですが)の土手のうえを走っています。ラストは原作とはちょっとちがっていますが、ふたりの仲のよさが、よりきわだつシーンとなっています。はたして重夫はとみ子にキスさせてもらえたのでしょうか。それは見てのお楽しみです。
 吉永小百合は演技しているようにみえません。高校生そのものという感じです(実際17歳)。日本映画はそれまでこんなヒロインをもたず、それ以降もこんなヒロインはあらわれませんでした。それは、ぼくのようなロートルからみれば、夢まぼろしのなかにあらわれた、一瞬の輝きだったようにも思えるのです。

エネルギー革命と高度成長 [われらの時代]

 1967年の「6日戦争」に際して、中東産油国が石油の生産をストップし、イスラエルを支持するアメリカやイギリスなどに打撃を与えようとして、失敗したことは前にふれた。そのとき中東諸国は石油が「武器」になりうることを知った。
 1960年代後半には、それほど世界じゅうで、石油が経済生活に欠かせなくなっていたといえるだろう。
 いま中村隆英の『昭和史』によって、60年代後半まで戦後日本の経済社会の流れを追ってみる。
 あのころのことが思い出せるだろうか。
 1950年代前半、日本の産業を担ったのは、繊維、セメント、紙パルプ、硫安、砂糖だったという。これらは衣服や建設、新聞、肥料、食べ物の調理にもちいられる材料だったはずだ。
 そのころ4大重点産業とされていたのが、電力、鉄鋼、海運、石炭だった。設立されたばかりの日本開発銀行は、日本経済のボトルネックとされたこれらの産業にたいする重点的な投資をおこなった。日本経済はこのころも政府の成長戦略に沿って動いている。
 このころの電力はまだダム式の発電が中心で、佐久間ダムや黒部第4などの大型水力発電所が計画されていた。鉄鋼の生産体制は、新工場の建設や、大型圧延設備の導入などによって、一気に強化された。海運業界は、アメリカの新技術を導入し、計画造船に取り組んでいる。そして、戦後2000万トン近くまで落ちこんだ石炭生産は、ようやく4000トンまで回復した。
 通産省が機械工業を支援するのもこの時期だ。工場にはベルトコンベアが導入される。アメリカのGE製品をモデルとした大型発電機もつくられた。ナイロンやテトロンの新技術が導入された。岩国や四日市に石油化学コンビナート工場が建設された。
 国民の生活水準が、戦前の段階まで回復したのは1955年前後だ、と中村隆英はみている。その後、日本人の生活様式は徐々に西洋風に変わり、家庭にテレビ、洗濯機、掃除機、冷蔵庫などがはいってくる。
 そういえば、子どものころ、家にテレビ、洗濯機、掃除機、冷蔵庫がなかったことを思いだす。
 ラジオはあった。狭い板敷きの部屋にちゃぶ台を置いて家族で食事をするとき、ラジオから「剣をとっては日本一の……」という赤銅鈴之助の歌が流れてきて、ドラマがはじまるのを楽しみにしていたような気がする。あまり筋も覚えていないのだが、千葉周作の娘、さゆりの声を担当していたのが、吉永小百合だったとは当時知る由もない。
 洗濯機もなかったので、当時は洗濯石鹸で、洗濯物を洗濯板を使ってごしごし洗わなければならなかった。母や祖母は寒いときは、さぞかしたいへんだったろう。
 掃除機ももちろんなく、水につけた新聞紙を細かくちぎって、和室にまき、箒で掃除をした。電気冷蔵庫もなかった。でも、冷蔵庫はあった。となりのうちが夏は氷屋をしていたので、氷を買ってきて、冷蔵庫の上の段に氷をいれて冷やしたのである。
 木切れをくべて竈(へっつい)で炊いたご飯は、わらでつくったお櫃に保存した。夏のスイカは井戸に吊して冷やしてから食べたものだ(もっともぼくはスイカが嫌いだった)。
 小学校高学年まではそんな生活だった。それが1960年前後から、だんだんと変わっていった。
 海べりの工場が拡張されて、海水浴ができなくなったのもこのころだ。その以前から海は汚れはじめ、すこし黒っぽくなっている感じがした。
 中村隆英によると、60年前後は鉄鋼、アルミニウム、石油精製、石油化学、合成繊維、機械、電子などの産業が大型の設備投資をおこなっていたという。クラウンを出していたトヨタがコロナを販売すると、ブルーバードを出していた日産がセドリックを販売するなどして、自動車メーカーどうしの競争も激しくなっていた。
 父が教習所に通わないで、自前で車の免許をとったのも60年ごろで、最初はコロナを買って、次にセドリックに乗り換えた。中型車から大型車になったところをみれば、わが家の家計も徐々に上向いていたのだろう。
 自動車、暖房、合成ゴム、プラスチック、ビニール、合成繊維、そして電力──どれも石油と関係する製品だ。60年代は石油の時代になっていた。
 石炭から石油への「エネルギー革命」について、中村隆英はこう書いている。

〈廉価な中東の原油が流れ込むようになってから、石炭の需要は目に見えて減少しはじめた。北九州、山口、常磐、北海道の炭鉱はたちゆかなくなって閉山が相次いだ。1960年代に入って数年のうちに、日本最大といわれた筑豊炭田には操業中の炭鉱はひとつもなくなってしまった。中年以上の者は失業保険や生活保護で生活していかなければならなかった。私は当時の筑豊を訪れたとき、地下での採掘のために地盤がゆがんで橋がななめになっていたことや、パチンコ屋だけが繁昌していたのが目に焼きついている〉

 エネルギー革命が進展するなか、日本では高度経済成長が加速する。1955〜60年の年平均実質経済成長率は8.5%、1960〜65年が10.0%、1965〜70年が11.6%。どんどん成長率が高まる。
 日本の実質GNPは1952年から72年のあいだに、名目で14.5倍(実質で6.0倍)に膨らんだ。名目と実質のちがいは、このかんに物価が2.42倍になったことを示している。
 1960年から70年にかけ、太平洋岸に工業ベルト地帯が生まれ、重化学工業化が進んだ。粗鋼、合成繊維、船舶、自動車などの増産が相次ぐ。消費者物価は毎年5%程度上昇したが、賃金の上昇は15%近くにおよび、実質10%に近い所得増加がつづいていた、と中村の著書にある。
 1960年代が日本人の生活にもたらした変化はめざましかった。洗濯機、掃除機、カラーテレビ、電話、自動車があっという間に普及していく。インスタントラーメン、インスタントコーヒー、ティッシュペーパー、アンネ・ナプキン、台所用合成洗剤などが家庭に入りこむのもこの時代だった。食卓の光景も変わり、だんだんと洋風となる。女性の服装は洋装がふつうになった。都会では郊外に団地が出現した。
 こうした流れは、石油文明と和風西洋化によって支えられていたのだといってよい。だが、それがもたらした荒廃もすざまじかった。60年代は明るさだけではくくれない。破壊と騒音と粉塵に満ちてもいたのだ。

1967年の「6日戦争」 [われらの時代]

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 大学にはいった年、1967年の年表を何気なく見ていると、6月に中東で「6日戦争」があったと記されている。ぼくにとって中東は遠い場所で、いまでもなかなか実感としてとらえにくいのだが、当時はほとんどこの地域に関心をいだいていなかった。6日戦争についても新聞ラジオで報道されていたはずなのに、どういう戦争だったのか、まるで記憶がよみがえってこない。
 そこで、折にふれてページをめくってみる海野弘の『二十世紀』をみると、こう書かれている。

〈1967年5月、シリアとイスラエルが衝突の危機にあり、シリアの要請で、エジプトがシナイ半島に出兵し、チラン海峡を封鎖した。シリアとヨルダンはイスラエルを包囲した。これらのアラブ諸国は、いずれも、ソ連からの援助を受けていた。
 イスラエルは6月5日、一気に反撃に出た。イスラエルの爆撃機がエジプト、シリア、ヨルダン、イラクの空爆を行い、アラブ連合軍に大打撃を与えた。そして、イスラエルの戦車隊がシナイ半島のエジプト軍を撃破した。
 次にイスラエルは東のヨルダンに向かい、旧エルサレム市街を占領した。さらに北東のシリアのゴラン高原に侵入し、占領した。
 6月10日、国連による停戦が行われた。〉

 簡潔な描写から、シリアとヨルダンに包囲され、エジプトに威嚇されたイスラエルが反撃に出て、あっという間に敵国に打撃を与え、シナイ半島(のちエジプトに返還)、ゴラン高原(のちシリアに一部返還)、旧エルサレム市街、ヨルダン川西岸、ガザ地区などを占領したのだ。国連があいだにはいったため、わずか6日で戦争は終わる。イスラエルがまざまざと強さを見せつけた戦争だった。
 だが、これですべてが決着したわけではない。中東での戦争(と革命)の火種は消えるどころか、いまでも大爆発の様相をみせている。その火種のひとつがイスラエルという国の存在にあることはまちがいない。
 ぼくにとって中東は遠い存在だった。だから、大学に入学してすぐに起こった6日戦争のこともはっきりおぼえていないのだ。そう思っていた。でも、なぜか頭にひっかかるのはどうしてだろう。
 先日、ユージン・ローガン著『アラブ500年史』(白須英子訳)をめくっていると、この戦争の経緯が詳しく描かれていることに気づいた。ぼんやり読み進むうちに、そこに登場してくるある人物の名前が、枯れかかった頭を刺激する。
 イスラエル国防相のモシェ・ダヤン。そう、伊達政宗のように黒い眼帯をした人物、かれこそが、イスラエルの奇襲作戦を成功させた張本人だったのだ。ぼくが6日戦争のことをかすかながらでもおぼえていたのは、ダヤンの印象が強烈だったからだ。
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[モシェ・ダヤン。ウィキペディアの画像より]

 イスラエルは1948年に建国された。周囲をエジプト、ヨルダン、シリア、レバノンに囲まれている。イスラエルを国家と認めないアラブ諸国と1948年、1956年と二度にわたり戦い、いずれも勝利を収めてきた。したがって、「6日戦争」は第3次中東戦争でもある。
 イスラエルという国は地勢的にふたつの弱点をかかえていた。地中海に抜ける中央部の回廊はわずか12キロしかない。エルサレム旧市街と東エルサレムはヨルダン領となっていた。さらにシリアのゴラン高原からガリラヤ湖まではあっという間の距離だ。そこで、建国当時から、イスラエルはエルサレム旧市街からヨルダン川西岸、さらにゴラン高原をなんとか手中に収めたいと思っていた。
『アラブ500年史』には、6日戦争の詳しい経緯とともに、意外な事実が書かれている。
 エジプトはシリアと軍事同盟を結んでおり、ともにソ連から武器を供給されている。いっぽうイスラエルはおもにアメリカから武器を得ていた。
 1967年春、イスラエルとシリアのあいだでは、緊張が高まっていた。イスラエルは、パレスチナ人がシリア経由でイスラエルに侵入しているとみて、シリアを非難しつづけていた。
 4月、シリア上空で、イスラエル空軍とシリア空軍が偶然、衝突し、シリアのミグ戦闘機6機が撃墜されるという事件がおきる。
 このとき通説では、シリアが同盟国であるエジプトに軍事出動を要請し、それに応じてエジプトがシナイ半島に大軍を送ったことになっている。だが、実際はその前に、ソ連がイスラエルの部隊がシリア前線に集結しているとのニセ情報を流して、エジプトの参戦をあおったのだという。
 エジプトのナセル大統領は、実際にはイスラエル軍に動きがないことを知っていながら、イスラエルを威嚇するためシナイ半島に大軍を送った。しかも、国民にアピールするため、カイロの街頭で兵と戦車のパレードをおこない、その様子をテレビで放送させた。イスラエルはそのテレビを見て、エジプト軍の動きをつかむことになる。
 加えて、エジプトはシナイ半島から紅海への出口にあたるチラン(ティラン)海峡を封鎖したから、イスラエルの船はそれまでのように自由に紅海に出られなくなった。
 ちなみに、ぼくはイスラエルがシナイ半島の東のつけ根にあたるアカバ湾にエイラートという港を有していることを知らなかった。スエズ運河を通行できないイスラエルの船は、エイラートから紅海を通って、インド洋方面の通商路を確保していた。そのことも知らなかったのだから、いかにぼくの中東知識がいいかげんかということだ。
 テレビで軍がパレードする様子をみたエジプト国民は、エジプトがアラブの友邦とともにイスラエルに勝利する日は近いとだれもが信じていた。ところが、ナセルは本格的に戦うつもりはなく、イスラエルを威嚇すればじゅうぶんだと思っていたのだ。イスラエルはその甘さをついた。
 エジプト、シリア、ヨルダンが、たいした打ち合わせもないまま、反イスラエル感情だけで軍を動かし、イスラエルを包囲したのにたいし、イスラエルはこれを絶好の機会ととらえ、反撃にでる。
 6月5日、イスラエル空軍は、エジプト空軍基地を同時奇襲攻撃し、爆撃機すべてと戦闘機の85%を破壊した。3時間でエジプトにたいする制空権を確保したというからすざまじい。それに引きつづいて、イスラエル空軍は、弱小のヨルダン空軍を壊滅させ、シリア空軍機の3分の2を破壊した。
 制空権を握ると、イスラエルはすぐに地上軍部隊を投入する。二正面、三方面で戦闘になるのは避けたかった。できれば個別撃破がのぞましい。
 そこでまず向かったのがエジプト軍の駐留するシナイ半島だった。10万のエジプト軍にたいし、イスラエル軍は7万の歩兵と700両の戦車を投入する。激しい戦闘の末、まずガザ地区を占領し、地中海沿岸部に展開するエジプト軍部隊を打ち破った。ついでシナイ半島東部の要所を占拠、逃げ惑うエジプト軍の戦車部隊は空からの格好の標的になった。
 エジプト軍を無力化したあと、イスラエル軍は次にヨルダンの前線に向かい、まずエルサレム旧市街を確保し、それからヨルダン川西岸を占拠した。そして最後にシリア軍を攻撃し、ゴラン高原を掌握したのである。
 わずか6日で戦争は終わる。
 この世界じゅうが驚いた奇襲作戦を指揮したのが、イスラエルのダヤン国防相だった。ダヤンの名前を知ったのは、戦争が終わって、しばらくたってからだったかもしれない。それでも、ぼくはダヤンというのはすごい軍人だと思って感心していたのだから、あのころはあまりに単純だったとあきれるほかない。
 ところで、『アラブ500年史』には、ほかのアラブ諸国が、この戦争を手をこまぬいて見ていたわけではなかったことが記されている。
 戦争がはじまった翌日6月6日、アラブ諸国の石油相が集まり、イスラエルを支持するアメリカ、イギリス、西ドイツに対する石油輸出停止措置を決定した。サウジアラビアとリビアは石油生産を完全にストップし、これによってアラブ石油の産出量は60%減少する。
 サウジとリビアはどうして自分で自分の首をしめるようなまねをしたのだろう。イスラエルを支援する先進国に圧力をかけようとしたのはまちがいない。しかし、この作戦はもののみごとに失敗する。
 アメリカをはじめとする先進国は、増産やら非アラブ諸国からの調達によって、石油減産の危機をしのいだ。それどころか、その後の石油のたぶつきによって、石油価格はむしろ低下し、中東産油国の収入を減少させる結果となった。
 こうして石油を武器とするアラブ諸国の作戦は完全に失敗したのだが、それですべてが終わったわけではない。石油はやはり大きな武器にちがいなかった。のちに石油ショックをもたらす中東産油国の石油戦略は、6日戦争の失敗から得られた教訓をもとにして発動されたのである。

政治と死 [われらの時代]

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 政治の理路には、どこか「敵を殺せ」という衝動がひそんでいる。「殺せ」というのが穏やかでないとしたら、「抹殺せよ」でも「追放せよ」でも「無力化せよ」でもよい。要するに、自分の目の前から消えてほしいという願望である。
 1960年代後半から70年代にかけての「われらの時代」をふり返り、いま政治と死というテーマをかかげてみると、まず思い浮かぶのが毛沢東の名前である。だが、気の遠くなるほど多くの人を死に追いやった毛沢東は、1976年に中国の最高指導者の地位を保ったまま天寿をまっとうした。
 米国のケネディ大統領は、1963年11月にテキサス州ダラスで暗殺される。インドネシアのスカルノ大統領は、1965年秋の9・30クーデター事件ののち、権力を奪われて幽閉され、1970に亡くなる。その間、次期大統領となるスハルト将軍による共産主義者虐殺が全土に広がっていた。
 そして、いま頭に思い浮かぶのが、韓国の朴正煕大統領のことである。かれもまた暗殺される。それはいつのことだったのか。
 ぼくの手元にあるドン・オーバードーファーの名著『二つのコリア』をめくって、朴正煕に関する部分を読みなおしてみる。
 その来歴については、こう書かれている。

〈朴正煕は1917年9月30日[西暦では11月14日]、大邱近くの村で、小農の家の息子として生まれる。父親は郡の小役人をしていた。20歳のとき師範学校を卒業し、小学校で3年間教師をした後、日本軍に志願した。彼は成績が抜群だったため、まもなく満州の日本軍官学校に送られ、少尉に任命された。教師時代に培われた規律正しい精神と達筆は生涯を通じての彼の特性となった。軍事教練で学んだ組織力と権力行使の能力も同様に、彼の特性として備わった〉

 簡潔で的確な描写である。その人柄も伝わってくる。
 日本が降伏したあと、韓国軍の将校となった。社会主義革命をくわだてたとされる1948年の麗水(ヨス)事件で、共産党(南朝鮮労働党)細胞の指導者として逮捕され、死刑判決を受けた。しかし、獄中で転向、軍内部の共産主義者のリストを当局に提出することで死刑を免除される。出獄後は陸軍司令部の情報将校となって共産主義者の摘発にあたった。1959年には、韓国陸軍の少将にのぼりつめている。
 そして、1960年、学生運動の盛り上がりによって、李承晩大統領が失脚し、政治的混乱がつづくなか、1961年5月に軍事クーデターを起こし、政権を握った。民政復帰後、1963年、67年の選挙で大統領に選出される。1964年にはジョンソン米大統領の要請に応じて、ベトナムに韓国軍を派遣した。1965年には、わずかなカネで国を売るなという国内の反対を押し切って、日韓基本条約を締結する。これによって日韓の国交が正常化された。
 2期目の大統領選出後、朴正煕は大統領の3選を禁じた憲法を改正し、1971年の大統領選挙に臨むが、野党の金大中候補との票差はごくわずかだった。その後、国会では選挙で野党が躍進し、憲法をさらに改正して4選をねらうのは不可能な状況となった。1972年には非常戒厳令を発動し、大統領直接選挙制を廃止し、国民会議による選出方式を採用、事実上、終身大統領への道を開いた。
 朴正煕の「維新体制」のもと、反対派は徹底して弾圧され、投獄され、拷問を受け、殺害される者もいた。報道機関は統制下におかれた。日本にいた金大中は、73年8月8日に韓国中央情報部(KCIA)によって拉致され、あやうく暗殺されるところを米情報当局の警告により助かり、ソウルの自宅に軟禁された。
 1974年8月15日には、いわゆる「文世光事件」が発生する。日本からの解放記念祝日、いわゆる光復節に、ソウル国立劇場で朴大統領は、用意されたスピーチ原稿を淡々と読んでいた。
 現場に居合わせたオーバードーファーは、そのときの様子をこう記している。

〈突然、ホールの後方からパンという大きな音が響き、単調な空気を破った。振り向くと黒っぽい服を着た男が劇場の真ん中の通路を駆け降りていくのが見えた。銃を発射しながら男は走る。さらに何発かの発射音が響き、大統領の警護官らが舞台の両袖から正面に飛び出してきた。銃が抜かれ、そのいくつかは火を噴いた。修羅場と化したただ中で、韓国のファーストレディーが舞台上の席からがくんと床に崩れ落ち、付き添い人たちに運び出された。彼女の鮮やかなオレンジ色の韓服が血に染まっていた〉

 大統領夫人の陸英修(ユク・ヨンス)は死亡し、大阪に住む在日韓国人の犯人、文世光(ムン・セガン)はその場で取り押さえられ、4カ月後、死刑に処された。
 夫人の死後、「朴正煕は一層、孤独になり、引きこもり、人々から疎遠になった」とオーバードーファーは記している。
 1975年半ば、大統領は国家を戦時体制下に置く。政府批判はすべて禁じられた。
 ぼくがソウルを訪れたのは、ちょうどこのころである。生まれたばかりの長女をつれて、家内といっしょに金浦空港に降り立ったのを覚えている。家内の両親が仕事の関係でソウルに駐在していたため、赤ん坊を見せにいったのだ。
 空港の税関では、頼まれて買っていったラジオをしつこく検査されたが、それほど緊張感は覚えなかった。あのころソウルの町はまだあちこちに古い家並みが残っていて、道路では自動車に混じってリアカーを引くおじさんもいた。
 そうしたことは、またおいおいと記すことにしよう。
 朴正煕の最後もまた劇的だった。
 1979年10月26日、側近のKCIA部長、金載圭(キム・ジェギュ)によって射殺されるのである。61歳だった。
 場所は青瓦台構内にあるKCIAの秘密宴会場。モデルや歌手もまじえて、大統領を囲む晩餐会が開かれていた。
 そのときの様子をオーバードーファーはこう再現する。

〈夕食が進むと、朴正煕は金載圭KCIA部長を批判した。政治、経済の問題をめぐって生じた国内の大混乱を押さえることができなかったというのだった。学生やスト労働者を厳しく弾圧しろと主張していた車[智澈、チャ・チチョル]警護室長もKCIA部長を罵り、あまりに融和的な方針を支持して社会不安を招いたと言った。悪口雑言が数分続いたあと、KCIA部長は部屋を出て建物の二階にある自分の部屋に行き、38口径のスミス・アンド・ウェッソンの拳銃を取り上げ、ポケットに隠した。彼は自分の警護員に、銃声がしたら食堂の外にいる大統領の警護員を撃つよう指示した。
 部下の準備ができたことを確認したあと、金載圭は拳銃を取り出し朴正煕に向かって、「こんな虫けらをどうして相談相手にするのか」と詰め寄った。それから直射距離でまず車智澈、次に朴正煕を撃ち二人に重傷を負わせた。銃が故障したので、KCIAの警護員から別の38口径の拳銃を借り、二人の息の根を止めた。発砲を聞いたKCIAの部下たちは、5人の大統領警護員を襲い、殺した。数分のうちに、18年間の波乱に満ちた朴政権の歴史は銃火のなかで終わりを告げた〉

 朴正熙の独裁体制のもと、韓国経済は急速な発展を遂げた。そのため、韓国国内では朴正熙を高く評価する人が多い。
 しかし、その政治と死は凄絶だった。

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