So-net無料ブログ作成
検索選択
われらの時代 ブログトップ
前の10件 | 次の10件

『羊をめぐる冒険』から『ねじまき鳥クロニクル』まで──『村上春樹は、むずかしい』を読む(2) [われらの時代]

5187HinveKL._SY349_BO1,204,203,200_.jpg
 1982年『羊をめぐる冒険』
 1985年『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』
 1987年『ノルウェイの森』
 1988年『ダンス・ダンス・ダンス』
 1992年『国境の南、太陽の西』
 1994年〜95年『ねじまき鳥クロニクル』

 村上春樹の創作活動はきわめてコンスタントだ。まるで、毎日の朝の勤行にようにおこなわれている。
 そのことにまず驚く。躁鬱型でも破滅型でもないようだ。
 ほんとうにものを書くのが楽しいのだろう。その純粋さがたぶん読者に伝わるのだ。
 ここに挙げた作品で、ぼくが読んだのは『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』と『ノルウェイの森』だけである。
 だから、えらそうなことはいえない。それも、あまりよくわかっていないのだ。
 加藤典洋にいわせれば、80年代から90年代にかけて、ポストモダンの時代がはじまっている。
 ポストモダンの特徴は「情報社会化」と「ヴァーチャル・リアルな世界」だ。
 それを先取りした作品が『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』だという。
 この作品では、意識の世界と無意識の世界がパラレルにえがかれる。
 意識の世界は、めくるめくリアル(小説的現実)によって翻弄される。これにたいし、無意識の世界は、「私」の奥底にある「僕」の静謐な思いに満ちている。
 と書いてみたものの、ほんとうにその解釈が正しいかどうか、心もとない。
 リアルな世界、つまりハードボイルド・ワンダーランドは、ハリウッド映画のように、冒険に冒険がつづく場所だ。
 物語は、かわいい太った女の子と地下にもぐり、その祖父である博士から、「計算士」である「私」が仕事を依頼されるところからスタートする。地上に戻った「私」にいきなり邪悪なものが襲いかかる。その謎を解くべく、「私」はふたたび地下にもぐり、太った女の子の協力を得て、邪悪なものと戦いつつ、ようやく地上に帰還するのだ。
 これは頭にえがかれたファンタジーだ。しかし、あのころ、ぼくも会社という場所で戦っていたことを思いだす。上司に叱咤激励されながら、いろいろな会社を回って契約をとってくる仕事は、きつくはなかったけれど、それなりにたいへんだった。まるで相手にされないこともあったし、同僚と喧嘩をすることもあった。その点、人生はたしかにハードボイルド・ワンダーランドなのである。
 しかし、そうした戦いの毎日とは別に、何か別のわきだしてくるもの、ぼくが求めているのは、ほんとうはこんなことではないという思いがあったのもたしかである。そうした思いは年を取るにつれて、しだいに枯れていくものなのかもしれないが、村上春樹はそうした無意識の場所をパラレルワールド、すなわち「僕」の行き着く「世界の終り」として、やはり映画のようにえがいている。
 加藤典洋によれば、「世界の終り」は「否定性のない定常的な世界」だという。ここでは誰もが生来もつ苦しみと矛盾は切り捨てられる。いわばニルヴァーナ(涅槃)に向かう場所だ。いずれ人の心の核にある無意識は、熱い塊から、だんだんと冷えて、黒い塊へと落ち着いていくのだろう。
 しかし、村上春樹はまだ若い。心を滅却して、「世界の終り」に安住することを拒否するのだ。その選択はかなり微妙なものとならざるをえない。
 というのも、「世界の終り」に安住することを拒否するとしても、その方法はふたつあるからである。
 ひとつは「世界の終り」から完全に脱出することだ。すると、無意識の欲求は完全に断ちきられ、現実に順応することがすべてとなる。これにたいし、村上が選んだ道は「世界の終り」を苦しみながらさまようことだったと思われる。
 無意識のなかからわきだしてくるものを、現実の必要性(身過ぎ世過ぎ)のために抑え、切り捨ててしまうのではなく、そのわきだしてくるものに随伴すること。
 加藤はその方向について、竹田青嗣のことばを借りながら、「自らの内閉的な『世界』のイメージにこそ抵抗しようとする『作家のひどく困難な意志のかたち』を指し示している」と表現している。
 このとき、村上春樹の無意識には、何がわだかまっていたのだろう。
 加藤は村上のある習作をもとに、こう紹介している。

恋人は精神的な病いに苦しみ、自殺している。死ぬ前、彼女はいった、本当の自分はここにいるのではない、「高い壁に囲まれ」た内部の世界に閉じこめられていると。彼は尋ねる。「そこに行けば本当の君に会えるのかい?/そして、彼女が死んだあと、「僕」はそこに向かう。」

 それが大ベストセラー『ノルウェイの森』に結実することはいうまでもない。
 ぼくは、最近、とみに老人力が増してきて、昔読んだ小説の筋など忘れてしまっている。
『ノルウェイの森』を読んだのは、はるか昔のことで、いまではほとんど何も覚えていない。
 映画はみた覚えがある。たしか、このブログにもその感想を書いたはずだと思い、検索してみると、でてきた。定年退職後の2011年2月のことだ。
 参考までに、それを挙げておく。

 http://kimugoq.blog.so-net.ne.jp/2011-02-02

 原作をもう一度読んでみることにしようと書いておきながら、それからまったく読んでいないのは、いかにもなまけもののぼくらしい。
 だから、加藤典洋の本にしたがいながら、筋を思いだすしかないのだが、友人のかつての恋人で、いまは「僕」の恋人となった直子がなぜ死んだのかが、「僕」につきまとう謎だったことはまちがいない。
 加藤典洋によると、『ノルウェイの森』は、それまで一歩下がって内閉するデタッチメントにこだわっていた村上春樹が、足場のない空間にこぎだして、ふつうの書き方で書いた、初の恋愛小説だという。

〈主人公の「僕」=ワタナベ・トオルが自殺した高校時代の友人キズキの恋人だった直子と、大学進学後、東京で再会し、恋愛する。直子はその後、大学をやめ、東京を去り、心を病んで京都の医療施設に入って、やがて自殺する。「僕」は東京で大学のクラスメート緑とつきあうようになり、直子の死後、緑に愛を告白する。〉

 これが加藤による『ノルウェイの森』のあらすじである。
 ここには同じ寮にいて、外交官をめざしている永沢さんという人物がでてくる。永沢さんにはハツミさんという恋人がいる。
 それなのに永沢さんはガールハントが好きで、「僕」もその片棒をかつがされ、セックスのとき女の子をとりかえたりする。
『ノルウェイの森』はセックス小説でもある。ふたりの男はそれぞれ恋人がいるのに、「ときどきすごく女の子と寝たくなる」。
 そして、「僕」の恋人、直子も、永沢さんの恋人、ハツミさんも自殺する。直子は精神を病んで、ハツミさんは別の相手と結婚したあと。
 ハツミさんが自殺したあと、外交官になった永沢さんから、「僕」に「たまらなく哀しく辛い」という手紙が届くが、「僕」はその手紙を破り捨て、二度とかれに手紙を書かない。
 青春時代を回顧したほろにがい小説といってしまえば、それまでである。
「僕」と永沢さんのちがい。「僕」が彼女に去られるのにたいし、永沢さんは彼女を捨てたのだ。そして、彼女のことを青春の思い出のひとこまとしか思っていない。これにたいし、直子は「僕」の心の奥底に生きつづけている。
『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』というたぐいなき超日常的な小説世界を築いていたとき、おそらく村上春樹のなかには、「直子」のことが、よみがえっていたはずである。
『ノルウェイの森』は、書かれるべくして書かれた作品だった。そのパワーが作品に結実したあと、村上春樹はようやく解き放たれ、ふたたび自己の小説世界に立ち戻ることができたのである。
 加藤典洋によると、『ノルウェイの森』は累計で1000万部を超えるベストセラーとなり、その結果、村上春樹は「日本からの逃亡」を余儀なくされたという。
 そのあと1995年まで、作品は海外で書かれ、次の大長編『ねじまき鳥クロニクル』も全3部のうち、2部がアメリカで執筆された。
『ねじまき鳥クロニクル』は読んでいない。そのあと、ぼくが読んだのは『アンダーグラウンド』と『1Q84』だけだ。最近の『騎士団長殺し』も買っていない。
『ねじまき鳥クロニクル』については、加藤典洋の解説を紹介するほかない。
 この小説は、いってみればさえないハウス・ハズバンドの「夫婦の物語」である。「僕」、岡田トオルは、妻のクミコに突然失踪される。その妻を探して、みずからの内面の闇に降りていき、そこで予期せぬものとぶつかりながら、妻を取り返す話だといってよい。
 加藤典洋によると、「主人公が『社会』から遠ざかり、自分の無意識の闇に沈潜すると、そこに『歴史』が現れる」のが、この物語の特徴だという。
 その歴史とは、日本による中国侵略、新京(満州国の首都、現長春)の植民地生活、ノモンハン事件である。ここでは初期の「中国行きのスロウ・ボート」がついに中国の内部に到着したことが示唆されている。
 それにしても、すさまじい暴力描写である。ストーリーは無意識の奥(いわば父の記憶)から吹きだす歴史の暴力と、意識のとらえる現実の暴力が交錯しながら展開する。
 加藤はこう書いている。

〈カギは、暴力と死とセックスにある。それを避けて、ではなく、その内側に入り、そこをくぐり、どう「戦争の記憶」に達し、「反戦と非戦の意志」へと抜け出ていくことができるか。/『ねじまき鳥クロニクル』は、そのような私たち日本人の戦後の「冥界くぐり」の先駆例だというのが、いまの私の考えである。〉

 この評価が正しいかどうか、わからない。
 しかし、こういう記述をみると、やはり村上春樹は、われらの時代の作家なのだという思いを強くするのである。

『村上春樹は、むずかしい』(加藤典洋)を読む(1) [われらの時代]

41R13MDt57L._SX309_BO1,204,203,200_.jpg
 村上春樹は、むずかしい。
 おもしろいのだけれど、よくわからない。
 ほんとうにそう思う。
 先日、両親を介護するため、いなかの高砂に帰り、往復の新幹線や夜寝る前に『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』を読んだ。しかし、正直いって、よく理解できなかった。
 これまでの小説にない世界がつくられていることはたしかである。まるでゲームのようにストーリーが展開し、最後まであきさせない。夢中で読んでしまった。たいしたものだと思う。
 こんな世界を構築できる小説家はそうざらにいない。ひたすら感心する。
 だが、ふりかえってみると、頭に何も残っていないのだ。展開の早いハリウッド映画を見終わったあとのような感覚。それでも、村上春樹はくせになる。
 村上春樹をよく読んだとはいえない。たぶん妻や娘たちのほうが読んでいると思う。『ノルウェーの森』や『アンダーグラウンド』、『1Q84』は飛ばし読みした。短編も読んだ覚えがある。
 それらの本は本棚に残っていない。結婚した娘たちがもっていってしまったのだ。なぜか「世界の終り」だけがぽつんと残っていたので、先日兵庫県のいなかに戻るときに、またも飛ばし読みした次第だ。
 村上春樹とは同世代である。出身地も兵庫県で、大学も同じだ。それなのに、こちらは「おとうさん」「おじさん」から「じいさん」になり、サラリーマンを定年退職して、いまは日がなぼんやりすごしている。うらやんでも仕方ないが、えらいちがいである。
 村上春樹の小説は、かっこいいし、気が利いているし、ミステリアスだ。ハードボイルドの要素もあり、何よりも主人公が女の子にもてる。やっぱり芦屋生まれの人はちがうわと、いなか育ちのぼくなどはついつい、ひがんでしまう。
 こんなふうに書きはじめると、最初から最後までぐちであふれそうになるので、いいかげんなところでおしまい。
 ここでは、同じ世代ということだけを取り柄にして、ひたすら村上春樹が切り開いてきた小説世界を取りあげてみることにしよう。
 といっても、ぼくはとても村上春樹の熱心な読者とはいえないので、加藤典洋の『村上春樹は、むずかしい』(岩波新書)を、これまた斜め読みして、お茶をにごそうというのである。
 この解説書は3部にわかれている。

 第1部 否定性のゆくえ 1979-87年
 第2部 磁石のきかない世界で 1987-99年
 第3部 闇の奥へ 1999-2010年

 村上春樹の作品に沿って、話が展開している。
「はじめに」は省略して、第1部から読みはじめる。
 村上春樹のデビュー作は1979年の『風の歌を聴け』である。
 あのころ、ぼくは結婚し、ちいさな出版社から某マスコミの子会社に転職し、会社回りの営業の仕事をしていた。
 もともと小説はあまり読まなかったから、村上春樹の登場にはさほど注目しなかった。
『風の歌を聴け』も翌年の『1973年のピンボール』も芥川賞をとれなかったという。そのころ注目されていたのは、中上健次や村上龍である。
 しかし、芥川賞をとれなかったのが、かえってよかったのだ。それ以降、村上春樹は芥川賞などには目もくれず、長編小説をめざすことになったのだから。
 村上春樹にとって1970年代は小説修業の時期である。そのころ、ぼくは世間の広さを知り、上司や先輩と毎日のように飲み歩き、子育てに明け暮れていた。
 ぼくが「風の歌」を読んだのは、ようやく60歳近くになってからである。
 とても懐かしい感じがした。
 その感想については2度ブログに書いたので、いまつけ加えることはない。

 http://kimugoq.blog.so-net.ne.jp/2007-07-24
 http://kimugoq.blog.so-net.ne.jp/2007-07-25

 加藤が注目するのは「風の歌」に登場する「鼠」という友人の存在だ。
「鼠」は金持ちの息子だ。「金持ちなんて・みんな・糞くらえさ」というのが口癖。
 加藤はこの口癖を「自己否定ないし否定性の表現」と評している。
 これにたいし、主人公である「僕」のモットーは、作中に登場する架空の小説家デレク・ハートフィールドの作品タイトル『気分が良くて何が悪い?』だという。
 否定性と肯定性が対比されている。
 加藤によると、「この小説は、[学生運動に見られたような]『否定性』を抱えた『鼠』が徐々に時代遅れになり、没落していくさまを……重層的な構成のもとにえがいている」ということになる。
 だが、ぼくはそうは思わない。希望も絶望も捨てて、ひたすら井戸(フロイトのいうイド)を掘って、次の世界に抜けることをめざすと宣言した小説と読んだからである。
 まあしかし、そう大げさに考えなくてもいいのかもしれない。村上春樹の小説は楽しい。軽やかだし、スリルもあるし、しゃれている。そうでなければ、小説をつづけて書く気分にはなれないだろう。それでいいのだ。
 1982年には長編小説『羊をめぐる冒険』(ぼくは読んでいない)、1985年には『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』が出る。
 そのかん、かれはいくつかの短編を書いている。ぼくが気に入ったのは、ちょうど定年の年に読んだ「中国行きのスロウ・ボート」と「パン屋再襲撃」だ。あのころ、ぼくの家のネコが死にかけていた。
「友よ、中国はあまりに遠い」という謎のひとことで終わる「中国行きのスロウ・ボート」には、中国にたいする村上春樹の思い入れの深さがこめられている。
 加藤によれば、教師で僧侶でもあった村上の父親は徴兵され、中国大陸での戦闘に加わったのだという。だから、中国のことは、どこかでいつも気になる。
 スロウ・ボートとは船足の遅い小舟。いつまでもこぎ続けて、いつか中国にたどりつきたいと願っている。でも中国は遠い。
 加藤はほかに「貧乏な叔母さんの話」についてもふれている。この作品もぼくは読んでいないけれど、加藤によれば、これは「『貧しい人々』への罪障感のゆくえを書こうとした」作品だという。
「僕」はかれらにたいして何もできない。かれらが革命を起こして、貧乏な国ができても、たぶん「僕」には居場所がない。「僕」ができるのは、この豊かな世界で孤立したかれらに寄り添うことくらいだ。
 ぼくが加藤の評論から読み取ったのは、そういうメッセージだが、ほんとうはそんなことではないような気もする。作品を読んでいないので、これも何ともいえない。
「ニューヨーク炭鉱の悲劇」という作品もあるらしい。加藤によると、内ゲバにたいする村上の「ささやかなコミットメント」だという。
 内ゲバは1969年から1981年ごろまでが猖獗(しょうけつ)をきわめ、そのピークは1975年だった。そのかん100人近くが命を落としている。
 革マル派の拠点があった早稲田の文学部でも、ずいぶんひどい内ゲバがあった。ぼく自身は党派に属さなかったので、内ゲバとは無縁でいられたが、あのころはひやひやしていたことを覚えている。
 たぶん内ゲバの死者には、村上の知り合いもいたことだろう。
 そもそも「ニューヨーク炭鉱の悲劇」というのは、1967年にビージーズが発表した反戦歌のタイトルだ。
 加藤はこう書いている。

〈1941年に起こったニューヨーク炭鉱の悲劇とは、いま進行しているベトナム戦争の「落盤」の悲劇のことで、この若いロックバンドは、その「悲劇(disaster)」を銃後の社会で地球の裏側の戦場に遺棄された若い兵士たちの孤絶の側から、歌ったのである。〉

 この作品についても読んでいないので、何ともいえない。
 加藤の論評はわかったような、わからないようなところがある。
「パン屋襲撃」と「パン屋再襲撃」は、やはり定年の年に(ネコのからだを心配しながら)通勤電車のなかで読んだ。
 ブログにこんな感想を書いている。

http://kimugoq.blog.so-net.ne.jp/2008-03-06

 加藤によれば、この作品は過激な学生運動の後日譚、ただしパロディということになる。京浜安保共闘による銃砲店襲撃も村上春樹の念頭にあったかもしれないという。しかし、この作品では、反体制的な否定性は、ポストモダニティにからめとられてしまう。つまり、革命がとんちんかんなお笑いになってしまう時代がはじまっていたのだ。
 だが、ぼくの解釈はここでも加藤とはちがい、むしろ近代の逆立性ということを強く感じたものだ。
 人によって、作品の受け止め方はずいぶんちがうのだなあと思わざるをえない。しかし、多様な読み方ができることが、小説の深さであり味わいなのだろう。
 村上春樹はたしかに、われらの同時代人である。村上春樹を読むということは、笑ったり、驚いたり、どきどきしながら、いまの時代を眺めるということにほかならない。それが楽しい。

武田泰淳『富士』をめぐって [われらの時代]

51CD3STPXVL._AC_US218_.jpg
 最近はめったに小説を読まなくなったし、映画館で映画を見ることもほとんどなくなった。小説や映画が日常に大きな部分を占めていたのは、1960年代後半から70年代はじめの学生時代だ。といっても、ぼく自身、文学青年にはほどとおく、ひたすらのらりくらり日を送っていたにすぎない。
 あのころ、武田泰淳の小説もよく読んだ。泰淳の大作『富士』が出版されたのは1971年のことだ。そのとき、司修の装丁と造本に圧倒され、本を買ったのを覚えている。ところが、その本がいまは見当たらない。たぶん、だれかがもっていったのだろう。いま本棚に残っているのは、その後、出された文庫本で、ハードカバーの原著を知る者としては、いささか悲しい造りになっている。
 最近、両親の具合が悪く、東京といなかを往復することが多くなっている。車内の退屈をまぎらわすために、本棚からおもしろそうな本を見つけようとして、泰淳の『富士』を発見したというわけだ。
 新幹線で二度往復するなかで、ざっと読み終わった(行きも帰りも富士山がよく見えた)が、学生時代に一度読んだはずなのに、ほとんど忘れていることが驚きだった。たぶん、あのころは何もわかっていなかったのだ。
 そして、正直、いまもよくわからない。
 爽快でも愉快でもない小説である。富士の裾野にあった、太平洋戦争末期(1944年)の国立精神病院が舞台となっている。
 その病院は、戦争にくるった国が、戦争でくるった人たちを隔離し、押しこめた施設といってよいかもしれない。そこから見える富士は、日本一の美しい山というより、むしろ鬱勃として、秘めたる力をみなぎらせていた。
 あくまでも小説である。じっさいの精神科病院で治療にあたる先生が、この小説を読んだら、こんな患者も先生もいないというだろう。
 小説の主人公である大島は、戦時中、この精神病院の研修医をしており、いまは富士山麓に別荘を構えて、妻とともにくらしている。その大島があのころから四半世紀たった1969年に、当時の病院長や患者のこと、そして、さまざまなできごとを思いだして手記をつづるというのが、『富士』という小説の筋立てになっている。

 最近、親友が肺がんで亡くなった。大学時代、そして卒業後もしばらくともにすごした仲間である。その奥さんから、戒名をもらったのでというメールがはいった。慈眼院という院号がついていて、だれもにやさしかったかれに、ぴったりだと思った。快人居士というのもかれらしいと思った。
 それで、ふと連想してしたのだが、『富士』の主人公、大島もまた慈眼でもって、患者に接し、手記をつづったのではないかという気がした。
 院長の甘野も慈眼の人である。だが、甘野院長が神のごとくであるのにたいし、大島はあくまでも「狂気」に寄り添う。「正気」と「狂気」の区別はなきがごときだ。
 実際、戦時中の「正気」は敵を殺せであり、「狂気」は敵を殺すなであった。
 正気と狂気を分けるのは、国家であり、世間である。それは戦前も戦後も変わらない。そして、戦後の正気が、ほかに目もくれず経済の発展に邁進せよとの号令のもとにあった時代に、武田泰淳はこの小説を書きはじめた。
 慈眼はたんにやさしいわけではない。それは世間の引いた区別を溶解してしまうのだ。狂気が正常というのではない。ただ、意識が狂気に溶けこむことによって、狂気をしっかりと囲いこんでいた正常の鎖が、ほどけてしまい、溶けだした狂気のマグマが秩序の側に流れこんでいく。慈眼には、そんな作用をうながすこわさもある。
 そんな人の諸行無常を富士がながめている。神はあくまでも人のかたちをしている。だが、富士は神を超えた存在だ。作品の最後に、その富士が燃えて、滅亡がやってくる。しかし、それはまだ幻覚のなかでしかおこらない。富士は、予兆をはらみながら、静かにどっしりとたたずんでいる。
 大島の手記、つまりこの小説にえがかれている患者たちは、男も女も含めて、じつに魅力あふれ、躍動感にみちている。
 大島の友人で、いまは入院している美貌の青年、一条実見は、虚言症患者で、自分を宮様だと称している。かれによれば「地上の権威や支配とは全く無関係に、ミヤでありうる者のみが、真のミヤ」なのである。
 かれの行動は自由で、まったく神出鬼没だ。患者のひとりである、てんかん症の大木戸孝次が亡くなる前から、その美しい夫人と性的交渉をもついっぽうで(ただし、それ自体、虚言である可能性もある)、近所の茶店の娘、中里里江を夢中にさせている。
 一条は「富士曼荼羅図」をえがこうとしていると伝えられる。だが、だれもその絵をみた者はない。「曼荼羅図」をえがくのは、一条には不可能だった。というのも、曼荼羅図のなかの一体の仏こそが、一条にほかならなかったからだ。そして、けっきょく曼荼羅図をえがくことなく、一条は自死し、その仕事は大島の手記にゆだねられることになる。つまり、大島の手記、『富士』という小説こそが、富士曼荼羅となるのである。
 一条は死すべく行動する。かれは警官の格好をして、御陵に参拝する本物の宮様に、「ミヤ様」として「日本精神病院改革案」を手渡す。そして、警備員に袋だたきにあい、憲兵隊に引き渡されたとき、青酸カリを飲んで、自殺するのである。
 1970年11月25日に、「楯の会」の制服を着た三島由紀夫が自衛隊市ヶ谷駐屯地に出向き、バルコニーで自衛隊員にクーデターへの決起を呼びかける演説をしたあと、割腹自殺するという事件がおこった。
 当時、大学生だったぼくも衝撃を受けたものだ。
 小説『富士』の一条事件は、まるで三島事件を写したようにみえる。だが、実際には、この部分は三島事件の前にすでに書かれていた。その符合に驚いたのは、むしろ武田泰淳のほうである。泰淳は三島の葬儀で、弔辞を読むことになる。
 一条実見の姿に、三島由紀夫のイメージが重なってくるのは、なんともいたしかたない。一条の思いつめた行動は、傍目からみれば滑稽である。一条はほんとうに精神病院の改革にいのちを賭けたのだろうか。虚無にいのちをささげた感さえある。
 むなしく死ぬのは一条だけではない。
 てんかん症の大木戸は、一の日と八の日にかならず発作をおこす。
 一の日と八の日とはなにか。小説に解説がある。

〈一の日とは、毎月1回の興亜奉公日[国民精神総動員にもとづく生活運動]。この日は学校、会社、工場などで、宮城遙拝、神社参拝、早朝の集合や行進をやる。八の日とは12月8日の大詔奉戴日[対英米戦争がはじまった日]。大木戸にとっては、八の日は12月ばかりでなかったし、毎月の18日、28日も彼独自の連想がからんで警戒しなければならないのである。〉

 大木戸が発作をおこすのは、国民の義務に自分が参加できないことによる緊張感のためである。その大木戸にとって生きるあかしは、めしをたらふく食うことでしかない。だが、戦時中の食糧事情の悪化が、かれの唯一の楽しみを奪おうとしていた。栄養失調と発作が重なって、大木戸はあっというまに死ぬ。「人間なんて、つまらないものだなあ」というひと言を残して。このことばは、意外と重い。
 梅毒患者の間宮は、伝書鳩の飼育だけを生きがいにしている。だが、あるとき、そのハトがいなくなる。伝書鳩はスパイが利用する可能性があるとして、憲兵隊が連れ去ってしまったのだ。それを間宮は甘野院長が憲兵隊に通報したのだと勘違いして、院長を逆恨みする。その怒りにかられて、かれは院長宅を襲撃し、愚鈍そうにみえる子守女を殺害し、なおも手斧をふるおうとしたところ、たまたまそこに居合わせた大木戸夫人が手にしたシャベルによって殴り殺される。これも、いたたまれない殺人事件だ。
 男たちが次々死んでいくのにたいし、『富士』の女たちはだれも強い。患者の庭京子も、大木戸夫人も、茶店の娘、中里里江も、甘野院長夫人も、魅力的で、圧倒的な存在感を示している。武田泰淳のえがく女たちについて論じるだけでも、おそらく1冊の評論ができるだろう。若いころに読んだときも、その猛烈さに打ちのめされたものだ。いまも、ぼくは女の人がこわい。
『富士』を壮大な失敗作と呼ぶことは可能だろう。ここにはふつうの小説がめざす感動もカタルシスもない。混沌があるばかりだ。
 だが、人はかならず失敗するのではないだろうか。かならずくるうのではないだろうか。かならず敗北するのではないだろうか。かならず死ぬのではないだろうか。
 そう考えれば、『富士』は世界の見方を根底から揺さぶる小説だった。世界を変える小説だった。
 われわれは人間とはこういうものだ、人間はこうでなくてはという思いこみで生きている。それ以外は見ようとしない。見て見ぬふりをする。
 しかし、『富士』は人間とはなにか、男とはなにか、女とはなにかという、われわれの無意識の囲いこみを、根こそぎ崩してしまう。人の世を支配する国家という秩序、人の精神を御する神という存在、人と動物のさかいさえ、あやしくしてしまう。
『富士』は、ニンゲンであるわれわれを押しながす。そして、目をそらさず、もういちど人の世を見ることをうながすのだ。
 ふりかえってみれば、若いころ、小説を通じて知った武田泰淳の慈眼は、いまもぼくの背中をほほえみながら見ているような気がする。そして、富士もまた。

日中国交回復と竹内好 [われらの時代]

 きのう親しい友人が亡くなった。またさびしくなる。
 しかし、生きているかぎり、その魂はともにあると思いなおす。
 前回は途中でくたびれてしまい、『中国を知るために』を最後まで読み切ることができなかった。
 今回はそのつづきである。
 1972年はベトナム戦争終結に向けて、世界秩序が大きく変化した年である。
 2月のニクソン米大統領訪中のあと、5月15日には沖縄が日本に返還され、それを花道として6月に佐藤栄作が退陣し、7月に田中角栄が首相に就任した。
 8月にはミュンヘン・オリンピックが開幕。9月5日にパレスチナの武装組織が選手村を襲い、イスラエルの選手11人を射殺する事件も発生した。
 ぼくが日中学生友好会に加わって訪中したのは、ちょうどこのころである。じつにのほほんとした物見遊山の旅であった。
 ところが、そのころ状況は大きく動いていた。2週間ほどの旅行を終え、日本に戻ってすぐ、田中訪中のニュースが伝わってきた。9月25日、田中首相は日航特別機で北京空港に降り立つ。そして、9月29日、田中角栄、周恩来両首相によって、日中国交回復の共同声明に調印がなされるのである。
 ぼくが「中国の会」の姉妹組織である「魯迅友の会」に2、3回顔をだしたのは、学生友好会の訪中から戻ってきてからである。田端にあった学習塾を借りて、中国語を勉強しはじめていた。
 雑誌『中国』が休刊になる話を聞いたのも、どこかの喫茶店で開かれた「友の会」の集まりでだったろう。中国の地図で台湾の部分が中華民国と表記されているという、大きな編集ミスが見つかって、竹内さんが休刊(事実上の廃刊)を決意したという話を聞いた。
 しかし、竹内好のそのころの思いを理解していたわけではない。なにせ、こちらは、はじめて彼女ができて、有頂天になっていたのだから。退学して家に戻ろうかと、それとなく思っていたのが、これで立ち消えになる。大学を卒業して、いなかの高砂に戻らず、東京ではたらこうと考えるようになった。
 きみまろのせりふではないが、あれから45年。おたがい言わぬが花である。
 それはともかく、あのころ竹内が何を思っていたかを知りたくなり、『中国を知るために』のつづきを読んでいる。

 1972年8月号に掲載されたエッセイで、竹内はこう書いている。

〈中国との国交回復は、いずれは実現するだろう。遠からず実現するかもしれない。なにしろ時勢が変ってしまった。戦争の危機が完全に消えたとは思わないが、しばらく遠のいたことだけは、人なみ以上にペシミストである私でも認めないわけにはいかない。おまけに国交回復は、いまではもうアメリカのお墨付きもあるし、財界の公認ずみでもある。一年前とはまったく条件がちがう。〉

 まもなく国交回復が実現されるであろうと思いながらも、しかし、竹内の気持ちはけっしてはずんではいない。国交回復が、1937年からはじまった全面戦争という過去の負債をおきざりにしたまま、なされようとしていたからである。政治と経済の都合が国交回復を急がせている。
 これにたいし、竹内は「ただ、そこに日本人民の良心がかけられ、それによって中国人民との連帯が期待可能であった形では、ついに日中国交回復は、実現されなくなったことだけは肝に銘じておかなくてはならない」とつづっている。
 とはいえ、「たといアメリカに尻押ししてもらっての講和であっても、講和がないよりはマシである」と、その気持ちは揺れている。
 そして、9月の田中訪中とあいなる。このときも竹内はテレビに見入った。
 まず、わいてきたのが、次の感想だ。

〈共同声明の内容が逐次紹介されるにつれて、肩からスーッと力がぬけてゆく感じがした。ほとんど予期のとおり、というよりも、予期以上のものだった。よくもここまでやれた、というのが正直な印象である。中国の犠牲者たちは、これではまだ浮かばれないかもしれないが、少なくとも日本の戦争犠牲者たちは、やっと瞑目できるのではないか。〉

 これはいつわらぬ感想だったろう。
 日中共同声明の前文には、こう書かれていた。
「日本側は、過去において日本国が戦争を通じて中国国民に重大な損害を与えたことについての責任を痛感し、深く反省する」
 おそらく入れたくなかった文言だろう。
 だが、中国側はみずから賠償請求権の放棄を明言することによって、日本側から「反省」の文言をかちとった。
 これによって、ともかくも、日中間の講和が実現され、国交が回復されたのである。
 ただ、ひとつ気になったことがあった。それは宴会のときに、田中角栄が述べたことばである。
 竹内はこう書いている。

〈最初の宴会での田中首相のあいさつに「多大のご迷惑」ということばがあった。ずいぶん軽い表現だな、とそのときは感じた。さきにあいさつを述べた周さんが「1894年から半世紀にわたる日本軍国主義の中国侵略」といっているのだ。それを受けるにしては軽すぎるな、と思った。しかし、それが「添了麻煩(テンラマーファン)」と翻訳されたとは、そのときは気がつかず、翌日の新聞を見てはじめて知った。/「迷惑」は軽すぎるが、「麻煩」はもっと軽い。軽いというより、誤訳に近いのではないか。〉

 麻煩というのは、「ごめんなさい」という程度の軽い表現らしい。
 「迷惑」ということばをめぐる、中国側の激しい反発については、以前、このブログでも紹介したので、ここではくり返さない。(「田中訪中と『迷惑』論争」http://kimugoq.blog.so-net.ne.jp/2007-06-25 を参照)
 竹内は「迷惑」という表現から、「反省」ということばについても、日本側と中国側とでは、受けとめ方がずいぶんちがうのではないかと感じていた。
「前事不忘、後事之師」と題するエッセイで、こう記している。

〈反省するからには、当然、それが行為となってあらわれるべきだ、というのが中国語の語感でもあるし、中国側の期待でもある。それにひきかえ日本側は、「反省」という文字を記せばそれで反省行為はおわった、と考えている節が見える。言いかえると、共同声明を国交正常化の第一歩ととらえるか、それとも国交正常化の完了としてとらえるかのちがいである。〉

 日本には「反省」といえば、それですむという、みそぎの思想、過去を水に流すという姿勢がどこかにある。そのあと、つづくのがカネをだせば、「誠意」をみせたことになるという考え方である。
「多大のご迷惑」につづいて、宴会で田中は、今こそ明日のために話しあうことが重要だと述べた。「とりもなおさず、アジアひいては世界の平和と繁栄という共通の目標のために」とことばを継いだ。
 これにたいし、先にあいさつした周恩来は、「前事不忘、後事之師」という格言、すなわち「前の事を忘れることなく、後の戒めとする」ということばを引用していた。
 竹内は田中発言のあまりの軽さに怒りすらおぼえて、こう記している。

〈過去の侵略戦争の事実、そして戦争がおわっても終戦処理を怠った事実、そればかりでなく、虚構にもとづいて終戦処理はおわったと主張してきた事実、それをタナにあげて、ほかならぬ中国を相手として、「アジアひいては世界の平和と繁栄」について話合えると本気で信じているのだろうか。〉

 さらに、竹内はこうも述べている。

〈「反省」は未来にかかわる。友好を築くために反省が必要なのだ。そのために過去を知ることが必要になる。過去を切捨てるならば反省はいらない。その代り友好の望みも捨てるべきだ。〉

 トゲはまだ刺さったままだ。
 雑誌『中国』は1972年10月号で休刊となった。
 竹内の連載エッセイ「中国を知るために」は、次のひと言で結ばれている。

〈すべて始めあるものは終りあり、ただし有終の美をなさなかったことは確かだ。まことに残念である。〉

 非力を感じていた。
 苦い決断だった。

『中国を知るために』を読みながら [われらの時代]

 日本老年学会が75歳以上を高齢者と呼ぶようにしようと提言したそうだ。これによると、後期高齢者といういやな役所用語はなくなって、75歳からめでたく高齢者になるわけだ。
 ところが、65歳から75歳までは後期壮年者ならぬ准高齢者と呼ぶようにするとか。これもへんな言い方である。
 何はともあれ、年寄りが元気といわれるのはめでたい。ただ心配なのは、そのうち医療保険が引き上げられ、年金は70歳から支給となり、少なくとも70歳まで働かなくては生活できない時代がやってくるのではないか。
 うたがうのも、ほどほどにしたほうがよさそうだ。
 ぼく自身は、じゅうぶん年寄りだと思っている。先日ジムに行き、少し運動したあと、帰りぎわ、コーチの女の子に「お世話さま」と声をかけたら、「おだいじに」といわれてしまった。
 推して知るべしである。
 読む本も、昔の思い出を呼びさますものが多くなっている。
 そんなわけで、きょうも竹内好の『中国を知るために』の第3集(1970〜72年)を読んでいる。
「世界の大勢から説き起こさない」のが、「中国の会」のスタイルのはずなのだが、ぼくの関心は、どうしてもそちらに向かってしまう。

〈今年[1970年]にはいってから、新聞は各紙ともいわゆる中国問題の記事や解説で競争状態を呈している。またもや間歇熱の発作の周期がめぐってきたのかもしれない。……私としても、意見がないわけではないが、それを述べるのは気がすすまない。〉

 当時の新聞記事を調べるのはわずらわしい。
 記憶だけでいうと、このころ中国では文化大革命が終息期にはいっていたはずである。文革の嵐を収めるには、軍の力を借りなければならなかった。
 日本の大学紛争も収まりつつあった。その代わり、政治党派の動きが活発になっていた。内ゲバがはじまり、赤軍派が結成されていた。
 ベトナム戦争はやむことなく、つづいていた。
 日米間では沖縄返還の合意がなされた。
 そうしたなか、新聞は、文化大革命の行方や、これからの日中関係をめぐって、さまざまな論評をくり広げていたのだろう。
 竹内のエッセイは、そうしたこうるさい時評を尻目に、身近なテーマを中心に、淡々と書き継がれていたのである。
 それでも時の勢いはいやおうなく押し寄せてくる。
 4月19日には日中覚書貿易のコミュニケが発表された。
 そこに「日本の軍国主義」という表記が含まれていたので、日本じゅうが大騒ぎになった。
 竹内はこう書いている。

〈日本は貿易立国だから、当然に戦争をおそれるし、だから平和国家だという説は、私には詭弁に思える。本末を顚倒した立論に思える。その証拠に、戦争は買いだという証券市場の体質は、朝鮮戦争からヴェトナム戦争まで改まっていない。たぶん今後も変らぬだろうと思う。他人の不幸がわが喜びになる、これほど人間性をスポイルするものはない。〉

 ただ、中国もじっと閉じこもっていたわけではない。
 4月24日には、中国初の人工衛星が打ちあげられた。
 アフリカのタンザニアでは、中国の鉄道建設隊がザンビア間の鉄道を敷設していた。さらに中国の医療隊が、タンザニア、モーリタニア、ギニア、アルジェリア、さらにはイエメンなどで、巡回しながら診察や治療にあたっていた。そうした『人民中国』の記事を竹内は紹介している。
 アフリカにたいし中国はさかんに援助をおこなっている。紡績工場や農機具工場、小型ダムもつくった。軍事面でも、約200人の軍事顧問がタンザニア軍の訓練にあたっていた。
 フランスとパキスタンの共同航空路が上海まで伸びるようになった。フランスと中国のあいだでは、すでに1964年から国交が結ばれている。
 これにたいし、国交のないアメリカや日本の飛行機は、中国に乗り入れることができない。日本が中国へ輸出できたプラントはクラレのビニロン一件にとどまっていた。
 竹内は日中貿易交渉の一行に加わった自民党議員からも話を聞いている。北京では市民が防空壕を掘ったり、民兵訓練をやったりしているらしい。しかし、日本のスモッグ公害のようなものはないようだと思う。
 そしてふと思ったりする。

〈おそろしいのは予想を超えた事件の突発である。……人類滅亡の予想はおそろしくないが、人類不滅の確信はおそろしい。〉

 また大きな戦争がはじまるのではないか、と心配していたのである。
 このころ竹内は評論活動から足を洗って、ほとんど魯迅の翻訳に専念していた。1930年の上海をえがいた茅盾(マオトン)の『子夜』も訳している。それがいささか自慢だった。「30年代がわからなくては、現代中国について何ひとつわかるわけがない」と思っていた。
 竹内は1970年の終わりに、来年正月には、中国問題がジャーナリズムではでに取りあげられるのではないかと予想していた。だが、自身は「黙して語らぬに如かない」。
「国交回復ということばは乾涸(ひから)び……いまでは慎重に検討いたします、前向きに善処します、と等価なのだ」と、なかばあきらめ顔だった。
 むしろ思いだすのは1年半前の旅行のことだ。
 このときは旅行社のツアーで、武田泰淳夫妻とともに、シルクロードを含むソ連各地を見て回った。
 飛行機から天山山脈の「ほとんど無限大にひろがる起伏」を見て感動し、中央アジアでは荒涼たる沙漠の風景に心奪われ、イスラムのことを考えたものだ。
 ちなみに、このときの旅行については、同行した武田百合子が『犬が星見た』という日記をつづっている。ぼくももっているので、いずれ紹介することにしよう。
 そうこうしているうちに、1971年も春たけなわとなり、やがて初夏がやってきた。雑誌『中国』の6月号に、竹内はこう書いた。

〈この春は天候不順で、いつ過ぎたと知らぬうちに、気がついてみたら花の盛りが過ぎていた。その代り、人工の蝶ならぬピンポン玉は華麗にとび交うた。息つくひまもないほどだった。まずは結構至極といわねばならない。〉

 ここでピンポン玉というのは、71年3月から4月にかけ、日米中間でくり広げられた、いわゆるピンポン外交をさす。
 発端は名古屋市で開かれた世界卓球選手権に、中国が久しぶりに出場したことだった。その後、中国がアメリカなどの卓球選手を自国に招き、それを機に米中間の交流が再開された。キッシンジャーの極秘訪中をへて、72年2月のニクソン訪中へとつながるきっかけとなったできごとである。
「まさか、ピンポン玉から本物の鳩がとび出そうとは、私には予想もつかなかった」と竹内は述懐し、その外交の背後にジャーナリストのエドガー・スノウがいるのではないかと推測している。
 71年8月には、ニクソンが突然、来年の訪中を発表した。日本政府には寝耳の水の話だった。

〈ニクソン訪中声明は、ふたをあけてみると、長い、慎重な準備工作の結果であることが、だんだんわかってきた。複雑怪奇はふたをあけてみれば複雑怪奇ではない。これは歴史の常道である。……わが日本国政府は、泰然として腰を抜かすこと、これまた歴史の教訓である。〉

 大きな歴史の波がやってきたのだ。
 だが、竹内はまだ日中国交回復に悲観的だった。
 10月1日の国慶節ではパレードが中止になった。重要人物が亡くなったのではないか、中ソ国境で紛争が勃発したのではないか、あるいは内乱が発生したのではないか、と憶測がとぶ。
 中国側はパレード中止の理由は、行事を簡素化するためだと説明した。9月に林彪が毛沢東の暗殺に失敗し、モンゴルで墜落死したことは、この時点ではまだ明らかにされていない。竹内もてっきり行事を簡素化するためだと思いこんでいた。
 そして、日本時間の10月26日(現地では10月25日)、国連で中国の代表権が差し替えられ、中華人民共和国が中国の代表権を回復するという大きなできごとがあった。竹内も思わず、この日のテレビ中継に見入っている。
 明けて1972年の2月、ついにニクソン訪中が実現した。だが、このときのエッセイの表題を、竹内はなぜか「鬱屈」としている。

〈……おわってみると、格別の感想もない。おこるべくしておこり、過ぎるべくして過ぎた事件であったという気がするだけだ。それよりも浅間山荘の事件のほうがいまでも重くのしかかっている。〉

 たしかにそうだ。連合赤軍事件は、まさにニクソン訪中と重なりあっていた。日本じゅうが米大統領の訪中より、あさま山荘に釘付けになっていた。
「鬱々としてたのしまぬのは、そこら辺に原因があるのかもしれないし、そうでないのかもしれない」と、竹内は書いている。
 おそらく、竹内が「鬱々」としていたのは、国交回復でアメリカに先を越されたからでも、連合赤軍のあさま山荘事件があったからでもない。いや、それもあったかもしれないが、かれには日中間の問題にたいして、もっと根本的な疑念がわだかまっていたのである。
 日本ははたして中国と講和を結ぶつもりがあるのだろうか。そのつもりがないのなら、日中国交回復は不可能である。
 竹内は日中国交回復に悲観的になっていた。
 その理由を、同じころ『朝日ジャーナル』に載せたエッセイで、こう書いている。

〈いまから思うと、身びいきというか、私なりの日本政府への過大評価があったようです。米中関係と日中関係は原理的にちがう、そのことは政府も承知しているはずだ、と私は思い込んでいました。第二次世界大戦における米中は同盟国であるが、日中は交戦国である。したがってアメリカは、中国と和解するために、朝鮮戦争までさかのぼるだけでよいが、日本は1937年または1931年までさかのぼらなくてはならない。そしてこの解決には当然、アメリカの助けを借りるわけにはいかない。これが私の悲観論の根拠であります。〉

 竹内の悲観論については、さらに述べなくてはならない。
 問題はいまもまだいっこうに解決されていないからである。
 この項、もう少し書かなければ収まらない。

竹内好のこと [われらの時代]

 竹内好(よしみ、1910〜77)と呼び捨てにしてしまったが、学生時代は竹内さん、あるいはもっと親しみをこめて好(ハオ)さんと、「さん」づけで呼んでいた。いわずと知れた中国文学者で、魯迅の紹介者として知られる。
 あのころ(1960年代末期から70年代はじめ)、「さん」づけでいたのは、吉本隆明(1924〜2012)と竹内好しかいない。
 かといって、ふたりと親しかったわけではない。遠くから顔をみて声を聞いたのは、ふたりともたった一度きりである。
 ぼくのなかでは、学生時代の「先生」は、竹内好と吉本隆明しかいなかった。大学はなかなか進学できなかったので、6年もいるはめになってしまった。それなのにゼミもとらなかったので、けっきょくひとりの先生とも出会わなかった。ひどいといえばひどい、残念といえば残念な話である。学園闘争が荒れ狂うマンモス大学はそんなところだった。
 思想的な影響という面では、吉本隆明のほうが大きかったかもしれない。吉本のいう「大衆の原像」を、ぼくは反権力、反インテリ、反左翼の立場ととらえていた。反権力とは、天皇制や自民党(アメリカ)に反対すること。反インテリとは大学やアカデミズム、文化人の権威に反対すること。反左翼とはスターリニズム(ソ連型社会主義)や社会党、共産党に反対すること。要するに、わけもなく、つっぱっていたのだ。この年になっても、年甲斐もなく、〈反政治〉というおとなげない傾向が残る。その点は反省しなくてはならない。
 それはともかく、竹内好のことである。はじめて顔をみたのは早稲田の学園祭の催しのときだ。たしか1970年の秋だったと思う。場所は法学部のそれほど広くない教室ではなかったろうか。竹内の講演会だと思いこんで、サークルの里見脩君とのこのこ出かけていったものだ。ところが、竹内大人(たいじん)は学生からの質問を待って悠然と構え、ほとんどしゃべらないので、イラチなぼくは、さっさと教室を後にしてしまった。ほんとうに残念なことをした。
 だが、ぼくは竹内好を通じて、中国を知ったのである。あのころ、成田闘争の支援にも出かけていたけれど、大学闘争はすでに下火になっていた。1971年から72年にかけて、中国革命や文化大革命について書いてある本や雑誌を読みあさった。そして72年秋、日中学生友好会に加わって、はじめて中国を訪れた。
 そのころ、竹内の主宰する「中国の会」が発行する雑誌『中国』(1963〜72)も読んでいたと思う。しかし、党派に属さないにせよ、ぼくの傾向は、この雑誌よりもっと政治主義的だった。訪中については、別の機会に、その恥ずかしい思い出を語らなくてはならない。
 それはともかく、訪中から戻り、しばらくしてから「魯迅友の会」の集まりに2、3度ほど参加したことを、いまになって思いだす。「魯迅友の会」は1954年に竹内がつくり、当時は若い人が中心になって細々とつづけられていた。この会を紹介してくれたのは馬場英子さんだったと思う。松井みどりさんが世話人をしていた。「友の会」は「中国の会」のジュニア組織といったおもむきがあった。だから、そのころ、ぼくは竹内好のすぐそばにいて(かといって、本人と会ったわけではないのだが)、中国にもっとも接近していた。中国離れがはじまるのは、その後、社会にでてからだ。
 いま、そんなことを思いだしたのは、船橋の図書館に『竹内好全集』があるのをみつけ、その第10巻と11巻を借りだしたからである。この2巻には雑誌『中国』に連載された竹内のエッセイ『中国を知るために』が収められている。けっこうな分量(3巻分)なので、いちどにはとても読めないが、ゆっくり読みなおしてみることにした。これも思い出読書である。
 エッセイがはじまってすぐに(1963年3月)、竹内はこう書いている。

〈われわれはじつに中国のことを知らない。それはもう驚くほど知らない。そして知らないことを十分には自覚していない。まず自覚することが「知るために」何よりも必要である。〉

 ここで竹内のいう「中国のこと」というのは、中国の歴史や政治、社会のこと以上に、中国人の生活をさしている。いわれれば、たしかにそのとおりだ。
 竹内のまなざしは、中国の歴史や政治を論評して、中国をわかった気になるより、中国人の生活を理解することのほうに向けられていた。エッセイをつうじて、われわれは「知るとはイメージを変革することなのだ」という竹内のこころみに次第にいざなわれていくことになる。
 第1巻で扱われている事柄を列挙しただけでも、そのことは理解できる。それは扇の話題からはじまって、コトバと思考法、同文同種のいかがわしさ、支那と中国、度量衡のはなし、助数詞のちがい、ロクロのひき方、九九とソロバン、単位の観念、数の表記、においの日中比較へと広がる。
 どれもつい見逃しがちな些細な問題にみえるかもしれない。だが、どれをとっても中国と日本の考え方、感じ方はずいぶんちがうのだ。それは日本がすぐれていて、中国が劣っているということではない。コトバにしても、技術にしても、中国のほうがむしろ西洋と似かよっているところもある。
 そのことごとについて、いま紹介することはやめておく。ただ、竹内がこうしたこころみをはじめたのは、日本人に日本と中国のちがいを知ってもらい、中国に親しみをもってもらうためだったといえる。政治体制は二の次である。人の値打ちは、政治体制や経済状況によって決まるわけではない。人と人との親しみこそが、すべて物事の出発点にちがいなかった。

「中国の会」の会則はなかなか決まらなかった。
 最終的にそれは、

 1、民主主義に反対はしない。
 2、政治に口を出さない。
 3、真理において自他を差別しない。
 4、世界の大勢から説き起こさない。
 5、良識、公正、不偏不党を信用しない。
 6、日中問題を日本人の立場で考える。

といったあたりに落ち着く。1968年春のことだ。
 なかなかまねのできない、みごとな会則である。「しない」を列記する会則は、ほかの会では、まずお目にかからないだろう。
 だが、「中国の会」がはじまったころ、会の綱領はほぼ次のようにまとまりつつあった。

 第一 日中国交回復の実現に賛成する。
 第二 日中の連帯の伝統を見直す。
 第三 中国を日本人の眼で自主的に見る。
 第四 生きている中国認識をわたしたち共通のものにしよう。

 竹内はこの第四の項目が気に入らず、けっきょくこの綱領は流れた。
 とはいえ、「中国の会」がつくられたのは、日本人の中国認識を変革し、日中国交回復を実現するためだったといってよい。そして、実際、日中国交回復が実現された1972年の終わりに、(編集上の大ミスも重なって)「中国の会」は幕を閉じたのだった。ぼくが「魯迅友の会」の集まりに顔をだしたのは、ちょうどその前後だった。
 ところで、『中国を知るために』の第1集を読むと、1964年8月から65年6月にかけて、竹内は中国という呼称をめぐって、激しい論戦をくり広げていることがわかる。当時は多くの新聞や識者が、まだ中国のことを中共とか支那と呼んでいたのだ。
 論戦をはじめるにあたって、竹内はこう書いている。

〈先に結論だけを出しておく。私は中国のことは日本人も中国と呼んだほうがよいと思う。しかし、これはたいへん面倒なことであって、その面倒さは、国交回復といずれぞや、といいたいぐらいだ。だから早急な実現はおぼつかない。……大げさにいうと、この問題には、日本と中国との近代史の全部の重みがかかっている。〉

 中国といわず、支那と呼ぶべきだという考え方は、当時、日本人のあいだにしみついていた。中国とは世界の中心を意味するから、それ自体、尊大だという意見すらあった。
 中国人は自国のことをシナと呼ばれるのを嫌っていた。そこには長い戦争時代の軽蔑が感じられたからである。しかし、日本人のなかには、よその国をどう呼ぼうが、こちらの勝手だという傲慢さが残っていた。だから、中国と呼ぶべきだという主張を、「隣国人の不当な日本語干渉」と切り返す識者もいたのである。しかし、実際に干渉があったわけではない、と竹内は論じる。

〈中国人が「シナ」に嫌悪感をもつようになったのは、1910年代からであって、それが普及したのは、1920年代である。つまり、中国のナショナリズムの勃興と、日本帝国主義の進出との切点(ママ)でこの問題はおこっているのだ。中華人民共和国なり中国共産党なりは、この問題とはまったく何の関係もない。むしろ国民党時代のほうが、ずっと敏感だった。〉

 そして、皮肉にも現地の日本軍政当局が「シナ」をやめなくては、親日政権を育成できないと思うようになった、と竹内はいう。
 へえ、そうだったのか、とびっくりする。
 悪循環の元凶は、中国ナショナリズムの軽視(無意識の軽侮)にあるという竹内の指摘は、いまもあてはまるような気がする。
 竹内はさらに日本の新聞表記についてもふれている。日本人の中国認識が軽薄なのは、メディアに責任がある。
 敗戦後、日本の新聞は支那の表記を中国に変えた。その理由はまったく説明されなかった。「日本的な転向の型、なしくずし転向」だ、と竹内はいう。
 さらに、当時の新聞は、読売、朝日、毎日も、中国と中共を使い分けていた。
 読売は中華人民共和国を「中国」、中華民国を「国府」、中国共産党を「中共」と呼んだ。いっぽう、朝日と毎日は、中華人民共和国を「中共」、中華民国を「中国」と略称していた。朝日の場合は巧妙で、文化欄などでは、中共ではなく、なるべく中国を使うようにしていた、と竹内は観察している。
 つまり、1960年代半ばまで、新聞の紙面は「中共」の見出しで、あふれかえっていたのだ。ぼくにもおぼろげに記憶がある。
 竹内はいう。

〈今では滔々として「中共」だ。中共、中共で、すでに「中国」は影うすくなった。私にしてからが、うっかりすると、人と話していて「中共」が口から出かかることがある。この「中共」は、ある固定したイメージを植えつけることに成功しつつある。かつての「支那」がもっていた侮蔑にかえて、「中共」は恐怖感を伴っている。〉

 新聞のインチキな造語にたいし、竹内は反論した。
 その内容は竹内が小学館の『日本百科大事典』に寄稿した「中国」の項目に明確に記されていた。あまりにもみごとなので、それを全文引用したい誘惑にかられるが、いまはその要点だけを断片的に示す。

〈中国というのは、一つの文明圏または民族共同体に名づけられた総称であって、国名でもないし、国名の略称でもない、……一口にいって中国とは、日本人が以前に支那とよんだものと同一内容である。
 こういう用法で中国という語が使われるようになったのは、二十世紀になってからである。近代ナショナリズムの勃興にともなって、自称を定める要求がおこり、中国のほかに中華、またときには支那などが使われたが、しだいに中国に固定した。……
 中国を中華民国の略称と解するのは、順序を逆転している。中国に成立した第一次の共和国が中華民国なのである。中華民国の略称は民国であって、中国ではない。同様に、第二次の共和国が中華人民共和国であって、これが中国の国家名称である。この中華人民共和国のことを、近ごろ日本で中共と略称する風潮があるが、これはある政治的意図をもってはじめられたもので、中国には通用しないし、誤解を招くおそれもある。中共とはもともと中国共産党の略称であることは日中に共通である。それを借りて国の略称にするのは穏当ではない。……〉

 朝日新聞が国家の略称として「中共」を用いるのをやめ、中国という表現を使うようになったのは、1964年10月1日からである。
 しかし、その後も竹内は支那を発端とする呼称問題にこだわった。

〈なぜ日本人の「支那」がきらわれるか。これは理外の理であって、それをリクツで説明しようとすると、どうしても無理がおこる。その無理を通そうとするので、ますます混乱がおこる。そういう悪循環があると考えるべきだ。〉

 竹内らしい柔軟で強靱な思考には感服するほかない。
 理外の理とは何か。「侮辱が問題になるのは、主観の意図においてではなく、受け取り手の反応においてなのだ」と、竹内はいう。
 侮辱意識を解消するのは容易ではない。意図的な侮辱も無意識の侮辱もあるだろう。しかし、それを解消するよう努めなければ、相互の理解ははじまりようがない。竹内が雑誌『中国』で、堅い信念のもと、こつこつとはじめたのは、そういう仕事だったとみてよい。

西川長夫『パリ五月革命 私論』を読む(2) [われらの時代]

 1968年のパリ「五月革命」は、パリ郊外にあったソルボンヌ大学ナンテール分校の「3月22日運動」からはじまったと書いた。
 きょうは本書に沿って、駆け足で、パリの5月に起きた革命の嵐を追っていくことにしよう。
 5月1日はメーデーで、例年どおり、労働総同盟(CGT)主催の整然たるデモ行進がパリの通りを埋め尽くした。郊外のナンテール分校では、引きつづき抗議集会が開かれていたが、学生運動と労働運動は画然と切り離されていた。
 5月2日。ナンテール分校では「反帝国主義の日」と題する催しが開かれる。しかし、大学側が大ホールの使用を禁止したため、学生たちは階段教室を占拠して、ベトナム戦争に関するドキュメンタリーを上映した。ほかの教室でも混乱があり、大学側はナンテール分校での講義や演習の中止を決定した。
 5月3日。ナンテール分校は閉鎖されていた。学生たちはパリ市内カルチエ・ラタンのソルボンヌ大学本校に行き、抗議集会を開く。大学はこれにたいし、ソルボンヌに機動隊(CRS)導入を要請する。学生たちはバリケードを築き、機動隊の襲撃に対抗するが、コーン=ベンディットをはじめ600人近くの学生が逮捕される。
 5月5日、拘留されていた学生ら7人に禁固と罰金刑が言い渡される。全学連(UNEF)はただちにこれに抗議、教職員組合も同調して、学生との連帯を表明した。もっとも著者によると、フランス全学連は、日本の全学連とちがって、どちらかというともともとは穏健派だという。
 5月6日、ソルボンヌは閉鎖されている。そのなか、教授資格試験(アグレガシオン)がおこなわれる。「3月22日運動」の8人にたいする懲罰委員会は流会となる。だが、大学周辺では、バリケードが築かれ、抗議デモもおこなわれて、警官隊との激しい衝突があった。422人が逮捕され、数百人の学生が負傷した。パリの高校や地方の大学でも、政府当局の強硬な態度に抗議して、ストやデモがはじまった。
 5月7日、全学連(UNEF)の呼びかけた抗議集会に、2万人の学生、労働者、市民が結集し、大通りをデモ行進する。
 5月8日の閣議で、ドゴール大統領は「大学は国家のためにのみ存在する」と述べ、大学内での批判、公道上での暴力行為を認めないと強調した。夕方、全学連(UNEF)などの呼びかけで、パリ大学理学部で集会が開かれる。そのあとのデモで、一部の学生はソルボンヌ突入を叫ぶが、その動きは封じられ、デモは平穏のうちに解散する。
 5月9日。UNEFは「カルチエ・ラタンからの警官の退去」「逮捕された学生の釈放と判決の白紙撤回」、「大学閉鎖の解除」を求めたが、当局はそれにはまったく応えず、ひたすら学生の自粛をうながす。ソルボンヌ広場とサンミッシェル通りでは自然発生的な集会。カルチエ・ラタンの共済会館でも革命的共産主義青年同盟(JCR)主催の集会が開かれ、コーン=ベンディットも発言する。
 5月10日─11日。ナンテール分校の閉鎖が解かれる。しかし、ソルボンヌでは閉鎖がつづいていた。そのためUNEFと「3月22日運動」はナンテール分校占拠によるストを続行する。
 10日夜のデモでは、デモ隊がカルチエ・ラタン占拠を叫び、深夜、いたるところでバリケードが築かれた。当局との交渉は決裂。警察の実力行使に夜明けまで激しい抵抗がつづいた。負傷者367人、逮捕者460人。多くの車に火がつけられ、道路の敷石(パヴェ)がはがされ、機動隊に投げつけられた。
 5月13日。ソルボンヌの封鎖が解かれる。学生は開門と同時にソルボンヌを占拠する。労働総同盟(CGT)などは24時間ストにはいる。パリでは100万人のデモがくり広げられる。
 5月14日。議会では共産党と左翼連合が内閣にたいし不信任案を提出するが、否決される。とはいえ、ポンピドゥー首相は逮捕学生の特赦と大学改革の意図を表明する。ナント郊外の航空機会社では2000人の労働者が工場を占拠する。
 5月15日。美術学校の生徒たちが学校を占拠。1000人の学生がオデオン座(パリでいちばん古い劇場)を占拠する。フランス西部ルーアン郊外にあるルノーの工場でも、労働者が工場を占拠する。
 5月16日。ソルボンヌではさまざまな集会。国営放送のテレビ番組にコーン=ベンディットらが出演する。パリ郊外のルノーでも工場占拠。ストと工場占拠がフランス全土に波及する。
 その後も革命の日々はつづいた。
 5月20日には、電気、ガス、水道を除くほとんどの産業部門がストにはいった。その参加者は700万人。労働総同盟(CGT)は労働者の自主管理を批判。ソルボンヌの集会ではサルトルが学生への共感を表明する。
 5月21日。銀行百貨店が無期限の閉店。交通機関がストップする。中央市場もストにはいる。議会では政府にたいする問責動議がだされる。
 5月22日。問責動議は否決される。一時、出国していたコーン=ベンディットの再入国が禁止される。大学では抗議集会。デモが広がる。
 5月23日。パリ右岸に向かう橋を閉鎖した警官隊とデモ隊が激しく衝突する。学生の重傷者100人、警官隊も78人が負傷。
 5月24日。労働総同盟(CGT)は赤旗を掲げて1万5000人が整然とデモ。これにたいし、全学連(UNEF)や教職員組合、「3月22日運動」などの合同デモ隊は約3万人がパリのリヨン駅に結集し、コーン=ベンディットの入国禁止解除、CGTと政府の妥協批判、ドゴール退陣などをかかげて、バスティーユ広場へと向かう。機動隊がそれを阻止すると、学生たちはカルチエ・ラタン一帯にバリケードを築く。「第2のバリケードの夜」が出現する。
 5月25日。軍の工兵隊が出動し、バリケードを撤去する。ポンピドゥー首相は、今後一切の集会とデモを取り締まると明言。政府と労働団体との交渉がはじまる。
 5月27日。政府と労働団体との交渉が妥結。最低賃金の引き上げや労働時間の短縮が決まる。ストライキが解けはじめる。全学連(UNEF)主催で、シャルレッティ・スタジアムで集会が開かれ、3万5000人が集まるが、「3月22日運動」は参加を拒否する。
 5月28日。国民教育相と蔵相が辞任。労使交渉がつづく。左派連合のミッテランが大統領選挙出馬を表明。共産党はこれに強く反発する。夜、入国を禁止されているコーン=ベンディットがとつぜんソルボンヌにあらわれる。森を抜けて、歩いてフランス領にはいったという。
 5月29日。ドゴール大統領はエリゼ宮を離れ、軍の基地で、ひそかにマシュ総司令官らと会談。その後、辞職の意志がないことをポンピドゥー首相に伝える。労働総同盟(CGT)はドゴール退陣を求める50万人デモ。
 5月30日。政府はパリ周辺に機甲部隊を配置。ドゴールはエリゼ宮で、国民に呼びかける演説をおこなう。「フランスは独裁の危機にある。全体主義的共産主義の危機にさらされている」と述べ、国民議会をただちに解散し、6月に総選挙を実施すると発表する。シャンゼリゼ大通りではドゴール支持の大規模なデモがくり広げられる。
 こうして「五月革命」の日々は、次第に終息するのである。
 とはいえ、6月になっても、デモはおこなわれ、ストライキと工場占拠もつづいていた。だが、当局はこれを徹底して取り締まる。ルノーの工場には警官隊が導入され、労働者は排除される。
 その後も警官隊と労働者、学生の衝突はつづく。6月12日、政府は選挙まで、あらゆる抗議デモを禁止すると発表。6月14日、オデオン座に警官隊がはいり、占拠者を排除する。
 6月23日と30日には二回にわたる選挙がおこなわれ、ドゴール派が圧勝、共産党と左派連合は議席を解散前の半数以下に減らした。
「選挙は間抜けどもを引っ掛ける罠だ」と学生たちは叫んだが、それは後の祭りとなった。
「こうして『秩序』は回復され、学生たちの運動は夏休をむかえて『冬の時代』に入る」と著者は書いている。
 日本よりもはるかに大きな動きだったが、あっというまに「革命」は終わった。
 けっきょく「五月革命」とは何だったのか。
「革命ごっこ」にすぎなかった、といわれれば、そのとおりである。
 それは急速に忘れ去られていった。
 1年後、ドゴールは10年間維持してきた大統領職を辞任する。
 1981年には、紆余曲折をへながら、ミッテランの左翼連合政権が誕生する。
 アラン・パディウはのちに「反動の時代の始まりはいつも左翼なのです」と語っているという。ミッテラン政権のもと、80年代には金銭崇拝、自由化、金融の規制緩和、資本のグローバル化が堰を切ったように進んだ。
 そして89年がやってくる。中国では天安門事件が発生し、ベルリンでは壁が崩壊する。日本では昭和天皇が死去する。
 1991年には、ついにソ連邦が解体される。それは革命を否定する革命だった。
 68年を最後の頂点として、革命の幻想はすっかりはがれおちたようにみえる。
 それでも68年は遠いこだまのように、時折よみがえる。それは近代の終わりをつげる花火だったからだ。
 それは一瞬のばかばかしいお芝居だったかもしれない。だが、あのときに国家の終わり、教育システムの終わり、技術主義の終わり、資本の終わり、ほかに気づかぬもろもろの終わりがはじまったのだと考えれば、68年はたしかにまだ見ぬユートピアのための祭りだったのかもしれない。
 そんなふうに思うこともある。

西川長夫『パリ五月革命 私論』を読む(1) [われらの時代]

img085.jpg
 1968年をふり返って思うのは、やはり世界同時性ということである。世界では、不思議なくらい、同時に同じようなことが起きていた。
 あのころ、大学の授業にもでず、毎日のらくらしていたぼくにも、パリの5月のできごとは、おぼろげながら伝わっていた。
 中国では文化大革命がくり広げられ、日本でもベトナム反戦運動が盛んで、そのうち日大闘争や東大闘争が巻き起こる。
 ぼんやりしているぼくの周辺もどことなく騒然としてきた。
 それからは討論とデモの日々がはじまった。
 しかし、68年の根源ともいえるパリ五月革命とは、いったい何であったのか。
 いま、それを問われても、はっきりと答えられない。
 暇にまかせ、本棚から、この本を取りだしてみた。
 著者の西川長夫(1934〜2013)は、フランスの研究者で、五月革命まっただなかのパリにいた。フランス政府の給付留学生として、ソルボンヌ大学などに通っていたのだ。
 本書はその最晩年にあたって、68年の5月革命をふり返った熱い物語である。
 五月革命からもう50年近くたった。それは、もはや歴史の領域に属するといってもよいだろう。
 ぼく自身覚えているのは、本や雑誌などが伝える当時の雰囲気だけで、実際にそれをつぶさに見たわけではない。
 それでも68年は、世界の見方を変えてくれた。
 ぼくは68年を通じて、世界を知った。
 これも読み残しの本である。
 いつか読もうと思いながら5年間も放置したままだった。
 例によって、遅い歩みでついていくことにしよう。
 ベトナム戦争、反戦運動、68年革命は、ほとんどひとつながりだった、と著者は書いている。
 フランスはかつての植民地帝国として、ベトナムやアルジェリアを支配してきた歴史がある。
 池袋あたりの映画館で『アルジェの戦い』を見たことを思いだした。
 そして、ベトナム戦争。ゴダールは『ベトナムから遠く離れて』(1967)という映画づくりに加わる。「自己の内部にベトナムを生み出すこと」をみずから課した。
 この年、ゴダールは『中国女』(1967)も発表する。
 著者によると、この映画は、五月革命を先取りするものになった。
 この映画の下敷きになっているのは、中国の文化大革命だが、それはむしろ背景でしかない。ベトナム反戦運動と、米ソの帝国主義への反撃が大きなテーマだった。
 映画自体は大学生をパリのアパルトマンに閉じこめて、マルクス・レーニン主義ごっこをさせながら、虚構のなかにフランスの現実を浮かび上がらせるという手法をとっているらしい。
 しかし、ぼく自身はこの映画を見ていない。
 著者によると、5月革命発祥の地は、パリのカルチエ・ラタンではなく、郊外のナンテールだった。ソルボンヌ大学のナンテール分校があった(現在はパリ第10大学)。
 ナンテールについて、著者は「貧困と人種差別を抱える新興の郊外都市」だったと記している。アルジェリア人の集落が広がる近辺に、広いキャンパスをもつ大学がつくられていた。劇場も映画館もない荒涼たる場所でおこなわれるマスプロ授業に学生たちはうんざりしていた。
 1967年秋に教育環境の改善を求める学部集会が開かれ、そのあと散発的な事件が生じる。大学当局はこれにたいし、学生の退学命令で応じた。抗議する学生にたいし、大学側は警官隊を導入した。
 このあたりの構図は、日本の大学の場合と驚くほど似ている。
 1968年3月22日、ベトナム反戦デモに参加した学生6人が逮捕される。ナンテールでは学生たちが抗議集会を開き、議決にもとづいて、その夜、大学の事務所のある建物を占拠する。
「3月22日運動」のはじまりである(その代表のひとりが1945年生まれのダニエル・コーン=ベンディット[コーン=バンディ]だ)。
 3月22日運動は、日本でいう全共闘運動である。
 4月1日、社会学科2年の学生が多数決により、小試験のボイコットを決定する。4月2日には政治討論集会が開かれ、運動を継続することが決まった。
 その集会で、コーン=ベンディットは叫ぶ。

〈われわれは、資本家のための、将来の要員たることを拒否する。……われわれは、陰険にして高圧的な、ブルジョアのための科学を、放棄する義務がある。〉

 この主張も、全共闘運動とそっくりではないか。
 著者によれば、この運動の新しさは、個人(党派ではなく)による参加、全員による討議、自発性、にもとづいていたことだという。
 このかん、政府や大学当局の動き、共産党や既成の学生団体の画策などが入り乱れる。だが、運動はそれらを乗り越えて、継続した。
 4月11日、西ベルリンでは、西ドイツの学生運動活動家ルディ・ドゥチュケが狙撃され、重傷を負う事件が発生した。翌日、パリのカルチエ・ラタンでは、西ドイツの学生との連帯を表明するデモがくり広げられた。
 4月14日、パリ市内のソルボンヌ大学では、フランス全国学生連合(全学連=UNEF)の集会が開かれる。だが、極右学生集団「オクシダン」の乱入もあって、決議はなされない。
 4月22日には、共産党系の学生グループが主催するベトナム反戦デモがおこなわれた。これにもオクシダンが乱入。共産党の機関紙『ユマニテ』は、政府は暴力を放置するなと訴えた。
 その後、トゥールーズ大学でも、政治討論集会が開かれたが、それにもオクシダンが乱入する。校内で激しい乱闘となり、トゥールーズ大学当局はその後のすべての集会を禁止した。
 4月27日、傷害容疑でコーン=ベンディットが警察によって連行され、事情聴取を受ける。だが、証拠はみつからず、その日のうちに釈放される。
 4月30日、ナンテール分校大ホールの壁に「反帝国主義運動の日」と書かれた大きなポスターが貼られる。それを撤去しようとした学部長は、大勢の学生に取り囲まれ、目的を果たせない。その日の午後にも、学生集会が開かれた。
 以上が「五月」以前の状況である。
 著者は「特定の代表やリーダーをもたない運動体としての3月22日運動が、ダニエル・コーン=ベンディットという一人のヒーローを生み出したのは、ひとつのパラドクスである」と書いている。
 秋田明大や山本義隆だって、自分がヒーローになろうとしたわけではないだろう。やむなく立ち上がったのである。
 

山本義隆『私の1960年代』をめぐって(2) [われらの時代]

 東大の安田講堂は1968年7月2日に占拠された。それに呼応して各学部でバリケード闘争がはじまり、10月には東大の全学部がストにはいった。
 そのころ、早稲田の学生だったぼくは何をしていたのだろう。虚弱な身体を改造したいと思い、ウェイトリフティング部に入部したものの、1年足らずで挫折し、そのあと人前でも話せるようになりたいと思って、雄弁会に入会していたのだった。しかし、雄弁会にもなじめず、ぶらぶらと日をすごすうちに、季節も秋に変わり、春に知りあった友人に声をかけられて、また雄弁会の部室に舞い戻るようになっていた。
 あのころの早稲田はどんな状態だったのだろう。日大闘争や東大闘争は盛りあがっていたが、早稲田の構内ではまだバリケードが築かれていなかった。第2学生会館も占拠されていなかったのではないか。いずれにせよ、そのあたりの記憶はあいまいである。
 例によって例のごとく、ぼくはのんべんだらりとした毎日をすごしていたのだから。
 東大では、1968年11月に大河内一男が総長を辞任し、加藤一郎が総長代行に就任した。
 そのころ、はやっていたのが「大学解体」と「自己否定」というスローガンである。
 山本義隆は、それについて、こう語っている。

〈資本主義であれ社会主義であれ高度に工業化された社会において、経済成長・国際競争のための産業技術の開発のために、軍事力の強化のために、そして国威発揚のために、基礎科学であれ応用化学であれ科学が必要不可欠な要素として組み込まれているこの時代に、科学者である、技術者であるということは、そのことだけで体制の維持にコミットしていることになります。私が行き着いたのは、その情況を踏まえるかぎり、体制への批判は同時に自分自身の存在への批判でなければなりませんでした。〉

 これは理系学生の立場からの発言だが、文系の学生に関してもあてはまることはいうまでもない。それにしても、ずいぶんせっぱつまった言い方である。
 当時は、アメリカもソ連も日本もいやだという気分が濃厚だった。とはいえ、なぜか、文化大革命さなかの中国には反感をもたなかったのが不思議である(これは、のちに大きな誤解だったことがわかる)。そして、ベトナム戦争では、南ベトナム民族解放戦線の戦いに大きな支持が寄せられていた(これもまた幻想だったことが、のちにわかる)。
 いずれにせよ、「大学解体」も「自己否定」もスローガンであって、文字どおりではないことは、ぼくもうすうす感じていた。
 この世に大学などなくてもよい、自分は大学生をやめて労働者になろう、などとは、おそらくだれも思っていなかったからである。
 このスローガンが、ぼくのようなのらくら学生に共感を呼んだのは、むしろ楽しい祝祭空間としての大学、世間にも家にも束縛されない自分にあこがれを抱いていたからではないかと思われる。これは、当時、まじめに戦っていた人たちからすれば、たいへん失礼な言いぐさになるのだが……。
 しかし、山本義隆にとっては、抑圧的な社会体制とその体制に組み込まれている大学や自己を否定することが、闘争の目的であり、その象徴的行動が安田講堂の占拠だと考えられていた。
 しかし、安田講堂の占拠が長引くなか、総長代行の加藤一郎は事態収拾に動こうとしていた。11月29日には話し合い集会をおこなおうと呼びかけ、12月2日に文書で「学生諸君への提案」を公表した。
 その提案には大学改革がうたわれていた。しかし、当初の医学部処分があやまりであったことにはいっさい触れられていなかった。
 いっぽうで加藤は学生による「建造物侵入、封鎖、器物損壊」を非難した。加えて留年や卒業延期、そして「入試中止の可能性」をちらつかせる。こうして、硬軟とりまぜた姿勢を示しながら、強引に「紛争終息」をはかったのである。
 加藤による大学改革のねらいは、総長、学部長の権限を高め、大学の管理体制を強化することにあったといえるだろう。
 山本義隆によれば、学生主体の自治会活動を認めるという一見民主的な提案も、学生の動きを自治会の枠内に閉じこめようとするねらいがあった。自治会を認める代わりに、学生は自主規制を求められる。そして、その枠内を超える行動がみられた場合は、ただちに刑事処分、すなわち警察権力の介入がなされるというわけである。
 1969年1月10日、秩父宮ラグビー場で、当局の呼びかけによる全学集会が開かれた。すでに、民青や右派グループの主導により、多くの学部ではストが解除されていた。医学部や文学部は、この集会に参加していない。
 全共闘は次第に孤立していった。留年や卒業延期をにおわされれば、学生は弱い。このあたり、加藤一郎は老巧である。
 こうして、1969年1月18日から19日にかけ、東大の安田講堂をめぐる攻防戦がはじまった。
 その前日、山本自身は盟友、今井澄らに説得されて、安田講堂を離れ、日大のバリケードに移っていた。
 山本自身はこう書いている。

〈後になって、あのときの判断がよかったのかどうか、正直、悩みました。自分の気持ちにもっと正直に安田に残るべきであったという思いが強まるとともに、政治的にも、政治党派が動員した部隊にたよらず、私もふくめて東大全共闘だけでもっと大衆的な形で安田の防衛をするべきであったのではないのか、そしてそのことにむけてもっと早くから議論し準備しておくべきであったのではないかと考えております。大衆的な形で全学封鎖をやりきれなかったのは、私たちの限界であったと思っています。〉

 くやしさがにじみでている。
 安田講堂の陥落直後、山本に逮捕状が出された。
 実際に逮捕されたのは、それから約8カ月後の9月5日のこと。この日、日比谷の野外音楽堂では全国全共闘結成大会が開かれていた(ぼくも、当日その近辺をうろうろしていた)。
 たしか、山本はこの集会に出席しようとするところを逮捕されたのではなかったか。
 その後、山本は1年以上拘留されることになった。しかし、ほんとうの意味で、かれにとっての戦いがはじまったのは、このときからかもしれない。
 拘置所のなかでは、近代科学批判に取り組みたいという思いが、ますますつのるようになっていた。
 山本のその思いが結実するのは、近代科学誕生の謎を追った『磁力と重力の発見』『16世紀文化革命』『世界の見方の転換』というかれの代表作が完成したときである。
 東大全共闘の戦いから45年の歳月が経過していた。

山本義隆『私の1960年代』をめぐって(1) [われらの時代]

img068.jpg
 一度だけ、山本義隆の演説をどこかの講堂で聞いたことがある。何かの集会だった。あれは1968年の終わりころだったか。ふつうのアジ演説とは少し異なる、理路整然とした話しぶりに、思わず引きこまれたことを覚えている。
 ぼく自身も全共闘世代だが、運動の中心にいたわけではない。周辺をうろうろしていただけである。デモにはよくでかけたけれど、逮捕された経験はない。母校の早大全共闘にも加わらなかった。ああだ、こうだと議論する口舌の徒にとどまっていたといえるだろう。そのうち運動の退潮とともに、大学を卒業し、社会人になった。ただし2年間も大学を留年したのは、余分である。
 学生運動の中心にいたわけではないから、60年代後半の全共闘運動について語る資格はない。あのころの記憶もぼんやりしている。
 1969年1月の東大安田講堂をめぐる攻防が、60年安保闘争と並ぶ戦後学生運動のハイライトであったことはまちがいない。腹蔵なくいってしまえば、あれはめったにない見ものであった。「安田砦」にこもった学生には、万に一つの勝ち目もなかったけれど、かれらはよく戦って、一昼夜にわたる敵の攻撃をしのいだ。そのテレビ中継に釘づけになっていた。
 学生たちはなぜ安田講堂を占拠したのだろう。
 1968年1月に、東大医学部と青年医師連合(青医連)は、登録医制度に反対し、研修協約の獲得を求めて、ストライキにはいった。それが東大闘争のそもそものきっかけだった。
 それまではインターン制度というのがあった。医学部を卒業した学生は、1年間無給で病院勤務をしなければ、医師の国家試験を受けられないというものだ。
 インターン制度は無資格診療だったから、医療過誤の可能性という問題をはらんでいた。
 そこで厚生省は、インターン制度に代えて、登録医という、あらたな研修制度を導入しようとする。これによって、医学部卒業生はすぐに国家試験を受けられるようになる。しかし、その後の2年間は研修期間(ただし有給)で、登録医として、大学病院または市中病院で、研修を積まねばならない。
 その新制度に反対したのが、青年医師連合(青医連)だった。青医連はもともとインターン制度に反対していたが、新たな登録医制度も研修医の権利改善にはつながらないように思えた。
 そこで、青医連は研修医の要望を受け入れるよう東大病院に求めた。しかし、病院当局はいっさいの話し合いを拒否したため東大医学部はストに突入する。
 そのさい、病院の医局長と学生側・研修医とのあいだで、小競りあいがあった。これにたいし、大学当局は一方的に学生・研修医に厳しい処分を下した。
 ところが、処分された人物のなかに、当日その場にいなかった学生も含まれていたのである。
 こうした事実誤認があったにもかかわらず、大学はその処分を撤回しなかった。
 かたくなな当局の姿勢に抗議するため、医学部全学闘争委員会は6月15日に総長室のある安田講堂を占拠する。
 これにたいし、当時の総長、大河内一男はただちに機動隊を導入し、学生たちを排除した。
 この措置は、火に油をそそぐ結果となり、東大では、それによって医学部の闘争が全学レベルの闘争へと拡大していくのである。
 山本義隆自身はこう述懐する。

〈それまでの医学部闘争への全学的な関心の薄さを見てきただけに、若い学生諸君が大学への機動隊の導入それ自体をストレートに「大学自治の破壊」と捉え、しかもそのことにたいしてこれだけ激昂するとはちょっと予想外でした。〉

 このとき山本は27歳で、東大大学院で物理学を学んでいた。かれは東大に入学してすぐに60年安保闘争を経験し、それ以来、62年の大学管理法(大管法)反対闘争にも加わり、日韓闘争、砂川闘争、ベトナム反戦闘争にもかかわっていた。
「素粒子論の学習に励みながらも、街頭の闘争に出かけて行く日々」だったという。
 党派には所属せず、東大の「ベトナム反戦会議」の活動家だった山本は、すでに大学が「自治」を堅持しているなどとはとても思えなかった。
 しかし、現実に大学に機動隊が導入されると、ノンポリの学生たちでさえ、みずから「大学自治」を投げ捨てた当局の冷たい対応ぶりに、憤りさえ感じたのである。
 古い体質の権威にあぐらをかいたまま、学生の言い分にいっさい耳を傾けなかった大学当局は、みずからの非を認めず、ついに学生に捨て身の行動をおこさせた。
 その挙げ句が、あたふたと警察権力に学内秩序の回復をゆだねるという愚行である。こうした無能ぶりが、闘争を全学的なものにエスカレートさせる結果を招いたといえるだろう。
 その後の大学当局の対応もまったく要領を得ず、権威の化けの皮はどんどんはがれていった。
 東大闘争の先陣を切ったのは、はっきりいって、新左翼各党派、政治意識の強い各学部大学院生の「全学闘争連合」、それに青医連のメンバーだったといってよい。かれらは「本部封鎖実行委員会」を結成し、7月2日夜に、大学本部のある安田講堂を再占拠した。
 山本義隆は「そこを解放することは、物理的な意味より、象徴的ないし政治的な意味で重要だった」と記している。
 各学部の自治会も、安田講堂占拠を支持した。
 こうして安田講堂は大学当局から解放され、闘争を支持する者なら、だれでもがはいれる場所になった、と山本は書いている。
 講堂前の広場には、テント村がつくられていた。
 山本はこの安田講堂に常駐して、その維持と管理、イベントや会議の運営にあたった。
 全共闘は建前からいえば、「それぞれに決意した個人の集まり」であったけれど、そこには党派の活動家も多く含まれていた。しばしば党派の政治的主張に振り回される会議をまとめていくのは、たいへんだったようである。
 安田講堂が学生に占拠されるなかで、闘争は全学に広がり、10月にいわゆる東大全共闘が結成される。山本はその代表に選ばれることになった。
 これまで東大闘争を引っ張ってきたのが、医学部の青医連だったことを考えれば、青医連の今井澄(のち参議院議員)を全共闘代表とするのが筋だった。しかし、今井は社学同ML派に属しており、本人の言によれば、「少々歳をくっていた」調整役で、「どの党派の色もついていない安全パイみたいなもの」として山本が代表役に押しだされることになったのである。
 ちなみに、もともと「共闘会議」だった組織が、いつしか全共闘と呼ばれるようになるのは、そのころ同時に戦われていた日大全共闘の名が広く知られるようになり、それが一般化したからだという。
 10月は反戦運動の季節だった。
 羽田闘争1周年の10・8闘争、さらには10・21の国際反戦デーが盛り上がるなかで、東大では安田講堂の「解放」と、各学部のバリケード封鎖がつづけられていた。
 あのころ、ぼくも下宿先の東大工学部大学院生Nさんに連れられて、天気のいい日、のこのこと安田講堂を見学しにいったことがある。講堂前の広場にはテントが張られ、どことなく緊張感はあったものの、そこは楽しげなイベント会場のような雰囲気にあふれていた。
 Nさんが、青医連の今井澄の名前をだして、すごい男だと称賛していたのを、いまになってしきりに思いだす。

前の10件 | 次の10件 われらの時代 ブログトップ