So-net無料ブログ作成
検索選択

カーショー『地獄の淵から』を読む(5) [本]

 大恐慌の影響を免れた国はなかった。ヨーロッパでは、1930年にはいると倒産と失業、デフレが進行し、GNPが落ちこんだ。人びとは失業と貧困に苦しんでいた。
 経済状況の悪化は政治行動の急進化を招いた。そんななか、多くの国で挙国一致の流れが生まれ、一部の国ではファシズム運動への支持が高まった。とりわけドイツでは民主主義が危機に見舞われるなか、人びとはナチ党に救国の希望を託すことになる。
 経済危機のさなか、ドイツは1932年に連合国の戦時債務の抹消を取り付けることに成功した。そのころ、ドイツではヒンデンブルクが大統領として、次第に権威主義的な傾向を強めていた。
 1933年まで左翼は30パーセントの得票率を保っていたが、社会党と共産党のあいだには遺恨があって、統一戦線をつくることができなかった。ナチスと共産党の民兵組織のあいだでは、武力衝突がつづいていた。
 いまや秩序を求めるドイツの中産階級は、国家再生の大義をかかげるナチスの暴力を容認するようになった。乱立する政党にはうんざりしていた。
 1932年8月の選挙で、ナチ党は37.4パーセントの得票率で、第1党に躍り出た。そして翌年1月、ヒンデンブルクの後押しで、ヒトラーは首相に就任した。
 ヒトラーは著書『わが闘争』のなかで、公然と反ユダヤ主義をうたい、ソ連から領土を奪うと宣言していた。それを本気で受け止める者はさほどいなかった。それよりも有権者を引きつけたのは、「国民の連帯」によって新たな社会秩序をつくるという公約である。
 政権の座につくと、ヒトラーは社会主義者と共産主義者を一斉に逮捕し、監獄や収容所に送りこんだ。緊急命令によって、無制限の警察権が合法化される。3月には全権委任法が議会を通過し、ヒトラーはすべての権限を握った。共産党は粉砕され、社会民主党は禁止された。そのほかの政党も禁止、または解党に追いこまれた。このあたり、あっというまの展開である。
 1934年6月、ヒトラーはみずからの対抗馬となりそうなナチス突撃隊(SA)隊長のエルンスト・レームを粛清する。粛清者はほかにも150〜200人にのぼった。8月にヒンデンブルクが死ぬと、ヒトラーは国家元首の地位を引き継ぎ、総統となった。
 ヨーロッパが恐慌から回復するには時間を要した。イギリスが最悪の事態を脱したのは1933年になってからである。ケインズの有効需要理論はまだ登場していない。1931年に発足した挙国一致のマグドナルド内閣は、当初、緊縮予算を組んだが、経済状況は好転しなかった。
 イギリスの経済が反転しはじめたのは、金本位制から離脱してからである。生産と輸出が回復しはじめる。さらに政府は、低利資金を導入し、住宅建設の拡大を促し、内需を掘りおこす政策をとった。
 フランスも当初は政府支出を大幅に削減して、病んだ経済を癒やそうとした。しかし、それは裏目に出る。景気が回復しはじめるのは、やはり1935年に金本位制から離脱し、36年から38年にかけフランを大幅に引き下げてからである。
 恐慌からの脱出に向けた、スウェーデン、ノルウェー、デンマークの取り組みは独特だった。通貨を切り下げるとともに、公共事業への国家支出によって、失業に対処する方策をとったのである。
 大恐慌がはじまると、イタリアのムッソリーニは経済への国家介入を強めた。国家支出の増大は、失業の低下をもたらした。
 ムッソリーニのかかげる協調組合国家の理念は飾りにすぎず、経済の実権は大企業に握られていた。1933年には国営の産業復興公社がつくられ、36年には銀行が国有化された。経済の官僚支配がはじまっていた。とはいえ、軍備生産の面でも、大企業は国から巨額の利益を得た。
 ドイツの場合は、大恐慌がもっとも深刻なときに、経済が急速に回復した。そのことが、ヒトラーの独裁体制に拍車をかけることになった。
 ヒトラーはまず左翼政党と労働組合をつぶすところから着手した。それによって、企業は賃金を引き下げ、利益を最大化することが可能になった。
 そのいっぽうで雇用創出計画もつくられた。それ自体に要した予算はさほど多くはなかったが、宣伝上の効果が大きかった。道路建設や土地開発のために、国家勤労奉仕団が動員された。公共事業への予算投入、自動車産業への減税、農業保護、さらには軍備への支出が、経済を新たな地平へと引き上げていった。
 しかし、ドイツの経済回復はそれ自体が目的ではなかった。ナチスはむしろ軍事力の拡大による領土の拡大をめざしており、経済はその手段にすぎなかった。
 1938年になると、政府支出の半分はすでに軍事費にあてられるようになっていた。そのころドイツでは、外貨準備高が不足し、深刻な食糧不足が生じるようになっていた。軍事費を抑えて経済を優先するか、それともあくまでも軍事費を増やして戦争を選ぶか、ヒトラーは決断をせまられる。答えは最初から明らかだった。
 もういちど、1930年代前半の政治状況にふれておこう。
 この時代の特徴は急激な右傾化である。左翼は支持を失っている。
 1931年、スペインでは第2共和国が発足し、社会主義政党が政権の担い手となるが、それも1933年で終わりとなる。
 1936年に発足したフランスの人民戦線政府も短命に終わった。スカンジナビア諸国だけは例外である。
 なぜ政治は左にではなく右にぶれたのだろう。
 極右の形態はさまざまだが、共通の特徴がある、と著者はいう。
 外国人や少数民族など、よそ者とみなす者を排除すること。次に、自由主義者、民主主義者などの政敵を殲滅しようとすること。武闘主義や権威主義を信奉すること。さらにナショナリズムを領土拡張にふり向けること。反資本主義、反労働組合を唱え、国家指導を協調する運動もあった。
 ファシストは権威主義的なナショナリスト政府の樹立をめざした。さらに、国民が国家に献身することを求めた。
 現状に不満をいだく中産階級は、ファシストに引きつけられた。また30年代になると、多くの労働者が社会主義よりファシズムを選ぶようになる。
 ファシズムをもたらしたのは経済的要因だけではない。領土復活(拡張)への思い、よそ者への嫌悪、さらに政党政治への不信などが、ファシズムを生む原動力となった。
 それでも、保守エリート層の支援を受けて、ファシズムが勝利を収めた国は、イタリアとドイツにかぎられる、と著者は指摘する(日本もあてはまるといってよいだろう)。
 イギリスは急進右翼の躍進にすきを与えなかった。議会制民主主義にもとづく立憲君主制がしっかりと確立されていたのだ。政治的な過激派はわきに追いやられ、30年代は基本的に保守党が政権を維持した。労働党は野党になっていたが、革命ではなく改良主義路線をとっていた。ファシストの政治スタイルとイメージはイギリスにはなじまなかった。
 1936年に失業率が35パーセントに達したオランダでも、ファシズムはむしろ警戒され、ほとんど政治の世界に食いこめなかった。ベルギーでもファシスト運動は見向きもされなかった。
 フランスでも政府は次々と交替したが、共和制自体が存続の危機にさらされることはなかった。むしろファシズムにたいする警戒感が、つねに分裂しがちな左翼を団結させていた。その結果、1936年には人民戦線政府が確立される。
 とはいえ、右翼勢力も強固な政治基盤をもっていた。それがのちのヴィシー政権の中核となっていく。
 スペインの場合は事情がことなる。経済不況に対応できず、独裁者のプリモ・デ・リベラは辞任し、パリに亡命する。つづいて国王も亡命し、1931年にスペインは共和国となった。
 その年、左翼勢力は圧勝するが、じつは内部に鋭い分裂をかかえていた。農業改革と労働者保護を中心とするその経済政策が失敗すると、1933年の選挙では右翼の諸派が勝利する。
 右翼の諸派は軍部に支持され、協調組合国家と王制復古をめざした。それはファシズム的色彩を帯びた保守政権だったが、急進的ファシズムは好まなかった。そのとき、モロッコで、フランシスコ・フランコ将軍が反乱をおこす。そして、3年間の内戦をへて、スペインではフランコ独裁政権が誕生するのである。
 中欧と東欧でも、政治は右傾化していた。
 オーストリアでは、自前の護国団とナチ党がファシスト運動を展開していた。護国団などに支持されたエンゲルベルト・ドルフスは1932年に首相の座につき、社会主義を非合法化し、翼賛組織「祖国戦線」のもとで、独裁政権を樹立したる。しかし、1934年にナチスによって暗殺される。
 その後、オーストリアはドイツに反発しながら、独自の権威主義的体制を維持するが、もちこたえられない。けっきょく1938年には、ドイツによる併合の憂き目をみることになる。
 連合国側についたルーマニアは、第1次世界大戦の結果、領土を2倍に拡大していた。そのため、ほんらいならファシズムにひかれる要素はなかったのに、経済不況と少数民族、とりわけユダヤ人への偏見が、「大天使ミカエル団」(別名「鉄衛団」)の運動に火をつけた。だが、国王カロル2世は「大天使ミカエル団」を禁止し、議会を解散して、独裁王政を敷いた。
 広大な領土を失ったハンガリーも、深刻な経済不況によって社会的緊張が高まっていた。しかし、ホルティ・ミクローシュの権威主義的体制のもとで、ファシスト組織「矢十字党」はほとんど勢力を伸ばすことができなかった。
 著者によれば、東欧や中欧では「大衆動員を自らの権力に対する脅威とみなす、軍部を筆頭とする反動保守派の権威主義的エリート層が国家を支配したことが、ファシスト運動が突破口を開くうえで最大の障害だった」という。
 だが、このころすでにドイツは領土拡張をめざして、ヨーロッパ心臓部をにらんでいた。平和はいつ終わってもおかしくなかった。

カーショー『地獄の淵から』を読む(4) [本]

 1924年になると、ヨーロッパには明るい兆しがみえてくる。戦争の恐怖は記憶のなかに後退し、経済は回復しつつあった。その5年後にアメリカで大恐慌が発生し、ヨーロッパも大混乱に巻きこまれるとは、だれも思っていなかった。
 ハイパーインフレに襲われたドイツは、1923年に新通貨レンテンマルクを導入、翌年それをライヒスマルクと改称し、通貨の安定に成功した。またドーズ案によって、賠償方式の緩和がはかられた。
 ヨーロッパ主要国は、このころ戦前の金本位制に復帰する。経済の安定が戻ってくるように思えた。実際、「黄金の20年代」には経済の急回復がみられた。モータリゼーションや電気照明が都市の景観を変えようとしていた。ヨーロッパの家庭にも、アメリカ流の家電製品がはいってくるようになる。ラジオが急速に普及した。
 住宅事情はまだまだだ。ドイツでは政府が住宅建設に多額の資金を投入し、ベルリンやフランクフルトでは労働者向けの大規模団地がつくられた。しかし、これは例外で、概して人びとは劣悪な住宅環境下でくらしていた。
 フランス、ドイツ、イタリアで、労働組合は1日8時間労働の要求を勝ちとった。しかし、賃金には大きなばらつきがあった。イギリスでは1926年にゼネストが発生するが、勝利を収めたのは経営者側である。
 世界市場での競争が激しくなり、重工業や繊維など旧来の産業部門でも失業率が高くなった。だが、イギリスでは1911年に導入された失業保険により、最悪の事態は避けられた。
 競争によって、農産物の価格が下落したため、農民は苦しい生活を強いられた。農村を離れて、都市の工場ではたらこうとする農民も増えてくる。
 それでも経済には多少なりとも明るい兆しがみえていた。1929年の大恐慌は、その兆しを一瞬にして吹き飛ばすのだ。
 ソ連では1921年からの新経済政策が一定の成果を挙げていた。革命の輸出と迅速な工業化を求めるトロツキーの影響力は衰えつつあった。スターリンはまずジノヴィエフ、カーメネフ、ブハーリンを味方にして、トロツキーを追い出し、それからジノヴィエフとカーメネフを党から除名し、最後にブハーリンを分派主義者として失脚に追いこんだ。こうして1929年、スターリンは名実ともに党の最高指導者となる。
 1928年にスターリンは第1次5カ年計画を提唱した。翌年から実施された計画は、表向き鉱工業生産を急増させたものの、苛酷な労働をもたらした。加えて食料を確保するための農業集団化計画が、「富農」の一掃と、農民の弾圧、すさまじい凶作をもたらした。ほんらい肥沃なウクライナも飢饉におちいる。そのときの死者数は330万人と推定されている。
 いっぽう、ヨーロッパでは、1920年代は大衆文化が花開いた時代だった。娯楽映画館やダンスホール、それにパブやバーがにぎわった。サッカーも人気の的となり、ドイツ、イタリア、スペインではプロのリーグが創設された。
 芸術では「モダニズム」が流行する。「従来の美と調和、理性という理念」に代わって、「断片化と不統一、そして混沌が新たな主題になった」という。画家ではピカソ、文学ではジョイスやヘミングウェーなどがもてはやされた。フロイトとユングの精神分析、無意識の省察が注目されるのもこのころである。
 ドイツではいわゆるワイマール文化が一世を風靡した。表現主義やダダイズムが提唱される。グロピウスはワイマールで「バウハウス」を創設した。シュトゥットガルトでは、モダニズム様式の住宅団地が建設された。トマス・マンの小説『魔の山』は、1924年に出版されると大絶賛をあびた。フランツ・カフカは1924年に亡くなるが、その作品は死後大いに注目された。ブレヒトは実験的な演劇作品にとりくんだ。
 しかし、1930年代にはいると、ナチスは「モダン」なもの、「退廃した」文化に攻撃をしかけることになる。ドイツ文化をあやうくしているのはユダヤ人だと言いふらしていた。
 ドイツではさまざまな前衛芸術とはうらはらに、ヨーロッパのどこよりも文化的悲観主義が広がっていた。それを代表する著書がシュペングラーの『西洋の没落』である。このころ、ドイツほど、国家衰退への懸念に引き裂かれた国はなかったという。
 ここでまた政治状況に戻ろう。
 1924年のドーズ案はヨーロッパの緊張を緩和する第一歩となった。
 さらに1925年10月にはロカルノ条約が結ばれ、ドイツとフランスならびにベルギーは、双方とも戦争をしかけないことを約束した。ドイツ西部国境とラインラントを非武装地帯とすることも決まった。ただし、ポーランド、チェコとの国境問題は未解決のままだった。ロカルノ条約が結ばれた結果、1926年9月にドイツは国際連盟に加盟する。
 賠償金の軽減を決めたドーズ案では、1928年から29年にかけて賠償金がふたたび上昇することになっていた。そこで、1929年1月にヤング案がまとまる。毎年のドイツの賠償金支払いを少額とし、その代わりに返済期間を1988年まで延長するというものだ。ヤング案を受け入れれば、連合国軍はラインラントから撤退するという付帯条件がついていた。
 1930年3月、ドイツ国会はヤング案を批准した。しかし、ナショナリスト右翼は、その受け入れに反発した。
 1920年代半ば以降も、北欧と西欧はほぼ民主主義を維持している。しかし、ヨーロッパ全体に民主主義が行き渡っていたわけではない。
 ハンガリーの民主主義は見かけだけだ。チェコスロヴァキアでは民主主義が保たれていた。オーストリアではイデオロギー対立が激しく、ドイツ民族主義者が支持を拡大していた。ポーランドでは1926年にピウスーツキ元帥がクーデターを決行し、権威主義的な体制を確立した。しかし、バルト3国やフィンランドは民主主義を何とか維持している。
 バルカン半島諸国では代議政治は見せかけで、縁故政治と汚職が蔓延していた。ギリシア、アルバニア、ブルガリア、ユーゴスラヴィアは王政ないし権威主義的体制のもとにある。
 スペインではプリモ・デ・リベラが独裁体制を築き、ポルトガルではアントニオ・サラザールが1928年に蔵相に任命され、4年後に首相となるところだ。
 イギリスでは政権交替をともなっても、民主政治はさすがに安定していた。1924年にはラムゼイ・マグドナルドの労働党が短期間、政権をにない、その後、5年間スタンリー・ボールドウィンの保守党がむずかしい政局を運営する。さらに1929年からはふたたびマグドナルドが首相の座につく。このかん、共産主義者やファシストの団体は、まったくイギリスの政治に影響を与えていない。
 フランスでは内閣がめまぐるしく替わった。しかし、レイモン・ポアンカレの手腕のもと第3共和制は支持されていた。
 イギリスやフランスとちがい、ドイツの民主主義は揺れはじめていた。それでも1920年代後半、共産党の支持率は低迷し、ヒトラーの蜂起失敗のあと、ナチ党は政治の外縁にとどまっていた。
 1928年の総選挙では、社会民主党が勝利を収め、ヘルマン・ミュラー党首のもと国民党などとの連立政権を発足させた。だが、政権のあいだで次第に亀裂が深まり、1930年3月、ミュラー内閣は崩壊する。
 大恐慌による経済危機がドイツを襲っていた。そうしたなか、共産党とナチ党が支持を伸ばす。1930年9月の総選挙ではナチスが18.3パーセントの得票率で107議席を獲得し、第2党に躍り出る。それでもヒトラーが首相になる可能性は低いと思われた。それが変わっていくのだ。

カーショー『地獄の淵から』を読む(3) [本]

 第1次世界大戦は「戦争を終わらせるための戦争」と呼ばれていた。だが、じっさいには、より破壊的な戦争に道を開くことになる。
 戦争に勝利したロイドジョージ首相のもと、イギリスでは兵士の動員解除が順調に進んだ。だが、景気はよくない。失業者が増え、ストライキが頻発する。政府債務は膨大で、そのほとんどがアメリカの信用に依存していた。
 敗北したドイツやオーストリアでは、通貨価値が下落し、インフレが昂進していた。政府がインフレを容認したのは、巨額の国内債務を解消するのに好都合だったからである。通貨下落とインフレのもと、ドイツ産業は復興を遂げる。しかし、さらにハイパーインフレが昂進すると、手の施しようがなくなる。それまでの貯蓄はほとんど無価値になった。
 東欧の状況は悲惨だった。戦争によって国土は荒廃し、物不足と飢餓に襲われた。革命がおこらなかったのが不思議なくらいだ、と著者は書いている。人びとは革命をおこす元気もなかったのだろう。
 西欧では、二度と戦争をすまいとする平和主義が広がっていた。だが、戦争を美化し、暴力と憎悪を歓迎する風潮が消えたわけではない。
 1919年から23年にかけ、アイルランドではイギリスにたいする激しい独立運動が発生する。イギリス当局は特殊部隊をつかって、これを弾圧する。1922年末にはアイルランド自由国が発足した。
 1922年、イタリアではファシスト政権が発足する。翌年、スペインでは軍事独裁政権が成立する。
 1923年のローザンヌ条約により、トルコ共和国が正式に認められ、それまで紛争の多かったギリシアとのあいだで、住民の交換がおこなわれた。トルコのギリシア人100万人と、ギリシアのトルコ人36万人が入れ替えられた。
 東欧では激しい国境紛争がつづいている。ロシアでは恐怖の内戦がはじまった。ユダヤ人にたいする暴力事件が相次ぐ。
 ハンガリーではクン・ベーラの短期ソヴィエト政権が崩壊したあと、「白色テロ」が横行した。「赤色テロ」に対抗して「白色テロ」を実行したのは、民兵組織である。
 ロシアでは1917年から3年間、内戦がつづき、700万人以上が死亡した。赤軍はシベリアから西進する白軍を迎え撃ち、勝利を収めた。
 だが、ボリシェヴィキ政権にたいする農民の反発も高まっていた。農産物の強制徴発と、拙速な集団農場化が農民反乱を巻き起こしたのだ。当初、これを弾圧した政府は1921年に「新経済政策」を導入する。これによって経済は回復しはじめる。
 1924年、レーニンが死に、スターリンが権力を掌握した。スターリンのもと、ソヴィエト政権は以前にも増して、恐怖政治の度合いを高めていく。
 以上が、第1次世界大戦後のヨーロッパの概況である。
 もうすこし詳しくみていこう。
 1919年のヴェルサイユ会議で、ヨーロッパには新しい地図が生まれていた。ロシア、オスマン、オーストリア・ハンガリー、ドイツの帝国が姿を消して、新たに10の国民国家が出現した。
 アメリカのウィルソン大統領の提案により、1920年、ジュネーヴに国際連盟が創設される。だが、国際連盟による国際秩序の維持は、当初から困難をきわめた。国内事情により、当のアメリカすら、国際連盟への加入を見送っていた。
 ウィルソンの提案した民族自決は、多くの植民地をかかえるイギリスやフランスにとっては、受け入れるのがむずかしい理念だった。中欧や東欧の複雑な民族混合状況も、民族自決の達成を不可能にしていた。せいぜい期待できるのは、多民族国家のなかで、民族のちがいが国民統合によって乗り越えられることくらいだった。「オーストリアを除けば、民族的に均一は新生国家は一つもなかった」と著者は書いている。紛争の種は残った。
 ヴェルサイユにおける領土処理は、敗者の側に落胆と怒り、恨みを残した。とりわけ勝者の「4大国」(アメリカ、イギリス、フランス、イタリア)は、ドイツが二度と戦争を起こさないようにするため、懲罰と賠償でドイツを縛ろうとした。
 講和条約によって、ドイツは東部を中心に領土の13パーセントを削減された。徴兵制は禁止され、兵力も450万から10万に削減された。ダンツィヒ(現グダニスク)や、ザールラント、ラインラントも国際的な管理下におかれた。ベルギーやデンマークに分割された地域もある。とりわけ痛手だったのは「ポーランド回廊」、すなわち西プロイセンとポーゼン(現ポズナニ)を新生ポーランドに割譲しなければならなかったことである。
 ドイツにとってさらに苛酷だったのは、巨額の賠償支払いが課せられたことである。それはドイツの政治に重くのしかかり、激しいナショナリズムを生む要因になっていく。
 大戦後のヨーロッパの政治的基調は議会制民主主義だった。投票権が拡大され、大衆政治が定着する。それとともに新聞の影響力も強まっていく。
 小選挙区制をとるイギリスでは、自由党と保守党の2大政党が政権の座を競ったが、比例代表制をとる大陸では政党が乱立し、政府が不安定になる傾向がみられた。
 しかし、どの国でも民主主義が尊重されていたわけではない。民主主義は見せかけだけで、内情は暴力的な独裁制ないし寡頭制が支配していた国もある。ソ連はいうまでもないが、ギリシアやアルバニア、ブルガリア、ルーマニアなどもそうした国々だった。
 スペインでは1923年以来、ミゲル・プリモ・デ・リベラ将軍による独裁がつづく。しかし、この独裁は比較的温和であった。公共事業によって、スペインには一時繁栄感すらただよった。
 新たに誕生したフィンランドとチェコスロヴァキアでは議会制民主主義が維持された。バルト3国のエストニア、ラトヴィア、リトアニアも同様である。
 ユーゴスラヴィアはセルビア人の王室のもとで創設された新国家(セルビア人・クロアチア人・スロヴェニア人王国が改称)である。議会制度をもっていたが、民族間の対立は深刻で、8年間で24の政府が入れ替わるありさまだった。
 いっぽうポーランドでは、民族的結束感が生まれていた。とはいえ、少数民族(ウクライナ人、ユダヤ人、ベラルーシ人、ドイツ人)がいなかったわけではない。1921年の民主憲法により、議会がつくられたものの、それはまとまりがなく、いかにも無能にみえた。ハイパーインフレ後の緊縮策が、経済的不安を招いていた。1926年にはピウスーツキ元帥がクーデターに踏み切る。
 小国となったオーストリアでは、社会民主党と反社会主義のキリスト教社会党とのあいだで対立がつづいていた。「赤いウィーン」では、社会民主党が勢力を保っていた。だが、農村部は圧倒的に保守的であり、社会民主党と結びついた民主主義は次第に劣勢に追いこまれていく。
 ハンガリーでは1919年に共産党政権が発足する。だが、クン・ベーラによるプロレタリア独裁政権は、ルーマニア軍の侵攻によってたちまち倒れ、右翼民族主義の保守勢力がハンガリーの支配権を奪還する。その結果、戦争の英雄ホルティ・ミクローシュが24年にわたり国家元首として君臨することとなった。
 戦後の混乱期、イタリアではコミンテルンを支持する社会党が議席を伸ばすなか、都市でも農村でも暴動が起き、革命は間近と思われていた。
 そんなときイタリアの北部と中部の都市で、「ファッシ」を自称する民兵組織が芽をだしはじめる。ベニート・ムッソリーニは、もともと社会党機関誌の編集長をしていたが、左翼社会党とたもとを分かち、次第に反革命に転じるようになった。
 1921年になって、自由党の政府は、社会党と人民党をたたくため、ファシストのムッソリーニを資金と武器で支援するようになる。ファシスト勢力が力を伸ばしたのは、意外なことにイタリア北部ではなく中部だった。ファシストは民兵部隊の容赦ないテロによって、社会主義者を攻撃し、以前の赤い県をたちまち自分たちの牙城に変えていった。
 こうして1921年10月に国家ファシスト党が誕生する。1922年5月に党員数は30万人を超えた。その10月には、黒シャツ隊によるいわゆる「ローマ進軍」が実施される。暴力的示威行動である。国王はファシスト党を支持し、ムッソリーニに首相就任を要請した。
 1923年11月、ムッソリーニは自党が有利になるように選挙法を改正し、1924年4月の選挙で、ファシスト党が大半を占める「国民ブロック」が議席の3分の2を獲得した。6月には社会党書記長ジャコモ・マッテオッティが暗殺される。その後、野党は弾圧され、報道の自由は撤廃され、政府はほぼファシストの手に握られることになる。
 いっぽうドイツでは、アドルフ・ヒトラーが1921年に国家社会主義ドイツ労働者党(通称ナチ)の指導者となり、バイエルン州を中心に勢力を広げていた。1922年秋には、ミュンヘンのビヤホールでヒトラーを「ドイツのムッソリーニ」と称える集会が開かれ、反政府的なナショナリスト過激派に火がつく。社会民主党を中心とするベルリンの政府は、各地で左右の激突が発生するなかで、次第に弱体化していった。
 1923年、ハイパーインフレが高じると、政治が両極化する。軍は共産主義者の蜂起を鎮圧するのに躍起になった。軍は右翼国粋主義の立場をも支持しなかった。それでも、ヒトラーはミュンヘンで劇場型の一揆を起こし、逮捕され、軽い禁固刑を言い渡された。
 民主主義はかろうじて生き残っていた。ドイツでは軍はまだ政府を支持していた。「だが、脅威は沈静化しただけで、消滅したわけではなかった」と、著者は書いている。ヴェルサイユ体制のくびきが、ドイツをしめつけていたからである。

カーショー『地獄の淵から』を読む(2) [本]

[50枚ほどの翻訳の仕事が終わって、ほっとしています。また読書を再開します。戦前のヨーロッパ史を読んでいます。きょうはその2回目。両親の介護で、またいなかに戻る前に読み終わるといいのですが……。]

 第1次世界大戦は「以前のどの戦争にも増して、大量殺戮を産業化した戦争だった」と、著者は書いている。大量の近代兵器が人命の大量損失を招いた。
 高性能砲、手榴弾、火炎放射器に加え、毒ガス、戦車、潜水艦、飛行船など、あらゆる軍事技術が戦場に投入された。兵士だけではなく、一般住民も殺害対象になった。
 1914年9月6日から9日にかけてのマルヌの会戦で、フランス軍はドイツ軍の進撃をくいとめる。塹壕が構築され、それから4年間、西部戦線は膠着状態となった。
 しかし、東部戦線では、戦況は中央同盟国側に有利に進んだ。
 東プロイセンのタンネンベルク近郊で、ドイツ軍はロシア軍に大敗北を負わせた。ガリツィアでは、ロシア軍がオーストリア軍を破り、ユダヤ人が大量に虐殺された。
 トルコではダーダネルス海峡のガリポリに上陸した50万人の連合国軍を、同盟国側のケマル・パシャ(アタテュルク)率いるトルコ軍が撃破する。そのいっぽう、アナトリア東部では、ロシアに共感をもつアルメニア人をトルコ軍が虐殺している。
 西部戦線が膠着しているため、1915年夏、ドイツ軍は東部に攻勢をかけた。同盟国のオーストリア軍はあてにならなかった。ドイツ軍はガリツィアを奪還し、ポーランドを占領、さらにラトヴィア、リトアニアを制圧した。
 ドイツ軍は、さらにオーストリア軍、ブルガリア軍とともにバルカン方面に進出し、セルビアを支配下においた。
 問題は西部戦線だった。1916年夏から冬にかけ、ヴェルダン(フランス北東部)では大激戦がつづいた。ドイツ軍、フランス軍双方の戦死者は70万人を超える。ソンムではイギリス軍と植民地軍がドイツ軍と戦い、双方で100万人以上の犠牲者をだしたが、戦略的には何の進展もなかった。
 ドイツはベラルーシ、ウクライナまで、軍を進めていた。そのあたりで、ロシア軍の反攻がようやくはじまる。
 1917年にはいると、ドイツは無制限潜水艦戦を開始する。Uボートに脅威を感じたアメリカのウィルソン大統領は、4月になってドイツに宣戦を布告する。
 激しい戦闘がくり広げられたものの、西部戦線では膠着状態がつづいていた。イギリス軍は11月のカンブレーの戦いで、はじめて戦車を投入する。
 だが、このとき、ロシアではすでに革命が発生していた。3月にロマノフ王朝が倒れ、ケレンスキー内閣が発足した(ロシア暦「2月革命」)。つづいて11月(ロシア暦10月)、レーニンが権力を掌握する。
 レーニンはさっそくドイツとの停戦合意に乗りだし、翌1918年3月にブレストリトフスク条約を結ぶ。これにより、ロシアは戦線から離脱し、バルト3国、ウクライナ、ポーランド領を失うことになる。
 アメリカのウィルソン大統領は1918年1月に「14カ条宣言」を発表する。戦争終結とヨーロッパ平和をめざす宣言で、のちに民族自決の原則と称される内容を含んでいる。
 だが、戦争はまだ終結していたわけではない。ロシアの戦線離脱により、中央同盟国は広大な領土を獲得した(のちに破棄)。
 ドイツは西部戦線に兵力を集中することができるようになった。しかし、そのドイツ軍にも疲れがみえるようになる。
 連合国軍にアメリカ軍が加わるようになると、ドイツ軍の総退却がはじまる。
 1918年11月9日、ヴィルヘルム2世が退位し、ドイツ帝国は崩壊、新政府が発足する。11月11日、ドイツは敗北を認め、休戦協定に調印した。それにより、第1次世界大戦は終結する。
 前線の兵士はいうまでもなく、戦争が人びとにおよぼした影響はさまざまだ。その影響は国によってもことなる。
 しかし、どの国でも、大勢の若者が動員された。統制経済と国家支出の大幅増がみられた。総力戦のもと、官僚機構は肥大化し、監視と強制、弾圧が強化された。東欧では、とりわけユダヤ人がひどい扱いを受けた。
 イギリスでもフランスでも、さまざまな意見対立はあったが、戦争遂行に向けた団結意識は揺るがなかった。ドイツでは総動員法が導入され、すべての国民が軍需産業での労働奉仕を義務づけられていた。
 だが、ロシアでは政府への反乱が発生する。1916年から17年にかけての厳しい冬場、激しいインフレが進むなか、人びとは深刻な食糧難と燃料不足に苦しんでいた。その怒りが労働者のストライキとデモを誘発し、兵士も労働者を支持した。帝国当局はその状況を収拾できず、皇帝はついに退位へと追いこまれた。最終的にボリシェヴィキが権力を握ったのは「平和とパン、土地の配分、工場の所有と管理、そして人民による法の掌握という約束」が支持されたからだ、と著者はいう。
 1917年4月、ドイツでは社会民主党が分裂し、戦争に反対する少数急進派がのちのドイツ共産党を結成することになる。1918年になると、ドイツの敗色は濃くなり、前線では脱走や投降が相次ぐ。10月末にはキールで水兵が反乱をおこした。翌月のドイツ敗北は、帝国の崩壊を意味した。
 イタリアは三国協商側についていたにもかかわらず、戦争では負けつづきだった。戦争末期、政府への不満が高まり、世論は分裂する。そんなころファッシ(結束)を標語とする右翼グループが台頭する。
 ハプスブルク帝国は終焉を迎えようとしていた。1916年11月には皇帝フランツ・ヨーゼフ1世が死去し、カール1世が帝位を継承する。しかし、1918年にはいると、食料暴動とストライキ、抗議デモ、民族主義的分離運動が広がり、帝国は四分五裂状態になった。
 10月末になると、チェコスロヴァキアとハンガリー、そしてその後ユーゴスラヴィアとなる地域が独立を宣言する。戦争は11月3日に終結する。それにより、カール1世は退位し、ハプスブルク家の支配は終わった。
 トルコではオスマン帝国が崩壊する。1916年以降、中東ではアラブ人の反乱が巻き起こっていた。この反乱を指導したのはイギリスとフランスである(アラビアのロレンスが名高い)。しかし、イギリスとフランスによる中東の領土分割は、のちに禍根を残すことになる。
「戦争は、粉々に壊れたヨーロッパを後に残した」と、著者は書いている。
 帝国ドイツとハプスブルク君主国、帝政ロシアの廃墟からは、不吉な力が生まれようとしていた。ナショナリズムとボリシェヴィズム、それに領土紛争の火種が熾火となって、新たな憎悪を呼び寄せようとしていたのである。

カーショー『地獄の淵から』(ヨーロッパ史)を読む(1) [本]

51pEfi8kJPL._SX349_BO1,204,203,200_.jpg
 1914年から49年までのヨーロッパ史である。その後、現在までをえがく続巻も予定されている。著者のイアン・カーショーは、とりわけナチズム研究で知られ、ヒトラーについての浩瀚な伝記も書いている。
 大冊だ。はたして最後まで読めるか、心もとない。一度に読み切るのはとても無理だから、少しずつながめて、ごく短いメモと感想なりとも残しておきたい。
 まず、概論と第1章を読む。
 1914年から45年まで、ヨーロッパは悲惨な自滅の時代を経験した、と著者は書いている。地獄の淵にあったわけではない。まさに地獄を抜けたのである。
 破局をもたらした要因は4つあるという。

(1)民族主義・人種差別主義的ナショナリズム
(2)領土修正をめざす激しい要求
(3)ロシア革命を背景とした先鋭的階級闘争
(4)長期化する資本主義の危機

 並べてみると、なんだかいまと似ているような気がする。
 たとえ状況は変わっても、歴史はくり返されるのだろうか。
 本書にえがかれる現代ヨーロッパ史の概要は、次のようなものだ。
 第1次世界大戦(1914〜18)は、100年つづいたウィーン体制を崩壊させた。だが、終戦後の領土再編は、国家間、民族間、階級間の対立と緊張をさらに悪化させ、次の衝突を導いていく。
 とりわけイタリアとドイツでは、反ボリシェヴィズムとナショナリズムが結合して、右翼大衆運動が巻き起こり、過激右翼が政権を掌握する。
 大恐慌(1929)後の世界経済は混乱していた。大衆の不安にかこつけて、強さをうたう政治勢力が台頭していく。その運動は武力が国を救うという思想へと結実していく。こうして破滅的な第2次世界大戦(1939〜45)がはじまった。
「しかし、驚いたことに、第1次世界大戦が生み出した大混乱とは対照的に、第2次世界大戦はヨーロッパが20世紀後半に再生する道を切り開く」と、著者は記している。
 ヨーロッパ列強がヨーロッパ半島の覇権をめざして争う時代は終わり、二大国の米ソが核の力を背景ににらみあう時代がはじまったのだ。
 これが本書(全2巻を予定)のえがこうとする時代の大きな流れである。
 本巻では、とりあえず20世紀前半のヨーロッパに焦点があてられる。
 それをぼつぼつ読もうとしているわけだ。

 まずは第1章「瀬戸際で」。
 第1次世界大戦によって、ヨーロッパは「大破局」を迎えることになる。当時はだれも気づかなかったが、それは20世紀の「30年戦争」の幕開けだった。
 戦争がはじまる前、ヨーロッパは安定と繁栄、平和を謳歌していた。フランスはベル・エポック、ドイツはヴィルヘルム時代、アメリカは金ぴか時代の絶頂にあり、ヨーロッパ各地の都市は華やかな文化にあふれている。もっとも、ロンドンは文化よりも経済の都で、世界貿易の中心地だった。それを支えていたのは金本位制とイングランド銀行である。
 1900年、パリではオリンピックと万国博が開催された。繁栄はいつまでもつづくと思われた。だが、ヨーロッパ全体に繁栄が行き渡っていたわけではない。東西、南北、それに国による格差も大きい。ほとんどの国では、王権の支配がつづいていた。
 それでも社会の変化がおきつつある。普通選挙制度が導入された背景には、労働者階級の台頭があった、と著者はいう。イギリスでもフランスでもドイツでも労働者政党が生まれている。
 いっぽうで、ナショナリズムをあおる右翼の大衆運動も出現する。狂信的愛国主義にあふれた運動は、しばしば排外主義的で、人種差別主義的だった。それを支持したのは中産階級か下層中産階級で、かれらは拡張主義的な外交政策を支持した。
 反ユダヤ主義も広がりつつある。経済が悪化すると、ユダヤ人はスケープゴートにされがちだった。反ユダヤ主義は、第1次世界大戦前はある程度抑えられていた。それでも、ロシアでは何度もポグロムがおき、1905年10月には、3000人以上のユダヤ人が殺害されている。
 そのころ、優生学や社会ダーウィニズムが大手を振ってまかりとおるようになった。
「第1次世界大戦前のヨーロッパは、うわべの平穏とは裏腹に、のちの爆発的な暴力の種を宿していた」と、著者は書いている。
 ヨーロッパはずるずると第1次世界大戦に突入したようにみえる。だが、サラエヴォ事件のあと、1914年7月の危機において、決定的な引き金を引いたのはドイツだ、と著者はいう。
 ドイツはオーストリア・ハンガリー帝国(ハプスブルク帝国)を無条件で支持した。いっぽう、ロシアはセルビアを無条件で支持する。
 フランスとロシアは1894年に同盟を結んでいた(仏露同盟)。両方の側からドイツをはさんで、その力をそぐためだ。
 だが、その当のロシアは、オスマン帝国をたたくことで、ボスポラス、ダーダネルス両海峡を制し、念願の地中海進出をもくろんでいる。
 イギリスはロシアの勢力拡大を恐れている。ロシアが地中海、中東、中央アジアに進出すれば、イギリスの重要植民地であるインドがあやうくなるからだ。
 イギリスは1907年にロシアと英露協商を結んだ。日露戦争で敗北したロシアの勢力をいまならコントロールできると考えていた。
 1904年、イギリスはドイツの力を抑えるため、フランスとも英仏協商を結んでいる。これにより、1907年の協商とあわせて、イギリス、フランス、ロシアとのあいだで三国協商が結ばれたことになる。たがいに疑心暗鬼をひめた虚々実々の協商である。
 大きな陸軍をもたないイギリスは別として、ヨーロッパ各国は積極的に軍を増強していた。ロシアは350万、ドイツは210万、フランスは180万、オーストリア・ハンガリーは130万である。
 ほんとうなら、サラエヴォでの皇太子暗殺事件は、オーストリア・ハンガリー帝国とセルビアとのあいだで決着してもよかったはずである。それがなぜヨーロッパ全体を巻きこむ大戦争へと発展したのだろうか。
 暗殺直後、オーストリアの対応はにぶかった。それが、かえって「ゆっくりと燃え上がる導火線」になった、と著者はいう。
 そのかんドイツは素早く戦争の準備に動いた。オーストリアがセルビアに最後通牒を突きつけるのは、事件から3週間半が経過した7月23日になってからである。セルビアは当初、それを受け入れるつもりだった。ところが、セルビア側に立つロシアは、受諾に反対し、軍に総動員をかけた。単なる脅し、あるいは万一に備えただけかもしれない。
 ところが、ドイツは不安に駆られた。ドイツは8月1日、ロシアに宣戦を布告する。ロシアと協商関係にあるフランスは、これをみて軍に総動員をかける。8月3日、ドイツはフランスに宣戦を布告した。
 イギリスはドイツがヨーロッパ全土を支配することを恐れていた。そこで、ドイツがベルギーに侵攻した8月4日、ドイツに宣戦を布告した。
 いちばん最後に参戦したのは、皮肉なことにオーストリア・ハンガリー帝国である。大戦がはじまると、セルビアはむしろ蚊帳の外におかれた。
 ロシアの進出をおそれるオスマン帝国は、必然的にドイツ側に立って戦わざるをえない。
 どの当事国も、戦争は短期で終わると確信していた。そのために、最新の軍事技術を一気に投入した。長期の消耗戦は避けたい。
 モルトケの指揮するドイツ軍は、シュリーフェン作戦にもとづき、西部戦線でフランス軍を速攻で下し、とって返して東部戦線でロシアを撃破する計画を立てていた。ひと月もあれば、戦争に勝利するとみていた。
 ベルリンでもウィーンでもサンクトペテルブルクでもパリでも、多くの市民が愛国的熱気のなかで、戦争がはじまるのを歓迎した。やむなく祖国防衛に立ち上がる人もいた。
 どの国の新聞も、敵国へのヒステリーをあおった。
 ロシアでは首都のサンクトペテルブルクがペトログラードと改称された。サンクトペテルブルクという名前はあまりにもドイツ風と考えられたのである。
 ほとんどの人がクリスマスには戦争が終わると思っていた。
 だが、そうはならなかった。戦争ははじめるのは簡単だが、おわらせるのはむずかしいのである。
 しかも、その戦争は帝国主義時代の動向とからんで、ヨーロッパにかぎらず世界じゅうに飛び火していった。


賤視と差別?──『日本の歴史をよみなおす』雑感(3) [くらしの日本史]

 前回は天皇についてふれたが、網野史学の本領が社会史、民衆史にあることはいうまでもない。これまであまり光をあてられていなかった庶民の世界に、網野は目を向ける。
 とりわけ微妙なのは非人や河原者のあつかいだ。
 中世の非人や河原者を、網野はもともと「神仏直属の神人(じにん)、寄人(よりうど)と同じ身分」だったとしている。
 非人は「下人」とは区別される。下人は不自由民であり、奴隷だった。これにたいし、非人は寺社に属し、死体の処理や葬送にかかわる仕事をしていた。
 ケガレを忌む意識は古代から強かった。ケガレは伝染すると考えられたので、清めの手続きが必要になってくる。非人は死穢や産褥、罪穢をきよめる役割を担っていた。京都では清水坂、奈良では北山宿が非人の拠点だったという。
 非人は平民の共同体に住めなくなった人たちだ。捨て子、身寄りのない人、不治の病にかかった人も含まれる。乞食や芸能民も非人に位置づけられていた。かれらの仕事は、世のケガレをきよめることである。なくてはならない職掌だった。
「14世紀までの非人を、江戸時代の被差別部落と同じようにとらえてしまうことは、かなりの誤りを生むのではないか」と網野はいう。非人は神仏の「奴碑」として聖別された存在だった。
 非人のなかでも河原者は独特の存在だ。牛や馬の葬送や解体、皮の処理などに加えて、造園や井戸掘りなどの土木作業にも従事していた。
「放免」と呼ばれる人たちもいる。もともと罪人だったが、文字どおり放免された者で、検非違使(けびいし)のもとで、犯人の逮捕や処刑、葬送にあたった。
 僧形の非人には、かならず丸という名がついている。丸というのは童名だが、髪形も蓬髪で、髻(もとどり)を結っていない。牛飼いや輿・ひつぎをかつぐ役割をはたしていた。八瀬童子が有名だ。鵜飼や猿曳も蓬髪で童姿をしていた。
 網野によると、丸をつけて呼ぶのは、聖俗の境界にあるものをさしているという。そういえば、動物や武器、砦、船にも、よく丸の名がつけられる。
 穢多ということばが登場するのは13世紀後半のことで、もとは餌取がなまったものとされる。このころから、非人、河原者にたいする差別意識がでてきた。
 13世紀末の『一遍聖絵』には、非人や乞食(こつじき)、遊女の姿が数多くえがかれている。網野は「一遍による非人の救済を絵を通して描くことが、この絵巻の作者のひとつのねらいではなかったか」と述べている。
 一遍を擁護し、その布教を支持してきたのが、山賊や海賊と呼ばれてきた「悪人」であったことも指摘されている。
 15世紀になると、非人や河原者を穢多として差別する風習が強まり、さらに江戸時代にはいると、被差別身分が固定されるようになってくる。賤視がはじまったのは近世になってからだといってよい。

 ところで、われわれは、日本では女性は昔から差別され、抑圧されていたと思いがちである。
 どうもそうではなさそうだ。
 1562年に来日し、1597年に亡くなるまで35年間、日本に滞在したルイス・フロイスは当時の日本の女性について、貴重な証言を残している。それによると、日本の女性は処女の純潔を重んじないとか、意のままに離別するとか、夫に知らせず好きなところに出かけるとか、夫とは別に自分の財産をもっているとか、意外に自由だったことが記されている。
 こうした状況はその後もつづき、江戸時代の女性は男性に抑圧されていたという通説はかなりあやしいと網野も述べている。
 歌垣や夜這いの風習も残っていた。女性が遠くにはたらきに行ったり、自由に旅をしたりするのもごくあたりまえにおこなわれていた。
 戦国から江戸時代にかけて「女性が無権利できびしく抑圧されていた」という見方は実態からかけはなれている、と網野はいう。
 中世には、武装して戦う女性もいた。女の地頭や名主、荘官もいた。借上(かしあげ)や土倉と呼ばれる金融業をいとなむ女性もいたのだという。
 女性の遍歴民は早くから確認できる。歩き巫女とか遊行女婦と呼ばれる存在だ。それが10世紀から11世紀にかけて、女性の長者に率いられた遊女の集団となっていく。彼女たちは「天皇や神に直属する女性職能民」であって、その地位はけっして低くなかった。
 そのなかからは商業にたずさわる女性もでてくる。網野は、鎌倉、南北朝時代までは、女性は思うよりはるかに、社会的に活動していたと述べている。女性と男性の社会的地位には実際にはそれほどのちがいがなかったという。
 とはいえ、中国風の律令制度が採用されるようになったころから、建前上は、男が公的な世界を取り仕切るという体制ができていた。
 そして、室町、戦国時代以降、女性の地位は次第に低下していく。家父長制が建前となり、土地財産についても女性の権利が弱くなり、女性が田畠を持つ権利はなくなってしまう。16世紀、17世紀になると、商工業の分野でも女性が表立って活躍することはなくなる。遊女にたいする賤視もはじまっている。
 しかし、江戸時代でも、現実には屋敷の内部や財産を仕切っていたのは女性だったといえそうである。女性の識字率は高かったし、「おかげまいり」のように旅する女性も多かった。商家の女主人は大きな力をもっていた。近世の女性はたしかに抑圧されていたかもしれないが、けっしてたくましさを失っていたわけではない、と網野は語っている。

『負債論』(デヴィッド・グレーバー)書評 [本]

 借金やローンは悩みの種だ。借金なんかしなければよかったと思っても後の祭り。家や車がほしかったり、教育資金や事業資金が必要だったりと、借金には人さまざまな理由がある。商売がうまく立ちゆかず、負債に悩んでいる人も多い。板子一枚下はまさに借金地獄。それなのに、国が1200兆円以上も借金をかかえながら、ひとごとのように平気な顔をしていられるのは、なぜか。
 本書の著者、デヴィッド・グレーバーは、イギリスの名門大学、ロンドンスクール・オブ・エコノミクス(LSE)の人類学教授で、アナキストの活動家としても知られる。「われわれは99パーセントだ」というスローガンをつくり、ウォール街占拠運動の理論的指導者として一躍有名になった。反グローバリズムを唱え、サミットにも反対している。そのグレーバーの代表作が、この『負債論』である。
 本書が問題にするのは、人がいつのまにか信じこんでいる、お金にまつわる道徳意識についてである。「借りたお金は返さなければならない」。だが、ほんとうにそうなのかと問うところから、著者の探求ははじまる。
 そもそも負債、借金とは何か。負債は貨幣で計算され、貨幣で返済を義務づけられる。だとすれば、負債の根源には貨幣がある。著者が負債の歴史を研究しようと思い立ったのは、2008年の金融危機を経験してからだという。それは「念の入った詐欺」以外のなにものでもなかった。さらに、そのさい救済されたのが一般市民ではなく、金融企業すなわち銀行だったことに疑問をいだいた。
 それにしてもすごいのは、本書が負債のもととなる貨幣の歴史を、5000年さかのぼって古代メソポタミアからたどろうとしていることだ。
 経済学では、ふつう貨幣は物々交換から生まれたとされる。その神話を著者は疑う。なぜなら、双方の欲求が一致しなければ成立しない物々交換ほどむずかしいやりとりはないからだ。物々交換の困難さを解消するために貨幣が生まれたという経済学の仮説は、観念上の操作でしかない。
 世界の歴史をたどれば、人類が物々交換をおこなっていた形跡はどこにもみあたらない。分かち合いや贈与、広い意味での貸し借りはあったけれども、物々交換はなかった。実際に物々交換らしきものがおこなわれたのは、かえって近代になってからであり、貨幣崩壊が生じた戦後の混乱期などにかぎられる。
 経済学の考え方は、当初、貨幣には塩や貝殻や干鱈、たばこ、砂糖、釘など、だれもが交換しやすい物品が用いられていたが、次第に金属が貨幣として用いられるようになり、次に紙幣が登場して、信用が発達し、金融システムが形成されていったというものである。だが、それは貨幣のほんとうの歴史ではない、と著者はいう。
 スミスもマルクスも、国家から市場社会を切り離して、経済理論を構築した。そのため、商品の物々交換から貨幣が生じ、さらに貨幣が資本をつくりだしたと考えた。そうではない。商品から貨幣が生まれるのではなく、貨幣があるからこそ商品が出てくるのだ。
 スミスが市場社会ユートピアを構想したのにたいし、マルクスは市場社会ディストピアを暴きだした。スミスは資本の拡張が豊かな社会を生みだすと考えたが、マルクスは資本の蓄積こそ貧富の拡大と社会の分裂を招くととらえた。そのため、スミス流では資本の拡張、マルクス流では資本の解体が求められる。
 だが、著者によれば、スミスもマルクスもまちがっているということになる。実際には、スミスは国家なき市場社会を理想とし、マルクスは市場社会なき国家(プロレタリア独裁国家)を理想としているのだ。その前提となったのが、貨幣は商品交換ないし物々交換から生じたという考え方である。そうでないとすれば、貨幣はいったいどこから生じたのだろうか。
 歴史を振り返れば、貨幣が発生したのは、紀元前3000年ほど前、メソポタミアのシュメール文明においてである。貨幣は官僚によって発明され、都市に貯蔵される物資を集めたり分配したりするのに用いられた。その貨幣は金属片ではなく、粘土板に刻まれたしるし(仮想貨幣)だった。
 貨幣をつくったのは国家にほかならない。国家は常備軍を維持するために、兵士に貨幣を配布し、それで食料品をはじめとする物資を調達させた。いっぽう、国民にたいしては、税を貨幣で払うよう求める。すると、この貨幣は流通しはじめ、市場が生まれるのだ。国家と市場はつきものであり、国家なき社会は市場も持たないと著者はいう。
 メソポタミアでは、神殿の役人が商人たちを国外に派遣し、羊毛や皮革を売らせて、国に足りない木材や金属を買わせていた。そのため仕入れの前貸しとして渡されたのが貨幣である。貸し付けは利子をともなって返済されなければならなかった。やがて、貸し付けは商人だけではなく農民にもおよぶようになる。農民はしばしばその負債に堪えきれず、歴代の王は権力の座につくとき債務取り消しの特赦を発令するのが慣例になった。貨幣と市場は国家によって生みだされ、人びとは国家に借りを返すよう求められる。それが税の原点だと著者は考えている。そして、負債もまた貨幣とともに発生した。
 貨幣の歴史は負債の歴史でもあり、血と暴力によっていろどられている。それを象徴するのが奴隷制だ。奴隷制は古代から存在した。戦争と債務が奴隷を生みだした。奴隷は貨幣によって売買される。メソポタミアも古代ギリシアもローマ帝国も奴隷制の上に成りたっていた。
 ふたたび奴隷制が復活するのは近世になってからである。16世紀から18世紀にかけ、1000万人以上のアフリカ人奴隷が大西洋の向こうに輸送されていった。奴隷制は人間が商品となる貨幣経済時代の到来を象徴していた。そこにはかならず暴力が介在していた。貨幣はけっして純粋無垢ではない、と著者はいう。
 ところで、貨幣といわれて、まず思い浮かべるのは金属貨幣だろう。世界ではじめて硬貨がつくられたのは、紀元前600年ごろ、リュデイア王国(現アナトリア西部)においてである。丸い琥珀金(金と銀の合金)に記章が刻印されていた。まもなく地域をへだてた華北平原、ガンジス川流域、エーゲ海周辺でも、ほぼ同時期に硬貨の鋳造がはじまる。
 硬貨のもつ意味は大きい。硬貨は金属のかたまりであるけれども、そこには数と像がきざまれており、一片の金属以上のものとして流通した。問題は硬貨の保証が主に都市の内部にかぎられることだった。都市の外に出て、無縁の地に出れば出るほど、硬貨はただの金属のかたまりに戻ってしまう。遠方交易はそうした硬貨の難点を乗り越えねばならなかった。とはいえ、金属としての硬貨が出現することによって、貨幣は世界貨幣への一歩を踏みだしたといえる。
 著者が貨幣の出現以来5000年の歴史を5段階に分類し分析しているところが、本書後半の読みどころである。仮想貨幣と金属貨幣の交替に沿って、世界史は次のように区分される。(1)最初の農業帝国時代(前3500年—前800年)(2)枢軸時代(前800年—後600年)(3)中世(600年—1450年)(4)資本主義時代(1450—1971年)(5)現代(1971年以降)。
 この壮大な世界史を詳しく紹介するわけにもいかない。だが、一般的に世界史においては、国家が弱体な時代と強大な時代がくり返し生じ、それにともなって貨幣が仮想貨幣になるか金属貨幣になるかが決まるという。金属貨幣の時代は、国家が強大化し、奴隷制と人間の商品化が進展する時代でもあった。
 著者によれば、資本主義が生まれるのは、15世紀後半、ヨーロッパにおいて、国家から特許状を受けた冒険商人組合、すなわち会社が武装し、海外で冒険をはじめたときからである。国家なき純粋な資本主義など、最初からありえなかった。1520年から1640年にかけ、ヨーロッパにはアメリカから途方もない金銀が流入し、価格革命を引き起こした。その結果、物価が上昇し、囲い込み運動によって農民は土地を追われ、海外植民地に行くか、国内の工場で働くかのどちらかを選ばねばならなくなった。
 著者は、アメリカ大陸に侵攻し、アステカ帝国を倒し、世界史上最大の窃盗行為をおこなった、借金まみれのコルテスの行動こそが、資本主義の原型だったと述べている。そのアメリカでは、疫病と鉱山での強制労働によって、先住民が次々と死んでいった。スペイン人はインディオに重税を課し、支払いのできない者にカネを貸し、返せないものを負債懲役人にしていった。
 資本主義をもたらしたのは国家権力である。国家は市場をつくり、人びとを働かせ、貨幣なしには暮らしていけないシステムをつくりあげていく。そこでは貨幣の暴力が作用し、負債に縛られる人が数多く生まれる。
 紙幣をつくったのも国家だといえる。1694年にイングランド銀行が設立され、はじめて生粋の紙幣が発行された。国王による負債を認める見返りとして、商人たちが銀行券発行の許可を得たのが、そもそものはじまりである。したがって、紙幣とは国家による約束手形のようなものだといってよい。信用されなくなれば、たちまち紙切れになってしまう。
 資本主義は継続的で終わりのない成長を必要とする。5パーセント程度の経済成長が必要だとだれもが思っている。そうした一種の強迫観念が生まれたのは19世紀はじめではなく、むしろ1700年ごろを起点とする近代資本主義の黎明期だった。そのときすでに信用と負債からなる巨大な金融装置のもとで、ヨーロッパ諸国家の海外進出がはじまった。
 資本主義とは貨幣の循環的拡大をめざす国家システムなのだ。それは債権者が次々と債務者をつくりだし、貨幣を回収しつづけることで、はじめて成り立つシステムだといってもよい。それを媒介するのが商品である。貨幣はけっして媒介ではない。労働者は給料どろぼうと指さされないように、一生懸命ものをつくり、売るためにはたらく。そう考えれば、経済学者が称賛するのとは裏腹に、資本主義はずいぶん倒錯した経済モデルだということができる。
 いつも回転しつづけていなければ倒れてしまう資本主義というシステムは不安定で、常に時限爆弾の恐怖につきまとわれている。順調な成功を収めると思えた瞬間に、なぜかがらがらと崩壊しはじめるという「黙示録」的な見通しを、著者は資本主義にいだいている。
 1971年8月のニクソン・ショックによって、ブレトンウッズ合意は崩れ、変動通貨体制がはじまった。これが新しい時代の扉だったことはまちがいない。現在は過渡的な時代だ、と著者はいう。アメリカの時代が終わるのか、新しい中世がくるのか、これから先はなかなか見通せない。変動為替制になったいまも、ドルが基軸通貨であることに変わりはなく、むしろ、これまで以上にドルに振り回される通貨体制ができあがっているかのようにみえる。
 しかし、なにかがはじまっている予感は、仮想貨幣の広がりをみてもわかる、と著者はいう。VISAとマスターカードが登場したのは1968年だが、本格的にキャッシュレス経済がはじまるのは1990年代になってからだ。仮想通貨が国家紙幣をのみこんでしまう時代が訪れようとしている。
 いまはどういう状況にあるか。アメリカの軍事力は巨大なのに、はるかに弱体な勢力を倒せないでいる。ライバルの中国やロシアを圧倒することもできなくなった。好き勝手に通貨を創造しようとしたアメリカの力は、数兆ドルの支払い義務を累積させ、世界経済を全面崩壊寸前にまで追いつめてしまった。いまアメリカの長期国債を支えているのは、おもに日本と中国だ。とりわけ中国の役割が見逃せない。
 戦後のケインズ時代には生産性と賃金が上昇し、消費者経済の基礎がつくられた。だが、1970年代後半以降、サッチャー、レーガン政権が誕生すると、ケインズ主義は終焉を迎え、生産性と賃金の連動性は失われ、賃金は実質的に低落していった。マネタリズムによって、貨幣は投機の対象と化した。そして、賃金が上昇しないなか、労働者はクレジットカードをもつようになり、サラ金にはまり、住宅ローンに追われるようになった。
 個人の負債は、けっして放縦が原因なのではない。カネを借りなければ、まともな生活などできないのだ。家族のために家を、仕事のために車を、その他、教育やさまざまな楽しみのためにカネをかけてはいけないのだろうか。じぶんたちも投資家とおなじように、無からカネをつくりだしてもいいはずだ。すると、どんどんカードをつくり、どんどんローンを借りればいいということになる。その結果、だれもが罠にはまった。2008年のサブプライム危機が発生したのだ。このとき政府が救済したのは一般市民ではない。金融業者は税金で救済された。だが、一般の債務者には自己破産という苛酷な仕打ちが待っていた。
 資本主義は終わりそうだという見通しに直面したが、そのオルタナティブはまだ想像の外にある、と著者はいう。いや、むしろ、そうしたオルタナティブを封じるために、国家は恐怖と愛国主義をあおり、銃(軍備)と監視の社会をさらに強化しようとしている。加えて、グローバル化の進展が、先進工業国の停滞(とりわけ中産階級の没落)と新興国民国家の躍進を生み落とし、それが双方のナショナリズムをかきたてているのだ。
 しかし、いまでも現在の経済活動に秘められているのは自己破壊衝動でしかなく、統制不能の破局が生じる可能性は低くない、と著者はいう。だからこそ、われわれは民衆のひとりとして、歴史的な行為者になることを求められている。だとすれば、「いま真の問いは、どうやって事態の進行に歯止めをかけ、人びとがより働かず、より生きる社会にむかうか、である」と、著者は論じる。
 著者は、聖書にえがかれたヨベルの律法のように、国際的債務と消費者債務を帳消しにせよと求める。借金を返せという原理は、はれんちな嘘だという。すべてを帳消しにし、再出発を認めることこそが、「わたしたちの旅の最初の一歩なのだ」と宣言している。
『負債論』は世界じゅうに大きなインパクトを与えた。世界を想像しなおすことを求めて、本書は終わる。読みやすいとはいえないが、さまざまな想像をかきたてるラディカルな本である。

天皇をめぐって──『日本の歴史をよみなおす』雑感(2) [くらしの日本史]

 網野善彦は、天皇についてもふれている。
 時代は5、6世紀にさかのぼる。まだアニミズムや呪術が盛んな時代。そのころ畿内では、豪族が合議によってひとりの王を立てる大王(おおきみ)の制度が定着しはじめていた。
 しかし、日本でも本格的に国家形成の動きがはじまるのは、唐の影響を受け、仏教や儒教がはいってからだという。天皇という称号がはじめて用いられるのは7世紀後半の天武、持統朝になってからだ。日本という国号もそのころつくられている。
 日本の天皇の特徴は、中国の影響を受けながらも、天命思想を排して、皇孫による血縁継承を基盤にしていることだ、と網野はいう。
 天皇は氏名をもたない。むしろ、氏名をあたえる存在だ。天皇は人に名前をあたえることによって、人を支配したのだ。
 日本という国号は王朝名でもないし、部族名でもない。やまとと読めば、それは王朝名だが、ひのもとと読めば、中国からみた東の方向をさす。どちらかというと、日本というのは、中国を意識してつけられた特異な国号だ、と網野は指摘する。
 天皇は律令制と貴族(太政官)の合議体の上に立つが、それとは別にもうひとつの顔をもっている。それは日の御子、すなわち神聖王という側面で、この点が中国の皇帝ともっともちがう面だ、と網野はいう。
 大和朝廷は租庸調という税の上に成り立っていた。租は初穂の貢納、庸は労役、調は特産物(絹や布、塩、鉄など)の貢納。もともと習俗に由来するこうした税制は、律令制によって、さらに制度化されることになる。
 8世紀ごろは、まだ豪族の代表である太政官の力が強く、天皇もそれに制約されていた。ところが、9世紀になると唐風の文化が栄え、貴族のなかでも藤原氏や源氏が優勢になるとともに、天皇の発言力も増してくる。
 10世紀をすぎると、特定の職を特定の氏がになう体制が定着し、貴族の家格が定まってくる。天皇の職を天皇家が世襲して受け継ぐことがあたりまえになっていく。
 11世紀なかばに、荘園公領制ができあがる。荘園とは中央貴族や地方富豪、寺社などが開拓した農地。だが、国司の管理する公領も同じくらいの広さがあった。荘園も公領も国に税を納めることは変わりない。
 そのころから非農業民も増えてくる。神人(じんにん)や供御人(くごにん)、寄人(よりうど)と呼ばれる人びとだ。神人は神につかえる人びと、供御人は朝廷に食材や調度品を納める集団、寄人は荘園などの保護を受ける商工業者だ。
 日本では仏教が朝廷に深く入りこむのは9世紀ごろからだといわれる。天台宗、真言宗が生まれ、10世紀になると寺院の力が大きくなってくる。
 持統天皇以来、江戸時代まで、天皇の葬儀は仏式でおこなわれており、たいていは火葬だった。即位式にも、かつては密教の儀式が取り入れられていたという。
 皇室と仏教のかかわりは思ったより強い。われわれの知る天皇家の「伝統」、ひいては日本の「伝統」は、まさにつくられた伝統なのだ。
 網野は日本をひとつの国ととらえる常識に疑問を投げかけている。大和朝廷の支配は、現在の北海道沖縄はいうまでもなく、東日本にもおよんでいなかった。
 10世紀になると、平将門の乱がおこり、東国は王朝の支配下から一時離脱する。乱は鎮圧されるが、その後、東北では、安倍氏、清原氏、奥州藤原氏などが勢力を広げ、12世紀末に鎌倉幕府が成立すると、三河、信濃、越後以東は幕府の支配下にはいる。
 網野によると、こうして日本は、西は天皇、東は将軍の治める国になったという。少なくとも、幕府の成立以来、天皇の支配権は東国におよばなくなった。さらに13世紀の蒙古襲来以降、九州にも天皇の支配はおよばなくなる。
 しかし、それでも天皇は完全に権力を失ったわけではない、と網野は指摘する。少なくとも、西国に関しては、朝廷が支配権をにぎっていた。ところが、13世紀後半になると、その支配権もだんだん幕府に奪われ、天皇制は大きな危機を迎える。
 内部分裂も進んでいた。天皇を「聖なるもの」とあがめる信仰もだいぶ薄れてきた。
 そこに登場するのが後醍醐天皇だ。だが、その新体制はあえなく失敗する。そのとき、南朝が滅ばされていたら、ここで天皇家は消えていただろう、と網野は推測している。
 14世紀後半、足利義満の時代にも、天皇家はピンチにおちいる。後醍醐の息子、懐良(かねよし)が明に使いを送り、明から正式に「日本国王」と認められたのだ。義満はこれをつぶし、逆にみずから明に使いを送り、「日本国王」と名乗ることになった。このとき義満は息子を天皇にし、自身は太上天皇になろうとしていたという説もある。
 織田信長が登場したときも、天皇家は廃絶の危機を迎えた。だが、神になろうとした信長は、本能寺で死に、あとの秀吉は天皇と合体して、日本国を継承する方向に舵を切りなおした。徳川家康もその路線を継承する。
 15世紀以降、明治維新まで、天皇は形式上の官位叙任権をもつだけの存在になっていたかのようにみえる。だが、それはけっして権威や権力がなくなったことを意味しない、と網野はいう。ここには日本の社会の特異な構造がある。その構造は近代以降もつづいている。それは、おおやけを代表する存在だということだ。そのあたり、もうすこし深く考えてみる必要がある。

『日本の歴史をよみなおす』雑感(1) [くらしの日本史]

51jHMuJz6OL._SX356_BO1,204,203,200_.jpg
 網野善彦は前から読みたいと思っていたのに、この齢までつい読みそびれてしまった。網野の本は何冊も買ってあるのに、いまだにツンドクのままだ。いや、ひょっとしたら、ぱらぱらと読んだものもあるのかもしれない。情けないことに、それすら忘れてしまっている。
 先日、つれあいの調子が悪いというので車で病院に連れて行き、どうせ検査の待ち時間が長かろうと思って、書棚から手ごろそうな『日本の歴史をよみなおす』(ちくま学芸文庫)を取りだして、ながめてみることにした。2回病院に通ううちに半分ほど飛ばし読みし、残りは家でうとうとしながら目をとおした。
 でも、なにが書いてあったか、もうあらかた忘れてしまっている。困ったものだ。そこで、もう一度、本をぱらぱらとめくりながら、メモなりともとっておこうと思った次第だ。
 網野によると、日本の歴史は14世紀の南北朝動乱期をはさんで大きくわかれるという。そして、15世紀以後はわれわれも何となくわかるが、13世紀以前になると、常識が届かぬ異質な世界になってしまうという。だから、日本史にとって14世紀はだいじな時代なのだ。網野の専門は中世史である。加えてこの人には民俗学の知識がある。それが独自の網野史学、あるいは網野社会史を切り開く素地となったのだろう。
 ぼく自身がわりあい知っているのは、江戸時代以降の歴史である。これまで山片蟠桃や渋沢栄一、柳田国男の評伝を書いてきた(海神歴史文学館を参照)。しかし、江戸以前は高校時代の日本史で教えてもらった程度で、それもほとんど覚えていない。これまで、あまり網野善彦を読んでこなかったのも、意識的に近世以前の歴史をオミットしてきたためかもしれない。
 しかし、断捨離の時期である。といっても、本の整理はまったく進んでいない。つれあいや娘に迷惑をかけたくないから、からだが動くうちに、すこしでも本の片づけをしておきたい。もっとも、つれあいは、お父さんが死んだら、全部ぱっと捨てるから、何も心配はないという。まあ、それでいいのかもしれない。ツンドク本を読むのは、自己満足のためのようなものだ。
 なにはともあれ、網野善彦である。
 日本で村(集村)ができたのは室町時代の14世紀後半以降からだ、というのはちょっと驚く。町もそうだという。それまでも村や町(市場)らしきものはあったが、安定したものではなく、できたり消えたりしていた。
 最初に町ができる場所は港(津、泊[とまり])や川の中洲だった。そして、町と村がきちんとしたかたちで成立するのは、15世紀、16世紀になってからだ。
 ところで、網野史学の醍醐味は、さまざまな常識に疑問を投げかけたところにあるとみてよいだろう。そのひとつが、少なくとも江戸時代まで日本は農業社会だったという常識である。網野はこれに疑問を投じる。
 よくいわれることだが、江戸時代の人口構成は、ほぼ8割が百姓で、1割が武士、同じく1割が町人だとされている。ふつう、百姓とは農民のこととされるから、日本は農民が大多数を占める農業社会だったと理解される。
 しかし、網野にいわせれば、この百姓というのがくせものなのである。百姓には農民だけでなく、山の民や海の民、すなわち廻船や漁業、塩業、その他さまざまな仕事に従事する人も含まれているのだ。まさに百の姓(かばね)なのだった。
 網野がこのことに気づいたのは、奥能登の時国家を調査したときだったという。時国家は豪農として200人くらいの下人をかかえていた。大規模な水田を経営していたのはとうぜんだが、それにとどまらず、じつに多角経営を展開していたのである。浜で塩をつくり、山で炭も焼いていた。鉱山も経営していた。
 特筆すべきは、時国家が手広く廻船業をいとなんでいたことである。松前から昆布を大坂に運び、塩を松前に売り、炭を全国に運び、金融業にも手をだしていた。多角的企業家といってもよい。しかし、身分は百姓である。
 さらに、網野は水呑(頭振)と呼ばれた層にも注目する。ふつうは自前の田をもたない貧農ないし小作人と理解される。ところが、能登の柴草屋は廻船業者でありながら、身分的には年貢を賦課されない水呑とされていた。つまり、村に住んでいて、土地をもてなくても、土地をもつ必要もない人も、一律に水呑と区分けされていたことになる。
 こうして網野は、能登の村民、すなわち百姓が農業にかぎらず、手広く商売をいとなみ、ものづくり(たとえば漆器や素麺の製造)に従事していたことを実証したのである。
 能登は日本海交易の拠点だった。だが、百姓が商売をしていたのは、能登だけではない。日本全国がそうだったといえるだろう。そうなると、江戸の終わりまで、日本が農業社会だったという見方は思い込みだったということになる。
 そもそも村を農村と考えるのがまちがいなのだ。
 市場や観光の拠点として、事実上、町だといってもよい村も多かった。
 それに百姓の年貢も米とはかぎらなかった。絹、布、塩、鉄、紙、油なども年貢として納められている。
「江戸時代に町と認められたのは、城下町、それに堺や博多のような中世以来の大きな都市だけで、実態は都市でも、大名の権力とかかわりのない都市は、すべて制度的には村と位置づけられています」と、網野は語っている。
 ほんらい百姓には農民という意味はなく、それは庶民全般をさすことばだった。だが、日本の伝統的国家は租税の基礎を水田におき、近世になると石高制を採用したために、農本主義的なイデオロギーに染めあげられた。そのため非農業的な生業にも携わる庶民の姿が無視されて、画一的に農民として把握されてしまったのだ、と網野はみている。
 ところで、日本の社会に金属貨幣が流通しはじめるのは13世紀から14世紀にかけてだという。それまでも8世紀から10世紀にかけ、和同開珎をはじめ、さまざまな銅銭や銀銭(いわゆる皇朝十二銭)が鋳造されていたものの、それらは流通しなかった。皇朝銭は庸や調などの租税、あるいはまじないとして利用されたのにとどまる。そのころ交換手段として用いられていたのは、もっぱら米や絹だった。
 10世紀になると、政府の弱体化により日本では貨幣が鋳造されなくなる。ところが12世紀から13世紀にかけ日中貿易が盛んになると、宋から大量の貨幣がはいってくる。そして13世紀後半から14世紀にかけ、宋銭による支払いが多くなってくる。ただし、米も価値尺度としての機能を失ってはいない。
 15世紀になると、銭は貨幣として本格的に機能するようになる。
 だが、その前に市場が生まれていなければ、銭も流通するわけがない。
 すると、市とはそもそもどうやって生まれたのだろう。
 もともと、市は河原や川の中洲、浜、坂などにつくられていたようだ。虹の立つところに市を立てるというならわしもあった。市を立てる場所は、「神の世界につながる場」であり、ものも人も世俗に縁から切れてしまう「無縁」の状態になる場だと考えられていた、と網野はいう。このあたりなかなか神秘的である。
 網野は利息の起源を「出挙(すいこ)」に求めている。共同体の首長が、神聖な種籾を農民に貸し、農民は種籾にお礼の稲を加えて、倉に戻すというのが、出挙だ。一種の税といってよい。これが神社の場合は、初穂をささげるということになる。
 交易や金融はもともと神仏の世界とかかわりをもっており、中世では商人や金融業者、職人はおもに寺社に直属していたという。寺社に直属する場合は、寄人(よりうど)や神人(じんにん)と呼ばれ、天皇に直属する場合は供御人(くごにん)と呼ばれていた。彼らは身分的には百姓と区別され、服装、髪形もちがい、自由通行の特権を保証されていた。
 ところが、14、15世紀になると、神仏の領域にあった交易や金融が次第に世俗化してくる。それは貨幣の流通とも関係しているのだろう。寺社に頼っていた商人や職人は、15世紀になると、守護大名のような世俗的権力に特権の保証を求めるようになる。14世紀、15世紀が歴史の変わり目だというのは、神仏信仰意識が薄れ、世俗化が進むということだろうか。それ以降は、われわれにも理解しやすい時代がはじまる。
 なお、交易に関していうと、鎌倉・室町時代における勧進聖(かんじんひじり)の役割が見逃せない、と網野は指摘している。勧進聖は寺を建てるために寄付金を集めていただけではなく、手工業者や職人をも組織していたという。貿易商人としての仕事もし、金融もおこなっていた。
 無縁所と呼ばれる寺院は、一種の商業・金融センターになり、その門前に商工業者が集まるようになった。このあたり寺社の役割は、中世ヨーロッパのキリスト教修道会の役割ともよく似ている。
 しかし、16世紀、17世紀になると、寺社は政治的権力のもとに完全に組みこまれ、天皇の権威も低下して、武士の時代がやってくる。それにともなって、手工業者、商人、金融業者は、実質的に大きな力をもっていながら、低い地位しか与えられず、むしろ賤視されるまでになった、と網野は指摘している。
 われわれを庶民の世界にいざなってくれるところに網野史学の醍醐味がある。
 もうすこし読んでみよう。
[これから両親を介護するため(といってもたいして何もできないのですが)しばらくいなかに帰ります。ブログはしばらくおあずけです。]

デヴィッド・グレーバー『負債論』(まとめ) [本]

   1 はじめに

 デヴィッド・グレーバーは、イギリスの名門大学、ロンドンスクール・オブ・エコノミクス(LSE)の人類学教授で、アナキストの活動家として知られている。「われわれは99パーセントだ」というスローガンをつくり、ウォールストリート占拠運動の指導者として一躍有名になった。反グローバリズムを唱え、サミットにも反対している。そのグレーバーの代表作が、この『負債論』である。
 本書が問題にするのは、人がいつのまにか信じこんでいる、お金にまつわる強迫的な道徳意識についてである。「借りたお金は返さなければならない」。そのためには、多少、人が死んでも仕方がない。しかし、それはほんとうに正しいのかと疑問を発するところから、著者の探求ははじまっている。

〈消費者負債はわたしたちの経済の活力源である。近代のあらゆる国民国家は赤字支出の上に成り立っている。負債は国際政治の中心的課題にまでなっている。だが、そもそも負債とはなんなのかを理解している人間、または負債についてどう考えたらよいかわかっている人間はどこにもいないようにみえる。〉

 これが『負債論』の問いである。
 負債とはなにかがわかっていないにもかかわらず、「負債は返さなければならない」という道徳意識が人びとをしばりつけている。
 植民地にたいする宗主国の債務の押しつけは、いまも第三世界を圧迫しつづけている。そのくせ、万年債務国であるアメリカ「帝国」は、世界じゅうから「貢納」を求めて、そのうえにあぐらをかいている、と著者はいう。
 金を借りても平気な国と、金を借りて苦しむ国とのちがいはどこにあるのだろうか。
 金を貸して権威をふるう階級と、金を借りて黙々とはたらく階級がいる。その関係は代々、永久につづくのだろうか。
 中世のキリスト教世界では、金貸しは罪深い存在とされてきた。
 それはヒンドゥー教の世界でも、仏教の世界でも同じである。
『日本霊異記』には、強欲な広虫女(ひろむしめ)なる金貸し女が死んで、醜い怪物になる物語が残されている。
 しかし、こうした物語の背景には、高利貸から金を借りるなという教訓めいた説教もひそんでいる。
 貨幣によって計量され、返済を義務づけられ、強制されることが負債の特徴だといえる。すごいのは本書が、負債のもととなる貨幣の歴史を古代メソポタミアからたどろうとしていることだ。
 著者が負債の歴史を研究しようと思い立ったのは、2008年の金融危機を経験してからだという。それは「念の入った詐欺」以外のなにものでもなかった。さらに、そのさい救済されたのは、一般市民ではなく、金融企業、すなわち銀行だったことに疑問をいだいた。
 著者はアナキストらしく、債務の帳消しと金融支配体制の解体を求める。
 だが、同時により根源的な大きな問いを投げかける。「人間とはなにか、人間社会とはなにか、またどのようなものでありうるのか」と。
 本書では、さまざまな神話に疑問が呈される。物々交換なるものは存在したのか。国家と市場は、それぞれ独立した存在だったのか。人間は交換を運命づけられているのか。貨幣はどのように発生したのか。
 こうした問いを秘めながら、「過去5000年間の負債と信用についての実在の歴史」をたどろうというのである。

  2 物々交換の神話

 経済学では、ふつう貨幣は物々交換から生まれたとされる。
 ほんとうにそうだろうか、と著者は疑う。
 なぜなら、双方の欲求が一致しなければ成立しない、物々交換ほどむずかしいやりとりはないからだ。物々交換の困難さを解消するために貨幣が生まれたという経済学の仮説は、あくまでも観念上の操作にもとづいている。
 紀元前330年ごろ、アリストテレスはすでにこう考えていた。もともと家族は必要なものをすべて自前でつくっていた。ところが、たとえば、ある家族は穀物だけをつくるようになり、別の家族はワインだけをつくるようになって、たがいに商品を交換しあうようになり、そのための道具として貨幣が登場したのだ、と。
 アダム・スミスの『国富論』の展開も、アリストテレスのこうした考えを引き継いでいる。
 ところが、スミス以前の大航海時代に、スペインやポルトガルの冒険家が世界じゅうを探査しても、物々交換をじっさいにおこなっている場所は、どこにも発見できていなかったのである。
 にもかかわらず、スミスは商品を交換するために貨幣が必要になったという理論を組み立てた。そして、マルクスも商品から貨幣が生まれ、貨幣から資本が生まれたと考えた。
 分業によって、さまざまな職業が生まれ、商品がつくられ、貨幣を媒介として、多種多様な商品が交換され、社会が発展していくというのが近代の商品世界の考え方である。
 当初、貨幣には塩や貝殻や干鱈、たばこ、砂糖、釘など、だれもが交換しやすい物品が用いられることもあった。しかし、次第に金属、さらには鋳貨が貨幣として用いられるようになり、次に紙幣が登場して、信用が発達し、金融システムが形成されていく。
 これが経済学のとらえ方だ。
 ほんとうなのだろうか。
 著者はここで人類学の知見を導入し、そもそも物々交換など存在しなかったと論じる。
 ルイス・ヘンリー・モーガンは、19世紀半ばに北アメリカのイロコイ6部族連邦を調査し、ロングハウス(いわば長屋)にものが貯蔵され、それらが分配される様子を記した。
 ここでは、ものの分配はあったが、物々交換などはなかった。
 そして、交換がなされる場合も、やっかいな手続きを必要とする。
 レヴィストロースはブラジルのナンビクワラ族の交換について記述している。ふだん100人ほどの集団(バンド)でくらすかれらは、相手の集団と交易をおこなうさい、まず宴会を開く。そこで相手の持ち物(たとえば首飾りや斧)をほめちぎり、さまざまな駆け引きをへて、最後はそれをもぎとるのだという。
 交換といっても、生やさしいものではない。それはにぎやかな宴会のなかでおこなわれるが、一歩まちがえれば戦争に転じかねない緊張感をはらんでいる。
 物々交換というより、贈与の強制といった趣がある。
 オーストラリアのグヌィング族は、キャンプ地の宴会で、歌ったり踊ったりしながら近隣の部族と、ものを交換しあう。それは性の饗宴でもあり、ビーズやたばこが循環し、布地が行き交う。つまり、ここでも宴会があって、はじめて交易がなされるのだ。
 部族間でものが交換されるのは、日常的なことではない。

〈ある物をべつの物と直接に取り替えて、そこからありうるかぎりの利益を引きだそうとするようなふるまいは、ふつうどうでもよい人間、二度と会うこともない人間との関係の様式である。……それに対して、隣人や友人というような気がかりな相手には、公平で親切な交流を求め、その人の個人的な必要、欲望、状況に配慮するだろう。ある物をべつの物と交換するにせよ、それを贈与とみなしたがるはずだ。〉

 交換はよそよそしい。むしろ贈与が基本である。経済学が出発点とする物々交換は、現代社会の交換関係を抽象化し、人類社会一般に投影した幻想でしかない、と著者はいう。
 贈与は、相手からほしいものをもらい、相手にほしいものをあげるという一方的な関係である。その時点で、交換は成立しない。いつかお返しをすればよいのだ。それが、部族社会のあり方だ。
 だとすれば、ここに貨幣がはいりこむ余地はない。

〈物々交換がことさら古い現象ではないこと、真に普及したのは近代においてはじめてであること、実のところ、そう考えるには正当な理由がある。知られているほとんどの事例において物々交換の起きるのは、貨幣の使用に親しんでいるが、なんらかの理由でそれをふんだんにもちあわせていない人たちのあいだにおいてなのだ。手の込んだ物々交換のシステムの出現するのは、しばしば国民経済が崩壊するときである。〉

 物々交換が生じるのは、むしろ近代だ。なにかの拍子に、これまで使っていた貨幣が使えなくなったときに、物々交換が発生する。
 日本でも、敗戦直後、都会の主婦は着物をかついで、村に食糧の買い出しに出かけたものだ。
 かつてニューファンドランド島では、出稼ぎの漁師が干し鱈を商人に渡して、商人から必需品をもらうという、一見、物々交換のような場面がみられた。だが、それは物々交換だったのか、と著者は疑う。
 じつは、ニューファンドランドでは、決定的に硬貨が不足していた。そこで、商人は干し鱈の市場価格を計算したうえで、それを受け取り、漁師に価格に見合った必需品を手渡したのである。まるで干し鱈を貨幣に見立てたかのように、物々交換が発生したのだが、実際にここでおこなわれていたのは、一種の信用経済にほかならなかった、と著者はいう。
 歴史を振り返れば、貨幣が発生したのは、紀元前3000年ほど前、メソポタミアのシュメール文明においてである。貨幣は官僚たちによって発明され、都市国家に貯蔵された物資を差配するために用いられた。
 その貨幣は金属片ではなく、粘土板に刻まれたしるしである。
 したがって、スミスのいうように、貨幣は商品の自然な取引のなかから生まれたわけではない。

〈物々交換からはじまって、貨幣が発見され、そのあとで次第に信用システムが発展したわけではない。事態の進行はまったく逆方向だったのである。わたしたたちがいま仮想貨幣(ヴァーチャル・マネー)と呼んでいるものこそ、最初にあらわれたのだ。硬貨の出現はそれよりはるかにあとであって、その使用は不均等にしか拡大せず、信用システムに完全にとってかわるにはいたらなかった。それに対して物々交換は、硬貨あるいは紙幣の使用にともなう偶然の派生物としてあらわれたようにみえる。歴史的にみれば物々交換は、現金取引に慣れた人びとがなんらかの理由で通貨不足に直面したときに実践したものなのだ。〉


  3 原初的負債

 経済学では、「貨幣とは交換を促進させるべく選ばれたひとつの商品であり、じぶん以外の商品の価値を測定するために使用されるにすぎない」とされる。
 ところが、実際は貨幣がなければ商品も存在しないし、政治権力がなければ貨幣もない、と著者はいう。
 著者はここで貨幣の起源として、たとえば軍隊を想定している。国家は常備軍を維持するために、兵士に貨幣を配付し、それで食料品をはじめとする物資を調達させる。いっぽう、国民にたいしては、税を貨幣で払うよう求める。すると、この貨幣は流通しはじめ、市場が生まれるのだ。国家と市場はつきものだ、国家なき社会は市場ももたない、と著者はいう。
 貨幣の発生は、植民地の経験からもたどることができる。フランスは植民地としたマダガスカルでマダガスカル・フランを発行し、プランテーションをつくり、そこで住民をはたらかせては、税の支払いを求めた。こうして、貨幣はいやおうなく市場をつくりだし、植民地から解放されたいまも、人びとは市場にしばられるようになった。
 1971年にリチャード・ニクソンがドルを金から切り離し、変動通貨制に移行して以来、貨幣は法定不換紙幣となった。いまでは貨幣を国家=信用理論でとらえる見方がますます幅をきかせるようになっている。
 国家の発行する紙幣のもとで、国民は市場で経済活動をいとなみ、国家に税金を支払う。税金を払うのは、国家に治安と行政サービスを求めるためだというのが一般的な理解である。しかし、そもそも人はなぜ国に税金を払わなければならないのだろうか。
 著者は「原初的負債論」という考え方を紹介する。
 人は生まれたときから、いってみれば社会や両親、家族に負債を負っている。だから、人は生きているかぎり、その負債を返していかなければならない。貨幣はまずもって、ささげものである。
 実際、著者は「どの地域であっても貨幣は神々への捧げものに最もふさわしい物品から発生しているようにみえる」と記している。日本語でも、貨幣の幣(ぬさ)は、神へのささげものをさしている。
 子安貝などのような原始通貨が物の売買に使用されることはめったにない。著者によれば、「それらは事物の入手にではなく、主として人びとのあいだの関係の調整のため、とりわけ結婚の取り決めや、殺人や傷害から生じるいさかいの調停のために使用される」。
 原始通貨は長くつづく関係への確認、あるいはこれからも負債を返しつづけるという象徴のようなものとなる。そういえば、結納の品も両家の末長い関係をつなぐ象徴にちがいない。つまり、ささげものである。
「つまるところ、わたしたちは自己存在すべてを他者によっている」。われわれがここにあるのは、すべてだれかのおかげなのだ。だとすれば、社会に借りを返すという意識がどこかに生じてきても不思議ではない。
 だが、そもそも優越する者、すなわち神や王に負債を返す必要はないはずだ。古代世界では、自由市民が国に税を払うことはふつうなかったという。税を課せられたのは市民以外である。
 だから受けた恩義にたいし、借りを返すところから、貨幣が発生するわけではないのだ。
 ここで著者はシュメールやバビロニアのあった古代メソポタミアに思いをはせる。
 古代メソポタミアの流域は豊かで、多くの穀物がとれ、おびただしい家畜が飼われ、羊毛や皮革がつくられていた。しかし、石や木、金属は不足し、輸入しなければならなかった。そこで、神殿の役人は、商人たちを国外に派遣し、メソポタミアの産物を売らせて、足りない資材を買わせた。
 そのための前貸しとして渡されたのが、貨幣である。貸し付けは利子をともなって返済されなければならなかった。やがて、貸し付けは商人だけではなく農民にもおよぶようになる。農民はしばしばその負債に堪えきれず、歴代の王は権力の座につくとき債務取り消しの特赦を発令するのが慣例になった。
 ここでふたたび著者は原始的負債の論議に戻って、人が生まれたときから社会に負債を負っているという主張のいかがわしさに論及している。実際、社会という概念はいいかげんであって、いかようにも解釈できる。だが、人は社会から負債を返すよう求められる。
 紀元前500年から400年ごろに成立したとされるインドのヴェーダでは、負債にたいする考え方はもっと明快だった、と著者はいう。
 人が負債を負っているのは第一に宇宙の力にたいしてであり、第二に文化を授けてくれた人にたいしてであり、第三に育ててくれた両親や祖父母にたいしてであり、第四に周囲の人びとの寛容にたいしてである。それらにたいして、わたしはお返しをしなければならない。だが、それは金銭によってなされるのではない。わたしは自身が先達となり、祖先となり、人道を守り、祭儀をおこなうことによって、負債を返すのである。
 であるなら、原始的負債から貨幣が発生するわけではない。
 だが、ここに国家が登場してくると、負債をめぐる論議は一変する。
 19世紀の社会学者、オーギュスト・コントは、人は社会への債務者として生まれると論じ、人は社会に奉仕することで、社会への返済義務をはたさなければならないと述べた。コントのいう社会とは、国家そのものだといってもよい。
 著者はこう書いている。

〈市場と国家は正反対のものであり、それらのあいだにこそ人間の唯一の可能性があると、わたしたちはたえまなく教えられてきた。しかしこれはあやまった二分法である。国家は市場を創造する。どちらもたがいになくしては存続しえないし、少なくとも今日知られているようなかたちでは存続しえないのである。〉

 貨幣と市場は国家によって生みだされ、そこで生活をいとなむ人びとは、国家に借りを返すよう求められる。それが税の原点だと考えられる。


続きを読む