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資本と産業組織──マーシャル『経済学原理』を読む(10) [経済学]

 久しぶりにマーシャルの「原理」を読む。前にメモした部分をすっかり忘れてしまっている。困ったものだ。じつに困った。それでも、こんどもメモしておかないと、また忘れてしまうのが目に見えている。
 公開するほどの代物ではない。あくまでも年寄りの備忘録、たまった本の整理に尽きる。それが遅々として進まぬのが自分でもおかしい。もう手遅れ、まもなく「はいそれまでよ」のお声がかかりそうだが、それはそれとして、愚鈍ながら、すこしでも本を読みつづけることができれば幸いと思っている。
 生産要因と問えば、ふつう土地、労働、資本との答えが返ってくる。土地と労働についてはこれまでみてきた。きょうからは資本の話だ。マーシャルは、資本は富のなかから生まれて、産業組織をかたちづくり、また富をつくっていくと考えている。
 そこでまず富の発達をみていこう。
 マーシャルは人間の富は徐々に発達してきたという。未開時代の富は、狩猟漁獲用具と装飾品、衣服と小屋、それに家畜くらいなものだった。だが、村がつくられ、農業が営まれるようになると、これに土地や井戸が加わるようになった。宝石や貴金属も貴重な富となった。王侯があらわれると、宮殿や道路橋梁、運河用水施設も登場し、都市が出現する。だが、都市の人口は農村にくらべて、ごくわずかだ。水運業や建築業が発達してくるが、仕事に用いられる道具も、ごく簡単なものだった。
 イギリスでは、18世紀ごろから農業機具が次第に高度化してくるが、水力、ついで蒸気が動力として利用されるようになると、18世紀末から19世紀にかけ、さまざまな産業部門に高価な機械が導入されるようになり、大工場が出現する。鉄道や船舶、電信電話、水道、ガスも普及してくる。機械は人間の労働生産性を飛躍的に拡大させた
 文明が進むにつれて、人びとはいつも新しい欲望をもつようになり、それを満たすための新しい方法を編みだしてきた。その欲望はとどまることを知らない。マーシャルは現代人が定常状態──すなわち「充足すべき新しい主要な欲望もあらわれず、将来に備えて有利に現在の資力を投資する余地もなく、富を蓄積しても報酬が得られないようになる」状態──に近づいていると信じてよい理由はどこにもないと述べている。
 マーシャルはあくまでも楽観的だ。資本が投下され、生活必需品を超える生産物がつくられるようになると、余剰が増大し、富が蓄積され、知識も増大してくるという。
 将来への備えや、合理的な貯蓄の重要性を強調することも忘れていない。だが、保障のないところに貯蓄は存在しない。収奪や侵略などがあれば、貯蓄などたちまち消えてしまうのだ。マーシャルはまた、かつての救貧法は、労働者の自助努力をそこない、労働者階級の進歩にとっては大きな損害となったとも述べている。
 マーシャルは貨幣経済が安直な消費とぜいたくをもたらしたことを認めるいっぽうで、それが将来にたいする貯蓄をも容易にし、個人が資本を活用する(つまり商売をする)機会を増やしたことも指摘している。富をつむのは、みずからの力を誇示し、社会的地位を上昇させるためという見方があるかもしれないが、ほんとうは家族愛がむしろ動機になっていることが多いというあたりは、いかにもマーシャルらしい。
 貯蓄の源泉は余剰所得といってよいが、19世紀初頭の商工階級にとっては資本利得こそが主要な貯蓄の源泉だった。とはいえ、地主や知的職業人、労働者の貯蓄も無視できない。「賃金労働者への配分を増し資本家への配分を減少させるような富の分配の変化は、他の事情に変わりがなければ、物的生産の増大を促進するし、物的富の蓄積を目にみえるほど抑制することはない」というあたり、マーシャルは単純に資本家の味方とはいえない。
 マーシャルにとっては、富の公平な分配と、民主主義にもとづく公共資産の蓄積こそが、豊かな社会を築く源泉と考えられていた。そのためには労働組合や協同組合、互助組合、貯蓄銀行の役割が重要だとしている。
 ところで、人が貯蓄するのは、将来、稼得力が低下するのを想定して、そのときに備えるためである。その点、富の蓄積は「人の展望性、すなわち将来をいきいきと思い浮かべる性能に依存している」と、マーシャルはいう。とはいえ、富を蓄積するには、将来のために働き、享受をくりのべること、すなわち「待忍」が必要になってくる。
 貯蓄が利子率と関係するのはいうまでもない。一般的に利子率の低下は、貯蓄を減少させる傾向がある。逆に利子率が上がれば貯蓄の意欲を高めることは普遍的な準則だ、とマーシャルは論じている。
 このあたり、いまの日本はどうなのだろうと思わぬでもないが、いまは先を急ごう。
 次に検討されるのは産業組織についてである。資本は産業組織(企業)に体現されるとするのが、マーシャル経済学の特徴といえるだろう。
 マーシャルは生物学とのアナロジーで、社会の発達をとらえる。
 社会が生き延び、発展していくには、機能の分化が必要だ。政治と経済、文化の分化もそのひとつだろう。それが産業面においては「分業すなわち専門的技能・知識および機械の発達」となり、同時に「総合」すなわち金融や交通、通信手段の発達となってあらわれる、とマーシャルは論じる。
 近代社会の特徴は分業と総合にあるというわけだ。これは組織面においてもあてはまる。
 マーシャルはダーウィンの適者生存の法則を念頭におき、有機体と組織をアナロジーとしてとらえている。組織が生き残っていくには、厳しい生存競争に耐えねばならず、残念ながら、労働者の経営参加や利潤分配要求に安直に応じるわけにはいかない。
 生存競争で組織が生き残っていくには、「自己犠牲」の性向、国においては愛国心、企業においては愛社精神のようなものが必要だ。また組織が長く存続するためには、時に寄生しなければならないこともあるが、何よりも独立自尊の精神がなくてはならない、とマーシャルはいう。
 古い時代においては、宗教、政治、軍事、経済で密接につながる人間集団を統制していくには、身分制(ないしカースト制)が有益だった。だが、こうした制度を守りつづけた国家は、けっきょく硬直し、進歩から取り残されていった。
 これに代わったのが、近代の階級制度だ、とマーシャルはいう。それは流動的で、環境に応じて変化するものだ。
 だが、職階をなくすわけにはいかない。分業と総合の仕組みをもつ近代社会にあっては、人はそれぞれの職階で、自己犠牲をもともなう貢献が求められるのだ、とマーシャルは論じる。
 とはいえ、マーシャルは、組織は常に硬直する恐れがあるという。そのため、組織は進歩する方向をさぐりつづけなければならない。だが、あまりに急激な変化は、かえって組織を不安定なものにしてしまう可能性がある。

〈進歩は徐々におこなわれなくはならない。単に物質的な視点からみても、生産の直接の能率をほんのすこし向上させるような変化でも、もし富の生産がいっそう能率的で分配がいっそう平等な組織に向かって人間をすすませるようなものであれば、そのような変化は実現させてみるだけの価値がある。どのような組織にせよ、産業の下級な職階にあるものの性能をむだにしてしまうような組織にたいしては、重大な疑問をなげかける余地が多分にあるのだ。〉

 マーシャルは、組織は組織のためにあるのではなく、あくまでも社会と人間のためにあると考えている。

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最期の日々、帝国の分割──『オスマン帝国の崩壊』を読む(5) [本]

 アラブの反乱がおこったあと、オスマン帝国がもっとも恐れていたのはシリアの情勢だった。シリアといっても現在のシリアではない。当時のシリアはいまのシリア、レバノン、イスラエル、パレスチナ、ヨルダンを含んでいた。
 オスマン帝国はまだシナイ半島を実効支配している。パレスチナ南部のベエルシェバからシナイ半島奥部までオスマン鉄道が敷かれていた。
 シナイ半島を維持できれば、イギリス軍をエジプトに閉じこめ、アラブの反乱をヒジャーズにとどめることができる。オスマン帝国の軍事指導者たちはそうみていた。だが、イギリスも甘くない。シナイ半島北部に鉄道やパイプラインを敷きはじめていた。
 アラブの反乱が発生したあと、1916年8月にトルコ軍はシナイ半島のイギリス軍陣地攻撃を開始した。だが、完敗し、シナイ半島地中海側拠点のエル・アリーシュに撤退した。
 シナイ半島北部の鉄道建設を進めたイギリス軍は、12月下旬にエル・アリーシュを占拠し、周辺のトルコ軍陣地を一掃した。いっぽうシナイ半島から追いだされたトルコ軍はパレスチナ南部に防衛線を引いた。
 このころメソポタミア戦線でも、状況が大きく動いていた。クートで勝利したオスマン帝国のハリル・パシャは、ロシアのバグダード攻撃にも備えなければならなかった。ハリルはロシア軍の撃退に全力をそそぐ。そうこうしているうちに、イギリスのメソポタミア遠征隊の力が回復してくる。イギリス軍は前線まで鉄道を延長し、輸送力を強化していた。
 1916年12月中旬、イギリス軍はクートへの攻撃を開始する。トルコ軍の反撃はすさまじかったが、翌年2月下旬、英領インド部隊がついにクートを占領した。退却するオスマン軍には、ティグリス川をさかのぼるイギリス海軍の砲艦から激しい砲撃が浴びせられた。
 2カ月半にわたる戦闘で、イギリス軍はハリル・パシャの指揮するオスマン帝国の防衛軍を打ち破った。だが、ロンドン政府は以前の失敗に懲りて、バグダードへの進撃には慎重だった。
 英領インド軍のなかには、トルコ軍の足並みが乱れているうちに迅速にバグダードを占領すべきではないかという意見が強かった。ロシア軍が春の攻勢でイギリス軍より先にバグダードを占領するのではないかという懸念も強かった。
 そこで、メソポタミア遠征軍のモード総司令官は、1917年3月6日、ついにバグダード攻略に乗り出す。オスマン軍の守備はさすがに堅牢だった。しかし、イギリス軍は圧倒的な兵力と火力でオスマン軍を追い詰めていく。ハリル・パシャは撤退を決意、3月11日にバグダードは陥落した。
 次はエジプト遠征隊の出番だった。3月26日、アンザック(オーストラリア・ニュージーランド)騎兵隊を中核とするイギリス軍は、パレスチナのガザに侵攻。だが、トルコ軍の激しい反撃に遭い、撤退を余儀なくされる。
 4月には、ふたたびガザ戦争がはじまる。イギリス軍はこの戦闘でガス弾を用いたが、あまり効果はなかった。トルコ軍の前線に近づいたイギリス軍部隊に、砲弾とマシンガンが浴びせられた。3日にわたる戦争で、オスマン軍は前線を維持し、イギリス軍は多くの死傷者をだして後退。こうして、ガザ攻略は失敗のうちに終わった。
 いっぽうメディナの駐屯地にオスマン軍を閉じこめたアラビアのハーシム軍は紅海北部の港町ワジュフまで勢力を広げた。オスマン軍はメディナから撤退しようとしていた。これを妨害するため、ハーシム軍はヒジャーズ鉄道をあちこち爆破する。当面はトルコ軍をメディナに閉じこめておくほうが、ハーシム軍にとっては得策だった。
 北に進出するため、ハーシム家のファイサルは腹心を偵察に出した。イギリスの情報将校T・E・ロレンスはそれに同行し、砂漠の涸れ谷、ワーディー・スィルハーンにやってくる。ファイサルの腹心シャリーフ・ナースィルは、部族兵を集めた。6月末、600人ほどの小部隊は紅海の港町アカバに向かった。ロレンスはこの部隊とともに行動する。アカバを落とせば、メディナを除くヒジャーズ州全体がハーシム家の手にはいるし、イギリス軍との連絡も容易になるだろう、とロレンスは思った。

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[アカバに向かうシャリーフ軍。ロレンスが撮影。本書より]

 7月6日、シャリーフ軍の奇襲を受け、アカバのトルコ軍砦は制圧された。この戦功によりロレンスは英雄となり、「アラビアのロレンス」として知られるようになった。
 大英帝国エジプト遠征軍の新司令官エドムンド・アレンビーは、ロレンスとハーシム軍のつながりをできるだけ利用しようとした。いっぽうオスマン軍は狡猾にも領内のアラブ人を組織し、ハーシム家と対抗させようとした。
 オスマン帝国陸相のエンヴェルは6月24日、シリア北部のアレッポに司令官たちを集め、バグダード奪回を提案した。アレッポでトルコの電撃軍団が結成された。だが、この軍団はけっきょくバグダードに向かわない。危機が迫ったパレスチナ戦線に送られることになる。
 アレンビーのエジプト遠征軍は10月下旬、ガザの南東ベエルシェバを攻撃し、ここを奪うと、ガザのオスマン軍陣営に砲撃をしかけた。トルコ軍は電撃部隊を出撃させた。だが、イギリス軍に押され、11月7日に撤退。イギリス軍は11月11日にガザに入城した。
 オスマン軍はイギリス軍のエルサレム占領を阻止するため、防衛線を再構築した。だが、勢いづいたアレンビー軍は、エルサレム周辺を次々と攻略していた。
 11月9日に、ロンドン政府は「バルフォア宣言」を発表していた。イギリスは「ユダヤ人がパレスチナの地に民族的郷土を樹立すること」に賛成し、「そのために最大限の努力を払う」と謳われていた。シオニズムを支持することによって、イギリスは有力ユダヤ人の支援を取りつけるだけではなく、戦争終了時にパレスチナをイギリスの管理下におきたいと思っていたのだ。
 エルサレムがイギリス軍に降伏したのは12月9日のことである。オスマン軍もエルサレムを戦火にさらすのは避けたかった。そのため、戦うことなく撤退を決めた。これによりオスマン帝国による401年にわたるエルサレム支配は終わった。
 著者はこう書いている。

〈エルサレムの陥落は、第一次大戦の中東における大きな転機となった。1917年末までに、オスマン帝国は象徴的価値の高いメッカ、バグダード、エルサレムの3つの都市を明け渡した。こうした喪失、とりわけメッカとエルサレムを失ったことは、オスマン帝国のジハードに対する強烈な打撃となった。〉

 1917年11月にロシア革命が発生する。当初は、これでオスマン帝国が救われるのではないかとみる向きもあった。そもそもオスマン帝国がドイツと軍事同盟を結んだのは、ロシアの領土拡大の野心を恐れたからである。これにたいし、ロシアの新政権は戦争から撤退し、これまでに獲得した領土を放棄すると約束した。
 オスマン帝国とロシアは12月18日に休戦協定を結んだ。とはいえ、ロシアの占領地域ではしばらく混乱状態がつづいた。
 1918年3月には、ブレスト=リトフスク条約が結ばれた。オスマン帝国政府はかつてロシアに奪われたコーカサスの領土を奪還できるとの希望すらいだいた。
 ロシア革命によって、サイクス=ピコ協定の存在が暴露された。オスマン帝国のジェマル・パシャは、この協定を利用して、アラブの反乱をおこしたハーシム家をゆさぶろうとした。反乱をやめるのなら、外国支配下の自治とはことなる、完全なアラブ人の自治を与えようと誘った。
 加えてバルフォア宣言が、アラブ側の疑念を深めた。しかし、けっきょくハーシム家はいまさらオスマン帝国への反乱をやめるわけにはいかなかった。
 1917年7月にアカバを占拠して以来、アラブの反乱の主戦場はヒジャーズからシリアに移っていた。1918年1月、ハーシム軍はダマスカスとメッカの中間にあるマアーン近辺にまで進出した。一進一退の攻防の末、ハーシム軍はトルコ軍の砦を攻略し、3月にヨルダン渓谷を望む高地を制圧した。
 いっぽう、イギリスのエジプト遠征隊はパレスチナでの進撃を再開する。イギリス軍は2月にエリコを占拠、それからヨルダン川を越えてアンマンに向かう予定だった。だが、その前にヒジャーズ鉄道の駅で、オスマン軍の拠点であるマアーンを掌握しておくのが賢明だと考えられた。
 だが、友軍であるアラブ軍のマアーン襲撃は失敗する。それを知らないイギリス軍は3月21日にヨルダン川を越えた。ヨルダン川東岸の町、サルトにはすでにトルコ軍はいなかった。アンマン防衛に兵力を集中していたのだ。マアーンからも兵がかき集められていた。
 3月27日にイギリス軍はアンマンに向かう。だが、トルコ軍の防衛隊がしっかりと配備されていた。3日にわたる激戦で、イギリス軍はアンマン奪取をあきらめ、サルトに撤退した。
 そのころ、ファイサルの軍はマアーンの攻撃を再開していた。鉄道駅をめぐるトルコ軍との攻防は、4日にわたる激しいものとなった。激戦の末、アラブ軍はトルコ軍の塹壕を制圧する。だが、マアーンの家や商店を略奪するベドウィンに怒った町民がオスマン軍に味方したことから、アラブ軍は逆に崩壊寸前となり、マアーンから撤退することになる。
 1918年3月下旬、ヨーロッパでは西部戦線でドイツが大攻勢をかけ、イギリス軍、フランス軍を圧倒していた。そのため、イギリスはエジプト遠征軍の一部をフランスの戦場に回さなければならなくなった。ドイツに参戦したアメリカからは、まだ大きな兵力が到着していなかったのである。
 最良の部隊を送り出す前に、アレンビーはトランスヨルダンで賭けにでた。ヨルダン川を渡って、ふたたびアンマンに向かおうとしたのだ。だが、この作戦はトルコ軍にはばまれて、完全に失敗する。
 エルサレム陥落から5カ月のあいだに、オスマン軍は立ちなおった。パレスチナでイギリス軍もアラブ軍も身動きできなくなっていた。
 その間にオスマン帝国の陸相エンヴェル・パシャはロシア軍に奪われた領土の奪還に向かった。2月にはトラブゾン、エルズルムを取り戻す。さらに4月にはグルジアのバトゥーミ、さらにアルメニアのカルスにはいって、さらにアゼルバイジャンのバクーをねらった。
 ドイツは、バクーに進出しないよう、エンヴェルに警告した。だが、エンヴェルはその警告を聞かない。バクーに軍を送り、9月に占拠した。
 1918年秋、イギリス軍はオスマン帝国戦線での攻撃を再開する。連合国軍は夏までに西部戦線でのドイツ軍の進出を阻止していた。
 イギリス軍の総司令官アレンビーは、アンマンを攻撃するかのようにみせかけて、地中海沿岸ヤッフォのオスマン軍陣地を攻撃する。その後、パレスチナ北部へ進攻、オスマン帝国電撃部隊の第7軍と第8軍を包囲した。9月21日にはナザレを確保する。残されていたアクレとハイファも9月23日に占領された。
 こうしてパレスチナを掌握したアレンビーはまたもやトランスヨルダンに向かった。ニュージーランド騎兵旅団が9月下旬、ついにサルトとアンマンを攻略した。
 オスマン軍がダマスカスに後退すると、イギリス軍とアラブ軍は合同でシリアの首都奪取に動いた。オスマン軍はダマスカスを放棄する。最初にダマスカスに入城したのはオーストラリア軍だった。だが、ハーシム家の協力に報いるため、イギリス軍はダマスカス陥落をファイサルのアラブ軍の手柄とした。
 著者によると、こうだ。

〈アラブの反乱のスタート時点からハーシム家の大義名分に賛同して参戦してきたシャリーフ・ナースィルが、自称アラブ人の王であるメッカの太守フサインの代理としてダマスカスに入城した。同行したのは、1500人のベドウィン兵の先頭に立ち、ファイサルの作戦行動を支援するもっとも有力なベドウィン族長アウダ・アブー・タイイとヌーリー・シャアラーンの二人だった。〉

 それから祭典がくり広げられた。アレンビーとファイサルが会見し、ロレンスがアレンビーの通訳をつとめた。だが、この会見は気まずいものになった。サイクス=ピコ協定とバルフォア宣言により、レバノンはフランスの管理下にはいり、パレスチナはユダヤ人のものになろうとしていた。しかも戦争がつづくかぎり、アラブ人領土の最高指揮権はアレンビーが握ることになっていた。
 オスマン帝国がシリアで敗れたころ、第一次世界大戦はついに終結を迎えつつあった。1918年9月30日にはブルガリアが降伏する。オスマン帝国では10月8日にタラート、エンヴェル、ジェマルの三頭立て内閣が総辞職し、新内閣が休戦協定の交渉にはいった。10月30日には休戦協定が結ばれた。
 11日後の11月11日、ドイツが降伏した。第一次世界大戦は終結した。
 だが、ほんとうは「オスマン帝国は、究極的には、敗北の大きさよりも講和条件のもたらした結果によって滅びることになった」と、著者は書いている。
 1918年11月13日、オスマン帝国の首都、イスタンブルに連合国の艦隊がはいった。その前に、オスマン帝国の首脳、タラート(大宰相、内相)、エンヴェル(陸相)、ジェマル(海相)らは、ドイツの艦艇に乗りこみ、オデッサ経由でベルリンに向かっていた。
 協商国側はオスマン政府によるアルメニア人虐殺を強く非難した。数カ月におよぶ審議ののち、虐殺にかかわった指導者18人に死刑が宣告された。そのなかには亡命したタラート、エンヴェル、ジェマルも含まれている。
 アルメニアの過激派は国内で処刑できなかった亡命者に報復を加えた。1921年3月、タラートはベルリンで暗殺される。翌年、ジェマルはトビリシ(グルジア)で殺害され、エンヴェルはドゥシャンベ(タジキスタン)でボリシェヴィキと戦っている最中に戦死した。
 1919年6月のヴェルサイユ条約では、オスマン帝国領土を分割することが決まっていた。その後のサンレモ会議で、さらに詳細がつめられる。
 アラブ諸州をヨーロッパの委任統治国管理下に置くこと、アナトリア東部をアルメニア人とクルド人に分割すること、アナトリア西部のスミルナ、エディルネを含むトラキアの大部分をギリシアに割譲すること、ダーダネルス海峡からボスフォラス海峡にいたる水路を国際管理下におくこと、アナトリアの地中海沿岸と主要内陸部をフランスとイタリアに分割すること。
 トルコ人に残された領土はイスタンブル周辺とアンカラ、どの国も欲しがらない黒海沿岸とアナトリア中央部だけとなった。
 こうした講和条件はトルコ国内で激しい反発を呼んだ。オスマン軍の指導者、ムスタファ・ケマルは、軍の解体命令に従わず、「トルコ民族主義運動」を立ち上げる。そして、トルコ人ムスリムが大多数を占め、ひとつの統一体を形成している地域では、いかなる分割も認めないという「国民協定」を打ちだした。
「トルコ民族主義運動」は、アナトリアのいかなる分割にも抵抗しようと呼びかけ、講和を急ぐ政府と対決した。ムスタファ・ケマルたちは、1922年まで、アルメニア人やフランス軍、ギリシア軍と戦った。
 オスマン帝国スルタンの廃位も決まった。1923年7月にスイスのローザンヌで開かれた国際会議では、ほぼ現在の国境をもつトルコの独立が承認される。
 こうして、600年以上の歴史をもつオスマン帝国は滅んだ。
 1923年10月29日、ムスタファ・ケマルを初代大統領としてトルコ共和国が発足する。ケマルにはトルコの父を意味するアタチュルクという称号が与えられた。
 最後に、現在のトルコ以外の旧オスマン帝国領がどうなったかをみておこう。
 第一次大戦後、エジプト人とアラブ人の土地では独立の気運が高まった。
 エジプトの代表団はパリ講和会議への出席を認められなかった。そのため、エジプトでは反英暴動が発生した。
 ハーシム家のファイサルは、大シリア圏(現在のシリア、レバノン、イスラエル、パレスチナ、ヨルダン)とヒジャーズ(メッカとメディナのある地域)を合わせた地域でアラブ王国を設立したいと考えていた。さらに、やがてはメソポタミアもアラブ国に加えられるものと信じていた。
 だが、イギリスはこの要求を認めない。1919年11月にはシリアをフランス軍にゆだねて、イギリス軍は撤退する。ファイサルは1920年3月にシリア王国の独立を宣言する。だが、フランス軍の干渉によって、王国はたちまち崩壊し、ファイサルは亡命した。
 イギリスが占領するパレスチナには、バルフォア宣言にもとづいて、1920年からユダヤ人が入植しはじめた。さっそくエルサレムで暴動が発生した。
 イラクでは、イギリスの統治に反対する暴動がおこる。イギリスはインドから援軍を呼び寄せ、この暴動を鎮圧した。
 ヒジャーズ州の太守フサインは、イギリスに裏切られたという思いを強くしていた。加えて、アブデュルアズィーズ(イブン)・サウードが率いる隣国がヒジャーズを席巻しようとしていた。サウード家はイギリスから多額の資金援助を受けていた。
 それでも、イギリスは反故にしたハーシム家との約束をいくらかでも果たそうとする。フサインの息子ファイサルをイラク王に、もうひとりの息子アブドゥッラーをパレスチナから分離されたトランスヨルダンの統治者にしようとしたのだ。このプランは曲がりなりにも実現する。
 だが、父親のフサインはあくまでもかたくなだった。交渉にあたったT・E・ロレンスをフサインは罵倒する。フサインはアラブ王国の夢を断念できず、英仏による中東分割こそ裏切りとみたのだ。
 その後、フサインはイブン・サウードの勢力に押されて亡命する。ハーシム家は1925年、サウード家にメディナを明け渡し、ヒジャーズはサウジアラビアの一部となった。
「戦後処理の結果として引かれた国境線が、今日まで至る驚くほど長期にわたる紛争のもとになっていることは確かである」と著者は書いている。
 トルコ、イラン、イラク、シリアにちらばったクルド人は、いまも自分たちの国をもつことができないままだ。
 フランスによってキリスト教国としてつくられたレバノンは、やがてムスリム人口のほうが多くなって、内戦がはじまる。レバノンを自国の一部と思っているシリアは30年にわたって、この国を支配した。
 イラクはイギリスとの紛争、革命、イランとの戦争、サッダーム・フセインによるクウェート侵攻、その後の2次にわたる湾岸戦争、自称「イスラム国」の樹立とその後の混乱と、平和と安定がつづいたためしがない。
 イスラエルとアラブ諸国のあいだでは4つの大きな戦争がおきた。パレスチナ難民は離散したままだし、イスラエルはゴラン高原やレバノン南部を占領しつづけている。
「今日もなお、世界中で中東ほど『大戦』の名残を感じさせるところはない」という詠嘆で、本書は結ばれている。

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アラブの反乱──『オスマン帝国の崩壊』を読む(4) [本]

 1915年4月から8カ月以上にわたるガリポリ戦で勝利したオスマン軍は、メソポタミアにも兵を送ることができるようになった。だが、それまでの状況は、インド兵を主軸とするイギリス軍に押されっぱなしだった。
 メソポタミア戦線で、オスマン軍は苦戦していた。アラブの徴集兵はあてにならず、脱走兵が相次ぎ、反オスマン気分がみなぎっていたのだ。そんななか、1915年春以降、イギリス軍は着々と前進をつづけ、6月にはティグリス川の港町アマーラを占領する。さらに7月にはユーフラテス川の拠点、ナスィーリーヤも占領した。これによって、イギリスはオスマン帝国のバスラ州全域を掌握することになった。
 イギリス軍は、バスラ州を完全に確保するため、さらにティグリス川上流のクートを制圧しようとした。だが、ロンドン政府は簡単にそれを認めなかった。紅海の入り口アデンの防衛が優先されたからである。
 9月になって、イギリス軍はようやくクートへの進撃を開始する。オスマン軍はクートの下流10キロのところに陣地を構えていた。9月末、イギリス軍は突撃し、激戦の末、クートを占領する。だが、オスマン軍はほとんど無傷のまま上流のバグダードに撤退した。
 問題はこれからさらに進んで、バグダードを攻略するかどうかである。積極論と慎重論がでて、意見はなかなかまとまらなかった。
 だが、そのころオスマン軍は英領インド軍に対処するため、バグダードに第6軍を編成しつつあった。指揮するのはドイツ軍のフォン・デア・ゴルツ元帥。この段階で、オスマン軍は質の面でも数の面でも英領インド軍を上回っていた。
 11月下旬、イギリス軍はバグダード攻略に向けて動きはじめる。これにたいしオスマン軍は反撃し、イギリス軍を押し返す。12月、疲労困憊したイギリス軍はクートへと撤退した。それをトルコ軍が取り囲んだ。
 イギリス軍は救援を待つほかなかったが、西部戦線に兵力を割かれるイギリス軍に、さほど余裕があるわけではない。リビア戦線でも苦戦している。いっぽうのトルコ軍はイギリス軍がこもるクートへの補給路を断ち、砲弾を撃ちこみながら、相手の降伏を待つ作戦をとった。
 1916年1月、イギリス軍の救援部隊として、1万2000人のインド兵2個師団が到着する。救援部隊はクートに向けて、ティグリス川をさかのぼった。だが、途中でオスマン軍と激戦になり、多くの死傷者をだして、撤退する。塹壕戦となった。
 2月半ば、コーカサスのロシア軍は、アナトリア東部のエルズルムを占領する。4月半ばには黒海に面した港町、トラブゾンが陥落した。
 メソポタミアのトルコ軍は、コーカサスからアナトリアに侵攻するロシア軍の動向に士気をそがれた。
 メソポタミアでは2月にフランスの救援部隊が到着した。それに力を得たイギリス軍は、3月にオスマン軍の要塞に奇襲攻撃をかけるが、失敗する。
 包囲されたクートの状況は絶望的になりつつあった。食料が尽きかけていた。イギリス軍の救援作戦もうまくいかなかった。クートの降伏は時間の問題となった。そのとき、降伏条件について、トルコ側と交渉にあたったイギリス軍情報将校のひとりが、のちに「アラビアのロレンス」と呼ばれることになるT・E・ロレンスである。だが、その交渉はうまくいかない。
 4月末、クートはオスマン軍の手に落ち、イギリス軍の将校と兵士たちは戦時捕虜となった。1万3000人のイギリス人・インド人捕虜はバグダードに送られ、抑留された。将校への扱いは丁重だった。しかし、「死の行進」のあと生き残った兵士たちはアナトリアとバグダードを結ぶ鉄道の敷設にこきつかわれることになる。
 イギリスはガリポリとクートでの敗戦が、ムスリム世界全体におよぼす影響を恐れた。何とか対策を立てねばならない。そのために考えられたのが、メッカの太守でムハンマドの末裔であるハーシム家のフサイン・イブン・アリーを取りこむ策だった。そして、それがけっきょくはオスマン帝国の崩壊を招くことになる。
 ハーシム家と、エンヴェル、ジェマル、タラートの牛耳るオスマン帝国政府との関係は、かなり前から悪化していた。ハーシム家の長、フサインにはアリー、アブドゥッラー、ファイサル、ザイドの4人の息子がいた。
 1914年4月、フサインはアブドゥッラーをカイロに派遣し、当時エジプト総領事だったキッチナー(まもなく陸相)とオリエント担当書記官ロナルド・ストーズと会い、ひそかにイギリスの意向をさぐった。第一次世界大戦がはじまると、イギリスはハーシム家に接近しはじめる。オスマン帝国はその動きを警戒した。
 1915年3月から5月にかけ、フサインの息子ファイサルは、表向きオスマン帝国への忠誠を誓いながら、ダマスカスでアラブの独立をはかる秘密結社のメンバーと接触し、「ダマスカス議定書」なる文書を作成した。そこでは大シリア圏、メソポタミア、アラビア半島がアラブ世界に属することが明記されていた。
 1915年7月、アブドゥッラーは「ダマスカス議定書」をもとに、カイロでイギリス側と交渉をはじめる。
 メッカ太守とエジプト高等弁務官は、同年8月から翌年3月にかけ、「フサイン=マクマホン書簡」の名で知られる往復書簡を交わすことになる。それにもとづいて同盟協定が結ばれた。
 その内容はイギリスが「アラブ人の独立を認め、支援する用意がある」というもの。ただし、イギリスはアラブ王国の境界について明言しなかった。
 というのも、イギリスはオマーン、アラブ首長国、カタール、バーレーン、クウェートなどのペルシア湾岸地域をみずからの支配下に置きたかったからである。加えて、イラクのバスラ州とバグダード州を確保するつもりでいた。シリアへの関心を示している同盟国フランスの野心も無視するわけにはいかなかった。そのため「フサイン=マクマホン書簡」はきわめてあいまいなものとなった。それがのちに物議をかもすことは目に見えていた。
 いっぽう、イギリスは太守フサインとの約束について、フランスの同意を求めなければならなかった。そのさい、協議にあたったのが、イギリス政府の中東顧問マーク・サイクス卿とフランス外務省のシャルル・フランソワ・ジョルジュ=ピコである。
 こうして、ロシアも加えて、1916年5月にいわゆる「サイクス=ピコ協定」が締結される。この協定は、中東の国境を無理やり線引きしたものとして悪名高いが、著者自身はこう述べている。

〈「サイクス=ピコ協定」についてはさまざまな誤解がある。100年後の現在でも、まだ、この協定が現代の中東の国境線を決定したと信じている人がたくさんいる。だが、実際は、サイクスとピコが線引きした地図は今日の中東の国境とはまったく違う。この協定が策定していたのは、シリアとメソポタミアで英・仏が「直接であろうと間接であろうと、自国の思いどおりに管理もしくは支配できる」植民地支配権の確立できる領域を定義したものである。〉

 1916年はじめにはオスマン帝国がハーシム家に強い圧力をかけていた。イギリス軍を攻撃するため、ハーシム家に協力を求めていたのだ。
 オスマン帝国はアラブ人の蜂起を恐れ、ベイルートでもダマスカスでもアラブ人の活動家を逮捕し、処刑していた。
 部族の義勇兵をスエズ運河攻撃に出すよう求められたハーシム家は、その条件として、アラブ人政治犯の恩赦を求めた。だが、オスマン帝国指導者のジェマルもタラートもそれを聞き入れず、政治犯を次々と絞首台に送りつづけた。
 ダマスカスでアラブ人蜂起を模索していたハーシム家のファイサルは、5月にダマスカスを脱出し、ハーシム家の根拠地であるヒジャーズ(メッカとメディナのある地方)に戻った。
 1916年夏の時点で、ハーシム家とオスマン帝国との関係は疑心暗鬼の状態だった。いっぽう、イギリスとハーシム家はたがいに相手を必要としていた。
 6月5日、ファイサルはメディナ城外で兄アリーと合流し、メディナのオスマン駐屯地への攻撃を開始した。6月10日、太守フサインもメッカで立ち上がり、オスマン軍の兵舎を襲った。こうしてアラブの反乱がはじまる。
 ハーシム家の軍隊は3日のうちにメッカの大部分を制圧し、オスマン軍を追放した。紅海の港町ジェッダも、蜂起したベドウィンによって陥落する。フサインの次男アブドゥッラーはトルコ人知事のいるターイフを包囲、無条件降伏に追いこんだ。9月のことである。
 反乱のニュースはアラブ世界全土に広がり、波紋が広がった。アラブ人将校が少なくないオスマン軍内も動揺を免れなかった。
 ベドウィンにはアラブ独立への思い入れなどない。戦利品を手にすると、さっさと家に帰ってしまうのだ。ハーシム家はかれらを何とかして引き留めねばならなかった。
 メディナのトルコ軍は強力だった。早期に援軍が得られなければメッカ周辺のハーシム軍は敗北に面する。イギリス軍は直接介入できない。ヒジャーズの神聖な地を犯せば、ジハードを招きかねなかったからである。
 イギリスはオスマン軍の捕虜のなかからアラブ兵を選別して援軍に送りこもうとした。フランスは北アフリカの巡礼団を援軍に早変わりさせようとした。だが、その数は限られていた。
 11月初旬にはメッカ周辺までオスマン軍の脅威が迫ってくる。このとき、イギリスはヒジャーズの実情を探るため、フサインの息子たちのもとに、情報将校のT・E・ロレンスを送りこんだ。
 ロレンスは紅海に面したラービグ(ジェッダの北)で、アリーと会い、さらに砂漠を旅して、ハムラでファイサルと会った。ハーシム軍には武器、弾薬、資金が枯渇していた。
 カイロに戻ったロレンスは、イギリス軍のヒジャーズ派遣は、帝国主義的野心があると勘ぐられるだけなので、やめたほうがいいと進言する。それよりもアリーとファイサルにカネを与えて、ベドウィンを集めさせたほうがいい。アラブの戦いはアラブ人にまかせるべきだと論じた。ロレンスの意見は認められる。
 12月はじめ、ロレンスはアラビアに戻る。だが、状況はさらに悪化していた。ナフル・ムバーラクというナツメヤシ林に撤退したファイサル軍にロレンスは同行する。贈られたアラビア服をはじめてまとった。そしてイギリス海軍の援護を受け、メディナ西方の港町ヤンブーの陣地に戻ることができた。
 上陸軍を送らないまでも、イギリスは軍艦や航空機で、ハーシム軍を支援した。不利になったトルコ軍はメディナ周辺の駐屯地に撤退する。フサインの息子アブドゥッラーは、メディナの周囲を囲み、トルコ軍の動きを封じた。
 イギリスは太守フサインに喜んで資金を提供した。航空機で領空を守る役割も果たした。
 ヒジャーズでハーシム家がもちこたえそうだとみたイギリスは次の戦略を立てる。それはエジプトのイギリス軍がシナイ半島全域を制することだ。地中海のエルアリーシュから紅海のアカバまでを押さえるつもりだった。この作戦の目的は、アラビア半島の反乱をより効果的にし、さらにはパレスチナ侵攻への準備を整えることだった。これが成功すれば、オスマン帝国の崩壊をうながすことができるのではないかと考えていた。

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ガリポリの戦い──『オスマン帝国の崩壊』を読む(3) [本]

 1915年1月、イギリス海軍はダーダネルス海峡作戦をたてる。連合国軍がダーダネルス海峡を突破し、イスタンブルを占領することによって、一挙にオスマン帝国を戦争から排除するという計画である。このときの海相はウィンストン・チャーチル。作戦全体の指揮権は歴戦の陸軍元帥ホレイショ・キッチナー陸相が担っていた。
 1月末から2月はじめにかけ、英仏の最新鋭艦隊が、ダーダネルス海峡の入り口に集結した。ロシア海軍は英仏軍の動きをみて、ボスフォラス海峡側から揺さぶりをかけることになっていた。この作戦は単なる示威行動だけでは終わらず、次に本格的な上陸戦が必要になるはずだった。
 2月19日、連合国艦隊はダーダネルス海峡のトルコ軍要塞への砲撃を開始した。だが、うまくいかない。強風と荒れた海が作戦の展開を遅らせた。
 それでも英仏艦隊は、3月中旬になると要塞の大砲を破壊し、機雷掃海をはじめていた。海峡のヨーロッパ側、ガリポリ半島への上陸もはじまった。
 ところが、そのころになってドイツが持ちこんだ新型可動式榴弾砲が効果を発揮しはじめる。掃海艇は機雷の位置を探知することができない。それでも連合国艦隊は作戦を強行する。だが、可動式榴弾砲にはばまれ、撤退しようとしたときに、4隻の戦艦が機雷に接触し、うち3隻が沈没した。

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[機雷に接触し沈没する英艦イレジスティブル。本書図版より]

 連合国艦隊の被害は大きかった。3隻の戦艦が沈没し、1000人の戦死者がでた。オスマン側の陣地に大きな損害はなく、人的被害も少なかった。
 イギリスの作戦本部はダーダネルス海峡が海軍だけで突破できないことを悟る。だが、これほど手厳しい敗北を喫したとなれば、おめおめ引き下がるわけにはいかなかった。キッチナー陸相は、海峡の北を扼するガリポリ半島を攻略するため、7万5000人の歩兵を投入することを決定した。
 ガリポリほど多国籍の兵士が戦った場所はない、と著者は指摘している。連合国側は、英仏本国に加えて、連邦や植民地のオーストラリア、ニュージーランド、インド、アフリカから兵を集めた。これにたいし、オスマン側は帝国内から5万の兵を徴収し、第5軍とした。トルコの第5軍を指揮するのは、同盟国ドイツのオットー・リーマン将軍である。
 4月25日早朝、連合国部隊はガリポリ半島への上陸を開始する。イギリス軍はガリポリ半島南端のヘレス岬、フランス軍はその対岸のクム・カレ(のちにヘレス岬に合流する計画)、そしてオーストラリア・ニュージーランド軍は、ガリポリ半島中央部のエーゲ海沿いの入江(通称アンザック入江)に上陸すると決められていた。
 上陸の前に、英艦は岬のトルコ軍陣地に猛烈な艦砲射撃を加えた。トルコ軍は大きな損害を受けたが、兵士の士気は衰えなかった。艦砲射撃が終わって、イギリス軍が上陸しはじめると、トルコ軍は猛反撃し、イギリス軍の艀(はしけ)は死傷者だらけになった。いくつかのビーチで、イギリス軍は上陸に成功する。だが、その被害は甚大だった。
 ヘレス岬の対岸、クム・カレの海岸に上陸したフランス軍はほとんど抵抗を受けず、クム・カレの町を占領した。しかし、やがてトルコ軍の反撃がはじまり、白兵戦となる。戦闘はすさまじく、死傷者の拡大したフランス軍は撤退し、対岸のイギリス軍に合流。イギリス軍が確保したヘレス岬近辺のビーチに布陣することになる。
 いっぽう、アンザック軍(オーストラリア・ニュージーランド軍)はガリポリ半島中部のエーゲ海寄り海岸、通称アンザック入江に上陸をこころみた。潮流が早く、上陸は混乱をきわめたが、1万5000人が上陸をはたした。だが、トルコ側の反撃はすさまじく、その日のうちにアンザック軍の2割が死傷した。
 そのときトルコ軍部隊を指揮していたのが、ムスタファ・ケマル、すなわちのちのケマル・アタチュルク(トルコ共和国初代大統領)である。ムスタファ・ケマルはのちのガリポリ戦を戦い抜くことになる。
 アンザック軍は退却せず、入江近くに塹壕を築いた。著者によれば、「ガリポリ半島の地上戦の初日から、オスマン軍と侵攻軍の戦力は見事に互角だった」という。
 ガリポリ戦で5万人の兵士を上陸させた英仏軍は、ガリポリ半島南端のヘレス岬周辺と中部のアンザック入江近くに陣地をもうけた。軍団の目標はトルコ軍陣地を攻略しながら、高地を越え、ダーダネルス海峡側に進出することだった。それと前後して、英仏戦艦がダーダネルス海峡を強行突破して、イスタンブル占領に取りかかる手はずになっていた。
 だが、英仏軍はトルコの防衛線を突破できない。ヘレス岬側では、4月から6月にかけ、3度突破をこころみたが、激しい抵抗に遭い、2万人の死傷者を出した。アンザック入江でも身の毛もよだつ激戦の末、塹壕戦になった。
 海に待機する戦艦もトルコ側から奇襲を受けたり、ドイツのUボートによって脅かされたりするようになる。
 5月、イギリスでは海軍作戦の失敗で責任をとらされ、チャーチルが海相を辞任した。ただし、キッチナー陸相は留任。イギリスはメンツにかけても、ガリポリから撤退するわけにはいかなくなった。
 キッチナーはダーダネルス戦を遂行するため、大規模な増援部隊の派遣を決定した。
 1915年夏、ガリポリ半島では網の目のように複雑に塹壕が掘られていた。塹壕での生活は兵士たちの肉体的、精神的健康をむしばんだ。連日、双方の砲撃と狙撃がつづき、どちらの兵士も絶え間ない緊張状態に置かれていた。塹壕内では赤痢が蔓延する。砲弾恐怖症で精神に異常をきたす者もでてきた。
 銃剣攻撃がおこなわれるたびに、戦場にはたくさんの兵士が倒れてちらばった。イギリス軍とトルコ軍は、数千人の死者を引き取るために、しばしば何時間かの休戦協定を結ばねばならなかったほどだという。
 8月、イギリスの増援軍5師団がガリポリに到着した。その主力部隊は、南端のヘレス岬ではなく、中部のアンザック入江と近くのスヴラ湾に向かった。そこから見える尾根を奪い、ダーダネルス海峡最狭部を確保するというのが、イギリス軍の作戦だった。
 アンザック入江近辺では激戦になった。突撃がくり返されたが、イギリス軍は尾根まで到達できない。「連合国軍は距離的には長い前線を防衛しながらも、オスマン軍の強固な防衛戦を、とうとうどこからも突破できなかった」。スヴラ湾とアンザック入江からの攻撃は完全に失敗に終わった。連合国軍の死傷者は8月だけで4万人にのぼった。
 9月、連合国の苦境を見透かして、ブルガリアがドイツ、オーストリア側に加わって参戦する。そのことによって、勢力バランスが変化し、連合国側はバルカン方面で不利な立場に置かれ、ガリポリ半島で戦う余裕がなくなってきた。肝心の西部戦線の立て直しも喫緊を要した。
 10月、イギリス軍は苦渋の末、ついにガリポリからの撤退を決断した。よほどの援軍を投入しなければ、もはやヘレス岬、アンザック入江、スヴラ湾の陣地を守りきるのは不可能となっていた。
 撤退作戦は隠密裏に進められた。12月初旬段階で、イギリス軍と大英帝国軍はガリポリに7万7000人残っていた。さまざまな偽装作戦を展開しながら、退却はみごとにおこなわれた。撤退の兆候があれば、全面攻撃をかけるようオスマン軍は命じられていた。だが、12月下旬のある日、「夜が明けたとき、トルコ軍のパトロール隊は敵が陣地から完全にいなくなっているのを知って愕然とした」。

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[イギリス軍の撤退。本書より]

 1915年4月からの259日にわたるガリポリ戦で、イギリス軍(帝国軍を含む)は41万人、フランス軍(植民地軍を含む)は7万9000人と、連合国軍は合わせて50万人近くを投入した。これにたいしガリポリに派遣されたトルコ軍は31万人にのぼった。戦死傷者はイギリス軍が20万5000人(うち戦死者は4万2000人)、フランス軍が4万7000人(同1万4000人)、トルコ軍は25万人から29万人(同8万6500人)と記録されている。
 ガリポリ戦は連合国側の完敗のうちに終わった。それにより戦争はさらに長引くことになった。
 だが、オスマン帝国はほかの場所でも戦っていた。帝国がもっとも神経をとがらせていたのは、ロシアの動きである。なかでも帝国内のアルメニア人がロシアと内通することを恐れていた。トルコの特務機関はアルメニア人の絶滅と追放に着手する。
 1915年2月以降、オスマン軍はアナトリア東部のアルメニア人に移住を強制していた。ガリポリ戦がはじまると、イスタンブルのアルメニア人は逮捕され、収監された。
 4月、アナトリア東部の町、ヴァンではアルメニア人が蜂起する。それを鎮圧するため、トルコ軍はクルド人やごろつきを使って、アルメニア人を虐殺した。
 5月、内務省は各州と地区に、すべてのアルメニア人を追放するよう命令をだした。同時に特務機関は、追放に応じないアルメニア人を殺戮せよという秘密目令を出した。
 このふたつの命令は、アルメニア人の大量殺戮を招いた。自殺を選んだアルメニア人も多かった。コーカサスのロシア軍に加わったアルメニア人もいる。砂漠への死の行進の途中、多くのアルメニア人が命を失った。
 アルメニアの歴史家は、1915年から18年にかけ、オスマン帝国の意図的な国家政策と集団殺戮により、100万人から150万人にのぼるアルメニア人が死亡したとしている(集団殺戮はなかったとするトルコの歴史家も60万人から85万人にのぼるアルメニア人が死亡したことは認めている)。
 戦争という危機のさなか、国家の非情な論理が人間の残虐性に火をつける光景を、われわれはいつまで見つづけねばならないのだろうか。

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『オスマン帝国の崩壊』を読む(2) [本]

 1914年8月1日にオスマン帝国は総動員令を発令したが、国民の士気は上がらなかった。戦時体制は帝国の財政を逼迫させた。そのため非常時の課税や徴発、押収がなされたことで、国民の不満がむしろ高まっていた。
 イギリスは英連邦のカナダやオーストラリア、ニュージーランドにも参戦を呼びかけていた。フランスもアルジェリア、チュニジア、モロッコの植民地から兵をつのり、「アフリカ軍団」を結成した。大戦はヨーロッパにとどまらず、まさに世界的な広がりをもとうとしている。
 1882年からイギリスの統治下にあったエジプトには戒厳令が敷かれた。そして、まもなくエジプトはオスマン帝国から完全に切り離されて、イギリスの保護領となる。
 1858年以来、インドはイギリスの支配下におかれていた。イギリスにとって重要なのは、インドのムスリムの忠誠心を確保することだった。加えて、インド部隊の動員がはかられた。こうして140万人のインド人、すなわち95万人のインド兵と45万人の非戦闘員が海外に送られることになる。インド兵が戦った場所は、おもにメソポタミアの戦場だった。
 第一次世界大戦では、世界規模で動員令が出された。しかも、戦場はヨーロッパにかぎられたわけではない。中東でも激しい戦闘がくり広げられたのだ。
 オスマン帝国の国境は全長1万2000キロで、黒海、ペルシア湾、紅海、地中海に囲まれていた。そのため、あちこちから攻撃を受けやすかった。
 イギリス海軍は1914年11月1日に紅海アカバ湾奥のトルコ軍要塞を砲撃する。その2日後、今度は英仏の軍艦がダーダネルス海峡のトルコ軍陣地に砲撃を加えた。
 ロシアは10月29日に軍艦でトルコの黒海側都市と船舶を砲撃したあと、地上部隊がコーカサス(カフカス)を越えて、アナトリア東部に侵入した。侵入は容易に思えたが、11月6日にオスマン軍の反撃がはじまる。両軍とも多くの犠牲者を出したが、オスマン軍はロシア軍を押し返した。そこで両陣営は陣地を補強する。極寒の冬をかんがえると、春まで戦争はできないはずだった。
 いっぽうペルシアでは、すでに1908年からイギリスのアングロ・ペルシアン石油会社が操業を開始し、ペルシア湾のアバダーン島に製油所を設けていた。戦争がはじまると、イギリスはオスマン領メソポタミアへの進出をこころみた。その部隊となったのが英領インド軍である。インド軍は、まずバスラに侵攻した。バスラはティグリス川とユーフラテス川が合流して、シャッタルアラブ川となって流れる港町である。
 メソポタミア侵攻を開始する前にイギリスはクウェートと、オスマン帝国から離脱するという協定を結んだ。そのさい、クウェート領主シャイフ・ムバラクはイブン・サウド(のちのサウジ国王)などと協力することを誓った。
 英領インド軍は11月23日にバスラ入城を果たす。イギリスはさらにティグリス川とユーフラテス川の合流点、クルナをめざした。作戦はうそのようにうまくいった。インド軍兵士の死者はわずかで、12月6日にクルナは陥落する。こうして、イギリスは腰を据えてバスラ地域を支配することになった。
 英領インド軍の別の部隊はエジプトに向かった。イギリス艦隊は紅海にはいる前に保護領のアデンに立ち寄った。周辺ではオスマン軍の動きが活発になっていた。オスマン軍を排除する必要があった。11月10日、英艦艇の砲撃により、オスマン陣地はイギリス軍に占拠される。しかし、この作戦はのちにイエメンとの関係で、やっかいな問題を残すことになった。
 エジプトにはイギリスの東部ランカシャー義勇軍やインド軍、アンザック軍(オーストラリア・ニュージーランド軍)が集結した。英連邦軍部隊の集結は、エジプトの不穏な状況を沈静化させた。休暇をもらった兵士たちは観光客に早変わりし、時に騒ぎを引き起こした。とはいえ、エジプトはイギリスにとって、その後のオスマン帝国攻略の拠点となった。
 トルコが参戦すると、イギリスとフランスはトラキア(バルカン半島東部)からサモス島までの海域、すなわちエーゲ海全域を封鎖した。英仏艦隊はダーダネルス海峡の出口、レムノス島に基地を置いた。
 オスマン帝国はダーダネルス、ボスフォラス海峡の防衛を強化していた。要塞に大砲が据え付けられ、海峡入り口には機雷が敷設された。強力なサーチライトが夜間航路を照らしていた。オスマン艦隊が両海峡に集結し、歩兵部隊がイスタンブルの守りを固めていた。
 そのぶん、エーゲ海と黒海の守りは手薄になった。ロシア海軍は黒海沿岸のトラブゾンを攻撃、英仏海軍はエーゲ海に面するスミルナ(イズミル)を砲撃した。シリアとの境、キリキア(地中海に面するトルコ南部地域)のメルスィン港は物流の拠点だったが、ここも脆弱だった。
 著者はこう書いている。

〈参戦して2カ月のうちに、協商国と中央同盟国両方にとって、オスマン帝国の脆弱性が明らかになった。トルコ軍は国境のすべてを攻撃から守ることは不可能であり、オスマン帝国の領土の広がりを考えれば、彼らにそれができると期待するのは現実的でなかった。彼らはコーカサス、バスラ、イエメンそしてエーゲ海、キリキアなど領土のあらゆる地点から撤退を強いられていた。〉

 オスマン帝国としては、どこかで攻勢に転じなければならなかった。
 ドイツの思わくとはことなり、今回の戦争にさいして、トルコ首脳部には独自のねらいがあった。ロシアから奪われたアナトリアの3県(カルス、アルダハン、バトゥーミ)とイギリスが支配するエジプトを取り戻したいと考えていたのだ。
 オスマン帝国海相のジェマルは、「青年トルコ人」の同志で、陸相のエンヴェルと協議して、シリアで軍団を立ち上げ、スエズ運河を攻略しようと計画した。そのためには、シナイ半島を横切らなければならない。
 いっぽう陸相のエンヴェルはアナトリアで失った3県に焦点を合わせた。エンヴェルは、ロシア・コーカサス軍の撃滅計画を立てた。
 こうして、オスマン帝国の反攻がはじまったのだ。
「青年トルコ人」革命のリーダー、エンヴェルは大胆さが取り柄で、それまでさまざまな軍事作戦を成功させてきた。しかし、今回の山岳地帯での作戦は、あまりにも無謀だった。衣服や食料、弾薬、兵站を含め、冬季作戦にたいする配慮が欠けていた。それでも1914年12月下旬にエンヴェルはロシア軍への攻撃を開始する。
 オスマン軍はロシア軍の冬ごもり期をねらって、奇襲攻撃をかけた。一挙にロシアの軍事拠点サルカムシュを奪い、カルス、アルダハン、バトゥーミの3県を取り返すつもりだった。だが、天候とちいさな作戦ミスが、オスマン軍の進攻をはばむ。兵力が足りなくなったオスマン軍はロシア軍に押し返され、軍団は崩壊し、コーカサス作戦は失敗に終わった。
 エンヴェルはイスタンブルに逃げ帰った。サルカムシュでの敗戦はしばらく秘密にされていた。
 いっぽうシナイ半島に向かったジェマルは、スエズ運河西岸の重要都市イスマイリアを占領する計画を立てた。この作戦に成功すれば、スエズ運河を掌握できるだけでなく、エジプト民衆の蜂起も期待できると踏んでいた。
 だが、この計画もあまりにずさんだった。現在のイスラエル南部に集結したオスマン軍は、1915年1月、シナイ半島に向かった。砂漠を越えるのに12日間かかった。当初、イギリス軍はオスマン軍の動きをつかめなかった。
 2月1日、オスマン軍司令官は攻撃命令をだした。運河を渡るための舟橋の組み立てには予想以上の時間がかかった。そのとき、西岸で突然、機関銃が火を吹き、航空機が爆弾を投下しはじめた。イギリスの砲艦が舟橋を破壊した。オスマン軍兵士はわずかしか運河を渡れなかった。
 こうして、奇襲に失敗したオスマン軍は撤退する。イギリス軍はわなを恐れて、深追いするのを避けた。この戦闘での両軍の死傷者は比較的少なかったという。それでもオスマン軍にとっては、大失敗である。
 コーカサスとスエズ運河で敗北したあと、オスマン軍司令部はメソポタミア(現イラク)のバスラ奪回を計画する。その計画をまかされたのが、特務機関のリーダー、スレイマン・アスケリだった。
 1915年4月、アスケリはトルコ軍正規兵と非正規のアラブ部族兵を組織し、バスラを急襲しようとした。だが、シャイバでの激戦の末、敗れ、自決した。
 戦闘に勝利した英領インド軍は、このあとティグリス川、ユーフラテス川の上流に向かって軍を進めることになる。ユーフラテス川の上流にはバグダードがあった。
 オスマン軍の反攻失敗を確認した連合国側は、イスタンブル制圧を夢見るようになる。それがダーダネルス海峡襲撃とガリポリ作戦へとつながっていくのだ。
 第一次世界大戦は欧州大戦とも呼ばれるように、ヨーロッパでの戦争が中心だと思われがちだ。だが、じつは中東でも激しい戦いとめまぐるしい駆け引きがくり広げられていたのである。

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『オスマン帝国の崩壊』を読む(1) [本]

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 オスマン帝国のことはあまり知らない。それが600年以上つづいた地中海の大帝国であったことも、そう言われてみて、あっそうなのかと気づくぐらいである。まして、その大帝国がどのように崩壊したのかについては、まったくといっていいほど知識がなかった。
 著者のユージン・ローガンはオックスフォード大学教授で、アラブ近現代史を専攻している。日本で翻訳出版されたものとしては『アラブ500年史』(白須英子訳)が知られている。
 本文だけで500ページ以上の大著である。読み切れるかどうかわからないが、なんとかがんばってみるつもり。第1次世界大戦前後のオスマン帝国の崩壊過程をテーマとしている。年代としては1908年から1922年までのわずか十数年のできごとだが、このときトルコの歴史(いや世界の歴史)は大きく動いた。しかも、中東での紛争がつづいていることをみれば、オスマン帝国崩壊の影響は、現代にまでおよんでいるといってよい。
 本書の特徴は、できるだけトルコ側の視点が取り入れられていることだ。それだけ公平だということになる。まだ読みはじめたばかり。いっぺんには読めない。例によって少しずつ読んでいる。
 オスマン帝国は13世紀末に中央アジアからやってきたオスマン人スルタンによって設立された。1453年にはメフメト2世がビザンツ帝国の首都コンスタンティノープル(現イスタンブル)を攻略し、地中海世界最大の帝国となった。16世紀はじめ、セリム1世はシリア、エジプト、ヒジャーズ州(メッカ、メディナのある地方)を帝国の領土に編入した。1529年にはスレイマン大帝がウィーン城門にまで迫った。
 その後も帝国は拡大し、17世紀末にはバルカン半島、アナトリア、黒海、イラクからモロッコにいたる地域を支配するようになっていた。これが帝国の最大版図である。だが、それ以降、領土は徐々に縮小しはじめる。まず19世紀前半にギリシアが独立。19世紀後半にはルーマニア、セルビア、モンテネグロが独立、ボスニア、ヘルツェゴヴィナ、ブルガリアが自治州になった。そのころオスマン帝国からイギリスはキプロスとエジプト、フランスはチュニジア、ロシアはカフカス(コーカサス)を奪った。
 そこで帝国の危機をまのあたりにした軍の青年将校が立ち上がり、「青年トルコ人」という団体を結成し、1908年にクーデターをおこす。その結果、スルタンのアブデュルハミト2世(在位1876-1909)は退位し、メフメト5世(在位1909-18)が実権のない皇帝の座につく。憲法にもとづく新内閣のもと、帝国はかつてない戦乱の時代を迎える。本書はここからスタートするわけだ。
「青年トルコ人革命」は、さまざまな波紋を投げかけた。帝国の混乱に乗じて、ブルガリアが独立を宣言、オーストリア(ハプスブルク帝国)はボスニアとヘルツェゴヴィナの併合を発表、そしてクレタ島がギリシアとの合併を宣言した。
 トルコ国内では反革命が発生する。アルメニア人の民族運動も盛んになった。「青年トルコ人」率いるトルコ軍は、これらの動きを押さえこんだ。
 1911年にはイタリアがオスマン帝国領のリビアに侵攻した。「青年トルコ人」の指導者エンヴェルはイタリア軍にたいしゲリラ戦を展開した。これにたいし、イタリアはモンテネグロをけしかけて、オスマン帝国に宣戦布告させる。バルカンに火がついたため、オスマン帝国はイタリアと講和を結び、イタリアにリビアを割譲した。
 1912年10月にはモンテネグロ、セルビア、ギリシア、ブルガリアがオスマン帝国に宣戦布告した。第1次バルカン戦争が勃発したのだ。ヨーロッパ側の古都エディルネはブルガリア軍によって包囲された。リベラル派の宰相カーミル・パシャが各国と和平を結び、エディルネを明け渡そうとしているのを知った青年将校エンヴェルは大宰相府を襲撃し、宰相を辞任に追いこむ。だが、青年トルコ人の政治組織「統一と進歩委員会」(CUP、ユニオニスト)は政権に加わらない。
 戦局はバルカン側が優位で、オスマン帝国側は押されていた。エディルネは陥落。1913年5月のロンドン条約によって、リビアに加えトルコはアルバニア、マケドニア、トラキアを失った。
 ロンドン条約締結直後、大宰相が暗殺される。そして、混乱に乗じて、ついに「青年トルコ人」が政権を把握する。新たな大宰相サイード・ハリムのもと、「青年トルコ人」のエンヴェル、タラート、ジェマルの3人がパシャとなり、軍事・行政の実権を握った。
 1913年7月、トルコ新政府がエディルネを奪還する。その前に、今度はバルカン諸国が分裂、第2次バルカン戦争がはじまっていた。オスマン軍はブルガリアからトラキアを奪還した。陸相になっていたエンヴェルは国民から称賛を受けた。
 ユニオニストの政策は中央集権的で、アラブ人の分離主義的運動を防ぐことに努めていた。にもかかわらず、アラブ人のあいだでは、次第に脱中央集権的な動きが強くなる。政府はそうした動きを抑えることに躍起になった。
 オスマン帝国にとって最大の脅威はロシアにちがいなかった。ロシアは東方正教会のために、コンスタンチノープル(イスタンブル)の奪還をめざしていた。そのためにはボスフォラス、ダーダネルスの両海峡を制覇しなければならない。加えてキリスト教徒でもあるアルメニア人の多いアナトリア東部への進出ももくろんでいた。
 そこで、トルコ政府はドイツとの連携を強めることになる。ドイツは、ペルシア湾岸を押さえるイギリスと対抗するため、ベルリンとバグダードを結ぶ鉄道を建設する計画をもっていた。そのためには、オスマン帝国との協力が不可欠となる。1913年末、ドイツはトルコ陸軍を支援するため、オットー・リーマン将軍をイスタンブルに派遣した。
 1914年はじめ、第2次バルカン戦争に勝利したあと、オスマン帝国は経済ブームにわいていた。ところが、6月28日にボスニア・ヘルツェゴヴィナのサラエヴォでオーストリア皇太子が暗殺されると、事態が急変する。
 オスマン帝国の指導者たちは、当初、ヨーロッパの戦争に参加するつもりはなかった。不安定な情勢のなか、ロシアに対抗するため、イギリスかフランスが保護を与えてくれればそれでよいと考えていた。
 だが、イギリス、フランス、ロシアはすでに協商を結んでいた。8月になると、ドイツはオーストリアの側に立ち、3協商国に宣戦を布告した。
 フランスやイギリスがオスマン帝国と同盟を結ぶつもりがないことがわかると、トルコはドイツと秘密同盟条約を結ばざるをえなくなった。こうして、ドイツ、オーストリア、オスマン帝国の三国同盟ができあがる。
 オスマン帝国内に総動員令がだされた。ボスフォラス、ダーダネルス海峡は閉鎖された。ドイツ艦船が派遣され、オスマン海軍に編入された。トルコは防備を固め、できうればヨーロッパの戦争から中立を保ちたかったのである。
 だが、ドイツはオスマン帝国に積極的な参戦をうながした。イスラーム・パワーを利用して、ロシアとだけでなく、イギリスやフランスにたいしても何らかの攻勢をかけたいと思っていたのだ。これにたいし、「青年トルコ人」はあくまでも慎重だった。秘密裏にロシアとも接触していた。
 9月にはいると、ヨーロッパの西部戦線は膠着状態にはいる。東部戦線ではドイツ軍がロシア軍を壊滅させたものの、この先、どこまでいけばロシアを敗北に追いこめるのか、見当がつかなかった。ドイツはオスマン帝国に、ロシアを早急に攻撃するよう求める。そのための資金援助も約束した。
 こうして、10月末、オスマン帝国は重い腰を上げる。実際にはドイツ海軍将校の指揮するオスマン帝国海軍が黒海のロシア艦隊を攻撃、こうしてオスマン帝国は戦争にはいった。11月14日、スルタンは臣民にロシア、イギリス、フランス、セルビア、モンテネグロにたいする聖戦(ジハード)を呼びかけ、群衆は歓呼の声を上げて、これを迎えた。
 少しずつ読んでいきたい。


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ナオミ・クライン『これがすべてを変える』(まとめ) [本]

   1 はじめに

 著者のナオミ・クラインはカナダの女性ジャーナリストで、1970年生まれ。戦争や災害をビジネスチャンスにする資本主義を告発した前著『ショック・ドクトリン』で注目を浴びた。
 今回の『これがすべてを変える』が扱うのは気候変動問題だ。CO²の排出をどうやって抑えるかというような技術的な話ではない。資本主義を根本から変えようというのだ。人類は自分で自分の首をしめる段階にまできている、と彼女は警告する。その点、本書は人類に新たな進化をうながすメッセージでもある。
 全体は3部に分かれている。第1部「最悪のタイミング」では、気候変動なんか関係ないという資本主義の傲慢きわまりない暴走ぶり、第2部「魔術的思考」では、環境問題をむしろビジネスチャンスととらえる企業の便乗ぶりがえがかれる。そして、第3部「何かを始める」では、人類を危機に追いこむ資本主義からコミュニティを取り戻すための提案がなされる。
 最初に著者は断言する。現在、世界じゅうが異常気象による大きな災害に見舞われているのは、「化石燃料の浪費的な燃焼」が原因だ。にもかかわらず、われわれはいまの生活を変えられないでいる。人は災害があると「一瞬目を向けはするが、すぐに目をそらす」。せいぜいが「思い出し、そして忘れる」の繰り返しだ。
 気候変動自体が政策課題として取りあげられ、それに予算がつぎ込まれることはまずない。しかし、化石燃料への依存から、いち早く脱却して、気候変動に対処することは「より安全で公平な社会をもたらす」はずだ、と著者は主張する。
 そのいっぽう、気候変動と災害を新たなビジネスチャンスととらえる動きもある。こうしたビジネスはまず何の解決ももたらさない。必要なのは気候変動を食い止めるための強力な大衆運動だ。そして、それは現在のシステムに代わるものを目指す運動でなければならないという。
 いまなされている各国による気候変動への合意はまったく不十分なもので、このままいけば21世紀末までに地球の気温は産業革命前から4度上昇する恐れがある。それがより巨大なハリケーンや台風、大雨と洪水、水面上昇、漁場の崩壊、砂漠化、干魃、動植物の絶滅、多くの感染症を招くことはまちがいない、と著者はいう。
「ふだんどおりの日常生活を続け、今とまったく同じことをしていれば、ほぼ間違いなく文明を危機に陥れることになる」。だとすれば、どうすればよいのか。
 各国がCO²排出量規制を強化することもだいじだ。化石燃料に替わる再生可能エネルギーをさらに開発・普及することも求められる。廃棄物ゼロ構想や都市緑化計画も必要だろう。だが、事態は思う方向に進んでいない。それはグローバル化を推し進める市場原理主義が、人類社会の気候変動への対処を阻んできたためだ、と著者は考えている。
 地球温暖化の原因である温室効果ガスの排出量は2000年代にはいって、むしろ増加している。大量生産と長距離輸送、浪費的消費にもとづくライフスタイルは、化石燃料をより大量に燃焼させることによってもたらされたものだ。そして、グローバルな規模で経済がより活発になったことが、地球温暖化を促進する結果を生んでいる。
「経済システムと地球のシステムが今や相容れない関係になっている」。もはや現状を緩やかに変えるという選択肢は残されていない。文明の崩壊を回避するには劇的な措置をとるほかない、と著者は宣言する。
 経済発展のためなら環境や人間を犠牲にするのもやむをえないという考え方はいまも根強い。このまま行けば、産業革命以後の気温上昇を2度までに抑えるという国際合意は反故にされてしまうだろう。
 いますぐ大変革をおこさなければならない、と著者はいう。
「ブラウン」エネルギーから「グリーン」エネルギーへ、自家用車から公共交通機関へ、無秩序に広がる郊外地域から歩いて移動できる密集型の都市空間へと、くらしのスタイルを変えていくことが重要なのはいうまでもない。
 だが、それよりも重要なのは、社会のあり方を変えることだ。

〈私には、太陽光発電の力学より、人間の力(パワー)の政治学のほうがよほど大問題だと思える。具体的にいえば、力を行使する主体を企業からコミュニティへと転換できるかどうかである。〉

 経済決定の主体を企業からコミュニティに取り戻すこと。近代資本主義以前からの物質主義的な考え方、すなわち自然を征服・開発し、徹底的にしぼりとるという思想(extractivism=資源収奪主義)を変えること。そして、排他的国家主義と形式的民主主義からなる現在の政治システムを変革していくこと──著者が提起しているのは、そうした人類の新たな進化の方向である。

   2 脱成長と低炭素社会への移行

 アメリカでも気候変動対策など無用だという意見は根強い。環境問題をもちだすのは、企業活動の自由を阻害しようとする共産主義者の陰謀にほかならないいう主張もある。
 さらには地球温暖化という事実そのものを否定する向きもある。一般に気候変動への関心は低い。むしろ、気候変動への対応を唱えるリベラル派にたいする反発が高まっている、と著者はいう。
 規制緩和、自由貿易、税の軽減、公有資産の民営化を唱える市場原理主義が社会をおおっている。市場原理主義の立場からすれば、規制をともなう気候変動対策などしてはならないことだし、そもそも経済活動と気候変動とは無関係ということになる。
 要するにカネもうけがすべてだ。カネさえあれば、たとえ温暖化があろうと乗り切れる。また温暖化をネタに商売ができるのなら、それもけっこうという風潮さえみられる。
 気候変動は貧富を問わず、すべての人に影響をもたらす。しかし、現に生じているのは「持つ者と持たざる者の二極分化」だ、と著者は指摘する。
 なかには、気候変動はアメリカより発展途上国を痛めつけるから、アメリカにとってはむしろ好都合だといういまわしい議論さえみられる。災害がおこっても、自分の面倒は自分でみろという発言もまかり通っている。
 右派は政府の介入を批判する。しかし、温暖化対策は政府の介入抜きには成し遂げられない、と著者はいう。1992年のリオ地球サミットで締結された条約は、ほとんど実行されず、問題は先送りされたままだ。
 右派のなかには、原子力や地球工学、遺伝子組み換え技術などによって気候変動に対応できると主張する人もいる。だが、著者によれば、こうしたハイリスクな技術は「さらに危険な廃棄物を生み、しかも明確な出口戦略はまったくない」。それは「大企業や大規模軍隊による巨大技術を駆使した気候変動対策」にほかならず、「そんなことはすべきではない」。
 不思議なことに、自由貿易協定が環境技術の普及を阻害している面もある、と著者は指摘する。太陽光パネルや風力タービンに関しては、地元産業が優先されるのがとうぜんのはずだ。しかし、世界貿易機関(WTO)は、そうした地元優先政策が自由貿易協定に違反するとみなす。こうして、多くの地元企業が苦境におちいったのだ。
 新自由主義の壁が、気候変動への取り組みを阻んできた。とはいえ、太陽光発電市場はいちじるしい発展を遂げている、と著者はいう。
 歴史をふり返れば、化石燃料と気温上昇との関係が明らかになったのは1950年代からだが、その問題が広く意識されるようになるのはトロントで気候変動国際会議が開かれた1988年になってからである。高度消費社会のライフスタイルに批判が集まるようになった。ところがソ連が崩壊すると情勢は一変し、市場原理主義が前面に出てきた、と著者はいう。
 その後の10年間は、気候変動への取り組みと、自由貿易協定の締結が並行して進んだ。両者には矛盾した面がある。だが、優先されたのは国際貿易のルールであり、気候問題が貿易に優先することはなかった。
 自由貿易システムのもとで生産拠点が海外におかれるようになると、温室効果ガスの排出場所が移動しただけでなく、その量も増大した。中国は世界の工場になっただけではなく、世界の煙突になった、と著者はいう。
 グローバル化の呼び声のもとで、多国籍企業はより安い労働力を求めて、世界じゅうを動きまわり、1990年代末に中国に狙いを定めた。「中国は人件費が法外に安く、労働組合は容赦なく弾圧され、政府は大規模なインフラ建設プロジェクトに際限なく資金を費やす用意があった」。
 中国の活用は自由主義者にとっては夢の実現を意味したが、地球環境にとっては悪夢をもたらした、と著者はいう。労働者を低賃金で酷使するのは、排気汚染対策をほとんどとらないのと同じカネ儲け主義の発想にもとづいている。環境汚染と労働者搾取は関連がある。「不安定化した気候は、規制緩和型グローバル資本主義の代償であり、その意図されざる不可避の結果にほかならない」
 グローバル化の時代にあっては、企業はいつでも海外の工場をたたんで、別の場所に生産拠点を移すことができる。多国籍企業が発展途上国に輸出主導型の成長モデルを押しつけたことを考えると、地球環境を悪化させているのは中国やインドだと非難してすむ話ではない。先進国の責任も大きいのだ。
 環境保護よりもWTOやNAFTAなどの自由貿易協定を重視した結果が、現在の地球環境の悪化を招いただけではない。自由貿易の拡大によって、工場は海外に移転して国内の失業者が増え、地元の商店は大型小売チェーンにとって替わられ、農家は安い輸入農産物との競争を強いられるようになった。経済をふたたび地域中心に戻さなくてはならない、と著者は考えている。
 自由貿易の論理は、何が何でも経済成長を進めようという考え方にもとづいている。いま必要なのは資本主義のルールを変え、脱成長をめざすことではないか。グリーン技術の開発を待つだけでは間に合わない。いまできることからはじめなければならない。「では何ができるかといえば、それは消費を減らすことだ」と、著者はいう。
 自動車より自転車、自動車より公共交通機関、地産地消の農産物、リサイクルの服、公営住宅や公共交通の改善、無駄な開発の取りやめ……。200年前といわないまでも、1960年代から70年代くらいにかけてのライフスタイルに戻るべきだ、と著者はいう。加えて生活賃金と地元雇用を保証する政策を採用することによって、コミュニティを再構築すること。
「炭素排出許容量(カーボンバジェット)を超えない経済の実現を図るためには、消費を減らし(貧困層は除く)、貿易を減らし(その一方で地域に根ざした経済の再構築を図る)、過剰な消費のための生産への民間投資を減らすことが必要である」。その代わり、財政支出や環境改善のための公共・民間投資は強化する。「その結果、多くの人々が地球の能力の範囲内で快適な暮らしを営むことが可能になる」と、著者はいう
 著者が提唱するのは、脱成長と低炭素社会への移行である。労働時間の短縮、週3日ないし4日の労働、ベーシックインカムの導入、「医療や教育、食料、清潔な水といった、すべての人が生きるために欠かせないものを確実に得られるようにするセーフティネット」の確立。
 そのような未来社会は、けっして夢物語ではない。


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吉野晩秋──栗田勇『芭蕉』から(12) [芭蕉]

 芭蕉最初の紀行文といえる『野ざらし紀行』の旅で、かれが当初からめざしたのはふるさと伊賀上野と吉野の西行庵だった、と栗田は記している。
 貞享元年(1684)9月半ば、芭蕉は同行した門人、千里(ちり)の里、大和竹ノ内村を訪れたあと、ひとり吉野に向かった。
『野ざらし紀行』には、こうつづられている(現代語訳)。

〈ひとり吉野の奥にやってきたが、じつに山が深い。白雲が峰に重なり、烟雨(えんう)が谷をおおう。山人の家がところどころちいさく見え、西で木を伐(き)る音が東に響き、寺々の鐘の音が心の底に伝わってくる。昔からこの山にはいって、世を忘れた人の多くは、詩にのがれ、歌に隠れたものだ。吉野はまさに唐土(もろこし)の廬山に匹敵するといってもよいだろう。
ある坊に一夜を借りた。そのときの句。

  碪(きぬた)打ちて我に聞かせよや坊が妻〉

 とくに注をいれる必要はないだろう。いれるとすれば中国の廬山くらいなものか。廬山は江西省の北端にあり、標高1474メートル。「山上には奇岩秀峰が林立し、山麓の湖水とあいまって美しい景観を持つ」と栗田はいう。「脱俗隠栖の地として名高い」とも。
 吉野を日本の廬山だとするのは、当時の国際感覚の広がりを想像させておもしろい。ぼくなどは中国共産党の廬山会議を思いだしてしまうが……。
 ところで、芭蕉は吉野が世を忘れた人の多くが、詩にのがれ、歌に隠れた山だと書いているが、これはホームレスの隠士をめざしたいかにも芭蕉らしいとらえ方で、栗田自身は「『花の吉野』は、特殊な伝統のある場所であったことも忘れてはならない」と付記している。
 それは万葉集、人麻呂の呪歌(じゅか)にもみられるように、吉野には霊性が宿っているということなのである。
 ちなみに、持統天皇(645-703、在位690-697)は、前後31回にわたって吉野に行幸したという。文芸評論家の山本健吉は、吉野は禊(みそ)ぎの場所であり、「その禊ぎには、若やぐ霊力によって変若(おち)かへることができるといふ信仰があつた」と論じているとか。
 たしょう生々しい話をすると、吉野は反攻の拠点ともなった。壬申の乱のときの大海人皇子(のちの天武天皇)しかり、源平合戦のときの源義経しかり、建武中興の後醍醐天皇しかり、ということになる。
 吉野はよみがえりの地なのだ。千本桜はそれを象徴する存在だった。

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[桜の吉野。2013年4月に訪れたときの写真。]

 そして、吉野は何よりも聖地だった。だが、芭蕉にまつりごとの話は似合わない。むしろ、この地に庵をかまえた西行(1118-90)の跡をたずねることが、旅の目的だった。
 芭蕉は吉野の宿坊に宿をとった。栗田によると、吉野には喜蔵院、南陽院といった妻帯の僧侶が営む宿坊があったという。
 だからこそ、「碪(きぬた)打ちて我に聞かせよや坊が妻」の句がでてくるのである。
 碪とは洗った衣を打って柔らかくしたり、皺を伸ばしたりする道具。打つと音が聞こえてくる。砧とも書く。
 解説によると、このとき芭蕉の脳裏に浮かんでいたのは、世阿弥の能『砧』だったという。
 栗田はこう評する。

〈芭蕉が耳にしたのは、現実の砧の音ではない。詩的幻想に他ならない。和歌的叙情に対する芭蕉の俳諧としての新しい立場がある。現実の「坊が妻」を能のシテとして見、自己をワキ僧と観じることは、日常を超脱した風狂の立場である。〉

 芭蕉はきぬたの音を聞いたわけではない。この吉野の地で、坊さんの奥さんが洗いものをきぬたで打って、その音を聞かせてくれたら、なんとも風雅なのにと想像したのである。どことなく、おかしみもある。
 翌日、芭蕉は西行庵に向かった(現代語訳)。

〈西行上人の草庵跡は、奥の院から右に2町[約200メートル]ほど分け入り、山人しか通わない細い道を通り、険しい谷を下った場所にある。何とも尊い。とくとくと湧いている清水は昔から変わらないとみえ、いまもとくとくと雫(しずく)が落ちている。

  露とくとく試みに浮世すすがばや〉

 西行庵はいまも残っている。われわれ夫婦が2013年に吉野を訪れたときは水分(みまくり)神社までたどりついたものの、その奥にまで行く元気がなかった。いまからすれば惜しいことをしたものである。

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[西行庵。吉野町公式ホームページより]

 西行庵脇の清水は、いまも湧いており、「苔清水」と名づけられているようだ。
 観光客の多いいまとちがって、芭蕉が訪れたころは、さぞかし深山幽谷の趣だったにちがいない。
 芭蕉の句はくどくどしく説明するまでもない。とくとくと湧いてくる清水で、浮き世の塵をすすいでみたいものだと歌う。
 人の身も心もさわやかにする吉野は、やはりよみがえりの地にちがいなかった。人とは挫折をくり返しながら、また立ちあがり、ふたたび歩きだす存在なのだ。

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ふるさと伊賀へ──栗田勇『芭蕉』から(11) [芭蕉]

 10月にはいって栗田勇の『芭蕉』下巻が発売された。書店でみると厚さが上巻の3分の2ほどしかない。目次を眺めると、上巻で予告されていた「第6部 枯野の旅──旅に病んで」が欠落し、おくのほそ道の最終到達地である大垣で、筆が止まっている。栗田氏は88歳のご高齢である。「枯野の旅」はもはや執筆がかなわぬのであろうか。なんともいえぬ思いをいだく。それでも芭蕉最後の旅が完結することを祈らないわけにはいかない。
 それはともかく、当方もまた年寄りの読書である。その歩みはじつにゆっくりとしていて、しかも断続的。この先、どこまで読み進めるかもわからないが、本を読むのは、老後に残された楽しみのひとつにはちがいない。
 貞享元年(1684)8月、41歳の芭蕉は深川芭蕉庵から、いわゆる『野ざらし紀行』の旅に出立した。東海道をへて、伊勢を参拝したところまでは、前に記した。今回は栗田勇著『芭蕉』をさらに読みながら、その後の芭蕉の足どりをたどってみよう。
 芭蕉は8月末に伊勢を立ち、9月8日にふるさとの伊賀上野に戻った。
 うまくコピーできないのだが、自筆の画巻(えまき)には、伊勢の社と五十鈴川に架かる橋がえがかれ、そのあと、ふるさとに戻ってきたときの様子がつづられている。

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[『甲子吟行(別名、野ざらし紀行)画巻』より]

 前年6月20日に母が亡くなったのに、江戸で大火に遭った直後で、帰郷することができなかった。それが、ようやく一段落したため、芭蕉は母の菩提をとむらう旅に出たのである。
『野ざらし紀行』には、こう書かれている。例によって、現代語にしておこう。

〈9月のはじめ[現在の暦では10月半ば]、ふるさとに戻った。母はすでになく、いまはその面影に接することもできない。何もかも変わってしまった。兄や姉の鬢(びん)も真っ白になり、眉のあたりも皺だらけで、たがいに「何とか生きているよ」と言うばかり。兄が守り袋を開いて、いう。「母の白髪を拝めよ、浦島の子の玉手箱ではないけれど、おまえの眉も少し白くなったな」。それを見ていると、しばし涙がとまらくなった。

  手に取らば消えん涙ぞ熱き秋の霜〉

 母の遺髪を手にすれば、いまにも飛んでいってしまいそうだ。それを見ていると、熱い涙があふれてくる。外は霜のおりる季節だというのに……。
 芭蕉はそう歌い、慟哭した。
 ふるさとには長く滞在しなかった。あまりにつらかったのかもしれない。
 大和に向かった。

〈大和の国に行脚した。葛下(かつげ)の郡(こおり)、竹ノ内というところに行く。ここは同行した千里(ちり)の里なので、何日か逗留して、足を休めた。

  綿弓(わたゆみ)や琵琶に慰む竹の奥〉
 竹ノ内は葛下郡当麻(たいま)村にほど近い村落。
 葛下郡は葛城下(かつらぎしも)の略称だという。
 現在の葛城市の一部。竹ノ内は二上山(ふたがみやま、にじょうさん)の麓にある。作家、司馬遼太郎の母方の里でもある。

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[二上山。市のホームページから]

 伊賀上野から竹ノ内に行くには、奈良を通らず、初瀬(現桜井市)経由の街道を行く。初瀬には長谷寺があるが、今回、芭蕉は旅を急いだようである。長谷寺はまたあらためて訪れる機会があるだろう。
 栗田勇は、日本人の魂のルーツともいうべき、この大和葛城の地について、こう書いている。

〈いま、芭蕉の俳人としてのルーツをたずねて、旅をたどっていると、あの葛城山から二上山の風景が、胸中にありありと甦ってくるのを抑えることができない。そして芭蕉もまた、大和の国というとき、葛城山から二上山への風景に、日本の最初の山間に遊行する修験者役小角(えんのおづぬ)の原像をも感じとっていたと想わずにはいられないのである。〉

 司馬遼太郎は河内と大和竹内(たけのうち)村を結ぶ竹内街道を「古代ミワ(三輪)王朝や崇神王朝、さらにはくだって奈良朝の文化をうるおした古代のシルク・ロードともいうべき道だ」と呼んでいる。
 古代日本文化の中心は、葛城山、二上山のふもとに広がっていた。そこが、もともとの大和の地である。
 大和高田から竹内峠にいたる道は、いますっかり鄙びているらしい。かえって芭蕉が歩いたころのおもかげを残しているかもしれない。
 ところで、芭蕉の詠んだ句「綿弓や琵琶に慰む竹の奥」についてである。
 綿弓とは、実を取りだした綿を弦で柔らかくする道具。綿打弓ともいう。
 その綿打弓をはじく音がまるで琵琶のように聞こえてくる。その弓をはじいているのは、隠士のような村長(むらおさ)だ。
 旅人の無聊を慰めてくれる琵琶のような綿弓の音が、竹林の奥に住む村長の住まいから聞こえてくる、と芭蕉は歌った。
 竹ノ内村に滞在中、芭蕉は当麻寺(たいまじ)を訪れている。

〈二上山当麻寺に詣でて、庭の松を見た。千年を経たのではないかと思われる巨木で、その大きさは牛をも隠すほどだ。木は情をもたない。それでも、それが伐られなかったのは、仏縁によってであろう。幸いにして尊いことである。

  僧 朝顔 幾死(いくし)に返る法(のり)の松〉

 当麻寺は、役小角ゆかりの古寺として知られる。
 寺には中将姫が蓮の糸で織ったと伝えられる当麻曼荼羅図も残されている。
 芭蕉は千古の松をたたえることで、とだえることのない寺の法灯に思いを寄せた。そして、僧も朝顔も生死のうちに次々と入れ替わるものの、寺は法を護持しながら、この松のようにいつまでもつづくと歌ったのである。
 栗田はこう記している。

〈この句では、一日にして終わる朝顔や、またはかない命の僧侶たちが、いくたび死しても、この松ばかりは千歳の永遠の命を表わしていることを詠じている。ここからは、深い歴史的時間、永劫回帰の時間の流れを通して、大和の国の風景、そして古代の歌人たちの詩歌が偲ばれているのである。〉

 芭蕉にとって、旅とは単なる空間の移動ではなく、時の遡上をも意味していた。次の行き先は西行ゆかりの地、吉野である。

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資源収奪に頼らない暮らし──『これがすべてを変える』を読む(6) [本]

 ファーストネーションとはイヌイットを除くカナダ先住民の総称で、昔のようにインディアンという言い方はされない。カナダには630以上のファーストネーションの共同体があり、その半数以上がブリティッシュコロンビア州やオンタリオ州で暮らしている。
 カナダでは憲法により、先住民の権利が認められており、かれらはみずからの土地を守るため、化石燃料採掘やパイプライン建設にたいする反対運動をくり広げている、と著者はいう。
 そして、それはカナダに限られるわけではない。アラスカでもボリビアでもアマゾンでもオーストラリアでも、世界中で先住民が立ち上がりはじめた。
 各国政府は依然として先住民の同意を得ないまま採掘プロジェクトを推進している。先住民はたしかに貧しく、社会的な力ももたない。しかし、著者によれば、そうした不利な立場に置かれているもかかわらず、かれらは化石燃料掘削プロジェクトにたいし、次々と訴訟をおこしているのだという。
 大企業相手の訴訟は見るからに勝ち目がなさそうだ。だが、先住民による訴訟は、いまや非先住民のあいだにも共感を生みつつある。カナダ政府は規制緩和によって、大規模掘削プロジェクトの道を切り開こうとしていた。しかし、これにたいして「もう黙っていられない(アイドル・ノーモア)」という運動が各地で巻き起こったのだ。
 とはいえ、開発が進むにつれ、先住民コミュニティへの経済的プレッシャーが強くなるのも事実だ。石油・天然ガス産業は、住民に生活費の援助や職業訓練などの提供を約束することによって、コミュニティを支配しようとする、と著者は指摘する。
 化石燃料の採掘に反対する先住民の闘いは貴重である。その闘いは支援されなければならない。しかし、ここで著者は問うのだ。
「非先住民である人々が、地球上で最も貧しく、構造的に権利を剥奪された人々に、気候変動から人類を救う救世主になってくれと頼むのであれば、ありていに言って、私たちは彼らのために何をするのか?」
 この問いかけは重い。
 ここで、舞台はアメリカへと転じる。
 モンタナ州のノーザンシャイアンは、1970年代以来、石炭採掘企業を寄せつけなかった。だが、現在は保留地のすぐ外で新規炭鉱が認可され、鉄道も敷かれようとしている。さらに、その保留地内でも採炭企業に土地を引き渡そうとする動きもある。失業率の高さが石炭マネーの誘惑に屈しようとしているのだ。
 それでは、シャイアンが貧困と絶望から抜けだす道はないのか。ある指導者は保留地に風力と太陽光発電を取り入れるこころみをはじめた。
 著者はこう書いている。

〈再生可能エネルギーは、規模がどんなに大きなものでも、川にダムを建設したり、天然ガス採掘のために岩盤を爆破したり、原子力を制御したりするのとは反対の謙虚さを必要とする。力ずくの技術で自然のシステムを人間の意思に屈服させるのではなく、人間のほうがそのシステムのリズムに適応することを求められるのだ。〉

 エネルギーを化石燃料にではなく、再生可能エネルギーに頼ることは、人間観の転換につながる、と著者は指摘する。それは「自分たち人間が自然の主人──「神の種」──であるという神話を解体し、自然界との関係性のなかに存在するという事実を受け入れることだ」。
 家に太陽熱ヒーターを取りつけるこころみは、シャイアンのあいだで評判を呼び、ソーラー・ビジネスに加わる若者も増えてきた。そして、それが「石炭はもういらない」という運動につながっていったというのだ。
「この地域が世界に対してはっきり示したのは、化石燃料に反対する闘いにおいて、現実的な代替策の創出ほど強力な武器はないということだ」と、著者はいう。
 つまり、貧困におちいっている地域に、技能訓練や雇用、安定した収入があってこそ、資源開発と収奪、汚染に対抗できるのだ。そのためには、外部の多国籍エネルギー企業ではなく、地元民自身が主導権を握らなくてはならない。問われるのは、そのためにどのような支援をおこなうかということなのである。
 北米では化石燃料への投資を引き上げるダイベストメント運動が盛んになりつつあるという。しかし、だいじなのは引き上げた資金を、健全な地球を取り戻そうとしているプロジェクトに再投資することだ、と著者は指摘する。それによって、再生可能エネルギーの力が増してくるのだ。
 権力と闘うだけでなく、実際に再生可能エネルギーというオルタナティブの方向性を示すこと。地域社会が再生可能エネルギーを管理するプロジェクトよって、人びとの雇用を確保し、公共交通網を整備し、公営住宅を増設し、都市やコミュニティを再建することが求められている、と著者はいう。
 地中の炭素資源を掘り出さないことは、地球の気候の安定化にも寄与する。したがって、先進国はその負担にたいし資金を提供してしかるべきだ。これは「地球のためのマーシャルプラン」だ。これはいまのところ夢物語だが、あきらめるわけにはいかない、と著者はいう。
 いまのところ、先進国の温室効果ガス排出量の増加はおおむね収まり、排出源は中国やインド、ブラジル、南アフリカなどの新興国に移動している。それは多国籍企業が高消費型経済モデルのグローバル化にめざましい成功を収めたからだ。新興国が発展するのは悪いことではない。しかし、環境を汚染しながら繁栄を手に入れるのでは意味がない。
 産業革命をもたらしたのは石炭だった。そして、産業革命は不平等を拡大し、労働や資源を搾取し、現代のグローバル経済の基礎をつくりあげてきた。途上国は先進国のつくりだした不平等と貧困から抜けだすために、いまや大量の化石燃料を燃焼させ、地球環境を悪化させようとしている。
 この悪循環を断ち切るためには、どこかで妥協点をみいださなければならない。そのためには、公正な排出削減策が必要になってくる。その基準となるのは、歴史的な排出に対する責任と、その国の発展レベルにもとづいた貢献能力だ。そう考えれば今世紀末までに必要とされるCO²削減量のうち、アメリカは30%ほどを負担しなければならない、と著者はいう。
 本書の最終章には、著者自身の個人的体験にふれる記述がある。
 子ども授かるため、著者は不妊治療クリニックに通っていた。「人類だけではなく多くの種が不妊という障壁にぶつかり、無事に繁殖することが難しくなり、さらには幼い命を気候変動というこれまでなかった厳しいストレスから守ることがますます難しくなっている」のではないかと思うこともあったという。
 不妊治療をあきらめたとき、ふと妊娠していることに気づいた。しかし、原油流出事故で汚染されたメキシコ湾の湿地帯を調査しているときに流産してしまう。
 環境の悪化によって、もっとも被害をこうむるのは女性と乳幼児だ。「私たちの社会は、生殖能力を保護し、尊重すること、あるいはそれに気づくことすらろくにできていない」と嘆いた。
 不妊治療をやめたあと、救いとなったのは自然療法だった。その要点は「『ひたすら押しまくる』西洋医学の機械的アプローチとは反対に、自分に少し休息期間を与える」こと。
 それは植物でも同じことだ。伝統的な農業では、土壌の生産力を維持するために、休耕期間がもうけられていた。人間も休むことがだいじだった。
 そして、著者もいのちを授かる。出産前の数週間は、自然のままの小川に沿って、よく手入れされた小道を散歩した。産卵から孵化したサケの稚魚の姿を追い求め、またサケが自分の生まれた場所をめざし、急流を上っていく様子を思い浮かべた。そのサケもいまでは絶滅の危機にさらされている。
 人間には復元力がそなわっているという。何度も流産しながら、新しい命を授かった自分はラッキーだとも思う。ただ、人間の身体も、人間を支えるコミュニティも壊れる可能性もあるのだ、と著者は痛感する。
 著者はある作家の話を聞いて、資源収奪主義の考え方と、絶え間ない再生の物語のちがいに思いをめぐらす。

〈重要なのは、自分たち人間が地球を支配しているのではないこと、人間もまた自らが依存する大きな生きたシステムの一部にすぎないことを認めることである。偉大な環境学者スタン・ローの言葉のとおり、地球は単なる「資源(リソース)ではなく「源(ソース)なのだ。」

 資源収奪に頼らない暮らしを思いえがいてみよう。それは「継続的に再生をくり返すことのできる資源に多くを依存すること──すなわち土壌の肥沃さを守る農業手法によって食料を得、常に更新しつづける太陽・風力・波力を制御する手法によってエネルギーを得、金属をリサイクル・リユースされたものから得ること」からはじまるという。
 グローバル資本主義によって、資源の消耗があまりにも急速かつ安易に進んでいるため、「地球−人間系」が不安定化していることは、だれもが認めている。暴走する経済装置にブレーキをかける抵抗運動がはじまっている。新自由主義の行き着く先はディストピアだということに多くの人が気づきはじめた。
 温室効果ガスの排出量は毎年前年を上回り、いまも増えつづけている。早急に経済のあり方を転換しなければならない。社会を変革する運動をおこすのは容易ではない。その多くが途中で挫折し、支配階級によってつぶされてきた。
 しかし、抵抗運動がなくなることはない。気候変動への取り組みは、かつての社会運動のような派手さはないかもしれない。だが、それはすべての人にとって共通の課題であり、そこでは市民一人ひとりが活動家になるのだ、と著者は書いている。
「その闘いとは、何十年にもわたって攻撃にさらされ、無視されてきた共同性、共有、公共性、市民権という理念そのものを再構築し、再生するプロセスにほかならない」
 そして、それは人びとの世界観を変えることでもある。「すなわち、超個人主義ではなく相互依存に、支配ではなく互恵的な関係に、上下関係ではなく協力に根ざす世界観」へと。経済的価値だけがすべてではない。
 反乱はとつぜん生じ、沸騰したものとなる。それがどんなものになるかわからない。だが、そうした沸騰状況がふたたび生じることを著者は予感している。

〈しかし、次にそういう瞬間がやってきたとき、ただ世界の現状を非難し、束の間の限られた解放空間を築くだけに費やすわけにはいかない。すべての人間が安全に生きられる世界を現実につくり出すための触媒としなくてはならない。それ以下で事たれりとするには、事はあまりに重大であり、時間はあまりにも少ない。〉

 本書はきたるべき未来に向けてのメッセージなのだ。

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