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石油ショック後の対応──レヴィンソン『例外時代』を読む(4) [本]

 1973年10月の石油ショック以降、経済環境は激変した。インフレが進むなか不況が深刻化し、失業率が高まっていく。変動為替制のもと為替レートは大きく動いた。こうしたなか、著者は金融システムが大きく変化していったことをとらえている。そのきっかけとなったのはオイルマネーの流入だった。
 1973年7月にイングランド銀行総裁に就任したゴードン・リチャードソンは、世界の金融センター、ロンドンに中東のドル建てオイルマネーが流れこんでいることに気づいた。その額はあまりに大きく、大手銀行はそのカネを融資に回しきれないほどだった。それでも、イングランド銀行は、大手銀行に無理やり市中への資金投入を指示した。
 その結果、不動産投機が生じ、一時不動産市場が活況を呈したものの、すぐにバブルがはじけて、多くの中小銀行が破綻した。イングランド銀行が金融機関への監督を強化するようになったのはそれからだという。銀行は融資や預金、貸入についての情報を、イングランド銀行に定期的に報告しなくてはならなくなった。加えてリチャードソンは、海外からのドルの大量流入が金融システムのバランスを崩す可能性があるとして、各国中央銀行による協議を提案した。
 変動為替制のもとで、国際金融はこれまでにないリスクをかかえるようになった。銀行の資金が、為替レート変動のリスクと切り離せなくなったからである。
 冒険に乗り出す中級銀行もでてきた。たとえばニューヨーク市郊外に拠点を置くフランクリン・ナショナル銀行は、バハマやロンドンに支店を開き、外貨取引をおこなっていたが、それによって巨額の損失をだした。
 ケルンの金融機関バンクハウス・ヘルシュタットも為替ギャンブルにのめりこみ、大きな損失をこうむっていた。ドイツ当局はヘルシュタットを閉鎖するが、ヘルシュタットは外国の銀行とも取引をおこなっていたため、通貨市場に何カ月にもわたって混乱を引き起こした。
 イスラエルで6番目に大きな銀行、イスラエル・ブリティッシュ銀行はヘルシュタットと取引していたため、破綻に追いこまれる。イスラエル・ブリティッシュ銀行は見かけよりずっと大きな風呂敷を広げていた。スイスの銀行を通じて、系列会社に不正な融資をおこなっていることも発覚した。フランクリン銀行にも210万ドルの債務を負っていた。こうして、イスラエル・ブリティッシュ銀行が破綻すると、フランクリン・ナショナル銀行も破綻する。
 1974年のこの連鎖倒産が与えた教訓は何か。「たとえかかわっているのが小さな銀行であっても、国境を越えた銀行業務にからむ問題は火元からはるか遠く離れたところで膨大な経済危機に転じる可能性がある」と著者は論じている。
 変動為替制のもとでの金融流動化が、国際金融システムにこれまでにないリスクをもたらしていたのだ。
 スイスのバーゼルには、各国中央銀行間の決済をおこなう国際決済銀行(BIS)が置かれている。1975年9月、国際決済銀行の「銀行規制および監督業務委員会」で、銀行の外国支店(ないし子会社)にたいする監督強化を目的とするバーゼル合意が結ばれた。だが、国境を越えて運営される金融機関を監督することは困難をきわめた。
 オイルマネーはその後も先進国の銀行に流れこんだ。1973年10月に1バレル=5ドル12セントだった原油価格は、74年1月には11ドル65セント、75年には12ドル37セントに上昇した。このかんOPEC加盟国の受け取った額は1350億ドルにのぼる。そのカネが先進国の銀行に預けられたのだ。「世界中の銀行がフランクフルトやニューヨーク、ベイルート、アトランタに支店を開き、預金を手に入れようと奔走し、それまで接点のなかった借り手に融資を申し出た」と、著者は書いている。
 アメリカ連邦準備制度理事会(FRB)理事長のアーサー・バーンズは、銀行が短期預金を積極的に集めすぎ、融資の期間と返済の可能性を考慮せず、カネを貸しすぎていると警告した。万一の事態に備えるための、銀行の資本不足が懸念された。銀行はオイルマネーという時限爆弾をかかえていた。そして、オイルマネーを燃料とした無謀な銀行業務が、数年後には世界金融システムに深刻な影響をもたらすことになる。

 世界の銀行にオイルマネーが流れこむ金融激流が発生するなかで、アメリカは原油価格の急上昇にどう対応しようとしていたのだろう。
 1973年10月に石油ショックがおきたとき、アメリカは何の備えもできていなかった、と著者は述べている。人びとは郊外の住宅地から1人1台の車で都会に通勤していた。自動車の燃費は悪く、週末のガソリンスタンドはガソリンを満タンにしようとする車でもともと混みあっていたのに、オイルショックがさらに輪をかけた。ディーゼル燃料も不足し、長距離トラックの輸送に支障が出はじめるようになっていた。
 そのとき、ニクソン大統領はエネルギー担当の財務副長官として、ウィリアム・サイモンを指名した。サイモンは1974年5月には財務長官に昇格し、エネルギー問題だけではなく、財政全般を統括することになる。
 当初、議会が求めていたのは、政府が石油市場にさらに介入し、石油の安定供給を確保することだった。ところが、サイモンは石油にたいするこれまでの規制はまちがっており、市場に任せておけば、おのずと価格と需要が調整され、石油不足は解消されると考えていた。
 だが、サイモンの考えはなかなか受け入れられない。その対応が遅れたのは、ニクソン政権はウォーターゲート事件などにより、末期症状におちいっていたことが大きかった。
 石油不足に対応するため、当初、サイモンは心にもない石油の配給計画を提案する。だが、本心ではそんなものがうまくいくはずがないと思っていた。
 政府のさまざまな規制がアメリカでの石油増産にしばりをかけていた。著者によれば「エネルギーはアメリカの経済部門すべての中でもっとも規制の厳しい部門だった」という。
 石油にしても天然ガスにしても、エネルギー部門にたいするアメリカの規制は複雑多岐にわたり、多くの混乱を招いていた。石油も天然ガスもその価格は政府によって決められ、課税がなされており、石油の輸入量も制限されていたのだ。
 アメリカの石油は輸入石油より18%高い値段で売られていた。とうぜん輸入石油への希求が高まるが、政府は輸入量を制限し、精製業者にその配分を割り当てていた。そこには特別割り当てという抜け穴もあった。「石油の輸入割当制度は、複雑怪奇だっただけではない。並外れて非効率でもあった」、と著者は指摘する。
 国内と国外の価格差は消費者にしわよせされていた。いっぽう、インフレに対処するため、政府はガソリン価格を安く抑えようとするあまりに、暖房用の灯油不足を招くという事態も生じていた。
 そこに石油ショックがやってきたのだ。エネルギー問題を解決するには、規制を撤廃すべきではないかという考えが次第に広まっていった。
 特定の商品やサービスの価格は政府の判断によってではなく、競争によって決めたほうが、経済はうまく機能すると主張する経済学者も増えてきた。
 規制にたいするニクソンの考えは一貫していなかった。規制撤廃を呼びかけたかと思うと、規制を維持したり、価格凍結を打ち出したりと、対応は二転三転した。それは議会も同じだった。
 いっぽう、エネルギー問題を担当することになったサイモンは、規制撤廃に向けて、舵を切っていく。価格規制がなくなれば、石油や天然ガスの値段が下がるのか、それとも上がるのか、だれも予想できなかった。
 けっきょく、その後も政府と議会はためらいつづけ、規制は一部緩和されるものの、撤廃されることはなかった。石油や天然ガスの価格は低めに抑えられ、アメリカの石油輸出も21世紀になるまで規制されることになった。
 ニクソンが退陣し、フォード大統領が誕生したあとも、サイモンは財務長官として規制撤廃を訴えつづけた。
 エネルギー分野が行き詰まると、焦点は運輸部門へと移った。それまで運輸業界では政府の規制が強く、自由競争が制限されていた。パイプライン、飛行機、鉄道、船舶、バス、トラックも規制され、その利用価格も政府の認可した額に決められていた。新たな企業が業界に参入しようとしても、その門戸は閉ざされていた。「高い料金と非効率性は業界の大前提で、運輸機構の利用者だけでなく、経済全体の重荷となっていた」と、著者はいう。
 1975年冬、アメリカ政府は航空会社、トラック、鉄道の規制撤廃計画を発表した。それを受けて、1978年にはカーター政権のもと、議会が航空貨物、旅客運賃、トラック、バス、鉄道、海洋貨物などへの規制を撤廃する法案を可決する。
 運輸は手始めにすぎなかった。その後もさまざまな分野で、アメリカでは規制撤廃の動きが相次いだ。金融、電気通信、電力、商業、配送などの分野でも、次々に規制が撤廃される。規制撤廃はイノベーションの波を引き起こした。宅配サービスや格安航空会社、携帯電話会社なども生まれ、商店の営業時間にたいする制限もなくなった。
 だが、エネルギー分野では規制撤廃の効果はさほどあらわれなかった(ガソリン価格の規制が撤廃されるのは1981年)。
 利息の規制撤廃は銀行業界を不安定にし、アメリカでは多くの貯蓄・貸付会社が倒産に見舞われた。格安航空会社の登場で、古参の航空会社は苦しい経営を強いられ、賃金カットや解雇が相次ぐ。それは運輸会社や通信会社も同じだった。
 それでも著者は、規制撤廃はプラスに作用したとみる。古い仕事や古い会社は消えたが、新しい会社や新製品が生まれたからである。
 とはいえ、次のように書き足すことを忘れていない。

〈だが規制という皮膜構造がなくなると、黄金時代の非常に根本的な側面だった安定と安心は決定的にそこなわれてしまう。政府が生産性の伸びを復活させ、経済を再活性化しようとする中で、安定は手の届かないぜいたくになってしまったのだった。〉

 石油ショック以降、世界の経済潮流は大きく変わろうとしていた。

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高度経済成長の終わり──レヴィンソン『例外時代』を読む(3) [本]

 1970年代初期は環境問題が強く意識されはじめた時代でもあった。ローマ・クラブという謎の団体が『成長の限界』という本を出版した。そこには、あくなき経済成長の追求が、環境汚染と資源枯渇、人口増加、食糧不足を招き、その結果、100年後には世界が危機におちいると記されていた。じつはローマ・クラブというのは、マサチューセッツ工科大学の研究者グループが仮に名づけた名前だったという。
『成長の限界』について、著者はこう要約している。

〈戦後世界の驚異的な成長は、持続不可能なばかりではない。不道徳でさえあったのだ。世界は、自らの資源を不法に占有することで豊かになってきた。そろそろ帳尻を合わせるときが来たのだ。「地球は有限である」と著者らは強調した。そして人口が増え続ける限り、一人ひとりがもっと少ない資源で生活することを学ばなければならなくなる、と。〉

 70年代初期は、高度経済成長のツケが回ってきた時代だ。周囲をふり返ってみれば、空も海も川も汚れ、道路にはまるで凶器と化した自動車が走っていた。このままではいけないと感じる人が多くなったのもとうぜんだろう。
 この時代まで、人間の活動が環境にどのような影響を与えるかという知識は乏しかった。戦後20年のあいだに、プラスチックや化学薬品など、これまでにない新商品が発明されていた。レイチェル・カーソンは『沈黙の春』で、殺虫剤が鳥や動物、人間に深刻な影響を与えていることを早くも1962年に警告している。だが、そのころは環境問題にたいする意識は低かったのだ。
 しかし、70年代はじめには、大気汚染問題が深刻になってくる。アフリカ、アジア、中南米の人口爆発が貧困と飢餓を招いていた。このままでは絶望的な食糧不足が生じることが懸念された。
 各国政府もさすがに重い腰を上げた。水質汚染防止法や大気汚染防止法が可決され、自動車の排ガス規制も実施されるようになった。多くの国々が環境局や環境庁を設立した。
 新たな環境運動は、国民総生産(GNP)などの経済指標が社会の豊かさを反映していないことをあきらかにした。どうしてか。著者は次のような例を示している。

〈製鉄所や精製所からの生産品が増えることは純粋にプラスとみなされ、結果として増える環境汚染がもたらす害によるマイナスは考慮されなかった。だがそのくせ、企業や政府が汚染のあとで汚れた水をきれいにするために金を使えば、それも経済成長として計算に入れられるのだ。〉

 環境主義者はここから経済成長は虚構であり、繁栄は敵であり、裕福な国は人口や商品がこれ以上増えない「定常状態経済」をめざすべきだと訴えた。
 70年代からはじまった環境規制は、環境と人びとの健康に、幅広い恩恵をもたらした。いっぽう、環境に配慮しなくてはならなくなった企業は、汚染対策に多くの投資を割くようになった。このことが経済成長のひとつの足かせになったことはまちがいない、と著者はいう。
 とはいえ、環境主義者が求めたように、これで経済成長が限界を迎えたわけではなかった、と著者は指摘する。たとえば70年代以降、トウモロコシなどの平均収量は40年間で66%増加した。新素材にたいする研究もはじまった。アルミ缶のリサイクルも定着した。自動車、ビル、発電所でも、化石燃料の燃焼効率がずっとよくなった。原料のムダも省かれるようになった。その点では、かつてのマルサスの予言と同様、環境主義者の悲観論も杞憂に終わった、と著者は論じている。
 だが、1973年には経済にふたつの大きな地殻変動が発生する。ひとつは固定為替制から変動為替制への移行、もうひとつは石油ショック。その結果生じたのがスタグフレーションである。
 1973年の景気は明るいとみられていた。所得は上がり、消費も好調だった。とりわけ住宅価格が上がっていた。ところがインフレが進み、為替投機がはじまり、スミソニアン協定で決められた為替レートがもちこたえられなくなると、株価が下落する。
 ドルが崩壊しようとしていた。ドル建てで収入を得る石油輸出国機構(OPEC)は、これに不満をいだき、石油価格の値上げを要求した。そのリーダーとなったのが、サウジアラビアの石油相アハマド・ザキ・ヤマニだった。
 1960年代、石油輸出国は貧しかった。石油ビジネスは欧米の企業グループが握っていたのだ。これに対抗するため、サウジアラビアなど5カ国がOPECをつくった。サウジ、クウェート、アラブ首長国連邦、カタールは欧米の石油大手企業に、国有化をちらつかせながら、企業の所有権の一部売却を迫り、ついにそれを勝ち取る。
 1972年にはドルの購買力低下を理由に、アラブ6カ国が石油価格値上げを求めた。交渉の結果、1973年6月には、1バレル=2ドル59セントだった石油が1バレル=2ドル90セントへと値上がりする。
 そこに1973年10月、第4次中東戦争が勃発する。中東6カ国は、イスラエルと戦うエジプト、シリアを支援するため、石油価格を一挙に2倍の1バレル=5ドル12セントに上げた。
 そのころ世界経済は好況で、むしろ物資不足におちいっていた。日本のメーカーは電力から鉄鉱まで、何もかも不足していると訴えている状況だった。紙も繊維も生産が追いつかなかった。物価も上がっていた。完全雇用のもとで、インフレが進行していたのだ。政府はインフレを抑えるため、需要抑制政策(増税、政府支出削減、高金利、銀行融資制限)を打ちだそうとしていたほどだ。
 そこに石油ショックがやってくる。石油価格が2倍になったことで、生産コストが一気に上昇する。生産性の上昇だけでは、このコストアップを吸収できない。

〈石油の高値は、安価な石油を前提として構築された産業基盤全体を時代遅れにしようとしていた。世界は、その後何年も続く困難かつ金のかかる調整に苦しめられることになる。〉

 デマンドプル(需要牽引型)インフレがあったところに、コストプル(原価上昇型)インフレが追い打ちをかけた。しかも生産性の上昇がみられないことから、インフレが進行しているにもかかわらず、経済が停滞する現象が発生した。それがスタグフレーションである。

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「神保町の匠」2017年わがベスト3 [本]

ウェブ論座の書評コーナー「神保町の匠」2017年わがベスト3に、わたしの分も掲載されています。わたしのはともかく、ほかの人が選んだ本がじつにおもしろそうです。つい読んでみたくなります。
よろしければクリックしてみてください。いまのところ掲載されたのは4回分。5回で終わりになるようです。

http://webronza.asahi.com/culture/articles/2017121900009.html

ほかに次のページもご覧ください。

http://webronza.asahi.com/culture/articles/2017122000001.html
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ことしのベスト3 [本]

「神保町の匠」のアンケートで、「ことしのベストスリー」を選んでみました。
対象は人文書ですから、あまりおもしろくないかもしれません。
来週あたり、ほかの人の分もあわせて、webronzaに掲載される予定です。
来週から、いなかの高砂に帰るので、ブログはしばらく休み。そのため、早めにアップしてみました。

ことしも近縁の人を多く見送った。幽明のさかいがあいまいになりつつある。追想と残余。もう若いころのようなあせりはない。ゆっくり本を読む日々がつづいている。
○高橋順子『夫・車谷長吉』文藝春秋
車谷長吉の書くものに、ぼくは生まれ故郷、播州の光や音や匂いを感じていた。小説を書くというのは、崖から飛び降りるくらいすごいことだ。ましてや、小説家との結婚は、生半可な覚悟ではできない。著者は小説家に、あなたのことを好きになってしまいました、と手紙を書く。小説家からは、もし、こなな男でよければ、どうかこの世のみちづれにして下され、と返事があって、ふたりはともに寄り添う関係になる。それから極楽と地獄を往還する日々がはじまった。切ないのに笑える大きな愛の物語だ。
○栗田勇『芭蕉』(上下巻)祥伝社
当初、予定されていた「枯野の旅──旅に病んで」は書かれなかった(いつか書かれることを念願するけれど)。「おくのほそ道」をいちおうのしめくくりとして、10年にわたる連載が完結した。著者は芭蕉の行程に寄り添い、みずからの人生をふり返りながら、芭蕉の残した句を味わいつくす。そこには東洋思想や詩歌の精髄が流れこんでいただけではない。いわば永遠が閉じこめられていた。芭蕉は時空を超える。まさに畢生の大作だ。
○竹田青嗣『欲望論』(第1巻「『意味』の原理論」、第2巻「『価値』の原理論」)講談社
日本で生まれた世界的哲学書といってよい。オビにうたわれた「2500年の哲学の歴史を総攬し、かつ刷新する画期的論考」という惹句も、けっして大げさではない。独断論的普遍主義と懐疑的相対主義の不毛な論争を乗り越え、人間とは何か、世界とは何かという根源的な問いに迫る。世界を価値と意味のたえず生成変化する連関の総体としてとらえ、思考の停止を求める「暴力原理」に対抗して、新たな希望の哲学を立ち上げようとする。時間をかけて熟読すべき本だ。
○ほかにナオミ・クライン『これがすべてを変える──資本主義vs.気候変動』(幾島幸子、荒井雅子訳、岩波書店)、丹羽宇一郎『戦争の大問題──それでも戦争を選ぶのか』(東洋経済新報社)、イアン・カーショー『地獄の淵から──ヨーロッパ史1914−1949』(三浦元博、竹田保孝訳、白水社)。



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ホブズボーム『いかに世界を変革するか』(まとめ) [本]


   1 マルクスの影響力

 エリック・ホブズボーム(1917-2012)はイギリスの著名なマルクス主義史家で、多くの著書を残した。なかでも「長い19世紀」三部作(『革命の時代』[日本語版のタイトルは『市民革命と産業革命』]、『資本の時代』、『帝国の時代』)と『20世紀の歴史──極端の時代』がよく知られている。本書の原著は、かれが2012年に95歳で亡くなる1年前に上梓された。
 サブタイトルに「マルクスとマルクス主義の200年」とある。マルクスは1818年にライン川の支流モーゼル川に面するドイツのトーリアで生まれた。2018年は生誕200年になる。
 おそらくマルクスほど歴史に大きな影響を与えた知識人は、そうざらにはいないだろう。その思想は現在もさまざまにかたちを変えて、引き継がれている。
 マルクス以後の200年をどうとらえるかは歴史家の腕の見せ所といってよい。本書は1956年から2009年までのあいだの、ホブズボームによるマルクス関連の論文や講演を集大成したもので、包括的なマルクス主義史としてはばらつきがある。マルクスの主要著作である『資本論』については言及されていないし、ソ連や東欧、中国でおこった現実についても具体的な記述は少ない。それでも、マルクスとマルクス主義にたいする思い入れが深い本だといってまちがいない。
 全部で16章、日本語版の本文だけで、軽く500ページを超える大著である。学術的な記述にわたる部分も少なくない。この本を読むのは、ぼくのような素人には、はっきりいって骨が折れる。どうしても読者は専門の研究者が中心ということになるだろう。
 ところで、この本を紹介する前に、自身のことを述べておくと、ぼくがマルクスを読んだのは大学時代だけである。それも学問的な訓練を受けたわけではなく、一知半解レベルにとどまる。そのあとは長いサラリーマン時代で、苦しくも楽しい会社員生活を送り、定年になってから、またマルクス関係の解説書を読むようになった。
 資本主義もいろいろ問題はあるけれど、社会主義はひどい体制だと思っている。政党支持でいえば、無党派層に属する。政治は嫌いだ。だから、とてもマルクス主義者とはいえない。それでもマルクスにはひかれる。マルクスは天才だと感じている。そんなうすぼんやりした感覚しかもたないぼくに、はたしてこの本の内容が理解できるだろうか。
 そんな思いをいだきながら、本書を読みはじめた。最初のページから最後のページまで気合いをいれて読むのはくたびれるので──最近は歳のせいで、本をめくりはじめると、たちまち頭に霧がかかって、睡魔に襲われてしまうのだ──おもしろそうな章を気の向くままに読むことにした。
 さて、第1章の「現代のマルクス」は2006年の講演を書きなおしたもので、マルクスとマルクス主義にたいする著者のとらえ方を示しているため、これをはずすわけにはいかない。
 マルクスがロンドンで亡くなったのは1883年のことだ。享年65歳。マルクスより2歳年下のエンゲルスは1895年まで長生きする。
 ホブズボームはマルクスが失意のうちに死んだわけではなかったと書いている。「彼はその生涯のなかば以上を亡命者として過ごしたイギリスで、政治においても知的生活においても、目立った地位を占めることがなかった」。しかし、その影響力は生前から少しずつ広がりはじめていたというのだ。
 マルクス死後70年のうちに、人類の3分の1が、マルクス主義を信奉する共産党国家のもとで暮らすようになった。いま、その割合はソ連共産党の解体によっては2割ほどに減ったが、それにしても、これほど大きな影響を与えた思想家はほかにいない、と著者は書いている。
 古いレーニン主義(スターリン主義)体制はソ連崩壊によって放棄された。逆にいまは生のマルクス自体が見直されようとしている、と著者はいう。
『共産党宣言』は、現代のグローバル世界を予言していた。ジョージ・ソロスがマルクスを高く評価していることも、よく知られている。2008年のまさかの恐慌は、マルクスをよみがえらせる、ひとつのきっかけとなったという。
 20世紀になって、マルクスの思想は社会民主主義と(ソ連型)社会主義に分裂した。こうした分裂が生じたのは、マルクスの死後に、さまざまな解釈や修正がほどこされたからだ。マルクス自身は、そのどちらを唱えたわけでもなかった。
 マルクスは生産力の面で、社会主義が資本主義にまさると主張したことは一度もない。ただ、資本主義のもたらす周期的恐慌が、資本主義とは異なる体制への移行をうながすと想定したにとどまる、と著者はいう。
 著者によれば、社会主義経済のプロジェクト、すなわち「無市場・国有・指令経済」を原理とする中央計画経済の考え方は、すこしもマルクス的ではなく、失敗に終わるのが目に見えていた。マルクスは「生産手段の共同所有」を示唆していただけで、計画化については何も語っていなかったというのが、著者のとらえ方だ。
 いっぽう、社会民主主義はマルクスの考え方を修正し、混合経済による資本主義の修正を打ちだした。それは、国富の公平な分配に重きをおいた。だが、社会民主主義はマルクスが本来想定していた「本質的に非市場的な社会」とは、はるかにことなるものだった、と著者はいう。
 著者は最近の「新自由主義」にも触れている。新自由主義とは「自由放任原理の病理学的退廃を経済的現実に転化させようとする企て」であり、いわばアダム・スミス流の考え方を悪用するものだと述べている。
 著者の立場は、あくまでもマルクス本来の立場を継承することに置かれている。

〈マルクスは、3つの点で巨大な力をもっていた。経済思想家として、歴史思想家として、分析者として、社会についての近代的思考の公認の創始者として(デュルケームとマックス・ウェーバーとともに)である。……間違いなく現代への関わりを決して失わないのは、資本主義は人間の経済生活の限られた一時期の様式だというマルクスの資本主義像と、絶えず拡大し集中し恐慌を生み、自己変容していく資本主義の運動様式についての彼の分析である。〉

 著者は「マルクスに立ち返る」ことを提唱する。
 いまやソヴィエト型モデルは消滅し、市場原理主義が世界をおおっている。そのいっぽうで、世界じゅうで富の格差が広がり、自然環境の破壊が深刻化している。
 マルクスの予言がいくつもはずれたことを著者も認めている。それでも21世紀を考えるうえで、マルクスに立ち返ることは有効だと主張する。
 ノーベル経済学賞受賞者のジョン・ヒックスはこういっていたそうだ。

〈歴史の全体の流れを見分けようとするたいていの人々にとっては、マルクス主義の範疇か、あるいはそれを少し修正したものを使うのがいいだろう。なぜなら、それに代わるものがなかなか手にはいらないからだ。〉

 本書はマルクス以降200年の歴史をふり返りながら、マルクスの思考法がいまもどれだけの有効性をもっているかを確認するこころみだといえる。

   2 マルクスと政治

 いま革命家と問われれば、1967年10月にボリビアで銃殺されたエルネスト・ゲバラのことを思い浮かべるかもしれない。世界を変革するというかれの強い思いは、開発途上国、先進国を問わず、いまも多くの青年をひきつけている。
 そのいっぽう、われわれのような老世代は、すでに革命に悲惨な光景を結びつけるようになっている。または、60年代末期の血気盛んなころを思いだして内心忸怩たるものを覚えながら、それでもやはり世界はこのままではいけないと憤慨するのが落ちだろう。もはや世界同時革命を、などと唱える元気はない。日本に社会主義革命を、などといわれても、思わず後ずさりするばかりである。
 マルクスも革命家だった。いや、マルクスこそ近代的な革命家の嚆矢だったといえる。革命家は嫌われる。まして、革命が遠い昔の話になったいま、マルクスなど夢想家にすぎなかったとみなされても不思議ではない。
 しかし、マルクスが生まれた200年前をふり返ってみよう。それはまさに革命の時代だった。1775年にはアメリカ独立革命、1789年にはフランス革命がおきていた。ナポレオンが死んだのは、マルクス3歳のとき。ヘーゲルが死んだのは13歳のときだ。
 1830年には7月革命、1848年2月にはパリ2月革命、3月にはウィーン3月革命、1871年にはパリ・コミューンがあった。そしてマルクスの死後、1905年にはロシアの第一革命、1917年にはボリシェヴィキ革命が発生している。
 その時代、革命はけっして絵空事ではなかったのだ。
 著者のホブズボームによれば、マルクスは時事的な解説は別として、政治についての理論を残しているわけではないという。人間生活の物質的条件を解明し、経済学批判をきわめることが、学者マルクスの第一の仕事だった。
 とはいえ、マルクスは共産主義者同盟の依頼で1848年1月に「共産党宣言」を執筆している(これについては後述)。同年2月に革命が発生するとケルンで『新ライン新聞』を発行し、ドイツの民主化を支援した。しかし、革命が失敗に終わると、ロンドンへの亡命を余儀なくされ、『ニューヨーク・デイリー・トリビューン』に論説を送信しながら、経済学批判の仕事に本格的に取り組むことになる。それでマルクスの政治活動が終わったわけではない。1864年には第一インターナショナル(1864〜76)の設立にあたり、その宣言と規約を書きあげている。
 マルクス自身が政治活動の先頭に立ったことはない。しかし、革命の理論的指導者でありつづけたことはまちがいないだろう。
 反乱は個別的な戦いとしてはじまり、労働組合を通じて、地域的・地方的な経済闘争へと発展し、最後は階級的な全国的闘争へと発展するというのが、革命にたいするマルクスの見通しだった。闘争は経済闘争にとどまらない。政治権力の奪取が求められた。そのためには労働者の党が必要だった。
 著者によれば、マルクス自身は国家の本質は政治権力であり、政治権力は支配階級の利害を代表していると考えていた。革命によってプロレタリアートが権力を握れば、しばらくのあいだ「プロレタリア独裁」の期間がつづくが、階級対立がなくなったあと国家はなくなるものと想定されていた。
 プロレタリア独裁期においては、何らかの社会計画が必要とされ、階級対立がなくなったあとも、社会には何らかの管理運営機能が必要であること(だが、それは統治を目的とする国家ではない)も認められていた。
 とはいえ、著者によれば、プロレタリア独裁とは、単純に反対勢力の弾圧を意味するものではなかったという。それは旧体制の軍隊や警察、官僚制の解体をともない、「主として旧国家装置の生き残りの危険に対して革命を防衛する必要として理解されていた」。つまり、プロレタリア独裁は、ほんらい民衆政府を維持する手段と考えられていたのである。
 プロレタリア独裁のもと、資本主義社会は次第に共産主義社会へと転型されていく。それは長く複雑で、現段階では予想できない発展をたどるものと想定されていた。
 マルクス自身は同時代における革命の可能性をどうみていたのだろうか。
 焦点になるのは1848年である。革命が発生しそうなのは、イギリスではなく、フランスやドイツ、オーストリア、スペイン、イタリアだった。だが、これらの国々で労働者階級は少数派にすぎなかった。
 このときマルクスが求めたのは、プロレタリアートの急進化であって、プロレタリアートが革命に加わり、反動的な君主制を倒すことだったといってよい。それにより、プロレタリアートが(実際には急進派の知識人が)持続的に政治の舞台に拠点を築くことが期待されていた。だが、1848年革命は反動体制の勝利で終わる。
 1857年には世界恐慌が発生したが、革命はおきなかった。それでも、マルクスとエンゲルスは、自分たちの革命ヴィジョンを堅持している。
 著者はこう書いている。

〈その後[1848年から]20年ばかり、彼らにとっては差し迫って成功するプロレタリア革命への展望はなかったが、エンゲルスはマルクス以上に万年青年の楽観主義を保っていた。確かに彼らはパリ・コミューンに多くを期待しなかったし、その短い存続期間にそれについて楽観的な叙述をすることを注意深く控えていた。他方で資本主義経済の急速で世界的な発展、とくに西ヨーロッパとアメリカ合衆国の工業化は、いまやさまざまな国で大量にプロレタリアートを生み出していた。彼らがこのとき望みをかけたのは、これらの労働運動の増大する勢力と階級意識と組織であった。〉

 著者は革命党を設立するというマルクスの思いは、かれの死後、どちらかというと社会主義大衆政党に引き継がれたとみているようだ。エンゲルスは立憲制の確立と普通選挙、社会改革をめざすドイツ社会民主党を支持していた。とはいえ、エンゲルス自身も革命のヴィジョンをけっして放棄したわけではない、と著者は論じている。
 1848年革命の失敗により、大陸では立憲議会制すら達成されず、フランスではルイボナパルト(ナポレオン3世)が皇帝の座についた。
 マルクスは1864年の第一インターナショナル設立に大きな役割をはたした。資本主義が世界的に発展するなか、これからの革命は労働者が積極的な運動をくり広げ、国際的に展開すると考えられていた。
 マルクス、エンゲルスは民族主義的な立場をとらない。民族主義的な立場を認めるとしても、それはあくまでも世界革命の途中経過としてだと考えた。
 戦争を期待するわけではなかった。しかし、戦争と革命は無関係ではないと思っていた。
 マルクスの時代、ロシアは反動の砦と考えられており、ロシアの敗北は革命と進歩をもたらすだろうと思われていた。いっぽうフランスやドイツ(プロイセン)への期待は1848年に裏切られ、ナポレオン3世の統治とビスマルク体制がマルクスをいたく失望させていた。
 戦争ではなく革命を、というのがマルクスの基本的な考え方である。だが、1848年以後の時期は、けっして革命への展望は明るくなかった。「それは主として、ロシアが反動の堡塁であったように、イギリスが資本主義的安定の堡塁であったからである」と、著者は書いている。
 第一インターナショナルが革命に期待を寄せていた場所があったとすれば、それはアイルランドだったという。アイルランドはイギリスの農業植民地だった。その独立運動は、帝国主義との戦いにつながるものだと考えられた。そのいっぽう、マルクスは農業国ロシアでの革命の可能性にも注目しはじめていた。
 だが、その前に戦争が発生する。1870年の普仏戦争で、フランスはプロイセンに敗れ、ナポレオン3世の第2帝政が崩壊する。パリでは民衆が蜂起し、パリ・コミューンが成立する。マルクス自身はパリの蜂起に反対していたが、コミューンが成立すると、それを支持した。
 パリ・コミューンはわずか2カ月ほどで崩壊する。その詳しい情報がはいらないなかで、マルクスは『フランスの内乱』を執筆し、パリ・コミューンを擁護するとともに、共産主義にいたる道として、ふたたびプロレタリア独裁と社会主義、国際的な連帯を強調した。
 パリ・コミューンの挫折のあと、ドイツでは社会民主党がすっかり国家の補完勢力になりさがった。第一インターナショナルは崩壊する。マルクスはロシアでの革命の可能性をさぐるようになった。
 だが、マルクスの死後、革命は遠く去ったわけではなかった。むしろ戦争と革命の時代がつづいたのだ。それはロシア革命からはじまって、挫折したドイツ革命、中国革命、植民地解放闘争、キューバ革命などへとつづくことになる。
 マルクスが世界革命への道を指し示したことはまちがいない。
 とはいえ、それは資本主義が生みだしたプロレタリアートに依拠するものではなく、政治的反乱によってであった、と著者はいう。
 革命の目的は、あくまでも支配階級を転覆することだった。革命政権は独裁的にならざるをえない。マルクスは議会主義を否定していたが、それは、あくまでも社会主義の正しさを堅持するためだった。
 マルクス自身は、プロレタリア独裁の形態は、歴史的発展と具体的な情勢にもとづいて案出されるべきものだと考えていたという。
 著者はマルクスを擁護するため、むずかしい言い方をしている。

〈行動への指針は、自己の教条化への誘惑に絶えずさらされている。マルクス理論のなかで、マルクスとエンゲルスの政治的思考の領域ほど、このことが理論と運動の双方にとって有害であったところはない。しかしそれは、不可避的であったかどうかわからないが、マルクス主義が到達したものを表しているのである。〉

 考えてみれば、民主主義は政治のプロセスにすぎず、独裁をめざさない政治は存在しない。だが、それは、けっきょくのところ歴史の審判にさらされる。マルクスにとって、プロレタリア独裁は社会主義を実現するという信念がもたらした政治信条にほかならなかった。
 民主主義の審判を拒否したプロレタリア独裁政権は、社会主義経済の失敗によって、歴史の断罪を受けることになった。だが、それはもちろん社会主義独裁政権にかぎった話ではないだろう。

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レヴィンソン『例外時代』を読む(2) [本]

 戦後の特徴は、経済にたいする国家の役割が大きくなったことかもしれない。政府は歳出や税、金利を調整することで、市場経済の手綱をうまくとることができるという考え方が強くなっていった。
 著者によると、たとえば、西ドイツの蔵相カール・シラーは、経済の大枠は政府が計画し、企業は市場の枠で、それぞれ事業判断をおこなうものと考えていた。経済にたいする政府の目標は、市場経済のもとで、高い雇用率と着実な成長、安定した価格、国際貿易と投資の均衡を保つことに置かれていた。
 1967年に、西ドイツ政府は今後5年間の目標として、平均4%の経済成長率、0.8%の失業率、1%のインフレ率、1%の経常黒字をかかげた。そのための政策が総動員された。だが、経済は政府の思うままに進まなかった。貿易黒字は増えすぎ、インフレが進み、労働組合のストが頻発した。1972年、シラーは蔵相を辞任する。
 政府の思わくどおりに経済が進むことは、まずないとみてよいだろう。そこには市場独自の力がはたらくからである。
 いっぽう、戦後、アフリカ、アジア、中南米の新興国でも、国の役割がおおいに期待されていた。開発途上国の特徴は、国が上からの急速な産業化を実施しようとしたことである。農業中心の貧困経済から脱出することが目的だった。そのために、開発途上国では国家統制が経済政策の中心となった。
 開発途上国の商品は、1種類か2種類に特化していた。たとえばアルゼンチンなら牛肉と小麦、ブラジルならコーヒー、チリなら銅というように。しかも、その経営はたいてい海外資本によって握られており、世界市況は景気の波により大きく変動した。
 著者はアルゼンチン出身のラウル・プレビッシュという人物に焦点をあてている。プレビッシュは1949年にキューバのハバナで開かれたラテンアメリカ経済連合体(ECLA)の会議で演説し、自由貿易の原理を批判した。中南米の貧困の根本原因は不公平な貿易にあり、巨大な工業国が得ている莫大な利益は周辺国に届いていないと訴えたのだ。
 発展途上国の力を強め、不公平な(言い換えればあまりにも低価格な)輸出商品価格を是正することが求められた。加えてプレビッシュは、政府が主導して製造分野を開拓し、特定の輸入製品を国産製品で置き換える「輸入代替」政策をとることで、新興国の自立をはかろうと提言した。
 この提案は1955年4月にインドネシアのバンドンで開かれたアジア・アフリカ会議でも受け入れられることになった。こうして、資本主義とも社会主義ともことなる「第三世界」という区分が生まれた。
 原料価格を安定させながら、製造業を発展させていくというプレビッシュの考え方は、先進国の反発を招いた。というのも、先進国は開発途上国からできるだけ安い原料を手にいれるとともに、開発途上国にできるだけ多く自国製品を輸出したいと望んでいたからである。
 それが「開かれた自由市場」というもっともな主張に隠されていた、ほんらいの意図である。先進国はむしろ高い貿易障壁をもうけて、開発途上国によるアクセスをはばもうとしていた。
 だが、開発途上国側も黙ってはいなかった。
 先進国と開発途上国側の対立を調整するためつくられたのが「関税および貿易に関する国際協定(GATT)」と、国連貿易開発会議(UNCTAD)だ、と著者は述べている。
 開発途上国は、先進国に対抗するため、スズ、コーヒー、砂糖、油などの輸出商品について、カルテルを結び、価格を安定させようと努めた。そのいっぽう、政府が銀行や船会社、航空会社をつくって、国内の雇用を確保しようとした。
 だが、それはなかなかうまくいかない。多くの開発途上国にとって、20世紀の第3四半期は、ほんとうにひどい時代だった、と著者は書いている。それは戦争や反乱、内戦、自然災害、飢餓の時代だった。それでも、穀物や鉱物への依存から脱却して産業化をとげようとした国も多い。ケニアやパキスタン、ボリビアもそうだったという。
 だが、国が主導する経済は、次第に腐敗と癒着を生んでいく。指導者の親族などが、もうかる独占企業を手に入れて巨万の富を築いたのにたいし、貧しい農民はおきざりにされたままだった。
 1960年から74年にかけては、先進国の好調な経済に支えられて、開発途上国でも、輸出食料や輸出原料の価格が上昇し、それなりに経済がうるおった。ところが先進国の経済が1973年に破綻すると、原料にたいする世界需要が落ち込み、途上国ほんらいの姿があらわになる。政府が繁栄を保障し、全国民の生活水準を上げるという考えはインチキだった、と著者は論じている。
 われわれは戦後経済というと日本経済と、せいぜい米国経済のことしか意識しない。しかし、本書は開発途上国の状況を念頭におくことがいかにだいじかを教えてくれる。
 ここで、場面は米国へと転じる。
 米国のニクソン大統領は経済にはあまり興味がなく、経済のことは連邦準備制度理事会(FRB)議長となるアーサー・バーンズ(コロンビア大学教授)にまかせきりだった、と著者は論じている。だが、その経済音痴のニクソンが、世界経済の動きを一気に変える経済政策を決めたというのは、皮肉といえば皮肉だろう。
 FRBは経済への資金の流れを締めたり緩めたりすることで、経済全体のパフォーマンスを調整する役割を担っている。FRBの役割をめぐっては大きな論争があった。失業率を抑えることを優先すべきだという考え方と、インフレ率を抑えることを優先すべきだという考え方である。ニクソンは両方を抑えてもらうことをバーンズに期待した。
 バーンズ自身は金融政策だけでインフレが収まるわけではないことを知っていた。実際、アメリカのインフレは1971年前半にすこし落ち着いただけで、ふたたび上昇しはじめる。
 だが、このことが1944年以来のブレトン・ウッズ体制の崩壊をもたらすことになる。ブレトン・ウッズ体制のもとでは、米ドルを基軸として為替レートが固定されていた(たとえば1ドル=360円)。加えて、海外で余ったドルを35ドル=1オンスの金(きん)でアメリカが引き取る約束になっていた。
 しかし、1968年段階で、すでにドルは海外にあふれており、実際に余ったドルを金に交換できる状況ではなくなっていた。1971年8月、ニクソンは金ドル交換の停止と、賃金・物価の90日間停止を発表した。これが、いわゆるニクソン・ショックである。
 金ドル交換の停止は為替レートの安定にはつながらなかった。金融市場にはむしろ混乱が広がった。そのため1971年終わりにスミソニアン協定が結ばれ、ほかの通貨にたいしドルを切り下げる(たとえば1ドル=308円)という弥縫策が打ち出された。
 そんななか、FRB議長のバーンズは金利引き下げに走る。1972年の大統領選挙を前に、ニクソンから経済に弾みをつけるよう求められていた。アメリカでは、インフレが多少進んでも、景気がよくなれば、それでかまわないという考えが主流だった。じっさい、アメリカでは金利引き下げによって失業率が下がり、ニクソンは楽々再選をはたした。
 ところが、安易な金融政策のつけがすぐに回ってくる。インフレは収まることがなく、固定為替制度の崩壊を招くことになるのだ。著者は、次にそのあたりの状況を詳しく分析しようとしている。

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竹田青嗣『欲望論』を読む(1) [思想・哲学]

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 買うか買うまいか迷った末にとうとう買ってしまった。
 上下2巻1200ページを超える大作である。
 第1巻は「『意味』の原理論」、第2巻は「『価値』の原理論」と銘打たれている。このほかに、続刊として倫理学と社会哲学が予定されているというから、まだ先が残っている。
 第1巻と第2巻は4部から構成されている。

 第1部 存在と認識
 第2部 世界と欲望
 第3部 幻想的身体
 第4部 審級の生成

 著者は1947年生まれの哲学者、文芸評論家。現在、早稲田大学国際教養学部教授の肩書をもつ。哲学に関する多くの著書があるが、本書はその総決算といえるだろう。
 オビには「一切の哲学原理の総転換!! 21世紀、新しい哲学がはじまる! 2500年の哲学の歴史を総攬し、かつ刷新する画期的論考!!」とうたわれている。こういううたい文句には、いかにも売らんかなの姿勢がみえみえで、あまり信じたくないのだが、これまでの哲学史を塗り替え、新たな地平を開くというのは、たしかに壮観にはちがいない。
 2冊で税別7800円という値段にも、ちとたじろいだ。しかし、なによりためらったのは、これまで哲学など無縁で、それほど先のないぼくなどに、はたしてこの本が理解できるかどうか、まったく自信がもてなかったからである。
 でも、思い切って買ってしまった。
 人間とはなにかがわかる手がかりになればいいと思ったからである。
 誤読の可能性はおおいにあるが、わからないなりにも断続的に1年くらいかけて読んでいけば、人間という親密かつ凶暴な存在について、なにかあらたな知識が得られるのではないか。そんな軽い気持ちで、本書のページをめくることにした。途中で挫折する可能性は高いが、例によって、きれぎれの感想である。
 はじめに暴力があり戦争があったと著者は書いている。人間がそのなかを生きていくには、共同体をつくらねばならなかった。暴力や戦争はつねにあり、人はつねに死におびやかされていた。それに対抗するため生まれたのが宗教や哲学だ。宗教はよりよく死ぬための「物語」であり、哲学はよりよく生きるための「原理」だった。
 著者はいう。

〈古来、哲学の問いの中心には世界とは何であるか、世界を正しく認識できるかという問いが、すなわち「存在の問い」と「認識の問い」が存在してきた。しかし、この問いの根底には、いかに善き生を生きうるかという問いとともに、いかに人間が潜在的な暴力の不安から逃れうるかという問いが潜んでいる。〉

 人間は世界のなかに生きている。その世界とは何なのか。また人間ははたして世界を正しく認識できるのか。それが存在と認識の問いである。だが、その根底には人間とは何であるのかという、さらに根本的な問題がひそんでいる。
 だいじなのは哲学的原理という方法なのだ、と著者はいう。つまり考えるためのテコだ。その方法は時代に応じて、つねに再生されねばならず、それが失われれば、混乱が支配する。
 現代哲学は、哲学的原理を打ち立てようとした近代哲学を乗り越えるため、批判的相対主義におちいり、批判のための批判をくり返している。だいじなのは哲学的原理という方法を再生することだ。そのためには「一切の哲学と思想の中心的方法と原理を、新しい思想の解剖学によって解体し、これを吟味し尽くさねばならない」と、著者は宣言する。
 現代思想の特徴は「相対主義」にあるといってよい。絶対的な認識はありえないとして、すべてを相対化し、批判する考え方だ。そこからは、正当なものは何もない、逆にいえば、あらゆるものは正当化されるという思想が生まれる。
 こういう考え方が生まれたのは、20世紀前半に人類が全体主義(スターリニズムとファシズム)という原理主義的思想の災厄をこうむったためだろう。そこから、近代そのものを否定するポストモダン思想が登場した。その標的となったのは、ドイツ観念論に代表されるヨーロッパの形而上学だった。
「このことで、現代の批判思想は、形而上学的、独断論的普遍主義に対抗する批判的相対主義という、決して答えの見出せない哲学的な袋小路に入り込むことになった」と、著者はいう。それは不毛な対立を招いた。
 形而上学的独断論と懐疑的相対主義の不毛な対立を回避するには、まず「本体」の観念を解体するところからはじめなければならない。哲学は「本体」なるものが存在すると考えてきた。逆に本体には誰もアクセスできないというのが、懐疑論の思考だった。
 著者は、独断論であれ相対主義であれ、「本体」から出発するこれまでの哲学的思考を克服しようとした哲学者として、ニーチェとフッサールの名前を挙げている。
「『本体』の存在が暗黙のうちに想定されているかぎり、認識は可能であるか可能でないかのいずれかでしかない」。このことが、哲学に不毛な論争を招いてきたのだ。
 著者は本体論を解体する手がかりとして、「認識相関性」という概念をもちだす。これは認識相対主義とはことなる。認識相対主義は、自分自身の観点からしか対象を見ることができないため、すべての認識は相対的であって、「本体」自体の正しい認識はできないとする。ところが、「認識相関性」の考えでは、人はみずからの身体−欲望に関連づけて「世界」を生成するとみるから、そもそも「本体」を想定することはできず、想定する必要もないのだ。
 このとき「世界」は「生世界」となる。だれにとっても個別に存在する世界、それが「生世界」だ。「『生世界』は生きとし生けるものにとっての絶対的、偶有的事実であり、それゆえまったくドクサ(臆見)を含むことのない、『世界意識』の根源的出発点である」と、著者はいう。
 そこから新しい認識論が生まれる。「本体」の認識という考え方は廃棄される。それに代わって個々の「世界体験」から間主観的な問題構成に展開し、世界存在の普遍性を理解する方法が開けるのだ。
 意味は記号の本体ではない。意味と価値はほんらいひとつのものだ。世界は「生けるもの」の「欲望−身体」相関性としてのみ生成する。したがって、世界は価値と意味のたえず生成変化する連関の総体としてとらえられる、と著者はいう。
 世界体験から出発して世界の普遍的理解にいたる「言語ゲーム」を著者は哲学と名づけているようにみえる。それは「暴力原理」にもとづく思考の停止、あるいは懐疑主義によるデカダンとは対極にある努力にほかならず、現実世界の「現実論理」と対抗するものなのだ。したがって、これからえがかれようとするのは、いわば希望の哲学といってもよいものかもしれない。
 気の向くままに、少しずつ読んでいきたい。

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レヴィンソン『例外時代』を読む(1) [本]

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 本書は20世紀後半の経済史である。
 著者のマルク・レヴィンソンはこの時代を、はっきりふたつに分けている。
 第一期が「世界の多くの地域で異常なほどの好景気が見られた時期」。第二期は経済成長が失速し、「繁栄のぬくもりが冷たい不安感に取って代わられた」時期。その分水嶺となったのは1973年。石油ショックの年だ。
 第一期は「黄金時代」だった。しかし、それは長くつづかない。

〈時代の流れを見れば、黄金時代はごく短いものだった。瓦礫だらけの世界から花開いて四半世紀も経たないうちに、着実に改善していく生活水準と誰もが仕事を手に入れられるという想像を絶するほどの繁栄の真っただ中で、その時代は突然に終わりを迎えたのだ。……あの長い好景気は、二度と訪れることのない一度限りの出来事だったのかもしれない。〉

 戦後直後の四半世紀、日本でいう高度成長期は、経済史のうえでは黄金期の「例外時代」であって、その後はジェットコースターのように激しく上下する通常の経済状態が再開された、と著者はみているようだ。
 こうした見方には異論もあるだろう。いまはそのことを問わない。とりあえず素直に読むことにしよう。ただし、例によって、年寄りらしく、よたよたとしか進まない点は、ご寛恕のほど。
 はじめに、1945年から1970年代初頭は、歴史上もっとも驚異的な経済発展が生じた時代だった、と著者は書いている。この時代に人びとのくらしは大きく変化した。
 戦後直後は、戦争で経済が疲弊しきったなかで、だれもが経済の奇跡がおこるなどとは思っていなかった。平和が訪れたとき、まず求められたのは福祉だった。1945年から46年にかけ、イギリスでは子ども手当や失業保険、老齢年金、寡婦補助金、国民健康保険などが導入された。こうした動きは各国に広がっていった。
 ヨーロッパ諸国や日本で、復興は困難をきわめた。日本では空襲により製鉄所や化学工場が壊滅していた。だが、幸いにも鉄道や発電所は残っていた。道路や橋を再建し、農業生産力を回復させるなど、やるべき仕事はいくらでもあった。
 問題は資金が足りなかったことである。工場再建のための機材や、国民のための食料を輸入することもできなかったのだ。
 ヨーロッパでもアジアでも、共産党の勢いが強くなっていた。これに警戒を強めたアメリカは、1948年にマーシャル・プランを実行に移す。こうしてヨーロッパの経済再建につとめるとともに、日本の経済復興にも手を貸すようになった。
 1948年の世界はとても近代的とはいいがたかった、と著者は書いている。アメリカで高校を卒業する若者は半分にも満たなかった。黒人にたいする人種隔離政策もつづいていた。日本人は狭い住宅でくらしていた。フランスで冷蔵庫を所有するのは30世帯に1世帯の割合。田を耕すのも、工場ではたらくのも、家事をこなすのも、すべて肉体労働が求められた。
 悲しいことに、世界経済が好調に転じるのは1950年の朝鮮戦争以降だった。軍関係の発注が経済を刺激し、工場が従業員を雇い入れるとともに、従業員がものを買うようになり、商品やサービスの需要が増えていった。
 日本の経済規模は1948年から73年にかけて6倍に、西ドイツも4倍になった。フランスも西ドイツほどではないにせよ、経済が大きく拡大した。
 アメリカでもイギリスでも、この25年間に住宅が増え、多くの庶民がマイホームを獲得した。ローマでは自転車がスクーターに変わり、すぐに2人乗りの自動車に変わった。
 1960年ごろには失業率も低くなる。アメリカ南部では新しい綿摘み機によって、多くの労働者が失業においやられた。だが、すぐにデトロイトやシカゴの工場が労働者を受け入れ、人口の「大移動」が生じる。
 年金の支給により、人びとは65歳くらいで退職できるようになり、子どもたちは親の扶養義務をまぬかれるようになった。
 著者は、こうした好景気の原因を、長年の緊縮経済によって閉じこめられていた需要と投資が一挙に解放されたためだとみている。
 技術変化も大きい。蒸気機関に代わって電気モーターが主流になると、工場も立て替えをはからねばならなかった。
 加えてベビーブームにより、新しい住居や家具、衣服が必要になった。
 国際交渉によって、輸入関税が切り下げられ、貿易が拡大していった。
 生産性の驚異的な伸びも指摘される。産業は農業から工業へと大きく転換した。新鋭設備を整えた工場が農村出身の労働者を雇い入れていく。新しい設備にたいする需要が膨らむと、機械への需要が増え、人手も必要になる。日本の製造業労働人口は1955年の690万人から1970年の1350万人へと拡大した。
 1950年代には高速道路の建設もはじまる。高速道路によって、1日に運べる距離が長くなり、交通運輸関係の生産性は劇的に増大する。より安い陸上輸送は商品の販売地域を拡大した。それにより、手作業の小さな工場より「多くの商品をより安く生産する大規模工場」が圧倒的に優位に立つことになった。
 1948年から1973年のあいだに、1時間の労働による平均生産量は、北米では約2倍、ヨーロッパでは3倍、日本では4倍になったという。これを支えたのは技術進歩と資本設備投資である。加えて、教育が大きな役割を果たした。
 この時期の特徴は、技術進歩が労働者を置き去りにしなかったことだ、と著者は書いている。

〈戦後の世界では、成功したのは富裕層だけではなかった。農業従事者や路上清掃員も、給料袋が厚くなっていくのを年々感じていた。組合は工員のために昇給と福利厚生だけでなく、雇用の確保も勝ち取った。法律や労働契約のため、雇用主が不要になった従業員を放り出すのがどんどん難しくなっていったのだ。状況は誰にとっても改善していた。〉

 保守政党も福祉国家を後押ししていた。「保守派の指導者は誰一人として、政府が経済における責任を放棄して市場に状況を支配させるべきだという考えに同調しなかった」
 さらに、著者はこの四半世紀の好景気が、資本主義ほんらいの元気さによるものではなく、慎重な経済計画によるものだったと指摘する。
 日本では、通産省が輸出入や企業の新工場計画、外国特許の許諾を統制していた。フランスでは政府が自動車工場や製鉄所の計画を立てていた。完全雇用の確保も政府の責任とされていた。そのためには赤字財政支出もやむをえないと考えられるようになった。こうして、政府が経済発展を支える体制がつくられていったのだ。
 問題はそれがごくわずかな期間しかつづかなかったことだ。
 少しずつ断続的に読んでいきたい。

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マルクスと政治──ホブズボーム『いかに世界を変革するか』を読む(8) [本]

 いま革命家といえば、1967年10月にボリビアで銃殺されたエルネスト・ゲバラのことをまず思い浮かべるかもしれない。世界を変革するというかれの強い思いは、開発途上国、先進国を問わず、いまでも多くの青年をひきつけている。
 そのいっぽう、われわれのような老世代は、すでに革命に悲惨な光景を結びつけるようになっている。または、60年代末期の血気盛んなころを思いだして内心忸怩たるものを覚えながら、それでもやはり世界はこのままではいけないと憤慨するのが落ちだろう。もはや世界同時革命をと唱える元気はない。日本に社会主義革命を、などといわれても、思わず後ずさりするばかりである。
 マルクスも革命家だった。いや、マルクスこそ近代的な革命家の創始者だったかもしれない。革命家は嫌われる。まして、革命など遠い昔の話になったいま、マルクスなど夢想家の狂人にすぎないとみなされるかもしれない。
 しかし、マルクスが生まれた200年前をふり返ってみよう。それは西洋だけをみても、まさに革命の時代だった。1775年にはアメリカ独立革命、1789年にはフランス革命がおきていた。ナポレオンが死んだのは、マルクス3歳のときだ。ヘーゲルが死んだのは13歳のときだ。
 1830年には7月革命、1848年2月にはパリ2月革命、3月にはウィーン3月革命、1871年にはパリ・コミューンがあった。そしてマルクスの死後、1905年にはロシアの血の日曜日事件、1917年にはロシア革命が発生している。
 その時代、革命はけっして絵空事ではなかったのだ。
 著者のホブズボームによれば、マルクスは時事的な政治解説は別として、政治についての理論を残しているわけではないという。人間生活の物質的条件を解明することが、学者としてのマルクスの第一の仕事だった。
 とはいえ、マルクスは共産主義者同盟の依頼で1848年1月に「共産党宣言」を執筆している。同年2月に革命が発生するとケルンで『新ライン新聞』を発行し、ドイツの民主化を支援した。しかし、革命が失敗に終わると、ロンドンへの亡命を余儀なくされ、『ニューヨーク・デイリー・トリビューン』に論説を送信しながら、経済学批判の仕事に本格的に取り組むことになる。それでマルクスの政治活動が終わったわけではない。1864年には第一インターナショナル(1864〜76)の設立にあたって、その宣言と規約を書きあげている。
 マルクス自身が政治活動の先頭に立ったことはない。しかし、革命の理論的指導者でありつづけたことはまちがいないだろう。
 反乱は個別的な戦いとしてはじまり、労働組合を通じて、地域的・地方的な経済闘争へと発展し、最後は階級的な全国的闘争へと発展するというのが、革命にたいするマルクスの見通しだった。闘争は経済闘争にとどまらない。政治権力の奪取が求められた。そのためには労働者の党が必要だった。
 著者によれば、マルクス自身は国家の本質は政治権力であり、政治権力は支配階級の利害を代表していると考えていた。革命によってプロレタリアートが権力を握れば、しばらくのあいだ「プロレタリア独裁」の期間がつづくが、階級対立がなくなったあと国家はなくなるものと想定されていた。
 プロレタリア独裁期においては、何らかの社会計画が必要とされ、階級対立がなくなったあとも、社会には何らかの管理運営機能が必要であること(だが、それは統治を目的とする国家ではない)も認められていた。
 とはいえ、著者によれば、プロレタリア独裁とは、単純に反対勢力の弾圧を意味するものではなかったという。それは旧体制の軍隊や警察、官僚制を解体することであり、「主として旧国家装置の生き残りの危険に対して革命を防衛する必要として理解されていた」。つまり、プロレタリア独裁は、ほんらい民衆政府を維持する手段と考えられていたのである。
 プロレタリア独裁のもと、資本主義社会は次第に共産主義社会へと転型されていく。それは長く複雑で、現段階では予想できない発展をたどるものと想定されていた。
 マルクス自身は同時代における革命の展望をどのようにとらえていたのだろうか。
 焦点になるのは1848年である。革命が発生しそうなのは、イギリスではなく、フランスやドイツ、オーストリア、スペイン、イタリアだった。だが、これらの国々で労働者階級は少数派にすぎなかった。
 このときマルクスが求めたのは、プロレタリアートの急進化であって、プロレタリアートが革命に加わり、反動的な君主制を倒すことだったといってよい。それにより、プロレタリアートが(実際には急進派の知識人が)持続的に政治の舞台に一拠点を築くことが期待されていた。だが、1848年革命は反動体制の勝利で終わることになる。
 1857年には世界恐慌が発生したが、革命はおきなかった。それでも、マルクスとエンゲルスは、自分たちの革命ヴィジョンを堅持している。
 著者はこう書いている。

〈その後[1848年から]20年ばかり、彼らにとっては差し迫って成功するプロレタリア革命への展望はなかったが、エンゲルスはマルクス以上に万年青年の楽観主義を保っていた。確かに彼らはパリ・コミューンに多くを期待しなかったし、その短い存続期間にそれについて楽観的な叙述をすることを注意深く控えていた。他方で資本主義経済の急速で世界的な発展、とくに西ヨーロッパとアメリカ合衆国の工業化は、いまやさまざまな国で大量にプロレタリアートを生み出していた。彼らがこのとき望みをかけたのは、これらの労働運動の増大する勢力と階級意識と組織であった。〉

 著者は革命党を設立するというマルクスの思いは、かれの死後、社会主義大衆政党に引き継がれたとみているようだ。エンゲルスは立憲制の確立と普通選挙、社会改革をめざすドイツ社会民主党を支持していた。とはいえ、エンゲルス自身も革命のヴィジョンをけっして放棄したわけではない、と著者は論じている。
 1848年革命の失敗により、大陸では立憲議会制すら達成されず、フランスではルイボナパルト(ナポレオン3世)が政権の座についた。
 マルクスは1864年の第一インターナショナル設立に大きな役割をはたした。資本主義が世界的に発展するなか、これからの革命は労働者が積極的な運動をくり広げるなか、国際的に展開すると考えられていた。
 マルクス、エンゲルスは民族主義的な立場をとらない。民族主義的な立場を認めるとしても、それはあくまでも世界革命の過程としてである。
 戦争を期待するわけではなかった。しかし、戦争と革命は無関係ではないと考えていた。
 マルクスの時代、ロシアは反動の砦と考えられており、ロシアの敗北は革命と進歩をもたらすだろうと思われてはいた。いっぽうフランスやドイツ(プロイセン)への期待は1848年に裏切られ、ナポレオン3世の統治とビスマルク体制はマルクスをいたく失望させていた。
 戦争ではなく革命を、というのがマルクスの基本的な考え方である。だが、1848年以後の時期は、けっして革命への展望が明るくなかった。「それは主として、ロシアが反動の堡塁であったように、イギリスが資本主義的安定の堡塁であったからである」と、著者は書いている。
 第一インターナショナルが革命に期待を寄せていた場所があったとすれば、それはアイルランドだったという。アイルランドはイギリスの農業植民地だった。その独立運動は、帝国主義との戦いにつながるものだと考えられた。そのいっぽう、マルクスは農業国ロシアにおける革命の可能性にも注目しはじめていた。
 だが、その前に戦争が発生する。1870年の普仏戦争で、フランスはプロイセンに敗れ、ナポレオン3世の第2帝政が崩壊する。パリでは民衆が蜂起し、パリ・コミューンが成立する。マルクス自身はパリの蜂起に反対していたが、コミューンが成立すると、それを支持する。
 パリ・コミューンはわずか2カ月ほどで崩壊する。その詳しい情報がはいらないなかで、マルクスは『フランスの内乱』というテキストを執筆し、パリ・コミューンを擁護するとともに、共産主義にいたる道として、ふたたびプロレタリア独裁と社会主義、国際的な連帯を強調した。
 パリ・コミューンの挫折のあと、ドイツでは社会民主党がすっかり国家の補完勢力になりさがった。第一インターナショナルは崩壊する。マルクスはロシアでの革命の可能性をさぐるようになった。
 だが、マルクスの死後、革命は遠く去ったわけではなかった。むしろ戦争と革命の時代がつづくのだ。それはロシア革命からはじまって、挫折したドイツ革命、中国革命、植民地解放闘争、キューバ革命などへとつづくことになる。
 マルクスが世界革命への道を指し示したことはまちがいない。
 とはいえ、それは資本主義が生みだしたプロレタリアートに依拠するものではなく、政治的反乱によってであった、と著者はいう。
 革命の目的は、あくまでも支配階級を転覆することだった。革命政権は独裁的にならざるをえない。マルクスは議会主義を否定していたが、それは、あくまでも社会主義の正しさを堅持するためだった。
 マルクス自身は、プロレタリア独裁の形態は、歴史的発展と具体的な情勢にもとづいて案出されるべきものだと考えていたという。
 著者はマルクスを擁護するため、むずかしい言い方をしている。

〈行動への指針は、自己の教条化への誘惑に絶えずさらされている。マルクス理論のなかで、マルクスとエンゲルスの政治的思考の領域ほど、このことが理論と運動の双方にとって有害であったところはない。しかしそれは、不可避的であったかどうかわからないが、マルクス主義が到達したものを表しているのである。〉

 考えてみれば、民主主義は政治のプロセスにすぎず、独裁をめざさない政治は存在しない。だが、それは、けっきょくのところ歴史の審判にさらされる。マルクスにとって、プロレタリア独裁は大衆的な社会主義を実現するという信念がもたらした政治信条にほかならなかった。
 民主主義の審判を拒否したプロレタリア独裁政権は、社会主義経済の失敗によって、歴史の断罪を受けることになった。だが、それはもちろん社会主義独裁政権にかぎった話ではないだろう。

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移行の問題──ホブズボーム『いかに世界を変革するか』を読む(7) [本]

 著者によれば、原始共同体は、都市が発達するにつれて、(1)アジア的様式、(2)スラブ的様式、(3)古典古代的(ギリシャ・ローマ的)様式、(4)ゲルマン的様式の4つの社会形態に転換していくというのが、『経済学批判要綱』でのとらえ方だった。
 マルクスの記述は錯綜していてわかりにくい。アジア社会(イスラム世界を含む)やスラブ社会については、ついに体系的な記述はなされなかったとみるべきだろう。アフリカについては、なおさらである。
 したがって、社会構成を軸とした世界史の体系的記述は、あくまでも仮説にとどまり、大きく分けて、原始(無階級社会)、古代(奴隷制社会)、中世(農奴制社会)、近代(プロレタリア社会)の4段階の枠組みが残ったというべきだろう。アジアは意識されていたものの脇におかれ、あくまでも中心的と考えられた社会を軸として、歴史の流れがとらえられている。マルクスの場合、その中心とはヨーロッパでしかありえなかったし、事実、ヨーロッパが近代を開いたことは否定できない。
 そこで、著者のホブズボームは、世界史が古代から近代へと段階的に移行するにあたって、社会経済構成がなぜ変化していったかをマルクスの分析に沿って、もう一度整理しなおしている。
 古代の体制はなぜ崩壊したのか。
 古代の土地は共同体所有と私有の組み合わせからなっていた。市民は土地の私有を認められている。だが、それは絶対的にではない。商工業は解放奴隷や隷属平民、外国人がになういっぽう、被征服民からなる奴隷が市民の生活を支えていた。マルクスはその崩壊過程を具体的に論じているわけではない。ただ、古代都市国家や古代帝国の衰退が、そうした体制の維持をむずかしくしたと示唆するにとどめている。
 次に成立した中世封建制が衰退するのは、あきらかに都市の発展によるものと考えられている。農奴は領主の支配下にあったとはいえ、事実上、経済的に独立した生産者だった。その農奴が独立自営農民もしくは小作農民に転じて、領主からの独立性が強まれば、都市の商業的発展とあいまって、封建制の基盤はゆるんでいく。商人や職人が都市でさかんに活動するかたわら、賃金労働者もあらわれはじめる。だが、中世についてのマルクスの記述はあくまでも素描にとどまっている。封建制から資本主義への移行についても、詳しく論じられたとはいいがたい。
『経済学批判要綱』の「諸形態」論では、原始共同体からの派生種として「ゲルマン的体制」が取りあげられている。そこでは同じ宗教のもと、自給的な家族が分散的に定住し、他の家族と結束して、地域を保全し、随時開催される集会にもとづいて、戦争や紛争の処理にあたっていた。牧草地や狩猟地は共同所有とされていた。
 マルクスは、このゲルマン体制がいかにして封建制に移行するかを示しているわけではない。これにはローマ帝国の崩壊と、中世の成立についてのさらに詳しい研究が必要となるだろう。
 封建制から資本主義への移行についても、マルクスはほとんど論じていない。ただ、モーリス・ドッブやポール・スウィージーをはじめとして、さまざまな論議がなされた。ドッブは封建制が生産体制として非効率だったと指摘し、いっぽうのスウィージーは都市の活発な商業活動が封建制を解体させる要因になったという。
 著者によれば、マルクス自身も農村における小作農の解放、都市の職人による手工業の発達、商業によって蓄積された貨幣が、ブルジョワ前史となると指摘しているという。「資本は、最初は散発的にあるいは局地的に旧生産様式のかたわらに出現し、ついで旧生産様式をいたるところで分解する」というのが、マルクスの理解である。
 国際交易が盛んになるにつれて、海外市場向けのマニュファクチャーが誕生するが、それはギルドの制約の強い都市においてではなく、むしろ周辺部の農村地域において発生した。さらに農村では、自由な日雇い労働者と借地農民があらわれ、農業の商業化がはじまる。農村から流出した人口は都市に流れこみ、ギルドに属さない日雇い労働者として、プロレタリアート化していく。そして最後に職人ギルドが産業に転じていく。マルクスのえがいた封建制から資本主義への移行図式は、ざっとそのようなものだった。
 著者によれば、マルクスとエンゲルスは晩年になっても、資本主義に先行する諸形態の研究をつづけたという。
 マルクスはとりわけ原始共同体の研究に没頭した。ロシアの共同体にも興味をいだいている。モーガンの『古代社会』からは多くのことを学んだ。のちにエンゲルスはマルクスが実現できなかったテーマを、『家族・私有財産・国家の起源』として、1冊にまとめることになる。しかし、ほんらいエンゲルスが興味をいだいていたのは中世ドイツだったという。
 エンゲルスはさらに『反デューリング論』で、いわゆる唯物史観の定式化をこころみるとともに、マルクスが論じなかった欠落部分を埋めようとした。ローマ帝国の奴隷制ラティフンディウムがある時点で不経済になり、小規模農業に再帰していくこと。封建的農業においては小規模農耕が支配的になり、小農の一部は自由だったこと。封建時代初期において経済生活は局地的自給性が強かったこと。領主制は大規模な支配的地主と従属的小作を生んでいたこと。修道院の特殊性、などなど。
 そのほか、中世封建制に関するエンゲルスの研究は多岐にわたり、まとまったものではないにせよ、その面での業績はもっと評価されてよい、と著者はいう。とはいえ、エンゲルスはマルクスが示した封建制から資本主義への移行図式に大きな変更を加える意図はなかった。いわゆる唯物史観の基本線が守られていたといえるだろう。
 マルクス、エンゲルス没後は、唯物史観の単純化、教科書化が進んだ。すべての人間社会は一つの社会構成体から次の社会構成体へと進化し、最後はその頂点である社会主義に達するという教義が生まれた。
 単純化を進めるため、「アジア的生産様式」ははぶかれ、奴隷社会が普遍化され、封建制の範囲が拡大された。そして、議論は錯綜してくる。
 唯物史観について、自由な論議がおこなわれるようになったのは、スターリン批判以降である。「要綱」で論じられていたアジア的生産様式についての論議も復活することになったという。
 生産様式にもとづく唯物史観を再編成するこころみとして、たとえば柄谷行人は交換様式にもとづく世界史の見直しを提唱し、世界共和国への展望を開こうとしている。
 これから、はたして世界が世界共和国に向かうのか、ぼくにはわからない。国家間の対立がつづくのではないかとの思いのほうが強い。
 それは、ともかく唯物史観についてである。
 マルクスがそれまでの政治的な世界史にたいし、歴史を生産様式にもとづく社会構成体の変遷としてえがきだしたのは、やはり天才的だったと思っている。にもかかわらず、世界史を生産様式の変遷図式でとらえるのは、やはりまちがいだ、とぼくは考えている。
 ホブズボームの解釈とはことなるが、世界史はマルクスが考えたように、アジア的→古代的→中世的→近代的の不可逆的な流れをたどってきた。その変遷は時代の中心的国家社会を代表としてとらえることによって成立する認識である。文明の変遷と考えてもよい。さらに具体的には、その文明の中心を担った〈帝国〉の変遷といってもよいわけで、その帝国は外部と対立しながら、内部に経済的な社会構成だけではなく、政治的、宗教的、文化的な社会構成をかかえているはずである。
 つまり、生産様式であれ、交換様式であれ、経済的な社会構成だけで、世界史を理解することはできないというのが、ぼくの考えだ。国のかたちが重要である。社会主義は経済主義的な思い込みのうえに成り立ち、プロレタリア独裁などといった強権的体制を正当化する理論装置になってしまったのではないか。
 世界史は中心的な帝国──政治、経済、宗教、文化を含む国家統一体としての──の変遷史として記述されるべきだと思われる。そのさい、重要なのは、中心にたいして周辺や大衆のもつ意味を忘れてはならないということである。
 ところで、ぼくは世界史を論じるにあたって、マルクスにならってアジア的という段階を導入してみたが、ここでいう「アジア」は、われわれが頭に浮かべがちな日本や中国などのことではなく、あくまでもアジアの原義である「東」(エーゲ海の東)を意味することばである。すなわち、文明はヨーロッパから発したのではなく、アジア、すなわち東からやってきたというわけだ。
 そこで、いまマルクスの歴史区分をあてはめてみると、世界史はおよそ以下のように移行してきたことがわかる。もっとも、その前に、われわれは吉本隆明が論じたように「アフリカ的段階」というのを導入してもよいのかもしれないが、今回それはやめておくことにしよう。以下は頭に思い浮かぶかぎりの、ざっとした見取り図である。

(1)アジア的段階
エジプト アッシリア バビロニア インダス川流域 殷王朝
(2)古代
ギリシャ ペルシャ帝国 アレクサンドロス帝国 マウリヤ朝 ローマ帝国 漢王朝
(3)中世
東ローマ帝国 フランク王国 神聖ローマ帝国 イングランド王国 イスラム帝国 ムガール帝国 隋 唐 宋 モンゴル帝国
(4)近代
イタリア都市国家 イスパニア王国 オランダ オスマン帝国 大英帝国 ロシア帝国 明 清 日本 アメリカ合衆国 ソ連 中国

 これは漠然としたイメージである。細かくはもっと分けられるかもしれない。近代の前に近世をいれてもいいし、近代のあとに現代をつなげるほうがいいにちがいない。アジア的段階という概念は別の言い方に変えたほうがいいかもしれない。だいじなのは、それぞれの歴史段階において、地域ごとに国家体制や経済体制で支配の仕方がことなっていることである。
 それらを分析し、統合していけば、人類の文明史がもっと概観できるようになるだろう。いまは、マルクスの切り開いた唯物史観は、その最初の糸口だったという気がしている。

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